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2019年 09月 13日 ( 1 )

釈根灌枝

・私は夏の胡瓜(きゅうり)が結構好きなのだが、今年は春に夏野菜の胡瓜苗を1本も植えなかった。
だから当然1本たりとも生らない。
(当然と書いたけれど、植えなくてもカボチャとかプチトマトとか前年に落ちた種から勝手に生えてくる野菜もある。ゴーヤも何年かは勝手に生えてきたけど、今年は出なかった)
いつぞやの夏なんてあまりにも胡瓜が出来過ぎて、乾燥胡瓜まで作ろうとしたほどだったのに。
それでも夏野菜なので時期になればスーパーでも直売所でも安く売られるのが常だが、今年の夏は売っている胡瓜もあまり安くなかった。
さらに、例年は実家に行くと、お隣の方が胡瓜をくれたりすることもあるのだが、今年は1回しか貰わなかった(とはいえ、いつもいろいろとありがとうございます)。
ということは、今年の夏は胡瓜が不作だったんだと思う。
日照不足か、なんだかんだ言っても夏野菜には気温が足りなかったということか。

・胡瓜と言えば、かつて私は郷里というタイトルでひとしきり胡瓜のことを書いたことがある。
過去記事『郷里』(2008年9月17日)

・日本語でカッパと言えば、「河童」か「合羽」である。
「河童」は、日本の妖怪。魑魅魍魎。
「合羽」は、雨合羽、レインコートのことである。
「河童」は、英語でもKappa(日本のものだからそのまま)。もしくはJpanese specterとかJapanese monstarとか?
「合羽」(勝羽と書いた時代もあったらしい)は、Raincoat。レインコートがカッパと呼ばれるようになったのは、ポルトガル語のcapa由来。capaはポルトガルのキリスト教宣教師が着ていたマントのことだそうです。

・芥川龍之介は『河童』という小説に「どうか Kappa と発音して下さい」というサブタイトルを付けた。
ということは、河童を「かっぱ」ではなく、例えば「かわわらべ」とか「かわわら」とか「かわわらわ」とか読んでいたこともあったのかなあ?(山童と書いて、「やまわら」や「やまわらわ」と読む)
それともただ単に日本語ではなくて英語にしてという意味だろうか。

・日本語ではなくて英語、でひとつ閃いたことがある。
それは、利根川。
川の流域面積日本1位、川の長さ日本2位。
利根川は群馬県大水上山(標高1,840m)に源を発し、関東地方の北西部より関東平野を南東に流れ、千葉県銚子市において太平洋に注ぐ日本を代表する大河川です。流域面積は我が国最大であり、水源から河口までの支川を含めた流路延長は約6,700kmになります。古くから人々の生活を支え、親しまれ、今でも首都圏の水利用はその大半を利根川に依存しています。(国土交通省関東地方整備局)
利根川は、Tone River、つまり利根(Tone)は英語だと、トーン!
音に関係したトーンとなるわけですよ。


芥川龍之介の囘想 小穴隆一
『河童の宿』より

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久米は芥川のいたづらをみると、芥川が河童が馬に蹴とばされたところを畫くのを待つてて、どれと言ふなり芥川龍と書き、似てゐるだらうと言つてゐた。本郷の江知勝で三人が飯を食つた時のあそびである。


僕はまだ河童をみてもをらず、河童といふものが地上に棲息するかどうかも知らないが、「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀れるのがあたりまへだよ、君、」とあとで芥川が言つてゐた布佐行、そもそも書く會をやらばやの僕ら、僕らはなぜ芥川の伊豆箱根説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、いまにして思へば、僕らは芥川を河童の畫の名題の妙手、小川芋錢のゐる牛久沼のほとりへ無意識に誘つてゐたといふことになるが、僕ら芥川、碧童、遠藤たちの四人が、我孫子で降りて、布佐の辨天を振出しに、青い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ歩きに歩き、日暮れて行きつくところで泊つた旅籠屋、ああいふのが河童の宿かも知れない。大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを何なすとなく、何話すとなく、終日歩るきそのまた翌日も歩いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされてゐたのかも知れない。
河童の宿の主は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯に行つてくれと湯札をだした。(湯にはいかなかつたが、女郎屋の入口を皆で見てすぐ戻つた。)旅籠賃があまりに安いので、それ相當に、四人の頭で壹圓の茶代をだすと、手拭のかはりに敷島四個をうやうやしく盆の上にのせてよこした。僕はその旅籠屋を河童の宿と思つてゐるが、宿の主のはうでは僕らを河童だと思つてゐたのかも知れない。
なぜならば、女中は四人の床を昨夜は並べて敷いておいた、朝になるとそれが昔のロシヤ帝國の旗のやうに襷になつてゐた。僕らはほの暗い電燈の下を中心にして臥せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌、句、畫などを畫いてゐただけであつたのであるが、人の寢るその恰好にはそれ相應の恰好があらうといふもので、僕らのやうな眞似をしてゐるものこそ、宿の人には利根の河童にみえたかも知れない。




前記事に芥川龍之介が自殺を決心した後に詠んだとされる短歌を紹介した。
  この句⇒ 橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭  芥川龍之介

その短歌と同じく’橋の上’という言葉が入る俳句がある。
  水洟も郷里艶めく橋の上   飯田龍太

飯田龍太
1920年7月10日 - 2007年2月25日
山梨県出身の俳人。飯田蛇笏(俳人)の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。


1920年生まれだから、芥川龍之介が死んだ時には彼はまだ7歳。もっとも父親も俳人だったけれども。
この歌を取り上げたのは、’橋の上’が芥川の短歌と共通していたからだけではなく、’水洟’も共通しているから。
芥川を想ってか、何かしらの影響を受けて詠んだものではないかなぁと私は想像するけれど、決して想像の域は出ない。
次の俳句は芥川龍之介が詠んだ水洟の俳句である。

  水洟や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介

辞世の句とも言われているが、実際に自殺直前に創作した俳句だったのかどうかは分からない。
自殺する前日(深夜)に、芥川は同居の伯母に「これを明日主治医に渡してほしい」と託したそうであり、そこに書かれていた俳句だったという。そして前書きに「自嘲」とも書かれていたそうである。

主治医は下島勲という人物であり、彼も医師でありながら俳句を詠んだ俳人であった。
1870 - 1947年。日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。
長野県伊那郡原村(現・駒ケ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。東京の田端に医院・楽天堂を開業。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深めた。芥川とは特別懇意になり主治医としてその最後を看取った。また郷里の伊那に埋もれていた井上井月を紹介した。甥に下島連がいる。


俳句は575のたった17文字の世界である。
だからぶっちゃけ誰か知らない人の詠んだ俳句を心底理解することなんて到底無理な話である。
その人を本当によく知っていて、その人がどんな状況やどんな心境でいた時に、いつどこで詠んだが分かって、初めてぼんやりとその意味が見えてくるのではないだろうか。





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by yumimi61 | 2019-09-13 17:50