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2019年 08月 02日 ( 1 )

スイコン

最小努力の法則

目標を達成するためには、通常幾つかの方法が存在する。
人間は結果的に最も少ない努力で到達できる方法を選択する、というのが最小努力の法則である。
言い換えると、目標を達成する方法は最小努力で済む方法が選ばれるべきであるということにもなる。(効率の良さ)

次の実験は、最小努力の動物実験として知られている。

ガラスの仕切り板を挟んで、片側には空腹の動物、片側に好物の餌を置く。
ガラスで仕切られているものの、完全な仕切りではなく端の方には抜け穴がある。つまり周囲を見回し、少し遠回りすれば、餌に有り付ける状況。
動物はまずガラスの仕切り板に気付かず餌に直進して激突してしまう。ガラスに阻まれて餌の所まで辿り着かない。
愚かな動物は何度も同じ過ちを繰り返すが、当然餌にはあり着けない。学習しないということである。(もっとも力の強い動物と強度の弱いガラスの組み合わせならば、繰り返しの衝突で強行突破できることもあるかもしれないけれど)
しかし賢い動物は、一度あるいは数回ガラスにぶつかった段階で、他の方法を考える。そして直進するのではなく端に迂回すれば餌に到達できることに気づいて、餌に辿り着くことが出来る。


直進して何度も何度もガラスに衝突することも、一旦立ち止まり周囲を見回して迂回路を発見することも、ともに前進を選択していることには変わりない。
前進しようとしていることを「努力」とするならば、どちらの動物も「努力」をしている。でも結果は違う。
直進して何度も何度もガラスに体当たりするのは、「最小努力」ではない。
動く距離こそ短いかもしれないが、繰り返しと体当たりには大きなエネルギーが必要でダメージも伴う。いつかは力尽きて動けなくなってしまう。


パレート(不均衡)の法則

イタリアの経済学者ヴィルフレート・パレートが1897年に発見した法則。
パレートは、イタリアの国土の80%が人口の20%の人々によって所有されているという事実に気づいたのだった。
そこでこの不均衡の研究を始めると、社会の所得の約8割は2割の高額所得者が占めているという所得分布のほか、様々なものに当てはまることが分かった。

そして50年以上経ってから、ジョセフ・ジュランというルーマニア生まれの品質管理工学者(品質管理の世界的第一人者)がこの考え方をビジネスに応用して「パレートの法則」と名づけた。
品質管理の専門家であるため品質管理からのアプローチであり、製造不良の大半は、数ある原因の中のほんの一部に起因していると説明したのである。
戦後の日本の工業製品の品質向上に大きく貢献した人物と言われている。

【パレートの法則の例】
・会社の生産量の80%は、全従業員の20%がもたらしている。
・20%の商品が、総売上の80%を稼ぎ出す。
・20%の上得意客が、総売上の80%をもたらしている。
・持ち時間の20%で、成果の80%を生み出す。
・サイト訪問者の上位20%が、アクセス総数の80%を占めている。
・納税者の上位20%が、税金総額の80%を負担している。


例では80%と20%と記されているが、パレートの法則自体は、80:20と明確に分かれるものではない。
ジュランは「肝心な少数と取るに足らない大多数」と表現している。
「投入」にしても「原因」にしても「努力」にしても、ほんの僅かな部分が、「産出」「結果」「報酬」の大部分をもたらすことになる、ということである。


働きアリの法則

パレートの法則から派生した法則。2-6-2の法則ともいう。

●働きアリのうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。(←パレートの法則)
・働きアリのうち、本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割のアリはサボっている。
・よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
・よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働くアリになり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
・よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。
・サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
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このアリの現象は、反応閾値によるものだという研究報告がなされた。
反応の良い(反応閾値が低い)アリほど一生懸命に働くハチだそう。

イソップ寓話を持ち出すまでもなく働き者としてのイメージが強い、アリ――。そんな“定説”に一石を投じる『働かないアリに意義がある』がいま話題になっている。著者である長谷川英祐さんに、アリが示唆する組織のあり方について聞いた。TKCグループ 戦略経営者(2012年1月号より)

――おととし12月に出版されたご著書である『働かないアリに意義がある』が10刷を超えるベストセラーになっています。そもそもどんな経緯でこの本は生まれたのでしょうか。

長谷川 働かないアリの研究は以前からやっていて「働かないアリだけを集めると一部は働くようになる」という研究結果を学会で発表すると反響が大きく、新聞の取材を受けたりしていました。それで「常に働かないアリがいないとコロニー(集団)が長続きしない」という学会での発表を聞きつけた出版社から、執筆の打診を受けたのがきっかけです。
 なぜかよくわからないのですが、働かないアリの話はとにかく一般の人に受けがいい。この本の内容は完全に生物学の話題で、組織運営自体を論じているわけではありません。われわれが研究している基礎科学の領域は、すぐに世の中の役に立つことを研究しているわけではないので、多くの人たちに関心を持ってもらうことがとても重要です。本の表紙に“身につまされる最新生物学”とうたっているとおり、アリの世界でも人間社会同様、裏切りや戦争、はては過労死まであります。きっと読者の方々はアリの社会を人間社会に置き換えて読まれているのではないでしょうか……。


アリの法則はハチでも当てはまるそうである。

ハチによくある誤解が、生殖能力のある女王蜂がメスで、働き蜂がオスというのものだが、働き蜂も全てメスである。(これはアリでも同様)
働き蜂もメスだが交尾しての生殖能力はない。しかし女王蜂が死ぬと卵を産むことはある(無精卵)。この場合、生まれてくる蜂は全てオス。
では雄蜂はなにをやっているのかというと、女王蜂の交尾相手でしかない。それ以外の仕事は一切しない。だけど雄蜂も相当数いるので交尾できない雄蜂は働き蜂に追い出さてしまうとか。
このように蜂の世界は人間や他の動物と生態やコミュニティが全く違うので、蜂の世界の話をそのまま人間社会にあてはめるのは、残念ながら少々無理がある。


あなたが産まれてくれたことが幸せ、あなたが生きていることが幸せ

 毎日、三度三度飯を食って夜になったら寝るなんてことは、犬だってブタだってやってることです。そんなのはついでに生きているってことです。それでは人間として恥ずかしいじゃないですか!そして、皆さんにお願いしたいのは、努力した人を正しく評価して欲しいということです。


では、病気を持っていて、食べて寝ることしか出来ない人は、人間として恥ずかしい?
障害を持っていて、食べて寝る事しか出来ない人は、人間として恥ずかしい?
犬やブタはついでに生きている?
そんなことを言っているわけでも、言いたかったわけでもないのだろうと思う。
でもそういう批判が想像できなくもない文章である。

有意義じゃなければ、結果や成績を残さなければ、生きている資格がないのだろうか。
今日もご飯が食べられて良かったと、今日もぐっすり寝られて良かったと思うことはいけないことなんだろうか。
賞やメダルやお金が貰えなかったら、人間は幸せではないんだろうか。
パラリンピックに出て活躍するような障害者ばかりが持ち上げられるのは、彼らがついでに生きている人ではなくて、そうでない障害者はついでに生きているような人だからなんだろうか。

どんな人にだって困難や悩みはあるはずで、それを乗り越えて成し遂げられた目標は、みなそれぞれに価値があると思う。
でも大きな努力が優れた結果をもたらすとは限らないのも事実。
ガラス板に何度も衝突するように大きなエネルギーが必要でダメージも伴い死んでしまうような努力が最大限評価されて、最善の方法を尽くした最小努力は評価に値しないというのもおかしな話である。
努力した人を正しく評価するって、とっても難しい。


「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の誤用

古代ローマの詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスの著作『風刺詩集』の中の一節。
元はラテン語。orandum est, ut sit mens sana in corpore sano

一般には「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。

そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。

以上の背景から、単に「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」、つまり願い事には慎ましく心身の健康だけを祈るべきだという意味で紹介されることがあるが、それも厳密には誤りである。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対し誘惑に打ち克つ勇敢な精神を強く求めていたことが窺える。

その後しばらくは本来の正しい意味で使われていたが、近世になって世界規模の大戦が始まると状況は一変する。ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄しながら、軍国主義を推し進めた。その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなった。このような誤用に基づいたスローガンは現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界を始めとする体育会系分野において深く根付いている。『アシックス』はこの語をアレンジした頭文字を社名にしている。



理性と本能

 花が咲くと、花の部分しか見ないでしょう。そうではなくて、花が咲くためには根っこがあるんだってこと。私は自分の名前が大木という名前だからよく部員に「大木(タイボク)っていうのはなあ、ただ外見だけで判断してはいけない。枝だけ見て、枝振りがいいなんて言ってはいけない。その枝の何倍っていう根っこが、地中深く大地を支えているのに気づかなければいけない」と言います。
 白鳥が水に浮いているのを見て「ああ、白鳥がきれいだ」なんて言うけれど、水面の下では休みなく足が動いているんだっていう話、聞いたことがあるでしょう。それから、ソロ(独奏)をやっている人は非常に目立つけれど、ソロの陰で和音を支えている人が必ずいるのです。また満塁ホームランは打った人が拍手喝采をうけるけれど、その前に、一塁、二塁、三塁を埋めた選手がいるんだってこと。そういうことに心を配ってくれる人になってほしいと思います。


これはもっともなことだけれども、行き過ぎると、特に学校のようなところでは、「ソロはやめましょう」ということになる。
「ゆとり教育」のもと実際にそういうことが各地で起こった。

満塁ホームランは、一塁二塁三塁を埋めた選手がいなければ満塁ホームランにはならない。これももっともである。
でももしホームランを打つ選手がいなければ、満塁ホームランには絶対にならないのもまた事実である。
例えばワンアウトで併殺打だったり、ツーアウトで三振すれば、一塁二塁三塁の選手はホームベースを踏むことすらない。
ホームランは、例え走者が一人もいなかったとしても、すぐに1点入る。
ホームランってそれくらい威力があるという現実も片一方にある。

いくら平等を掲げても、結局人間や社会はそれでは満足しないのだ。
だから競うスポーツが好まれるのだし、受験戦争が加熱したんだし、本当の戦争だってなかなかなくならない。
「ゆとり教育」と言ったって、みな学校の外にゆとりではないものを求めた。
校外での競争に時間を割くためのゆとりだったのだと言われれば、まあそうなのかもしれないが。
人間は競って勝ったり優越感を持つことが本能レベルで好きなんじゃないかと思う。
それともそれは本能なんかじゃなくて、例えば子育てとか教育とか、何かをどこかで間違えた結果なんだろうか。


お礼回り?お礼参り?

 最後に・・・・・・・・
 私が常に生徒に言っている言葉です。
    生きているということは、だれかに借りを作ること
    生きて行くということは、その借りを返しにいくこと
 生きて行くということは、自分の意志が入るのです。ただ、のんべんだらりと飯を食って寝るというのでは、それはただ生きているということです。「生きて行く」という強い意志のにじみ出た生徒になれと常に言っています。


私はお金の借りは返したほうが良いと思うタイプですが、生きている中でうっかり(?)私に借りを作ってしまったと思っている人がいれば、その借りは返してくれなくても大丈夫です。




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by yumimi61 | 2019-08-02 15:42