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2019年 08月 01日 ( 1 )

エアコン

「ハングリー」と「ゆとり」

「ハングリー」と「ゆとり」、まるで正反対な立場のようなのに、どちらも努力が大事?

今回もまた『涙はロンド』より。
 努力と言うと、またかと言うが
 先ほど執念という話をしましたけれど、「今に見てろ」「ようし!」「ちくしょう!」とか、そういったものを腹の中に持って毎日の努力をしていくということが、いってみれば大切なことだと思います。


ハングリー精神という言葉がある。
ハングリー(hungry)は、空腹なこと、飢えていることである。
生理的な飢えの他、精神的な意味合いでも使う。

スティーブ・ジョブズ氏が2005年スタンフォード大学の卒業式に招かれ、スピーチで"Stay hungry, stay foolish"と語った。
’hungry’や’foolish’は、飢えと愚かさ。
’foolish’は知能が低い、知識がない、頭が悪いという意味ではない。世界大学ランキングの上位校で世界中から優秀な学生が集まり、合格も極めて難しいとされるスタンフォード大学の卒業式で使ったくらいだから、それはそうだろう。
意識的に愚かであれということである。簡単に常識的な選択をするな、王道を行くなというような。
ということはですよ、スタンフォード大学に進学して卒業するなんてことは、"Stay hungry, stay foolish"とは程遠い感じがしますね。そうでもないですか?

一方日本ではその頃「ゆとり教育」が行われていた。
「ゆとり教育」は正式名称ではなく、実は始まりや期間には諸説ある。
狭義には2002年~2010年代初頭まで行われていた教育。

=狭義の「ゆとり教育」の方針=
① 豊かな人間性や社会性,国際社会に生きる日本人としての自覚の育成を重視すること。
② 多くの知識を一方的に教え込む教育を転換し,子どもたちの自ら学び自ら考える力の育成を重視すること。
③ ゆとりのある教育活動を展開する中で,基礎・基本の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実を図ること。
④ 各学校が創意工夫を生かし特色ある教育,特色ある学校づくりを進めること

ゆとり教育は、1980年度から施行された学習指導要領による教育方針であるが、1992年度から施行された新学力観に基づく教育や、2002年度から施行された「生きる力」を重視する教育をゆとり教育であると定義する人もいる。

1970年代までに学習量が過剰に増大した学校教育は「詰め込み教育」と呼ばれ、知識の暗記を重視したため「なぜそうなるのか」といった疑問や創造力の欠如が問題視され、このような学習方法はテストが終われば忘れてしまう学力(剥落学力)であると批判された。このため思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型、過程重視型の教育方針が求められた。

また、加熱した「受験競争」により学校教育においても学力偏差値が重視されるようになったが、1992年に公立中学校で偏差値による進路指導が禁止され、1993年には中学校校内にて実施する一斉業者テストが禁止された。また過剰に競争をさせたり、過剰に自由を奪う学校のあり方は子供のストレスや非行などの学校をとりまく諸問題の要因だとして「子供を学校に縛り付けている」「子供にも自由が必要」などの批判を受けた。

2002年度施行の学習指導要領では「生きる力」への転換重視「総合的な学習の時間」をはじめとして各教科で「調べ学習」など思考力を付けることを目指した学習内容が多く盛り込まれた。教科書では実験、観察、調査、研究、発表、討論などが多く盛り込まれ、受け身の学習から能動的な学習、発信型の学習への転換が図られた。


では実際、何年生まれの人が狭義の「ゆとり教育」世代なのかと言うと、、、
移行期を含めない純ゆとり教育期間が含まれる年代は、1987年生まれ~2001年生まれ。
純ゆとり教育期間に教育を受けたのが一番長いのは、1993年~1995年(厳密に言うと1996年4月1日まで)生まれの人である。

・1993年生まれ 小3~高3の10年
・1994年生まれ 小2~高3(中2のみ移行期に該当)の10年
・1995年生まれ 小1~高3(中2と中3のみ移行期に該当)の10年

うちの長男は1995年生まれで、中学校の卒業式の日に東日本大震災が発生した。
つまりこの1993年~1995年生まれの人は、ある種異様な社会空気の中で高校生活を送った世代でもある。

ゆとり教育では、授業時間を減らし、相対的評価から絶対的評価に変わった。
同じ学校の同じ学年または同じクラスの同級生と比較して評価を付けるのではなく、個人の目標に達しさえすれば、通知表の評価が上がるようになった。
簡単に例えれば、テストで90点採っても評価4の子供もいれば、テストで50点採っても評価4の子供もいるということになる。
いわゆる「努力」を評価する比重が高まった。
努力を軸にすれば平等かもしれないが(努力が見えるのか計れるのかという問題もあるが)、点数という軸では全然平等ではないのが、絶対評価である。
結果、学力が低下し、ゆとり教育は失敗だったと言われるようになる。
学力の低下というのは、当然に評定平均ではなく、全国学力テストの結果である。
絶対評価で個々の評価は上がっても(もちろんその逆で相対的に成績が良くても個人の評価が上がらない人もいる)、全体的な学力は落ちたということなんだろう。

また「ゆとり教育」のもとでは平等という考えが非常に強まり、徒競走などで順位を付けないとか、誰か一人が主役になるような学芸会などは行わないなど、過度に競争を避ける傾向も強くなった。
結果として競走社会である現実社会と学校という場に大きな乖離が生じてしまった。
「学校教育のゆとり」と「平等の物足りなさ」から、塾にしても習い事にしても子供達はどんどん学校の外に出て行った。
褒めて伸ばす教育というようなことが盛んに持て囃され流行しだしのも「ゆとり教育」の頃だと思うが、これも少々間違えた解釈で使われるようになり、自己肯定感ではなく自己重要感の比重が大きくなってしまった。


吹奏楽部はハングリーだったのか?

他のものを抑えて赴任そうそうに200万円もの予算を付けてもらった吹奏楽部(大木先生)は客観的に見てハングリーと言えるんだろうか。そうは思えない。

だとするならば、「今に見てろ」「ようし!」「ちくしょう!」は、他の教員に文句を付けられたことに対する個人的な恨み。
あるいは、音楽が一般的には受験の教科ではないため、主要教科から外れたところの教員であることを余儀なくされていることへの積年の恨み。
あるいは、頭の良さでも、チヤホヤされる運動部でもない、文化部を率いている者として、文化部を卑下する社会に対する恨み。
あるいは高い楽器を個人で購入出来る人と出来ない人がいるという格差への恨み。

恨みや怒りは時に大きなエネルギーになる。

「怒りがすべてのモチベーションだった。怒りがなければ何も成し遂げられなかった」と語ったのは、青色発光ダイオード(LED)の開発で2014年にノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏。

恨みや怒りのエネルギーを、特定の誰かや何かに直接向けて言い返すとか乱暴を働たり危害を加えるといった行動をとるのではなく、もっと大きなものに向ける。
それが「見返す」という復讐であり、恨みや怒りのエネルギーで以って目指すものが大きければ大きいほど見返しの度合いも大きくなる(と本人は感じているはず)。昇華の一種だと思う。
すなわち高く強い権威や権力に認められること、ひいては社会に肯定され称賛されることが一番の見返しとなりやすい。
直接的に何か犯罪行為を行う復讐ではなく、昇華させるわけだから、それはそれでとても意味があるとは思う。
ただ恨みや怒りがエネルギーの源になっているので、平常心や理性を失ってしまい、「どんな手を使っても見返してやる」というようなことも起きかねないし、恨みや怒りのエネルギーで社会を振り回すことにもなる。

恨みや怒りのエネルギーを社会に向けて何か行動を起こす。
その一方は賞レースに勝ってチヤホヤされるというような昇華であるが、その反対を考えれば誰でもよかった無差別殺人なんかにも当てはまりそうな感じがする。


努力ってなんだろう

 初めに、本日の話は「努力」という話で結論を出すと言いました。・・・努力というのは、毎日五時間も六時間も全力で頑張って、一年三百六十五日毎日ですよ、それを努力して五年。五年間やって、それでも出来なかったら「私には才能がなかった」「私は運が悪かった」と口にしても良いと思いますが、二ヶ月や三ヶ月やって出来ないからと言って「親からの遺伝だからしょうがない」(笑)そういう風に言うのは、とってもみじめなことです。毎日、死ぬほどの努力をして五年。松平さんは十年と言いました。彼は世界一ですからそうでしょう。
 五年やってうまく行かなかったら、これは方向転換を考えるのも仕方ないと思うけれど、二ヶ月や三ヶ月やっただけで「運が悪かった」「才能がなかった」なんていうのは負け犬の言うことで、本当の努力はしてないのです。努力していない人に限って、全国優勝したとかって聞くと「運が良かったねぇ」なんてホザくんです。川上元監督が言っています。「あれほどの努力を人は運と言い」川上さんは九年連続プロ野球で日本一となった人です。あの人が「運が良かったね」なんて言われたんでしょうね。あれだけ努力して取った日本一なのに人は運と言った。「あれほどの努力を人は運と言い」・・・・残念だったでしょうね。


ブリタニカ国際大百科事典
・一般的には,外的な誘因よりも意志または意図によって維持される心的,身体的な活動と,その際に生じる主観的な緊張感をさす。

デジタル大辞泉
・ある目的のために力を尽くして励むこと。

大辞林
・心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。

精選版 日本国語大辞典
・力をこめて事をすること。あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。また、それに用いる力。

辞書を読んでも、同じような違うような説明が書かれている。
「努力した」と言うのに必須な要件はあるのかないのか、あるとしたらそれは何なのか?
意思や意図なのか、力なのか、心なのか、休んだり怠けたりしないことなのか・・・分かったような分からないような・・
頑張ること、根性、熱中、継続、苦労、そうしたものとほぼ同じなのか、それとも全然違うのか・・
努力って結構曖昧。

もっとも『涙はロンド』は1981年に書かれたものであり、38年も前のものだ。
よって「時代が違う」の一言で片づけられそうである。
(とは言っても絶対評価は努力が重視されるわけだから、そう古臭い話でもない気もするけど)

私が中学高校の頃、卒業する時に友達や先生にサイン帳を書いてもらうというのが流行っていた。もっと後の年代はプロフィール帳になったらしい。
私の高校卒業時のサイン帳にとある男性教師が’突破’と’努力’と書いてくれた。
体育の教師であったが、担任だった時もあった。部活動では陸上部の顧問をしていたが当時の陸上部は(私の記憶では)数名しか部員がいなくて可哀想なくらいだった。

作家の村上春樹氏は、努力という言葉が好きではないと何かに書いていた。日本人は明けても暮れても努力という言葉が好きで呆れるとか辟易するとかいうような感じで。
ーあれは努力じゃなくてただの労働だ。俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ。ー『ノルウェイの森』より

意図や意思によって維持されるもの、主体的に目的的に行うこと。
運ばれるもの、与えられるもの、授けられるもの。


(努力の話はまだ続くのですが、明日になります)






by yumimi61 | 2019-08-01 17:45