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2019年 10月 11日 ( 1 )

混沌

昨日の続きです。

戦時中から戦後設定に改稿

太宰治が戦時中に書いた小説『惜別』と『雲雀の聲』はどちらも戦争期間には刊行されず、終戦直後に刊行された。
検閲に引っかかるのではないかと出版社が心配したという『雲雀の聲』は戦後に『パンドラの匣』とタイトルを変えた。

前回も書いたが、『パンドラの匣』は地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
『パンドラの匣』は出版社が違う初版と改訂版では異なる点がみられ、多くは文法上の違いであるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあった。
戦前の検閲は日本政府が行っていたものだが、戦後しばらくはGHQも検閲を行っており、戦後に刊行された『パンドラの匣』のはGHQの検閲も入っており、初版の『パンドラの匣』では4箇所の部分削除(deletion)の指示が確認されているそうである。。

『雲雀の聲』(後に『パンドラの匣』)は、1940年8月より太宰治と文通していた木村庄助という青年の日記を基に書いたものだそうだ。
その青年は1943年5月13日に病苦のため22歳で自殺している。
同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰に送られたそうだが、ただ殴り書きした日記帳を送ったというよりも、きちんと製本されたものだったらしい。
太宰はそれを受け取って3カ月余りで『雲雀の聲』を完成したことになる。
青年がいつから日記を付けていたのかは定かではないが、戦時中の出来事と思ってよいだろうと思う。
日記を基にしたというからには完全なるフィクションではなく、そして太宰も戦時中に小説『雲雀の聲』を完成させたのだから、内容は戦時中の日本に沿ったものだったはずである。
しかしながら『パンドラの匣』は時代設定が戦後になっているのだ。
こうなると、どこまでが日記に基づいた事実や真実なのかが分からない。もともと分からないと言えば分からないけれど、戦後という設定での会話はどう考えたって事実ではなく(日記に書かれていたことではなく)創作である。


看護婦の日記!?

不思議な点はまだある。『パンドラの匣』は太宰が存命中に映画化された。
1947年7月公開。製作は大映。
『パンドラの匣』を原作とするこの映画のタイトルは当初『思春期の娘達』であったが、太宰がこれを嫌い『看護婦の日記』と改められた。

『パンドラの匣』は健康道場という名の療養所にいる青年(ひばり)が親友に宛てた手紙という形の小説である。
手紙形式の小説だが、手紙は往ったり来たりはしない。もっぱら青年(ひばり)の手紙が綴られている。
女性も看護婦も出てくるが、青年の視点で書かれたものだがら、主人公は手紙を書いている青年ということになろう。

映画だから小説(原作)に忠実とは限らないし、映画を観ていないので何とも言えないところはあるが、映画のタイトルは思春期の娘だったり看護婦だったり女性がメインになっている感じである。
最初に付けられた『思春期の娘達』を太宰が嫌って『看護婦の日記』になったというが、これは原作と設定が違うということなんだろうか。


『パンドラの匣』の設定

🐦手紙を書いている青年…ひばり(小柴利介)
 ’ひばり’というのはあだ名である。小柴利介(こしばりすけ)という名前から付いた。
 こしばり→こひばり(子雲雀)→ひばり(雲雀)

父親は数学の教授。
ひばりは中学校を卒業と同時に肺炎に罹患し、3ヶ月も寝込んでいたため高校への受験が出来なかった。起きられるようになっても微熱が続いたので、家でぶらぶら遊んで暮しているうちに、次の年の受験期も過ぎてしまい、上級の学校へ進学する気力がなくなってしまった。
両親には大層負い目を感じ、せめてもと思い、身体に差し支えない程度に家の畑で百姓の真似事をして暮らしていた。それでも、どうしてもごまかし切れない一塊の黒雲のような不安が胸の奥底にこびりついていて離れなかった。自分や自分のしていることに価値を見いだせなかったのだ。
「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。という意識ほどつらい思いは世の中に無い」

1945年初夏の頃から、ひばりの若いアンテナは一国の憂鬱や危機を感じ取っていた。だからといって何が出来るわけでもなく。ただ毎日毎日激しく畑仕事に精をだした。死ね、死んでしまえ、と言いながら鍬を振り下ろした日もあった。
そんなある日、父親はこう言った。「いい加減畑仕事はやめなさい。おまえの身体には無理だ」
それから3日目の深夜、夢現のうちに咳き込んで、喘鳴がして、喀血をした。
翌日はいつもより早く起きて、朝食も食べずに、また滅茶苦茶に畑仕事をした。誰にも知らせずに病気を悪化させて死んでしまいたかった。お酒を飲んで寝て、深夜にまた喀血した。そうやって8月14日から8月15日に日付は変わっていった。
8月15日の午前中も畑にいた。すると母親が呼びに来た。父親はラジオの前にいた。

そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或あるいは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。

昔の気取り屋の僕ではなくなったひばりは喀血をしたことを母親に打ち明ける。
そして父親が彼を結核療養病院に入れたのだった。
診断では6か月で完治すると言われた。

「健康道場」というのは、風変わりな結核療養所の名称である。
療養所には旧館と新館があって新館のほうが程度の軽い人がいる。ひばりは最初から新館にいる。
軽い体操と身体の摩擦を1日に何度か繰り返すのが患者の日課である。
病気を忘れることが全快への早道と婦長は言っていたそうだから恐らくそれがメインの治療法ということになろう。なにせまだ自然治癒力頼みだった時代であるからして、自然治癒力を落とさないために気に病まないことを第一としたのだろう。完治すると暗示をかけてやることもあったのだろう。
院長は場長、その他の医師は指導員、看護婦は助手、入院患者は塾生と呼ばれていた。名称や療法など全て院長の発案で、非常に好成績を収め、当時は医学界の注目の的となっていたそうだ。

小説はその「健康道場」の他の患者や看護婦など職員との交流を描いたものである。
手紙形式だが、最初の手紙は昭和20年8月25日付となっている。つまりそれは終戦10日後の手紙という設定である。


So this is Xmas181.png

『パンドラの匣』の問題箇所はここではないでしょうか。

塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。

25、26歳で「相当」年をとっているって・・・クリスマスケーキか!!(なんでクリスマスケーキかって?)




(続く)








by yumimi61 | 2019-10-11 18:40