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2019年 05月 26日 ( 2 )

反旗

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新田公挙兵600年記念碑 公爵德川家達書


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新田公挙兵600年記念碑建設委員長 中島知久平


挙兵600年は昭和8年(1933年)である。

1931年9月18日満洲事変が勃発。
満洲事変は柳条湖事件に端を発した日本と中国の軍事的な衝突。
柳条湖事件
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日(金曜日)午後10時20分ころ、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された。
まもなく、関東軍(中国関東州に駐在していた日本の軍隊)より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍(中国の国民革命軍の東北辺防軍)の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった。


日本は柳条湖事件以後、中国への侵略を開始、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権「満州国」を建国した。
これに対して中国政府は国際連盟に「満州国」建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。
国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣し、現地および日本を調査し、日本の侵略と認定し日本軍に対しては満州からの撤退を勧告。
1933年2月、国際連盟総会にてリットン調査団報告書を審議。日本の代表松岡洋右は「満州国」は自主的に独立した国家であると主張したが、日本以外の全ての国(42か国)が審議に賛成し可決する。
これを受けて日本政府は1933年3月、国際連盟脱退を通告した。
 
秋にはドイツが国際連盟を脱退、常任理事国2カ国が相次いで脱退するという事態となり、集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなった。同時に脱退した2国は、全体主義国家として、イギリス・フランス・アメリカとの対立を強め提携に向かうこととになる。

この不穏な時期に目を付けられたのが生品神社だった。
折しもそれは新田義貞が鎌倉幕府を倒すために挙兵した1333年から600年後のことであった。

昭和8年5月8日は新田義貞公挙兵600年に相當するを以て記念碑を建設し祭典を執行するに當り事 天聴に達し畏くも祭粢料御下賜の御沙汰を拝し光栄ある式典を終れり爰に御沙汰書を刻し後世に傳ふ云爾
 昭和8年11月
  新田公挙兵600年記念碑建設委員長 中島知久平

「天聴に達し畏くも祭粢料御下賜の御沙汰」、つまり天皇が祭粢料を出すという沙汰があったということ。

祭粢料
神にささげる供物料として、死者の出た家に皇室から贈られた金銭。一般の香典にあたる。
明治時代に栄典制度が整備されると、勲一等(現在(2003年以降)の旭日大綬章)以上ならびに文化勲章受章者の葬儀には天皇が金員を下賜することが規定された。なお、戦前は「祭粢料」のみならず勅使が派遣され、幣帛が下賜されるほか、軍隊から儀仗兵の派遣も行われた。

でも生品神社に新田義貞が祀られているわけではないのだ。新田義貞の産土神が生品神社であり、挙兵の地であった。
新田義貞は結果的には後醍醐天皇に付いて鎌倉幕府を倒したことになるが、挙兵の動機は親政(天皇自ら政治を行う)にあったわけではない。
しかも足利尊氏も天皇を擁立し、南北朝と2人の天皇がいた時代がある。
さらに言えば、鎌倉幕府将軍も足利尊氏も新田義貞も徳川家康もみな源氏一族である。
彼らは対外的に戦ったわけではない。

德川家達
1863年8月24日(文久3年7月11日) - 1940年(昭和15年)6月5日
幼名は亀之助。
江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生した。慶頼は第14代将軍・徳川家茂の将軍後見職であり幕府の要職にあった
大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見した。
1868年11月、東京城(皇居)において明治天皇に拝謁。11月18日、従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。
1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。


徳川幕府及び日本最後の征夷大将軍となった徳川15代将軍・徳川慶喜に代わって、徳川本家の相続を明治新政府から許可された人物。
それは僅か4歳の時だった。
世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。


中島知久平
群馬県太田市(旧:新田郡尾島村)出身で、中島飛行機の創業者。
中島飛行機
1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。通称は中島(なかじま)。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。

SUBARU(富士重工)の前身企業。


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新田一門史出版記念建設 新田義貞公並一門挙兵地 内閣総理大臣福田赳夫書

福田赳夫も群馬県出身。
『新田一門史』の出版記念で建設した碑ということだが、『新田一門史』が出版されたのは1975年。
藪塚喜声造という地元の人によって書かれた史であるようだ。
福田赳夫が内閣総理大臣だった期間は、1976年12月24日 - 1978年12月7日。従って石碑もこの間に建設されたということになろう。

1977年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、中国へのODA開始や積極的な東南アジアへの開発援助を行う。その姿勢はアジア開発銀行の設立やフィリピンのマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。

国家プロジェクトでありながらも、1971年の代執行以来、三里塚闘争などによりほとんど進展がなかった成田空港問題について、「あらゆる困難を乗り越え開港を実現せよ」と指示。東山事件・芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件や成田空港管制塔占拠事件で犠牲者を出しつつも、1978年(昭和53年)5月20日の新東京国際空港(現・成田国際空港)開港にこぎつけた。


テロリストの解放条件を呑んだのは三木内閣に続いて2回目だった。
三木首相は1975年8月15日に私的参拝と言って靖国神社を参拝し、靖国神社の問題をあぶり出し、結果的に天皇の靖国神社への行幸を遠ざけることになった首相でもある。(詳細は「続続続・靖国神社」、「続続続続続・靖国神社」に )

1975年8月4日に日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員ら約50名を人質として、日本国内の刑務所に収監中の囚人解放を要求したテロ事件。当時の三木内閣がテロリストの要求に屈したため、日本赤軍はさらに同様な事件を起こした。





by yumimi61 | 2019-05-26 15:30

さしあたり

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・少し前に中村交差点にて、「このランプがついているときは通報してください」の表示とランプが後方に設置してある観光バスが走っており、後ろを走っていた私は必要以上に緊張してしまった。


・こちらは普通車の話。最近車の後方に「ドライブレコーダーで録画中」とか「ドライブレコーダー設置」というステッカーを貼っている車を見かけます。
家の防犯にセコムやアルソックのステッカーだけを貼る方法があるという話を聞いたことがあるが、その手のものなのか、そうでないのか。
その時も前の車の後方部にステッカーが貼ってあった。
信号待ちの時に見ると、「この文が読める場合には近づきすぎです」と書いてあった。
うわぁぁぁ読めてしまった・・・・
と一瞬焦るも、信号待ちであることに気付き、いいんだよね? 信号待ちの時は?




by yumimi61 | 2019-05-26 11:21