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やがてそこに。


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2018年 10月 05日 ( 1 )

伝道と宣教

明治元年(1868年) 神仏分離令

明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。
宣教使の官員には国学者が採用された。

「宣教」「伝道」は思想や宗教を広める活動、特にキリスト教に於ける活動のことをいう
伝道とは言葉を伝えること。「イエス様はこうこうこうすべきって言ってた。キリスト教って素晴らしいでしょ~」というようにキリストを主に言葉で伝えていくことが伝道。教徒誰もが伝道師になれる。
宣教はミッションを持っている。これは誰もが行えるわけではない。教職者や、非教職の教師、医師、各種専門家(教会や教団や修道会などが運営する学校・病院・福祉施設などがあるため)などがその使命を負う。
自分の属する共同体を離れて活動する者は「宣教師」という。外国に赴き宗教を広め信者を獲得する役割を持つ。場合によってはスパイ的なこと(情報収集と報告など)を行う。

明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。


明治維新で政権握ったはよいが、国を管理監督する術を新政府は持っていなかった。
江戸時代は地方分権が進んでいた。言うなれば連邦国家(2つ以上の国や州が1つの主権の下に結合して形成する国家形態)だったのだ。アメリカやドイツなどこのような国の形態を採る国は少なくない。
それまで藩が独立した1つの国のような感じだったため、明治新政府が中央集権を推し進めようにも行政執行能力を持っていなかった。
そこで神社の氏子制度を利用して直接住民管理をしようとしたのである。また基本の道徳教育も神社にさせることを考えた。
神社を通して中央に力を集め掌握するつもりだったのである。

しかしこの企みはそう上手くはいかなかった。
なんといっても日本の神道は八百万神信仰である。地域によって神様はいろいろ。ある日突然急に神仏習合が禁止され、「新天皇が神なので信仰してください」と言われても困る。神様は目に見えないものである。
信仰心が強ければ強いほどそんなこと出来るわけがない。当然神社からは大ブーイング。
教え(教義)だって地域や神社によって様々、あるところもないところもあるだろう。政権が望むような統一的な道徳教育が叶うはずもなく。
それをまとめていくのが宣教使(明治時代の官庁)と言えばまあそうなのだが、日本全体を一気にまとめていくには如何せん人材不足。人数的にも能力的にも。
宣教使の官員には国学者を採用したが、そもそも国学者は本居派や平田派のように相いれない派閥もあるわけで宣教の方向が一致しない。官庁内でも対立してしまうという状況。
さらに国学者なだけに宗教や行政の経験や実地が不足していた。


明治5年3月14日(1872年4月21日) 教部省設置
宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織である。
神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合する形で設置した。

宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを受け、当時最大の宗教勢力であった仏教、特に浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。キリスト教の(半ば黙認という形での)禁制解除、社寺に於ける女人結界の解除など近代宗教政策を実施する一方で、神祇官が為し得なかった国民教化を実現する為に教導職制度を設け、三条教則による国民教化・大教宣布運動を行った。

教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども教導職に任命された。教部省に置かれた教導職の最上位を教正とし、国民教化をより具体的に行う為、教導職の全国統括機関である大教院、各府県単位の統括を行なう中教院が設置され、全国に小教院が置かれた。


1000年以上続いてきた神仏習合という日本の宗教の在り方を破壊し、仏教では寺院や仏具だけでなく歴史的・文化的に価値のある多くの文物までもが廃棄された。にもかかわらず、のこのこと「神・儒・仏の合同布教体制」ってどの口が言うのかとという感じだが、言ったのは(要請したのは)浄土真宗本願寺派の島地黙雷である。
ここにきて仏教の浄土真宗が国の行政に口出しをするようになった。

島地黙雷
周防国(山口県)和田で専照寺の四男として生まれる。萩で大洲鉄然とともに改正局を開き、浄土真宗の宗徒を教育した。
1872年(明治5年)、西本願寺からの依頼によって岩倉使節団に同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。使節団一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対して一等書記官福地源一郎が派遣され、同国の裁判制度などを研究させたが、黙雷はこれに同行している。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊での布教にも尽力した。


島地黙雷は現在の武蔵野大学附属千代田高等学院・千代田女学園中学校の創立者でもある。浄土真宗系の学校。
1888年に女学校として東京都内に設立された。(東京都千代田区4番町11番地)
先頃お亡くなりになった樹木希林さんはこの学校の卒業生らしい。

専照寺(浄土真宗本願寺派) 山口県周南市垰ます谷1611

浄土真宗
浄土真宗を覚えているだろうか。私のブログには再三登場している仏教の宗派である。浄土真宗が自治特権を持つ寺内町という独自集落を関西や北陸各地に形成した。
信徒が戦国時代に一揆を繰り返し起こした。
浄土真宗は学のない農民や武士も救うことを目的に「面倒な儀式や厳しい修行をしなくても念仏を唱えれば誰でも救われる」という宗旨を掲げて信者を獲得していった。
要するにもともと対権力になる要素を多く含んでいたということになる。

浄土真宗は、鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く「真の教え」を継承し展開させようという派閥のようなもので、独立した宗派ではなかった。
法然が開祖の宗教は浄土宗である。
親鸞は法然に教えに触れることに喜びを感じ人々にも分け伝えたいと考えていただけで、独立して開宗する意思は全くなかった。
従って浄土真宗の開祖を親鸞とするのは間違いである。
浄土真宗は、親鸞亡き後(死没1263年)に門弟らが親鸞を開祖に据えて「浄土真宗」を名乗り、教団を形成していった。
浄土宗や親鸞を利用したのである。どこかユダヤ教とキリスト教の関係にも似ている。
浄土真宗は「一向宗」や「門徒宗」と呼ばれることもある。

織田信長の一番の敵は宗教団体だった。
宗教団体が町を乗っ取った挙句、信者を利用し一揆と称してあちこちで戦いを繰り返し、支配地域拡大を狙っていたからである。
織田信長は戦国武将に戦いを挑んだというよりも、浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)並びにそれと手を組んだ武将と戦っていたのだ。
石山本願寺を脅威と思っていたのは織田信長だけではない。キリスト教イエズス会も浄土真宗に注目していた。

本能寺の変にはイエズス会が関わっており、当然日本側の織田に近い所にも協力者がいた。
豊臣秀吉は当初反織田信長側の人間だったと考えられる。
長崎(1580年)と浦上(1584年)がイエズス会に寄進されたのは本能寺の変(1582年)の前後である。


三条の教則
明治5年(1872年)4月に教部省から通達された民衆教化の指針。
「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」
「第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事」
「第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
教導者はこれをもとに教化に取り組むこととした。
神を敬い国を愛し、天理人道に基づき、天皇を中心にした国家秩序を確立するという意味だそうである。

皇道主義への転換
神仏分離し廃仏毀釈した国家神道政策だったが思うように進まず、教部省が設置された1872年に大きな転換を迎えた。
浄土真宗の島地黙雷の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれ、祭政一致の国家方針は放棄した。
浄土真宗は幕末に倒幕側を支援しており、その後も巧みな政治工作によって教部省を政府に樹立させた。
教部省が仏教も含めた諸宗門を管轄し、大教院の下で教導職の資格を得た宗教者が神仏合同で「三条の教則」に則った布教を行うという体制である。
上にも書いたが教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども任命されたが、「三条の教則」に則らないものは教導者にはなれなかった。
この時に「神道国家」は「皇道国家」に変わり、尊皇愛国思想が強化された。
1852年11月3日生まれの明治天皇はこの年(1872年)に20歳を迎えた。

明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
教部省を設立させた張本人の島地黙雷が同じ年(8か月後)に今度は「三条の教則」を批判した。
しかしその時、島地黙雷はヨーロッパにいた。そこから「三条教則批判建白書」を提出したというからいったいどうなってんの?という感じですよね??
島地は敬神愛国は敬神(宗教)と愛国(政治)とが一緒になっていて政教分離になっていない!、国家が宗教を造成して強制すべきではない、信教は自由!!とか主張したらしい。
最初からそういう筋書きだったのか、それとも政府はこれをヨーロッパの意向(圧力)と考えたのか、ともかく今度は政教分離と信教自由に舵を切ったのである。

明治6年(1873年) キリスト教に対する禁教令を廃止

明治8年(1875年) 大教院を閉鎖

明治10年(1877年) 神仏合同布教禁止令、教部省は解散廃止




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by yumimi61 | 2018-10-05 16:16