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2019年 10月 15日 ( 1 )

涙痕

出典と振り仮名について

太宰治『パンドラの匣』を前記事までに何度か転載したが、出典は青空文庫です。

底本:「パンドラの匣」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年10月30日発行
   1997(平成9)年12月20日46刷
初出:「河北新報」河北新報社
   1945(昭和20)年10月22日~1946(昭和21)年1月7日
入力:SAME SIDE
校正:細渕紀子
2003年1月27日作成
2015年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



小説の場合、作者の死後50年間著作権が保護されるので、1948年に没した太宰治の場合は1998年で著作権保護期間が切れたということになる。
転載していて思ったのは、振り仮名の付け方の基準がどうなっているんだろうということ。
青空文庫では漢字の上に振り仮名があったが、私は漢字後ろに(  )で書き入れた。振っている漢字はそのまま倣っている。
この漢字は結構誰にでも読めそうな気がするという漢字に振ってある一方、この漢字は読めない人が多いのでは?という漢字に振ってなかったりで、時代の違いなのか何なのか基準が良く分からなかった。漢字ひとつ取っても読書ってやっぱりハードルが高いんだろうなあと思う。


12月9日について

★宣戦布告と奇襲攻撃


さようなら。と、12月9日という日付を最後に、太宰は筆を置いた。
ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月8日で、これは1945年12月9日ということだから、ちょうど4年の月日が流れ、5年目の1歩ということになる。


日本は1937年より日中戦争を行っていたが、1941年にアメリカに奇襲攻撃し、太平洋戦争にも突入した。
それを受けて、中国(中国国民政府)は日本とドイツに宣戦布告したのだが、それが12月9日だった。

日中戦争は宣戦布告が行われていない。
宣戦とは紛争当事国に戦意があることを公式に宣言することで、宣戦布告とは、相手国や中立国に対し、戦争状態に入ることを告知することである。

1894年7月に始まった日清戦争では1週間後に宣戦布告がなされたが、始まりは奇襲攻撃だった
 1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、新軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。8月1日に双方が宣戦布告.

1904年2月に始まった日露戦争も宣戦布告しない奇襲攻撃によって始まった
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。

一般的に国家間で何か問題が生じたり対立が起こり、いよいよ戦争以外では決着が付きそうにないとなった時には、戦争開始前に事前警告として最後通牒が交付される。
その最後通牒も効果がなく交渉が決裂すると外交交渉は打ち切りとなり、戦争に突入していくことになるが、その場合にも戦闘が始まる前に宣戦布告するのが外交上の慣習だった。

この外交通告の習慣はルネサンス時代に始まったが、1904年の日露戦争が宣戦布告なく始められたことを契機に1907年の万国平和会議で討議され、10月18日に署名された開戦に関する条約で初めて国際的なルールとして成文化された。
この条約で宣戦布告の効力は相手国が受領した時点で発生すると定められた。しかし当時はほとんど尊重されず、第一次世界大戦後に国際連盟が改めて定めた。


1907年10月18日にハーグで署名された宣戦布告に関する条約では、
第1条 開戦に先立ち相手国に宣戦布告を行うこと
第2条 中立国に対し戦争状態の通告を行うこと
を定めている。

宣戦布告が行われない国家間の武力紛争においては、通告を受けない第三国に中立法規の適用はなく、第三国は紛争当事国と平時同様の外交関係を保つことが認められる。国交断絶状態でも戦争と判断されるとは限らない。第一次世界大戦後には高度な武力紛争状態であっても、戦争状態ではないとして戦時国際法の適用を免れようとする事例もしばしば存在した。

宣戦布告とは、どの国と戦う意思があるということを明確にするものである。
中立法規では、中立国は交戦国の攻撃を受けず、その領土を侵されることはないことを定めている。どちらにも加担する気はないのに隣国で戦争を行っている場合などに戦争に都合が良いからと巻き込まれたら堪らない。
但しその代わり、中立国は交戦国に対して戦争遂行上の便宜や援助を与えてはいけないとされている。

宣戦布告しないと敵味方すら有耶無耶な感じになってしまう。
当事国が戦争ではないと言い張ることも出来て、それによって戦時国際法(人道法)を逃れようとする意図もあった。しかし戦時国際法は宣戦布告されていない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用される。

日中戦争の始まりは1937年だが、その前1931年に満洲事変があった。
1931年9月18日、柳条湖付近の鉄道線路を爆破した日本軍は、これを張学良らの仕業として奉天軍閥がこもる北大営を奇襲攻撃して占領
1937年7月7日、中国に駐屯していた日本軍が盧溝橋付近で夜間演習を行っていたが、その終了直後、10数発の銃弾が発射された。誰が発砲したのか分からないままだが、これ以降対立や衝突が再び本格化し戦線は拡大していく。
同年8月15日、日本政府は「支那暴戻膺懲」(暴虐な支那を懲らしめよの意)の声明を発し、海軍機による南京への渡洋爆撃を開始して、日中戦争の火蓋が切られる。
日本の傀儡政権でアメリカとイギリスに宣戦布告した南京国民政府(汪兆銘政権)は1940~1945年にかけて存在した政府であり、日本が南京を占領したからこそ成立した政府である。同じ中国であっても日本とドイツに宣戦布告した政府とは別の政府。

このように12月9日のみならず8月15日という日も実は中国と深い関係があった日付なのである。


★王政復古の大号令

12月9日は、王政復古の大号令がが発せられた日でもある。
但しこの場合の12月9日は旧暦である。
 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

王政復古
明治維新により武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を指す語。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に江戸幕府を廃止し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立が宣言された。倒幕派公家勢力の復活という側面も伴っている。

倒幕の下敷きとして存在したのが国学の発展だった。
江戸後期、国学の進展などにより知識人の間に尊皇思想が広がっていった。
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。


そんな時期に黒船が来航して、通商をめぐって国論は割れるも、尊皇攘夷論が沸き立つことになる。
攘夷論は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。

でもいざ蓋を開けて見たら(新時代になったら)、倒幕派新政府は欧米かぶれで、国学どころの話ではなく、そのため明治時代には結構多くの知識人が絶望の淵を彷徨ったということは前にも書いた。

江戸時代などには天皇が政治を行わない形を採っていたが、それを言いかえれば「政教分離」である。
政教の「教」は、教育ではなく、宗教や教会のことである。

政教分離原則
国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す。

一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする。


世俗主義(英:secularism)、または、俗権主義とは、ラテン語で「現世的」「世俗的」を意味する「サエクラリス」(羅: saecularis)に由来する語・概念であり、
・ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それらから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないという主張・立場。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則。対義語は、聖職者主義(教権主義、英: clericalism)。
・個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
・人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
である。


日本の天皇は神話を根拠としている。神と言えば宗教ということになるので、天皇は宗教担当であり、政治とは切り離す。その上で国民の個人がどんな信仰を持とうが自由。
このような政教分離策がフランス革命よりずっと早くから採用されていたのである。
その意味においては日本は世界最先端にいた。
それにあえて終止符を打ったのが明治新政府である。


日本と太陽

日本では明治5年12月2 日(新暦1872年12月31日)まで太陰太陽暦を使っていた。月と太陽の暦で、これを旧暦と呼ぶ。
旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日(新暦1873年1月1日)として、太陽暦を採用した。これが今も使われているもので新暦となる。
明治5年にはクリスマスも大晦日もなかったということになりますね。

日本の皇祖神・天照大神は太陽神である。
日本という国名も、日の丸国旗も、戦前の軍旗も、自衛隊の自衛艦旗も太陽をモチーフにしている。

太宰治が『パンドラの匣』のラスト、’12月9日’と’さようなら。’の前に書いたのは植物の蔓が伸びていく方向の話だった。
僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽(ひ)が当るようです。
 さようなら。

十二月九日


ひばりは、この道がどこへ続いているのかは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよいと言った。
僕たちが歩んでいく道の先を蔓に聞いたほうが良いと言うのである。
どうして蔓だったのだろうか?

蔓は、どこへ続いているのか、なぜそちらに伸びていくのか、何も知らないけれど、伸びていく方向に陽が当たると答えるだろうとも言った。
それはすなわち、蔓には知識というものはないけれど、経験というか事実を持っているということだ。
蔓は伸びていくことは出来る。勢いのある蔓だったらかなり伸びていくことが可能である。だけど自分の意志でその場を動くことは出来ない。

蔓が’僕たち’だとすれば、陽はやはり天皇ということだろうか。

ここで知識を付け足せば、蔓が伸びるのはオーキシンという植物ホルモンが関係している。オーキシンは茎の先端の芽で作られ、根本側に移動して、植物全体の成長を促進する。
実はこのオーキシン、太陽の光が嫌いなのである。嫌いと書いたが、植物のことなので好き嫌いという感情があるかどうかは分からない。
でもとにかくオーキシンは、光を避けるように移動して、全体にオーキシンを伝える。
移動中にも当然茎に光が当たることがあるが、茎に光が当たるとオーキシンは光と反対側に回る。
茎の左から光が当たった場合、茎の右側にオーキシンが多くなる。オーキシンは成長を促進する作用を持つので、左側より右側のほうが成長する。つまりやや左側に傾く感じになる。
それが蔓は光(太陽)の方向へ伸びるということなのである。(→屈光性)
そしてどんなにオーキシンが太陽の光を嫌いでも、植物が健全に成長するにはやっぱり太陽の光が必要なのだった。

それで、さようなら?







by yumimi61 | 2019-10-15 17:09