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2019年 01月 27日 ( 1 )

単立

最初から単立神社

前記事に比較的規模が大きく有名な単立神社を挙げたけれど、今現在その中で最も有名な神社は「靖国神社」ではないだろうか。行ったことがあるかどうかは別としてニュースに取り上げられることが多いから。
靖国神社は当初から単立神社として存在している神社の1つである。

観光地として圧倒的な知名度を誇るのは「日光東照宮」だろうか。
こちらは1985年に単立神社となった。

「靖国神社」と同じく最初から単立神社であるのが「鎌倉宮」。


鎌倉宮の意味合い

「鎌倉宮」
神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 護良親王を祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮。

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した。



後醍醐天皇というのは新田義貞らが鎌倉幕府を倒した時代の天皇。
鎌倉幕府というのは武士が政治の中心にいた武家政権である。
武家政権は鎌倉時代から江戸時代までの約700年間に及ぶ政治形態。
河内源氏という武家の棟梁が長となった。
鎌倉幕府を打ちたてのも倒幕したのも同じ一族の者である。
新田義貞が倒幕に向かったのは、幕府が腐敗し始め強権的支配を行っていることに堪忍袋の緒が切れたからで、自身が権力を握りたいという野望がなかった。(だから結局出世しなかった)
その意味では同じ一族の足利尊氏のほうが多少そうした野望を持っていた。(だから鎌倉幕府倒幕後は後醍醐天皇に反旗を翻し武士を味方に付けて出世することができた)

後醍醐天皇というのは天皇であり、天皇が中心となる公家政権を目指し、かねてから倒幕の計画を立てていた。
その時にちょうど新田義貞らの反乱があったので、後醍醐天皇がそれを上手く利用したというか乗っかったというか、新田義貞らが後醍醐天皇に協力したというかで同じサイドに立つが、もともと新田義貞や足利尊氏は武士であり「公家政権を!」という立場で倒幕に向かったわけではなかった。
同じく武士であり後醍醐天皇の夢のお告げで後醍醐天皇サイドに立って活躍したのが楠木正成である。

倒幕が成功して天皇が自ら政治を行う「親政」の時代となったが(建武の新政・建武中興)、足利尊氏が武士を味方に付けて別の天皇を擁立したので(武家政権)、天皇が2人存在していた南北朝時代に突入することになる。
1336~1392年の56年間が南北朝時代で、その後は戦国時代に突入する。

「鎌倉宮」は武士から政治を奪い取った立役者でもある後醍醐天皇が祭神ではなく、その息子の護良親王である。
この親子、鎌倉幕府倒幕後、その仲が非常に険悪になっていった。
征夷大将軍というポストを親子で争い、武士を取りあいすることになったからである(父に付いていた武士を自分のものとしようと画策し奪っていった)。
後醍醐天皇は天皇以外の者が武力を持つことを否定し、足利尊氏も護良親王も敵に回すことになったが、足利尊氏は足利尊氏で後醍醐天皇と護良親王の両方から命を狙われているという危険な状態にあった。
そんな三角関係というか複雑な情勢の中で、結局は後醍醐天皇の命で護良親王が幽閉され、最後は足利尊氏の弟の家来によって殺された。

明治2年(1869年)2月という非常に早い段階で、後醍醐天皇と険悪な関係にあった息子を祭神とした神社を造営するように明治天皇が命じたというのは、やや不思議な感じがする。
当時の明治天皇は16歳。しかも武士による政治から転換したばかりの時代。当時の政治のあれこれを見ても当初は天皇にそれほど威厳があったようには思えない。
すなわち明治天皇の心情としては後醍醐天皇よりも、親に認められなかった親王寄りだったのではないかと考えられる。


後醍醐天皇が祭神なのは

後醍醐天皇を祭神としているのは奈良県にある吉水神社。
しかしこの吉水神社、もとは金峯山寺の格式高い僧坊「吉水院」だった。
金峯山寺というのは修験道の本山となっており、創立者は修験道の開祖である役小角と言われている。
以前書いたが、修験道というのは神仏習合であり、明治政府が禁止して弾圧してきた宗教である。

金峯山寺の僧坊時代には河内源氏の源義経が弁慶らと身を隠したことがあり、河内源氏とのと関わりがあった。
また後醍醐天皇も足利尊氏に反旗を翻された時に、京都から奈良に移り、「吉水院」の住職・宗信法印にの援護を受けて吉水院に行宮(政変時などにおける天皇の一時的な滞在場所)を設けた。⇒吉野の南朝
当時はまだ修験道聖地近くの奈良寄り大阪を本拠とする楠木正成や河内源氏一族の新田義貞が健在だった時期であり後醍醐天皇に付いていた。
従って彼らの縁もあり吉水院に行宮が設けられたのだと思う。
後醍醐天皇崩御後には、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に安置した。 像なので仏教的であり、もちろん祭神ではない。

しかし明治時代には神仏分離となり廃仏毀釈が行われ、とりわけ修験道は徹底的に弾圧された。
金峯山寺や吉水院は廃止に至った。
そして吉水院(修験道・金峯山寺の僧坊)は、後醍醐天皇社(神社)を経て、吉水神社に変わった。
祭神は後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方に付いていた武士の楠木正成、吉水院の住職だった宗信法印を配祀している。

明治時代に入ると神仏分離令と国家神道化の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、明治4年(1871年)5月に五条県が吉水院を神社に改めて吉野神社とする案を太政官政府に提出した。後醍醐天皇を祀る神社を別に作ることを計画していた政府は五条県の案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、奈良県が神社への改組を働きかけ、明治6年(1874年)12月17日に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。明治8年(1875年)2月25日に吉水神社に改称し、やがて村社に列した。


新たに「吉野神宮」を創建

〇〇神宮(例:明治神宮)や〇〇宮(例:鎌倉宮)という名称の神社は皇室に関係する神社。皇室の祖先神(例:天照大神)や歴代天皇のいずれか(例:明治天皇)を祭神として祀っている神社の事である。
神社を国家が管理していた時代は「神宮」の名称を名乗るには国の勅許が必要であった。
現在も神社本庁の傘下にある神社が「神宮」を名乗るためには、神社本庁の承認が必要である。

女子大生が行方不明になっているニュースで茨城県の鹿島神宮駅という名前が出ていたが、鹿島神宮は実在した天皇ではなくて日本神話に登場する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神としている。雷神、剣の神で、相撲の元祖とも言われる神。
先ほど引退した稀勢の里が土俵入りを奉納したのがこの鹿島神宮だったらしい。
それはともかく吉野神宮。

吉野神宮は明治天皇の命によって創建された神社である。

1889年(明治22年)6月22日 - 明治天皇が官幣中社吉野宮の創立を命じた。
1892年(明治25年)社殿造営完成、鎮座祭。
1901年(明治34年)8月8日 - 官幣大社に昇格。
1918年(大正7年)吉野神宮に改称


1892年に社殿が完成した際に、後村上天皇が吉水院(明治期に吉水神社となった)に安置した後醍醐天皇像を吉野神宮へ移したのである。そして遷座祭が行われた。
明治天皇が創建を命じた1889年(明治22年)というのは大日本帝国憲法が公布された年である(1889年2月11日公布)。
明治天皇が40歳になる年でもあった。
すなわち名実ともに天皇が権威権力を握った年、名実ともに君主国家、公家政権が誕生したその年に、護良親王ではなく後醍醐天皇の像を移して(像は仏教的なのだけれども)、新たに吉野神宮を創建させた。
それはとても象徴的な出来事であったはずだ。

後醍醐天皇は倒幕が成功し親政となると天皇以外の者が武力を持つことを否定した。
明治天皇はそれを具現化した。


階級が好きなのは明治政府以降の公家政権である

後醍醐天皇を主祭神としている「吉水神社」と「吉野神宮」は神社本庁の包括下(傘下)にある神社である。
しかし後醍醐天皇の息子である護良親王を祀った「鎌倉宮」は同じ明治天皇が創建させた神社ながら最初から神社本庁傘下の神社ではない。
「最初」というのがいつかというと、神社本庁が設立された第二次世界大戦後の1946年である。

また両神社は格も全然違う。
後村上天皇が後醍醐天皇像を安置したという「吉水院」を前身とする「吉水神社」ではなく明治天皇が創建して像を移転させた「吉野神宮」のほうが格が遥かに上である。

「吉水神社」(主祭神が後醍醐天皇)・・・村社 神社本庁の傘下
「吉野神宮」(主祭神が後醍醐天皇)(明治天皇が創建)・・・官幣大社 神社本庁の傘下(別表神社)
「鎌倉宮」(主祭神が護良親王)(明治天皇が創建)・・・官幣中社 単立神社

【神社の格】
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
 ↓
府社=県社=藩社>郷社>村社
 ↓
無格社

神社の格(階級)は第二次世界大戦後に一応廃止されてはいるが、「旧社格」などとして現実的には存在している。
神社に格(階級)を付けたのは公家政権であった平安時代と明治時代である。
戦後の神社本庁の時代になってからは、旧社格制度で格の高かった神社や規模の大きい約350社が「別表神社」として規定されている。

近代社格制度では、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分ける。伊勢の神宮は、「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされた。

官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社であって、官幣社と国幣社に分けられる。
奉幣とは天皇の命によって幣帛(布帛・衣服・紙・玉・酒・兵器など)が供与されること。のちには幣帛料として金銭ということもある。
官幣社には皇室(宮内省)から、国幣社には国庫から金品が支出されていた。
戦後は直接的に国家が神社に関わることが制限されたので、神社本庁が傘下の神社に幣帛を供与する。

では幣帛を供与する神社本庁の収入源は何なのかと言えば、「傘下の神社が売り上げる神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金」と「傘下の神社からの会費」である。

各神社が売り上げた「神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金の全額」は伊勢神宮に納付する。
納付された金額の半分が伊勢神宮の収入となり、残りの半分が神社本庁に入り、神社本庁はそれを調整して各神社に再分配するという。
神社本庁に入ってくる金額は35億円とか言われている。

「会費」は氏子数と参拝客数で決まるので、それぞれ異なる額となる。
神社本庁は1年間の予算(収入)として10億円ほどを見込んでいる。
ここでもいわゆる「上納システム」が採られている。

その他、各神社の厚意による寄附もあるそうである。









by yumimi61 | 2019-01-27 17:01 | 靖国神社と神社本庁