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2018年 10月 07日 ( 1 )

新興宗教

178.png2008年11月までカテゴリとタグ付が完了しています。
 
明治元年(1868年) 神仏分離令
廃仏毀釈に繋がる。

明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。宣教使の官員には国学者が採用された。

明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年7月14日(1871年8月29日) 廃藩置県

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。

明治5年3月14日(1872年4月21日) 教部省設置
神祇省を改組し民部省社寺掛を併合し、宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織。
浄土真宗・島地黙雷の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。

教部省-大教院(教導職の全国統括機関)ー中教院(府県単位統括機関)ー小教院(各地)

大教院は神仏合併を行う教導職の道場として設置した半官半民の中央機関。
最初は東京紀尾井坂の紀州邸が大教院にあてられた。

紀尾井坂
東京都千代田区にある坂。江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていた。
当時周辺一帯には大名の江戸藩邸が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷が角を接していた。江戸の住人たちは、要となる三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」とよぶようになる。そして元来の「清水坂」の名称は使われなくなり、「紀尾井坂」の名称はのちに一般に広まっていったものである。

※グランドプリンスホテル赤坂(赤プリ)は2011年3月末で閉館し、東京ガーデンテラス紀尾井町として再開発されている。

徳川将軍家の他に、紀州・尾張・水戸の徳川が徳川御三家と呼ばれた。
紀州は紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)。
上記の紀尾井町の旧赤プリ近辺以外にも、現在の赤坂御用地、渋谷区千駄ヶ谷駅から鳩森神社、同じく渋谷区内の松涛公園、渋谷駅近くの御嶽神社、港区芝の浄土宗大本山増上寺(徳川将軍の墓所でもある)、旧芝離宮恩賜庭園、中央区の築地本願寺、築地立体駐車場と波除神社あたりも紀州徳川家の土地だった。

明治6年2月に、紀尾井坂の紀州邸から増上寺内に移した。この移転時期はキリスト教に対する禁教令を廃止したのと同時期である。
増上寺本堂が大教院神殿の拝殿として用いられ大教院の神仏合併が進められた。

増上寺
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。 その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

浄土宗と浄土真宗は、国学の本居派と平田派のように、門下であるにしては解釈が全く違う部分があり、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねなかった。
幕府などから「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ「一向宗」と公称された時期もあるが、浄土真宗はこれを認めなかった。
私は歴史的な意味合いからずっと「浄土真宗」と書いてきたが、宗教的には現代においても浄土を使う表記自体を避ける風潮があり「真宗」と記述していることも多い。
織田信長、徳川家康、上杉謙信、朝倉義景など多数の大名が浄土真宗(真宗・一向宗)と対立した。

明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
政教分離、信教自由を主張。(←宗教に対して誰も口出しできない条件と見ることが出来る)

明治6年(1873年)2月 キリスト教に対する禁教令を廃止

明治6年(1873年)2月 大教院を増上寺に移転

明治7年(1874年)1月1日 増上寺が放火される
仏堂の中に神社が設けられた事に反発した廃仏主義者の旧薩摩藩士によって放火され、旧増上寺本堂は全焼したが神体はかろうじて助け出された。この神体は芝東照宮に一時奉遷され、神道勢力が新たに設置した神道事務局の神殿に遷された。

明治8年(1875年)1月 浄土真宗が大教院を脱会

明治8年(1875年)3月 神道事務局を結成
大教院閉鎖の2ヶ月前に伊勢神宮と幕末期に起こった神道系の新宗教教団の教導職によって神道事務局が結成された。

新宗教
新興宗教とも呼ばれる。
日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後~)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。 実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。



明治8年(1875年)4月 神道事務局の開局
明治8年(1875年)3月に結成された神道事務局が4月に開局した。
伊勢神宮が日本全国各地に古くからあった神社の元締めのような感じになり、一定の条件を満たした新宗教教団は独立教派として公認していった。最初の公認は1876年(※後述)。

明治8年(1875年)5月 大教院を閉鎖

明治9年(1876年)10月23日 「神道修成派」と「黒住派」とが独立教派として神道事務局から独立
神道修成派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修成講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた

明治10年(1877年)1月11日 神仏合同布教禁止令、教部省は解散・廃止
⇒教部省の機能は内務省の社寺局へ移された。
社寺局は全国全ての神社および寺院、新宗教など宗教に関する全ての行政を管掌することになった。


「神道修成派」
新田邦光により1869年(明治2年)に開教し、1873年(明治6年)8月に修成講社として設立。
1876年(明治9年)10月23日に神道修成派として一派独立。
1953年(昭和28年)4月に本部教会(大元祠)を静岡県磐田郡豊岡村敷地(現在の磐田市敷地)に遷座した。

法人本部(教庁)は東京都杉並区松庵にある。

新田邦光
1829年に「阿波」にて竹沢平太あるいは竹沢平太郎の三男として生まれたと言われている。
この「阿波」には2説ある。
1つは、岡山県の北東部に位置し鳥取県に接する阿波村(現:岡山県津山市)。
もう一つは阿波国、つまり徳島県。阿波国美馬郡拝原村(現:徳島県美馬郡脇町拝原)という説。
明治維新前の通称(自称)は竹沢寛三郎だった。あくまでも通称であり出生名は分からない。
徳島出生説では、徳島藩筆頭家老で淡路洲本城代でもあった稲田家の家臣に竹沢平太という者がおり、寛三郎という息子がいたらしいが祖先の関係から自称したルーツとは合わない。
自称したルーツとは脇屋義助(新田義貞の弟)の子孫であるというもの。

脇屋義助(新田義貞の弟)
・上野国新田郡に生まれ、長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字を「脇屋」と称した。
・ 義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。
・1933年(昭和8年)、兄・義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見された。種字には金泥が塗られていたが、北朝年号であったことから真贋論争が起きた。現在では北朝方についた新田一族(岩松氏?)が建てた本物と考えられている。この板碑から義助の正確な生没年月日が判明した。
・新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。


竹沢寛三郎は明治時代の到来とともに(1868年)名を新田邦光と改め、神祇官御用掛となる。
明治6年(1873年)には教部省より教導職大講義に任ぜられ、御嶽信仰や富士信仰を持つ者を集めて「修成講社」を設立した。
これが明治9年(1876年)、最初に公認された独立教派である。




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by yumimi61 | 2018-10-07 16:10