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カテゴリ:御嶽山噴火と御嶽教( 15 )

集り

御嶽山に招いた分神・分霊

御嶽山の王滝口ルートを開いたという普寛。秩父出身。天台宗派の修行者だった。後、御嶽教の開祖となる。
普寛が開山したとされる山が他にも4つある。

1.御嶽山(長野県) 1792年開山
2.八海山(新潟県) 1794年
3.武尊山(群馬県) 1795年
4.意波羅山(埼玉県)
5.阿留摩耶山(長野県)

普寛は御嶽山以外の山の神の分神や分霊を御嶽山に移して祀った。
誰かに了解を得たということではなく(許可なし!)、自分でそうに決めてそうしただけのことである。
だから御嶽山には御嶽山の神だけでなく、他の山の神も存在していることになる。
これが「御嶽五神」と言われるもので、それぞれ名前がある。

1.御嶽山座王大権現
2.八海山大頭羅神王
3.武尊山大権現
4.意波羅山大権現
5.阿留摩耶天宮

権現というのは神仏習合的な呼び方。
神は見えない、仏は見える、神社に本尊(仏像など)はない、寺院には本尊(仏像など)がある。
この正反対な状況を折衷したのが権現である。
目に見えない神が目に見える仮の姿(例えば仏教の仏像的なものや天狗など)で現れた、あるいは仏像などとして目に見える仏が自然界に存在する神に姿を変えたとするもの(例えば釈迦如来・弥勒菩薩・千手観音菩薩が蔵王権現になった)(蔵王権現は修験道の主祭神)。

ただ昨日も書いたように日本は明治維新後に神仏分離し修験道などは禁止され国家神道を行くことになる。
だから御嶽教なども「権現」という呼び名は「大神」などに変更した。

現代においては御嶽山座王大権現(御嶽山大神)の中には3柱(柱は神の数え方の単位)いると言われている。大己貴命・少彦名命・国常立尊。


カーナビならぬ神奈備

御嶽山同様に八海山も武尊山も登山ルートの開拓に地元民の協力が不可欠だった。
武尊山は片品村花咲の行者が協力した。
だが開いたルートは花咲~前武尊山であり、武尊山の頂上ではなかった。
この頃はまだ御嶽教は成立していない時期であり、御嶽教の行者だったということはない。修験道の行者なのか、天台宗密教系の行者だったのか、そのあたりは定かではないが。

武尊山は8つの主な峰(ピーク)からなる。
##沖武尊(2,158m、主峰、最高峰)
##中ノ岳(2,144m)
##家ノ串(2,103m)
##前武尊(2,040m)
##剣ヶ峰(2,083m)
##剣ヶ峰山(2,020m)
##獅子ヶ鼻山(1,875m)
##西峰(1,871m)


武尊スキー場の上に御嶽講が設置したという普寛の像がある。
その背に文字が刻まれている。「武尊中興開山行者普寛法印 享和元」
そこで「中興開山」と書いてあるのだ。中興とあるからには開山が初めてではないということになる。
御嶽講ですら「開山」の認識はないということ。

武尊山頂上へのルートを開いたのは伊勢崎の行者の深沢心明であった。1873年のこと。こちらは明治時代に入っており、御嶽教も成立しているので御嶽教の行者だったのかもしれない。
中山郁氏の「本明院普寛と上州武尊開山」には「明治二十一年、伊勢崎の行者、深沢心明が川場尾根から現在の武尊山頂(沖武尊)までの登山道を開き、翌年、当時の川場湯原村から武尊山の祭祀を委嘱され、活発な布教活動を行い、最盛期には主に勢多郡を中心に弟子三十余人、枝講十八、信者二万人を要する武尊山大協会を作り上げた」とある。

このように江戸時代末期から明治にかけて、片品村側と川場村側から行者が入って、普寛(のち御嶽教)の信仰が持ち込まれた武尊山は王滝口と黒沢口ではないけれども御嶽教に絡む2つのルートがあって、それぞれ峰の呼び方が違ったりする。例えば、花咲側では前武尊、川場側では朝日岳など。
たかが名称だけど、混乱し間違えて遭難しないようにお気をつけ下さい。
麓の住民は、武尊山を神奈備山(神のいる山)として古くから信仰しているが、山中に神社などは置いておらず、麓には武尊神社が点在している。


武尊山頂上の御嶽山大神の石碑

武尊山の頂上(沖武尊)にある「御嶽山大神」の石碑。
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石が外れちゃったのかな・・・
神の祟り・・? 自然の猛威・・?
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左側には「開闢心明」と書いてあるが、心が消されている・・心ない・・・
心明とは伊勢崎の行者・深沢心明のことである。普寛の名前でないのが問題なのか・・?覚明のほうが良いとか?

地図にはない山

下の地図で普寛神社がある場所が普寛の生誕地だったらしい。
この記事の一番上に書いた4.意波羅山(埼玉県)というのは、その生誕地から少し上に上がった地点にあり、秩父御岳山(標高1080.5m)の麓というか中腹にある。
秩父御岳山の峰の1つ、前山とでも言えばよいのかもしれないが、地図などに掲載されている山名ではない。集落の裏山の通称だったような感じだろうか。それとも普寛が名付けたのか。
一応社殿があるが、その社殿がある場所のみを「意波羅山」と呼ぶという説もある。

そして不思議なことに普寛が木曽の御嶽山に連れて行った神は、秩父御岳山の神ではなく、その意波羅山の神だったのである。
従って秩父御岳山の開山も実は普寛ではないという説もある。

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ただ秩父御岳山の頂上には普寛神社奥社がある。やけに目立つ賽銭の文字・・
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五神・・三神・・・

5.の阿留摩耶山(アルマヤ天)は木曽の御嶽山の峰の1つ。
御嶽山は剣ヶ峰(標高3,076m)が最高峰であり、その外側には摩利支天山、継子岳、継母岳、アルマヤ天などの峰々が存在する。

このように普寛の御嶽教は五神としていたが、そのうち三神に変化していく。御嶽山・八海山・三笠山の神にした。
急に三笠山?という感じだが、その理由は意波羅山と阿留摩耶山が三笠山に祀られたからだとか。
でも御嶽山にも意波羅山大権現や阿留摩耶天宮の石造などが存在する。

武尊山大権現
武尊山大権現は上野の武尊山の神である。日本武尊とされる。武尊山(2158m)は山系に属さない独立峰である。山頂には日本武尊の銅像が祀られているが、神社は存在しない。山麓に里宮が祀られているほか、周辺に分社が多く見られるが、木曽御嶽信仰との関わりはほとんどない。木曽御嶽信仰においては、武尊山大権現は普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、八海山大神に取って変わられたこともあって、目立たない存在となった。

意波羅山大権現
意波羅山大権現は秩父御嶽山(1081m)の麓にある意波羅山の神である。意波羅大明神、意波羅三社大権現、伊和羅三社大権現、意波羅天宮などとも表記される。秩父御岳山は普寛の出身地の秩父落合村の裏にある山である。三社大権現と呼ばれるのは、当初、秩父御岳山に意波羅天宮、刀利天宮、提頭羅天宮を祀る神社を建てたことに基づくと思われる。
御嶽山内では意波羅山大権現は王滝口三笠山に祀られた。
普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、三笠山大神に取って変わられたこともあって、山中の神祠としては目立たない存在となった。


八海山大頭羅神王
八海山大頭羅神王は越後八海山の神である。八海山大神とも呼ばれる。八海山(1778m)は越後山脈に連なる険しい霊山である。山麓には三つの里宮があるが、頂上奥社はない。霊神碑があるなど、木曽御嶽信仰の伝統が強く残る霊山である。
八海山大頭羅神王は医療の神とされ、特に眼病を司る神とされる。そのため、八海山を祭る霊場には目に関する奉納物が多い。また水の神ともされる。黒沢口、王滝口、あるいは開田口のいずれの八海山大神も清水が湧出する場所であり、神水として神聖視されている。やはり眼病に効果があるとされる。


三笠山刀利天
三笠山刀利天は上野の三笠山の神である。三笠山大神とも呼ばれる。三笠山は、現在の諏訪山(1549m)で日本三百名山の一つとして知られている。山内に三笠山大神を祀った祠がある。八海山、秩父御岳山、武尊山が空に聳え立つ霊山であるのに対して当山は山地の奥深いところにある。大小の山々が連なる山地のなかで、この山に見出された神格というのはどのようなものであったのだろうか。

刀利天とは、本来仏教では「〓利天」といい、須弥山の頂上にある世界のことであり、帝釈天が住む天である。しかしながら、木曽御嶽信仰においては、一つの神格として信仰されるようになった。どのような関係にあるのかは不明である。

三笠山大神の神像は、黒沢王滝の三笠山のほか、大又三社、御嶽教木曽大教殿、御嶽教大和本宮に祀られている。


三神
現在の木曽御嶽信仰においては、御嶽大神、八海山大神、三笠山大神の三神が一組で祀られることが多い。御三方などとも言われる。この三神が御嶽を代表する神だとされている。しかしながら、普寛の当初にはこの組み合わせは存在しなかった。
普寛のときには御嶽、武尊山、意波羅山の組み合わせだったものが、順明(弟子)は武尊山を八海山に変え、広山(弟子)は意波羅山を三笠山に変え、一心(弟子)はこの形式を普及させたものとの推測が成り立つ。


意波羅山と阿留摩耶山の神は木曽王滝口の三笠山に祀られたということで、その木曽の三笠山の神が三神に含まれたのかと思うが、そうでなく、これまた群馬県の三笠山なのである。
その理由は木曽の阿留摩耶天(アルマヤ天)をやめて群馬の三笠山の神にしたからだとか。
群馬の三笠山というのは上野村の諏訪山の峰である。

諏訪山
群馬県多野郡上野村にある標高1,549mの山である。
国道299号(西上州やまびこ街道 / 武州街道)から群馬県道124号上野小海線に入り、楢原登山口から小倉山を経由するか、浜平登山口(浜平鉱泉)から湯ノ沢を遡行する。 前衛峰の三笠山はロープや梯子による登降があるため、注意が必要である。


1985年に日航機が墜落した上野村の御巣鷹山(高天原山の峰)の近く。深い山である。





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by yumimi61 | 2018-10-02 14:58 | 御嶽山噴火と御嶽教
信仰と教団と講社の関係

1785年に真言宗密教系の覚明が黒沢口ルートを、1792年に天台宗密教系の普寛 が王滝口ルートを開いた。

すでに述べたように御嶽山はそれ以前より信仰されていた山であり、修験道が行場としていた。
また役人が設置した神殿もあった。
最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。


だがこれらは後の御嶽教とは直接的な関わりはない。
木曽御嶽信仰は、覚明・普寛を開祖として江戸時代後期に成立した信仰である。

しかもルートを開いて御嶽教の開祖と言われるこの2人は宗派が違う。
同じ「御嶽神社」ではあるが、登山ルートに沿って2系統の神社が存在している。神主も違う。
両者の神主が違うことから生じる神主の対立、また属する自治体が違うために自治体を巻き込んだ対立となったようだ。
自治体の境界が御嶽山内にある。登山ルートやそれに伴って落ちる金銭などを巡ってトラブルが起こることは想像に難くない。


後から開かれた王滝口ルートにも沢山お金が落ちるようになって両者の対立は最終的にはお金を支払うことで決着したようだが、両者の信者や神社の関係性が今現在実際のところ良好なのかそうでないのか定かではない。
開山や閉山などは合わせており、頂上の社務所のクローズも同じようだが、祭祀などはどのように扱っているのか。

ロープウェイが通っているのは黒沢口ルートの方。そのせいもあるのかこちらのルートでは社殿などが少ない。
一方の王滝口ルートは社殿などが多く、「登山ルートではなくまるで観光ルート」だと揶揄されることもあるくらいにルートが観光地化している。
現在では一般的には王滝口ルートのほうが人気があるらしい。

御嶽教(おんたけきょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。創始者は下山応助とされている。
御嶽山を信仰根本道場としている。

江戸時代に覚明行者が黒沢口登山道、普寛行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝する信仰者が集団結合して1882年に立教独立。br>
修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。


上記はWikipediaの説明だが、これは今現在は王滝口ルート系の教団ということになる。
奈良に教団本部を置いているが、これは本部をわざわざ奈良に移転させたのである。
修験道の開祖が奈良出身者なので、そのあたりを意識したんだろうか。
戦後に黒沢の御嶽神社が中心となって設立されたのが木曽御嶽本教という教団。本部は木曽町三岳にある。
さらに奈良移転に反対した東京の団体が離脱して新たに起こした教団(御嶽山大教)などもある。本部は埼玉県八潮市。

木曽御嶽信仰>教団>講社(同じ信仰を持つ人の団体)

木曽御嶽信仰においては、日本の伝統的宗教団体の一類型である「講社」が活動の単位となる。
講社が教団に属しているような形となる。
講社はやはり覚明派と普寛派に分かれるようで、それはつまり王滝口派か黒沢口派かということになる。


神主家の旅館と島崎藤村、希望と失望の落差

王滝口ルートのほうの神社の神主は滝家。麓の滝神主家の一角に御嶽大神を祀る社殿が設けられている(御嶽神社別殿)。
そこに滝旅館もあるが、そこは島崎藤村の『夜明け前』の舞台ともなった旅館だそうである。

島崎藤村 信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ

王滝村が封印した白川一家の話も悲劇的だっただけれど、この『夜明け前』も悲劇的である。それが自分の父親をモデルにした小説だったというから尚更に。

島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。

米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。


(あらすじ)
中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主青山半蔵は、平田派の国学を学び、王政復古に陶酔。山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。

半蔵は下層の人々への同情心が強く、新しい時代の到来を待っており、明治維新に強い希望を持つ。しかし、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と政府による人々への更なる圧迫など、半蔵の希望とは違う物であった。更に山林の国有化により、一切の伐採が禁じられる。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。

村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動に。その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。

半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居することに。読書をしつつ、地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが、次第に酒浸りの生活になっていく。

維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。

そして半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれる。そして、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。

当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。



父・島崎正樹
中山道馬籠宿(長野県木曾郡山口村)の本陣・庄屋・問屋を兼ねる島崎家17代。国学を学び、33歳で平田篤胤没後の門人となる。明治維新後、文明開化の風潮に失望、木曾山林の解放運動に奔走し戸長を免職され家産を傾ける。東京で教部省考証課雇、飛騨で水無神社宮司となるも志を得ず帰郷、巡幸中の明治天皇に憂国の歌を書いた扇を投げ不敬罪に問われるなど挫折をくり返した末発狂し、座敷牢内で没した。
※座敷牢とは施設軟禁施設(部屋)のこと。だいぶ穏やかに言えば隠居部屋とか。

島崎藤村 1872年(明治5年)生まれ。9歳で上京。
##1881年(明治14年) 上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨、北村季晴らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。

藤村の父親は藤村が2歳だった1874年(明治7年)に、天皇の輿に憂国の歌をかいた扇を投げて不敬罪に問われた。
それから10年後の1884年、12歳となった藤村はキリスト教に入信した。
それから2年後1886年に父親は亡くなった。56歳だった。
藤村の通った明治学院は創立1863年。ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜で開いた「ヘボン塾」を起源とする、日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。1887年に「明治学院」と名付けられた。
藤村は20歳の時にキリスト教を離教した。

明治期の文学者はキリスト教に入信したものが少なくない。
だが信仰は定着せずに離教した者もまた少なくない。
それはもう明治文学の1つの傾向と言ってもよいくらいに。


御嶽山と天狗

ちょうど半蔵が座ったところからよく見える壁の上には、二つの大きな天狗の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永年代から、あるひはもっとずっと古くからの講社や信徒の名を連ねた様々な額が奉納してあって、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曽福島の名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を濃厚ならしめるものもあるが、殊にその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。耳のあたりまで裂けて牙歯のある口は獣のものに近くたかい鼻は鳥のものに近く黄金の色に光った眼は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の野性と、翼を持つ鳥の自由と、神秘を體得した神人の霊性とを兼ね具えたようなのがその天狗だ。
島崎藤村『夜明け前』より

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中央には御嶽山大権現と書いてある。

天狗は修験道における独自の神の1つである。
御嶽山も古くには修験道の霊山だったので天狗がいると伝えられている。
群馬県の修験道の霊山に数えられるのが沼田市にある天狗で有名な迦葉山。
連合赤軍が起こし山岳ベース事件(仲間同士のリンチ殺人事件)では迦葉山内にアジトの1つ(迦葉山ベース)があった。

迦葉山
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。麓には胎内潜岩がある。

迦葉山弥勒寺
群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院である。沼田市北部にそびえる迦葉山の中腹に鎮座する。寺号は「迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺」だが、一般には単に「迦葉山」と呼ばれることが多い。天狗の寺として知られ、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」の一つに数えられる。

嘉祥元年(848年)に、葛原親王の発願により、比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。
康正2年(1456年)に、曹洞宗に改宗する。

曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。


毎年変わらずに8月3・4・5日に行われている「沼田まつり」では、 迦葉算弥勒寺の座禅堂に安置されている大天狗面がお神輿として担ぎ出される。この天狗神輿は全て女性によって担がれる。

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↑これは能面(NoMen)
Omen?




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by yumimi61 | 2018-10-01 22:22 | 御嶽山噴火と御嶽教

種々様々

続・昔話

木曽の昔話
前記事に昔話を載せたが、昔話だけに同じ話にもいろんなパターンがある。(公平に努め、他のものも紹介しておこうと思います)
前記事に載せた記事は三岳村(現:木曽町三岳)に伝わるもの。
『御嶽山縁起』では、子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、とあったが、乳母が出てこず継母との関係が上手くいかなかったと伝わる地域もある。しかもその継母は天子様(君主)が紹介して後妻に入ったというものである。

木曽福島町・日義村(現:木曽町)辺りに伝わる『阿古太丸』。

平安時代の頃、京都に住む公卿北白川宿衛少将重頼という人が、子供に恵まれないため御嶽山の大神に祈ったところ、たちどころに男女二人の子供が授かった。
 女の子を利生御前、男の子を阿古太丸といい大事に育てたが、突然二人の母親は病死してしまった。
 そのことをお聞きになった天子様は、徳大寺の左大将の姫君で白萩御前を後妻に迎えるよう仰せになった。
 ところが、継母と阿古太丸の仲がうまくいかず、阿古太丸は父方の叔父にあたる欧州の中納言氏家を頼って身を落ちつけることにした。
 そこで、京よりはるばる木曽路をたどりこの板敷野まで来たとき、旅の疲れと病のため、若い十五歳の身で亡くなってしまった。
       この山に捨つる命はおしからで
               あかで別れし父ぞ恋しき

 一方、京にいた父重頼は、夢枕にたった阿古太丸のあとを追って、利生御前と旅立つことになった。
 ようやく木曽についた二人は、そこで阿古太丸の最期を聞き、姉利生御前は悲しみのあまり、阿古太丸の墓前で自害してしまった。
      先たつも後るも同じ草の露
              何れの秋ぞあはで果つべき

重頼は、二人の霊を御嶽大権現のもとへお返し申すと、自らもまた二人の後を追い自害して果てた。
  このことを、風の便りに聞いた継母は、自分のあさはかさを悔い、京からはるばるこの地を訪れこれもまた墓前で自害したという。
 この話が、天子様に伝わると、天子様は哀れにおぼしめしなされ宣旨によって少将父子を御嶽大権現のそばに祀り、信濃の国の国司は、御嶽に登り盛大な供養をして、その霊を慰めたという。
 木曽福島から、ただ一カ所、御嶽が見えるとされている板敷野の一隅に阿古太丸を伝える小さな塚がある。
 なお、三岳村に伝えられるところによれば、板敷野で阿古太丸の死を知った重頼は、娘利生御前とお供えを従え、ゆかりのある御嶽山に登拝しようと山道を登り、八合目で利生御前を見失い、霧にまかれ、雷鳥に先導され無事参拝をはたし、下山の途中一泊したところが白川で、後に人々はここに白川権現社を建て重頼らを祀ったとある。  
 また王滝村の伝説によると、阿古太丸の継母岩長姫は、子どもの霊を弔うため王滝に身をひそめ世をおくったという。   
 後、村人は阿古太丸の霊を継子岳に、岩長姫の霊は継母岳に祀り永く弔ったとある。 


昔も今も王滝村で当の王滝口ルートの麓地区・王滝村では白川話は封印。ガラリと内容の違う話が伝わる。

王滝村の『御嶽山の神様』

昔々、木曽川に沿って二人の落人が、追手に追われて逃げてきました。その落人は、とても高貴な女の人たちで、ひとりは「タカ」という名で、もうひとりはその義母でした。
 いよいよ追手が迫ってきて、義母はタカに、
 「私が先に行って、安全な場所を見つけましょう。あなたが道に迷わないように、私が五月の種を蒔きながらいきますから、花が咲くころ五月をたよりにしてのぼってきなさい。」と言って、王滝川を上流へと進んでいきました。
 季節は変わり、春になりました。タカは義母が言っていたとおりに、五月が咲きだすと急いで出発しました。赤い花が王滝川の流れに沿って、奥へ奥へと続いています。
 ずいぶん進んでいくと、しだいに高い山が見えてきました。タカはずいぶん疲れていましたが、
 「おかあ様が待っていらっしゃるから、急がなければ」」と、とうとう山の麓までやってきました。けれども花は山の上まで続いています。タカは険しい山を、足をひきずり、ころびながらも登りました。
 やっと頂上に着きました。けれども義母の姿が見えません。とたんに疲れがでて、もともと体が弱い人だけに、すぐ亡くなってしまいました。タカは、義母のことが気がかりで、山の神として生まれかわりました。
 この山は、御嶽山と呼ばれ、神様の山ということで毎年多くの熱心な信者たちが訪れています。


宗教とは何か?神とは何か?仏とは何か?

何故日本人はお正月に神社に行き、仏教式でお葬式を行うのか。
神仏習合の名残である。
だけどかつての神仏習合という宗教観が明治期に徹底的に破壊されたため、近代の日本人は確立された信仰心を持つことなく、単に流されて宗教めいたことを行っているだけに過ぎない。要するに中身がほとんどなく外側だけ。

神仏習合
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。


現在の氏子と自治会の問題は古来のこの風習から来ているものである。
地域に固有の神がいて、地域ごとにどんな神を信仰していても構わなかった。だから国には神様が沢山いた。
八百万の神と呼ばれる沢山の神様は自然と共に生きていた。
村人(氏子)は地域を災害から守ってくれるようにとか、農業や漁業が上手くいきますようにとか、商売が繁盛しますようにとか、自分達にあった祈願をし祭典を行ったのである。
信仰は極めて閉鎖的だったとあるが、それが土着の神(氏)→自治会(村)→村人(氏子)だったからで、逆に言うと国や世界に1つの神しか存在しないという考え方にはなかった。
地域で信仰している神を全知全能の存在とみていたわけではない。多くの神々(八百万の神)が力を合わせて自然界や国を守っているというスタンスにあった。

こうした地域限定のような土着の宗教に対して、地域範囲を限定せず比較的どこでも通じるようにした宗教を普遍宗教という。
今風に言えばグローバルな宗教。
日本も各地域にそれぞれ神がいても良いけれど、国という単位では、特に対外的なことを思うと、普遍的な宗教が必要なのではないかと考えたのではないだろうか。(国が宗教を持って対峙しないと、外国のグローバルな普遍的な宗教に国が呑み込まれてしまうため)

普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。

近年において世界三大宗教と言われるのは、キリスト教(紀元0年)、イスラム教(610年)、仏教(紀元前5世紀)である。( )内は発祥年。
この三大宗教は信者の多いだけの宗教ではない。
信者の多い順で言えば、キリスト教(33%)、イスラム教(22%)、ヒンドゥー教(13%)である。仏教は6%。
ヒンドゥー教の信者はほぼインドに集中する。インドは人口が多いので信者も多くなるが、普遍的宗教は地域限定宗教ではダメなのである。
インドの仏教が中国に伝わったのであって、古い文明の歴史を持つ中国には実はいろんな宗教が混在している。だから中国は人口が多いが、仏教徒の世界的な比率としたらそこまで伸びない。
中国と日本が仏教を通して力を合わせるのは利害が一致するというか、理にかなっていた。

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日本古来の信仰を大事にしながら、大陸の人口が多く地域の広い宗教に呑み込まれて国を支配されるようなことがないように、神仏習合という独自の宗教を成立させたのが島国である日本である。
歴史的に国家は宗教を通して支配されていくことが多い。

仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。

日本への仏教の伝来から、神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。


神仏習合の形成の過程が書いているが、「修験道」は意図的だったのかそうでなかったのか分からぬが、世界的に通用する山岳信仰を基本に、そしてやはり世界的に人気の高い神秘主義(密教)を取り入れながら、いち早く神仏習合という新しい宗教を形作った。

ただその神仏習合は明治維新とともに完全に分離破壊された。
国教として採用したのが神道。それも昔のような土着の八百万の神に戻したわけではなく、天皇を現人神とし伊勢神宮を聖地として一神教のごとく他の神々は異端として抑圧し、国家神道以外の信仰を禁止した
国家神道に逆らう者は投獄し、天皇には神として最敬礼することを強要し、天皇に命を捧げることが強制された。教育もそれに則って行われた。
その宗教を持って世界制覇を狙ったのか知らないけれど、宗教分布をみれば行く道が遠かったことは一目瞭然。
それとも仏教の部分を神道に置き換えて、世界三大宗教の仲間入りを果たそうと思ったのかな。
今でも神道一本である天皇家は盆も彼岸も関係ない。それが日本の象徴として最上位に君臨している。


神様は目に見えないもの

日本の神々
神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。
日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主神となっている。


神道
教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。

神社
祭祀対象は神道の神であり、「八百万(やおよろず)」と言われるように非常に多彩である。神聖とされた山岳や河川・湖沼などから、日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物・伝説上の人物や、陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれる。また稲荷や猿、鯨など動物を祭神とする神社、子孫繁栄の象徴として男根の像を祀る神社もある。

古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる。神は目に見えないものであり、神の形は作られなかった。神社の社殿の内部のご神体は神が仮宿する足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもあり、さまざまである


神社には寺院のような本尊(最も大切な信仰の対象として安置される仏像)というものはないのが一般的。
現存する神像彫刻はすべて平安時代以降のものである。


仏とはブッダ(仏陀)のこと、仏は目に見えるもの

仏とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の尊である明王、天部の護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏」と総称するようになった。

如来部・・仏陀(釈迦)
菩薩部
観音部・・東密、台密の六観音などがある、非常に種類が多い、
明王部・・密教的
天部・・・古代インド、ヒンドゥー教的
開祖・高僧
垂迹神・・日本の修験道的、既存の本尊を踏まえつつ独自の像(本尊)を生み出したり採用した

※観音部というのは菩薩部に含まれる観音菩薩だが、非常に種類が多く、「八百万の仏」化している。

・東密の六観音ー聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音(馬頭明王)・准胝観音(七倶胝仏母)
・台密の六観音ー聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音(馬頭明王)・不空羂索観音







by yumimi61 | 2018-10-01 13:51 | 御嶽山噴火と御嶽教

それぞれの開祖

●修験道の開祖ー役小角(えんのおづの)(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
役小角は700年頃に(木曽)御嶽山登頂に成功したと言われている。

修験道:日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。

役小角は最澄や空海(弘法大師)よりも古い人物で、修験道開祖は仏教の天台宗や真言宗の開祖よりも早い。
天台宗や真言宗は仏教の中でも平安仏教と呼ばれる平安時代以降に勃興した宗派。
その前の奈良時代には奈良仏教(南都六宗)が栄えていた。

●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山

真言宗の密教(東密)は、空海が中国より真言密教を持ちこんだ。
天台宗の密教(台密)は、最澄の時代は弟子を空海の所に送りこんで学ばせていたが、最澄亡き後に弟子たちが独自に完成させた。
この宗派よりも早くに成立していた修験道が密教に関係あるので、比叡山や高野山も修験道に数えられる。
空海は修験道の修行場であった御嶽山に登ったことがあるらしい。


昔むかーし

王滝御嶽神社伝によれば御嶽山に最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。
白川って誰?っていうことになりますよね。

木曽町三岳の昔話

御嶽山縁起
 「御嶽山縁起」とは、御嶽山先達や神社などに書き残されている伝記です。その内容は千年ほど昔の京都三条に、白川将軍重頼という公家がいましたが子供がおりませんでした。ある日夢の中に白い髭の老人が現れ、「信濃国の木曽御嶽山に祀られている御嶽座王大権現にお願いをしてみなさい」というお告げがありました。さっそく御嶽権現のお社を庭に建て祈願をしたところ、美しい女の子を授かり、3年後には男の子も生まれ阿古多丸と名付けました。

 子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、阿古多丸が持ってきたお土産に毒を入れて犬に食べさせたため、父親は驚き阿古多丸を家から追い出してしまいました。阿古多丸は一人で奥州の親戚の家に行くことにしましたが、途中で御嶽山を拝んでいきたくなり板敷野まで来ました。しかし心労と旅の疲れで倒れてしまい地元老夫婦の介護もむなしく御嶽山を見ながら亡くなってしまいました。
 その晩父と姉は阿古多丸の夢を見たので探しに旅に出て探し当て、板敷野の墓前で姉は自害してしまいました。父親は泣く泣く姫を弔い、その後御嶽山に登り二人の霊を御嶽大権現の元にお返しした後に自害しました。このことを聞いた後妻と乳母も木曽を訪れ墓前で自害してしまったのです。
 この悲しい出来事を聞いた都の天子様は、「亡くなった5人の霊を御嶽大権現のおそばにお祀りしてあげなさい」と言われたため、信濃の国司は家来を引き連れ御嶽山に登り盛大なお祭りをして霊を慰めたそうです。
 地区では今も塚の前の小さな水田にもち米苗を植え、秋には餅をついてお墓に供える行事が続けられています。(生駒勘七著木曽のでんせつより)

阿古太丸の墓
 昔、都に北白川宿衛少将重頼郷という人がいました。重頼には子供がいませんでした。
 ある日、重頼は御嶽山に祈願すると、子供にめぐまれると聞き、その日から毎朝毎晩一心にお祈りしました。祈願が効いたのか、四十歳になって二人の子供にめぐまれました。初めの子は女子で利生御前と名づけられ、二人目の子は男子で阿古太丸と名づけられました。重頼は二人の子を大変可愛がり、大切に育てました。
 ある日、阿古太丸の母親は突然病の床に伏してしまいました。母思いの阿古太丸は、父重頼から自分が、御嶽に祈願して生まれた子だということを聞き、御嶽に再び祈願しようと思いました。
 阿古太丸は、お供の者達と、木曽の御嶽へ向かいました。御嶽につくと阿古太丸は、自分が生まれたことのお礼と、母の病気を治してほしいと、頼み下山しました。しかしその途中、旅の疲れと風邪のために、阿古太丸は寝込んでしまいました。
 一方、都で阿古太丸の旅を心配していた重頼は、阿古太丸がいっこうに帰ってこないので、自ら木曽に向かいました。やっとのことで重頼が木曽に到着した時、阿古太丸は息を引き取りました。
 悲しんだ重頼は、村人らの善意で塚を建て、阿古太丸を供養しました。
 現在、木曽町福島に板敷野という集落がありますが、そこは阿古太丸が病の床に伏した時、板を敷いて休んだ事からきているのだそうです。


1161年には後白河上皇の勅使が登山参拝した。

木曽御嶽山の霊神碑の建立は、御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰であり、 死後の霊魂の憩いの場を御嶽に求めようとする独自の霊魂観が、そこにはある。

御嶽は数多くあれど

御嶽を「おんたけ」と読ませるのは木曽の御嶽山のみだと言われている。多くは「みたけ」である。
「みたけ」という名の山は修験道に関係深い山が多い。
木曽の御嶽山は、王の御嶽(おうのみたけ)から「おんたけ」になったとか。

鎌倉時代頃までの御嶽山は、山そのものを神体とする修験道の修行と、国のお役人や君主らの祈願や慰霊が行われていたことになる。後者は神殿や祭典を伴った。
しかしその後、修験者の行場としては衰退していった。 
何故かと言うと、真言宗や天台宗の密教が入りこんできたからである。
阿闍梨のところに「日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった」というような説明があったが、これは修験道の修行と国のお役人や君主らの祈願や慰霊が御嶽山にて行われていたことにルーツを持つのかもしれない。

天台宗や真言宗の密教の時代には、山頂の御嶽神社奥社まで登るにはまず麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行をすることが必要とし、その厳しい修行を終えた者だけに年1回の登山を許したという。
その修行にはお金を徴収したらしい。どうも3.5両くらいだったらしい。
3.5両は14,000文。室町時代は良く分からないが、江戸時代の初期ではかけそば1杯が6文ほどだったという。
江戸時代のそばの値段で換算すれば、修行するには「かけそば2,333杯」分の費用が必要だったといこと。
1日3食かけそばとすれば100日で300杯。でも2,333杯の費用。
現在の価格で考えてみると、かけそば1杯300円として、58万3,250円である。
登山するためには(修行するためには)結構なお値段を支払わなければならなかったが、それでも結構流行ったらしい。
修行と登山できない者は、登山を許された者にお金と米を渡して願掛けをお願いしたりしたらしい。

白川大神と四国巡礼

上に書いた白川重頼は後に神格化され白川大神となった。
尾張出身で行商人から真言密教の修行者となった覚明が四国巡礼の途上、四国八十八所霊場の第38番札所金剛福寺にて「御嶽山を開山せよ」と白川大神から命じられ、それで開山に至ったと言われている。

ではその寺が白川大神を祀っているのかと言えばそうでもないようだ。
金剛福寺
高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。

境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、力の石、亀呼び場、竜燈の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。


但し金剛福寺には奥の院に白川ならぬ白山神社ならある。
奥の院
白皇権現元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていた。明治初年の神仏判然令で明治4年(1871年)に佐田山神社となり、大正5年(1916年)に白山洞門の白山権現と合祭される形で現在地に社殿を造営、白山神社と号するようになった。

首が飛んだ白川大神

御嶽山の一番上の剣ヶ峰頂上の社務所(祈祷所)の横に頂上奥社本宮があるが、そこに白川大神の像があり、噴火後にその像の首(頭部)が無くなっていた。
ついでに言うと賽銭箱も見当たらない。
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写真には写っていないが向かって左側に建物があり、噴火口はその建物のさらに左側の谷(地獄谷)である。
だから噴石が横から飛んできたのではこんな上手い具合に像にだけ当たって損傷を与えたとは考えにくい。
もし噴石が飛んできたなら上からということになろうが、それで像にだけに上手い具合に命中して頭だけが落ちるものだろうか。首の所の接着が甘かったのかな?

38と83

覚明が白川大神から暗示を受けた場所の金剛福寺は四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。
御嶽山には三十八史跡なるものが存在する。三十八座とも言う。
でもそれを決めたのはわりと最近のことである。

日野製薬 2009.03.13 御嶽山三十八史跡巡り説明会 より

昨年、御嶽山の山麓、山中、頂上周辺に残っている史跡から38の史跡を、700年の歴史を持つ御嶽神社の宮司に認定していただきました。38の史跡を知っていただくために、各史跡の名称と所在地が分かるように石碑を設置し、パンフレットを作成し、更に、各史跡の年代、史実ないしは伝承を伝えるために朱印帳を作成し、「御嶽山三十八史跡巡り」の仕組みを構築してきました。

ほぼ準備が整ったので、3月12日に「御嶽山三十八史跡巡り」の説明会を実施しました。会場は木曽町の合同庁舎の講堂で、広い会場ですが、参加者は50人くらいだろうと予想していたところ、開始時間が近づくと会場一杯に約140名の人が集まって、大盛況の説明会になりました。


【三十八史跡(三十八座)】

・頂上18座ー王権現(五座)・日権現(七座)・八王子・栗加羅・士祖権現・金剛童子・駒ヶ峯(二座)

・中腹6座ー湯之権現・大江権現・西野権現・青木権現(扇の森)・飯之老翁(二座)

・山麓14座ー岩戸(王滝里宮)・大宮(二座・上島)・小宮(上島)・小路之木(上島)・野口高岩(野口)・埵沢権現(鞍馬の滝)・田中社(埵沢)・牧尾大明神・本社(黒沢里宮)・若宮(黒沢若宮)・白川(黒沢白川)・美濃加子母(二座)

ちなみに山荘がある所から剣ヶ峰の頂上に通じる石段階段は83段である。






by yumimi61 | 2018-09-30 23:18 | 御嶽山噴火と御嶽教


(前記事の続き)
御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという


普覚の八丁堀時代と全国行脚!?

普覚が江戸に出て過ごした場所は八丁堀にあった法性院だと言われているが、廃絶したとかで何も残っておらず。
普覚の遺骨は分骨され、その八丁堀の法性院にも埋葬されたというが何もなし。そこに分けられた遺骨は御嶽山に移動したとか。
地下鉄サリン事件の日比谷線は被害者を多く出したが、八丁堀駅はその中の1つである。。

法性院がどれくらいの規模だったかは分からぬが修験長になったという普覚は庶民に病気の厄除けをすることを志して、法性院での修験長を辞めてしまったそうである。
再び一人で山修行を積んで、その後は全国行脚したらしいが、昔のことであるし、そうでなくても密教は口頭伝承が基本なので、はっきりとしたことは不明である。

地元の御嶽山だったのでは?

普覚の地元である秩父にも御岳山(御嶽山と書く場合もあり)(標高は1080m)が存在する。
こちらの開山者も普覚である。

普寛は、国道140号沿いの道の駅大滝温泉(大滝温泉遊湯館)のすぐ近く、落合が生誕の地である。落合登山口の近くにある普寛神社(御嶽普寛神社)には普寛上人が祀られており、頂上には普寛神社奥宮の小さな祠がある。
登山口は、贄川(町分)、強石、落合などがある。最寄り駅は、秩父鉄道三峰口駅である。

木曽御嶽山・王滝口ルートの開拓のきっかけ

普覚がなぜ木曽の御嶽山を開山(新ルートを開拓)したかと言うと、1790年に地元秩父で(木曽)御嶽山の麓の村の1つであった王滝村出身の与左衛門に出会ったからだという。
木曽の山では材木伐採や運搬をする日雇い労働者を使っており、その日雇い労働者の中で優秀な者は、他の地域での伐採や運搬における頭領となったり、江戸や名古屋の材木商の代人や番頭になるなどしていた。
与左衛門はその中の1人で、目の病気か何かで失明の危機にあったが、それを普覚が加持祈祷によって救ってやったとか。
秩父で出会ったということだが、与左衛門は仕事で秩父にいたんだろうか。それともわざわざ秩父の普覚を訪ねたとか?

普覚にはアザを治したという評判があったそうだが、これがもし打ち身で出来るアザだったり、ちょっとした内出血だったら、加持祈祷をしなくても自然に治っていく可能性がある。
目もぷっくり腫れたり、かすんで見えなくなれば目がどうにかなっちゃうのではないかと凄く怖い思いをするかもしれないけれど、それも自然に、あるいは適切な治療によって治るものもある。
但し私は信じる力も否定するつもりはないけれども。

目を治してもらったお礼なのか、与左衛門は「私の郷里の御嶽山に登山道を拓くとよい」とのアドバイス(暗示)をしたらしい。
実は御嶽山(黒沢口ルート)は1785年に尾張の行者・覚明(仁右衛門)によって開山されていた。
もし与左衛門が普覚にアドバイスしたというのが事実ならば、与左衛門はその成功例を知っていて、別ルートの開拓を勧めたのだと思う。

尾張(名古屋)の行者・覚明
享保3年3月3日生まれ。行商生活ののち,仏門にはいり真言密教を修行。天明5年木曾へいき,地元の信者をひきつれて御岳にのぼり,従来重潔斎(けっさい)をした道者にのみゆるされていた御岳登山を開放。各地に御岳講が組織される契機をつくった。

アドバイスをした与左衛門は病み上がりだし(?)、そもそも地元民ではあったが(木曽)御嶽山に登った経験はなかった。
そこで同じ王滝村出身で(木曽)御嶽山登山経験もあり、江戸で材木商の代人として活躍していた吉右衛門にガイドを依頼した。
すなわち結局のところ黒沢口ルートも王滝口ルートも山事情に詳しかった地元民が開拓したようなものである。

御嶽山の八丁ダルミ

(木曽)御嶽山の王滝口ルートには八丁ダルミと呼ばれている箇所がある。
王滝口ルートというのは普覚のほうのルートである。
写真:毎日新聞2017年9月27日
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ダルミについて

ダルミは弛む箇所のこと。連なる山の最上部を繋いでいく線が稜線と呼ばれるが、自然の山なので当然に稜線が少し下がる(垂れる)部分が出てくる。
山のピークとピークの間で窪むところである。ピークには小ピークもあるが、ともかくピークの間をダルミやタルと呼ぶ。漢字にすれば「弛」。
日本語では鞍部(あんぶ)と言うこともある。これは馬の乗る時に使用する馬具の鞍にラインが似ているから。
英語やフランス語ではcolで、山の窪む所(要するに鞍部や峠)のことを意味する。ラテン語のcolは首という意味だそうである。
日本の登山家の中にはコルと呼ぶ人もいる。
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馬具の鞍は人間が跨ぐ場所で、人間の股がそこにあることになる。
人間の股の中央は、命を創造し命が生まれてくる場所であり、同時に排泄の場所でもある。


仏教(密教)とコル

「コル」は仏教(密教)とも深い関係がある。

仏教の発祥の地はインドであり、インドからチベットや中国に伝わり、中国や朝鮮を経由して日本にも入ってきた。
ただ発祥の地インドではヒンドゥー教に呑み込まれる形で衰退していった。
古代インドではサンスクリット語(古代インド・アーリア語に属する)が標準語であった。
インド仏教がチベットに伝わる際にサンスクリット語はチベット語に訳された。チベット語への翻訳は意訳ではなく直訳を心掛けたという。

マンダラ(曼荼羅)という言葉を聞いたことがあるだろうか。
マンダラのチベット語キンコルに「コル」という語が入っている。

曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल maṇḍala、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))

「曼荼羅」は、サンスクリット語मण्डलの音を漢字で表したもの(音訳)で、漢字自体には意味はない(なお「荼」(だ)は「茶」(ちゃ)とは別字である)。
なお、मण्डलには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされる。中国では円満具足とも言われる事がある。

曼荼羅は、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。
日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。

チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。
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マンダラには丸いという意味があるが、チベットの「コル」にも円や輪という意味がある。
円や輪はサンスクリット語では「チャクラ」とも言う。
マンダラのチベット語はキンコル(dkyir 'khor)。
これは「キル(dkyil)」+コル(khor)」を言いやすくした言葉で、キル単独では中心や底という意味があるそうだ。
すなわちキンコルやマンダラは、単なる丸や球体ではなく、中心が強く意識されていることが分かる。

時事ニュース絡みで

中心が意識されているといえば、今回の台風24号の宇宙からの映像を思い出す人もいるでしょう。

偶然にも天台宗系の密教は「台密」と言う。
真言宗系の密教は「東密」である。

(木曽)御嶽山の黒沢口ルートを開いた尾張の覚明は真言宗系の密教の修行者である。
王滝口ルートを開いたいう普寛は天台宗系の密教の修行者であった。
両者は宗派が違うのである。

(ページを改めてまだ続く予定です)




by yumimi61 | 2018-09-30 14:01 | 御嶽山噴火と御嶽教

人工

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写真の山は武尊山、赤い橋は関越自動車道。
この近辺一体はかつて沼田ダム建設予定があった。日本最大、それもとてつもなく大きな人造湖(ダム)の建設計画である。
もしダムが建設されていたならば私の実家も水没する地域であった。
沼田高校や沼田女子高校も水没地域であった。


沼田ダムは1952年(昭和27年)に第3次吉田内閣によって閣議決定され、建設省関東地方建設局による正式な事業となった。

必要な事業費を現在の貨幣価値に直すと順調に事業が進捗したと仮定しても約9,777億円と実に1兆円近くの巨費となり、日本最大級のプロジェクトとなる。

地図で水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点を越えて利根郡月夜野町]付近、群馬県道273号後閑羽場線の月夜野橋まで水没する。また東では片品川が沼田市下久屋町付近、薄根川が沼田市岡谷町まで完全に水没する。沼田市は高台の一部が半島状に残り、低地は全く水没する状態となる。上越新幹線や関越自動車道が沼田市付近を避けて高台を通過しているのは、沼田ダム建設を念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号の予定路線とほぼ同じ位置を通過しており、沼田インターチェンジは水没を免れる新沼田市街予定地に建設されている。

水没予定地の中には沼田市役所・沼田警察署・沼田消防署・国立沼田病院・国鉄沼田駅といった沼田市官庁街が含まれる。移転世帯も2,200世帯と莫大なものとなり、沼田市はダム建設によって多大な損失を蒙る。このため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム」計画に猛然と反発、「沼田市・利根郡を繁栄から零落へ引きずり落とす」・「藤原ダム・相俣ダム水没住民の例を見れば、移転住民の将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成。計画発表の3ヵ月後、10月7日に沼田公園において「沼田ダム建設反対総決起大会」を挙行した。この大会に集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻やムシロ旗を携え、市街地をデモ行進してダム反対を訴えた。
これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日、沼田ダム建設に対して「沼田市が壊滅する」と反対決議を全会一致で採択。周辺の利根郡昭和村等も反対の意思を明確にし、建設省に対し激しく抵抗した。

沼田市が官民一体となって繰り広げたダム反対運動は世間の注目を浴び、国会でも問題になった。この頃は吾妻川でも八ッ場ダムが川原湯温泉水没を理由に吾妻郡長野原町が反対決議を採択して激しい反対運動を展開しており、利根川の河川開発のあり方を巡って国会でも建設の是非について度々取り上げられた。だが政府・建設省は基本的に沼田ダムの必要性を訴求、当時第3次池田内閣の建設大臣であった河野一郎や小山長規も沼田ダム建設促進の姿勢を崩していなかった。

1966年(昭和41年)2月、第1次佐藤内閣の建設大臣・瀬戸山三男が「沼田ダムは首都圏のために必要な事業で、建設を推進したい」と発言した事から沼田市はさらに態度を硬化させた。

これまで状況を静観していた神田坤六群馬県知事や群馬県当局・群馬県議会も「大勢の県民が犠牲となり、群馬県全体を混乱させる沼田ダム事業は容認できない」として、事業に対し反対する姿勢を見せたことから群馬県全体が官民一体でダム事業に対し明確な反対意思を表明。ここにおいて事業は完全に膠着化する状況となった。

佐藤内閣はそれでも沼田ダム建設推進の姿勢を崩さなかった。だが建設省はその後の利根川水系における治水計画・「利根川水系工事実施基本計画」の中で沼田ダムを盛り込まず、「本庄ダム計画」(烏川)や「跡倉ダム計画」(鏑川)、「神戸ダム計画」(渡良瀬川)を進めるようになった。また、水資源開発公団も「利根川水系水資源開発基本計画」で沼田ダムを盛り込まなかった。
さらにダム計画の目的でもあった赤城・榛名大開田計画が水源を矢木沢ダムなどに求め、沼田ダム計画を利用しない形で1964年より群馬用水が建設され1969年(昭和44年)に完成、ダム計画地点の直上流にある綾戸ダム湖に取水口を設置し灌漑用水供給が開始。東京都への上水道・工業用水道供給についても矢木沢・下久保ダムを水源に利根大堰より葛西用水路・見沼代用水・埼玉用水路が整備され荒川水系に連結、沼田ダム計画の進捗を待たずに東京都内への供給が開始された。
このように沼田ダム計画が次第に放置・形骸化する中で転機が訪れた。佐藤内閣から引き継いだ田中角栄内閣の誕生である。

「日本列島改造論」を引っ提げ総合開発事業を強力に推進していた田中内閣であったが、沼田ダム計画については事業の再検討を行った。1972年(昭和47年)10月11日、第1次田中角栄内閣の建設大臣である木村武雄は沼田市を訪問し、ダム予定地視察や関係者との懇談を行った。そして「地元に多大な犠牲を生じる沼田ダム建設は不可能」として談話を発表。ダム計画の白紙撤回を表明した。こうして1952年に第3次吉田内閣が事業を承認してより20年目にして沼田ダム計画は中止されたのである。




武尊山は標高は2158mとさほど高くはないが決して甘くはない山であり、特に冬ともなればなかなか厳しい山となる。
山田昇もこの山に学んだという。
武尊山では山田昇にちなんだ記念レースも行われている。
山田昇の実家のりんご園は沼田ダムに沈む予定ではなかったインターチェンジ側の沼田市にある。

実はこの武尊山、御嶽山と無縁ではないのである。


武尊山と御嶽山

武尊山の山名の由来は日本武尊。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書記や古事記に登場する古代日本の皇族(王族)。
日本武尊は征西にも東征に出掛けたが、その東征の際にこの山に登ったという伝承がある。
登山後に疲労と病気で体調を崩したが、白鷹に導かれて温泉を発見し、そこで湯治したら全快したそうで、その温泉が(かつてクマもいた)宝川温泉。

日本武尊ばかりだけでなく、古代の人だって山を眺めていただけでなく登った人はいた。また山は修験の道場(宗教の修行の場)でもあった。
「開山」というのは比較的誰でも上りやすいような登山ルートが開かれたことを言う。それが何か記録に残っていれば、後世においてはそれが開山年だったり開山した人だったりになる。

武尊山には「御嶽山大神」や「普寛霊神」の石碑がある。
「なんで御嶽山なんだ?」と思う登山者は少なくないらしい。
これは御嶽山を開山(厳密には王滝口ルートを開拓)した人物と、武尊山を開山した人物が同じだからである。


行者・普覚

その人物は修行者である普覚(ふかん)という人物である。
1731年、秩父郡大滝村(現在の埼玉県内にある地)に生まれた。
一度は江戸に出たが、1764年に秩父郡にあった三峰山の修験道本山派の寺院・観音院に入門し修験するようになる。


修験道について

修験道
日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。
森羅万象は大日如来の化身と捉える密教思想を背景に、蔵王権現や不動明王などを中心的尊格とする。
明治初年に政府の弾圧を受けて、廃絶とされた経緯があり、現在では仏教教団として存続しているものが多い
根本道場は、開祖役小角が開いた、吉野・熊野を結ぶ大峰山にある大峰山寺(および金峰山寺)である。主に天台宗(寺門派)の聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派に分かれる。葛城山も開祖修行地として重要視されている。
地方では、東北地方の出羽三山、九州の英彦山、中国地方の五流修験などが有力で、独立傾向が強い。特に出羽三山は開祖を役小角ではなく、蜂子皇子としており、独自性を打ち出している。
また富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ、修験道からは半ば独立したような固有の世界を形成している。また天台密教、真言密教の総本山である比叡山や高野山でも修行が行われた。

古代
最澄や空海が霊山を開く。
日光山など開かれる。

中世
熊野信仰が興隆。熊野詣が流行。
大和国の大寺院を中心とした修験教団が形成。後の当山派。

近世
幕府が本山派、当山派を改めて認定
富士信仰の中で、角行系富士信仰が成立
木曽御嶽信仰が成立

近代
神仏分離・廃仏毀釈と修験道廃止
教派神道教団の成立
修験道教団の復興と再編成


中央霊場に拠点を置く教団
 吉野修験:修験道の根本道場とされる吉野の大峰山(金峰山)で行われる修験。
 熊野修験:熊野三山を拠点とする修験。
 葛城修験:修験道の発祥地とされる葛城山を拠点とする修験。
 比叡山修験:比叡山で行われる修験。

全国に配下を持つ教団
 本山派:天台宗寺門派の聖護院門跡を本山とする修験道教団。
 当山派:真言宗古義派の醍醐寺三宝院門跡を本山とする修験道教団。

普覚はもともとは天台宗の密教系である本山派に属していた。
上の説明で「富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ」とあるが、これらは近世・近代に勃興した山岳系宗教であり、歴史的にはそれほど古いものではない。

修験道は江戸幕府はもとよりもっと古くから認められていたが、明治政府は神仏を分離し、神道国教制を敷いた。こうして近代天皇制国家が作られたのであって、要するに神替わりしているというか、今の天皇制の歴史は近代しかないということになる。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。
修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。


修験道は密教と密接な関係を持っているわけだが、密教はユダヤ教やキリスト教の神秘主義にも通じるものがある。
チベットのチベット密教(チベット仏教)はインド密教(インド仏教)がチベットに伝えられて成立した。
1960年代のヒッピー文化を経て、1980年頃から欧米においてインドのヨガや日本の座禅などを中心に東洋の神秘主義が注目されるようになり、特にチベット密教(チベット仏教)が人気を集めた。ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者。
オウム真理教はそことコンタクトを持ち、新興宗教として頭角を現していくことになる。


阿闍梨

御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという。

阿闍梨(あじゃり、あざり、ācārya アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写)
サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記するが、その意味は本来、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことである。

南伝の上座部仏教や、北伝の大乗仏教をはじめ、中世の日本密教や、現在のチベット密教では衆僧の模範となるべき特別な資格を有する高位の僧侶の称号であり、日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった。

ただし、現代では一定期間の修行を経て「伝法灌頂」を授かった、宗派の認定する資格を有する職業としての僧侶を意味する。従って、現在の真言宗や天台宗では、阿闍梨は普通に密教を学んだ僧侶一般を指し、特別な高僧の称号ではない。

本来、阿闍梨の称号を得るためには「阿闍梨の五明」といわれる教養と学問と、実技や修行とを身に付けなければならないため、現在でも、チベット密教では厳しい基準や、三昧耶戒の「阿闍梨戒」があり、衆僧や一般信者の尊敬を一身に受ける立場となる。また、チベット密教においては、密教の阿闍梨を金剛乗の阿闍梨という意味で、「金剛阿闍梨」(チベット語;ドルジェ・ロプン)ともいう。


「阿闍梨」は外国と日本、昔と今では、言葉の重みが違うが、どちらにしても宗派の認定する資格である。
「伝燈阿闍梨」は弟子に教えることができる資格であり、一定の課程や経験を積む必要があり、50〜60代で得られる称号。宗派の中だけで有効な資格であり、どこでも使える教員資格というようなものではない。

現在の日本密教では阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称であり、伝統的な仏教上の名称と「四度加行」という行道を一応は踏襲してはいるが、実質的な内容を伴うものではなく、例えば、高野山真言宗では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。
いわゆる日本で事相面での教師としての阿闍梨となると、伝法灌頂を終えて各本山に3年ほど残り、その期間を含めて流派や人によるが、最短で約10年ほどで「一流伝授」の資格を得て初めて、弟子にものを教えることのできる伝灯の阿闍梨ということが出来る
高野山真言宗では、高野山の勧学院で行われる勧学会に毎年出仕して修学し終え、特別に選ばれて十数年に一度開壇される学習灌頂を受法すると、最奥の阿闍梨位とされる伝燈大阿闍梨に昇達する。


高野山の例が書かれているが、高野山も真言宗の密教。
いつか某放送局の某番組が高野山から放送していた。
放送局も然ることながら、神仏を分離させ修験道を禁止し弾圧した明治政府の頂点に立った天皇家の子孫で仏教とは無縁の天皇が、仮にも仏教や修験道に区分される高野山に献花するってどういうことなんだろう?

過去記事より
今年5月1日、テレビ朝日の報道ステーションは高野山・金堂から放送し、これは巷でもちょっとした話題になった。
なぜ酸いも甘いも嚙み分けるはずの報道番組が宗教の懐に抱かれなければならないのだ?
本来ならば両者はとても遠い存在であるべきだろう。
現世で達観してしまい宗教に親近感を感じてしまったということだろうか。

カメラは舐めるように本堂内を映していく。
中央の御本尊(?)の横に佇む献花に添えられた天皇陛下の文字がやけに眩しい。

日本の象徴である天皇陛下の文字があるからまだいいが、これがただの高野山ならば何故公平であるべき報道機関が一宗教法人から放送する必要があるんだ!と非難轟々となったはずだ。
宗教はその取り扱いが非常に難しく、慎重にならざるを得ないものである。
テレビ朝日と高野山はどんな関係なんだ?ということになる、こんなことはなかなか出来ない。

その高野山、実は投資運用に失敗したらしい。



オウム真理教の3女のホーリーネームに「アーチャリー」と入っているが、これは「阿闍梨」である。
麻原(松本智津夫)の3女と4女の仲があまりよろしくないようで(遺骨でも争ってましたよね?)、さらに3女はかつて教団幹部だった上祐氏(早稲田大学理工学部卒業後に特殊法人宇宙開発事業団に就職したという経歴あり)や滝本弁護士などとも対立しているらしい。
教団内には上祐派とA(アーチャリー)派があったとか。




by yumimi61 | 2018-09-28 16:07 | 御嶽山噴火と御嶽教

至当

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この写真は2016年9月29日に撮影したもの。
爆発のような噴火のような凄い雲だったので撮った。
空が低い雲に覆われ、その中でもちょうど山がある場所に雲が下りていて、山を隠すような形となっている。


御嶽山噴火から4年目

今日9月27日には御嶽山が噴火した日で、もう4年になるという。
時間が経つのは本当に早い。

御嶽山が噴火した2014年9月27日(土)は次男の修学旅行の前日だった。
学校の行事ではあるが日曜日出発であった。そのことは

に書いた。(写真は高校の正門前で撮ったもの)
その記事で「航空便リアルタイム追跡ページ」にリンクし、次男たちが乗ったANA663便の運航状況を書いた。
この間の台風でヘリコプターに怯え(?)フライトレコードを見ていた人達がいたけれども、私はこの時のことを思い出していた。


2014年10月11日~18日までの1週間、私は御嶽山特集記事を書いた。
特集六では、とあるNHK取材班が噴火のあった9月27日に御嶽山8合目で山頂に向けてカメラを構えていたという話を書いた。あと山での携帯電話事情など。
実は近年私がNHKを見るようになったのはこの時からである。
この時まで自発的かつ定期的に見ているNHKの番組やニュースといったものはなく、アナウンサーなど出演者も全くといって知らなかった(初恋の人と同姓同名騒動で『のど自慢』のことはちょっと知っていた)
(だけどその代わり、私がテレビをほとんど見ていなかった時代に一番見たテレビは紛れも無くNHKの教育テレビだった。子供が幼かった時代だから)

特集二の中には、次のように書いたがこれを書いた時点ではアナウンサー名も分からなかった。後で知ったがこれは今は朝のニュースを担当している高瀬アナウンサーだったみたいですね。

NHKのアナウンサーが噴火当初「おんたけ」でなく「みたけ」と言ってしまい、「おんたけっ!」と注意されていたが、黒沢口の麓は木曽町三岳(旧三岳村)で「みたけ」という名称は今でも多く使われている。



信仰の山としての御嶽山

御嶽山は山岳信仰、霊山としての顔を持つ。

御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。

江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。

王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。
林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。 

1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。


頂上の奥社(社務所)を含め御嶽山にある拝殿や社務所は御嶽神社の社殿ということになる。
仏教やキリスト教やイスラム教といった大きな宗教区分の違いも然ることながら、同じ宗教でさえいろいろな宗派や団体が存在するものである。
熱心な信者ほどどこでもよいというわけにはいかないであろう。
敬虔なキリスト教徒が仏式で葬儀してお寺にお墓を建てたりはしない。
仏教徒が教会でお葬式することはないだろう。
もっと細かな区分での宗派や団体、檀家や氏子などということになれば長く続く慣習や細かな決まり事、外の人間には分からない濃密な関係があるのだと思う。
同じ仏教だから、同じ神道だから、同じキリスト教だから、どこで何をして構わないということにはならないだろうし、信者らはどこで何をしても同じ御利益があるとも思っていないんだと思う。
信仰とは、観光客があちこちの神社に行って、そのたびに好きなことをお願いしてくるのとは違うし、仏教徒がキリストの十字架を身に付けることとも違う。少なくても熱心な信仰者はそう思っているはずである。
他地域からの観光登山、信仰者の信仰登山、地元民の登山、プロ登山(?)、それらも同じではない。


相撲問題と村八分問題

今話題になっている相撲の一門問題と少し前に話題になった奈良県天理市の村八分問題は、問題の根っこが似ている感じがする。
だから村八分を批判して相撲協会を庇うのはおかしいような気がする。

天理市は天理教のお膝元、いわば宗教都市のようなもの。
天理市
中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。
名称は天理教に由来する。同教の本部が市中心部の丹波市町にあったこと、同教が市制施行時に一帯に普及していたことによる。県に対する合併申請書類の一つ、市名選定の理由書は、次のように述べている。

「 (前略)市の中心たる元丹波市町は天理教教会本部の所在地であり従来より天理の町として又宗教の町としてその名は全国の隅々にまで知れわたつております。
この際合併を契機として宗教都市たる本質を明瞭に表現し関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく住民の意向や感情を勘案してこゝに「天理市」を選定したものであります。 」

2017年現在、日本で市名に宗教団体の名称が使われている唯一の例である。


しかしながら村八分の件は氏子以外は自治会の構成員として認めていないということだったので、これは天理教ではないのかな。
自治会側が天理教以外の宗教で、移住者が天理教とか?

地方の田舎にいくと、地区ごとに神社があり、その地区の住民は基本的にその神社の氏子扱いになるというのはよくある話である。
要するに自治会=氏子だったわけである。
神社の祭典(なんかのお祭りとか)の費用を集めて、祭典をし、各戸にお札が配られたりする。自治会なので役職なんかも回ってくるし、お祭りなどあれば皆お手伝いなどに参加しなければならない。
ただ神式で葬儀をする人はそう多くない。
地域にはお寺もあり、そのお寺の檀家であったりするわけだから。
仏教のほうが神道よりもしっかりとした宗派があり、同じ自治会に属していても同じ寺の檀家でないこともある。
がしかし、田舎では宗派やお坊さんによらず、葬式は自治会(隣組)が仕切るという仕来たりが古くからあった。不幸のあった家の人は何かと大変だから、ご近所さんが手助けをしてほとんどのことをしてくれるわけである。
これも最近では田舎でも自宅で行わず葬儀社に全部任せるということが非常に増えている。

現代では多くの地域が何でもかんでも氏子が中心になっているわけでは決してないと思う。
自治会の年間行事の1つに地域の祭り(神社の祭典)が入っているくらいの感覚である。

だが自治会の祭りというものは神社なんか一切関係なくとも現代人には嫌われるものである。
何日もそれに(半ば強制的に)関わるはめになるのだから、まあ大変と言えば大変だし、この祭りって何か意味あるの?とか通りすがりに思ってしまうことは正直ある。
基本面倒くさいことはしたくない。役員とかやらされるなんて最悪。希薄な関係を望む。近所にいて濃い関係なんて角が立つだけ。同じ地区に住んでいるというだけの共通項は心許ない。その日その時限りの付き合いなんて心底信じていない。そんなような理由でよそから転居した移住者が多い新興地域ほど地域行事は嫌われる。地域の運動会の参加者を集めるのも一苦労。
都会人は回覧板すら過去のもの、あるいは存在を知らない。
賃貸住宅の居住者は地域行事の何やらかんやらに含まれてないこともある。

天理市のその自治会では、移住者はそういう煩わしいものに参加しなくてよいと言うのだから、世相に合致していて移住者にとったら良いような気がするんだけれども。しかも移住者(非氏子・非自治会員)のほうが数が多いんだし。
お金をとられることが問題なのかな。お金の問題は大変だからね。
でも市からお達しのある地域の一斉清掃に欠席するとお金を取るという自治会もあり(参加者と不参加者がいるのは不公平だからという理由)、お金で正々堂々と参加しなくてよいのならばそのほうがいいという意見も実際あるから、そのように割り切れる人ならば「参加しないけど支払う」ということのほうが却って良いのかも。
それとももっと根深い問題が隠れているんだろうか。
ちなみにうちにも広報が配られない。それは市が自治会を経由して配布していないから。広報は新聞に折り込んでいるので新聞をとっていない家には届かない。でも市役所とか郵便局とか図書館とかコンビニとか市内のあちことに置いているから欲しい人はそこから持って来ればよい仕組み。その場でささっと読んでまた置いてくればエコだし!?


選ばれし時

御嶽山の噴火で多くの被害者を出したこともどこかやるせない。
噴火のタイミングにみる神に見放された感、エアポケットに巻き込まれたような警戒のない突然の噴火。
何かが少し違っていたらそんなに被害者は出なかっただろうと思わせることがやるせなさに繋がる。
ある意味、「選ばれし時」に起こってしまったようなそんな。


御嶽神社の開山祭は例年7月1日で、7合目の田の原社務所で催される。
頂上奥社での開山祭は7月10日と少しずれる。
開山祭は御嶽神社の祭典の1つである。
昔から今日に至るまで御嶽教の信仰者は白装束に身を包み夏登山をする。
頂上奥社は大宝2年(702年)創建。全国に1000万人を超える信者がいるとされ、毎年夏になると白装束に身を包み、「六根清浄」と唱えながら登る信者の団体で賑わいます。

頂上奥社で閉山祭が行われるのは例年9月上旬。
開山祭から閉山祭までの間は頂上の社務所も毎日開所している。
閉山後は閉めて誰もいなくなる。
9月27日は御嶽神社の頂上社務所は完全にオフに入っていた。
だから戸締りがしてあり、噴火時にその中に避難するということが出来なかった。

実は9月上旬で完全にオフに入るのは頂上の社務所だけなのである。
〇頂上社務所
 開山から閉山までの毎日
〇8合目の遙拝所社務所
 開山から閉山までの毎日、5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇7合目の田の原社務所
 開山から閉山までの毎日、4・5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇5合目の八海山神社社務所
 開山から閉山までの毎日、1月1日~2月3日までも毎日、5・6・9・10・11月の土曜・日曜・祝日
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境内の湧水は目の病気に良いとかで、め!

〇1合目の別殿社務所と里宮社務所
 通年 

8合目以下の社務所は9月10月は土曜・日曜・祝日は開所している。

選ばれし者たち

2014年の記事では紅葉にはまだ早いと書いたが、御嶽山の紅葉シーズンは9月下旬から10月上旬だということなので、ちょうど紅葉が始まった頃。紅葉のピークではないかもしれないが、秋の行楽シーズンでもあるので観光登山客は少なくないであろう。
暑くもなく寒くもなさそうな一番気候が良いと感じるであろう9月。
それも頂上社務所が開いている上旬ではなくて下旬。白装束の登山集団がいなくなる時期。
しかも噴火があったのは休日土曜日。(NHKの取材クルーの皆さんはわざわざ土曜日に取材に行かなければならないお仕事だったわけですね、ご苦労様です)
どう考えても一般登山客が多い時期や曜日である。
しかも噴火が夜とか夕方とか早朝とかではなくてお昼頃。頂上で一休みしてお弁当でも食べちゃおうかなあというまさにそんな時間であり、噴火が起こる時間的にも最悪。

そういう選びに選んだようなタイミングで噴火が起きてしまって、そのタイミングがもたらすであろうことから外れることなく死者・行方不明者を63人も出した。
その山は山岳信仰のある霊山であるにもかかわらず、信仰登山者の犠牲者は一人としていない。
御嶽教に信仰する者でなくても神に見放されたと表現したくなるような噴火と犠牲であった。




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by yumimi61 | 2018-09-27 17:13 | 御嶽山噴火と御嶽教

行く水に過ぐる時をば浮かべれば よしなしごとは消え果てぬめる


山荘情報(こちらを参考

■御嶽頂上山荘(剣ヶ峰頂上への最後の階段の上り口にある山荘)
 (住所)長野県木曽郡木曽町三岳 
 (期間外連絡先)長野県木曽郡木曽町三岳3304 新井龍雄さん

■御嶽剣ヶ峰山荘(御嶽頂上山荘と前後して並ぶ山荘) 
 (住所)長野県木曽郡木曽町三岳
 (期間外連絡先)長野県木曽郡王滝村3159-3 木曽御獄観光 かつてはこの山荘も個人経営だったらしい。

■王滝頂上山荘(王滝御嶽神社の前)
 (住所)長野県木曽郡王滝村
 (期間外連絡先)長野県木曽郡王滝村3159-3 木曽御獄観光

■二ノ池本館(エメラルドグリーンの池のそば)
 (住所)長野県木曽郡木曽町三岳
 (期間外連絡先)長野県木曽郡木曽町三岳3304 新井龍雄さん

■二ノ池新館
 (住所)長野県木曽郡王滝村2881  施設県名が東京都になっている
 (期間外連絡先)東京都調布市東つつじケ丘3-7-5

五の池小屋・・北から登ってくるルートにある
(今回の噴火でニュースに取り上げられていた山小屋。山小屋のすぐ裏手に 大瀧霊神を祀る飛騨頂上神社あり。飛騨側の御嶽神社奥宮となるが2010年に作られたもののようだ。神社のルーツは不明)
 (住所)岐阜県下呂市
 (管理者)岐阜県下呂市


不思議なのは二ノ池新館。
岐阜県(下呂市)と長野県(木曽町)の県境付近にあり、はっきりどちら側に属しているのか分からないが、少なくとも地図上では王滝村ではない。
二ノ池本館住所に王滝村と記されているものもあれば、「王滝村連絡先」として上記住所を記し、「山小屋直通」として電話番号だけ記入してあるものもある。別途「東京連絡先」もあり。
持ち主や管理者が誰であっても住所は住所だと思うのだが・・・。なんか少し怪しい感じ。飛び地?


▲御嶽教のおさらい
 明治15年5月17日に明治天皇の勅裁により開教された教派神道であり、現在、木曽と奈良に両本宮をおき平成24年に開教130周年を迎える由緒ただしき宗教団体で、天皇陛下即位20周年、又ご成婚50周年祝賀会に現管長が奉祝役員に選ばれ、宮中茶会にご招待を賜わりました。
八丁ダルミ付近の「まごころの塔」や「御嶽教神火祭斎場」は御嶽教90周年記念に作られたものであることはすでに述べたとおり。

里の本宮 御嶽山大和本宮
 (住所)奈良県奈良市大渕町3775

・山の本宮 御嶽山木曽本宮 
 (住所)長野県木曽郡木曽町福島和合4412-1


ここではまた別の本宮が出てくる。
現在、御嶽教神火祭は御嶽山木曽本宮で行われている。
御嶽教と御嶽神社の関係はいかに?
1944年に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っているそうだ。



・戻ったオレンジ
・山荘と言えば「あさま山荘」だったね!
・灰に弱かったオレンジ?
・狙われたローリータンク!?
・写真について



御嶽の秋
by yumimi61 | 2014-10-18 11:55 | 御嶽山噴火と御嶽教

彼の人は野辺の煙で天に消ゆ 世に降るたづきそこにやあらむ


・やっぱり無かった避雷針
・どうしてそれが分かったのか ~検視と検死と検案~
・何のために知りたいか


驚天動地
by yumimi61 | 2014-10-17 12:16 | 御嶽山噴火と御嶽教

留守電のあなたの声を保存して やめてほしいと懇願される


・御嶽山で張り込んでいたNHKクルー
・山での携帯電話事情
・スマホバッテリー事情
・最期の記録


緊張の人
by yumimi61 | 2014-10-16 14:33 | 御嶽山噴火と御嶽教