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第二次世界大戦前後のロスチャイルド・ロンドン家当主、第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターはソ連のスパイと疑われたそうだが、実際にスパイとして逮捕された人物を紹介しようと思う。

Klaus Emil Julius Fuchs(クラウス・エミール・ユリウス・フックス )
1911年生まれ、1988年76歳没。
ドイツ生まれの理論物理学者。

プロテスタントルター派の神学者の父の下に生まれた。
大学時代から政治活動に身を投じドイツ社会民主党の活動家となり、1932年にはドイツ共産党に入党した。
明らかに反カトリック派である。
ナチス政権が誕生した1933年にフランスを経由してイギリスに渡った。
ユダヤ人ではないので迫害されたということではなさそうなので、親カトリックとなったドイツが嫌になったか、便乗移住といったところか。イギリスで博士号取得。
第二次世界大戦勃発後の1940年6月、敵国ドイツの国民として拘束されマン島の収容所へ、さらにケベック州の収容所に移されたが、マックス・ボルンのとりなしで翌年には釈放されイギリス軍の原爆計画に加わり、1942年にはイギリス国民となった。
(マックス・ボルンはユダヤ人でドイツ出身。1933年にイギリスに移住。イギリスの大学でフックスの師であった)

独ソ戦の勃発後、彼はソビエト連邦もイギリスの秘密の軍事研究の内容を知るべきだと考えソ連側との接触を開始した。1941年8月にはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報部)のロンドン支部で活動していたドイツ出身のエージェントと接触し、「rest」のコードネームで呼ばれるようになった。

フックスはドイツ国籍のままイギリスに滞在していたため戦争勃発後の1940年にイギリスで収容所に送られるも、ドイツ出身の師のとりなしで1941年(30歳)に釈放され、その後はイギリス軍の原爆計画に加わり、独ソ戦勃発後にソ連との接触を開始したと書かれている。
しかしイギリスは1941年当時原爆には否定的だったのだ。
彼がソ連に情報を流したとするならば、「原爆は不可能である」か「原爆は不可能だと判断されている」という情報である。
1941年の終わり、真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が勃発。アメリカとイギリスは協力体制に入った。
アメリカのマンハッタン計画は1942年にスタートし、1943年8月19日にケベック協定が結ばれた。

この時に原爆計画に加わっていた科学者であるスパイが探るのは原爆開発の進捗状況であろう。
ケベック協定を結んだのは良いが、不可能なはずだった原爆開発の進捗状況はいったいどうなってるのだろうか、まずそうした疑問が生じるはずだ。
もしもイギリスで原爆開発が相当に進んでいたとするならば、科学者でありスパイであるフックスがイギリスを離れるはずがない。
でも彼はアメリカに渡った。
それはイギリスにおいて開発が進んでいなかったことの証になる。
フックスがソ連のスパイならば、マンハッタン計画の地であるアメリカに渡って原爆実現性の可否を確かめると思う。
フックスがイギリスのスパイだったしても、マンハッタン計画の地であるアメリカに渡って原爆実現性の可否を確かめると思う。

1943年末にはアメリカ合衆国に渡りコロンビア大学に、後にロスアラモス国立研究所に勤務し、理論物理学者として、原子爆弾および水素爆弾の製造に不可欠な臨界計算に多大な貢献をしていた。

スパイと疑われないためには研究に疑惑の目を向けるよりも貢献しているふうに見せたほうが良いに決まっている。

フックスは第二次世界大戦後イギリスへ戻り、米国・英国・カナダの政府高官らの間で核開発など軍事上の機密技術を交換するための合同政策委員会 (Combined Policy Committee) にも出席していたが、この間もドナルド・マクリーン(「ケンブリッジ5人組」の一人)やアレクサンドル・フェクリソフなどの情報員と接触して原爆の、後には水爆の製造理論などの情報を流し続けた。こうした情報なくして、ソ連が1940年代後半に急速に核兵器の開発および配備を進めることは困難であった。

第二次世界大戦後はイギリスはアメリカから核開発へのアクセスを一切遮断されたはずだ。少なくとも表向きはそういうことになっている。
またアメリカは共産主義者を大々的に締め出したように情報管理には非常に神経質になっていた。
ドイツ出身の共産党員でイギリスから送り込まれた科学者であるフックスが抜いた情報でソ連が核実験の成功に漕ぎ着けるならば、科学者を送りこんだイギリスがすぐに成功していなければおかしいし、フランスにだってそのチャンスがあるはず。
しかし自国の科学者をアメリカのマンハッタン計画に送りこんだイギリスはアメリカからは7年、ソ連からも3年も遅れての成功発表だった。
マンハッタン計画は一から計画をスタートさせて僅か3年で実戦に使用されたのだ。
その成功を思えば、幾らなんでもイギリスのこのタイムラグは信じ難い。


1949年に核実験の成功を発表したソ連。
アメリカの仲間だったイギリスやフランスが成功していないのに、アメリカが裏切ったソ連が成功したというのは如何せん都合が悪い。
本当は「成功なんかするわけないだろう!」と言いたいが、3年で原爆投下を成功させた手前まさかそんなことは言えない。
だけどだけどイギリスやフランスが先を越されたのはやっぱり格好がつかない。
これはもうスパイがソ連に原爆の情報を漏らしたと言うしかない。(ところでイギリスはアメリカにスパイを送りこみ原爆の情報を得なかったんですか?)

ソ連の暗号を解読する米英共同研究・ヴェノナ計画の結果、フックスの関与が明らかになった。MI5の捜査を受けたフックスは尋問の後、1950年1月にスパイであるとの告白を始めた。

フックスはイギリスおよびアメリカの核兵器関連の機密情報をソ連に漏らした軍事スパイとして告発され、1950年3月1日、フックスはわずか90分の裁判で最高刑の懲役40年の判決を受けた。同年12月、フックスは英国の国籍を剥奪される。フックスが自白をする気になったのは、死刑を逃れるためだったという意見がある一方、当のフックスは、自白をした以上は釈放されて、また研究生活に戻れるという程度にしか考えていなかった節が見られるともいう


1959年6月23日に釈放されたフックスは、東ドイツのドレスデンに移住する。そこでの講義で、フックスは中華人民共和国の研究者に核技術を伝え、その情報を元に中華人民共和国は5年後に核実験を行ったとされている。

その後も東ドイツでフックスは科学者としての活動を続け、多大な功績を残している。レオポルディナ科学アカデミーのメンバーに選ばれているほか、ドイツ社会主義統一党中央委員会のメンバーにも選ばれ、引退する1979年までロッセンドルフの核研究所の副所長を勤めた。カール・マルクス勲章も受賞している。1988年1月28日にドレスデンで死去。


こうなるとフックスは何気に核実験成功の正当性を宣伝する広報マンのようになっている。
核実験や原爆が嘘でないようにフックスが振る舞えば、アメリカと日本の立場は守られるし、核実験に成功したと発表したソ連を裏切ることにもならない。
核開発が進んでウランが売れれば鉱山を所有しウランを生産する国や企業も儲かる。フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ、イギリス(南アフリカ、オーストラリア)など。
さらにソ連やアジアでも鉱山開発や需要が広がる。



上記のフックスはソ連のスパイ容疑でイギリスで逮捕された人物だが、次の夫妻はソ連スパイ容疑でアメリカで逮捕された人物。2人は電気椅子で死刑になった。

Julius and Ethel Rosenberg(ローゼンバーグ夫妻)
(夫)Julius Rosenberg(ジュリアス・ローゼンバーグ)1918年生まれ
(妻)Ethel Greenglass Rosenberg(エセル・グリーングラス=ローゼンバーグ )1915年生まれ

2人ともユダヤ人移民家庭に生まれた。ニューヨーク生まれのニューヨーク育ちである。
妻の両親はロシアとオーストリアのユダヤ系移民だった。
夫はニューヨーク市立大学シティカレッジを1939年21歳の時に卒業しており、電気工学の学位を取得した。
妻は海運会社で秘書の仕事をしていた。
2人は1939年に結婚した(夫21歳、妻24歳)。
終戦時1945年でも夫27歳、妻は30歳。
1943年と1947年に生まれた息子がいた。
彼らは共産主義者であった。

容疑は、妻エセルの弟(David Greenglass デービッド・グリーングラス;1922年生まれ)が第二次世界大戦中にロスアラモスの原爆工場に勤務しており、その弟から原爆製造などの機密情報を受け取ってソ連に流したというもの。
弟も当然ニューヨーク生まれ。ブルックリン工科大学に進学したが中途退学した。
20歳の時に結婚している(妻18歳)。彼も共産主義者であった。
終戦1945年でも23歳と21歳という若い夫婦であり、幼子がいた。

ローゼンバーグ夫もグリーングラスもアメリカ軍関係の工場で働いていた。
ソ連のスパイだったのはローゼンバーグ夫妻のほうで、諜報活動の対象は原爆に限っていたわけではないが、妻の弟が原爆工場で働いていると知ってスパイに誘い込んだり、情報をもらったりしたということらしい。


逮捕当時、公式に「証拠」とされるものはグリーングラスの自白のみだった。ローゼンバーグ夫妻は裁判で無実を主張したが、1951年4月5日に死刑判決を受けた。夫妻に同情した支援者によって、西側諸国を中心とした助命運動が行われた。ローゼンバーグ夫妻の冤罪を訴えた著名人には、サルトル、コクトー、アインシュタイン、ロバート・オッペンハイマー、ハロルド・ユーリー、ネルソン・オルグレン、ブレヒト、ダシール・ハメット、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラ、ピカソ、フリッツ・ラング、ピウス12世などがいた。
アメリカ政府は、この死刑判決が重すぎるとするガーディアン(英国)など、世界のメディアによって、厳しく批判された。

司法側からは「供述すれば死刑にはしない」との取引誘導もあったが、ローゼンバーグ夫妻は供述を拒否し続け、最終的に死刑が執行された。なお、司法長官室と刑務所間のホットラインが死刑執行まで繋がっており、この状況が刻々と報道されて全世界が注目し、興奮に沸いたが、ローゼンバーグ夫妻は1953年6月19日夜、ニューヨーク州シンシン刑務所にて同じ電気椅子にて、最初に夫ジュリアスが午後7時6分に、そして次に妻エセルが午後7時16分に、それぞれ処刑された。建国後初のスパイ容疑による民間人の処刑であった。

長年の間多くの研究者や文化人、マス・メディアの間では、この事件そのものが「でっち上げである」とされ続けていた。しかし、冷戦崩壊後の1995年に「ベノナ計画」についての機密が解除されたことにより、裁判では明らかにされなかった証拠も明らかになり、夫婦共にソ連のスパイであったことが判明している。だが、世界のメディアや文化人が主張したのは冤罪ということだけではなく、スパイで死刑は重すぎるという点や、マッカーシズムの影響を受け、罪が本来妥当な刑罰よりも重くなったのではないかという批判も含んでいた。また、容疑者には黙秘権もあり、自己に不利益な供述を強要されない、疑わしきは罰せずなどの刑事弁護の基本概念も存在する。しかし、政府側に(防諜上の問題があって公的に提示できなかったとはいえ)明確な証拠があり、何よりも彼らの本来の所属となるソ連ではスパイ行為は(単なる密告だけで)拷問の上に処刑されるのが普通で、相互主義的な観点で言えばもっと過酷な扱い(自白剤の投与や拷問など)があってもおかしくなかったと指摘する向きもある。

妻エセルについては弟夫婦をソビエトのスパイ組織に夫と共に勧誘している記述が存在するも、国家機密をソ連に手渡す行動を明確に示唆する記載はなく(夫の行為を知っていたのは明らか)、死刑となった罪状そのものには関与していなかった可能性も残っている。



ローゼンバーク夫妻も妻の弟のグリーングラスも若い。
しかも大学を出て学位を取得し研究職に就いていたというわけではない。
軍関係の工場で働いていたわけだが、原爆情報を漏らしたというグリーングラスは単なる若い作業員だったはずだ。
その若さと経歴では工場の技術者や監督者として働くことも難しいと思う。
要するに原爆製造に繋がるような詳細な情報を抜ける立場にない。
よっぽど精通していて探る気がなければ、彼が工場で何をし、周囲の人間が何をしているか、それくらいしか分からないはず。
例えば、「原爆なんか作ってないよ、本当は飛行機を作っているんだ」といった情報ならば原爆製造に繋がらなくても大した情報になるが、そうでなければ情報の価値はそれほどないと思われる。
要するに見せしめと宣伝の要素が強い逮捕と処刑ではなかったろうか。
情報内容なんか関係なくてスパイ行為そのものが死刑に値するというようなことも書かれているが、戦後に民主主義国家の司法がそこまで行うことはやはり冷静ではない。

グリーングラスを通してジュリアスがソ連に伝えた情報の質については、より中枢に近い立場にいたフックスと比較するとかなり劣ったものであり、他にも複数いたエージェントの中では際だったものではなかった。







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by yumimi61 | 2018-03-31 00:17
第二次世界大戦前後のロスチャイルド・ロンドン家当主、第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターはソ連のスパイと疑われたそうだが、実際にスパイとして逮捕された人物を紹介しようと思う。

Klaus Emil Julius Fuchs(クラウス・エミール・ユリウス・フックス )
1911年生まれ、1988年76歳没。
ドイツ生まれの理論物理学者。

プロテスタントルター派の神学者の父の下に生まれた。
大学時代から政治活動に身を投じドイツ社会民主党の活動家となり、1932年にはドイツ共産党に入党した。
明らかに反カトリック派である。
ナチス政権が誕生した1933年にフランスを経由してイギリスに渡った。
ユダヤ人ではないので迫害されたということではなさそうなので、親カトリックとなったドイツが嫌になったか、便乗移住といったところか。イギリスで博士号取得。
第二次世界大戦勃発後の1940年6月、敵国ドイツの国民として拘束されマン島の収容所へ、さらにケベック州の収容所に移されたが、マックス・ボルンのとりなしで翌年には釈放されイギリス軍の原爆計画に加わり、1942年にはイギリス国民となった。
(マックス・ボルンはユダヤ人でドイツ出身。1933年にイギリスに移住。イギリスの大学でフックスの師であった)

独ソ戦の勃発後、彼はソビエト連邦もイギリスの秘密の軍事研究の内容を知るべきだと考えソ連側との接触を開始した。1941年8月にはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報部)のロンドン支部で活動していたドイツ出身のエージェントと接触し、「rest」のコードネームで呼ばれるようになった。

フックスはドイツ国籍のままイギリスに滞在していたため戦争勃発後の1940年にイギリスで収容所に送られるも、ドイツ出身の師のとりなしで1941年(30歳)に釈放され、その後はイギリス軍の原爆計画に加わり、独ソ戦勃発後にソ連との接触を開始したと書かれている。
しかしイギリスは1941年当時原爆には否定的だったのだ。
彼がソ連に情報を流したとするならば、「原爆は不可能である」か「原爆は不可能だと判断されている」という情報である。
1941年の終わり、真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が勃発。アメリカとイギリスは協力体制に入った。
アメリカのマンハッタン計画は1942年にスタートし、1943年8月19日にケベック協定が結ばれた。

この時に科学者であるスパイが探るのは原爆開発の進捗状況であろう。
ケベック協定を結んだのは良いが、不可能なはずだった原爆開発の進捗状況はいったいどうなってるのだろうか、まずそうした疑問が生じるはずだ。
もしもイギリスで原爆開発が相当に進んでいたとするならば、スパイであるフックスがイギリスを離れるはずがない。
でも彼はアメリカに渡った。
それはイギリスにおいて開発が進んでいなかったことの証になる。
フックスがソ連のスパイならば、マンハッタン計画の地であるアメリカに渡って原爆実現性の可否を確かめると思う。
フックスがイギリスのスパイだったしても、マンハッタン計画の地であるアメリカに渡って原爆実現性の可否を確かめると思う。

1943年末にはアメリカ合衆国に渡りコロンビア大学に、後にロスアラモス国立研究所に勤務し、理論物理学者として、原子爆弾および水素爆弾の製造に不可欠な臨界計算に多大な貢献をしていた。

スパイと疑われないためには研究に疑惑の目を向けるよりも貢献してるうふうに見せたほうが良いに決まっている。

フックスは第二次世界大戦後イギリスへ戻り、米国・英国・カナダの政府高官らの間で核開発など軍事上の機密技術を交換するための合同政策委員会 (Combined Policy Committee) にも出席していたが、この間もドナルド・マクリーン(「ケンブリッジ5人組」の一人)やアレクサンドル・フェクリソフなどの情報員と接触して原爆の、後には水爆の製造理論などの情報を流し続けた。こうした情報なくして、ソ連が1940年代後半に急速に核兵器の開発および配備を進めることは困難であった。

第二次世界大戦後はイギリスはアメリカから核開発へのアクセスを一切遮断されたはずだ。少なくとも表向きはそういうことになっている。
またアメリカは共産主義者を大々的に締め出したように情報管理には非常に神経質になっていた。
ドイツ出身の共産党員でイギリスから送り込まれた科学者であるフックスが抜いた情報でソ連が核実験の成功に漕ぎ着けるならば、科学者を送りこんだイギリスがすぐに成功していなければおかしいし、フランスにだってそのチャンスがあるはず。
しかし自国の科学者をアメリカのマンハッタン計画に送りこんだイギリスはアメリカからは7年、ソ連からも3年も遅れての成功発表だった。
マンハッタン計画は一から計画をスタートさせて僅か3年で実戦にまで使用されたのだ。
その成功を思えば、幾らなんでもイギリスのこのタイムラグは信じ難い。


1949年に核実験の成功を発表したソ連。
アメリカの仲間だったイギリスやフランスが成功していないのに、アメリカが裏切ったソ連が成功したというのは如何せん都合が悪い。
本当は「成功なんかするわけないだろう!」と言いたいが、3年で原爆を投下を成功させた手前まさかそんなことは言えない。
だけどだけどイギリスやフランスが先を越されたのはやっぱり格好がつかない。
これはもうスパイがソ連に原爆の情報を漏らしたと言うしかない。(ところでイギリスはアメリカにスパイを送りこみ原爆の情報を得なかったんですか?)

ソ連の暗号を解読する米英共同研究・ヴェノナ計画の結果、フックスの関与が明らかになった。MI5の捜査を受けたフックスは尋問の後、1950年1月にスパイであるとの告白を始めた。

フックスはイギリスおよびアメリカの核兵器関連の機密情報をソ連に漏らした軍事スパイとして告発され、1950年3月1日、フックスはわずか90分の裁判で最高刑の懲役40年の判決を受けた。同年12月、フックスは英国の国籍を剥奪される。フックスが自白をする気になったのは、死刑を逃れるためだったという意見がある一方、当のフックスは、自白をした以上は釈放されて、また研究生活に戻れるという程度にしか考えていなかった節が見られるともいう


1959年6月23日に釈放されたフックスは、東ドイツのドレスデンに移住する。そこでの講義で、フックスは中華人民共和国の研究者に核技術を伝え、その情報を元に中華人民共和国は5年後に核実験を行ったとされている。

その後も東ドイツでフックスは科学者としての活動を続け、多大な功績を残している。レオポルディナ科学アカデミーのメンバーに選ばれているほか、ドイツ社会主義統一党中央委員会のメンバーにも選ばれ、引退する1979年までロッセンドルフの核研究所の副所長を勤めた。カール・マルクス勲章も受賞している。1988年1月28日にドレスデンで死去。


こうなるとフックスは何気に核実験成功の正当性を宣伝する広報マンのようになっている。
核実験や原爆が嘘でないようにフックスが振る舞えば、アメリカと日本の立場は守られるし、核実験に成功したと発表したソ連を裏切ることにもならない。
核開発が進んでウランが売れれば鉱山を所有しウランを生産する国や企業も儲かる。フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ、イギリス(南アフリカ、オーストラリア)など。
さらにソ連やアジアでも鉱山開発や需要が広がる。







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by yumimi61 | 2018-03-31 00:17
前記事に、人工放射性元素の一番最初の発見者、原爆には重水が不可欠であるという理論提唱者、ドイツが重水を仕入れていたという情報入手者、これらは全てフランスのマリ・キュリー長女の夫Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)である、と書いたが実は彼は原爆に繋がるもう1つ重要な報告をしている。

1939年パリのコレージュ・ド・フランスの科学者のグループ、フレデリック・ジョリオ= キュリー、ハンス・フォン・ハルバン、レフ・コワルスキー、フランシス・ペランはウランの原子核で発生する核分裂を発表し、2つか3つの中性子が必要であることを示した。
この重要な発見は自然と維持される連鎖反応が可能であると言うことを示していた。これは即座に多数の科学者に、非常に強力な爆弾「原子爆弾」が理論的に作成可能であることを想像させた。しかし、ほとんどの科学者はその様な原理的な爆弾は不可能であると考えていた。
(⇒赤字部分参照)


1938年、化学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させていたら副産物としてバリウムが発見された。
その現象を説明出来なかったのである人物に手紙を書いて送った。
 ↓
ある人物とはリーゼ・マイトナー(オーストリア)という物理学者。女性である。マリ・キュリーより11歳年下。放射線や核の研究をしていたがこの方は長生きしており89歳没。
手紙が来た時にそこにたまたま居合わせたのがオットー・フリッシュ(オーストリア)。マイトナーの甥で物理学者。
手紙をもらったマイトナーがそれは「中性子による核分裂」で説明が付くと回答。
 ↓
1939年1月、回答を受けたオットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの核分裂についてドイツで論文発表。
同月、オットー・フリッシュの上司であるニールス・ボア(デンマーク)がアメリカで開催された物理学会においても「核分裂」を発表し、物理学会は大興奮、以後核分裂に関する論文が急増していく。
翌2月には2人の論文がイギリスのネイチャー誌にも掲載された。
数学者スタニスワフ・ウラム(ポーランド)は核分裂が連鎖反応を引き起こし得ることを数学的に計算してみせた。
 ↓
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、戦争勃発。
同じ日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235が分裂しやすい)」論文を発表。
それを言い換えれば、「ウランは核分裂などしないではないか」という声があったということに他ならない。
ウランは何でもかんでも分裂するわけではなく、分裂しやすい同位体があるとして核分裂連鎖反応、引いては原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。(希少ウランしか分裂しないとなれば誰もが再現できずとも筋は通る。しかしその理論は産業的には首を絞めることになった)
 ↓
1939年、パリのチームがウラン原子核の分裂は絶え間なく多くの中性子を衝突させなくても、2つ3つの中性子があれば分裂すると発表。
それはつまり分裂時に放出される中性子だけで連鎖反応が可能であるという報告である。
但し連鎖反応を維持するためには必要最低限のウラン量があり(臨界量)、また自然に放出された中性子は高速なので減速材が必要であると主張した。



当時は多くの科学者が実現不可能と否定的見解を持っていたが、それでも結局フランスチームの理論をベースにして原爆は作られていくことになる。

だがマンハッタン計画はアメリカの計画であり、後にイギリスとカナダがアメリカと協定を結び、両国の科学者もアメリカに渡って計画に加わった。
フランス科学者の理論をベースにして開発が進んでいるのに、そこにフランスは含まれていないのである。無茶というか無駄というか何というか。
アメリカ政府公認のマンハッタン計画がスタートする前、あるいはケベック協定が結ばれる前に独自にアメリカに渡った場合はよいが、その後にアメリカのマンハッタン計画に参加する科学者は、アメリカかイギリスかカナダの市民権が必要だった。
ユダヤ人科学者や東欧の科学者が国を移動することにはそう抵抗がないかもしれないが、フランスの科学者は若干意識が違う。
特にフランスはキュリー夫妻の放射線研究の地である。ある意味、聖地である。そのプライドみたいなものもあるだろう。
ましてやマリ・キュリー長女夫妻がフランスを捨ててイギリスやアメリカに行くことなど出来るわけがない。


アメリカは核開発への参加をしぶったイギリスに対する疑心暗鬼の念を捨てられずケベック協定を結ぶに至るが、実はそのケベック協定にも大きな危機があった。
1944年、イギリスがハンス・フォン・ハルバンとの間で秘密協定を結んでいることをアメリカ合衆国に明らかにした時である。この秘密協定は、フレデリック・ジョリオット=キュリーとフランス大学のチームによりまとめられた原子炉に関連する多数の特許を無償で使用する代わり核関連の情報をフランスとの間で共有すると言う内容であった。
これを発見し、アメリカ合衆国はこれはケベック協定の内容、具体的には、第三者との情報の共有に関する章、に反すると反対した。チャーチルの主張により、イギリスはアメリカの要求を満たすようにフランスとの協定を破棄することにした。

(ハンス・フォン・ハルバンはパリチームの科学者の1人である)

しかしながら、フランスの参加していないマンハッタン計画に独占的にウランを供給したのは、マリ・キュリーが見つけたラジウムの生産競争でカナダに負けたロスチャイルド・パリ家系のフランス企業である。
フランスにもそれなりにメリットがあったことになる。
上手くバランスが取れているというか何というか。


フランスの科学者で唯一アメリカのマンハッタン計画に参加した男がいた。
Bertrand Goldschmidt(ベルトラン・ゴールドシュミット)

ゴールドシュミットという姓はドイツ出身の著名な金融一族と同じであるが親戚には数えられてはいない。
ベルトラン・ゴールドシュミットは1912年生まれ。
父親はベルギーのユダヤ人で、母親がフランス人で、パリで誕生したフランス人である。
1933年にマリ・キュリーによってラジウム研究所に採用された。戦時中の1940年(28歳の時)に博士号を取得している。

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し勃発した戦争。
1940年5月にドイツはオランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻したため、フランスとイギリスは主力の軍をそちらに進出させた。
フランスの防衛線が手薄になったところでドイツはフランスにも侵攻。6月にとうとうドイツ軍はパリに入った。
パリは無防備都市を宣言し(軍事力が存在していない地域であると宣言し、敵による軍事作戦時の損害を避ける目的で行われる)、内閣は総辞職し和平派が政府の主導権を握ってドイツに降伏した。ヴィシーに首都を置いたことからヴィシー政権と呼ばれた。
それに異を唱え、イギリスに亡命し、「自由フランス」を結成し、イギリスからフランス国民にドイツ抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼びかけたのがシャルル・ド・ゴール(前国防次官)。

ベルトラン・ゴールドシュミットは、1941年5月にアメリカに渡り、そこでシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍に加わった。
マンハッタン計画が始まる前のことである。
ベルトラン・ゴールドシュミットをアメリカに誘ったのは、1938年にノーベル物理学賞を受賞したエンリコ・フェルミ(イタリア)。
授賞式の足でアメリカに移住し、コロンビア大学を研究の場とした人物。
ベルトラン・ゴールドシュミットはプルトニウムの研究をしていたグレン・シーボーグ(アメリカ人)のチームに入った。
ウランの欠点を補いプルトニウム理論を確立したのはイギリスとスイスの科学者だが、それを実際に作って見せたのが(ウランからプルトニウムを抽出)グレン・シーボーグで1951年ノーベル化学賞も受賞している。
原子爆弾材料のプルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として開発されたのがシカゴ・パイル1号(Chicago Pile 1)。

1942年に発足したマンハッタン計画に組み込まれ、研究の場をシカゴ大学に移し本格的な研究がスタートしたのである。
1942年5月に原子炉の設計が開始され、同年11月にはシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド(Stagg Field)の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設が開始された。
1942年12月2日 8時30分より実験が始まり、同日15時25分(シカゴ時間)、科学者の一人ジョージ・ウェイル(George Weil)の操作により制御棒が引き抜かれ、原子炉は臨界に達した。この様子を見守っていた科学者のバーナード・フェルド(Bernard T. Feld)は「制御棒を引き抜くとルルルルルルルル…と音がして計器の針が振り切れてしまった」と回想している。


この成功をもとに長崎の原爆に使用されたというプルトニウムは作られていくことになる。
しかしベルトラン・ゴールドシュミットは爆弾が完成する最後の最後までマンハッタン計画のグレン・シーボーグ(アメリカ人)チームにいたわけではなく、1944年にはカナダに移って原子炉の研究している。こちらには他にもフランス人科学者がいた。
マンハッタン計画に最後まで携わってしまえば、戦後にフランスに戻った時にすぐに作ってみせる必要があるだろう。
「作り方がよく分からない」では格好がつかない。
ウラン資源で儲けるためには戦後にウランが商業利用される必要があるのだ。
マンハッタン計画から抜けたことは妥当だったのではないか。
第二次世界大戦中のベルトラン・ゴールドシュミットは20代後半から30代前半というポスドク(postdoc)くらいの若い研究者だったので途中で移動することに対しての不自然さもない。


マンハッタン計画に参加した唯一のフランス人科学者ベルトラン・ゴールドシュミットの妻はNaomi Rothschild(ナオミ・ロスチャイルド)だった。
Naomi(ナオミ)という名前は日本でも馴染みある名だが(私の妹もナオミ、奈の付くナオミ)、外国人のナオミが日本人の血を引くということではない。
外国人が用いているNaomiは「旧約聖書」のルツ記に登場する女性の名前で、ナオミとも発音しないらしい。
Naomi Rothschild(ナオミ・ロスチャイルド)は、ロスチャイルド・ロンドン家の当主・第3代ロスチャイルド男爵 (イギリスから授かった男爵)ヴィクターの又従妹にあたる。


ベルトラン・ゴールドシュミットらはカナダの最初の原子炉の開発に貢献し、終戦とともにカナダの研究を終えて、1946年にフランスに戻った。
彼はフランス原子力委員会創設者の1人であり、フランスの化学部門を1960年まで率いた。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が1947年にフランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功すると、1949年11月にその原子炉の使用済み燃料から数ミリグラムのプルトニウム抽出に成功したと発表。
1958年から1980年まで国際原子力機関(IAEA)理事会のフランス代表であった。
1979年スリーマイル島の事故後には国際原子力機関(IAEA)の議長となり、1986年ソ連のチェルノブイリ事故も経験するが、「事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」と発言したらしい。




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by yumimi61 | 2018-03-30 12:12
当初イギリス・アメリカの主な科学者は原爆開発について否定的見解を持っており、それを反映した両政府も乗り気ではなかった。
科学者らの意識を変えたのはプルトニウムという人工放射性元素生成(発見)の報告と、ドイツが重水を仕入れていたという事実であった。
人工放射性元素の一番最初の発見者、原爆には重水が不可欠であるという理論提唱者、ドイツが重水を仕入れていたという情報入手者、これらは全てフランスのマリ・キュリー長女の夫Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)である。
その後、オーストラリア出身でアメリカGE社が古巣の科学者マーク・オリファントのアメリカでの原爆売り込みによって、アメリカ大統領が政府レベルでの開発に了承したのが1941年10月。
アメリカ政府はイギリス政府を誘ったがそれでもなおイギリス政府の反応は鈍かった。
それから一月もしないうちに日本によるアメリカ奇襲攻撃(真珠湾攻撃)が行われ、やがてアメリカ政府とイギリス政府はとうとう原爆開発についても手を組むことになる。


原爆に欠かせない資源はウランである。ウランに新たな需要が生まれた。
当時一番ウランを供給できた鉱山はベルギー領コンゴにあった。
コンゴはもともとベルギー王の私領地だった。
ベルギーは1831年に反カトリックでプロテスタント国のオランダから独立した。
ベルギー王レオポルド1世はその時に即位したわけだが、彼はイギリスのヴィクトリア女王の母の弟である。
レオポルド1世はプロテスタント派の王であると公表されていたが、1865年に即位した息子2世はカトリック教徒であることを公表。1885年からは政権もカトリック党が担当するに至る。

マンハッタン計画へのウラン供給を担当したのは、ユニオン・ミニエール(2001年にユミコアに改称、フランス語でUmicoreと書きます)という鉱山会社。
この会社のルーツはベルギーとドイツ国境付近でナポレオンが開発した亜鉛鉱山にある。
その後、その鉱山にソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギー(ロスチャイルド系)の資本が入り会社組織化され、1906年にユニオン・ミニエールという社名になり、1968年まではベルギー王私領地であるコンゴの鉱山を中心に事業を行ってきた。
要するにマンハッタン計画を推進するアメリカにウランを供給していたのはイギリス王家にも繋がるカトリック・ロスチャイルド系企業だったということである。


アメリカ政府とイギリス政府は真珠湾攻撃後に戦争協力について確認したが、イギリス政府が核開発に対して最後の最後まで反応が鈍かったことやドイツの重水入手(原爆開発)問題もあり、アメリカは疑心暗鬼になった。
原爆には何か別の方法があるのではないか。イギリスがその情報を入手したり他に流したりすることはないか。
イギリスはアメリカとは別に独自に原爆を開発しているのではないか。
そんな不安が払しょくできず、1943年、アメリカとイギリスおよびイギリス連邦の1つでありアメリカと隣接しているカナダとの間でケベック協定が結ばれた。

ケベック協定(英: Quebec Agreement)
イギリスとカナダとアメリカ合衆国の公文書で、イギリスとアメリカ合衆国間で核開発の情報の秘密化を決めた文章である。この文章は1943年8月19日にカナダのケベック・シティーにおけるケベック会談を機会に、ウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトにより調印された。

ウィンストン・チャーチルが全く別のイギリス独自の原爆開発計画の準備を行なったと言う情報が入ってきたため、アメリカ合衆国とイギリスとカナダ間の核開発の協調が必要となり、そのための協定が必要であった。しかし、1943年7月、アメリカの政府は、イギリスの動機に対していくつかの誤解を払拭することができ、合意書が作成された。

調印後、イギリスは手元の資材を全てアメリカに送り、その見返りに大統領へ提出されたアメリカの進捗報告のコピーを受け取った。イギリスの核開発研究は戦争終了までマンハッタン計画と統合され、イギリスとカナダの研究者のチームはアメリカに移動した。



ケベック協定を結んだアメリカ・イギリスの2国は、1944年9月にイギリス王家にも繋がるカトリック・ロスチャイルド系企業のユニオン・ミニエール社とも契約を結んだ。
コンゴの鉱山はマンハッタン計画がスタートした時点ですでに一番ウランを供給出来ていたわけではなく、鉱山開発の費用を出すからウランをどんどん供給してくれという契約を結んだのだ。
カナダとのラジウム生産競争に負けてユニオン・ミニエールが1935年に閉山していたのを、トラスト(アメリカ・イギリス・カナダ)が必要経費をもつから再開させるというものであり、トラストがユニオン・ミニエールから鉱石を買うときの単価も決められていた。

1944年末、アメリカとイギリスはコンゴの支配者(管理者)であるベルギー政府と、以後10年間にわたりアメリカとイギリスだけにベルギー領コンゴのウラン鉱石を売却するという約束を交わした。1954年末までということになる。
1943年8月のケベック協定ですでに商業エネルギー利用ににも触れているが、当時はまだ原爆も成功しておらず世界的に宣伝もされていない。
従って一般的には商業利用なんてことがイメージ出来なかった上に、もし商業利用できるならばアメリカとイギリスにしか売れないなんて約束は却って損ではないかと思うのは当たり前な話。従って約束は旨みが薄いと思われていた。
(でも資源には限りがあるし、特に必要な物が希少ウランだったのだから、継続して使う気があれば囲いたいのは当たり前だけど)
九条(a) は商業エネルギー利用の開始から英米に対等な条件でベルギーの参加を認めるとしていた。しかし、他には何も国益を見出せなかった。国民に顔向けできないばかりか、ウランの産出そのものに対する国際世論の風当たりも強かったので、契約内容は特定秘密であった。このような条件をベルギーがなぜ飲んだのかはユニオン・ミニエールの都合以外に理由となるものが特に見当たらない。なお、九条(a) は戦後ドワイト・D・アイゼンハワーにより原子力平和利用が提唱されるきっかけとして十分考えられるところである。

1946年初頭にベルギーがウラン供給を国有化する法案を提出したので、契約当事者は狼狽した。ベルギー首相は議会を解散させて自動的廃案へもっていった。日本や西ドイツでの逆コースと足並みをそろえるように、ベルギー領コンゴのウラン事業は(ユニオン・ミニエール専務)エドガーの活躍もあって軌道に乗りだした。
(逆コースとは「民主化・非軍事化」の逆のこと。カトリック親和国で敗戦国の日本やドイツにおいて民主化・非軍事化が徹底されなかった)


1945年8月の原爆投下という大宣伝によってウラン鉱山開発と生産がいよいよ本格化していく。
戦後の原子力拡大期に開発されたウラン鉱山を保有する国は、アメリカ、カナダ、南アフリカ、オーストラリアである。

少し前に、スペインの鉱山から始まったリオ・ティント社というロスチャイルド系の資源鉱業会社を紹介した。
アルマデン鉱山とリオ・ティント鉱山というスペインの2つの大きな鉱山を所有していたのはカトリック国のスペイン王国だったが、ロスチャイルドのロンドン家やパリ家の資本が入り所有者がロスチャイルドに移った。
ロンドン家とパリ家両方の血を引き、医師であり、マリ・キュリーのラジウム研究所設立に資金援助したくアンリ・ロスチャイルド(パリ家)は鉱山管理者(ロスチャイルド代理人)の一家の娘と結婚しており、その意味においても関わりが深い。
そのリオ・ティント社も1950年代よりウラン採掘と生産に乗り出した。
リオ・ティント社は現在はイギリスのロンドンを本拠としており、世界最大級のウラン生産会社である。(日本法人の社長が日本とともにリオ・ティントは成長してきたと挨拶していましたね)
『ジェームズ・ボンド (James Bond)』 の著者イアン・フレミングの従兄はこの会社の役員であった。


開発すると言っても多額の資金がかかること、当てもなく開発するなんて賢くないし得策ではない。
ロスチャイルドのリオ・ティント社はイギリス政府に開発費用を出してもらい、イギリスにウランを供給するという計画を立てた。
ところがこれがなかなかスムーズには進まなかった。

思惑通りに進まなかった理由
①イギリスは戦後アメリカらからマンハッタン計画(原爆開発)や核開発へのアクセスを一切絶たれてしまった。
自国で一から原爆を検証し核開発をしていくとなれば遅れは避けようがない。

②ケベック協定と、その協定におけるカナダの立ち位置。
ケベック協定によってイギリスはコンゴからはウランを供給してもらえる約束を取り付けているので、ウランが全く手に入らないわけではない。
また協定の中で今後のウラン鉱山開発地は自国が所有している領地周辺という取り決めもあったが、資源大国カナダはそこに含まれていなかった。それはつまりカナダがイギリスの管轄なのかアメリカの管轄なのか明確にしなかったということである。
さらにカナダはケッベク協定の協議に参加していて協定を結んでいるが、こまごまとした具体的な取り決めや契約はアメリカとイギリス2国間で行われているので、その2国間の約束事を守る義務はない。
イギリスはリオ・ティント社などが中心に大規模にカナダの鉱山開発に乗り出したが、結局カナダ政府との折り合いが付かず、カナダは独自に開発生産を始め、カナダからの供給はアメリカ寄りになった。

③第二次世界大戦前後のロスチャイルド・ロンドン家の当主・第3代ロスチャイルド男爵 (イギリスから授かった男爵)ヴィクターが金融業や事業に精を出すことを好まなかった。 

「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたという。

第二次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体にあたっていた。その戦功で国王ジョージ6世よりジョージ・メダルを賜り、またアメリカ軍からもブロンズ・スター・メダルを授与された。首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出されている。

しばしば「ソ連のスパイ」という疑惑を受け、1986年12月にはマーガレット・サッチャー首相にその噂を否定する声明を出してもらっている。

ケンブリッジ大学の生物学者でもあり、受胎と精子の研究にあたった。それに関する著作もある。また初版本の蒐集を趣味としており、その多くをケンブリッジ大学に寄贈している。


家業(N・M・ロスチャイルド&サンズ)の事業に熱心でなかったために、そちらの主導権は分家筋のアンソニー・ロスチャイルドに握られた。
N・M・ロスチャイルド&サンズは個人営業であり、その経営権はロスチャイルド一族に限定されていた(だからこそロスチャイルド家と呼ばれてきたし、一族と血縁関係がなく本拠以外で活躍した関係者はロスチャイルド代理人と呼ばれてきた)。
ところが第二次世界大戦中にアンソニーが持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)を設立。1947年にはN・M・ロスチャイルド&サンズもその持株会社の子会社となった。ロスチャイルド・ロンドン家は法人化され株式会社となったが、そのスタイルでは競合するアメリカ企業には敵わなかった。
会社中心部にも外部者が入り込み、ロンドン家は次第に影が薄くなってしまった。

④イギリス政府も核開発には依然消極的だった。 
その理由としてはウラン鉱石の製錬技術の限界と、財政の限界。
戦後も費用対効果の観点で積極的に取り組むべきものではないという評価が主流だった。
イギリスでは1946年に原子力研究機構(AERE Atomic Energy Research Establishment) が設立された。これは研究所である。
原子力行政の管轄は供給省(Ministry of Supply)だった。
供給省の管轄であることが原子力政策が停滞させたのだと批判したのはチャーウェル卿(Frederick Alexander Lindemann/フレデリック・リンデマン)。
物理学者でイギリス空軍物理学研究所の所長でもあった人物。
第二次世界大戦中の科学政策をめぐって、ヘンリー・ティザードと激しく対立したことで有名。
ヘンリー・ティザートは化学者であり、イギリス空軍の科学研究ディレクターであり、イギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。
マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受け、MAUD委員会を組織したが、原爆に対しては否定派であった。
チャーウェル卿はチャーチル首相とは個人的に親しい間柄だったというが、大戦中のチャーチル首相は個人的な関係には流されなかったということになる。
1945年の終戦前に思いがけず選挙で大敗したチャーチル首相は、1951年に再び首相に返り咲いた。在任中の1953年にはノーベル文学賞を受賞。
その翌年1954年、イギリスでは原子力法によって原子力省(Department of Atomic Energy)と原子力公社(UK Atomic Energy Authority, UKAEA)が創設された。
原子力公社は政府の省庁からは独立した機関であり、ウランを調達するのは兵器の為ではなく電力の為であることを明確にしていたそうである。
リオ・ティント社は原子力省と原子力公社のどちらにもカナダの鉱山開発について働きかけたが、費用の問題とカナダの受け入れ問題もあって、イギリスやリオ・ティント社のカナダの鉱山開発は思うように進まなかった。
しかしリオ・ティント社はイギリスのかつての植民地であるオーストラリアと南アフリカで鉱山を開発しウラン生産に乗り出した。

ロスチャイルド系リオ・ティント(イギリス)の南アフリカとオーストラリア、カナダ政府などのカナダ、アメリカ勢力(元はロスチャイルド系だがアメリカで大きく発展した富豪家など)のアメリカ西部、これがウランの主要生産地となった。
カナダとアメリカの鉱山はアメリカという上客がいるが、リオ・ティント社は難しい要素を持つヨーロッパが主要な商圏であったので厳しい面もあった。




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by yumimi61 | 2018-03-29 14:09

春告げる 木蓮映える 白い家 縷々綿々と 続くが如し (由)


ユダヤ、カトリック、イングランド国教会、イギリス、フランス、ドイツ、、、
対立してきたはずのこれらが1600年代から次第に近づいていき、陰に日向に強大な力を発揮し出した。
それは彼らが世界進出を始めた後のことであり、ヨーロッパに留まらなかった。

対立者より同じ者が集まっているほうが良いように思うが、プラスとプラス、マイナスとマイナスが反発し、プラスとマイナスが引きつくように、同じものの集まりの中には反発をかなり内包している。
特段の努力も無く同じ種類が集まっているだけのことであるので、そこに結合力という力は生まれにくい。違うものが結びつくことのほうが遥かにエネルギーが必要なのだ。
「エネルギーが必要」ということを言い換えれば「大変なこと」。
大変なことは出来るならば避けたい。私達はみな心の何処かで苦労の無い楽園に暮らしたいと思っている。
そんな私達がその大変さを前向きに捉えることを学べるとしたら、それは異性との結びつきだろうと思う。
アダムとイブが異性だったことには理由があるはずだ。
でも異性と結びついても、女は女、男は男、それ自体が変わるわけではない。違うものの結びつきとはそういうことである。
結合力の強いものが結合力を離した時には大きなエネルギーを放出する。その大きなエネルギーは子供と捉えることが出来る。
(その意味で処女懐胎から始まる新約聖書をベースにしたキリスト教は最初から疑問符が付く)
神を信じる宗教が、旧約聖書という1つの聖典を基にしている宗教が、科学をそれなりに受容している宗教が、それらの上層部が、同性愛に没頭したり推奨したりすれば、自らの根幹を大きく揺るがしてしまう。
そこに表出しているのは欺瞞である。恥ずかしがらないことが楽園であり神の証とでも思っているのか、恥ずかしげも無く欺瞞を見せてしまうことになる。

世界には同じものが増え続けた。
ユダヤ教がユダヤ教のままキリスト教と結びついたのではなく、キリスト教に変わってしまったのである。
仏教が仏教のままキリスト教と結びついたのではなく、仏教からキリスト教に変わってしまったのだ。
苦労なく同種に括られる同じ種類に変わっただけの話である。
でも残念ながら同じ種の結びつきはかなりの反発を抱え込み、結合エネルギーをあまり持っていない。
1900年代になると、その弊害が生まれだす。
同種内にある反発が表立って目立ってきたり、結合エネルギーが生まれなかったり育たなかったり、結合エネルギーの美しき輝きが失われ出した。

ユダヤ、カトリック、イングランド国教会、イギリス、フランス、ドイツ、、、かつて対立し、その後近づき、やがて同化したこれらも、その弊害が噴出しだす。それは世界に蔓延した。



・原子力産業との関わりが深いながら、なぜか原子力発電に反対し、フランスが原子力に猛進する様を「聖母マリアの顔に唾を吐きかけるようなものだ」と語った。
これもジェームズ・ゴールドスミスのエピソードである。

ジェームズ・ゴールドスミスはユダヤ教でありカトリック教もであったそうだから、どのような意図で聖母マリアを持ちだしたかは良く分からない。
でもフランスの原子力黎明期に尽力したのはマリ・キュリー長女夫妻である。

「処女懐胎」を一般的に解釈されている「男性と一度も性交渉したことのない女性による妊娠」とするならば、聖母マリアからは結合エネルギーは生じないはずである。
生じるとしたら自分の身を裂いた時である。(←陽子1の水素を分裂させることに等しい)
でもそうではなくて、処女というのは、これまで人々が大変なことだからと避けてきた、例えば異人種間や異宗教間、通常は堕胎するようなケースで妊娠出産をした女性ということなのではないだろうか。


Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)は1900年生まれで、1926年にマリ・キュリー長女と結婚したフランス人である。
夫妻で1934年に人工放射性元素の生成(発見)に成功して1935年にノーベル化学賞を受賞した。
マリ・キュリーの両親は熱心なカトリック教徒であったが、それに対する反発心もあったのかマリは無神論者だったという。

マリ・キュリー長女と結婚したフレデリックは1934年にフランスの社会党に入党した。左派ということである。
ところが1936年以降はスペイン内戦(1936-1939年)に関して社会党と意見が合わなくなった。

スペイン(王国)はカトリック国であるが、時代が進むとともにやはり反乱や反発が増えてきた。
1923年9月12日、こうした状況を打開するためにバルセロナ総督であったプリモ・デ・リベーラは、軍部や教会を中心とする大土地所有者層の支持を得て、クーデターを成功させた。その後、内々にクーデターの承認を得ていた国王アルフォンソ13世より首相に任命され、軍事独裁政権(1923〜1930年)を樹立した。

しかし1929年に起こった世界大恐慌によって国家財政が乱れたことによって、再び反王政・反教会・反政権といった左派の活動が顕著となってくる。左右対立は次第に激化していく。
数年前に反乱や反発が勃発した時には権力(国王)側の武力によって押さえられてしまった。
そこで左派勢力は、ある決断をする。
1935年、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の大会にて、「味方ではない者は敵へ」から「敵ではない者は味方へ」の転換を図った。
これはつまり電荷を持たない中性子をどう扱うかというようなことである。
左派が負の電荷を持つグループと仮定すれば、中性子は負の電荷を持っていないので違うグループである。もっと大きく見れば電荷そのものを持っていないのだから電気業界にも属していない違うグループということになる。
ある意味、対立している右派よりも遠い存在である。
しかしともかく、左派でも穏健共和派、自由主義勢力、無政府主義者、労働者、農民、知識人、反権力な宗教組織といった諸勢力が結集することになった。
そして1936年2月の総選挙で左派が勝利し共和国政府(人民戦線内閣)が誕生した(1936-39)。これはクーデターによらず成立した世界初で唯一の社会主義政権だった。
当時カトリック親和国であった日本やドイツ(言い換えればカトリック)が恐れたのはまさにこれだったのだ。

1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で共産「インターナショナル」ニ対スル協定が提携された。
締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっており、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。 1937年にイタリア王国が原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定となり、1939年にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって多国間協定となった。

スペイン国内でもすぐにかつての独裁政権勢力が共和政権に対して反乱を起こした。
そして1936年7月~1939年3月までスペインは内戦が続いた。
  左派の反ファシズム政権(共和政権) vs 右派の反乱軍(ナショナリスト派)

左派を支援したのはソ連、欧米市民知識人らが数多く参加した義勇軍(国際旅団)。
右派のファシズム陣営を支援したのはドイツ、イタリア、ポルトガル。←カトリック側

戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。


民族独立派というのが右派の旧独裁勢力(国王やカトリック教会側)である。
左派はいろんな勢力を結合させた。それは一定の成果を上げた。しかしその結合が真の意味で大きな力を発揮するのは、皮肉なことであるが分裂した時のエネルギー放出なのだ。
そのエネルギーを受けた旧独裁勢力のリーダーだったフランシスコ・フランコは内戦に勝利した1939年から1975年までの36年間総統を務め独裁者でありつづけた。


フランスの社会党はインターナショナル(社会主義の国際組織、第二の時代)のフランス支部だった。1905年設立。
「フランス社会党」は通称であり、正式な名称は「労働インターナショナル・フランス支部」(この略称がSFIO)である。

第二インターナショナルは1889年に設立されたが、第一次世界大戦で雲行きが怪しくなった。
国際主義者として信望を集めヨーロッパの平和を熱望し第一次世界大戦に反対していたフランスのジャン・ジョレスが暗殺された。
その後、第二インターナショナルを導きうる唯一の政党はドイツ社会民主党だったが、これが戦争を支持し政府に協力する「城内平和」路線へと舵を切り、フランスやオーストリアの社会主義者もそれに倣った。
戦争を支持するのが多数派となり反戦主義者の少数派となって分裂し、第二インターナショナルは廃止された。

「フランス社会党」はその後も続いていたわけだが、大戦末期になると戦争協力に対する党内外からの批判が強くなり、またロシア革命による社会主義国家樹立も影響して1918年には反戦少数派の人物が書記長に選ばれた。

1919年には第三インターナショナル(コミンテルン)が設立された。
ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派ボリシェヴィキ(ロシア共産党)が中心となった。
(1924年レーニンが亡くなり、その後はスターリンが一国社会主義論を打ち出しコミンテルンの役割も変わっていった。スターリンと対立した者は粛清された。だが同じ組織なので外からは違いが見えにくい)

コミンテルンが設立された以降はフランスでもこれを支持する左派が拡大し、1920年にコミンテルンへの加盟を決議し、「フランス社会党」は「フランス共産党」に変わった。正式名は「共産主義インターナショナル・フランス支部」。
この時にコミンテルンへの加盟に反対した少数派が「フランス社会党」を維持した。いわば分裂である。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が1934年に入党したのは「フランス社会党」のほうである。
この党はスペイン内戦において、左派の反ファシズム政権(共和政権)の支援に付かなかった。それがフレデリックは不満だった。

(フレデリックは)1941年6月パリ大学に抵抗委員会がつくられるとこれに参加し、やがて国民戦線全国委員長に選ばれて地下活動を続けた。1942年5月に共産党に入党したが、1944年8月までは公表されなかった。

1945年にフランス原子力庁が設立された。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が長官となった。現在までの長官は彼を含めて2人しかいない。非常に閉鎖的な組織である。
フランスは今なお電力生産量の約8割を原子力が担っていると言い張っている。これは世界的にみても異様に高い割合である。誇りを捨てられないのか何なのか原子力への依存度が非常に高く手放せない国となっている。

1945年8月、アメリカによって日本に原爆が投下され、原子爆弾成功が世界に大々的に宣伝された。
しかしその時から、何かしら真実を握っていたソ連がアメリカと日本を中心として世界の脅威となり、反共産主義が吹き荒れた。
そのソ連が1949年に核実験の成功を発表。
原爆を嘘と言わずに、自国の成功を伝えた。
欧米にとっては一層深刻な状況となった。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)は戦前から核の研究者であり、且つインターナショナルな共産主義者なのだ。
彼は対ソ連戦争に使用される可能性が高い核兵器の研究や製造を拒否する意思を1950年4月のフランス共産主義大会で明確に示した。
これが問題視され、フランス原子力庁長官を更迭された。





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by yumimi61 | 2018-03-27 12:26
ともかくドイツが重水をすでに仕入れていたことが発覚したことで広げた波紋があった。
一部の科学者はこの時に気が付いたはずである。ドイツは減速材として重水に注目したのではないだろうと。
注目したのはエネルギーの大きさとしての水素である。


水素はこの地球上で一番質量が小さい(軽い)元素であるが、一番安定している元素とも言える。
原子番号が大きくなるほど、重く不安定な元素となる。
天然元素で一番重く不安定なのは原子番号92のウランである。
原子核(核子)の中に陽子と電子という組み合わせがいるわけではなく、陽子は陽子で集まり、その外側に電子が散らばり、原子を形作っている。
同じ大きさの所に92の陽子がぎゅうぎゅうに詰まっているのがウランで、1つの陽子しかないのが水素。2つの陽子がヘリウム。

その陽子たちはみな正(プラス)の電荷を持っている。
陽子と陽子はプラスとなるので反発し合い斥力が大きくなる。すなわち結合力が弱いということなのだ。
ウランは92、プルトニウムは94も陽子がある。
反発し合うもの同士が大勢一緒にいるのだから原子核の状態としては不安定である。

原子核(ウラン)=反発×92
原子核(プルトニウム)=反発×94
原子核(ヘリウム)=反発×2
原子核(水素)=孤立・安定


質量の小さな元素のほうが結合力が大きく、質量の大きな元素は結合力が小さい。
分裂の時に放たれるエネルギーは必要なくなった結合力である。
ウランはもともと結合力が少ないので、分裂しても放たれるエネルギーが少ない。
一方、陽子が1つしかない水素をもし分裂することが出来るならば、これは大きな結合エネルギーが放たれる。
しかしさすがに1つの陽子を分裂させることは不可能かもしれない。そうとなれば注目するのは重水素であったり、2つの陽子を持つヘリウムだったりするのではないか。


私はここでジェームズ・ゴールドスミスの次の逸話を思い出すのだった。
「私は、ユダヤ人に対するときはカトリックである。カトリックに対するときはユダヤ人である」と語った。

彼はユダヤ人を代表するようなユダヤ人である。
しかしながらカトリック教徒であると公言している人物でもある。

普通の人が考えがちなのは、「ユダヤ人に対する時はユダヤ人。カトリックに対する時にはカトリック」だと思う。
多数と違うことを言ったり行ったりすると「空気が読めない(KY)」と総非難されるのが日本社会である。KYが流行語になる国である。裏切り者と村八分的扱いを受けるかもしれない。「ぼっち」を恥だと思う社会である。不満も苦しみも悲しみも呑み込んで大人しく行儀よく一列に並ぶのが誇りの国である。
空気になれ主義、長いものには巻かれろ主義、協調性、絆、ともだち。
最近は国際社会も似たような印象を受けるけれども。
でも同じものが集まっている状態というのは中に反発を相当抱え込んでいて結合力は少ない。
違ったもののほうが実は引き合ってがっしりと結合する。
それは地球上のあらゆるものを形作る元素の特徴なのだ。
ジェームズ・ゴールドスミスの言葉の意図は分からないけれど、私は原子のことが思い浮かべる。
「ユダヤ人に対する時はカトリック、カトリックに対する時はユダヤ人」、この同化しなさは必要以上の反発を避けて自分を守るための術だったのかもしれないと思う。

しかしながらプラスマイナスの強い結合で繋がっていない状態で原子が存在しているという事こそが、私達人間に応用や変化の可能性を与えている。
その流動性は希望なのか失望なのか。



ウラン原子核が存在している場所で中性子が放出されると、ウラン原子核がそれを取りこみ分裂し、分裂時に2~3の中性子を放出。それを他のウラン原子核が取り込み、ねずみ講のように分裂連鎖反応が進む。
これが原爆や原発の原理である。
ウランと言っても何でも良いわけではない。核分裂連鎖反応を起こすのはウラン235。このウラン235は全ウラン中0.7%しか存在しないと言う。
一般的なものはウラン238。
簡単に精錬できず誰もが容易く手に入れられないものの発見は、学問的価値はあったとしても産業的価値は低い。
産業的価値を獲得していないものに対してノーベル賞を授与しだした頃からノーベル賞は変質したんだろうと思う。

最近日本で希少糖が静かなブームであることをご存知だろうか?
なぜ希少糖と名付けられたかと言えば、その総量が糖全体の1%にも満たない微量な糖であるから。種類としてはおよそ50種類程度あるらしい(希少糖は総称)。
「希少糖」は効果云々というよりも絶対量が少ないという事実に基づいた言葉である。
極端に少ないものに対しては「希少価値」というものが生まれやすいのもまた事実。
日本が希少糖を流行らせたいのには訳がある。
1994年、香川大学の何森健らによって、フルクトースをプシコースに変換する酵素、D-タガトース3-エピメラーゼ(DTE)が発見された。これにより希少糖を体系的に生産するシステム(イズモリング)が考案され、大量生産への道が拓かれた。

・2001年からは国際希少糖学会が置かれている。
・香川県では、希少糖産業の基盤形成を促進するため、希少糖の生産や試験研究を行う企業の施設・設備に対して、企業誘致助成制度を活用した手厚い支援(投下固定資産額の30%を助成)を行うこととしている。
・一般社団法人・希少糖普及協会は2017年、11(いい)月10(とう)日を「希少糖の日」に定めた。


フルクトースが希少ではない糖で、プシコースというのが希少糖の1種。希少でない糖を希少糖に変える方法を見つけたという。錬金術での一種ですね。
香川大学を中心に香川県を含む産学官連携での研究によって、希少糖の生産技術が確立され、大量生産できるようになったらしい。
大量生産できたら希少価値が失われてしまい、希少糖ではないと思うのだけれども・・・。まあそれを言ったら「お金(紙幣)」もそうなんだけど。
存在するだけで保有していた希少価値が失われたら、何か他の価値(付加価値)を見つけてそちらを大きくしなければならなくなる。
糖は健康的にも美容的にも目の敵にされやすいものなので付加価値は付けやすいかもしれない。
でもこの場合、希少価値と付加価値がごちゃまぜにされていて、目くらまし戦法のようである。


0.7%しか存在しないウラン235も糖風に言えば「希少ウラン」である。
その「希少ウラン」には核分裂連鎖反応を起こすことが出来るという付加価値も付いていた(付けられた)。
だがどう転んでもウラン238を235に変換することは出来ないので、大量生産への道は拓かれていない。0.7%は0.7%のままである。
それどころかその0.7%のウラン235だけを取り出すことも出来ていないのだ。
ウラン235とウラン238の違いは僅かな質量差のみ(ごく僅かな質量しか持たない中性子3つ分だけ)で化学的性質はまるで同じであるのだから難しい。


ウラン235の生成も精製(分離)も難しくてどうにもならなかった。。
そこで普通に存在するウラン238を用いる方法を考えた。これがプルトニウムに繋がった。

ウラン238(偶数)=陽子92(偶数)+中性子146(偶数)←中性子1
                ↓
ウラン239(奇数)=陽子92(偶数)+中性子147(奇数) 
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)※反ニュートリノが検出されたのは1956年
                ↓
ネプツニウム239(奇数)=陽子93(奇数)+中性子146(偶数)
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)
                ↓
プルトニウム239(奇数)=陽子94(偶数)+中性子145(奇数)→一部は分裂せずにプルトニウム240となる
                ↓
核分裂(新たな元素2つ、中性子2~3放出、結合エネルギー)



ウラン238が中性子を取りこむと、自然な反応によってプルトニウムが出来るというが、プルトニウムも分離できていないし、プルトニウムに留めておくことも出来ない。
ウラン235の生成や分離という一番手前のハードルはなくなったが、この自然反応を爆弾に利用するというのでは爆弾成功の難易度はさらに上がった感じである。
そのせいか何なのか、そのうち何故か中性子を減速させる減速材は必要ないという方向に転換された。
プルトニウムの場合は、高速中性子でも核分裂するのだという。その理由は十分に説明しきれていない。
分裂のメカニズムはウランとほぼ同じで、遅い中性子ほど核分裂を起こしやすいというのも同じ。だけど何か引き合うものがある中性子があるらしく、高速中性子でも十分にいけるらしい。
戦後はウラン原発にも重水は必要なくなり軽水となった。






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by yumimi61 | 2018-03-26 13:10
ドイツの科学者がウランの原子核に中性子を衝突させていたら、副産物としてバリウムが出来ていた。
今までここになかったはずのバリウムが出来ている。
それはつまり、ウランに何か変化が起きて、その変化によってバリウムに変わったということである。
この現象を「核分裂」と解釈し、その世紀の発見に物理学会は興奮した。
核(原爆)開発はこの発見からスタートした。

金属であろうと人間であろうと、空気であろうと水であろうと、地球上の全ての物質は原子核からなる。
 原子=核子(陽子・中性子)+電子

陽子は正(プラス)の電荷を持ち、中性子は電荷を持たない。電子は負(マイナス)の電荷を持つ。
普通の状態のときは、電子の数と陽子の数は等しい。

原子に外側から中性子を放出させ衝突させていたら原子核(核子)の核分裂が起きたと物理学会は喜んでいたが、中性子は電荷を持たない。
電荷を持たない中性的なものが電気業界(陽子と電子の例えです)に体当たりしても影響を与えない。
プラスでもマイナスでもない者は、プラスにもマイナスにも影響を与えることが出来ない。
粒子線であるベータ線やアルファ線、電子線の影響力が強いのは、電気業界に影響を及ぼす力を自らが沢山持っているからである。
プラスがマイナスに沢山働きかければ、マイナスがプラスに動いて行き、プラス支配が強くなる。
マイナスがプラスに沢山働きかければ、プラスがマイナスに動いて行き、マイナス支配は強くなる。
影響を与えるとはそういうことである。


物理学会も直に、この「中性子を衝突させて核分裂を導いた」という「外部からの攻撃による破壊」解釈の欠点に気付く。
そこで路線変更。衝突ではなくて原子核が中性子を取りこんだことにした。
ある数の陽子とある数の中性子でバランスが取れていたところに、余分な中性子が入りこんだから、「それまでの安定が崩れて分裂してしまうという内部崩壊的」解釈である。
三角関係の末の離婚を想像する人もいるかもしれないが、陽子と中性子はそれぞれ1つずつというわけではなく、陽子と中性子の数は最初から等しくもないので、夫婦に他人が入りこんだという例えは適さない。
こんな例えはどうだろうか。
1つの学校の女子生徒が陽子。教師が中性子。電子が男子生徒。
女子生徒と男子生徒の数は同じでバランスは取れていた。教師はそれらと同じ数である必要はなく、学校によって数は様々。
その学校に外部から教師が1名さらに加わった。それだけでこの学校は分裂してしまう?
中性子を取りこむと分裂するというのは、実はこれくらい根拠の薄い解釈である。


さらに話をややこしくしているのは自然と人工の違いと、言葉の違い。
自然現象として原子核は放射線を出して別の原子核に変化していくが、これは「核崩壊」と言う。
それを人工的に行えば「核分裂」である。
ただし自然と人工は明確に線引きできない。
いずれにしても陽子と中性子のバランスが崩れて起こると言われているが、人間に与えられた寿命があるように、学校に決められた就学期間があって次のステージに進学したり卒業したりするように、特別に(狭義的には)バランスが崩れなくても崩壊や分裂は起こるとも考えられる。


原子核が中性子を取りこむためには、原子核に在籍していないウロウロしている中性子が存在している必要がいる。
そのウロウロした中性子は核崩壊や核分裂の時の放出されたものである。
分裂時に放出される中性子は「高速」である。何故かと言えば、外部から無理やり引っ張り出されるのではなく、中から外に弾け出るということはそれ相応の運動エネルギーなり位置エネルギーを持っている(持たされている)から。
ここで物理学会には次なる問題が生じた。
そんなエネルギーを持った中性子を、何故に安定している原子核がわざわざ取り込む必要があるのだろうか?ということである。
この問題は難しい。
そこで若干話を摩り替え、エネルギーを持った高速の中性子を取りこむのは大変だけれども、低速の中性子ならば比較的簡単に取り込めるという見解に至った。


爆発力(大きなエネルギー)を獲得するために早急な核連鎖反応が必要な原子爆弾では、当てもなく悠長に原子核が中性子を取り込むのを待っているわけにはいかない。
また放出された中性子には寿命がある。中性子が原子核の外に単体で放出された場合には安定して存在することはできず、半減期はおよそ15分程度とされている。予め中性子を沢山作ってセットしておいたとしても15分で半分になってしまう。
自然の反応をスムーズに進めるために(原子核が放出された中性子を取りこみやすくするために)、人工的に低速化することが必要があると考えた。
高速中性子を減速させるのが減速材で、重水が理想的な減速材であるという理論を組み立てたのは、フランス・パリの研究チーム。
マリ・キュリーの長女の夫フレデリック・キュリーらのチームである。


減速材を検討する時に考慮したのは質量だった。
質量とは物体が含む物質の量。物体の動きにくさと言える。重い物ほど動きにくい。
中性子を減速させるには何か物質にぶつける必要がある。
例えば100ジュールの運動エネルギーを持っていたボールを壁にぶつけたとする。
壁にぶつかった瞬間、ボールが持っていた運動エネルギーは壁に移る。壁が100ジュールの弾性エネルギーを持てば、そのまま壁から物体を押し出すエネルギーとなる。こうしてボールは跳ね返る。
この時もしも壁が弱ければ、100ジュールの運動エネルギーを同じ100ジュールの弾性エネルギーには変えられない。
熱エネルギーとして受け取ってしまったり、壁が動いたり破壊されるための運動エネルギーに変わり、ボールは跳ね返らなくなる。
ボールは壁から再びエネルギーを貰うことが出来ないので、持っていたエネルギーが減ったり消滅する。
ボール側が中性子。ぶつかる相手が質量の大きいものだと中性子は再びエネルギーを貰ってエネルギーが落ちにくい。
質量の小さな中性子のエネルギーを落とすならば同じくらいに質量の小さな相手でなければダメである。
地球上で一番質量の小さな元素は原子番号1の水素。陽子1に電子1で、中性子は持たない。
それに酸素がくっついたのが水である。地球上で一番簡単に手に入れられ保存しておける減速材は水ということになる。
但し普通の水(軽水)は中性子を持っていない。在る所に入りこむより無い所のほうが入りやすいであろうことは誰にでも想像しやすい。
軽水は中性子を吸収してしまう(取りこんでしまう)のではないかと考えた。他の物に取られてしまっては元も子もない。
そこで注目されたのが中性子を持っている水素からなる重水である。
重水素は陽子1、中性子1、電子1。三重水素は陽子1、中性子2、電子1。


原爆には減速材として重水が必要不可欠であるという見解は原爆開発者全ての共通認識となった。
水(軽水)はいつでもどこでも比較的簡単に手に入るものだが、同じ水でも重水となるとそうはいかない。
ヨーロッパにおける重水生産拠点はノルウェーの工場だけだった。
しかも当時すでに戦争が始まっており、軍人は戦火に赴き、侵攻や占領が進行中という状況。迫害や敵味方国籍問題などがあって科学者や技術者らの国家間移動も盛ん。戦時中なので情報戦も激しい。
幸いというか何というか、ノルウェーは当時中立的な立場を取っていた国だった。

ノルスク・ハイドロ(Norsk Hydro ASA)
1905年12月2日、マルクス・ヴァレンベリ (シニア) を初代会長とし、主にパリバの出資でノルウェー水力電気窒素 (Norsk hydro-elektrisk Kvælstofaktieselskab) が設立された。

ヴァレンベリ家はスウェーデンで最も有名な大富豪一族。
1990年にスウェーデンのGNPの3分の1を間接的に支配していると見積もられていた。自分の財団も所有しているがノーベル財団とも繋がりがある。
パリバ銀行は、1863年にビショフスハイム・ゴールドシュミット&Cie銀行と合併したオランダ貯蓄信用銀行が、1872年にロスチャイルド・パリ家とも親密な富豪らが創立したパリ銀行と合併して誕生した銀行。

ノルスク・ハイドロは1934年に、ヴェモルクに、肥料生産の副産物として世界で初めて重水を商業的に生産できる工場を建設した
ノルスク・ハイドロリューカンの工場はヨーロッパで唯一の重水生産拠点であり、第二次世界大戦において連合国が、ドイツの原子爆弾開発に利用されると警戒することになった。


ノルウェーの重水工場から重水をフランスに運び出させたのはマリ・キュリーの長女の夫フレデリック・キュリー。

ドイツのノルウェー侵攻より前の1940年4月9日に、フランスの諜報機関参謀本部第2局が、当時はまだ中立国であったノルウェーのヴェモルクの工場から185 kgの重水を撤去した。工場の管理者であったAubertは、戦争の期間中この重水をフランスに貸し出すことに同意した。フランス人らは重水を秘密裏にオスロとスコットランドのパースを経由してフランスへと運び込んだ。工場は重水の生産能力を持ったまま残された。

この時にこの工場からすでにドイツが重水を大量に仕入れていたという情報を掴んだ。
ドイツという国は第一次世界大戦前から発明や技術的にも脅威的な国と捉えられていたくらいなので、このことがアメリカやイギリスの原爆開発推進への転換に繋がったと考えられる。

連合軍はなお、占領軍がこの工場を利用して兵器開発計画のための重水をさらに生産することを心配していた。
ナチス・ドイツの核兵器開発を阻止するために、重水工場を破壊して重水の供給を絶つことを決定した。テレマルク県のリューカンの滝にある、60MWのヴェモルク水力発電所が攻撃目標となった
1940年から1944年にかけて、ノルウェーの抵抗活動による破壊活動と、連合軍の空襲により、工場の破壊と生産された重水の損失を確実なものとした。これらの作戦は、「グルース」(Grouse、「ライチョウ」)、「フレッシュマン」(Freshman、「新人」)、「ガンナーサイド」(Gunnerside、イングランドの村)とコードネームが付けられ、最終的に1943年初頭に工場を操業停止に追い込んだ。



ロスチャイルド家が重水を押さえれば確実に儲かると睨んだり、純粋にカトリック信仰者であったりカトリックの味方であったならば、工場停止や破壊に追い込まず買い取るという手段だってあったのではないかと思う。
でもそうはしなかった。
天然の放射線研究から人工放射性元素を経ての原爆や核エネルギーへの認識はやはりその程度だったのだろうと思うし、ユダヤとカトリックの連携、巨大化した一族の結束は一枚岩ではなさそうなことが分かる。

ともかくドイツが重水をすでに仕入れていたことが発覚したことで広げた波紋があった。
一部の科学者はこの時に気が付いたはずである。ドイツは減速材として重水に注目したのではないだろうと。
注目したのはエネルギーの大きさとしての水素である。





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by yumimi61 | 2018-03-25 14:12
1920年、ロスチャイルド家の支援により公益キュリー財団(Fondation Curie)が創設された。
その目的はラジウム研究所の活動資金を調達すること。
この時より、キュリー財団とラジウム研究所が一緒になって、キュリー研究所(Institut Curie)になった。
財団というのは拠出された財産で設立される。これを出したのがロスチャイルド。
財産を運用などして金利など運用益をあげる、公的補助金や民間助成金などの外部資金を獲得する、一般市民などから広く資金協力してもらう、それらの資金を事業原資として運営する法人である。

投資家というのは、社会的連帯感や倫理的義務感に基づいて、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動を起こし奉仕しているわけではない。決して慈善事業(罹災者・病人・貧民の救済など)ではない。
投資することによって一人前の産業や会社に育て上げ、やがて投資以上の利益を回収するのが目的である。
投資家の立場に立てば、利益の副産物として科学や産業の発展があるということになる。主産物ではない。
副産物である科学や産業の発展が人類や社会にとって望ましいものかどうかなんてことは大して重要ではない。副産物は廃棄物になることも多い。(その逆でなかには副産物と主産物が逆転することもあるけれども)
投資家には何かを開発したり発展させたという誇りも名誉も付いてこない。
投資家にとって価値があり、目的とするものは、あくまでもお金(利益)を得る事なのだ。
ロスチャイルドは投資家であり、実業家でもある。
利益が出るかどうかいまひとつ自信が持てないものに、闇雲に大金を注ぎ込み続けるのは賢くないし得策ではないと考えるだろう。
富豪なので先陣を切ってお金を出してはいるが、財団という形で資金提供を他人にも振る形を採っている。
それが「放射線」への認識だったはずだ。


現在ヨーロッパにはマリー・キュリー財団(Marie Skłodowska-Curie actions;MSCA)という有名な給付型奨学金(助成金)が存在する。
日本語訳は「マリ・キュリー財団」であるが、これは上記キュリー財団とは直接関係はない。
マリー・キュリー財団(Marie Skłodowska-Curie actions)は、欧州連合(EU)の欧州委員会によって1996年にMarie Curie actionsとして設立された助成金である。
2014年以降は、マリ・キュリー(結婚後のフランス名)ではなくて、ポーランドの旧姓kłodowskaも名称に入れている。(ファーストネームMarieはフランス名、ポーランド名ではMaria)
ヨーロッパにおける研究を助成支援するものであるが、奨学生や研究者はヨーロッパ人でなくても構わない。
欧州研究評議会(ERC)が60億ユーロ(現レートで7,700億円)ほど拠出している。
これまでに10万人以上学生や研究者が支援を受けてきたという(20年として年間5,000人以上)。
拠出金だけだとして10万人で割れば、1人当たり770万円の支給という計算になる。
奨学金の場合、渡航費・授業料・滞在費などすべてがカバーされる。
こんなにお金を出してもらうと、やはりそれなりに出資者の意向に縛られることになる。出資者の意向で教育されるというか、抱え込みというか。お礼奉公とは感じさせないお礼奉公とか。
つまりベクトルを合わせる作用がある。



キュリー研究所
前身はラジウム研究所。現在に至るまで少数精鋭を貫き、所属人数に対するノーベル賞受賞者は他の研究機関に比べて群を抜いて多い。(とはいってもほとんどキュリー一族である)

当研究所関係者によるノーベル賞受賞歴。
 ピエール・キュリー、1903年物理学賞
 マリー・キュリー、1903年物理学賞
 マリー・キュリー、1911年化学賞
 イレーヌ・ジョリオ=キュリー、1935年化学賞
 フレデリック・ジョリオ=キュリー、1935年化学賞

 ピエール=ジル・ド・ジェンヌ、1991年物理学賞
 ポール・ナース、2001年生医学賞 



Irene Joliot-Curie(イレーヌ・ジョリオ=キュリー)1897年生まれ、1956年58歳没。
キュリー夫妻の長女。夫妻がマリの博士論文のためにベクレルの研究の続きに取り組む前年に生まれている。
彼女は両親と一緒に生活した記憶はないという。

パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚。1934年に30Pを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。
白血病で亡くなった。

Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)1900年生まれ、1958年58歳没。

1925年にキュリー研究所でマリ・キュリーの助手となり、そこでマリの娘であるイレーヌと知り合い、翌1926年に結婚した。

1934年に妻イレーヌと共に、アルミニウムへアルファ線を照射することによって世界初の人工放射性同位元素である30Pの合成に成功し、それにより1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞した。
第二次世界大戦時はレジスタンス運動に参加し、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁長官となり、コレージュ・ド・フランスの教授も務めた。1947年には、フランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功。

白血病で亡くなった説と、肝臓病で亡くなった説がある。


人工元素とは人間が作り出した元素であり、自然界には存在しない。(プルトニウムなどは後年わずかながら天然にも存在すると報告されているが)
人工元素は加速器や原子炉を使った核反応または核分裂によって作り出す。人工元素は全て人工放射性元素である。
それを世界で始めて作ったのが、キュリー夫妻の長女とその夫。
アルミニウムにアルファ線を照射してリン30という人工放射性元素を作った。
それが1934年のことだった。
これを「放射化」とも言う。
このことから言えば、原子炉やそこで使われている物品の物質では放射化が起こるはずである。つまりエネルギーを作るために投入された放射性物質とそれが崩壊して放出された放射性物質だけでなく、装置や物品を作っている物質(安定元素)が放射性元素に変わって放射能力を保有してしまっているということになる。また常時大量の放射線を浴びている金属以外の物質の劣化は著しいはず。金属だって相当のエネルギーを受け、海水や塩素水をかぶり、むき出しで水や何らかの溶液に浸かりあるいは雨水にあたり潮風に吹かれているとすれば材質が劣化し違うものになりかねない)

長崎に落とされたという原爆はプルトニウム爆弾であるが、プルトニウムという人工放射性元素が作られたのはすでに戦争が始まっていた1941年のことである。
イギリス政府もアメリカ政府もどちらも原爆開発には然程乗り気ではなかったが、その風向きが変わったのは人工放射性元素プルトニウムが新発見されたからだった。

プルトニウムはウランの欠点を補った。
補うように理論を構築したら、あっけなくその通りのことが現実でも起こったということなのである。
プルトニウムの爆弾と言っても、こちらも分離が出来ているわけではない。
ウラン238からの反応を用いるわけで、実際に仕込むのはウランである。

以前書いたがいろいろと問題は多く、とても現実的なこととは捉えられない。


プルトニウムの陽子数は94。ウランの陽子数は92で天然元素の中では一番多いわけだが、それよりさらに2つ多い。
つまりウランより重く不安定な元素なのだ。
ウランより重い元素(超ウラン元素)を人工的に作り出すことを可能にしたのは加速器だった。

加速器は粒子に運動エネルギ−を与え速度を上げる装置である。
放射線は電磁波放射線と粒子線に大別できる。
X線やガンマ線は電磁波放射線。ベータ線やアルファ線・中性子線・電子線・陽子線などは粒子線。
電子を加速すれば電子加速器、陽子を加速すれば陽子加速器である。

前記事にコバルト60やセシウム137が放出するガンマ線によって滅菌が行われているという話を書いたが、そのガンマ線はガンマ崩壊にて自然に放出されるものである。崩壊によってガンマ線は自然に直進していく運動エネルギーを持っているということ。
ガンマ線の場合、電子は二次的に発生し、その電子が電離作用を起こして滅菌や物性変化を起こす。
一方の加速器は、電場を用いて人工的に運動エネルギーを生み出し電子や陽子を放出させる。
これを用いた電子線滅菌というものがあるが、加速器で直接電子を発生させ、電子そのものを照射することになるので、二次的ではなく直接的に滅菌や物性変化を起こす。
加速という言葉で勘違いを誘いそうだが、透過率(物質をすり抜ける力)はガンマ線のほうが優れていて、電子線のほうが劣る。
但しガンマ線に比べて単位時間当たりの照射量は5千~1万倍程度も高いので、形状が適していれば非常に短時間での滅菌が可能。
滅菌線量25kGyを照射するのにかかる時間はガンマ線では数時間かかるが、電子線は数秒で済む。
電磁波であり透過しやすいガンマ線と、粒子線であり透過しにくいベータ線やアルファ線が人間の身体に与える影響、特に人間が体内に放射性物質(放射性元素)を取りこんでしまった場合(内部被爆)の影響はそれくらい違うということになる。

加速器によってウランより重い元素が初めて作られたのは1940年。
アメリカの科学者がウラン239からネプツニウム(陽子数93)を作りだした。(1951年にノーベル化学賞)
その年の終わりから翌年にかけてプルトニウムが作り出されたが、放射性元素というのは放っておいたって不安定で崩壊していくものなので、一度作った「プルトニウム」(分離は出来ていないが)をいついつまでも維持することは出来ない。量にしても同じ。



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by yumimi61 | 2018-03-23 13:27
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キュリー夫妻は1903年にノーベル物理賞を受賞しているので世界的な知名度を得た。
夫ピエールが1906年に亡くなった後にマリは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーからも資金援助されていた。

アンドリュー・カーネギーはスコットランドで手織り職人の息子として生まれたが、13歳の時に家族でアメリカに移住。
彼がアメリカで最初に富を得たのは、アメリカ南北戦争(1861-1865年)前後の鉄道事業への投資だった。
借金をして寝台車のための会社に出資し大成功を収め、得た資金をさらに鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していった。
1870年代にはカーネギー個人の製鋼所を設立した。
『ジェームズ・ボンド』の著者イアン・フレミングの祖父がスコットランドでアメリカの鉄道事業への投資を集めたのは(投資信託)はこの頃である。
1892年、カーネギーは所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を設立し、銑鉄、コークス(当時重要な燃料)、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっていた。
1880年代後半にアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大部分はカーネギーの会社が担っていた。
しかしカーネギーは結婚が遅く、子供が生まれたのも52歳の時で、しかも女の子。後継ぎがいないこともあって、1901年にJ・P・モルガン(ロスチャイルド系だがアメリカで発展)に会社を売却した。
J・P・モルガンは他の会社を幾つも合併させUSスチールとした。これは独占形態である。
カーネギー個人は自身が保有していた株式を売却することによって安定して多額の資金を得ることに成功。

マリ・キュリーはピエール亡き後、その大富豪から支援を受けていた。
さらにアンリ・ロスチャイルドなどの資金援助のもとフランスで1909年にラジウム研究所が設立された。

夫亡き後、世の同情を集めに集めたマリであったが、1911年に不倫が発覚した。
お相手は亡き夫ピエールの教え子であった。マリは未亡人だから問題ないはずだが、同情を集めただけに心証が良くない。
さらに不味いのが、お相手が既婚者だったこと(離婚するところだったらしいが)。
マリに一気に逆風が吹く。
その風を打ち消すがごとくノーベル化学賞受賞のお知らせが届く。
ノーベル化学賞を受賞したのはある理論を実験によって論破したからだった。

ある理論とは「精製されたラジウムは元素ではなく化合物」というもの。
発表者は初代ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソン( William Thomson, 1st Baron Kelvin OM, GCVO, PC, PRS, PRSE)。アイルランド生まれのイギリスの物理学者。
キュリー夫妻は1903年までに鉱石からラジウムの精製に成功し、それを元素(純粋な金属)として発表してノーベル物理賞を受賞したが、元素ではなく化合物であろうと主張したのがケルヴィン男爵。
だがマリは純粋なラジウム金属の分離を1910年に成し遂げたそうで、それによってノーベル化学賞も受賞した。


ラジウムはウランの300倍の放射能力を持つが、その精製は非常に難しく効率の悪いものだった。
キュリー夫妻が精製に用いたのは複雑な化学組成を持つピッチブレンドという混合鉱物である。この鉱石は非常に高価であった。鉱山からフランスまで運ぶには当然輸送費もかかる。
夫妻が最初に手に入れた鉱石は1トンだったが、夫妻が目論んだ元素の含有率1/100にはどこにも届かず、
実際には1/1,000,000相当でしかなかった。有意な量の結晶を得るためには何トンもの鉱石が必要だったのだ。
従って精製に成功したというそれは元素でなく化合物なのではないかとケルヴィン男爵が疑念を抱いたのも無理からぬことである。
特許を取らなかったために幾ら使い放題と言っても、ちょっと効率が悪すぎという感じは否めない。それに勝る効果があるのかどうか。(待っていたのは健康障害や死だったのだけれども)
ノーベル化学賞を受賞した成功実験で精錬されたラジウム金属は0.0085グラムだったという。
でも鉱石を売る側から見れば、それを使う人がいるならば精製の効率が悪いほど鉱石が沢山売れて喜ばしいことである。



ラジウム研究所の設立に関わった人物にフランスの医師で生物学者のClaudius Regaudがいた。
彼はパスツール研究所でÉmile Duclaux(ルイ・パスツールの助手から共同研究者となり、研究所の副所長から所長になった)に師事し、微生物などの研究をしていた
1900年にドイツの医学者から放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされたが、Claudius Regaudもその後すぐに生物影響の研究に着手した。


1906年、彼は放射線(X線)に細菌の死滅効果があることを発見した。
現代においても放射線(γ線)は医療用具の滅菌に利用されている。
コバルト60やセシウム137が放出するγ(ガンマ)線によって細菌を死滅させるのだ。(γ線はX線の特徴と同じ。β線やα線はそれより進みにくい)
照射するガンマ線のエネルギーを極端に強めない限り、照射対象が新たに放射能を持つ放射化は無視できるほど小さい。照射対象の材質を大きく損なうことがなく、薬品による滅菌に伴う有害物質の残留もないことから、医療機器や無菌動物の飼料に用いられている方法である。
しかしながら、ガンマー線滅菌に限らず放射線を用いた滅菌では金属類以外では必ず材質劣化があることから材質劣化が問題とならない範囲内で照射しなければならない。

放射化は無視できるほど小さいとあるが、放射化とは照射対象となる物(例えば手術用メスや注射器など)の物質の安定同位体元素が放射線を受けて放射性同位体に変わってしまうことである。
滅菌状態とは滅菌後の医療器具に1個の微生物が生き残っている確率が百万分の1になること。
確率がこれより下がった状態を無菌と定義している。理論的には絶対に細菌ゼロ(無菌)にはならない。
滅菌線量は25kGy〜35kGy。菌を選択する能力はない。
無機質な物だからよいが人間をはじめとした生物には必要な菌もある。


Claudius Regaudは、細菌死滅効果の他にも、放射線は細胞分裂が盛んで分化の程度が低い細胞に有効である、それはつまりがん治療に使えるであろうことを推測した。
人間の臓器や組織の中で細胞分裂が盛んで分化の程度が低い未熟な細胞が比較的多いのは、血液・骨髄・リンパ組織、生殖器(精巣・卵巣)、乳房(但し年齢やホルモン環境、妊娠出産授乳経験など個人差が大きい)、消化器粘膜、皮膚など。
これらの臓器や組織は放射線感受性が高いということ。
一方、がん細胞もまた細胞分裂が盛んに行われ、未分化(未熟)な細胞が認められることが多い。だから治療にも使えるのではないかと考えたわけだ。
がん細胞というイレギュラー細胞は誰にでも生じる。しかし通常は免疫細胞が退治してくれるので問題にはならない。
但しがん細胞というものは分裂の勢いがなかなか落ちずに増殖しやすい。増殖が留まらなければやがて免疫細胞による退治が間に合わなくなる。
がん細胞であっても分化の程度が高ければ悪性度は低い。


1912年、ラジウム研究所において放射線の医療応用に関する生物学的研究をする部門を設けて、マリらの物理や化学分野とは分けた。
ラジウム研究所の生物学的研究はパスツール研究所が担当することになり、Claudius Regaudがその責任者となった。1914年から専任となった。
彼は放射線治療のパイオニアなのである。
また1915~1917年には国の行政にも関わり、最先端の研究と一般的な病院のケアを組み合わせた近代的な病院を創設した。これは現在世界中にある「大学病院」というものの起源となったそうである。
大学病院は放射線治療から始まったということですね。






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by yumimi61 | 2018-03-22 15:37

料簡

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特別に考えたこともないくらい当たりまえに出来ると思っていたことを

意識するから出来ないことってあって

普段なんでもなくやっていることなのに

意識するから苦しくなることもあるよね

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*泣く子も黙る任天堂株式会社のルーツは「かるた屋さん」。
花札、トランプ、百人一首。 
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*俳句や短歌、標語やキャッチコピーには著作権があるのかということが時々話題に上ることがある。
創作にしては短すぎるということなんだろう。
多くの人が知っていて普通に使っている使用フリーな言葉を並べただけのものに著作権があるのかということなんだろう。
引用は罪なのか、パロディは罪なのか、偶然の一致を信じられるか。
事実を書いた。伝聞を書いた。(ちなみに裁判に於いては伝聞は証拠能力がありません)
じゃあ写真は?
街を撮った。街を歩く人を撮った。
同じ場所で街を撮った。同じ場所で街を歩く人を撮った。
少し前に素人の短歌が使われていたと問題になっていたことがあった

引用です!
永遠と 思い込んでた 「青春」の 二文字の中に 「月日」があった (逢)

これが「青春の二文字の中に月日があるのはただの事実にすぎない」ではちょっと哀しいなあと思ってコメントを読み進めていたら、おもしろいのを見つけてしまいました。
886 @suguso5
俺も抒情的な詩を思いついたよ。「都道府県」だと思っていた「群馬」の二文字には「君」の隣に「羊」と「馬」がいたのさ





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by yumimi61 | 2018-03-22 00:40