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2018年 08月 27日 ( 1 )

Rope

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人の命を守る物は、人の命を殺す物にもなる

人を救う愛が、人を殺すこともある



命綱:命綱とは、落下事故の可能性を伴う作業を行う際、落下防止のために装備されるロープやワイヤーの事を指す。転じて、危機的な状況で最低限の保身を維持するためのものなどを指す。 

クライミングロープ:ロープのうちクライミングに使用するものをいう。 以前はザイル(ドイツ語:Seil )と呼ばれることが多かった。 

アンザイレン(コンティニュアスビレイ):登山者同士がクライミングロープで身体を結ぶことを「アンザイレン」(ドイツ語:Anseilen )という。この時以降、両者は互いに危機を救い、行動と生命をともにする旨誓うことを求められる。気のあった者同士、または熟達者同士であれば、例え相手の姿が見えなくても相手がどんな状況でどんな思考をしているのか、理解できる。すなわちクライミングロープはただ一本の綱であるに留まらず互いに意思や状況を伝える神経となる。

ハイキングやトレッキングといった気楽な場合は別として、日本の山岳でも岩登り、冬季高山、滝の多い沢などでは極めて重要な道具である。「一人が滑落した場合もう一人も引きずり落とされるのではないか」の疑念を解消するのが確保技術である。補助用具が発達して用法さえ習得すれば比較的容易に確保できるようにはなっているが、登攀技術の中でも難しくよく訓練して習熟する必要がある。

氷河は少しずつ動いていて割れ目が至る所にあり、新雪で埋まってしまえば見えるものばかりではないから、氷河上で行動する際は傾斜がない場所でもアンザイレンするのが常識である。ヨジアス・ジムラーは16世紀末にはこの必要性を説いていたが、アルプス黄金時代のガイドは必ずしも氷河の上でロープを使用することを好まず、客である登山家と意見が対立した。エドワード・ウィンパーは「一つには他の山案内たちから冷やかされるのを恐れているからである」とつまらぬ見栄のために生命を軽視する愚かさを指摘し「こんなに簡単で、そして効果の大きい、ロープを結び合うという用心を、捨てて顧みないということに対して、私は声を大きくして反省を促したい」と言っている。



山岳での死亡事故の多くは滑落死であると言われる。
但し遭難の原因として一番多いのは道迷いである。

(2017年警視庁統計より)
●遭難原因
 道迷い 40.2%
 滑落 16.8%
 転倒 15.1%
 病気(低体温症・高山病・高体温症など) 7.5%
 疲労 5.6%
 その他(転落・雪崩・野生動物襲撃など) 14.8%
●遭難の多い都道府県
 長野県(292件)・北海道(236)・山梨県(161)・東京都(155)
 以下、富山(131)、静岡(128)、神奈川(123)、新潟(108)、群馬(104)、兵庫(100)と続く

山岳遭難者数 3111人
死者・行方不明者数 354人

山岳遭難の個々の遭難は、海洋遭難に比べるとあまり大きく報道されないが、海洋遭難よりも圧倒的に数が多く日本だけでも毎年2,000件以上の山岳遭難と数百名におよぶ死者・行方不明者が出ており、非常に深刻な状態にある。

(参考までに同年の交通事故)
交通事故発生件数 約47万件
交通事故による負傷者数 57万人
24時間以内の交通事故死亡者数 3694人

年間の交通事故件数は遭難件数の比ではなく、死亡者数も10倍も多い。
遭難が非常に深刻な状態ならば、交通事故はもっと深刻な状態と言ってもよいが、両者が大きく違うのは死亡率だと思う。
統計から見れば、ひとたび何かあったら死ぬ確率は山での遭難のほうが遥かに高い。
但しこれも統計に騙されてしまうところはある。
交通事故の場合は自損でも他損でも警察や保険会社が入ることが多く、あらゆる事故を網羅しやすい。
お金に絡んで件数がずるずると吊り上げられてくるのである。(吊り上げというのは埋もれずに把握できるという意味です)
だけど遭難は救助依頼があったもの以外の数は把握しにくい。


八ケ岳滑落 救助現場から複数ザイル 数人ずつつながる? 毎日新聞 2018年3月27日
 長野県の八ケ岳連峰阿弥陀岳(2805メートル)で25日、関西の登山グループの男女7人が滑落し3人が死亡した事故で、救助現場に複数のザイル(登山用ロープ)が残っていたことが27日、捜査関係者への取材で明らかになった。数人ずつつながった状態で滑落したとみられる。

 事故を巡っては、病院関係者が「7人全員が1本のザイルでつながっていた」と軽傷者から聞いたと話していた。ザイルは通常、1本で2人を結び、滑落しても踏みとどまれるよう一方を岩場などに固定しながら進む。

 県警は7人全員が滑落した原因について負傷者から話を聞くなどして調べており、難所の岩壁を登っている途中で滑落したとみている。
 事故現場に詳しい地元の山岳遭難防止対策協会の関係者らによると、滑落現場は雪が氷状になり滑りやすい岩場。事故の数日前に雪が降り、積雪があったとみられる。


上は今年の3月末に長野県の八ケ岳連峰阿弥陀岳で起きた遭難事故。
八ヶ岳連峰や北アルプスなど標高は高いがわりとよく整備されており、時期や天候を読み間違わず、アクシデントがなく無茶をしなければ、標高のわりに安全と言えるかもしれない。

山岳遭難は八ヶ岳や白馬岳など整備され人気のある山でも起きている。人気のある北アルプスでは特に多数発生している。


とやま山歩記 西穂高岳より部分的に抜粋
※西穂高岳は長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる標高2909 m の飛騨山脈(北アルプス)の山

 13名のパーティーと3名(4名だったか?)のパーティーとすれ違う。13名のパーティーは先頭と最後尾を除いた11名がザイルを結んでいた。

独標から二つめの小ピークを降りたところで2人組のパーティーに出あう。この人達もアンザイレンしている。だが何故か気休めにしか見えない。
 この後、2組のパーティーと出会うが、やはりザイルを結んでいた。私はどうしてもコンティニュアスビレイは好きになれない。
 ザイルに結ばれているという安心感だけでだらだら歩いているのを見ると道連れザイルにしか見えない。
 だが恋人となら話は別だ。絶対守ってやるという強い気持ちでザイルを結ぶ...って、一言多かったようです(^_^;)

屋上で数枚の写真を撮って、慌てて16時のロープウエイに乗った。登山者は皆無。ここは観光地なのだ。
 ふと、朝方の事を思い出す。いっしょのロープウエイに乗り合わせた大学生風の二人組の登山者がいた。いったん外に出てから「中止、中止」と言いながら戻ってきた。煮詰まった播隆汁を食べているときだった。すぐ横でパンを食べ出す。
 「行かないのか?」と問いかけると「下見だからいいんです」と言う。「それじゃー下見にもなっていないだろう」と言いかけたが思いとどまった。だいたいその恰好は何だ?防寒着を着込み、リュックにはスノーシューまで縛り付けてある。
 「せめて独標まで行こう」と言うと「最高でも西穂山荘までです」とヘラヘラしている。おまえ達は登山者の恰好をした観光客か?と思ったのだった。
 そうなのだ、ここは登山基地ではない、観光地なのだ。



草加山の会 勉強会「ヒマラヤを駆け抜けた男ー山田昇」より一部抜粋


昭和53年、群馬岳連としてダウラギリ峰8167mの南東稜を初登攀する。このルートはフランス、スイス、アメリカ、と多くの隊に攻撃されるが難攻不落を誇り、世界最強のアルピニスト、ラインホース、メスナーさえさじを投げた。ヨーロッパ、アメリカのアルピニストから「自殺ルート」と呼ばれた大変困難なルートであった。しかし登頂はしたが尊敬する先輩の死に直面し涙を流す、これを機に山田昇はアルピニストとして一変し、日本最強のアルピニストに変貌して行く。

何と云っても山田昇の強さは8000m峰登頂12回の内、エベレスト、k2、と世界第一、第二の高峰を含め5座を無酸素で登頂していることである。今日の様にルートも装備も整備されていない時代、正に自力でベースキャンプから山頂に至るのであり、大変な事である また同年63年には135日間で世界5大陸の最高峰を登りつくしてしまう。この様な偉業を成し遂げるには多くの岳友の協力がなくしては在り得ない。山田昇が如何に信頼され、多くの岳友に愛されて居たかが良く判る。孤独なアルピニストでは決して行い得ない偉業である。 山田昇は8000m峰を9座、合計12回登っているが、8000m峰アンナプルナ南壁で、2人の岳友を次々と亡くしてしまった事による、自責の念は強かった様だ。
8000m峰最後のアタックの時は、自分の身は自分で守るしかなく、とても他人を助ける余力など無い、ザイルは岳友を引きずり落とす役目しかない。この為、一般的に最後のアタックではザイルを結ばない、おのおのが自分を自分で守るのだ。しかし山田はその事に吹っ切れない気持ちがあり、マナスルでは遅れた友を厳冬期の8000mの山稜で待ち、最後の雪稜をトップでザイルを結び2人で山頂に立っている。

悲劇は突然やって来る、昭和53年から11年間に渡り、毎年の様にヒマラヤの高峰を登り続けた日本最強のアルピニスト山田昇も平成元年2月、岳友3人と厳冬のマキンレーに39歳の若さで散ってしまう。氷壁の下で3人の遺体はザイルで結ばれていた。なぜアンザイレンしたのかと思う多くの岳人もいる、「友を思う気持ちが人一倍強く、誰からも好かれた山田昇の最後にふさわしい」遭難現場にたどり着いた先輩がもらした言葉である。




事件の当事者になることも、事故で死ぬことも、確率的にはとても低い。
本当の意味でそれを知りえる人は決して多くないのだ。
何か特別な衝撃を受けたようなふりをして、飢えた野生動物のようにそれを食い荒らし、あるいは何事もなかったかのように通りすぎてゆく。
誰が死のうと何が起ころうと、時間は平等に流れ、生も死も記憶の彼方に押し流してゆく。

死に近い場所がある。死に近い職業がある。
身近に沢山の死が存在しても、やがてその厳しさに順応し、麻痺していく。

死を遠ざける人がいる。生を預ける人がいる。
生きることに関わらず、死を見ずして、誰よりも悲しみの当事者になる人がいる。

誰もが明日ないかもしれない生を行きながら、それでも多くの人は明日に届いて、今日を生きていく。
明日が来ない日を体験できるのは、誰でも一生に一度だけ。
明日がないことを考えるのは短いほうが幸せだろうか、長いほうが幸せだろうか。考えないほうがもっと幸せだろうか。





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by yumimi61 | 2018-08-27 14:02