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2019年 09月 10日 ( 1 )

コンジェスチョン

自殺2か月前のツイート
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あなたならどうですか?

自殺した高橋まつりさんのお母さんは、「命より大切な仕事はありません」と言いつつも、「自分の命より大切な愛する娘」とも言っている。

そこで私は考えてみた。
何を考えたかと言うと、「自分の命より大切な愛する娘」ということである。

1)自分は妊娠していて、自分のお腹の中には女の子がいたとする。
私はその胎児を愛している。胎児であっても私にとっては「大切な愛する娘」である。
だけど医師から「その子供を産んだら、あなたは死ぬかもしれません」と言われた。
「どれくらいの確率で死にますか?」と私は訊く。
この時、医師の返答が、「50%の確率です」だったなら・・・私は出産に臨むかもしれない。
だけど「99%死にます」とか「80~90%の確率で死にます」と言われれば・・・出産しない方を選ぶような気がする。
ということは、「大切な愛する娘」よりも「自分の命」を選択したことになる。「自分の命より大切な愛する娘」であるとは言えなくなるだろう。
しかもこれ、他にもすでに子供がいるかどうか、自分の代わりに子育てをしてくれる人がいるかどうかによっても選択は異なるだろう。
私的には胎児が男の子か女の子は関係ないと思う。

⇒動植物ならどうか?
親が生きようが死のうが、他のきょうだいがいようがいまいが、子育てする人がいてもいなくても、ちゃんと生まれ育つ保証があってもなくても、出来たものは生み落とすという選択肢しかない。


2)自分の子供が重病に罹患したとする。
救える可能性があるのは臓器移植のみで、母親である私が適任であることが分かった。
しかし医師はこうも言う。
「但し現在の医療技術ではお子さんにもあなたにも生命の危険が伴います」。
「生命の危険の確率は?」「ともに50%くらいです」
正直、このケースのするしないの選択は、いろんな意味で怖いし悩むと思う。
そしてこの場合、周囲の目を気にしたり、社会の雰囲気に流されたりしそうな気がする。
もっともこれも他にもすでに子供がいて、その子が何歳で、自分の代わりに子育てをしてくれる人がいるかどうかなどにも影響されるだろう。

⇒動植物ならどうか?
自然界では臓器移植なんかしない。
不幸にも病気になったら死んでいくしかない。
でもそこに人間が介在すれば、人間と同じような治療が行わることはある。だけど人間は動植物の意思なんか確認しない。人間本位、人間の都合で、するしないを決定する。

3)目の前で自分の子供が殺されそうになっているとする。
この場合にはすぐに抵抗するだろう。
あれこれと考えて行動を起こすということではなく、たぶん咄嗟に身体が動いたり声を発したりする。これはもう本能だと思う。

⇒動植物ならどうか?
動物も子供が幼いうちにはそうすると思う。
でもそれは動物の種類とか、オスとメスによっても違うのかもしれない。
植物は自分ではめったやたらに動けないし声も出せないから、そもそも不可能。自分の子供という区別もつかないかもしれない。

4)自分の子供が殺されたとする。
自分の命よりも大切な子を殺されたから、返り討ちや死刑覚悟で直接的な反撃(復讐)に出るかどうか。
私はとても出来そうにない気がする。
私は死刑制度について思いを巡らせるとき、死刑の執行ボタンを被害者の遺族に押させたらどうかということを考える。もちろん希望する遺族者にだけという条件で。
被害者が極刑を望むと言っているのはよく見聞きするけれど、それですっきりするのかどうか。少しは復讐になるのかどうか。少しは悲しみが癒えるのかどうか。

⇒動植物ならどうか?
弱肉強食の自然界に悲しみや復讐心ってあるのだろうか?興味ある。
自分の子供が殺されたというケースでないにしても、動物が人間に刃向ってくる時などは、何かしら恨みつらみを抱いているものなのか。
そんな精神や感情は全くなく、本能的行動であったり、ただ単に大きさの違いや力の強弱や生活様式の差が人間にとって好からぬ結果を生じてしまうだけなのか。

5)自分の子供が自殺したとする。
自分の命より大切で愛していた子供だった。だから後追い自殺するか。
たぶんしないし、自分も死にたいなぁと思っても出来ないと思う。
でもそれは、平常心だからそう思うだけであって、心が病気になって本当に疲れてしまったら、何も考えられずに死んでしまうこともあるんだろうか。
それはそうなってみないと分からないことだとも思う。

⇒動植物ならどうか?
動植物に自殺ってあるのかなぁ?
細胞レベルの自殺ならあるけれども。
人間も含めて多細胞生物である動物や植物には、アポプトーシスと呼ばれる細胞の自殺がある。この細胞の自殺もプログラミングされていて、生命維持には効果的に働いていると考えられているものである。
単細胞にはそれがない。
地球の初期の生物は全て単細胞であった原核生物や原生生物だったとされる。
つまり死が身近ではない生物の時代があったということである。
単細胞生物
単細胞ということで、単純な生物だと判断するのは大きな間違いである。単一の細胞だけで世渡りする彼らは、多細胞生物の細胞より遙かに複雑で、全体の多様性も極めて広い。また、原生生物の場合、個々の機能のための特別な器官のようなものを発達させるものも少なくない。
単細胞の限界としては、体を大きくするのが困難だったことが挙げられる。
単細胞で大きくなることの問題点の一つは、大きくなると核の支配を細胞全体に行き渡らせることが難しい点にもあるらしい。 また、乾燥への対応も難しいようだ。しかも陸では体を支えるのがさらに困難である。単細胞で大きなものはなく、乾燥に対しては休眠で耐えるもの以外にはないようである。


わたし?

私は若い時に目を腫らして出勤したことがあるよ。
目が腫れたのは殴られたわけじゃなくて前の晩に泣いたから。
朝になって瞼がぷっくり腫れていて焦って冷やしたりなんだりするのだけれど、後の祭り。
上司に「どうした、何かあったか?」くらいは、言われたような気がする。
わたし「いえ、何もありません。え?め?腫れてます?もともとこんな感じですよ、奥二重だし」

あまり泣くと次の日に形跡が残る。学校や女子社会ではそれをそんなに気にしたこともなかったけれど、会社では何となくばつが悪い。
だけど泣きたい時もある。
それでどうしたらよいのか、対策をリサーチしたら、目をこすったり涙を拭いたりしないで泣けば腫れないらしいということが分かった。
涙放置、垂れ流し泣き。決して人には見せられない。
社会で生きて行く女は人には見せない顔を持つ。な~んて。


何のために、誰のために、生きるのか

上に書いた単細胞生物は細胞分裂によって個体が増えていく。
これを無性生殖と呼ぶ。クローンはこのタイプになる。
生殖細胞が融合して、遺伝子を交換し、新たな個体を発生させる有性生殖ではない。
よって無性生殖では基本的に親と同じ性質の個体が発生する。
単一の細胞だけで新しい個体を生み出す単細胞生物は、多細胞生物より遙かに複雑な細胞を持っている。
だからこそ無性生殖が可能であるとも言える。

STAP細胞は多細胞生物の体細胞からクローンを作ろうとしたのである。無性生殖を目指したということであるが、多細胞生物の細胞はそれに耐えうる細胞ではないはず。

多細胞生物が無性生殖を目指すとしたら、一番可能性が高いのは栄養生殖だろうと思う。自身の栄養器官で子を作っていく方法。
イチゴの苗は匍匐茎で、ラズベリーの木は地下茎でどんどん増えていくのだけれど、これも栄養生殖という無性生殖である。
栄養体として分化した器官が、繁殖のために分化した形をとっていく。
でもどんどん増えると言っても、もちろん環境が整っていなければ増えることにも育つことにも限界がある。イチゴやラズベリーには土がなかったらダメだし、土地の酸性度が変われば成長に影響を与えかねないし、水が一滴も降り注がなければ枯れてしまうかもしれないし、光のない暗黒の世界ではダメだろうし、適度な気温も必要だし、周囲に他の強く勢いのある逞しい植物が生い茂って光や栄養や水分を奪われ続けたらちゃんとは育たない。


原子の地球に生まれた生命体は単細胞1つであり、そこから全て進化してきたのか。
それとも幾つかの単細胞生物が同時に生まれ、進化の系統は複数あったのか。
はたまた、最初から単細胞生物と多細胞生物がいて、初めから枝分かれした状態で置かれたのか。
この辺りの違いによって、必然なのか偶然なのか、創造主の意図なのかそうでないのか、といった考えも変わってくるような気がする。

もし原子の地球にいたのは単細胞生物のみで、そこから多細胞生物、すなわち多種多様な植物や動物や人間が誕生してきたとするならば、多細胞生物になることで半永久的な命を手放したということが言える。

一人の人間はとても弱いけれどそれでも みんながみんなが集まれば強くなれる~♪
という歌があるけれど、多細胞生物の1つの細胞もまた、それほど強いものでも優秀なものでもない。だからこそ寄せ集まって何かを可能にしたり強くなったりする。
細胞1つのサイズを大きくすると弊害が生じてしまうので単細胞生物は複雑な細胞を持ってはいるが、大きくなることは難しい。
細胞が1つではなく寄せ集まった多細胞生物は、必然的に単細胞生物よりもサイズは大きくなる。
そしてこのことを考えつめていくと、動植物にとってサイズが大きいということは、実は生命体としての弱さの裏返しなのではないかと思う。
細胞がそれほどまでに集まらなければ生き延びられなかったからこそ、大きくなったということである。

有性生殖となり、半永久的な命を手放し、弱く単純な細胞の集まりである生命体(種)が生き延びようとする時、どうするか。
なるべく条件の良い、つまり、弱点を補いあうことが可能な遺伝子(生殖相手)を求めて残そうとするのではないだろうか。
もちろん意識的にそんなことは考えていないけれど、無意識はそれを知っているというか。細胞レベルでは知っているというか。
無意識を心や直観と言い換えてもよいかもしれない。
少なくとも人間は生殖相手が誰でも良いなんてことはないはずだし、沢山産めば産むほど良いとも思っていない。
そこに愛や選択を介在させるわけだが、本当に大切なのは目の前に並べられた見てくれや条件ではなくて、心や直観に忠実であることなんだろうなぁと思う。
心や直観に忠実になって無意識や細胞レベルで知っていることに辿り着く必要があるが、様々な情報が溢れていて、いろんな人間がいて、自分の心や直観というものも分かりにくくなっていると思うし、そもそも1人では完結しないことでもある。
よって愛や選択を介在させる性や生は最初から心許なく、生命体として他の動植物と比較した場合にはリスクが高いことは間違いない。

でもまあ、人間は誰のために何のために生きているのかと言えば、愛や選択のために生きている、ということになる。





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by yumimi61 | 2019-09-10 14:00