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カテゴリ:靖国神社と神社本庁( 10 )

続続続続続続・靖国神社

神社は宗教か?宗教とは何か?

明治政府はまず真っ先に宗教改革に乗り出した。
それが神仏分離(修験道など神仏習合の廃止)や廃仏毀釈であり、神社は国家神道として国が管理するものとなり、宗教という枠を外れた。
国家神道の中心にあるのが天皇で、国家神道は宗教の上位に置かれた。

違う宗教を信仰していたとしても(宗教の自由)、国家神道には従わなければならなかった。
従わない者は不敬罪などを適用させ締め付けたり、宗教団体であれば勅令や法律(固有の団体にだけ適用させる法律制定など)で締め上げた。
また国民に教え込まれる国家神道の精神(道徳や倫理)が監視や私刑的役割を果たしていくようにもなった。

宗教とは何かという問いもあるだろう。
科学では解明できない領域のこと、身体という物理的ものではなく心や精神という見えにくい確かめにくい領域を扱うもの、信じられるもの、救済するもの、嘘偽りないもの、嘘偽りそのもの(嘘偽りを認めてくれるもの)、見えないもの(例えば死や愛や信)を形や言葉で示してくれるもの。きっと答えは1つではないと思う。

「嘘偽りそのもの」に救いを求めている人に対して、あなたの信仰している宗教は「嘘偽りである」と幾ら主張しても効果がないし、もっと言えば逆効果となる。
一筋縄にはいかない問題。
信ずるものが何か(例えば神なのか人なのか金なのかというようなこと)、それを信仰する動機や背景、現存する物理的・社会的な要素との関わり、それぞれの損得勘定などが絡み合ったところに「信」や「宗教」はあるだろうから、ある意味とても世俗的であり現実世界を超越したものなんかではない(と私は思っている)。

様々な考え方やいろいろな表現の仕方があると思うけれど、ただひとつ宗教は古くから冠婚葬祭に深く関わってきたことだけは確かだろう。


戦死者は宗教である神道の信仰者だろうか?

靖国神社は戦死者は霊や魂を祀っているという。神社の形式に沿って言えば、それは祭神ということになるが。

ではその戦死者らの遺族は神式の葬儀(神葬祭)や神式の法事を行ったりしているのだろうか。神式の墓があるだろうか。
彼らの宗教が神道ならば神式で行うのが普通である。

仏式の法事・法要にあたる儀式のことを、神式では「霊祭」(故人の死後100日目までに当たる儀式)や「式年祭」(1年目の命日以降の儀式)と言う。神式の祭祀を行う。
神道においては死は穢れ(けがれ)である。
聖域とする神社境内に遺体や遺骨を安置しお墓を建てさせるようなことはしない。(仏教の寺には墓地がある)(明治政府が禁止した神仏習合だったらもう少し許容できた部分がある)
神道の人が墓を建てるならば、神道専用墓地か宗教を問わない墓地を探す必要がある。お骨を納めるならば納骨堂のある神社を探す必要がある。数はそう多くはない。
お墓も仏式のものとは異なる点が幾つかある。
神道のお墓は竿石の先端が尖った兜巾(頭巾)型が一般的である。
竿石とは中央の高い石のことだが、仏式ではそこに「〇〇家之墓」などと刻むが、神式では「〇〇家奥津城」か「〇〇家奥都城」と刻む。
また神式は焼香をしないので香炉はない。

もっともこうした神式の墓はおそらく明治以降のものだろう。
古い神道は自然神(八百万神)信仰である。万物全てに神が宿る的な考えにあるので、特別にお墓を作らずに遺体でもお骨でも自然に還すという考え方ができるし、お墓を作るにしても石や木で目印にするくらいな感じで可能だろう。但し生きていない木は朽ちるので目印にならなくなる(生きている木でも枯れる可能性がある)ので、朽ちない石がおそらくよく使われたのだと思う。現代でも昔からある田舎の墓地に行くと、単に石が置いてあるような所も存在する。

それから竿石の兜巾(頭巾)型だが、兜巾(頭巾)いうものは明治政府が禁止し弾圧した神仏習合である修験道の修験者(山伏)の被り物のことを言う。何かこのあたりもしっくりこない。

e0126350_16371980.png

 (図)https://www.makoto-sekizai.com/




靖国神社が宗教ではない根拠

宗教の祭殿に祀るならば宗教の開祖、その親族とか弟子とか、あとは神話上(伝説上)の人物などとか。
一般の人ならば少なくとも信者である必要があるだろう。
その宗教を全然信仰していなかった人物を祭神として迎え入れる理由がないし、迎え入れられた本人(霊)も遺族も困るだろうと思う。
ユダヤ教徒や仏教徒がキリスト教の聖人になるようなことである。
なかには「キリスト教の聖人にしてくれるならば改宗します」という遺族もいるかもしれないが、それにはそれ相応の手続きを踏む必要がある。

戦死者というだけで祭神にしてしまう靖国神社は、神道ではないし、宗教でもない。
国家神道という名の国家組織(天皇組織)、国家機関(皇室の機関)であると考えるのが妥当である。

戦死者というだけでと書いたが、靖国神社の創建目的は維新の志士を祀り反武家政権・反幕府の象徴の場とすることであり、戊辰戦争・明治維新・西南戦争で旧幕府軍や反明治新政府軍に属した者は祀っていない。
靖国神社に祀られるかどうかの基準は「神道への信仰」ではなく、「明治維新への貢献者」「明治天皇崇拝者」「明治新政府への従属者」であるかどうかであった。
それは日露戦争前の靖国神社の例祭日にみれば一目瞭然であるが、
ー1月3日(鳥羽伏見の開戦日)、5月15日(彰義隊潰走の日)、5月18日(函館五稜郭開城日)、9月22日(会津藩降伏の日)ー
特に会津藩の戦死者などに対して新政府は埋葬すら禁じたそうだ。
遺体は獣や鳥の餌食となり、腐敗し、見るも無残な状態になっていったそうだ。見せしめだろうか。
西南戦争で反政府となった西郷隆盛も祀られていない。
この明治維新前後の戦死者で祭神となったのは1万5000人くらい。

その後、祭神は莫大に増え、現在では247万人の霊が祀られている。

日清戦争 約1万
日露戦争 約9万
15年戦争(満洲事変~第二次世界大戦) 約234万人(うち太平洋戦争213.4万人)

靖国神社に祀られているのは15年戦争での戦死者が95%、1941年12月からの太平洋戦争の戦死者だけで86%である。

この戦死者とは軍人や軍属にあった者である(徴兵された者や従軍看護婦など含む)。
一般市民の戦災死没者は含まれない。


原爆死没者

日本には靖国神社に祀られている戦死者(英霊)の他にも特別扱いされている戦争死没者がいる。それは原爆死没者である。
夏になると原爆死没者名簿の追加記帳や風通し、奉納などがニュースになったりしますね。
但しこの原爆死没者名簿は自治体が行っているもの。

原爆死没者名簿
広島市と長崎市に投下された原子爆弾とそれに伴う被害によって死亡した者の氏名を名簿に記載し、毎年それぞれの原爆投下日に執り行われる平和祈念式典において奉納されるものである。
名簿登載には被爆者健康手帳の有無や国籍を問わない。
名簿管理者は広島市と長崎市。

【広島】
1952年(昭和27年)より広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納されている。
以下の場合に名簿掲載。
・遺族の申し出があった人
・被爆者健康手帳を所有していた人の場合は、手帳の返還手続きなどで死亡が確認された場合

【長崎】
1968年(昭和43年)より行われ、平和公園の平和祈念像に奉納されていたが、現在は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に奉納されている(平和祈念像にはマイクロフィルムが収められている)。
以下の場合に名簿掲載
・遺族の申し出

「原爆死没者」ということだが、遺族の申し出だけで名簿掲載されるようで、原爆で亡くなったという科学的な根拠は必要ない。日本国民である必要もない。
従ってこれを原爆死没者数として、そこから原爆の威力を語るのは不適当。
広島市も原爆によって死亡した人の数については現在も正確にはつかめていないと述べている。

広島平和記念公園と原爆死没者慰霊碑、長崎の平和公園と平和祈念像、それぞれ公園開設者、慰霊碑・祈念像の設置者や運営者は広島市と長崎市という自治体であり、国ではない。

靖国神社の戦死者(英霊)もこのように名簿にでもして、神社ではなくて国家機関で慰霊するのが妥当なような気がするが、どうして国はそうしないのだろうか。
靖国神社は慰霊が目的に存在しているわけではないからでは。

ちなみに広島と長崎には2002年と2003年に相次いで国立の原爆死没者追悼平和祈念館も設立された。
設立は小泉内閣の時である。

●国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
広島平和記念公園(広島県広島市中区中島町1番6)にある、国立の被爆者を追悼する施設である。
2002年(平成14年)8月1日に国立の施設としては初めて広島平和記念公園内に設置された。原爆死没者慰霊碑や広島平和記念資料館、レストハウスに隣接している。建物は、建築家丹下健三の設計。地下2階構造で、地下1階は情報展示コーナー及び体験記閲覧室が、地下2階には平和祈念・死没者追悼空間及び遺影コーナーが設けられている。

原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律の第41条の規定に基づき設置され、1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により死亡した人々や、その後に亡くなった被爆者を追悼し、世界平和を願う目的で建てられた。
具体的な活動は、被爆者の名前・遺影の募集を行っており、開館時には4804人の被爆者の遺影が登録。2004年8月に登録者が1万人を超えた。


●国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
所在地は長崎県長崎市平野町7番8号。2003年(平成15年)7月開館。長崎市における国の追悼施設は同館が初めてである。財団法人長崎平和推進協会が運営・管理を行っている。入館は無料。単に追悼平和祈念館とも案内されている。

「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の第41条の規定に基づき、国が広島市に次いで長崎に設置した。死没者名簿と遺影の永久保存、手記・体験記、映像資料などの収集と公開、被爆医療や平和を中心とした国際協力に関する情報提供を主な目的としている。
館内は名簿を保存する追悼空間、被爆証言の視聴、手記や遺影、関連図書類が閲覧できる学習コーナー、来場者が平和のメッセージを記帳する平和・交流コーナーからなる。





by yumimi61 | 2019-02-05 14:11 | 靖国神社と神社本庁

続続続続続・靖国神社

天皇の靖国神社行幸

靖国神社の創建 明治2年(1869年)

しかし第二次世界大戦が終わるまで国家の全権を握っていたのは天皇であり、戦靖国神社に首相が公式参拝したことは戦前には一度もなかった。
天皇は戦前も靖国神社を訪れている。
靖国神社、つまり戦争は、天皇の管轄にあったことは間違いない。


■明治以降の歴代天皇が自ら靖国神社に出向いた回数は以下の通り。
明治天皇 44年間で7回 ・・平均は約6年で1回 ※明治時代全期間をベース
明治天皇 22年間で7回 ・・平均は約3年に1回 ※大日本帝国憲法制定後の期間をベース
大正天皇 14年間で2回  ・・平均は7年に1回
昭和天皇 <戦前>19年で20回 ・・平均は約1年に1回
     <戦後>30年で8回 ・・平均は約3.8年に1回
平成天皇 30年間で0回  


■歴代首相の参拝(戦後は首相本人が私的参拝と明言したものも含む)(戦前の私的参拝は不明)
昭和時代 <戦前>19年で0回
     <戦後>30年で60回 ・・平均は1年に2回
平成時代 30年間で8回 ・・平均は約3.8年に1回


明治時代には日清戦争と日露戦争を行っている。
大正時代には第一次世界大戦への参戦があった。
だが天皇が訪れた頻度としては昭和時代の戦前が最も多い。

昭和6年(1931年)満洲事変が勃発。盧溝橋事件に端を発する昭和12年(1937年)〜昭和16年(1941年)の日中間での戦闘期間(北支事変・支那事変・日支事変・日華事変などと呼ばれる〉を経て、日本が昭和16年(1941年)12月にアメリカ・ハワイの真珠湾などを奇襲攻撃し、太平洋戦争並びに日中戦争に突入した。
この期間は「15年戦争」とも言われるが、この戦闘最中というか、徴兵制にて非軍人の男性をも駆りだして戦争に送りこむ大戦前夜の期間とでもいうべきか、この間に天皇は最も靖国神社を訪問した。
戦争状態が終結しているわけではないので慰霊のためというよりも、「英霊」を煽り「御国の為」やら「靖国で会おう」を広くキャンペーンし、国民を戦争に仕向ける必要があったのであろう。


戦後の8回

天皇が第二次世界大戦後(太平洋戦争・日中戦争)終結後に靖国神社を訪問した年。全8回。

1945年(昭和20年)・・戦争終結の年
1952年(昭和27年)・・1951年にサンフランシスコ条約が締結され日本は主権回復した
1954年(昭和29年)
1957年(昭和32年)
1959年(昭和34年)・・新日米安保条約の調印前年
1965年(昭和40年)
1969年(昭和44年)・・1959年日米安保条約の自動延長前年
1975年(昭和50年)・・三木首相が8月15日に参拝した年


1960年と1970年は新日米安保の条約調印や更新に反対する運動が激化した。安保闘争。
60年安保は左翼や新左翼(共産主義者同盟ブント)、労働者や学生を主に行われた反安保闘争で、反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。
これに対して政府側(岸首相←安倍首相の祖父)は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、暴力団(反社会的勢力)の支援を仰いだ。
70年安保は全共闘など大学生の活動家を中心に行われた。
この安保闘争は新左翼と呼ばれる「行動する過激な左翼団体や活動家」を生み出すことになり、その後世界各地で起こすテロ事件、日本でのリンチ事件や浅間山荘事件などに繋がっていた。

日米安保は当然戦争や軍隊・自衛隊に関係することであり、「戦争の亡霊」である靖国神社は無縁とは言えないわけだが、条約調印や更新年の前年という不安定な年にも天皇は自ら靖国神社を訪れている。
それなのに何の騒ぎも聞こえてこないというのは実に不思議だ。
第二次世界大戦終結によって生まれた日米安保に対して過激な反対運動を展開した「行動する過激な左翼団体や活動家」が、その矛先を戦争当時全権を握っていた現役天皇に向けることは無かった。


憲法の壁(壁は人々が認識したり問題にして初めて壁になる)

天皇の最後の靖国神社行幸は1975年11月21日のことである。
その年の8月15日、三木首相が靖国神社を参拝した。「私的参拝」と明言したが問題視された。
マスメディアで首相の靖国参拝が取り沙汰されるようになったのはこれ以降で、しかも問題にするのは8月15日に参拝がなされた時だけである。

三木首相があぶり出したのは、靖国神社が宗教法人の神社ではなくて国家機関であるということである。
現実的には憲法が壁になっておらずスルー状態になっていたものを形(壁)として再認識させた。
靖国神社が宗教法人の神社ならば、国家の代表者・首相が公式参拝することは、いつ参拝しようが憲法第20条に抵触する。
それが問題ないと言うなら靖国神社は本当は国家機関なのだ(現実にそれまでは問題視されたことは一度としてなかった)。
国家機関ならば首相が参拝しても問題はない。
だが宗教法人を隠れ蓑に国家機関(宗教ではない国家神道)を置いているとしたら、それは大問題であろう。

また戦後の日本国憲法下の天皇においては宗教法人であっても国家機関であっても問題がないとは言いきれない。「国事」と「国政」の違いという根本的な問題も含めて微妙なところである。

この場合、議論の的になるのはむしろ天皇の参拝である。
靖国神社への参拝を国政に関与していると考えれば現行憲法に抵触するし、参拝を憲法が定めている天皇国事行為の「儀式を行うこと」と考えれば抵触しないということになる。
戦前の大日本帝国憲法であれば、天皇は国政を行う権限全てを持っていたので、国政に関与するのは当然のことだった。
靖国神社にはその時代の人達の霊が祀られている。
そして昭和天皇であれば、大日本帝国憲法でも日本国憲法でも天皇だった。


憲法第4条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 

天皇も「私的」に靖国神社に行くならば問題ないはずだが、首相に「私的」が許されない現状の中(首相が私的参拝と言っても問題視される中)、日常生活すら公的に丸抱えされている天皇にそもそも「私的」が許されるかという問題もある。結論的にはかなり難しいだろう。

次の場合には憲法に抵触してくる。

●天皇は国及びその機関の公職者であり、靖国神社は宗教法人の神社である。
 →憲法第20条「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」に抵触。

●靖国神社は国家機関であり、国政に関係する。
 →憲法4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」に抵触。


天皇が文句なく靖国神社を訪れるには次のいずれかをクリアする必要がある。三木首相の8月15日参拝騒動によってそれを突きつけられる形になった。

〇私的な訪問(私的参拝)である。
〇天皇は国及びその機関の公職者であるが、靖国神社は宗教法人の神社でも国政に関係する国家機関でもない。
〇天皇は国及びその機関の公職者ではなく、靖国神社は宗教法人の神社である。

これをクリアできなければ足が遠のくのは仕方がない。
しかし戦争責任を逃れるためにもともと戦前より戦後は足が遠のいていた。
創建から今日までの靖国神社への天皇行幸数を見れば、「慰霊」よりも「戦争扇動」のウェートが高い、靖国神社は陽動作戦に使えるという結論に至ってしまう。

しかし現状では(三木首相8月15日参拝以降は)目的が「慰霊」でも「戦争扇動」でも天皇にとって靖国神社は遠い場所となっている。
結果的には戦後憲法が天皇を靖国神社から引き離す役割を担ったことになる。
(靖国神社を宗教法人の神社と扱えば天皇だけでなく首相の公式参拝も憲法に抵触する)

戦争反対の人は靖国神社を特別視しなくても別に構わないだろうけれど、戦争賛美派や天皇信奉者、首相責任論者、「英霊を慰霊しないなんて!」という遺族なり愛国者にとっては望ましいことではないかもしれない。
憲法の壁を消失させるのは反日心ではなくて、むしろ愛国心なのだ。
愛国心は憲法の壁を再び消失させかねない。
でも「それの何が悪いの?」という感じで、現実的に憲法の壁などいらないと思っている人は決して少数派ではないような気がするのだけれど。


天皇が靖国神社を訪れた最後の日となっている11月21日

皇后様とご一緒だったようだから11月22日すれば「いい夫婦の日」だったのにー。しかも1975年11月22日は大安だった。
ということは実際に訪れた11月21日は仏滅である。
大安とか仏滅は「六曜星」と呼ばれるもので宗教とは関係ない。
今でもカレンダーや手帳に記載されていたりするが、ルーツは中国で戦争や争いごとの吉凶を決める際に利用していた占いではないかと言われているがはっきりは分からない。日本でも戦争の吉凶占い(日の良し悪しの験担ぎ)に利用されていたと言われている。

仏滅は気にしないにしても、どうして例大祭の日に訪れなかったのだろう。スケジュールの都合かしら。
それとも11月21日に何か意味があったのだろうか。
前年の1974年11月21日に長嶋茂雄氏が読売巨人軍の監督に就任している。(さすがにそれは関係ない?)
ではやはりこれだろうか。
1969年11月21日、アメリカのニクソン大統領と日本の佐藤栄作首相(安倍首相の大叔父)が、安保堅持・1972年の沖縄返還などの日米共同声明を発表した。
それとも、1990年11月21日、任天堂のスーパーファミコンの発売記念!?(今や11月21日は任天堂の日でもある)(1975年時には未来予想的になってしまうけれども)


平成の世は平静の世?

平成の時代、天皇は自ら靖国神社を訪れることはなかった(今のところ)。
また首相の参拝も昭和の時代に比べるとかなり減っている。
平成の時代に数を稼いだのは小泉首相で、平成の首相参拝8回のうち6回は小泉首相である。

(平成時代を再掲)

第74代竹下登、第75代宇野宗佑、第76-77代海部俊樹、第78代宮澤喜一、第79代細川護煕、第80代羽田孜、第81代村山富市は参拝なし。

第82-83代 橋本龍太郎(1996年1月11日 - 1998年7月30日)
1回ー1996年7月29日


第84代小渕恵三、第85-86代森喜朗は参拝なし。

第87-89代 小泉純一郎(2001年4月26日 - 2006年9月26日)
6回ー2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日


第90代安倍晋三(2006年9月26日- 2007年9月26日)
この期間にはなし

第91代福田康夫、第92代麻生太郎、第93代鳩山由紀夫、第94代菅直人、第95代野田佳彦は参拝なし。

第96-98代 安倍晋三(2012年12月26日 - 現在)
1回ー2013年12月26日



平成の天皇や首相は概して憲法に抵触しない優等生ということになる。
参拝しなければメディアや国民や近隣諸外国を必要以上に刺激することもないから平静と言えば平静だ。
イメージ的にはすでに10回くらい参拝していそうな安倍首相ですら、たった1回。それももう5年も前の話である。拍子抜け?
このように最近は参拝自体が減っているせいか、安倍首相は8月15日でなく、2013年の年末も押し詰まってきた12月26日に参拝したが、それでも結構話題に取り上げられていた(問題視された)。
12月26日という日は第二次安倍内閣が発足した日であり、内閣発足1年目に参拝したことになる。
何も年末の内閣発足日を選ばなくてもよいような気がするけれど、発足1年目と靖国神社にいったいどんな関係があるのやら。
ともかくこの平静が「嵐の前の静けさ(憲法改正のための目くらまし)」でないことを願いたい。




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by yumimi61 | 2019-02-04 14:08 | 靖国神社と神社本庁

続続続続・靖国神社

「御親拝」と「行幸」を使い分ける意味

前回、首相の靖国神社参拝について書いた。
首相が靖国神社を参拝するようになったのは戦後のことである。

明治2年に創建された靖国神社であるが、記録によると首相が初めて靖国神社を参拝したのは第二次世界大戦後のこと。戦前の首相は参拝していない。
これはすなわち靖国神社は天皇が参拝するものという認識にあったのだと思う。
大日本帝国憲法制定から第二次世界大戦終結までは軍事でも政治でも国のトップは天皇だった。
国の代表者が参拝するとしたら、それは天皇だったということである。


名称が靖国神社となっているので「参拝する」と書いたが、天皇の参拝の場合、皇室の祖先神や歴代天皇が祀られているような神社に参拝することを「御親拝」、その他の神社に参拝する場合には「行幸」と、言葉を区別していた。
「行幸」とは天皇の外出のことであり、それ自体に参拝という意味があるわけではない。外出先が神社だったくらいの扱いである。

本来、天皇が靖国神社を参拝しても親拝にはならない、行幸である。
天皇尊び敬っているはずの人が「天皇陛下に靖国神社を御親拝してほしい」などというのは、誤用になっていると言わざるをえない。

例えば、靖国神社、護国神社といった神社の祭神は臣民(人間)であり、天皇にとっては臣下であるので、この場合は親拝ではなく行幸というのが適切だとされている。しかし、靖国神社や護国神社の場合でも、親拝という語はよく使われている。


そもそも論

「参拝」は「参る」と「拝む」がくっついた用語であると思うが、「参る」と「拝む」は「行く」と「見る」の謙譲語である。
謙譲語というのは自分がへりくだる、自分の方が立場が下であることを強調することによって、結果相手を上げる。
尊敬語は自分の立ち位置は同じで相手を上げる。

「行く」の尊敬語は「行かれる」「おいでになられる」「いらっしゃる」、謙譲語は「参る」や「伺う」、丁寧語は「行きます」。
「見る」の尊敬語は「ご覧になる」、謙譲語は「拝む」や「拝見する」、丁寧語は「見ます」。

同じ意味の謙譲語でも、誰を目上として敬意を払って話しているのかという違いがある場合がある。
例えば会話の相手の上司や先輩を目上とみている場合と、会話の相手の上司や先輩と向かう取引先(行動や動作の対象)を目上とみている場合がある。
 「部長、そろそろ駅まで参りましょう」←目上は部長
 「部長、そろそろA社に伺いましょう」←目上はA社

また「参る」は行き先が不特定で一般的なものに用いることができ、「伺う」の場合には特定的という特徴もある。
神社に参拝というのは前者であり、神社の祭神が目上でその他の者を一律に下げているということ。

これを踏まえると「参拝」という用語は、「拝みに参りましょう」「拝みに参る」ということであり、目上となっているのは会話相手か神社や神社の祭神ということになる。
一番偉いはずの天皇が自らへりくだるのはおかしいし、天皇を主語にした文章に「参拝」を使うのもおかしい(例:天皇が参拝した)。
天皇の家来が天皇に対して「陛下、そろそろ靖国神社に参拝致しましょうか」と言うならば分かる。全部自分を下げて会話相手の天皇を上げている。

「陛下」というのは「屋外にある階段の下」という意味。かけ離れていることを表す。転じて宮殿の階段の下のいる者、つまり王や皇帝など君主の部下や家来ということである。
部下や家来が自分をへりくだった言い方。謙譲語のようなもの。
昔は絶対的な権威権力を持つ君主に対して直接名前やら役職で呼ぶことすら憚れたという背景がある。
尊敬語的な言い方は「皇上」となる。
「圣上」という尊称もあるが、これは一塊の土(家来や下々の者)の上にある御方という謙譲語と尊敬語が合わさったような呼び方。
でも昨今は「圣」という漢字が「聖」の簡体字となっているようなので、「圣上」にはへりくだる意味がなくなり尊敬語的になっている。

結構前から使っているから誰も違和感を持っていないようだが、私は「陛下」という尊称には違和感ありまくりである。

「親拝」は、親を拝むという意味。
天皇が歴代天皇が祀られている神社に「親や近親者を拝みに行く」ことであり、自分の祖先に敬意を表すためにへりくだって謙譲語の「拝む」が用いられる。
「親拝」という言葉を目下の者が使う時には「親拝」自体に「御」を付けて尊敬語にしてしまうわけである。

「行幸」は天の恵み・天の幸(天子)が行かれるということ。天子は君主のこと(その他の人間は天の子ですらないということ)。尊敬語的。神社にいくという意味はない。
でも「幸」の漢字は手枷(手の拘束具)の象形文字。
死刑執行の「執」、報復の「報」、「報い」などに幸という字が入っている。
「手枷を解いてやること」から「幸せ」という意味に繋がったとも言われる。
犯罪人を捕まえたので、他の人々が幸せであるという意味もあるかもしれない。
天皇の外出ならば、「自由のない外出」という意味もあるのかもしれない。


御社と弊社

ビジネスマンだったら馴染みある御社や弊社という言葉。
この社は、神社の社ではなくて、会社の社である。

「御社」は尊敬語となる。

弊社の「弊」という漢字にはあまり良い意味はない。それを自分の社に付けることで、自社を下げて相手の社などを上げる。
謙譲語の一種である。
弊社というのは一般的には上げる特定の相手がいる場合に用いる語である。

立場に特に上下関係を付ける必要がない場合や意識的に上下関係を付けない場合には「当社」を用いる。

「我社(我が社)」も「当社」と同じように使うこともあるが、もともとが「私の社」という意味なので、社長とか会社の偉い人が言う感じの言葉である。

「陛下」というのは「弊社」と同様に謙譲語(謙遜語)であるので、同じような使い方をすべきもの。
例えば日産の誰かがどこか取引先に「弊社のごたごたでご迷惑をお掛けしております」と言ったとする。
相手の社名を出しているわけでもなく御社とも言っていないが、「弊社」を用いることで相手を上げている。
だけどそれを言われた相手も、日産問題を報道するメディアも「日産弊社」とは言わないし、ましてや日産がへりくだったその相手(例えばB社とする)を第三者が「B弊社」と言ったりなんかしない。
「天皇陛下」というのはそれくらいおかしな言葉である。
特に「陛下」という語には上下関係を表す「下」という漢字が付いているにも関わらず、誰も違和感を感じない。不思議に思わない。
天皇という存在に疑問を持ってはいけない、異議を唱えてはいけない、言われたとおりに尊重しなければならないと、完全に鵜呑み・洗脳・思考停止状態に陥っていることが分かる。









by yumimi61 | 2019-02-01 15:31 | 靖国神社と神社本庁

続続続・靖国神社

靖国神社参拝日

1975年8月15日、第66代首相の三木武夫首相が靖国神社を参拝した。
これが大きく取り沙汰されることになり、以後喧々囂々たる議論となっていく。

靖国神社では春と秋に例大祭が行われている。
例大祭とはその神社において最も重要な祭祀であり、多くは由緒ある日にちに行われる。

創建当時は靖国神社は、1月3日(鳥羽伏見の開戦日)、5月15日(彰義隊潰走の日)、5月18日(函館五稜郭開城日)、9月22日(会津藩降伏の日)が例祭の日だった。
日露戦争後は、4月30日(日露戦争陸軍凱旋観兵式)、10月23日(日露戦争海軍凱旋観艦式)を例大祭の日としていた。
第二次世界大戦後は国家神道が禁止され、靖国神社の存続自体が危うかった(靖国神社を救ったのはカトリック教会と言われている)ので、例大祭日も軍事に関係しない日に変更した。

1946年3月21日春分の日と、1946年9月24日秋分の日。これを旧暦換算し、4月22日(春季)と10月18日(秋季)が例大祭の日に選ばれた。
直接軍事には関係した日ではないが、皇室に深く関係した日である。
何故かと言うと、「皇霊祭」が春分の日と秋分の日に行われているからである。

皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ。大祭
毎年2回、春分日に春季皇霊祭、秋分日に秋季皇霊祭が斎行される。

1878年(明治11年)にそれまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋に纏め奉祀した。1908年(明治41年)9月19日制定の「皇室祭祀令」では春季皇霊祭・秋季皇霊祭ともに大祭に指定。同法は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されたが、1948年(昭和23年)以降も宮中では従来通りの春季皇霊祭・秋季皇霊祭が行われている。

また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、春季皇霊祭は1879年(明治12年)から1948年(昭和23年)まで、秋季皇霊祭は1878年(明治11年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日(休日)であった。以降も「国民の祝日に関する法律」により、それぞれ春分の日・秋分の日と改称されて国民の祝日となっている。


現在の靖国神社の春の例大祭は4月21~23 日で、最も重要な日は天皇から勅使が派遣される22日としている。
秋の例大祭は10月17~20 日で、最も重要な日は天皇から勅使の派遣がある18日としている。


首相参拝の意味

明治2年に創建された靖国神社であるが、記録によると首相が初めて靖国神社を参拝したのは第二次世界大戦後のこと。戦前の首相は参拝していない。
これはすなわち靖国神社は天皇が参拝するものという認識にあったのだと思う。
大日本帝国憲法制定から第二次世界大戦終結までは軍事でも政治でも国のトップは天皇だった。
国の代表者が参拝するとしたら、それは天皇だったということである。

それが第二次世界大戦が敗戦で終結するや否や、「戦争の責任は天皇ではなくて政治家にあるでしょう」というくらいな感じになったんだと思う。
天皇や皇族が戦争責任から逃れる必要があったからだ。
だから靖国神社に首相が参拝をするようになった。
戦争が終わってすぐに首相に就任したのは皇族だった。つまり皇族が天皇や皇族の責任を他になすりつける道筋を付けたということであろう。

東久邇宮稔彦王
1887年(明治20年)、久邇宮朝彦親王第九王子として誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もおり親友となる。
香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。

宮家の末子として本来ならば成人の後臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王の降嫁先を確保するための特例措置として、1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。こののち陸軍入り。

近衛歩兵第3連隊長・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。
日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加した。
1939年(昭和14年)に陸軍大将に昇進。
1941年(昭和16年)12月に防衛総司令官へ就任。



第43代 東久邇宮稔彦王 (1945年8月17日 - 1945年10月9日)
1回ー1945年8月18日

第44代 幣原喜重郎 (1945年10月9日 - 1946年5月22日)
2回ー 1945年10月23日、1945年11月20日

第45代 吉田茂(1946年5月22日 - 1947年5月24日)
この期間にはなし

第46代片山哲、第47代芦田均は参拝なし

第48-51代 吉田茂(1948年10月15日 - 1954年12月10日)
5回ー1951年10月18日、1952年10月17日、1953年4月23日、1953年10月24日、1954年4月24日

第52-54代鳩山一郎、第55代石橋湛山は参拝なし

第56-57代 岸信介(1957年2月25日 - 1960年7月19日)
2回ー1957年4月24日、1958年10月21日

第58-60代 池田勇人(1960年7月19日 - 1964年11月9日)
5回ー1960年10月10日、1961年6月18日、1961年11月15日、1962年11月4日、1963年9月22日

第61-63代 佐藤栄作(1964年11月9日 - 1972年7月7日)
11回ー1965年4月21日、1966年4月21日、1967年4月22日、1968年4月23日、1969年4月22日、1969年10月18日、1970年4月22日、1970年10月17日、1971年4月22日、1971年10月19日、1972年4月22日

第64-65代 田中角栄(1972年7月7日 - 1974年12月9日)
5回ー1972年7月8日、1973年4月23日、1973年10月18日、1974年4月23日、1974年10月19日

第66代 三木武夫(1974年12月9日 - 1976年12月24日)
3回ー1975年4月22日、1975年8月15日、1976年10月18日

第67代 福田赳夫(1976年12月24日 - 1978年12月7日)
4回ー1977年4月21日、1978年4月21日、1978年8月15日、1978年10月18日

第68-69代 大平正芳(1978年12月7日 - 1980年6月12日)
3回ー1979年4月21日、1979年10月18日、1980年4月21日

第70代 鈴木善幸(1980年7月17日 - 1982年11月27日)
9回-1980年8月15日、1980年10月18日、1980年11月21日、1981年4月21日、1981年8月15日、1981年10月17日、1982年4月21日、1982年8月15日、1982年10月18日

第71-73代 中曽根康弘(1982年11月27日 - 1987年11月6日)
10回ー1983年4月21日、1983年8月15日、1983年10月18日、1984年1月5日、1984年4月21日、1984年8月15日、1984年10月18日、1985年1月21日、1985年4月22日、1985年8月15日

第74代竹下登、第75代宇野宗佑、第76-77代海部俊樹、第78代宮澤喜一、第79代細川護煕、第80代羽田孜、第81代村山富市は参拝なし。

第82-83代 橋本龍太郎(1996年1月11日 - 1998年7月30日)
1回ー1996年7月29日

第84代小渕恵三、第85-86代森喜朗は参拝なし。

第87-89代 小泉純一郎(2001年4月26日 - 2006年9月26日)
6回ー2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日

第90代安倍晋三(2006年9月26日- 2007年9月26日)
この期間にはなし

第91代福田康夫、第92代麻生太郎、第93代鳩山由紀夫、第94代菅直人、第95代野田佳彦は参拝なし。

第96-98代 安倍晋三(2012年12月26日 - 現在)
1回ー2013年12月26日


首相は靖国神社の春(4月)と秋(10月)の例大祭に合わせて、あるいはその前後に参拝するのが習わしになっていた。
首相が国の代表者として靖国神社を参拝するという意味合いが少し変わってきたのが、三木首相の1975年8月15日の参拝だった。


終戦記念日と私的参拝

第二次世界大戦の日本が定めた終戦記念日8月15日。
実はこの日はポツダム宣言受諾日でも条約締結日でもない。
いわば「玉音放送記念日」。分かりやすく言うと「天皇ラジオ放送記念日」なのである。

玉音放送
天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。
特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、日本で唯一の放送局だった社団法人NHK(日本放送協会)(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の音読放送を指すことが多い。
この放送は、太平洋戦争における日本の降伏を日本国民に伝えるもので、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を終戦の日あるいは終戦記念日と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に第二次世界大戦が終結したのは、それから半月後の降伏文書が調印された同年9月2日のことである。


でもまあ日本においては終戦記念日として長年特別な日になってきた8月15日。
この日に合わせて初めて靖国参拝をしたのが三木首相。
だからこそ取り沙汰されたわけである。
この時、三木首相は首相としての公式参拝ではなく「私的参拝」である明言したのである。
三木首相は「私的参拝の四原則」として次の4つを挙げた。

(1)公用車の不使用
(2)玉串料は私費による
(3)記帳は個人名のみで肩書きは書かない
(4)公職者を随行させない

この終戦記念日の私的参拝が原因だという見解はないようだが、ほどなくして政界では「三木おろし」と呼ばれる激しい倒閣運動の風が吹き荒れた。


他の日はよくて8月15日の参拝がなぜ問題なのか

8月15日は第二次世界大戦の終戦記念日。
靖国神社に祀られているのは戦死者。
参拝したのが在任中の首相。

この条件が揃っているので、「政教分離」に反しているではないか!というのが建前の問題論である。政治と宗教が分離されていないということである。
だけど憲法には「政教分離」という言葉を用いた条文はない。
「政教分離」の背景には戦後にGHQから国家神道が廃止されたということがある。(国家神道の廃止はGHQのマッカーサーよりもアメリカ政府が強く主張していたことだった)
憲法上「政教分離」を意味していると捉えられているのは第20条である。

第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


宗教法人としての神社か、それとも国家機関か

憲法第20条に抵触していないことを主張するために三木首相は「私的参拝」と言ったのである。
政治に関係する公人ではなく私人として宗教法人の神社に参拝したので問題ないと主張したわけである。

回りくどいが、政教分離に抵触していると問題視されたことにより指し示されたのは、「靖国神社は宗教法人の神社」ということである。
反対説になるが、首相の公式参拝が認められるとするならば「靖国神社は宗教法人ではなく国家機関」であるということになる。

それまで歴代首相の公式参拝は認められてきた。また三木首相も8月15日参拝の4か月前の春の例大祭にも参拝しているが問題視されなかった。
つまり三木首相は「靖国神社は国家機関になっている」という現実を世間に突きつけたわけである。

宗教法人としての神社か、それとも国家機関か、その問題を突きつけるというか、問題提起するには8月15日という特別な日に参拝するのが最適だったのだ。







by yumimi61 | 2019-01-30 16:30 | 靖国神社と神社本庁

続続・靖国神社

戦力保持の裏ワザ

天皇は日本国民ではない。
現在の憲法では象徴として定められていて、その地位は「国民の総意」によるものと憲法に記載されている。
だけど「国民の総意」と勝手に誰かが決めただけで、最高裁判所裁判官国民審査のように実際に国民の意思が確認されたことは一度としてない。
でもまあ、今現在確認したとしても、「国民の総意」となるのはまず間違いないだろうと思う。
戦前戦後、日本人は国家神道、あるいは教育や文化を通じて、そのように洗脳されており、天皇制をほとんど誰も疑わないような状況となっている。

国民でなく象徴の天皇は憲法で定められている日本国民の権利と義務の範囲外にある。
宗教に属さない国家神道、宗教法人や神社に属さない伊勢神宮と同じく別格なのだ。

だから日本国民や日本政府が憲法上9条に則って戦力(武力・軍隊)を持てずとも、現状でも天皇個人だったら持つことが可能である。
これまでの戦争は国家神道を通じて天皇のもとに国民が集められ行われてきた。もっと言えば天皇のためにと言って戦わされた。

だけど現在は天皇の軍隊が可能だとしても、国民をその軍隊の軍人にしようとすると現行憲法の9条がネックになる。
何故かと言うと、憲法9条の主語が日本国民だからである。日本国民は国際紛争を解決する手段としての武力行使を永久に放棄すると定めているから。
天皇の軍隊に入ることを断る理由が最高法規に規定されている。
ひょっとすると本当は断りたくない、天皇の軍隊に入って戦争したいという人もいるかもしれないが、それも9条が否定している。日本国民である以上武力行使は出来ない。
天皇と皇族だけで編成された軍隊では何とも心許ないし、責任を被せる国民がいないのも都合が悪いだろう。
よって現状では政府はもちろんのこと、天皇が軍隊を持って戦争を仕掛けるなり応戦するということが出来ない。(日本国民以外を軍人として集めれば可能ではあるが)


憲法改正においては「非常事態条項」を追加するという議論もなされていると思うが、この「非常事態条項」こそ恐ろしい気がする。
非常事態ならば9条を理由に断ることが許されなくなりそうな感じがする。


宗教に非ず

明治維新以後に確立した国家神道は宗教という位置づけに置いていなかった。宗教ではないのだ。宗教を超越したもの。
その国家神道のもとに戦争は行われ、靖国神社は「戦争の亡霊」である。
と同時に靖国神社は、武家政権を倒した者を礼賛する場、武家政権否定の象徴的な場、公家政権や天皇信奉の場である。
靖国神社は本来宗教的な場所ではないので、誰が参拝したって憲法第20条に抵触することはない。

第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

靖国神社に参拝に行くということは、戦争で亡くなった人の霊に会いに行くだけのことである。戦争で亡くなった人の魂と会話するのである。
宗教は関係ないのだが、靖国神社が神社と名乗り、神社神道という宗教と勘違いさせやすいからややこしくなる。

そもそも皆さん、宗教行為を行っているという意識で神社に参拝に行きますか?
祭神や宗派を選んでお参りしてますか?
氏子ですか?
神社神道自体が宗教としては非常にあやふやな位置づけにある。
だから靖国参拝を問題にすれば、「そんな時ばかり(靖国神社参拝の時だけ)宗教を持ち出すか!」という感じになってしまう。
正直、意味のない、生産性のないやり取りが行われている。

生産性がないと言ったが、日本に侵略や占領された外国の人が日本の天皇や政治家が靖国神社を参拝することを問題視したり抗議することは理解できる。
過去の戦争を正当化されたりするのは嫌だろうし、靖国神社参拝に再び戦争の影を見てしまうという心情も分からなくはない。


靖国神社を宗教ではなく国家機関として捉えると

国の政治家が、国家のために殉職した人の慰霊のために、多くの霊が祀られている靖国神社を参拝するということは全くおかしなことではない。首相が国家を代表して公式参拝する、それはとても合理的なことである。

この場合、議論の的になるのはむしろ天皇の参拝である。
靖国神社への参拝を国政に関与していると考えれば現行憲法に抵触するし、参拝を憲法が定めている天皇国事行為の「儀式を行うこと」と考えれば抵触しないということになる。
戦前の大日本帝国憲法であれば、天皇は国政を行う権限全てを持っていたので、国政に関与するのは当然のことだった。
靖国神社にはその時代の人達の霊が祀られている。
そして昭和天皇であれば、大日本帝国憲法でも日本国憲法でも天皇だった。

憲法第4条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。


靖国神社国家管理のための法案提出

靖国神社は宗教の神社なのか国家機関なのかがとても曖昧である。
なぜ曖昧なのかは全権を保有していた天皇の戦争責任を追及せずに天皇制を維持し、天皇の存在意義(象徴とは何かということ)・皇室の宗教・皇室祭祀・伊勢神宮・神社神道などを曖昧な位置づけのまま置いているからである。

戦後は国家神道が禁止されたので、靖国神社も国家管理を外れるしかなく、表向きには宗教法人の神社に甘んじているが、この日本には靖国神社を単なる宗教法人としての神社にしておきたくないという人が少なからず存在する。
宗教ではなくて国家と結び付けたい、国家に承認されたいという人がいる。

現実的に靖国神社を国家管理とすることを定めた「靖国神社法案」が提出されたことがあった。
1969~1974年の間に5回ほど自民党議員立法案として提出されている。
政府法案ではなかったようだが、この時の首相は安倍首相の大叔父にあたる佐藤栄作首相であった。

神社本庁および日本遺族会が中心となって「靖国神社を国家護持による慰霊施設とする」運動が展開された。
1964年、自由民主党内閣部会に「靖国神社国家護持に関する小委員会」が設置され、靖国神社国家管理について議論される。1969年から1972年にかけて議員立法案として自民党から毎年提出されるも、いずれも廃案となる。1973年に提出された法案は審議凍結などを経て、1974年に衆議院で可決されたが、参議院では審議未了となり廃案となった。


政治家の靖国参拝が問題視された最初は上記法案が廃止となった翌年1975年のことだった。
それ以前にも天皇や首相が靖国神社を参拝していたが、別に問題として取り上げられることはなかった。
降ってわいたように戦後30年目の1975年に問題視されたのだ。





by yumimi61 | 2019-01-29 14:41 | 靖国神社と神社本庁

続・靖国神社

靖国神社と神社本庁の関係

靖国神社は明治維新後に、明治天皇や明治政府、その政策と密接な関係のもと創建され今日に至っている。
神社本庁も皇室と深い関係にある。
しかし靖国神社は神社本庁の包括下(傘下)の神社ではない。
なぜか。

それは神社本庁が1946年に設立された新興宗教団体だからだろう。
神社本庁は第二次世界大戦終結後に国家神道が禁止されたので、それに対応するため政教分離し、民間の宗教団体として設立され、全国の神社を通して「天皇国・日本」を国民に刷り込んできたというか教え導いてきた。

しかし明治政府が確立した国家神道というのは、もともと宗教という位置づけにない。
国家神道は宗教の上に広く横たわるもの、宗教の上位にある絶対的存在。
伊勢神宮が「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされていることと同じようなことである。別格なのだ。
宗教ではなく道徳や倫理と言うことも出来なくはないが、国家が指導教育し陣頭指揮を執ってきた。そしてその国家神道は戦争に深く関わってきた。

一方の靖国神社は他の何でもない、まさに「戦争の亡霊」そのものである。
そして戦争が国家神道と靖国神社を繋いでいる。
戦争は国家神道のもとに行わなわれたのであり、民間の一宗教団体のもとで行われたわけではない。
天皇以外のものが武力を持つことを否定し天皇が武力を掌握したのが大日本帝国憲法下の日本である。
戦争に負けて多少環境が変わることはあっても、その意識は少しも変わることはなかったのだ。
その強い信念みたいなものが靖国神社を単立神社として存在させたのだと思う。

国家神道ー戦争ー靖国神社

国家神道は宗教でなかったのだから、宗教団体である神社本庁に属することは出来ないということなんだろうと思う。
国家神道を宗教と捉えるといろんなことを見誤る。
おそらく皇室は国家神道を宗教と捉えていないからこそ宗教であるキリスト教と親和できるのだと思うが、諸外国をはじめ一般的には伊勢神宮だってなんだって神社神道という宗教だと思っているはずである。そうでもないんだろうか。
でももし宗教だと思っていないとしたら皇室の祭祀(神事や祭事)を人々を一体なんだと思っているのだろうか。国家神道として認めているということだろうか。
国家神道のもといずれ戦争するのもよいだろうと思っているんだろうか。
とても不思議である。

ともかく靖国神社が神社本庁の傘下になっていないと言っても、神社本庁と方針や意見が合わずに後年離脱した神社とは立場が違う。

靖国神社は単立神社として神社本庁との包括関係に属していない。
これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断によるものである
このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている
例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。例えば第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受けることになる。



宗教団体である「神社本庁」の歴代総裁は女性

NEWSポストセブン 2016年12月20日神社本庁のトップを代々皇族出身女性が務めている経緯

戦後誕生した神社本庁の歴代総裁は、初代の北白川房子さん(明治天皇の第七皇女)に始まり、鷹司和子さん(昭和天皇の第三皇女)と続き、池田厚子さん(昭和天皇の第四皇女)で三代目。これまで皇族出身の女性たちが推戴されてきた。

 神社本庁の総裁は、伊勢神宮の「祭主」も務めてきた。祭主とは伊勢神宮のみに置かれた最高の役職であり、神宮の祭祀に奉仕し、天皇のお心を伝えるとともに、伊勢神宮の神職をまとめる立場である。最近では今上天皇の長女で、清子内親王だった黒田清子さんが「臨時神宮祭主」に就任した。


2017年6月19日付で、池田厚子さん(昭和天皇の第四皇女)が伊勢神宮祭主を退任し、黒田清子さんが就任したことが公表されている。
伊勢神宮の祭主と神社本庁の総裁は兼任となるようなので、ということは現在の神社本庁総裁は黒田清子さんということになる。
神社本庁は公式サイトなどに総裁をはじめ役員など一切公表していない。

皇室の女性は結婚して(しなくてもよいけれど)皇籍離脱し民間人になると言ったりするが、私達と同じ純粋な民間人になるわけではない。
皇室に深く関係する日本赤十字社の名誉職、伊勢神宮の祭主や神社本庁の総裁になったりするのだ。
そうした職が一般の民間人に開かれていない限り、純粋な民間人とは言えない。
民間カモフラージュに女性を利用しているのではないかと思うくらいである。


神社本庁の統理

総裁の下の役職になる。
2011年にこの職に就任したのが靖国神社の祭神になっている北白川宮永久の第一王子(長男)である北白川道久さんだった。

北白川道久
1940年(昭和15年)に父・永久王が航空事故により薨去。3歳で北白川宮家を継承。未成年のため終戦時の宮家の当主の中で唯一の非軍人だった。

第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し、以後は北白川道久となる。
1960年(昭和35年)学習院大学政経学部卒業後、東京芝浦電気(東芝)に入社し、東芝国際交流財団専務など歴任し2000年に定年退職。

2001年(平成13年)4月、伊勢神宮の大宮司に就任。2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めている。2007年(平成19年)7月に退任。

霞会館理事長の他、学習院の同窓会である学習院桜友会理事、中等科・高等科桜友会会長、日本会議顧問を歴任。

2011年(平成23年)6月4日付けにて神社本庁統理に就任した。
2018年10月20日に16時、急性肺炎のため死去。81歳没。


後任の統理は、鷹司尚武さん。

鷹司尚武 1945年生まれ
養母の鷹司和子は昭和天皇の第三皇女であり、今上天皇は義理の叔父にあたる。
松平乗武(旧美濃岩村藩大給松平家当主松平乗長の次男)・章子(ふみこ、鷹司信輔の次女)夫妻の長男として生まれるが、尚武が誕生して間もなく父は戦死した。その後、子供の無かった鷹司平通・和子夫妻の養子となり、鷹司家を継ぎ第28代目当主。

学習院初等科・中等科を経て1964年、学習院高等科卒業。1970年、慶應義塾大学工学部卒業。1972年、同大学院工学研究科修了。同年、日本電気株式会社(NEC)に入社した。NECネットワークスソリューション開発事業本部長、NECネットワークス執行役員を経て、NEC通信システム社長に就任した。2007年6月に退任。
翌月、戦後9人目となる伊勢神宮大宮司に就任し、2017年7月に退任した。日本会議の顧問も務めている。



宗教法人「神社本庁」としての代表役員は総長という職になり、現在は田中恆清さんが就任している。

田中 恆清 1944年生まれ 神職
京都府生まれ。1969年國學院大學神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年より石清水八幡宮宮司。
2002年京都府神社庁長、2004年神社本庁副総裁を経て、2010年より神社本庁総長。

全国八幡宮連合総本部長、一般財団法人日本文化興隆財団理事長、一般財団法人神道文化会会長、公益財団法人京都文化財団評議員、一般社団法人日本国際文化協会理事長、公益財団法人日本宗教連盟理事、世界連邦日本宗教委員会会長。日本会議副会長。






by yumimi61 | 2019-01-28 23:25 | 靖国神社と神社本庁

靖国神社

靖国神社のルーツ

日本古来の自然神的な信仰、渡来した仏教、自然信仰に多くの宗教を取り込み日本で独自に形成された神仏習合、宗教は時代によって少しずつ形を変え、カタチ(組織や建物や像など)を作り出してきた。
明治時代には神仏分離で神仏習合が禁止されたり、仏教が忌み嫌われ廃仏毀釈が行われるなど、強制的に強引に形やカタチが変えられた時期もあった。
だから昔ながらのものがそのままの形・カタチで残っていると言い切るのはちょっと怪しいが、それを差し引けば成立してから1000年以上の歴史を持つ神社仏閣などは結構存在する。

それに比べると「靖国神社」というのは明治維新をきっかけに誕生しており、それほど長い歴史を持つわけではない。
明治天皇が創建を命じた「鎌倉宮」「吉野神宮」も同様の事が言える。

靖国神社の創建 明治2年(1869年) 

一番最初は明治維新に功のあった志士を祀るために創建された。
要するに武家政権を倒した者を礼賛することが目的、もっと言えば武家政権否定の象徴的な場である。
それこそ長い長い日本の歴史を否定しているとも言える。
この創建ルーツを考えると、旧幕府など武家政権に関係ある者が喜んで参拝する神社ではないかもしれない。


靖国神社への改称

創建当初は「靖国神社」ではなく「東京招魂社」という名称だった。
「靖国神社」に改称されたのは1879年(明治12年)。
命名者は明治天皇で、神社名にある「靖国」は『春秋左氏伝』第6巻の中の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としているそうだ。
元号もそうだけれど中国の歴史書から引用している。
漢字は中国から入って来たものなので意味を持たせた上で漢字で命名しようと思えば、中国の歴史書の漢文を参考にするというのも理解できる。
裏を返せば日本の歴代の天皇や為政者は、古事記や日本書紀を始めとした日本の歴史書は信を置くに足りないと思っていたということに他ならない。重要な言葉をそれらから引いてくるわけにはいかなかったということである。

改称が行われた1879年(明治12年)6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲ちて各も各も死亡にし其の高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食すが故に靖国神社と改称」とある。

(私による現代語訳)
赤き真っ直ぐな真心を持ち、家を忘れ、身を投げうち、それぞれが死さえ厭わず君主に尽くしたという偉大な功績によって、大皇帝(大天皇)の国が平穏な国となることを(大天皇は)知っていらっしゃるので靖国神社と改称したのです。

歴代天皇が詔勅(公務でのお言葉)で非常によく用いた言葉に「明き浄き直き真の心」というものがある。
「明るく清らかで素直な真心」という意味。
古事記・日本書紀・万葉集に於いてもよく使用されていて、これが徳の三性質と捉えている。
靖国神社改称時の祭文には「明き」ではなくて「赤き」とあるようなので、情熱を表現しているのだろうと思う。
「家を忘れ」には、家に思いを馳せるなんていう私心を捨てることが暗に推奨されている。それは世襲の否定にも繋がるので、やはり武家政権の否定を意味していたのだと思う。
また「家を忘れ」という言葉を入れたことにより、「赤き」という言葉が「赤い血(血縁)」ではなくて、「志を同じにした仲間の情熱」であるということも分かる。その「情熱」は「戦いの末に流す血」に繋がるのだ。

ただ祭文の改称説明にはやや不可解な点がある。
中国歴史書の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としたはずなのに、説明では「安国と知食すが故に靖国神社と改称」と述べている。
「靖」という漢字には澄みきって静まった様を表す。靖国と言えば「平静に治まっている世の中」といった感じになるだろう。
「安」にも安らかや穏やかといった意味があり、「安定的に治まっている世の中」という似たような意味にとれる。
読み方として「やすんずる」で共通する。
しかし靖国と命名するのだからそこは「靖国(靖んずる国)と知食すが故に靖国神社と改称」と書くべきであろう。
「安国(安んずる国)と知食すが故に靖国神社と改称」では微妙に辻褄が合わない。

どうして「靖国と知っていらっしゃる」を「安国と知っていらっしゃる」と書いたのだろうか。
「安」という漢字は女の人が家の中にいる様子が表されたものである。
ということは、赤き真っ直ぐな真心を持ち、家を忘れ、身を投げうち、それぞれが死さえ厭わず君主に尽くしたという偉大な功績が、女性を家の中に留めおき平穏な大皇国を達成すると知っていらっしゃるという意味?
女性が家の外に出ると世を乱すと思っているのか?
ちなみに「知食す」(知ろし食す・しろしめす)という言葉は、知っているの最上級の尊敬語(天皇などに使う)。

「靖国」でも「安国」でも訓読みは「やすくに」である。
では中国由来の音読みではどうか。
「靖国」は「セイコク」であり、「安国」は「アンコク」である。


英霊と正気

嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。

この神社が一般的な神社と違うのは祀っている「モノ」が明治維新の志士や、その後の戦争で戦死した軍人であるということ。
神社で祀っているモノだから普通ならば「祭神」と書いたり呼べばいいはずなのだけれど、それが一般人だからか、それとも人数が多すぎるので神としての価値が薄まると思ったのか、通常は「神」ではなく「霊」や「魂」といった取扱い方(呼び方)をしている。
(人数の数え方としては神の数の単位である「柱」を用いている)

靖国神社と言えば「英霊」でお馴染みだが、これは日露戦争後に用いられるようになった用語らしい。
日露戦争の勝利がいかに明治維新後の日本の箔付に貢献したかということがよく分かる。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。

正気の歌?
正気じゃないぜ まだここにいて~

「正気(せいき)の歌」は、中国で忠臣の鏡とされた文天祥が詠った歌。
『文天祥の正気歌に和す』というのは幕末の水戸の儒学者で尊皇攘夷論者・藤田東湖が執筆した書。
日本の維新の志士たちだけでなく、第二次世界大戦終結までは愛国者に愛唱されていた。
正気(せいき)とは天地人に宿る根本的な正義と人倫を司る「正大な精気」のことらしい。

文天祥
中国南宋末期の軍人、政治家である。 滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。

南宋(1127-1279年)はその名の通り、現在の中国領土の南半分くらいにあった国(中国)。
元(1271-1368年)はモンゴル帝国の一部となってしまった中国(モンゴル人統治下の中国領)。

中国的な正気の歌?
愛する女性のため "我愛你(ウォーアイニー)" "我愛你(ウォーアイニー)" 泣いた~


靖国神社の謎

靖国神社にはざっと247万人ほどの志士・兵士・軍人らが祀られているそうだ。
神社の本殿内において神様が鎮座している場所を神座という。
椅子でも座布団でもよいけれど、通常は1人に付き1つの席(座)というものが必要なはずである。抱っこして座ることが許されるなんて、せいぜい赤ちゃんと乳幼児くらいなものだろう。
それを思えば神座だって同じで、祭神の数だけ座があるべきだろうと思う。
しかし靖国神社の場合、祀っている神(霊)の人数(柱)があまりに多すぎる。1人1つの座はない。
ということで1つの神座に約247万の神が座している。満員電車も顔負けな状態。

ところが1959年(昭和34年)に靖国神社の神座が増えたのである。
しかしそこに座ったのは台湾や中国といった占領外地に創建した神社などに祀られていた北白川宮家の人物2名。彼らは軍人でもあった。

天皇以外が武力を持つべきではないという後醍醐天皇の理想を具現化した明治天皇。大日本帝国憲法以降、天皇は征夷大将軍ではないけれども「大元帥(国軍の総司令官)」となることが定められた。
国の全ての武力を掌握したのは天皇だった。
そして皇族も軍人として軍を指揮したのである。

創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

北白川宮永久王は北白川宮能久親王の孫にあたる。
北白川宮家というのは明治初期に伏見宮邦家親王の13番目男子・智成親王が新たに創設した宮家。
以前私は近衛師団について書いたことがある。

初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。
竹田宮の始祖となった人物の父・北白川宮能久親王は、初代近衛師団長・小松宮彰仁親王の実弟である(母親も同じ)。
現天皇家と繋がる久邇宮朝彦親王(4番目男子)は2人(8番目・9番目男子)の兄にあたる。異母。


北白川宮能久親王は台湾征討近衛師団長として台湾に出征していたし、北白川宮永久王も陸軍参謀職として蒙疆方面(モンゴル及び中国北部)へ出征していた。
外地の占領地に赴いていた2人。
しかし北白川宮能久親王の死因はマラリアで、北白川宮永久王の死因は演習中の航空事故。
純粋な戦死とは少々言い難いところがあるが、この2人が数多の霊(祭神)とは別の座で靖国神社の霊(祭神)となった。




by yumimi61 | 2019-01-28 13:40 | 靖国神社と神社本庁

単立

最初から単立神社

前記事に比較的規模が大きく有名な単立神社を挙げたけれど、今現在その中で最も有名な神社は「靖国神社」ではないだろうか。行ったことがあるかどうかは別としてニュースに取り上げられることが多いから。
靖国神社は当初から単立神社として存在している神社の1つである。

観光地として圧倒的な知名度を誇るのは「日光東照宮」だろうか。
こちらは1985年に単立神社となった。

「靖国神社」と同じく最初から単立神社であるのが「鎌倉宮」。


鎌倉宮の意味合い

「鎌倉宮」
神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 護良親王を祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮。

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した。



後醍醐天皇というのは新田義貞らが鎌倉幕府を倒した時代の天皇。
鎌倉幕府というのは武士が政治の中心にいた武家政権である。
武家政権は鎌倉時代から江戸時代までの約700年間に及ぶ政治形態。
河内源氏という武家の棟梁が長となった。
鎌倉幕府を打ちたてのも倒幕したのも同じ一族の者である。
新田義貞が倒幕に向かったのは、幕府が腐敗し始め強権的支配を行っていることに堪忍袋の緒が切れたからで、自身が権力を握りたいという野望がなかった。(だから結局出世しなかった)
その意味では同じ一族の足利尊氏のほうが多少そうした野望を持っていた。(だから鎌倉幕府倒幕後は後醍醐天皇に反旗を翻し武士を味方に付けて出世することができた)

後醍醐天皇というのは天皇であり、天皇が中心となる公家政権を目指し、かねてから倒幕の計画を立てていた。
その時にちょうど新田義貞らの反乱があったので、後醍醐天皇がそれを上手く利用したというか乗っかったというか、新田義貞らが後醍醐天皇に協力したというかで同じサイドに立つが、もともと新田義貞や足利尊氏は武士であり「公家政権を!」という立場で倒幕に向かったわけではなかった。
同じく武士であり後醍醐天皇の夢のお告げで後醍醐天皇サイドに立って活躍したのが楠木正成である。

倒幕が成功して天皇が自ら政治を行う「親政」の時代となったが(建武の新政・建武中興)、足利尊氏が武士を味方に付けて別の天皇を擁立したので(武家政権)、天皇が2人存在していた南北朝時代に突入することになる。
1336~1392年の56年間が南北朝時代で、その後は戦国時代に突入する。

「鎌倉宮」は武士から政治を奪い取った立役者でもある後醍醐天皇が祭神ではなく、その息子の護良親王である。
この親子、鎌倉幕府倒幕後、その仲が非常に険悪になっていった。
征夷大将軍というポストを親子で争い、武士を取りあいすることになったからである(父に付いていた武士を自分のものとしようと画策し奪っていった)。
後醍醐天皇は天皇以外の者が武力を持つことを否定し、足利尊氏も護良親王も敵に回すことになったが、足利尊氏は足利尊氏で後醍醐天皇と護良親王の両方から命を狙われているという危険な状態にあった。
そんな三角関係というか複雑な情勢の中で、結局は後醍醐天皇の命で護良親王が幽閉され、最後は足利尊氏の弟の家来によって殺された。

明治2年(1869年)2月という非常に早い段階で、後醍醐天皇と険悪な関係にあった息子を祭神とした神社を造営するように明治天皇が命じたというのは、やや不思議な感じがする。
当時の明治天皇は16歳。しかも武士による政治から転換したばかりの時代。当時の政治のあれこれを見ても当初は天皇にそれほど威厳があったようには思えない。
すなわち明治天皇の心情としては後醍醐天皇よりも、親に認められなかった親王寄りだったのではないかと考えられる。


後醍醐天皇が祭神なのは

後醍醐天皇を祭神としているのは奈良県にある吉水神社。
しかしこの吉水神社、もとは金峯山寺の格式高い僧坊「吉水院」だった。
金峯山寺というのは修験道の本山となっており、創立者は修験道の開祖である役小角と言われている。
以前書いたが、修験道というのは神仏習合であり、明治政府が禁止して弾圧してきた宗教である。

金峯山寺の僧坊時代には河内源氏の源義経が弁慶らと身を隠したことがあり、河内源氏とのと関わりがあった。
また後醍醐天皇も足利尊氏に反旗を翻された時に、京都から奈良に移り、「吉水院」の住職・宗信法印にの援護を受けて吉水院に行宮(政変時などにおける天皇の一時的な滞在場所)を設けた。⇒吉野の南朝
当時はまだ修験道聖地近くの奈良寄り大阪を本拠とする楠木正成や河内源氏一族の新田義貞が健在だった時期であり後醍醐天皇に付いていた。
従って彼らの縁もあり吉水院に行宮が設けられたのだと思う。
後醍醐天皇崩御後には、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に安置した。 像なので仏教的であり、もちろん祭神ではない。

しかし明治時代には神仏分離となり廃仏毀釈が行われ、とりわけ修験道は徹底的に弾圧された。
金峯山寺や吉水院は廃止に至った。
そして吉水院(修験道・金峯山寺の僧坊)は、後醍醐天皇社(神社)を経て、吉水神社に変わった。
祭神は後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方に付いていた武士の楠木正成、吉水院の住職だった宗信法印を配祀している。

明治時代に入ると神仏分離令と国家神道化の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、明治4年(1871年)5月に五条県が吉水院を神社に改めて吉野神社とする案を太政官政府に提出した。後醍醐天皇を祀る神社を別に作ることを計画していた政府は五条県の案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、奈良県が神社への改組を働きかけ、明治6年(1874年)12月17日に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。明治8年(1875年)2月25日に吉水神社に改称し、やがて村社に列した。


新たに「吉野神宮」を創建

〇〇神宮(例:明治神宮)や〇〇宮(例:鎌倉宮)という名称の神社は皇室に関係する神社。皇室の祖先神(例:天照大神)や歴代天皇のいずれか(例:明治天皇)を祭神として祀っている神社の事である。
神社を国家が管理していた時代は「神宮」の名称を名乗るには国の勅許が必要であった。
現在も神社本庁の傘下にある神社が「神宮」を名乗るためには、神社本庁の承認が必要である。

女子大生が行方不明になっているニュースで茨城県の鹿島神宮駅という名前が出ていたが、鹿島神宮は実在した天皇ではなくて日本神話に登場する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神としている。雷神、剣の神で、相撲の元祖とも言われる神。
先ほど引退した稀勢の里が土俵入りを奉納したのがこの鹿島神宮だったらしい。
それはともかく吉野神宮。

吉野神宮は明治天皇の命によって創建された神社である。

1889年(明治22年)6月22日 - 明治天皇が官幣中社吉野宮の創立を命じた。
1892年(明治25年)社殿造営完成、鎮座祭。
1901年(明治34年)8月8日 - 官幣大社に昇格。
1918年(大正7年)吉野神宮に改称


1892年に社殿が完成した際に、後村上天皇が吉水院(明治期に吉水神社となった)に安置した後醍醐天皇像を吉野神宮へ移したのである。そして遷座祭が行われた。
明治天皇が創建を命じた1889年(明治22年)というのは大日本帝国憲法が公布された年である(1889年2月11日公布)。
明治天皇が40歳になる年でもあった。
すなわち名実ともに天皇が権威権力を握った年、名実ともに君主国家、公家政権が誕生したその年に、護良親王ではなく後醍醐天皇の像を移して(像は仏教的なのだけれども)、新たに吉野神宮を創建させた。
それはとても象徴的な出来事であったはずだ。

後醍醐天皇は倒幕が成功し親政となると天皇以外の者が武力を持つことを否定した。
明治天皇はそれを具現化した。


階級が好きなのは明治政府以降の公家政権である

後醍醐天皇を主祭神としている「吉水神社」と「吉野神宮」は神社本庁の包括下(傘下)にある神社である。
しかし後醍醐天皇の息子である護良親王を祀った「鎌倉宮」は同じ明治天皇が創建させた神社ながら最初から神社本庁傘下の神社ではない。
「最初」というのがいつかというと、神社本庁が設立された第二次世界大戦後の1946年である。

また両神社は格も全然違う。
後村上天皇が後醍醐天皇像を安置したという「吉水院」を前身とする「吉水神社」ではなく明治天皇が創建して像を移転させた「吉野神宮」のほうが格が遥かに上である。

「吉水神社」(主祭神が後醍醐天皇)・・・村社 神社本庁の傘下
「吉野神宮」(主祭神が後醍醐天皇)(明治天皇が創建)・・・官幣大社 神社本庁の傘下(別表神社)
「鎌倉宮」(主祭神が護良親王)(明治天皇が創建)・・・官幣中社 単立神社

【神社の格】
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
 ↓
府社=県社=藩社>郷社>村社
 ↓
無格社

神社の格(階級)は第二次世界大戦後に一応廃止されてはいるが、「旧社格」などとして現実的には存在している。
神社に格(階級)を付けたのは公家政権であった平安時代と明治時代である。
戦後の神社本庁の時代になってからは、旧社格制度で格の高かった神社や規模の大きい約350社が「別表神社」として規定されている。

近代社格制度では、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分ける。伊勢の神宮は、「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされた。

官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社であって、官幣社と国幣社に分けられる。
奉幣とは天皇の命によって幣帛(布帛・衣服・紙・玉・酒・兵器など)が供与されること。のちには幣帛料として金銭ということもある。
官幣社には皇室(宮内省)から、国幣社には国庫から金品が支出されていた。
戦後は直接的に国家が神社に関わることが制限されたので、神社本庁が傘下の神社に幣帛を供与する。

では幣帛を供与する神社本庁の収入源は何なのかと言えば、「傘下の神社が売り上げる神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金」と「傘下の神社からの会費」である。

各神社が売り上げた「神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金の全額」は伊勢神宮に納付する。
納付された金額の半分が伊勢神宮の収入となり、残りの半分が神社本庁に入り、神社本庁はそれを調整して各神社に再分配するという。
神社本庁に入ってくる金額は35億円とか言われている。

「会費」は氏子数と参拝客数で決まるので、それぞれ異なる額となる。
神社本庁は1年間の予算(収入)として10億円ほどを見込んでいる。
ここでもいわゆる「上納システム」が採られている。

その他、各神社の厚意による寄附もあるそうである。









by yumimi61 | 2019-01-27 17:01 | 靖国神社と神社本庁

鎮守の闇

反対派の宮司死す(400万円の呪い?)

山口県熊毛郡に建設予定の上関原子力発電所の用地に四代正八幡宮の神社地(鎮守の森)が2割程度含まれており、その神社地の中には1号機の炉心予定地も含まれていた。
当時の林春彦宮司は土地の売却を神域だからと拒否。原子力発電所の建設自体にも反対していた。
すると宮司の任免権を持つ神社本庁が林宮司を2003年3月16日付で職務怠慢を理由に解任し、原発賛成派の宮司を就任させた。
この解任劇には林宮司の退任届が偽造されていたという内幕があった。

2004年10月6日、この新たに就任した賛成派の宮司によって正式に神社地の売買契約が締結された。これによって原子力発電所敷地造成区域内の全ての土地売買契約が終了した。
反対派の氏子らが神社本庁を相手取り「売却処分の禁止」を求める仮処分を山口地裁岩国支部にすでに申し立てていたが、契約が正式に締結したことを受けて、中国電力を相手取り「移転登記抹消」と「現状変更禁止」を求める仮処分を申し立てた。
また解任された林宮司の「地位保全」を求める仮処分も申し立てられ、それに関連して林宮司の退任届が偽造された件は「有印私文章偽造」として山口県地方検察庁に告発がなされた。
しかし証拠調べなどの捜査は行われず放置(中断)されたまま、山口県地方検察庁は2005年に2月に捜査中止を通知したとのこと。

林宮司の地位保全を求める審尋は非公開で行われており、被告側となる神社本庁は解任の理由を「宗教団体内の問題であり公開する必要は無い」と述べていたという。
しかし裁判所から宮司の解任理由を明らかにするよう再三促された神社本庁は、解任2年前の2001年に四代八幡宮の役員らに神社本庁に提出させたという「回答書」を裁判所に提出した。
林宮司はこの「回答書」についても虚偽の部分があることや、解任が正式な手続きを踏んでいないということを主張した。

「有印私文章偽造」についてすでに検察から捜査中止を通知されていた林宮司は、2006年4月今度は、退任願を偽造され正当な手続きを経ずに解任されたということで、山口県神社庁に約400万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
そのおよそ1年後の2007年3月29日、林宮司は山口地裁岩国支部で倒れ緊急入院した。そして3月31日帰らぬ人となった。
心労が重なったと言えば間違いとは言えないが不穏な噂もある。

一審判決が出るまでにはそれからまだ2年もかかった。2009年3月24日。
偽造を認めながら山口県神社庁への約400万円損害賠償請求は棄却した。
2010年9月の二審判決でも広島高裁が原告の請求を棄却した。


政教分離と神社本庁

前にも書いたが「神社本庁」は1946年1月に設立された新興宗教団体である。
明治期に設立された3つの団体「財団法人神宮奉斎会」「全国神職会」「皇典講究所」が元の団体を解散した上で合流。
3つの中では「皇典講究所」が一番古い団体なのでここが中心になったと思われるが、
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である。


「神社本庁」は、国家機関である内務省の外局であった「神祇院」の後継的存在であるが、GHQにより国家神道に制限が加えられ神道に政府が大ぴっらに関与することが出来なくなったので、「神社本庁」は民間の宗教法人という位置づけで設立され、国家は政教分離を謳い、政教の教への関与は皇族が担当した。
形式上分けているだけなので、当然「政教」はどちらにも影響しうる。

神社本庁の所在地は東京都渋谷区代々木1-1-2(伊勢神宮の隣)であるが、地方機関として各都道府県に神社庁を置いている。さらにその下の市や郡に支部がある。
もはや行政機関のようである。


「本宗」に秘められたもの

新興宗教団体「神社本庁」は包括宗教法人という位置づけにあり、傘下にいるのは全国のほとんどの神社(全国の神社の99%は傘下にある)。
企業に例えれば神社本庁は持株会社や親会社といった感じである。
しかし神社本庁は神宮(伊勢神宮)を本宗として崇めている。
要するに神宮(伊勢神宮)は「天皇の国家」を体現したもの。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

味方を少し変えると、全国の神社は神社本庁という宗教者の信者ということになる。
その神社本庁が「本宗」と崇めているのが神宮(伊勢神宮)、つまり天皇や皇室である。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)


神社本庁の「本宗」が伊勢神宮である事は、神社本庁が制定している各規程にも記されている。
しかし「本宗」という言葉は一般的に用いられるものでなく辞書にも掲載されていない。仏教用語など既存の宗教語でもない。
だから神社本庁独自の言葉ということになるが、神社本庁もこの言葉の意味(定義)を全く説明していない。
だから改めて「本宗とは何ですか?」と訊かれると神職ですら答えに窮すという。
こうなれば神社本庁は何かを隠しているとしか思えない。何を隠しているのかと言えば「国家神道」「天皇の国」ということ。
表向き(日本国憲法上)は主権が国民の民主主義国家ということになっているので、ちょっと不味いという意識があり隠しているのだろう。

傘下の全国の神社の神職や関係者は、自分が伊勢神宮の職員や関係者でないにもかかわらず、神宮大麻(伊勢神宮のお札)を各家庭に頒布したり、伊勢神宮の式年遷宮に奉賛するなどしている。


1%の神社

全国の神社の99%は神社本庁の傘下にある。
残り1%はどんな神社かと言うと、神社本庁以外の神社神道の包括団体の傘下にある神社と、どこにも包括されていない単立神社がある。

<比較的規模が大きく有名な単立神社>
合氣神社(茨城県笠間市)
味生神社(大阪府摂津市)
淡嶋神社(和歌山県和歌山市)
粟嶋神社 (熊本県宇土市)
石切剣箭神社(大阪府東大阪市)
出雲大社大阪分祠(大阪府堺市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
揖宿神社(鹿児島県指宿市)
新熊野神社(京都府京都市)
新日吉神宮(京都府京都市)
梅宮大社(京都府京都市)
大依羅神社(大阪府大阪市)
沖縄県護国神社(沖縄県那覇市)
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)
草戸稲荷神社(広島県福山市)
熊本大神宮(熊本県熊本市)
車折神社(京都府京都市)
気多大社(石川県羽咋市)
児玉神社 (神奈川県藤沢市)
坐摩神社 (大阪府大東市)
山王神社 (長崎県長崎市)
下御霊神社(京都府京都市)
須波麻神社(大阪府大東市)
垂水神社 (大阪府吹田市)
富岡八幡宮(東京都江東区)
梨木神社(京都府京都市)
日光東照宮(栃木県日光市)
原田神社(大阪府豊中市)
日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)
伏見稲荷大社(京都府京都市)
舊府神社(大阪府和泉市)
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)
靖国神社(東京都千代田区)
山内神社(高知県高知市)
由加神社本宮(岡山県倉敷市)

最初から単立神社と途中で離脱して単立神社になった神社が存在する。
近年だと2010年に気多大社、2013年に梨木神社、2017年に富岡八幡宮が離脱した。
明治神宮も2004年に離脱したが2010年に復帰した。

なぜ途中で離脱するのかと言うと、傘下の神社は神社の運営・財産管理や宮司の就任などについて神社本庁の承認が必要なのだが、その承認が得られなかったことをきっかけに離脱することが多い。
もっとも多い理由としては、新たな宮司の就任を神社本庁が承認しなかったからというものらしい。
傘下の神社は神社本庁の方針に従わなければならないのだ。
神社本庁は傘下の神社に対して任命権や承認権みたいな非常に強い権力を持っている。
世襲的な問題や地域での苦情など正当な理由がある場合もあるだろうけれども、神社本庁が気に入らない者や都合の悪い事は承認しないということが出来る。
私達は神社に行くことはあっても、通常そんな内部のことは知らない。
これはそのまま政治に当てはまるのではないのか。
任命権や承認権を単なる形式的なものと思い込んでいるが、裏で強権を発動しようと思えばできるということ。私達に見えるのは表の部分だけである。

ただ実際に離脱するのは神職や職員が複数いるなどある程度の規模がある恵まれた神社でないと難しいところがあるんだと思う。
神職が1人で切り盛りしているといったような場合には、助言や支援や仲裁など拠り所が必要ということもあるんだろう。

(梨木神社の離脱理由)
社殿の修復等の資金集めに苦慮していた平成25年(2013年)、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸し、その賃貸料を社殿の修復費用に充てることとしたが、その計画が神社本庁の承認を得られなかったことから、神社本庁から離脱し単立神社となる事態となった。

(気多大社の離脱理由)
神社本庁に報告しなければならないという神社規則を変更することによって離脱を試みた事例。そしたら神社本庁から反撃を食らい、裁判にまで発展した。
平成17年(2005年)11月28日付けで、神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となる決定を行い、同時に「財産の管理および処分に関する役員会の決議事項は神社本庁に報告する」と定めた気多大社神社規則の変更を決議した。
石川県はこの規則変更決議を認証するも、平成18年(2006年)1月に、神社本庁が県の認証を取り消すよう文部科学省に取り消しを申請し、平成18年(2006年)5月に、文部科学省は石川県の認証を取り消す決断を下す。これにより、神社本庁からの離脱が事実上、無効となった
神社本庁は平成18年(2006年)8月29日附で宮司を懲戒免職とし、翌30日に石川県神社庁長(当時)を兼任宮司に特任した。
気多大社側では、これらの処分を不服として裁判を起こし、最終的に勝利して離脱した。

(富岡八幡宮の事例)
富岡八幡宮というのは大相撲にゆかりのある深川八幡宮のこと。
2017年に宮司間で殺人事件が発生し報道されたので覚えている人もいるのではないかと思うが、あの神社である。

第19代宮司の長男が1995年に第20代宮司となった。
しかし1999年以降、その第20代宮司の金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題化し、2001年5月に解任され、先代の第19代宮司が復帰した。
これが2017年の事件の伏線にもなっている

第20代宮司は勘当状態となった後、新たに後継者とされた姉や父たちを恨んで脅迫を行ったり怪文書を撒いたりするなどしており、2006年に脅迫罪で逮捕されている。

2010年に第19代宮司が引退したため、富岡八幡宮は長女を宮司として任命するよう神社本庁に具申していたが、正式な宮司への就任具申が3度にわたり認められなかったため、長女が「宮司代務者」となる宮司空席状態が7年ほど続いた。
つまり神社本庁が女性である第21代宮司(19代宮司の長女)を承認しなかったのである。
そのため、富岡八幡宮は2017年9月に神社本庁からの離脱を決定し、単立神社となり、長女が第21代宮司に就任した。
その3ヶ月後の2017年12月7日に殺人事件が起こった。
神社本庁の包括を離脱して、長女が正式に宮司になったら殺されてしまったという何ともな事件である。
第21代宮司(19代宮司の長女)とその運転手が、第20代宮司(19代宮司の長男であるが解任され勘当された宮司)とその妻に日本刀で襲われて、第21代宮司は死亡し、運転手は重傷を負った。さらに第20代宮司は妻を殺害した後に自殺したという。
そして結局、第22代宮司には富岡家の血縁者ではない者が就任することになった。


明治神宮も一時期離脱

明治神宮は明治天皇と昭憲皇后を祭神として、立地の良さからか日本一の参拝者を誇るという。

その明治神宮が2004年に神社本庁を離脱したことで世間を驚かせた。
直接的な理由は参拝式案内状のミスだったそうだ。
2004年4月天皇皇后が明治神宮を訪れた際、明治神宮は参拝式案内状に「両陛下」と表記すべきところを誤って「両殿下」と表記してしまったのだという。 
そしたら神社本庁が怒った。右翼団体も怒った。「不敬である!」と言ったのか!?
明治神宮側は始末書で済ませるつもりだったが、神社本庁が明治神宮の宮司に進退伺の提出を要求した。
早い話、「解任します」ということである。
「いくら何でもそれくらいのミスで解任って・・」と言ったかどうかは分からないが、明治神宮側は神社本庁の要求には応じず、離脱することを2004年5月に決定し、同年8月に正式離脱した。

明治神宮は明治天皇を祀っている神社であるが、天皇の敬称を誤記してしまい、神社本庁がそれを許さず解任を迫ったため、離脱の引き金になったということ。
どちらかが天皇や国家神道に否定的ということではなく、どちらにしても「天皇様に失礼でしょう」という考えが根底にありそうな一件。
と思ったら2010年に明治神宮は再び神社本庁の包括神社に復帰した。





by yumimi61 | 2019-01-25 14:34 | 靖国神社と神社本庁

原子力発電所と神社本庁

こちらも埋め立て~上関原子力発電所~

上関原子力発電所
中国電力が、瀬戸内海に面する山口県熊毛郡上関町大字長島に建設計画中の原子力発電所である。長島西端の田ノ浦の山林を切り開いて14万平方メートルの海面を埋め立て、改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)2基の建設が計画されている。稼働後に発電される電力は、50万ボルト送電線で同県周南市まで引かれ、既存の高圧線を経て主に広島・関西方面に供給されるものと見られている。2011年に発生した東日本大震災以降工事が中断しているが、2016年以降は工事着手に向けた準備作業が続けられている状況にある。

山口県熊毛郡は結構有名な地域だと思う。
何故かと言うと、明治維新後の日本政治を牛耳った地域として知られているから。

21483、山口県、鹿児島県、両県にある田布施町の不思議

謎の地域とは、山口県熊毛郡田布施町

*熊毛郡と田布施町は鹿児島県にも存在したのは、両県にあったのは偶然の一致ではないだろうが
① まずは、山口県熊毛郡と田布施町を見る。
山口県熊毛郡田布施町は 2010年8月1日現在で人口僅か16,044人の寒村でもとは同じ熊毛郡束荷村であった光市と柳井市に囲まれて、北朝鮮の被差別部落といわれている。

*鬼塚英昭は大分出身の、民間の歴史家、「日本のもっとも醜い日」、現代史、昭和天皇の歴史を裏事実を含めて、正直に、論理的に納得できる筋書きで構築している。

田布施町出身有名人、山口県出身の人物一覧

大室寅之祐=明治天皇
熊毛郡、田布施町麻郷、南朝の末裔というより北朝鮮被差別部落の出で、後の明治天皇。
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父、大室庄吉の兄は大室寅之祐(東京明治天皇)

伊藤博文 (林家) 熊毛郡東束荷村 (光市束荷字野尻) 生まれ
6歳まで過ごした家は田布施町に残り、大室家とは隣接地にある。
(吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が大室某を養育していた)
難波八助、宮本顕治(日本共産党)は伊藤家の一族で
木戸幸一も系図の中に入り、京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた、河上肇(玖珂郡岩国町)も一族。

岸 信介  熊毛郡田布施町
大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家がある。
(この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。)、

松岡洋右(元外相)は岸の一族である。

佐藤 栄作 熊毛郡田布施町、岸、安倍とは同族。 
吉田茂(高知出身、横浜、吉田家に養子)にも縁戚関係がある、
安倍晋三 (本籍地: 山口県大津郡で現在の長門市、生まれは東京、新宿)  その父(岸信介の娘婿)晋太郎は朝鮮人で 統一教会に縁が深い。  
                                
安倍源基 熊毛郡曽根村(平生町)
終戦内閣の最後の内務大臣  大室寅之助の生家の近くにある。
宮本顕治  山口県光市((旧熊毛郡束荷村)伊藤博文の一族

② 鹿児島、熊毛郡と田布施町
鹿児島県熊毛郡は屋久島、種子島を含む。県南部にあった田布施町(現在の加世田市金峰町)はやはり被差別部落である。

小泉前首相の父・純也氏は鹿児島の田布施朝鮮人部落出身の朝鮮人である。後に、ヤクザ(稲川会)の婿養子となり、小泉姓を名乗る。

東郷茂徳 終戦時の外相で、本名、朴茂徳、朝鮮人部落の出身 (朝鮮人陶工の子孫、秀吉の朝鮮役の際,島津氏が連れて帰った陶工の一族、島津家では士族身分)、4歳時、東郷家(平八郎家ではない)に養子。

鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。
阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。


山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)

鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。
 長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。
 小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
 ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。

 『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。
 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。


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青マークが熊毛郡田布施町で、1赤マークが熊毛郡上関町。
437と書いてある上関町の東側の島が、昨年8月15日に大分県のボランティアの男性が行方不明男児を見つけた周防大島町。
2と書いてある辺りが、大阪の富田林署に勾留され弁護士の面会を利用して逃走した容疑者が見つかった道の駅「ソレーネ周南」がある所。
右側の方の四国の今治は加計学園の獣医学部新設問題で揺れた市。

上関原子力発電所の計画に当たっては、賛成派・反対派で町内を二分するほどの激しい対立が続いている。

(推進派)
原発推進を町政運営の悲願とする上関町執行部や、6団体(上関町まちづくり連絡協議会、町商工会、町商工事業協同組合、町建設業協同組合、漁業振興問題連絡協議会、上関原電推進議員会)、が中心になって原電(原発)誘致・推進運動が進められている。
中国電力は上関町に対し「原発立地促進に多大な協力をいただいている」として、建設が具体的に動き出した2007年8月以降、上関町に対し計5回にわたって総額24億円の寄付を行っており、町はこれを一般会計に組み込んだ上で基金を設立し、町民の生活支援事業(中学生以下の医療費全額助成や老人の通院用バス運賃の補助、町独自の地域振興券の交付など)に用いている。

(反対派)
一方の反対派は、上関町の離島・祝島の住民を中心としている。祝島は一箇所に集中している島の集落のほぼ真正面(直線距離で約3.5km)に原発予定地が位置しており、農水産物の放射能汚染などへの懸念など生活環境に与える悪影響が甚大であると主張している。島民以外では、環境保護団体らが周辺海域に小型クジラのスナメリや海鳥カンムリウミスズメなど複数の貴重な生物が生息することや、付近に活断層が存在する可能性があることなどの点を指摘している。

(選挙)
原発建設計画が具体化して以降、上関町全域で見ると、選挙時における推進派候補と反対派候補の得票率はおおむね6:4で固定化されていると言われる。このため上関町長選挙では原子力発電所誘致が表面化して以来、片山秀行、加納簾香、柏原重海と3代連続して推進派候補が当選し、上関町議会議員選挙でも推進派が反対派を上回る議席を得ている。

(神社地売却と反対派宮司解任問題)
建設予定地の一部が四代八幡宮の所有する山林にかかっていたが、当時の四代八幡宮宮司は神社地を原発用地に提供することに反対であったため、2003年には原発推進派の氏子が四代八幡宮宮司の解任を要求する騒動に発展した。結果的に当時の宮司は神社本庁により事実上解任され、新しく任命された宮司が用地の売却を認めたため、宮司の任免権を持つ神社本庁と前宮司及び反対派の間で対立が続いている。
四代八幡宮の元宮司とその弟は山口県神社庁を相手取り「自分を解任に追い込もうとして、県神社庁が退職願などを偽造した」として計400万円の損害賠償を求め提訴。一審の山口地方裁判所岩国支部は2009年3月24日の判決で、退職願などが何者かによって偽造されたものであることを認めつつ「文書を偽造しても、宮司らを解任するのに利用できない」などとして県神社庁の関与を否定、請求を棄却した。原告側は控訴したが、二審の広島高等裁判所も、2010年9月2日の判決で「県神社庁が退職願を偽装したとはいえない」として原告の控訴を棄却した。



原発反対を封印した大臣

その大臣はと言えば、現在外務大臣である河野太郎氏。
自民党議員や2世議員でありならが原子力政策を痛烈に批判してきた政治家であった。
もっとも福島第一原発事故が起こった2011年3月は民主党政権であったので、当時自民党議員は野党議員である。与党野党で右左を決めれば、左側の立場にいたということになる。(このあたりが何気にややこしいですね)

その河野議員は2011年9月に現代ビジネスで、(一言で形容すれば左派代表!みたいな)山本太郎氏と特別対談している。
山本氏が参議院議員に当選したのは2013年7月なので、当時はまだフリーの俳優&活動家だった。
当選した後の2013年10月31日の園遊会では誰にも制されることなく天皇に直訴していたっけ(直接手紙のようなものを手渡した)。

2011年9月30日 特別対談河野太郎(自民党前幹事長代理)×山本太郎(俳優)「原発に買われた政界と芸能界」

 自民党前幹事長代理の河野太郎氏(48)と俳優の山本太郎氏(36)には、名前以外にも共通点がある。政界と芸能界という原発とズブズブの環境にありながら、損得感情を超えて脱原発を訴えていることだ。同じ志を持つ「二人の太郎」が、脱原発への道を模索すべく、初めて対談のテーブルに着いた。
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そんな太郎コンビの片割れが自民党安倍政権で外務大臣になった(2017年8月3日~現在)わけだが、かつての反原発の勢いがすっかり影を潜めてしまったらしい。

2018年2月25日
河野太郎氏、脱原発の封印を語る!「閣僚は政府として連帯責任。思っているを言うことはできない」

河野太郎外相が脱原発政策に触れなくなったことについて、初めて明確なコメントをしました。河野太郎氏は大臣になる前は脱原発派として知られており、自民党内でも「異色系の議員」だと言われていたこともあります。
しかしながら、大臣に任命された後は脱原発政策を封印し、今日まで安倍政権の方針を堅持していました。

23日に行われた衆院予算委員会分科会で岡田克也議員から脱原発に対する考え方を問われ、河野外相は「閣僚になれば政府の一員として連帯責任を負う。自分の思っていることだけを言うことはできない」などと心境を語ります。
ただ、具体的な話になると「原発について申し上げたいことはたくさんあるが、これは経済産業省が主管だ」と述べ、言及は避けていました。

大臣は一般的な国会議員とは異なっており、省庁のトップとして強い権限を持っている代わりに、政府方針を最優先で守る必要があります。
そのため、議員個人の思想信条よりも大臣としての立場が最終優先となることから、河野太郎氏のように議員時代とは異なった政策でも守らなければ行けないのです。




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by yumimi61 | 2019-01-24 16:29 | 靖国神社と神社本庁