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2018年 09月 30日 ( 2 )

それぞれの開祖

●修験道の開祖ー役小角(えんのおづの)(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
役小角は700年頃に(木曽)御嶽山登頂に成功したと言われている。

修験道:日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。

役小角は最澄や空海(弘法大師)よりも古い人物で、修験道開祖は仏教の天台宗や真言宗の開祖よりも早い。
天台宗や真言宗は仏教の中でも平安仏教と呼ばれる平安時代以降に勃興した宗派。
その前の奈良時代には奈良仏教(南都六宗)が栄えていた。

●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山

真言宗の密教(東密)は、空海が中国より真言密教を持ちこんだ。
天台宗の密教(台密)は、最澄の時代は弟子を空海の所に送りこんで学ばせていたが、最澄亡き後に弟子たちが独自に完成させた。
この宗派よりも早くに成立していた修験道が密教に関係あるので、比叡山や高野山も修験道に数えられる。
空海は修験道の修行場であった御嶽山に登ったことがあるらしい。


昔むかーし

王滝御嶽神社伝によれば御嶽山に最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。
白川って誰?っていうことになりますよね。

木曽町三岳の昔話

御嶽山縁起
 「御嶽山縁起」とは、御嶽山先達や神社などに書き残されている伝記です。その内容は千年ほど昔の京都三条に、白川将軍重頼という公家がいましたが子供がおりませんでした。ある日夢の中に白い髭の老人が現れ、「信濃国の木曽御嶽山に祀られている御嶽座王大権現にお願いをしてみなさい」というお告げがありました。さっそく御嶽権現のお社を庭に建て祈願をしたところ、美しい女の子を授かり、3年後には男の子も生まれ阿古多丸と名付けました。

 子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、阿古多丸が持ってきたお土産に毒を入れて犬に食べさせたため、父親は驚き阿古多丸を家から追い出してしまいました。阿古多丸は一人で奥州の親戚の家に行くことにしましたが、途中で御嶽山を拝んでいきたくなり板敷野まで来ました。しかし心労と旅の疲れで倒れてしまい地元老夫婦の介護もむなしく御嶽山を見ながら亡くなってしまいました。
 その晩父と姉は阿古多丸の夢を見たので探しに旅に出て探し当て、板敷野の墓前で姉は自害してしまいました。父親は泣く泣く姫を弔い、その後御嶽山に登り二人の霊を御嶽大権現の元にお返しした後に自害しました。このことを聞いた後妻と乳母も木曽を訪れ墓前で自害してしまったのです。
 この悲しい出来事を聞いた都の天子様は、「亡くなった5人の霊を御嶽大権現のおそばにお祀りしてあげなさい」と言われたため、信濃の国司は家来を引き連れ御嶽山に登り盛大なお祭りをして霊を慰めたそうです。
 地区では今も塚の前の小さな水田にもち米苗を植え、秋には餅をついてお墓に供える行事が続けられています。(生駒勘七著木曽のでんせつより)

阿古太丸の墓
 昔、都に北白川宿衛少将重頼郷という人がいました。重頼には子供がいませんでした。
 ある日、重頼は御嶽山に祈願すると、子供にめぐまれると聞き、その日から毎朝毎晩一心にお祈りしました。祈願が効いたのか、四十歳になって二人の子供にめぐまれました。初めの子は女子で利生御前と名づけられ、二人目の子は男子で阿古太丸と名づけられました。重頼は二人の子を大変可愛がり、大切に育てました。
 ある日、阿古太丸の母親は突然病の床に伏してしまいました。母思いの阿古太丸は、父重頼から自分が、御嶽に祈願して生まれた子だということを聞き、御嶽に再び祈願しようと思いました。
 阿古太丸は、お供の者達と、木曽の御嶽へ向かいました。御嶽につくと阿古太丸は、自分が生まれたことのお礼と、母の病気を治してほしいと、頼み下山しました。しかしその途中、旅の疲れと風邪のために、阿古太丸は寝込んでしまいました。
 一方、都で阿古太丸の旅を心配していた重頼は、阿古太丸がいっこうに帰ってこないので、自ら木曽に向かいました。やっとのことで重頼が木曽に到着した時、阿古太丸は息を引き取りました。
 悲しんだ重頼は、村人らの善意で塚を建て、阿古太丸を供養しました。
 現在、木曽町福島に板敷野という集落がありますが、そこは阿古太丸が病の床に伏した時、板を敷いて休んだ事からきているのだそうです。


1161年には後白河上皇の勅使が登山参拝した。

木曽御嶽山の霊神碑の建立は、御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰であり、 死後の霊魂の憩いの場を御嶽に求めようとする独自の霊魂観が、そこにはある。

御嶽は数多くあれど

御嶽を「おんたけ」と読ませるのは木曽の御嶽山のみだと言われている。多くは「みたけ」である。
「みたけ」という名の山は修験道に関係深い山が多い。
木曽の御嶽山は、王の御嶽(おうのみたけ)から「おんたけ」になったとか。

鎌倉時代頃までの御嶽山は、山そのものを神体とする修験道の修行と、国のお役人や君主らの祈願や慰霊が行われていたことになる。後者は神殿や祭典を伴った。
しかしその後、修験者の行場としては衰退していった。 
何故かと言うと、真言宗や天台宗の密教が入りこんできたからである。
阿闍梨のところに「日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった」というような説明があったが、これは修験道の修行と国のお役人や君主らの祈願や慰霊が御嶽山にて行われていたことにルーツを持つのかもしれない。

天台宗や真言宗の密教の時代には、山頂の御嶽神社奥社まで登るにはまず麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行をすることが必要とし、その厳しい修行を終えた者だけに年1回の登山を許したという。
その修行にはお金を徴収したらしい。どうも3.5両くらいだったらしい。
3.5両は14,000文。室町時代は良く分からないが、江戸時代の初期ではかけそば1杯が6文ほどだったという。
江戸時代のそばの値段で換算すれば、修行するには「かけそば2,333杯」分の費用が必要だったといこと。
1日3食かけそばとすれば100日で300杯。でも2,333杯の費用。
現在の価格で考えてみると、かけそば1杯300円として、58万3,250円である。
登山するためには(修行するためには)結構なお値段を支払わなければならなかったが、それでも結構流行ったらしい。
修行と登山できない者は、登山を許された者にお金と米を渡して願掛けをお願いしたりしたらしい。

白川大神と四国巡礼

上に書いた白川重頼は後に神格化され白川大神となった。
尾張出身で行商人から真言密教の修行者となった覚明が四国巡礼の途上、四国八十八所霊場の第38番札所金剛福寺にて「御嶽山を開山せよ」と白川大神から命じられ、それで開山に至ったと言われている。

ではその寺が白川大神を祀っているのかと言えばそうでもないようだ。
金剛福寺
高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。

境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、力の石、亀呼び場、竜燈の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。


但し金剛福寺には奥の院に白川ならぬ白山神社ならある。
奥の院
白皇権現元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていた。明治初年の神仏判然令で明治4年(1871年)に佐田山神社となり、大正5年(1916年)に白山洞門の白山権現と合祭される形で現在地に社殿を造営、白山神社と号するようになった。

首が飛んだ白川大神

御嶽山の一番上の剣ヶ峰頂上の社務所(祈祷所)の横に頂上奥社本宮があるが、そこに白川大神の像があり、噴火後にその像の首(頭部)が無くなっていた。
ついでに言うと賽銭箱も見当たらない。
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写真には写っていないが向かって左側に建物があり、噴火口はその建物のさらに左側の谷(地獄谷)である。
だから噴石が横から飛んできたのではこんな上手い具合に像にだけ当たって損傷を与えたとは考えにくい。
もし噴石が飛んできたなら上からということになろうが、それで像にだけに上手い具合に命中して頭だけが落ちるものだろうか。首の所の接着が甘かったのかな?

38と83

覚明が白川大神から暗示を受けた場所の金剛福寺は四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。
御嶽山には三十八史跡なるものが存在する。三十八座とも言う。
でもそれを決めたのはわりと最近のことである。

日野製薬 2009.03.13 御嶽山三十八史跡巡り説明会 より

昨年、御嶽山の山麓、山中、頂上周辺に残っている史跡から38の史跡を、700年の歴史を持つ御嶽神社の宮司に認定していただきました。38の史跡を知っていただくために、各史跡の名称と所在地が分かるように石碑を設置し、パンフレットを作成し、更に、各史跡の年代、史実ないしは伝承を伝えるために朱印帳を作成し、「御嶽山三十八史跡巡り」の仕組みを構築してきました。

ほぼ準備が整ったので、3月12日に「御嶽山三十八史跡巡り」の説明会を実施しました。会場は木曽町の合同庁舎の講堂で、広い会場ですが、参加者は50人くらいだろうと予想していたところ、開始時間が近づくと会場一杯に約140名の人が集まって、大盛況の説明会になりました。


【三十八史跡(三十八座)】

・頂上18座ー王権現(五座)・日権現(七座)・八王子・栗加羅・士祖権現・金剛童子・駒ヶ峯(二座)

・中腹6座ー湯之権現・大江権現・西野権現・青木権現(扇の森)・飯之老翁(二座)

・山麓14座ー岩戸(王滝里宮)・大宮(二座・上島)・小宮(上島)・小路之木(上島)・野口高岩(野口)・埵沢権現(鞍馬の滝)・田中社(埵沢)・牧尾大明神・本社(黒沢里宮)・若宮(黒沢若宮)・白川(黒沢白川)・美濃加子母(二座)

ちなみに山荘がある所から剣ヶ峰の頂上に通じる石段階段は83段である。






by yumimi61 | 2018-09-30 23:18 | 御嶽山噴火と御嶽教


(前記事の続き)
御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという


普覚の八丁堀時代と全国行脚!?

普覚が江戸に出て過ごした場所は八丁堀にあった法性院だと言われているが、廃絶したとかで何も残っておらず。
普覚の遺骨は分骨され、その八丁堀の法性院にも埋葬されたというが何もなし。そこに分けられた遺骨は御嶽山に移動したとか。
地下鉄サリン事件の日比谷線は被害者を多く出したが、八丁堀駅はその中の1つである。。

法性院がどれくらいの規模だったかは分からぬが修験長になったという普覚は庶民に病気の厄除けをすることを志して、法性院での修験長を辞めてしまったそうである。
再び一人で山修行を積んで、その後は全国行脚したらしいが、昔のことであるし、そうでなくても密教は口頭伝承が基本なので、はっきりとしたことは不明である。

地元の御嶽山だったのでは?

普覚の地元である秩父にも御岳山(御嶽山と書く場合もあり)(標高は1080m)が存在する。
こちらの開山者も普覚である。

普寛は、国道140号沿いの道の駅大滝温泉(大滝温泉遊湯館)のすぐ近く、落合が生誕の地である。落合登山口の近くにある普寛神社(御嶽普寛神社)には普寛上人が祀られており、頂上には普寛神社奥宮の小さな祠がある。
登山口は、贄川(町分)、強石、落合などがある。最寄り駅は、秩父鉄道三峰口駅である。

木曽御嶽山・王滝口ルートの開拓のきっかけ

普覚がなぜ木曽の御嶽山を開山(新ルートを開拓)したかと言うと、1790年に地元秩父で(木曽)御嶽山の麓の村の1つであった王滝村出身の与左衛門に出会ったからだという。
木曽の山では材木伐採や運搬をする日雇い労働者を使っており、その日雇い労働者の中で優秀な者は、他の地域での伐採や運搬における頭領となったり、江戸や名古屋の材木商の代人や番頭になるなどしていた。
与左衛門はその中の1人で、目の病気か何かで失明の危機にあったが、それを普覚が加持祈祷によって救ってやったとか。
秩父で出会ったということだが、与左衛門は仕事で秩父にいたんだろうか。それともわざわざ秩父の普覚を訪ねたとか?

普覚にはアザを治したという評判があったそうだが、これがもし打ち身で出来るアザだったり、ちょっとした内出血だったら、加持祈祷をしなくても自然に治っていく可能性がある。
目もぷっくり腫れたり、かすんで見えなくなれば目がどうにかなっちゃうのではないかと凄く怖い思いをするかもしれないけれど、それも自然に、あるいは適切な治療によって治るものもある。
但し私は信じる力も否定するつもりはないけれども。

目を治してもらったお礼なのか、与左衛門は「私の郷里の御嶽山に登山道を拓くとよい」とのアドバイス(暗示)をしたらしい。
実は御嶽山(黒沢口ルート)は1785年に尾張の行者・覚明(仁右衛門)によって開山されていた。
もし与左衛門が普覚にアドバイスしたというのが事実ならば、与左衛門はその成功例を知っていて、別ルートの開拓を勧めたのだと思う。

尾張(名古屋)の行者・覚明
享保3年3月3日生まれ。行商生活ののち,仏門にはいり真言密教を修行。天明5年木曾へいき,地元の信者をひきつれて御岳にのぼり,従来重潔斎(けっさい)をした道者にのみゆるされていた御岳登山を開放。各地に御岳講が組織される契機をつくった。

アドバイスをした与左衛門は病み上がりだし(?)、そもそも地元民ではあったが(木曽)御嶽山に登った経験はなかった。
そこで同じ王滝村出身で(木曽)御嶽山登山経験もあり、江戸で材木商の代人として活躍していた吉右衛門にガイドを依頼した。
すなわち結局のところ黒沢口ルートも王滝口ルートも山事情に詳しかった地元民が開拓したようなものである。

御嶽山の八丁ダルミ

(木曽)御嶽山の王滝口ルートには八丁ダルミと呼ばれている箇所がある。
王滝口ルートというのは普覚のほうのルートである。
写真:毎日新聞2017年9月27日
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ダルミについて

ダルミは弛む箇所のこと。連なる山の最上部を繋いでいく線が稜線と呼ばれるが、自然の山なので当然に稜線が少し下がる(垂れる)部分が出てくる。
山のピークとピークの間で窪むところである。ピークには小ピークもあるが、ともかくピークの間をダルミやタルと呼ぶ。漢字にすれば「弛」。
日本語では鞍部(あんぶ)と言うこともある。これは馬の乗る時に使用する馬具の鞍にラインが似ているから。
英語やフランス語ではcolで、山の窪む所(要するに鞍部や峠)のことを意味する。ラテン語のcolは首という意味だそうである。
日本の登山家の中にはコルと呼ぶ人もいる。
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馬具の鞍は人間が跨ぐ場所で、人間の股がそこにあることになる。
人間の股の中央は、命を創造し命が生まれてくる場所であり、同時に排泄の場所でもある。


仏教(密教)とコル

「コル」は仏教(密教)とも深い関係がある。

仏教の発祥の地はインドであり、インドからチベットや中国に伝わり、中国や朝鮮を経由して日本にも入ってきた。
ただ発祥の地インドではヒンドゥー教に呑み込まれる形で衰退していった。
古代インドではサンスクリット語(古代インド・アーリア語に属する)が標準語であった。
インド仏教がチベットに伝わる際にサンスクリット語はチベット語に訳された。チベット語への翻訳は意訳ではなく直訳を心掛けたという。

マンダラ(曼荼羅)という言葉を聞いたことがあるだろうか。
マンダラのチベット語キンコルに「コル」という語が入っている。

曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल maṇḍala、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))

「曼荼羅」は、サンスクリット語मण्डलの音を漢字で表したもの(音訳)で、漢字自体には意味はない(なお「荼」(だ)は「茶」(ちゃ)とは別字である)。
なお、मण्डलには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされる。中国では円満具足とも言われる事がある。

曼荼羅は、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。
日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。

チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。
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マンダラには丸いという意味があるが、チベットの「コル」にも円や輪という意味がある。
円や輪はサンスクリット語では「チャクラ」とも言う。
マンダラのチベット語はキンコル(dkyir 'khor)。
これは「キル(dkyil)」+コル(khor)」を言いやすくした言葉で、キル単独では中心や底という意味があるそうだ。
すなわちキンコルやマンダラは、単なる丸や球体ではなく、中心が強く意識されていることが分かる。

時事ニュース絡みで

中心が意識されているといえば、今回の台風24号の宇宙からの映像を思い出す人もいるでしょう。

偶然にも天台宗系の密教は「台密」と言う。
真言宗系の密教は「東密」である。

(木曽)御嶽山の黒沢口ルートを開いた尾張の覚明は真言宗系の密教の修行者である。
王滝口ルートを開いたいう普寛は天台宗系の密教の修行者であった。
両者は宗派が違うのである。

(ページを改めてまだ続く予定です)




by yumimi61 | 2018-09-30 14:01 | 御嶽山噴火と御嶽教