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15🚗🚗🚗🚗🚗

王と建国を承認したのはカトリック教会だった。
以降フランスの権威権力者はみなカトリック教徒である。
宗教革命や市民革命があっても、国の信仰が変わることはなかった。
ナポレオンを誕生させ、自由を掲げても、カトリックから離れられないフランス。


フランスでの離婚は大変である。
カトリック教徒の離婚と言い換えてもよいかもしれない。
そもそも結婚するのも大変である。
それはフランスの民法がカトリックの影響を強く受けて成立してきたことに由来している。
紙切れ一枚出せば結婚も離婚も出来る日本とは大違い。
洗礼・結婚・葬儀というカトリック教徒にとっての人生3大イベントは、神聖で重要なものである。同時に教会の経営にとっても重要なものとなる。


フランスの結婚「マリアージュ・シヴィル(Mariage civil)」(民事婚)

「結婚申請に必要な書類リスト」(自治体によって若干違うらしいが、以下基本的なもの)
・出生証明書
・慣習証明書
・独身証明書
・婚前診断書(=健康診断書)…持病や不妊などを理由に将来離婚を申し立てたりしないため。子供に影響する疾患もあるため。
・居住証明書。
・立会人リスト(立会人の身分証明書も)
・(再婚の場合は)離婚証明書

上記の書類を取り寄せたり作成し、それを役所に提出して受理された後に役所の掲示板に一定期間、2人の氏名・職業・婚姻日時などの公示が行われる。自治体によっては「おくやみ欄」のように地方新聞に掲載されたりもする。
異議申し立てがあった場合には結婚できないこともある。「この人、私と結婚してますよ」とか?書類と公開での二重チェックがなされるということだ。
役所職員による聞き取り調査が行われることもある。偽装結婚を防ぐためなどらしいが、どこで出会ったとか根掘り葉掘り聞かれるらしい。

これまでをクリアしたらやっと市役所での結婚式。カトリック教徒であろうとなかろうと、これをやらないと法的には結婚したことにならない。
本人たち、市長、立会人が出席。
市長から直々に結婚の意思を確認され、本人たち・市長・立会人がサインすれば完了。
これがフランスの法的な婚姻手続き「マリアージュ・シヴィル(Mariage civil)」(民事婚)である。

役所から書類を貰って教会で結婚式を挙げれば、結婚した証を教会が発行し役所に送ってくれて結婚が成立するという国もあるけれど、フランスの場合は教会で結婚式を行わなくても結婚自体は成立する。
しかし成立するまでには相当手間がかかるし覚悟も必要。
フランスでは「実は結婚していました」という極秘結婚や「今日結婚しちゃおうか」とか「昨日結婚しました~」という電撃結婚なんかありえない。


「マリアージュ・ルリジュー(Mariage religieux)」(教会婚)

これがカトリックの宗教的な結婚式となる。
結婚する2人のどちらかが洗礼を受けていないと教会婚はできない。
新郎新婦共に洗礼を受けている場合は、約1時間~1時間半かかる「ミサ(La messeラ・メス)」が行われる。
どちらか一方しか洗礼を受けていない場合には、約30分~1時間の「祝福(La Bénédictionラ・ベネディクション)」が行われる。

民事婚→教会婚→パーティー、これがカトリック教徒における結婚フルコースだが、カトリック教徒であっても教会婚やパーティーは省くことが出来て、近年のフランスでは結婚するカップルでもフルコースで行うのは半数以下になっているとか。

またカトリック教徒であっても、教会婚だけをするということは出来ない。
教会で結婚式を行うには市役所で結婚したという証明がないと受け付けてもらえない。
教会婚→民事婚という順番もダメ。
要するに教会はそれだけ行政を尊重しているということにもなる。
それはすなわち、フランスの民法がカトリックの影響を強く受けて成立してきたことに由来しているということに帰結する。
行政と教会が尊重しあっている関係なので、フランスの権威権力者は無暗にその関係を壊すことが出来なかった。


誓いとは何か

「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓います」

[34]しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。 [35]地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 [36]あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。 [37]だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
=マタイ福音書5:34~37=


「誓い」というものは、真実を話し約束を守らせるために神が人間に与えた手段の一つである。
[33]さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
ところがその誓いの本質的な意味が骨抜きにされ、守らなくてもよい偽善の誓いが生み出され横行するようになっていった。誓いは拘束力を失い、嘘が蔓延した。
守ることのできない、守りたくない、守る気がない誓いなら、最初から誓うなというのが上記の意味である。

人々は「天」「地」「エルサレム」「頭」などに向けて勝手に偽りの誓いをした。
「あの天に誓って君を幸せにするよ」
「私は彼女をいついつまでも大切にすると誓います!」
聖書の「誓い」というものを利用しつつも神に誓っているわけではない。
神に誓っているのではないと思えば気が楽である。
魂のない言葉を神のお告げのように、まるで預言者や聖職者にでもなったかのように次々と発していく。言葉にすればするほど嘘が吐き出される。
だから「はい」か「いいえ」だけで答えればよいのだと言った。

「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

結婚の誓いに「はい」と答えたからには、「あなたの誓ったことを主に果たさなければならない」。だからそう易々と離婚など出来ないのだ。
だけど一方で、聖書は「守れない誓いはするな」と言っているのだから、現代の人が守れそうもないと教会婚を行わないことも責めるわけにはいかないだろう。


狂った歯車

こんなに苦労して覚悟して結婚したというのに、さらに離婚するのもとても大変なのに、フランスの離婚率は決して低いわけではないという。

フランスでは1975年まで民法によって同意離婚(協議離婚)が認められていなかった。性格の不一致なんて曖昧な理由での離婚は基本的には承認されなかった。
イギリスは王が自身の離婚に際し、なかなか離婚を認めないカトリック教会と揉めて、カトリックから分離独立した。

フランスでも今現在は同意離婚が認められている。
フランスで離婚が承認される場合。
①同意離婚
夫婦双方が離婚に同意している場合で、夫婦共同で離婚を申し立てるもの。
日本の協議離婚では、双方が紙切れに必要事項を書き入れ印鑑を押して役所に出せば、それだけで離婚が成立する。
でもフランスの場合は同意離婚でも必ず裁判所が介在する。
一時的な感情でもって離婚騒ぎを起こしている可能性もあるので、3か月間という熟慮期間が設けられ、夫婦は最初の離婚請求から3か月後に改めて請求し直して、離婚の意思が双方とも変わっていないことを証明しなければならない。
そのうえで、裁判所が双方が自分の意思で離婚を決意し、双方の同意に基づく離婚請求であると認めれば、正式に離婚を言い渡す。

②認諾離婚
夫婦のどちらか一方からの離婚請求。夫婦生活の維持が難しい理由を提示して請求し、夫婦のもう一方が裁判官の前でそれを認めた場合に離婚が認められる。中傷合戦の泥仕合になることも少なくないとか。

③破綻離婚
6年前から事実上別居している場合に認められる離婚。
書類上の手続きを踏んでから別居する法的別居というものもあり、これだと3年以上別居が継続された後に夫婦共同で請求を行えば認められる。

④有責離婚
夫婦の一方が婚姻の義務について重大な違反、もしくは繰り返し違反した場合に、もう一方から請求できる。不倫とか暴力などといったケース。

⑤精神病離婚
配偶者の精神的能力が6年前から著しく減退し、夫婦間に共同生活が存在せず、回復する見込みがない時に認められる。
但し離婚が配偶者の疾病に極めて重大な結果をもたらすおそれがある場合には、裁判官が職権で離婚の請求を却下することも出来る。

⑥重罪判決離婚
配偶者が殺人や強姦などで懲役10年以上が予定される重罪判決を受けた場合は離婚が認められる。

どんな離婚であっても裁判所を介するので、書類や時間、費用、場合によっては弁護士や証人などが必要になってくる。
2007年までは例え双方が同意している離婚だとしても離婚が認められるまでに1~2年要したが、2007年以降は両者が同意している場合は公正証書を作成すればそこまで時間はかからなくなったらしい。
これは民事婚の離婚である。

しかもあくまでも離婚が認められるかどうかの審判であって、財産がどうこうといった争いの調停ではない。
財産云々についてはフランスでは結婚前に「コントラ・ド・マリアージュ(Contrat de marriage)」という結婚契約書を交わすことが多いという。
これをしておかないと共有財産となり、離婚時に揉めるもとになるのだとか。







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# by yumimi61 | 2018-12-14 17:10
25歳の年の差婚対決

フランスのマクロン大統領は2017年5月に就任。39歳というフランス史上もっとも若い大統領が誕生した。
2年以上の長期株主に対して二重議決権を付与するフロランジュ法(the Florange law )を施行したのはオランド政権であるが、これを主導したのはオランド大統領側近だったマクロン氏だったという。
マクロン氏は財務のプロで、ロスチャイルド家の銀行マン(投資家)となり、副社長にも就任していた。

そんな彼は自ら進んでカトリックに身を投じた熱心なカトリック教徒で、25歳年上の奥様ともカトリック・イエズス会系の私立学校で出会っている。教師と生徒としての出会い。
フランス語とラテン語を教え、演劇部の担当もしていたというブリジット先生。
彼女はチョコレート会社を経営する裕福な家庭で育ち、当時40歳ほどで銀行家の夫との間に子供が3人いた。そのうちの1人はマクロン氏の同級生だったという。
だが2人は恋愛関係に発展。『高校教師』とか『中学聖日記』とかを地で行く展開では。しかも不倫ということになるので、純愛では収まりきれず泥沼感もあり。
当然マクロン氏の両親は大反対。
しかし2006年になりブリジット先生が離婚し、2007年に2人は晴れて結婚。マクロン氏29歳、ブリジットさん54歳。
さすが愛の国フランスだわ~♡(いやいやいやいや?)
いずれ映画化するんでしょ?(Nice Idea!? しない?)

エマニュエル・ジャン=ミシェル・フレデリック・マクロン( Emmanuel Jean-Michel Frédéric Macron)
1977年12月21日、カトリックの大聖堂が有名な町アミアンで生まれた。

神経学者である父ジャン=ミシェル・マクロンと医師である母フランソワーズ・マクロン=ノーグスの息子として生まれる。父と母は2010年に離婚している。
非宗教的な家庭で育ったマクロンは、12歳の時、自らの要求でローマカトリックの洗礼を受けた
地元のイエズス会系私立校ラ・プロヴィダンス高校(リセ・ラ・プロヴィダンス、Lycée la Providence à Amiens)在学中の1994年、「コンクール・ジェネラル (Concours Général) 」受賞する。アミアン音楽学校ではピアノの学位を取得した。
その後、現在の妻ブリジット・オジエールの関係からリセ最後の1年をパリ5区の超名門公立校アンリ4世高校(リセ・アンリ=キャトル、Lycée Henri-Ⅳ)で学ぶこととなった。バカロレアに合格後、そのまま同校グランゼコール準備級(CPGE)に進学。
パリ第10大学3回生に入学、ヘーゲル哲学に関する論文で学位を取得。その後はパリ政治学院(シアンスポ)、国立行政学院(ENA)というフランスにおける官吏養成のエリートコースを卒業する。
2006年に社会党に入党し、2007年大統領選挙で社会党候補のセゴレーヌ・ロワイヤルを支援した。

(2007年結婚)
2008年、ロチルド家(ロスチャイルド家)の中核銀行であるロチルド & Cieに入行する。2010年には副社長格にまで昇進し、一時期の年収は200万ユーロにも上ったという。

2012年から大統領府副事務総長としてフランス大統領フランソワ・オランドの側近を務めるようになる。
 


カトリック国フランスの政教分離

2018年4月9日、マクロン大統領はカトリック教会の集会で400名の司祭を前にスピーチした。

「教会と国との傷ついた関係を修復する」

この発言がフランスで物議を醸した。
フランスでは1905年に政教分離法を制定、1958年憲法第1条にてライシテ (政教分離・非宗教性)を国家の基本理念だと定めている。
フランスの大統領はみなカトリック教徒であることはすでに述べたが、だからこそ少なくとも表面上は政教分離しておかないと宗教改革や市民革命のような反発を招きかねないことをフランスの権力者たちは知ってもいる。
それなのに現職大統領が教会との関係を密にするような発言をしたものだから案の定批判されたのである。

Paris et toiFrance Today2018年4月11日
マクロン大統領、カトリック教会との「関係修復」に言及して物議に


マクロン大統領は9日夜、パリ市内でカトリック教会の司教会が主催した懇親会に出席し、演説を行った。大統領はこの機会に、国と教会の間の関係修復に向けた意欲を表明。この発言が物議を醸している。
フランスでは長らくカトリックが支配的で、政教分離の原則が法律により確立したのは1905年のことに過ぎない。マクロン大統領が今回、「国と教会の間の関係修復」に言及したことについては、国と教会の間に関係があると認めること自体が既に政教分離を侵害することにほかならないとする批判の声が、政教分離の擁護派から出されている。マクロン大統領本人が、イエズス会系の私立学校で教育を受け、キリスト教の文化と思想の影響の下にあるだけに、今回の出席と発言に強い警戒の目を向ける向きもある。大統領サイドは、イスラム教やユダヤ教、プロテスタントなどが主催の懇親会にも大統領は出席しており、市民社会の代表としての宗教との間で国がしかるべき関係を結ぶのは当然のことだと反論している。



「自由な国」と「カトリック国」の温度差

統計上は約70%のフランス人がカトリックだとされているが、実際に教会に通い信仰を実践しているのは、全人口の10%以内であろうと言われている。

フランス人の間にカトリック教会に対する反発が芽生えたというより、宗教全般に対して懐疑的な、若しくは冷めた見方をする人々が大半を占めるようになっていた。
そうした中、1925年、リジューのテレーズは教皇ピウス11世によって列聖され、世界中から注目を集めた。
60年代から70年代に掛けて共産党などの左派、リベラル派の影響力が拡大し、人々のカトリック教会に対する距離は益々拡がっていった。教会で結婚式を挙げる人も少なくなり、1999年にはパックス法が制定された。
かかる傾向に危機感を覚えた極右政党国民戦線や共和国運動はイスラム教に対する反感やアフリカ系フランス人に対する侮蔑感情を背景にカトリックの国教化を主張している。
そうした風潮の中でもルルドには今でも巡礼者が世界中から足を運んでいる。


カトリック教徒の家に生まれ洗礼を受けて自身もカトリック教徒だったとしても、若者は宗教に懐疑的だし醒めていて熱心な信仰心など持っておらず、教会とも縁遠い場合が多いというのが近年の現状だという。
しかし、興味がない・面倒くさいというだけであって、カトリックそのものに強い反発心があるわけではない。従って宗教改革を起こそうというような気運があるわけでもなく、世界的に注目されるような出来事に対しては、それが宗教的に関係することでもあっても寛容である。

宗教的なことというのは、アンダーラインを引いた箇所のように宗教を是とするものである場合もあるし、同性婚承認など宗教を非とするものである場合もある。

政教分離を掲げるカトリック国のカトリック教徒である権力者たちは、こうした国民を前にいったいどのように立ち振る舞ってよいものか難しいところではある。


マルシェ

2006年に社会党に入党したマクロン氏だったが、ロチルド(ロスチャイルド)銀行で働いていた2009年に離党し無所属となっている。
そのマクロン氏が大統領選挙の前年2016年に自ら新党を立ち上げた。

2016年4月6日、マクロンが「 En Marche !╱アン・マルシュ!」(前進!)としてアミアンで設立した。
2017年5月にマクロンが大統領に当選した翌日に党名を「La République En Marche !(共和国前進)に変更。
英語メディアは本政党をForward!、又はOn The Moveとして紹介している。


Forwardはオバマ大統領が選挙で使ったスローガンだし、Let's Moveならオバマ大統領夫人の呼び掛けで始まった子どもの肥満防止キャンペーンですね。

マクロン自身は、共和国前進は左翼でも右翼でもなく、革新的な組織なのだと語っており、進歩主義運動だと考えている。

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なんで赤坂?


日本人にとって「Marche(マルシェ)」は「市場(いちば)」ですけどね。
群馬県前橋市には「ふらんす市場」というケーキ屋さんがあります。
マルシェで言えば、O157食中毒事件が起きたのが「食彩館マルシェ」でした。厳密に言うと、食彩館マルシェに入っていた惣菜店の「でりしゃす」。
入っていると言ってもテナントではなく、フジマートやアバンセ、マルシェを展開しているフレッシュコーポレーションのお店だから系列。
中毒を起こした人が購入して食べたのが8月のお盆前後だったけれど、まさにあの時、私もそこのお惣菜を食べていたのです。妹に買ってきてもらって。ポテサラではなかったですけど。

2017年9月20日 日本経済新聞
埼玉、群馬両県で系列総菜店「でりしゃす」の商品を食べた人が腸管出血性大腸菌O157に感染し集団食中毒を起こした問題で、店を運営するフレッシュコーポレーション(群馬県太田市)は20日、「でりしゃす」全17店を閉店したと発表した。
「でりしゃす」は群馬県で12店、栃木県で3店、埼玉県で2店を展開。いずれも19日付で営業を終了した。同社は閉店の理由について「総合的な経営判断の結果」と説明している。



分断する国が独裁?分断しない国が独裁?

カトリック教会の司祭を前にして「教会と国との傷ついた関係を修復する」と発言し批判を浴びたマクロン大統領。
それに対して大統領サイドは「イスラム教やユダヤ教、プロテスタントなどが主催の懇親会にも大統領は出席しており、市民社会の代表としての宗教との間で国がしかるべき関係を結ぶのは当然のことだ」と反論したという。

ジャン=リュック・メランション 左翼党(不服従のフランス)
2017年大統領選で得票率19.58%で第4位
「教会と国に関係など存在しない。1905年に断ち切られたのだ。今から大統領さんはシナゴーグ・モスク・仏教寺院を巡業するのですか?情けない」

マニュエル・ヴァルス  社会党 オランド政権の2014~2016年で首相
スペイン・バルセロナ生まれで来年バルセロナ市長選立候補予定
「ライシテ。それがフランスだ。1905年制定のライシテ法、教会と政治の分断、この法律が全てで、ただそれだけだ」

ブノワ・アモン 社会党 
2017年大統領選で得票率6.36%で第6位
「いつ国と教会の関係が悪くなったんだ?同性婚解禁法の時か?修復しなくちゃいけない?生命倫理法改正の時か?生殖補助医療についてか?」

ちなみにマクロン大統領の得票率は24.01% だった。
極右政党とされる 国民戦線のル・ペン候補が21.3% 、第3位は共和党の候補で20.1%で、4位までの得票率が20%前後と国民の支持は完全に割れている。
(4人は、リベラル?、極右、中道右派、中道左派といった感じになる)
1回の投票で当選するには有効投票総数の過半数を得る必要があるが該当者がいなかったので、上位2候補による決選投票が行われマクロン大統領に決まった。
カトリックの国教化を主張するのは「国民戦線」や「共和国運動」といった極右政党、「アクション・フランセーズ」などの王党派団体。
選挙では国民戦線の候補者と決選投票になったマクロン大統領だけれど、彼もまた熱心なカトリック教徒で「共和国前進」などという名前の党まで作ってしまった。極右の「共和国運動」に似ている名前ですね。


結婚自体が認められていないカトリックの司祭

同性婚合法化の際にもフランスはかなり揉めている。
賛成の人がどういう理由で賛成し、反対する人がどういう理由で反対するのか分からないけれど、カトリックは表向き同性愛や同性婚を認めてこなかった。
だけどカトリック教会って同性愛の聖地じゃないの?誰よりも同性愛に寛大そうなんだけれども。
愛は良いけれど(あるいは性は良いけれど)、婚はダメということなんだろうか?
なにせカトリックの司祭は女性相手だとしても結婚できない。生涯独身が司祭の条件。
好きな人が出来ても結婚できないのがカトリックの司祭。同性婚なんか認めたらますます恋人がいなくなるから反対とか?

国民の間では、反対・賛成の評価が二分している。
特に、合法化後は、反対派の抗議が激しくなっており、2013年5月21日には、ノートルダム寺院で、フランスの作家が自殺した。同性婚合法化への抗議とみられる。

2013年5月26日には、パリで同性婚反対派による大規模なデモ(参加者は、主催者発表では100万人、フランス当局発表では15万人)が発生、警察と衝突し、96人が逮捕された。

2013年5月29日には、フランス初の同性婚カップルが誕生したが、彼らの結婚式場には反対派のデモ隊が詰めかけ、カップルが式場に入ろうとした時、発煙筒が投げつけられるなど騒動が起き、機動隊が式場を警備をする事態となった。

2013年6月9日には、全仏オープンの決勝戦で、同性婚合法化に抗議を目的として、半裸の男が乱入する騒ぎがあった。





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# by yumimi61 | 2018-12-13 12:44
中国の国有自動車メーカー

前記事の終わりに次の筆頭株主を載せた。

<筆頭株主>
・ルノー フランス政府
・プジョーシトロエン(グループPSA) フランス政府・中国の東風汽車・創業家
・ボルボ 中国の吉利汽車
・ダイムラー 中国の吉利汽車、(3位ルノー日産)


プジョーシトロエン(グループPSA)に中国の「東風汽車集団有限公司」が資本参加して、創業家とフランス政府と東風汽車がそれぞれ14%ずつ株式を保有している。
「東風汽車集団有限公司(東風汽車)」は中国の国有自動車メーカー。
「上海汽車集団股份有限公司(上海汽車)」、「中国第一汽車集団有限公司(第一汽車)」とで、中国の3大国有自動車メーカーと言われる。

・第一汽車は自社ブランドを立ち上げ、中国で初めて国産乗用車を生産したメーカー。フォルクスワーゲン、トヨタ、マツダなどとも提携していて、そうしたメーカーの自動車も生産している。

・上海汽車はフォルクスワーゲンやGMと合弁企業を設立し、フォルクスワーゲンやGMの自動車を生産している。

・東風汽車はもともとは第二汽車であった。
第一汽車・第二汽車というのが1つの国有企業で、工場がある地域が違ったり、扱っている車種が違ったりしていた。第二汽車は主にトラックやバスなどを製造していたが、独立して東風汽車となった。

東風汽車は2014年にグループPSAの株式14%を保有し、同位筆頭株主になったわけだが、1992年にグループPSAと「神龍汽車」という合弁会社を設立していた。
実はこの東風汽車はボルボ、ルノー、日産とも合弁会社を設立している。
日産は東風汽車と2つの合弁会社を設立した。

●1993年設立 「鄭州日産汽車」
「日産自動車」50%、東風汽車子会社の「東風汽車工業投資有限公司」の50%ずつ出資により設立された。
一方は親会社で一方は子会社という組み合わせでの合弁会社だったせいか、2008年に後述の子会社同士の出資により設立された「東風汽車有限公司」の完全子会社となっている。

●2002年設立 「東風汽車有限公司」
出資比率は、「日産(中国)投資有限公司」50%、「東風汽車集団股份有限公司」50%である。
「日産(中国)投資有限公司」は日産の子会社。
「東風汽車集団股份有限公司」は香港証券取引所に上場している東風汽車の子会社。

東風汽車は日本のホンダ、韓国第2位の起亜自動車とも合弁会社を設立している。


2017年 自動車メーカー総販売数

1.フォルクスワーゲン(VW) 1074万台
2.ルノーグループ(ルノー・日産・三菱連合) 1061万台
3.トヨタ自動車  1044万台
4.GM(ゼネラルモーターズ) 960万台
5.現代自動車  727万台
6.フォード・モーター 661万台
7.フィアット・クライスラー(FCA) 480万台
8.ホンダ  369万台
9.グループPSA 363万台
10.ダイムラー 327万台
11.スズキ  322万台
12.長安汽車  287万台
13.BMW  246万台
14.マツダ  163万台
15.タタ・モーターズ  128万台


2017年のトヨタと日産の販売数の比較

【国内販売台数(軽含む)】
トヨタ 233万台 …
日産   59万台

トヨタの軽自動車は子会社のダイハツ分。
トヨタ販売数は163万台で、ダイハツ販売数が63万台、日野の販売数が7万台。その合計である。

【海外販売台数(海外生産&輸出)】
トヨタ  811万台
日産   523万台 …

日産の海外販売数
アメリカ159万台、中国152万台、欧州78万台、メキシコ37万台、カナダ15万台、ロシア10万台、その他82万台

1億人超えの人口を擁し自動車産業の盛んな日本において、トヨタの国内販売シェアは40%を超えるが、それでも200万台ちょっと。
日産に至っては60万台でしかない。
トヨタや日産を支え、両社がグローバル企業でいられるのは、まさに海外生産と海外販売のおかげである。


OEM供給

OEM(original equipment manufacturer)
「相手先(委託者)ブランド名製造」、「 納入先(委託者)商標による受託製造」などと訳される。
AとBの2社が契約を結んだ場合、A社がB社に製造を委託し、完成した製品をA社のブランドで販売するという方式。

日産の海外販売台数には次のようなOEM供給分が含まれている。
・日産で製造した自動車をフランスのルノーブランドで販売する。
・日産で製造した自動車を中国の東風汽車ブランドで販売する。
要するに製造のみを請け負った分の台数も含まれている。
この場合には、見た目では日産車かどうか分からないということである。
つまり「日産」というブランドに惹かれて購入されたものではないということ。(だから技術の日産?)
購入者が何を基準に選んだのかは分からないが、「ルノーブランド」に、「東風汽車というブランド」に惹かれたということも無きにしも非ず。

製造する能力や設備を有していない会社が他社に委託して作ってもらうということもある。
一方で、製造する能力や設備は有しているが、販売力に欠けるので名前(ブランド)を借りるという場合もある。

日産初の軽自動車モコ(MOCO)は、スズキのMRワゴンである。それを日産で売るとモコになるOEMである。

日産はカルロス・ゴーン体制になってから軽自動車をラインアップに加えることを明言しており、前年の2001年4月2日にスズキとの共同プレスリリースで、軽自動車のOEM供給に関して合意したと発表していた。その車がこの「モコ」である。モコの販売は日産リバイバルプランの1つで、軽自動車購入層の取り込みを狙った物である。

日産では自社およびグループ各社で軽自動車を手がけていないことから、最大手(当時)のスズキから「MRワゴン」のOEMを受け販売される車種で、軽であることを強調するために、テレビコマーシャルでは軽自動車で用いられる黄色いナンバープレートをデザインした広告展開がされた。

日産の軽自動車はこの「モコ」を足がかりとして、翌年の2003年には三菱自動車工業から軽商用車「ミニキャブ」のOEM供給を受け、「クリッパーバン/クリッパートラック(現在のNV100クリッパー・NT100クリッパー)」として販売を開始、その後もオッティ(三菱・eK)、ピノ(スズキ・アルト)、クリッパーリオ(三菱・タウンボックス、後にエブリイワゴンに切り替え)、キックス(三菱・パジェロミニ)としてOEM供給を受け、ラインナップを増やしていったが、現在、日産が販売する軽乗用車は2013年6月に販売を開始した3代目eKワゴンとの共同開発車である「デイズ」と、eKスペースとの共同開発車であるスーパーハイトワゴン「デイズルークス」、軽商業車は、NV100クリッパー・NT100クリッパーと、スズキ・エブリイワゴンOEM車種で軽ワンボックスカーの「NV100クリッパーリオ」の5車種である。


OEM車を製造側と販売側(ブランド名側)どちらの販売台数に含めるかによって台数も変わってくる。
両方が含めばダブルカウントである。


逆転現象

ルノー日産のゴーン会長が逮捕された時に、日産のほうが販売台数も多いし時価総額も高く業績は日産のほうが良い、すなわち両社の力関係は親子逆転現象に陥っていると盛んに報道されていた。
だけどOEM車などもあるから、実際のところどちらかがどれだけ貢献しているのかは分からない。

例えばフランスの自動車メーカーはアメリカから全て撤退しており販売網を持っていない。
従ってルノーが自社で製造した自動車を日産のブランドで販売したりする。
車はルノーだけど、日産ブランドにして日産の販売網を利用して売る。この場合、どちらが販売台数にカウントするか。両社がカウントするのか。

株式は親子関係となる状態が法的に定められている。これはもう仕方ないことである。
でも製造と販売のどちらが優位かなんてことは法的に決まっているわけではない。
協力して成立していることに対して、どちらが上だとか下だとか言うこと自体、差別意識がありあり。

またこれは前にも書いたと思うけれど、時価総額=企業価値ではない。
なぜなら時価総額には有利子負債が含まれていないから。
その会社を幾ら出したら買収できるか、それが企業価値(EV)である。
時価総額は株価×発行株式。
日産の株式を半分近く持っているのはルノーである。
日産の時価総額の半分を支えているのはルノーと言ってよい。
さらにルノーが半分も持っているのだから安心と思って日産株を買った人もいるかもしれない。

企業価値(EV)=時価総額+ネット有利子負債
ネット有利子負債=「有利子負債額」ー「会社が保有する現金預金額」

外国ではカード使用など借金が信用バロメーターになることがあるということも書いたことがあるけれど、大きな額の借金は信用がないと出来ないのが一般的。
だから企業価値には有利子負債も加える。
時価総額が同程度ならば借金が多い企業ほど買収額が上がるということになる。
その金額を出しても欲しいと思う人がいるということは、そのモノにそれだけの価値があるということになる。
もちろん、そんなに金額は出せないから諦めようということもあり、借金が重く圧し掛かってくることもある。(→企業価値が高すぎるということ)

秋篠宮家の娘さんが結婚しようと思った男性の家族に借金が400万ほどあったということが問題視された。
これを企業買収(企業価値)に例えれば、結婚費用1億円+有利子負債400万円(実際は無利子なのかな?)ということになる。
買収する側がこの金額で買収する価値があると判断したならば、1億400万円出せばよいだけのこと。
1億400万円も出せないから買収できないと思えば諦めるしかない。
企業買収ならば負債だけが取り沙汰されて問題にされるということはあまりない。負債は信用でもあるから。
でも闇金とか何だか怪しい所から多額の借金をしているとしていたら、それは金額云々ではなく買収自体を考えてしまうと思う。



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# by yumimi61 | 2018-12-12 13:29

12🚗🚗 高級車メーカー

世界の高級車メーカー

*マークを付けた会社(ブランド)が一般的に高級車メーカーとして知られている。
太字は親会社。現在ではほとんどの高級車メーカーが傘下にある。

フィアット・クライスラー・オートモービルズ(イタリア)(持株会社)
登記上の本社はオランダ・アムステルダム、税務上の本社はイギリス・ロンドンに置かれている。創設以来、フィアット創業家のイタリアのアニェッリ家がオーナーシップを取っており同家の投資会社であるエクソールを通じて株式ベースで29.41%、議決権ベースでは44.31%を所有しており、現会長のジョン・エルカーンも同家のメンバー。
現在ではイタリア国内の事実上全ての自動車メーカーを系列下に収めている。
フィアット(イタリア)
*アルファロメオ(イタリア)
*ランチア(イタリア)
*マセラティ(イタリア)
クライスラー(アメリカ)
ジープ(アメリカ)

フォルクスワーゲングループ(ドイツ) 
*アウディ(ドイツ)→ (子会社)*ランボルギーニ(イタリア)
*ベントレー(イギリス)
*ポルシェ(ドイツ)

ダイムラー(ドイツ) 
トラックの販売における世界最大手である。「三菱ふそうトラック・バス」は子会社の1つ。
*ベンツ(ドイツ)

BMW(ドイツ) 
*ロールスロイス(イギリス)
MINI(イギリス)

タタ・モータース(インド) 
*ジャガー(イギリス)
・ランド・ローバー(イギリス)

アストンマーティン・ラゴンダ・グローバル・ホールディングス(持株会社)
*アストンマーティン・ラゴンダ(イギリス)

アストンマーティンは7回も倒産している自動車会社。
初期の主な原因は、収益に直接貢献しないレーシングカーの開発とモータースポーツへの参戦。
1959年にモータースポーツ界から足を洗い、1964年に映画『007』のボンドカーに抜擢され、アメリカ市場での販売数を伸ばした。それを機にイギリス王室メンバーのプライベートカーとしても愛用されて好調期もあった。
しかし新モデルがアメリカの排ガス規定に適合せずに販売不可能となり経営難に陥り、投資ファンドや富豪の実業家、フォードなど転々とする。
結局イタリアの投資ファンドが筆頭株主となり、クウェートの投資会社やフォードなども株式を所有していた。それまで未上場だったが2018年10月に上場した。今はどこが筆頭株主なのかよく分からない。今もイタリアの投資会社かな?


高級車って?

どんな車が高級車なのかは、国、個人の価値観、自動車会社の主張などによって違う。明確な定義もない。
例えばBMWを日本では高級車に含める場合もあるだろうと思う。
ドイツでは大衆メーカーという要素も強い。
トヨタも日産も高級車と謳う車種を製造販売しているが、高級車メーカーとは言わない。それと同じようなこと。
ランド・ローバーはSUVなので高級車に含めない場合と、含める場合もある。

明確な定義のない高級車であるが、ただ1つ重要な点は高価であるということ。(国によってどれくらいからを高価というのかが違うので、これでも差がでるが)
同程度のクラス(排気量など)よりも高額であること。通常は一般的な所得水準では購入できないような価格の自動車のこと。
かつては王室・貴族・大富豪といった人達が乗るような車のことを指していた。
車としての特徴から言えば、走行性能、静粛性能、室内装備に優れている場合が多い。
このうち技術的に関わるのは走行性能と静粛性能であるが、室内装備で値段を引き上げている場合もある。
もうひとつ大きな特徴であったのが、ハンドメイドであるということ。職人技で作り上げる。かつては受注生産のような形を採っていた。今現在もライン製造による自動化がなされていない場合が多い。
古い車をメンテナンスし長く現役で使用するという使い方が主流になっている高級車もある。


高級路線の限界

高級にもランクがあって、最高級は「アブソリュート」(例:エルメス)、中間層が「アスピレーショナル」(例:ルイ・ヴィトンやグッチ)、その下が「アクセシブル」(例:バーバリーやコーチ)である。

こうした高級ブランドを扱うのはラグジュアリーブランドビジネスである。
ラグジュアリーブランドでは一番下層になる「アクセシブル」は「エントリー高級」とか「エントリーモデル」などと言われ、ファッション・装飾業界以外でも用いられる言葉。
以前に希少であるだけで値が上がるという話を書いたけれど、ラグジュアリーブランドは希少性が売りなので、市場シェアは追わない。シェア率No1なんてある意味不名誉であろう。
目指すところが一般的な会社と違う。

バーバリーが売れ残りを焼却処分したということで問題になったことがあったけれど、希少・高価・物語性で売っているラグジュアリーブランドが売れ残りだとかB品だとかという現実を見せつつ安売りされて顧客が広がってしまったら、それだけでラグジュアリーブランドの価値は下がってしまう。
ラグジュアリーブランドの死活問題である。
バーバリーの売れ残り焼却問題は、バーバリーが「エントリーモデル」に属しており、さらに上層よりは幅広い層を相手にするので売れ残りという現象を起こしやすいということも関係しているのかもしれない。
人口が増えて格差は広がっている世界においては、高級ブランドの経営はかなり厳しい時代になっているのかもしれない。

自動車業界で言えば、高級自動車メーカーの1年の販売数は、数百台・数千台、エントリーモデルで数万台~数十万台で、自動化を果たして最高多く見積もっても100万台くらいといったところ。
マスマーケットが主のメーカーの上位は、1年で500~700万台を売り上げる。
数では相手にはならないのは一目瞭然。では1台あたりの利益率がどれくらいあるのかということになるが、高級車メーカーがみな有力大衆車メーカーの傘下に入っているということは、今の世では高級戦略だけでは通用しないということだろう。
だけど一方で、個人相手のマスマーケットも行き詰まっている。


アメリカや日本のフルライン戦略

ヨーロッパは長いこと階級社会だった。
’新大陸’であるアメリカは違う。そうした階級や権威のない自由さが売りである。
多くの移民を受け入れてきたことは’動’の象徴でもある。
人々はどこにだって行ける。誰にでもアメリカンドリームを掴むチャンスがある。
そんなアメリカという国の特徴を生かして、アメリカの自動車会社GMが1930年頃から採用しだした経営戦略がフルライン戦略である。

フルライン戦略
メーカーが生産ラインを特定の製品に絞り込まずに、幅広い製品を製造して市場全体をターゲットにするという戦略。
例えば自動車メーカーならば低価格小型車から高級セダンまでのほとんど全ての車種を製造して、あらゆる顧客のニーズに応えるという戦略である。
フルライン戦略を行えば関連性の高い複数の製品の研究や製造や販売を同時に行う事で相乗効果が期待できる。また細かなニーズにまで応えられるために顧客を競合他社に取られる事を防ぐということも期待できる。フルライン戦略を行うには大量の経営資源が必要となるために、これを実行できる企業は限られている。


自動車メーカのフルライン戦略は、1つの会社が多くの種類の製品を製造して、自社製品にランク付けしたようなもの。
価格帯が違う製品を作ることによって、買える買えないで消費者を振り分けてしまう。
家柄や出自などで決まる階級がない代わりに、給与や資産など経済状態で人々を階級分けするようなものである。
でも絶対に動かない階級ではないので、仕事や人生に成功すればランクアップしていき、持てる自動車もステップアップできるというわけ。
もちろんアメリカンドリームを掴むような人はごくごく一部にすぎないが、ランクがあるだけに成功の道筋が見えやすく、成功の証を可視化しやすい。「自分にご褒美」ではないけれども、ちょっと無理をしても購入することがあり、買い換えの動機にもなる。
何だかんだ言っても人間は「差」が好きな生き物なんでしょうね。

日本の自動車会社もアメリカGMのフルライン戦略に倣った。
「いつかはクラウン」なんていうトヨタのCMコピーがあったけれど、まさにフルライン戦略にて人々の欲望を刺激するコピーである。

フルライン戦略を採るメーカーの上位の販売数は1000万台前後。


GMの落陽

フルライン戦略を採っていたはずのGMが1970年代のオイルショックで日本の小型車の進出を許してしまう。
国土面積の大きさが仇になったというか、オイルショックが人々に与えた影響はそれほど大きかったというべきか。

GMは 1930年代から第二次大戦後にかけてアメリカ最大の市場シェアを握り、特に1950年代から60年代には世界最大の自動車メーカーとして繁栄した。70年代以降は輸入車との競争に苦しみ低迷、2009年6月1日に連邦倒産法第11章の適用を申請し倒産、国有化された。2013年12月9日にアメリカ合衆国財務省が保有するGMの株式全ての売却が完了し、国有化が解消された。

経営悪化の直接的原因は2001年のアメリカ同時多発テロ事件における販売台数の減少。
GMが採った対策は結果的に日本のトヨタが有利になるものであった。
オバマ大統領が就任した2009年にはGMは国有化されたのだった。

2005年以降は、提携先の株式の処分も進められている。10月には、資本提携していた富士重工業(当時)株をトヨタ自動車へ売却、2006年にはいすゞ自動車株を売却し資本提携を解消、2006年3月には、スズキ株の大半を売却し、2008年11月18日付で資本提携を完全に解消した。こうした株式の処分は特別利益となり経営体質の改善に直結するが、一方でGMの伝統である、地域毎に多種多様な車種を生産し融通し合うという特徴(サブコンパクトカーの開発・生産はスズキやいすゞが担った)を薄めることであり、今後の商品開発力低下を危惧する見方もある。

2006年7月には、カーク・カーコリアン率いる投資会社・トラシンダから、ルノー=日産アライアンスとの提携を推奨され協議に入ることが大々的に報じられたが、GM首脳部には提携の意志はなく、同年10月中に破談し交渉は終了している。


日本で外国メーカーの車に乗っていたら、それはほとんどの場合「外車」という扱いで、多かれ少なかれ特別な感じがある。
「特別」というのは同クラス車種に比べて「概して高い」ということでもある。
オイルショックをきっかけにアメリカに進出した日本車は、ある時・ある人によっては「外車感」を満たす外国車であり、ある時・ある人にとってはほぼアメリカ車という位置づけにある(現地生産をしていてそれだけ流通しているから)。
一億総中流みたいな日本に比べたらアメリカは、いろんな事情を持つ様々な人種がいて日本よりも人口が多い。
GMがアメリカにおいて「外車感」を出すことは絶対に出来ないし、日本で「現地車感」を出すことも出来ない。だけど日本メーカーは「外車感」も「現地車感」も醸し出せる。それだけ需要層(購買層)を広げる。

少し言い方を変えると、日本人が移民大国アメリカに行ってアメリカ人になることは可能である。
だがアメリカ人が日本に来て日本人になることは現状とても難しい。
例えどんなにアメリカ人の日本語が上手でも、あるいは帰化したとしても。
そのあたりの違いは自動車の販売にも通じることである。


アメリカと同じく自由を掲げるヨーロッパの国フランス

フランスには現在高級車メーカーがない。
小型車主流の大衆向け自動車メーカーのみ。
1976年に経営難に陥っていたシトロエン(フランス)をプジョー(フランス)が買収し、PSAという持株会社を設立したプジョーとシトロエン(現:グループPSA)。
もう1つがルノーである。

フランス政府はどちらの株式も保有している。
議決権ベースとはないので保有率だと思うが、ルノーの株式は15%保有。プジョーシトロエン(PSA)の株式は14%保有。

2014年にグループPSAは「東風汽車集団有限公司」(中国)と資本提携を締結した。
プジョー創業家、フランス政府、中国の東風汽車が14%ずつ保有している。


筆頭株主

トラック販売における世界最大手で、高級車メーカーベンツの親会社でもあるダイムラーの現在の筆頭株主は「浙江吉利控股集団」(中国)である。
厳密に言うと株主は「浙江吉利控股集団」の李書福会長個人らしい。
「浙江吉利控股集団」がダイムラーに資本提携を申し入れたが断られたため、株式市場にてペーパーカンパニーやらいろいろ駆使してドイツに気付かれないように筆頭株主に躍り出たとか。
ゴールドマン・サックスなどが指南役ではないかとも囁かれる。

ダイムラーのかつての筆頭株主はドイツ銀行(中央銀行ではありません)。(近年ドイツ銀行の経営が危ういと言われている)(メインバンク?)
そのドイツ銀行が2005年にダイムラー(当時はダイムラー・クライスラー)の株式を大量に売りに出した。
筆頭株主になったのはアラブ首長国連邦(UAE)アブダビの政府系投資会社。この投資会社も2012年までにすべての株式を売却。
その後、筆頭株主になったのはクウェート投資庁(6.8%)。2位がルノー日産(3.08%)
トラック販売の世界最大手で、ベンツも傘下なのに安定株主がいないというのがダイムラーの実情なのだ。

先日も書いたが、「浙江吉利控股集団」はボルボの乗用車部門を子会社とし、商用車に特化したボルボグループの筆頭株主でもある。

<筆頭株主>
・ルノー フランス政府
・プジョーシトロエン(グループPSA) フランス政府・中国の東風汽車・創業家
・ボルボ 中国の吉利汽車
・ダイムラー 中国の吉利汽車、(3位ルノー日産)



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# by yumimi61 | 2018-12-11 15:08

11🚗スウェーデン

・蛍光灯の寿命が近づいている時に明かりがチカチカする時がありますよね。消えるまでとは(点滅とまでとは)いかないけど安定せずにチラついている時。
私はあの状態を「蛍光灯が息してる」と言ったりするのですが、あまり一般的な言い方ではないらしいのです。
方言的な言い方なのか、家族あるいは近親者の誰かがそう言っていたのか。どうして私がそう表現するようになったのかは全く覚えていなかったりします。
「息切れしている」が短縮されて「息してる」?
それとも連続するチカチカを、吸ったり吐いたりを繰り返す呼吸に例えた?
呼吸は生命に直結する重要なものであるけれど、健康な時に人は呼吸を殊更意識することはありません。
すなわち呼吸を意識するようになるということは、どこかしら死を意識している時ということになります。
観察者は蛍光灯に「死(寿命)」をみているから「息してる」と表現するのかもしれません。



スウェーデンの市場と工夫

スウェーデンは自国の市場規模がとても小さい。自国の´数´だけで世界と勝負できる環境にはない。
よってスウェーデン企業が生き残るためには必然的に世界市場で競わなければならない。
税金の高さということだけでなく、強い経済、結果を出せる経済が、高福祉国家の源泉でもある。
従ってシビアな面も併せ持つ。

スウェーデンは自国の自動車会社を救済しなかった。
製造業からITなど知識集約型産業へのシフトを図った。
この時に労働者も製造業から知識集約型産業へと移行させた。
知識集約型産業とはー知識労働への依存度が高い産業のことで、労働集約型産業の一種。一般に研究者や技術者を数多く抱えており、コストに占める研究開発投資の割合が高い。

わりと簡単に従業員を解雇したり会社を破綻させたりするが、その代わり転職へのハードルも高くない。
どこで働こうと社会保障の内容が変わることがない安心感も存在する。

違う業種への転職においては政府が中心となり職業訓練なども提供する。
また障害者の働き場や心身に問題がある人の治療期や回復期の働き場を提供する。
現役世代には金銭的な保障をするのではなく、働き場を工夫し積極的に提供し、そこで働いてもらい税金を徴収する。
お情けで与えた職場ということではなく一定の貢献や結果を出すことが求められる。従ってやりがいにも繋がりやすい。


日本の障害者雇用モデル

ソニーにはスウェーデンのようなコンセプトで設立されたソニー太陽という会社がある。
先駆者はオムロンである。

オムロン太陽
大分県別府市に本社を置く電子部品などを製造・販売する会社。1972年設立。
オムロン株式会社の特例子会社であり、電子機器に使用する部品(リレー部品、センサ部品、スイッチなど)を製造している。 「世に身障害者(児)はあっても仕事に障害はありえない」を信念に活動していた社会福祉法人「太陽の家」創始者の中村裕と、「企業は社会の公器である」というオムロン創業者の立石一真の理念が協調し、福祉施設と民間企業の合弁という形で設立された。
このことから、社員に占める障害者の割合は、非常に高いものとなっている。


この運営に賛同したソニー創業者の1人・井深大がソニー太陽を1978年に設立した。全社員の約60%を障害者が占めており、マイクロホンの生産などを手がけている。

オムロン(OMRON)
世界初の無接点近接スイッチを開発するなど産業用オートメーション機器に強みを持つが、一般消費者には健康医療機器で知られる。家庭用電子血圧計は世界トップシェアを誇る。また、自動改札機、ATM(現金自動支払機)など世の中にない製品を創り出すベンチャー精神がある。これらはプロジェクトXで取り上げられた。近年では、液晶テレビのバックライトが知られる。
世界7極に地域統括本社を設置(日本、アメリカ、オランダ、中国、シンガポール、インド、ブラジル)。中国を中心とした海外へのビジネス展開に積極的で、既に連結での海外売上比率は5割を超えている。


不祥事もあります。

研究開発における画像情報の不適切な利用

2014年7月に、グループ会社のオムロンソーシアルソリューションズが行っていた研究開発において、画像の不適切な利用が発覚した。

1)東日本旅客鉄道(JR東日本)から改札口付近の客の流れを調べる目的で委託を受けて国分寺駅・板橋駅・桜木町駅で撮影した映像を、独立行政法人情報通信研究機構から委託を受け2006年度から2010年度にかけて行っていた「高度画像監視センサネットワーク技術の研究開発」に無断で流用した。改札口の不正通過、けんか、うろつきなどの不審な行動を取った人を追跡するシステムの開発を目的とした研究で、総務省より約2億5000万円を受け取っている。

2)文部科学省の補助事業「人物画像解析システムの開発」において、2012年5月と7月に京都駅駅ビルで施設管理者の許可を受けずに駅利用者を撮影したほか、その映像を学会などで公開していた。100人規模の人の中で人の動きを1人ずつ追跡するシステムの開発を目的としたもので、文部科学省より約2億4000万円を受け取っている。

EU環境基準を満たさない製品の出荷

パーソナルコンピュータ用の停電時のバックアップ電源装置(無停電電源装置)5製品について、欧州連合(EU)の環境基準を満たさないにもかかわらず、基準に適合しているとして出荷していたことが、2018年6月に明らかになった。同社は同年5月に社内調査を実施し発覚していたが、公式発表は大幅に遅れた。



成功の条件

ハンデがあってもなるべく働いてもらおうというスウェーデン方式は現役世代に支出される社会保障費の削減につながる。
老後が保障されている国なので、必要以上に高給を与えなくてもよい。
ただこのタイプもやはり移民が問題になるらしい。
移民の数がそれほど多くなければ、障害者の働き場や心身に問題がある人の治療期や回復期の働き場に移民の人も入ってもらうということが出来たが、その数があまり多くなると効率が悪くなり、一企業として企業の中の一部門として自立できるというコンセプトから外れてしまう。
人口がそれほど多くないので労働力は貴重だが、世界市場で競わなければならない企業としては、効率の悪さは歓迎できるものではないだろう。
知識集約型産業となれば、研究開発に費やすコストが高いので、より大きな結果や効率の良さが求められる。
どんな素晴らしい製品が生まれたとしても、それに費やした研究開発費を回収できなければ業績に繋がらない。
スウェーデンの人口は950万ほど。東京都の人口は1400万に近い。日本と比べるとそれほど少ないということ。だからこそ効率追求や高福祉が実現可能な国であるとも言える。

スウェーデンでIT産業が盛んになったのは、そういうスウェーデンの事情が再評価されて集中的に投資されたからであるが、スウェーデンの世界的に有名な企業は決して最近できた新しい会社ではない。


スウェーデンの未来

<スウェーデンの世界的に有名な企業>
エリクソン(通信機器メーカー)、エレクトロラックス(家電メーカー)、イケア(家具量販店)、H&M(アパレルメーカー)、ファルマシア(製薬企業)、アストラ(製薬企業)、サーブ(自動車メーカー)、ボルボ(自動車メーカー)。

エリクソンは先日ソフトバンクの通信障害の原因と報道された企業。
ファルマシアはアメリカのモンサントなどに吸収合併されて今はファイザー(アメリカ)となっている。
アストラはイギリス企業と合併して、今はイギリスに本社を置くアストラゼネカになっている。
イケア(家具量販店)とH&M(アパレルメーカー)は比較的低価格な商品を世界展開させている。
エレクトロラックスは幅広い製品を世界中で展開する世界2位の総合家電メーカーであるが、日本は自国の有力家電メーカーが幾つもあったせいか日本で製品を見ることはほとんどなく、その知名度は極めて低い。
世界初の掃除機、世界初の食洗機、世界初の電子レンジ、世界初のノンフロン冷凍冷蔵庫、世界初のロボット掃除機など新しい物を生み出してきた点で傑出している。
オムロンに関する記述に「世の中にない製品を創り出すベンチャー精神がある」と書いてあるが、エレクトロラックスも同じく。
しかし世界初の発明が即利益に繋がるとは限らない。開発費と価格と需要(ヒット具合)によるだろう。
また「世の中にない製品を創り出すベンチャー精神がある」なんていう形容がいつしか重圧になっていき利益を度外視してしまったり、無理をして皺寄せを生んだり不正の温床になったりということもなくはない。

エレクトロラックスは市場規模の大きい中国にも進出したが、大衆市場向け(マスマーケット)では利益が出るほど入り込めず、高級路線やデザインや性能を重視するコアマーケットにターゲットを切り替えたようだ。
スウェーデン政府が救済しなかったサーブは破綻したし、ボルボは中国の息がかかっている。
スウェーデンも新しい企業が成長してこなければ結構微妙な感じに見えるがそうでもないのだろうか。

同じスウェーデンの企業であるボルボとエリクソンが協力して電気自動車の開発に積極的な時期もあった。
ロボット掃除機も電気自動車といえば電気自動車っぽい。ミニチュア世界の電気自動車。
もしボルボ&エリクソンがどんなところでもお任せで走れる世界初の全自動運転車を開発し量産に漕ぎ着ければ・・と思わなかったところがスウェーデン政府!?
開発・量産されても儲かるのはIT企業で自動車会社は儲からないから自動車会社はいらない?
投資費用(開発費など)を回収できそうにない?
ほらみたことか?




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# by yumimi61 | 2018-12-09 10:58
完全民営化(1996年)したルノーが積極的に関係を持ったのが、タイプの違う「大きな政府」型の2国、日本とスウェーデンである。

1990年、ルノー45年ぶりに民営化へ、スウェーデンのボルボと業務・資本提携し、株式会社に改組。
1996年、ルノー完全民営化。
1997年、アジア通貨危機。
1999年、日本の日産自動車の株式36.8%を取得して傘下におさめる。(現在は43.4%保有)
2000年、韓国の三星自動車の株式80.1%を取得してを傘下におさめ、韓国にて「ルノーサムスン自動車」を発足させた。


スウェーデンのボルボを巡る動き

●1999年、「ボルボ」(スウェーデン)が乗用車部門を「フォード」(アメリカ)に64億ドルで売却。

ボルボという会社はもともとがトラック製造から始まっているが、1999年に乗用車部門をフォードに売却して商用車に特化した。
乗用車事業を分離売却した後、他国の商用車メーカーの買収によるトラックやバスといった商用車に特化した世界戦略をとっている。2016年時点で世界2位のトラックメーカーである。また、建設機械、船舶の各事業部と併せ、大型ディーゼル機関を中心としたグループを展開している。


●2001年、 「ルノー・ビークル・インダストリー」(フランス・ルノーの商用車事業子会社)を買収すると共に、ルノーの出資を受け入れルノーがボルボグループの筆頭株主となった。

商用車に特化した世界戦略をテコ入れするためか、ルノーの商用車専門の子会社をボルボが買収した。
その代わりにルノーがボルボグループの筆頭株主になった。
いわば物々交換みたいな感じである。
買収されたのはルノーの子会社であるが、ルノーはボルボ親会社の筆頭株主となっており、ルノーと三星自動車(韓国・サムスングループの傘下)の買収関係のように対等もしくはそれ以上な関係の印象を受ける。

●2006年、「ボルボ」が「日産ディーゼル工業」の株式を取得し業務提携を発表。翌2007年2月20日に株式公開買い付けを行い、10月1日に完全子会社化した。

「日産ディーゼル」は大型車(トラック・バス)専門の自動車メーカーで、元は日産の傘下だったが、2007年にボルボの完全子会社となり日産との資本関係は消滅した。2010年に「UDトラックス」に社名変更。
主力商品はトラックで、大型トレーラーの日本国内市場占有率筆頭である。普通トラック日本国内シェアは日野自動車、いすゞ自動車、三菱ふそうトラック・バスについで第4位。

●2008年、「アイシャー・モーターズ」(インド)と「ボルボ」(スウェーデン)の折半出資で合弁会社「VEコマーシャル・ビークルズ」を設立。

●2010年、「フォード」(アメリカ)が傘下のボルボ乗用車会社を「浙江吉利控股集団(ジーリーホールディンググループ)」(中国)に18億ドルで売却。

ボルボは1999年に乗用車部門を切り離した。
その2年後には特化した商用車部門でルノーと組むような形になった。
乗用車部門を買ったのはアメリカのフォード。
しかしフォード傘下のボルボ乗用車部門(会社)は経営難に陥っていた。
フォードは64億ドルで買収したボルボ乗用車部門を11年後に18億ドルで売却した。

そもそもボルボ乗用車とフォードのそれでは生産規模が全く違った。
ボルボは1年で30万台くらいで、一方のフォードは1年で500~700万台。2017年のフォードの世界新車販売数は約660万台。

アメリカにおける2017年の総生産台数は1,120万台。
日本における2017年の総生産台数は970万台。
中国における2017年の総生産台数は2,900万台。 
タイにおける2017年の総生産台数は200万台。半分はトヨタ(ということは100万台くらい)。
トヨタがタイを輸出拠点にしたのは1997年以降であるが、タイにおけるトヨタ自動車の生産累計が1,000万台に到達したのが2018年。
1,000万台に達するまでに20年あまりの歳月がかっている。
ボルボの30万台はタイ生産に限ったトヨタにすらどこにも敵わない。
こうなるとフォードのボルボ乗用車部門買収額の64億ドルが妥当だったのかということになるが後の祭り。

フォードで経営難に陥っていたボルボ乗用車。フォードはボルボの地元であるスウェーデン政府に救済を求めたが、スウェーデン政府はボルボ株を引き受けず救済を拒んだ。
同じくスウェーデンの自動車会社であるサーブも同様に見放して、こちらは結局破綻した。
大きな政府であるスウェーデンはもはや国として自動車メーカーを持つことはないと断言した。
ノーベル賞を催す国、従って科学技術にはどこよりも敏感であってよいスウェーデンという国が自国の自動車メーカーを見限った意味は大きいのではないだろうか。

●2012年、ルノーが保有していたボルボの株を全て売却。売却額は14億7600万ユーロ(20億ドル)。

ルノーはボルボの筆頭株主で議決権ベースで17.2%に相当する株式を保有していた。
売却先は機関投資家などらしいが具体的には明らかにしなかった。
売却資金は負債圧縮の他、中国やロシアへの投資に利用されるとか。

●2014年、上智大学とボルボグループの産学教育連携を発表。

ボルボは地元の名門チャルマース工科大学と共同研究を行っている。また、2014年より上智大学と産学教育連携しており、2017年現在でも継続している。
上智大学はの設立母体は、ローマカトリック教会のイエズス会である。

●2017年、 「浙江吉利控股集団」(中国)がボルボグループの筆頭株主に。

2010年にフォードからボルボ乗用車部門をおよそ18億ドルで買い取った「浙江吉利控股集団」が商用車に特化していたボルボ本体の筆頭株主にもなった。議決権ベースで15.6%を握る買収で、買収額は推定で35億ドルほど。



「フォード」傘下のボルボ乗用車部門 ⇒ 「浙江吉利控股集団」(中国)
商用車特化のボルボグループの筆頭株主「ルノー」⇒「浙江吉利控股集団」(中国)

  スウェーデンの「ボルボ」・・・・・中国の「浙江吉利控股集団」
  ※ボルボは上智大学と産学教育連携


フォード傘下では経営難に陥っていたボルボ乗用車部門だが、中国の「浙江吉利控股集団」がオーナーになってからは回復傾向にあるという。
カトリックのイエズス会系の学校で教育を受けて育ったカルロス・ゴーン取締役会長兼CEO(PDG)率いるルノーがボルボの株式を全て手放した後に、カトリック・イエズス系の上智大学とボルボの産学教育連携の発表されたことも何だか違和感がある。

中国やインドは人口が多く、市場では'数'が魅力となる。
中国では今現在も自動車生産数はダントツ世界1位である。2,900万台 (2.1%)
だが人口比で見てみると、2.1%でしかない。
タイは200万台だが、人口比は2.9%で中国よりも高い。
韓国、日本、ドイツ、スペイン、カナダが6%を超える国だが、それに比べると中国にはまだ国内市場にも輸出にも伸び代があるということになる。
但しその伸び代は高価格帯の車種ではないだろうと思う。

ドイツのBMW、アメリカのフォード、スウェーデン(中国)のボルボが、2016年に相次いで「2021年までに完全自動運転車の量産を目指す」と発表した。
完全自動運転車と聞くとマイカーが自動運転になるようなイメージを持ってしまうと思うが、現時点で目指しているのはそういうものではない。
決められたエリアにおいて決められたルートを走行するライドシェア(相乗り)向けの車両である。
要するに電車とかバスとかタクシーの代わりになるもの。
これなら交通インフラとして国や自治体や企業に売り込める。顧客ターゲットが個人ではない。
商用車、もしくは乗用車だけど商用車みたいな感じ。
個人相手が行き詰まっているということかな。

交通インフラは政府などをターゲットにするわけだが、政府という優良顧客を獲得するためのもう一つの手段が軍事ではないだろうか。






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# by yumimi61 | 2018-12-07 20:39
今日は12月6日か・・


タイで1000万台

1997年のタイ発アジア通貨危機によってタイを輸出拠点にしたトヨタ。
アジア通貨危機による販売不振などによって経営危機に陥っていた日産と三星自動車(韓国)。
その両社がルノーの傘下に入った。
それからおよそ20年が経過しようとしている。

トヨタ、タイ生産1000万台 アジア最大の輸出基地
2018/7/11 日本経済新聞 電子版

【バンコク=小谷洋司】トヨタ自動車のタイ法人は11日、同国での自動車生産が累計1千万台に達したと発表した。トヨタが一つの国で1千万台をつくったのは日本と米国に続いて3カ国目。1990年代後半以降、日本を除くアジアで最大の輸出基地に成長した。


繰り返されるクーデター

タイで絶対君主制(絶対王権)を打倒する立憲革命が起こったのは1932年のこと。

だがその後、実に13回もクーデターが起こされている。

1933年、1947年、1948年、1951年、1957年、1958年、1971年、1976年、1977年、1991年、2006年、2014年。

結局、軍政と民政の争いが続いてきたことになる。
1932年の革命で絶対君主制が倒されたと言っても、今なお君主という神聖不可侵な存在を維持して共和国にすることが出来ないのだから、革命の効果もいまひとつといったところなんだろう。
これではイデオロギーの対立ではなくて単なる権力争いに成り下がってしまう。その権力争いが幾年にも亘って続いてきたのがタイという国というわけである。

タイでクーデタの成否を分けるのは、国王の承認だという。
国王が自分の存在が危ういと思えば、民政にも、軍政にも加担するということなんだろう。おいしいとこ取り。
そしてクーデタを法的に正当化してきたのが、1952年に最高裁判所が出した「クーデタは権力掌握に成功すれば、その事実を持って合憲となる」という判決だそうである。
これ以降、裁判所がクーデターに対して違憲判決を出したことはなく、成功したクーデタは違憲ではないとされている。
タイだけでなく、また明文化や判例がなくても、多くの国で、事実上成功したクーデターは正当化されてきた。
別の勢力が権力を掌握してしまうのだから、その掌握に成功した勢力が自分達に不利な「不当」判定なんかするわけがない。
認めないとするならば国外の各国となる。
クーデター後には新憲法が作られたりするので、タイでは何度か憲法が改正されているが、クーデターの扱いは変わっていない。

民政と軍政のクーデター合戦ではどうしても軍政のほうが強くなってしまう。政治や社会の混乱を抑えるために行うという大義名分が作りやすいから。これは君主にも言えること。
民衆の暴動を押さえるという理由で軍や警察がクーデターを起こして成功させる。そこに神聖不可侵な君主が付けば圧倒的な力となる。多くの政治家もそちら側なら付いているならば鬼に金棒。
タイでは政治家の汚職批判が繰り返された。法律ではなかなか裁けない汚職もあったようだ。政権打倒が叫ばれる中、民意を問うために解散総選挙に打って出たところ野党が選挙をボイコット。現政権反対派が選挙の無効を求めて提訴し、無効判決が出る。その混乱を突いて軍がクーデターを成功させたのが2014年のクーデターだった。


関係ない!?

クーデターがわりと頻繁に起こって民政になったり軍政になったりして何だか落ち着かない国だが、タイは経済成長を続けてきてトヨタの現地事業も好調らしい。
ということは、経済と政治は直接関係ないんじゃない?
それはやっぱり王国であって王様がいるからでしょうか。


タイの軍事独裁政権首相と日本のアイドルグループAKB

2014年以降のタイは神聖不可侵な君主の下で軍事独裁政権が敷かれている。

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タイの国際関係

冷戦期にはアメリカとの同盟を基調とした西側戦略であったが、伝統的に柔軟な全方位外交を展開・維持しており、ASEAN諸国との連携、日本や中国、マレーシアといった近隣主要国との協調を外交の基本方針としている。

しかし、2014年にクーデターによって軍事独裁政権が樹立されて以降、タイは中国との関係を急接に深めるようになった。タイの軍事政権に対して、日本や欧米諸国は、クーデターを非難して距離を置いているが、中国は現在の政権を支持し、タイとの関係強化の姿勢を鮮明にしている。


欧米諸国は良く分からないけれど日本は別に距離なんか置いてないと思う。皇室を筆頭に、官民ともに親しい関係にあるのではないでしょうか。








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# by yumimi61 | 2018-12-06 22:48
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外国人持ち株比率

日産の株式の43.4%を保有しているルノー。
12月3日現在の、ルノー以外の外国人が持っている株式も含めた日産の「外国人持ち株比率」は、62.8%である。
何年か前には70%を超えていた時もあるので、その時に比べると減っている。

【12月3日現在「外国人持ち株比率」の高い上場企業】
①ネクソン(韓国のNXCの傘下) 98.8%
②LINE(韓国NHN株式会社(現:ネイバー株式会社)傘下の日本法人NHN Japan株式会社(現:LINE株式会社)) 93.3%
③日本オラクル(アメリカのオラクルの日本法人) 88.1%
④ユニバーサルエンターテインメント(日本の遊技機メーカー) 83.1%
⑤モノタロウ(事業者向け工業用間接資材の日本の通信販売会社)82.4%
⑥中外製薬(日本の医薬品メーカー) 77.2%
⑦いちご(不動産業・クリーンエネルギー事業を行う日本の会社) 73.5%
⑧東芝(日本の電機メーカー) 72.1%
⑨ナルミヤ(子供向けアパレル事業を行う日本の会社) 70.1%
⑩シャープ(台湾・鴻海精密工業傘下の電機メーカー) 69.7%

今日のところ日産自動車は16位(62.8%)である。
ソニーが31位で57.5%、ソフトバンクグループの子会社であるヤフー61位で47.9%、任天堂が62位で47.9%、エレクトロニクスメーカー&ITベンダーの富士通が73位で46.3%、日立製作所が85位の44.8%、三菱地所が94位で43.9%、第一生命HDが97位で43.5% などとなっている。


株式と議決権

日産とルノーの株式や議決権についてネットや雑誌やテレビで流れている情報がかなり間違えている。

日産はルノーの連結子会社であるが、株式を一部相互保有している。
ルノーは日産の株式を43%保有し、議決権を有している。
日産はルノーの株式を15%保有しているが、議決権を有していない。

まず株式=議決権ではない。
43%の株式を持っているからといって、43%の議決権を有しているとは限らない。
15%の株式を持っているからといって、15%の議決権を有しているとは限らない。
15%の株式しか持っていないからという理由で議決権を有していないわけでもない。

株主は有する株式1株につき1個の議決権を有するという、「一株一議決権」の原則がある。

しかし議決権が与えられない株式もあるのだ。

【議決権が与えられない株式】
①自己株式
②単元未満株式
1株から議決権を自動的に与えるのではなくて、1票の議決権を行使することができる1単元の株式を株式会社は予め定めておくことができる。
この決まりがある場合には、単元に満たない株式には議決権は与えられない。
③無議決権株式
予め議決権を有していない株式だと定められている株式。

このように発行された株式すべてに議決権が付いているわけでないので、株式保有率と議決権保有率は必ずしもイコールにはならないのである。
議決権を語るならば議決権ベースの株式保有率を出してくれないと詳細は分からない。


また議決権は有しているが、議決権の行使が制限されていることがある。

【議決権の行使が制限されている株式】
①議決権制限株式
特定の事項の議決のみ許可されている株式や、特定の事項の議決が認められない株式などで、それが予め定められている株式。
②相互保有株式
例えば、A社がB社の議決権の4分の1(25%)以上の株式を保有している場合、B社が保有するA社の株式の議決権を行使することはできない。
この場合B社はA社の支配下(強い影響下)にあると見做され、不正の温床となるのを予防するために行使が制限されている。

②をそのまま当てはめれば、ルノーが日産の議決権の25%以上を保有していたならば、日産がルノーの議決権を有していたとしても、それを行使することは出来ないということになる。
もし日産がルノーの議決権を25%以上持っていれば、ルノーが保有する日産の議決権は行使できないということでもあり、双方が行使できなくなる。
ただ日産は日本の会社で、ルノーはフランスの会社。この法律は日本の法律なので、それがフランス企業に対してどこまで適用可能なのかはよく分からないけれども。

日産がルノー株の持ち分比率を25%(現行15%)まで引き上げれば会社法上、ルノーの議決権が消えるのですよ。株主総会までにあと10%買い増せばいい。青木文鷹@FumiHawk

このような専門家(?)の意見もあるけれども、日産の持っているルノーの株式15%が議決権ベースだとはどこにも書かれていない。
そもそも法律がそのまま当てはまるならば、主張していることは逆でも同じ。さらにルノーの筆頭株主はフランス政府であるし、日産の外国人株式保有率は60%を超えている。


フランスの法律

フランスの会社法では、40%以上の出資を受けている企業は、出資元の企業の株式を保有していても議決権を持てないと定めているらしい。
これが日本の会社法の相互保有株式の議決権行使制限と似ている。

出資というのが議決権ではなくて単に株式だとするならば、日産はルノーから40%以上の出資を受けている。
だから日産がルノーの株式を有していても議決権は持てないということになる。
ただこれもフランスと日本の会社間のことなので、両国の法律がどのように適用されるのかはちょっとよく分からない。

フランス政府は2014年に国内の産業を守るためとして「フロランジュ法」なる法律も制定している。
この法律は2つの柱からなり、1つは大企業に対して、工場など生産拠点を閉鎖する場合は事前に売却先を探すよう義務づけたこと。
もう1つは、株式を2年以上持つ株主に、「2倍議決権(1株2票の議決権)」を与えること。
株主の3分の2が反対すれば、この「2倍議決権」の適用を免れる例外規定もつくった。
もともと「2倍の議決権(1株2票の議決権)」は株式会社が予め設定しておくことも可能な任意ルールであったが、「フロランジュ法」で原則化された。

2016年4月以降は、1株1議決権を定款で明記していない限り(定款に1株1議決権を明記するには、議決権を有する株主の3分の2以上の賛成が必要)、株主名簿に2年以上登録されている株主については自動的に「2倍議決権」が付与される。

任意であっても、原則であっても、提案するのは株式会社であり、最終的な意思決定は株主総会(議決権者による議決)で行われるのは同じだが、法律で原則になった以上、反対のための行動(1株1議決権明記の決議)を会社が起こさない限り適用されてしまうということである。

ルノーは1株1議決権を維持したかった(要するに2年以上で1株2議決になることには反対だった)が、筆頭株主であるフランス政府は1株2議決にしたい派である。
フランス政府はルノーの株式を買い足して(反対票を増やす為)、会社が提案した「1株1議決権明記」案を否決に持ち込んだ。
フランス政府はルノーへの影響力を強めたかったということは確かなようである。


合併と経営統合の誤解

日本の論調は合併と経営統合も明確に区別できていない印象がある。

報道記事を見ると、次のような記述やタイトルがある。
記事の文章では経営統合という言葉を使っているが、タイトルでは合併という言葉を使っているというものもある。
分かって使い分けているのか、分かっていないのか、大した違いはないと思っているのか、その意図や何を問題視しているのかがよく分からない。

・フランス政府がルノーに対して、経営統合を要請していた。
・ゴーン会長がルノーと日産の経営統合を計画していた。
・ルノーと日産の合併の可能性。
・安倍首相と仏大統領、日産・ルノー合併めぐり協議か。

合併ではどちらかの法人格が消滅する。
ルノーに日産が吸収合併すれば、日産という会社はなくなるということである。
経営統合とは、統合する会社同士で持株会社を設立し、その持株会社により双方企業の全株式を管理する方法。「〜ホールディングス」という社名の会社が持株会社であり、今はこの形態を採る企業も少なくない。
持株会社が設立されれば、ルノーも日産も三菱もルノーサムスンも事業会社として、その持株会社の傘下に入ることになるだろう。

経営統合では企業の独立性は維持される。
それぞれにある部門や機能が1つになるわけではなく、従ってコストが重複してしまうことは避けられない。
もっとも合併する際には相当な合併コストがかかると考えられるので、それを捻出できる体力がなければ合併自体難しいだろうと思うし、合併で難しいのは人事。人事調整に失敗すれば従業員の離職などに繋がり、業績にも影響しかねない。
そもそも国が違う企業で、しかも自動車会社という名が知れている企業同士で、消滅が伴う合併が行われれば国民感情への影響も大きく、メリットにはなりにくい。
経営統合には戦略的意思決定の迅速化やリスクマネジメント実施、M&Aへの組織戦略というメリットがあるので、こちらのほうが現実的である。
持株会社をルノーと日産で設立するというならば、出資比率などにもよるが、経営的にはそこまで悪い話ではない気がする。
それに対して明確な理由をもってして大きな抵抗感があるとするならば、どこか別なところに理由があるのではないかと勘繰ってしまう。政府が関わっているだけに軍事関係とか、いずれ国有化とか。それとも単に持株会社をフランスに置かれたら嫌だという問題?


権利は行使しないことも可能

株主総会における議決権の行使は株主の権利であるが、権利だけに株主はそれを行使しないこと(議決権の不行使)もできる。義務や強制ではないということ。
株主総会を開催する会社側からすれば、議決権不行使の場合には少なくとも会社提案の議案に対する反対票にはならないので、反対票よりは良い。
しかし不行使があまりに多くなると、総会自体が成立しなくなる。これでは困る。
株主総会決議を有効なものにするには、「議決権を行使することができる株主の過半数」の行使(出席など)が必要である。
それに満たない株主総会決議は無効となる。
但しこれも予め「議決権を行使することができる株主の3分の1」に引き下げておくことが可能であり、多くの企業が引き下げている。短期売り買いを行うマネーゲームの投資家などは経営に関与する気がなかったりするから。

行使する割合が下がれば、反対票でも賛成票でも必然的に有効議決権に対する割合は上がる。
例えば、私が全議決権の25%を保有していた場合、全議決権100%に対しての割合は25%(4分の1)である。
しかし30%の人が議決権を行使しない、要するに有効議決権が70%だったとする。そうすると私は有効議決権に対して35.7%(3分の1超え)の議決権を持っていることになる。
経営に無関心な株主(議決権者)が多いと、熱心な人の決定力(影響力)が上がるということになる。


会社を支配するということ(取締役と特別決議)

親会社・・・議決権のある株式の半数以上の株式を保有している法人
支配株主・・・議決権のある株式の20%以上保有する株主
主要株主・・・議決権のある株式の10%以上保有する株主

・取締役
会社の取締役は株主総会において議決権の過半数をもって選任する。
よって親会社は子会社の取締役を選任できることになる。

ルノーが日産の議決権の過半数を握っているならば、日産の取締役はルノーが選任できるということ。
いくら「ゴーンが嫌だ、ルノーの人物は嫌だ」と言っても、議決権を半数以上握られていたならば決議によって日産の思い通りにはならない。
逆にルノーが「西川社長を日産の取締役から外したい」と思えば、日産の取締役会にはルノーから取締役が送り込まれているのだから、株主総会に諮り解任することも出来なくはない。

事を必要以上に荒立てないために事前調整は大事だろうと思うけれど、ゴーン前会長(まだ株主総会が開かれ解任決議されてるわけではないので取締役ではある)が逮捕されたからといって日産主導で何もかも進んでいくような論調は法律に照らし合わせるとおかしい。
法律は大事なの?大事じゃないの?このあたりがぶれるのをよく目にする。自分に都合の悪い時は感情論優先で、自分に都合の良い時は法律優先?法律の上に道徳や倫理あり?法律の上に宗教あり?

・拒否権
国連の安全保障理事会には拒否権が存在する。
アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国の5常任理事国が拒否権を有している。
実質事項に関する決定には、5常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票が必要である。常任理事国が1票でも反対票を投じれば、その反対票は決議を「拒否」 する力を持ち、決議は否決される。

ある決議にある構成員の同意が必要不可欠とされている場合、この構成員は拒否権を持っているということになる。

会社の株主総会で重要事項を決定する特別決議においては、有効議決権の3分の1を超える議決権を持つ株主が反対すれば、議案は否決される。
このように特別決議を拒否できる数の議決権を拒否権という。
議決に決定的な影響を与えることが出来る。

上に書いた例えで、有効議決権70%に対して私の保有分が35.7%(3分の1超え)になる場合、私には拒否権が生じることになる。
有効議決権関係なく(100%の人が行使しても)、拒否権を持てるのは議決権の33.3%以上を有している場合。

なお、株式(議決権)の所有数に関わらず1株だけでも拒否権を発動できる「拒否権付株式」も存在している。

会社が敵対的・反抗的・無関心な株主を封じ込め安定的な経営を行うには、半数~3分の2以上の議決権(付き株式)を保有していればよい。
会社の創業家一族、役員、従業員個人、持株会、取引金融機関、取引先など、会社の味方になってくれるだろう株主(安定株主)を半数~3分の2以上確保できればよいということになる。
実際には無関心な株主のおかげでもっと少なくても可能であることが多い。
逆にある会社を支配したいならば、半数~3分の2以上を目標に議決権(付き株式)を獲得する必要がある。






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# by yumimi61 | 2018-12-04 00:21

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タイへの進出

トヨタ自動車がタイに販売店を設立したのは1957年。
生産拠点としての会社を設立したのは1962年。
同じ1962年に日産も設立している。
その後、ホンダが1965年に、いすゞが1966年と続く。
これは両国の政府の方針に基づくものだった。

自動車産業の発展には2通りあり、自国メーカー(自国ブランド)を育て確立していくという方法と、外国のメーカーを受け入れ依存しながら産業を形成していくという方法である。
自国メーカーが確立すれば、他国から自動車を輸入する必要は少なくなるし(その分の外貨が必要なくなる)、自国メーカーに関連する裾野産業も育つ。だから自国メーカーを育てた方が良いに決まっているが、その場合、いきなり野に放つことなど出来るわけがない。子供は保護が必要である。輸入車に高い関税をかけたり、他国メーカーの進出を制限したり、国内の自動車メーカーを保護したり優遇したりしなければならない。
これらは他国との貿易や外交にも関係することなので、それが出来る環境にあるかどうかや交渉力が鍵になるだろう。
また保護が行き過ぎると、いつまでたっても独り立ちできず、国際的な開放に耐えうるだけの競争力を得にくい。

タイは外国の自動車メーカーを受け入れる方を選択した。
日本でも自治体が工業団地などに企業を誘致する例が沢山あるが、タイが日本の自動車会社を誘致した形となる。
誘致するからには何か餌をぶら下げると思う。来てくれる企業に優遇措置を与えるのが一般的である。
進出してもらった側(国や自治体)の利点は雇用拡大と法人税収入であるが、優遇措置も与えているので、国や自治体側の実利益はそのバランスによる。
思うほどメリットがないので、部品に高い関税をかけたり、技術支援などを要求したりする。
その結果、タイでは部品メーカーが育ったらしい。

タイに自国の自動車メーカーはなく、欧米からの進出もほとんどなかったため、タイの自動車市場をほぼ独占したのは日本のメーカーとなり、その比率は80%を超えた。
日本のメーカーの中でもダントツ強いのはトヨタ。販売される日本車の半分はトヨタ。
トヨタと同じ年に生産拠点を設立した日産は、後発のいすゞ、ホンダ、三菱にも敵わない。


グローバル化

1997年のアジア通貨危機によってタイでは自動車販売数が激減した。
危機が勃発する前年1996年は50万台を超えていたが、勃発翌年1998年には10万台を切った。
ちなみに日本における販売数は1996年がおよそ700万台くらい、1998年は600万台くらい。現在は500万台くらい。
日本の現人口は1億3000万人くらい。タイは7000万人くらい。人口を加味してもやはり日本のほうが売れている。

アジア通貨危機の時のタイでの1996→1998年の販売数減少は、86%減ということになる。進出した日本の自動車会社はもはや撤退レベルである。
しかし日本の自動車会社は撤退せずに生産販売拠点から生産輸出拠点に切り替えたのだった。
1996年のタイでの輸出比率は2.5%に過ぎなかったが、1999年には40%に上昇した。1999年の輸出台数は13万台くらい。

(アジア通貨危機で分かったアジア新興国の実態)
アジアの新興国の経済がアメリカ経済と連動しているならば、アジア新興国の経済も刺激されて更なる伸びを見せてもよいはずである。
しかし結果は逆。伸び悩んだのだ。
これまでアジア新興国の経済(輸出)が成長していたのは単に通貨安への為替介入(誘導)のおかげであることが分かった。
またアジア新興国の経済(輸出)がアメリカ経済と連動していないことも露呈してしまった。


そんなこともあり、アジア通貨危機をきっかけに、タイに進出していた日本の自動車メーカーは輸出に取り組んだわけである。

タイからの輸出車はピックアップトラック(商用車)と低価格車が中心。高価格帯の自動車や技術難度の高い自動車はタイでは作れない。
輸出先はASEAN加盟の各国、中東、オーストラリア。この3地域で半分を占める。
欧米への輸出は極めて少ない。自動車文化の違いがあり、低価格車を頻繁に乗り換えるといった乗り方がそもそも少ないし、欧米向けの低価格車の生産拠点を設けるならば、もっと近い地域のほうが便利である。
メキシコなどはアメリカ向けの低価格車の生産拠点になっている。

ともかくアジア通貨危機を境にタイは自動車の輸出国となった。
そのタイでもトヨタが幅を利かせているわけだから、トヨタはさらにグローバル企業になったわけである。
日産は国内でもグローバル展開でも水をあけられてしまった。


経営破綻危機にあった日本と韓国の自動車会社

どん底にいた日産を手を差し伸べたのがルノーだった。

1996年、ルノー完全民営化。
1997年、アジア通貨危機。
1999年、日本の日産自動車の株式36.8%を取得して傘下におさめる。(現在は43.4%保有)
2000年、韓国の三星自動車の株式80.1%を取得してを傘下におさめ、韓国にて「ルノーサムスン自動車」を発足させた。

三星自動車もアジア通貨危機の煽りを受けて、国内販売数も輸出も激減し、経営破綻した状態にあった。
三星自動車はもともと日産と関わりが深い会社であった。

※三星グループは後のサムスングループ。いったいいつ改称していたのか。私は三星電子という会社名をよく知っていたのだが、ある頃から急に有名になったサムスンと三星が同じ会社であるとはすぐに気が付かなかった。

三星グループの自動車業界への進出計画は以前からあったが、長年にわたり自動車産業への参入を時々の政権に阻害され続けてきた。
しかし、当時会長であった李健煕の強い意志のもと、1990年代より計画実現が徐々に現実味を帯びていくこととなり、当時の大統領である金泳三の支持基盤である釜山を工場建設地に指定し、1994年末に日本の日産自動車からの技術導入による自動車産業への参入を申請した
政府内部では自動車産業の過剰投資を憂慮する反対論が根強かったが、既存の政府主導による産業政策から産業自由化政策へ転換すべきとの自由化論が優勢となり、三星は自動車産業参入の認可を手に入れた。

2000年、三星自動車は会社設立から約6年、操業から1年4か月で経営破綻した。



サムスンと日本の関係

三星グループの創業者は日本の早稲田大学を中退している。
三星自動車を設立した当時の李健煕会長はの早稲田大学第一商学部卒。
三星電子の会長だった時期もある。
2010年には早稲田大学名誉法学博士を授与されており、現在、早稲田大学の政治経済学術院研究図書室に李の名前が冠され「李健熙記念図書室」となっている。

2008年 - 不正資金疑惑に対して有罪判決が下される 三星電子代表取締役会長辞任
2009年 - 李明博大統領により12月31日付で特別恩赦

恩赦があったとはいえ有罪判決が下った人に「名誉法学博士」を授与するなんて早稲田大学もどういうつもりなんだか。

・「ダット・DAT(快進社)」は、1911年に創業された日本初の国産自動車メーカーであり、日産自動車の前身である。
当時外交官(イタリア大使館三等書記官)であった後の総理大臣・吉田茂 の所有する東京府渋谷村麻布広尾88番地(現・東京都渋谷区広尾5丁目)の地に創業した。
創業者は愛知県出身、東京工業学校(現:東京工業大学)機械科卒の技術者であるが、会社創立のパトロンは竹内明太郎**。DATのTはTakeuchiのTである。
竹内明太郎は吉田茂の実兄。吉田茂は竹内綱の息子であり、横浜の貿易商・吉田健三の養子となって、40歳で急逝した吉田の莫大な財産を相続した。
竹内明太郎は竹内綱の息子であるが、茂は実母も不明であるため、母親が(さらには父親も)同じであるかどうかは分からない。

**竹内明太郎
現在の高知県宿毛市出身の明治・大正期の実業家・衆議院議員。早稲田大学理工学部設立者。竹内綱の長男で吉田茂の兄(異母兄とも)。麻生太郎の大伯父。子は横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身の一つ)教授の竹内強一郎、孫は地理学者、一橋大学教授、日本地理学会会長の竹内啓一、曾孫に、TBSテレビの報道局記者・ニュースキャスターである竹内明がいる。エッセイストの麻生和子(茂の三女)は姪、学者の吉田健一(茂の長男)は甥に当たる。

早稲田大学理工科は竹内明太郎が自らが準備していた教授陣と設立準備資金をそっくり早稲田大学に提供して1908年に発足した。その後もだいぶ資金援助しているようで竹内様には足を向けて寝られない(はず)。竹内明太郎は麻生太郎の大伯父。

Response 2006年2月24日
日産自動車と早稲田大学は24日、組織的連携に関する覚書を締結したと発表した。両者はさる17日に、自動車関連技術に関する研究開発、人材の交流、社会貢献の3分野において、組織的連携に関する覚書を締結した。
日産と早稲田大学はこれまでも自動車関連技術に関しては、研究室ごとにスポットで数多くの共同研究を行なっており、これらを定常化するのに加え、人材交流、社会貢献の分野でも協力していくのが今度の連携の特徴だ。記者会見で早稲田大学の白井克彦総長は「卒業・就職で教育は終わらない。社会参加のあり方を教育したい」と述べた。



ルノー傘下のルノーサムスン

三星自動車の商用車部門はルノーから引き受けを拒否され、救済されずにそのまま破綻した。
残りの部門が「ルノーサムスン自動車」として再出発した。

破綻状態にあった会社を救ったのがルノーなので、ルノーが上、サムスンが下という一般的な関係性をイメージしてしまうが、三星自動車はサムスングループの1企業に過ぎず他に優良企業があるせいか、サムスンが韓国市場で圧倒的に強いせいか、わりと対等な関係、ある意味サムスンのほうが優位な感じにさえ見受けられる。
しかも最初から期間を設けた契約らしい。

2000年、ルノーグループとサムスングループの間で合弁契約とサムスンブランドの商標使用許諾契約を締結したことで「ルノーサムスン自動車」に社名変更し、ルノーの傘下となったが、その理由はルノーグループにとっては「サムスンという絶大なブランド力を生かし、韓国市場で高いブランドイメージを維持できるから」であり、三星グループにとっては「ルノーサムスンと自動車用電子部品分野で開発や生産などにおける協力関係を拡大していくことができるから」という双方にとってプラスとなる要素が合致したためである。

この契約は本来、2010年まであったが、国内生産ならびに2006年から本格的に開始した輸出とも非常に好調であったことと、サムスンとルノーサムスン双方のブランド力堅持のため、2009年6月には契約期間を2020年6月まで延長させている。よって、サムスンの商標は少なくとも2020年までは使用可能となった。

なお、ルノーサムスンは最終利益が発生した場合、売上高の0.8%を商標使用料(ロイヤリティ)として三星グループに支払う契約となっている。


同じ頃にルノーの傘下に入ったが、日産とルノーの関係とは少し違う。
日産自動車は事業会社であるが持株会社や親会社はない。むしろ子会社を持つ親会社である。日産グループの中心企業。
サムスングループは持株会社制にこそしていないがコングロマリットである。

ルノーとサムスンの合併契約によって、すべてのルノーサムスン車には(エンジンやプラットフォーム、4WDシステムなど)日産自動車の技術が多用されてはいるものの、実は日産とルノーサムスンの間に直接の資本関係はない。 





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# by yumimi61 | 2018-12-03 14:34

7🚙🚙🚙🚙🚙🚙🚙

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拝啓 君へ
いつかあなたと一緒に光を求め天を仰いだ日のこと、私は思い出しています。
今あなたはどこで何をしていますか。
私達の夢を砕くように、それは容赦なく重力を思い知らせたよね。
抗うことがこんなに大変だったなんて。
私達はただ言葉少なに、明らかに見極めるしかなかった。
そう、見極めたはずだったのに。
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次男と丸型蛍光灯を交換していたら、
どうしてかこんなことになってしまい、
あの日から天井の時間は止まったまま。
でも夜になると蓄光の星もまだ輝くのだけれど。
壊れた照明器具はベビーバス(写真の薄い黄色いやつ)に
入れて今も置いてあります。 



簡単だったから

自動車は価格的にも環境的にも使い捨てするような物ではない。
また人の命に関わるものでもある。
だから適宜点検が必要であるし、不具合があったり壊れたりしたら修理してもうら必要がある。
従って自動車の場合、技術がどれほど唯一無二で素晴らしいものであったとしても、活用され維持されメンテナンスされるものでなければ意味ない。
特に日本では車検や点検を法的に義務付けており、メーカーもメンテナンスサービスを提供していて、新車の段階における自動車の耐久性をあまり重視していない。
要するにメンテナンス重視である。
よって比較的誰でも簡単に整備や修理が出来る自動車でなければならないのである。
技術が高度すぎて特定の人しか使えません、分かりません、点検できません、修理できません、部品がありません、これでは販売数は伸びていかない。
もしこれで伸びていくとするならば、それは命の危険と隣り合わせであること意味するし、間違いなく不正の温床にもなる。
トヨタはイメージ戦略で優位に立ったこともあるが、メンテナンスしやすさにおいても日産車よりも優れていた。
この点については、「外国人経営者」にしたからすぐに変わるというものではない。


1997、タイ発アジア通貨危機

ルノー完全民営化の翌年1997年にアジアではタイ発の通貨危機が勃発した。
アジア通貨危機については以前も書いたことがある。
アメリカの経済が好調となり国債残高が減少し始めた時に起こった。

アジア通貨危機をきっかけに、1998年9月にロングタームキャピタルマネジメント(Long-Term Capital Management;LTCM)というアメリカのファンドが破綻した。

運用チームにノーベル経済学賞受賞者らを集め、高度な金融工学理論を駆使して、組成から数年は驚異的な成績を記録した。しかしアジア通貨危機の結果起きた予期せぬ市場の変動により、大きな損失を出して破綻した。
LTCMはソロモン・ブラザーズ(現在はシティグループの一ブランド)で活躍していた債券トレーダーのジョン・メリウェザーの発案により設立され、1994年2月24日に運用を開始した。
このファンドはFRB(アメリカの中央銀行)元副議長デビッド・マリンズや、マイロン・ショールズとロバート・マートンといった著名人が取締役会に加わっていたことから「ドリームチームの運用」と呼ばれ、当初より12億5000万USドルを世界各国の証券会社・銀行などの機関投資家、富裕層から集める事に成功した。


そんな信用の高いビッグファンドが何故アジアの通貨危機で破綻することになったのか。
LTCMは流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていない事に着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りしたりしていた。
要するに、LTCMはアジアなど新興国の実力を評価していたということになる。しかしその評価は外れていた。
アメリカの経済が好調となり国債発行を減らすなど成果を出し始めドル安からドル高に動いた。国際的にアメリカの評価が上がったことを意味する。
アジアの新興国の経済がアメリカ経済と連動しているならば、アジア新興国の経済も刺激されて更なる伸びを見せてもよいはずである。
しかし結果は逆。伸び悩んだのだ。
これまでアジア新興国の経済(輸出)が成長していたのは単に通貨安への為替介入(誘導)のおかげであることが分かった。
またアジア新興国の経済(輸出)がアメリカ経済と連動していないことも露呈してしまった。


アジア通貨危機を引き起こしたタイは日本と関係の深い国である。
アジアで植民地支配を受けなかったのは日本とタイだけと言われることもある。
日本は第二次世界大戦の敗戦により占領下に置かれ主権も失っているので、その期間を支配されたと見做せば、植民地支配を受けなかったのはタイだけということになる。

タイと日本の友好関係は安土桃山時代に原点がある。

タイでの日本人の活動が活発化したのは、ビルマからの攻撃に悩まされていたアユタヤ王ナレースワンが日本人傭兵を大量に採用してからである。傭兵の数は600人に達し、彼らは首都郊外のアユタヤ日本人町に定住するようになった。1592年から朱印船貿易が行われるようになると町は活況を呈し、ソンタムがアユタヤ王につくと日泰間の友好関係も促進された。

日本はタイ製の火器・銃器などを輸入し、馬などを輸出した。また、豊臣氏、徳川氏が天下をとることによって合戦が起こらなくなった日本では、それまで戦に参加することで日々の糧を得ていた層が、大量の浪人となっていた。彼らは海外に活躍の場を求め、日本を出国していった。欧州各国の東インド会社や、東南アジア諸国は、戦闘経験の豊富な日本人を傭兵として雇うようになり、各地に日本人町が作られた。タイもまた、例外ではなく多くの日本人が移り住んだ。


第二次世界大戦時でのタイの立ち位置は微妙。
当初は中立という立場であったが、フランスがドイツに敗北したことによって支配力の低下した仏領インドシナとの間で旧領を巡って領土紛争を起こしている。
戦況はタイ優勢とは言い難かったが、1941年5月に日本の仲介により旧領をほぼ回復した。
1941年のフランスは親ドイツでカトリック支柱の新秩序(国民革命)を掲げていたヴィシー政権であり、日本とフランスも友好的な関係にあった。
タイともフランスとも友好国だった日本が仲介に入ったということである。
しかし日本がアメリカに攻撃をしかけ太平洋戦争が勃発した1941年12月8日には日本軍はすでにタイに奇襲上陸していた。タイを経由し獲得してイギリス領マレーに侵攻するためであり、日本とタイの間でも戦闘が行われた。
一方、イギリス軍も反対から進軍し、そちらも戦闘になる。
結局タイは12月21日に日本と「攻守同盟条約」を締結、1月25日にタイがアメリカとイギリスに宣戦布告。
ところが日本が降伏した後の1945年8月16日に宣戦の無効を宣言。
「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものであり、日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害についてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。
これによりタイは敗戦国の扱いとなるのを免れた。

日本を裏切ったような形であるが、そのお詫びなのか何なのか、戦争を吹っ掛けて敗戦した日本の国際社会復帰(イメージアップ)に尽力してくれたのはタイだった。

ククリフト・プラモード元首相は「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは一体誰のおかげであるか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」と述べている。

タイも日本も君主国。ともに君主の存在が脅かされないで済んだことが何よりといういった感じだろうか。
ククリフト・プラモード元首相は、やはり君主国のイギリスで学んだ作家であり政治家。
イギリスのトレント・カレッジに留学。さらにオックスフォード大学クィーンズ・カレッジに入学し、哲学、政治、経済を学士号(優等学位)を取得。(さらに三年後、同大学から、優等学位を所有する学生への慣習から修士号を授与される。)


タイってどんな国?

今でもタイは王国である。そうであるならば、日本もイギリスも王国である。

タイは1932年まで絶対君主制であった。
大日本帝国憲法下の日本も憲法に定義された絶対君主制である。
タイでは1932年に立憲革命が起こり、国王を国家元首とする立憲君主制に移行し、議院内閣制を採用している。憲法において一通りの自由も保障されるようになった。
しかしその後もたびたび軍事クーデターが起きて軍事政権が樹立され、憲法が停止し、軍政と民政の間を行ったり来たりしている。
現在も2014年に起きた軍事クーデターで樹立した軍事政権が続いている。
軍事政権とは結局、国王(絶対君主制)寄りの政権なのである。

国王は国家元首であり、神聖不可侵であり、仏教徒であり宗教の擁護者と規定されている。またタイ王国軍の総帥の地位にある。

・立憲君主制をとるが、平時の国王は象徴的な存在である。しかし、政治的な危機にあたってはしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。

・伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられている。

・現代でも不敬罪が存在する数少ない君主国であり、最近も国王を侮辱する画像・動画が掲載されたことを理由にYouTubeへの閲覧アクセスが長期にわたり遮断される等の事例もある。 

・日本の皇室とタイの歴代王朝(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)はおよそ600年前から親密な関係を持っており(当時の日本は室町時代)、この皇室と王室の親密な関係が両国の緊密な関係の基礎になっている。また、秋篠宮文仁親王のほか、両国の皇室、王室メンバーの公的または私的訪問が頻繁に行われている。

・国王の権限が強化された新憲法が2017年4月に施行された。



工業国としてのタイ

第二次世界大戦後の東西冷戦期は、ベトナムやカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた。
また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。
なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。


タイは自動車産業が盛んな国でもある。自動車産業がタイの工業を牽引してきたと言ってもよいかもしれない。
タイの自動車生産量は2017年で12位。だいたい毎年10位前後にある。

①中国 2,900万台 (2.1%)
②アメリカ 1,120万台 (3.4%)
③日本 970万台 (7.6%)
④ドイツ 560万台 (6.7%)
⑤インド 480万台 (0.4%)
⑥韓国 410万台 (8.0%)
⑦メキシコ 400万台 (3.2%)
⑧スペイン 280万台 (6.0%)
⑨ブラジル 270万台 (1.3%)
⑩フランス 220万台 (3.4%)
⑪カナダ 220万台 (6.0%)
⑫タイ 200万台 (2.9%)

( )の%は2017年の生産台数の人口比。
多いのは、韓国、日本、ドイツ、スペイン、カナダといったところ。
生産台数は自国メーカーが生産したものとは限らない。他国のメーカーがその国で生産したものも含む。
人口と比べて何が言えるかというのは微妙なところではあるが、自動車産業が盛んかどうかの目安くらいにはなるのではないだろうかということで計算してみた。
生産台数の多さは、耐久性の乏しさやモデルチェンジなどで乗り換えが激しいことなども影響するだろうと思う。その分、販売単価がかなり安く抑えられているとするならば、生産台数の多さが利益に直結するとは限らない。人件費や材料費、開発費、輸出入など様々な兼ね合いによって利益は決まる。




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# by yumimi61 | 2018-12-02 11:25
軍事と国営化、軍事と民営化

総裁が1987年11月17日に暗殺されたフランスのルノー公団は、1990年2月にスウェーデンのボルボと業務・資本提携し、株式会社に改組された。いわゆる民営化である。
日本でもそうだが民営化されても多くの株式を政府が持っているというケースは少なくない。
フランス・ルノーも当初はそうだったのだろうと思う。

1993年9月にはルノーとボルボの完全合併案が発表されたが、フランス政府の干渉にボルボ側の経営陣や株主、従業員などが態度を硬化したことにより交渉が決裂し、同年12月には合併が正式に撤回された。
ボルボとの合併案は撤回されたものの、その後もフランス政府は株式を売却し続け、会長の暗殺や労働組合の反対という困難を乗り切って1996年には完全民営化を果たした。


政府資本というのは良いようであるが、民間同士よりも却って警戒されたり、話がこじれて上手くいかないこともあるのだろう。
そこでフランス政府はルノーの株式を一旦は完全に手放した。
晴れてルノーは民間企業となった。(まぁそうは言ってもド・ゴールの前は民間企業だったのだけれども)

軍事であろうと何であろうと、国営会社が自国関連の仕事をすることに対して、あるいは国家に関する仕事をしている企業のオーナーが自国政府であることについては、大きな問題にならないと思う。
でもどこかの国営会社が他の国の機密事項や重要事項に関わる仕事をする、あるいは国家に関する仕事をしている企業のオーナーが他国政府になったとしたら、それは問題にされてもおかしくはない。

ド・ゴール政権が自国フランスのために軍用車両を開発し製造してほしいと思い自国企業のルノーを国営化したとするならば、軍備拡大の是非や手法・手順の良し悪しは別として、意図や構図としてはそれほど不可解なものではない。

しかし国営ルノーはアメリカの軍事車両を手掛けていたアメリカン・モータース(AMゼネラル)を買収で手に入れた。
それがアメリカ政府のクレームによって切り離されると、再度民営化に舵を切った。
この経過を踏まえれば、フランス政府(ルノー)は、他国の軍事に携わりたいのかなぁ、軍事車両に関する何か情報を得たいのかなぁ、という印象を与える。


ルノーの民営化とミッテラン大統領

1990年に民営化したルノー(完全民営化は1996年)。
ミッテラン大統領の就任期間は1981~1995年。
ミッテラン社会党政権は「大きな政府」を掲げ、公共投資の増加や国有化の推進などを目指した。
イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、日本の中曽根首相など、当時の主流は「小さな政府」であった。
日本の中曽根首相は行財政改革を断行し、規制緩和や国鉄・電電公社・専売公社などの国営企業を民営化させた。小泉首相も「小さな政府」派であり、郵政民営化を果たした。

大きな政府(英: big government)とは、政府・行政の規模・権限を拡大しようとする思想または政策である。主に広義の社会主義(社会改良主義・社会民主主義・民主社会主義・スウェーデンモデル・日本型社会主義・集産主義)や国家資本主義・民族社会主義に立している

「スウェーデンモデル」とは福祉国家。社会福祉の供給者は主に政府。老後の福祉が安定していることから必要以上に貯蓄することなく消費に回され結果的に経済が好循環となり、社会福祉の充実から治安なども悪化しにくいという考え。財源は税金であるから税金は高い。政府主導で所得平等や完全雇用を目指す。

「日本型社会主義」とは第二次世界大戦後の日本を指す。
民主主義社会や自由を謳いながら、そうした社会に付き物の格差や不平等が少ない社会という意味。世界で最も成功した社会主義国・共産主義国と皮肉交じりに言われることもある。

ルノーの民営化は、「大きな政府」を掲げたミッテラン社会党政権とはまるで逆方向に進んだことになる。この点からも解せない。
もっともミッテラン大統領は反対勢力を歩き渡っており、強い政治思想があったとは思えない。
政権を取ってからも、反対勢力とコンビを組んでいる。
フランスの権威権力者にはカトリックという共通項があるので、宗教の上に国家神道を乗せた日本ではないけれども、政治の上に宗教を乗せてしまえばよいのだ。

地方分権や教育改革にも取り組んだが、景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。やむなくミッテランは首相に保守派のシラクを指名し、大統領が左派、首相が右派という、保革共存(コアビタシオン)という状態になった。その後は外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、ミッテランは大統領を続けた。保革共存はミッテランの二期目でも首相バランデュールとの組み合わせで行われた。

ミッテラン大統領がコンビを組んだシラク(ミッテラン大統領の後1995~2007年に大統領就任)は、日本の東京相和銀行(1999年に経営破たん)に巨額の隠し口座を持っていたとフランスで報じられた。
記事の情報源は、1996年11月にフランス の諜報機関DGSE(対外治安総局)の職員が日本の東京相和銀行に詳しい情報提供者との接触によるものだったとか。


シラクの疑惑(フランスと日本に亘る疑惑)

フランスの週刊紙『カナール・アンシェネ』は、シラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧東京相和銀行(現東京スター銀行)に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、同年7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。

↑はWikipediaの転載だが2007年の記述のまま更新されていないことが分かる。
こんな疑惑の最中、アメリカのオバマ大統領は2009年3月、シラク前大統領に助言や協力を求める書簡を送ったのだとか。(フランス紙『フィガロ』(電子版)が2009年3月20日に報じた)

↓のパリ事件は2011年の判決まで書かれている。
だけど2011年には、シラク前大統領はアルツハイマーを発症しているとの報道がなされ、結局全てなんとなく有耶無耶になった。

また、2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党(共和国連合)の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。2009年10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された。第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。2011年12月15日、パリの軽罪裁判所により執行猶予付きの禁錮2年の有罪判決が出された。

2008年6月7日 AFP
フランスの司法当局が同国の情報機関「外治安総局」(DGSE)本部を捜索していたことが7日、明らかになった。ジャック・シラク(Jacques Chirac)前フランス大統領が日本の銀行に持っていたとされる口座の調査のため。

 DGSEに近い筋によれば、複数の予審判事が4日、DGSEを訪れ、文書の提出を求めた。DGSEは文書を提出したが、現在封印された状態でDGSEに置かれている。これらの文書は後日、秘密指定が解除される可能性もあるという。

 2006年、フランスの週刊誌が、シラク氏が東京相和銀行(Tokyo Sowa Bank)(現・東京スター銀行)に持っている口座に、ある「文化財団」が1990年代から数年にわたり4500万ユーロ(約74億円)を集めたという記事を掲載した。シラク氏の事務所はこの疑惑を、大統領就任後に始まった個人攻撃の一部だとして繰り返し否定していた。

 これとは別にシラク氏のパリ(Paris)の弁護士の事務所も、1997年にフランス領ポリネシアのタヒチ(Tahiti)のジャーナリスト、ジャンパスカル・クーロー(Jean-Pascal Couraud)氏が謎の失踪を遂げた事件について予審判事の捜索を受けた。クーロー氏はシラク氏が日本に持つ銀行口座の資金の動きを調べていた。

 2002年、タヒチのパペーテ(Papeete)の裁判所は、クーロー氏は自殺したと結論づけ、失踪と銀行口座の調査の関連を認めなかった。しかし新しい目撃者が現れたため、2004年に審問が再開された。クーロー氏の家族は同氏が殺害されたとして訴えを起こしている。クーロー氏の遺体は見つかっていない。

 弁護士のジャン・ヴェイル(Jean Veil)氏によれば、予審判事と検察官の2人が、シラク氏が東京相和銀行に口座を持っていないことを証明する同行からの手紙を押収したという。この手紙は封印された状態で、捜査が行われているパペーテに送られた。

 2007年、シラク氏はパリ市長時代の汚職事件で捜査を受けた。シラク氏がパリ市長を務めていた当時、パリ市役所の職員のポストが不当に水増しされ、その給与が、シラク氏が総裁を務める政党・共和国連合(RPR)に流れたとされるもの。フランスの大統領経験者が司法の捜査を受け、刑事罰を受ける可能性が出たのはこれが初めてだった。

 シラク氏は1977年から1995年までパリ市長を務め、その後12年間フランス大統領の地位にあった。(c)AFP


フランス領ポリネシアのタヒチ(Tahiti)のジャーナリスト、ジャンパスカル・クーロー(Jean-Pascal Couraud)は失踪当時、シラク大統領と親しいポリネシア前大統領ガストン・フロスの隠し資金の一部がシラク大統領に渡っていた疑惑を調べていた。2004年にガストン・フロス前大統領の個人警護部隊の元メンバーがジャーナリストは同部隊に殺害されたと証言したことから、ポリネシアンの当局が再捜索に乗り出し、シラク大統領の弁護士やパリの対外治安総局DGSEの事務所が家宅捜索された。DGSEを捜査したということは、日本における銀行口座の存在について調べていたDGSEも疑わしいとみていたわけだが、結局有耶無耶になった。


国民性とイメージ戦略

完全民営化(1996年)したルノーが積極的に関係を持ったのが、タイプの違う「大きな政府」型の2国、日本とスウェーデンである。

「大きな政府」が可能な国民性、あるいは「大きな政府」によって構築される国民性とはどんなものだろうかと考えてみた。
自分で考え判断することをやめてしまうという特徴はないだろうか。
一極化、均一化、同一化、思考停止―――――――――――――――
人間の均一化の果てはロボットでありAIだろう。あっクローンもあったかな。
こういう社会では流行が起こりやすい。ブランドが形成されやすく支持されやすくもある。しかし逆を言うと、流行やブランドに乗れなかったものは何をしても大した成果は出ない。流行やブランドというものは確固たる根拠がない抽象的概念に過ぎないことも多々あるので、中身が置き去りにされがち。思考停止が起こっていれば変化はあまり望めない。

例えば、トヨタ車は素晴らしいというイメージや宣伝の下、トヨタ車が多くに支持されていった場合、他の自動車会社は何をしても大した成果は出なくなるという事である。自動車を見ているのではなく「トヨタ」というブランドや流行を見ているから。こうなるとトヨタは後出しでも勝てるようになる。
トヨタが日本で強くなったのは海外での販売好調が伝えられることによるものだと思う。日本のトヨタ人気は「外国で認められたトヨタ」というブランド力に支えられている。
「外国で認められる」ことに国民全体が強い拘りを持っているのは敗戦トラウマを持つ日本の急所でもある。

差が生じた時に「大きな政府」が管理能力を発揮し調整なり再分配すればまだよいが、それがなされない場合には差が出ているにも係わらず、社会の均一化要求に押され同じような分配が行われる。均一化社会なのだから、そうしなければ生き残れないという側面もある。そのような無理が生じているのだから会社経営や社会経済は健全ではなく脆い。不正の温床になったりもしてしまうだろう。

日産は日本でトヨタに水をあけられた。もはや何をしても勝てなかった。
「技術の日産」より「販売のトヨタ」が勝っているのに、いついつまでも「技術の日産」なんて宣伝しているセンスがダメダメなわけで。見る人が見れば「技術売りなわりには驚く技術はない」とか言われてしまい、分からぬ人にも分かる人にも結局どちらにも効果がないわけで。
それぞれの車種はともかく、日産という会社に対して、申し訳ないけれど最先端や今風を感じさせず古臭いイメージしか残らない。女性受けもしない。

1999年3月27日に、当時深刻な経営危機下にあった日本第2位の自動車会社である日産自動車を事実上の傘下に収めることが発表された。その後同社と相互に資本提携し、ルノーが日産自動車の株を44.4%、日産自動車がルノーの株の15%を所有するという形で株を持ち合い、ルノーが日産自動車に経営陣を送り込むなど、事実上の親会社となったルノー主導で経営再建に着手した。

当時の取締役会長兼最高経営責任者 (PDG)であるルイ・シュヴァイツァーによって日産自動車の最高経営責任者(CEO)として送り込まれた副社長のカルロス・ゴーンとそのチームが、同年10月に発表された「日産リバイバルプラン」計画のもと、東京都武蔵村山市にある村山工場や京都府宇治市の日産車体京都工場(当時。現・オートワークス京都)などの余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減。子会社の統廃合や取引先の統合によるコスト削減や車種ラインナップの見直しなどのリストラを行うと同時に、新車種の投入や国内外の販売網の再構築、インテリア及びエクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの大幅なテコ入れを敢行した。



ゴーン効果

深刻な経営危機にあった日産にとって外国人経営者はプラスであったろうと思う。
「外国のトヨタ」に負けたのだから、外国人経営者で押し返すチャンスとなる。ルノーのブランド力と販売網でもってして外国での売り上げるが伸びるのではないかという期待も感じさせただろう。
デザインと技術の融合を夢見た人もいたかもしれない。

他所から来た外国人経営者には国内で培った腐れ縁やしがらみがなく、余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減、子会社の統廃合や取引先の統合など行いやすい。
日産だって「新しく来た外国人経営者の方針・指示なのですみません」と言えば角が立ちにくい。
日本人がやるより思い切ったコストカットをしやすい。

外国人経営者というイメージをプラスに用いるわけだから、高額報酬も違いを際立たせるために有用であったはず。





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# by yumimi61 | 2018-11-30 14:15
戦争とジープ(Jeep)

第二次世界大戦中の1940年にアメリカ陸軍の要請により開発着手され、翌1941年から実戦投入開始された小型四輪駆動車がその元祖である。第二次大戦において連合国軍の軍用車両として広く運用され、高い耐久性と悪路における優れた走行性能で軍事戦略上でも多大な成果を挙げた。アメリカ軍欧州戦域総司令官を務めたドワイト・D・アイゼンハワーは、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「原子爆弾」「C-47輸送機」「バズーカ」、そしてジープを挙げている。

その高性能は小型四輪駆動車の有用性を世界各国で広く認知させ、第二次大戦後に軍用・民生用を問わず同種の四輪駆動車が世界的に普及する端緒となり、「ジープ」は単なるブランドに留まらず、その優れた設計と名声から民生のクロスカントリーカーや小型軍用車両の代名詞となった。

Jeepという名称はGeneral Purpose(万能)、もしくはGovernment-use(政府用)のGとホイールベース 80インチの車両を表す識別符号のPからきた符号GPから"ジープ"と命名されたという説や、漫画『ポパイ』に登場する「ユージン・ザ・ジープ」からとったという説がある。明確な起源は判然としないが、すでに1941年にはこの通称が用いられ始めていた記録がある。


アメリカ陸軍はドイツ陸軍のポーランド侵攻においてキューベルワーゲン(ドイツ製の小型軍用車両)が活躍していることに注目し、アメリカでも小型軍用車を開発する計画を立てた。

1940年7月に135社の自動車製造会社に大まかな設計要件を伝え、四輪駆動の小型偵察車開発計画に応札することを緊急要請した。しかし開発期間と要求スペックは厳しいものでゼネラルモーターズもフォード・モーターも応えられず、アメリカでは主流から外れた小排気量の小型車に関するオーダーでもあったため、オファーに応じたのは中・小型車メーカーのウィリス社とバンダム社の2社のみだったという。
ウィリス社も途中で諦めることとなり、バンダム社が外部から設計者を招聘して設計した。
これが正式に採用され、ジープのプロトタイプとなる車輌が製作された。
バンダム社も設計に至らずジープが生まれていなければ、第二次世界大戦は違うものになっていたのかしら、そうでもないのかしら。

バンダム社はそれほど大きな会社ではなく生産能力に難があったため、アメリカ政府はバンダム社の設計図をウィリス社とフォード社にも提供して生産に加わらせた。以後、大量のジープが生産されるようになる。


奪ったジープからトヨタのジープ、そしてランクル

戦時中の1942年、日本陸軍はフィリピン侵攻においてバンタム社製のジープ(Mk II・BRC-60)を奪い取った。
ジープ量産最初期の1940年に生産された69台のうちの1台である。
(奪い取ることを軍事用語では「鹵獲」と言うらしい。戦地で敵対勢力の兵器や装備品、補給物資を奪うこと。一般的に、鹵獲した兵器はそのまま自軍の兵器として転用、調査を行って分析し自軍の兵器の改良や開発の参考に使用、改造を施して使用、または余剰品として廃棄されることが多い。このため、近代以降の軍隊では何らかの理由で兵器を遺棄しなければならなくなった場合、その兵器が敵軍の戦力として運用されないように破壊(爆破・放火・自沈)ないし使用不能にすることが義務付けられている)

フィリピンで奪ったジープを早速に日本に送り、トヨタに性能などを調査させ、コピー車を作るように依頼。
フィリピンというのはカトリック国で、後にGHQ総司令官になるマッカーサーがいた国でもある。
案外奪い取ったのではなく横流しだったりして。

陸軍は鹵獲したBRC-60の性能に着目し、これをリバースエンジニアリングするようトヨタ自動車に命じた。その試作に当たっては戦地での敵味方の誤認を防ぐため「外見がジープに似てはいけない」という要求も貸され、機能性がそのまま外見に表れるジープと同じ性能を違う外見で実現するためにトヨタの森本真佐男技師は大変に苦心した末、最終的にヘッドランプを中央1灯とするフロントフェイスにすることでこの要求をクリア、1944年8月にトヨタ呼称AK10型として試作車5台が出揃い、御殿場で試験された。
その結果、四式小型貨物車として陸軍に直ちに制式採用されるが、極度の資材欠乏と労働力低下、日本本土空襲の混乱などから量産が間に合わず、ジープのような活躍の記録はない。
また、このAK10型と戦後のトヨタ・ジープ、のちのランドクルーザーとの設計面での直接的なつながりもなく、トヨタ自身もジープ/ランドクルーザーの直接の母体はトヨダ・KCY型四輪駆動トラックや、KCY型をベースに水陸両用トラックとしたスキ型4輪駆動水陸両用車であるとしているが、トヨタの技術者たちはAK10型の試作の経験で四輪駆動車の基礎的な技術を学び、その残存部品もトヨタ・ジープの開発に当たって大いに参考にされたという。


結局トヨタのジープは戦時中には量産出来なかったが、アメリカは実に65万台ものジープを生産した。

戦後に誕生したトヨタ製のジープ。ランクルとは関係ないと言っているようだが、技術者たちも証言しているようにそんなことはないだろう。
違いは搭載したエンジンが大きかったこと。
戦時中ドイツやアメリカは小型車両を重宝したわけだが、戦後のトヨタのジープはトラックに用いるような大型エンジンを搭載した。普通にしていても小型車両よりもパワーが出るのは当然である。
ジープという名称は商標権の問題で使用できなかったので、「ランドクルーザー」という名にした。これはイギリスの「ランドローバー」を意識したらしい。
陸(国)を動き回る者という意味の'LAND ROVER'。
陸(国)を巡視する者という意味の'LAND CRUISER'。

ついでに奪い取ったバンダム社のジープ(Mk II)は、後にトヨタが発売することになる高級乗用車の名称マークII (MARK II)にも似ていますね。


ジープ、クライスラーへ

1970年代はオイルショックに2度見舞われ自動車業界にとっては非常に厳しい年代であったが、燃費効率の良さが評価された車をアメリカン・モータースの販売網を利用して販売し一定の成果を上げたルノー同様に、小型車を多く生産する日本の自動車会社にとってもオイルショックはアメリカ市場での販売において、ある意味追い風となった。
日本の自動車会社がアメリカ市場で飛躍したのはオイルショックのおかげとも言えるくらいである。

三菱自動車は1970年代にアメリカのクライスラーと業務提携し、三菱の小型車はクライスラーブランドでクライスラーの販売網を利用して販売されていった。こうすることで輸入車にかけられる関税も回避できたという。売上は折半。
しかし当時アメリカは日本からの自動車の輸入自体に台数制限をかけていたので、関税がフリーになると言っても無制限に輸入するわけにはいかなかった。
そこで1985年、三菱自動車とクライスラーは現地生産を行う合弁会社「ダイアモンド・スター・モータース」を設立した。出資比率は折半。

クライスラーはアメリカの自動車企業ビッグ・スリーの1つ。
ゼネラル・モーターズ(GM)、フォード・モーター、 クライスラー。


フランスの国営企業であったルノーがアメリカン・モータースの株式46.1%を取得して傘下に収めたのは1979年。
しかしながらアメリカン・モータースの軍用車両部門のフランス資本(AMCのオーナーがフランス政府ということになる)は国防上の理由から認められないというアメリカ政府からのクレームにより切り離される。
1985年1月、業績が悪化していたルノーの総裁にジョルジュ・ベスが就任。
ベスはジープを高く評価しており追加投資も考えていたというが、結局1987年8月にアメリカン・モータース(AMC)はクライスラーに売却され、9月には生産性向上方針(不採算企業の閉鎖や人員整理)を発表した。
そして1987年11月17日暗殺された。

クライスラーはAMCの乗用車ではなく、ジープに魅力を感じていた。クライスラーは自社での一からの開発をおこなってジープ同様の評価を得るには、10億米ドル以上のコストがかかると見積もっていた。

ルノーが1979年にAMCを買収した際にはおよそ10億ドルかけたらしいが、クライスラーへの売却は3.5億ドルほどだったという。

クライスラーは、AMCの販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売力が拡充した上、ジープ・チェロキー(2代目・XJ)が予想外のヒットとなるなど、AMCが展開していた「ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。
ジープはクライスラーの基幹ブランドの一つとなった。
ジョルジュ・ベスのジープへの評価は間違えてはいなかったということであるが、当時のルノーはそれが活かされるような経営状態ではなかったということか。それともルノーはどうしても軍事部門に関わりたかったのか。

一方でクライスラーは三菱と設立した「ダイアモンド・スター・モータース」の株式を1993年に三菱に売却した。
以降、同会社は三菱自動車の北米事業部門となっている。(現:ミツビシ・モーターズ・ノース・アメリカ)


ジープの行方

1998年、クライスラーはダイムラー・ベンツ(ドイツ)と合併しダイムラー・クライスラーとなる。
2007年、ダイムラー・クライスラーはクライスラー部門を米投資会社サーベラス・キャピタル・マネジメントに売却。
2009年、クライスラーが倒産処理手続き(チャプター11)、フィアット(イタリア)が資本参加。
2014年、クライスラーはフィアットの完全子会社となる。(⇒フィアットとクライスラーの合併)
持株会社であるフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)を設立。

フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)
登記上の本社はオランダ・アムステルダム、税務上の本社はイギリス・ロンドンに置かれている。フィアット創業家のイタリアのアニェッリ家がオーナーシップを取っており同家の投資会社であるエクソールを通じて株式ベースで29.41%、議決権ベースでは44.31%を所有しており、現会長のジョン・エルカーンも同家のメンバー。
イタリア社とアメリカ車を世界展開しているが、本社を置いているのはそのどちらの国でもない。

ということで今現在ジープの商標権を持っているのはFCA。
2017年に中華人民共和国の自動車メーカーである長城汽車がジープの買収に意欲を示したと報道されるも、長城汽車は「不確実」であるとして現時点の進展はないとした。



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# by yumimi61 | 2018-11-29 20:35
ミッテラン大統領

フランスはカトリックの教皇から王という権威を与えられて国が樹立してきた経緯から君主はみなカトリック教徒であり、それは大統領の時代になっても変わらない。
フランス・カトリックの歴史は国王クロヴィス1世(フランスの前身であるフランク国の王)が洗礼を受けた時に始まったとされている。
宗教改革があっても、市民革命があっても、呪縛されたかのように張り付いている。

1945年、臨時政府の主席だったシャルル・ド・ゴールの行政命令によって国営化されたルノー。
そのルノーが民営化された時の大統領はフランソワ・ミッテランだった。
ミッテランは反対勢力を渡り歩いているので政治思想が分かりにくい面はあるが、カトリックへの信仰がベースにあると考えると腑に落ちる動きでもある。

カトリックの家庭に生まれる。
★尊王攘夷思想
当初青年右翼であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織クロア・ド・フーに所属した。←幕末の志士のようですね
★ヴィシー政権での活躍
1942年からはフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943年8月16日には、戦前の国家主義活動やヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。←カトリックを支柱にした国民革命とドイツへの協調
★ド・ゴール政権への合流
1943年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。
★戦後の第四共和政期は閣僚
国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。
★冷徹さ
翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。
ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

★戦後は反ド・ゴール
第四共和政期は一貫して反ド・ゴールの立場をとった。ド・ゴールは1959~1969年大統領として再登板した。ミッテランは左派統一候補として1965年・1969年・1974年と大統領選挙に出馬するも落選。1971年にはフランス社会党の書記長となる。1981年の大統領選で当選。1995年までの14年間大統領を務めた。


ルノー再びの悪夢

1986年11月17日の夜、ルノー公団総裁に就任していたジョルジュ・ベスが自宅前で左翼テロ集団のアクション・ディレクトに暗殺された。
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アクション・ディレクト(フランス語:Action directe、日本語直訳:直接行動)
フランスの極左テロ組織。1979年に無政府主義組織「国際革命行動グループ」と毛沢東主義グループ「人民自治武装細胞」が合体して設立した。

パリ14区。エドガー・キネ通り。この通りは幅の広い中央分離帯があり、その中央部分がトネリコの並木になっている。
ベスが通りで送迎車を降りて自宅の門扉に歩き出したところ、トネリコの陰から突然男女が飛び出してきて、女がベスに向けて拳銃を向け、2発、3発と銃弾を浴びせた。ベスはその場で絶命した。

実はトネリコは日本原産の木である。
トネリコ(梣、学名:Fraxinus japonica)は、 キク亜綱- ゴマノハグサ目- モクセイ科に分類される落葉樹であるトネリコ属中の、日本列島を原産地とする1種。
東北地方から中部地方にかけての温暖な山地に自生する。近年では、街路樹や園芸樹として各地に植えられていることもある。
木材としてのトネリコは弾力性に優れ、野球のバットや建築資材などに使用される。
新潟県では古くから水田の周囲などに並木として植えられ、刈り取ったイネを架けて乾燥させる「はざ木(はざき・はざぎ)」として利用された。同じ米産地の富山県でも同様の使われ方をし、「ハサ」と呼ばれる。トネリコは田園風景を決定づけていたが、ほとんど失われてしまった。「トネリコは一本だけでは役立たない、何本も並んでいるから役に立つ」といった教訓としても使われることがあった。



恩赦で釈放したのはミッテラン大統領

ベス暗殺で犯行声明を出したアクション・ディレクトは1980年にパリで警察と銃撃戦を繰り広げ、組織のリーダー格2人が逮捕されたことがあった。
しかし翌1981年に社会党のミッテランが大統領となり、ミッテラン政権は恩赦の法案を国会で通し、アクション・ディレクトの2人を釈放した。
釈放された2人は1985年にドイツ赤軍派と連携を結んだ。
その前後に幾つかのテロを起こしているが、そのうちの1つがルノー総裁ベスの暗殺だったという。

左翼テロリストであり、ターゲットにしたのが警察や軍や国営企業のトップだったりしたわけだが、当時は左翼に近い社会党政権であった。しかも2人は社会党のミッテランに恩赦にしてもらい釈放された。
ちょっとしっくりとこないテロである。


原子力業界への関わり

ジョルジュ・ベスがルノー公団の総裁に就任したのは1985年1月ことだった。

ベスはフランスの中央高地に位置する地域の農家の家系に生まれた。実業学校出身のエンジニアであるが経営手腕も買われたようである。
30代40代でUSSIやCITアルカテルのゼネラルマネージャーに就任。

1973年(45歳)の時、ウラン濃縮会社であるユーロディフ(Eurodif)を設立した。
Eurodif
ウラン濃縮事業を担当するフランスAREVA社の子会社。1973年にイタリア、ベルギー、スペイン、イラン(当初はスウェーデン)との共同出資で設立され、フランスのトリカスタンにガス拡散法によるウラン濃縮の商業プラント(ジョルジュ・べス工場、公称能力10,800tSWU/年)を建設した。この工場は1979年に操業を開始し、30年余り稼働してきた。ジョルジュ・べス工場は老朽化し、また電力消費量も大きいため、遠心分離法によるジョルジュ・べスII工場への移行が進められている。AREVA社によると、ジョルジュ・べスII工場は2011年4月に商業生産を開始した。

フランスAREVA社の子会社とあるが、AREVAに社名変更したのは2006年のことで、それ以前はCogemaという名称である。
EurodifはCogemaの子会社として設立された。
Cogemaは核燃料会社であるが、その前身は1945年にド・ゴールがフランスを核武装するために作った原子エネルギー委員会Comissaria Energie Atomique (CEA)である。
ベスは1976年にCogemaの副社長に、1978年には社長となっている。
すなわちフランスの原子力事業に深く関与してきた人物でもある。
フランスは原子力大国で、原発依存度は世界一。今なお発電の76%は原発によるものと言い張っている。

ジョルジュ・ベスは1982年にアルミ精錬会社の社長にも就任し、その後1985年にルノー公団総裁に就任した。


ルノーの失敗

ジョルジュ・ベスがルノー公団の総裁に就任する6年前の1979年、ルノーは当時アメリカで第4の自動車会社であったアメリカン・モータース(AMC)に46.1%資本参加し傘下に収めている。
スケールメリットとアメリカ市場への本格的進出を狙い、1960年代初頭から提携関係にあったアメリカ第4位の自動車会社、アメリカン・モーターズ(AMC)を買収し、「5」(アメリカ仕様は「ル・カー」の名で販売され、フランス国内でも一時期同名で販売された)や、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもある「9」(同「アライアンス」)、「11」(同「アンコール」)、「フエゴ」などの複数のモデルを擁し、1950年代後半の撤退から10数年を経て再度北アメリカ市場に本格的に参入した。

1970年代というのは2度のオイルショックがあった時代である。
ガソリンの不足、価格の高騰、消費マインドの冷え込みによって自動車販売台数は激減した。
ヨーロッパでも日本でもアメリカでも自動車会社は厳しかった。
2度目のオイルショックは1979年に始まり、ピークは1980年。
ルノーはまさにその頃にアメリカ市場に参入した。
ピンチはチャンスという言葉もあるが、燃料食いの大型車よりは小型車、パワーより燃費の良さに注目が集まるチャンスでもあった。
ルノーは、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもあった「9」が、アメリカでは「アライアンス」という名で販売され、燃費効率が良いと高く評価され、販売台数も伸びて一定の成功を収めている。
しかし業績は悪化していく。
その1つの原因は軍事車両部門の切り離しだと思う。

アメリカン・モータースの軍用車両部門であったAMゼネラルは、1970年代後半からアメリカ政府の要請に基づき旧態化したジープの更新を目的として「高性能多目的装輪車(後のハンヴィー)」を開発していた。
アメリカン・モータースがルノー傘下になった3年後の1982年、アメリカ政府は「国防上の理由」として、軍事部門であるAMゼネラルの資本をフランスのルノーにすることを認めず、AMゼネラルはアメリカン・モータースから独立した。
ルノーが買収した時のアメリカの大統領は、後年(2002年)にノーベル平和賞を受賞する民主党のカーター大統領。1981年にレーガン大統領が就任した後に、軍事部門であるAMゼネラルが切り離されたということになる。
AMゼネラルは開発していたハンヴィーが1985年に正式採用され量産が開始された。
AMゼネラルはのちにハマーの製造元としても知られるようになる。
何と言ってもルノーは当時フランスの国営会社だったのだから、アメリカの「国防上の理由」という言い分も仕方ないと言えば仕方ない。
でもルノーにしたら目論見が外れたのだろう。こうなると買収金額が高すぎたということになる。投資した費用を回収する見込みが無くなり業績が悪化していったんだろう。


人気車種ジープ

ジョルジュ・ベスは1985年1月にルノー公団総裁に就任した。
原子力事業の会社のヘッドだったということで、軍事部門にも強いだろうということでルノーに招かれたのではないだろうか。
暗殺される2か月前、ベスは「採算の取れない会社(工場)は閉鎖し、2万程度の労働者を解雇する」との方針を打ち出した。
当然労働組合は反発する。

ルノーの幹部や工場経営者などはルノーの業績悪化の原因はアメリカ進出の失敗にあり、アメリカン・モータースこそ底なしの不採算企業だから即刻手放すべきだという認識にある人が多かったが、ベスはアメリカン・モータスやアメリカ市場には将来性があると主張した。

ベスはアメリカン・モータースのジープに期待をかけていたようだ
AMゼネラルを分離させられたのだから軍事車両のジープではない。
ハードユース対応やレジャー用のジープである。
ジープはアメリカ国内にも世界的に見ても競合車種がほとんどなかったことが強みであり人気もあった。
当時「ジープ」の商標を持っていたのはアメリカン・モータースである。

1980年代、特に人気が高かったのはジープ・チェロキー (XJ) (Jeep Cherokee) 。
アメリカン・モーターズ (AMC) が1983年に発表した新世代四輪駆動車で、既存のエンジン以外はすべてゼロから開発した本格4×4スポーツワゴンである。
先代チェロキー (SJ) やピックアップ出自の多くのSUVとは異なり、ラダーフレームを持たない、ユニボディーと呼ばれるモノコックボディーで登場した。
それまでのジープにはないコンパクトでスタイリッシュなクロスオーバーSUVであるが、ジープとしての血統を濃く受け継ぎ、高い悪路走破性を備えたクロスカントリー・カーでもある。

AMCは1984年に向けたXJチェロキー(以下XJ)の開発に2億5000万ドルを投じた。XJの"X"に秘められたものがあるのなら“社運を掛けた試験的プロジェクト”だったともとれる。

1979年当時、AMCの株式の46.1%を取得していたのはフランスのルノーであり、XJ開発におよぼす影響力もまた大きかった。これは、アメリカ生まれのXJが、サイズやスタイリングにユーロテイストを持つ所以となっており、事実、発表後、フランスをはじめとした欧州各国でのXJの人気は高いものがあった。


日本ではホンダディーラーが取扱い、日本市場でも人気を得た車種。
ルノーのベスは新型ジープを開発するためにアメリカン・モータース(AMC)にさらなる追加投資を考えていた。エンジンの開発にも積極的だったようだ。


暗殺された理由は・・

「アメリカ進出に失敗して業績悪化しているのに、アメリカの会社に更なる追加投資って・・」と反発があったことは想像できる。
フランス国内(ヨーロッパ?)の工場閉鎖や人員整理(解雇など)に反発があることも容易く想像できる。

ルノー業績悪化を改善するためベスはルノーの民営化を検討しており、民営化に反対するテロリストに暗殺されたという意見もある。

ベスを暗殺したテロリストは「ルノーのベスの生産性向上方針は労働者から労働を奪う反労働者的、反国民的方針」と犯行声明で犯行理由を述べた。

私が推測する暗殺された理由は、軍事部門にも強いだろうということで招かれたベスがレジャー用ジープなんかに力を注いでいたからというもの。
どうでしょうか?見当違いですか?

暗殺から10年後の1996年になって、とあるジャーナリストが暗殺の背景にあるのは原発ではないかという説を発表したらしい。
ジョルジュ・ベスがオイルショックの1973年に設立したEurodif (ユーロディフ)への出資に当初スウェーデンも参加したがすぐに脱退した。
その後釜にイランが参入し3億3千万ドルを拠出したという。
ところがイランは1978年にイラン(ホメイニ)革命が起こり、王国から共和国(革命政府)へと体制が変わった。
そのためEurodif はイランへの核燃料の供給を拒否したという。
そしたらイラン革命政権が拠出金の返済を要求してきたというが、フランスは応じず、これがジョルジュ・ベスの暗殺の背景なのではないかということ。
ベスが暗殺された当日(夜だけど)、フランスはイランに拠出金の一部を返済したとか。
逮捕されたテロリスト2人はイランとの関係は否定しているとか。

フランスは海外に原発を輸出しているが、イラク(サッダーム・フセイン時代)とイランへの輸出にベスが関与していたという話もある。
イラクでは原発建設中にイスラエルの空爆により破壊されたとか。
であるならば、イランは完成したけれど、話が違って・・・「嘘つき!金返せ!」となったとか?

それともあれですか、いろいろ知り過ぎたベスがアメリカのジープになんか拘っていたから?



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# by yumimi61 | 2018-11-27 14:07
1945年、第二次大戦末期にルノーは国営化された。
ルノーを行政命令でもって国営化したのは、カトリック教徒で、イギリスに自由フランスという亡命政府を樹立させ、ロスチャイルド家にも近かったシャルル・ド・ゴールである。 
ドイツの占領、攻撃による生産設備の破壊、創業者の死(虐殺疑い)、国有化、ルノーにとっては忌まわしい歴史。



オーナーと管理人

第二次世界大戦が勃発した時のフランス大統領はアルベール・ルブラン。
開戦時の大統領のわりには日本での知名度は皆無。

1940年5月からドイツ軍はフランスに侵攻した。
6月10日、戦況が悪化していたことを受け、フランス政府は「パリの無防備都市」を宣言。都市の被害を最小限にするための宣言である。
6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城。
6月16日、フランスの内閣は総辞職。抗戦派と言われていた大統領や首相に代わり、和平派のペタンが政権を握り、降伏を決断した。(軍人でもあるフィリップ・ペタン副首相→首相)・・ヴィシー政権(ドイツの傀儡政権とも言われた)
6月22日、休戦条約が調印され(独仏休戦協定)。

アルザスやニースなどがドイツやイタリアに割譲され、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下に、南部フランスがフランス国(ヴィシー政権)として存続を許された。
全てが割譲や占領されずに、一部であっても主権国家として「フランス」という国が維持されたことが、フランス国民の和平派ペタンへの支持に繋がった。

主権国家としてのフランス政府存続は達成された。ペタンは「少なくともわが国の名誉だけは守られた」と述べた。ペタンはフランス国民の熱狂的な崇拝対象となり、町中に元帥の肖像が溢れた。ジャン・コクトーはこの熱狂を「元帥は大衆が慣れ親しんでいた君主のイメージに近かった。それにフランスでは高齢はひとを安心させる。彼は瘰癧(るいれき)を癒しかねなかった(ロイヤル・タッチ)。」と評している。

ロイヤル・タッチは君主が触れると病気が治るみたいなこと。
イエス・キリストもこの手の逸話(奇跡による癒し)で神格化された。
フランスは戦争に勝ったわけではない。降伏したのである。降伏によって負けたのに主権が維持できたということで、軍人でもあった首相ペタンが君主並みに崇拝されたという。

日本の天皇もこれに似たところがあるのかもしれない。しかし日本はGHQに占領され主権も6年間失っていはずなのに、割譲や主権など和平のための条件の話し合い(平和条約)も待たずに、まるで主権があるかのように憲法をさっさと施行した。これはどうしても解せない。
条約を締結していないということは日本という国のオーナーを誰にするかもまだ決定していない状態である。
敗戦後には分割や割譲されることだってある。割譲されたら、そこに住む人は日本人でなくなることを意味する。主権というのは政治的な権利のことであり、主権の中に「領土」や「国民」の所有権が含まれているわけではない。

日本の戦後は、最高意思決定機関である株主総会なしに勝手に役員が決まり、様々なことが決議されたようなものである。
国民の生活をストップさせておくわけにはいかないから、とりあえずGHQという現場監督を付けていただけに過ぎないはず。そのGHQが勝手に領土や主権を決定して日本に憲法を作らせ運用させたとするならば、GHQは連合国寄りではなかったということになる。

そもそも国(領土・国民)の所有者は誰なのか。
君主国は君主であろう。社会主義国は政府だろう。共和国も政府ということになるだろう。
日本の領土と国民を所有していたのは天皇だった。
そう考えると、株式100%所有しているオーナーが天皇ということになり、総会を開くまでもなく多くの事を自分で決定できる。戦前・戦中は全権を持つ管理人でもあったから、それこそ何でも出来る。
だけど戦争を行った以上、相手国がいるのだから、何でも一人で決めてよいということにはならないであろう。
ともかく君主国の国民は、君主=所有者となってしまうということを念頭に置かなければいけない。
日本のような立憲君主国であっても同じである。
憲法に領土の範囲や所有者が明記していなければ、法的根拠は何もないので、国家形態から判断することになる。


北方領土に関して「2島の主権は議論が必要」とプーチン大統領が発言したと報道されていたけれど、主権というのは会社で言えば経営者や取締役会みたいなものであり、オーナー(所有者・株主)とイコールではない。
第二次世界大戦でのフランスの場合も、ペタン首相が降伏したことで一部の主権が残されたということだけれど、オーナーはあくまでドイツだったかもしれない。経営の一部をフランスに委託しただけのことで。
結局ドイツは敗戦したので元に戻ったけれど、ドイツが勝っていたらフランスはどうなっていたかは分からない。
そもそも最終的には(第二次世界大戦全体では)敗戦したドイツだが、対フランス戦に勝利したのは事実。その時の協定が反故されるというならばやはり最終的な平和条約締結の場が最高意思決定の場になるということだろう。

第二次世界大戦におけるロシアと日本の関係では、ロシアは勝利した連合国側だし日本は敗戦国である。
そしてGHQが連合国側ではなく日本寄りな立場を取っていた。そうとなればロシアとの関係が微妙になるのは仕方がない。
時系列で冷静に判断すれば日本は「固有の領土」を主張する立場にはない。
ただそれは敗戦国である日本だけでは絶対に出来ないことである。


一般的な国民目線で見れば、オーナーは馴染みが薄い。
正直言って国のオーナーが誰であっても実際の国民の生活はそう変わらないことってあるんじゃないでしょうか。
誰が会社のオーナーでも従業員の生活は変わらない、と置き換えてもよいけれど。
賃貸物件のオーナーが管理会社に任せっきりにすることだって少なくないですよね? 借主はオーナーが変わっても知らないかもしれない。
オーナーと経営者、オーナーと管理者の関係は密かもしれないけれど、下の者にはオーナーが見えないことは多々ある。
ドイツがフランスの所有者になったのに、そうとは知らず、降伏したため管理人に据えられたペタンを崇拝したフランス国民、というふうに言えなくもない。
だけどオーナーよりも管理人が誰になるかが大事なのだという考えを持っているならば、それでも別におかしなことはない。

カルロス・ゴーンは管理人。日産の取締役会も三菱の取締役会もルノーの取締役会も管理人。
会社のオーナーは株主である。
ルノーの筆頭株主はフランス政府。日産の筆頭株主はルノー。三菱の筆頭株主は日産。
オーナーの力関係を見ればフランス政府が一番強い。
オーナーと管理(経営)についてそれぞれがどう見るかによって変わってくる問題である。


ドイツやヴィシー政権の支柱はカトリック

1940年7月9日、ヴィシー政権の国民議会は憲法改正を行って大統領職を廃止、「全権力をペタン将軍に委任する」というただ一条の憲法を持つファシズム体制の国家となった。
ペタンのヴィシー政権は国民革命と呼ばれる新秩序の構築とドイツとの協調を目指した。
また敗戦の原因をフランス人の道徳的退廃が原因であるとし、道徳や秩序を重視する政策を推進した。

国民革命はカトリックを支柱としたフランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズ(フランスの王党派組織)のシャルル・モーラス(カトリックの学校卒業後パリに出て、文芸評論家として近代の思想や文学を否定し、前出の思想団体を結成)がイデオローグ(提唱者)であった。

ここがまた凄くややこしいところであるが、新秩序とは「国家的」「権威的」「宗教の再興」「個人主義の抑制」「国家への忠誠」「スパルタ的教育」のことなどであり、旧秩序は「フリーメイソン的」「自由主義的」「資本主義的」「国際協調(国際的妥協)」といったものである。
新秩序のほうがちょっと古めかしい印象があるのに、当時はそちらが新秩序とされていて、カトリックを支柱にそれを目指していた。

ドイツと足並みを揃え、ドイツの傀儡政権と言われたヴィシー政権がカトリックを支柱にしていたならば、当然ドイツだってそうだったはずだ。

ヴィシー政権は1944年8月20日まで。
その後がシャルル・ド・ゴールで1946年1月16日まで。このド・ゴール時代にルノーは国有化された。
ド・ゴール以降1947年1月16日までは共和国臨時政府という扱いである。


誰が勝ってもカトリック

ヴィシー政権で全権を握ってカトリックを支柱に新秩序を目指したペタン首相は、軍人であり副首相でもあった。
シャルル・ド・ゴールは軍隊でペタン(ヴィシー政権での首相)の部下であり、国防次官でもあった。
抗戦継続派の首相や大統領は身柄を拘束されたが、シャルル・ド・ゴールは上手くロンドンに亡命して「自由フランス」(亡命政府)を結成した。
そしてドイツへの徹底抗戦やヴィシー政権への抵抗を呼びかけレジスタンス運動を煽った。
前述したが、シャルル・ド・ゴールも父親がイエズス会学院の校長であり歴史を教えていたというカトリック教徒である。

1944年6月、連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功。ド・ゴールは祖国に戻って自由フランス軍を率い連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリを解放した。翌26日エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。
フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。


ドイツ(カトリック)==ヴィシー政権(カトリック)(降伏)vsド・ゴール(カトリック)(連合国に合流)

こうなると誰が勝ってもカトリックである。


ルノーの戦車から馬へ、そして国営化

ドイツの敗戦を受けてフランスではドイツに協力した人物を罰した。
そこにド・ゴールは含まれない。
一方、ルノーの創業者はドイツに協力したとして逮捕され亡くなった。

第一次世界大戦当時、傑作戦車として名高いルノー FT-17 軽戦車を投入し、また歩兵の輸送にタクシーを使用したことで知られるフランス軍であったが、戦後の軍体系は守旧化した。すなわち、再び馬が歩兵輸送の手段に変わった。
また、戦車運用についても、従来通りの歩兵の支援が目的と位置づけ、戦車を各歩兵師団に分散配置してしまったのである。ド・ゴールら一部の将校がドイツのような戦車を集中配備した装甲師団の創設を唱えたが、これが認められたのは第二次世界大戦勃発直前であり、数も4個師団のみにとどまり戦局を左右することはできなかった。


第一次世界大戦後、フランスはルノーの戦車から馬に戻したのだという。
第一次世界大戦でフランスは勝者側であった。
しかし人口の15%にもあたる死傷者を出し、戦闘の舞台となった北部都市の破壊が大きく、戦費も嵩んだ。ドイツからの賠償金は滞り、ロシアに関する巨額な債権はロシア革命による社会主義化とともに消滅してしまった。
フランスの疲弊度は大きく、勝ったにもかかわらず国民には大きなトラウマが残った。それが第二次世界大戦でのヴィシー政権支持にも繋がっていった。

馬に乗りヨーロッパ全土を制覇する勢いだったナポレオンへの郷愁からなのか、それとも戦車は資本主義的なもので「旧秩序」を代表するとして嫌われたのか、ルノーが「個人主義」の代表にみえたのか。
あるいはルノーが製造を拒否したのか。
ド・ゴールは戦車派だったが、ルノーの創業者を排してルノーを国営化した。






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# by yumimi61 | 2018-11-26 17:27
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フランス共和国はあの人で始まった

フランスの初代大統領はナポレオン1世の甥にあたるシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)である。

以前書いたようにナポレオン1世の登場はヨーロッパの既得権者(王室やカトリック教会)を一致団結させることになった。
カトリックは1500年代にヨーロッパ全土で巻き起こった宗教改革の波に押され、各国の王室からも見限られ、活路を外国に求めるしかないような状況となり、存続がなかなか厳しい状況に追い込まれていた。
1700年代後半にはフランスで市民革命が起こる。
それを機にフランスではナポレオンという英雄が誕生し、ナポレオンはヨーロッパ全土に進出する勢いを持った。
今度は王室(王政)が厳しい状況に追い込まれていくのである。
この時にナポレオンに打撃を与えたのがカトリックのイエズス会だったらしく、ヨーロッパの王政を守ったカトリックは復権を許され、以後カトリックは世界的に急速に拡大していった。
存続危機感が団結に転換されたのは、日本の国家神道(神社界)も同じである。

ということでフランスもナポレオン1世失脚後は王政が復活。
(ちなみにナポレオンは8月15日生まれで、失脚したのが1815年6月で、死んだのは5月5日の子供の日です)
ナポレオン1世失脚後、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)はロンドンに亡命していた。
しかし1848年にパリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いた七月王政(ナポレオン1世以後33年の王政)が再び倒された。
結局この時に倒された王政が最後の王政であり、以後フランスは共和国へと移行したが、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)は直接革命に関わったわけではなく、しかも共和政であるからして皇帝1世の甥などという強権やコネで物事を進めるわけにもいかない。選挙を通して民主的に段階を踏まなければらない。

時節到来とみたルイ・ナポレオンはロンドン滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした。9月25日にフランス・パリへ戻り、議会に初登院して演説を行った。しかしドイツ語なまりのぼそぼそと聞き取りにくい声で「私を受け入れてくれた共和国に感謝する」と挨拶しただけだった。ルイ・ナポレオンの鈍重そうな顔と相まって、議場から失笑が起こった。

ルイ・ナポレオンについてティエールは「ただのバカ」と一言で評した。レミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調。」と評した。ルイ・ナポレオンの「無能さ」に安心したのか、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄した。

基本的に彼は討論が苦手で話が詰まることが多かった。そのためか憲法制定の論議にはほとんど発言しなかった。共和国への忠誠心を疑われた時だけ「私は共和政を愛している」と反論するのみだった。


なんていうか、今の日本で例えれば、サイバーセキュリティ担当&五輪担当の桜田大臣みたいな感じ?
「余計なことはしない、出来ないという安心感」に、「抜群のネームバリュー」と「ナポレオン1世を崇拝する残党からの熱烈支持」が相まって、正々堂々選挙で初代大統領に選ばれた。


ナポレオン3世の反撃

当時は任期4年で再選不可という縛りがあった。
前評判通り、4年間、確かに何も出来なかった。

ナポレオン1世時代に分離されたカトリックと教育が再び結合された。これにより教師はカトリック聖職者の管理下に置かれ、共和派の教師は続々と教職を追われた。
さらに1850年5月31日には選挙法が改正され、選挙権の資格として3年以上同一住居であることが条件として加えられた。
男子普通選挙を通じての民衆との直接的な結びつきにのみ権力基盤があるルイ・ナポレオンはこの選挙法改正には反対の立場だったが、この時点の彼の権力では阻止することは不可能だった。


帝政が倒され王政も倒されて樹立した共和政の実態は、カトリック復権であり、ほとぼりが冷めた頃に共和主義的な制度を徐々に廃止していくものであった。

だがナポレオン3世は出来ないままで終わらなかった。
主権者である国民の代表機関である議会にクーデターを企てた。

積極的に遊説に出て、国民の人気取りに励みつつ、将校と下士官を次々とエリゼ宮に招いて葉巻やシャンパン、料理などを気前よく振る舞い、軍の取り込みも図った。
1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンと内務大臣ド・モルニーの名において議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。
1851年12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けた。


クーデターは当初、共和主義者である右翼の大物を、その後は左翼をターゲットにした。
共和主義者が政権を握っていた時代の左翼とは、王政や帝政を支持する者である。
右翼(与党)と左翼(野党)を思想で固定してしまうと混乱を招くので、政権を握っているかどうかで動かす必要がある。

共和政(王政を倒して新しい時代)(右翼) vs 帝政派(王政を倒した革命者)(左翼)(1851クーデター)╱王政派や教皇派(古い時代)(左翼)

結局「最良の帝政支持者」となるのは右翼しかいないのだから彼らに対しては牽制はしても潰してはならないのであった。実際この激しい左翼弾圧を見て秩序党もルイ・ナポレオンへの警戒を緩め、彼のクーデタを支持するようになった。右翼と左翼の対立をうまく煽ることで反クーデター派を分断したのである。


権力掌握と人気獲得

クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法として公布した
これにより大統領の任期は10年に延ばされた。大統領には行政権全てと立法権の一部が与えられた。
この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得た。あとは任期を廃して世襲とし、職名を皇帝に変更すれば悲願が達成されることになるが、ルイ・ナポレオンはクーデタ後すぐさま帝政復古させることには慎重であり、まず世論を調整しなければならないと考えていた。


はじめルイ・ナポレオンは任期10年で連続再選が可能の大統領制のままで良いかのような発言をしていたが、ド・ペルシニーが訪問先で「皇帝万歳」の声が上がるよう工作し続けたこともあって徐々にルイ・ナポレオンもその気になってきた。
クーデターを成功させる前、大統領になった時にも、ルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また彼の行く先々で兵士や民衆に「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと呼ばれ歓迎されていた。

1852年10月9日のボルドーの演説では「『帝国とは戦争だ』という人々がいますが、私はこう言いたいです。『帝国とは平和』であると。」と帝国復活に前向きな発言を行っている。
1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、11月5日に元老院に対して帝国復活の検討に入るよう指示した。11月7日の元老院令によって1852年憲法の大統領に関する規定が改正され、任期10年の大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入された。またその是非を国民投票にかけることが決議された。国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認された。



格差の広がり

絶対的権力と人気を手に入れたナポレオン3世が行ったこと、それは経済改革である。
ナポレオン3世による帝政時代がフランス経済の大きな転換期となり経済成長を果たした。
そもそもヨーロッパでは戦争が起こるたびに兵士や武器や資金を融通する貴族など旧家や国際金融家が儲かる仕組みとなっていた。市民革命からの長いナポレオン戦争でヨーロッパ各国、とくにフランスの国家財政は疲弊していたはず。ツケ(借り)も沢山あったであろう。
たとえ共和政が国家の理想的形態だとしても、仙人じゃないんだから霞だけでは生きていけない、理想だけでは食べていけないという現実もあるんだろうと思う。
またナポレオンはヨーロッパの王家から認められた存在ではなく、そういう意味では幾ら皇帝と称しても孤立してしまいやすく厳しい国家運営だったに違いない。
ナポレオン1世のような圧倒的実力を持っていたわけでもなく、かといって血統を張り合うほどではなく血統の繋がりも弱い。選挙で選ばれ国の代表となり、クーデターを成功させ地位と人気を獲得して皇帝になってもなお、その「正統性」は認められなかったということである。
平等な共和主義なんて言っていたら国も成り立たない。その対策というか、そこを狙われたというか付け込まれたというかで、これまで以上に実業家や金融家を台頭させることになる。
共和主義的な戦争(共和主義的に儲ける)とでも言えばよいだろうか。目に見えた戦争ではないので比較的抵抗なく世界に広がっていく。

それを遂行するにはナポレオン3世は最適任者だったと言えてしまう。
ナポレオン1世失脚後に亡命したロンドンに滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした時から、敷かれたレールの上を走らされていたのかもしれない。

「産業者」は実力主義で選ばれるべきであるとし、そのために教育を重視する。また国家の役割を最小限にすることを求め、レッセフェールや自由貿易を支持する。また西洋と東洋の通商による融合という理念を持ち、通商路建設や植民地政策など東方進出を推進する。

ロチルド家(英語読みでロスチャイルド家)をはじめとした「オート・バンク」と呼ばれるフランスの既存大手銀行は、これまで為替や手形割引などで儲け、産業金融をあまり手掛けてこなかったため、フランス資本主義の発展は立ち遅れていた。その状況を打破すべくナポレオン3世は金融改革を行って殖産興業を押し進めた。

1852年11月にはペレール兄弟やアシーユ・フールなどユダヤ金融業者の援助でクレディ・モビリエを創設した。これは株式を発行して国民から資金を集め、産業企業に投資する銀行だった。とりわけ鉄道に積極的に投資し、国内鉄道はもとより、オーストリアやイタリア、スペインの鉄道にも積極的に投資してヨーロッパを繋ぐ巨大鉄道網の建設をめざした。クレディ・モビリエは同業者の合併を推し進めて経済の集中化を図り、自身はあらゆる産業の頂点に立つ持株会社になろうとしていた。

クレディ・モビリエの登場でオート・バンクももはや一部の金持ちとだけ取引しているわけにはいかなくなり、ひろく大衆の貯蓄から資金を募り、産業金融を行うようになった。1863年にはクレディ・リヨネ、1864年にはソシエテ・ジェネラルが創設され、これらの銀行も産業金融を手掛けるようになった。クレディ・モビリエ自体は帝政末期の頃にオート・バンクとの競争に敗れて経営破綻しているが、その登場の意義は大きく、フランス金融の近代化は同社の出現による競争の激化で成し遂げられたのであった。

ナポレオン3世の金融改革で近代的な銀行システムが作られたことは、カリフォルニア・ゴールドラッシュに伴う銀行の金準備の増加で兌換が促進されたことと相まって、フランスの経済発展の原動力となったといえる。



大統領時代の幕開け、君主時代の終わり

ナポレオン3世の終わりは普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)だった。
戦争の引き金はスペイン王位継承問題。

1868年9月、スペイン首都マドリードでフアン・プリム将軍のクーデタが発生し、スペイン女王イザベル2世が王位を追われた。プリム将軍は立憲君主制を宣言し、新国王の選定を開始した。

新国王にフランス王家に関係ある人物がなるか、プロイセン王家に関係ある人物がなるかで争い、戦争へと繋がった。
ナポレオン3世以外は両国ともに好戦的だったという。
ナポレオン3世は戦力・戦略的に勝目はないとみて乗り気ではなかったらしい。
結局プロイセンの軍に追い詰められて降伏し、ナポレオン3世の帝政も崩壊していった。

ナポレオン3世一家はかつてのようにイギリスへ亡命。
妻(皇后)ウジェニーが亡命前に巨額の皇室財産をスペインに移しておいたため、一家は金銭面でも困窮することはなかった。例えフランスという国が困窮しても。
ウジェニー(皇后)の父親はスペイン貴族であり、彼女は熱心なカトリック教徒であった。
ウジェニーはイギリスのヴィクトリア女王とも親しくしていた。

(ウジェニーは)パリのサンジェルマン地区ヴァレンヌ街にあるサクレクール寺院女子修道院で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎないカトリックとしての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々は彼女の信仰に大きな影響をもたらした。


1873年1月9日、ナポレオン3世は病死した。64歳だった。
1月15日にチズルハーストのカトリック教会でナポレオン3世の葬儀が行われ、フランスから多くの来賓が訪れた。出席者の中には「皇帝陛下万歳」を叫ぶ者もいたが、第三共和政政府の反発を恐れてか、ルイ元皇太子は出席者たちに「フランス万歳」と叫ぶよう要請した。

その5年後1878年、息子であるルイ(元皇太子)も戦死した。23歳だった。

1887年にウジェニーはヴィクトリア女王の協力も得てファーンボローに聖マイケル修道院を創設し、ここに夫と息子の墓を移した。1920年にウジェニーが死去すると彼女もそこに葬られている。

大統領時代の幕開け、君主時代の終わり、その大統領であり君主(皇帝)だったナポレオン3世とその妻はカトリック教徒であったのだ。




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# by yumimi61 | 2018-11-25 11:39
日本の親はカトリック?

明治維新の志士とその後の明治政府にとって親にあたる国はイギリスである。
イギリスと近代日本は親子関係にある。
精神的な親はカトリックなのではないかと考えることもあるだろう。
第二次世界大戦後はアメリカを親にあてる人もいると思う。


イギリスは元はカトリック国だった。王の離婚問題によって分離独立したのでプロテスタントに分類されるがカトリックによく似ていると言われる。
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国の中央管理機構であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官には、アメリカの太平洋陸軍司令官だったマッカーサーが就任したが、マッカーサーはカトリック国フィリピンの総督であった。フィリピンでは人口の85%がカトリック教徒だという。これはスペイン統治時代に持ち込まれたことに起因している。
日本に最初にカトリックを持ちこんだフランシスコ・ザビエルはスペインの生まれのカトリック教会の司祭であり宣教師であり、イエズス会の創設メンバーの1人だった。
日本がカトリックに呑み込まれることを恐れて対立したのが中央の武将たちであったが、明治維新以後、その様相は変わった。
日本の中央はイギリスやカトリックに非常に近づいたのである。

先日私はそれを親子関係に準えた。
現在の皇室の親にあたるのがイギリスやカトリックだとしよう。
次のようになる。

イギリスー伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

カトリック教会ー伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)


レバノンのマロン派?

今話題沸騰中のカルロス・ゴーン氏もカトリック教徒である。

ゴーン氏の祖父はレバノンからブラジルに渡った移民で、ゴーン氏はブラジル生まれ。幼少期から高校まではレバノンで、大学はフランス。
祖父が生まれた地はマロン派典礼カトリック教徒の多いレバノン山地の麓だったという。

マロン典礼カトリック教会(英語: Maronite Church、フランス語: Église maronite)
レバノンを中心に信者を擁するアンティオキア派の伝統に属するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派。マロン派とも呼ばれる。マロンーアンティオキア総大司教の司教座は、レバノンのブケルケに置かれている。
レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占め、古くから重要な政治ポストを占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持つ。また、その歴史的経緯などから、同じカトリックが多数派であるフランスとは緊密な関係にある。

マロン派は聖マロンが創始した当初は教義上単意論を採用し、正教会ならびにローマ・カトリック教会とは離れていた。
その後、十字軍時代にカトリック教会との接触を機にマロン派とカトリック教会双方から再合同の交渉が行われ、1180年にカトリックに帰属し、教義もカトリックと同一となった。
一方でマロン派は独自の典礼を保持し、教会用語や祈祷書には古シリア語やアラビア語が用いられている。現代ではローマ教皇と一致して教義・組織はカトリック教会に属しながらも、独自の組織や典礼の伝統を維持する東方典礼カトリック教会の一つになっている。2012年10月には、マロン典礼カトリック教会の最高指導者であるベカラ・ブートロス・ライ総大司教がカトリックの枢機卿に任命された。

レバノン内戦においては増加するイスラム教徒と対立し、イスラエル軍侵攻下の1982年、マロン派の民兵組織ファランヘ党が、「パレスチナ難民」に対する大量虐殺を行い国際的非難を浴びた(サブラー・シャティーラ事件)。

マロン典礼カトリック教会の信者はレバノンの他にシリア、キプロス、イスラエル(レバノン内戦による避難民も含む)、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カナダ、南米に分布。彼らはアラブと欧米における言語や商慣行を知る事から、有力なレバノン商人を輩出してきた。レバノンにおける政治バランスの悪化により、多くのマロン派住民と資産が内戦終結後に海外に再流出しているとされる。移民先の各地で政治的、経済的な成功を収めたり、ビジネスでも幅広く活躍する者も多い。日本では、日産自動車の再建に辣腕を振るったカルロス・ゴーンが有名である。

レバノンにおいては、芸術、芸能、メディア方面に人材を輩出しており、女性キャスターや歌手の多くはマロン派信者である。レバノンの大統領が選出されるのが慣例となっている

<著名な信徒>
・カルロス・ゴーン

・カルロス・スリム・ヘル(父がレバノン生まれ。メキシコで巨万の富を築き、米経済誌フォーブスの発表した2008年版の世界長者番付では、ビル・ゲイツを抜き資産時価総額が2位であった)

・ハリール・ジブラーン(レバノン生まれ、米国で活躍した詩人、画家。1883年生まれ、1931年没)

・レイモンド・ラフード(アメリカ運輸長官)
2009年から2010年にかけてのトヨタ・バッシング(トヨタ自動車の大規模リコール)の際にも運輸長官として様々な対応をとった。なお、2011年2月8日の運輸省最終報告ではトヨタ車に事故の原因とみられた欠陥は一切見つからなかったと公表された。

・ミシェル・テメル (ブラジル連邦共和国第37代大統領)
(現職)

ゴーン氏はマロン派を「ローマカトリック教会の傘下」と表現している。


レバノンのフランス統治時代と少年時代

第一次世界大戦後、レバノンはシリアから独立したが、フランスの統治下に入った。

キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。1920年9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された。

カルロス・ゴーンは多感な10代をフランス統治下のレバノンで過ごした。
通った学校はコレージュ・ノートルダムという名のイエズス会系の一貫教育校。校長はフランス人だったそうだ。
ゴーン氏はイエズス会を「世界初の多国籍企業と言えるような組織だった」と回想している。

11年間のレバノン生活を終え、大学はフランスへ。


フランスもカトリック国

フランスは歴史的にカトリック国。
フランスの大統領は昔から現在に至るまで、信仰の程度にこそ差はあるかもしれないが、ほぼ全てと言ってもよいくらいカトリック教徒である。

フランスは第二次世界大戦前は中道右派政党の大統領が多い。
戦後はインターナショナル・フランス支部とか社会党とか、いわゆる左派政党の大統領が多い。
しかしどちらであってもカトリックへの信仰が(多かれ少なかれ)ベースにある。

でもフランスも政教分離を謳う国。
1905年の政教分離法が制定され、戦後の1958年憲法でも第1条にてライシテ (政教分離・非宗教性)が国家の基本理念だと定めている。


首都パリの空港名となったシャルル・ド・ゴール

第二次世界大戦でドイツによって首都パリが陥落されると、ド・ゴールはイギリスへ亡命。
そしてロンドンにロレーヌ十字の「自由フランス」という亡命政府を樹立。
BBCラジオを通じて、対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。こうした情報戦をアンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)がさらに展開した。彼は、ロスチャイルド家と古くから姻戚のヴォルム銀行(Banque Worms)を代理する立場にあった。ヴィシー政権の主要な閣僚は同行から出ていた。
翌1941年10月25日ド・ゴールはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘でフランス本土に派遣する。同年エルヴェ・アルファンがド・ゴールの経済顧問となり、ヴォルムとロスチャイルドの共同出資によりSNPA(エルフ・アキテーヌの前身。いわゆるFRANCAREP)が設立された。パッシ大佐はSNPAの監査役となった。


※アンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)は諜報機関のトップ。エルフ・アキテーヌは石油会社。

フランス生まれのシャルル・ド・ゴールもカトリック教徒である。
しかも父親はイエズス会学院の校長として歴史科を教えていたという人物。


ルノー国営化

レバノンは第一次世界大戦後にフランスの統治下にあったが、そのフランスが第二次世界大戦中にドイツの統治下となり、レバノンはロンドンに渡った亡命政府・自由フランスの統治下となり、同じく自由フランスの統治下に入っていたシリアとともに1941年6月独立宣言し、続いて布告した。
布告後すぐに承認したのが自由フランス亡命政府を支援していたイギリス。

ルノーを行政命令でもって国営化したのは、カトリック教徒で、イギリスに自由フランスという亡命政府を樹立させ、ロスチャイルド家にも近かったシャルル・ド・ゴールである。

第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領期間に、ルノー社はドイツの接収に遭い、ダイムラー・ベンツ社から人材が派遣されて重要なポジションに就いた。
会社の生産性は微々たるもので1939年5月分の1/3にも満たなかったが、これは生産遅延の試みのためでもあった。
にもかかわらず、ルノーの評判はフランスのレジスタンスの間で悪化した。1942年3月の連合国による空襲で工場が破壊された後、ルイは失語症を患い、話すことも書くこともできなくなった

1944年9月にフランスが連合国によって解放されると、ルノー創業者のルイ・ルノーはナチス・ドイツとの産業利敵協力のコラボラシオンで告訴逮捕された。1ヶ月後にルイは死亡、フレンヌ刑務所で虐待があったのだと言われている。外傷性脳挫傷、重度尿毒症が観察されていたが、なんの調査もなされなかった。
3ヵ月後ルノー社は国営化され、コラボラシオンの非常に不愉快な公式例となった。注目に値するのはこの接収が、判決書もないまま既に死亡した人間に適用され、法の支配とフランス司法上の原則に反する状況で行われた点にある。
大戦中に実際の工場を監督していた責任者は1949年、彼と工場は利敵協力していたわけではないという判決を勝ち取り、1967年にはルイの息子で唯一の相続人ジャン=ルイ・ルノーが若干の賠償を勝ち取った。しかしルイ本人の名誉が公式に回復されることは決してなかった。


ドイツの占領、攻撃による生産設備の破壊、創業者の死(虐殺疑い)、国有化、ルノーにとっては忌まわしい歴史。






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# by yumimi61 | 2018-11-24 02:00

愛国心と郷土愛の錯綜

村社会とマナーの良さ

神社は古くから同じ地域に住む人々が共同で氏神を祀る場所であり、その地域に住む人々が氏子となっていたことが多い。その土地を守る鎮守様でもあった。このように非常に地域に密着した存在であった。
このような地域集団を「村社会」と言ったりするが、現在では閉鎖的であったり排他的な集団を「ムラ」と呼んだりする。

原発事故が起こった後には盛んに「原子力ムラ(原子力村)」という言葉が使われていた。
原子力発電業界の産・官・学の特定の関係者によって構成される特殊な村社会的社会集団(それぞれ自らの利益のために原子力を推進する立場にある仲間で外部の意見を聞き入れない人達)のことを指している。
現代社会においては「村社会」という言葉が良いイメージで使われることはほとんどない。

しかし古来からの村社会は悪いことばかりではない。上から下まで地域の中にいる人は地域で面倒見ようという連帯意識があり、地域が地域の中のことに責任を持つので、1人1人の人間が人生を大きく踏み外してしまうというようなことが起こり難かった。
また少しくらいなら踏み外すようなことがあっても見守る姿勢があった。
お互い様精神や義理人情で繋がっている部分もあるので、どこかで歯止めが効いて、アウトローを生みにくい。
法律で縛り付けなくても見えないバリアが張られているような感じ。

それはひっくり返せば、保守的、世間体を気にする、欲求や能力の抑制、相互監視というようなことになる。
日本人はマナーが良くて民度が高いということが災害時や国際試合の時に盛んに喧伝されるけれども、それは日本が「村社会」だからだし、そうい事態の時には殊更「村社会」になるのだし、「村社会」になるようメディアやネット(SNS)などによって世間体や相互監視意識が刺激されているからである。
「村社会」の良い部分が出て、民度が高いという評価に繋がるわけである。
日本人の多くの皆さんが愛して誇りに思っている「マナーの良さ(民度の高さ)」は、多くの人が毛嫌い揶揄し非難する「村社会」から生じてくるものである。

地域での縁や歴史や繋がりがない者には見えないバリア効果はなく、村の秩序を簡単に乱してしまうことも考えられるので、よそ者は受け入れたくないという意識が起こる。


村社会を利用した戦意高揚(愛国のベースは郷土愛)

実はこの「村社会」は昭和の時代の戦争の時にも利用された。

徴兵制を悪い印象にしないために、召集令状を受け取り出征する人に対して大勢で送り出すよう、国は半強制的な指示(命令)を出した。
そして地域の町内会・婦人会や神社で盛大に宴会や壮行会が催され、最後は駅のホームなどで万歳にて見送られる。
日頃から家や家族、地域の人々の厚情を感じている郷土愛ある若者ほど前向きに出征せざるを得ない状況である。
逃げたくても逃げようがない。(指定された日時に出頭しなければ犯罪者となった)
家族やこの人達のためにこれからは自分が頑張らなければ、と思い込むのである。

戦況が悪化してきた戦争終盤には次第に華やかな見送りはなくなり、内内だけで行うようになっていった。


『村祭』という唱歌があるのは知っていますか?


知っているかどうかで年代が分かるらしい。

文部省唱歌、作詞:不詳、作曲:南 能衛
1 村の鎮守の神様の
  今日はめでたい御祭日
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  朝から聞こえる笛太鼓

2 年も豊年満作で
  村は総出の大祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  夜までにぎわう宮の森

3 治まる御代に神様の
  めぐみ仰ぐや村祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  聞いても心が勇み立つ


1912年(明治45年)に発行された尋常小学校3年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌』に掲載されたのが初出だったという。
以後1979年(昭和54年)まで一貫して小学校3年生用の音楽教材として扱われていたが、戦前と戦後では3番の歌詞が変わっている。

(戦後バージョン)
みのりの秋に神様の
めぐみかかえる村祭
どんどんひゃららどんひゃらら
聞いても心が勇み立つ

1955年(昭和30年)頃以降は3番は扱われなくなり、1980年代には『村祭』自体が教科書から姿を消した。
なぜ歌詞が変更されたり、3番が扱われなくなったかと言うと、「治まる御代」が「天皇によって政治が行き届いていて穏やかに治まっている世」という意味だからである。
政教分離で政治から離れたはずの天皇が世を治めている(政治に関わり統治している)というのでは大層都合が悪いからである。

日本の国歌『君が代』には’苔の生すまで’という歌詞があるが、中国には諫鼓苔生という慣用句があり、日本では、諫鼓苔生す(かんここけむす)と読む。
これも君主の善政により諫鼓を鳴らす必要がなく苔が生えるほどに世の中がよく治まっている例えである。

治まる御代に神様のめぐみ仰ぐや村祭→天皇によって政治が行き届いていて穏やかに治まっている世にて神様の恵みを仰ぐ村祭・・・ 聞いても心が勇み立つ→そして僕は、それを聞いて心が勇み立つ(心が奮い立つ・勇気が湧き立つ・励まされる)。
このことから「神様の恵み」は召集令状と解釈することが出来る。
出征は天皇が治めている国の神様の思し召しであり恵みである。それに反することは・・という道徳心を植え付け、「神様に従わなければ(言うことを聞かないと)、罰(ばち)があたるよ」と脅されることになる。


橋渡しをした神社、橋を掛け直したGHQ

威勢よく送り出したはよいが、戦況は悪化しているらしいと何処からともなく伝わった。愛しい息子や若者は帰ってこない。それどころかもはや帰るあてのない出征が繰り返されているという。
国家神道に組み込まれた神社もさすがに疑問を感じるようになる。大々的に壮行会を行うことは怯まれた。
やがて敗戦を迎える。

神社は国と地域を繋ぎ、若者を戦争へと送り出した。帰らない若者も多数いた。
敗戦時には神社だってきっと思ったはずなのだ。私達はいったい何をやってきたんだろうと。
それは国家神道に決別する大きなチャンスでもあった。

1945年(昭和20)12月15日、GHQから通称「神道指令」が出され、全国の神社は国家の管理から離れることになった。
しかし神社業界は動揺した。
・「神道廃止」に明治初期の「廃仏毀釈」で仏教寺院などが破壊されたことをイメージしてしまい、「アメリカ(GHQ)にやられる」と恐怖に慄いた。
・国家管理から外されると聞いて、何か見捨てられたような感じを受けた。(→敗戦の責任が自分達にあるのではないかという罪悪感を生じさせ、地域の中でこれまで通り祭祀を行っていくことへの自信消失へと繋がった)
・国家や天皇という絶対権力者に付いていることでの優遇や優越感を得られなくなるという打算からくる危機感。(→天皇という存在が維持されたことにより「逆らったら罰があたる」という恐怖にも繋がる)

これらのこと、つまりアメリカ(GHQ)による規制への反発と自己保全意識が神社業界を団結に向かわせた。
形式的・国家的には、明治以降「伊勢神宮を中心とした国家神道=神社神道」という形がとられていたが、そこに強い感情的な繋がりが生まれてしまった。
無力感や国家への疑問が上手く抑え込まれ、日本のために団結しようという意識が高揚した。
国家神道に決別する大きなチャンスはこうして消えていった。


神社本庁の誕生

1946年1月には次の3つの団体が元の団体を解散した上で合流し「神社本庁」を設立した。
「財団法人神宮奉斎会」・・・1899年(明治32年設立)
「全国神職会」・・・1898年(明治31年設立)
「皇典講究所」・・・1882年(明治15年設立)

  ↓
神社本庁

神社本庁は、神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人である。
神道系の宗教団体として日本で最大
約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上が加盟している
都道府県ごとに神社庁を持つ。
内務省の外局であった神祇院の後継的存在であり、宗教法人法に基づく包括宗教法人である


前身団体で一番古い歴史を持つ「皇典講究所」は内閣よりも大日本帝国憲法よりも早く結成された団体。
国典を研究し、国体の意義を明らかにし、日本的徳性を有する人材を育成することを目的。
どうやって天皇を権威者たらしめるか、万世一系を如何にでっち上げて国民や他国に刷り込むか、如何に近代国家を装うか、そのような研究し戦略を練ったのであろう。
初代総裁や所長は先日書いたとおり、明治時代の皇族や政治家。
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である


この「皇典講究所」が戦後に「神社本庁」になった。
「神社本庁」は、国家機関である内務省の外局であった「神祇院」の後継的存在。
国家神道に政府が関与しないようにというお達しがGHQから出されたが、そもそも「国家」というのは「国の政治組織」のことであり、「国の政治組織の神道に国の政治組織が関わるな!」というお達しになってしまったわけで、冷静に考えるとかなり不自然な状況である。
前にも書いたけれど苦肉の策が政教分離。
これにより戦後は神道に政府が大ぴっらに関与することは出来なくなったので、「神社本庁」は民間の宗教法人という位置づけで設立されたが、名称にわざわざ国家機関的な庁を入れ込んでいる。
この流れから来れば、神社や信者(国民)は国の組織であるとまず間違いなく思い込んでしまう。
これにはオウム真理教の省庁制を思い出さずにはいられない。
たとえ本当は国家機関ではないと分かっていたとしても、よく見聞きするものは次第に刷り込まれていってしまうものである。無垢な子供がどうやって言葉やその意味を獲得していくのかを考えれば、その影響というのは自ずとわかるだろう。思い入れやトラウマが強い人は余計に引き付けられて植え込まれてしまう。


大きな勘違い

神社本庁は全国の神社の事務局ではない。
神社本庁自体が宗教法人である。

・宗教法人とは、宗教者と信者でつくる、法人格を取得した宗教団体の事である。 (Wikipedia)

・宗教法人法により法人となった宗教団体。公益事業を行なうことができ,その目的に反しないかぎり,公益事業以外の事業を行なうこともできる。宗教法人の設立には,法定事項を内容とした規則について所轄庁の認証と設立の登記が必要とされ,この規則で定める目的の範囲内で,権利を有し義務を負う。なお,宗教法人については収益事業を除き免税の特典が認められている。 (ブリタニカ国際大百科事典)

・宗教団体は「教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」であり、宗教団体としての規則を作成し、所轄庁の認証を受け登記すれば宗教法人として成立する。ただし、認証には明確な教義、活動実績、信者、教団施設、財産などが必要となる。(知恵蔵)

・ 宗教法人は,教義をひろめ,儀式行事を行い,及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体,つまり「宗教団体」が都道府県知事若しくは文部科学大臣の認証を経て法人格を取得したものです。
宗教法人には,神社,寺院,教会などのように礼拝の施設を備える「単位宗教法人」と,宗派,教派,教団のように神社,寺院,教会などを傘下に持つ「包括宗教法人」があります。単位宗教法人のうち包括宗教法人の傘下にある宗教法人を「被包括宗教法人」,傘下にないものを「単立宗教法人」といいます。(文化庁)


「神社本庁」は文化庁の説明にある包括宗教法人(アンダーライン箇所)である。傘下にいるのは全国のほとんどの神社(全国の神社の99%は傘下にある)。
企業に例えれば神社本庁は持株会社や親会社といった感じである。
しかし神社本庁は神宮(伊勢神宮)を本宗として崇めている。
要するに神宮(伊勢神宮)は「天皇の国家」を体現したもの。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

味方を少し変えると、全国の神社は神社本庁という宗教者の信者ということになる。
その神社本庁が本宗と崇めているのが神宮(伊勢神宮)、つまり天皇や皇室である。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)





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# by yumimi61 | 2018-11-23 15:40
現在報道されている老人ホームに関して、誤解を招く、あるいは多くの皆さんが誤解されている部分があると思うので一言。

老人ホームも種類が多く、たぶん一般の人にはその差がなかなか分からないと思うが、あの老人ホームは「住宅型老人有料ホーム」である。
「住宅型老人有料ホーム」というのは、「介護付き有料老人ホーム」とは異なるものである。

「風の舞」の資料(PDF)より
住宅型有料老人ホームとは、介護が必要になった場合でも、訪問介護等のサービスを利用しながら引き続き施設でのサービスを受けることが可能な有料老人ホームです。高齢者が住みやすいように配慮されているマンションのような集合住宅で、集団で生活をするところということです。
食事や介護サービスを利用しながら生活できる高齢者のための住宅型有料老人ホームです。低廉な料金負担で、入退居が簡単な共同住宅とお考え下さい。


「住宅型老人有料ホーム」は基本的に自立可能な高齢者(60歳以上)を対象とした施設。身の回りのことは概ね一人で出来るという人が入居するホーム。
健常者あるいは介護レベルが要支援の人が対象だが、軽度な要介護者を受け入れる施設もある。
通常は一人で出来るけれど全くの一人暮らしは淋しいし不安。もしも何かあった時には孤独死してしまうから心配。そのような人が入居する。もちろん夫婦で入居しても構わない。
高齢者対応のマンション、管理人付きアパート、老人寮といった感じの施設である。でも共同生活が必須でもない。
しかし一時的な滞在ではなく完全に入居することが前提であり、入居時に自宅から住所を移すことが求められたりするので終の棲家とする覚悟が必要である。
(「風の舞」の説明では入退去が簡単な共同住宅と書いてあるので、この部分は少し違うのかもしれない)
在宅を基本とした施設は小規模多機能施設。

住宅型有料老人ホームで提供されるサービスは、管理人など施設スタッフによる見守りと緊急時対応が基本。
この緊急時対応とは、119番通報、提携病院への連絡、常駐(通常は昼間のみ)あるいは契約看護師に連絡するといったもので、即刻その場で応急処置が施されるわけではない。
生活に関して言えば、食事は食堂などで提供している施設が多いと思う。
その他の生活支援(食事・洗濯・掃除・買い物など)が必要な人は、外部の介護事業者によるホームヘルパーを個別に依頼するという形態が基本である。
入浴介助など身体介護、訪問看護やリハビリなども同様である。
入居料金などによって施設で提供されるサービスの違いはある。
また1つの会社や病院が施設も介護事業も手掛けているというケースはよくあり、連携や安心感を売りにしていることも多いが、関係性が近いというだけで、運用は基本的には別だと思ったほうがよい。介護保険に関わることなので一緒くたには出来ない。

昼間は管理人や調理スタッフなど(介護スタッフではない)が数名いる。
夜間は通常1人(警備スタッフなど)が滞在し緊急通報に備える体制が一般的。


「風の舞」は「風の村クリニック」という病院が運営しているらしく、施設の他に介護事業も運営しているよう。
だから生活支援や訪問看護が必要で個別に依頼する場合には、グループ内の介護事業者のケアマネージャーがケアプランを作成して、グループ内の介護事業者から派遣されていたのだろうと思う。
しかしその介護事業者の介護スタッフ(ホームヘルパー)がみんな退職してしまった。
どこの介護事業者もホームヘルパーの入れ替わりは多いらしい。
施設と介護事業者は別で構わないので、このグループの介護事業者を使わなくてもよいはずである。
だから入居者やその家族にグループ内で対応できなくなったことを連絡して、個別に新たな介護事業者を探すことを促せばよかった。介護事業者は本人や家族が探して依頼すべきものである。
病院側の会見で「連絡はした」と話していたので、そうであるならば最低限の責任は果たしているということになる。

亡くなった方は80歳以上の高齢者だったようだが、健康状態までは分からないので何とも言えないが、ホームヘルパーで対応できるレベルの介護度で、食事を施設で提供していたならば、ヘルパー不在がただちに生命に関わるとは思えない。
掃除とか洗濯とか入浴とかが出来ないといったレベルである。
ホームヘルパーでも訪問看護でも通常は時間単位制で入るので、1日中ずっと一緒にいるわけではない。
介護保険を利用するならば使える単位は介護度などによって決まっているし、それを超えれば超えた部分は全額自己負担となり高額になる。
個人の部屋に常駐するスタッフを依頼すれば、それこそ費用がかかる。
24時間医療介護の監視体制にある病院ではなく住宅なのだから、幾ら施設内に誰かしらいると言っても、部屋の中で1人になることはある。具合が悪かったり社交性がなければ余計にその時間は多くなるだろう。
ヘルパーや看護師が入っていたとしても生命の危機は常に存在する。
管理人室に通報するシステムは設置されていると思うが、動けないとか、声を発せないなどの状態が起こった場合には、通報することすら出来ないので、ただちに異変が発見されるとは限らないのだ。

でも最近ちょっと具合が悪かったなど体調変化が分かっていたならば、住宅型なので家族が宿泊することなどは出来るはず。
また入院治療の必要な病気ならば病院に入院させることが出来る。
終末期や看取り、外部への緊急通報などに関しては入居時に希望を聞いたり同意を得て必ず契約を交わしているはずである。
完全介護や医療の提供が求められていないタイプの施設に完全な介護を求めることは間違えていると思う。
また何もかも手を出して完全に介護すればするほど人間の身体機能が落ちてしまうのも事実である。

そもそも今回のケース、誰が不満や不服を持ち訴えたものなのかが分からない。
家族の訴えでないとするならば、家族は納得しているのかもしれない。
そうであるならばそれこそ余計なお世話となる。





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# by yumimi61 | 2018-11-22 13:59
神社業界の動揺

1945年(昭和20)12月15日、GHQから通称「神道指令」が出され、全国の神社は国家の管理から離れることになった。

神社は明治維新後に新しく誕生したものではなく古くから存在していたものである。
従って昔のように沢山の神様が存在し地域あるいは個人の単位で信仰していた神社神道に戻せば良かったのだ。
そして1つ1つの神社が正々堂々と宗教であると言えば良かったのである。
しかし明治期の中央集権でもって伊勢神宮を中心とした国家神道=神社神道という形が築かれていたので、国家神道と神社神道の区別が付いていなかったのだろう。
「神道廃止」と聞けば明治初期の「廃仏毀釈」で仏教寺院などが破壊されたことをイメージしてしまい、「アメリカ(GHQ)にやられる」と恐怖に慄いた神社も多かったのではないだろうか。

またそこまでではないにしろ、国家管理から外されると聞いて、何か見捨てられたような感じを受けたのかもしれない。
マインドコントロールされた状態は拘束など必要ない。
物理的に縛りつけておかなくても、ドアが開かれていても、そこから逃げ出そうだなんて思わなくなってしまうものである。むしろ管理から外れると不安になってしまうのだ。

うちの猫は家の外が好きで、家に閉じ込めておいても隙あれば逃げ出そうとする。
うちの犬も外は好きである。でも窓を開けても玄関を開けても慌てて逃げ出そうとなんてしない。外でリードを付けて散歩していて、うっかりリードが手から落ちようものなら犬は自分で立ち止まり、「え?」とまるで捨てられてしまったような表情を浮かべて佇む。
種類にもより個体差もあるだろうけれども、猫はマインドコントロールされにくい生き物だろうと思う。犬はされやすい。

ひょっとすると国家や天皇という絶対権力者に付いていることでの優遇や優越感を得られなくなるという打算からくる危機感もあったかもしれない。


洗脳とマインドコントロール

洗脳は拷問を行ったり暴力をふるったり薬物などを使用して、精神構造を強制的に変えさせ、ある種の思想を植え付けたりすることである。
長時間眠らせない、食事をさせない、繰り返しの強制労働、脅迫、監禁なども洗脳を行う手段となる。
洗脳はもともと戦争と深く関係しており暴力的要素が非常に大きい。
暴力的要素が大きいとは、心身への侵襲が大きいということである。殴る蹴るの暴力だけが暴力ではない。

暴力とは他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、 心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。

モラルハラスメント
フランスの精神科医、マリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した言葉。
外傷等が残るために顕在化(見える化)しやすい肉体的な暴力と違い、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は見えづらいため、長い間潜在的な物として存在していたが、イルゴイエンヌの提唱により一般にも知られるようになった。

イルゴイエンヌは、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘いが、精神的な暴力は肉体的な暴力と同じ程度に、場合によっては肉体的な暴力以上に人を傷つけるもので犯罪であると述べる。
フランスにおいては、1998年時点では、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘く、肉体的な暴力に対して厳しいので、その点が問題だという。
イルゴイエンヌは、セラピストとしてたくさんの被害者に接してきた結果、被害者が加害者の攻撃から身を守ることがいかに難しいか、よく知っている。ストレスは行き過ぎなければ心身に深い傷を与えないが、これに対してモラル・ハラスメントは、心身に深い傷を与えるのが普通の状態なのである。「モラルハラスメントがどれほど被害者の心身の健康に破壊的な影響を与えるのか、その恐ろしさを嫌と言うほど見てきた。モラルハラスメントは精神的な殺人である」とも述べている。



直接暴力を加えられた人だけでなく、それを見た人なども間接的に暴力被害を被ってしまうこともある(心のダメージ)。
この場合、トラウマのところに書いた②の主観的手法で何度もその場面を思い出したり意識してしまい、結果同じように洗脳されてしまう。

マインドコントロールはそれほど暴力的ではない。
叩いたり叱り飛ばさなくても犬に芸や躾けを教え込むことが出来るのと似たようなことである。

次の記事はマインドコントロールの話ですが、便宜上「洗脳」と表現しているそうです。
でも「コストカッター」なんて異名を持つ「カリスマ」は十分に人を洗脳してしまう要素はあるだろうと思う。
身体への暴力、精神への暴力と同様に、お金のパワーで人を制御しようとするマネーハラスメント(国際社会もよくこの手を使うでしょ?)も人々を追い詰めるのに十分なものとなる。

カリスマはみな知っている「洗脳」の極意  2013.7.11
立正大学心理学部教授 西田 公昭  PRESIDENT 2012年10月1日号

カルト教団や悪徳商法など“洗脳”者は「(1)理想描写→(2)理論提供→(3)現状把握→(4)目標設定→(5)支援表明」という手順の「型」を持ち、これを駆使します。

(1)は、ターゲットとなる人物に接触し、その人の「夢・理想の世界」を一緒に描いてやり、われわれと行動すればそれが実現できると訴えること。ターゲットが「そんなことが可能か」と懐疑的な場合は、すかさず(2)です。こんな理論や法則がある、と裏付けを見せることで安心させ、「ならば、自分にもできるかもしれない」とモチベーションを上げさせる。しかし、ここで一度冷や水を浴びせます。これが(3)の現状把握です。「理想はココ、今のあなたはココです」と。「やっぱりムリか」と落ち込んだとき、“洗脳”者側が繰り出すのが(4)の目標設定です。「小さな階段を上っていけば理想に到達できる」とロードマップを敷いてやるのです。そして、だめ押しの(5)。「私が支援する」とその組織のボスが後ろ盾となることを表明するのです。
元オウム真理教教祖の麻原彰晃死刑囚は、実は大変面倒見がよかったと多くの信者が証言しています。“洗脳”騒動の多くは、こうした手口を駆使する側が、ありもしない理想をあたかも存在するように語り相手を操ろうといった利己的な作為がある場合です。

日産を立て直したCEOのゴーンさんにはそうした本物のカリスマ性がありました。誤解を恐れずに言えば、10年間で信者数を数人から4万人にまで増やしたオウムの麻原死刑囚にもそれはあったのかもしれない。似非カリスマでしたが。




Business Journal 2018.05.26.
前妻DV報道のゴーン日産会長、責任逃れ経営者の裏の顔…テレビ局が後追い自粛の理由  
文=深笛義也/ライター


「週刊文春」(文藝春秋/5月24日号)は『日産ルノー連合トップのドロ沼離婚訴訟「夫カルロスゴーンは私の首を絞めた」リタ前夫人<激白4時間>』と題する記事を掲載し、ゴーン氏が前夫人に対してDV(ドメスティックバイオレンス)を行っていたと報じた。


「他人には冷たい、合理主義者です。日産が3回くらい業績予想を下方修正した時に、当時COO(最高執行責任者)だった志賀俊之氏を更迭して、自分はCEO兼会長のポジションに留まっていました。あの時もマスコミから『そういうことをやっていると、晩節を汚すことになるのでは』など、いろいろ言われましたけど、全然聞く耳を持たないで、いつものトーンで自分の思いをずっと喋るという感じでした。

 昨年9月に日産で無資格者が車両の最終検査をしていたことが発覚した時も、西川廣人社長に会見をやらせて、自分は責められると嫌だということで、しばらくの間日本に寄りつきもしなかった。自分は責任を取らずに部下に詰め腹切らせることが多いですね。ちょっと反抗的だった人は、子会社の販売会社に飛ばされたりしますから、日産の役員はゴーン氏にびびってます。今回の件が社内で問題になることはないでしょうし、ゴーン氏も頬被りでしょう。個人的に『文春』を訴える用意はしているみたいですけど」

 コストカッターとしての非情さが日産を立ち直らせたと言われているが、ワンマン的な冷徹さは有能な経営者の証なのだろうか。

「ルノーでナンバー2だったカルロス・タバレス氏が、マスコミのインタビューでゴーン氏を批判して、『世代交代が必要、自分がCEOになるべきだ』みたいなことを言って辞めさせられました。ただし、そのタバレスはその後ライバル会社のグループPSA(プジョー、シトロエンなどの製造・販売会社)のCEOになっています。日産の副社長だったアンディ・パーマー氏は社長候補といわれていましたが、イギリスのアストンマーティンのCEOになっています。有能な人間が日産を辞めてライバル会社のトップになっているので、冷徹さが必ずしもプラスになっているとはいえないですね」(別の業界関係者)

 ゴーン氏にものを言える人物として思い浮かぶのは、フランスのエマニュエル・マクロン大統領である。

「フランス政府はルノーの株を2割近く持っています。2年前、経済相だったマクロン大統領は、ゴーン氏のルノーのCEOとしての報酬が高すぎると批判しました。それで実際、2年がかりで下げさせましたからね。ルノーと日産はアライアンスを組んでいますが、日産をルノーの完全支配下に置けとマクロン大統領は主張しています。ルノーの工場で日産車を生産させてフランスの労働者の雇用を増やすのが目的ですが、これにゴーン氏は抵抗しているため、フランス政府にとってゴーン氏は邪魔な存在です。もともとマクロン大統領とゴーン氏は仲が悪い。そういう意味で今回の『文春』の記事は、元夫人のいるレバノンまで行くという大がかりな取材なので、バックにフランス政府がいるのではという憶測も出ているくらいですよ。まあ、『文春』だったらレバノンくらい行くでしょうから、それは穿ちすぎでしょうけど」(経済記者)





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# by yumimi61 | 2018-11-21 23:58

国際法

国際法を逸脱した日本

日本国憲法
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


日本は国際法(不戦条約)を破り、国権でもって戦争を行った(侵略を仕掛けた)。
要するに国際法が戦争の歯止めにはならなかった。
だから国内最高法規である憲法に不戦条約に相当するような規定を入れて拘束力を高めた。
そして2項ではそれを守るひとつの手段として「陸海空軍その他の戦力」を持たないことが記された。
「国権の発動たる戦争」を目的とすれば、「陸海空軍その他の戦力」は手段となる。その手段を持たないことを約束して、目的遂行の道を絶ったということである。
2項の「陸海空軍その他の戦力」とはつまり実行部隊ということになる。
1項を約束させられたのは日本国民(今の憲法では主権者)である。


国際法は、国際社会は、機能しなかった

憲法は終戦の翌年に公布されている。
前にも散々書いたけれど、国際法に拘るならば敗戦国なのにこの順番で進んできたことがおかしいと思う。

憲法公布 1946年(昭和21年)11月3日
憲法施行 1947年(昭和22年)5月3日
サンフランシスコ平和条約 1951年9月8日調印、1952年4月28日発効・・日本の主権回復
自衛隊設立 1954年(昭和29年)7月1日
国連加盟 1956年 (昭和31年)年12月18日

占領下にあったとはいえ、憲法制定時は平和条約も締結しておらず、まだ国連にも加盟しておらず、国際法の縛りがない状態なのだから。
そもそも日本は国際法を順守せずに戦争を起こしたわけで。
しかし国際法(国際社会)は、大日本国憲法という法律(強力な拘束力)によって日本の全権を掌握し国権を発動した天皇を罰することをしなかった。
永久に行ってほしくないほどのことをした責任者を何ら罰せずに敬い、下の者だけを切って捨てて罰し、同じことを永久にしないでねと言っても説得力に欠ける。
国際法を破ったのと同様に国内法を破って戦争すればいいだけの話である。
それがどんな結果でもあっても責任者を罰しないという前例を国際社会は作っている。
今の憲法は大日本帝国憲法よりもずっとトップが責任逃れしやすい。
戦争に関しての責任が誰にあるのか全く分からない、というか国民が責任をとるような内容になっている。


永久の意味

終戦翌年に出来た憲法の9条は本来状況が変わった時に(平和条約を締結した時、自衛隊を設立した時、国際的に安全な国と認めされた時など)変えても良かった。
しかし「永久」という文言が盛り込まれていたため、それが出来なかった。
仕方なく「国権の発動たる戦争」を行う目的以外のための戦力ということにして自衛隊を設立したのであろうと思う。
「国権の発動たる戦争」はオフェンス。自衛隊(The Japan Self-Defence Forces)はディフェンスと捉えたわけである。
国権を振りかざして独断的に戦争することは許さないが、国際法で定められている自衛権の範疇で国際的に認められた場合には戦争できるということである。この解釈で今日まで来たはずである(違うの?)。
また自衛隊を認めている以上、ほとんどの国民が戦力というものを全否定しているわけではない。条件付きな人もそうでない人もいるだろうけれども戦力を認めている状態にあることは事実。
そうとなれば、このままの憲法9条でも構わないし、自衛隊と明記してもどちらでもよい気がする。現状維持ならば大した問題ではない。

同じ敗戦国で2回も世界大戦の元になる戦争を仕掛けているドイツには軍隊が存在している(1955年11月12日設立)。
日本の憲法はどうして変更が非常にしにくい「永久」なんていう言葉を入れたのか。
「永遠の愛」を誓うくらいの軽い気持ちだったのか。
それとも日本という国(民族)の性質は永久に変わらないという認識を持っていたのだろうか?


国際社会の横暴

戦争は個人の犯罪ではない。国家権力の下で行われるものである。
だから通常は兵士が人を殺しても相手国にも自国にも個人が裁判において殺人罪を問われることはない(相手国に捕まって捕虜になって殺されることはあるかもしれないけれど)。
人を殺しても英雄になることだってあるくらいなのに。
戦争で人を殺して死刑になってしまうならば、兵士になるのは自殺志願者だけになる。もっとも自殺を志願するくらいなのだから、死刑という形で人に殺してもらわなくてもよいかもしれないし、人を殺すことを志願しているわけでもないだろう。
そうなると強制的な徴兵制しかないですかねぇ。

第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)の後の国際軍事裁判の法的根拠は1928年のパリ不戦条約違反である。日本が侵略戦争をしたからである。

しかしながら、その当時、侵略戦争を個人の罪として裁く法的根拠は存在していなかった。
国家が調印した条約に違反して戦争を起こした罪ならば、当然国家の最高責任者が裁判にかけられるなりして罰せられるべきものであろう。
しかも当時の日本の天皇は国内においてそれだけの法的根拠を有しており、実際にその威力を最大限に振るった。逃れようがないはずなのだ。
それなのに天皇は訴追されず、法的根拠のないまま数多の個人が裁判にかけられ、処刑されたり罰せられた。
天皇訴追に積極的だったのはオーストラリアだけで、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドなどは反対したそうだ。
国際社会って何?法律って何?責任って何?なんのための権威や権力?自己保身?
アメリカにも起訴派はいたらしいが、マッカーサーに押し切られたらしい。

国際裁判も結構だけど、大した根拠も無しに自分たちの都合の悪い者や気に入らない者は訴追し罰し、自分達の守りたい者は訴追すらしないなんて、そんな不公平が公然とまかり通る国際社会だとするならば、国際社会自体が独裁社会のようなものなのでは?


「罰(ばち)が当たるよ」と人を脅したことはありませんか?

1945年(昭和20年)12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって国家神道の解体を目的とした神道指令が発せられる。

神道指令とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。


「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」→略して→「神道指令」

略された「神道指令」ではまるで神道を義務付ける指令を出したよう。
なんでもかんでも略せばよいものではないですね。
「神道廃止命令」ならば分かりやすいけれど、タイトルを読む限り国家神道を廃止するとは書かれていない。神道に対する政府の保証や支援や監督などの廃止である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。
当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。


国家神道が軍国主義に深く関わっていたからこそ廃止したかったはずである。
でも廃止しなかった。
日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたと書いてあるが、国際法がネックになったからである。

ハーグ条約
第三款 敵国の領土における軍の権力
第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。


国家神道を宗教と捉えると、国際社会は国家神道やその信仰に手出しできなくなる。
「あなたたち国際法違反ですよ」とかなんとか天皇や世界の宗教関係者に言われてしまうと反論できなくなってしまうだろう。
「日本が不戦条約を破って戦争をしたんだから、こっちだって破る」と言いたいところだが、「それでは侵略をした国と同類になってしまうではないか!」ということでそれも言えない。

でも日本の国家神道は宗教ではなかった。宗教の上にどーんと横たわっていたものであり宗教とは別物であったはず。
だから国家神道を廃止することは実際のところ可能だった。だけどそれだと困る人がいたのだろう。
苦肉の策が政教分離といったところだろうか。
「政は政治家が行うもの、教は天皇や皇族が行うものとして、両者は分離します。政教一致ではありませんので軍国主義に突き進むことはありません」というわけである。
政は国家という位置づけになるから、教は民間要素を大きくすれば、分離を強調出来る。
こうして神道や神社が、はたして宗教なのか、それとも倫理・道徳なのか、マインドコントロールの道具なのか分からない状況となってしまった。

いずれにせよ、GHQは国家神道の下で戦争が行われたことを知っていたのは揺るぎない事実である。
しかし日本の多くがここに目を瞑る。何故かその部分を見ようとしない。
天皇に責任はない、むしろ英断だったと天皇を敬い、この国には天皇が必要だと信じてやまない。
戦争をしたいという人ならば仕方ないが、そうでないならばちょっと信じられない。
実に多くの国民がマインドコントロールの支配下にあるのだろうか。それとも単に無知なだけだろうか。




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# by yumimi61 | 2018-11-20 16:57

志士と革命家

志士:一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。
また時には、
志士:身を犠牲にして国や社会のために尽くそうという、高い志をもっている人。 

国士:1 国家のために身命をなげうって尽くす人物。 憂国の士。2 その国で特にすぐれた人物。 
国家のために、国家の財政を案じ、国家の財産を使わず、自分の財産投げ打って大学に行かぬような者は、国士の資格などないということでしょうか。
ちなみに政治家の出身大学はダントツ東京大学ですのでご安心を。だから心配なんだ?

歴史的には国の形態を変えた武士は多くいる。しかしそれら武士が「志士」と呼ばれることはない。志士というのはやはり幕末限定な呼称。
「志士」には「野」が関係している。それは革命家にも通じるものがある。
在野:1 公職に就かないで民間にいること。2 与党に対して、野党の立場にあること

野心:1 ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望。2 新しいことに取り組もうとする気持ち。3 野生の動物が人に馴れずに歯向かうように、人に馴れ服さず害を及ぼそうとする心。 

野望:分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心


戦いの受け止め方とモチベーション

明治維新後、富国強兵に直走り、歴史ある大国を相手にした日清戦争、日露戦争に勝ち、勝利の美酒に酔った日本という国が戦争に負けた。
第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)での敗北である。


日本にとって中国とロシアは近代日本の存在意義に関わる特別な存在である。
特別な存在であるが、今現在この両国との関係は曖昧でもある。

対中国に注目すれば、日本は明治時代に一度中国に勝った後、昭和時代に入って再び戦火を交えて今度は負けている。一勝一敗の五分と見る人もいれば、長い目で見て逆転負けを喫したと捉えるひともいるだろう。
負けず嫌いな人だったこう怯えるかもしれない。
もしこれで戦争というものが完全に終了してしまえば、良くても引き分け、悪く捉えれば逆転負けという日本の対中成績が永遠に歴史に刻まれてしまう。
但し、日中戦争は途中から太平洋戦争(第二次世界大戦)に取りこまれて、それまでの血がたぎるような対中国という意識はややぼやけている。
その意味からは中国に敗戦したという意識も弱くなっているかもしれない。

対ロシアで見ると、ロシアとは平和条約を結んでおらず、戦闘状態はとりあえず終わっているが未だ完全に戦争は終結していない。
要するに負けたわけでも勝ったわけでもない宙ぶらりんな状態にある。
だいぶ時間が経過して実際に戦争を体験していない人がほとんどなので、平和条約の締結の仕方如何で、勝った気にも負けた気にもなれる。
日本は明治時代に一勝しているので、日本の思惑通りに平和条約を結べれば、対ロシア戦2勝という成績を誇れるわけである。
負けた印象の平和条約であるならば、一勝一敗、あるいは逆転負けという対中戦と同じ戦績となる。

ロシア(ソ連)以外の連合国とは平和条約が結ばれていて敗戦が明確に歴史に刻まれている。
しかし日本にとっては「原爆」という救いがある。
世界は、戦時中であっても人権に非常に厳しいところがある。特に昨今はその風潮がとても強い。
無差別殺傷を狙った「原爆投下」という人権侵害はルール違反であるという認識を持っている。特に被害者の立場にある日本人にはその意識がとても強い。
そして投下実行犯のアメリカに加害者意識を持つよう敵意が向けられる。
スポーツでルール違反を犯せば、何らかのペナルティが与えられる。時には勝利が取り消されることもある。
ルールが存在する戦いにおいてはルール違反はディスアドバンテージとなる。
連合国(アメリカ)は卑怯な手を使って勝った、あんな手法を使わなければ勝てなかったのだ、と日本人は思う。
こうした認識は敗戦トラウマを持つ日本人の救いとなる。
従って「卑怯(人権侵害)な手法は日本だって使ったでしょう」という謂い分はルール違反をイーブンにしてしまうため絶対に認めたくない。
但し救いと言っても、日本人の意識の中でも敗戦と原爆がセットになっていることは疑いようのない事実なので(映像としてもセットにされていることが多い)、敗戦トラウマを薄めようと原爆に拘れば拘るほど、結局のところ敗戦トラウマからも抜けられなくなってしまう。
「どんな手法を使っても目的を達するべき」「結果が全て」という価値観(ある意味とても明治政府的な価値観)も根強く存在するから余計に敗戦トラウマを払拭できない。

敗戦トラウマを克服するには敗戦という恐怖の連鎖を断ち切ることが必要となるが、それを安易に考えれば、おそらく勝って克服しようとすると思う。
戦いのモチベーションには大きく分けて3つある。
 ①負けたから、もう一度戦って勝ちたい。リベンジ型。
 ②勝ったことがあるのだから、また戦ってまた勝ちたい。勝利の美酒をもう一度型。
 ③卑怯な手を使ったものを許しておくわけにはいかない。アベンジ型。
日本の場合、どれにも(どれかしらに)当てはめることが出来て、もれなく戦争に向かう要素を秘めている。


親離れ

明治維新の志士とその後の明治政府にとって親にあたる国はイギリスである。
イギリスと近代日本は親子関係にある。
精神的な親はカトリックなのではないかと考えることもあるだろう。
第二次世界大戦後はアメリカを親にあてる人もいると思う。

親子というものは本来、親離れ、子離れをしなければならない。というか、そういう時期が来るのが一般的である。

先日、パンダのシャンシャンが独り立ちするために、シャンシャンとお母さんが段階的に引き離されると報道されていた。
そこに漂う雰囲気は「シャンシャン可哀想~」というもの。
それはすなわち、日本人は親子分断に関して子に感情移入する人が多いということを意味する。
私なんかどちらかと言うと、「お母さんが可哀想」と思ったタイプである。

通常は子離れよりも親離れのほうが早く来るし、段階的に引き離す計画を立てずとも子は成長する中で自然に親離れしていく。
その自然な親離れとは、子が親に対して「秘密のポケット」を作っていくことになる。
子供はのび太君ではなくてドラえもんになっていくのである。
なんでもかんでもあったことを報告し、あれ見てこれ見てと見られることを好んだ子供が、親に秘密を持つようになったり、親に隠し事したりする。それが親離れの一歩である。

親離れに必要なのは根拠のない自信であると言われる。
勉強が出来ても出来なくても、スポーツが出来ても出来なくても、姿形が良くても悪くても、お行儀が素晴らしくてもいまいちでも、その存在自体を親に愛されたという感覚(思い込み)が根拠のない自信を形成していく。
子供が幼い時の親は親バカくらいで良い。
多くの親は子供が生まれた時に「何はなくとも健康ならば良い」と言う。それは存在自体を愛していることである。
じゃあ健康でなければ愛せないのか!とお怒りになる人もいると思うが、健康ではないというのは死をイメージしてしまい、存在を失うことを想像して怖くなるだけのことで、健康でない状態を否定しているわけではない。

根拠のない自信を身に付けた子供は、秘密を持っても隠し事をしても親は自分を嫌いにはならないと思う。
ひいては秘密のポケットを持っても世の中は自分を許してくれるとも思う。
ただ実際には許されないこともあり、ここで戸惑ったり躓くこともある。
親のほうの子離れが遅いのが一般的なので、「なんで嘘つくの?」「どうして隠し事をするの?」と親はどうしても言いたくなる。
社会はもっと厳しく、嘘を付かず隠し事をしない素直な子を求め、勉強もスポーツも出来ることを望み、姿形やお行儀で差別し、愛される子と愛されない子がいることを教えてしまうことがある。
こうなると秘密のポケットに罪悪感を抱くようになり、根拠のない自信は揺らぎ、何か明確な根拠がないと愛されないと思うようになる。
承認されたい欲求はすなわち愛されたい欲求ではないだろうか。

秘密のポケットに入るもので重要なものの1つは性である。恋心や性の目覚めは親離れしていく大きな力となる。
その過程において、親が秘密のポケットを持っていたということに気付いて、それをひどく嫌悪したり反発することもあるが、多くは親離れが進んで同じ秘密のポケットを持つ者として受容できるようになる。

人間はそうだが、では国同士の親子関係はどうだろうか。
親離れや子離れをするのだろうか。
植民地支配から独立という物理的な親子関係からの独立というものも存在しているが、イギリスやカトリックと日本の間の親子関係はそうではない。精神的な親子関係である。ただイギリスは金銭的な親子関係要素も強かったのでそういう意味では物理的要素も大きかった。
アメリカには占領されたという物理的親子関係を当てはめる人が多いと考えられるが、当然精神的な支配も受けているはずである。
倫理や道徳を一番上に広く横たわらせた国がどんな存在であっても親や社会に愛されるという根拠のない自信をはたして形成できただろうか。
親や社会に愛されるには、ああしなければいけない、こうしなければいけない、そういう呪縛に囚われてしまうのではないか。

秘密のポケットを持つことに罪悪感を抱きながら親や社会の顔色を窺って、承認されるような行動をついついとってしまう。
あるいは、独立出来ない状態を嫌って強引に親から独立しようとするということが考えられる。




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# by yumimi61 | 2018-11-19 13:03

1Q45(唱和二重念)

敗北トラウマ

明治維新後、富国強兵に直走り、歴史ある大国を相手にした日清戦争、日露戦争に勝ち、勝利の美酒に酔った日本という国が戦争に負けた。
第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)での敗北である。
戦後の日本は、強きも弱きも、老いも若きも、敗北トラウマを抱え、敗戦の文化を刻んできた。
敗北した相手は連合国だけではない。強い者に敵わなかった弱者、輝かしい再生の時代を生きた者に敵わない若者、変革や若さに敵わない老い、誰もが皆その心の中に敗北トラウマを抱え、トラウマの原因を戦争に求めたがっている。

トラウマの克服は過去の出来事による恐怖の連鎖を打ち切ることが重要となるが、同時に人間は自分ではない何かを原因にしたく、こよなく連鎖を愛する生き物でもある。遺伝に刷り込まれているレベルで。

では人は忌まわしい過去の記憶をどうやって呼び起こすのか。

①客観的手法ー映画館のシートでスクリーンに映し出される映画のワンシーンを見るかのように呼び起こす。自分がもう1人の自分(過去の自分)を見ているというイメージ。傍観。俯瞰。

②主観的手法ー映画の中の人物になって思い起こす。観客ではなく演者となる。今の自分が過去の自分を演じてしまう。演じているというのは出来事が創作でデタラメという悪い意味ではなく、今の自分を過去にワープさせて追体験してしまうということである。入りこむ。

トラウマになるくらいだから思い出したくもない出来事であり、それを見るということはどんな形でも苦しく心地よいことではないが、①には過去と現在に一定の距離がある。②にはそれがない。②の状態が続くと、なかなかトラウマから脱却できないし、何度も②で思い起こせばトラウマは強化されていく。

戦争を実際に体験していない人が敗北トラウマを抱えている状態。←この場合スクリーンに過去の自分を見つけることは出来ない。過去の自分が戦争をして負けたわけではないから。つまり客観的にはなり得ない。
演者になって戦争時代に戻るしかないわけで、どうしても②になってしまう。
体験していないのに主観で思い出すなんて不思議に感じるかもしれないけれど、体験していないからこそ主観という選択肢しかなくなるという側面がある。
だからトラウマから脱却しにくい。


最近はとくに「投影」流行かもしれない

面倒なことに人間は「投影(投射)」という原始的防衛機制の仕組みを持っている。
受け入れがたい衝動、抑圧されている考えや感情や欲求、良くないと思っている欠点(状態)などを自分の中に認めてしまうと葛藤や不安を生じるので、自己防衛のために、それを他人に移し替えて知覚することである。
(例)
・自分に攻撃性を感じ取っているのに、相手が攻撃的だと認識してしまう。
(本当は自分に攻撃性を感じているのだけれど、トランプ大統領が攻撃的だと認識してしまう)
・自分が劣等感やライバル意識を感じているのに、相手が自分に対して劣等感やライバル意識を感じていると思い込む。
(本当は自分が保護主義的なのに、トランプ大統領が保護主義的だと思い込む)
・自分が上司を嫌いなのに、上司が自分を嫌っていると思う。
・自分が相手のことを好きなのに、相手が自分を好きだと思ってしまう。
(これはストーカー心理の一因となる。さらに体験していないからこそ主観という選択肢しかなくなることで強化される部分もある。アイドルとファンの関係の場合、商業的であるにせよ’アイドルがファンを好いている’という側面があることも忘れずに)

一種の責任転嫁。一種の同族嫌悪。
抑圧した同じ感情を実際に相手も持っていて、だからこそ見つけ出せる(似た者同士)という場合もあれば、本当に一方的な思い込みに過ぎない場合もあるから、さらに面倒である。

例えばこんな笑い話?例え話?がある。
「投影を簡単に説明してください」と言われた心理カウンセラーが次のように答えた。
「自分に攻撃性を感じ取っているのに、相手が攻撃的だと認識してしまうことです。韓国の方が攻撃的なのに、日本の方が攻撃的だと認識してしまう反日感情なんかその一例でしょう」
でもこれももっと引いて客観的に見れば、「韓国が攻撃的なのに、日本が攻撃的だと認識してしまう反日感情なんかその一例」というこの例自体がすでに投影されていると考えることも出来る。


強いことや勝利することを誇りに思えば、自分の中にある弱さや敗北感を自覚することは大変辛いこととなり、それを認めることは我慢ならぬものとなる。
そこで自分を守るために投影メカニズムが起動する。
自分よりも弱い者や明らかに敗北していると思う者を攻撃するのである。パワーハラスメントなんかこのメカニズムの一種であろうと思う。
他人に弱さや敗北を見ているうちは、自分の中のそれを意識せずに済む。結果、自分は強い勝者であるという認識を維持できる。
例えば、自分の中に弱さや負けを感じてしまった若者は、老いという弱さを攻撃することで強者や勝者になれる。
例えば、自分の中に弱さや負けを感じてしまった大人は、自分よりも若く未熟な者を攻撃することで強者や勝者になれる。

このように、大変皮肉なことであるが、弱いことや敗北感を自己に感じとってしまった場合には、他者に同じものを見つけ出し攻撃してしまうことがある。


一心同体

「投影(投射)」と同じく防衛機制の仕組みの1つであるが、「投影」とは正反対な心の動きとなるのが「同一化(同一視)」である。
自分が持っているが抑圧したい、あるいは抑圧された負と感じている感情や性質を他者に転嫁するのが「投影」であるが、「同一化」は他者の性質や感情をそのまま自分自身のものとして受け入れるというもの。

受け入れの程度が限定的なものは「同一化」まではいかず「取り入れ」と呼ぶ。
例えば、あなたのことが好きと言われて相手に好意を持つようになり、相手を受け入れることは「取り入れ」の一種となる。
例えば、災害時にボランティア活動や寄付をする人を優れた性質だと思い憧れる。自分もそういう人になりたいと思い、自分自身をその人に重ねていく。
他者の優れた性質だと思うところに、自分を重ねることによって自分自身の価値も上げる。
実際に同じ行動をとらなくても、「取り入れ」を行うことによって、それが可能となり自分の心を守ることになる。

「同一化」の場合、具体的な感情や行動に限定されず、相手の人格(人生)ほぼ全てに自分の人格(人生)を重ね合わせていく。
他人と同一化していくわけだから、あらゆることが一体化していく。
その相手に強く感情移入し、その人が経験することをまるで我がことのように感じて喜んだり悲しんだり怒ったりする。
また服装や髪形を真似たり、その人が持っているものを購入したり、その人が訪れた所を訪れてみたりと、見た目や行動までも一体化しようとすることもある。
有名人は同一化の対象となりやすい。

2017年7月15日、埼玉スタジアムで行われたサッカー国際親善試合でドルトムント(ドイツ)に逆転負けした浦和レッズに対して、上西小百合衆院議員(当時)がツイッターで「酷い負け方。親善試合は遊びなのかな」と批判的なツイートをしたところ、上西議員への批判返信ツイートが殺到したという。

それらコメントを受けて、さらに翌日、「サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」とツイートし炎上したという。

この言動が良い悪いは別として、このケースは「取り入れ」や「同一化」が行われている人達と、その人達に対して「同一化してんじゃねーよ」とはっきり言い放った人、という構図である。

さらにさらに翌日、こうもツイートしたという。
「今日テレビ取材があったけれどレッズサポーターを敵にして怖くないですかと質問された。なんで?と本気で思った。政治家がそんな事考えて街に出れるんだろうか。政治や経済は自分の利益を重視するけれど、スポーツや文化はある意味それを超える最大の武器。ただ私は収束させる気はなく近々浦和に行く。」
スポーツや文化は、政治や経済や自分の利益を超える最大の武器、と述べている。
彼女はもしかしたらドイツのクラブに負けた浦和レッズに「投影」をしていたのかもしれない。
であれば、「取り入れ・同一化」vs「投影」という構図。


良いことも悪いこともひとまず他者に

「取り入れ・同一化」vs「投影」と書いたが、大元を辿るとどちらも投影(他者に映し出す)となる。
自分が感じる負の感情や性質を他者に映して(移して)しまうのが「投影」で、自分が感じる正の感情や性質(自分の理想像)を他者に映して(移して)しまうのが「取り入れ・同一化」。
本当は自分が上司を嫌いなのに上司が自分を嫌っていると転嫁する場合、上司が自分を嫌っているということは真実であることもあるし、単なる思い込みであることもある。
自分の思い描く理想を他者に映しだした場合、理想と他者がずっと上手く一致していることもあれば、一致しなくなってしまうこともある。どちらにしても他者に映しだした理想像は虚像であると言える。
勝手に虚像をでっち上げられた(理想を投影された)人はいい迷惑かもしれないが、有名人などは自ら虚像を売りにしていることもあるので話が少しややこしくなる。

同一化は他人の人格や人生に自分の人格や人生を重ねることで自分の価値を上げるという自己防衛であるが、全て重ねていくことにより願わしくない事態も起こる。
願わしくない事態とは一体化した人物が自分の描いた理想像や世間のこれまでの評判と大きく異なった行動や性質などを見せた時。
一体化しているので、その人だけでなく自分の人格をも否定されてしまうことになる。
それまでは愛情や尊敬の念をもって一体化していたその人が、突如自分を否定した人物にすり替わってしまう。
そして憎しみや敵意を抱くようになる。ということもあるということ。

上記のサッカーの一件は、上西氏が浦和レッズに「取り入れ・同一化」していたが、自分の理想と離れてしまい、憎しみや敵意に変わっていったと考えることも出来る。







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# by yumimi61 | 2018-11-18 16:14

国家と民間のあいだ

神社本庁への流れ

教派神道の1つのはずなのに国家事業である神宮大麻の頒布を任されていたことを批判され、1899年(明治32年)に神宮教(伊勢神宮教)が解散する。
そもそも神宮教が出来たのは1882年に神職の布教活動が原則禁止されたためであり、その前は伊勢神宮として一体で活動していたのであって、神宮教が解散しても元のさやに納まっただけの話である。
同時にこの時、「財団法人神宮奉斎会」という法人(民間団体)も 組織された。

「財団法人神宮奉斎会」・・・1899年(明治32年設立)
伊勢神宮を崇敬し、 皇祖の遺訓を奉戴し、神典を講究し、国体を宣明(宣言して明らかにすること)することを目的とする団体。

「全国神職会」・・・1898年(明治31年設立)
国体を闡明して神社の興隆と神職の向上発展を図ることを目的とする団体である。のちに、「大日本神祇会」と改称。

「皇典講究所」・・・1882年(明治15年設立)
国典を研究し、国体の意義を明らかにし、日本的徳性を有する人材を育成することを目的として、山田顕義・岩下方平らにより 1882年東京に設立された財団法人。 1890年には、国史・国学を研究するための國學院を設立し、神職の養成も行なった。
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である。
・岩下方平(薩摩藩士・勤王家・子爵。薩摩鹿児島生)


第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)1月23日、上記の「神宮奉斎会」「大日本神祇会」「皇典講究所」の3団体が中心となり「神社本庁」が設立された。 


民間の崇敬団体

前述の愛国心の再生に安堵するという「伊勢神宮崇敬会」は1953年(昭和28年)年12月に「財団法人伊勢神宮奉賛会」の名称で設立している。

●初代総裁は神宮祭主(伊勢神宮の神官の長)や神社本庁の総裁でもあった北白川房子(明治天皇の第7皇女)。北白川房子は1947年に女性初の神宮祭主や「神社本庁」の総裁となり皇籍離脱をしている(北白川宮成久王は先に亡くなっていた)。

●初代会長は佐藤尚武
日本の外交官・政治家。林内閣(1937年2月2日~1937年6月4日)で外務大臣で、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。戦後には参議院議長等を歴任している。
フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている。


「財団法人伊勢神宮奉賛会」は各都道府県に地方本部を置き、事務局は神宮崇敬者参宿所(現在の『神宮会館』)に置かれた。1965年(昭和40年)に「財団法人伊勢神宮崇敬会」に改称した。

【伊勢神宮崇敬会の歴代会長】
●佐藤 尚武(昭和28年~昭和46年)前述

●中野種一郎(昭和47年~昭和49年)伏見市長を経て衆議院議員、京都放送会長、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長

●松下幸之助(昭和49年~昭和58年)パナソニック(旧:松下電器)創業者、PHP研究所や松下政経塾設立

●弘世  現(昭和58年~平成8年)日本生命社長、娘はサントリー名誉会長の妻、孫の夫はパナソニック副会長の松下正幸

●細川 護貞(平成8年~平成10年)旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。太平洋戦争前の内閣(第2次近衛内閣)で内閣総理大臣秘書官。

●東園 基文(平成10年~平成18年) 東園家14代当主。伊達邦宗伯爵三男として生まれ、東園基光子爵の相続人となった。妻は元皇族の東園佐和子。戦後、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた

●豊田章一郎(平成18年~平成29年)トヨタ自動車名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、トヨタ自動車創業者の息子で妻は三井家出身

●松下 正幸(平成29年~    )パナソニック(旧:松下電器)取締役副会長


吉田松陰と、「松下村塾」の怪

「皇典講究所」が設立された1882年(明治15年)の日本にはまだ内閣や首相は存在していない。
初代は1885年(明治18年)であり、初代首相は伊藤博文(1841年、山口生まれ。政治家)だった。
「皇典講究所」の初代所長の山田顕義(1844年、山口生まれ。陸軍軍人・政治家)や伊藤博文は吉田松陰の松下村塾に学んだ尊王攘夷派。

吉田松陰 1830年生まれ、1859年(29歳)没
幕末の勤王家・思想家・教育者。長州生。
山鹿流兵学師範吉田家を継ぐ。
一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。

京都市左京区の京都府立図書館前には吉田松陰山河襟帯詩碑がある。

長州藩士・杉百合之助の次男。幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士(二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である)

叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり兵学を修める。1835年に叔父が亡くなったため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
1857年(27歳)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られるが、松下村塾には「門人帳」のような明確な記録は残っていない

松下村塾は松陰の叔父の玉木文之進が自宅の一間で開いた私塾。
どこにあったかというと、現在の山口県萩市椿東(旧:山口県阿武郡椿東村松本)。

明治時代より以前にはその地域は「松本村」と呼ばれていたらしい。
萩市には松本川という名の川がある。
「松下村塾」という名は「松本」にちなんで付けられたそう。
でもだったら「松本村塾」では?
どうして皆さん不思議に思わないのでしょうか。
吉田松陰にも叔父の玉木文之進にも関連する名の中に「松下」は存在していないのだが。


吉田松陰の国家論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。
天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。





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# by yumimi61 | 2018-11-17 00:46

国家事業

明治元年(1868年) 神仏分離令
廃仏毀釈に繋がる。
明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。宣教使の官員には国学者が採用された。
明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年7月14日(1871年8月29日) 廃藩置県

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。
明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
政教分離、信教自由を主張。(←宗教に対して誰も口出しできない条件と見ることが出来る)
明治6年(1873年)2月 キリスト教に対する禁教令を廃止

明治6年(1873年)2月 大教院を増上寺に移転

明治7年(1874年)1月1日 増上寺が放火される

明治8年(1875年)1月 浄土真宗が大教院を脱会

明治8年(1875年)3月 神道事務局を結成
大教院閉鎖の2ヶ月前に伊勢神宮と幕末期に起こった神道系の新宗教教団の教導職によって神道事務局が結成された。

新宗教
新興宗教とも呼ばれる。
日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後~)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。 実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。



明治8年(1875年)4月 神道事務局の開局
明治8年(1875年)3月に結成された神道事務局が4月に開局した。
伊勢神宮が日本全国各地に古くからあった神社の元締めのような感じになり、一定の条件を満たした新宗教教団は独立教派として公認していった。最初の公認は1876年(※後述)。

明治8年(1875年)5月 大教院を閉鎖

明治9年(1876年)10月23日 「神道修成派」と「黒住派」とが独立教派として神道事務局から独立
神道修成派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修成講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた

明治10年(1877年)1月11日 神仏合同布教禁止令、教部省は解散・廃止
⇒教部省の機能は内務省の社寺局へ移された。
社寺局は全国全ての神社および寺院、新宗教など宗教に関する全ての行政を管掌することになった。

1876年(明治9年)を皮切りに、1908年(明治41年)の天理教まで、14の神道系教団が独立教派として公認された。(14の団体については過去記事『刷新』参照
のちに1団体が離脱し、13団体が教派神道と呼ばれる。

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13団体で信者は約265万。人口比で2%ほど。成人人口の2.7%ほど。


国家事業で大麻を配布

離脱した1団体は「神宮教」(伊勢神宮教)である。

●明治15年(1882年)に独立
3.「神宮教」(伊勢神宮教)
伊勢神宮の少宮司で教部省にも所属した浦田長民が神宮教会を設立。
新たに伊勢講社を設立し、従来の伊勢信仰の伊勢講(太々講)とともに神宮教会の傘下として再編成した。各地の講社の名称は最初は愛国講社などであったが、明治6年(1873年)に神風講社と統一された。
明治6年(1873年)には伊勢神宮の大宮司の寄付によって明治神宮内にも神宮教会を設置した。
神宮教会の中枢部を神宮教院とした。
 神宮教院>神宮教会>講社
 教区を設け、全国の各教区に本部教会1つと支部教会を置いた。

明治15年(1882年)に「神官教導職分離令」が出され、神職の布教活動が原則禁止されたため、伊勢神宮でも同年、祭祀を司る神官と布教を行う教導職との兼補を廃止し、神宮司庁と神宮教院を分離した。そのうちの神宮教院が教派神道の一派となった。

1899年(明治32年)神宮教は伊勢神宮から生まれていた一教団であったために国家神道の確立と共に、国家事業である神宮大麻の頒布を任されていることへの批判もあり解散する。このときまでは神宮教も明確に教派の一つであった。


「神宮大麻」と呼ばれる紙のお札が神宮教から全国に頒布されていた。
これは明治政府の国家事業であった。
前にも述べたように明治政府は教派神道など宗教団体の上に国家神道を乗せた。
その国家神道事業に教派神道の神宮教が関わっているとなれば、神宮教は国家神道に下にいるのではなく、上にいるということになる。
それに対する批判が出たので解散したということである。
要するに神宮教が配布することをやめたのではなく、神宮教の立ち位置を変えたのである。
これを逆に言えば、1882年に神職の布教活動が原則禁止されたが、伊勢神宮に限っては再びそれが許されたということになる。
明確に伊勢神宮が国家事業に携わる団体という位置づけになったということであろう。

国家神道は国民的道徳を併せ持ち、それは人民の義務であるからして、国家神道、要するに国の命令や意向に背いての信教の自由などありえない、ということなのだ。
政府は国家神道を宗教とは見做さないというスタンスに立っていた。
国家神道は国家神道。(神社神道と言うこともある。国民の道徳と考えてもよいかもしれない)
神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に国家神道は存在し、全国の神社はそれに追従をする。
総元締めは伊勢神宮。神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。

この「国家神道」と、「仏教やキリスト教や教派神道などの宗教」とは全く異なるものであると定めた。
宗教は国家神道の統一的な管轄からは独立した存在であり一見自由であるようだが、日本にいる限り宗教の上に必ず国家神道が横たわることになる。
そのために、一神教であるキリスト教や教祖が一番の宗派宗教、道徳観が異なる宗派宗教など国家の方針に反するものとは衝突するようになり、弾圧が厳しくなった。



負けず嫌いな神?天皇?国?

神宮大麻について(伊勢神宮崇敬会のホームページより) 

全国に頒布される神宮のお神札を「神宮大麻」といいます。
本来は「おおぬさ」と読みますが、「ぬさ」とは木綿、麻など。大麻とはお祓いに用いられる用具「祓串」のことです。

● 「愛国心」の再生

 最近の我国は、ようやく自国の伝統を回復しつつあります。学校教育において、雅楽や祭礼太鼓のようなものが教材に採用されるなど、思えば隔世の感があります。たとえば、オリンピックやワールドカップの観戦に自然な愛国心をはばからぬ若年層を発見するたびに、ひとつの国旗と国家のもと自立ある国家の再生も夢ではないと安堵するのは早計でしょうか
 こうした機運をのがさず、神道にねざした我国本来の国柄を回復すべく、今こそ我が民族に天賦の自浄能力を期待すること、まことに切実なものがあります。


● 天皇と国民とのきずな「神道」

日本には、国土の美しさもさることながら、万世一系の「天皇」を戴く世界に誇るべき君主制度があります。畏くも天皇陛下には、日々の「おまつり」において五穀豊穣、国家の繁栄や国民の幸福を祈り、大御心のすべてを国民生活の上に深いご関心として寄せておられます。毎年の作柄はもちろん、風水害などの天災にまで御心を砕かれる君主が、世界のどこにおられましょうか。よくそれを知る国民の側でも、自国の幸福の前提として皇室の御事を祈りつづけてまいりました。この一見して単純とも思われる信頼関係が、国家体制として変わることなく2000年以上も連続している「かたち」が、そのままに神ながらの道であり、すなわち「神道」であると言えます。

● 国民のあかし「神宮大麻」

神宮の御師によって神宮崇敬は全国にひろめられ、江戸時代末期までには全世帯の9割が神宮の神札「大麻」をおまつりしていたといわれます。明治の盛代に入りますと「神宮大麻」の頒布制度も完備され、明治天皇さまの大御心のもとに、国民あまねく広大無辺の大御神さまの大御光を仰ぐことが容易になりました。天皇陛下のおまつりが「神宮祭祀」にきわまり、国民ひとしく「神宮」を崇敬するところに、うるわしい君臣一体の国柄が見られるのです。つまり、悠久の民族的連帯という意味から、「神宮大麻」には個人的宗派をこえた「公的性格」が認められるのです


万世一系の「天皇」なんて嘘である。
しかし「世界に誇るべき君主制度」、それを強調して崇拝しなければならない理由がある。
現代においても君主がいる国はがあるが、2000年以上の万世一系の君主はいないであろうから、世界の頂点に立つにはどうしてもその部分を譲ることは出来ないのだ。
だから各家庭の神棚のお札の位置にまで注文をつける。
氏神よりも個人的に崇拝している神よりも中央や前にいなければ気が済まない神宮大麻(天照皇大神宮)。

『日本書紀』『古事記』をソースにする初代天皇は紀元前711年~紀元前585年の人物となる。
これは儒教を体系化した孔子よりも古い。もっとも孔子は思想家・学者であって君主でも神でもない。
西暦の基準となっているイエス・キリストよりも古い。すなわちローマ教皇よりずっと古いということになる。

日本の「愛国」とはすなわち、年功序列であるし、変わらないことへの称賛である。
時代にはまるで逆行した価値観であるように思うが、案外世界の価値観もそうなのかしら。

仏教の開祖・釈迦の生誕日ははっきりしていない。
それを勝負と考えれば、嘘でもなんでも言い切った勝ちなところがあるから、やや不利な感じ。
一説によれば紀元前566年~紀元前486年頃。
これも『日本書紀』『古事記』をソースにする日本の初代天皇には負けますね。





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# by yumimi61 | 2018-11-16 16:20

星霜

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・2009年1月までのカテゴリーとタグ付完了しました。

・2016年ではなくて2015年の誤りです。多々申し訳ありません。

・なんとなく気忙しい季節がやってきた。

・星霜は、歳月、年月という意味。霜で年月を表すなんてちょっと不思議。
四季を通して存在するものでは歳月を思う情緒が足りないのだろうけれども、それにしても霜だなんて。

・2008年末に母はくも膜下出血で倒れ、手術で一命を取り留めた。今年来月であれからちょうど10年になる。

・上の写真の山の色が違いは雲の影と隙間から漏れる光。





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# by yumimi61 | 2018-11-15 21:22

朱子学とは儒教の一系統。儒教から起こった学問体系。
宗教にあてはめれば、キリスト教のプロテスタントのようなことである。
明治政府は宗教の上に国家神道として倫理・道徳を乗せて、宗教や国民を統率して中央集権化していったわけだが、宗教、思想・哲学、倫理・道徳というものは明確に切り離すことは出来ない。

朱子学は、人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれる。

日本への影響

後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発している。
だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。

ただし、幕末・維新期の尊皇派の主要人物である西郷隆盛や吉田松陰は、ともに朱子学ではなく陽明学に近い人物であり、佐幕派の中核であった会津藩、桑名藩はそれぞれ保科正之、松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。1890年(明治23年)、『教育勅語』が下賜されると六諭は近代日本の道徳思想として本格的に採用された。軍部の一部では特に朱子学に心酔する者が多く、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。


江戸幕府は儒教、ことに朱子学を重んじて正学とした。
しかしその朱子学が討幕派に熱烈支持された挙句に倒幕を果たす。(これには朱子学を信奉していた徳川光圀が基礎を作った水戸学の影響が少なからずある。中味ではないかもしれないが)
明治政府の国家神道(道徳観)や教育方針も朱子学をベースにしていたが、この頃のは朱子学はすでに元の朱子学とは異なるものとなっていた。

中国での変化

明代、国家教学となった朱子学は、科挙合格という世俗的な利益のためにおこなわれ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは、陸九淵の心学を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで王守仁の陽明学が誕生することになる。

明代は1368~1644年で、日本の室町時代~江戸時代初期にあたる。
中国では国の役人の試験に導入されて、その難関試験に合格するために朱子学を学ぶというような形になっていった。
要するに与えられたものを考えることなく丸暗記的に覚えることが中心となり、中味(心)が置き去りにされてしまったということなんだろう。
そんな風潮の中で陽明学が誕生した。

清代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「礼」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は、体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった

清代は1644~1912年で、日本の江戸時代~明治時代末までにあたる。
清は満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であり、明治期の日本と非常に関係が深い王朝であった。
アヘンが流入し、アヘン貿易をきっかけにイギリスと2回戦争を行い、国力を落とし、西洋諸国や日本に付けこまれ、反植民地化され、王朝の終焉を迎えた。
中国の君(王)がいなくなり、代わりに外国の君による統制が始まる。
しかし君臣倫理を尊重すれば、それが国内の君であろうと、外国の君であろうと、礼が重んじられるわけで、不可侵な絶対服従の存在となってしまう。

討幕派(尊王攘夷派)や明治政府が心酔した朱子学は、この清時代の礼学の君臣倫理だったのである。

衣川強は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している


朝鮮半島への影響

朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。

混沌としてしまった「理」

朱子学が混沌としてきた理由は「理」の理解の難しさにあるのだと思う。

理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。
抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。


「王」の「里」と書いて「理」、そう考えやすいが、漢字の成り立ちはそうではない。「玉」に「里」である。
里は「田」+「土」で、耕して筋目をつけるという意味があり、上記のように璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。

朱子学(程朱学)においては、一物に一理があり、これを「理一分殊」と称した。朱子学の始祖朱熹(朱子)によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。

陽明学の始祖として知られる明代の王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。


「理」という漢字には宇宙の本体という意味があり、反対語は「気」となる。
「気」には自由に動くことが可能な原子・分子という意味がある。要するに物質である。
いわゆる目に見える「物」を作る物質もあれば、空気のように目に見えない物質もある。流動的でより自由なのは見えない気体のような物質である。
また意識、意思、精神なども「気」である。

「宇宙の本体だって物質でしょう!」と思ってしまうと、この哲学的な「理」はなかなか理解できなくなってしまう。
「宇宙の本体だって物質でしょう!」は、物が先にあったという唯物論的な考え方。
そうではなくて、どうして宇宙に地球という生命体が誕生したのかという地球成り立ちの根本原因、物質や人間の存在する意味や意義など、見たり確かめたり出来ないが、それこそが世界の普遍的原理とする。

つまり「理」は宇宙や地球の物質的なあれこれを考える物理学の上(meta)の立場に立つ。物質を超越(meta)した世界のあれこれである。
それを考える学問が形而上学である。哲学も似たような学問であるが、哲学(philosophy)の語源は知を愛するという意味である。

とても簡単に言えば、分かりようもない本質的なこと(本性)を知る(分かる)のが「理」である。
今で言う科学が「理」ということでは決してない。
物理とか理科という時の科学の理と、思想や哲学や宗教の理。これは同じではない。
科学の理が物事や人間や思考の本質(本性)を知るための手段に用いられる時はあるが、科学の理そのものが目的ではないし、本質(本性)は科学の理だけで到達できる領域ではない。
そこが間違いやすく、混乱しやすく、混沌としてしまう理由なのだと思う。

朱子学はこちらに書いた陰陽五行思想にも通じる思想である。
本居宣長は儒教や朱子学を否定して国学を推進したと言われているが、漢方医学の後世方派は陰陽五行説を重視した治療(投薬)を行うのであり、後世方派であり終生医師として働いていた本居宣長は朱子学を全否定することなど出来ないはずである。


朱子学における倫理の実践

自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。
朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。


性(心静かな状態)でないと「理」には辿り着けないとしている。
だから「性」を乱す「情」や「欲」を制御しないさいということなのだ。

例えば・・・
江戸時代に生きて現世には存在しない本居宣長の歌の真の意味や心情など現代を生きる私達には分かりようもない。
その分かりようもない本居宣長という人物や思考の本質(本性)を考えて近づく(分かる)ことを「理」とする。
その時に「情」や「欲」が入りこむと、「理」には辿りつけなくなる。
本当に一例だけど、百姓のオッサンは、オッサンの母が歌っていた『愛国の花』という歌に山桜が出てきたと語っていた。その話から、オッサンの「性」が動いて「情」になっていることを感じさせる。
また本居宣長記念館の研究員の人も「性」が動いて「情」になっていることをそこかしこに感じさせる。
本居宣長記念館の研究員なんて半ば弟子みたいな存在であり、その関係は濃密で、だからこそ知り得ることもあるだろうけれども、それが「情」になってしまうと冷静な見方が出来なくなる。
また本居宣長の評判を気にして、自分の仕事や記念館の収益なども絡めば「欲」に繋がりかねない。
こうなると「理」に至るのは大変難しくなる。
どんな人でもどんな「理」でも誰かの論理に負けたくないなんていう心理が芽生えてしまった場合には「性」が大きく動いてしまうと思う。

あくまでも冷静に穏やかに、一定の距離をとりつつ、対象を眺め、深く知ることが必要。


心を動かすことこそが生きる事

実を言うと、本居宣長はその冷静さや穏やかさを嫌ったのだ。
だから漢方医学と大いに関係があるにもかかわらず朱子学を否定し、源氏物語の「もののあわれ」に心を寄せて讃えた。

もののあわれ(物の哀れ)
目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、 しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁。

美しいものを見たら冷静なんかじゃいられない時だってある。
美しいものに香しいものに惹かれるのは当然。
あまりに美しすぎて泣きたくなる時もある。
この人を愛していても、あの人を好きになることもある。
今日好きだったものを明日嫌いになることだってあるかもしれない。
だけど好きな人の心が離れたら悲しい、泣きたい。
嫉妬に狂い、絶望して死にたくなることもある。
裸になってセックスして、その挙句子供が出来ちゃうことだって別に不思議はない。
心が動く事こそが生きているということ。それを誰に否定できる?
愛の本質なんて別に知りたくもないし、知る必要もない。
あなたがどこから来て、どこに行くかなんて、どうでもよいのだ。
あなたが生きる今日が素晴らしい。
あなたがここにいる今が素晴らしい。

たぶんそんなふうに思って本居宣長は源氏物語を肯定したのだと思う。
本居先生、恋の病でも患っていたのかなあ。


私達にも出来ること

分かりようもない本質(本性)を浮かび上がらせるには、あくまでも冷静に穏やかに、一定の距離をとりつつ、対象を眺め、深く知ることが必要と書いてきた。
でも分かることだったら、もっと真っ直ぐでも良いと思う。
この世には、人間には、自分には、分かることと分からないことが存在している。

夏目漱石が英語教師をしていた時に生徒が " I love you " の一文を「我君を愛す」と訳したら、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、 とでも訳しなさい」と言ったとする逸話は有名である。
確かに日本人は自分がこの人をとても好きだと分かっていても「私はあなたを愛しています」なんてなかなか言わないかもしれない。
だけど同時に「月が綺麗ですね」と言われても、(ああ、この人私のことを愛しているんだわ)とも思わない。
もっとも現代では逸話が有名なので思う人もいるかもしれないが。

「月が綺麗ですね」が「我君を愛す」だなんてなんてロマンティック♡ そんなシチュエーションに憧れる♥、なんていう女子がいるかもしれないが、普通「月が綺麗ですね」と聞いて「我君を愛す」って言ってるんだなぁなんて思いません! 断言できます、間違いなく思いません。
仮に少しくらい思ったとしても確信は全く持てずモヤモヤとした気持ちしか残らないと思います。
言わなければ分からないことがあり、生きている人間にはそれが出来るのです。




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# by yumimi61 | 2018-11-13 18:36

山桜花の歌

(前記事の続きです)

画賛と自画自賛

「自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。」と評したのは上田秋成(江戸後期の国学者・読本作家・歌人。大坂生まれ)。

自画自賛という四字熟語がある。自分のしたことや自分自身を褒めること、つまり、自惚れが強いというような意味で使われることが多い。
語源は絵画用語の画賛。
中国における画讃とは、人物画にちなんで制作された文章を指す。
(但し、1300年以降は「題」や「跋」と呼ばれるようになり、「画賛」と言う言葉は使われなくなっていった)
賛というのは、人物の事跡を述べ賞揚する文学の一形式である。
日本における画讃とは、絵画の主として上部の空白部に書き込んだ詩文を言う。別紙に書いて接続する場合もある。漢詩が多いが、和歌、俳句を書くこともある。

本居宣長の生きた時代では中国ではすでに「画賛」という言葉を使っていなかったということだが、絵が人物画(自画像)であるということは中国式のように思う。
ともかく東洋画に付けた文章のことを「画賛」や「賛」と言った。
他者に頼んで文章を入れてもらうのが一般的なので、自分で書いた絵画に自分で文章を入れたり、自画像に自分で賛を書き入れることは珍しかった。
自分の画に自分で文章を入れること、その行為が「自画自賛」である。
その行為に至る要因はなにも自惚れだけではないと思うが、「自画自賛」の言葉の印象としては次第に「自惚れている鼻持ちならぬやつ」ということになっていった。

三重県熊野市有馬の花窟神社で参拝客に配布していたという版木画も画賛である。日本書紀の「一書曰く」を、「日本書紀曰く」と書き換えて、書き入れていた。
本居宣長はその地を「里の神わざ」と詠んだ。


本居宣長の自画自賛像

本居宣長は医師であり、時代を代表する国学者でもあった。
それなりの社会的地位があるのだから他者に頼んで画賛を書いてもらうことは十分に可能であったろう。
ではなぜ自分で書いたのか、そこにこそ本居宣長の心内が潜んでいるのではないだろうか。
あなたがもし本の帯に入れるコメントを執筆者や出版社から依頼されたらどうしますか?印象の悪いことを、都合の悪いことを書きますか?書きませんよね。求められているものが分かるから。
本居宣長は忖度した装飾した賛を求めていなかった。だから自分で書いた。そう考えるのが自然ではないだろうか。

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花

記念館の説明にはこのように記されていた。

「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。


楯突くようで申し訳ないけれど、田舎の百姓さん(ペンネームじゃないし?)にメールした言葉そのままに、「一般論としての大和心ではなく、自分自身の大和心だ」なんてどこにも出て参りません。
もし、ご不審でしたらどのように解釈すれば、貴下の解釈になるのかお示し下さい。

2つの解釈が出来る。
①記念館の解釈のように「あなたにとって大和心とはなんですか」と問われて答えているというもの。
②ただ単に(要するに一般論で)、例えば外国人に、「大和心ってなんですか?」と尋ねられて答えているというもの。

残念ながら歌からはどちらで詠んでいるのか判別できない。
でも外野から判別することが可能。それが自画自賛像であることの意味。
要するに一般的に印象の悪くなる回答をしているということなのだ。
①の問いで印象が悪くなる回答をすれば、印象が悪くなるのは自分自身。
②の問いで印象が悪くなる回答をすれば、印象が悪くなるのは大和心(当時の語の意味からすれば日本人の心)。大和心を非難しても本居宣長の印象が悪くなるとは限らず、時と場合によっては印象が良くなることもある。そうとなればまさに「賛」に相応しくなる。
61歳で創った自画自賛像。本居宣長もまた消化しきれない思いを抱えていたのではないだろうか。


山桜の特徴

では印象のあまりよろしくない回答とは何か、ということですよね。
「朝日に匂ふ山桜花」という下の句がその回答部分にあたる。

山桜は葉と花が一緒に展開するという特徴がある。
現代日本で一番ポピュラーである「お花見の桜」はソメイヨシノ。
ソメイヨシノはご存知の通り、葉に先駆けて花が展開する。花が散ってから葉が芽吹いてくる。

奈良県の吉野の桜は古くから有名だったらしいが、山桜が主体であり、日本の古代の桜は現代のソメイヨシノとは違う。
従って現代の主流の桜のイメージを昔の歌に当てはめるべきではない。
ソメイヨシノは江戸時代末期~明治時代に誕生した品種で、江戸中期に生きた本居宣長の時代には存在していない。
どんな花でも咲いた花はいつかは散るが、昔の桜には現代の桜ほど、ぱっと咲いてぱっと散っていくイメージはなかったと思われる。
記念館の人は、「散ることはどこにも出て参りません」と書いていたけれども、書いてある書いてない以前に、散っていくことを主眼にはしにくかった。


ソメイヨシノについて

(染井吉野、学名: Cerasus ×yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’)
江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。

山桜は野生種の桜の原産はヒマラヤ山脈あたりで中国を経由し日本に渡り、その後日本で種の変化や品種改良があった。
遺伝的なルーツを言えば、サクラ(桜)は純粋な日本産ではない。

ソメイヨシノは、野生種の桜の1種で日本では彼岸頃に咲くエドヒガンと、日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配して、日本で作り出された園芸品種。
ほとんど全てが同一の特徴を持つ。要するに個体差がないクローン。
今現在日本に存在するソメイヨシノ全て、実生ではなく栄養繁殖によって増えたものだそうだ。そう考えるとちょっとゾクッとする。

2012年に千葉大の研究チームは、北関東のエドヒガンがソメイヨシノの母親と推定され、コマツオトメはソメイヨシノの母親ではなく近縁にとどまることを園芸学会で発表した。これは、千葉大学園芸学部の国分尚准や安藤敏夫の研究チームが、江戸時代から生えているエドヒガン系の天然記念物級の古木を青森から鹿児島まで523本探して、新たに葉緑体DNAを解析したところ、ソメイヨシノのDNAと一致する古木が、群馬県で4本、栃木、山梨、長野、兵庫、徳島の各県で1本ずつ見つかったことを受けてである。

葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。さらに、第二次世界大戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

だけど本居宣長の歌の桜はソメイヨシノではなく山桜である。


どうして「花」であったか

「朝日に匂ふ山桜花」
匂ふは、美しく咲いている、香りが漂う、美しく染まる、美しく映える、というような意味がある。

・朝日の中で美しく咲いている山桜の花。
葉と花が同時に展開するのが山桜であり、どちらも朝日に輝いているはずなのに、花にしか目がいかないということを間接的に意味している。

・朝日に照らされて山桜の花の香りが漂っている。
夜に香りを主張する花は存在する。夜は視覚的に不利なので嗅覚に訴えるわけである。
でも朝日が出ているということは目に見える状況があるということ。
それなのに匂いで花を認識する。それはすなわち見えているものが見えないということ。
だから香らないものが香ることもあるということにもなる。

・朝日に美しく染まっている山桜の花(朝日に映える山桜の花)
同じ朝日を浴びても、染まるのは花のみ。朝日に映えるのは花のみ。


あの人は、葉であったか、花であったか

芽吹いて葉が茂り、その葉によって光合成が行われ、栄養とエネルギーを蓄える。
そして花芽が形成され成長し、やがて開花し受粉して実を結ぶ。
果実は成熟し母体を離れ、種が落ちて、新しい固体が芽生える。
それが一般的な植物のサイクルである。

植物の葉・茎・根は栄養器官と呼ばれる。
それに対して花は生殖器官である。
母体の成長も然ることながら、花芽を成長させ花を咲かせ果実を生らせるためには非常に大きな栄養とエネルギーを必要とする。
従って通常は葉が先に展開してから花を咲かせるほうが理に適っている。
しかし栄養とエネルギーを蓄えることが出来る植物の中には先ず花を咲かせるものがある。球根植物とか鱗茎植物とか。
実はヒガンバナ(彼岸花)はその代表。ヒガンバナも実生ではなく栄養生殖(無性生殖)。
それ以外では春早くに咲く植物に花が先に咲くものが多い。
そうした植物は冬に葉を落として、成長にエネルギーを使わない分、蓄えに回せるのだと思う。その蓄えで持って春先に花を咲かせることが可能となる。
その後はやはり栄養が作られなければ実を結べなくなる。
実を結ばなくてよい植物ならば、その分の栄養も蓄えられる。

花は生殖器官だけれども、花が先に咲く場合というのは、栄養生殖(無性生殖)であることが多い。
花は生殖のためにその姿を与えられたはずだが、花でありながら本来の役割を果たす必要がないのが栄養生殖(無性生殖)の花なのだ。
ぱっと咲いてぱっと散っていく美しい花は、別に花でなくとも良いという矛盾・・

しかし山桜は葉と花が同時展開する。
それなのに花だけに光が当たっているということは、栄養やエネルギーを作りだし蓄えるという作業に光が当たらないということになろう。
花ばかりに心惹かれ目を奪われ、栄養やエネルギーを作りだし蓄えるモノや作業に思いを馳せることがない、それが大和心だと詠った。
「もののあわれ」と源氏物語を持ち上げたのが本居宣長だったことで知られているが、この歌では暗に源氏物語を揶揄しているようにもとれてしまう。
『源氏物語』に失望して『古事記』まで持ち上げてみたが、憂さは晴れなかったとか?

本居宣長が葉に何を重ね、花に何を重ね合わせたかが、歌の意味を、本居宣長の心情を理解することになると思うが、決定的なことは言えない。
ただ万葉集とか言の葉とか、葉は言葉の比喩として使われる。
だとすれば・・・
調和的な情趣を優美なものとして指向する大和心、そんなものは存在しなかったという失望感漂う歌。
この場合、朝日が希望の象徴で、山桜花は失望の象徴。
あるいは、ないものをあるかのごとく語り、掘り起し日に当ててしまったことへの、そうした自分に対する、悔恨の歌。
この場合、山桜花は自分の比喩。

宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。
当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。


男子本懐の仕事ってなんだろうか。
医師でもなく、経営者でもないとするならば、国学者?
それとも名を残すことこそが大事だったとか? だから文事に傾倒?徳川光圀のように?
まさか本居宣長は本当は武家に生まれて武士になりたかったとか?
男子ってややこしい生き物ですね。今は男女平等で女子もかな。




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# by yumimi61 | 2018-11-12 19:07

敷島の歌

問題の歌

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花

これも本居宣長の歌である。
この歌は解釈がたびたび取り沙汰される、いわば問題の歌なのだ。

以前、ソニーの創業者の1人である盛田昭夫の実家の盛田家について書いたことがある。
盛田昭夫は愛知県で歴史ある醸造会社を営む盛田家の長男だった。
盛田家の分家はお酢のミツカンと関係があり、敷島製パンも盛田家の分家筋の人物が創業した会社であるということを書いた。

過去記事より)
社名の「敷島」は盛田善平が好きだった本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」という歌から取られたそうである。

製パン会社から少々離れるが、この歌に関して興味深いやり取りがこちらで見られる
この歌をホームページに載せていた管理人と本居宣長記念館の主任研究員との間で交わされたメールである。 

群馬県前橋市には「敷島」という地名が存在する。敷島町である。
県営の敷島球場や陸上競技場(正田醤油スタジアム)を抱える敷島公園の住所は、群馬県前橋市敷島町66である。
私は敷島公園の近くにも住んでいたことがある。
敷島町は名古屋市や奈良市にもあるみたい。


正田醤油というのは現在の皇后・美智子妃の実家(日清製粉の創業家)の本家筋である。群馬県館林市にある。
群馬県立敷島公園県営陸上競技場の命名権(ネーミングライツ)を正田醤油が取得して、2008年6月から「正田醤油スタジアム」となっている。


「しきしま」は枕詞

歌の中の「敷島」は「大和(やまと)」に掛かる枕詞である。
「敷島」と「大和」はセットモノなので、敷島それ自体に大きな意味を乗せて歌を創作しているわけではない。
でも逆を言えば、自由に言葉を選べるはずの歌においても、必ず隣り合わせで置いておく必要があるほど、両者は切っても切れない関係、どちらかがなければ存在しえないほど重要な関係にあるとも言える。
古代においては「しきしま(磯城嶋)に宮がある大和」という意味で詠まれたものと捉えられている。
今現在「大和」は「日本国」の意味として捉えられるが、古代の大和国(現在の奈良県中心の国)のことで、現日本と国の範囲が同じとは限らない。

万葉集が一番最初に編纂された時には訓読みはなく、音読みで表された。だからこそ万葉仮名なるものが生まれた。
音を借りたのであって、漢字1つ1つに意味を持たないのが普通である。
しかしその原本が残っていない。
原文として漢文で示されるものも、すでに万葉仮名ではない漢字を当てはめてしまっており、明らかに原文ではない歌が多い。どの程度正確に元の歌の意味や技巧を踏襲しているのか調べようもない。
さらに訓読みや平仮名が誕生した後には訳したものが普及してきた。
また当然、徳川光圀よりも前にも校訂をした者がいるだろうと考えられる。
よって最初に創作された歌とは変わってしまっていることが十分に予想出来る。
見直したり検討をした年代に影響のあった地名や、その年代の価値観や考え方が盛り込まれてしまう(いわば編集してしまう)こともあるだろうと思う。

=万葉集の「しきしま」=
1787 礒城嶋能 日本國乃(敷島の大和の国の)
3248 式嶋之 山跡之土丹( 磯城島の大和の国に)
3249 式嶋乃 山跡乃土丹(磯城島の大和の国に)
3254 志貴嶋 倭國者(磯城島の大和の国は)
3326 礒城嶋之 日本國尓(礒城島の大和の国に)
4280 之奇嶋能 人者和礼自久(磯城島の人は我れじく)
4466 之奇志麻乃 夜末等能久尓々(磯城島の大和の国に)

4466の漢文のみが音読で「しきしまのやまとのくにに」と読むことがかろうじて可能(万葉仮名)。「乃」を「の」と読ませるのは訓読みであるが。
その他の漢文は万葉仮名ではない。

本居宣長は江戸時代中期の人物なので、訓読みも平仮名も存在していたし、大和(日本)にかかる敷島という枕詞も定着していたはずであろうから、あとはその意味を考えればよいだけ。


興味深いやり取りとは

『山桜』という記事を書いた筆者のお言葉を借りれば、

百姓のオッサンがボケ予防の慰みに書いている駄文に、由緒正しき研究員の方から訂正要求のメールが届くとは想像もしていませんでした。「光栄」と申し上げるべきだと思います。


簡単な山桜の説明と山桜の写真。
それに続いて本居宣長の歌が紹介されていたわけです。


 山桜は、かつて(戦前)は、愛国心の象徴とされた花でした。そして本居宣長の詠んだ次の歌は、散りぎわのいさぎよさを賛美した歌として喧伝されました。
 敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

 「敷島の」は「大和」にかかる枕詞で、特に意味はありません。神風特攻隊の最初の4部隊が、この歌から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられたことは有名です。

 母は若いころ、渡辺はま子の「愛国の花」をよく歌っていました。この歌詞にも、山桜が出てきます。

 真白き富士の気高さを 心の強い盾として 御国(みくに)につくす女等(おみなら)は 輝く御代(みよ)の山桜 地に咲き匂う国の花
 

そしたら、その記事を読んだらしい本居宣長記念館・主任研究員の吉田悦之さんからご指摘メールを頂戴したとのこと。


【追記 2006/04/28】
 昨日、本居宣長記念館・主任研究員の吉田悦之さんから、「敷島の~」の歌の解釈が間違っているとのご指摘(メール)をいただきました。検討の結果、説明文の一部を書き換えました。

その源流は、本居宣長の詠んだ次の歌にあります。散りぎわのいさぎよさを賛美した歌です。
 ↓
そして本居宣長の詠んだ次の歌は、散りぎわのいさぎよさを賛美した歌として喧伝されました。

 ご参考に、吉田悦之さんのメールの全文と、それに対する私の返信を添えておきます。

【吉田悦之さんのメール】

 ホームページを拝見いたしました。
 見逃しがたい点がありましたので、メールさせていただきます。
 「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
 散りぎわのいさぎよさを賛美した歌です。」
 は誤りです。「朝日に匂ふ」のであって散ることはどこにも出て参りません。
 もし、ご不審でしたらどのように解釈すれば、貴下の解釈になるのかお示し下さい。
 歌から離れて、宣長が、愛国心を称揚したとか言う指摘なら、それもまた意見としては認められるかもしれませんが、この解釈は、満開の、朝日に照り輝く山桜をこよなく愛した宣長に対しての冒涜です。
 訂正を求めます。

 本居宣長記念館 主任研究員 吉 田 悦 之
紙面ページ文字数の都合上、お返事部分は省略させていただきました。上のリンク先でご確認ください。


自画自賛像の「賛」の歌だった

そもそもこの歌はどこで発表されたのか。それが記念館のホームページには記されている。
◆「敷島の歌」より

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

 この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
賛の全文は、

「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、
筆のついでに、
しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
です。

 歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。

 宣長は答えます。
「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。
 だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。
 たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。


◆徹底分析・本居宣長六十一歳自画自賛像より(画像・説明文ともに)

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【解説】
一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。
例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。
本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。



チラつく太平洋戦争の影


百姓のオッサンも(失礼!)、本居宣長記念館のホームページの記事も、書いた日付を記していないので、どういう時系列なのか全く分からないが、本居宣長記念館のホームページには◆「敷島の歌」その後 という記事も上がっている。

(略)
また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。
  田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。

 晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

 信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

(略)
 宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。


(ページを改めて続きます)


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# by yumimi61 | 2018-11-12 14:37

ⅢとⅣ

・『グル』の記事に載せた写真の前を走るトラックが何気に気になる?

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アイデンティティの歪み

德川光圀→(万葉集の校訂本の注釈を依頼)→下河辺長流→(病気のため代理を依頼)→契沖

●徳川光圀
武家に生まれ、幼いうちに水戸藩主の後継者に決定したが、兄がいたことや戦わない世だったこともあり、アイデンティティの確立が難しかった。藩主になると文事に注力し水戸学の基礎を作ったものの、最晩年まで心の葛藤はあったと思われる。

●下河辺長流
父方は清和源氏の傍流で信濃国に土着した片桐氏の家臣・小崎氏であったが、母方の姓を名乗っていた歌人。名乗っている姓や光圀が依頼したことから、やはりアイデンティティの歪みを感じさせるものがある。

●契沖
真言宗(高野山)の僧であるので、当然中国由来の仏教を学んでいる。祖父は加藤清正(熊本藩の初代藩主)の家臣で、父は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。

万葉集を通した関係であるが、歌人であり和学者だったのは実際に校訂や注釈に携わらなかった下河辺長流だけであり、徳川光圀は儒学(朱子学)を、契沖は仏教を、学び推奨した側である。


浦と心

ここで国学の祖と言われる契沖が詠んだというある歌に注目してみたい。

和歌の浦に至らぬ迄もきの國や 心なくさのやまと言の葉

わかのうらに いたらぬまでも きのくにや こころなくさの やまとことのは ←この読みでは頭の部分が6音で字余りである。従って浦は音読みでホと読ませるのであろう。

わかのほに いたらぬまでも きのくにや こころなくさの やまとことのは

この歌では漢字2文字にある言葉が隠されている。それは「うら」である。
「浦」の訓読みが「うら」。
「心」は歌語で「うら」と読む。
「心(うら)」は「裏(うら)」と同語源。表に見えないものという意味で、辞書にも掲載されている読みである。
歌語としては「心悲し(うらかなし)」「心若し(うらわかし)」「心無し(うらなし)」などとして用いる。
また占いの「うら」も同語源とされている。

和歌の「浦」に至らぬ迄もきの國や 「心」なくさのやまと言の葉


若野浦から和歌浦へ

「和歌の浦」とは地名のこと。
和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。国指定の名勝。
『万葉集』にも詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られないが2011年に漸く国の名勝に指定され、また自然海岸を残す西部の雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、其々保護されている。


現在の和歌浦は和歌山県の北西部にある和歌山市に属する。和歌山市は大阪府に隣接する。
熊野三山は和歌山県の南東部にあるので、和歌山県という単位では和歌浦とは反対に位置することになる。三重県熊野市の花窟神社も和歌浦とは反対方向。
ただこれら全て紀伊国(きの國)ではある。

和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、

若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る)

と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。


よく和歌の題材にされる地を歌枕と言う。影響力のある人が地名を織りこめば、その地名はよく使われるようになる。
若野浦が歌に詠まれたことにちなんで「和歌浦」と表記した。


歌の意味

和歌の浦に至らぬ迄もきの國や 心なくさのやまと言の葉

和歌の浦(和歌浦)には至らないけれど、紀野国は紀野国である。←これが上の句の意である。
心(こころ・うら)がない有様の大和言葉。←これが下の句の意である。

これを紀野国(和歌山県)内の高野山で学び阿闍梨の位を得た僧の契沖が詠んだからこそ意義深い。


商家の生まれ

契沖の『万葉代匠記』により国学に興味を持った本居宣長は、伊勢松坂(三重県松阪市)の出身。その名の通り、松坂牛の産地。伊勢神宮のある伊勢市と隣り合う市である。
伊勢市や松坂市は古くは伊勢国である。江戸時代には伊勢国の津藩と松坂藩となり、松坂藩はまもなく紀州藩の領地(飛び領)となった。
明治以降、国家神道の中枢に置かれた伊勢神宮であるが、伊勢神宮の領地は紀伊国や紀州藩(紀州徳川家)には含まれない。

尾張・紀伊・水戸は徳川御三家と呼ばれ、江戸時代においては将軍家に次ぐ地位を持っていた。徳川光圀はそのうちの1つ水戸の藩主だったわけだが、前述のように葛藤があった。同じ御三家の尾張や紀伊を意識することも多分にあったらしい。

本居宣長は武家生まれではなく武士でもない。
実家は豪商。松坂市は商業町。伊勢国の商人(伊勢商人)は、大阪商人・近江商人とともに日本3大商人の1つに数えられる。
だが本居宣長は商売に興味がなかった。
戦わない世にて武家に生まれてアイデンティティの確立が難しかったのが水戸光圀ならば、伊勢商人の町で豪商の家に生まれ、商売をするには恵まれた環境にありながら商売に馴染めなかったのが本居宣長である。
本を読むのが好きで医師になることにし京都へ出る。生涯、本を読むことは好きだったらしい。
「本なんか読んでる暇があったら、そろばん弾け」とでも言われたのかなぁ。
今で言えば、理数系ではなくて文系ということになりそうだが、そうなると漢方医学は文系寄りってことになるのでしょうか。
そう言えば現代においても経済学って文系に分類されますよね。
学問と実務の違い? 世の中って難しいですね。


シンパシー

紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ

本居宣長が詠んだ歌である。

「花の窟」とは三重県熊野市有馬の現在で言うところの「花窟神社」。
すでに書いてきたように日本書紀の本文ではなくて、異説・異書を意味する「一書」の中の1つに登場する記述である。
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。
神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。


上記の歌の意味は次の2つの意味が合わさっている。
 ・紀の国の花の窟に引く縄によって長く絶えない里
 ・紀の国の花の窟に引く縄は絶えずに長く続くための里の神わざ

通常、神は天にいると考えられている。
古事記などでは、高天原が天上の神の国とされる。それに対して地上の人間が住む世界を葦原中国、地中にあり死者が行く場所とされているのが根の国(黄泉・夜見)。
これらを踏まえれば「里の神わざ」は「人間の技」という意味にとれる。
同じ「わざ」でも「業」ではなくて「技」。

紀の国の里が長く続いているのは、神の思し召しではなく、人間の技によるもの。
本居宣長はその地が選ばれし地的なものであることを肯定しているわけではない。不可侵なものであるとも思っていない。しかしながら人間の技を否定しているわけでもない。むしろ、終わりある人間界にて、死者を埋葬した黄泉を抱えながら、どんな手を使っても長く続いてきたことにシンパシーを感じているのだ。
本居宣長は、死後は黄泉へ行くとした。その黄泉とは汚き他界、現世こそ素晴らしいと説いた。だから人間にとって死は恐怖で悲しいものなのだと。ごく普通に考えても彼は傷病を治す側に立つ医師でもあるので、「死を恐れることはなし、大いに死にたまえ」と言うのではやっぱりちょっと問題があるというか都合が悪いだろう


僕らを繋ぐもの

縄は英語でいうところの rope 。
綱引きの綱と何が違うのかと言えば、綱のほうが太くて頑丈。引きちぎれたりしないのが綱。
一方の縄は細いもの。引きちぎれない保証はない。

その「縄」は、直線を引くための大工道具の一つでもあり、また、正しさの規準でもある。標準や法則のこと。
すなわち、引き縄や手縄は、基準や法則に縛られ、まっすぐに進むことを意味する。
それが、「綱」ではなくて「縄」であることが、ほんの少し、心を揺する。

花の窟には縄が引かれた。
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道の駅スタンプラリー部 
Thunderaceさんの投稿写真

上の絵に似ているが、これは三重県熊野市の花窟ではない。
群馬県中之条町の霊山たけやま(嵩山)に引かれるワイヤーである。沢山の鯉のぼりが泳ぐ。うちの次男が石を拾ってきた山。
向かい側に親都(ちかと) 神社がある。




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# by yumimi61 | 2018-11-11 10:55
神仏分離の歴史

江戸幕府倒幕の志士たちは尊王攘夷派(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想。水戸学や国学に影響を受けている)であった。
国粋主義を掲げ明治維新を成功させ政権を奪った後には、明治新政府は全国的に神仏分離・廃仏毀釈を敢行した。
明治元年は1868年である。
出雲大社はそれよりずっと前の1667年に自社(及び近隣の寺社?)の神仏分離・廃仏毀釈を実行している。
徳川光圀も隠居時代に(1693年からの数年間)水戸藩内で神仏分離を行っている。


徳川光圀のアイデンティティ

元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。

徳川光圀は神仏習合神である八幡社が憎かったらしい。

八幡神は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた
早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。


神仏習合の八幡神は清和源氏などの武家が信奉していた。
同じ後醍醐天皇に付いた武将でありながら、実際に倒幕を果たした新田義貞ではなく、楠木正成だけを讃えたということから考えると、徳川光圀は新田義貞が嫌いだったのかもしれない。(新田義貞は清和源氏)
とはいっても、鎌倉時代~室町時代の武将と、江戸時代初期の徳川光圀には直接接点はない。
となれば清和源氏が嫌いだったということになるが、光圀の祖父にあたる徳川家康も清和源氏なので、徳川一族は結局みな清和源氏ということになり自分だって一員である。
武家というアイデンティティが受け入れがたかったという推測も成り立つが、江戸時代は戦争をしない平和な時代であるからして、武家や武道に馴染まなかったのならば良い時代に生まれたと言え、武家を拒絶する理由は薄れる。
そうとなればやはり逆なのだ。武道に恋い焦がれるがゆえ、それを封印した徳川家康を受け入れにくかったのではないだろうか。
新田義貞も鎌倉幕府滅亡をさせたものの足利尊氏などに比べると当初戦いには積極的ではなかった。
德川光圀は武家の家に生まれたがゆえに、戦わない世で上手くアイデンティティを確立出来ず、戦わない者たちに不満を募らせていった。
・幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。
しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。


兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたとあるが、この世子とは水戸藩主の後継者のことである。
幼い頃は兄ではなくて自身が後継者と決められたことを複雑に思っていたらしい。


「たたかう」も使いよう

戦わない者と書いて、この歌を思い出した。

『ファイト!』(歌詞:中島みゆき)より
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ


闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう。
戦いたかった徳川光圀?戦わない徳川家康?
作品というものは少し角度を変えると違うものが見えてくることがある。
前にも書いたけれど、よくアーティストが言う。
「どんなふうに解釈してもらっても構いません」と。受け取る人の数だけ答えがある、というような感じで。
ところが一度何か問題視されると「そんな意味で書いたつもりは全くありません」的なことを言う。
いやいやいやいや、どんなふうに解釈しても構わないと覚悟して書いたのでは?


自己矛盾、自家撞着

徳川光圀の話に戻れば、戦わない者たちに不満を募らせていったであろう徳川光圀であったが、大人になった光圀は武力でもって憂さを晴らしてやろうとか、クーデターを起こそうとか、そういう道には進まなかった。
そこは武家の出身であるからして、自分が有する武力を冷静に見極めたのかもしれない。
光圀は文事に傾倒していくのである。
自分に出来ることがあるとしたらそれは武事ではなくて文事なのではないか、そんな気持ちが芽生えたのだろうか。
「自分に出来ること」の意味。「今この平和な時代に自分が出来ること」という考え方もできるし、「自分の能力と自分のいる環境で自分に出来ること」という考え方も出来る。

そんな德川光圀であったが、隠居後にとある事件を起こしている。

元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。

殺害か処罰かーこの問いは徳川光圀が元藩主だからこそ成立する問いであり、下にいる者ならばそれが問われることはまずないだろう。
処罰という絶対的権利を持つ権力者がいた場合、その権力者を処罰することは可能なのか、可能とするならばそれはいったい誰なのか。
権力者が罪を犯すことはないと言えるのか。それとも、ないという前提なのか。
殺害は許されず処罰なら許されるとするならば、戦によって死んでゆく人々、殺されてゆく人々はいったい何なのか。みな処罰されるに相応しい人間だというのか。
德川光圀のこの事件は、それを突きつける。


能舞と能楽

德川光圀が事件を起こしたのは能舞興行の舞台裏だったと書いてある。
能には「能舞」と「能楽(猿楽)」の2種類あるが、「能舞」だったということだ。
あえてその場を選んだのか、何かの因果だろうか。

「能舞」
修験道の修行者(山伏)が演じた芸能。別名「修験能」。
長らく修験道の修行者(山伏)によって演じ継がれてきたものが、村里に伝承され、地元の神職による神楽に移行したり、村人が行ったりして各地に広まった。
しかし明治政府によって修験道は排斥されたため能舞も影を潜め、現在は東北地方に細々と伝承されているくらいである。

「能楽(猿楽)」
猿楽は平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。
「猿楽」のルーツは古代に中国から伝わった「散楽」である。滑稽な物まねや寸劇・曲芸・奇術・幻術などの大衆芸能で徐々に民衆の中へ広がっていった。
平安時代に散楽と土着の芸能が融合した多彩な芸能が生まれ、そのうちの1つが猿楽であった。農耕行事から発生した田楽という芸能も盛んに行われていた。猿楽や田楽は修験道の能舞も取り入れた。
猿楽の能が大きな発展を遂げたのは室町時代の南北朝期。天皇が2人いて朝廷が2つ(京都と奈良)あった時代だが、南朝(奈良)が後醍醐天皇である。
この時期に芸術的に洗練された猿楽の座が奈良を中心に台頭した。
この猿楽の能は武士にも広まって非常に繁栄した。
ところがこれも明治維新により衰亡の危機を迎え、実際に幾つかの流儀は断絶してしまった。
その後、「猿楽」から「能楽」と名を改め、より大衆的な芸能として現在に至る基盤が作られた。
ここにも大きな変化があり、上に書いた通り、能の原点とも言える修験道の能舞はほぼ忘れ去られたが、能楽は日本の誇るべき大切な芸能としてユネスコの世界無形遺産に指定されている。


德川光圀の水戸学の功罪

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。結果的には“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。

光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の禄高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めたが、那珂湊の船手方という低い身分から14歳の時光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎がいる。
他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者は、ほとんどが下級武士や武士外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷や会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀は絶大な人気があり、彼らの著作を通じて、光圀の勤皇思想が実態より大きく広められたとの見方もある。




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# by yumimi61 | 2018-11-09 16:18