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2019年 09月 16日 ( 1 )

雅俗混淆

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出来ない集団


前記事が耳と目の話だったので、今回は鼻のこと。

芥川龍之介の『鼻』は元話があり、その話を参考にして、そこから展開した話になっている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」を題材としている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」は、同じ内容の話である。


京都に禅智内供という高僧がいた。熱心にお勤めされる僧で、そのせいか寺は繁盛し、多くの人が訪れ、弟子の法師もたくさんいた。
その高僧は鼻が長く、15~18㎝はあった。
(但しどうやら元々鼻の形体が大きいというわけではなく、腫れて大きくなっているようである。ある対処をすれば普通の人と同じサイズになるのだが、それでも2,3日もするとまた大きくなってしまうのだった)
大きな鼻の時には、鼻が口を塞いでしまうために食事がしにくい。そこで弟子の法師に鼻を持ち上げさせていた。しかしコツがあるようで、誰でも上手にサポートできるわけではなく、1人の弟子法師が担当していた。彼がいなければ食事は抜いていたほどだった。
ところがその弟子法師が体調を崩し、その役目が出来なくなってしまった。さてどうしたものかと困っているところに、1人の寺童(召使的の少年であり弟子法師よりも地位は低い)が「私は今までの法師よりも上手に出来ます」と名乗りを挙げた。
その寺童は見た目が良かったので、他の者に比べると上の者から呼ばれることが多かった童だった。そして今回も呼ばれることになった。
実際やらせてみると、「今までの法師よりも上手である」と禅智内供も大満足。
ところが急に寺童は自分の鼻がムズムズしだし、大きなくしゃみをしてしまい、持っていた鼻が椀の中に・・・結果、禅智内供が食べていた粥が大散乱。
禅智内供は怒った。「情のない乞食小僧め!私ではなくもっと位の高い人の御鼻を持ち上げていてもこんなことをするのか。出て行け!」
追い立てられた寺童は隠れて言った。
「この世にあんな鼻をしている人が他にあるものか」
これを聞いた弟子法師たちも隠れて大笑いしましたとさ。

という話です。(私が要約・解釈したものです)

=鼻対処法=
たらいに湯を沸かし、蓋をして、その蓋に鼻が入るだけの穴を開ける。
そして穴に鼻を入れて鼻だけを茹でる(温める)。よって鼻の色は濃い紫になる、
その鼻を人が踏む。するとぶつぶつした穴ごとに煙のようなものが出てくる、さらに踏むと穴から白い虫が出てくるので、それを取り出す。
その後に、また鼻を湯に入れて茹でると鼻が小さくなる。


どうでしょうか。白い虫と書いてあるけれど角栓っぽくもないですか?
そうでなければ、粉瘤とかガングリオンとか脂肪腫とか、あるいは化膿しているか。
あるいはあるいは、気にし過ぎて触ったりいじったり対処しすぎで、腫れていたり火傷しているだけとか。

食事時に鼻を持ち上げるにはコツがあったようなのだが、このコツというのは平常心ではないだろうか。
白い粥から白い虫を想像してはダメなのである。例え想像しても平常心を保たなければならないのである。
グロテスクな腫れ物と白い粥という組み合わせに、気持ち悪いと感じたり不快に思い、心乱して手元を狂わせたり、ムズムズしてははいけないのである。
すなわち、1人以外の弟子法師はそれが出来なかった。そして寺童にも出来なかった。
でも出来ないと言っても、その寺童は「気持ち悪い~」と言って逃げ出したわけではない。
くしゃみなんてものは不可抗力なので、禅智内供も怒ったりせずに許すべきだったが、それが出来なかった。
それだけではなく、わざと恥をかかせたのではないかという被害妄想的な意識に陥っている。
さらに言えば、「突然のことだから禅智内供も怒りの感情が抑えられなかったんだろう、仕方ない」と禅智内供の怒りを受容すれば良かったのだけれど、それが出来なかった。寺童は陰口を叩き、弟子もそれに乗ったということになる。
人間は緊張感のない時または緊張感を持った時、修羅場や追い込まれた時など、要するに予定外の出来事が起こった時に本性や本音が出るというけれども、結局のところ、高僧や繁盛している寺であっても、その本性や本音は俗世間と何ら変わるところなく、俗っぽい’出来ない集団’に成り下がることもあるというお話である。


他人の不幸は蜜の味

ダ・ヴィンチニュース
【1分間名作あらすじ】芥川龍之介「鼻」——不幸を乗り越えた人を素直に祝福できない自分はいませんか?

 禅智内供(ぜんちないぐ)という僧は顎の下までぶら下がった腸詰のような巨大な鼻を持つことで有名で、長年彼はその大きな鼻をコンプレックスに感じて苦しんでいた。ある秋の日、京から帰ってきた弟子が医者から鼻を短くする方法を教わってきたと言うので、内供はこれを試すことに。

 熱湯で鼻を茹で、それを弟子が踏む。そして出てきた脂を毛抜きで取り、再度茹でる。すると顎下まであった鼻は嘘のように萎縮し、常人のサイズと同じようになったのである。これでもう以前のように他人から嘲笑されることはなくなると安堵した内供だったが、2、3日経つうちに彼は意外な事実を発見した。

 鼻が短くなった彼を見た人々が、あろうことか以前にも増して笑うのである。内供は初め、これは顔が急に変わったせいだと思ったが、それだけでは説明のつかないような人々の嘲笑の様子に気味悪さを覚える。彼は再び塞ぎ込み、果てにはかつての長かった鼻を恋しがるまでになる。

 人の心には互いに矛盾した2つの感情があり、他人の不幸に同情するが、その人がどうにかして不幸を切り抜けることができると、今度はどこか物足りなさを覚え、もう一度不幸に陥れたいといったある種の敵意さえも抱くようになるのだ。その後内供は熱を出して寝込み、彼の鼻は元の大きさに戻る。こうなればもう誰にも笑われない、と清々しい気分になった。




芥川龍之介は、禅智内供が鼻を苦にした最大の理由は、食事の不便さではなかったと書いている。プライドを傷つけられるのが耐え難かったというのだ。
町の人達は、あの鼻だから妻になる女もいないだろうし、出家できたのかもしれないから、普通の鼻でなかったことは寺や僧になるうえではむしろ幸せなことだと思っていたそうである。(明治時代までは僧の妻帯は禁じられていた)
しかし本人はそんな幸せには露いささかも満足していなかった。ありきたりの幸せを望んでいたのである。
そして自意識過剰とも言えるほどに鼻のことが気になって気になって仕方なかった。

上のあらすじにあるように、自意識だけでなく他者の勝手気ままな振る舞いについても、次のようにも書かれている。
人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。


何だかんだ言っても不幸なんてものは自分や自意識が作り出すものであるという話とも受け取れるし、人間には裏表があるから真摯な態度や優しさや情けなども仮面に過ぎないという話にも受け取れる。
寺でも神社でもキリスト教でも新興宗教でもいいけれど、俗世間で宗教が繁盛するのは人間に不幸や悩みがあるからこそ。皆が皆幸せになったら商売あがったり。不幸な人が多いほど宗教繁盛。
それと同じで、社会的価値ある成功者を生み出すためには、多くのそうではない平凡であったり貧しかったりする価値のない落伍者が必要なのである。
でもそんなことを言っても、大衆受けするわけがない。


ちゃんちゃらおかしい

肌の色は関係ありません。何色だっていいのです。肌の色で差別するなんて最低です。
とか言いながら、みんな必死で日焼け止め塗りたくって、日差しを避けて、白い肌を目指している。
「私は白い肌が美しいと思っている。だから白い肌になりたい!」とは絶対に言わずに、皮膚がん予防とかなんとかおよそ心配のない理由を引っ張り出したりして白い肌を目指す。

そもそも差別撤廃を訴えている黒人の人だってクルクルな髪の毛をストレートにしたりするじゃない。肌の色は変えようがないから抵抗するけれど、変えようがあるものだったらそれに乗る。ポリシーはないのか。

どうして化粧することが常識なわけ?
どうして機能には何一つ不自由はないのに、リスクを冒してまで整形したりするの?
もしも手や足がない障害を持っていたら、それを隠さなければいけないということ?隠すことやお直しすることが社会常識なの?
そのままでは愛されることがないというのが本音だから?

障害者をじろじろ見たり冷やかしたりするなんてもってのほか。障害は個性です。健常者と障害者を差別すべきではありません。
とか言いながら、相手が障害者じゃなければ、シミもシワもブツブツもカサカサも、ハゲもデブもヤセも、じろじろ見たり冷やかしたり、笑いのネタにしたり、未陰口叩いたり。イケメンにカワイイに美女美男子ともてはやし、ブサイクや劣化とこき下ろす。何だってみんな個性じゃないの?人はみんな年をとるのよ。
好きで不潔にしている人もいるかもしれないけれど、世の中には本人がどんなに努力しても、努力したくても、どうにもならないことがある。だというのに自分本位で何もかも決めつける。
障害者差別はいけないはずのに、オリンピックとパラリンピックは別に行われているし。

見た目が悪ければ、何か他の事で頑張って立派になればよいじゃないか?はっ、じゃあ知的障害者はどうなるのよ?
知的障害者が生きている意味が分からないと誰かが言えば、あるいは社会のためにならないからと殺人が行われれば、猛烈に非難するけれど、じゃあ訊くけど障害者じゃなかったらどうなの?

あ~生き苦しい。


同病相憐れむ

芥川龍之介はノンフィクションを書いたわけではない。
元になった説話(『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」)があったが、その説話も実話かどうかは分からない。
少なくとも芥川は、小説、フィクションとして、『鼻』を執筆したはずである。
だからどのような話にも展開できたのだ。

鼻が短くなったら、周囲に奇異の目で見られなくなり、自信も付いて、ますます寺は繁盛した。いつしか「鼻寺」と呼ばれるようになり、鼻の悩みを持つ人達がひっきりなしに訪れるようになった。めでたしめでたし、という話だって良かったわけである。

鼻が短くなったら、周囲から妬まれ、策略に嵌り、高僧から引きずり降ろされた。でもそのおかげでありきたりの幸せを手に入れ、平和に暮らした、という話でも良かったわけである。

でもそうは書かなかった。
つまり、これは↓、芥川龍之介が書くという行為の中で自分が行ったことでもある。
その人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

『鼻』のラストの部分はこうである。
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

これで禅智内供は一生ハッピーに暮らしたと思いますか? 思わないですよね?
同じことを繰り返すことが目に見えている。
何故かと言えば、芥川は人間の愚かで悲しい性(さが)や不幸を描いているはずだから。

ありきたりで平穏な小説とか、ハッピーエンドの小説とか、すごく分かりやすい小悦は、高尚な感じもないし、小説としての捻りも技巧も機微もない気がしてしまう。読ませたかったり評価してもらう相手が小説家など文学者であれば尚更。

ということは、夏目漱石の芥川への評価はいたって的確であったとも言える。

Misery makes strange bedfellows.(不幸は奇妙な仲間を作る)
Misery loves company.(不幸は仲間を愛する)




🍆トップの写真は昨年の7月24日に撮った写真です。その頃、芥川龍之介のことを考えていたということは全くなかったのだけれど、なんと偶然にも7月24日は芥川は亡くなった日です。ガクガクブルブル・・・・
そして写真のナスも私が育てたものです・・・・
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by yumimi61 | 2019-09-16 13:13