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やがてそこに。


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2018年 06月 05日 ( 1 )

イギリスで起こった産業革命は1830年頃までには完了していた。
イギリスはいち早く機械化・工業化・近代化を果たした国である。
当然そこには資本主義が深く関わり、資本主義の確立にも寄与した。

そんなイギリスの産業革命が軍事力に与えた影響を計る最初のチャンスになったのが清(中国)と戦ったアヘン戦争だった。
歴史ある大国、相手に不足はない。
戦闘自体はイギリスの圧勝で、清は破滅的な負け方をした。

アヘン戦争(1840-1842年)
■戦力
 イギリス側 19,000人(イギリス陸軍5,000人、インド陸軍7,000人、王立海軍7,069人
 清側 200,000人
■被害者数
 イギリス側 69人戦死、451人負傷
 清側  18,000~20,000人死傷

アヘン戦争は海軍が中心となった戦争。イギリスの艦隊は海を進み、中国の沿岸地域を次々と制していった。
彼らの支障になったのはモンスーン(風)だけだった。モンスーンの季節は無理をしないで休んでいる。主導権を完全に握った戦いぶりである。
そして少ない戦力と被害者数で大きな成果を上げた、
産業革命は高く評価されることになるだろう。


イギリスが戦った次なる大国はロシアである。

クリミア戦争(1853-1856年) 

フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した

多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。


上の記述だけ読めばやはり産業革命と資本主義の強さを見せつけた戦争のように取れるが、実はそうでもなかった。
まず戦闘員数ではロシアのほうが勝る。(これは清も同じだった。人口が多い国の方が頭数を揃えるのは有利)
だが被害者数は同盟側のほうが多いという結果になった。

■戦力
 同盟側
  フランス軍 40万人
  オスマン軍 30万人
  イギリス軍 25万人
  サルデーニャ 1万人
 ロシア側
  ロシア軍 220万人
  ブルガリア軍 4000人

■被害者数
 同盟側 14万4550人
  フランス軍 9万人
  イギリス軍 1万7500人
  オスマン軍 3万5000人
  サルデーニャ 2050人
 ロシア側
    ~13万4,000人

さらに・・・

・主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。

・ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。

・イギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。

・セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝カルス要塞(オスマン帝国の都市)がロシア軍の前に降伏したことから、事実上の戦勝国はなくなった
パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともに、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。

・時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。



最先端の軍事力をもってしてもロシアには勝てなかった。イギリスにとっては負けたも同然。
イギリスは思うように戦争が進まず財政が悪化してしまったわけだが、この時に公債を引き受けたのはロスチャイルド・ロンドン家である。
要するに資本家が付いているので(いざという時に大金を貸し付けてくれるので)国家の破綻や破滅にまでは至らないのだ。
ロシアもまた戦争によって財政が逼迫し内政が不安定となっていた。
だから結局それ以上の戦争を行わず、自陣のトップを罷免してみせた。
そして明確な勝敗が付かないまま終わった。ロシアからすれば勝利するチャンスをみすみす逃してしまったことになる。
英仏艦隊にも負けず戦争をリードしてきたにも関わらず罷免されたメンシコフ提督やそれに付き従った兵士たちは裏切られたような気持ちにもなるだろう。
アレクサンドル2世皇帝は資本の必要性を感じ近代化に心傾くが、却って国力の低下は否めなかった。


アヘン戦争に大勝利するも、クリミア戦争で尻すぼみ。
その沈滞ムードや悪夢を払拭するかのように、クリミア戦争終結の年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856-1860年)が勃発する。
イギリス・フランス連合と清(中国)との戦い。
大艦艇を送りこみ勝つには勝ったが、清の心証を相当害しており捕虜殺害などが行われ、その報復として略奪や焼き払いを行うなど泥沼化した面もある。
しかも調停に入ったのはロシア。さらにロシアとアメリカは戦争には加担しなかったのに条約には参加した。
イギリスにとってはやはりすっきりとした勝利とは言えないものだったであろう。
清は外満洲をロシアに割譲。ロシアはそこにシベリア鉄道を引いて、軍港ウラジオストックを建設することを計画した。
これが日露戦争の原因にもなっていくことになる。

アメリカが日本や中国と組んだら・・ロシアが中国や日本と組めば・・
イギリスは太平洋の恐怖に加えて、ロシアの恐怖も重ねることになった。
戦争によって中国を押さえたものの、その恐怖を払拭しきれなかった。
だとすれば次に押さえるべきは日本と思うのは当然の成り行き。
だがイギリスは日本進出には失敗しているというトラウマを持っていた。
さらに今日本に戦争を吹っ掛けるとアメリカが日本側に付く可能性があった。イギリスにはアメリカに負けたというトラウマもある。
そんなこんなで、目に見える戦争という形ではなく、現政権を倒して傀儡政権を成立することを目標にした。これが明治維新に繋がっていく。


一方ヨーロッパではフランスが、戦中に工業化を推進させたヨーロッパ社会に影響力を持つようになったプロイセンと戦争をする。
開戦時フランスはナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)の時代だったが、ナポレオン3世は戦争には全く乗り気ではなく、準備不足を自認しており勝てるとも思っていなかった。自身の健康状態も良くなかったが引きずられる形で戦争に突入していく。
クリミア戦争やアロー戦争では盟友だったイギリスからの支援は受けられなかった。
結局この戦争がきっかけでフランスの第二帝政は崩壊した。3世は1872年初頭に亡くなった。

普仏戦争(1870-1871年)
■戦力
 フランス 正規兵 49万2,585人
      予備役兵 41万7,366人
 プロイセン 正規兵 30万人
       予備役兵 90万人名
■被害者数
 フランス 死傷者 28万1,871人
      捕虜 47万4,414人
 プロイセン 死傷者 13万4513人

プロイセンの勝利で終わる。
フランスは戦争に負けたが、ロスチャイルド・パリ家はこの戦争でも戦費や賠償金の調達を請け負い利益を上げる。


イギリスがスエズ運河を手に入れたのは1875年。
エジプトの財政が悪化し、スエズ運河の莫大な借金の金利が返せなくなってしまっていた。
共同事業者であるフランスも普仏戦争に敗れていて、フランス政府が支援したり買い取ることは難しかったが、イギリスではフランスに先を越されないようにとの理由から議会の承認なく資金をロスチャイルド・ロンドン家に工面してもらい買収した。



クリミア戦争終結から21年、オスマン帝国とロシア帝国という2つの大国が再び戦火を交えた。
民族問題が絶えない地域を抱えていたオスマン帝国。この戦争も民族問題に端を発している。
イギリスにとってはクリミア戦争での有耶無耶な勝敗に片を付けるよいチャンスであったはずだが参戦はしなかった。
参戦しなかった理由は、オスマン帝国軍が4万人におよぶブルガリア人を虐殺していたことが発覚したからと言われている。
虐殺発覚によってオスマン帝国の味方に付きづらくなったということ。

露土戦争 (1877年-1878年)
勝利したのはロシア。
ロシア強しの観を植え付ける結果になった。

しかし戦後にロシアの内政はまた不安定になる。
何故かというと、一度結んだ講和条約を4か月後に修正したからである。

軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、新生ドイツ帝国の帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルクの仲介でベルリン会議が開かれ、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれた。ベルリン会議後、ロシア国内では皇帝アレクサンドル2世への失望と不満が広がっていった。

オットー・フォン・ビスマルクという人物は駐ロシア大使をしていたことがあり、比較的ロシアに明るかった。
彼はドイツ・フランクフルトのロスチャイルド家(フランクフルト・ロートシルト家)の2代目当主と付き合いがあった。
(フランクフルト家は2代目・3代目がナポリからの養子で、しかも1901年には閉鎖された)
ロスチャイルド家から傘下の銀行経営者を紹介され、個人銀行家に指名して自身の財産管理を任せるようになるなど関係性を強めた。

ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー
プロイセン王国のユダヤ系宮廷銀行家。宮廷ユダヤ人の代表的な人物。
ブライヒレーダー銀行を設立したザムエル・ブライヒレーダーの長男としてベルリンに生まれる。
フランクフルト・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の傘下でブライヒレーダー銀行を経営した。
ブライヒレーダーはビスマルク個人の財産の多額の立て替えをし、株式についての助言を行った。また国政の経済政策面でも宰相ビスマルクの顧問として活躍した。普仏戦争でのフランス政府との賠償金交渉ではビスマルクの命で非公式の交渉を行った。


つまりベルリン会議を仲介し条約を修正させたオットー・フォン・ビスマルクの後ろにはこの人物がいたということで、さらにその後ろにはロスチャイルド家がいた。







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by yumimi61 | 2018-06-05 13:39