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2019年 10月 07日 ( 1 )

コングリゲイト

1919年、菊池寛と芥川龍之介が毎日新聞社に入社。
1923年、人気作家とはった菊池寛が雑誌『文藝春秋』を創刊
1925年には文化学院(専修学校)の文学部長に就任。
1926年には文藝春秋社を設立、同年、日本文藝家協会も設立した。
1927年、芥川龍之介が自殺する。

(1931年、満洲事変勃発)

1935年、文藝春秋社の社長であり、文藝春秋の編集長でもあった菊池寛は芥川賞と直木賞を創設
 1935年第1回芥川賞 『蒼氓』石川達三(30歳)受賞

(1937年、日中戦争始まる)

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の菊池寛に作家を動員して従軍するよう命令。
総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。
帰国した菊池寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」を始めた。

(1940年、東京オリンピック中止)
(1941年、アメリカに奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まる)

1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立される。
「国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する」ことを目的とした社団法人として発足。
日本俳句作家協会(「国民詩たる俳句によって新体制に協力」するという目的で1940年に結成)も日本文学報国会の俳句部会として統合。
情報局の実質的な外郭団体であった。運営費は情報局から支給された。
この設立に伴い、日本文藝家協会を解散。
1943年、菊池寛は映画会社「大映」の社長にも就任し、国策映画作りにも奮迅した。


日本文学報国会
(日本文学報国会は、日本文藝家協会の会員であった)既存の作家たちをそのまま組織した傾向があった。
そのため、会員になることを拒否した中里介山、内田百間以外は、旧プロレタリア文学関係の、宮本百合子や蔵原惟人、中野重治たちも入会していた。中野重治はプロレタリア作家であった自分の経歴のために入会を拒否されるのではないかと菊池寛宛に問い合わせの手紙を送っている。
宮本百合子は1943年に会の事業として女性作家作品集の企画(発行はされなかった)において掲載作品を選定しようとして、獄中(未決)の夫、宮本顕治からたしなめられるということなどもあった。

永井荷風は無断で入会されたこと、そして会長の徳富蘇峰を嫌いであると日記で書いている。


プロレタリア文学とは
1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものである。
つまり普通に考えれば、プロレタリア文学の作家や作品のテーマは、体制や権力や資本家とは反対に位置し、反権威主義、反階級社会、反資本主義などの思想を持っているはずだが、そのプロレタリア作家までが絶対君主制の体制側に積極的に参加したということである。


日本文学報国会の大東亜共同宣言への文化協力
1943年11月6日、大東亜共同宣言が発表されると、その五大原則を主題とする作品の創作などの文化協力案を決定。小説部会では約50名の執筆希望者の中から、五大原則についての小説・戯曲の委嘱作家を選出した。

同宣言全般について大江賢次、「共存共栄」高見順、「独立親和」太宰治、「文化昂揚」豊田三郎、「経済繁栄」北町一郎、「世界進運貢献」大下宇陀児、商業劇に関口次郎、中野実、八木隆一郎、新劇に久保田万太郎、森本薫を決定した。

しかし完成したのは、太宰治「惜別」(1945年2月)、森本薫「女の一生」(同)の2作だけだった。「女の一生」は1945年4月に渋谷東横映画劇場で5日間上演され、「惜別」は終戦後の9月に出版された。
ただし当時検閲による不掲載などの処置を受けていた太宰は、書簡の中で「文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ」とも述べており、受け止め方には温度差が見られる。  


日本文学報国会の建艦運動
建艦運動の一助として小説集を刊行、「愛国百人一首」「国民座右銘」の選定・刊行、「大東亜戦詩集・歌集」編纂、「辻小説」「辻詩集」の制作、古典作家顕彰祭などを実施した。会の機関誌として『文学報国』を発行。
『辻小説集』(八紘社、1943年)は小説部会員による原稿用紙1枚の小説、檄文を集めて、国民士気の高揚を目指したもので、207篇が集まって出版された。


愛国百人一首
戦時中の翼賛運動のひとつとして、愛国の精神が表現されたとする名歌百首を選んだもの。皇室への崇敬や国土愛、家族愛の歌が採られている。

日本文学報国会が情報局の後援、大政翼賛会の賛助、東京日日新聞大阪毎日新聞の協力を得て企画された。
企画目的は「聖戦下の国民精神作興」であった。
選定基準は、万葉時代から幕末までの詠歌者の分かっている臣下の和歌であり、愛国の精神が、健やかに、朗らかに、そして積極的に表現されていることとされた。また、幕末期の歌は明治改元より先に物故した人物に限られた。

選ばれた百首は、情報局の検閲を経て昭和17年(1942年)11月20日、情報局から発表された。これに改訂と解説を加えたものが、『定本愛国百人一首』として昭和18年(1943年)3月に毎日新聞社から刊行されている。

選定直後となる1942年中には山内任天堂によって商品化され販売された。任天堂の歴史の中でも、大政翼賛会の後援を得た珍しいゲームである。


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右は2016年リオ五輪閉会式引き継ぎセレモニーにおいて、マリオに扮したらしい安倍首相。髭が無く、仮装が甘い印象を受ける。
ちなみに任天堂とセガの「マリオ&ソニック AT東京2020オリンピック」は東京オリンピック公式スポーツゲームになっている。

文武の文に力を入れた先の大戦では敗戦してしまったため、方針を転換し、武に力を入れて、オリンピックも前回のように中止することなく盛り上げていこうという心意気でしょうかね?

泣く子も黙る任天堂株式会社のルーツは「かるた屋さん」。花札、トランプ、百人一首。←過去記事(2018年3月22日、『料簡 』←’りょうかん’じゃなくて、’りょうけん’ね。’そんなりょうけんだから~’)に書きました。

<余談>笑点で’そんなりょうけんだから~’と言われていた昇太さんのご結婚相手はペットショップ「青山ケンネル」の創業家一族だそうですね!「青山ケンネル」と言えば、尾崎豊さんが犬🐶を買ったお店ではないですか?

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日本文学報国会の楽曲作成
1943年の軍人援護強化運動に協力して、詩歌、俳句、短歌の三部会で作品を募集し、6月に作品を軍事保護院に献納、続いて7月に日本音楽文化協会などとともに作曲公募のための詩歌として大木惇夫の「大アジヤ獅子吼の歌」を選定、園部為之の曲が当選して9月に発表された。

同じ7-9月にも日本音楽文化協会と愛国歌曲の創作、献納を行う。これらの曲は各地で発表演奏会も行われて国民運動となった。

また大政翼賛会募集の「勤労報国隊の歌」(1943年11月発表)、日本文学報国会と日本音楽文化協会共同企画による「少国民決意の歌」(1944年3月発表)「皇国漁民の歌」「大漁ござる音頭」(1944年9月募集)、日本文学報国会主催で農商省などが後援の「日本農村の歌」(1944年11月発表)などで、日本音楽文化協会との連携による楽曲作成が行われ、1944年3月の日本音楽文化協会による決戦楽曲の募集では審査会に参加した。

1944年の軍人援護強化運動では、日本文学報国会の作詞の委嘱で西條八十「起て一億」、三好達治「決戦の秋は来れり」が、日本音楽文化協会により曲が付けられ、発表演奏会やラジオ放送その他のイベントで演奏された。44年9月からの情報局制定歌曲ではサイパン玉砕をテーマに作詞を委嘱され、佐藤春夫「一億総進撃の歌」、尾崎士郎「復仇賦」に、日本音楽文化協会公募の曲が付けられて発表された。


大木惇夫
1895年4月18日 - 1977年7月19日 広島県広島市出身
日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。
太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。


20歳の頃に洗礼を受けたクリスチャンであった。
若い頃から、俳句・詩・小説を創作しており、20歳の頃に大阪朝日新聞の懸賞に当選している。

1941年、大平洋戦争が始まった時、大木は46歳であったが、海軍宣伝班の一員として徴用され、ジャワ作戦に配属された。
同じ班にはジャーナリストでノンフィクション作家の大宅壮一や漫画家の横山隆一がいた。
大宅壮一はもともと左翼であり、ナップ(プロレタリア文学・芸術運動の組織)の中央委員を務めており、共産党とも親しかった。

日曜日にTBSで放送している『サンデーモーニング』に出演しているジャーナリストの大宅映子さんは娘である。
1963年に国際基督教大学卒業。
宣伝会社コスモ・ピーアール勤務後、1969年に日本インフォーメーション・システム (NIS) を創設し、1978年頃から政府審議会の委員を務め、2014年1月1日から日本年金機構の理事を務める。
「地球的規模の環境問題に関する懇談会」、「医療保険福祉審議会」、「行政改革委員会」、「警察刷新委員会」、「教育改革国民会議」、「税制調査会」、「年金業務・社会保険庁監視等委員会」など政府審議会委員を歴任する。


大木惇夫大はジャワ作戦での経験を基に、1942年に詩集『海原にありて歌へる』を現地ジャカルタで出版した。それに大宅壮一もあとがきを書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と言っている。
またその詩集に収められた『戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』は日本の戦争文学の最高峰ともいわれる詩であり、前線の将兵に愛誦された。
そしてその詩集が日本文学報国会の「大東亜文学賞」を受賞。以後、作品の依頼が殺到した。

しかし1945年、敗戦にて戦争終結。
戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、一転して戦争協力者として文壇から疎外される。戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした。

とはいえ、大木惇夫が作詞した『大地讃頌』は合唱曲として人気が高いそうであるが、不思議なことに?私は全く知らない。覚えていないだけなんだろうか。1962年に作られた曲で、1980年代初めに初めて合唱曲集に収録されたようだが、実際に人気が出たのは1990年代以降なんだろうか。曲を聞いても聞いたことがあるという感じがしない。
『大地讃頌』
「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』」の終曲であるが、この曲のみ単独で歌われる機会も多く、現在では中学校の合唱コンクールや卒業式などでも歌われている。1980年代はじめに出版された『新しい私たちの合唱曲集』(教育芸術社)においてすでに単独収録が行われており、その後もさまざまな出版社の楽譜に収められている。

『大アジヤ獅子吼の歌』
この歌は、日本文学報国会と日本音楽文化協会が作曲公募するために、大木惇夫が歌詞を提供したということである。
1943年9月に曲が選ばれると、NHKのラジオ番組『国民合唱』で10日くらい流された。

*番組名の変遷*
1936-1941年『国民歌謡』→1941年2月12日-12月8日『われらのうた』→1941年12月8日-1945年8月15日『国民合唱』→戦後1946-1962年『ラジオ歌謡』

もともと番組の発案は大阪放送局だったそうである。
上に書いた一連のラジオ音楽番組は1962年に終了したが、その前年の1961年よりNHKはラジオとテレビの両方で『みんなのうた』という音楽番組の放送を始めていて、これは現在も続いている。ちなみに現在同番組のナレーションを務めているのは井上あずみ(杏美)さん。

井上あずみ
日本の女性歌手。80年代アイドル。本名、(旧姓)宮崎みどり。
石川県出身。金城高等学校(現・遊学館高等学校)卒業。所属事務所はド・レ・ミ。歌手のゆーゆは娘。代表作は宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』の主題歌など。

高校時代は演劇部に所属、県大会でも出演。高校卒業後の1983年、シングル「STAR STORM」を出し、アイドル歌手としてデビュー。当時の芸名は、井上杏美(金沢市出身の作家・室生犀星の「杏っ子」から命名)。
1986年、宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』のエンディングテーマ「君をのせて」と、次作『となりのトトロ』では主題歌「となりのトトロ」およびオープニングテーマ「さんぽ」を歌唱。また、翌作の『魔女の宅急便』では挿入歌『めぐる季節』『魔法のぬくもり』の2曲を歌唱する。






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by yumimi61 | 2019-10-07 17:54