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ハロルド・ウィルソン首相(労働党)は妊娠中絶の合法化、死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化を含む社会的改革を遂行した首相である。

現代においてこそイギリスは同性愛先進国であるという印象が強いと思うが、昔はそうではなかった。
同性愛というのは大昔からあることはある。軍隊や航海など長期間男性しかいない環境で起こりやすい。要するにアイデンティティや性癖の問題ではなく代替という要素が強いものであった。
同性愛が日常的に問題となり規制が強まっていくのはキリスト教(カトリック)が誕生し普及した以後の事である。
すなわちにキリスト教(カトリック)が同性愛を拡大させた張本人なのだ。

キリスト教が同性愛や中絶を認めていないという話を聞いたことがあると思うが、キリスト教にも宗派がいろいろある。
同性愛や中絶に厳しいのはキリスト教原理主義と揶揄される聖書第一のプロテスタト(福音派)である。
この派閥はカトリックに反旗を翻したのであり、カトリックと同調しない部分が多々ある。
同性愛や中絶に厳しいのがキリスト教原理主義。カトリックは逆である。

「同性愛とカトリック」として以下の記述があるが、表と裏の顔があるというか正しいものではない。
ローマ・カトリック教会において、同性愛行為は自然法に反する罪深い (sinful) ものとされる。カトリック教会において性行為の本性は神の内的三位一体と呼応する結合的で豊穣に結び付くものとされ、適切に表出される限りにおいては神聖視されている一方、これに沿わない同性愛行為(や肛門性交、自慰、姦淫といった「逸脱的」な性行為)は罪深いとされるのである。
また、同教会は人間の性の相互補完性、すなわち異なる者が結合するという性格を神の意思であると認め、同性間の性行為はこの枠組みから外れるものとする。


カトリック聖職者の同性愛(性的虐待含む)は現代においてもしばしば問題になるくらいである。
古くには日本の少年たちがカトリック教皇に寄進されたこともあった。

カトリック教会の聖職者は任職にあたって禁欲の誓いを立てるため、いかなる性的活動も慎むものとされる。またカトリック教会は公式の見解として、同性愛者を「尊重」するよう求めるものの、同性愛行為やこれに与する活動を罪深いものとして非難している。しかしながら、これまでに複数の研究により、高位の者を含めてカトリック聖職者には平均を上回る割合の同性愛男性(行為の程度は不問)が存在していることが示されている。
これを巡り、同性愛とカトリック教会における性的虐待問題の関連を指摘する議論、あるいは召命の価値を論難する議論がある。


カトリック教会の性的虐待事件(Catholic sex abuse cases)
21世紀に入ってローマ・カトリック教会を揺るがしている聖職者による児童への性的虐待問題のことである。2010年3月28日には、ロンドンで当該問題に対するローマ・カトリック教会の責任を問い教皇ベネディクト16世の退位を要求する抗議デモが行われる事態に発展した。

問題の性質上、長きにわたって明るみに出ていなかったが、2002年にアメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに多くの報道が行われ、一部は訴訟に発展した。この種の事件が起こっていたのは孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設であることが多かった。
アメリカに続いて、アイルランド、メキシコ、オーストリアといった国々でも訴訟が起き、イギリス、オーストラリア、オランダ、スイス、ドイツ、ノルウェーにおいても行われてきた性的虐待が問題となっている。アメリカやアイルランド、スコットランドでは教区司教が引責辞任に追い込まれるという異例の事態となった。

これら一連の騒動により、アメリカなどでは一度でも児童への性的虐待が発覚した聖職者は再任することができなくなったが、職場を追われた神父らが、メディアなどの監視が行き届かない南米など発展途上国で同様に聖職に就き、同様の事件を起こしていることがわかり、新たな問題になっている。



キリスト教(カトリック)の勃興によって同性愛問題が拡大し規制が設けられたり強化された。これらの規制をソドミー法(Sodomy Law)という。 

ソドミー( Sodomy)
不自然」な性行動を意味する法学において使われる用語で、具体的にはオーラルセックス、肛門性交など非生殖器と生殖器での性交を指す。同性間・異性間、対象が人間・動物の区別はない。


ソドミーという言葉は聖書(創世記18-19章)由来であるが、その聖書の文言の解釈によって現在のような意味で用いられるようになった。

聖書にある堕落した都市の名「ソドム」と関連しており、 教会ラテン語の "peccatum Sodomiticum" または英語の "sin of Sodom" が起源とされ、共に「ソドムの罪」を意味する。創世記の18章-19章では、神がソドムとゴモラを極めて罪深い場所と知り、住民を殺す前にこれが本当に正しいか確認しようとする。ソドムの実態を確認すべく、神は人間の姿をした2人の天使を街へ送った。2人の天使は夕方に到着した後、ロト(正しい人)に家へ招かれ、そこでロトに夜の間に家族と街を去るように強く勧めた。

神の使いの天使が2人の人間の男性に化けてソドムという場所の偵察に赴いた。
するとソドムの町の男達がそのは2人の客を「知りたい」と思い、ロトに彼らを差し出すように要求した。
ロトはこれを拒否し、代わりに処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことを提案する。
しかしこの提案は町の男達に拒否され、男達はロトを押してドアを押し破ろうと近づいたが天使がそれを防御し、男達を盲目にさせた。
その後ソドムは硫黄と火の雨で破壊された。


創世記の中の「知りたい」ということが性行為をすると捉えられている。つまりソドムの男達は処女の女よりも男に興味を持っていたという解釈である。
実際にそういう意味で書かれたのか分からないし、そもそも同性愛だとしても具体的にしようとしたこと、したことは一切触れられていない。
一般的な感覚からすれば、処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことのほうがよっぽど罪ではないか。
実は神はロト(正しい人)が本当に正しい人なのか偵察を送ったのかもしれない。そして正しくなかったから神によって町は破壊された。 
正しい人の仮面を付けた悪い人が多くいる町、それがソドムだったと解釈できなくもない。

ユダの手紙の19章-21章には様々な点で創世記と似た記述があり、ここでは住民が女性に強姦をした罪によってほぼ完全に街が破壊されたとしている。モーセ五書や預言書では、神のソドム破壊が絶大な力の証明として何度も書かれている。


「処女の娘を差し出すほうが悪い」解釈を採り、神に仕える聖職者ならば、男を差し出す方(同性愛)が良かったのだと理解しても不思議はない。


「ソドム」の悪い所は聖書のエゼキエル書16章でふれられている。
エゼキエルは預言者。
神ヤハウェ→預言者(神の声を下ろす人)→エルサレム(神と契約した人、「人の子」)→その子孫らでなるエルサレムという町にいる民
このような関係がある。
エゼキエル書ではエルサレムの民が反逆の民となっている。神に選ばれ契約を結んだエルサレムだったが、神や神との契約にそむいて今日に及んでいると怒り心頭の神の声をエゼキエルという預言者が「人の子」に伝えている場面である。
つまりエルサレムの悪い所が並びたてられた書である。
16章では女性の性的行動について触れている。

カナンで生まれたエルサレムは誰にも祝福されず野に捨てられ手を差し伸べるものもなかった。
そんなエルサレムに「生きよ、野の木のように育て」と言って救ったのは主なる神だった。水で洗い血を洗い落し、油を塗り、着物を着せ、飾り物で飾った。麦粉と蜜と油を食べさせた。
エルサレムは非常に美しくなって王の地位に進み名声が国々に広まった。
その自分の美しさと名声を利用して、ありとあらゆる者たちと姦淫を行った。神から与えられた衣服や飾りを脱ぎ捨てて。
その挙句、神の子をないがしろにしたり、殺したりした。
エルサレムが遊女と違うのは価をもらって姦淫するのではなくて与えて姦淫することで、価をもらう女を嘲った。
そんな姦淫をやめさせ昔を思い出させるために神はエルサレムに罰を与えると言っている。
自ら進んでしたことを(裸になり姦淫する)、神の力によってさせる(裸にさせられ民衆に攻められる)というのだ。

このエルサレムの姉がサマリヤ、妹がソドムである。
妹ソドムの罪はこれである。ソドムとその娘たちは驕り高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、乏しい者や貧しい者を助けなかった。
女たちは夫と子供を捨て傲慢にも神の前で忌まわしいことを行ったので、神は彼女らに罰を与えた。
創世記16章は、男性2人に化けた天使が訪れたロト(正しい人)がエルサレムの妹ソドムで、ソドムは男2人を(心配して様子を見に来た)町の男達にたちに渡さず、それどころか娘2人を差し出そうとした、そして天使が化けた男性2人を誘惑したと解釈できる。

エルサレムは彼女ら以上に神に背くことによって、相対的に彼女らを良く見せて有利にしようとしてあげたのだ。 神にはそれは分かっていたが、自分に背いた罪は罪として受けるべきと言う。
一方で「この母にしてこの娘あり」ということわざを与えている。
エルサレムの母もまた夫と子どもとを捨てたのだと言う。
そして神は姉妹を「娘」としてエルサレムに返し、再び永遠の契約を結ぶとしているのだ。
神がエルサレムの内に自分を犠牲にしても子を思う母の姿を見たからであろう。
エゼキエル書では、破滅したソドム(エルサレムの妹であり町)が復活することが予言されている。

性的不道徳はエルサレムの姉妹にみられ、不自然な性行動はエルサレムの姉妹を思うばかりの度を越す性行動と言えよう。
どちらにしても同性愛のことでもなければ、オーラルセックスや肛門性交のことでもない。
異性との乱れた関係のことである。
同性の愛があったとするならば、それはエルサレムの姉妹愛である。それを神が母子愛に置き換えた。
聖書の解釈が根本的に違うのだ。



「処女の娘を差し出すほうが悪い」という解釈を採ったということは、一般的な感覚を持ち合わせていたということである。
そこまでは良いのだ。問題はその先。
男性を性的目的で差し出すことが良かったかどうかである。神がそれを望んだかどうかである。
「知りたい」ということが性的興味だったか、そうではないか、その違いになってくる。
性的興味ではないはずだ。つまり神は同性の性行為を推奨していたわけではない。
しかしカトリックはそこを誤解あるいは曲解した。
もちろんそうは思わなかった人もいるんだろう。
そのあたりがカトリックとしての明確な統一的見解を出せない理由だと思う。

ともあれ、この誤解あるいは曲解の下に男性間の性的行為や男性を神(聖職者など)に寄進することが(あるいはそれを理由に奪う事が)蔓延っていった。
カトリックが腐敗すればするほどそういうことは顕著になり、行為はエスカレートしていったのだろう。
そしてそれに対する規制が敷かれた。

イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

ヘンリー8世はイングランド国教会をカトリックから分離独立させた国王である。
イングランド国教会はこの時からプロテスタントという位置づけになる。







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by yumimi61 | 2018-02-27 12:05
英国病またはイギリス病とは、経済が停滞していた1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生等の経済・社会的な問題が発生した現象を例えた日本における用語である。 1960〜1970年代のイギリスは、労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれていた

イギリスで英国病が蔓延したのは1960~1970年代。
深刻化したのは1973~1975年の二次銀行危機前後。
ビートルズが活躍したのは1960年代であり、英国病の蔓延時期と重なっている。
1962年イギリスでデビュー、1963年1月リリースされた2枚目のシングルが1位に輝き一躍人気者へ。
経済的なことを言えばビートルズの活躍はイギリス社会に良い影響をもたらさなかったとみることも出来る。
ビートルズとともにやってきたのは労働党が主流の時代だった。

1964年10月16日~1970年6月19日  ハロルド・ウィルソン(労働党)
1970年6月19日~1974年3月4日  エドワード・ヒース(保守党) 
1974年3月4日~1976年4月5日  ハロルド・ウィルソン(労働党)
1976年4月5日~1979年5月4日 ジェームズ・キャラハン(労働党)


ハロルド・ウィルソン首相
父親は工業化学者で失業も経験したことがあるというから労働者階級の出身ということになるだろう。
ただ父親は党員であり政治には近いところにいた一家だった。
ハロルド・ウィルソンは学業は優秀だったようで中学から(返済不要の)奨学金で進学している。
但しオックスフォード大学進学においてはスカラシップ(成績優秀者並びに経済的理由を対象とする返済不要の奨学金)には選ばれなかった。
けれどもエキシビション(こちらも成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金であるがスカラーシップより貰える額が少ない)に選ばれオックスフォード大学進学。
独創性にはやや欠けるもののやはり優秀だったようで21歳でオックスフォードで経済史学の講師を務めることになる。

イギリスやアメリカでは返済不要の奨学金はスカラシップ、返済が必要なものはスチューデントローンと言う。
日本では奨学金導入時に返済不要の奨学金を設定しなかったので今でも奨学金といえばほぼローンのことである。
ローンが無金利か有金利かの差で、成績優秀者が無金利となるが、返済不要の奨学金に比べたら成績優秀の幅がとても広く、金額は少ない。
親の収入など条件もあるためあまりに裕福だと幾ら成績が良くても受けられない。
昨今は学校ごとの返済不要の奨学金などが増えてはいるが、それは要するにスカラシップに該当するということになり当然対象者は少なくなる。対象者が少ないのは外国でも同じ。
成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金の問題点としては、優秀な成績を収めるとは限らないギフテッドなどが拾えないこと。

イギリスでの「エキシビション」(成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金であるがスカラシップより貰える額が少ない)という名の奨学金は現在では廃れている。
学校が成績優秀者を確保するという目的よりも、奨学金がないと進学が出来ないという人に多く資金が使われてしまうからだそうだ。
また教育への熱心さが増し大学進学率も上がり、時代的に成績優秀者がそれほど珍しくなくなってきたから。

返済不要の奨学金は大きく2つに分けられる。
・Need-based
大学で学ぶのに十分な学力と資質をもっているが経済的な理由でその大学に進学することができない人に与えられる奨学金。
・Merit-based
成績優秀者に与えられる奨学金。

アフリカ系の黒人などにはNeed-based の奨学金が出やすいが日本人ではほぼ無理であった(これまでは)。
成績優秀者のほうならチャンスはあったが、成績優秀者は世界的に珍しくなくなっている。
日本の大学無償化議論は、何か勘違いしているか、日本国民が経済的に相当深刻な状況に陥っていることを表しているように思うが。


ハロルド・ウィルソン首相はローレンス・スティーヴン・ラウリーという画家の作品を好み、在任中2回ほどクリスマスカードに使ったそうである

Laurence Stephen Lowry(ローレンス・スティーヴン・ラウリー)1887-1976年
イングランドのストレットフォード(Stretford)に生まれた画家である。そのデッサンおよび絵の多くは、英国のマンチェスターのペンドルベリー(Pendlebury)(同地で彼は40年以上にわたって暮らし、創作活動した)、サルフォード(Salford)およびその周辺地域を描いている。
ラウリーは、20世紀半ばの北西イングランドの工業地域の生活風景を描いたことで有名である。


ラウリーはナイトなどの受章を拒否したことでも有名である。
晩年にやっと生まれ故郷の町の名誉市民を受けたのみ。

生涯で5つの栄典を拒否した - そのなかには1968年のナイトがふくまれており、そしてしたがって英国の栄典の拒否の最多記録を保持している。 

ナイトの候補になった1968年はハロルド・ウィルソンが首相をしていてビートルズがまだ活躍していた年。






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by yumimi61 | 2018-02-26 13:27
1976年3月、イギリスの首相ジェームズ・ハロルド・ウィルソン(労働党)は任期満了を待たずに突如辞任を表明し、4月5日に辞任した。
その年の5月、叙勲が発表された。
叙勲とは勲位・勲章を授けることである。

イギリスには公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位がある。これは貴族が有するものである。
貴族は古い伝統に基づいたもので世襲制が一般的だが、それとは別に後から与えられることがある。
その場合には世襲が許されず一代限りで与えられることが多い。一代貴族は全て男爵という位置づけになる。
同じ男爵という位であれば世襲であっても一代であっても同格となる。
イギリスでは1985年以降、世襲貴族は王族以外では全く作られていない。

上記爵位の下に続くのが准男爵とナイト(騎士)という称号である。
イギリスではこの人達にSirという敬称を付ける。
ナイトはイギリス人以外にも与えられることがあるが(名誉叙任)、この呼称が用いられるのはイギリス国籍を持つ人のみ。
男爵以上の呼称が「Lord(ロード)+姓」、ナイトの呼称は「Sir(サー)+ 名前」。その妻にはLady(レディ)を付ける。
ナイトの敬称Sirは日本語では卿(きょう)と訳されることが多い。
日本の子供達や主婦には『きかんしゃトーマス』に登場するトップハム・ハット卿で馴染み深いかもしれない。
でも本来は、卿(きょう)はLord(ロード)の訳であった。また「Sir(サー)+ 姓」という誤った使い方も多し。


ナイトにはガーター勲章、シッスル勲章、バス勲章、メリット勲章、聖マイケル・聖ジョージ勲章、ロイヤル・ヴィクトリア勲章、ブリティッシュ・エンパイア勲章(大英帝国勲章)という序列があり、それぞれ騎士団が構成され、その構成員を示す団員章として勲章が授与される。
ナイトの最高位が先日書いたガーター勲章である。
これらも一代限りなので自動的には(世襲では)維持できない。
ガーター勲章を受勲している日本の明治・大正・昭和・平成天皇はそれぞれがその度に与えられたということになる。
イギリスに現在9種類ある勲章のうち6種類は君主が独自の裁量でもって与えることができる。決定権は政府ではなく君主にある。


1976年5月に発表された叙勲。ジェームズ・ゴールドスミスはこの年のナイト受章者の一人だった。
(毎年20名くらいだという。一代限りであり死亡すればそれまでなので数が大きく増えることはない)
1976年とはそう、スレート・ウォーカーがイングランド銀行に買収され、トップにスレート・ウォーカーのかつて顧客(あるいはターゲット)であったジェームズ・ゴールドスミスが据えられた年である。


この1976年の叙勲が問題となった。
それはジェームズ・ゴールドスミスをはじめとした労働党の主義主張とは相容れないような立場の裕福な企業家が受章者に含まれていたからである。
さらにあるジャーナリストが受勲候補者リストをウィルソン首相の秘書官であった女性がラベンダー色のノートに書いていたと報じた。
そもそも政府ではなくて君主(女王)が決定し授けるものだからこの論議は不毛である。
ウィルソンと秘書官もそれを否定したが、ウィルソン労働党政権の汚点として1976年の叙勲が特別に皮肉られることになる。
この件が2006年にBBCにてドキュメンタリードラマ『The Lavender List』として放送された。
このシナリオはイギリスの風刺的な雑誌Private Eyeのジャーナリスト(副編集長)によって書かれたもの。
秘書であった彼女がウィルソン首相と姦淫行為をし、首相の受勲候補者リストの編集に過度の影響力を行使したと主張した。
このドキュメンタリードラマに端を発し、1976年の受章者が"Lavender List"と呼ばれるようになる。
秘書官は名誉毀損訴訟をBBC相手に起こし法廷での争いにまで発展。原告の主張が認められBBCが賠償金を支払う形で一応の決着をみた。


ジェームズ・ハロルド・ウィルソン首相はビートルズの"Taxman"(タックスマン)とういう曲に出てくる首相である。

タックスマン (Taxman) は、1966年に発売されたビートルズのアルバム『リボルバー』に収録されているジョージ・ハリスン作の曲。
ジョージが「お金を稼げるようになったが、そのほとんどに課税されるということに気づいて初めて書いた曲が『タックスマン』」と語っているように、1964年から1970年までの労働党ウィルソン政権は、充実した社会保障を維持するために税率95パーセントという高い税金を富裕層に課していた。ジョージは、この税率を皮肉ってこの曲を作った。歌詞には、当時のウィルソン首相と野党第1党のヒース保守党党首(1970年から1974年まで保守党政権の首相となる)が登場するが、反対党の党首まで出す事によってバランスをとっていた。
本作はクレジット上ではハリスンの作品となっているが、ジョン・レノンがこの曲の制作に協力しており「ジョージの歌のうちじゃ傑作に入る『タックス・マン』を作ってた時に、ジョージはぼくに、電話で、助けてくれって頼んできた。いくつかパンチの効いたことを考えてやった」と述べている。


Let me tell you how it will be
There's one for you, nineteen for me
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

Should five percent appear too small
Be thankful I don't take it all
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

If you drive a car, I'll tax the street
If you try to sit, I'll tax your seat
If you get too cold, I'll tax the heat
If you take a walk, I'll tax your feet

Taxman!
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

Don't ask me what I want it for
(Ha ha, Mister Wilson)
If you don't want to pay some more
(Ha ha, Mister Heath)
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman


Mister(Mr)という敬称を付けたのがミソ。
たぶんministerにも掛かっている。
私はニュースキャスターやアナウンサーが公共の電波に乗せて政治情勢など伝えながら安倍さんとかトランプさんとか「さん」付で呼称しているのが気になることがある。
ポール・マッカートニーなどはサーを受章している人だけど呼び捨てにされてることも多い。まあ外国人だから仕方ないか。
税率95パーセントは確かに凄いけど、それほど取られても生活できてお金持ちでいられることのほうがもっと凄いと思ってしまう。労働の対価の不公平性を逆に感じる。









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by yumimi61 | 2018-02-25 15:29

Cabbage


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このブログの2007年の『隙間』という投稿の中で、小説『白鯨』のことを、創作した会話の中で語った。
小説で語り部となっているのは「棺桶として作られた丸木舟(後に救命ブイになる)」で生き残った人物であるが、実は小説内では「白鯨」も「乗っていたアメリカ産の木の船」も棺桶として捉えられている場面がある。それは予言であり現実にもなる。
乗組員の生と死の境界にある白鯨と船。
彼らの命を奪ったのは海であるけれど、海ではないのだ。

あの小説は何もかもが対比している。
そしてまた重要な事はあの小説は事実にヒントを得ているということ。
つまり小説(フイクション)に対比する事実(ノンフイクション)が存在していたということになる。
船に乗っていた経験のある著者は、実際の出来事において生き残った者の手記をまとめた本を、船で一緒になった生存者の息子(船乗り)から渡されて読んだのだとか。

日経電子版 
「白鯨」の元ネタは小説より壮絶だった[ナショジオ] ありえない生還劇





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by yumimi61 | 2018-02-25 00:42
178.png2007年12月までカテゴリとタグ付け完了しました。


フランクフルトのゲットー出身のユダヤ家系の金融一族ゴールドシュミット家の一員で、オリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなった投資家ジェームズ・ゴールドスミス。

親の資産を受け継ぎ数多くの企業を経営するほか、ニューヨークのウォール街やロンドンのシティーをまたにかけた投資家で大富豪としても知られ、1986年にアメリカのタイヤメーカーであるグッドイヤーに対して行った買収劇、世界最大のタバコ会社にであるブリティッシュ・アメリカン・タバコの買収劇、フランスの雑誌「レクスプレス」の買収、エッフェル塔の25%を買収など、自らが率いる投資会社による数多くの仕手戦で、その名が世界のビジネスマンの間で取りざたされた。

また、ヨーロッパ第3位の食品会社であるカヴェナム・フーズをまたたく間に創り上げ、アメリカの貴金属商のハンディー・ハーマンを動かし、イギリスのマーチャント・バンカーとして南アメリカに巨大な利権を持つハンブローズ銀行をパートナーとしていた。世界の富豪が脱税のために利用するカリブ海のケイマン諸島で、「ケイマン・アイランズ社」の社長として君臨した。1987年のウォール街「ブラックマンデー」の株価大暴落においても絶妙のタイミングで売りに出て莫大な利益を手にした。アラブ・ブリヴェ銀行の経営者とは、30年来のビジネスパートナーであった。

また、ヨーロッパのみならず、世界を驚愕させた大スキャンダルであるバチカンの資金管理を行う銀行であったアンブロシアーノ銀行の頭取で、秘密結社「ロッジP2」の主要メンバーであったロベルト・カルヴィの暗殺事件においても関与が噂された。晩年には政治家となり、政治活動に力を置いたものの、雑誌出版社の経営にも力を入れていた。1994年に、欧州議会議員のフランスの代表として選出された。そしてイギリスに、短命に終わった欧州懐疑主義の国民投票党を設立した。


上記のように日本語版Wikipediaには金持ちの子弟が有り余るお金を以てして何の苦労も無く投資の世界で華々しく成功していったようにしか書かれていないが実はそうでもなかったらしい。
本人もタブロイド紙に書かれるような自分像は「フェイク」(フェイクという言葉を使ったかは分からないが)であると激しく拒絶していたとか。

1950~1960年代のジェームズ・ゴールドスミスは成功とは程遠いところにいて何度も破産しかけたという。彼は1933年生まれなので20~30代の時である。
元々彼は次男であり、伝統パブリックスクールとは異なるミルフィールド校からイートン校に転校するも中退。大学進学もしなかった。
一方の兄はミルフィールド校から名門オックスフォード大学を卒業。
父親は当然のことながら長男に期待して何か事業を起こさせようとしたが、当の長男は全くといってその気がない。
そこで次男ジェームズが長男の代わりに事業に携わるようになるが、最初のうちはどれもこれも上手くはいかなかった。
名門金融家ゴールドシュミット一族であり、親は高級ホテル群のオーナー、イギリスの政治家だったこともある、それでも「そうは問屋が卸さない」ということらしい。

成功の足掛かりとなったのは薬だった。
アメリカ製のAlka-Seltzer(アルカセルツァー)という発泡性制酸剤および鎮痛剤のイギリスでの販売権を獲得し、後にジェネリック医薬品をイギリスに導入することになる。
薬の事業がある程度成功すると今度は低カロリーパンの販売代理店を買収する。これが食品業界への進出の第一歩だった。
その後はスコットランド出身のポーランド系ユダヤ人のビジネスマンで慈善家アイザック・ウォルフソンから財政支援を受けて、パンや菓子など多様な食品会社を買収し、たばこを含む多くの卸売業者や小売業者を引き継いだ。
当初利益は僅かだったが経営を見直し生産性を向上させ、利益が出せる会社にした。
この頃はまだ投資家というよりもビジネスマンという要素が強かったように思う。


彼が投資家として嫌われ出す契機となったのは1971年のBovril(ボブリル社)の買収だった。
この会社の1889年設立。創業者はカナダに住んでいたスコットランド人。
1870年のフランス・プロイセン戦争にてナポレオン3世が兵士に食べるさせるために牛肉をオーダーした。
イギリス領である南米では大量の牛肉が調達できたが、それを腐らせないでヨーロッパまで輸送することが当時は不可能であった。
この時に「液体ビーフ」と呼ばれる製品を開発したのが、ボブリル社の創業者となる人物である。この製品がイギリスで広く受け入れられたことによって会社設立に至った。
この経緯によって、会社は南米アルゼンチンに牧場などを所有していた。
その後も「液体ビーフ」はイギリスで重宝され続け、サッカーと相まってイギリス文化のアイコンとなるほどのブランドを確立した。
この大企業を1971年に買収したのがジェームズであるが、この時にスコットランド出身の創業家(3代目)とかなり揉め、世間からも非難を浴びることになる。
しかし買収後すぐに南米の牧場や酪農場を南米の買い手に売ったわけだから、南米からみればそれほど悪いことではないかもしれない(よく分からないけど)。
牧場や酪農場を切り離しても買収にかかった資金はすぐに回収できたというから、買収は成功だったということになろう。


Bovril(ボブリル社)買収とBovril(ボブリル社)所有の南米の牧場など売却の成功に気をよくしたのか、この頃からジェームズはアメリカや南米に積極的に目を向けるようになる。
おそらくイギリスなどヨーロッパとアメリカ大陸での資産評価などには差があって、投資によってその差が利益をもたらすと考えたのでないだろうか。


ジェームズ・ゴールドスミスは1960~1970年代にスレート・ウォーカー(Slater Walker)の銀行部門から資金調達をしていた。
スレート・ウォーカーは財政難に陥った企業攻撃に特化したイギリスのコングロマリット企業。
1973~1975年、イギリスで二次銀行危機(the secondary banking crisis)が起きた。
1960年代後半から1970年代初頭にかけてイギリスでは不動産価格が上昇しており、不動産を担保とした融資が過度に増加していった。
二次銀行は大手金融機関と違って、自行だけで貸出資金を準備できず借りて貸し出すという形態を採っていた。
ところが1973年にイギリスの不動産価格が急落し、金利が上昇。
不動産価格が下落すると担保が融資した額と見合わないという結果に陥る。
一方で金利は上がっているので借り換えが難しくなり、二次銀行に融資された側も、大手金融機関に融資された二次銀行も返せない状況となる。
数十社の二次銀行が破産の危機に陥っていた。
日本でも不動産バブルが弾けた後にノンバンクが複数破綻し、ノンバンクに融資していた日債銀も破綻したということがあったが、それに似たような状況だったわけである。サブプライムローンでリーマンが破綻し金融危機が引き起こされた状況にも似ている。
イギリスの場合は中央銀行であるイングランド銀行が約30の二次銀行に介入し支援し救済した。1億ポンドを支出したという。
中央銀行であるからして要するに紙幣を発行したということになる。
これによってイギリスはインフレに見舞われ、英国病と呼ばれる問題が深刻化していったが、救済したイングランド銀行はその権限を増すことになった。

スレート・ウォーカー(Slater Walker)も二次銀行危機で財政難に陥り、イングランド銀行の支援を受けることとなり、創業者は辞任に追い込まれた。
スレート・ウォーカーは1976年にイングランド銀行に買収され、トップにはスレート・ウォーカーのかつて顧客(あるいはターゲット)であったジェームズ・ゴールドスミスが据えられた。









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by yumimi61 | 2018-02-23 15:35
前記事では爵位について書いたが、今日は勲章について。
勲章は国家元首などが国家や社会に功労のあった者を表彰するもののうち、物体としての勲章(メダル)の授与を伴うもの。
ちなみに日本の「勲章」と「国民栄誉賞」の違いは、与え授けるものが天皇か内閣総理大臣かの違いである。
でも今日はイギリスの勲章について。

Order of the Garter(ガーター勲章)
1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは“Most Noble Order of the Garter”(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。

イギリスには現在、9種類の勲章が存在し、その最上位に位置するのがガーター 勲章。
エドワード3世国王は、中世の騎士道物語『アーサー王物語』に魅せられて、その話に出てくる「円卓の騎士」を導入したかったからだとか。
アーサー王はローマ皇帝を倒し全ヨーロッパの王となったという創作上の人物である。

円卓の騎士( Knights of the Round Table)
アーサー王物語においてアーサー王に仕えたとされる騎士。
新たな円卓の騎士は空席ができたときにのみ迎えられる。その者は以前の騎士より勇気と武勲を示さなければならず、それができなければ魔術師マーリンが円卓にかけた魔法により弾かれてしまう。
聖杯伝説の一形態では、円卓にはイエス・キリストと12人の使徒を模して13の席があったとされる。「キリスト」に対応するアーサー自身が一つの席に座り、残りの席に一人ずつ騎士たちが座っていたが、13番目の席のみは例外的に誰も座っていなかった。なぜなら、この13番目の席はキリストを裏切ったイスカリオテのユダの席であるため、魔術師マーリンが席に呪いをかけており、座る者は呪いに冒されるからである。そのためこの席は「危険な座」と呼ばれ、新王が足を乗せると叫び声を上げるという、アイルランドのファルの石からできているとされる。

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この勲章は日本の勲章のような「国家や社会に功労のあった者を表彰する」という意味合いのものではない。
ガーター騎士団の団員章である。
メンバーのしるし。もっともポピュラーなところで例えれば校章といった類のもの。

騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。
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ガーター騎士団の団員は24名。
これは円卓の騎士の12名にちなんだもの。
王と皇太子がそれぞれ12名の円卓の騎士(団員)を抱えるという意味合いd計24名となった。
終身団員であり、創設当時は団員が死亡しない限り補充はなかった。

創始者のエドワード3世国王は1337年にフランスに対して挑戦状を突きつけている。
以後イギリスはフランスは「100年戦争」に突入する。
挑戦状から11年目にガーター騎士団は結成された。
実際にほとんどの騎士(団員)がフランスとの戦いに赴いている。
またフランスとの戦いというが、親イギリスのフランス人も数名含まれていた。

100年戦争の原因はフランスの王位継承を巡る対立。
フランスとイギリスには因縁となる背景がある。
イギリス王室の開祖ウィリアム1世(在位:1066-1087)はフランスのノルマンディー地方の貴族であった。ノルマンディー公の庶子。
彼がイギリスを征服したので征服王とか庶子王とか呼ばれている。
初代国王やその周辺が用いていた言語は英語でなくフランス語であった。
イギリス王がフランス王を兼ねていた時代もあった。
100年戦争でフランスに戦費を貸したのはジェノヴァで、イギリスに貸したのはヴェネツィア。ともにイタリア地中海沿岸。
100年戦争は両国の貴族を疲弊させ、両国とも絶対君主制への道が開かれるという結果となった。
この時に疲弊したり没落した貴族の代わりに台頭してくるのが新たに生まれた貴族で、お金の関係の深い「黒い貴族」であるとの噂が囁かれる。

ガーター騎士団のモットーは“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。
英語の国イギリスの最高勲章でありながら、使われている“Honi soit qui mal y pense”という言葉はフランス語である(日本語訳はちょっと怖い)。

現在は王・皇太子・24名の団員の他に、王族メンバーと外国人メンバーが別枠で設けられている。

明治以降の日本の天皇は外国人メンバーの1人である。
<現外国人メンバー(ガーター勲章保有者)>
1.ルクセンブルクのジャン前大公
2.デンマークのマルグレーテ2世女王
3.スウェーデンのカール16世グスタフ国王
4.スペインのフアン・カルロス1世前国王
5.オランダのベアトリクス前女王
6.日本の今上天皇
7.ノルウェーのハーラル5世国王
8.スペインのフェリペ6世 (スペイン王)


日本の天皇以外は全てヨーロッパの君主制国家の君主である。

ガーター勲章の外国人への叙勲は、原則としてキリスト教徒であるヨーロッパの君主制国家の君主に限られており、ヨーロッパ以外の国の君主や非キリスト教徒の君主に対しては、その国がイギリスと特別な関係にあり、政策上特別な事情がある場合に限り例外的に贈られている。
また、共和制国家の元首に対して贈られた例はない。


要するにこの外国人メンバーの特別枠こそ「イギリス国家に功労のあった人物」あるいは「非キリスト教徒ながらキリスト教に功労のあった人物(隠れキリスト教徒)」とみてよいのではないだろうか。

日本の天皇を推挙したのはランズダウン侯爵。
ランズダウン侯爵とは、前記事に書いたシェルバーン伯爵からランクアップした侯爵である。

明治天皇にガーター勲章が贈られたのは外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの推挙による。日露戦争が日本優位に進む中の1905年(明治38年)に日英同盟の更新を決意したランズダウン侯がバルフォア首相の許可も得て、日本との関係を強化する一環として天皇へのガーター勲章授与を国王エドワード7世に上奏した結果、実現した。

大正天皇は1912年、昭和天皇が1929年にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、1971年10月のイギリス訪問時に復帰し、今上天皇も1998年のイギリス訪問時に叙勲された。

一度剥奪されて名誉回復を果たした外国君主は騎士団600年余の歴史の中でも昭和天皇のみである。

1902年にペルシャ皇帝モザッファロッディーン・シャーに対して贈られて以降、日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はなく、1974年8月27日にキリスト教徒のエチオピア前皇帝ハイレ・セラシエ1世(同年3月に廃位されて幽閉中だった)が崩御した後には、ヨーロッパ人以外でガーター騎士団に叙されているのも日本の天皇のみである。


神道で古式ゆかしい行事を国を挙げて行うわりには天皇家の人物が平然とキリスト系学校出身者であったり、あえてキリスト系学校に進学したり、また明治以降の有力者にはキリスト教徒が非常に多いのは決して偶然ではないだろう。







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by yumimi61 | 2018-02-21 16:04

お知らせ

178.png2007年11月までカテゴリーとタグ付け完了しました。


今日の本文もある程度下書きが出来ているのですが、何回かチャレンジしてもパソコンから送信ができない状態なのです。
それで試しにスマホからこれを送ってみます。




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by yumimi61 | 2018-02-20 20:28
ベルギーのランベール銀行の設立者ランベール。

父:サミュエル・ランベール(1806-1875)
フランス生まれ。銀行家で画家。1835年にミュージシャンと結婚。その妻の母の2度目の結婚相手がラザール・リヒテンバーガーだったので、サミュエルにとって義理の父となる。

ラザール・リヒテンバーガー(1792-1892)は、ドイツ生まれのユダヤ人でベルギーで銀行家をしていた。
ベルギーの初代国王レオポルド1世に非常に近い人物。
ベルギー独立後初期の1832年からブリュッセルでロスチャイルド・パリ家の代理人を務めていた。
サミュエル・ランベールはその代理店のアントワープ支部長を務めた。
1843年に2人共同で会社名を“Lambert–Richtenberger, agent Rothschild”とした。
1853年にリッテンベルガー亡くなると、サミュエル・ランバートが会社を引き継ぎ、“Lambert, agent Rothschild”と改めた。

息子:レオン・ランベール(1851-1919)
父サミュエルが1875年に亡くなった後はレオンが代理店を引き継いだ。
レオンは1882年にロスチャイルド・パリ家創始者(5人の息子の5男)の孫娘と結婚。
婚姻によってロスチャイルド家とランベール家の結びつきが一層強固になる。(ロスチャイルド家のベルギー分家とも呼ばれるくらいに)
ランベール銀行はロスチャイルド系銀行。
前記事に「ベルギー独立時にベルギーの貴族ランベール家によって設立されたのがランベール銀行(Banque Lambert)」と書いたが、ランベール家はレオン・ランベールが1896年にレオポルト2世国王から男爵の称号を得て晴れて貴族となっており、銀行設立時より貴族だったわけではない。
いずれにせよ次のような繋がりが認められる。

イギリス王家ーベルギー王家ーランベール家ーロスチャイルド家(パリ家)
                    ↓
                   日本銀行(1882年設立)



今度は前記事にも登場したシェルバーン家に注目する。
貴族制度はややこしく(国を跨ぐと余計に)、昔からの事なので不明な点もなくはなく、さらに貴族を自称する人もいたので、これまた非常に分かりにくい部分だと思う。

アイルランド貴族フィッツモーリス家(ケリー男爵)←シェルバーン家のルーツはここ!
フィッツモーリス家の出自についてはよく分かっていないが、11世紀のノルマン人(ゲルマン人)騎士ではないかと言われている。男爵位創設の時期も定かではないが、アイルランド貴族の中では2,3を争う古さで、12,13世紀頃から存在していたと見られている。
21代目ケリー男爵→ケリー伯爵(1723年)

トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯爵)
Thomas FitzMaurice, 1st Earl of Kerry, 21st Baron Kerry and Lixnaw
1692~1697年の間の3年、アイルランドの庶民院議員を務めた。
1693年、経済学者ウィリアム・ペティ卿の娘であるアン・ペティと結婚。
1697年、ケリー男爵20代目である父が亡くなり男爵位を継承。
1711年、枢密顧問官となる。
1723年、ジョージ1世にて伯爵の爵位を授与される。(爵位は2ランクアップ)

経済学者ウィリアム・ペティ卿 Sir William Petty
イギリスの医師、測量家、経済学者。労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖ともいわれる。ハンプシャー州生まれ。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党 – 自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。

織元の第3子として生まれる。(上2人は早世したので事実上の長男)
14歳のときイギリス商船の水夫となったが、10ヶ月間の航海の後、フランスのカーン市に置き去りにされた。
カーンにあるイエズス会のカレッジで学芸(リベラル・アーツ)を学び、1640年頃にイギリスに帰国
。1643年にオランダへ渡航するまでイギリス国王の海軍で勤務した。
1644年にライデン大学の医学部に入学。ライデン大学でフランシス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。アムステルダム大学のジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。1646年、イギリスのロンドンに移る。

1652年、アイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、またアイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。
さらにアイルランド総督ヘンリー・クロムウェルの秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスのウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。
チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。 


ジョージ1世(在位:1714-1727) George I
イギリス王家がドイツのハノーヴァー出身となった初代。現イギリス王室はこの流れを汲んでいる。


長男 ウィリアム・フィッツモーリス(1694-1747年)→第2代ケリー伯爵位を継承
次男 ジョン・フィッツモーリス (1706-1761年)→1751年にペティに改姓、初代シェルバーン伯爵に叙される

ジョン・フィッツモーリス(初代シェルバーン伯爵)の息子ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)はイギリスの首相となった(在職:1782-1783)。
ウィリアム・ペティという名は父方の祖母の父にあたる経済学者ウィリアム・ペティと同姓同名。
Sir William Petty
William Petty, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne

首相退任後の1784年にランズダウン侯爵に叙された。(侯爵は伯爵の1つ上のランク)
ケリー伯爵とシェルバーン伯爵はアイルランド貴族であったが、ランズダウン侯爵はグレートブリテン貴族となる。
ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)の子孫はフィッツモーリス家の分家筋ということになるが、本家に後継ぎ男子がいなかったため1818年より本家となり、ペティ=フィッツモーリス家と改姓してケリー伯爵位も継承している。

現在、ランズダウン侯爵は9代目(チャールズ・ペティ=フィッツモーリス)となっている。
イギリスでは伯爵以上の爵位には従属爵位という複数の爵位が付いている。最高(メイン)の爵位を相続する以前の子供は2番目の爵位名で呼ばれている。
それから爵位には領地持ちと持たないものがある。
結婚相手、相続する子の有る無しで爵位や領地(昔なら国そのもの)は大きく変わる可能性がある。
=現ランズダウン侯爵の全保有爵位=
・サマセット州における第9代ランズダウン侯爵 (9thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第10代ケリー伯爵 (10th Earl of Kerry) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の儀礼称号)
・ウェックスフォード州における第10代シェルバーン伯爵 (10th Earl of Shelburne, in the County of Wexford) (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第9代ウィコム伯爵 (9th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族)
・第10代クランモーリス子爵 (10th Viscount Clanmaurice) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の法定推定相続人の儀礼称号)
・第10代フィッツモーリス子爵 (10th Viscount Fitzmaurice) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・第9代キャルネ=キャルストン子爵 (9th Viscount Calne and Calston) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第30代ケリー=リックナウ男爵 (30th Baron of Kerry and Lixnaw) (1223年頃創設アイルランド貴族爵位)
・第10代ダンケロン男爵 (10th Baron Dunkeron) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第10代ウィコム男爵 (10th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族)









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by yumimi61 | 2018-02-19 12:49
178.png2007年10月までカテゴリーとタグ付終了しました。


フランクフルトのゲットー出身のユダヤ家系の金融一族ゴールドシュミット家の一員でありながら、経済発展や工業化に反対し環境問題の運動家となったエドワード・ゴールドスミス。
その弟であるジェームズ・ゴールドスミスはオリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなった投資家である。

『ウォール街』(Wall Street)
1987年公開のアメリカ映画。出世願望の強い若手証券マンと、冷酷かつ貪欲な投資家による企業買収を描いた金融サスペンス
時代を反映した内容が話題を呼び大ヒットしたことから、アメリカでは広く知られた映画であり、経済・金融の論評や記事で引き合いに出されることも多い。作品は実際のウォール街にも大きな影響を与え、主人公である投資家、ゴードン・ゲッコーに憧れて投資銀行に入社する者や、ゴードンのファッションを真似る者などが後を絶たなかった[要出典]。
一方で監督オリバー・ストーンは、作中でゴードンと対立するカール・フォックスと同じく過剰な資本主義による倫理観の崩壊を嫌悪する側であり、ゴードン側の人間ばかり増やしてしまった事は大変遺憾だと述べている[要出典]。


ラリー・ワイルドマン卿(ゴードンとライバル関係)のことはひとまず置いて。

ゴードン・ゲッコーを演じたのはマイケル・ダグラス ←冷酷かつ貪欲な投資家
バド・フォックスを演じたのはチャーリー・シーン ←功名心から騙され倫理観の崩壊を嫌悪する(復讐する)側
 カール・フォックスを演じたのはマーティン・シーン ←過剰な資本主義による倫理観の崩壊を嫌悪する側
(マーティン・シーンとチャーリー・シーンは実の親子)

ゴートン・ゲッコーは実在の投資家アイヴァン・ボウスキーがモデルとされる。本作と次作で吐いた「Greed is good.(強欲は善だ)」「Money never sleeps.(金は眠らんぞ)」「君の質問には3語で十分、Buy my book(ウチは買いだ)」は名台詞として知られる(特に「強欲は―」は「アメリカ映画の名セリフベスト100」で第57位に入った)。


アイヴァン・ボウスキー(Ivan Boesky、1937年3月6日 - )
デトロイト出身の投資家。1980年代中盤にウォール街の鞘取りとして活躍した。ドレクセル・バーナム・ランベールをめぐる内部者取引を密告し、ハーヴェイ・ピットに弁護された。

ユダヤ系の家庭に生まれる。デトロイトのマンフォールド高校を卒業し、ミシガン州立大学で法律学を修める。
L.F.ロスチャイルドで一年間の下積みを経験したボウスキーは企業の買収を繰り返し、当時の金額にして2億ドルの資産を有するアービトラージャー(裁定取引専門の投資家)として、後の財務長官であるロバート・ルービンと共にウォール街で名を馳せていた
しかしボウスキーは同業者とインサイダー取引に手を染めていた。ボウスキーがKidder, Peabody & Co. やファースト・ボストンの関係したM&A 銘柄を追いかけていることは当時の証券業界で公然の秘密であった。

やがて証券取引委員会の調査によって発覚し、1986年に逮捕された。ジャンクポンドの帝王とも呼ばれるマイケル・ミルケンや時には証券取引委員会の人間とも共謀した。彼の株式取得方法は、買収を発表の数日前に株を最大限に買い占める手法により、時に物議を醸すなどしたが、1986年12月には、彼自身が『タイム』の表紙を飾る。
証券取引法違反により逮捕されたものの、ボウスキー以前はインサイダー取引によって逮捕されるケースは違法とは言え滅多に無かった。司法取引により、3年半の服役と1億ドルの罰金刑を受けたが、2年で出所し、現在も有価証券投資事業を手がけている。尚、ボウスキー自身は、最も大きな株取引詐欺を行った男としてギネスブックに登録されている。



ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)
従業員のマイケル・ミルケン(Michael Milken)の不法行為が発覚して破産を余儀なくされたウォール街の投資銀行会社。

私は前にドレクセル・バーナム・ランベールやマイケル・ミルトンのことを書いている。
いろいろなものがあちこちに繋がっていて、複数の国にまたがり、複数の語が混じり合う外国名が登場することも影響して、一見してというか何というか、非常に分かりにくいと思うが、確か「アイゼンベルグ」の話から繋がってきたものだった。
もう一度その元を辿ってみる。


キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族

・キャボット家はもともとイタリア・ヴェネツィアで活動していた一家。カトリック教徒。
1484年にイギリスへ移住し、1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて出航した探検家。アメリカ大陸発見者として名を連ねる。
しかしヘンリー8世(カトリックから分離独立した時のイギリス国王)からは出資を受けられず、1513年にカトリック国であるスペインに移住。最終的には(1533年)イギリスに戻り、航海関係の会社を起こしている。
キャボット家はアヘンと奴隷で大儲けした。

・シェルバーン家はアイルランド貴族。イギリスの諜報活動を担当していた。
(1509年からイングランド君主はアイルランドの君主も兼務している)
シェルバーン家は、ヴェネチア、ジェノバ、ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドンなどを転々とし、アヘンと奴隷で莫大な富を築いた一家。
イギリス・フランス・スイスのイエズス会との関係を築き上げていて、フリーメイソンの上層部にいた人物でもあった。
シェルバーン伯爵は神秘主義(悪魔崇拝とも言われる)に魅せられていたという。
シェルバーン伯爵はイルミナティ創設にも関与していて、ここでプロテスタントのはずのイギリスとカトリックが明確に繋がり、さらにフリーメイソンとも繋がることになる。


ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争い。

・ハプスブルク家(カトリック)
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた

・ヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)


1714年よりイギリスの王家がドイツのハノーヴァー出身となる。
このイギリス王家は、反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)であったということになる。
そして次のような対立構造も生まれる。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
         フリーメイソンvsイルミナティ   

1776年、アメリカ独立。
(独立戦争でイギリスに傭兵を提供したのはヘッセン家)

ナポレオン戦争が起きて、対ナポレオン(市民革命の起こったフランス)のもと対立していた上記両者が一致団結。ナポレオンは失脚し、カトリックは復活、イエズス会が急拡大した。

1792~1815年、フランス革命戦争・ナポレオン戦争。

1822年、ロスチャイルド家の5人の息子にオーストリア皇帝(カトリック)から爵位授与され晴れて貴族の仲間入り。

1831年、独立したベルギーに初代国王が即位。その国王はイギリス王家と同じドイツのザクセン・コーブルグ・ゴータ公国の公爵家から出された。
 ⇒イギリスとベルギーの王家は同じ一族出身で親戚。


ベルギー独立時にベルギーの貴族ランベール家によって設立されたのがランベール銀行(Banque Lambert)。
Lambertは日本読みでは、ランベールとも、ランバートとも、ランベルトとも言う。
ランベール銀行はベルギーのソシエテ・ジェネラル(Société générale de Belgique)の親会社でもあった。
(ロスチャイルドの主導によってベルギーのソシエテ・ジェネラルがフランスにもソシエテ・ジェネラルを設立。イギリスにもジェネラル・クレジットを設立してエジプトや近東で活躍)
ベルギーのソシエテ・ジェネラルは、日本銀行のモデルとなったベルギーの中央銀行であるベルギー国立銀行と歴史的に非常に関係が深い。
ランベール銀行は第二次世界大戦終結(1945年)以降、数多くの銀行との合併によりサービスとネットワークを急速に発展させた。

1975年、そのランベール銀行がブリュッセル銀行と合併してグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)となった。

GBLは翌1976年にフランシス・マーティン・ドレクセルが創業したアメリカの銀行の支配権を得る。
フランシス・マーティン・ドレクセルはオーストリア生まれで、イタリアのカトリック教会でイタリア語と絵画を学ぶ。1817年にアメリカに移住。
1837年に永住権を取得した後、アメリカ大手金融会社の1つとなるDrexel&Co.を設立。
メキシコ・アメリカ戦争とアメリカ内戦で連邦政府との金融取引に携わる。
創業者が1860年に死去し息子が事業を継承。
1868年にパリの会社Drexel、Harjes&Co.が設立され、1871年にはJ. P. モルガンと提携してニューヨークにDrexel、Morgan&Co.を設立。
だがその後、会社は傾いて行く。
幾つかの合併や改称を経て、1976年にベルギーに本拠を置くグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)という社名になった。
1980年代の企業乗っ取りの中心にいたのがこの会社。ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような銀行。
ランバートに吸収合併される前からドレクセルにいて、1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せたのがマイケル・ミルケン
傾いていた会社はアメリカ5位の投資銀行となりウォール街に欠かせない会社へと変貌を遂げた。







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by yumimi61 | 2018-02-18 14:17
前記事にイギリスの伝統パブリックスクールの頂点イートン校について書いたが、思わず日本の某女性芸能人を思い出した人もいたのではないだろうか。
日本からアメリカのメジャーリーガーに行ったプロ野球選手の元妻と言えば分かる人も多いかもしれない。
彼女の息子達がイギリスの名門プレップスクール(パブリックスクールを目指す児童のための寄宿私立小学校)に留学したんだとか。
私は病院の待合室のテレビでかかっていたワイドショーでそのことを知ったけれども、あれを見なかったら今でも知らなかったと思う。

伝統的パブリックスクールが13歳〜18歳の子供を対象としてるが、プレップスクールはその前の8歳~13歳が対象となる。
彼女の息子達が留学したのはルドグローブ校らしいが、この学校はウィリアム王子がイートン校の前に入学した学校である。(ウィリアム王子は小学校に入学した最初のイギリス王子)

階級社会イギリスの王族とか貴族とかに匹敵する日本の家庭(しかも自身は芸能人だった)というのはどんな感じなんだろうという興味のもと彼女のことをWikipediaで調べてみた。(宮崎県出身でプロ野球選手の元妻という以外私が知っていることはないので先入観はなかった)

日本のタレント、モデル、女優。宮崎県出身。日向学院中学校卒業。堀越高等学校卒業。早稲田大学通信制中退。血液型はO型。エイベックス・マネジメント所属。

これと野球選手と結婚していた以外の情報はほぼなかった。ということは・・お金!?
一説によるとイギリスの教育界は海外からの生徒集めを重視しており、最近は中国などアジアを重点地域に置いているからではないかと。
私は彼女がエイベックス所属と知って、音楽事業や芸能人などのマネジメントを手掛けるエイベックスという会社の世界戦略の一環かと思いましたよ。
その後の某歌姫や某音楽プロデューサーの引退宣言もエイベックスの世界戦略にお金がかかるからなんだなあと勝手に解釈しておりました。
某音楽プロデューサーのお相手の看護師Aさんはもともとエイベックスが経営していた病院にいた方なのでは?
それはともかく。

私が彼女が宮崎県出身だと知ったのは2010年に宮崎県で発生した口蹄疫の流行の時だった。
2010年5月29日 zakzak夕刊フジ
 宮崎県は28日、プロ野球日本ハムのダルビッシュ有投手の妻、紗栄子(23)が、口蹄疫被害の義援金として300万円を寄付したことを明らかにした。紗栄子は宮崎市出身で、寄付は27日付。
 紗栄子はブログで「主人のマウンドでのパフォーマンスの源で、私達家族の健康を支えてくれている宮崎の牛や豚が殺処分されていることに心を痛めながら、私にできることは何かないかと考えていました」とつづっている。



2010年6月6日 スポニチ
 プロ野球日本ハムのダルビッシュ有投手の妻、紗栄子さんが5日、故郷・宮崎で発生した口蹄疫被害について、ブログに寄せられた数々のコメントや募金活動へのお礼の言葉をつづるとともに、自らのブログをこの問題の「情報交換の場に」と訴えた。
 紗栄子さんは5月27日に宮崎県に義援金として300万円を寄付。28日付のブログでは同県が実施している募金活動への協力を呼びかけたところ、日本各地から600件近いメッセージが寄せられた。
 「タオルが不足していることやポイントでの寄附、ふるさと納税など、いろんな形の協力の仕方を教えてもらえました」との言葉通り、コメント欄は現地からのリポートや情報交換の場としても機能。紗栄子さんはこのことを喜ぶとともに「これからもこの場所を、情報交換の場としてどんどん使って頂ければ嬉しく思います」と明かした。
 さらに、紗栄子さんは牛の殺処分に携わった獣医の心のケアや、農家の生活のサポートなど、感染終息後の問題についても触れ、「みんなの絆で乗り越えましょう」と呼びかけている。



当時、彼女の伯父が衆議院議員だった。(それを私が知ったのはワイドショー見た後のWikipediaだった)
道休誠一郎
宮崎県宮崎市生まれ。宮崎県立宮崎南高等学校、上智大学外国語学部卒業。上智大卒業後はコロンビア大学大学院国際関係学修士課程に留学。1979年(昭和54年)、シティバンクに就職。1982年から野村證券に勤務。2003年、JICAからインドネシア財務省に派遣される。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙に民主党公認で宮崎2区から出馬。自由民主党の江藤拓に敗れるも、比例九州ブロックで復活し、初当選した。


カトリック・イエズス会の上智大学、コロンビア大学、シティバンク、野村証券、JICAからインドネシア財務省。この経歴はなかなか興味深い。
そして実は日本の口蹄疫発生には彼が少なからず関与しているという説がある。

http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/360.html (2010年5月21日)

民主党政府は口蹄疫非清浄国の韓国から豚肉輸入を2009/09/28 に決めた(註2,3)。

2010/01/02 韓国の農場の牛から検出されたウイルス、口蹄疫と判明(註3)。

1月12日、京畿道・抱川で1月7日に家畜伝染病の口蹄疫(こうていえき)が発生したことを受け、米農務省の国際動植物検疫課(APHIS)が韓国の「口蹄疫清浄国」認定を無期限で延期すると発表した(註4)。

今年の1月に宮崎の水牛チーズ農場に道休誠一郎(ドウキュウ セイイチロウ)民主党議員の口利きで昨年から口蹄疫が発生している韓国京畿道州抱河市西域からの研修生が来た(註5)。

2月半ば頃から原因不明の下痢・乳量の低下・流産が多発。
3月半ばに口蹄疫の疑いが判明。
水牛は全頭家畜としての導入検疫を受け口蹄疫も陰性だった。
水牛農場に行っていた女性の住む川南の農場が川南で最初の発生農場となった。
この農場と行き来のあった農場を中心に広がり川南で多発、国内最大手の直営で発生。
同系列のえびのの委託農場に感染。

宮崎 口蹄疫感染源が韓国研修生という認識は、地元では常識になっている(註6)。

口蹄疫ウイルスの人への感染については、濃厚接触がある場合、稀にウイルス感染することがあるが軽い発熱や口内炎になる程度で完全に回復するため臨床学的な立場からは感染しないとされる。
 ただし感染による症状自体は問題とはならないもののヒトがウイルスの保有者(無症候性キャリア)となり、他の動物への感染源となるため感染源との接触は極力避けなければならない、とされている(註7)。

また、全米公衆衛生協会の公式報告でも「口蹄疫ウイルスの感染は酪農従事者、畜産農場従事者、獣医師、ウイルス取り扱い技術者などに認められ、また、ウイルスのメカニカルな保菌者となり、動物への口蹄疫流行の感染源となる」とされている(註7)。

このため口蹄疫流行国からアメリカ合衆国への入国時には、「過去2週間以内に家畜にふれたことがあるか、家畜の農場に居たことがあるか」等が聞かれる(註7)。

それ故、口蹄疫の発生している韓国からの研修生がウイルスを持ち込んだ可能性は極めて高い。

4月28日にFAO(国際連合食糧農業機関)は、韓国と日本における口蹄疫の流行に対する憂慮を表し、すべての国がリスクにさらされているとし、厳重な警戒をするように呼びかけた(註8)。



この口蹄疫問題は、2011年の経営破綻した安愚楽牧場の問題と絡んでいたという裏事情があった。
株式会社安愚楽牧場
栃木県那須塩原市に本社をおいていた和牛預託商法に関する畜産会社。現在は破産。
「繁殖母牛に出資すれば毎年生まれる子牛の売却代金で多額のリターンが望める」という触れ込みで、出資者から金を集めるオーナー制度の最大手。栃木県、北海道、宮崎県などで38ヶ所の直営牧場を運営し、黒毛和牛をはじめとする肉牛13万3,386頭(預託農家346戸分を含む)を飼育していた。
##飼育頭数=13万3386頭(2011年(平成23年)10月15日時点)
##負債総額=4,330億8,300万円(2011年(平成23年)8月9日民事再生法適用申立時点)
##黒毛和牛委託オーナー被害者数=7万3,356人
##黒毛和牛委託オーナー被害総額=4,207億6,700万円


要するに投資目的の牧場である。
電通を代理店として黒毛和牛委託オーナー制度の広告を積極的に展開していた。
民主党の海江田万里は衆議院議員に当選する平成5年までに、複数の雑誌、書籍などで紹介し投資を推奨していた。弁護団公式ホームページによると海江田はかつて投資を強く推奨し、リスクがないことを強調していたという。



民主党議員だけではない。自民党の衆議院議員にも深い関係のある者がいた。
栃木県出身の西川公也議員(現在は議院ではなくて内閣官房参与)。
第2次安倍改造内閣、第3次安倍内閣では農林水産大臣(2014年9月3日-2015年2月23日)に就任していた。
2017年10月の総選挙で落選するも、11月に内閣官房参与(首相相談役の非常勤国家公務員)に任命されている。農業政策全般についての助言がその任務だとか。
口蹄疫発生(2010年)や安愚楽牧場破綻(2011年)の起こった時もちょうど落選して議員を離れていた時期であった(2009-2012年)。
ただそれ以前から西川議員は安愚楽牧場から献金を受けており、また西川議員の秘書を務めていた長男は安愚楽牧場の顧問に就任していた。

上に転載した経過では、宮崎の水牛チーズ農場に道休誠一郎民主党議員の口利きで口蹄疫が発生している韓国京畿道州抱河市西域からの研修生がやってきて、地元では口蹄疫の感染源はその韓国研修生であると見られていたと記されているが、他にも安愚楽牧場が輸入した水牛が感染していた(輸入時に発症はしていなかった)、感染源は輸入水牛であるという説もある。

安愚楽牧場の宮崎県にあった直営牧場。
##小林牧場 - 宮崎県小林市大字細野5740-520
##児湯 - 宮崎県児湯郡川南町・高鍋町・新富町・木城町と西都市にまたがり、13箇所の牧場を有する。

安愚楽牧場は複数の町にまたがって複数の牧場を所有していた。また個人の畜産農家に預ける預託農家制、これが被害が広がった背景の1つである。
安愚楽牧場の場合、全国の直営牧場で約7万頭、全国の預託農家で約7万頭飼育していたようだ。(数的には北海道が多かった)
預託農家は企業と契約を結び、家畜を預かって飼料代と給料をもらうシステム。

7例目の発症とされた川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が実は最初の発症であった。
2月くらいから異変があり、3月に口蹄疫の疑いが濃厚となる。
しかしそのことを安愚楽牧場は隠蔽したまま水牛を移動させたりしていた。

2010年(平成22年)4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性にも言及している。

これについて地元紙は、
『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年(平成22年)4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』
『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』
『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西都市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』
『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日〜7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』
『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』
などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。



詐欺まがいの投資を斡旋し、実際は自転車操業に陥っていた挙句、口蹄疫まで発症させた安愚楽牧場に、自民党と民主党の議員が関わっていたとくれば都合が悪い。さらには公明党も関係しているという説もある。
自民党と民主党の議員両方が関わっているということは加計学園問題を彷彿させる。








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by yumimi61 | 2018-02-16 15:28