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2019年 09月 30日 ( 1 )

コントラスト

事実は小説より奇なり!?

文芸誌編集長、出版社社長、文藝家協会を創設し初代会長、東京都議会議員、戦時中は日本文学報国会の議長であり戦争協力し、映画会社「大映」の社長(1943-1947)でもあった菊池寛。
大映を率いていた菊池寛が常々言っていたのは「面白くない真実より面白い嘘を」だったそうだ。


菊池寛
1888年生まれ。高知県高松市出身。
菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったが、寛の生まれたころは没落し、父親は小学校の庶務係をしていて、家は貧しかった。
高松中学
 ↓
東京高等師範学校(成績優秀のため学費免除であったがサボってばかりで除籍)
 ↓
明治大学法科(地元の資産家と養子縁組し経済支援を受けて進学したものの3ヶ月で退学)
 ↓
早稲田大学(徴兵逃れのため籍だけ置いていた)
 ↓
1910年22歳 養子縁組破棄されるも旧制一高(東京帝大予科)に入学。学費は父親が借金で工面することにしたとか。芥川龍之介と同期。 
 ↓
1912年 マント事件で退学処分。

※マント事件
当時、マントは一高のシンボルであった。要するにエリートの証、ステイタスであり、一高のマントにはそれなりに価値があった。
一高の友人の佐野文夫が女性とのデートにそのマントを着て行きたかったのだが、すでに自分のマントは質屋に入れていたのだという。
現代でもブランド品など質屋に入れる人がいると思うが、一高マントも価値があったので、それなりにお金が借りられたということである。

佐野 文夫(1892年生まれ)
日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。
山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1912年9月に第一高等学校を卒業した。


質屋というのは、品物とお金を交換して、品物を「一時的に保管する」という商売ですよね。で、お客さんがお金を返してこなかったら、預かった品物も返さないという仕組み。
お金が返ってきた場合にも利息を取っているから儲けがゼロということはないし、返ってこない場合には預かった品物を他所に高く売って儲ける。

「一時的に保管」は旬のネタですね!
原子力発電所が立地する町の助役が、関西電力に多額の金銭を渡していた。
関電の皆さんもお金に困って何か質に入れたんですか~?
関電の岩根社長は27日午前、会見を開き、「森山氏から受け取った資金が、原発工事発注先の企業から出ているという認識はあった。一時的に各個人の管理下で返却の機会をうかがいながら保管していたが、現時点では儀礼の範囲内以外のものはすでに返却を完了した。社内調査ですでに関係者を処分した。基本的に違法な行為ではなく、不適切な行為であったため公表はしなかった」と説明。

自分のマントがない佐野文夫は勝手に違う学生のマントを拝借して、デートにマントを着て行ったという。
デートが終わったら即効返せばまだ良かったが返さなかった。
2日後、お金に困っていた佐野文夫と菊池寛は、マントを質に入れようと質屋に出向いた。
しかし、佐野が拝借した(盗んだ)マントはすでに盗難届が出ており、質屋に行ったことで盗んだことが発覚する。

マントを盗んだのは佐野文夫であり自分ではないが、菊池寛は自分が盗んだことにしたのだという。
菊池はそのまま自分が罪をかぶることを決意する。菊池は佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情をいだいていたので、佐野の将来を考えて、自らが犠牲になる道を選んだという。結局、菊池は抗弁しないまま、退学処分を受け入れて一高を去ることになった。

もし佐野と菊池が親友であり、菊池が自分のマントを持っていたならば、佐野は菊池から借りたら良かったではないか。
他にだって友人がいたはずである。
しかしそうはせずに他人のマントを盗んだ。
親友であった菊池はそのことを全く何も知らなかったのか。
いずれにせよ、2人で質屋に行ったことは確かなのである。
当時の菊池寛は、大学に進学するための学資の当てがなかったので退学を決意したとも言われている。
佐野も菊池もそれほどお金に困っていた。
・・・そんなつまらない真実よりも、親友の為に罪を被ったという面白い嘘を・・・?


菊池寛の出世作は毎日新聞紙上

退学後、困窮を見かねた同級生の成瀬正一の世話で菊池は成瀬家の書生となり、9月に京都帝国大学の英文科へ進学する。

菊池寛の同級生だったという成瀬正一のいた成瀬家は横浜にあった。
成瀬正一の父親は、横浜正金銀行や日本貿易銀行にいた人物で、後に十五銀行頭取となった。
成瀬正一の祖父は香川県の豪農で、県会議員でもあった。成瀬正一の祖父は息子を慶應義塾に入れたので、成瀬正一の父親は上京して学び、アメリカにも5年ほど留学していた。

菊池寛は成瀬家の書生だったと言うが、京都帝国大学に通うことを考えると、香川でも横浜でも東京でも遠い・・・。

帝国大学に進む一般的なルート(本科)には旧制高校卒業という入学資格を満たす必要があったが、菊池寛にはそれがなかった。
但し当時は、選科という本科の課程の一部だけを学べる課程が存在していて、こちらならば旧制中学校卒業の資格でも入学が許可された。
修業年限は本科と同じで3年。選科生として3年学べば一応帝国大学卒業生ということになる。但し学士号は与えられない。
学校図書館の利用などに関して制限を受けるなど差別待遇もあったという。
一方で、選科生となった後に旧制高校の卒業資格検定試験に合格すれば、本科生になることが出来た。在学中のいつ合格しても、それまでの選科在学期間も通算して3年で卒業できるという特別措置もあった。

菊池寛は京都帝国大学の選科生だった時に、旧制高校の卒業資格検定試験に合格。この時に菊池は、京都帝国大学の本科ではなく、東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)へ進むことを希望したという。しかしそれが東京帝国大学の文科大学長が許可しなかったという。

1916年7月、京都帝国大学を卒業。
またしても成瀬家の縁故で時事新報に入社。社会部記者となる。
生活のため資産家の娘と結婚することを考え、1917年に高松藩の旧藩士奥村家の娘と結婚。
1919年には、時事新報を退職。
翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した「真珠夫人」が大評判となり、人気作家となった。

実は菊池寛は時事新報を退職後すぐに、芥川龍之介と一緒に大阪毎日新聞社に入社したという。
毎日新聞のデータによると、芥川龍之介が毎日新聞社にいた期間は1919~1927年となっているので、自殺した年まで在籍していたことになる。

<毎日新聞のあゆみ 著名人より>
芥川龍之介(1919~1927年在社). 作家。代表作に「地獄変」「藪の中」。 大阪毎日新聞社に菊池寛とともに入社し、海外視察員として紙上でルポなどを発表した。

・・・そんなつまらない真実よりも、そんなつまらない小説よりも、センセーショナルを自殺を・・・?


逆転人生

菊池寛は1919年に毎日新聞に入社し、瞬く間に人気作家となり、1923年には雑誌『文藝春秋』を創刊。
1925年には文化学院(専修学校)の文学部長に就任。
文化学院は、西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによって創設された学校で、キリスト教精神や西洋文化的教育が盛んに行われていた。
1926年には文藝春秋社を設立、同年、日本文藝家協会も設立した。
芥川龍之介が自殺したのはその翌年のことである。

菊池寛の実家は貧しく、マント盗難事件で旧制一高を退学処分となり、選科で京都帝国大学に入れてもらったものの、希望していた東京帝国大学には移れなかった。

一方の芥川龍之介は、優秀な成績で旧制一高に入学し、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学した。この学科は東京帝国大学の中でも特に難関だったという。
在学中に小説を執筆し、1915年には夏目漱石の門下生となり、1916年には『鼻』が夏目漱石に称賛された(大衆受けはしないと言われたが)。大学もトップクラスの成績で卒業。
卒業後は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。
1918年には慶應義塾大学文学部への就職の話もあったと言うが、何故かこれが実現しなかった。
そして翌1919年に菊池寛とともに大阪毎日新聞社に入社した。

芥川と菊池は友人であったかもしれないが、対照的とも言える学生時代を過ごした2人が、毎日新聞社で再び交差することになったのだ。
そして2人の人生の起伏はここで反転していく。
1927年、芥川龍之介はついに、その人生を終えることになる。
彼は太平洋戦争はおろか日中戦争までも生きることはなかった。
文藝春秋社は後に死んだ芥川龍之介を飯の種にしていくことになる。


作家たちの戦争扶翼

私は8月の終わりに創価学会と毎日新聞のことを記事にした。2019年8月30日『コンサーン』
創価学会の新聞の印刷を長く多く引き受けているのが毎日新聞グループで、その蜜月ぶりが知れる。
その記事でも少し触れたが、過去にも国旗の件と戦時中の皇軍万歳で毎日新聞を取り上げたことがある。

次のブログ記事でも戦時中の毎日新聞の写真が掲載されている。
Mr.H’s BLOG 2017年9月21日
いつか来た道、古新聞で辿る「昭和十三年」(14)
より

各新聞の論調は 前年12月の南京城陥落あたりから がらりと皇軍万歳 大勝利の報道ばかりに変わった。
1938(昭和13)/01/16, 第1次近衛声明を発表し、対中国への和平交渉打ち切りを通告するや この年の日本の新聞は 既に支那事変での皇軍の無敵振りの経過や推移の掲載一辺倒となっていった。


国内外の日本人社会は狂喜乱舞し 全国で奉祝行事の提灯行列や神社参拝、武漢陥落記念絵葉書やスタンプが発行された。
軍への献金や万歳々々の祝一式の記事に埋まり、更には大陸行進曲の発表行事や小国民体育会、 
社説にも 皇軍感謝の文字が踊るばかりで、そこから泥沼の如く続く戦争の幕開けを心配する文言はわずかに「長期建設 締めよ冑の緒」と付け足しに記載あるのみであった。
それはオリンピックで わが国の勝利を単純に国威高揚と喜ぶ国民の姿と重なり、現代の卑近な例で言えば、2017年ブタペスト世界柔道選手権大会で団体戦を含め、男女合わせて9つの金メダルを獲得した折と変わらぬ有様。 
其処には 無数の彼我の生命や文化や財産の消滅する戦争の悲惨さに思い至るかけらも見受けられないのは 当時としては止むを得ない事実でもあろうか・・・

どこまでも広い大陸に攻め込み、拡大するばかりの戦線で 敵主力が放棄した点在する都市群を陥落占領した程度で、何ゆえ ここまで狂喜乱舞するのか 後世に生きる我々には理解しがたい事。



菊池寛は「文士部隊」を率いて、戦争に加担した。

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍するよう命令。
寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。

帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った。
1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅する。

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。



日本文学報国会
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)5月26日に設立された文学団体。情報局の実質的な外郭団体であった。運営費は情報局から支給された。
1942年に情報局の指導により、「国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する」ことを目的とした社団法人として発足した。
また日本俳句作家協会(「国民詩たる俳句によって新体制に協力」するという目的で1940年に結成)も日本文学報国会の俳句部会として統合された。

・会長 - 徳富蘇峰。
・常任理事 - 久米正雄、中村武羅夫
・理事 - 折口信夫、菊池寛、窪田空穂、佐藤春夫、下村宏、白柳秀湖、関正雄、辰野隆、長与善郎、松本潤一郎、水原秋桜子、柳田國男、山田孝雄、山本有三、吉川英治
・顧問に正力松太郎、藤山愛一郎、横山大観などが就任。
・監事 - 三井高陽
・賛助会員 - 岩波茂雄(岩波書店)、下中弥三郎(平凡社)、佐藤義亮(新潮社)、秦豊吉(東京宝塚劇場)


日本文学報国会の前身に、「ペン部隊」がある。日華事変勃発後の昭和13年(1938年)、内閣情報部は文学者と懇談会を開いて漢口攻略戦への従軍を要請し、陸軍部隊14名、海軍部隊8名、詩曲部隊2名の作家が従軍し、その見聞記を新聞・雑誌に掲載した。これは、文学者による「職域奉公」としての「ペン部隊」と称されて以後も多くの作家が従軍した。



時代はすでに昭和に入っているわけだが、当時はまだそこまで識字率が高くはないだろうと推測できる。
新聞や雑誌は字が読める人向けとなるが、それだけでは足りない。
だから作家たちは全国各地の病院を慰問したり講演会を催した。字が読めない人には、直接会って触れたり、お話したりということだ。
さらに国策映画も製作して視覚にも訴える。
文字数がとても少ない俳句もしっかり取り込む。
こうして識字率や読書率、新聞購読率の低さをカバーしたんだろうと思う。





by yumimi61 | 2019-09-30 16:03