人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

2019年 10月 08日 ( 1 )

混乗

大東亜共同宣言と文学

国は菊池寛に指示して「日本文学報国会」(国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する会)を1942年に設立した。
1926年に菊池寛が設立した「日本文藝家協会」をそのままスライドさせたような形だったので、多くの作家が名を連ねることになった。
「日本文藝家協会」と「日本文学報国会」は同じ会長の下に存在した組織であるが、表向きの趣旨が異なるため、自動的にスライドされることを拒否した作家もいるし、プロレタリア作家であるため外されてしまうのではないかと自ら大いに心配した作家もいた。

1943年11月6日、大東亜共同宣言が発表されると、「日本文学報国会」は5大原則を文学作品化することにした。
執筆作家は指名制ではなく一応希望制という形式を採っている。
内閣情報局と日本文学報国会が委嘱作家選定のため、執筆希望者全員に「小説の梗概(あらすじ)と意図」の提出を求めたという。反体制や反戦がテーマの小説なんか書かれたら困るということなんだろう。
それによって、全体と5つの原則のそれぞれを担当する6人の作家が選ばれ、執筆が委託された。


【大東亜会議の参加国】
・日本

・中華民国(南京国民政府)
1940~1945年にかけて存在した、中国(当時の正式名は中華民国)の国民政府。首相は汪兆銘。こちらは日本に協力的な政府だったが、中国には、蒋介石率いる重慶政府もあり、そちらは連合国側に付いた。

・満州国
1932~1945年にかけて満洲(現在の中国東北部)に存在した国家。1931年の満洲事変で日本が満洲を占領。日本主導で同地域が中国(当時は正式には中華民国)からの独立を宣言し、1932年に満洲国建国を宣言した。日本の傀儡政権。

・タイ王国
1932年に絶対君主制から立憲君主制になった。植民地支配されなかった珍しい国家。但し国土の一部を割譲している。地理的にイギリスとフランスの勢力圏の緩衝地帯となっていたため独立が維持できた。第二次世界大戦においても枢軸国に名を連ね日本に協力的であった一方、連合国に協力的な勢力も存在しており密に連携していた。
こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。

・フィリピン第二共和国
1943年10月14日~1945年8月17日にかけての日本占領時期のフィリピンに存在した国家。日本占領前はアメリカの植民地だったが、1935年施行のフィリピン独立法によってに独立に向けての政治体制が整えられた(独立準備のための暫定政府)。それを占領したのが日本である。
独立準備のための暫定政府はアメリカに亡命。日本が作らせた別の政府時代がフィリピン第二共和国で、日本の傀儡政権。

・ビルマ
1943年8月1日~1945年3月27日にかけての日本占領時期のビルマ(現ミャンマー)に存在した国家。日本の支援を受けてイギリスの植民地支配から独立する形で誕生したが、日本の傀儡政権。

・オブザーバー として自由インド仮政府
1943年10月21日~1945年8月18日にかけて存在したインド独立運動活動家による団体。「インドの暫定政府」として日本占領時期のシンガポールで樹立され、日本軍の軍政に関与する形でアンダマン諸島とニコバル諸島を統治した。


【大東亜共同宣言(現代語訳版)】
1.大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

3.大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

4.大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

5.大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。


太宰治が執筆担当することになったのは、2の「独立親和」である。



執筆者選考の深い闇!?

大東亜共同宣言がなされたのは1943年11月6日だが、日本文学報国会は11月10日付の機関紙に小説執筆候補作家25名の氏名を掲載した。
会長である菊池寛の名はあるが、太宰治の名はなかった。

戦中に、たった4日で候補者リストを上げて、機関誌発行の段取りが整ったとは思えない。
日本文学報国会は国家の要請するところに従って国策を周知徹底させ、宣伝普及に挺身し、国策の施行実践に協力する組織なので、当然に随分前から「これこれこういう内容で大東亜共同宣言がなされるから、それに合わせて作家らに小説を執筆させてくれ」というオーダーが来ていて準備してあったか、日本文学報国会が率先して大東亜共同宣言に合わせた活動を事前に企画していたということになるであろう。

候補者として掲載されていなかった太宰治であるが、太宰は1944年1月30日付で東宝の映画プロデューサー山下良三に宛てた書簡の中に「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いていた。

1944年1月20日付の機関紙では、「執筆希望者約50名の協議」が行われたことが書かれていて、実際に出席した作家26名の氏名が掲載されている。
前年11月に発表された候補者25名の中で出席している者は4名だけで、あとの22名の出席者は新たな作家である。ここに太宰治と川端康成が含まれている。
11月の25名と1月の約25名を合わせれば、「執筆希望者約50名」ということになるが、本当に希望者なのかどうか。
この協議で「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出すること、審査委員会は執筆希望者以外の権威ある文学者・官庁関係官で構成することなどが決議された(説明された)。
つまりまだ執筆者は決定していないはずである。

しかし太宰は1944年1月30日付の書簡で「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いているのだ。
このあと2月に太宰は「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出したようである。

執筆者が決定し発表されたのは、1945年1月10日付の機関紙だった。執筆者決定までにおよそ1年かかったということになる。
執筆に先立ち1944年12月19日に「宣言五原則の理念を聴く会」が開催され、関係幹部や執筆者が出席したとの報告がなされ、小説は1945年2月下旬には完成予定と発表された。



戦争の終わりを見据えていた?

御存知の通り、8月15日は終戦記念日である。但しこの日を終戦とするのは他の戦争に鑑みると少々無理がある。アバウトすぎる。
あえて言うならば玉音放送記念日。もっと分かりやすく言えば天皇ラジオ放送記念日。
でもまあ1945年8月15日前後にひとまず戦争(戦争状態)は終わった。

戦争が終わるまでに小説を完成させたのは太宰治しかいなかった。6人中1人である。
執筆を自ら希望しておきながら、太宰以外誰も期限内に書かなかった。
国策の施行実践に協力するのが目的で、国策が戦争であったり大東亜共同宣言に則るものならば、戦争が終わってからでは遅いのだ。いつ書いても良いという小説ではない。目的を持った小説のはずである。
それを考えると、選ばれた小説家も実は書きたくなかった、あるいは最初から書く気がなかったのではないかと思えるのだ。
戦争が終われば書く必要はなくなるのだから、待ってさえいれば書かなくて済む。

太宰は日本文学報国会が告知した通り、1945年2月末にきっちり小説を書きあげた。しかしそれがすぐに発表されたり刊行されることはなかった。
まるで戦争が終わるのを待っていたかのように、1945年9月に朝日新聞社から刊行された。


太宰治が描いた「独立親和」

では太宰治は「大東亜各国の独立親和」をテーマにどんな小説を書いたのか。
タイトルは『惜別』。「惜別」は別れを惜しむこと。

<小説の内容>
・東北大学医学部前身の仙台医専に留学していた頃の魯迅を、東北の一老医師であり、当時の魯迅の親友が語るという設定で、藤野先生・私・周君(魯迅の本名)らの純粋な対人関係を描いた。作中で魯迅の語る偽善や革命運動家への疑問などを通して太宰自身の思想が色濃く反映されており、伝記としての魯迅伝とは若干異なる作品となっている。

魯迅(ろじん)とは?
中国の小説家、翻訳家、思想家である。本名は周樹人。
中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である。その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されている。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている。

1881年にやや貧困ではあるが、学問を尊ぶ伝統を残している家の長男として生まれた。
18歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす。
1902年、国費留学生として日本に留学した。
医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた。ニーチェ、ダーウィンのみならず、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドロノフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた。
1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。
当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した。
その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。
のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた。


あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。
— (竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)
 



打算と秘密兵器

太宰治の『惜別』は、中国からの留学生の目を通してという形で、日露戦争当時の日本を語らせた。
日露戦争の日本の勝利は世界に衝撃を与えた。大げさに言えばそういうことになる。小国が大国に勝ったということでアジアや中東に影響力を与えたのは事実である。
日露戦争とは、日本にとってそういう輝かしい位置づけにある戦争である。

太宰はあえて「文豪・魯迅」ではなく、「若者の目」から見た日本を語らせているわけだが、その若者が後の魯迅であることを最初に記しており、最後ではわざわざ魯迅の『藤野先生』という作品を一部引用して紹介している。
読者はどうしたって世界の文豪・魯迅から逃れられない。
日本を持ち上げるには上手い構成というか、ある意味こてこてとした構成というか。

(略)
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅ろじんとなって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
太宰治 『惜別』



日本文学報国会に提出した「小説の梗概(あらすじ)と意図」には次のように書いている。(後半部分です)
タイトルは「清国留学生」→「支那の人」→「惜別」と変更した様子がある。

(略)
彼(周樹人)のさまざま細かい觀察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違つた獨自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなつたのであります。清潔感。中國に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一體、どこから來てゐるのであらうか。彼は日本の家庭の奧に、その美しさの淵源がひそんでゐるのではなからうかと考へはじめます。
或ひはまた、彼の國に於いては全く見受けられない單純な清い信仰(理想といつてもよい)を、日本の人がすべて例外なく持つてゐるらしい事にも氣がつきます。けれども、やはり、はつきりは、わかりません。
次第に彼は、教育に關する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼつて考へるやうになります。さうして、つひに、中國がその自らの獨立國としての存立を危くしてゐるのは、決して中國人たちの肉體の病氣の故ではなくして、あきらかに精神の病ひのせゐである、すなはち、理想喪失といふ怠惰にして倨傲の恐るべき精神の疾病の瀰漫に據るのであるといふ明確の結論を得るに到ります。
然して、この病患の精神を改善し、中國維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文藝に依るのが最も捷徑ではなからうかと考へ、明治三十九年の夏(六月)、醫學專門學校を中途退學し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかつた仙臺の人たちとも別れ、文藝救國の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意氣軒昂たる上京を以て作者は擱筆しようと思つて居ります。
梗概だけを述べますと、いやに理窟つぽくなつていけませんが、周樹人の仙臺に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思つて居ります。
魯迅の晩年の文學論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい觸れず、ただ純情多感の若い一清國留學生としての「周さん」を描くつもりであります。
中國の人をいやしめず、また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中國の若い智識人に讀ませて、日本にわれらの理解者ありの感懷を抱かしめ、百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖を存してゐます。


日本に留学に来た22歳の若者・周樹人、それは後に世界的な文豪となる魯迅であるが、その若者の心の変遷、そしてそれに大きく影響を与えたもの(つまりそれは、この上なく素晴らしい日本)について書くというわけである。
魯迅が若い時に日本に留学していたのは本当のことであり全くの創作話ではなく、話の骨格は事実に基づいている。
しかし太宰治が描いた周樹人の心象風景が真実かどうかは分からない(かなり怪しい)。
また小説を読んだ読者が抱きうる心象風景には正解がなく、太宰の執筆意図に応えるとは限らない
総合的にみると、フィクションなのかノンフィクションなのか、ドキュメンタリーチックなのか、かなり微妙なところである。

でも日本人が素直に読めばたぶん悪い気はしないだろうと思う。
中国の世界的な文豪を誕生させるきっかけとなったのは日本だったという、日本人がとても好きそうな話なのだ。
それも留学を通じた交流だから、宣言の2にも相応しい話である。(周さんや魯迅が中国のどのあたりの人かまでは確認していないが、大きく中国として捉えれば)

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

但し医学を捨てて文学に進んだというような精神性を描くことが、現実問題として今起こっている戦争に対して戦意高揚に繋がるかと言えば甚だ疑問である。武より文、科学より信仰みたいな主張となり、読む人が読めば自身を否定されたような気持になるだろう。
一方、太宰の小説から日本賛美だけを感じ取れば、優越性や傲慢さを助長することになり、侵攻が正当化されて領土欲は広がるかもしれない。だから戦意を高揚する可能性もある。
さて、読者はどちらに振れるだろうか。
そもそもこの小説を読むのは誰なのか?戦時中にいったい誰をターゲットにしたのか。

『惜別』は日本にとって心地よいものであるが(現に1字1句直されなかったと太宰が書いている)、この小説を発表する目的が戦争遂行のためでも和平のためでも効果が疑問視できる小説である。

むしろ敗戦してから世に出した方が効果的に使えると思えてくる小説なのだ。(でもそれは、戦時中には発表されなかったということを知っている後世の人間である私の感想だから偏見が入り込んでいる可能性も捨てきれない)





... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

by yumimi61 | 2019-10-08 18:55