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<   2015年 07月 ( 30 )   > この月の画像一覧

昭和 百拾伍

暑いよ~(でも風はわりとある) 手が痛いよ~(弱音)

神奈川ってどこ?(大丈夫か?)


関税自主権や領事裁判権があったら恨みつらみが晴らせる?

関税自主権がないことを不平等と言うが、もし関税自主権を与えられたなら「自分勝手に関税が決められてラッキー」と思うんだろうか?
関税自主権を持って、自国の儲けばかり考え、高い輸入税を全ての品に掛ければ、「そんな高い国には輸出しなくて結構」ということになりかねない。
自給自足出来ているうちはそれでもよいが、例えば現代の原油のように輸入に依存しなければならない物が輸入税が高いばかりに入って来なくなっては一大事。
従って全ての品が同率というわけにはいかなくなる。
そうなれば「あの国が沢山輸出するあの品物だけ輸入税が低く、我が国が沢山輸出するこの品物がこんなに輸出税が高いのは不公平ではないか!」と言われかねない。
また自国の都合で突然変更したりすればひんしゅくを買うのは必至。
関税自主権があっても無暗に行使することは出来ず、話し合いで決めるとなれば結局協調的な関税となる。
そうしなければ強国から圧力が掛かったり孤立していくだろう。戦争に発展することもあるかもしれない。
強い意志と見合った国力があるか、または孤立しても相手にされなくても別に構わないという国でなければ、関税自主権なんて実質的にそれほど役に立つものではないと思う。
不平等なのは交渉の余地もなく有無を言わせず決まったものを押し付けられることではないだろうか。

Wikipedia不平等条約に記されていたことがとても印象的だった。
具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。
逆側からの視点であるが、これももっともだと思う。
全ての人や物に公平であるということは思うよりずっと難しいことなのだ。


神奈川と横浜、神奈川と神流川

こちらにも不平等条約について記述があった。
教養番組「知の回廊」 33 「多摩のシルクロード −ペリー来航と不平等条約−」
教養番組「知の回廊」は中央大学が地元八王子のCATV局と協力して制作し ている教養番組だそうだ。

日米修好通商条約を結び、5つの港を開港場と定めました。
入学試験では、この5つの港の名前を書く設問を出すと、うっかり間違える人がいま す。
長崎、箱館、神奈川、兵庫、新潟が正解です。
間違えるのは、神奈川を横浜とする答案です。横浜は通商条約締結の翌年に開港場として開かれますから、5 つの港名に入れてしまうのですが、実際に条約で約束したのは神奈川でした。


兵庫を神戸と間違える人はいないのだろうか?
というか、やはり横浜や神戸では間違いになってしまうのか?
まあ入学試験の話はいいとして。

なぜ神奈川が横浜になったか?(下記青字も上記「多摩のシルクロード −ペリー来航と不平等条約−」からの転載です)
幕府は、イギリスやフランスの脅威を強調して通商を要求 するハリスに負けて、下田のかわりに神奈川を認めましたが、神奈川は東海道の宿場町で江戸に近い重要な場所です。そこで幕府は、なんとか外国の影響の少な い場所として横浜を考えました。当時の横浜は、東海道筋の神奈川と入り江を挟んだ対岸の漁村でした。その漁村を埋め立て、長崎の出島のようにつくりかえて、開港場にしてしまったのです。それは条約違反ですが、幕府はハリスの抗議を無視し、横浜に日本人の店を出させ、外国商人に対しても土地を無償で貸与 し、事実上の開港場としてしまいました。外国商人は、便利な横浜での貿易に応じるようになり、条約に記された神奈川が横浜にすりかわっていったわけです。

それまで鎖国をしていた幕府は、条約の影響ができるだけ国内に及ばないようにしました。欧米の強い圧力の中で通商条約 を結ばなければならなかった幕府は、横浜の造成を急ぎました。既成事実を重ねることで、開港場を神奈川から横浜にすりかえていったのです。しかし、そのことは諸外国が条約をしっかり守らない幕府に不信感を募らせ、最大の貿易相手国であったイギリスが幕府を見限る結果となります。幕府は、輸出品についても、 五品江戸廻令を定め、生糸などが江戸の市場を通らないで横浜に直送されるのを防ごうとし、また朝廷を中心に壤夷の運動が強まると、条約を無視した横浜鎖港 なども行おうとしました。このような条約の骨抜き、貿易の制限は、最終的にイギリスが討幕派の薩摩や長州を支援し、封建制度にかわる新しい日本の出現に期待する結果となっていきます。

県の名前が神奈川県となったのも、条約と無関係なわけではありません。幕府は開港場を神奈川と条約で認めておきながら、実際にはその対岸の横浜 を開き、イギリスをはじめとする諸外国から不信を買いました。古くからの重要な港町の兵庫を開くと条約に定めておきながら、実際に開いた開港場はその隣の神戸でした。幕府としては、なんとか開港のダメージを少なくしたいためにとった苦肉の策でしたが、そのことが諸外国の幕府批判となり、幕府は最後に薩摩・ 長州にとってかわられました。

幕府を倒した新政府は、発足後に開国和親を対外政策に掲げます。イギリスをはじめとする列強の支持がなければ、最新の 武器を購入することもできません。江戸開城後も会津藩をはじめとする東北諸藩、さらには箱館に立てこもっている榎本武揚らの旧幕府軍を打ち破るためにも、 列国の支持を取り付けることが必要でした。列国の要求する条約を守るとすれば、横浜は神奈川でなければいけません。神戸は兵庫であったはずです。

旧幕府領を接収した新政府は、神奈川と兵庫をはじめは府、後に県にしました。いずれも明治元年です。条約にあわせると すれば、遊歩区域に沿った範囲を一つの県域にするとともに、県の名称を神奈川とし、横浜が条約に定められた神奈川の一部とすれば良いわけです。神戸を含む 県域を兵庫県とすれば、条約にあったかたちになります。少しでも条約とつじつまをあわせようとした苦肉の策です。このようにして、東海道の宿場名で開港場でもあった神奈川が県の名前になったのでした。


外国から見れば、神奈川と横浜は隣接していてすぐ近くのように思うが、神奈川と横浜が違うことはそんなに重大なことなんだろうか?
少なくとも私は高崎でも前橋でもどちらでもよい。


下記青字はWikipedia神奈川宿より。
神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)は、東海道五十三次の3番目の宿場である。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。


(神奈川宿は)神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現:滝の川)が流れていた。

明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。


安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。


港と街道がぶつからないことはわりと重要だと思う。
しかしあまり離れすぎていないほうがよい。
ということで、私は横浜に港を作ったことは妥当な判断だと思うのだが。
下田は船にとっては良い場所だが国内への輸送を考えると街道から離れすぎていたんだと思う。
だからこそ最初はそこに設定したのではないだろうか。

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ポインターを置いたところが神奈川宿があったところ。駅名が現在も神奈川。

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八景島付近に停泊していた船上で日米修好通商条約を締結した。

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生糸生産地

神奈川港(横浜港)が開港して5年経った1864年頃の日本の輸出品の80%近くを占めていたのは生糸だった。
その次は日本茶で10%程度、その次が蚕卵紙で4%、これが主要輸出品目であった。
その他、海産物、雑穀類、水油(菜種油・胡麻油・椿油など)、蝋、呉服などが輸出されていた。

輸入品は毛織物40%、綿織物35%、綿糸7%ほど、この3つでだいたい80%くらいになる。これが主要な輸入品であった。
残りは長州藩・薩摩藩・土佐藩などが購入していた武器や船といった軍需品である。

日本は後進国で貧しく輸出品がなかったように言われることもあるのだが、輸出入を現代と同じに考えてもらっては困る。
製造技術、航海技術、輸送技術、保存技術が今とは違う。何でも好きなだけ輸出入できるわけではない。かかる費用も違う。
また生活も今と同じではない。贅沢品が溢れている時代ではない。存在する物が格段に少なかった。
品物が限られるのはどこの国でも似たようなもので、日本がとりわけ貧しいから輸出品が少なかったというわけではない。

群馬県は古くから養蚕が盛んで生糸の主要生産地である。
そんなこともあって神奈川(横浜)との関わりも深い。
上毛かるたと養蚕
上毛かるたの「け」は、「県都前橋生糸の町(けんとまえばしいとのまち)」。
その他、絹(シルク)に関係する札はこんなのがある。
「き」は、「桐生は日本の機どころ(きりゅうはにほんのはたどころ)」
「に」は、「日本で最初の富岡製糸(にほんでさいしょのとみおかせいし)」
「ま」は、「繭と生糸は日本一(まゆときいとはにほんいち)」
「め」は、「銘仙織り出す伊勢崎市(めいせんおりだすいせさきし)」

群馬県中いたるところで養蚕が盛んであり、その副業として生糸の生産は始まり、織物が作られた。
養蚕・製糸・織物という一貫した絹産業が発展した地域なのだ。
前橋市にも製糸工場が沢山あった時代もあったが、生糸の町が前橋市に限るわけではない。


ワタナベくん(!)、今どこにいるの?

群馬で育った人はみな「上毛かるた」を知っていて空で言える。
そんなふうに言われることも多い。
確かに私は子供の時によくやった。
家にかるたがあって、家でもやったし、学校でもやったし、地域の子供会(育成会)でもやって県大会まであった。
だから確かに空で言える。苦も無く暗記して今もってすらすら言うことが出来る。
現役時代(?)は飛ばしの東スポではないが、かるたをパーンと飛ばしたものだ。
県大会にいったら読みを悠長に最後まで聞いていたらまず勝てない。意外に風情がなくスポーツのようなのである。

でも群馬県中み~んなそうだったのかは分からない。
息子達を見ているかぎり、上毛かるたにそれほどの親しみはないと思う。
そもそもやったことがあるのかどうか・・といった具合である。
学校でしたことがあればあるくらいで、他ではないと思う。
だから当然札も詳しく知らないだろう。
(今でも子供会などで熱心にやっている地区があり大会もある)
(うちにもかるたあったっけ?あったようなないような・・。実家にあったんだっけ?)

近年の群馬県育ちは上毛かるたにそんなに明るくないかもしれない。
上毛かるたどころか群馬県のこともそんなに知らないよね?
人口が多い市ベスト3はどこでしょう?
県庁所在地はさすがに知っている?







by yumimi61 | 2015-07-11 15:02

昭和 百拾肆

改税約書について

・1858年7月29日、日米修好通商条約締結。(この年にイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも条約を結ぶ)
・1863年3月、第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹が結婚。薩摩藩を中心に公武合体は強力に推進される。
・1862年6月6日、開市開港(新潟港・兵庫港・江戸市・大阪市)を1863年1月1日より5年遅らせることを定めた「ロンドン覚書」を締結。(その後他の国も締結したとのこと)
・1862年9月、生麦事件(薩摩藩がイギリス人を死傷させる)。
・1863年9月、薩英戦争。
・1864年8月、長州藩による禁門の変。幕府による長州藩征伐が始まる。
・1864年9月、下関戦争(長州藩vs四国連合艦隊)。長州藩は賠償金を幕府に押し付ける。
・1865年11月、兵庫開港要求事件(天皇の条約勅許と兵庫港の早期開港を要求)。
          11月24日に幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと四国連合艦隊に回答した。
・1866年6月、下関砲撃事件(下関戦争)の賠償金の減免と引き替えに、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国とそれぞれ改税約書(関税率の軽減と貿易の制限撤去)を取り交わした。


Wikipedia改税約書より
駐日イギリス公使パークスを中心とする列強側は、財政難の江戸幕府が支払いに困窮している下関戦争賠償金総額の3分の2を減免することを条件に条約の勅許、兵庫早期開港、関税率低減を要求した。
これにより、輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税方式に改められた。
そのため、外国商品は国内の物価上昇(インフレーション)に即応しない安価な商品が大量に流入することとなり、国際貿易収支を不均衡にしたのみならず、日本における産業資本の発達が著しく阻害された。一方、高価格の外国商品の輸入には有利であり、外国品輸入がおおいに促進された。


外務省の史料 改税約書(重要文化財)より
1866年(慶應2年)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4ケ国との間で結ばれた関税に関する協定。
修好通商条約で定められた関税率が約20%と高率だったため、この引き下げを狙った欧米各国(とりわけイギリス・フランス)の要求により交渉が開始され、1866年6月25日(慶應2年5月13日)に調印、7月1日(同年5月19日)より実施された。
本協定により、輸出入品の大部分はそれまでの従価税方式から従量税方式に改められ、従量税の税率はその当時の従価5%を基準とした。これは交易における税関(運上所)の介入を減らすことで、より自由な貿易を実現したいとの英国の狙いによるものであった。
このように、関税率引下げなど日本にとって不利な規定を含む一方で、すべての階級の日本人が国内外で自由に貿易・交流できることを規定するなど、経済面に止まらない日本と諸外国との関係強化を掲げていることも、本協定の特徴である。


Wikipedia関税自主権より
改税約書によって主要な輸入品89品目と輸出品53品目を当時の従価を基にした5%の従量税とし、無税対象を18品目・その他は一律従価5%に改められた。従価税であれば、価格が上昇すれば関税収入もそれに比例して上昇するが、従量税であれば価格に関わり無く量に応じた関税を払えばよく、幕末の混乱期のインフレによって事実上の関税免除に近い状態になってしまったのである。

改税約書は12条の本文と附属の運上目録とでなる。
改税約書の12条はこちらを参照
(データベース『世界と日本』 日本政治・国際関係データベース東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)

条文にタイトルを付けるとすれば以下のようになる。
前文 関税(輸出入とも)5%を基本とすることなどが記されている
第1条 改税約書の発効期日
第2条 税率の改定
第3条 免状料の廃止
第4条 保税倉庫制度
第5条 貿易品に対する関税以外の税の禁止
第6条 貨幣鋳造所の自由な設立
第7条 港湾内の人足や波止場の設備
第8条 日本人による自由な外国船購入
第9条 貿易取引における日本役人立会いの不要
第10条 日本人による自由な貿易と海外渡航
第11条 灯台の設置
第12条 批准書交換の不要

「諸品都て(すべて)價(価)五分の運上を基本とし右運上目錄を猶豫(猶予)なく改むへき趣を約束し」
これが5%ということが記されている前文の部分。すべて5%の関税が基本と書いてある。
禁制物(輸出入・売買禁止品)、無税品もあった。

上に転載した文にはどれも従量税に変わったとあるが、条文にはそのような記述はない。
價五分とあるので従価ということだと思う。
従価税というのは取引価格に対して税率を掛ける方法。消費税などがそうである。
従量税というのは数量(重量や個数、面積、容積など)を基準に税を掛ける方法。
酒税やガソリン税、自動車の重量税などがそうである。税率10,000円/キロリットル、車両重量0.5トン毎 5000円/年、5000円/1000本などと表される。


関税について

導入当初の明治時代ならばともかく平成の世の現代においても関税をよく理解していない人が多いみたいなのでTPPも何かと心配ですね。
どちらがどちらに支払うべきものなのか混乱して、逆に考えている人も少なくないかも。

関税には輸入税と輸出税がある。
輸入税や輸出税は個人輸出入を除けば消費者が直接的に支払うものではない。
しかし物価や手数料や税金や輸送料というのは売価に反映されることが多いので、そうしたものが乗れば乗るほど売価も上がる。
売価が上がれば購入者負担となる。購入者はさらに国内の消費税などを支払う必要がある。
輸入税や輸出税というのは消費税と違い、国内と外国との間の出し入れに掛かる税金なので、商品が売れる売れないは関係ない。
輸出した先で全く売れないとしても輸出する側は相手国に輸入税を支払う必要がある。
1つの視点からでは良いか悪いか判断できないので、とても難しい問題。
政府、商社、企業、生産者など、利害関係が必ずしも一致しない複数が関係するので、どこをメインに考えるのかが重要になってくる。
また似たようなことになるが、国の資金、企業や生産者の儲け、国内産業の保護、雇用など複数の問題が絡んでいる。

●輸入税は輸入する日本が支払うものではなくて、輸出する側が支払う税金。日本政府の収入になる。
(例)アメリカ→(日本の輸入税)→日本国内
●輸出税は日本が自国の輸出業者や企業に掛ける税金。輸出税は日本政府の収入になる。輸入税はアメリカ政府の収入。
(例)日本→(日本の輸出税)→(アメリカの輸入税)→アメリカ国内へ
●現代では輸出税は設定されないことが多い。
(例)日本→(アメリカの輸入税)→アメリカ国内へ


関税をなくすということは外国であっても国内勝負のようになるということである。
とにかく安い商品を提供できる者、良い商品を安く提供できる者、付加価値の高いものを提供できる者(多少高くても売れる物)が勝つだろう。
安心安全で選択するか、価格で選択するかということは、個人の考え方や収入の状況などによって違う。
また関税がなくなっても輸送料は消せるものではない。
安心安全な輸送を心がければ心がけるほど費用はかさむ。
同じ品質で同程度の価格の物ならば、通常は遠くの物を買うよりも近くの物を買った方が安い。
また例えば、日本、アメリカ、イギリスの3か国で同一商品を同程度の価格で販売するとする。
それを全て日本の東京で作り発送するとすれば、同じだけ売れても輸送料が少なくて済む日本での売上が一番儲かることになる。

どんなにエコ流行でも飛行機や船を外国まで動かすためにはまだまだ原油に依存するしかない状況である。
TPPの詳細はよく知らないが、焦点は農産物や工業品ではないだろうと思う。
インターネットを利用した企業や産業が成長して勝ち組になったように、「物」はあまり重要でないと考えられる。


ついつい!?

「不平等条約」という言葉を調べてみた。
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強国が弱小国に対しその優越的な立場から強制的に結ばせた不平等な内容の条約。<大辞林 第三版>・・・国語辞典+百科事典(三省堂)

条約を結んだ当事国相互の力関係が対等でないため、その一方が不利な内容になっている条約。<デジタル大辞泉>・・・国語辞典(小学館)

強国が弱小国に対して従属に近い地位を強制する条約。おもな内容は、外国人租借地、租界、領事裁判権、外国人の関税管理権、鉄道付属地の設定など。近世初頭以来、トルコが西ヨーロッパ諸国と締結した領事裁判条約、アヘン戦争の結果イギリスが中国に押しつけた南京条約などが有名。<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>・・・百科事典(ノーベル賞受賞者を含む数千人の寄稿者と数百人の編集者によって書かれている。文章を書き換えていくWiki精神を持つ。元は英語。発行元は財団など>

条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約。
19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。
具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。
<Wikipedia不平等条約より>
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「条約改正」について調べてみた。
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明治期における、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正事業。明治27年(1894)治外法権撤廃に成功(第一次条約改正)、同44年関税自主権を回復(第二次条約改正)した。 <デジタル大辞泉>・・・国語辞典(小学館)

江戸末期の1858年に欧米諸国と結んだ通商条約(不平等条約)の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などが中心。歴代の外相が努力し、1894年(明治27)外相陸奥宗光が日英通商航海条約において治外法権撤廃に成功(1899年実施)、1911年(明治44)外相小村寿太郎によって関税自主権が回復された。 <大辞林 第三版>・・・国語辞典+百科事典(三省堂)

幕末から明治初年にかけて日本が欧米諸国と締結した不平等な対外条約を改正するにいたるまでの外交交渉。当時、欧米諸国は日本や清国,トルコなどの非キリスト教国に対して司法制度の相違を理由に、領事裁判権を設定した。これは外国人の自治を認める居留地の制度と結合して、その国の主権を侵害した。そのうえ非キリスト教国の側のみが関税協定と最恵国待遇を強要されたので、条約は片務的で不平等な義務を非キリスト教国に課していた。<日本大百科全書 ニッポニカ>・・・百科事典(小学館)

幕末に結ばれた不平等条約の改正事業。1858年の安政五ヵ国条約とその後の諸条約は、治外法権・関税自主権喪失など日本に不利な条約であった。明治政府はまず1871年岩倉使節団を欧米に派遣した。<百科事典マイペディア>・・・百科事典(平凡社)

江戸幕府が幕末に諸外国とむすんだ通商条約の不平等な内容を、明治政府が改正 しようとした外交交渉のこと。<ニューワイド学習百科事典 学研キッズネット>・・・子ども百科事典(学研)
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「条約改正」ではななくて「不平等条約改正」としてある事典
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明治政府による不平等条約の改正事業。嘉永7(1854)年の日米和親条約から明治2(69)年の日墺条約にいたる諸条約は、治外法権、関税自主権の放棄、一方的最恵国待遇などの点で、日本にとって著しく不利な不平等条約であった。 <ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>
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私の手持ちの国語辞典2冊を調べてみたが、「不平等条約」や「条約改正」では掲載はない。「不平等」「条約」「改正」ならばある。
上に書いたのはインターネットで調べたものである。
「不平等条約」の書き方はまだ分かるのだが、「条約改正」が一点狙い撃ちの言葉だということには少々驚いた。
一点というのは「幕末に結んだ不平等条約を明治政府が改正した」ということである。
条約改正とは、言葉の意味からすれば、条約の不備や不具合、不適当、不適切なところを改めることである。
国語辞典に載せるならばそのように書かれるべきものであろう。
百科事典は事の説明になるので、具体的な事が挙がってきてもよいが、「条約改正」だけで一点狙い撃ちは疑問を持つ。
「日米修好通商条約改正」「安政5カ国条約改正」「江戸幕末締結条約改正」などとなっていれば納得する。
百歩譲って、ブリタニカ国際大百科事典が使用した「不平等条約改正」になるといった感じ。
明治時代以降に結んだ条約が平等だったか不平等だったかなんて精査されていないだろうし、そもそも平等不平等なんて大方雰囲気の問題だし、自分や自分が所属する団体が決めた条約を後に不平等だったなんて言われたくないので偏向しやすい。
視点が世界史的なのか日本史的なのかによっても違う。
改正した条約は他にもあるだろう。
それなのに「条約改正」から導き出される事柄は唯一つという異常さ。


破約攘夷

条約改正より前に使われていた言葉は「破約攘夷」である。
当初の意味は「条約を破棄して開国を止める」ことであった。
NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』の第20回「松陰、復活!」は長州藩が公武合体から破約攘夷に転換する場面が描かれているらしい。
初めて告白するが(それほど大したことでもないけれど)私はNHKの大河ドラマを一度も観たことがない。(ええっー?)
『花燃ゆ』を観たことがないというわけではなく、今日まで生きてきた中で一度も観たことがない。(・・・・・?)
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』に群馬県民が激怒する理由

朝ドラ?実家にいた時や実家に帰った時に親が観ていたものを単発で見たことは何度かあるが、ストーリーが分かるほど連続でみた作品は一つもない。
朝ドラとして一番印象が強いのは『おしん』だが、見た回数が多かったのか、ドラマ外から与えられた印象が強いだけなのかよく分からない。

長州藩はもともと尊皇攘夷を掲げていた藩である。
条約締結後に公武合体に傾いたこともあったが、再び破約攘夷を全面に出したということである。
もう少し後の時代になると破約攘夷は「不平等条約を平等条約に改める」というような意味になっていく。
そしてこれに「条約改正」という言葉が当てられたのだと思う。
群馬県は生糸の産地であり開国に困る地域ではなかったのだ。

「破約攘夷」も「約束を破棄して攘夷実行」という意味と、「攘夷の約束を破棄する」という2つの意味に取れますね。


改正交渉に応ずる

日米修好通商条約は全14条の本文と附属の貿易章程からなる。
条約の改正は第13条で述べられ、1872年7月4日以降と定められ、改正案を1年前に通達することが必要であるとされている。

関税については第4条にて述べられている。関税率は附属の貿易章程の7則において書かれている。
その最後に「右は神奈川開港の後五年に至り、日本役人より談判次第、入港出港の税則を再議すべし」とある。
神奈川開港から5年経って日本側から税率など見直し交渉の要求があればそれに応じなければならないということが記載されているのだ。
予想される貿易バランスから条約締結時は協調的にアメリカ有利な税率にしてあるが、状況が変われば見直せるということである。それは日本側から要求できると言っているのだ。
平均20%と平均50%の税率だけを比べれば不平等ということになるかもしれないが、輸出力(貿易収支)に大きな差が有るので当面少しハンディキャップを付けた。
それを不平等と取るかどうかである。
条約は関税だけではないが、他の事項にも双方のメリットとデメリットがあったはず。
トータルで見ればこの条約は不平等条約とは言えないと思う。


そろそろ5年になるね。そっかぁもう5年も経つんだな。

神奈川港の開港は1859年7月4日である。
それから5年ということは1864年となる。
アメリカが輸出力を付けてくれば、日本は輸入税を上げることも出来たのである。
要はアメリカが成長期であったということがポイント。
ヨーロッパの列強国はすでにある程度熟成していた。自国は今後それ以上大きな変化が見込めないと考えていた。
日本も歴史が長く熟成国だったのだが、独自色が濃い国だったので、成長が期待できる部分があった。

その日本では1863年と1864年には様々な出来事があった。
関税を見直してもいいとアメリカと約束した年を迎えようかという頃である。
アメリカが成長したならば日本は輸入税を20%からもっと上げることが出来たのだ。
アメリカの成長は結果的に日本の成長を促すことになる。
こうなるとすでに対日貿易が不均衡に陥っていたイギリスなどはますます不利になる。
関税見直し(引き上げ)を何とか妨害しなければならないと思っても不思議はない。

1863年4月 長州藩主・毛利敬親が藩庁を萩から山口に移転させる。
      5月 長州藩が朝廷を利用して久留米藩・真木保臣の幽閉を解くように圧力を掛け実現する。
   京都は治安が著しく悪化する。
      5月 将軍・徳川家茂が朝廷の圧力に屈し攘夷実行を約束する。     
      5月 長州藩が下関の砲台から外国船(アメリカ・フランス・オランダ)へ砲撃。
      8月 (クーデターを計画に基づく)大和行幸の詔が発せられる。
      8月 薩摩藩が会津藩(会津藩主で京都守護職・松平容保)に共闘依頼する。
      8月 天誅組が挙兵。
      8月 薩英戦争(薩摩藩兵は鹿児島を離れず)
      8月 政変クーデター(八月十八日の政変)、薩摩藩が長州藩の追放に成功する。
1864年7月 長州藩による禁門の変
      7月 第一次長州征伐
      8月 下関戦争





追伸:国会中継で質問者の後ろに座っている人がいつもTOKIOの山口さんに似ている人なの。



by yumimi61 | 2015-07-09 15:14

昭和 百拾参

比喩と科学

1954年の日米和親条約(神奈川条約)以来日本に横たわっていたのが「条約勅許問題」だった。
勅許というのは天皇という1人の人間の許可・承認のことである。
詩人や小説家がどんな比喩を用いようが自由であるように、誰かが天皇を象徴や神と比喩することを否定する権利を私達個人は持っていない。
しかし生理的・物理的には天皇は人間である。それを科学的に否定できる人は誰ひとりとしていないはずである。

ここで日米修好通商条約で禁じられたアヘン禁輸について考えてみたい。
自由や権利を全面に出せば、アヘンを吸うことも、アヘンを売買することも、アヘンを輸出入することも、他の物と同様に個人の自由であり権利だと言うことが出来る。
でもそんなことを言いだしたら何だってそうである。
自殺することも、安楽死を依頼することも、人を殺すことも、誰の子を妊娠することも、中絶することも、誰かを愛することも、結婚することもしないことも、離婚することもしないことも、何かを食べることも断食することも、何もかも個人の自由であり権利である。
自由や権利は、人種や身分や地位や思想や学歴や性別や年齢に差別されるものではない。
個の尊厳を尊重すればそういうことになる。
誰かの尊厳が奪われたとしても誰かの尊厳は維持されている。
孤独で無いということはそういうことである。人が複数いるかぎりそれは避けられない。社会とは常にそういう状態にある。
誰に標準を当てて物事を考えるかということに過ぎない。
その標準から外れた場合は、自由や権利は制限されるか剥奪される。
その標準が法律だったりする。
要するに本来はアヘンを何しようと個人の自由であるが、それを許すと困る人もいるので約束や法律で規制する。
日米修好通商条約ではアヘン禁輸を盛り込んだのだ。
酒やガラス製品の関税は下げてほしいということと、考え方は同じである。

社会が進むと問題になってくるのは決め方である。
自由を主張する人と、その自由が許されていると困る人がいる。
意見は真っ向から対立。さてどうするか?
多数決で決めるか、権力者の独断になるだろう。
時代は民主主義になったから多数決で決定することが多い。
多数決であっても、権力者の独断であっても、重要なのは世論である。世間の空気や雰囲気。
実態や実数は関係ない。空気が膨張すればいいのである。
メディアというのは空気を膨張させることに大いに活用できる。

ここでちょっと科学寄りな話。
空気を膨張させるには熱を加えてやればいいのである。
熱エネルギーによって空気の分子の運動が活発になり、元気な分子がこれでは狭い狭いと範囲を広げるため膨張する。
空気は暖めれば膨張する。
急激な膨張を爆発とも言う。
空気を膨張させるもうひとつの方法は空気の体積を強制的に増やすことである。
気圧が低い場所では外の空気の押す圧力が小さいので、結果的に中の空気の体積が増える(空気が膨張する)。
熱エネルギーの供給がなくとも気圧の関係で空気は膨張することがある。
膨張しただけで空気の分子のエネルギー(元気さ)が変わったわけではないので、空気の温度は下がってしまう。
元気の無い人に広い部屋を与えても寒々しいだけ。
これは科学的な話だけど、世相にも当てはまると思う。(一部科学的ではないかもしれない)


科学という曲者

説明が長くて最初の天皇の話を忘れてしまいそうだったが思い出した。

科学も実は多数決なところがある。
科学の中でその要素が濃いのは物理。
地学もそうかもしれない。
今流行の生命科学もそう。

緑字は映画『タイタニック』に絡んで私が書いたもの。(タイタニックにみる物理と数学
物理というのは、人間にはどうすることも出来ない自然界の普遍的な法則があり、それを人間が利用できるように表現した学問のような気がする。
一方、数学は人間ありきの学問。人間が定義を定めたものである。普遍ではなく仮定から始まっている。
このことから考えれば、人間界においての物理に正解はない。数学には必ず正解があるということになる。


化学や電気機械工学などは実際に形あるものを作り実用化させていく。
多くの人の目に触れ、多くの人が使う物となるので説得力があり、とりあえずそこで完結するものであるが、物理などは正解がないから決着は多数決になるのである。
多くの科学者に支持された論説が採用される。
いかに上手く表現し、有力者の支持を取り付け、世の空気を膨張させることができるか。―現実に即していて誤りがないと思われている科学にもこうした側面がある。
また物理という学問が利用された現物を一般の人が触れる機会は少ない。どこか絵空事のような気がしてしまう。
人や物にはやはり似あうスペースがあるのだ。
そこでどうするかと言えばやはり空気を膨張させる策に出る。
「宇宙の膨張」ってホントは比喩なんじゃないかと思う私であった。

科学に一番似つかわしくないように感じる「嘘」や「誇大広告」が度々問題になるように、科学に嘘がないというのは嘘であり、思い込みである。
とくに論文重視の科学界ではもはや文系に両足を突っ込んでいるようなもので、理系文系という区分けすらナンセンス。
しかし「科学者」というどこか特別な響きによって科学はまだ特別な地位を維持している。
これに関してはノーベル賞の貢献度が非常に高い。
もしもその科学者が「天皇は人間ではなく神であることが科学的に証明されました」と発表したらどうだろうか?
あなたはそれを信じますか?
信じるわけないだろう?
天動説と地動説の話を思い出してください。
STAP細胞発表当時の小保方擁護説を思い出してください。

日本は明治時代になるまで武士や幕府が実権を握っていた。
武士や幕府というのは実力主義で現実主義だった。
明治時代は、つまり日本の近代は、それを否定したところから始まった。
新たな権力者達はいつまた実力主義や現実主義にその地位を奪回されるのではないかと怯えている。
それが昨今の盲目的な科学信仰に繋がっているように思える。
政府が女性の活躍を推進するのも、実は実力主義者や現実主義者に地位を奪われないためなのではなかろうか。
女性に期待しているものは真の意味での活躍ではない。活躍しないことを期待しているのだ。
語弊があるとすれば、自分の期待通りの活躍を期待していると言えばよいだろうか。

魔女なのか科学者なのか何なのか。女なのか妻なのか母なのか。女でいたいのか男と同等になりたいのか。
女はさっぱり分からんが、まあその気の多さがあれば安全だろうといった感じかな。


鶴の一声

天皇や社会の空気の話を何故したかと言えば、天皇の政治関与が取り沙汰されたことがあったから。
事の発端は園遊会でのお手紙手渡し事件である。
渡したのは現在「生活の党と山本太郎となかまたち」に共同代表のお一人である山本太郎氏。
「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」にちなんだ名称ですよね?ということはやはり王国?
山本氏についてはこちらの記事「直訴者の背景」に書いたが、過激派とも関係があるともいう。(まとめもどうぞ

園遊会事件の時には「天皇は政治関与できないのに」という意見がとても多かったので、天皇は政治関与できるということを、こちらの記事の「象徴に意義を唱えた人物」、こちらの記事の「論点のすり替え」などに書いた。
(両陛下と万歳をしている写真・・・2013年3月に安倍内閣は4月28日を「主権回復の日」とすることを閣議決定し、その年の同日、日本政府主催で式典が行われた時。見る人が見ればとても恐ろしい写真に見えるだろう)

天皇は、任命、公布、公示、召集解散、認証などの権限を持っている。
内閣総理大臣を任命できるということは、天皇は国の最高権力者(権威者)である。
どうしても嫌ならば任命を拒否すればいいのである。


天皇が条約を承認するしないで揉めた幕末と同じ状況が起こっても全く不思議はない状況にあるのだ。


負けなしの国と負けありの国

世界では幾つもの王家がクーデターや敗戦によって潰されてきた。
どうしてGHQは、戦争を仕掛けた挙句敗戦した国の天皇や皇室を廃止しなかったのだろう。
これは世界最大の謎と言ってもいい。

このとき強硬に天皇制廃止を主張したのが、イギリスとオーストラリアです。
イギリスは昔から、世界のどの国に行っても王制は必ず廃止します。
これについては、こんな諺もあります。
「イギリス人は世界中に王様は2人しか認めない。1人はイギリス国王、もう1人はトランプのキング」
 (知恵袋より)

はたしてそうだろうか?
イギリスが日本の天皇制廃止を望まなかったのではないだろうか?
日本は戦後イギリスに倣った形の立憲君主制を布いた。
イギリスは戦争に負けたことが無い。
1000年くらい前にフランスに負けたことがあったかもしれないが、その後は負けなし。これは凄い!


「天皇陛下の戦争責任」について友人(たぶん在日)と口論になりました。(知恵袋より
「じゃあなんで日本兵は天皇陛下のために戦ったんだ? 天皇が裏で糸引いてたんじゃないのか? それに終戦の玉音放送、あれで無条件降伏決めたのは天皇じゃないんか? 政治に関係ないやつがなんでそんなの決めれるんだ? あっ!?」


素直な国民性?

何度も書いているが天皇は江戸時代末まで実権を持っていなかった。
それこそ政治関与していない状態だったのである。
政治を朝廷に渡したのは1867年のことである。
廃藩置県が実施され、中央集権が強化されたのは1871年のこと。
1931年(昭和6年)の満州事変から1945年( 昭和20年)終結の太平洋戦争までを15年戦争というが、たかだか60年あまりで「天皇陛下や国のために命を捨ててもよい」なんて若者や「欲しがりません勝つまでは」などという庶民がわんさか育つものだろうか。
今のような情報時代ではなく、空気を膨張させるのだって一苦労で、下手すれば「天皇陛下って何?人?誰?」という状況であってもおかしくないだろうと思う。
「幕府の時代のほうがよかった」なんてことを親や祖父母から聞いていた人もいるかもしれない。
そんな状態でも戦争は起こり、戦争に駆り出されたのだ。
それと比べれば今は懐古主義は流行らないし、集団的なものの考え方から食み出る人も少ない。
平等一律が好きな一方、究極の差別である皇室には何ら疑問を持つことも無く、その崇拝ぶりもなかなか凄い。
これはもう怖いものなしではないだろうか?





by yumimi61 | 2015-07-08 11:54

昭和 百拾弐

いろいろおかしい

文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港(新潟港・兵庫港・江戸市・大阪市)を1863年1月1日より5年遅らせることを定めたロンドン覚書を締結した。
1863年1月1日というのは兵庫港の開港予定日であり、他はもっと早い時期が予定されていた。
従ってこの覚書が本当だとすると兵庫港に合わせたということになる。
同年8月9日(10月2日)にはフランスともパリ覚書を締結する。
その他、プロイセン(ドイツ)・ロシア・オランダ・ポルトガルとも同様に締結し、文久3年12月20日(1864年1月28日)にはアメリカとも締結したと言われている。

この開市開港の延期を了承するかわりに日本の輸入税(関税)を引き下げたと言われることがある。

これら協定は、延期を認める代わりに、関税の低減化や生糸などの輸出自由化を日本に約束させ、また大名との直の取引や日本商人の身分限定の解除を認めさせた。そして、これらが守られない場合は、延期の取り消しが定められた。

日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた。

・幕府は交渉のため、文久遣欧使節(正使・竹内保徳)を送り、最終的にロンドン覚書やパリ覚書によって遅延が認められたが、代わりに輸入関税の低減化や特定品目の輸出自由化などの代償を負うことになった。


覚書の主な内容はこのようなものだったそうだ。
●新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を5年間延期する。
●開港、開市延期の代償として、幕府は以下を実施する。
  ・ 安政条約に決められたとおり、貿易品の数量・価格の制限を撤廃する。
  ・労役者(大工、船頭、教師、人夫、従僕など)の雇い入れに関する制限を撤廃する。
  ・大名が直接外国人と取引することを妨げない。
  ・定められた関税以外の手数料を徴収しない。
  ・開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない。
  ・外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。
●使節が帰国後、以下を幕閣にはかる。
  ・対馬の開港を建議する。
  ・現行の酒税35%を低減する。
  ・現行のガラス製品の関税20%を5%とする。
  ・横浜、長崎に保税倉庫を設ける。
また、これら代償が履行されない場合には延期の取り消しも定められていた。


メインはやはり「5年間延期」であって、代償として実施すべきことは「締結した条約を約束通り守ってね」というくらいな感じで、特別な事柄ではなくそれほど大きな代償でもない。
何より関税には触れていない。
完全決定ではなく「帰国後に幕府と相談してちょうだいね」という事柄に酒とガラス製品の関税の引き下げが挙がっているが、この書き方からすれば即座に強要されたものではなさそうだ。
また全ての商品の関税引き下げを要求されているわけではない。
ヨーロッパを代表する酒とガラス製品が指定されており、アメリカなんか「?」という感じだろうと思う。


消せなかった不平等感

関税を引き下げたのは開港の延期ではなく下関戦争の賠償金と関係がある。
長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。

下関戦争とは長州藩の下関海峡閉鎖によって経済的損失を被ったとイギリスが言いだして、他国を誘い下関を砲撃したものである。
(砲撃して壊滅させたら上陸して占領するものではないの?下関はイギリスなど四国連合に奪われた。違うの?)
敗北した長州藩に賠償金として300万ドルを要求したが長州藩は幕府に押し付けた。
支払うか新たな提案を行うかと、いきなり今のギリシャみたいな状況になっているが、幕府に支払い能力がなかったということはないだろうと思う。
また下関戦争よりも先に幕府は長州征伐に乗り出していたのだ。
日本という枠に囚われると見落としがちだが、対長州という意味では幕府と四国連合艦隊は仲間である。
しかしもしも下関が四国連合に占領されていたとするならば、幕府はそれを奪還するために戦ったかもしれない。
その場合には幕府と四国連合艦隊は敵である。

さらに「ロンドン覚書」や「パリ覚書」などは下関戦争前に交わしたものだ。
開市開港を延期するほど幕府が大変な状況にあることを諸外国の皆さんはよく御存知のはず。
大変な状況を誰かの言葉を借りて言い換えると、「攘夷運動に対する幕府の力は限界に達していること」となる。

イギリスを代表とする四国連合は、長州藩は、はたしてどちらに付いたのか?
あなたならどうしますか?

ともかく関税は引き下げられた。
慶応2年(1866年)5月13日、下関砲撃事件(下関戦争)の賠償金の減免と引き替えに、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国とそれぞれ改税約書(関税率の軽減と貿易の制限撤去)を取り交わした。
それまで平均20%だった関税(輸入税)が平均5%となった。
これは清がアロー戦争後に結ばされた不平等条約の関税と同程度となり、よって下関戦争が日本にとってのアヘン戦争&アロー戦争であったと言われることもある。(場合によってはここに長州征伐が含まれるかもしれない。但し第一次長州征伐では幕府側が勝利している)
実際のところ関税5%でも当時の日本は十分にやっていけただろうと思う。
逆を言えばだからこそ幕府を倒す必要があったのだ。
もしこの関税引き下げがなければ、日本の産業、とくに莫大な投資費用が必要な重工業がもっと早くに発展したとも考えられている。
それが出来なかったゆえに、軍需品を輸入に頼らざるを得なくなった。
軍需品は戦争をしなければ、戦争に備えなければ、別に必要ない物であるが、世界はそれを許さなかった。


1862+5=1867(単位は年)

1862年に5年間の開港延期の覚書を交わしたはずなのに、、
1864年の下関戦争にも四国連合艦隊は勝って幕府から賠償金を支払ってもらう約束を取り付けたのに、、、
それなのに、、、、それなのに、、、、、

その事件は起こった。その名も兵庫開港要求事件。時は慶応元年9月(1865年11月)。
まだ5年経っていないじゃない!

兵庫開港要求事件
イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件。アメリカ合衆国は艦隊を派遣しなかったものの公使が同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件などともよばれる。

事件の勃発
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。

慶応元年9月13日(1865年11月1日)、英国4隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計8隻(アメリカは軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、9月16日(11月4日)に兵庫港に到着した。
幕府は老中阿部正外および松前崇広派遣し、9月23日(11月11日)から四カ国の公使との交渉を行わせた。

兵庫港に着いた艦隊を1週間もお待たせするなんて!
待ちくたびれた艦隊が砲撃でもしてきたらどうするつもりだったのかしら?

四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。
「攘夷運動に対する幕府の力は限界に達している」と前に聞いていたから?それを覚えていて?
だけど、速やかにもなにも、延期の覚書交わしたわね?それはもう忘れちゃったの?

四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。
あのぉ・・覚書は・・・。

朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日(11月17日)両老中は解任されてしまった。
このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発した。
10月7日(11月24日)、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答した。
開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。
また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。

はっ?


勅許問題

やはり整合性に欠けている。
そもそも1865年旧9月のこの機とは何だろう?(下関戦争は1864年旧8月の出来事)
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画したとあるが、なぜ急に兵庫港だったのだろうか。
そしてもうひとつの大きな問題が「天皇からの勅許」である。
1954年の日米和親条約(神奈川条約)の時も、1958年の日米修好通商条約の時にも、勅許が問題になった。
その後の攘夷運動に大いに利用されたのが勅許である。
1954年以来日本に横たわっていたのが「条約勅許問題」なのである。
「将軍や幕府の決定だけでは事足りぬ。天皇の許可・承認を得よ」ということなのだ。
そして天皇側(朝廷)に反幕府で倒幕派の長州藩やら薩摩藩が付き、さらには公武合体が推進され、実際に天皇家と将軍家が親戚になってしまったものだから、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

しかし日米修好通商条約に関しては批准されており、批准書*を交換している。

*批准
既に全権代表によって署名がなされた条約に拘束されることを国家が最終的に決定する手続きである。通常は議会の同意を得て元首等が裁可あるいは認証、公布などを行うことにより成立し、締約相手国と批准書を交換したり国際機関に批准書を寄託することによって国際的に正式確認される。

批准書交換は万延元年(1860年)4月3日にワシントンで行われた。和文交換証書には全権新見豊前守正興・村垣淡路守範正・小栗豊後守忠順が署名し、英文証書には国務長官ルイス・キャスが署名する。その他に和文証書蘭訳文と英文証書蘭訳文が附属している。
このようにアメリカとは条約の批准手続きが完了している。
日米修好通商条約と同様の条約をヨーロッパ各国とも結んだが、そちらは批准しなかったということなんだろうか?
それともイギリスなど王家のあったヨーロッパでは当時、「天皇(王)からの勅許」と「批准」が別物という扱いだったのだろうか。
将軍や幕閣、朝議などによる批准には意味がなく、是が非でも天皇の勅許が必要となれば、それはもう独裁に近い。




by yumimi61 | 2015-07-07 13:06

昭和 百拾弐

NO.1にならなくてもいい もともと特別なONLY ONE~♪

その時、スタジアムは、うねり、揺れた。
地響きのような歓声が人影まばらな通路にも響いてくる。
あそことここはまるで異空間。
僕はたった一人ここに立ち尽くす。
異空間では人々がたった一つのものを追っている。
開かれたあの出口のどこに世界を隔てる力があるというのか。

声や熱を逃してはいけない。
空間はできるだけ閉じた方がよい。
壁は高い方がよい。
対面させたほうがよい。
下を向かせたほうがよい。
反響が反響を呼び、こだまは光になる。
人は多い方がよいが空間は大きすぎても小さすぎてもいけない。
マネーに揺れてもあなたのデザインは間違えていない。
デザインや奇抜性ばかりが注目されるが現実を生きていないわけではない。

四角四面、人間はなんだかんだ言って四角好き。
四角は丸より効率よく合理的で賢くさえ見えるから。
他の形より信用や信頼を得やすいのが四角。
ただちょっと地味だったりするけれど。
別に嫌いじゃないのとあの人は言うし。
四角ではない野球はそれだけでサッカーに敵わない。
広さ勝負でテニスもサッカーに敵わない。
丸でも四角でもないボールを使って、人々の視線を欺こうとするラグビーも
やっぱりサッカーには敵わないのよ。

―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―

世界一に なる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?

世界一になる理由?金と名声に決まってるだろう!
それなら2位だって3位だって、ううん10位くらいだっていいんじゃないでしょうか?
ん?そうか・・・。

そうか、そうなのだ、私が欲しいものは金と名声ではなかったのだ。
掃いて捨てるほどいる金持ちや有名人になど、なりたいわけではい。
欲していたのは権力だ。唯一無二の権力が欲しかったのだ。
人々に賞賛され、崇めたてられ、何人も私を貶すことなどしない。
どんな金持ちも有名人も意のままに操ることができる。
そんな権力があれば、私は誰よりも未来に前向きに発展的に、そして慈悲深く生きていくに違いない。
この地球のために、よりよき世界のために、力を尽くすことを惜しまないであろう。
権力を手にしてそんなこと出来る人間が他にどこにいるというのだ。
世界中どこを探したってそんなやつはいないに決まっている。
それが出来るのは私だけだ。私こそが世界一に相応しいのだ。
世界の調和を乱す者がもしいれば、正しくない者がいれば、権力にたてつく者があれば、
私が成敗してやる。
そんな馬鹿者を野放しにしておくことは世のためにならん。

でもおじちゃん、人はみんな死んじゃうんだよ。その時はどうするの?













―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―

「白か黒で答えろ」という難題を突きつけられ~♪

Q「白か黒で答えろ」
これは確かに難問だ。
彼はいったい何が白か黒かと質問しているのだろう。
質問に沿った答えでなければ、それがどんなに素晴らしい答えであっても不正解となってしまう。
正しさとはそういうものだ。
解答用紙に記す世界は彼が作り上げた理想の世界であるべきで、
僕が希う世界が間違いであっても仕方ない。
僕が知るべきはまず彼の質問の意図である。

オセロならば僕は黒になりたい。黒のほうが強そうだからだ。
4位のメダルの色を悩んでいるならば、迷うところだがやはりそれは白だろう。
なりたい肌の色を訊いているとするならば、これもまた悩ましい。
現実を重視すれば黒い肌、非現実的な話ならば白い肌。
白人なんて言うけれど、白い人なんてそうそういるもんじゃないからね。
彼が昨日読んだ推理小説の主人公が犯人かどうかという質問ならば、うーんそうだな、おそらく黒だな。
何故かって?彼は主人公が黒であることを認めたくないからだよ。

でも本当のことを言えば僕は白だよ。
僕が好きに選ぶ色は白なんだ。
白は始まりの色でも終わりの色でもあるからね。
何にもない色で、何もかもある色。
真っ新でもあり、塗りたくられ汚れてもいる。



ねえいつかのあれ、白か黒で答えろっていうやつ。あの答えはどうだったの?
ああ、あれか。黒だったよ。
え~なんで?
この世界に白なんて色は存在しないんだってさ。
白と言っているものはほとんど漂白されたもの。骨さえも。
ふ~ん。
白くする方法教えてやろうか?
うん。
太陽光に当てるといいんだよ。
by yumimi61 | 2015-07-06 14:41

昭和 百拾壱

いつも一緒にいたかった~隣で笑ってたかった~曜日はまた変わるのに~心だけ立ち止まったまま ~♪


宙に浮いた新潟港

1858年の日米修好通商条約(安政五カ国条約)で開港を約束した港のうち、兵庫港の開港が難しくなり、「ロンドン覚書」と「パリ覚書」締結によって5年ほど開港が延期されたことを前記事に書いた。
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すでに開港していた下田と箱館。(但し下田港は神奈川開港6か月後に米国人居住区及び通商区としての機能を閉じる)
神奈川(横浜):1859年7月4日
長崎:1859年7月4日
新潟:1860年1月1日(新潟の開港が難しい場合は代替する港を指定する)
兵庫(神戸):1863年1月1日

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ところがところが、この出来事は一貫性がなく少々怪しいのである。
大きく問題になったのは兵庫港の開港であり、覚書が締結された時期を見ても、覚書締結以降に開港予定だった港は兵庫のみである。
しかし新潟港も延期されたという話がある。

外務省:特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」開港開市延期問題と文久遣欧使節団派遣より
1862年1月21日(文久元年12月22日)、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の幕府使節団が、英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣された。使節団に与えられた主な役割は、(1)開港・開市の延期を確約すること、(2)西洋事情を視察すること、(3)ロシアとの樺太境界を定めることであった。
使節団は最初にフランスを訪れたのち英国に渡り、1862年4月30日(文久2年4月2日)、ロンドンに到着した。英国での開港開市延期交渉には、賜暇帰国中の駐日公使オールコックも加わってよく日本側を弁護したこともあり、日本側使節と英国政府は、同6月6日(5月9日)、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5か年延期することを取り決めた覚書(「ロンドン覚書」)に調印した。
 その後使節団は他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰朝した。


新潟市:新潟港の歴史より
1858年(安政5年) 日米修好通商条約により開港五港の一つとなる
日米和親条約(1854年)より一歩進んだ日米修好通商条約(1858年)により、日本は五港(函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎)を開港することとした。この頃から、新潟にも異国船が現れ始め、乗組員が上陸することもあった。
1868年(明治元年) 新潟港が開港
開港の指定を受けた新潟港であったが、戊辰戦争の影響などで10年後の明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)の開港となった。同時に緊急避難などのための補助港として、佐渡夷港(両津港)も開港した。


Wikipedia新潟港より
1843年、新潟港周辺が天領となり新潟奉行が新設。1858年、日米修好通商条約で開港五港の1つとして北海岸開港場に指定される下地となった。実際の開港は水深不足や北越戊辰戦争などの影響で遅れ、1869年1月1日(明治元年11月19日)にようやく外国船に開港、貿易が開始された。同年には新潟運上所(のちの新潟税関)が設けられた
明治期は対外貿易は振るわなかったものの、北洋サケマス漁船など遠洋漁業の基地として栄えた。



問題の日本海

新潟港というのは元々開港が心配されていた地であり、変更しようと思えば出来たのだ。
日米修好通商条約締結の時から代替の港でも構わないという話になっていた。
条約文には「若し新潟湊を開き難き事あらば其代わりとして同所前後に於て一港を別に選ぶべし」とある。そこで近くは酒田湊、直江津湊、松ヶ崎湊、小木湊などが考えられていたが遠くは丹後国宮津湊、若狭国小浜湊、越前国三国湊、能登国所口湊などが候補地となった。ところが慶応三年(一八六七)十月九日日本西海岸における開港場は佐渡国夷湊を補助港として新潟湊に決定した。

近隣の他の候補地:酒田港(山形県酒田市)、直江津港(新潟県上越市)、松ヶ崎港(新潟県佐渡市)、小木港(新潟県佐渡市)
遠方の候補地:宮津港(京都府宮津市)、福井港(福井県小浜市)、三国港(福井県坂井市)、所口港(現:七尾港、石川県七尾市)

日米修好通商条約では北海岸開港場として新潟港が選ばれたが、そこが都合が悪ければ西海岸から選んでもよいという条件になっていた。
この場合の北海岸や西海岸というのは日本海岸沿いのこと。

下の図で、色付で条約と書いてある箇所はロシアが清から得た領地。
日本とロシアとの交流の重要地点だったのは函館港であった。
それを考えると日本が警戒していたのはロシアではなく朝鮮国(当時は李氏朝鮮)の北側であったように思う。
北朝鮮による拉致被害者が連れ去られた場所が福井県や新潟県や石川県などであるが、江戸時代にも日本海側の海岸は鬼門として考えられていたのかもしれない。
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高句麗の流れ

歴史は繰り返すと言うが、日本はかつても九州の一部勢力に乗っ取られ歴史を改ざんされたことがある。
面倒なのは、かつての倭国連合体のそれぞれの国の王が混ぜこぜの状態になっていること。
特に問題なのが九州(九州王朝)と奈良(大倭・大和・近畿王朝)、京都(平安京)の混在。
おそらく九州朝廷などが大倭朝廷乗っ取りを画策し、日本書記などを都合よく書き換えている箇所があるはずなのだが、その認識がないままに、権力を批判する時には近畿王朝のみが槍玉に挙げられるという構図になっている


最有力氏族の蘇我氏族を次々に消していき、最終的には宮中で蘇我入鹿を暗殺するというクーデター(乙巳の変)を起こした。
日本史上において非常に重要な変である。
この後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」であり、初めて元号(大化)を制定した天皇が孝徳天皇だった。
この頃、朝鮮北側は高句麗という国が支配していた地域であった。(地図あり
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この高句麗と日本の九州一部勢力は同盟関係にあったことがある。(こちらの同盟国はどこだ?に書いたこと)

高句麗という国は668年に滅亡した。しかし高句麗の人間が滅亡したわけではなく、細々とあるいは脈々と、その流れは続いてきた。
・北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。
・一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
・遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。

・朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。
・日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。


日本に逃れた一部が現在の飯能市に住んでいたということだが、飯能市は古くには(1988-1989年)宮﨑勤幼女連続殺人事件で有名になってしまった。
ごくごく最近も話題になっていた。
STAP細胞の小保方さんも大好きだった『ムーミン』のテーマパーク「メッツァ」(フィンランド語で森の意)が飯能市の宮沢湖付近にオープンすることが発表されたからである。


アメリカはどこ?

兵庫開港を延期するため「ロンドン覚書」と「パリ覚書」を締結したというが、ロンドンとパリということはイギリスとフランスと結んだということになる。
財務省の資料には、イギリスとフランスの他、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルへと使節団を派遣して同様の覚書を取り交わしたとあるが、「取り交わした」というのは「調印に至った」という意味でとってよいのだろうか?
兵庫開港延期の覚書として出てくる言葉は「ロンドン覚書」と「パリ覚書」のみで、「オランダ覚書」や「ロシア覚書」などという言葉は出てこない。
これは列強国か否かという違いなのだろうか。
兎にも角にも、ヨーロッパの国々と覚書を交わしたとしか書かれていない。
真っ先に日米修好通商条約を結んだ肝心のアメリカが含まれていないのである。
この観点からもやはり何か釈然としない。

Wikipedia両都両港開市開港延期問題
アメリカとは公使ロバート・プルインと交渉が続けられ、文久3年12月20日(1864年1月28日)に江戸で延期を認めるロンドン覚書と同様の日米約定が結ばれた。


タウンゼント・ハリスの「江戸開市」や「兵庫開港・大阪開市」に対する認識の変化

これによれば、アメリカ大統領のハリスへの信頼が厚かったため、ハリスに自由裁量権を付与した。
これが、幕府がヨーロッパには使節団を派遣したが、アメリカには派遣しなかった理由だそうである。
しかしハリスは正式に覚書を結んでいない。
ヨーロッパに交渉に行った使節団一行が帰国した文久2年12月9日(1863年1月28日)にはハリスはすでに退官して帰国し公使が変わっていた!(そんな馬鹿な・・)
でも後にロンドン覚書の内容をアメリカも正式に認めたとか。それが1864年1月28日ということなのか?
ちなみに「日米約定」と言えば通常は、ハリスが日米修好通商条約の前段階として1857年に下田にて締結した9か条の日米約定(日米追加条約)(下田条約)のことである。

ハリスは、「私も1ヵ年あまりも江戸に在留し、ようやく代表者の方の言われた事が虚説ではなかったと判明しました」と告白しているように、ある意味で特殊な首府・江戸の開市は、日本の諸問題を凝縮している都市の開市だったのだ。





by yumimi61 | 2015-07-05 12:45

昭和 百拾

自由貿易とは何か?

前記事に書いたように関税とは輸入税と輸出税のこと。
税金であるので、商品売買による儲けを個人や企業が得るのと違い、輸入税は国家(幕府・政府)の収入となる。
また輸出の場合に輸出税を支払うのは輸出する者であるから、基本的に幕府や政府は支払う必要は無く、輸出する個人や企業が支払う。
輸入税を高くすれば、自国産の農産物や自国製品の保護、国内産業の保護に繋がり、国の儲けにもなる。
輸出税には国内品の過大な流出を防ぐ目的がある。今は輸出税は掛ける場合は少なく、従って関税というと輸入税を指すことが多い。

貿易において貨物を輸入及び輸出をしようとする時には、貨物の品名や数量、価格などを申告して必要な検査を受ける必要がある。
そして関税など必要な税金を納入させる。これで初めて輸入や輸出の許可が下りる。
こうして内国貨物が外国貨物に、外国貨物が内国貨物に切り替わり、それぞれの場所へ向かうことが出来るのだ。
この手続きを経ないと港まで品物が届いていても輸出入は完了しない。
輸出の場合ならば船積できないということになる。輸入ならば港から中に入っていかない。
これが通関と呼ばれる一連の手続きになるが、この手続きをしないで輸出入する場合や虚偽の申告を行う場合(おもちゃのネックレスと申告したのに麻薬だった場合など)を密輸という。

条約などで貿易の取り決めがなく、且つ港を開いている場合には、港などで個々に取り引きができてしまう。
乗組員などと売買し、乗組員は貨物ではなく自分の荷物として船に乗せればいいのだ。
例えば善意で提供されたもの(贈り物)であったならば、それを拒絶したり廃棄しなさいと言う権利は国にはない。
実際には現地で物々交換や金銭のやり取りがあったとしても、現場を見ていない限り把握することは困難であり、個人の売買を禁止することはあまり意味がない。
江戸幕府は日米修好通商条約まで自由貿易を行ってこなかった。
貿易は特定の国(商社)に対して特定の場所で許可していたのだ。

国民から集める税金(年貢)だけで国の運営が可能だったということであり、輸入しなくても国民が飢え死にするようなことはなかったということなのだ。
要するに関税のある貿易を導入したということは、国は新たな財源を得るということなのである。
しかしお金のことばかり考えていればよいわけではない。
自由を許すということは風紀が乱れるなどリスクは高まるということになる。
異質なものが自由に入ってくるということは、これまで維持していたバランスを崩したり、日本固有なものを失ってしまう可能性もある。
一方世界が開かれていく中でそれを拒絶し続ければ孤立してしまうこともあり得る。
この国にとって何が一番よいのだろうか。こうしたことから開国派と反対派とに意見が分かれたのだ。

また輸出入申告手続きは非常に煩雑で法律等の専門的知識が必要。言語が違えば言語の問題もある。
それらに尻込みしてしまえば個人での取引は難しくなる。
自由貿易を謳っても、実際には税関への輸出入申告を代行する業者に手数料を支払って委託する場合が多くなってしまう。
インターネットが普及してからは外国の物が誰でも簡単に手に入る(買える)ようになり、いつでもどこでも個人輸入な感覚であるが、あれは決して個人輸入ではない。代行業者が入っているのだ。
インターネットが普及するまでは個人を相手にする代行業者が少なく、また手数料がかなり乗ってしまうのであまり流行らなかった。
従ってどうしても欲しいものを輸入したいならば個人輸入するしかなかったのだが、これは確かにかなり面倒だったし、金額や届く品物の間違いもしょっちゅうあった。言語も英語を使わなければならなかった。
代行業者にしても個人輸入にしても外国とのやり取りは郵便が基本だったから日数もそれなりにかかった。


関税のある自由貿易というのは生産者や製造者のみならず国だったり貿易商社などが儲かるようになる。
また手続きが煩雑だからと個人で取引せずに委託する場合や個人での取引等が禁止される場合には、生産者や製造者の儲けは減り、生産や製造を伴わない商売がぼろ儲けするような状態が生まれやすい。
物を作れない、物を作らない、物のない人達が、物(貨幣や紙幣)を生むことが可能になるということである。


関税の妥当性

勘違いしている人がいそうだなのだが、国内の税金と関税は違うのだ。
「消費税アップ反対!」「所得税や法人税が高すぎる!」「貧困層と富裕層の税金が不平等!」という発想から、関税が高いほど日本に不利と思い違いしやすいが、関税を輸入税とするならば関税は高いほど国益に繋がりやすいものである。

日米修好通商条約で取り決められた関税(輸入税・輸出税)は、輸入税は平均20%、輸出税は5%だった。

日米修好通商条約の交渉において日本側は関税率の設定に関しては全面的にハリス*を信用すると述べている。ただ、20%という関税率は欧米諸国のものと同程度かは問い合わせており、ハリスはYesと答えている。欧州諸国の関税率は実際にその程度であったが、ハリスの母国である米国は、当時は保護主義的であり50%前後の関税率となっていた。

*タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。
日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。
当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに兼任させることが多かった。


イギリスが清(中国)とアロー戦争(第二次アヘン戦争)を行い勝利し、日米修好通商条約より1月早い1858年6月にイギリス(+付随列強国)が清との間で結んだ不平等条約での関税(輸入税)は5%だった。
それに比べると20%いうのは高い税率である。
欧州諸国間での関税もそれくらいだったということである。
アメリカは当時もっと高い輸入税率で50%前後だったそうだが、国によっては70%くらいを設定する場合もある。
関税自主権によって勝手に高い税率を決める場合もあれば、貿易バランスなど考慮の上に話し合いで高く設定する場合(協定制)もある。

関税というのはあくまでも税の話である。
そんな高い関税がかかるならば輸出なんかしなくてもいいや。
国内で商売が成立する場合にはそういうことになりかねない。
しかし一旦国を開いてしまえば「開国したのに輸出しないってどういうことなんですかっ!」と列強国から文句を言われることもあるだろう。
外国とあまり波風立てたくなければ、国は輸出できる人の機嫌をとり、「少々不利でも何とか輸出してもらえないか」と依頼することになる。
または国内だけでは商売が成立しないようにしてしまう。
国が外貨を必要な取引や外交を行っている場合には輸出しないというのは尚のこと深刻になる。輸出は外貨を得る手段になるのだから。


長いような短いような

1854年 日米和親条約(神奈川条約)締結。

攘夷尊王運動が盛んになる。調印にあたって朝廷(天皇)の勅許を得なかったことが問題視される。
幕府は将軍後継者問題で揉める。

1858年 徳川家茂第14代将軍に就任。(若干13歳)
      日米修好通商条約(安政五カ国条約)を締結。
1860年 条約締結を牽引した井伊直弼が暗殺される。

1862年2月 第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹が結婚。公武合体の目玉となる。 
      8月 薩摩藩の最高権力者の島津久光が公武合体推進派兵を率いて鹿児島から京都に進出。
      8月 島津久光と朝廷の公武合体派の勅使により幕府が人事制度改革に応じる。(文久の改革)
      これにて会津藩主・松平容保が京都守護職に就任。
      8月 生麦事件発生。
1863年4月 長州藩主・毛利敬親が藩庁を萩から山口に移転させる。
      5月 長州藩が朝廷を利用して久留米藩・真木保臣の幽閉を解くように圧力を掛け実現する。
   京都は治安が著しく悪化する。
      5月 将軍・徳川家茂が朝廷の圧力に屈し攘夷実行を約束する。     
      5月 長州藩が下関の砲台から外国船(アメリカ・フランス・オランダ)へ砲撃。
      8月 (クーデターを計画に基づく)大和行幸の詔が発せられる。
      8月 薩摩藩が会津藩(会津藩主で京都守護職・松平容保)に共闘依頼する。
      8月 天誅組が挙兵。
      8月 薩英戦争(薩摩藩兵は鹿児島を離れず)
      8月 政変クーデター(八月十八日の政変)、薩摩藩が長州藩の追放に成功する。
1864年7月 長州藩による禁門の変
      7月 第一次長州征伐
      8月 下関戦争

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すでに開港していた下田と箱館。(但し下田港は神奈川開港6か月後に米国人居住区及び通商区としての機能を閉じる)
神奈川(横浜):1859年7月4日
長崎:1859年7月4日
新潟:1860年1月1日(新潟の開港が難しい場合は代替する港を指定する)
兵庫(神戸):1863年1月1日

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攘夷運動などによって、国内問題が山積する。さらに、朝廷は大坂開市と兵庫開港に猛反発したため、幕府は期日通りの開市開港は無理と見て、諸外国に開市開港延期を申し出る。

1862年以降、薩摩藩と長州藩によって引き起こされたクーデターや戦争などによって政情不穏となり、その両藩と組んだ朝廷が攘夷(外国排除)を訴え、兵庫港の開港にも猛反対した。
反対するにあたって朝廷側が持ち出したのが条約勅許を得ていないことだった。
こうした状況により1863年の兵庫港の開港が困難になってきた。
逆を言えば、1860年の新潟港までは順調に開港してきたということになる。
そして新たに1860年にポルトガル、1861年プロイセン(ドイツ)とも条約を締結したのだ。

アメリカ公使タウンゼント・ハリスは、幕閣とも親しく実情を理解していたこともあり、延期やむを得ずとしたが、英国公使ラザフォード・オールコックは断固反対であった。このため、幕府は欧州本国政府との直接交渉のため、文久遣欧使節を欧州に派遣することとする。
しかし、文久元年7月9日と翌10日(1861年8月14日、15日)、オールコックは老中安藤信正、若年寄酒井忠ますに通訳を加えただけの秘密会談を持ち、攘夷運動の深刻さとこれに対する幕府の力の限界を知る。この会談の後、オールコックは開港開市延期の必要性を理解し、本国政府にその旨を伝えるとともに、自身の休暇帰国を遣欧使節の日程と合わせ、直接本国政府に開港開市延期を訴えることとする。


文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港を1863年1月1日より5年遅らせることを定めたロンドン覚書を締結する。以後はイギリスの取り成しもあり、プロイセン・ロシア・オランダ・ポルトガルとも同様に締結し、同年8月9日(10月2日)には仏外相とパリ覚書を締結する。

上記に書いてある老中・安藤信正は幕府側の人物であるが、反井伊直弼であり、井伊の死後に権力を握り、公武合体を推進した人物である。

桜田門外の変で直弼が暗殺される。信正は事態を収拾した後、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以後この2人が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった(久世・安藤政権)。
信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えていた(公武合体)。文久2年(1862年)には直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の第14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現であった。

     
1861年8月に会談を持ち、攘夷運動の深刻さとこれに対する幕府の力の限界を知らせたというのは、いささか早急である。
また幕府の事実上最高権力者が外国の大使に「幕府は限界である」なんてことを伝えるなんてことは信じられない。
当時の世界情勢に照らし合わせば、例えそうだったとしてもあまりに危機感のない言動である。
実際に状況が著しく悪化するのはもう少し後の事である。
1862年6月6日に「ロンドン覚書」が締結されたというこは、やはり幕府にも内側から壊れる兆しがあったということだろう。



by yumimi61 | 2015-07-04 14:06

昭和 百玖


◎今週末日曜日、群馬県知事選の投開票があります。
候補者の選挙カーは回ってきませんが、投票率が気になるらしく投票呼びかけの広報車が何度か回ってきました。

インターネットで個人が発信できる時代に、そしてマスメディアがそれを多分に利用している時代に、物事を誰かに委ねるという選挙制度が流行らないのは当然。
時代は個人の時代、セルフの時代、被雇用者より起業家が持て囃される時代、玄人より素人の時代なのだ。
価値観が多様化しているとよく言われるがそれは錯覚であって、実は価値観は一律化するようにコントロールされている。そのほうが扱いやすいからだ。
選挙を巡る失望はこちらの記事の「1%の世界で」に書いた。
何より問題なのはテレビの開票速報特番である。
テレビ局は選挙時間終了と同時、開票率0~1%でも当確を出してしまっているのだ。
99%の票を開けない状態で「おめでとうございます」だの「ありがとうございます」だの「バンザイ」だの政治家も一緒になってやっている。
選挙管理委員会が発表した結果ではなく、マスコミ独自調査を全ての人間が信じ込み、正式発表のごとく扱っていること自体、異様ではないだろうか。

いかに政治家とマスコミが癒着しているかという証拠である。
例えば大学の入学試験。試験終了後に大手予備校が様々な観点から判断して合格確実を出したとしよう。
しかしその段階で公衆の面前で「受かった受かった」と万歳して大喜びし合格を公言する学生や関係者はいないだろう。
どんなに予備校と大学が癒着していようとも、大学が合格発表日に正式に発表するまでは合格は確定しない。
テレビの開票速報特番というのはとにかく異様過ぎる。
あれでは日本の選挙を支配しているのはマスメディアであり、政治家はそれを認めていることになる。
「選挙管理委員会の正式発表が無いのでまだ何ともお答えできません」という政治家がいないのは何故?

このように選挙には多々問題がある。
従って選挙結果すら手放しでは信じられなくなってしまう。
選挙を信用していないという人は結構いるのではないだろうか。
このような土壌に不正選挙疑惑が生じてくるのは仕方ない。
実はこの不正選挙疑惑に群馬県が絡んでいる。
選挙システム関連機器と自民党の関係が取り沙汰されている。

株式会社ムサシと不正選挙
自民党に政治献金企業が選挙集計事務独占受注?
「株式会社ムサシ」と民主代表選をつなぐ点と線(2)(つくば市にある関連会社)

・<不正選挙疑惑を調べてみた> 選挙開票・企業株式会社ムサシにまつわる事実
・<都知事選にムサシ導入> 練馬区要注意!!2月9日の開票結果で信用できるのは府中市(NHKニュース9書き出しあり)


以前こちらに(2014年10月28日)群馬県出身の山本一太議員の新聞を巡る疑惑を書いた。献金が関係している。(写真は読売新聞販売店)
すると11月9日、読売新聞が年内解散をスクープした。
いきなりの解散突風!仕掛けは読売新聞ナベツネ?見るも無残なアベノミクス「やるなら今しかない」
その突然の解散総選挙は大方の予想通りに与党の圧勝。
自民・公明で326議席(自民党291、公明党35)を獲得、定数の2/3(317)を上回った。
しかし元々324議席を持っていたわけで、税金無駄遣いの意味がない選挙とも言われた。
その後安倍首相は「国民の信任を得た」と事あるごとに言っていたっけ。

安倍首相が言っていたと言えば、安倍首相のTwitterは実は山本一太氏が呟いていたことが発覚するという一件もあった。
しかも安倍首相がアメリカへ行っていた時の話だ。(議会で演説したあの時。山本一太氏も行っていたらしい)
なんなんだろう?ただのうっかり?
安倍首相Twitterアカウントで“誤爆”騒ぎ 山本一太氏が釈明
・【安倍首相Twitter誤爆騒動】山本一太氏の釈明は文字通りの「蛇足」だった


こちらの記事(2014年2月22日のとりわけローカルな話)には、オータムジャンボ宝くじの収益金は全額市町村に交付されるものだが、群馬県市町村振興協会は基金として積み立て貸付を行っており、2008年2月に群馬大学重粒子線治療装置設置への財政支援として9億6500万円も出していることを書いた。
群馬大学医学部付属病院で行われた腹腔鏡手術の問題が初めて報じられたのが2014年11月14日
その後、千葉県がんセンターの腹腔鏡手術の問題も報じられた。
そうとなれば、放射線(重粒子)がチラつく。

上記期間の間にあったのがSTAP細胞騒動である。
言いたいことはあったが、私は論文内容に触れた具体的なことは7月くらいまで書かなかった。
そのSTAP細胞騒動の途中で山梨大学の若山教授が遺伝子解析を依頼した機関が放射線医学研究所であった。千葉県にある。
STAP論文にも問題は多かったが、この発表(間違い)も深刻な問題であった。
こちらに書いた通り、群馬大学も放射線治療に先進的であった。
また群馬県出身の中曽根元首相は若い議員時代から原子力発電の推進に積極的だった。
包括的核実験禁止条約(CTBT)の放射性核種観測所が高崎にあったりと何かと放射線には縁が深い。


◎政治家がマスメディアに圧力を掛けたことが一度もないなんてことがあるわけがない。
ないかあるかと言えばあるに決まっている。
最近の報道を巡る話題は「圧力を掛けた」「圧力を掛けられた」を利用して、マスコミと政治家(政権)が敵対関係にある(癒着関係にはない)ことをアピールするための筋書きのあるドラマなのではないでしょうか?
考え過ぎ?ただのうっかり?
平等がやたら主張され一律が好きで且つどこへでも移動できる時代になったから昔ほど属性が際立たないし、属性を振り翳すことはそれほど有効ではなくなった。
そのことに気付いていないか、属性を失うことを恐れているのか、だからこそ権力頼みになるのだろう。



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不平等と感じるか否か

1854年の日米和親条約で下田と箱館を開港したが、この時はまだ正式に貿易に関する取り決めはしていない。
1858年の日米修好通商条約(+他4国との条約)では、箱館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港、江戸・大坂の開市、これらの地における自由な売買、関税の取り決め、開港場での居留と開市場での滞在許可、領事裁判権利、在留米国人の信教・教会建設の自由、アヘン禁輸等を定めた。
中でも重要なのが自由貿易である。

これらの条約は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、などといった不平等条約だった。しかし、この「不平等性」が問題になったのは明治維新以降であって、幕末には大きな問題とみなされていなかった。

関税自主権はなかったが、当初設定された税率は天津条約に比較すると妥当なものであった。また、開国当初は圧倒的に日本の輸出超過状態にあった(1863年の横浜における日英貿易の例では、日本からの輸出が約1000万ドル、日本の輸入は400万ドル)。これから換算すると幕府の関税収入は1863年には200万ドル程度となるが、これは年貢収入に匹敵したとの説もある。


不平等ばかりが強調されることが多いのだが当初は不平等条約ではなかった。
信じられないかもしれないが当時は日本のほうが圧倒的に輸出力が高かった。
上記に対イギリスの例があるが、対アメリカでも同様である。
イギリスが長州藩に下関条約を閉鎖されたから経済的損失を被ったと言ってきたが、経済的損失は貿易不均衡が原因である。
イギリスは清(中国)との貿易でも不均衡に陥り、アヘンの密貿易をせざるを得なくなったわけだし、日本で取引していた時期もあるので全く状況が分からなかったということはないと思う。
イギリスは不平等条約を目指していたのである。

日米修好通商条約で取り決められた関税(輸入税・輸出税)は、輸入税は平均20%、輸出税は5%だった。
輸入税を高くすれば、結果的に自国産の農産物や自国製品の保護、つまり国内産業の保護となる。
輸出税には国内品の流出を防ぐ目的がある。今はあまり輸出税は掛けていない。輸出が不利になるから。
日米修好通商条約当時は、アメリカは日本から安い生糸を沢山輸入したがったので、日本国内供給分まで出ていかないようにと輸出税が掛けられた。
また米や麦はアメリカへ貨物輸出はしないものと決められた。
関税自主権というのは自分の国で自由に関税が決められる権利。
日米修好通商条約は協定関税制であった。

政府の介入や身分に係わらず、誰からでも日本の品を購入でき、誰にでもアメリカ製品を販売できる自由貿易。
但し居住する場所や外出が制限されていたくらいで、日本中どこにでも出掛けて行って商売するという状況にはなかった。
また軍需品は政府のみへの販売と決められていた。

港は一斉の開港ではなく時期が定められた。
すでに開港していた下田と箱館。(但し下田港は神奈川開港6か月後に米国人居住区及び通商区としての機能を閉じる)
神奈川(横浜):1859年7月4日
長崎:1859年7月4日
新潟:1860年1月1日(新潟の開港が難しい場合は代替する港を指定する)
兵庫(神戸):1863年1月1日

日米修好通商条約はこのようなものであり不平等条約という認識はなかったわけだが、しかしながら1国と条約を結んだら「同じ条件で我が国とも結べ―!」と次々やってきて、有無も言わせず同じ条件で条約を結ばなければならないとすればやはりそれに対しては不平等感が漂ってしまう。
国の特色や状況はそれぞれ違うわけだから。







by yumimi61 | 2015-07-04 00:15

昭和 百捌


◎「まっすぐ」と言いつつ「真横」を向く安倍首相。
安倍首相のアンチテーゼ。
自民党のアンチテーゼ?

国民目線ではなく、どこ目線なのか。
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◎ところで北米って女子サッカーの人気が高いのかと思っていましたが、意外にそうでもなさそうですね。
観客席が
しっ、しー?
沈黙は金なり?

◎「安全神話の崩壊」という言葉すごく気になります。
神話の使い方を間違えているように思うのです。
【神話】
人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語。
=英語ではmyth=
1 (個々の)神話;((集合的))神話. ⇒LEGEND 1, ALLEGORY the Greek myths
ギリシャ神話.
2 作り話;作り事.
3 架空[伝説上]の人[物].
4 根拠のない社会通念,神話,俗説

神話は現代では現実からは遠いものと考える。科学とは反対に位置するものである。
安全が神話では困るのだ。ところが日本は「安全神話」が大好きである。
やはり神を絶対的権力と捉えているのではないだろうか?
私が新幹線の事件で一番驚いたのは、人々がほとんどサリン事件を忘れ去っていること、それに全く触れないことである。

◎油を撒いて火を付けた人が年金生活に不満を抱いていたとかで、年金24万円だったという話がネットでは話題だったようですが、あれも不思議ですよね。
近所の方に「35年間払っているのに24万円しかもらえない。税金や光熱費を引くとほとんど残らない」とこぼしていたそうですが、余程親しい間柄だったんでしょうか。
一般的には個人差のあるお金の話というのはしたがらないですけれどもね。
私なんか親が幾ら年金貰っているかさえ知りませんけれど。
ただ年金で(有料)老人ホームに入るのは厳しいと父が申しておりました。
ともかく年金24万円には大きな2つの派閥がありましたとさ。
「月24万円で生活できないとか甘え。今の若者の給与所得はもっと少ない」
「年金は2ヶ月に1回支給だから1ヵ月12万円」→「これでは確かに少ない」「都内ではきついだろう」「これだけあれば暮らせるんじゃない」
皆さん年金が2ヶ月に1回支給だなんてよく御存じで。受給者ではない人達だろうけれどもみんな年金に詳しい。
2ヶ月に1回支給されているなんて受給者でなければ普通は知らないと思う。
え?児童手当てとか国からの支給物は2ヶ月に1回だから?するどい・・。
そして何より驚いたのは「24万円って年間じゃない?」という人がネットでは皆無な状態であること(私調べ)。
皆さんそんなに年金貰えると思っているの?71歳と聞いたから?
(ちなみに今年71歳になる人というのは、第二次世界大戦終結前年1944年生まれ。年金受給額が1ヵ月3万円という話や昭和19年・1944年生まれの人は私のこの記事に出てきた)。
国民年金のみの人や厚生年金からの受給が少ない人は月12万円も貰えません。
国民年金の現在の平均支給額はこちらにあるとおり5万5千円。
おそらくこれは厚生年金の報酬比例給付がプラスされる人も含んだ平均だと思います。

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成功と失敗

1854年旧3月3日、アメリカと日米和親条約(神奈川条約)を結んだが、この時に日本が開港したのは伊豆下田港(下田港)と松前地箱館港(函館港)の2港であった。
様子見といった感じである。

伊豆下田というのは静岡県である。伊豆半島の先の須崎の左側が下田湾・下田港となる。
松下村塾出身の長州藩士・吉田松陰は、1854年旧3月28日に弟子を伴い下田に停泊していたペリー艦隊に小船を寄せて密航を希望したが拒絶されて失敗に終わった。

一方、安中藩士(群馬県)の新島襄は成功した。
新島は1864年にやはりアメリカへの渡航を画策し、備中松山藩(岡山県)の洋式船「快風丸」にてまずは箱館港へ向かった。
新島は幕府の軍艦操練所で学んでおり、元々「快風丸」に乗っていたのだった。
箱館でロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会い、ニコライに日本語や日本文化を教える。
そのニコライ司祭がアメリカへの密航に協力してくれた。
旧6月14日に箱館港からアメリカ船ベルリン号(ベルリンなアメリカ船って・・)で出国し、上海経由でボストンに到着した。
坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨(山本数馬)は箱館にてこのニコライより聖洗機密(洗礼)を受け、日本ハリストス正教会の信者となり、後に最初の日本人司祭となった。

安中藩の初代藩主は井伊直勝(旧名:直継)である。
井伊直勝は、徳川家康の側近として徳川四天王や徳川三傑に数えられる井伊直政の長男。
井伊直政は高崎藩の初代藩主であり、後に佐和山藩(彦根藩)の初代藩主ともなった。
現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物である。
彦根藩を継いだのは井伊直勝(旧名:直継)の弟であり、開国に尽力した井伊直弼はそちらの家系の子孫である。
アメリカへの密航(当時は自由な渡航が認められていなかった)という観点からも長州藩は徳川憎しなのである。
徳川家も井伊家も群馬県と関係があるので、そういう意味では長州藩は上野国(群馬県)憎しでもあると思われる。

最初に開港された下田港というのは、1985年8月に日本航空123便が群馬県上野村に墜落した事故(事件)で最初に異変のあった地点に近い。
この時の首相は群馬県出身の中曽根首相であった。プラザ合意もこの年9月。
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昨年の8月15日に書いたJLスペシャル記事と航跡図もどうぞ


須崎の御用邸

下田港の右手に少し突き出た箇所がある。そこが須崎である。
須崎には皇室の須崎御用邸がある。
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須崎御用邸が建設されたのは1971年(昭和46年)のことだというから驚く。わりと最近のことよね?
皇室の御用邸というのは かつてもっと沢山あった
どれほど御用邸が必要だったのかという数であるが(数が基準ではないの、旅行先があちこちないと困るでしょ?)、その全てが1886年(明治19年以降)に設置されたものである。これも驚きである。
現在は用途や使用者が変わっているが、これは売却したものだろうか?それとも貸しているのだろうか?

ちなみに第一次伊藤博文内閣が発足したのが1885年である。
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初代:第一次伊藤博文内閣
山尾さんの藩名が入っていませんが長州藩です。前記事に昨日書いたとおり長州五傑に数えられています。
孫が太平洋戦争時に昭和天皇の側近となります。







by yumimi61 | 2015-07-03 10:33

昭和 百質

※追記しました。(7月2日)


日本の近代史はイギリスと共にあり

■長州五傑
イギリスに渡った伊藤俊介(後の伊藤博文)・井上馨・遠藤謹助・山尾庸三(太平洋戦争時の昭和天皇側近・木戸幸一の祖父、木戸幸一の両親とも長州藩出身)・野村弥吉(後の井上勝、日本の鉄道の父)のこと。

イギリスへの渡航は駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会*のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)らの協力を得て成し遂げられた。
イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。

1863年旧5月12日(新6月27日)、ジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、上海経由でロンドンに入った。

この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。


5人のうち井上馨と伊藤俊輔(伊藤博文)は他の者より一足先の1864年に帰国している。
兎にも角にも長州藩は外国人排除という攘夷を掲げつつ、イギリスの援助にて藩士をイギリスに渡航させていたのである。
長州藩が攘夷決行としてアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を砲撃したのは旧5月10日のことである。
その2日後には長州藩士は横浜港をイギリス船で出発しているのだから、思想など嘘っぱちだったということだ。
依頼をしたり京を出発したのはもっと早い時期ということである。
1963年旧5月というのは「八月十八日の政変」前の事で、長州藩と朝廷(急進派公卿)が組んで京都を牛耳っていた頃。
幽閉されていた真木保臣が長州藩の圧力によって幽閉を解かれ、「山口政事堂」で山口藩主の毛利敬親と面会し、京都入りしたのも同じ時期である。

●井上馨
毛利氏家臣の家系に生まれる。長州藩の藩校・明倫館出身。
江戸遊学中の文久2年8月(1862年)に藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会*から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴、同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎した。にも関わらず御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。
その後イギリスへ渡航し、帰国後は倒幕運動に参加。

●伊藤俊輔(伊藤博文) 
百姓の家系だったが父が武家奉公人の養子となり、俊輔も足軽(武士団の最下層の兵隊)になる。
長州藩の私塾・松下村塾出身。
長州藩士・桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり、井上馨と出会う。
イギリスへ渡航し、帰国後は倒幕運動に参加。
前記事に記したとおり、長州藩は下関戦争の講和使節の使者に高杉晋作を任じたが、その時の通訳を伊藤が務めた。
明治時代の初代・5代・7代・10代の総理大臣となった。
1906年に初代韓国統監に就任したが、朝鮮人に暗殺された。


*ジャーディン・マセソン商会
前身はイギリス東インド会社。
1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。
設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。
1841年に大英帝国の植民地の香港(1842年の南京条約で正式に割譲)に本社を移転。


先日こちらに下記のように書いたが、長州藩は香港上海銀行が設立されるより前にイギリスとの関係を深めていた。

日本にとってそれより重要だったのは香港上海銀行の設立(1865年)と日本支店の開設(1866年)であった。
大政奉還と明治元年(1867-1868年)はその後に起きた出来事である。
要するに明治時代への転換の仕掛け人や支援者は香港上海銀行と見るべきだろう。



長州藩への賠償金の肩代わり

前記事に書いたように、1864年旧8月に行われた長州藩とイギリスが主導した4国連合艦隊との下関戦争はたった3日であっけなく勝負がついた。
莫大な賠償金が課せられた長州藩は攘夷は幕府の指示だったとして支払いを幕府に押し付けた。

すでに述べたことではあるが、薩摩藩によって推し進められた公武合体の目玉として、1862年、17歳になった第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹が結婚した。
幕府と朝廷は親戚関係によってまさに合体した。
若い将軍・家茂は孝明天皇に攘夷を誓い、京都に入ったりもした。
しかし孝明天皇はどちらかと言えば佐幕派の人で、不平等条約には反対していたが貿易そのものに反対していたわけでもなかったし、西洋文化にも理解のある人であった。
薩摩藩や長州藩にとっては親徳川幕府であった会津藩と同様、孝明天皇と家茂将軍も目の上の瘤でもあったのだ。
ただ両者とも若く、権力はあっても権威にはやや欠けていて、周囲に利用されてしまったようなところがある。
その際、都合よく使われたのが「尊皇攘夷」「公武合体」であった。

「幕府が条約を結び開港したのに、海峡閉鎖されて港に入れなかった。だから幕府が責任を取りなさい」
外国のこの言い分も通ってしまう。
幕府が「開港に反対しているのは朝廷側であり、幕府ではない」と主張しても、「そんなことは私達は与り知らぬ。自分の国のことでしょう、反対されているならさっさと許可を得なさい。そもそも実権を握っているのは幕府ではなんでしょう?」とかなんとか反論されてしまうだろう。
朝廷と幕府という二枚看板が足を引っ張るようになってきた。

すなわち幕府も賠償金を断固として拒否することが出来なかった。
また賠償金が巨額過ぎて、長州藩が支払い能力を超えていた。長州藩が支払うことは現実的ではないことも分かっていた。
こうして賠償金を言い成りに押し付けられる格好になった。


四国には気を付けろ!?

長州藩が会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた「禁門の変」が起こったのは1864年旧7月19日のこと。
これを受けて旧7月23日に朝廷が幕府へ対して長州追討の勅命を発し、旧8月2日より第一次長州征討が始まった。
イギリスはこれに危機感を持ったのではないだろうか。
長州藩が幕府にこてんぱんにやられてしまえば状況は不利となる。
そこでイギリスは長州藩の下関海峡閉鎖に伴う経済的損失を理由に武力行使を決めた。
だからこそ長州藩の砲撃から1年も経ってからの武力行使であり、砲撃を受けていないイギリスの提案だったのである。
確かにイギリスは経済的損失を被っていた。しかしそれは下関海峡閉鎖によるものではない。(これは後述する)
旧7月27日28日にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの「四国連合艦隊」は横浜を出港した。
そして旧8月5~7日に戦い、イギリスは長州藩をこてんこてんにやっつけた。
日本人であれば「四国」にはやや混乱を来たすはず。日本には四国地方があるからである。
そしてこの後に台頭してくるのが四国の土佐藩(現在の高知県)の人物や土佐藩を脱藩した坂本龍馬であり、長州藩と薩摩藩の同盟に絡むことになるからである。
連合艦隊には土佐藩がくっついていたのではないだろうか?

さらにここにはもうひとつ興味深い点がある。
1958年に日本とアメリカが結んだ日米修好通商条約に付随してきたのがイギリス・フランス・オランダ・ロシアの欧州4国である。
この4国はアメリカと同じ時期にほぼ同様の内容の条約を結んだ。
アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5国と結んだ条約をまとめて「安政五カ国条約」と呼称することがある。(もちろん条約はそれぞれの国と別に結んだものである)

実はその後も欧州各国と同様の条約を結んでいる。
ポルトガル(1860年)、プロイセン(1861年)、スイス(1864年)。
ベルギー(1866年)、イタリア(1866年)、デンマーク(1866年)。
明治政府になってから、スペイン(1868年)、スウェーデン・ノルウェー(1868年)、オーストリア・ハンガリー(1869年)など。

ところで何となく使っている列強国という言葉。どの国が含まれるのかご存知でしょうか?

19世紀初頭のナポレオン戦争後のウィーン体制による五国同盟(ヨーロッパの大国であるイギリス・フランス・オーストリア帝国・プロイセン王国・ロシア帝国)によって、列強が強く意識されるようになった。
このうち、プロイセンがオーストリアを除くドイツ連邦諸国を事実上吸収してドイツ帝国となり、敗れてドイツから除外されたオーストリアは支配地ハンガリーの自治権を認めてオーストリア=ハンガリー帝国となった。
19世紀末には、この統一ドイツと、南北戦争を終えたアメリカ合衆国がイギリスに替わって、世界一の経済力を争うようになる。
20世紀初頭の日露戦争終結後から第一次世界大戦の間ごろまでにイタリア王国とアジアから唯一、日本も列強と見なされるようになった


世界的に列強国という場合には然したる定義はない。
先の戦争に勝利した国や経済的に強うそうな国のことを指すことが多く、半ば雰囲気である。
欧州の列強国には確たる裏付けがある。
フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として1814年に開催されたウィーン会議の出席国である。
それが上記にもあるイギリス・フランス・オーストリア帝国・プロイセン王国・ロシア帝国の5国であり、これを「五大国」と言った。
この会議のウィーン議定書によって欧州の国際秩序を取り決めた。
ここから欧州では自国に直接関係しないことまで口を挟むようになったのだ。
第一次世界大戦まではこれがそのままの世界五大国であった。

実はウィーン会議にはもう1つ「ローマ教皇領」も出席している。当時ローマ教皇の支配していた領土(教皇領国)である。
1870年にイタリア王国によってローマが占領され教皇領は完全に消滅したが、ローマ教皇らはイタリア政府との交渉を拒むという強硬手段に出て居座り続け、ついに1929年に妥協和解として世界最小の独立国バチカン市国を誕生させた。
教皇領という意味合いのものではなく教皇庁がイタリアから独立していることを示す象徴であると言うが、歴史的背景からすれば教皇領を死守としたと考えるのが妥当であろう。ローマ教皇の粘り勝ち。
しかし支配者が為政者ではなく宗教家という特殊な事情もあって歴史上五大国に数えられることはない。
バチカン誕生後は世界最小の国であるがゆえに誰も大国だとは思っていないが、実はだからこそ大国なのではないかとわたくし拝察しております。

安政五カ国条約は当時の世界五大国とは少し違う。
アメリカとオランダが入っていて、プロイセン(ドイツ)とオーストリアが入っていない。
そしてそのドイツとオーストリアは、第一次世界大戦(1914-1918年)で敗戦国となる国である。
また1864年の下関戦争で長州藩が戦った「四国艦隊」は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国である。五大国であり条約を結んだロシアが入っていない。
そのロシアとはイギリスの後ろ盾で日露戦争(1904-1905)を行うことになる。
第一次世界大戦でも日露戦争でも日本は勝者だった。
第一次世界大戦後に世界五大国となったのは、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・日本である。






by yumimi61 | 2015-07-01 14:45