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2019年 04月 29日 ( 1 )

野分論

先日のエントリー『桜花』にて最後の一文に夏目漱石『野分』より 世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する を引用した。
今日はその『野分』についてです。

↓これが小説の冒頭。

 白井道也(しらいどうや)は文学者である。
八年前まえ大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。




今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべきものと心得ていた。
盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。
渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。
世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。




己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。
しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。
この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。
天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。
われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵かし硯を磨まするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。




主たる登場人物


・白井道也
大学を8年前に卒業。 越後・九州・中国地方の3箇所で中学教師をしていたが、いずれも辞職して、ついには東京に戻ってきて、書き物の仕事をしている。妻がいるが、妻は職を転々とし野心のない夫を快く思っておらず、夫妻の間には隙間風が吹いている。

・高柳君(高柳周作)
越後出身で、この夏に旧制の高等学校(現在の大学教養課程に相当)を卒業したところ。
貧乏で暇もないらしい。
口数が少なく、あまり人と交わることもないため、他人からは厭世家の皮肉屋と思われている。
父は郵便局の役人だったが、高柳君が7歳の時に公金を使い込んで囚われの身となり牢屋の中で肺病で死んでしまった。もっとも子供の時にはそのことを知らず、父の行方を母に尋ねても「今に帰る」と言うばかりであった。現在はその母親を田舎に1人残しているという状況であり、仕事をして母へ仕送りをしなければならないと思っている。
越後の中学校に白井道也先生がいて、先生を学校から追い出すのに加担した。
肺病を患っている。

・中野君(中野輝一、中野春台)
高柳君とは旧制高等学校の同級生で一緒に卒業した。
裕福で名門で暖かな家庭に生まれ育つ。
鷹揚で円満で、趣味に富んだ秀才。
婚約者がいて結婚する。


高柳君も中野君も文科で学んでおり、卒業後も書き物の仕事をしている。
中野君は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい」と言っている。
タイプは全く違うが2人は仲の良い友人。裕福な中野君は高柳君にたびたび奢ってあげたり、具合が悪そうなのを心配する。
しかし高柳君は中野君を別世界に住む人だとも思っていて、寂しさを拭いきれないでいる。というかむしろ中野君を通じて余計にひとりぼっちであることを痛感してしまうのである。


高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。

彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。

この両人が卒然と交わりを訂してから、傍目にも不審と思われるくらい昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人ひとりあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友をもって中野君を目してはおらぬ。

中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越しに眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴さえも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横たわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。



『江湖雑誌』


「僕の恋愛観」 中野春台
「解脱と拘泥……憂世子」 白井道也

中野君の所の取材に行ったのも白井道也先生で、高柳君から中学生の時の出来事を聞いていた中野君は取材終わりに高柳周作という人物を知っているか訊いてみるも、知らないと言われる。


「僕の国の中学校に白井道也やと云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜の銘にありそうじゃないか」
「道也と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪い人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪い奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊っといものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」


高柳君は『江湖雑誌』で中野君の恋愛観を読んだついでに、「解脱と拘泥……憂世子」に出会う。そしてついには自分で白井道也先生を訪ねるのだった。


白井道也先生が辞めた3つの学校

(1)越後(新潟県)のどこかの中学校
越後は石油の名所だった。学校のある町を4~5町隔てて大きな石油会社があり、学校のある町の繁栄は大方その会社の御蔭で維持されていた。

会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。
道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫りに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
※黄白万能主義=拝金主義

(2)九州北部の工業地帯の中学校

炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。


(3)中国地方の田舎の中学校

ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。
そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。フランスのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事がむずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。
去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。


では東京はどうか?

 三たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色がない。東京は日本で一番世地辛い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛って両手を袂へ入れたままで遣り切きるのは、立ちながらみいらとなる工夫と評するよりほかに賞めようのない方法である。


100円の行方と告白

・高柳君の体調は思わしくなく、喀血までするようになり、中野君から自分が費用負担するからと転地療養を勧められる。
お金を出してもらうのは心苦しいと感じている高柳君に、思案中の小説を転地先で養生しながら執筆し、完成したら一大傑作として世に送り出す、その対価として費用(100円)(もちろん今の100円とは価値が違う)を出すと提案し、それを高柳君も受け入れて、100円を受け取る。

・高柳君は転居前日に転地療養の報告と挨拶のため白井道也先生を訪ねる。
そこで借金取りに出くわす。
白井道也先生は100円の借金をしており、先生の兄が立て替えていた。
先生の兄は会社の役員で、その会社の社長は中野君の父親である。
教職を離れてお金にも名誉にもならない物書きなんかしていることに不満を抱いている先生の妻と、借金を立て替えている先生の兄が結託して、借金返済を厳しく催促することによってお金になる仕事をするように仕向けたのだった。

・白井道也先生は借金取りに「著作が売れるまで100円の返済は待ってほしい」と頼むが、 兄の意向を受けた借金取りは頑として応じない。

・白井道也先生と借金取りの話を聞いていた高柳君は口を挟み、先生の著作とやらを見せてもらう。それは「人格論」というタイトルの原稿であり、先生は待っている間に高柳君が読んでいるのだと思って渡すと、高柳君はタイトルだけを見て「これを100円で譲ってほしい」と先生にお願いする。


「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。


転移

ここで九州の中学校を追い出されたところの文章をもう一度。

権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された・・・


高柳君は自分が中野君からお金を得る権利などないことを分かっていた。
だけど療養先で一大傑作を書くという名目でお金を受け取った。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるというから、この場合、中野君が実業家ということになる。
そのお金を今度は高柳君が白井道也先生に渡すわけである。
原稿を買い取るという名目で。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるから、白井先生に100円を受け取る権利がなければ、今度は高柳君が実業家ということになってしまう。
白井道也先生にその権利はあるだろうか?高柳君は原稿のタイトルだけを見て、中味を読んでいないのである。
そして彼はここでかつて自分が先生を追い出した1人であることを告白する。
つまり原稿の対価ではないことが滲み出ている。
そのことに高柳君は気付いていないのかもしれないが、引き上げたいのは先生ではなく自分である。心のどこかで悪行をチャラにしたかった、人格者になるために。
高柳君の100円を出すとういう行為は白井先生を「権利のないもの」にしてしまうことになる。
中野君や中野君の奥さんが高柳君に同情したように、高柳君も白井先生に同情の念を抱いた。
金の力で活きようとした高柳君はその金に誹ることなく、今度は自分がその金で白井道也先生を活かそうとした。
同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。ーまさしくといった感じである。


『野分』の主題は恋愛論

本文に一箇所だけ「野分」が出てくる。
中野君の婚約者(のち妻)が歌った歌詞の中に。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ



「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦しみを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」


白井道也先生は「解脱と拘泥……憂世子」の中にこう記していた。
物質界に重きを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。

中野輝一は恋なんて形ないものに重きを置いている。
中野の恋愛論に賛辞も批評も与えなかった白井道也にも実は心当たりがあるのだろうと思う。
春から夏へと向かう恋の中にいる中野と、秋から冬へと向かう恋の中にいる白井。
白井道也という存在を変形させ明瞭にさせたのは、奥さんだったのかもしれないなぁと思った次第です。






by yumimi61 | 2019-04-29 21:49