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それぞれの開祖

●修験道の開祖ー役小角(えんのおづの)(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
役小角は700年頃に(木曽)御嶽山登頂に成功したと言われている。

修験道:日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。

役小角は最澄や空海(弘法大師)よりも古い人物で、修験道開祖は仏教の天台宗や真言宗の開祖よりも早い。
天台宗や真言宗は仏教の中でも平安仏教と呼ばれる平安時代以降に勃興した宗派。
その前の奈良時代には奈良仏教(南都六宗)が栄えていた。

●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山

真言宗の密教(東密)は、空海が中国より真言密教を持ちこんだ。
天台宗の密教(台密)は、最澄の時代は弟子を空海の所に送りこんで学ばせていたが、最澄亡き後に弟子たちが独自に完成させた。
この宗派よりも早くに成立していた修験道が密教に関係あるので、比叡山や高野山も修験道に数えられる。
空海は修験道の修行場であった御嶽山に登ったことがあるらしい。


昔むかーし

王滝御嶽神社伝によれば御嶽山に最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。
白川って誰?っていうことになりますよね。

木曽町三岳の昔話

御嶽山縁起
 「御嶽山縁起」とは、御嶽山先達や神社などに書き残されている伝記です。その内容は千年ほど昔の京都三条に、白川将軍重頼という公家がいましたが子供がおりませんでした。ある日夢の中に白い髭の老人が現れ、「信濃国の木曽御嶽山に祀られている御嶽座王大権現にお願いをしてみなさい」というお告げがありました。さっそく御嶽権現のお社を庭に建て祈願をしたところ、美しい女の子を授かり、3年後には男の子も生まれ阿古多丸と名付けました。

 子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、阿古多丸が持ってきたお土産に毒を入れて犬に食べさせたため、父親は驚き阿古多丸を家から追い出してしまいました。阿古多丸は一人で奥州の親戚の家に行くことにしましたが、途中で御嶽山を拝んでいきたくなり板敷野まで来ました。しかし心労と旅の疲れで倒れてしまい地元老夫婦の介護もむなしく御嶽山を見ながら亡くなってしまいました。
 その晩父と姉は阿古多丸の夢を見たので探しに旅に出て探し当て、板敷野の墓前で姉は自害してしまいました。父親は泣く泣く姫を弔い、その後御嶽山に登り二人の霊を御嶽大権現の元にお返しした後に自害しました。このことを聞いた後妻と乳母も木曽を訪れ墓前で自害してしまったのです。
 この悲しい出来事を聞いた都の天子様は、「亡くなった5人の霊を御嶽大権現のおそばにお祀りしてあげなさい」と言われたため、信濃の国司は家来を引き連れ御嶽山に登り盛大なお祭りをして霊を慰めたそうです。
 地区では今も塚の前の小さな水田にもち米苗を植え、秋には餅をついてお墓に供える行事が続けられています。(生駒勘七著木曽のでんせつより)

阿古太丸の墓
 昔、都に北白川宿衛少将重頼郷という人がいました。重頼には子供がいませんでした。
 ある日、重頼は御嶽山に祈願すると、子供にめぐまれると聞き、その日から毎朝毎晩一心にお祈りしました。祈願が効いたのか、四十歳になって二人の子供にめぐまれました。初めの子は女子で利生御前と名づけられ、二人目の子は男子で阿古太丸と名づけられました。重頼は二人の子を大変可愛がり、大切に育てました。
 ある日、阿古太丸の母親は突然病の床に伏してしまいました。母思いの阿古太丸は、父重頼から自分が、御嶽に祈願して生まれた子だということを聞き、御嶽に再び祈願しようと思いました。
 阿古太丸は、お供の者達と、木曽の御嶽へ向かいました。御嶽につくと阿古太丸は、自分が生まれたことのお礼と、母の病気を治してほしいと、頼み下山しました。しかしその途中、旅の疲れと風邪のために、阿古太丸は寝込んでしまいました。
 一方、都で阿古太丸の旅を心配していた重頼は、阿古太丸がいっこうに帰ってこないので、自ら木曽に向かいました。やっとのことで重頼が木曽に到着した時、阿古太丸は息を引き取りました。
 悲しんだ重頼は、村人らの善意で塚を建て、阿古太丸を供養しました。
 現在、木曽町福島に板敷野という集落がありますが、そこは阿古太丸が病の床に伏した時、板を敷いて休んだ事からきているのだそうです。


1161年には後白河上皇の勅使が登山参拝した。

木曽御嶽山の霊神碑の建立は、御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰であり、 死後の霊魂の憩いの場を御嶽に求めようとする独自の霊魂観が、そこにはある。

御嶽は数多くあれど

御嶽を「おんたけ」と読ませるのは木曽の御嶽山のみだと言われている。多くは「みたけ」である。
「みたけ」という名の山は修験道に関係深い山が多い。
木曽の御嶽山は、王の御嶽(おうのみたけ)から「おんたけ」になったとか。

鎌倉時代頃までの御嶽山は、山そのものを神体とする修験道の修行と、国のお役人や君主らの祈願や慰霊が行われていたことになる。後者は神殿や祭典を伴った。
しかしその後、修験者の行場としては衰退していった。 
何故かと言うと、真言宗や天台宗の密教が入りこんできたからである。
阿闍梨のところに「日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった」というような説明があったが、これは修験道の修行と国のお役人や君主らの祈願や慰霊が御嶽山にて行われていたことにルーツを持つのかもしれない。

天台宗や真言宗の密教の時代には、山頂の御嶽神社奥社まで登るにはまず麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行をすることが必要とし、その厳しい修行を終えた者だけに年1回の登山を許したという。
その修行にはお金を徴収したらしい。どうも3.5両くらいだったらしい。
3.5両は14,000文。室町時代は良く分からないが、江戸時代の初期ではかけそば1杯が6文ほどだったという。
江戸時代のそばの値段で換算すれば、修行するには「かけそば2,333杯」分の費用が必要だったといこと。
1日3食かけそばとすれば100日で300杯。でも2,333杯の費用。
現在の価格で考えてみると、かけそば1杯300円として、58万3,250円である。
登山するためには(修行するためには)結構なお値段を支払わなければならなかったが、それでも結構流行ったらしい。
修行と登山できない者は、登山を許された者にお金と米を渡して願掛けをお願いしたりしたらしい。

白川大神と四国巡礼

上に書いた白川重頼は後に神格化され白川大神となった。
尾張出身で行商人から真言密教の修行者となった覚明が四国巡礼の途上、四国八十八所霊場の第38番札所金剛福寺にて「御嶽山を開山せよ」と白川大神から命じられ、それで開山に至ったと言われている。

ではその寺が白川大神を祀っているのかと言えばそうでもないようだ。
金剛福寺
高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。

境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、力の石、亀呼び場、竜燈の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。


但し金剛福寺には奥の院に白川ならぬ白山神社ならある。
奥の院
白皇権現元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていた。明治初年の神仏判然令で明治4年(1871年)に佐田山神社となり、大正5年(1916年)に白山洞門の白山権現と合祭される形で現在地に社殿を造営、白山神社と号するようになった。

首が飛んだ白川大神

御嶽山の一番上の剣ヶ峰頂上の社務所(祈祷所)の横に頂上奥社本宮があるが、そこに白川大神の像があり、噴火後にその像の首(頭部)が無くなっていた。
ついでに言うと賽銭箱も見当たらない。
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写真には写っていないが向かって左側に建物があり、噴火口はその建物のさらに左側の谷(地獄谷)である。
だから噴石が横から飛んできたのではこんな上手い具合に像にだけ当たって損傷を与えたとは考えにくい。
もし噴石が飛んできたなら上からということになろうが、それで像にだけに上手い具合に命中して頭だけが落ちるものだろうか。首の所の接着が甘かったのかな?

38と83

覚明が白川大神から暗示を受けた場所の金剛福寺は四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。
御嶽山には三十八史跡なるものが存在する。三十八座とも言う。
でもそれを決めたのはわりと最近のことである。

日野製薬 2009.03.13 御嶽山三十八史跡巡り説明会 より

昨年、御嶽山の山麓、山中、頂上周辺に残っている史跡から38の史跡を、700年の歴史を持つ御嶽神社の宮司に認定していただきました。38の史跡を知っていただくために、各史跡の名称と所在地が分かるように石碑を設置し、パンフレットを作成し、更に、各史跡の年代、史実ないしは伝承を伝えるために朱印帳を作成し、「御嶽山三十八史跡巡り」の仕組みを構築してきました。

ほぼ準備が整ったので、3月12日に「御嶽山三十八史跡巡り」の説明会を実施しました。会場は木曽町の合同庁舎の講堂で、広い会場ですが、参加者は50人くらいだろうと予想していたところ、開始時間が近づくと会場一杯に約140名の人が集まって、大盛況の説明会になりました。


【三十八史跡(三十八座)】

・頂上18座ー王権現(五座)・日権現(七座)・八王子・栗加羅・士祖権現・金剛童子・駒ヶ峯(二座)

・中腹6座ー湯之権現・大江権現・西野権現・青木権現(扇の森)・飯之老翁(二座)

・山麓14座ー岩戸(王滝里宮)・大宮(二座・上島)・小宮(上島)・小路之木(上島)・野口高岩(野口)・埵沢権現(鞍馬の滝)・田中社(埵沢)・牧尾大明神・本社(黒沢里宮)・若宮(黒沢若宮)・白川(黒沢白川)・美濃加子母(二座)

ちなみに山荘がある所から剣ヶ峰の頂上に通じる石段階段は83段である。






by yumimi61 | 2018-09-30 23:18 | 御嶽山噴火と御嶽教


(前記事の続き)
御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという


普覚の八丁堀時代と全国行脚!?

普覚が江戸に出て過ごした場所は八丁堀にあった法性院だと言われているが、廃絶したとかで何も残っておらず。
普覚の遺骨は分骨され、その八丁堀の法性院にも埋葬されたというが何もなし。そこに分けられた遺骨は御嶽山に移動したとか。
地下鉄サリン事件の日比谷線は被害者を多く出したが、八丁堀駅はその中の1つである。。

法性院がどれくらいの規模だったかは分からぬが修験長になったという普覚は庶民に病気の厄除けをすることを志して、法性院での修験長を辞めてしまったそうである。
再び一人で山修行を積んで、その後は全国行脚したらしいが、昔のことであるし、そうでなくても密教は口頭伝承が基本なので、はっきりとしたことは不明である。

地元の御嶽山だったのでは?

普覚の地元である秩父にも御岳山(御嶽山と書く場合もあり)(標高は1080m)が存在する。
こちらの開山者も普覚である。

普寛は、国道140号沿いの道の駅大滝温泉(大滝温泉遊湯館)のすぐ近く、落合が生誕の地である。落合登山口の近くにある普寛神社(御嶽普寛神社)には普寛上人が祀られており、頂上には普寛神社奥宮の小さな祠がある。
登山口は、贄川(町分)、強石、落合などがある。最寄り駅は、秩父鉄道三峰口駅である。

木曽御嶽山・王滝口ルートの開拓のきっかけ

普覚がなぜ木曽の御嶽山を開山(新ルートを開拓)したかと言うと、1790年に地元秩父で(木曽)御嶽山の麓の村の1つであった王滝村出身の与左衛門に出会ったからだという。
木曽の山では材木伐採や運搬をする日雇い労働者を使っており、その日雇い労働者の中で優秀な者は、他の地域での伐採や運搬における頭領となったり、江戸や名古屋の材木商の代人や番頭になるなどしていた。
与左衛門はその中の1人で、目の病気か何かで失明の危機にあったが、それを普覚が加持祈祷によって救ってやったとか。
秩父で出会ったということだが、与左衛門は仕事で秩父にいたんだろうか。それともわざわざ秩父の普覚を訪ねたとか?

普覚にはアザを治したという評判があったそうだが、これがもし打ち身で出来るアザだったり、ちょっとした内出血だったら、加持祈祷をしなくても自然に治っていく可能性がある。
目もぷっくり腫れたり、かすんで見えなくなれば目がどうにかなっちゃうのではないかと凄く怖い思いをするかもしれないけれど、それも自然に、あるいは適切な治療によって治るものもある。
但し私は信じる力も否定するつもりはないけれども。

目を治してもらったお礼なのか、与左衛門は「私の郷里の御嶽山に登山道を拓くとよい」とのアドバイス(暗示)をしたらしい。
実は御嶽山(黒沢口ルート)は1785年に尾張の行者・覚明(仁右衛門)によって開山されていた。
もし与左衛門が普覚にアドバイスしたというのが事実ならば、与左衛門はその成功例を知っていて、別ルートの開拓を勧めたのだと思う。

尾張(名古屋)の行者・覚明
享保3年3月3日生まれ。行商生活ののち,仏門にはいり真言密教を修行。天明5年木曾へいき,地元の信者をひきつれて御岳にのぼり,従来重潔斎(けっさい)をした道者にのみゆるされていた御岳登山を開放。各地に御岳講が組織される契機をつくった。

アドバイスをした与左衛門は病み上がりだし(?)、そもそも地元民ではあったが(木曽)御嶽山に登った経験はなかった。
そこで同じ王滝村出身で(木曽)御嶽山登山経験もあり、江戸で材木商の代人として活躍していた吉右衛門にガイドを依頼した。
すなわち結局のところ黒沢口ルートも王滝口ルートも山事情に詳しかった地元民が開拓したようなものである。

御嶽山の八丁ダルミ

(木曽)御嶽山の王滝口ルートには八丁ダルミと呼ばれている箇所がある。
王滝口ルートというのは普覚のほうのルートである。
写真:毎日新聞2017年9月27日
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ダルミについて

ダルミは弛む箇所のこと。連なる山の最上部を繋いでいく線が稜線と呼ばれるが、自然の山なので当然に稜線が少し下がる(垂れる)部分が出てくる。
山のピークとピークの間で窪むところである。ピークには小ピークもあるが、ともかくピークの間をダルミやタルと呼ぶ。漢字にすれば「弛」。
日本語では鞍部(あんぶ)と言うこともある。これは馬の乗る時に使用する馬具の鞍にラインが似ているから。
英語やフランス語ではcolで、山の窪む所(要するに鞍部や峠)のことを意味する。ラテン語のcolは首という意味だそうである。
日本の登山家の中にはコルと呼ぶ人もいる。
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馬具の鞍は人間が跨ぐ場所で、人間の股がそこにあることになる。
人間の股の中央は、命を創造し命が生まれてくる場所であり、同時に排泄の場所でもある。


仏教(密教)とコル

「コル」は仏教(密教)とも深い関係がある。

仏教の発祥の地はインドであり、インドからチベットや中国に伝わり、中国や朝鮮を経由して日本にも入ってきた。
ただ発祥の地インドではヒンドゥー教に呑み込まれる形で衰退していった。
古代インドではサンスクリット語(古代インド・アーリア語に属する)が標準語であった。
インド仏教がチベットに伝わる際にサンスクリット語はチベット語に訳された。チベット語への翻訳は意訳ではなく直訳を心掛けたという。

マンダラ(曼荼羅)という言葉を聞いたことがあるだろうか。
マンダラのチベット語キンコルに「コル」という語が入っている。

曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल maṇḍala、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))

「曼荼羅」は、サンスクリット語मण्डलの音を漢字で表したもの(音訳)で、漢字自体には意味はない(なお「荼」(だ)は「茶」(ちゃ)とは別字である)。
なお、मण्डलには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされる。中国では円満具足とも言われる事がある。

曼荼羅は、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。
日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。

チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。
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マンダラには丸いという意味があるが、チベットの「コル」にも円や輪という意味がある。
円や輪はサンスクリット語では「チャクラ」とも言う。
マンダラのチベット語はキンコル(dkyir 'khor)。
これは「キル(dkyil)」+コル(khor)」を言いやすくした言葉で、キル単独では中心や底という意味があるそうだ。
すなわちキンコルやマンダラは、単なる丸や球体ではなく、中心が強く意識されていることが分かる。

時事ニュース絡みで

中心が意識されているといえば、今回の台風24号の宇宙からの映像を思い出す人もいるでしょう。

偶然にも天台宗系の密教は「台密」と言う。
真言宗系の密教は「東密」である。

(木曽)御嶽山の黒沢口ルートを開いた尾張の覚明は真言宗系の密教の修行者である。
王滝口ルートを開いたいう普寛は天台宗系の密教の修行者であった。
両者は宗派が違うのである。

(ページを改めてまだ続く予定です)




by yumimi61 | 2018-09-30 14:01 | 御嶽山噴火と御嶽教

人工

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写真の山は武尊山、赤い橋は関越自動車道。
この近辺一体はかつて沼田ダム建設予定があった。日本最大、それもとてつもなく大きな人造湖(ダム)の建設計画である。
もしダムが建設されていたならば私の実家も水没する地域であった。
沼田高校や沼田女子高校も水没地域であった。


沼田ダムは1952年(昭和27年)に第3次吉田内閣によって閣議決定され、建設省関東地方建設局による正式な事業となった。

必要な事業費を現在の貨幣価値に直すと順調に事業が進捗したと仮定しても約9,777億円と実に1兆円近くの巨費となり、日本最大級のプロジェクトとなる。

地図で水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点を越えて利根郡月夜野町]付近、群馬県道273号後閑羽場線の月夜野橋まで水没する。また東では片品川が沼田市下久屋町付近、薄根川が沼田市岡谷町まで完全に水没する。沼田市は高台の一部が半島状に残り、低地は全く水没する状態となる。上越新幹線や関越自動車道が沼田市付近を避けて高台を通過しているのは、沼田ダム建設を念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号の予定路線とほぼ同じ位置を通過しており、沼田インターチェンジは水没を免れる新沼田市街予定地に建設されている。

水没予定地の中には沼田市役所・沼田警察署・沼田消防署・国立沼田病院・国鉄沼田駅といった沼田市官庁街が含まれる。移転世帯も2,200世帯と莫大なものとなり、沼田市はダム建設によって多大な損失を蒙る。このため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム」計画に猛然と反発、「沼田市・利根郡を繁栄から零落へ引きずり落とす」・「藤原ダム・相俣ダム水没住民の例を見れば、移転住民の将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成。計画発表の3ヵ月後、10月7日に沼田公園において「沼田ダム建設反対総決起大会」を挙行した。この大会に集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻やムシロ旗を携え、市街地をデモ行進してダム反対を訴えた。
これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日、沼田ダム建設に対して「沼田市が壊滅する」と反対決議を全会一致で採択。周辺の利根郡昭和村等も反対の意思を明確にし、建設省に対し激しく抵抗した。

沼田市が官民一体となって繰り広げたダム反対運動は世間の注目を浴び、国会でも問題になった。この頃は吾妻川でも八ッ場ダムが川原湯温泉水没を理由に吾妻郡長野原町が反対決議を採択して激しい反対運動を展開しており、利根川の河川開発のあり方を巡って国会でも建設の是非について度々取り上げられた。だが政府・建設省は基本的に沼田ダムの必要性を訴求、当時第3次池田内閣の建設大臣であった河野一郎や小山長規も沼田ダム建設促進の姿勢を崩していなかった。

1966年(昭和41年)2月、第1次佐藤内閣の建設大臣・瀬戸山三男が「沼田ダムは首都圏のために必要な事業で、建設を推進したい」と発言した事から沼田市はさらに態度を硬化させた。

これまで状況を静観していた神田坤六群馬県知事や群馬県当局・群馬県議会も「大勢の県民が犠牲となり、群馬県全体を混乱させる沼田ダム事業は容認できない」として、事業に対し反対する姿勢を見せたことから群馬県全体が官民一体でダム事業に対し明確な反対意思を表明。ここにおいて事業は完全に膠着化する状況となった。

佐藤内閣はそれでも沼田ダム建設推進の姿勢を崩さなかった。だが建設省はその後の利根川水系における治水計画・「利根川水系工事実施基本計画」の中で沼田ダムを盛り込まず、「本庄ダム計画」(烏川)や「跡倉ダム計画」(鏑川)、「神戸ダム計画」(渡良瀬川)を進めるようになった。また、水資源開発公団も「利根川水系水資源開発基本計画」で沼田ダムを盛り込まなかった。
さらにダム計画の目的でもあった赤城・榛名大開田計画が水源を矢木沢ダムなどに求め、沼田ダム計画を利用しない形で1964年より群馬用水が建設され1969年(昭和44年)に完成、ダム計画地点の直上流にある綾戸ダム湖に取水口を設置し灌漑用水供給が開始。東京都への上水道・工業用水道供給についても矢木沢・下久保ダムを水源に利根大堰より葛西用水路・見沼代用水・埼玉用水路が整備され荒川水系に連結、沼田ダム計画の進捗を待たずに東京都内への供給が開始された。
このように沼田ダム計画が次第に放置・形骸化する中で転機が訪れた。佐藤内閣から引き継いだ田中角栄内閣の誕生である。

「日本列島改造論」を引っ提げ総合開発事業を強力に推進していた田中内閣であったが、沼田ダム計画については事業の再検討を行った。1972年(昭和47年)10月11日、第1次田中角栄内閣の建設大臣である木村武雄は沼田市を訪問し、ダム予定地視察や関係者との懇談を行った。そして「地元に多大な犠牲を生じる沼田ダム建設は不可能」として談話を発表。ダム計画の白紙撤回を表明した。こうして1952年に第3次吉田内閣が事業を承認してより20年目にして沼田ダム計画は中止されたのである。




武尊山は標高は2158mとさほど高くはないが決して甘くはない山であり、特に冬ともなればなかなか厳しい山となる。
山田昇もこの山に学んだという。
武尊山では山田昇にちなんだ記念レースも行われている。
山田昇の実家のりんご園は沼田ダムに沈む予定ではなかったインターチェンジ側の沼田市にある。

実はこの武尊山、御嶽山と無縁ではないのである。


武尊山と御嶽山

武尊山の山名の由来は日本武尊。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書記や古事記に登場する古代日本の皇族(王族)。
日本武尊は征西にも東征に出掛けたが、その東征の際にこの山に登ったという伝承がある。
登山後に疲労と病気で体調を崩したが、白鷹に導かれて温泉を発見し、そこで湯治したら全快したそうで、その温泉が(かつてクマもいた)宝川温泉。

日本武尊ばかりだけでなく、古代の人だって山を眺めていただけでなく登った人はいた。また山は修験の道場(宗教の修行の場)でもあった。
「開山」というのは比較的誰でも上りやすいような登山ルートが開かれたことを言う。それが何か記録に残っていれば、後世においてはそれが開山年だったり開山した人だったりになる。

武尊山には「御嶽山大神」や「普寛霊神」の石碑がある。
「なんで御嶽山なんだ?」と思う登山者は少なくないらしい。
これは御嶽山を開山(厳密には王滝口ルートを開拓)した人物と、武尊山を開山した人物が同じだからである。


行者・普覚

その人物は修行者である普覚(ふかん)という人物である。
1731年、秩父郡大滝村(現在の埼玉県内にある地)に生まれた。
一度は江戸に出たが、1764年に秩父郡にあった三峰山の修験道本山派の寺院・観音院に入門し修験するようになる。


修験道について

修験道
日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。
森羅万象は大日如来の化身と捉える密教思想を背景に、蔵王権現や不動明王などを中心的尊格とする。
明治初年に政府の弾圧を受けて、廃絶とされた経緯があり、現在では仏教教団として存続しているものが多い
根本道場は、開祖役小角が開いた、吉野・熊野を結ぶ大峰山にある大峰山寺(および金峰山寺)である。主に天台宗(寺門派)の聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派に分かれる。葛城山も開祖修行地として重要視されている。
地方では、東北地方の出羽三山、九州の英彦山、中国地方の五流修験などが有力で、独立傾向が強い。特に出羽三山は開祖を役小角ではなく、蜂子皇子としており、独自性を打ち出している。
また富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ、修験道からは半ば独立したような固有の世界を形成している。また天台密教、真言密教の総本山である比叡山や高野山でも修行が行われた。

古代
最澄や空海が霊山を開く。
日光山など開かれる。

中世
熊野信仰が興隆。熊野詣が流行。
大和国の大寺院を中心とした修験教団が形成。後の当山派。

近世
幕府が本山派、当山派を改めて認定
富士信仰の中で、角行系富士信仰が成立
木曽御嶽信仰が成立

近代
神仏分離・廃仏毀釈と修験道廃止
教派神道教団の成立
修験道教団の復興と再編成


中央霊場に拠点を置く教団
 吉野修験:修験道の根本道場とされる吉野の大峰山(金峰山)で行われる修験。
 熊野修験:熊野三山を拠点とする修験。
 葛城修験:修験道の発祥地とされる葛城山を拠点とする修験。
 比叡山修験:比叡山で行われる修験。

全国に配下を持つ教団
 本山派:天台宗寺門派の聖護院門跡を本山とする修験道教団。
 当山派:真言宗古義派の醍醐寺三宝院門跡を本山とする修験道教団。

普覚はもともとは天台宗の密教系である本山派に属していた。
上の説明で「富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ」とあるが、これらは近世・近代に勃興した山岳系宗教であり、歴史的にはそれほど古いものではない。

修験道は江戸幕府はもとよりもっと古くから認められていたが、明治政府は神仏を分離し、神道国教制を敷いた。こうして近代天皇制国家が作られたのであって、要するに神替わりしているというか、今の天皇制の歴史は近代しかないということになる。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。
修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。


修験道は密教と密接な関係を持っているわけだが、密教はユダヤ教やキリスト教の神秘主義にも通じるものがある。
チベットのチベット密教(チベット仏教)はインド密教(インド仏教)がチベットに伝えられて成立した。
1960年代のヒッピー文化を経て、1980年頃から欧米においてインドのヨガや日本の座禅などを中心に東洋の神秘主義が注目されるようになり、特にチベット密教(チベット仏教)が人気を集めた。ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者。
オウム真理教はそことコンタクトを持ち、新興宗教として頭角を現していくことになる。


阿闍梨

御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという。

阿闍梨(あじゃり、あざり、ācārya アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写)
サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記するが、その意味は本来、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことである。

南伝の上座部仏教や、北伝の大乗仏教をはじめ、中世の日本密教や、現在のチベット密教では衆僧の模範となるべき特別な資格を有する高位の僧侶の称号であり、日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった。

ただし、現代では一定期間の修行を経て「伝法灌頂」を授かった、宗派の認定する資格を有する職業としての僧侶を意味する。従って、現在の真言宗や天台宗では、阿闍梨は普通に密教を学んだ僧侶一般を指し、特別な高僧の称号ではない。

本来、阿闍梨の称号を得るためには「阿闍梨の五明」といわれる教養と学問と、実技や修行とを身に付けなければならないため、現在でも、チベット密教では厳しい基準や、三昧耶戒の「阿闍梨戒」があり、衆僧や一般信者の尊敬を一身に受ける立場となる。また、チベット密教においては、密教の阿闍梨を金剛乗の阿闍梨という意味で、「金剛阿闍梨」(チベット語;ドルジェ・ロプン)ともいう。


「阿闍梨」は外国と日本、昔と今では、言葉の重みが違うが、どちらにしても宗派の認定する資格である。
「伝燈阿闍梨」は弟子に教えることができる資格であり、一定の課程や経験を積む必要があり、50〜60代で得られる称号。宗派の中だけで有効な資格であり、どこでも使える教員資格というようなものではない。

現在の日本密教では阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称であり、伝統的な仏教上の名称と「四度加行」という行道を一応は踏襲してはいるが、実質的な内容を伴うものではなく、例えば、高野山真言宗では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。
いわゆる日本で事相面での教師としての阿闍梨となると、伝法灌頂を終えて各本山に3年ほど残り、その期間を含めて流派や人によるが、最短で約10年ほどで「一流伝授」の資格を得て初めて、弟子にものを教えることのできる伝灯の阿闍梨ということが出来る
高野山真言宗では、高野山の勧学院で行われる勧学会に毎年出仕して修学し終え、特別に選ばれて十数年に一度開壇される学習灌頂を受法すると、最奥の阿闍梨位とされる伝燈大阿闍梨に昇達する。


高野山の例が書かれているが、高野山も真言宗の密教。
いつか某放送局の某番組が高野山から放送していた。
放送局も然ることながら、神仏を分離させ修験道を禁止し弾圧した明治政府の頂点に立った天皇家の子孫で仏教とは無縁の天皇が、仮にも仏教や修験道に区分される高野山に献花するってどういうことなんだろう?

過去記事より
今年5月1日、テレビ朝日の報道ステーションは高野山・金堂から放送し、これは巷でもちょっとした話題になった。
なぜ酸いも甘いも嚙み分けるはずの報道番組が宗教の懐に抱かれなければならないのだ?
本来ならば両者はとても遠い存在であるべきだろう。
現世で達観してしまい宗教に親近感を感じてしまったということだろうか。

カメラは舐めるように本堂内を映していく。
中央の御本尊(?)の横に佇む献花に添えられた天皇陛下の文字がやけに眩しい。

日本の象徴である天皇陛下の文字があるからまだいいが、これがただの高野山ならば何故公平であるべき報道機関が一宗教法人から放送する必要があるんだ!と非難轟々となったはずだ。
宗教はその取り扱いが非常に難しく、慎重にならざるを得ないものである。
テレビ朝日と高野山はどんな関係なんだ?ということになる、こんなことはなかなか出来ない。

その高野山、実は投資運用に失敗したらしい。



オウム真理教の3女のホーリーネームに「アーチャリー」と入っているが、これは「阿闍梨」である。
麻原(松本智津夫)の3女と4女の仲があまりよろしくないようで(遺骨でも争ってましたよね?)、さらに3女はかつて教団幹部だった上祐氏(早稲田大学理工学部卒業後に特殊法人宇宙開発事業団に就職したという経歴あり)や滝本弁護士などとも対立しているらしい。
教団内には上祐派とA(アーチャリー)派があったとか。




by yumimi61 | 2018-09-28 16:07 | 御嶽山噴火と御嶽教

至当

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この写真は2016年9月29日に撮影したもの。
爆発のような噴火のような凄い雲だったので撮った。
空が低い雲に覆われ、その中でもちょうど山がある場所に雲が下りていて、山を隠すような形となっている。


御嶽山噴火から4年目

今日9月27日には御嶽山が噴火した日で、もう4年になるという。
時間が経つのは本当に早い。

御嶽山が噴火した2014年9月27日(土)は次男の修学旅行の前日だった。
学校の行事ではあるが日曜日出発であった。そのことは

に書いた。(写真は高校の正門前で撮ったもの)
その記事で「航空便リアルタイム追跡ページ」にリンクし、次男たちが乗ったANA663便の運航状況を書いた。
この間の台風でヘリコプターに怯え(?)フライトレコードを見ていた人達がいたけれども、私はこの時のことを思い出していた。


2014年10月11日~18日までの1週間、私は御嶽山特集記事を書いた。
特集六では、とあるNHK取材班が噴火のあった9月27日に御嶽山8合目で山頂に向けてカメラを構えていたという話を書いた。あと山での携帯電話事情など。
実は近年私がNHKを見るようになったのはこの時からである。
この時まで自発的かつ定期的に見ているNHKの番組やニュースといったものはなく、アナウンサーなど出演者も全くといって知らなかった(初恋の人と同姓同名騒動で『のど自慢』のことはちょっと知っていた)
(だけどその代わり、私がテレビをほとんど見ていなかった時代に一番見たテレビは紛れも無くNHKの教育テレビだった。子供が幼かった時代だから)

特集二の中には、次のように書いたがこれを書いた時点ではアナウンサー名も分からなかった。後で知ったがこれは今は朝のニュースを担当している高瀬アナウンサーだったみたいですね。

NHKのアナウンサーが噴火当初「おんたけ」でなく「みたけ」と言ってしまい、「おんたけっ!」と注意されていたが、黒沢口の麓は木曽町三岳(旧三岳村)で「みたけ」という名称は今でも多く使われている。



信仰の山としての御嶽山

御嶽山は山岳信仰、霊山としての顔を持つ。

御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。

江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。

王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。
林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。 

1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。


頂上の奥社(社務所)を含め御嶽山にある拝殿や社務所は御嶽神社の社殿ということになる。
仏教やキリスト教やイスラム教といった大きな宗教区分の違いも然ることながら、同じ宗教でさえいろいろな宗派や団体が存在するものである。
熱心な信者ほどどこでもよいというわけにはいかないであろう。
敬虔なキリスト教徒が仏式で葬儀してお寺にお墓を建てたりはしない。
仏教徒が教会でお葬式することはないだろう。
もっと細かな区分での宗派や団体、檀家や氏子などということになれば長く続く慣習や細かな決まり事、外の人間には分からない濃密な関係があるのだと思う。
同じ仏教だから、同じ神道だから、同じキリスト教だから、どこで何をして構わないということにはならないだろうし、信者らはどこで何をしても同じ御利益があるとも思っていないんだと思う。
信仰とは、観光客があちこちの神社に行って、そのたびに好きなことをお願いしてくるのとは違うし、仏教徒がキリストの十字架を身に付けることとも違う。少なくても熱心な信仰者はそう思っているはずである。
他地域からの観光登山、信仰者の信仰登山、地元民の登山、プロ登山(?)、それらも同じではない。


相撲問題と村八分問題

今話題になっている相撲の一門問題と少し前に話題になった奈良県天理市の村八分問題は、問題の根っこが似ている感じがする。
だから村八分を批判して相撲協会を庇うのはおかしいような気がする。

天理市は天理教のお膝元、いわば宗教都市のようなもの。
天理市
中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。
名称は天理教に由来する。同教の本部が市中心部の丹波市町にあったこと、同教が市制施行時に一帯に普及していたことによる。県に対する合併申請書類の一つ、市名選定の理由書は、次のように述べている。

「 (前略)市の中心たる元丹波市町は天理教教会本部の所在地であり従来より天理の町として又宗教の町としてその名は全国の隅々にまで知れわたつております。
この際合併を契機として宗教都市たる本質を明瞭に表現し関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく住民の意向や感情を勘案してこゝに「天理市」を選定したものであります。 」

2017年現在、日本で市名に宗教団体の名称が使われている唯一の例である。


しかしながら村八分の件は氏子以外は自治会の構成員として認めていないということだったので、これは天理教ではないのかな。
自治会側が天理教以外の宗教で、移住者が天理教とか?

地方の田舎にいくと、地区ごとに神社があり、その地区の住民は基本的にその神社の氏子扱いになるというのはよくある話である。
要するに自治会=氏子だったわけである。
神社の祭典(なんかのお祭りとか)の費用を集めて、祭典をし、各戸にお札が配られたりする。自治会なので役職なんかも回ってくるし、お祭りなどあれば皆お手伝いなどに参加しなければならない。
ただ神式で葬儀をする人はそう多くない。
地域にはお寺もあり、そのお寺の檀家であったりするわけだから。
仏教のほうが神道よりもしっかりとした宗派があり、同じ自治会に属していても同じ寺の檀家でないこともある。
がしかし、田舎では宗派やお坊さんによらず、葬式は自治会(隣組)が仕切るという仕来たりが古くからあった。不幸のあった家の人は何かと大変だから、ご近所さんが手助けをしてほとんどのことをしてくれるわけである。
これも最近では田舎でも自宅で行わず葬儀社に全部任せるということが非常に増えている。

現代では多くの地域が何でもかんでも氏子が中心になっているわけでは決してないと思う。
自治会の年間行事の1つに地域の祭り(神社の祭典)が入っているくらいの感覚である。

だが自治会の祭りというものは神社なんか一切関係なくとも現代人には嫌われるものである。
何日もそれに(半ば強制的に)関わるはめになるのだから、まあ大変と言えば大変だし、この祭りって何か意味あるの?とか通りすがりに思ってしまうことは正直ある。
基本面倒くさいことはしたくない。役員とかやらされるなんて最悪。希薄な関係を望む。近所にいて濃い関係なんて角が立つだけ。同じ地区に住んでいるというだけの共通項は心許ない。その日その時限りの付き合いなんて心底信じていない。そんなような理由でよそから転居した移住者が多い新興地域ほど地域行事は嫌われる。地域の運動会の参加者を集めるのも一苦労。
都会人は回覧板すら過去のもの、あるいは存在を知らない。
賃貸住宅の居住者は地域行事の何やらかんやらに含まれてないこともある。

天理市のその自治会では、移住者はそういう煩わしいものに参加しなくてよいと言うのだから、世相に合致していて移住者にとったら良いような気がするんだけれども。しかも移住者(非氏子・非自治会員)のほうが数が多いんだし。
お金をとられることが問題なのかな。お金の問題は大変だからね。
でも市からお達しのある地域の一斉清掃に欠席するとお金を取るという自治会もあり(参加者と不参加者がいるのは不公平だからという理由)、お金で正々堂々と参加しなくてよいのならばそのほうがいいという意見も実際あるから、そのように割り切れる人ならば「参加しないけど支払う」ということのほうが却って良いのかも。
それとももっと根深い問題が隠れているんだろうか。
ちなみにうちにも広報が配られない。それは市が自治会を経由して配布していないから。広報は新聞に折り込んでいるので新聞をとっていない家には届かない。でも市役所とか郵便局とか図書館とかコンビニとか市内のあちことに置いているから欲しい人はそこから持って来ればよい仕組み。その場でささっと読んでまた置いてくればエコだし!?


選ばれし時

御嶽山の噴火で多くの被害者を出したこともどこかやるせない。
噴火のタイミングにみる神に見放された感、エアポケットに巻き込まれたような警戒のない突然の噴火。
何かが少し違っていたらそんなに被害者は出なかっただろうと思わせることがやるせなさに繋がる。
ある意味、「選ばれし時」に起こってしまったようなそんな。


御嶽神社の開山祭は例年7月1日で、7合目の田の原社務所で催される。
頂上奥社での開山祭は7月10日と少しずれる。
開山祭は御嶽神社の祭典の1つである。
昔から今日に至るまで御嶽教の信仰者は白装束に身を包み夏登山をする。
頂上奥社は大宝2年(702年)創建。全国に1000万人を超える信者がいるとされ、毎年夏になると白装束に身を包み、「六根清浄」と唱えながら登る信者の団体で賑わいます。

頂上奥社で閉山祭が行われるのは例年9月上旬。
開山祭から閉山祭までの間は頂上の社務所も毎日開所している。
閉山後は閉めて誰もいなくなる。
9月27日は御嶽神社の頂上社務所は完全にオフに入っていた。
だから戸締りがしてあり、噴火時にその中に避難するということが出来なかった。

実は9月上旬で完全にオフに入るのは頂上の社務所だけなのである。
〇頂上社務所
 開山から閉山までの毎日
〇8合目の遙拝所社務所
 開山から閉山までの毎日、5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇7合目の田の原社務所
 開山から閉山までの毎日、4・5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇5合目の八海山神社社務所
 開山から閉山までの毎日、1月1日~2月3日までも毎日、5・6・9・10・11月の土曜・日曜・祝日
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境内の湧水は目の病気に良いとかで、め!

〇1合目の別殿社務所と里宮社務所
 通年 

8合目以下の社務所は9月10月は土曜・日曜・祝日は開所している。

選ばれし者たち

2014年の記事では紅葉にはまだ早いと書いたが、御嶽山の紅葉シーズンは9月下旬から10月上旬だということなので、ちょうど紅葉が始まった頃。紅葉のピークではないかもしれないが、秋の行楽シーズンでもあるので観光登山客は少なくないであろう。
暑くもなく寒くもなさそうな一番気候が良いと感じるであろう9月。
それも頂上社務所が開いている上旬ではなくて下旬。白装束の登山集団がいなくなる時期。
しかも噴火があったのは休日土曜日。(NHKの取材クルーの皆さんはわざわざ土曜日に取材に行かなければならないお仕事だったわけですね、ご苦労様です)
どう考えても一般登山客が多い時期や曜日である。
しかも噴火が夜とか夕方とか早朝とかではなくてお昼頃。頂上で一休みしてお弁当でも食べちゃおうかなあというまさにそんな時間であり、噴火が起こる時間的にも最悪。

そういう選びに選んだようなタイミングで噴火が起きてしまって、そのタイミングがもたらすであろうことから外れることなく死者・行方不明者を63人も出した。
その山は山岳信仰のある霊山であるにもかかわらず、信仰登山者の犠牲者は一人としていない。
御嶽教に信仰する者でなくても神に見放されたと表現したくなるような噴火と犠牲であった。




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by yumimi61 | 2018-09-27 17:13 | 御嶽山噴火と御嶽教

Fate

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ジョン・レノンのこのアルバムジャケットの白い丸は月か太陽か、それとも月と太陽なのか、そもそもなぜ2つあるんだろう、と思いませんか?
そのヒントは裏側にあるんだと思います。
ジャケット裏側では、同じ場面にて白い丸の代わりに虹が見えています。
虹は太陽の反対側に出来るもので、太陽側に見えることはありません。
そうとなれば表側の白い丸が太陽であることはありえないということになります。
月です。それも満月。

満月は太陽の180℃後ろから太陽を追いかけるように東から出て西に沈んでいきます。
例えば三日月ならば太陽の45℃後ろにいます。三日月は太陽の近くにいるので太陽が沈むまでは太陽の光で人間は三日月の姿を見ることは出来ません。
人間が見れるようになる頃には三日月もすでに西の空に回っています。
満月は太陽の180℃後ろ、すなわち地球上の人間から見ると太陽の反対側にいることになります。だから満月は夕方から東の空で見ることが出来ます。
このことから考えてもジャケットの白い丸は月なのです。

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by yumimi61 | 2018-09-25 15:53

晨星落落

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by yumimi61 | 2018-09-24 15:41

放縦

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愛と呼ぶには何が足りなかったんだろう
恋と呼ぶには何を持て余したのか
青く高い空を突き抜けることも
覆い尽くすことも出来なかった
横たわるは あなたの憂鬱と私の懸念
切り分けられたクラウド 2つの人生


溶け込むには眩くて蒼い夜を探してた
撥ねかえすには合いすぎた白い月
天空海闊あの空を飛んでいくことが出来たのに
僅かな日々を駆け抜けることが出来なかった
横たわるは あなたの生命と私の抜け殻
立ち込めたミスト 空きのなくなったメモリ




by yumimi61 | 2018-09-23 21:42

RGB

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"In nature nothing exists alone." 
そう言ったのは『沈黙の春(Silent Spring)』の著者レイチェル・カーソン。
生態系はそれほど大事というお話みたい。

"Those who dwell, as scientists or laymen, among the beauties and mysteries of the earth, are never alone or weary of life."
これもレイチェル・カーソンのお言葉。
「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることは決してないでしょう」
そう?どう?

光と影(陰)がないと私達は物を認識できない。
月影、星影、日影、これみんな「光」のこと。月の光、星の光、日の光。
光が当たっていないのが日陰。

この地球にはRGB(赤緑青)の光しか届かず、私達の眼球はRGBの光しか認識できない。
この世界はRGBの反射と吸収具合で色付いている。
分かったような分からないようなだから全てを混ぜて灰色に?

黒髪の色素が抜けて白くなる時、彼らはそれをグレーヘアーと言った。
グレーじゃなくて黒と白なのに、ブロンドとホワイトなのに。遠目で見るとグレーになるから?
吸収から反射に転じる時が人生の終わりの時なの?それとも人類の終わり?あるいはこの世界の終わり?誰か教えて。


昨日の写真に載せた言葉の”年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず”は中国の漢詩から。

(ブログ)流離の翻訳者 果てしない旅路はどこまでも
「代悲白頭翁」 劉希夷
より

劉希夷(651-679年)
「代悲白頭翁」      「白頭を悲しむの翁に代わる」  劉希夷

洛陽城東桃李花     洛陽城東 桃李の花
飛來飛去落誰家     飛び来たり飛び去りて誰が家にか落つる 
洛陽女兒惜顔色     洛陽の女児は 顔色を惜しみ
行逢落花長歎息     行くゆく落花に逢ひて長く歎息す

今年花落顔色改     今年(こんねん)花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在     明年花開いて復た誰か在る
已見松柏摧爲薪     已に見る松柏の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為るを
更聞桑田變成海     更に聞く桑田(そうでん)の変じて海と成るを

古人無復洛城東     古人 復た洛城の東に無く
今人還對落花風     今人 還た落花の風に対す
年年歳歳花相似     年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同     歳歳年年 人同じからず

寄言全盛紅顔子     言(げん)を寄す 全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁     応(まさ)に憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐     此の翁の白頭 真(まこと)に憐れむべし
伊昔紅顔美少年     伊(こ)れ昔 紅顔の美少年

公子王孫芳樹下     公子王孫 芳樹の下(もと)
淸歌妙舞落花前     清歌妙舞す 落花の前
光祿池臺開錦繡     光禄の池台は 錦繍(きんしゅう)を開き
將軍樓閣畫神仙     将軍の楼閣は 神仙を画(えが)く

一朝臥病無相識     一朝病(やまい)に臥して相識(し)る無く
三春行樂在誰邊     三春の行楽 誰(た)が辺(あたり)にか在る
宛轉蛾眉能幾時     宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)能く幾時ぞ
須臾鶴髪亂如絲     須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し

但看古來歌舞地     但だ看る 古来歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲     惟だ黄昏鳥雀(こうこんちょうじゃく)の悲しむ有るのみ

(現代語訳)
洛陽城の東では桃や李の花びらが飛んできて、それは誰の家の屋根に落ちるのだろうか?それを見る洛陽の若い女性たちは、自らの容姿が色褪せていくことを惜しみつつ溜息をついている。

今年花が落ち、その分だけ歳をとり容姿も衰える。来年再び花が開いた時に果たして誰が生きているだろうか?松や柏の木が割られて薪となったり、桑畑が海になってしまったのを見たことがある。

昔洛陽城の東で桃李の花を楽しんだ人たちは既に亡くなり、現在を生きる人たちがその花が散る中を春風に吹かれている。花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。

血色の良い若者たちに一言言わせて欲しい。あの死にかけた白髪頭の老人は哀れで、その白髪は本当に憐れかもしれないが、彼も昔は君たちと同じ血色の良い美少年だったのである。

王侯や貴族の子女が芳しい樹の下に集い、その花びらが散る中をかつては彼も楽しく歌ったり踊ったりしていた。その屋敷には錦と刺繍が美しく飾られ、将軍の楼閣には不老不死を願う神仙が描かれていた。

しかし、ひとたび病に倒れると誰も彼を訪ねては来なくなる。あの楽しかった春の行楽はどこへ行ってしまったのか。女性の美しい眉も長くは続かない。あっという間に糸のように乱れた白髪になってしまう。

かつて歌や踊りの宴が行われた跡を見れば、今はただ黄昏時に鳥や雀が飛び来て悲しげに囀(さえず)るのが見られるだけである。


(自作英訳・改訂ニ版)
“On behalf of the old man lamenting over his gray hair”

In the east of Luoyang, onto whose door would flowers of peaches and plums fly and fall? Girls in Luoyang sigh deep sighs for their fading features whilst strolling to encounter fallen blossoms.

Indeed our features have changed when flowers fall this year, but who could see the flowers bloom again next year? We've already seen pines and oaks cut into firewood, further we’ve heard mulberry fields turned into sea.

Those who used to see flowers blooming are never found again in the east of Luoyang, nevertheless those who currently see fallen followers are facing the spring breeze again. Flowers bloom every year in the same manner, however, those who see the flowers have been changing year by year.

I'd like to say it to blooming ruddy boys that you should certainly feel pity for the dying gray-haired old man. His gray hair would really be pitiful, however, he used to be a rosy good-looking boy like you.

Under sweet-smelling trees, he would often sing and dance among sons and daughters of kings and lords in front of falling blossoms. Luxurious brocades and embroideries colored splendid residences, and paintings describing gods and saints decorated general’s pavilion.

One day, he came down with an illness, and no one would visit him ever since. Where would the pleasure at the height of his life have gone? How long could a beauty keep her crescent eyebrows? In the twinkling of an eye, her hair will turn gray like strings.

Looking at the site they used to sing and dance, now we can solely hear sparrows or little birds singing sadly in the twilight.








by yumimi61 | 2018-09-21 16:34

悲願


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by yumimi61 | 2018-09-20 23:54

Helicopter 
















by yumimi61 | 2018-09-19 00:36