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小春日和

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あたたかい あなたのことと 言えなくて

憂いさえ 忘れて笑う 仮初の

七五三 私は今や 五七五




安眠してください安心してください!?生きてますよ。

ナツ10歳。次の夏で11歳になります。

リン12歳。2月で13歳になります。

ロン15歳。4月が来ると16歳になります。

今のところみな元気にしています。


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by yumimi61 | 2016-11-13 11:40
焚火やキャンプやBBQで火おこしや炭おこしをしたことがある人ならば分かると思うが、木や木炭に火を付ける(燃やす)ということは言うほど簡単なことではない。
簡単に短時間で火をおこすために着火剤を使うことは珍しくない。着火剤にはガソリンなどが含ませてある。

意外に感じるかもしれないが木材でもおがくずでも発火点は同じである。(木材の発火温度 250~260℃)
木材を加熱するとまず水分を失って乾燥する。
次に木材は熱分解を起して可燃性ガスを放出し、そのガスが発火する。
発火で生じた炎の熱がさらに木材の熱分解を促進して燃焼を継続していく。(分解燃焼)
分解燃焼でガスが全て放散されると炭化し無定形炭素となる。
この状態になると空気と接触している固体の表面だけで炎を出さずに拡散燃焼する。(表面燃焼)
炎が出ないで高温となっている状態を熾(おき)と言ったりする。
幼い頃よく行った母の実家は囲炉裏があった。そこで薪を燃やして出来た熾(木炭)を掘り炬燵に使っていたりした。その掘り炬燵の炭の中で就寝用あんかの豆炭を熾す。

おがくずが燃えやすいと感じるのは乾燥しているように感じるからではないだろうか。(おかくずでも乾燥度はまちまち)
薪でも乾燥させないと燃えにくいが、燃焼するにはまず水分を失って乾燥する必要があるので、素材の乾燥度は発火に影響を与える要素である。
それからおがくずの場合は空間が沢山あるので酸素が供給されやすい。


もうひとつ重要な要素が熱伝導率。

・熱の伝わりやすさは物質によって異なる。
金属と木材だったら金属のほうが熱が伝わりやすい。
取っ手だけ木を利用した鍋があると思うが、あれは取っ手部分が熱くならないようにするためである。

・熱の伝わりやすさは、固体>液体>気体の順となる。
固体のほうが伝わりやすい。

間違いやすいのは粉末である。粉末も固体である。
但し粉末もおがくず同様に空間が沢山ある状態。
この場合、固体でも熱伝導率は低いのである。

空間が沢山あるということは熱伝導率は低くなる。
動かない空気層は保温効果があり、断熱材の役割をはたす。
乾燥したおがかくずは極めて熱伝導率が低い。
熱伝導率が低いということは熱が逃げにくい(放熱しにくい)ということである。
熱伝導率の高い物質は熱が逃げやすく熱が蓄積しにくいので、物質の温度が上昇しにくい。
一方、熱伝導率の低い物質は、放熱されず引火点や発火点に達しやすく、火災の危険性が高くなる。
粉末も同じで、塊状であれば問題ない金属も粉末になると一気に燃焼しやすくなる。
粉じん爆発もその一例。

熱伝導率を分かりやすく例えれば、
熱伝導率が高い物質は触れた時に火傷をしやすい。
熱伝導率が低い物質は熱を蓄積しやすく発火しやすい。


以下はおがくずの温度ではなく、おがくず+断熱材に囲まれたシリコンラバーヒーターの表面温度の例ではあるが、シリコンラバーヒーターではなく電球でも同じ現象は起こる。LED電球であっても。
また熱が上昇し蓄積されれば当然おがくず自体の温度も上がる。

シリコンラバーヒーターの温度 (八光電機ホームページより)
容器内面に接しているおがくずに水分がある間は、水を加熱する場合とほとんど変わりません。水分が蒸発することで熱を奪うためです。ところが、水分がなくなってくると、急激に温度が上がり、300℃を超えてしまいます。乾燥したおがくずは断熱材と同じように熱伝導が悪いので、シリコンラバーヒーターは両面ともに断熱材に囲まれた状態になってしまうためです。
断熱材を使用しない場合は、ヒーターの温度は180℃までしか上がりませんでした。


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物質は温度や圧力によって固体→液体→気体と状態を変えることができる。
温度が高い時ほど原子や分子の振動の振幅は大きくなる。
つまり気体のほうが分子の振動が大きくなる。
振動が大きくなるということは、分子と分子の隙間が広がるということである。
隙間(分子と分子の間の距離)が広がるということはすなわち、膨張するということ、体積が増えるということ。
気圧が同じ状態で固体や液体が気体になれば膨張し体積が増える。
気体に変化したのに同じ体積の中に閉じ込めようとすると気圧が上がる。

物質に外部から力を加えて圧縮した時には温度が高くなる。
これは外から加えた仕事(運動エネルギー)を中の物質の分子が受け取ることによる。
中の分子の運動エネルギーが増加してより活発に動くことで温度が上がる。

自動車などのガソリンエンジン(ガソリン機関)は、燃料であるガソリンと空気の混合気をシリンダ内で圧縮した後にプラグの火花によって点火し、燃焼と膨張を反復させることで運動エネルギーを出力する。

ディーゼルエンジンでは圧縮させ混合気の温度を上げ、燃料であるディーゼル(軽油)を自然発火させて燃焼と膨張を反復させ運動エネルギーを出力する。。


熱の正体は原子や分子の振動(運動)。
原子や分子の振動(運動)とは、熱エネルギーであり運動エネルギーである。
人間はこのポテンシャルエネルギーを増幅させて使っている。

大抵の運動(仕事)には終わりがある。
運動(仕事)の原動力であった大きな運動エネルギーは熱エネルギーに変わって終わる。
この終わりの熱エネルギーを回収して再び大きな運動エネルギーに戻すことは出来ない。
まとまって大きな仕事をしていたものはやがてバラバラになる。
元の小さな原子や分子の振動(運動)に戻る。
by yumimi61 | 2016-11-12 14:11
燃焼に必要なものは、
①可燃性物質(酸化される物質)
②酸素(酸素原子を供給する物質)
③熱源(点火に必要な熱エネルギー) 静電気や衝撃による火花、摩擦熱、酸化熱など

爆弾には火薬が用いられることが多いが、火薬の燃焼は通常の燃焼とは違って空気中の酸素を必要としない。

そのうえで爆発と燃焼の違い。
・爆発は急激な膨張(体積増大)があり衝撃を伴う。急激な酸化反応。破裂。
・燃焼(燃える)は発熱や発光などを伴う急速な酸化反応。

一般的に体積に変化を与えるのは気圧と温度である。



自動車などのガソリンエンジン(ガソリン機関)は、燃料であるガソリンと空気の混合気をシリンダ内で圧縮した後にプラグの火花によって点火し、燃焼と膨張を反復させることで運動エネルギーを出力する。
混合気とはガス燃料(気体燃料)か霧状の液体燃料が混ざった状態の空気。
例えば、空気のある所で霧吹きにガソリンを入れて吹けば、その部分は混合気である。

ディーゼルエンジンでは圧縮させ混合気の温度を上げ、燃料であるディーゼル(軽油)を自然発火させて燃焼と膨張を反復させ運動エネルギーを出力する。。
ディーゼルエンジンは発火(着火)、ガソリンエンジンは引火で燃焼させているということになる。
気体の膨張とはつまり爆発のことで、自動車はよく制御された爆発の連続で動くという仕組み。

物質には「発火(着火)点」と「引火点」がある。
●発火点―物質が空気中で加熱された時に火種(火源)がなくとも火が付く(物質自身が燃え出す)最低温度。
●引火点―液体の可燃性物質を一定昇温で加熱し、これに火種を近づけたとき瞬間的に引火する(燃え移る)のに必要な濃度の蒸気を液面上に発生する最低温度。

蒸気の量は薄すぎても濃すぎても燃焼は起こらない。引火点は燃焼の起こる濃度の下限である。
発火温度も引火温度もともに気温ではなく物質の温度のこと。
燃焼が継続するのに必要な温度(燃焼点)は引火点よりも少し高い。
引火点や発火点が低い物質ほど危険が高いという事で保管などに注意しなければならない。

ガソリンの発火温度は300℃。引火温度は-40℃以下(もっと低いことは確かだがその温度は不明という意味)。
ディーゼルの発火温度は250℃。引火温度は45~70℃。
灯油の発火温度は255℃。引火温度は40~60℃。

(参考までに)
古タイヤの発火温度 150~200 ℃
木材の発火温度 250~260℃
新聞紙の発火温度 290℃

油を吸い込んだ布などを放置しておくと油が酸化して酸化熱を生じ、その酸化熱が蓄積し発火することもある。密閉状態や重ねてあって熱が籠るような状態で放置すると危険。

火種があると燃え移るということは誰でもイメージしやすいが、火種がないのに燃えることがあるということはイメージしにくいのかもしれない。
これも誤解している人がいるかもしれないが、灯光器(白熱電球)が原因だったのではないかと言われている火災も、必ずしも灯光器に何かが触れている必要はないのである。
温められて発火温度までに物質の温度が上がれば自然と発火する。
また電球表面温度の違いがあると言ってもLED電球でも同じで、熱が籠るような状況や酸化熱や発酵熱がプラスされるような状況にあり、物質が発火温度までに上昇すれば発火するのである。


エネルギーを動力に変える装置・機械を「機関」という。
熱をエネルギー源とした機関は熱機関である。
外部から熱を取り込むものを外燃機関、装置内で(通常は燃料の燃焼による)生成した熱エネルギーを利用するものが内燃機関。
自動車は内燃機関を利用しており、蒸気機関車は外燃機関を利用している。

人々は夢見た。資源を必要とせず永久に仕事を続ける装置・永久機関を。
資源とは熱エネルギーのもとになる石炭や石油である。
これが実現すれば資源枯渇問題も環境問題も解消される。
しかし残念ながら1700年代末には純粋力学的な方法では実現不可能だということが明らかになり、さらに1800年代には熱を使った方法でも不可能であることが明らかになった。
数多のその苦い経験は熱力学を確立した。

・熱力学第一法則( エネルギー保存則)
   物体に外部から加わった仕事と熱量との和は、内部エネルギーの増加に等しい。
   熱と仕事は等価。熱を含めてエネルギーは保存される。
   エネルギーの総量は増えも減りもしない。置き換わるだけである。
   従って何もないところからエネルギーを生み出す装置・第一種永久機関は実現不可能
・熱力学第二法則 (エントロピー増大則)
   熱は高温から低温に移動し、その逆は起こらない。
   孤立系のエントロピーは不可逆変化によって増大する。
   つまり大局的に見て、エネルギーが自然に流れる向きは一方通行である。
   従って一度利用したエネルギーを完全に回収し再利用する装置・第二種永久機関は実現不可能。
   (つまり何か仕事をするということはエネルギーを消費するということ)⇒エネルギー問題深刻化
   (エネルギーを消費するということは資源を消費するということ)⇒資源問題深刻化

もうお分かりですね?
「再生可能エネルギー」という言葉は正しくありません。
エネルギーは一方通行で再生はない。
太陽や風といった自然の営みから得られるエネルギーは、太陽や地球の寿命が長いから枯渇の心配には及ばないと思っているだけのこと。
当面繰り返し使えるというだけで再生なんかしない。
太陽光や風に手を加えて作るエネルギーは当然他の資源も必要になるわけだが、そのあたりは無視している。
再生可能(循環可能)なのは資源の石油や石炭である。しかしこれも再生するには気が遠くなるほど非常に長い時間を要する。


熱(温度)の正体は何かと言えば、分子の振動(運動)である。温度は分子の運動エネルギー。
分子の振動が大きいほど(分子が動くほど)温度は高くなる。
では何故に分子は振動(運動)するのか?
外力を与えればそのエネルギーをもらって振動(運動)するのは分かりやすい。外のエネルギーが分子の運動エネルギーに置き換わったということ。
何もないところからエネルギーを生み出すことは不可能である。

でも原子は最初から振動している。これを熱振動と言う。
分子や固体中の原子は運動エネルギーを持っていて、基準となる位置を中心に振動運動をしている。温度が高くなるほど振動の振幅は大きくなる。絶対零度であっても、不確定性原理から原子の振動は止まっていない(零点振動)。

原子はもともと僅かながら「熱エネルギー(運動エネルギー)」(温度)を持っている。
もともと持っているエネルギーには以前書いた「結合エネルギー」もある。
こうしたエネルギーをポテンシャルエネルギーという。
どうして持っているのかは神様しか分からない。
熱エネルギーや結合エネルギーを含め、物質に内包し保存されているエネルギーを化学エネルギーと言う。
化学エネルギーは化学変化によってエネルギーの形態を変える。(エネルギー吸収や放出がある)
結合エネルギーが力学的エネルギーになったり熱エネルギーになったりするということ。
by yumimi61 | 2016-11-11 13:30
そろそろ戦争の話は終わりにして松方正義(誰それ?)に戻ろうかと思うが、その前にもう一度爆弾(原爆)について。

日本本土に行われていた空襲は「焼夷弾」が用いられていた。
焼夷弾は油のような可燃性物質を詰め込み、それを撒き散らし引火させて火災での被害を狙うものである。
一方、「爆弾」とは発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊するものである。
爆弾には火災が付き物と思っている人も少なくないかもしれないが、爆弾自体には火災を起こす能力はない。


むしろ爆弾は消火に利用できる。
爆風消火
爆弾を破裂させてその爆風で火を消したり、周囲の物体を吹き飛ばして消火帯を作ることで延焼を防ぐ消火方法である。
強烈な爆風で火を吹き飛ばし、周囲を破壊することで破壊消火する。爆風を用いるために一瞬で消火が可能であり、森林火災や油田火災など大規模な火災を鎮火するのに用いられることがある。
通常の爆弾が用いられることもあるが、消火剤の入った専用の「消火爆弾」というものがあり、家庭用のものも市販されている。
なお、爆薬を使わずに衝撃波を発生して消火する場合もある。



これを書くと混同して誤解に繋がりやすそうな気がするが、「爆発」も「燃焼(燃える)」も物質が酸素と化合する酸化現象である。
燃焼とは、一般に熱と光の発生を伴う酸化反応のこと。
酸化反応という括りで爆発も燃焼の一種である。

燃焼に必要なものは、
①可燃性物質(酸化される物質)
②酸素(酸素原子を供給する物質)
③熱源(点火に必要な熱エネルギー) 静電気や衝撃による火花、摩擦熱、酸化熱など

爆弾には火薬が用いられることが多いが、火薬の燃焼は通常の燃焼とは違って空気中の酸素を必要としない。

そのうえで爆発と燃焼の違い。
・爆発は急激な膨張(体積増大)があり衝撃を伴う。急激な酸化反応。破裂。
・燃焼(燃える)は発熱や発光などを伴う急速な酸化反応。

一般的に体積に変化を与えるのは気圧と温度である。
燃焼によって化学エネルギーが熱エネルギー(酸化熱)に変換され放出される。
爆弾内の火薬が熱(温度変化)によりガスに変化し急激に膨張することで、大きな運動エネルギーが発生する。
密閉されている中に運動エネルギーが充満し(高圧高温状態)破裂する。


ちなみに鉄が錆びるのも酸化反応である。急速・急激な酸化に対して緩慢な酸化。
生体にも酸化反応がある。こちらも緩やかな反応だが燃焼と呼ぶことがある。
燃焼系という言葉が流行ったこともあるが、脂肪燃焼と言われているものも酸化の一種。
アンチエイジングでお馴染みの「抗酸化」という言葉も酸化を防ごうというものである。
そう言えば、錆びない人とか言いますよね。
by yumimi61 | 2016-11-10 17:36
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超有名な写真。マッカーサー元帥と裕仁天皇(昭和天皇)。
マッカーサーは軍人である。政治家ではない。父親も軍人だった。
マッカーサーは1948年に大統領選に出馬したこともあったが叶わなかった。

1930年、史上最年少(50歳)で参謀総長。参謀総長が陸軍大将職なので臨時で昇進。
1935年、陸軍少将に戻りフィリピン軍事顧問(総監)就任。
1936年1月17日、フィリピンでアメリカ系フリーメイソンに加盟。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。
1941年米国極東軍司令官、1942年連合国軍南西太平洋方面司令官に就任。
1944年12月陸軍元帥に昇進。
1945年8月30日連合国軍最高司令官として日本入り。(以後1951年4月11日まで日本占領に当たった)

あの写真を見てあなたはどう感じますか?
アメリカに、マッカーサーに、馬鹿にされている感じがする?
アメリカは、マッカーサーは、礼儀の無い奴だ?

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談より

伝統によって育まれた品格。
この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されました。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。


(略)

日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉えた写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです

このあたりが多数派の意見ということになるでしょうか。
天皇のお召し物については明治時代に決定された次第です。
そして天皇には法で定められた正装があったのです。それは武を意識したものでした。
昼食会に出席するのではなく、戦争の降伏文書調印の時です。
天皇は統帥権を持っていました。軍隊の最高責任者でもあったわけです。
モーニング・コートは日本の歴史が育んできた伝統や文化とは全く関係ありません。
なんかいろいろ恥ずかしい。もう誰とも口をきく気になれない(なあんて)。

二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

— 三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」 


下の写真は、ヤフーオークション 「オリジナル AP報道写真 天皇陛下とマッカーサー将軍 初会見」より
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天皇の服が違うのです。
Pコートのような上着を着ています。
RADIOPHOTOとタイプされているので日本からアメリカに送った無線電送写真なのでしょう。
撮った写真を持って帰るのでは何日も後になってしまう。
とはいっても当時の技術ではまだ鮮明な画像を送ることは困難だったのでしょうか。筆を入れたような画像です。
無線電送は1920代には可能となっていたが、30年代40年代くらいはとりあえず無線電送しておき、その後に持ち帰った高画質の画像を掲載するという二段構えの報道だったらしいです。
しかしいくら不鮮明だったとしてもコートを着ているか着ていないかくらいは判別できたと思うし、それは現地にいた人が情報として伝えられたのではないかと思うので、この画は間違えて筆入れしてしまったというよりも作為的だと思うのです。
どうしてコートを着せたのか・・・。
いやいや着てたんだよ?
by yumimi61 | 2016-11-09 18:18
東條英機は信念の人だったのだろう。ブレない人。
権威に必要以上に媚びたりはしないが、自分の役割を心得ている人。
彼はいつでも軍服を着ていた。

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東條英機は陸軍士官学校を卒業して陸軍に入隊し、その後陸軍大学校にも進んでいる。
軍学校は学費が不要なので低所得の家庭の子供でも受験出来た。
陸大に進学するには上官の推薦、学業成績、運動能力、勤務成績、全てが揃っていなければならず超難関コースだった。
東京帝国大学よりも遥かに狭き門だった。
東條英機の父親も陸大を卒業している。

1884年(明治17年)7月30日、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は安房の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。
俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。


しかしこれらのことは東條英機という人物が誤解される要因にもなってしまったのだろうと思う。


余談。
現代でも新内閣が誕生した時におめかしして(正装で?)ひな壇で写真をとるのが習わしになっているが、男性の方々はほぼモーニング・コートである。
モーニング・コートは昼間(午前中)の正礼装であり、夜や夕方に着る服ではない。モーニングですよ?
夜は燕尾服(ホワイト・タイ)やタキシード(ブラック・タイ)。こちらは昼間でも可。
夜のモーニングや、ブラックスーツに白ネクタイは、後ろ指をさされる。
しかもモーニング・コート自体がもう古い衣装である。(日本の伝統衣装でもないし)
内閣誕生時にお集まりになりお写真を撮っているのが大抵夜のようなのだけれど、モーニング。


1872年(明治5年)から1947年(昭和22年)まで日本には大礼服と呼ばれる制服があった。

日本におけるエンパイア・スタイルの宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、いわゆる「大日本帝国の服制」における最上級の正装である。


1872年(明治5年)11月12日に文官と非役有位者の大礼服を含む服制が規定され、11月29日より着用規定が定められた。
大礼服は当時ヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用されていた宮廷制服(Court uniform)に倣って新たに定められた。
第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの燕尾服が通常礼服とされた。
通常礼服は小礼服とも呼ばれ、民間人等の大礼服が制定されていない者はこれを正装とした。

大礼服は燕尾服の上に位置していたということになる。
文官(武官以外の官吏)や非役有位者(官職ではない華族)は大礼服を持っていた。

大日本帝国憲法により官吏は天皇が任命しており、現在の国家公務員法に当たるような法律はなかった。
国家の行政職も天皇が掌握していたことになる。
 大日本帝国憲法第10条
  天皇は行政各部の官制及び文武官の俸給を定め、文武官を任免する。
  但しこの憲法または他の法律に特例を掲げたるものは各々その条項による。

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1873年(明治6年)、皇族大礼服が制定された。(その後、1876年と1911年に改正されている)

皇族大礼服の歴史はそれほど古いものではない。しかも皇族大礼服の制定のほうが少し遅いという・・。
天皇も西洋式の御服(天皇の服)を調達することになり、明治5年(明治天皇21歳)、同年制定の文官大礼服に似た正服が作られた。
しかし、お雇い外国人ジ・ブスケからフランス皇帝は武官大将の制服を着用し、文官制服は着用しない旨の助言があったため、その直後には軍服風の御服(御軍服)・御大禮服(錦織)が制定されている。この服は、「明治13年10月11日太政官布告第55号」により陸軍大将の制服に準じた陸軍式御服が定められるまで使用された。

天皇には正装があったのだ。
上は明治天皇の正装。
下はTIME誌表紙。左上が昭和天皇で正装。
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ジ・ブスケはベルギー生まれでフランスの軍人。
第31歩兵連隊の歩兵中尉だった1866年、十四代将軍徳川家茂の要請でナポレオン三世が派遣した、シャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれた。
幕府崩壊により軍事顧問団は解雇されたが、デュ・ブスケは帰国せず、フランス公使館の通訳として日本に残った。1870年(明治3年)兵部省兵式顧問に採用され御雇い外国人となった。1870年(明治3年)2月、大蔵少輔 伊藤博文、大蔵官僚 渋沢栄一から製糸業の専門家を紹介するように富岡製糸場の機械購入・技師招聘の相談を受け製糸技師ポール・ブリューナを推薦した。ブリュナはリヨンの絹業会で仕事をした後、横浜で日本から輸入する絹を検品する検査官の職にあった。


皇帝というのは通常、古来から領土以外の地や異なった民族をも統治する人のこという。皇帝がいる国が帝国である。
もうひとつの特徴として皇帝という人は「文」だけでなく「武」にも長けている人であるということがある。
武官や軍隊を直接指揮できるような人、武の現場に出られる人、そうした経験が十分にある人。
武士の時代の日本はまさにこれだった。
by yumimi61 | 2016-11-09 12:12
権威権力があることと信望があることは違う。
権威や権力があるところにパワハラあり、打算的人物集まり。
天皇は唯一無二の権威者であり、全権を掌握していた絶対権力者であるが、イコール信望を集めていたとは言えない。
とくに体育会系は実力や実績がないと信望を得にくい。
何故オリンピックメダリストがちやほやされたり指導者なれるのかと言えば、実力や実績を見せつけたからだろう。信望を得やすいのだ。
部活動の顧問にその競技を経験したこともない教諭が就くと生徒の信望はなかなか集めにくい。実力や実績がないからだ。
軍隊にもそのような傾向がある。
期待する結果を出すためにも、反乱を防ぐ意味においても、軍隊を引っ張っていく人物は信望がなければならない。
そのことは権威権力者も重々承知しているはずである。
「分かってるけどそれはどうなんだ」というように、唯一無二の権威者や絶対権力者は歯がゆい思いをさせられることになる。
従って軍隊が結果が出せなかったような場合にはパワハラにも直結しやすい。
1番が好きな人は1番になれないことにとても敏感なんだと思う。「2番じゃダメなんですか!」


39代 近衛文麿(近衞家第30代当主・貴族院議員) 1940年7月22日‐1941年10月18日 

40代 東條英機(現役陸軍) 1941年10月18日-1944年7月18日 
41代 小磯國昭(陸軍出身) 1944年7月22日‐1945年4月7日
42代  鈴木貫太郎(海軍出身) 1945年4月7日‐1945年8月17日

43代 東久邇宮稔彦王(皇族陸軍)1945年8月17日-1945年10月9日


太平洋戦争突入時の首相・東條英機も陸軍軍人現役のまま首相に就任した。
天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。

戦争については天皇は回避派だったとかよく書かれているが、全権を持っている天皇が本気でそう考えていたならば戦争を回避させることを出来ないことはない。
それをしなかったのだから回避派ではなかったということだ。
天皇に関しては象徴天皇である今でも報道機関の御言葉遣いが違うほど特別扱いである。批判はご法度。手紙を渡すだけで非難轟々。
当時は憲法に支えられて実権を握っていた。特別も特別、敗戦直後でさえ聖上や聖断などと報道していたくらいである。
厳しい検閲や取り締まりを行って都合の悪いものは禁止したり処分したりした。自由な言論なんてなかったのだ。
天皇にとって都合の悪い情報が出てくるわけがない。
天皇の人柄や言動は戦後の社会情勢に合うように形成されたものだと思って然るべき。

戦争を行う予定があったから天皇とその側近は陸軍の東條英機に白羽の矢を立てた。
上記にもあるように東條は首相になる気があったわけではない。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」、一番権力を与えたくない人物に自ら率先して権力を与える、危険を冒さなければ大きな成功は得られないということ。
天皇にとって東條英機は最初から危険人物だったのだ。


しかも東條英機は1944年7月のサイパン陥落を受けて同月辞任している。
東條英機が強硬派で戦争を続行させていたならば、ここが講和するチャンスだったろう。
そもそも統帥権を持っているのは天皇なのだから本来どんな言い訳も効かない。
それでも首相の協力が必要だったと言うならば、首相を任命しているのは天皇なのだから戦争終結へ動いてくれる首相を任命すればよいではないか。
でもそういう決定も決断もしなかった。天皇に戦争を終わらせる気がなかったという証拠である。

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。
統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。
この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。
東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。
しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという

※東條が三職を兼任したのは1944年2月より。そして7月に総辞職した。
細川日記は細川護貞(肥後熊本藩主細川家の第17代当主、細川元首相の父)による日記。
近衛文麿首相秘書官を務めていた事から、戦中期は近衛の意を受け、高松宮に各種情報を報告する任務についていたそう。
by yumimi61 | 2016-11-08 17:32
1885年(明治18年)12月22日、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められ内閣制度が始まる。
1890年(明治22年)11月22日、大日本帝国憲法施行。帝国議会(公選の衆議院と非公選の貴族院からなる)設置。
1890年(明治22年)11月29日、第1回議会。
1894年(明治27年)7月-1895年(明治28年)3月、日清戦争。⇒明治天皇は大本営を広島城に設置し広島入り。
1895年(明治28年)4月17日、下関条約(日清戦争講和条約)に調印。⇒
1904年(明治37年)2月-1905年(明治38年)9月、日露戦争。
1905年9月5日、ポーツマス条約に調印。⇒※※


先日書いたように下関条約は前文に大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下が全権大臣に任命して決めたことだと記されている。天皇でなく皇帝である
日本の皇帝が全権大臣に任命したのは内閣総理大臣・伊藤博文(山口県出身)と外務大臣・陸奥宗光(和歌山県出身)であった。
さらに最後の11条では批准するのは両国の皇帝だと述べている。
下関条約が締結された1895年は、上記のとおり、大日本帝国憲法(明治憲法)が施行され、議会も設置済み、内閣制度もあった。
それでも全権を持っていたのは天皇(皇帝)である。国民主権ではないので議会は批准にも関与できなかった。
今と違って非公選の貴族院もあったわけだが、それでも議会は批准に関与できない、つまり天皇が絶対的権力を持っていたことになる。
大日本帝国憲法は現行の憲法(日本国憲法)が施行された1947年5月3日まで有効だった。


※※日清戦争後の日露戦争でも同様である。

ポーツマス条約前文
日本国皇帝陛下及び全露西亜国皇帝陛下は両国及び其の人民に平和の幸福を回復せむことを欲し講和条約を締結することに決定し(・・後省略)

ポーツマス条約第14条
本条約は日本国皇帝陛下及び全露西亜国皇帝陛下に於て批准せらるべし(・・後省略)

この時の日本の天皇(皇帝)が任命した全権大使は外務大臣・小村壽太郎(宮崎県出身)と、アメリカ駐剳(駐在)特命全権公使・高平小五郎(岩手県出身)だった。
一応勝利したことになっており、小国が大国ロシアに勝ったということは周辺国に予想以上に大きな影響を与えていくが、講和はアメリカの仲介によるもので、日本はかなりの借金をして臨んだわりには賠償金を全く得ることが出来ず、後世にまで借金を残すことになった。日本の借金地獄の始まりとも言える戦争。
当時の首相は桂太郎(山口県出身。陸軍軍人)で、首相就任後も天皇の意向で軍隊を引退(予備役)にならず現役続行で首相に就任していたのだが、講和条約交渉の全権大臣に任命されることはなかった。
天皇と軍隊との微妙な関係はこの辺りから始まったのではないだろうか。



ちょっと脱線してイギリスのこと。
国民投票でEU離脱を決定したイギリスだが、EU条約第50条に基づく正式な脱退通告についてちょっと揉めている。
そう言われれば確かに条約に関することを、議会制なのに、議会を無視して決定し実行したら、議会制は崩壊してしまうなあと思う。。
議会は特別な何かではない。国民の代表、すなわち国民と言い換えることが出来るものである。
どうやって国民の代表を選んでいるかと言えば選挙である。
国民が選んだ国民の代表がいるのに、その国民の代表が出す結論に信頼が置けず国民投票を行うということになれば、選挙制度の崩壊も意味する。
国民の代表を選ぶ選挙も国民投票も多数決であることには何ら変わりない。
但しイギリスは現在でも貴族院が存在するので、その意味から議会が国民を代表していないという主張はある程度通るかもしれない。

高等法院は11月3日、一般市民から成る原告団の「第50条を発動する判断は議会だけに認められる」という主張を認め、離脱手続き開始には議会の承認が必要との判決を下した。
デービスEU離脱担当相はこれに対し、「司法の独立を尊重する」とした上で、「判決には同意できない」として、迅速な決着に向け最高裁に直接上告する方針を示した。上告審は12月上旬に開かれ、その後すぐに最終判決が下されるとの見通しに基づき、予定通り来年3月末までにEU条約第50条を発動することは可能との判断を示した。「国民投票の結果は尊重・実行するべきで、EU残留や2度目の国民投票、EU再加盟を目指す動きがあってはならない」と訴えている。
(NNA 2016年11月8日)


イギリスの件とは逆で、東京の市場問題には違和感を禁じ得ない。
議会は議案を審議したり採決する場所であるが、細々とした日々の業務の決定権は議会にあるのではない。
小さなことから大きなことまで膨大な案件を議会が全て抱え込むことは困難だし、そんなことをしていたら業務が滞る。
行政職はすでに存在する法規や条例に則って仕事をしている。
また各職場には一定の裁量権を持った責任者がいるはず。
そして全体の長となるのは知事である。知事は地方自治体の行政長である。一定の権限(決定権)を持っていて然るべき。だから知事が移転延期を決定できたりするわけで。
それと同じで方法を変更することに知事がゴーサインを出して何が悪いのだ?
権限は持っているが通常多くの事は部下に任せてある。それも当然のこと。
専門性の高い話も多く、法規とは切っても切れない世界。難解な言い回しを多用する細かい非常に多くの法規が関わってくる。
膨大な案件の一つ一つを精査することなど出来るわけがない。

盛り土を地下空間(地下ピット)に変更することが何故そんなに問題なのだろうか?
法規違反になるというならば問題もあろうが、豊洲市場の場合は汚染対策としては法規を逸脱するものではない。
ホームページなどを訂正していなかったことや説明不足は手落ちですね。
by yumimi61 | 2016-11-08 11:56
ポツダム宣言
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

6.平和と安全と正義の新しい秩序は無責任な軍国主義が世界から駆動されるまでは不可能であると私達は強く主張する。日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。

12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

12.これらの目的が達成され、日本の人々の自由なる意思に従う平和的で責任ある政府が確立されれば、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退する。


日本がポツダム宣言にアクションを起こしたのは長崎原爆投下日の翌日8月10日のことである。
「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾するとの回答を発した。

8月12日、アメリカの国務長官バーンズより日本側が提示した条件に対しての回答があった。
宣言で譲歩することも代案もないと言っているのだから、日本側の条件を呑むわけにはいかないはずだ。


ポツダム宣言はかなり厳しい調子で綴られているが、肝心なことについては曖昧な表現に逃げている。
日本のほうが単刀直入に質問するという展開。裏切られないための再確認だろうか。
バーンズ国務長官はその質問(天皇制の維持・天皇の地位)に対しても直接的な回答を避けている。
天皇制を排除すべきだと思うならばはっきりとそう言えばいい。
それが出来ないということは勝者(強者)と敗者(弱者)の立場がすでに逆転していることを示す。
バーンズ国務長官も自由なる意思の表明、自由な表現が出来なかったのかしら?

但しバーンズ国務長官は天皇が権威権力を持っていないと判断していたわけではないことがよく分かる回答文である。
2)は日本を動かしていたのは天皇であったということの証拠になろう。

バーンズ回答文

 1945年8月11日付 (ジェイムス・バーンズ国務長官)

1)降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。

2)天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。

3)日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。

4)日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。

5)連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。



1945年8月14日23時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達した。
1945年8月15日12時、ラジオの玉音放送で日本の降伏を国民に知らせた。
1945年9月2日、降伏文書調印。(休戦に至る)
1947年5月3日、日本国憲法施行。(占領下)
1951年9月8日、連合国48か国と日本がサンフランシスコ条約に調印。(戦争終結)

このあたりの手順もドイツやイタリアに比べると非常に甘い。
また降伏を受け入れるにあたり通常は国内でも軍隊の反乱や市民の暴動などを危惧すると思うのだが、そうしたものに対する準備を全くなく、14日の夜に通達して翌日の正午には呑気に発表している。
その挙句、降伏文書調印は9月2日ときている。戦争終結に向けて戦闘が中止され休戦となったのは9月2日ということになる。
8月15日が終戦記念日の根拠はどこにもない。前にも書いたかもしれないがどう見たって8月15日は玉音放送記念日だろう。
by yumimi61 | 2016-11-07 14:02
日本は原爆を投下されたからポツダム宣言を受諾したのではない。
原爆が投下されるのを待っていたのだ。

1945年7月12日~8月2日、ポツダム会談。
1945年7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が行われる。爆縮方式のプルトニウム原爆。
1945年7月21日、トルーマン大統領がトリニティ実験の成功の報告を受け取る。(成功?)
1945年7月24日、トルーマン大統領がソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かす。
1945年7月26日、イギリスの選挙開票日。保守党の敗北を受けてチャーチル首相が帰国し退任。
           ポツダム宣言発表。(アメリカ・トルーマン大統領が一人で署名) ⇒ポツダム宣言は無効       
1945年7月28日、大山口列車空襲事件。
            鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?
              ⇒ノーコメントと言ったようだが、黙殺、拒否、全面的に無視と報じられる。
1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。



ポツダム宣言は無効である。他国の首脳の署名を勝手にアメリカ大統領がしたものなど有効であるはずがない。
そのうえでポツダム宣言の話をすれば、ポツダム宣言にはこんな記述がある。(訳は私)

5.Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
(訳)以下は私達の条件である。私達がこれを譲歩することはない。代案もない。一刻の猶予も許さない。

ポツダム宣言は現代においては最後通告として受け止められているように思う。
現に遅延を許さない(We shall brook no delay)といった文言も含まれている。
これが最後通告ならば、遅延を許さないと言うならば、期限を切らなければならない。
ところがポツダム宣言では期限が切られていない。「いつまでに」ということが明記されていない。そうした情報も一切ない。
これでは最後通告として片・手落ちである。

片手落ちと書いたが、そもそも戦時中に最後通告というのがおかしい。完全なる手落ちである。
最後通告(最後通牒)とは国際交渉において最終的な要求を文書で提示すること。何か交渉をしている中でで交渉の終わりを示唆するもの。
これを受け入れなければ交渉を打ち切って自由に行動させてもらいます、という意思表示が最後通告である。
交渉決裂し、話し合いで折り合いがつかないとすれば、残るは国交断絶、封鎖、武力行使、戦争である。
期限を切った最後通告を出し、相手が受け入れなかったことによって宣戦布告し戦争に突入した例は幾つもある。
ところがポツダム宣言はもう戦争を行っている。
交渉決裂しても戦争が続くだけのことであって「戦争」という状態は何ら変わらない。
従って最後通告を無視した時にどんな自由行動に出るのかを知らせないと意味を持たなくなる。
「戦時中の非人道的行為は相手が最後通告を無視したからだ」という言い訳にするためにも、とるべき自由行動を明記する必要がある。そうではければ相手がそれに了承したという証拠が残らず、自由行動をとった側は非人道的行為として裁かれる恐れだってなきにしも非新型爆弾を投下が念頭にあるならば、「期限までに条件を受け入れなければ、私達は新型爆弾を投下する。一般市民が大量虐殺されることになるだろう」と通告する必要がある。
それではじめて新型爆弾の戦争続行抑止力が働くのだ。
本土決戦が念頭にあるならば、「期限までに条件を受け入れなければ、本土決戦に突入する」と通告する必要がある。(但し本土決戦は日本側も行う気があったので抑止力にはならない)
新しい秘密兵器は敵国は知らないはずですよね?それでどんな被害が出るかも分かっていないはずですよね?それでは最後通告の効果は弱くなって当然ですよね?
作戦を教えてどうするんだと思うかもしれないが、降伏する気があるならばもっと早くにしている状況だったわけで、そこでしていないということはこの先も降伏の見込みは薄い判断するのが真っ当である。
よって最後通告を意味あるものにするには手の内を明かさなければならない。

ある意味、だからこそ原爆投下後の受諾でなければならなかったのだ。

もう十分に負けが込んでいたのにここまで降伏してこない日本が、最後通告を無視したらどうなるか分からないままに、最後通告ひとつで態度を豹変するのもおかしい。
しかも最後通告は期限を設けていない。
この最後通告を活かすとしたら新型爆弾を投下するしかない状況になっている。
ソ連はそれをよんでいた。自由行動が「ソ連の対日参戦」ではないと悟っていた。
だからいつでも対日攻撃に出られるように準備していたはずだ。ソ連はアメリカに裏切られたのだから。


日本がポツダム宣言にアクションを起こしたのは長崎原爆投下日の翌日8月10日のことである。
「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾するとの回答を発した。

8月12日、アメリカの国務長官バーンズより日本側が提示した条件に対しての回答があった。
宣言で譲歩することも代案もないと言っているのだから、日本側の条件を呑むわけにはいかないはずだ。


ポツダム宣言
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

6.平和と安全と正義の新しい秩序は無責任な軍国主義が世界から駆動されるまでは不可能であると私達は強く主張する。日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。

12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

12.これらの目的が達成され、日本の人々の自由なる意思に従う平和的で責任ある政府が確立されれば、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退する。


日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。
普通に考えれば絶対権力者であり統帥権も持っていた天皇(皇帝)が真っ先に挙がるだろう。
しかし天皇や皇帝といった明言を避けた。
「日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力」を憎んでいるわりには指名していない。
ファジーである。
「日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力」は決定する人によって誰にでもなり得るという状況を生む。
上手く出来ている。
そして軍隊だけが、一部の人間だけが悪者になって、永久に排除されたのだろう。
でもポツダム宣言は無効である。
こんな無効なものを盾に排除された人間は浮かばれない。

13.We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

13.私達は全ての日本軍の無条件降伏と、そうした行動をとれるように適切で十分な保証を与えることを日本政府に要請する。要請に従わないならば、即刻、徹底的に破壊する。


無条件降伏が要求され、それに応じさせられたのは軍隊であって、天皇と日本政府は「天皇制維持」という条件を出した。最初から織り込み済み。
君主(権威権力者)が一番怖いものは武力、軍隊である。敵であっても味方であっても。
よく「日本は無条件降伏した(させられた)」と言われるが、それは正確ではない。
「日本軍は無条件降伏した(させられた)」という言うべき。
by yumimi61 | 2016-11-06 14:38