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カテゴリ:新元号「令和」の典拠( 6 )

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初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き  蘭は珮後(はいご)の香を薫らす


写真の花は蘭、実家に咲いているウチョウラン。無香。
写真を撮ったのは6月であり、この時はまだほとんど蕾の状態だけど。今はもう花は咲き終えた。
蘭は蘭でも日本の山野に自生する蘭の1種。

私は新元号「令和」の典拠に関しての記事で蘭(蘭とは何か)について取り上げた。
古い時代に屋外に咲いていた蘭だとすれば、このように小型の可憐な花だったと思われる。
蘭が梅の季節に屋外で咲くことはまずないけれど、万が一咲いていたとしても、香りの花である梅を差し置いて蘭が香ることはない。

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初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き  蘭は珮後(はいご)の香を薫らす

↓これは前に書いたことだけれど、私はこのように解釈している。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。


そしてその時には書かなかったことがある。
それは、鏡前(きょうぜん)と珮後(はいご)は、前と後ろ(背後)という意味でもあるのではないのかということ。
梅(女性)は男性の粉を誘い、蘭(男性)は女性の香を一段と際立たせるという意味。
もともと香りのある梅(女性)が一段と薫るのだから、これはもう素の香りではないということになる。

今はほとんど使われないが「粉をかける」という言葉がある。
もちろん粉は抽象的な意味だけれど、あえて具現化して言えば麻薬とか媚薬とかを使って知らず知らずのうちにその気にさせるということを思わせる。
「粉をかける」の意味としては男女の間で(同性愛の人ならば同性間でも)、思わせぶりな素振りをして誘惑したり、気があるふりをすること。
もっとも’ふり’ではなくて実際に気持ちがあるから行う場合もあるとは思うが。
よくあるのは、お店のホステスやホストがお客さんに対して行ったり、不埒な恋を目的にした誘いなど。
ストレートな告白やら求婚ではなくて、婉曲的な言葉やあえて誤解を誘うような言動、また漂う雰囲気でその気にさせるというものなので、後々逃げや言い訳が可能であり、揉め事や修羅場に予防線を張っておくという見方も出来る。
後々可能な言い訳としては、「単なる遊びだった」とか「合意の上だった」とか「相手から誘われた」とか「相手が勝手に貢いだ」とか「相手だってまんざらでもない様子だった」とか「自分はそんな気(下心)は全くなかった」とか。
相手を弄んで騙したのだとしても、はっきりと騙したという証拠(言葉、今ならば音声テープとか)がなく、例えば裁判沙汰などになっても状況証拠しかない状況である。だから詐欺師という認定ができずに逃れられるというわけ。

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言葉を持たずに生まれた赤ちゃんがやがて言葉を発するようになる。
フロイトやユングに師事した心理学者らによれば、人間は言葉を覚えて初めて空を飛ぶ夢を見るのだと言う。
それはどういう事かと言えば、大きな視野と俯瞰の視点を持つということ、大きな世界に羽ばたき出すということ。

『夢分析』(新宮一成著、岩波新書)の著者は、夢を見る理由を「忘れていた幼年期の記憶を呼び戻し、自らの存在の根源を再確認すること」と考える。例えば「乳幼児期に初めて言葉を話せるようになることが空飛ぶ夢の源泉である」という。つまり、「新しい人生の段階にさしかかり、その段階にふさわしい言語活動に参入できるかどうかが不安になった時、かつて言葉を話せるようになった時の記憶が呼び戻される。そして、空を飛ぶ夢を見ることで、かつてはできたではないか――と自分に言い聞かせている」というわけである 。

しかしその代わりに失うものがある。それは小さく固有な視点と感覚である。
私が「あなた」と書いたり言ったりする時の「あなた」と、他の誰かが「あなた」と書いたり言ったりする時の「あなた」は決して同じではない。
にもかかわらず「あなた」という同じ言葉で表現できてしまう。
別に「あなた」の部分は「あなた」でなくても人間でなくても構わない。例えば「蘭」でも同じこと。
私の家に咲いて私が見たり触ったり嗅いだりする「蘭」と、言葉としての「蘭」。そこにはギャップがある。
「ウチョウラン」にまで範囲を狭めても根本的には同じこと。
共通語である言葉は、個人がそのものに持つかけがえのない性質色彩を削ぎ落してしまう。
どんなに修飾しても自分が感じたままを言葉にすることは不可能と言っても良いくらいで、よほど意識しない限り、様々な想いや感覚は言葉にした時から言葉という形の枠に嵌め込まれ、自分の言葉によってすら自らの想いや感覚まで失いかねないのだ。
他人の言葉を見聞きする時には尚更である。

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フロイトとユングを描いた、イギリスのデヴィッド・クローネンバーグ監督による『危険なメソッド/A Dangerous Method』という映画が2011年に公開された(日本では2012年公開)。
1993年のノンフィクション本『A Most Dangerous Method』の舞台版である『The Talking Cure』(2002年)を原作としており、その脚本家でもあるクリストファー・ハンプトン自らが脚色した。

Cinema Cafe.net 実話!ユングとフロイト…偉大な心理学者の関係と、歴史の陰にあるスキャンダルより
ジークムント・フロイトとカール・グスタフ・ユング。心理学界における永遠の二大巨頭である彼らの名前は知っていても、2人のデリケートな関係性について詳しく知る人はそれほど多くはないかもしれません。『危険なメソッド』は、フロイトとユングの出会いから蜜月時代、そして決別までの軌跡をたどったヒューマンドラマ。2人の関係の変化には一人の女性の影があったことにまで踏み込んだ、ちょっとスキャンダラスな物語なので、心理学に興味のない方であっても、歴史の陰にあるミステリアスな“三角関係”にはきっと興味を持つことでしょう。

同じ精神世界に興味を持ち、同じ時代に生きた2人は、一時は師弟関係にありました。1856年生まれの精神分析学の大家(フロイト)と、彼を慕い、彼の提唱する“談話療法”に刺激された1875年生まれの若き精神科医(ユング)という、立場や年齢の違いこそあれ、精神分析の研究に熱心な2人は、ユングのもとに訪れたひとりの患者をきっかけに、20世紀初頭に出会ったのです。

精神世界に神秘性を感じていたユングと、あくまでも“性”に執着し科学として確立させたいフロイトには、様々な考えの違いがありましたが、初対面で13時間も対話や議論を続けたほどの意気投合ぶり。チューリッヒとウィーンと遠く離れてはいても、友情を育み続け、フロイトにして「君が私の後継者だ」とユングに告げさせるほど信頼し合っていたのです。ところが、そんな交流は長く続きませんでした。実は、その原因となったのが、2人が出会うきっかけとなった患者・ザビーナ。彼女こそ、2人の蜜月時代を終わらせた張本人なのです。

ユングが最初にザビーナに会ったとき、彼女は幼少期から続く性的なトラウマでヒステリー状態に苦しんでいました。その原因を、フロイトの“談話療法”で突き止めることに成功したユングは、彼女が好転していることをフロイトに報告しに行くことで精神分析の大家と出会うことになるのです。ユングは常に冷静で感情を抑圧した姿で描かれていますが、実はザビーナと出会った後、自らの内なる欲望を目覚めさせ、彼女と一線を越えてしまいます。自らも精神科医を目指す聡明で美しいザビーナとユングの会話、フロイトとユングによる夢分析、医師でありながら快楽主義者で患者たちと関係を持つことに罪を感じないグロスとの会話などから、ユングの微妙な変化が感じ取れます。その変化は、彼の内面に葛藤を生み出すのですが、それにより、フロイトとの関係にも変化が生じてしまう様子が、静かに描かれていくのが本作の見どころ。

歴史の中では、2人が1913年に長旅を共にしていたとき、互いの夢を分析し合っていたときに激しくぶつかり、破局したとも言われています(映画にもこの辺りの描写があります)。その後、ユングはショックから精神的な混乱に見舞われるのです。こういった経験を通し、彼が確立したのが分析心理学。フロイトの確立したものは“精神分析”と呼ばれ、それぞれへの支持を表明するとき、「ユング派」、「フロイト派」とされるようになったのです。
歴史上は2人の決別は学問上の理論の違いだったとの印象も受けますが、実はもっと根源的な人間性の違いによるものだったのかもしれない、と思わせるのが本作です。

2人について、ユングを演じたマイケル・ファスベンダーはこう語っています。「ユングは何事にもオープンだったが、フロイトは心理学の1つの形態に重きを置いていた。全ての神経は性の起源から生じるとする考え方だ。ユングはそこに疑問を感じていたと思う。ユングはフロイトをとても尊敬していたが、彼はいつも二番手だし、フロイトの哲学で言えば、ユングは“父親を殺して後を引き継ごうとする人間”だ」。「彼らもただの人間だし、僕たちがお互いにしているようなことをしている。彼らにも同じ欲望と嫉妬があるし、その多くがこの映画で描かれている。彼らは優秀な人間だが、エゴだってある。エゴと共に、たくさんの個性が様々な形で、彼ら自身を暴き出していくんだ。もしこの2人の男が、互いの凄まじいエゴを乗り越えていたら、おそらく僕たちは心理学や人間の心についてもっと丸みのある考えに出会えただろう。2人が彼らの関連性をもつために互いの意見を許容していたら、面白いことになっていただろうね」。

フロイトとユングの存在の陰に、運命の女が存在していて、こんな決別の物語があったというのは、まさに心理学界史上最大のスキャンダル。このほとんど知られていなかったスキャンダラスな史実を映像化したのは、『デッドゾーン』、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』で知られる鬼才デヴィッド・クローネンバーグ。フロイト、ユング、ザビーナの関係について「とても奇妙な三角関係だ」と語っています。「師弟関係だったユングは、フロイトのことを父親のように思い、事実手紙には何度もそう書いている。だから2人の物語に僕は興味をそそられた。そこに70年代まではほとんど名前も知られていなかった、ひとりの女性が関わってくる。彼女はユングの患者となり、彼と不倫し、そして彼の保護下で、精神分析学に興味を抱き、最終的にはフロイト派の分析医となり、フロイトのもとに行く。とても奇妙な三角関係だった。彼女はフロイトと性的な関係は結ばなかったが、それでもこの三角関係のそれぞれの辺に愛があった。ユングとフロイトの間も含めてね。彼らの間には驚くべき愛情と友情があった。ザビーナはその真ん中にいたんだ」。


29歳とまだ若い精神科医(分析医)だったユングとヒステリー()患者だった女性ザビーナが、すでに精神科医の大家だったフロイトの提唱した治療法(談話療法)を通して、医師と患者という一線を越えてしまう。ユングには妻がいて俗にいう不倫関係となったのだ。
しかし・・・
ザビーナとユングとの関係が公になりふたりは離れ、ザビーナはフロイトに師事する。ザビーナはロシア人と結婚、妊娠し、生活は安定する。ユングの妻は精神が不安定なユングに会ってほしいとザビーナを招待する。ザビーナがユングと話すと、ユングは現在も患者を愛人にしていると言う。ザビーナはその愛人は「私に似ているか?」と訊く。ユングは「似ていない」と答える。しかし、愛人は「精神分析医を目指しているユダヤ人女性」だという。それを聞いたザビーナは帰途の車中で涙を流す。ユングとザビーナの関係は愛だったのか、転移・逆転移だったのか?

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Wikipediaに転移・逆転移だったのか?と書いてあるが、心理学における転移とは。
S.フロイトが見いだした心的現象のひとつ。〈感情転移〉とも訳される。
自我の防衛を目的とする心的機制の一つで、ある特定の対象に向けられた感情または態度を、別の対象に向け変える機制をいう。一般には人から人への転移である感情転移(転嫁)をさす。
たとえば精神分析療法の過程において、患者の幼児期における重要な人物(たとえば両親)に寄せた感情、欲望、観念などが分析者に向けて展開されること。
このような人間関係の一様態は、あらゆる人間関係の中で本来多かれ少なかれみられるものであり、たとえば特定の人物が知らず知らずのうちにあたかも親のように見立てられたりすることはよくある。
ただ精神分析療法においては、患者は感情を自由に表出することが許容され、しかも治療者は中立的態度を堅持するために転移が濃密で純粋な形で起こってくる。


クライエントが他の人に寄せていた感情をカウンセラーに向けてしまうのが転移なら、その逆、カウンセラーが他の人に寄せていた感情をクライエントに向けてしまうのは逆転移である。

)以前も書いたが(今年3月10日『日光』でクララとハイジの話)、精神医学の「ヒステリー」は怒りを爆発させたり猛烈に騒ぎだすような状態を言うのではない。現在はヒステリーとは言わず、「転換性障害」や「解離性障害」と呼んでいる。

転換型
先立って心理的葛藤やストレスがあり、知覚の麻痺や、運動系のけいれんなどを起こすなど感覚や運動系の症状が多様な場合。あるいは失声や、発声困難など単一の症状の起こる場合。
解離型
外傷的なストレスの強い体験を想起できなくなり通常の物忘れを超えた健忘が起きるとか、あるいは、突如放浪し、過去の記憶を忘れてしまっている。








by yumimi61 | 2019-07-14 11:25 | 新元号「令和」の典拠

記念歌

新元号にちなんだ歌(選由)

新時代生きる私に痕疼き  2019年4月生まれの詠み人知らず  

出る杭は生まれた途端叩かれる  2019年4月生まれの詠み人知らず

マイノリティーいつの時代も等閑視  2019年4月生まれの詠み人知らず

赤をみりゃ召集令状思ひ出づ  詠み人知らず(昭和生まれ)

天平の継続年は知らねども  詠み人知らず(群馬県・長野県・新潟県あたりの昭和生まれ)

例の物持ってきてとはもう言えぬ  詠み人知らず(昭和前半生まれ)

十連休年間有給ほぼ消化  詠み人知らず(非正規社員)

十連休飲まず食わずのサバイバル  詠み人知らず(サービス業従事者・日雇い労働者・恐妻を持つ夫などなど)


今日は日産の臨時株主総会か。
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景気づけ土産はデイズ!!とはならん  詠み人知らず(日産の某従業員・某株主)


ゆとりより集塊世代似合わしい  詠み人知らず(昭和世代から平成世代へ)

ウチらまじ卍西暦のみで構わない  詠み人知らず(平成世代から昭和世代への返歌)

彼女らが古い世代になるなんて  詠み人知らず(昭和生まれ)

あたしらはもう歳だから気にしない  詠み人知らず(平成生まれ20歳)


深刻な社会分断無二の国  詠み人知らず(外国人記者)

111(←スロットと読みます)の依存心配避けるべし  詠み人知らず(カジノ反対一市民)

甘かった更なる脅威(11111)待ちうける  詠み人知らず(通称きょういち)

五輪年(2020)元号でも二これ如何に  詠み人知らず(JOCの某関係者)



e0126350_20500890.jpg1926年12月25日~1989年1月7日 昭和 Showa S1~S64
1989年1月8日~2019年4月30日 平成  Heisei H1~H31
2019年5月1日~        令和 Reiwa?Leiwa?(→Reiwaだそうです)





by yumimi61 | 2019-04-08 15:34 | 新元号「令和」の典拠

蘭とはなにか

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

時はめでたい年の初めであるからして、場の空気は優雅にて和やか。
梅は鏡の前の白粉を開き、蘭は珮(腰に付ける装飾品)の辺りから香を発している。

★さらに⇒<解説と砕いた訳>
時はお正月のおめでたい席である。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。しかし年初のおめでたい席の空気は優雅にて和やかであるべきで、目くじら立てるのも大人げないから我慢している。
だけどここには情緒が無さすぎるとも思っていて・・・


歌の花と野暮

「蘭」は香りを必要としないものの比喩となっている。
『万葉集』は植物図鑑ではないので、その種類(所属や種名)を同定する必要など本来はない。
ひとつ間違えば、人情の機微に通じない野暮な行為とされてしまいかねない。
大事なのは歌に詠み込まれた情であり植物の名ではないのだから。

しかしながら、詠われた植物がどんな植物か分からないと、どのような意味が込められているのか理解しがたいというのもまた事実である。
これは植物に限らない。言葉にして言うまでもなく当たりまえのことであるが、知っている人と知らない人の理解の差は大きい。
この知っている知らないという差は、一般的な知識や経験の他にも、個人的な背景や事情であることもあるし、その時代やその場所に特有な事柄であることもある。
その意味において、言葉少ない短い歌から作者の込めた意味(思い)を、間違いや漏れなく汲み取ることはなかなか難しいことだと思う。
短ければ短いほど無駄な言葉は使っていないはずであるから、とはいっても音数を合わるために意味ない語を入れることもあるが、基本的には無視してよい語はないと思って臨むべきだと思う。


そこで今日はあえて「蘭」について記す

上の文章に使われている「蘭」は一般的に2つの解釈があるようだ。

①フジバカマ(藤袴)
②シュンラン(春蘭)

①フジバカマ(藤袴)Eupatorium japonicum
キク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。
本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける
また、生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。

Eupatorium fortunei

Wikiの説明には、万葉の昔から日本人に親しまれてきたと書いてあるが、『万葉集』に藤袴(フジバカマ)が出てくる歌は1つだけである。
「秋の七草」はこの歌にちなんで後世でつくられたもの。
秋の花なので通常では初春を詠った歌には使われないし、咲いた花から香りが漂ってくるということもない。

万葉集1537:秋の野に咲きたる花を指折り数ふれば七種の花(山上憶良)

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)
萩(はぎ)の花 尾花葛花(おばなくずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなへし)また 藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお)の花
→秋の七草:ハギ、キキョウ、クズ、フジバカマ、オミナエシ、オバナ、ナデシコ


②シュンラン(春蘭) Cymbidium goeringii
単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。
名称の由来は「春蘭」で春に咲くことから。花は3-4月に咲く。
日本各地によく見られる野生蘭の一種である。山草や東洋ランとして観賞用に栽培されることも多い。国外では中国にも分布する。
古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる。
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中国春蘭(別称:一茎一花)
中国のよく似たものを中国春蘭と言い、古典園芸植物としてはむしろこちらが先輩格である。
日本産のシュンランと同種とされるが、分類上はシナシュンラン (Cymbidium forrestii Rolfe)の名で別種としたこともある。地生ランであり、春に花茎を伸ばし、その先端に一輪の花を咲かせる。花の形もシュンランに共通するが、香りはより強い。葉も日本のシュンランよりやや滑らかな感じの場合が多い。
古来から中国ではランを高貴な花と見なし、これを栽培し、観賞することが行われた。



シュンラン(春蘭)ならば香りのある花である。しかし香りがあると言っても、周囲に香りを漂わせるような香り方ではない。花に鼻を近づけて分かるような香りというか。
それも林の中にひっそりと咲くような野生の蘭であり、多くの山野草がそうであるようにとても小型な花。現代の園芸品種である洋ランのイメージとは大きく異なる。
梅と春蘭が一緒に存在したとしても、春蘭が香ってくることはないだろう。
また春に咲くと言っても、「初春の正月13日」(新暦で2月4日頃)ではまだ早く、時期的には少しずれている。


日本の山野に自生する蘭

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※名称の下の月は日本の山野での開花時期

皆さんご存知ないかもしれないが、野に咲くランの種類は結構ある。決して春蘭だけではない。
上では名称にランが付くものを中心に選んだが、名称にランが入らないラン(ラン科の植物)はまだまだある。
それから同じ仲間の別種も多数ある。
例えば上にはサルメンエビネ(猿面海老根)やキエビネ(黄海老根)を載せたが、ただのエビネ(海老根)もあるし、ナツエビネ(夏海老根)もある。

ランは基本的には熱帯温帯の湿潤な気候を好み耐寒性はあまりないのが普通だが、世界各地・日本各地に運ばれ、運ばれた先で耐寒性を獲得し分布を広げた種類もある。
耐寒性はあまりないと書いたが、直射日光や乾燥に弱いこともあって、カンカン照りの真夏もあまり得意とはしない。
現代の華やかな洋ランは熱帯の大型なランに品種改良を重ねたものである。
また春蘭など東洋ランも多くの園芸品種が作出されており、春蘭という名前が付いているからと言って野生の春蘭とは限らない。

野生においてもランの種類は結構あるが、現代では山野草の生える環境が減ってしまったことや、山野草がブームになった時期もあり乱獲されて絶滅が心配される品種も少なくない。


藤袴の変遷

(1)『万葉集』 飛鳥時代後期~奈良時代(600年後半~700年後半)に編纂された。
原本は残っていない。現存している物は全て写本であり、最も古いものは平安時代中期に書写されたものだと言うが、巻4の一部しか存在していない。
20巻全てが揃っている中で最も古い写本は鎌倉時代後期の写本だという。

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)

★解説など
秋の花を7種類紹介した歌


(2)『古今和歌集』 平安時代前期に成立(905年頃)。原本は残っていない。

巻四 秋歌上
239 なに人か来て脱ぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺を匂はす(藤原敏行)
240 宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ(紀貫之)
241 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎかけし
藤袴ぞも(素性法師)

=訳=
239 どなたが来て脱ぎ掛けた藤袴だろうか、秋が来るごとに野辺を匂わす(秋が来るごとにあの人を想いだす)
240 ここにいた人の形見だろうか藤袴は(ここにいた人の残り香がする藤袴)、忘れがたき香に包まれながら・・(二度と逢えないかもしれない人を想っている)
241 持主は知らないけれど香りがしている、秋の野に藤袴を脱ぎ掛けたのは誰だろうか

★解説など
藤袴は乾燥させると香草となる。ハーブみたいな感じで、中国ではそれを身に付けたり、湯に入れたりして利用しており、「香草」の他、「香水蘭」「蘭草」と呼ばれていたらしい。
古今和歌集の秋歌に3つ連続で藤袴の歌が登場し、以後これより藤袴の歌が派生した。
この歌の藤袴は「藤袴の香草」の匂いと「想い人」が重なっている。
匂いで出来事や人を強く思い出すということはよくあることで、後世においては「プルースト現象(プルースト効果)」として知られている。
これはその逆を詠った歌である。要するに、秋の野に咲いている匂わない藤袴を見ただけで、香草となった藤袴の香と想い人を思い出してしまうという心情である。


(3)『本草和名』 平安時代前期に編纂(918年)
日本現存最古の薬物辞典(本草書)である
唐の『新修本草』を範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準より比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名をことごとく記載しておりかつ来歴も明らかで、本拠地である中国にも無いいわゆる逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で、また中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である。


蘭草 一云水香 一名煎澤草 一名蘭香 一名都梁香草〈己上三名出陶景注〉 一名蘭澤香草〈出蘇敬注〉 一名恵薫和名布知波加末

★解説など
これは薬物辞典であり、生きた植物をそのままの形で楽しむという用途にはない。
漢方薬など物質として使えるものの一覧である。従って蘭草=蘭ということではない。
一伝や一名とは別称や異称のこと。
万葉仮名で布知波加末(ふじばかま)とあるが、それは蘭草の一異称「恵薫」の和名として書かれている。
比定の誤りなども見られ、日本で独自に加えられた文も大量にあるらしいので、間違いや勘違いがないとは言い切れない。


(4)『源氏物語』 平安時代中期に成立したとされるが原本は残っていない。文献初出は1008年。

藤袴の巻より抜粋
の花の、いとおもしろきを、持給へりけるを、御簾のつまよりさし入れて、
「これも、御覧ずべきはありけり」とて、
とみにも許さで持給へれば、うつたへに、思ひもよらで取り給ふ御袖を、ひき動かしたり。
 同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも

=訳=
このような機会にとでも思ったのであろうか、の花の美しいのをお持ちになっていたのを、御簾の端から差し入れて、
「この花も御覧にならなければならない縁故があったのです」と言って、
すぐに手放さずお持ちになっているので、まったく気付かずに受け取ろうとする(玉鬘の)袖を引き動かした。
 あなたと同じ野原で露に濡れて萎れている藤袴です、情けをかけてやってください、ほんの申し訳程度でも

★解説など
男性(夕霧)が想い人の女性(玉鬘)にお花を差し上げたという場面である。
一般的にはこれも蘭と藤袴を同じ花と解釈していることが多いが、藤袴は自分(男性)の比喩と捉えることが出来る。
この場合、美しい蘭の花は美しい女性(この前に女性の美しさの説明や着衣の色への着眼があり)の象徴であろう。
従って両者(2つの花)は似ている点もあるけれど、違う性質のものとして描写されていると考えるのが妥当。
源氏物語では植物(花)の香ではなくて形や色に焦点を当てている。






by yumimi61 | 2019-04-07 15:33 | 新元号「令和」の典拠

郁郁青青

(前記事の続きになります)

かくあるべし

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 ←万葉集

仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄 ←帰田賦


同じ令月という言葉を用いているが、万葉集の方は初春(旧暦1月で新暦だと2月辺り)であり、帰田賦は仲春(旧暦2月で新暦だと3月辺り)である。

万葉集の初春と梅は季節的に一致するが、蘭は季節的に相応しくないということを先に述べた。
では帰田賦の方はどうか。

私は「鬱茂」を草木が生い茂ると訳したが、字的には鬱蒼と茂ることをイメージさせる。
鬱蒼の青とは草木の緑ではなくて薄暗いことを表している。草木が生い茂ったことによって影を沢山作っているから薄暗いのである。
鬱蒼はどちらかと言えば夏に近い季節を思わせる。日本で言えば梅雨時のような感じ。
滋栄という言葉からも春先はあまり感じられず、やはり成長盛んな夏頃のイメージがあり、しかも水分を感じさせるものである。
「鬱茂」や「滋栄」という言葉のイメージを人間に当てはめれば、幼年期や少年期ではなく、青年から成年が合っていると思う。

でも「仲春令月」であると先に述べているので、もう少し違う見方が必要かもしれない。
「原隰鬱茂」は源が生い茂る様を表現しているのではないだろうか。
源を具体的な場所で言えば、水源であったり川の上流であったり内陸の山深い場所であったりするが、それさえも比喩であるかもしれない。
「百草滋栄」はその源が百草を育てる、影響を与える様を表している。
要するに若人、新人や後輩への指南である。彼らを芽吹きの季節に喩えた。
しかしそこには希望と失望、理想と現実を知った者の窮愁が織り込まれている。
失望や現実を文に即して言い換えれば、源が生い茂っていないこと、あるいは源は生い茂っているのに受け手の百草がなく養分が駄々流れになっていること。そのような社会であることを悲しみ憂いているわけである。

「時和気清」は子供と大人の両方に掛かっている。
<子供>大人の言うことを素直にきく。ピュアで吸収力がある。どんな色にも染まる。よって対子供というのはある意味平穏。↔ 騒々しく勝手気ままで落ち着きがない。嘘や社交辞令などが通用せず乱される。
<大人>弱者に対する思いやりや手加減がある。経験値が高く話が通じやすい。嘘や融通や社交辞令もそれなりに利く。↔ 思い込みが激しく自分の都合の良いようにしか受け取らない。変化や間違いを認めない。卑怯で狡賢く、暴挙もある。


想像旅行に想像隠居

私は『帰田賦』を純粋な叙事詩や田園詩だとは思っていない。
あれは目にしたこと耳にしたこと行ったことを写実的に描写したわけではない。
想像の翼を広げて田舎に飛んでいき、隠居し自由気ままに暮らす自分を思い描いたものだ。
逆を言うと、実際にはそれが出来ない、逃げ場ない状況にあるということでもある。
想像の産物だから実際に田舎に帰ったところでそのような生活が出来るという保証がないこともどこかで分かっているのではないだろうか。

作者の張衡の出身地(田舎)が実際に詩に描かれたような生活ができそうな場所で、詩を書いた当時に見聞きしたり行ったことではないが、幼少期などの経験に基づいて書かれたものか。それとも自分の出身地は結構な都会であり、田園風景は他の詩や他者の話を参考に書いたものなのか。私はその地に行ったことがあるわけでもなく、もはや2000年も前のことでもあるのでよく分からない。

ともかく作者が想像したことであり、だからこそ何でもアリなのだ。
弱いものの代名詞ともなりそうな雲間を飛ぶ鳥や深い淵に潜む魚もお構いなしに射抜いたり釣り上げたり。大人の分別をわきまえた振る舞いとは言いにくい。そのような恥ずべきことも想像の世界ならば許される。
そして一転今度は優れた五絃の調べを奏で、周公や孔子の書を詠じ、美しい詩文を綴り、三皇の功業を書き記すという高尚な趣味に勤しむ。そんな誉れ高い世界も遠慮なく堪能することができる。
つまり想像の翼を広げれば、現実の名誉や恥辱があるドロドロとした場所と関わり苦しまなくてもすむだろうという詩である。
なんだかんだ言っても現実社会で求められ幸福でいられるのは’程々’であるという意味も隠れている。

若人への指南ということを除けば、どこかで『離騒』を意識してもいる。

屈原の作品の中でも特に有名なのが『離騒(りそう)』である。
楚辞の代表作であり、世に容れられない人物の悲憤慷慨と神話的幻想世界への旅行が多数の比喩や擬態語を散りばめて歌われている。

『帰田賦』の作者・張衡は運命や社会の不正などを憤って悲しみ嘆き、幻想世界への旅行を歌った。
その陰にあるのは死ということになるが。


『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序文の現代語訳と解説


天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也


天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。

天平2年1月13日(新暦では730年2月4日頃)、大宰帥(大宰府の長官)である私(大伴旅人、728年に大宰帥として赴任、731年8月没)の家に集まって、宴会を重ねる。


于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封穀而迷林
庭舞新蝶 空歸故鴈 


時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
加以(しかのみならず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。
庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。 


時はめでたい年の初めであるからして、場の空気は優雅にて和やか。
梅は鏡の前の白粉を開き、蘭は珮(腰に付ける装飾品)の辺りから香を発している。
それだけではない、曙(夜明けと年初の両方に掛かっている)は山の頂に雲を移し、松は薄布をかけて天を傾け、夕方の山の頂に霧をかけ、鳥は薄物に囚われて林に迷っている。
庭には新蝶が舞っている。空に見える北へ帰る雁は幻だろうか。

★さらに⇒<解説と砕いた訳>
比喩になっているので、訳文そのままでは作者の言わんとしていることは伝わらない。
大宰府はお役所であり、普段はそんなに華やかな場所ではなかったと思う。また防衛的な役割も担っていたので緊張感が必要とされる職場でもあった。
そもそもが抒情詩とは縁遠い所だったのかもしれない。
そんな場所だから殊更に羽を伸ばす時間も必要だったのか、宴会がたびたび催されていたようだ。
時はお正月のおめでたい席である。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。しかし年初のおめでたい席の空気は優雅にて和やかであるべきで、目くじら立てるのも大人げないから我慢している。
だけどここには情緒が無さすぎるとも思っていて、次の「 」部分では情緒を雲と霧に置き換えて、それが遠くに追いやられてしまっている様を比喩的に書いている。
「曙(夜明けと年初の両方に掛かっている)は山の頂に雲を移し、松は薄布をかけて天を傾け、夕方の山の頂に霧をかけ、鳥は薄物に囚われて林に迷っている」
門松だか生け花の松だか分からないけれど、誰かが正月の松に薄い布を引っ掛けたのではないだろうか。その薄布の掛けられた松の傾きによって作者は朝から夕方へと景色を動かしている。本来それはダイナミックな地球の動きであるはずだけれども。
朝夕どちらにしても情緒は遠い山の頂の方にあり、ここにはないというわけ。
空を飛ぶはずの鳥も薄物(薄い布)に囚われて迷っている。霧などによって道迷いしてしまうように。
実際は林というのは薄布の掛けられた松のことであり、鳥が迷い込んでいるわけでもなく、誰か人間の比喩であろう。
鳥は穀物を食する。穀物には臼が必需品だった。その臼と薄を掛けているのである。
庭には正月に舞うはずのない新蝶が舞っているというのだから、これも比喩であろう。着飾った若い娘だろうか。
空には帰る故雁ありというが、死んだものや失ったものならば本当は見えないはずである。寂しそうに家路につく誰かがいたのだろうか。それとも情緒に焦がれるが故に雁の幻を見たのか。


於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足

是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。

ここにおいては、天井が空で床が地であり、膝を崩して盃が飛び交い、言葉を忘れ、様々な感情に襟を開くこともなく、自分勝手にふるまって、気分よく自分の置かれた状況に満足している。

★さらに⇒<解説>
今までは全体描写だった。宴会が始まる前の時間の描写と言っても良いかもしれない。
ここでは場面が屋内の一室に移り、宴会が始まっている。
この宴会が庭での梅の花見ではないことがこの箇所からよく分かる。
どう転んでも梅の花を堪能して和歌を詠むような宴ではない。
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。歌は歌でも・・という感じである。
さらに言えば、もうだいぶお酒が進んでいて、乱交的な雰囲気すら感じさせる。


若非翰苑  何以濾情
詩紀落梅之篇 古今夫何異矣
宜賦園梅聊成短詠


若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。
請ひて落梅の篇を紀さむと。
古今それ何ぞ異ならむ。
園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。


もしも(若い)『翰苑』のようにしたくないならば、何かで情を表現しなければならない。
落梅の篇を願い求む。昔も今もそれは何ら変わらない。
いかにもの園梅を授けて、かりそめ(仮初め)でも短い詩歌を創ろう。


★さらに⇒<解説>
『翰苑』は唐における漢学の初学者のための入門書であり、辞書というか参考書のような本だったらしい。
但し『翰苑』は当の中国にも現存せず、ほんの一部分の写本だけが日本の大宰府天満宮に残存している。それ以外には世界中のどこにも写本が存在せず「天下の孤書」と言われている代物。
残っている写本は誤字や脱字が多く、脱文さえあるという状態で写本精度への信用性が乏しい。
このようなもの(入門書とか辞書的なものとか現物行方知れずとか酷い写本とか・・)にしたくないという強い思いがあったようだ。『翰苑』のあった大宰府にいた人物の強い思いだけに迫るものはある。 
そして実際には行ってもいない梅の花見の宴を想像しながら歌を創作したり、してもらったり(?)した。
想像で詩歌を綴ったのは『帰田賦』だって同じであるというわけである。







by yumimi61 | 2019-04-05 12:08 | 新元号「令和」の典拠

月並み

もうすでに指摘されているが、新元号の典拠とされた『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序の一節は、『帰田賦』によく似ている

于時初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 ←万葉集

於是仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄  ←帰田賦


『帰田賦』(文選巻十五に所収) 張衡
遊都邑以永久 無明略以佐時
徒臨川以羨魚 俟河清乎未期
感蔡子之慷慨 從唐生以決疑
諒天道之微昧 追漁父以同嬉
超埃塵以遐逝 與世事乎長辭


都邑に遊んで以て永久なるも、明略の以て時を佐(たす)くる無し。
徒らに川に臨んで以て魚を羨み、河の清まんことを侯(ま)てども末だ期せず。
蔡子の憤慨に感じ、唐生に従いて以て疑を決す。
諒に天道の微昧なる、漁父を迫って以て嬉みを同じうせん。
挨塵を超えて以て遐く逝き、世事と長く辭す。


都住まいも久しくなるが、世のためになるような偉勲もない。
むなしく川岸で魚を羨んで、河が澄むのを待っているけれど、今だその時は来ない。
世間の悪しき風潮や社会の不正などを怒り嘆いた蔡沢(中国戦国時代の秦の宰相)は、唐挙(人相占い師)の占いを受け入れて、迷いを断ち切ったものであった。
まことに天道(天へ行く道)は見通し難いから、漁父を求めて楽しみを分かち合いたいものである。
この世の塵埃(汚れ)から脱して遠くに行き、俗世とは永遠に離れたい。


於是仲春令月 時和氣清 原隰鬱茂 百草滋榮
王雎鼓翼 倉庚哀鳴 交頸頡頏 關關嚶嚶
於焉逍遙 聊以娛情


是に於て仲春の令月、時和し氣清む。 原隰密茂し、百草滋榮す。
王雎翼を鼓し、倉庚哀鳴す。頸を交えて頡頏し、關關嚶嚶たり。
焉に於て逍遙し、聊か以て情を娯しむべし。


折しも今は春半ば、和やかな時節で大気も澄むめでたさ。 野原も湿地も草木生い茂り、沢山の草が潤い栄えている。
ミサゴ(鳥)は羽ばたき、ウグイスは悲哀を持って鳴き、首を摺り寄せて舞い上がったり舞い下りたり、仲睦まじく鳴き交わしたり伴を求めて呼び交わす。
それなのにどうして気ままに歩き回ることをしないなんてことが出来よう、いささか情を楽しむべきである。



爾乃龍吟方澤 虎嘯山丘
仰飛纖繳 俯釣長流
觸矢而斃 貪餌吞鉤
落雲間之逸禽 懸淵沉之鯊鰡


爾して乃ち方澤に龍吟し、山丘に虎嘯す。
仰いで纖繳を飛ばし、俯して長流に釣る。
矢に觸れて斃れ、餌を貪りて鈎を呑む。
雲間の逸禽を落とし、淵沈の鯊鰡を懸く。


そしてすぐに沢の辺りで龍の如く吟じ、山や丘で虎のように吠える。
空を仰いで細いいぐるみ(鳥を射る道具)を放ち、うつ伏して長流に釣り糸を垂らす。
鳥は矢にあたって死んで、魚は餌を貪って鉤を呑む。
雲間を飛ぶ鳥も落とされ、深い淵にひそむハゼやボラもかかる。



於時曜靈俄景 繼以望舒
極般遊之至樂 雖日夕而忘劬
感老氏之遺誡 將回駕乎蓬廬
彈五絃之妙指 詠周孔之圖書
揮翰墨以奮藻 陳三皇之軌模
苟縱心於物外 安知榮辱之所如


時に曜靈景を俄け、係ぐに望舒を以てす。
般遊の至樂を極め、日夕と雖も劬るるを忘る。
老氏の遺誡に感じ、將に駕を蓬廬に回さんとす。
五絃の妙指を彈じ、周孔の圏書を詠ず。
翰墨を揮いて以て藻を奮い、三皇の軌模を陳ぶ。
苟も心を物外に縦にせば、安んぞ榮辱の如く所を知らんや。


いつしかに太陽は西に傾き、続いて月が昇る。
心ゆくまで遊び楽しみ、日暮れになるも疲れも忘れている。
老子の戒めを感じて、家に乗り物を回す。
優れた五絃の調べを奏で、周公や孔子の書を詠ずる。
筆走らせては美しい詩文を綴り、三皇の功業を書きしるす。
かりそめにも心を物外にし(物質界を超越し)、縦(ほしいまま)にすれば(自分のしたいようにすれば)、名誉や恥辱がある場所と関わることはない。
 


作者の張衡

張衡(78年 - 139年)は、後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。

30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。

張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという。

そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
月光生于日之所照,魄生于日之所蔽;当日則光盈,就日則光尽也。
また続いて以下の記述があり、
当日之冲,光常不合者,蔽于地也,是謂暗虚,在星則星微,遇月則月食。
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。

月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。



漢詩の影響~詩経~

張衡が『帰田賦』をいつ書いたかかはっきりとは分からないが晩年だったようだ。(一説によると138年)
どちらにしても彼が生きた時代(78年 - 139年)に書かれたものなので、日本の『万葉集』編纂の時代より少なくても600年くらい早い。
私は偶然の一致を完全に否定するつもりは毛頭ないけれども、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序を記した人物は漢詩を学んだ人物だと思うので、『帰田賦』に限らず中国の漢詩の影響を多分に受けていることは間違いないと思う。

中国は歴史ある国である。
その中国での最古の詩篇は『詩経』である。
日本の『万葉集』という書物自体、中国『詩経』に倣ったものではないかと私は思っている。
『詩経』は紀元前1046年頃~紀元前771年の西周時代の詩を、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日に生きた孔子が編集したと言われている書物である。

『詩経』(しきょう、拼音: Shī Jīng)
中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。

西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。
現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。

その構成は、
1.各地の民謡を集めた「風(ふう)」すなわち国風(160篇)
2.貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」(小雅74篇、大雅31篇)
3.朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」(40篇)
の3つに大別される。

作品のスタイルは基本的に四字句の連続で、オノマトペ(関関、夭夭、呦呦)や繰り返し(式微式微、楽土楽土など)を多用するところに特徴がある。通常一篇の詩は複数の章(スタンザ)に分かれ、章は複数の句に分かれる。
実際には上記の形式に従わない詩もある。
作風は素朴に尽き、しばしば楚辞の自由暢達の気風に富んだ騒体と比せられる。
特に小雅を中心に為政の乱れを嘆く作品も多く、古代人の切実な訴えに驚かされる。

風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがある(体裁上の3スタイルと合わせて「六義」という)と言われている。
1.「賦」は心情をすなおに表現するもの
2.「比」は詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの
3.「興」は恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの



漢詩の影響~楚辞~

中国においては、北方の『詩経』に対して、南方の『楚辞』と言われており、共に漢詩の基礎となった。
どちらも紀元前時代のものであるが、『楚辞』のほうがやや遅い。

詩の様式としては六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮の字が入ることが特徴(文章としての意味は無い)。

17巻で構成されている。
そのうち5巻が屈原の作品である。

屈原(紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)
中国戦国時代の楚の政治家、詩人。
秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。


屈原の作品の中でも特に有名なのが『離騒(りそう)』である。
楚の屈原の作と伝えられる長編の詩。楚辞の代表作であり、世に容れられない人物の悲憤慷慨と神話的幻想世界への旅行が多数の比喩や擬態語を散りばめて歌われている


『帰田』の「賦」とはなにか

古代中国の韻文の一つで、唐の詩や宋の詞などと並び、漢(紀元前206年- 220年)を代表する文芸である。
韻文とは一定の規則や韻律(リズム)に則って表された文章。
短いけれど日本の短歌や俳句もこれにあたる。
賦は紀元前の戦国時代に端を発し、形を変えながら遅くは清に至るまで存続した。

漢詩が歌謡から生まれたのと考えられるのに対し、賦はもとより朗誦されたものと考えられている。文体の性格としては漢詩と散文の中間に位置する。
賦は元来国ぼめの性質を持つとされ、都城の賛美に使われたほか、あらゆる場所・物・感情を網羅的に表現する手段として用いられた。
漢代の賦は抒情的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。
時代が下ると抒情的な性格も強まっていき、また駢儷文や近体詩などの影響を受けるようになる。


叙情的性格の強い詩を「辞」、叙事的性格が強い詩を「賦」とに分けることもあり、両者を合わせて「辞賦」という。

日本の俳句はどちらかと言うと叙事的性格が強い歌が多く、それに対して短歌は抒情的性格が強い。

張衡の『帰田賦』も、『万葉集』の梅の歌の序文を漢文で記した人物も、詩経や楚辞の影響を受けている。


知らないはずがないと思う理由

『万葉集』の梅の歌の序文を記した人物は『歸田賦』も知っていたはずである。
そのうえでよく似た文章を創った。これは真似したということではなく、あえて寄せていったのだと思う。
『歸田賦』を知っていたと推測するのは、この詩は文学史上、重要な位置づけにある詩だからである。
長文であることも少なくない思想や空想(神話やファンタジー)、政治や享楽に関する文ではなく、比較的短い文にて身近で個人的とも言える、だけど普遍的でもある事実や出来事そして情を写実的・具象的に表す詩の先駆けになったからである。
日本の俳句もまさにそんな感じである。

(4月1日以降、Wikiにも「帰田賦」の項が作られたようなのですが、そこでは田園詩として、その影響を述べている)
張衡の『歸田賦』は田園詩の中で後代に影響を与える作品である。この詩は自然を前面に出し、人間や人間の思想に重きを置かない共通主題を共有する様々な形式の詩に対する数世紀にわたる熱狂の口火を切る助けとなった。こういった詩は山水詩といくらか似ている。しかし、田園詩の場合は、自然はそのより家庭的な表現に重きが置かれ、裏庭で見られるような花園や田舎で栽培されいてる自然の姿を称えている。


作品を無視した典拠って・・・

『詩経』の中の小雅という分類に含まれる「黍苗」という詩がある。
『詩経』には周建国の功臣の1人で王に仕えた名臣であり西周の政治家である召公奭という人物を讃えた歌が幾つかあるが、これは征伐を終えて帰還するのを祝った歌。
四字句の連続する基本形式に則っている。
この詩の中に『帰田賦』でも使っている’原隰’や’清’という漢字が含まれている。

芃芃黍苗 陰雨膏之 悠悠南行 召伯勞之 
我任我輦 我車我牛 我行既集 蓋云歸哉 
我徒我御 我師我旅 我行既集 蓋云歸處 
肅肅謝功 召伯營之 烈烈征師 召伯成之 
原隰既平 泉流既清 召伯有成 王心則寧 

(最後の行の訳)
野も湿地も平定されて、泉が流れるように清くなった。召伯(召公奭)が成果を上げられた、そういうわけで王の心も安寧である。

これ以外にも『帰田賦』には詩経の中の詩に使われている漢字が幾つも使われている。若干言い回しは違ってもすでに春や田園の風景として表現されたことがあるものということになる。
それを言えば、俳句の季語などはむしろ共通項として提示されているものである。
漢字は幾つかの意味を持ち、漢字だけでも文章を成立させることが可能なほど奥深いものであるが(もっともそれはどんな言語もそうかもしれないが)、文芸としてみれば、作品の中から特定の漢字や単語だけを取り出して論じてもあまり意義は感じられない。

典拠というからには、単にそこに使われている漢字(それも離れたところにある漢字!)だけでなく、その作品に込められた意味(抒情や叙事)をくみ上げた上で、それに沿って選ばれた漢字なり単語であるべきだろう。
単に漢字の意味ということならば、漢字辞書から選んでも同じ。




by yumimi61 | 2019-04-04 17:25 | 新元号「令和」の典拠

🌼 ling(令)

『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き  蘭は珮後(はいご)の香を薫らす
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也
于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封穀而迷林
庭舞新蝶 空歸故鴈
於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足
若非翰苑  何以濾情
詩紀落梅之篇
古今夫何異矣
宜賦園梅聊成短詠

天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。
時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
加以(しかのみならず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。
庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。
是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。
若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。
請ひて落梅の篇を紀さむと。
古今それ何ぞ異ならむ。
園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。

天平二年→730年
正月の十三日→旧暦1月13日。(松の内は1月15日まで)


暦から考える季節

旧暦は「太陰太陽暦」である。月の満ち欠けを基準とし、さらに太陽の動きも考慮した暦。
月の満ち欠けを基準にすると、太陽の動きを基準にした1年(365日)よりも11日短かくなってしまい、3年で約1か月のズレが生じてしまう。
そこで3年に1回は閏月を設けて(1年が13か月になった)、ずれるの1月分を調節していた。

「旧正月」とは、月の満ち欠けを基準とした旧暦1月1日のこと。
旧暦1月1日は、通常雨水(2月19日頃)の直前の朔日であり、1月21日~2月20日頃を毎年移動する。

それに対して「立春」とは、太陽の運行に基づいている二十四節気での新年のことで、「旧正月」と「立春」は全く同じではない。月と太陽という違いがある。
「立春」は二十四節気の第1・正月節が起こる日であり、時期としては旧暦12月後半から1月前半である。

日本では明治5年に太陽の動きをもとに作られたグレゴリオ暦(太陽暦・新暦)が採用され、以来日本では新暦の1月1日を元旦としている。
しかしながら他のアジアの国々では今でも旧正月を盛大に祝っている。これを行わなくなったのはアジアでは日本だけだという。

ユリウス暦
紀元前46年にローマのユリウス・カエサルが制定した暦。
太陰太陽暦に代ってエジプト暦の1年 (365.25日) を採用し、平年を365日、閏年を366日として、4年ごとに1回の割合で閏年をおく太陽暦を採用した。

グレゴリオ暦
325年ニケーアの宗教会議で、復活祭の日を決定する必要上、春分の日を毎年3月21日と定めた。しかしユリウス暦を使っていたので,1582年には実際の春分の日は3月11日になっていた。そこでニケーアの宗教会議の決議を守るため、ローマ教皇グレゴリウス13世は82年の10月5日から14日までの 10日間を暦日から除き、将来再びこのようなことが起らないために次の置閏法を制定した。
すなわち、西暦年数が4の倍数になる年を閏年とする。ただし100の倍数の場合、これを100で除した商が4の倍数でない年は平年とする。たとえば1700年、1800年、1900年は平年である。
この改正によって400年に3日の閏日が除かれ、1年の平均日数は 365.2425日となった。これをグレゴリオ暦といい、現在にいたるまでなお続けられている。


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730年の旧正月(1月1日)は現暦ではおそらく1月23日頃。従って「正月13日」は2月4日頃である。


季節を考える

初春とは1月のこと。しかし旧暦1月は新暦ならばおよそ2月辺りにあたる。

梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
梅は鏡前の粉を披き  蘭は珮後の香を薫らす


梅の開花時期は2月くらい。
だが残念ながら日本で自然の蘭が2月に咲くことはない。野に咲く蘭は初夏~夏が主流。
蘭は熱帯植物であり、熱帯地方の湿潤な環境が適しており、耐寒性の弱い植物である。
現代ではお祝い用の花として一年中、また花の少ない冬にも盛んに出荷されているが、みな温室育ちである。蘭は栽培がとても難しい。
日本の庭で梅と蘭が一緒に咲くことは間違ってもない。

梅で言えばロウバイ(蝋梅)の別称に「蘭梅」がある。
しかしロウバイは冬の花であり、主に新暦で12月~1月が開花時期。旧暦12月の花。
現代でも晩冬(新暦で小寒1月6日頃~立春前日2月3日頃)の季語とされている。
従って「初春」に「ロウバイ(蘭梅)」という花を持ってくるとは思えないので、やはり蘭は熱帯温帯植物の蘭のことを指すのだろう。


令月

「令月」の意味として、「旧暦二月の異称」が挙げられることがあるが、上の文はその意味では用いていない。
それはその前に初春(旧暦一月)という語が用いられていることから分かる。
天平二年正月十三日というある点にいて、それを于時初春令月と表しているのだから、「初春(旧暦一月)」と「令月(旧暦二月)」では点が表現されない。よってこれを並べるのはおかしい。

従って『令』は「好」「吉祥」の意味で用いられているのだろう。
幸福、繁栄、おめでたいこと、幸先のよいことなど。

初春令月・・・おめでたい年の初め
令月の令は単に好い(奇跡的な良さ)ということだけではなく、規則的に繰り返されるからこそ好いという意味がある。
春の来ない冬はないとか、止まない雨はないみたいな感じで、季節や天気などの繰り返しを喜んでいる。
角度を変えて見れば、目先には変わっても、大きくは変わり映えしないマンネリをこよなく愛するみたいな感じ。世界を一変してしまう天変地異は困りますものね。終末論なんて誰も望んでないし?

その意味に近い歌詞↓ 「令」ではなく「例」で繰り返しを表現している。

『一月一日』
作曲者:上真行(宮内省の雅楽長)
作詞者:千家尊福(出雲大社宮司、政治家)
1893年(明治26年)に文部省が発行した「小学校祝日大祭歌詞並楽譜」の中で発表された。2年後の1895年に唱歌として元旦拝賀式の奉唱歌と定められた。

年の始めの例(ためし)とて
終わりなき世のめでたさを
松竹たてて門ごとに
祝う今日こそ楽しけれ

初日の光差し出でて
四方(よも)に輝く今朝の空
君が御影に比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ尊けれ


ちなみに「令月」は、ピンイン(ローマ字式の中国語の発音)では、lìng yuè である。


乱痴気騒ぎを憂う梅の序文

新しい元号の典拠とされる文章(序文全体)について、申し訳ないけれど私はおめでたい幸福感をあまり感じない。
「憂いの序文」という感じを受ける。
何に憂いを感じているかと言えば、乱痴気騒ぎである。(何気に乱と蘭に掛けたのですね!)
そこには微塵も情緒なんか感じられなかったのだ。
上の文で情緒は雲や霧や煙や霞などで表現されている。

膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。

膝を崩して盃が飛び交い、言葉を忘れ、様々な感情に襟を開くこともなく、自分勝手にふるまって、気分よく自分の置かれた状況に満足している、と述べている。

若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。

「翰苑」は唐における漢学の初学者のための入門書であるが、日本の情緒ある和歌を集めたはずの作品集『万葉集』を品も技巧も意味もない文字の羅列で終わらせないためには濾過が必要だと言うのである。情を汲み取るというか。

そこで「落梅の篇」を差し入れたわけである。
この序文から言えば、「梅の花の歌三十二首」は「落梅」であるらしい。
要するに散りゆく梅である。
そしてやがて始まる、いやもうすでに始まっている、桜の乱痴気騒ぎを憂う。


’もののあわれ’の消失

前述したように蘭が自然な形で2月に咲くわけがない。温度管理すれば冬でも咲かせることは可能だが万葉集編纂の時代にそういう環境があったかはどうかは疑わしい。
蘭は切花にも向いていない。

庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

また2月に庭に新蝶が舞うわけがない。
よって序文全体が比喩であるという推測が立つ。

雁は渡り鳥。シベリアなど北方の寒地から日本にもやってきて越冬する。
その雁が帰るのは春先である。
「雁帰る」は仲春(旧暦二月)の季語である。新暦で言うと、3月~4月上旬あたりとなる。
渡り鳥の中でも雁は哀れを表現するために古い時代から和歌に多く詠まれてきた鳥である。
その雁に故を付けて、故雁としている。
故は古いという意味と消失や死という意味の両方が乗せられていると思う。


梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

香しい梅の花は化粧の粉に取って代わっている。
微風に乗って梅の香りが漂ってきた時の幸福感といったらないと思うが、その梅の花から香りを取ってしまった文となっている。

一方、蘭の香りは特徴的なものがない。
蘭は非常に多くの種類があり(といっても品種改良されて多くの種類が生み出されているので、当時はそれほどではなかったかもしれない)、匂いのあるものとないものがある。匂いがあるものでも良い匂いのものもあれば、腐臭悪臭と言えるような匂いのものもある。
お祝いで使うような蘭は一般的に無香無臭なものが好まれる。
病院とか飲食店のオープン記念には、花粉や匂いがなく、それでいて華やかである胡蝶蘭が重宝されるが、そうした理由からである。
香りの代名詞にはならない蘭を香と組ませているということは、この蘭の香りとは香水のような人工的な香りを表現しているのだろう。

’もののあわれ’を感じさせる者や自然の消失を漢文で表現したのが梅の序文である。






by yumimi61 | 2019-04-02 14:55 | 新元号「令和」の典拠