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やがてそこに。


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2018年 10月 16日 ( 1 )

※「平民」は、明治維新から第2次世界大戦後の 1947年まで一般庶民に用いられた身分呼称。

(前記事の続き)

熊野(ゆや)と平宗盛
能を代表する『熊野(ゆや)』の熊野とは主人公の女性・熊野御前のことである。
当時の日本三大美人の一人 熊野(ゆや)御前は、平安時代末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、大変寵愛された女性。

平宗盛
安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・ 建礼門院は同母妹である。

熊野御前の墓があるのが静岡県磐田市池田330にある行興寺。行興寺は浄土宗のお寺で、藤で有名らしい。


平氏の時代
平氏(平家)が登場するのは平安時代である。平安時代(794-1185年)は奈良時代の後で、鎌倉時代の前。
平氏(平家)とは「平」を氏の名とする氏族のことでもあり、日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の1つだった。
平氏も源氏も元々が天皇を始祖とする由緒ある家系。
本を正せば皇族であり公家ということになり、自ら武装しないという選択もあったわけだが、公家だけには収まらず武士(武将)としても活躍をしていくのが平氏や源氏である。
子供が多くいて時代が行けば傍流は増えていくが、その全てが後世に名を残しているわけではない。

武家に繋がる源氏は概ね清和天皇(第56代、在位858-876年)の子孫である清和源氏と呼ばれる一族である。平氏(平家)を倒して鎌倉幕府を開いたのも清和源氏なら、鎌倉幕府を倒した新田義貞や室町幕府を開いた足利尊氏も清和源氏、戦国時代を戦い抜き戦わない江戸幕府を作った徳川家康も清和源氏である。

一番最初の平氏は桓武天皇(第50代、在位781-806年)の子であり、桓武平氏と呼ばれる。平安京にちなんでの「平」(和訓では多比良)だったらしい。
平氏にはそのほか、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の4つの流派がある。
武家平氏として後世においても活躍が知られるのは、桓武平氏のうちの高望王流坂東平氏の流れのみ。
これに該当する末裔が常陸平氏・伊勢平氏・坂東八平氏・北条氏など。
「東国の源氏、西国の平氏」という俗説があるが、高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は当然のことながら武家平氏の盤踞地であった。すなわち坂東平氏の一族がその後中央(朝廷)に勢力を伸ばし、西国にも平氏勢力が広がったとするのが適当である。

東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。



熊野(ゆや)を見初めた平宗盛は平清盛の息子
平氏で一番名が売れているのは平清盛だと思うが、彼は伊勢平氏の棟梁家の生まれで、長男だったので自身も棟梁を継いだ。
なぜ平清盛が有名なのかと言うと、日本初の武家政権を樹立させた人物だから。
平安時代末期(1160年代 - 1185年)が平氏政権だった。
しかし源氏がその継続を許さなかった。

(平清盛は)平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

「後白河法皇」とは、後白河天皇(第77代)が皇位を15歳の息子(第78代二条天皇)に譲った後の名称。皇位は譲ったが院政として天皇に代わり直接政務に関わるという政治形態を採っていた。
後白河天皇の子で第80代天皇の高倉天皇と平清盛の娘(平徳子)の間に産まれたのが安徳天皇(第81代)だが、平清盛はその子が僅か1歳の時に天皇に即位させ実権を握った。
子を表にだして実権を握るというのは、後白河天皇も平清盛もどっちもどっちな感じだが(天皇が低年齢化しているが)、結局平安時代は源氏に倒される。

熊野(ゆや)を見初めたという平宗盛は平清盛の三男。安徳天皇の母(平徳子)も平清盛の娘であり平宗盛の妹にあたる。


平清盛の妻(平時子)の弟の娘が中山家始祖の嫁
平宗盛や平徳子の母親は平時子という女性(もともと平氏)。後妻として平清盛の正妻になったらしい。
平時子の弟に平時忠がいる。
時忠は平清盛の妻の弟だったことから、平清盛亡き後、平家一族の纏め役であったという。
源氏の時代には、現在の石川県珠洲市大谷町に配流された。
この平時忠の娘の1人は、明治天皇の生母と言われる中山慶子を出した中山家の家祖・中山忠親(水鏡 の作者と云われている)に嫁いでいる。


幕末の中山家は討幕派であり十津川郷の天誅組とも関係あり
中山慶子の父親は中山家の第24代当主・中山忠能である。

(中山忠能の)子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。



世界遺産に含まれる十津川村の玉置神社について
十津川村は奈良県にあり、しかもその地は地理的にも歴史的にも独立独歩の精神を持ち、周辺に簡単に迎合するような土地柄ではなかった。
しかし世界遺産には通路の道中としてその地が含まれていて、和歌山県田辺市の熊野三山(熊野本宮大社)の奥宮として奈良県吉野郡十津川村の玉置神社が位置づけられている。

●玉置神社
大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。

社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ、古来より十津川郷の鎮守であった。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡 』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である。


要するに記載がない、辻褄が合わないということで、神社の古い歴史に何の裏付けも取れないということである。

●水鏡
『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。
国書の伝存目録である『本朝書籍目録』仮名部に「水鏡三巻 中山内府抄」とみえることから、作者は中山忠親説が有力である。しかし、源雅頼説などもあり未詳。

神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を編年体で述べている。73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという形式になっている。『水鏡』独自の記事があるわけではなく、僧・皇円が著した『扶桑略記』から抄出したものである。ただし、序文には著者独自の歴史観が盛り込まれており、そこには特異性が認められる。


●皇円(こうえん)
平安時代後期の天台宗の僧侶である。正字では皇圓。熊本県玉名の出身で肥後阿闍梨とも呼ばれ、浄土宗の開祖法然の師でもある。王朝も末期に成立した、編年綱目の体裁を採る国史略のうち「扶桑略記」を撰した(ほかに「日本紀略」「帝王編年記」)。弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。


玉置神社の説明に、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、とある。
これは、『水鏡』に書かれている新宮の創祀と、神社伝『玉置山縁起』による玉置神社の創建年が同じになっているという意味である。
しかし熊野三山で新宮と言えば、和歌山県新宮市新宮1にある「熊野速玉大社」のことを指し、玉置神社でも本宮大社でもない。玉置神社は奥宮という位置づけ。
熊野三山だとしても奥宮と新宮というそもそもの違いがある。
実際『水鏡』の新宮の創祀前後がどのように書かれているか知らないが「新宮」は「新たに創建された神社」という一般的な言葉であり固有名詞ではなく、これだけでは熊野三山と特定することは出来ない。
また細かいことを言うようだが、創祀=創建でもない。創祀は最初に神を祀ることで別に建物は必要ない、創建は建物を設置することである。
新宮の創祀=奥宮の創建と言うのは無理があるので、無理やりこじつけたものであろうという判断がなされているということ。
実際のところ、熊野三山(3つの神社)の創建年はどれも不詳である。





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by yumimi61 | 2018-10-16 15:37