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2019年 06月 25日 ( 1 )

アラカルト

トリカブト保険金殺人事件の犯人の父親は、犯人が幼い頃から共産党員で、家庭を顧みないほど熱心に党活動しており、戦後間もない時期にはレッドパージ(赤狩り)の一環で政治犯として拘束されていた時期もあった。
そんな父親を子供達は幼い時分にどんなふうに思っていたのかは知る由もないが、その息子達も成長すると父親と同じく共産党員となった。


1988~1989年に起こった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の監禁場所となった家(犯人少年グループの中の1人の家)の親も共産党員だったという。

(実名報道した)『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は、事件当時は「犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があった」として少年たちの実名報道は見送った。
しかし同誌も、1989年4月13日号にて特集記事を組み、監禁場所を提供したCの両親について「日本共産党員だという話もある」と報道した。
これに対し、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された。



2018年(平成30年)8月19日夕方、犯行グループのメンバーだった男(元少年C)が埼玉県川口市内の路上で通行人の32歳男性に対し、肩を警棒で殴る・首をナイフで刺すなどして殺害しようとした殺人未遂容疑で、埼玉県警察武南警察署に緊急逮捕されたことが『デイリー新潮』(新潮社)の同月21日配信記事、およびその続報に当たる『週刊新潮』2018年9月6日号(8月30日発売)にて報道された。
『デイリー新潮』および『週刊新潮』は、その被疑者元少年を実名報道した上で「今回逮捕された元少年は両親が日本共産党党員で、29年前の事件では監禁場所として自宅を提供した人物。刑事裁判では懲役4年以上6年以下の不定期刑判決を受けた」即ち元少年Cであること、元週刊文春記者の勝谷誠彦のコメントを報道している。
なお『デイリー新潮』『週刊新潮』以外の報道機関(『朝日新聞』および共同通信社配信の『産経新聞』・『日本経済新聞』両紙・JNNニュース)においては、被疑者・元少年Cの実名報道こそ行われたものの、本事件の前科については一切触れられていない。


女子高生を拉致監禁して強姦したり激しい暴力を加えるなどして死に至らしめた事件だが、殺人・猥褻目的略取誘拐・逮捕監禁・強姦などの各罪状で逮捕されたのは4人の少年だった。
しかし現場となった家は事件以前より不良グループのたまり場となっており、さらにその少年達は暴力団などとも関わりがあって、1ヶ月以上に亘った監禁期間にその家に出入りした人物は100人近くいて、強姦に加わったのは20人近くいるとも言われている。
さらに現場には2名ほど女性がいて積極的に事件に関与していたが逮捕には至らなかったという情報もある。

下記のとおり、裁判に基づく事件当初の詳しい記述にも逮捕された少年4人(A・B・C・D)以外にもEやFという人物が登場している。
しかしながらEやFは逮捕されなかったということになる。

少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、同月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた。
その際、
Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装って少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取り、AがBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨て、E・F・Dの順に少女を強姦した。
その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部にマッチの軸木を挿入して火をつけるなどの凌辱に及び、少女が熱がるのを見て仲間らで面白がるなどした。


ちなみに逮捕された4人の少年(当時)はすでにいずれも出所していて、3人は出所後に犯罪を犯していることが判明している。



共産党員というだけで意味ありげに取り上げられてしまうのは、共産党にとっては迷惑な話かもしれない。
そうでなくても第二次世界大戦後の国際社会、とりわけ左翼がテロを含めて派手な事件を起こした日本では、共産党に良い印象を抱かない人も少なくはないだろうと思う。
本来ならば「民主化・非軍事化」の旗手になるべく政党で、だからこそ期待したり活動に参加した人もいるんだろうけれども、どこかで歯車が狂ってしまったとしか言いようがない。
正の部分も負の部分も第二次世界大戦が落とした影に呑みこまれてしまった観がある。


「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」という言葉があるが、それにちなんでこんな言葉どうだろうか。
「日本に烏の鳴かぬ日はあれど、無党派に会わない日はない」
それくらい現代の日本では無党派や政治無関心派、見切り派、委棄派が多い。
選挙で各選挙区から立候補する共産党候補を見れば、「どうせ当選しないのによく出るよなぁ」と思う人もいるのではないだろうか。
確固たる支持がない無党派や政治無関心派がもし票を投じるとすれば、当選しそうな人に投じると思う。
自分が票を入れた人が当選しないなんて、投票という労力が無駄になった感じがするし、自分が否定されたような気持になる人もいるだろうと思う。
つまりいつも得票が少ないと無党派からの票を得られないという悪循環に陥るわけである。

それくらい無党派や政治無関心派が多い日本で、無党派や最大政党ではなく共産党という少数派が間接的であるにせよ話題となった大事件に関係していたということになれば、やっぱり色眼鏡で見られてしまうのである。
母数に対する件数という確率的な視点である。(厳密な統計ではなくあくまでも個々の印象に過ぎないものだけれども)
あとは目立つ事件に関係していれば、それだけで不利になる。それは反対の事象(目立って有利になる)を考えても分かることである。


赤坂御用地の石垣に落書きがあったら、けしからんということで、器物損壊の疑いで捜査するけれど、東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に、バンクシーの作品に似た落書きがあれば、捜査はされず、それどころか歓喜し、撤去したらしたで怒りを買い、一般公開までする始末。誰が書いたか分からないのに。
平等に器物損壊容疑で捜査しなさい!と思う。
世の中結局、名声と金か。という失望と落胆を世間にじんわり広げることに一役買った。
赤坂御用地の落書きは不利側に属するし、パンクシーに似た落書きは有利側に属する。



親が共産党員だったということで、私は1つ思い出すことがある。
1985年8月12日、日本航空123便の墜落事故の犠牲者と生存者である。
500人を超える犠牲者を出したが、奇跡的にも4人の生存者がいた。子供2人を含み、全員女性だった。
生存者の中の1人で当時12歳だった女の子がいたが、一緒に搭乗していた両親と妹は亡くなった。(部活があり北海道旅行に行かなかった兄も生き残った)
彼女の父親が共産党で元町議(島根県簸川郡大社町)だったそうなのだ。
そして母親は保健師だったという。(保健師は看護師資格も持っている)
生存者となった少女は後に看護師になったという。
簸川郡大社町は出雲大社の鳥居前町であり、現在は出雲市大社町となっている。

日本共産党吉川市委員会の広報誌(リンク先はPDF)より
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2013年6月13日
あの御巣鷹の峰の灼熱の夏から28年。日航機123便墜落で、奇跡の生還を遂げた子を救助した男は今!


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 また、8月が巡ってくると、あの灼熱の、身を焦がすような夏を、思い出す。
 今から28年前。1985年8月12日。日航機123便は、通常の航路を大きくはずれ、群馬県の山中深くに墜落し、機体は激突し、バラバラに、飛散。
520人もの命が、亡くなった。

 私も、逮捕のⅩデーが近いと、噂されていた三浦和義の住むマンション前での張り込みを中止。ともかく、上野村へと向かった。

 上の写真の川上慶子ちゃん(左側)が、翌日、奇跡的に救出され、自衛隊のヘリコプターへと運ばれたことは、御巣鷹の峰へと向かう途中で知った。
 墜落現場は、息をのむばかりの光景が、広がっていた。そこへ辿り着くまでも、大変だった。道が、無いのだ。
 油断すると、ずるっと滑って、谷底のようなところへ、転げ落ちる危険性一杯。
 墜落現場も、傾斜度が高く、人間の肉の焼け焦げた臭いが、辺り一面に漂っていた。
 写真を撮りまくり、見たままの状況をメモ。自衛隊のヘリが、舞い上がるたび、土とあらゆる小片も、舞った。
 機体の破片は、触ると、ぺらぺらと薄く、まるで厚紙のようだった。

 数日立つと、鼻も感覚も慣れ、人間の肉の破片のそばで、平気で、旅館で作ってもらった握り飯を食べ、お茶も飲めるようになってしまった。
 そいう自分に半ば、驚きつつも、数日過ぎには、藤岡市などの体育館にある遺体安置所や、他の遺族と離れて、別荘にいた故・坂本九の遺族を追ったりした。

 ぎらぎらと照りつける、真夏の太陽の皮膚感覚は、今も、残っている。

 東京に戻った私は、日航を取材。ひたすら、ボーイング社に機体の原因を押し付けるかのように逃げ回る姿には、怒りがふつふつと湧いた。

 あれから、あの現場には1度も行っていない。
 あの道なき山道は、きれいに整地され、誰でも登れるようになっているというし、碑も出来ているのは、報道で知っている。

 川上慶子のその後は、気になっていた。
 しかし、その姿を追ってまで、する気はなかった。
 あの凄惨な現場を、この目で何日も見てしまったら、彼女に何か聞くのは酷に思われた。

 情報によれば、帰郷した彼女は、島根県大社町に住む祖母のキミエさんの元に引き取られ、たまたま飛行機に乗る事無く生き残った、兄の千春さんと3人で暮らすことに。
 その後、島根県下でも名門と言われる、県立大社高校に合格。

 やがて、亡くなった母と同じく医療関係の道に進んで、他人の命を救いたいと、看護師の資格を取るべく、大阪にある看護系の、藍野学院短期大学に進む。
 平成6年4月。看護師の国家試験に合格。
 あの阪神&淡路大震災の時には、兵庫県尼崎市内の病院で、内科の看護婦として、救援活動に参加。

 やがて、アメリカへ旅行に行った際に、5歳年下の日本人サラリーマンと知り合い、帰国後平成15年3月に結婚式を挙げた。
 少なくとも、1人の男児(長男)か、それ以上を産み、今は、四国のある町で、親子して、幸せにひっそりと暮らしているという。
 看護師も、辞め、専業主婦となっていたが、今は全国的に看護師不足。
 ひょっとしたら、看護師の経験を生かして、三陸沖大津波地震の被災者支援の1員として、参加したかもしれない。

 すでに、40歳。あの時のコトは、マスコミに話すことは、おそらく一生無いであろう。

 そうして、私には、長らく気になっている人物が、もう1人いた。

 写真の、川上慶子ちゃんを救助し、ヘリコプターへと引き揚げた隊員(写真右側)だ。
 今、どうしていて、「あの時」「あの瞬間のコト」を、今、どう感じているんだろう?
 数年前、風の便りに、定年退官したらしいと、耳にした。

 現役自衛官時代ならば、「仕事でしたから」とか、「職務上、知りえた事実は・・・」とか、紋切り型で断る理由づけは出来ても、退官後ならば、少しは斬り込んでいける余地が、あるのではないか?
 そう、思った。

 なんでそう、堅い考えを、と思われる方もいるだろう。
 実は、その自衛官は、あの時のことを、そののち、一言も、誰にも語っていないというのだ。
 あの日航機墜落事件の救助ぶりを、時代を振り返ることも兼ねて、自衛隊の広報紙にまとめようとした際も、コメントを拒否。
 また、同僚や、隊の後輩にも、いまだかつて、何も話していないという。それどころか、なんと奥さんにすら、クチを閉じて、語っていないらしいと言うのだ。
 こりゃ、とんでもない壁。打ち崩すのは、骨が折れそうだ。

 探しまくって、退官後は、ある大学の警備員として働いていることが、判明。

 いざ、勝負! という気持ちで、大学の門をくぐった。
 警備室で、その人の名を告げる。
 「はい、私ですが」と、出てきたのは、良く日焼けした、精悍な顔つきの、身体のガッチリとした長身の人。まぎれもない、あの写真の人だった。
 28年前より、老けてはいたが、気さくさは微塵も感じられない。
 コトの次第を察知した、他の警備員は部屋を出ていった。
 聞きたいことを、端的に告げた。お時間をとらせないので、お仕事が終わった後、どこかでお待ちします。
 もしくは、後日、日時を決めて、ゆっくりお話しをお聞かせ願えれば・・・。

 結論をいうと、そのどちらも、かたくなに断られた。
 職務上・・・・とか、そんな理由では、なかった。

 「ここまでわざわざ遠くまで来ていただいて、申し訳ないのですが、あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」

 「何か、話せば・・・・・520人もの、お命があの場でお亡くなりになった。その方たちの霊を汚すと言うか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならんのですよ」

 いや、私も実はあの現場に行ってますので、お気持ちはわからないでもありませんが
 そう、水を向けても、何の反応もない

 「古い人間なのかも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しすることは、おそらく、無いと思います」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ではと、短く聞いた。

 その後、川上慶子さんと、お逢いになったことは?
 「いえ、1度もありません」

 年賀状程度の、やり取りは?
 「それも、ありません」

 今、彼女は結婚して、子育てしているようですが
 「そのようですね。どこかで、見聞きしたような記憶があります」

 今、何か、彼女に言うとすれば・・・・
 「まあ、幸せであってくれればいいなと・・・・・・・そう思います」

 彼は、今は仕事を終えると、子供たちに武術らしきものを教えているらしい。あの、12歳のときの川上慶子ちゃんたち世代を。
 今もっての、あの身体付きは、そういう日々があってのものか。

 それにしても、28年もの、積み重ねた日々。
 あの現場には、彼もまた、再び足を運んではいない。

 今も、あの時のことは、いまもって重く・・・・・あの夏の8・12、
そして救助した8・13・・・・・・

 ココロの奥深く、合掌を・・・・・・・・・

 旧姓・川上慶子さんに、この1文を捧げたい。

 どこかで、ふと、目にしていただいたら、望外の幸せです




1年後・・・・・・・


2014年8月12日
あの御巣鷹の峰の灼熱の夏から29年目の今日。川上慶子ちゃんを自衛隊機に乗せた男に、騙された

 人は、平気でウソをつく。
 どんな事情があったにせよ、ウソをつく。
 そんな人物を信じた自分・・・・・・

 あの、29年前の今日。群馬県と長野県の県境にある、御巣鷹の峰に、墜落した、日航機123便。
 520人もの、航空機としては、日本最大の事故死者。
 生き残った、奇跡と言って良い乗客4人。
 そのなかの1人、川上慶子ちゃん。当時12歳。

 その子を、任務とはいえ、救いあげ、自衛隊機に搬入した隊員に、話しを聞きたく、昨年6月。やっと探し当てた、彼の勤務先へと向かい、当時の感想、気持ちを聞こうとした、 そのいきさつ、一部始終を、書いたのが昨年。

 彼の言う言葉は、重かった。
 いや、今となっては、そう「誤解」した。そう言うべきが、正しい。

 取材拒否をしたのは、おそらく、私だけではあるまい。
 なにしろ、自衛隊の広報紙のインタビューすら、拒否した硬骨漢。それが、今夜、放送されたフジテレビの特番に、なんと堂々とVTR出演。

 その時のことを、しゃべっていた!
この口先三寸のうそつき裏切り者めが!という思いは、自衛隊の広報紙の人間も、第一空てい団の後輩隊員もしているはずだ。

 一体、昨年の発言は、なんだったのだろう・・・・。

「あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」
「何か話せば、・・・・・520人ものお命が、あの場でお亡くなりになった、その方たちの霊を汚すというか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならないんですよ」

 そして、こうも言った。
「古い人間かも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しするということは、おそらく無いと思います」

 たしかに「おそらく」という、言葉はあった。

 だが、しかし・・・・・
 わずか、1年での、心境の変化か・・・・

 見事に、彼の言葉を借りるならば、「520人もの霊を汚した」

 彼、作間優一(さくま・ゆういち)の言葉を信じたからこそ、昨年の記事には、彼の名前も出さずにおいた。
 あえて、その意をくみ、顔写真も撮らずに辞した。
 今、その気持ちの変化や、言い訳を聞く耳は無い。
 テレビクルーの熱意にほだされて、とも思えない。
 わずかな額の謝礼に目がくらんだとも、思いたくない。

 現在、65歳。

 となれば、東京湾に近い、工業大学校舎の警備員の定年が、65歳と聞いていたので、年金の足しにか、ヒマになってか・・・
自衛隊から、ここの警備員の職に就くルートは、出来上がっている。

 昨年聞いた、警備員仲間の言によれば、作間の妻が、長年、病に伏せっているとのこと。その容態の変化が、霊を汚すキッカケになったのであろうか・・・

 当時の上司もチラリと出ていた。
となれば、隊経由の、どうしても断り切れないVTR取材だったのであろうか?と、最後の「協力」の部分のエンドロールをつぶさに見たが、自衛隊の自の1文字も、見かけなかった。

 やはり、作間個人の自由意思でか・・・

 人は、平気でウソをつく。
 人は、平気で520人もの死者の霊を、おのれの理屈で汚す。

 今、自分の甘さを悔いるとともに、そのことを痛感している。

 改めて、29年も前。あの猛暑の御巣鷹の峰で命を絶えた方々に、謹んで、心より、祈りを捧げたい






by yumimi61 | 2019-06-25 16:21