by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧

2018年 10月 04日 ( 1 )

意義

e0126350_23422976.jpg
写真は群馬県側から眺めみる2月の浅間山と一瞬白煙かと思うような雲


明治元年(1868年)神仏分離令

明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。


明治期以前において、キリスト大名が多くいた九州では、大名が扇動し民衆が加わって、やはり寺院や仏具の破壊を行うなど仏教を攻撃した。
さらに土地や建物をキリスト教に寄進してしまうということも行われた。
そんなこともあり中央のキリスト教への警戒は厳しくなっていったのだ。


平田派国学って?

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった」ということだが、明治維新派(討幕派)が平田派を利用したと言ってもよいかもしれない。
ではなぜ平田派だったのかと言えば神秘主義的だったからだ。

そもそも平田とは誰か?
秋田出身の大和田胤行である。
父親は秋田藩で軍役に就いていた藩士だったらしい。
だが江戸に出た20歳までの事跡は全く持ってはっきりしていない。
20歳になったばかりの1795年(寛政7年)1月8日に出奔し、遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という諺にちなんだという。篤胤はこの郷土出奔の経緯については晩年になっても詳らかに語ってはいない。 
無一文同然で頼る処とてなく江戸に出た篤胤は、苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊き、三助などもしている。

そんな大和田胤行がなぜ平田になったのかと言えば、江戸にいた備中松山藩(現:岡山県)の藩士の養子になったからである。
その人物に出会った翌年には駿河沼津藩士(現:静岡県)の娘と結婚した。

1800年(寛政12年)25歳の折に勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり養子となる。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。


平田篤胤は本居宣長(江戸時代の国学者・医師)の弟子と自称した。
しかしながら平田篤胤が本居宣長を知ったのは没後2年後の1803年のことでだった。そこで彼は「夢に本居宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ」と述べて、没後に滑り込みで弟子に加わろうとした(加わった)。
のちの平田の伝記では没前に知って弟子入りしようとした時にちょうど本居宣長が亡くなってしまったことになっている。
篤胤が宣長のことをその存命中に知ったとしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるための後世の改竄ともいわれる。

ともかく平田篤胤は1803年に処女作『呵妄書』を著し、以後、膨大な量の著作を次々に発表していく。
処女作から3年、松山藩士と出会ってからたった5年あまりで、平田篤胤は私塾を開き弟子を取るまでになっていた。

しかし平田篤胤の著作の中には、本居宣長門下としては邪道と見做されるものも少なくなかった。
特に本居の弟子らは後に平田の代表作となる『霊能真柱』(1813年)という著作が本居宣長を冒涜しているとして激しく非難し「山師」と吐き捨てた。

「山師」には幾つか意味がある。
① 鉱山技師 ②山林の買い付けや伐採を請け負う人 ③ 投機的な事業で金儲けを企てる者(投棄師) ④ 詐欺師

本居宣長の弟子たちは④の意味で「山師」と言ったのである。
ちょっと脱線するが、私が国道17号線でよくすれ違うトラックがある。
もう何十回とすれ違っていると思う。
フロントガラスの下の部分に「口は弁護士 心は詐欺師」という大きな文字が掲げられているから、(あっまたあのトラックだ)と認識できるのである。
横とか後ろには丸虎運輸とか、なんとか(忘れた)急行とか書いてあるが、それが社名なのかはよく分からない。

話を戻すと、上記のように平田篤胤の論考は本居派からは受け入れられなかったが、出雲神道として取り入れられ、その後の神道のあり方に強く影響を与えることになる。
出雲神道というのは出雲大社(出雲大社教)のことである。ここもかつては神仏習合であったが、明治維新よりもだいぶ早い1667年にはすでに神仏分離・廃仏毀釈を主張し、仏堂や仏塔は撤去したり経典(仏教の聖典)を破却した。

平田は後に「国学の四大人(しうし)」の一人として本居宣長と名を並べるようにもなった。

本居と平田の死生観

本居派からは拒絶された『霊能真柱』(1813年)が平田の1つの転換ともなったわけで、それは平田の神秘主義(オカルトチック)的なものへの傾倒にも繋がっていった。その時点でのそれは「死後の世界」ということになる。

本居宣長は、死後は黄泉へ行くとした。その黄泉とは汚き他界、現世こそ素晴らしいと説いた。だから人間にとって死は恐怖で悲しいものなのだと。
ごく普通に考えても彼は傷病を治す側に立つ医師でもあるので、「死を恐れることはなし、大いに死にたまえ」と言うのではやっぱりちょっと問題があるというか都合が悪いだろう。

またまた余談だけど、私は学生時代に新興宗教的なものに勧誘されたことがある。その人が病気も治せる的なことも言っていたので、「私は西洋医学を学んでいる身なのでそういうものに傾倒するわけにはいきません」ときっぱり断ったのだが、「医者や看護婦など医療関係者の信者もいますよ」と相手はなかなかしぶとかった。
それがなんの宗教だったかは忘れてしまった。

一方の平田篤胤の死生観はこうである。
生きている時は天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の民である。死後は大国主神が主宰する幽冥界(目に見えない世界)の神となる。
その幽冥界は空の上の天や異次元や別空間にあるわけではなく、顕界の中に共存している。但し顕界の民には幽冥界は見えない。幽冥界からは見えている。
同じところにいて見守ったり見守られたりしているのだから悲しまなくていいよ的な。

(平田の死生観は)近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。
現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。



「天狗小僧寅吉」との出会い

平田篤胤に大きな影響を与えた少年がいた。それが「天狗小僧寅吉」である。
1820年に出会い、その少年を養子にして、1829年まで一緒に暮らしていたらしい。

文政3年秋の末で、45歳のころ、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となる。この噂の発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから異界・幽冥の世界に傾倒していたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ、文政12年まで足掛け9年間世話をしている。

篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版している。少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判されたが、篤胤本人は真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。



それは信濃の浅間山だった

平田は『仙境異聞』という著作の中でその少年自身について書いている。
彼の出生名は「高山寅吉」だった。後に(おそらく平田の養子になってから)は石井篤任と名乗った。
寅吉という少年は7~14歳まで幽冥界にいたという。その時の彼の師は「信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)」だった。

当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。内容を概略すると「此は吾が同門に、石井篤任と云者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れど此は容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず」と記載されている。

「信濃国なる浅間山」とあるが、「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の見やはとがめぬ」という在原業平の和歌が『伊勢物語』に収められている。
在原業平の歌が多く含まれているが、『伊勢物語』自体の作者や成立年は不詳である。
浅間山は信濃国(長野県)と上州国(群馬県)の県境である上信国境にそびえる今なお活発な火山。
その浅間山を「信濃国なる(信濃の国にある)」というからには、軽井沢目線ということになる。
平田の浅間山観も『伊勢物語』と同じく軽井沢目線だったということである。

以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。

9年後のある日、寅吉が幽冥界に帰ると言いだした。
その時、平田は寅吉に手紙を託したという。

寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。山神の図は現在東京代々木の平田神社宗家に大切に保管され、滋賀県大津の近江神宮では山神祭として定例の日に祭られている。

明治維新とは何だったのか

平田篤胤は、儒教や仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は神秘主義的なものに変化していった。
この思想が幕末討幕派の尊皇攘夷の支柱となった。
儒教や仏教を排斥して日本古来の純粋な信仰を復活させようという思想は「復古神道」という。

復古神道
儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神(かんながら)の道」が重視された。

だが天狗や山の神を信仰するということは神仏習合である「修験道」そのものであるし(ただ国学者は自身で修行するわけではないけれども)、山岳信仰は日本だけのものではない。世界的に見られる思想である。
平田が師とした本居宣長は漢方医学の一派「後世方」の医師でもあった。本居が師事したのは日本人医師だが、「後世方」自体は中国から学んだ医学である。
平田はキリスト教、西洋医学、ラテン語、暦学、易学、軍学などに興味を持ち、神秘主義に傾倒していくのであった。
こうなるともはや日本民族固有の精神どころか、当時ならそれこそ西洋かぶれと言えてしまう状況である。
アジア(仏教)は嫌だけれども、他ならば良かったのかどうか。

平田篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。

伊那は長野県南部の天竜川流域。
天竜川は諏訪湖から始まっている。諏訪湖から出ているのはその天竜川のみだという。静岡県で太平洋に注いでいる。
島崎藤村の父親は平田派の国学者だった。
ところが新しく迎えた明治時代は志したものとかなり違っていたということで失意のまま亡くなったらしい。
その息子・藤村はキリスト教に入信した。それは日本民族固有の精神ではないかもしれないが、平田の神秘学はキリスト教的でもあり、その意味では大きく平田派から外れるわけでもないのだ。
父親に反発し背を向けたようで結局父親と同じような立場になってしまったことに気付き離教したんだろうか。

もっとも平田は明治維新が始まる前に亡くなっている。

明治維新の尊王攘夷派は港を開くことに大反対し幕府と対立した。開港し外交関係を結びたくなかったのは幕府側ではなく倒幕側(尊王攘夷派)だったのだ。
幕府側はどちらかと言えば親仏教で反キリスト教であったし、討幕側はどちらかと言えばキリスト教に親和的だった。
倒幕側(尊王攘夷派)は仏教という外来ものを排除した「復古神道」を支柱にしたが、そもそも平田の神秘学は外来ものを取り入れていたし、討幕の志士たちは外国に興味津々で長州藩などはイギリスに遊学させたりしている。外国から武器も調達していた。
明治新政府樹立後は政府要人が国を半ば放置してこぞって外国巡りしたのは周知のとおり。
こうなるとやはり明治維新の目的は仏教排除でキリスト教導入だったのではないかという気がする。

日本古来を支持した人達と新天皇制や明治新政府が乖離していくのは目に見えているが、それも少数派だったのだろうか。





[PR]
by yumimi61 | 2018-10-04 14:28