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2019年 07月 30日 ( 1 )

コンモト



またまた『涙はロンド』より
 執念深い
 執念深いという言葉はあまり良い響きをもっていませんが、私は非常に勝ち気で「悔しい」なんてことは人一倍覚えているのです。
 だから、八年前ある先生が「どこの馬の骨に二百万円も出すんだ」と校長に食ってかかった時、校長に食ってかかったということは私に言ったってことでしょう。それを今もって腹の中に抱いています。
 あの時、社会科の先生ですけれど「オレたちは五年も前から世界大地図を校長に頼んでいるのに、まだ買ってもらえない。あんなの八千円くらいで買えるんですよ、校長!吹奏楽は二百万ですよ、どういうことですか、これは!」と言うんですよ。
 考えてみれば八千円のものを買ってやらないでいきなり二百万ですからね。
 それに、もうひとつ「吹奏楽ってえのは、オーボエが五十万だ六十万だと言ったって、ひとりしか吹けないじゃないか。印刷機、前から調子悪いのにちっとも買いかえてくれない。印刷機は一台で全校の生徒が恩恵を受けられるんです。どっちが重要だと思いますか」と、そういう論法なんです。皆さんも、きっとそういう場面に出合うことがあると思いますが、その時に私が答えのは「いや、オーボエという楽器は確かにひとりの生徒しか吹けないが、私たちは機会あるごとに演奏します。そうすれば、その音色は千二百人の生徒のひとりひとりの心の中に染み入っていくことでしょう。それは印刷して配られた紙と同じではないでしょうか」と反論したのです。
 そういう風に、実際に生徒が物として触れなければ役になっていないんだという考え方、これは間違いです。
 我々、日本人は知識の方ばかりを重視して、頭の良い生徒イコールいい生徒だとしてしまいがちです。そして、いい音楽を聴いたりいい絵を見たりして涙を流して感動するような生徒たちの評価というのは割合ないのです。それではいけないのです。知識と同じように、感動の評価もしてあげれなければいけない、そう思います。


・どうして世界大地図と印刷機を買ってからではダメだったのか、むしろそれが不思議。
校長先生がポケットマネーで出すならともかく、県立高校だし、金銭感覚をないがしろにしてよい学校でもないと思う・・・。
授業や学校運営に使うものに費用を捻出できないのに、1つの部活動にポンとお金を出せるのは何故なのか。
運動部にしても吹奏楽部にしても、全国大会に出場して優勝でもすれば、学校の名が挙がり有名になれるから?
指導者の誇りを満たせるものだから?

・立派な楽器がなければ高校生の心が育めないと思っているならば、それは違うと私は思う。

・感動の評価とは、「感動させる力」を評価するということだろうか、「感動する力」を評価するということだろうか。
感動は’評価’に値するものなんだろうか。’感動’は計れるものなんだろうか。
全国大会の成績=感動値、なのか。
金賞とったら体育が5になるのは、吹奏楽部の生徒が「感動する生徒」たちで、他の生徒は「感動しない生徒」だからなんだろうか。

・幼い子供は見てもらうのが好きである。
お父さんお母さんでも、おじいちゃんおばあちゃんでも、先生でも、お友達のママでも、近所のおばさんでも、「ねえ見てて」と言って何かして見せる。
幼い子供がすることだから、大人にとってはたいしたことではない。本当に些細なことだったりするけれど、子供は目を輝かせながら「見て見て」と言うのである。
大抵の大人は「わーすごいね」「出来るようになったんだね」と驚いたり褒めてあげたりする。大げさに言えば感動したふりをする。
これは定型のやり取りである。
大人に見てもらったら丸ごと承認されることを子供も半分知っている。知っていてやるのだ。
注目してもらい、承認をもらい、子供は安心感と自己肯定感を得る。そうやって根拠のない自信を育んでいく。

・自己肯定感とはあるがままの自分の価値を認める感情。「自分は愛されている」「何をしなくても存在するだけで価値がある」と思えるのが自己肯定感である。

・幼い子供の「見て見て」からの自己肯定感獲得は条件反射みたいなものであろう。
<パプロフの犬>という有名な実験がある。
パブロフという研究者が犬の唾液分泌について調べていた。
餌を与える自分や飼育員の足音を聞くだけで犬の唾液分泌量が増えることにパブロフは気付いた。
これは持って生まれた生理的な反射ではなく、経験や訓練によって獲得する反射行動とされている。
  ①子供「見て見て」→②大人が見て褒めてくれる→③自己肯定感
これを繰り返すことによって、やがては①②をしなくても、自己肯定感を持てるようになる。
もちろん特別な行動や言葉がなくても日常生活の中から受け身的に自己肯定感を獲得したりもするが、「見て見て」という子供の行動は積極的に自己肯定感を育てるチャンスでもある。

・ちょっとややこしいのだが、子供を条件付きに褒めたのでは自己肯定感は育まれないとも言われる。
何かノルマを達成した時だけ褒める、何かがとても上手に出来た時だけ褒める、良い成績を収めた時だけ褒める、言うなれば大人がリードする褒めである。(見て見ては子供がリードする)
これでは何か特別なことがないと自分は認められないのだと思ってしまう。
あるがままの自分の価値を認める自己肯定感に対し、こちらは自己重要感と言う。
何か特別な能力を身に付けた自分に価値を認める感情である。
大人の地位や肩書なんてものも、この自己重要感に関わるものである。
  ①何か達成して褒められる経験→②自己重要感→③褒められるようにまた頑張る
この場合、①がなくなると、②③を維持しにくい。自己肯定感とはそこが大きく違う。

・自己肯定感が低く、自己重要感が高い人の場合、何か特別なことが出来る自分に価値があるという思いに支配されるようになる。
そして、価値がある自分が何でもコントロール出来るという少々歪んだ認識を持つようにもなる。
これを心理学においては全能感(万能感)と言う。
心理学用語で、「自分が何でもできる」という感覚を意味する語。特に子どもの発達段階において、しばしば見られる現象である。躁病や自己愛性パーソナリティ障害の構成要素の一つとされることもあり、自身の能力を過大評価してこの感覚を持つことによって、対人関係などに問題が生じる場合もある。万能感とも言う。

・「見て見て」と言っていた子供も次第に「見ないで」に変わっていくのが通常の発達過程である。
見られていなくても「自分は大人に愛されている」「何をしなくても存在するだけで価値がある」という一定の自己肯定感を獲得し、今度は「自分は他の人とは違うんだ」「自分は自分なんだ」という自我を確立させていく。
「自分は他の人とは違うんだ」というのは全能感から来るものではなく、良くも悪くも違いを認識するということである。人は誰一人同じではない。

・自我の確立を経て、自分と他人の違いを認識し、見えない壁を作ったり、見えない線を引くわけだが、その違いを超えて再結合するのが恋愛であったり結婚だったりするのかもしれない。

・現代社会は承認欲求が肥大化した社会であると言われる。
幼い子供だけでなく、大人までが常に承認を求め、誰かに認めてもらいたがっているという。
これは自己肯定感の欠如なんだろうか、それとも自己重要感を獲得したいということなんだろうか。





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by yumimi61 | 2019-07-30 17:20