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<   2018年 10月 ( 23 )   > この月の画像一覧

日の神の誕生

日本書紀の本文には「熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)」は出てこないが、第5段の本文には重要な記述がある。
太陽を神格化したと思われる日の神の誕生である。
なぜ重要なのかと言うと、近代日本において、 皇室の皇祖神とされており、伊勢神宮に祀られており、日本国民の氏神だとされているからである。
国旗「日の丸」にもその太陽(日)が描かれている。
しかしそんな重要な神であるわりには、明治天皇より以前の天皇が伊勢神宮を参拝したという記録は残っていない。

皇祖神(こうそしん)とは、皇室の祖とされる神。神武天皇の五世の祖(高祖父の父)とされる(伊邪那岐命 - 天照大御神 - 天之忍穂耳命 - 邇邇芸命 - 火遠理命 - 鵜草葺不合命 - 神武天皇、と連なるとされる)。現在では天照大神を指し、記紀によれば太陽を神格化した神であり、天岩戸の神隠れで有名。皇大神宮(伊勢神宮内宮)をはじめとする神明神社に祀られている。

モラロジー研究所教授の所功は「天照大神を指し、特別視すべき」としているが、政治評論家の竹田恒泰は「天照大神は皇祖神の一柱であり、神武天皇の五世の祖すべてを指す」という見解を述べている。一方で歴史学者の岡正雄や古代文学・神話学者の松前健らは本来の皇祖神は高御産巣日神(日本書紀では高皇産霊神と記す)であり、天照大神は後に祀り上げられたとしている。


昨日書いた日本書紀の第5段本文から該当箇所を抜き出した。

既而伊弉諾尊伊弉冉尊共議曰 吾已生大八洲国及山川草木 何不生天下之主者歟 於是 共生日神 號大日孁貴 大日孁貴此云於保比屢咩能武智 孁音力丁反

ほどなく伊弉諾尊と伊弉冉尊が共議したところによれば、「我々は大八洲国と山や川や草木を生んだが、なにゆえに天下の主を生まないのだろうか」、そこで共に日の神を生んだ。号は大日孁貴。大日孁貴は於保比屢咩能武智と言う。孁の音は力と丁の反

一書云天照大神 一書云天照大日孁尊

ある書では天照大神と言い、ある書では天照大日孁尊と言う。

此子光華明彩 照徹於六合之內 故二神喜曰 吾息雖多 未有若此靈異之兒 不宜久留此国 自當早送于天 而授以天上之事 是時 天地相去未遠 故以天柱舉於天上也

この子は華やかに光り輝く姿で、天下の内にいて全てを照らした。
二神は喜んで、「子を沢山作ったけれども、これほど霊力の強い子はいなかった。この国に長く留めるのは好ましくない」と言い、早速天に送り出し、天上の事を授けることにした。
この時はまだ天と地が遠く離れておらず近かったので、天の柱を以って天上に上げた。



日の神の特別感

他の神の誕生の記述と違う点が見られる。
まず「共に」生んだことが強調されている。
それから「号」を述べて、その後に本当の名前らしきものを述べている。

号というのは、文人や画家などが本名とは別に使用する名前(雅号)のこと。
中国の文人が作品を発表する際に使用したことに始まったという。
現代では一般的に筆名やペンネームと言うが、俳句の世界では今でも俳号と言う。
夏目漱石も森鴎外も太宰治も三島由紀夫も与謝蕪村も島崎藤村も樋口一葉も石川啄木も与謝野晶子も種田山頭火も尾崎放哉も本名ではない。
本名に号を付け足していたり、完全に筆名であったり。
漱石や鴎外など下半分で呼ばれることが多い人はそれが号であるからである(上半分は本名)。藤村も一葉もこのタイプ。
太宰治や三島由紀夫などは完全なる筆名なせいか、太宰とか三島とか名字で呼ばれる。
芥川龍之介は本名で、澄江堂主人という号や我鬼という俳号を持っていたらしいが、号で作品を発表しなかったのか全然有名じゃない。
川端康成は本名らしい。
大正時代以降は号が消えていき本名が増えた。

称号ということで言えば、「王」「女王」「王妃」「天皇」「皇后」「皇太子」「皇太子妃」「親王」「教皇」「法王」「聖人」「皇帝」「男爵」「博士」「修士」「学士」「名誉総裁」「名誉市民」などなど、これらはみな栄誉称号と呼ばれるものである。

日の神の号は「大日孁貴」。一般的にはこれを「おおひるめのむち」と読ませている。
本来は音読みさせるべきものであり、ダイニチレイキ、ダイジツレイキ、ダイジツリョウキ、ダイニチリョウキなどといった感じの読みとなる。

解釈の誤り

號大日孁貴 大日孁貴此云於保比屢咩能武智 
号は大日孁貴。大日孁貴は於保比屢咩能武智と言う

日の神の号の「大日孁貴」を一般的には「おおひるめのむち」と読んでいるが、それは「於保比屢咩能武智」を音読みしたと思われる名となっている。
つまり、「大日孁貴此云於保比屢咩能武智(大日孁貴は於保比屢咩能武智と言う)」の部分を読み方の説明と解釈したのだ。
しかし号は本名でないので、単に号に続いて本名を紹介しただけかもしれない。

そうならば本名は「於保比屢咩能武智」。 
これを一般的には「おおひるめのむち」と読ませているが、正確を期すればこれも微妙に違う。
「保」を「お」と読むのは訓読みであり、音読みなばら「ホ」「ホウ」である。
「オホ」で「オオ」と聞こえるというならば分からなくはない。
それから「咩」も「め」とは読まない。
「咩」という漢字が羊の鳴き声を表しているので「メーメー」から「メ」にしたのかもしれないけれど、中国での鳴き声は「ミィエーミィエー(mie)」みたいな感じ。
英語に至っては「baa」。「バアー」?「バァーバァー」?

「咩」の音読みとしては「ビ」か「ミ(ミエ)」である。

オホヒルビノムチ ・・・(お~昼日の無恥!?)
オホヒルミノムチ ・・・(お~怯みの鞭!?)
ウホウヒルビノブチ ・・・(うほ~昼日の斑!?)
ヨホウヒルビノウブチ ・・・(予報、ひるおびの小渕!?)


「孁」の発音(読み方)に触れる

特異的なことがもう一つある。
「孁音力丁反」(孁の音は力と丁の反)の部分である。
日の神の号の「大日孁貴」のうち「孁」の漢字の発音(音読みの仕方)を本文中で指南している。

「□〇反」は、中国でも古い韻書・字書・音義など(今で言えば辞書みたいなもの)において伝統的に使われてきた発音表記法である。□〇の所には違う漢字がそれぞれ入る。
どのように発音すべきかを記すために、全く別の漢字2つをもって、それを表した。
中国では唐代(618-907年)以降は「□〇切」と表記したので、現代ではこの発音表記法を反切(はんせつ)と呼ぶ。

□〇反と書かれていた場合、□を反切上字(父字)と言い、〇を反切下字(母字)と言う。
発音としては、反切上字(父字)の頭子音(声母)と、反切下字の頭子音以外(韻母)とを、組み合わせたものとなる。

「孁音力丁反」は、孁の発音は、力の頭子音と、丁の頭子音以外の音とを、組み合わせて発音するということを表している。

力(リキ)ーRiki
丁(テイ)-Tei
      ↓
     Rei レイ
     
最初のほうで「共に」生んだことが強調されていると指摘したが、小説のように考えるならば、「共に」という伏線がこの「孁音力丁反」にて回収されている。
    

号の読み方

号「大日孁貴」の「孁」の字の発音(読み方)が本文中に記されているのに、これを「おおひるめのむち」などと読むわけがない。
「ダイニチレイキ」か「ダイジツレイキ」、「ダイニレイキ」でもいけるかもしれない。


漢字が持つ意味と音

「孁」という漢字は、「女」+「霝」という2つの漢字を組み合わせで出いている形声文字である。
形声文字は、発音を表す漢字と、意味を表す漢字の組み合わせとなる。
「孁」の場合、発音を表しているのは「霝」。

「霝」は象形文字。
Pictogram (象形). Related to rain (雨) - rain with both small drops and big drops
e0126350_23551776.jpg
「霝」の発音は中国ではlingやlengである。声に出して発音するとリンやレンというように聞こえる。英語のRainにも掛かっているような感じ。
意味としては、雫としての「 零 」や、「 靈/灵(新字で霊)」に通じる。
日本漢字としての「霝」ではレイ(rei)やリョウ(ryo)という読み(発音)で、雨の雫や雫が落ちることを意味する。

「大日孁貴」にも使われている「大」や「日」という漢字は、目に見えるものを絵で描いて、それが文字になっていた象形文字である。「月」も同じく。
「孁」は上記のように形声文字で、「貴」は会意文字である(両手で貝を包む、転じて貴いもの)。


あざな

「孁」という漢字は、「女」+「霝」との組み合わせで出来ている。
組み合わせ漢字そのまま意味ならば女の雫ということ。
中国的な解釈ならば女の魂(霊)や女の神といった意味にも採れる。

ただ一般的には「孁」という漢字は「女の字」という意味になる。
字は「ジ」だが、訓読みでは「あざな」や「あざ」や「めぐ‐む(慈と同じ)」と読める。
字というのは文字という意味もあるが、本名以外の名前という意味もある。
昔は諱(いみな)と字名(あざな)と2種類の名前があるのが普通だった。
諱(いみな)が本名だが、これを使うのは自分や家族くらいで、他の人から字名(あざな、通称)で呼ばれた。現代でも「あだな」と言うが、これは「あざな」に通じているのではないだろうか。
文士や画家であるならば、号と同じく、字名(あざな)で作品を発表するようなこともあった。

字(あざ)は、本名「於保比屢咩能武智」の武智(ぶち)(転じて斑)にも掛けることができる。 




by yumimi61 | 2018-10-30 14:25

一書

現代ならばまるで信用されないであろう出典が全くないレベルの大昔の情報

『古事記』も『日本書紀』も原書は残っていない。後世の「写本」とされる物のみである。
下記は日本書紀についての記述だが、これらを踏まえれば、内容に関しての信憑性や正確性は極めて薄い。
そう言われても仕方がないものである。

・『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載が一切ない

・『日本書紀』によれば、推古天皇28年に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年の乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)でともに焼失した

・『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている

・また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにした上で記述された文章が書かれているが、写本を作成する前に紛失されてしまったためいずれの書も現存しない
『日本旧記』『高麗沙門道顯日本世記』『伊吉連博徳書』『難波吉士男人書』『百済記』『百済新撰』『百済本記』『譜第』『晋起居注』

・『日本書紀』の編纂は当時の天皇によって作成を命じられた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている



異伝・異説の1つ

先日、「伊弉冉尊(イザナミ)という日本の国土形成に関わったという神を祀った(埋葬した)箇所としての記述の中に熊野が登場する」ということを書いた。
埋葬場所は、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)ということになっている。
そして花窟神社は世界遺産の一部にもなっている。

だけど『古事記』と『日本書紀』を比べただけでも、場所が違ってるよーという話も書いた。

(イザナミの)亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。
『古事記』と『日本書紀』では場所が全く違うという・・。出雲が繋いだ縁と言えばよいのかな。

今日注目してもらいたいのは、赤太文字&アンダーラインの箇所。
そう一書。
紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に埋葬されたという話は、異伝・異説の1つなのである。
「異伝、異説を記した現存しない書」から引っ張ってきたもので、それが何の書なのかも明記はない。


世界遺産・花窟神社の版木も日本書紀本文ではない

これも先日書いたことだが、花窟神社では参拝記念に版木で刷られた「花の窟木版画」を手渡していたそうで、その版木に日本書紀の漢文が刻まれている。
日本書紀曰
伊弉冉尊生火神時被
灼而神退去矣故葬於
紀伊國熊野之有馬村
焉土俗祭此神之魂者
花時亦以花祭又用鼓
吹幡旗歌舞而祭矣


日本書紀の写本には「一書曰」で書かれていた漢文を、版木では「日本書紀曰」とした。
上の版木漢文では文章の意味を考えずに字数を揃えた区切りになっているが、意味を加味すれば下のような感じになる。

(日本書紀写本では)
一書曰
伊弉冉尊生火神時
被灼而神退去矣
故葬於紀伊国熊野之有馬村焉
土俗祭此神之魂者
花時亦以花祭
又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣


写本の本文(第五段)

「紀伊の熊野の有馬村」が登場するのは、日本書紀の第5段の本文以外の一書であるので、ここで第5段の本文を紹介しておく。
色付文字は私が訳したものです。
本文の中にも「一書」という言葉が出てくるが、これは名前に関するもので、他の書ではこのようにも呼ばれているというような意味で使われている。

(伊弉諾尊と伊弉冉尊は)

次生海 次生川 次生山 次生木祖句句廼馳 次生草祖草野姫亦名野槌

次に海を生み、次に山を生み、次に木の祖先となる句句廼馳を生み、次に草の祖先となる草野姫(別名:野槌)を生んだ。

既而伊弉諾尊伊弉冉尊共議曰 吾已生大八洲国及山川草木 何不生天下之主者歟 於是 共生日神 號大日孁貴 大日孁貴此云於保比屢咩能武智 孁音力丁反

ほどなく伊弉諾尊と伊弉冉尊が共議したところによれば、「我々は大八洲国と山や川や草木を生んだが、なにゆえに天下の主を生まないのだろうか」、そこで共に日の神を生んだ。号は大日孁貴。大日孁貴は於保比屢咩能武智と言う。孁の音は力と丁の反。

一書云天照大神 一書云天照大日孁尊

ある書では天照大神と言い、ある書では天照大日孁尊と言う。

此子光華明彩 照徹於六合之內 故二神喜曰 吾息雖多 未有若此靈異之兒 不宜久留此国 自當早送于天 而授以天上之事 是時 天地相去未遠 故以天柱舉於天上也

この子は華やかに光り輝く姿で、天下の内にいて全てを照らした。
二神は喜んで、「子を沢山作ったけれども、これほど霊力の強い子はいなかった。この国に長く留めるのは好ましくない」と言い、早速天に送り出し、天上の事を授けることにした。
この時はまだ天と地が遠く離れておらず近かったので、天の柱を以って天上に上げた。


次生月神 一書云 月弓尊 月夜見尊 月讀尊 其光彩亞日 可以配日而治 故亦送之于天

次に月の神が生まれた。
ある書によれば、月弓尊、月夜見尊、月読尊という。

光輝く姿は日の神に次ぐもので、日との組み合わせで治めることが出来ると考えて、同じように天に送った。

次生蛭兒 雖已三歲 脚猶不立 故載之於天磐櫲樟船而順風放棄

次に蛭子が生まれた。 三歳になってもなお脚で立ち上がれなかった。だから天磐櫲樟船に乗せて風に任せて捨てた。

次生素戔鳴尊 一書云 神素戔鳴尊 速素戔鳴尊 此神有勇悍以安忍且常以哭泣爲行 故令国內人民多以夭折復使青山變枯 故其父母二神 勅素戔鳴尊 汝甚無道 不可以君臨宇宙 固當遠適之於根国矣 遂逐之

次に素戔鳴尊が生まれた。ある書によると神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。
この神は勇敢さはあったが、我慢がきかず、いつも泣き喚きながら事を起こした。そのため国内の人民の多くが死んでしまい、青い山は枯れ果てていった。
そこで父母である二神は「素戔鳴尊よ、お前は大きく道を外れている。よって宇宙に君臨することはできない。まさに遠い根の国がふさわしい」と言い、遂に追放してしまった。



写本の本文中には「紀伊の熊野の有馬村」も「花窟神社」も出てこないし、伊弉冉尊(イザナミとは音読み出来ないが一般的にはイザナミと読ませている)が火の神を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せた後に死んだことも一切書かれていない。
第5段には本文以外に10(第十)までの「一書」が付いている。






by yumimi61 | 2018-10-29 15:05

誤差

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・今日は歩いて、最寄りの会場に狂犬病の予防接種に行ってきた。
帰り道、横断歩道を渡り終わったところで、信号待ちの車の助手席側の窓が開き、「あのーすみません」と声を掛けられた。
「この辺りに、さくら会館ってありますか?」と。
私の知っている「さくら会館」を教えたけれど、私の知っている「さくら会館」は動物病院の隣なのだった。

・「さくら会館」や動物病院は県道2号線沿いにあり、この通りはかつて元旦の実業団駅伝のルートだったのだけれども、いつからか国道354号線のほうにルート変更になってしまった。

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上の写真は、『新ウォーリーをさがせ!』という一冊の本の各ページに掲載されているもの。
一番上の左から右に、次は二段目という順番で並べています。
幼い頃に息子が書いたと思われる星☆を私は今日の今日見つけたわけですが、11のページに書かれた星の数は5つ。
×が書かれているところにも最初は星を書いたようですが、それを消しゴムで消して×と書きなおしたようです。
×(バツ)のようであり、ローマ数字のⅩ(10)のようでもあり。

「星はいつつのてんでえがく」-いつか夢で聞いた言葉でした。

一番最初のページ。
e0126350_20151035.jpg

そして、次のページ。
ここにも星☆が描かれていました。
この星を混ぜると全部で6つ。
全部で6つの星を書きたかったのかもしれません。
e0126350_19532057.jpg




by yumimi61 | 2018-10-28 11:50
もう少し『君が代』の話を引っ張ってみる。

どうしてあえて6音にしたか

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで


前記事にて、和歌としては「さざれ石の」が字余りであり、音の流れ(リズム感)があまり良くない歌であるということを述べた。
そこにはひとつ不思議な点も存在している。
この歌は字余りでなくても十分に成立させることが出来たと考えられるからである。

我が君は 千代にやちよに さざれ石のささ石の 巌となりて 苔のむすまで

「さざれ石」とは、細かく小さな石のことである。
「さざれ」は「細ら(ささ‐ら)」と同義。
「細」の訓読みである「ささ」(ささ‐やか)のことなので、漢字で書くならば「細石(ささいし)」と表すことが出来るし、濁して「さざいし」と読んでも問題ない。


「さざれ」でなければならなかった理由

万葉集には「さざれ」を使っている次のような歌がある。
さざれ波 浮きて流るる 泊瀬川 寄るべき磯の なきがさぶしさ(13-3226、詠み人知らず)

これは頭の5音に「さざれ波」を用いている。
「さざ波の」に置き換えても同じ意味で通るが、「さざなみの(細波の)」は枕詞であるため、後に続く語が決まってしまう。
だからこの句では使えない。
でも「ささいしの」にはそのような縛りはない。

枕詞「さざなみの(細波の)」
①琵琶湖南西岸の地名「大津」「志賀」「比良」「近江」などにかかる。元々は「さざなみ」も地名だったとする説もある。例えるならば、近畿の滋賀、滋賀の大津など、地名が重なっているということ。
②波に文(あや)があることから「あやし」に、波が寄ることから「寄る」「夜」にかかる。


今度は歌詞に注目

「さざれ石の 巌となりて」は、「小さな石が大きな岩となって」と解釈されている。
この解釈では「の」が主語に付いている助詞だと考えられている。今で言えば「~が」である。
しかし「の」は他にもいろいろな使い方がある。

・所有、所属、所在、材料の「の」。この用法は現代においても頻繁に使うので分かりやすい。
例:私のあなた、中日ドラゴンズの根尾選手、近畿の滋賀、鉄の塊、など。

・比喩の「の」。
例:清らなる玉の男御子(気品があって美しい玉のような男の御子)ー源氏物語より

・準体言の「の」。
例:これはあなたの、こちらは私の。(これはあなたのもの、こちらは私のもの)

・同格や並列の「の」。
例:白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫の大きさなる(白い鳥であって、くちばしと脚とが赤い鳥で、鴫くらいの大きさになる)―伊勢物語より

ここでもう一度「さざれ石の 巌となりて」を考えてみたい。

主語に付く助詞は省略することが出来る。
例:空高く馬肥ゆる(空は高く、馬は肥ゆる)
  私、あなたが好き。

すなわち、もし「さざれ石」が主語ならば、「さざれ石 巌となりて」とすることが出来て、これも字余りにならずに成立させることが出来た。
そこに字余り覚悟であえて「の」を付けた。それが日本語の意味由来の理由だとすれば、主語に付く助詞「の」ではなかったということになる。
次のどれか。
 ・小さな石の大きな岩となって(所有、所属、所在、材料)
 ・小さな石のような大きな岩となって(比喩)
 ・小さな石のもの(準体言) 大きな岩となって
 ・小さな石であって、大きな岩ともなり(同格や並列)
 

『君が代』に感じてしまう嘘

一般的な歌詞解釈を採用したとして、一番気になったり違和感を感じる箇所もやはりこの部分である。
「さざれ石の 巌となりて」(小さな石が大きな岩となって)
何故ここが気になるかと言うと、自然に逆行する観があるからである。
人間がたやすく想像しやすい自然現象は、大きな岩が長い時間とともに砕けて小さくばらけていくことのほうであり、そこに共感を抱きやすい。
人間でも物体でも形あるものは必ず壊れる、これを全力で否定する人はいないような気がする。
人はそこに無常と無情を見る。
大きな岩がいついつまでも続くということを易々とは受け入れにくい。
しかも『君が代』はそのメロディーにどことなく無常観と無情感が流れている。
しかし『君が代』は、無常観と無情感を感じにくい成長期の子供達の学校行事や血気盛んなスポーツ大会で歌ったり聞いたりすることが多く、さらに事をややこしくしている。若い人の違和感はどちらかと言うとこの部類に含まれるかもしれない。
一般には、解釈されている歌詞の内容とメロディーが乖離している感じがして違和感を抱くことになる。
その乖離(違和感)がそこはかとなく嘘を彷彿させてしまう。

諸行無常(ショギョウムジョウ) 諸行は無常なり
是生滅法(ゼショウメッポウ) これ生滅の法なり
生滅滅己(ショウメツメツイ) 生滅を滅し終わりて
寂滅為楽(ジャクメツイラク) 寂滅を楽と為す

あらゆることに永久はなく変わり続け、生じたものは必ず滅するのがならい。
生き死になど煩悩を自分の心から滅すれば、安らぎの境地に至る。


この世に生まれ落ちた人間の身体の成長期間はそう長くはない。ある時期を超えれば下降の一途、そして人は必ず老いて死んでいく。
盛者必衰、勢いがあるものでも、いつかはそれが終わり衰退していく。
高価で貴重な物がうらぶれて錆びれてゴミの山を作る。
人間はそれに抗うことが出来ないでいる。
混沌から調和へ(カオスからコスモスへ)、調和から混沌へ(コスモスからカオスへ)。


集まれば苔むす!?

なかには「さざれ石」や「巌」や「苔」は単なる比喩に過ぎないと主張する人もいるかもしれない。

中国には諫鼓苔生という慣用句がある。
日本では、諫鼓苔生す(かんここけむす)と読む。

諫鼓とは、中国の伝説上の聖天子が、君主に諫言(君主に忠告)しようとする者に打ち鳴らさせるために、朝廷の門前に設けたという鼓。いさめのつづみ。
慣用句は、君主の善政により諫鼓を鳴らす必要がなく苔が生えるほどに世の中がよく治まっているたとえ。

「さざれ石」や「巌」を比喩として考えると、私は『一人の手』という曲の歌詞を思い出す。

♪一人の人間はとても弱いけど 
それでもみんながみんなが集まれば
強くなれる 強くなれる♫

さざれ石が一人の人間で、みんなが集まったのが巌。
強くなったところで、「一億玉砕」「一億総特攻」すれば、「神州不滅」!?


壮大なスケールで

「さざれ石の 巌となりて(小さな石が大きな岩となって)」は、少し見方を変えると、地球の誕生の比喩でも当てはまる。

地球は様々な隕石がぶつかり合って誕生し、その大きさを増していった。
そしてそこに海が出来て、生命も誕生した。
やがて地球という大きな岩は、木々という名の苔に覆われるようになった。

地球の形成に重要な役割を果たしたのが重力(引力+遠心力)で、宇宙や地球の存続に欠かせないのが重力である。
重力を失えば、今のような形で地球や宇宙が存続することは難しくなる。

しかし実際のところ、地球や生命の誕生に寄与し宇宙を構成するほどの重力であるが、人間のような然程大きなエネルギーを持ってない者にも簡単に逆らえてしまえるほど、重力の力というものは弱い。
人間は重力に逆らって、真っ直ぐ上に腕を上げたり、物を持ち上げたり、ボールを上に放り投げたり、ジャンプしたり出来る。
但し人間は長時間重力に逆らうことは出来ない。

天地創造や人間の誕生を描いた聖書、日本の国土形成や神の誕生を描いた古事記や日本書紀。
それから時はだいぶ流れた。
「千代にやちよに さざさ石の 巌となりて 苔のむすまで」が時代であるならば、とっくに区切りが来ていて、「君が代」は終わっている感じである。





by yumimi61 | 2018-10-26 13:54

「我が君」と「君が代」

『君が代』のルーツって知ってる?

前記事のタイトル「さざれ石」と「巌」は『君が代』の歌詞に出てくる石と岩ですね。

君が代(きみがよ)は、日本の国歌。「天皇の治世」を奉祝する歌であり、「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている。1869年(明治2年)に薩摩藩の砲兵隊長・大山弥助(大山巌)が薩摩琵琶の『蓬莱山』にある『和漢朗詠集』異本の短歌を歌詞として選び、その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省告示以降、国歌として定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化されており、世界で最も短い国歌の一つである。


国旗・国歌の法制化

日本においては国旗と国歌がたびたび問題になる。
正式に法制化したのは小渕内閣の時。
1999年(平成11年)、広島県立世羅高等学校で卒業式前日に校長が自殺した。「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達と、それに反対する現場の日教組教職員との板挟みになっていたことが一因であったという。
これをきっかけに法制化する運びとなった。
ということは、国家が現場の責任者(学校長)に法という盾を与えるということになるので、国が国歌斉唱や国旗掲揚を義務付けなくとも、国の行政機関の1つである文部省(現:文部科学省)の「国歌斉唱と国旗掲揚をしなさい」という通達とセットになれば強制と捉えられても仕方がないだろうと思う。

当時の内閣総理大臣小渕恵三は、1999年(平成11年)6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。
国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております」



国歌『君が代』に何を見るか

何故、国旗や国歌が問題になるのかと思う人がいるかもしれないが、主な肯定的・否定的意見には以下のようなものがある。
<肯定的意見>
・事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
・政治的背景とは無関係に日本的な曲であって、国歌に最もふさわしい
・国民は愛国心を持つことが望ましく、「君が代」を歌うことで、その意識を高めることができる
・歴史的に「君が代」は、国家平安を祈願する歌であり、そもそもの歌詞の意味合いが「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌であり、政治的意図は後付けである。
<否定的意見>
・大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い。
・(「天皇の治世」という意味の国歌は)天皇が絶対的権力者だった大日本帝国憲法には相応と言えても、主権在民の日本国憲法にはふさわしくない。


すなわち、明治以降の富国強兵、天皇制(絶対君主制)、侵略を含め実際に日本が行った幾つかの戦争、徴兵制などの国家による強制(独裁)等を国旗や国歌に見てしまう人が否定的なのだ。


詠み人知らずの和歌

否定的意見に対するために愛国精神を前面に出したのか、君が代の歌詞のルーツは古代に詠まれた和歌だったと言われている。

歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、詠み人知らず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで


頭の部分が「君が代は」ではなくて「我が君は」だったということ。
それがいつからか「君が代は」に変わっていった。

「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている。


国歌の歌詞としての「君」は天皇(君主)の意として捉えられているが、一番最初の歌の「我が君」は「私のあなた」というようなごく個人的な歌ではないかと考えられたり、「君が代」とは「あなたが生きる時代」という意味ではないかとも言われる。


誰がどのような理由で選んだか

数多の和歌からたった1首が選ばれた。
選んだのは薩摩藩士で明治期には陸軍軍人(元帥陸軍大将)で陸軍大臣も務めた大山巌(通称:弥助)。西郷隆盛が従兄にあたる。

(大山巌は)同藩の有馬新七等に影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。

有馬新七の旧姓は坂木。父親が城下士の有馬家の養子となったため有馬姓となった。
大山はどちらかと言えば武道の人で、どうしてこの人が国歌に用いる和歌を選ぶ役目を担ったのかという疑問がわく。
しかも選んだ年は1869年(明治2年)。大山巌は27歳で重鎮というにはまだ程遠い。
では、その頃に大山巌は何をしていたか。

留学
維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。



国歌とは?

国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳したものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。

anthem 聖歌、賛美歌、祝歌、頌歌
anthem(アンセム)は 元々はイギリス国教会で用いられる礼拝用合唱曲。カトリック教会のモテットやドイツのプロテスタント教会のカンタータに相当する。

和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。


音が重要

日本においては歌詞が重要視されるとあるが、和歌は非常に音を重要視している。
その音とは音数から生み出されてくる音(リズム感)である。

古代の和歌は5と7という音数に拘る。
俳句ならば575の3句体、短歌ならば57577の5句体。
この音数より多くなった歌は字余り、少ない歌は字足らずという。
字余りの歌は結構ある。
後世においては自由詩なども登場し、俳句や短歌にしても字数へのこだわりも比較的自由で緩やかになったが、万葉集の時代などは字余りにもルールがあったようだ。句の中に母音が入った時だけとか。
字余りや字足らずで表現することもあり、それが上手くはまっている場合ももちろんあるが、音数が命な歌だけに、字余りや字足らずのルールが特段設けられていない時代ではやはり字余りや字足らずの歌は一段低く見られてしまう。

日本の国歌の歌詞の元になった歌は字余りの歌である。
「さざれ石の」を「さざれいしの」と読めば、音数は6である。
だから和歌として詠むとリズム感が悪くしっくりこない。

国歌にした時には歌詞が先にあり作曲をしたわけで、歌詞に音を当てにいっているわけだから、なんとなく歌う分にはそれほど違和感はないが、意味を考えながら歌うと音節の区切りが気になってしまう。
まさに「さざれ石の巌となりて」の部分である。
スローな曲なので音節が強調されてしまう。
和歌がルーツと聞くと、和歌の音の悪さも際立つので、余計に違和感を感じてしまう。
そこで私は言葉の持つ音に注目してみた。

そして出会ったヘブライ語説。

ヘブライ語説

日本とユダヤのハーモニー ヘブライ語で解き明かす「君が代」より 


ある日、「君が代」がもしかしてヘブライ語で書かれているのではないかと考え、ヘブライ語の発音表記と仮定して幾度となく読んでいると、驚くことに、一見日本語で書かれた「君が代」の歌詞が、最初から最後まで一貫してヘブライ語の詩としても読めることがわかったのです。
「君が代」は、元来ヘブライ語で書かれた歌であり、その歌詞に日本語がオーバーラップされ、巧みに組み合わさって完成した古代の賛歌と言えます。
折句の真髄を極めた天才的な作品である「君が代」には、古代、日本に移住してきた神の民、ユダヤ人の神に対する熱い思いと、その信仰告白とも言える大切なメッセージが秘められていたのです。君が代の意味を正しく理解することにより、古代日本の歴史観が塗り替えられることになります

「君が代」の歌詞は、「きみがよは」から始まります。このフレーズは、ヘブライ語で読むと、「クム・バ・ヨワ」という3つの言葉に分けられます。「クム」はヘブライ語の(kum、クム)が語源であり、「立つ」または「起き上がる」ことを意味します。「が」はヘブライ語で「来る」「来た」、すなわち英語の「come」と同義語である(baah、バ)です。すると、ヘブライ語で「キミガ」の意味は、その発音が多少訛った「クムバ」、すなわち「立ち上がり、来てください!」となります。

「君が代」をヘブライ語で発音してみる!(参考)

ダブル・ミーニング (double meaning) という手法はあるが、それは1つの語に2つ以上の意味を乗せるもの。日本的には掛詞と言う。
しかしこの説では歌詞全体が音を通して別々の意味で独立し成立しており、しかも言語が違うという離れ業だというのだ。









by yumimi61 | 2018-10-23 13:13

「さざれ石」と「巌」

神の名称以外の熊野

これまで「熊野久須毘」「熊野櫲樟日」という神の名称について論じてきたが、今度は地名らしき記述での「熊野」について。

花窟神社(世界遺産の一部)
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。

伊弉冉尊(イザナミ)という日本の国土形成に関わったという神を祀った(埋葬した)箇所としての記述の中に熊野が登場する。

天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。


泥の中にあっても美しい花を咲かせることが出来るという仏教用語「泥中の蓮」的な思想が神道にもあったのだろうか。

読めないっ!

まず伊弉冉尊(イザナミ)という名称だが、これも音読みではないし、訓読みでもない。
音読みならば、呉音でイネンゾウソウとなるし、漢音ならばイゼンソウソウとなる。
別表記としては、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥がある。
アンダーラインを引いたものならば、音読みでイジャナミやイヤナミと読めてイザナミに近い。
伊弉冉尊があまりにイザナミと読めないため、後世に於いて誰かが読めそうな別の漢字を当てたんだろうか。それなら伊座那美にすれば良かったのにと思うけれども。
仏教が蓮の台座だから座を避けたとか?

同じ神だが埋葬場所が文献により違う(日本書紀の三重県の方の話)

(イザナミの)亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。

『古事記』と『日本書紀』では場所が全く違うという・・。出雲が繋いだ縁と言えばよいのかな。

花窟神社(世界遺産の一部)
神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。
古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。

今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。



社殿はないが昔から宮司はいたようで、花窟神社の伝承によると、花窟神社の参拝記念に、版木で刷られた↓の「花の窟木版画」を手渡していたそうである。
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版木製作したのは平安菱川廣隆(1808~1877)。
幕末から明治にかけての画家である。京都に生まれ、初め役者となるが、後に絵画を志し風俗画・大和絵・漢画などを描いて菱川清春とも名のった。和歌山に住んだが、明治10年(1877)に69歳で没した。 

その版木に日本書紀の漢文が刻まれている。
日本書紀曰
伊弉冉尊生火神時被
灼而神退去矣故葬於
紀伊國熊野之有馬村
焉土俗祭此神之魂者
花時亦以花祭又用鼓
吹幡旗歌舞而祭矣


「紀伊国の熊野の有馬村」の怪

上の漢文のアンダーライン部分は「紀伊国の熊野の有馬村」だと解釈されている。
しかし大化の改新前は「紀伊国」と「熊野国」は分かれていたはずである。
分かれていた時代のことを書いているのに、「紀伊国の熊野」と書かれるのはおかしい。「熊野国」と書かれるべきはずである。
もっと言えば、国土作りに関係した神が子を産んだ時(国土や神を作った時)に亡くなったのに、その時すでに「紀伊国の熊野の有馬村」なんて細かい地名が存在していたのか!?という話になると思うが、そこを指摘するのは野暮というものでしょうか。

現在の花窟神社の所在地。三重県熊野市有馬町上地130番地

日本書紀に書かれている「熊野」と「有馬」を合わせてきた感じの所在地となっている。


有馬村は江戸時代に誕生した?

慶長検地帳(1601年、安土桃山時代末)において、現在の三重県熊野市に該当する地域の中に有馬村という地名は存在しない。
天保郷帳(1834年、江戸時代末)では有馬村が見られるので、この間に誕生した地名である。
石高で見れば、室郡池部町が牟婁郡有馬村になったと考えられる。
2つのどちらの時代にも存在している井戸村と合併して有井村となったのは1889年(明治22年)4月1日のこと。
1954年(昭和29年)11月3日に有井村は他の村々と合併して熊野市となった。


有馬という地名

兵庫県神戸市北区の地名。
 ・ 有馬温泉
 ・旧摂津国有馬郡
長崎県南高来郡の自治体名(いずれも、合併により、現在は南島原市)
 ・北有馬町
 ・南有馬町
群馬県渋川市の地名
神奈川県川崎市宮前区の地名。
神奈川県高座郡の地名(合併により、現在は海老名市)
三重県熊野市の地名


群馬県渋川市の有馬

今年の6月10日に群馬県渋川市のスーパーに自動車が突っ込むという事故があったが、渋川市の有馬はそのスーパーの近くの地域である。
有馬にも熊野神社が存在する。
http://www.mikumano.net/zgunma/sibukawa2.html
県道25号線(三国街道)の有馬交差点より西に少し入った所に鎮座。
道路より一段高いところに石祠が祀られている。
境内は遊び場になっておりブランコなどが設置されている。
石祠の後ろには「蚕影山大神」の石碑があるほか庚申塔や石灯籠が周囲に散在している。
御祭神 伊弉冉尊
由緒  不詳
通称「オクマンサマ」。
有馬神戸町の守護神として祀られてきた。
火伏せの神と伝えられる。
(祭神、由緒ともに「渋川市誌」参照」)


(渋川市は)古くから三国街道の宿場町、交通の要衝として栄えた。
その三国街道沿いの地域にあたるが、実は熊野という地名も存在する。
JR上越線の渋川駅前で市役所などがあったりする中心部である。現在は渋川市石原という住所になるが(渋川市は住所に町を付けていない)、その石原の中の一地区。

私はこの辺りにかなり縁深い。

有馬や石原は江戸時代には有馬村や石原村であり、そこは幕府領だった。
明治初年に前橋藩領となり、後に前橋県→群馬県に含まれることになる。
明治22年(1889年)の 町村制の施行により、石原村は他の2つと豊秋村となり、有馬村も他の2つと古巻村になった。

有馬にある若伊香保神社

伊香保と言えば温泉だが、有馬には若伊香保神社もある。

創建は不詳。伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保、上野国三宮)と同一神名を有することから、伊香保神社と同じく豪族の有馬氏(阿利真公)により奉斎されたと見られている。また伊香保神社は元々当地に鎮座したと推測する説もあり、同社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社になるともいわれる。
現在の境内は泰叟寺に隣接して鎮座するが、元々は上有馬に鎮座したといい、享禄元年(1528年)の洪水のため移転したと伝わる(一説に遷座は永享9年(1437年))

六国史時代における神階奉叙の記録 貞観5年(863年)10月7日、正六位上から従五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。
元慶3年(879年)閏10月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。
元慶4年(880年)10月14日、正五位下から正五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。

国史では、「若伊賀保神」の神階が貞観5年(863年)に従五位下、元慶3年(879年)に従五位上、元慶4年(880年)に正五位上に昇叙された旨の記載が見える。しかし『延喜式』神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。

長元3年(1030年)頃の『上野国交替実録帳』では、「正□位 若伊香保社」(位は脱字)と記されるとともに玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇の記載がある[1]。この社殿規模は、伊香保明神社(三宮)、宿禰明神社(四宮:甲波宿禰神社)、椿榛明神社(六宮:榛名神社)と同等のものになる。

また『上野国神名帳』では、総社本において鎮守十社のうちに「正一位 若伊賀保大明神」と見えるほか、一宮本・群書類従本において群馬東郡または群馬郡のうちに「従四位上 若伊賀保(若伊香保)大明神」と記されている。

南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に若伊香保神社の記述が見えるが、その中で若伊香保神社は上野国の五宮であるとされている。上野国の九宮までのうち、若伊香保神社は唯一の式外社になる。

明治に入り、近代社格制度では村社に列した。現在は泰叟寺に隣接して小祠を残すのみとなっている。





by yumimi61 | 2018-10-22 14:50

明鏡止水


別れ際ついでみたいに渡す君 逢い見ずならば哀しからずか

・前記事に九州と書いて思い出したけど、博多の屋台の焼き鳥屋さんではざくぎりキャベツが付き物で、それにかけるタレが独特だとか。
そのタレを全国展開させたものが、くばらの「キャベツのうまたれ」。
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・昨日、とある道の駅に立ち寄ったら、おそらく娘と母であろう女性2人の娘の方がお母さんに話しかけていた。
「ねえ、これ美味しいよ。買ったら」
私は興味津々その娘が勧める商品を目で追った。すると「卵がけご飯にかける醤油」だった。
200mlくらいで500円くらいの商品。
「いらない」というお母さん。
「買いなよ」という娘。
「いい、買わない」とお母さん。
やっぱり普通の醤油とは全然違うんでしょうか?
ちなみに私、刺身専用醤油は買ったことがあるんですが、正直「う~ん、どうなんだろう」という感じでした。

・たぶんタレの時代なんだと思う。お店にはいろんなタレが並んでいて目移りする。
買ってみたものの大して使わずに冷蔵庫を占領するタレも少なからず。
現代人の日常は忙しい。朝に夜に料理にかけられる時間と気力はどれほどかと考えてみれば自ずと知れる。(朝夜に、あるいは夜に、昼も加わるとぶちぎれる主婦は多いとみる)
現代人の余暇は増えた!?時間とお金がある現代人がしたいことに優先順位を付ければ料理は上位にこないであろう。
計量スプーンで調味料を一つ一つ計って調理する時は一時、あるいは一握り。
家庭用の調味料の消費量は減っているんだろうと思う。
家庭でだしをとるということが廃れていき化学調味料にとって代わったように、現代では結構年齢が上の料理をする世代のベテラン主婦でも、めんつゆを調味料代わりに多用する人が増えていたりもする。
納豆にだってタレが当たり前のように付いているし。



熊野はどこから

神の名はトウコククンカ(仮説)。
誰かが当てはめた。「湯谷燻火」とか「東国君下」とか。
音読みならばどちらも「トウコククンカ」、訓読みならば「ゆやくすび」や「ひがしくにのきみのもと」とか。
そして、どうせ「ゆや」なら「湯谷」よりも「熊野」のほうがいい、東の国はダメダメ西の国のほうがいい、そう思う人がいたのでは。


次には、誰が「熊野(ユヤ)がよい」と言ったのかという話になろう。
それは「熊野(ユヤ)」が身近だった人と考えるのが妥当だろう。

①湯立神事に用いられたと考えられる熊笹が身近にあった地域。
熊笹は山地で生息するササであるし、そのうえ山岳信仰があるならば、「熊野」は山地である。
「湯谷(トウコク・ゆや)」と「熊野(ユヤ・くまの)」を掛け合わせることが出来る地域。
音読みならば「トウコククンカ(湯谷燻火)」であるが、訓読みが出てきた後の世代でそれを訓読みさせた時には「ゆやくすび(湯谷燻火)」となる。この時に湯谷(ゆや)を熊野(ユヤ)に置き換えたことがあった。
置き換えると、音読と訓読が混じってしまい当初の使い方からは外れるが、神事という意義的には大きく外れていないので庶民が通称などで使う分には目くじら立てるほどのことではなかったのかもしれない。

②熊野という地名の地域。
「トウコククンカ(湯谷燻火)」→「ゆやくすび(湯谷燻火)」→「ユヤくすび(熊野燻火)」→「くまのくすび(熊野燻火)」→「くまのクスビ(熊野久須毘)」
「熊野」と書いて「ユヤ」「くまの」と読むことを知り、「くまの(熊野)」地域の人が「くまのくすび」と呼ぶようになった。

紀伊半島の熊野はわりと新しい


現在では世界遺産になっている和歌山県の「熊野三山」が有名だが、この地域の地名は熊野ではない。
現在の所在地は、和歌山県田辺市・新宮市・東牟婁郡那智勝浦町、である。
但し大化の改新前、紀伊半島南端部(現在の和歌山県南部と三重県南部)は熊野国であった。

上古には熊野国があり、成務期までには熊野国造が置かれるようになったが、大化の改新後の孝徳期 (645年〜654年)、紀伊国に牟婁郡として併合された。併合前の熊野の範囲は、西は田辺市田辺地域を含まず、東は現在と同じだったが、併合時に、田辺にあった牟婁郷と合わせて牟婁郡とし、その一方でのちの北牟婁郡は志摩国英虞郡に移された。

要するに紀伊半島の熊野国は大化の改新とともに紀伊国に入り、熊野という地名(国名)はその時に消滅している。

現在の和歌山県南部に熊野という語が入る地名が復活したのは1956年(昭和31年)9月30日のこと。
小口村・三津ノ村・九重村・玉置口村および敷屋村の一部が合併して「熊野川町(くまのがわちょう)」が発足した。
しかし2005年10月1日に新宮市と合併し、熊野川町は廃止された。(新宮市内の町名としては残っているが)
熊野三山を大々的に売りにしているわりには、熊野川町という熊野が付く名称を再び消滅させた。

現在の三重県南部に熊野が復活したのは1954年(昭和29年)11月3日。
木本町・荒坂村・新鹿村・泊村・有井村・神川村・五郷村・飛鳥村が合併して熊野市(くまのし)が発足した。
さらに2005年11月1日、南牟婁郡紀和町と新設合併し、新たな「熊野市(くまのし)」が誕生した。
これによって「熊野」の地名を持つのは、和歌山県ではなく三重県となった。

どちらにしても紀伊半島の熊野は第二次世界大戦後に誕生したもので、それほど古い歴史を有していない。大化の改新前の熊野国からは1300年ほどのブランクがある。

熊野川

奈良県の中部にあたり奈良県吉野郡天川村の山上ヶ岳(標高1,719m)を水源として奈良県から和歌山県、三重県と流れて海に注いでいる川がある。
その川を上流地域では「天ノ川」と呼び、十津川郷では「十津川」と呼び、和歌山と三重県流域では「熊野川」と呼んでいるという。
1956年(昭和31年)に熊野川町が発足しており、おそらくその前後に十津郷の十津川にちなんで、熊野川と呼ぶようになったと考えられる。

1970年に一級河川の指定を受けた当初は新宮川(しんぐうがわ)であった。
その後、1998年4月9日に法定名称が熊野川と変更されたが、水系名は新宮川水系のままである。

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和歌山県もだいぶ市町村合併が進んでいる。左側が古い方で、右側が新しい方。田辺市はかなり広がっている。
赤丸が熊野三山(3つの神社)の位置。
青で記入した線が熊野川。
赤で囲んだところは飛び地となっていて(その奥も飛び地)和歌山県であるが奈良県や三重県に囲まれている。玉置神社は奈良県にある。
飛び地部分はかつては玉置口村という行政区だった。
その後は熊野川町に属し、さらに熊野川町が新宮市となったため、現在は新宮市熊野川町玉置口ということになる。
旧熊野川町は左の地図で茶色線で囲った所。


「熊野」の語源の幾つかの説

・『古事記』によると、神武天皇が大熊に会ったためと言うが、地名起源神話にすぎず疑わしい。

・『紀伊続風土記』によると、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、つまり、鬱蒼たる森林に覆い隠されているためという。あるいは、死者の霊がこもる場所とも解釈される。

・出雲国の熊野(現 島根県松江市熊野)の名が移されたとの説もある。


十津川郷と玉置神社と出雲大社教

実は明治以降の十津川郷(奈良県十津川村)は出雲大社に縁深い地域である。
玉置神社は実のところ「出雲大社教玉置教会」なのだ。
明治新政府による神仏分離と仏教廃除によって、十津川村の氏子は全員「出雲大社教」の信者になったらしい。
葬祭が出来なくなったということだが、廃除されたのが仏教の寺の方なので、神道の玉置神社が存在していれば、その神社を通して神葬祭にすればよかったような気がするが、玉置神社では出来なかったということだろうか。
氏子が全員出雲大社教に入信したということは、全員が宗教団体への入会(入信)を余儀なくされたか、あるいは村民自体がそっくり入れ替わったということになる。

廃仏毀釈後、十津川村に点在した寺が全て全廃したため、葬礼などの人生儀礼に行き詰まった村民たちは、議会議決を以って、当時、神葬祭が可能である出雲大社教に求めた。
氏子二千数百世帯の家宗を統一するために、村内宗社である玉置神社に隣接した土地(現在は境内に含まれる)に教会が奉斎された。明治4年に全郷神葬祭に改め同19年に出雲教会の加入の入会式を行う。


北海道の新十津川町のほうも同様で、町内に「出雲大社新十津川分院」が存在する。




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by yumimi61 | 2018-10-21 11:18

縦横無尽

まだ訓読みが存在していなかった時代

『古事記』『日本書紀』『万葉集』が書かれた時代には平仮名やカタカナは存在していなかった。
それは言葉が存在していなかったということではない。
平仮名やカタカナという文字が存在していなかったのである。
言葉を話したり聞いたりすることは出来るけれど(使うのは口と耳)、その言葉を書いたり読んだりすることは出来なかった(使うのは目と手)。(共通して使うのは脳)
もっとも絵文字や象形文字、ある地域だけに伝わる文字などはあったと思われる。

漢字という文字が『古事記』『日本書紀』『万葉集』が書かれる時代前に日本に入ってきていた。
だから『古事記』『日本書紀』『万葉集』は漢字によって書かれた(はずである)。
中国は広い国で言語(方言)も種類が多かったので、話す聞くだけでは意思疎通が難しいこともあり、目で見て理解できる文字(漢文)というものが早くに確立し普及した。そこには仏教など宗教も関わっている。
中国から入ってきた漢文であり、その読み方も同じものを学んだわけであるが、中国人と日本人ではやはり発音(聞こえ方)が違うため、中国語の読み方と日本語音読みは完全には一致しない。
時間の経過によって日本国内で独自の変化も遂げたため、さらに乖離してしまっている。

『古事記』『日本書紀』は漢文である。
中国の漢文には返り点はなく、『古事記』『日本書紀』が書かれる時代にも返り点は存在しない。
返り点とは、漢文の訓読において返り読みの順序を示すために施される符号。漢字の左下に小さく記入するもの。
訓読は日本独自のものである。
訓読するために返り点や送り仮名を記入したが、その際に漢字をごく簡単に省略して書くようになった。それがやがてカタカナという文字として成立していく。
平仮名も漢字から変化したもの。

以前載せた中国の漢詩『代悲白頭翁』の一節を例に説明する。(横書きにしていますが通常漢文は縦書きです)
左側が漢詩(漢文)。中国では音読みし、そのままの状態で意味も理解する。
日本ではこれを一旦訓読みに直して意味を理解する。訓読みにしたのが右側である。
右側の状態にするために日本では独自に漢文に返り点という符号や送り仮名を書き入れたわけである。

古人無復洛城東     古人 復た洛城の東に無く
今人還對落花風     今人 還た落花の風に対す
年年歳歳花相似     年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同     歳歳年年 人同じからず

現代では右側の状態でもまだ意味が分かりにくいという人も多いだろうから、さらに分かりやすい文章にする。↓
昔洛陽城の東で桃李の花を楽しんだ人たちは既に亡くなり、現在を生きる人たちがその花が散る中を春風に吹かれている。花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。


万葉仮名

『万葉集』の歌や『古事記』内に収められた歌は、万葉仮名を用いている。
万葉仮名(まんようがな、正字体:萬葉假名、正仮名遣:まんえふがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。『萬葉集』(万葉集)での表記に代表されるため、この名前がある。真仮名(まがな)、真名仮名(まながな)、男仮名、借字ともいう。仮借の一種。

日本語の音数にこだわる歌を、漢文で表し、それを音読みにしてしまったら、例え歌の意味合いが同じであったとしても音数が変わってしまい、違う芸術作品になってしまう。
そこで音数そのままに文字で表すために、漢字が持つ意味は無視して音だけを借りたのが万葉仮名である。
平仮名が確立される以前の歌は万葉仮名で記された。

万葉仮名を簡単に言えば、「よろしく」を「夜露死苦」と書くようなことであるが、「夜露死苦」の夜(よ)は訓読みなので、これは万葉仮名とは言えない。万葉仮名(音読み)では「やろしく」になっちゃうのだった。残念!


神の名前も万葉仮名

神の名称「クマノクスビ」の話に戻る。
・『古事記』では「熊野久須毘」。
熊野は訓読み、久須毘は音読みである。 
・『日本書紀』本文では「熊野櫲樟日」。
全て訓読み由来である。


音読しかない時代に書かれたのだから、読み方としては全て音読である。

「熊野久須毘」は、呉音(日本では奈良時代前)では「ウヤクスビ」か「ウジョクスビ」、漢音(日本では奈良~平安時代)では「ユウヤキュウシュヒ(ユヤキュウシュヒ)」「ユウジョキュウシュヒ(ユジョキュウシュヒ)」、また「ユヤクスビ(ユジョクスビ)」、「イヤクスビ(イジョクスビ)」「イウヤキュウシュヒ(イウジョキュウシュヒ)」という読み方も考えられる。

「熊野櫲樟日」は、呉音では「ウヤヨショウニチ」「ウジョヨショウニチ」、漢音では「ユウヤヨショウジツ」「ユウジョヨショウジツ」、また「ユヤヨショウニチ(ユジョヨショウニチ)」「イヤヨショウジツ(イジョヨショウジツ)」「イウヤヨショウジツ(イウジョヨショウジツ)」という読みもあり。

「熊野久須毘」「熊野櫲樟日」が神の名称という固有名詞だったとするならば、後世においてもこれが訓読になることはありえない。
訓読にすべきものではない。何故なら歌と同様に書いた時に万葉仮名を用いたからである。


キュウシュは九州?

神や日本という国の始まりは現在の九州だったということになっているのが『古事記』や『日本書紀』であるが、「熊野久須毘」の’久須’を漢音読みすると「キュウシュ」であり、九州(キュウシュウ)に似ている。
「久須毘」は「キュウシュヒ」と読めるわけだが、九州の妃と思ったとか?
九州有力説はここから生まれたんだろうかとも思えるが、しかし九州という地名は『古事記』や『日本書紀』の時代に日本では存在していない。

九州
北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である。


そういえば、九州には9県あるわけではないって福島さんも言ってた。(誰やねん?)(なんでやねん?)

ではいつ頃に「九州」なる言葉は登場してきたのか?

16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができるが、この名称がいつ生まれたか正確な時代は不明であるが、鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指すが、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある。

中国での九州(きゅうしゅう、くしゅう)
中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。中国では天下、世界全体の意味で用いられる場合もある。


トウコククンカという新説

熊野という漢字表記を信じれば上に書いたような音読になるが、様々な観点から熊野信仰には湯が関係していると考えられてもいる。
「熊野」という漢字の代わりに「湯谷」や「湯屋」という漢字が当てられることもある。

熊野を「くまの」と読めば訓読み、「ユヤ」と読めば音読み。
湯谷は「ゆや」と読めば訓読みである。音読みでは「トウコク(ショウコク)」ということになる。

これは私の勘に過ぎないが、熊野という漢字が使われている神の名称は「トウコククンカ」だったのでないだろうか。
これを漢字で表すには、音読みの音に対応する漢字を当てはめる必要がある。(万葉仮名)
誰かが当てはめた。「湯谷燻火」とか「東国君下」とか。
音読みならばどちらも「トウコククンカ」、訓読みならば「ゆやくすび」や「ひがしくにのきみのもと」とか。
そして、どうせ「ゆや」なら「湯谷」よりも「熊野」のほうがいい、東の国はダメダメ西の国のほうがいい、そう思う人がいたのでは。


「ひがしくに」と言えば

久邇宮(くにのみや)という宮家があった。
明治時代前期に、現在の天皇の曽祖父と言われている伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家である。
その久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が明治後期に創立した宮家が東久邇宮(ひがしくにのみや)だった。

東久邇宮
後継には恵まれたが、1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱。よって一代限りの宮家となった。その末裔は、現在の皇位継承問題などと絡んで旧皇族の中では露出度が高い。





by yumimi61 | 2018-10-19 11:14

転換点

「熊野」という言葉は『古事記』や『日本書紀』にも出てくる。

『古事記』と『日本書紀』は日本の創成期からの歴史書として知られているが、明治天皇と明治新政府がそれまでの歴史を大幅に修正し、それを天下周知させ、教育現場に持ち込んでそう教え込んでいったように、往々にして時の権威権力者やその取り巻きらは歴史を修正してしまう。
自分によって都合の悪いことは抹消し、都合の良いように書き換えるのだ。

神話的なものから日本の創成期の歴史を書かせたのは。何といっても第40代の天武天皇(在位:673年-686年)である。
645年、朝鮮半島の南部から進貢の使者が来て宮中で儀式が行なわれた。 大化の改新につながるクーデターはこの時に起こった。
大化の改新を境に「日本」という国が中央集権化していくのである。
日本史上最大の謎は、大化の改新か明治維新かと言われるくらい、謎多い転換点である。
その転換点には中国や朝鮮の人物が関係しているのではないかと考えられる。

天武天皇が命じたことを現代に例えるなら、現天皇が今生きている誰かに、「700年前後の歴史を詳しく書き記しなさい」と命じたということになる。(初代天皇は紀元前600年頃に没したことになっているので、天武天皇の時代の約1300年前)
「今日から日々の出来事を書き留めなさい」、「今日から毎日の日記を書きなさい」、と命じたわけではない。
もしあなたが命じられたとして、700年前後(飛鳥時代)の日本全体の詳細や力関係を書けますか?

その時代を生きていない者に書けるとしたら、その時代を書いた他の文献を基に(参考に)して書くか、自分で勝手に創り出したフィクションを書くかである。
文献を参考にしたとしても、その文献を書いた者が誰なのかという問題がある。その時代を生きた人間が書いたかどうか。どこに暮らすどういう立場の人だったのか。事実に忠実かどうか、著者の主観や脚色が入っていないか。権威権力者や編集者による圧力や変更はなかったか。
嘘偽りない歴史を残すということは本当に難しいことだと思う。
もっとも嘘偽りない歴史が人間が生きていくために本当に必要なのかという命題もあるかもしれないが。

本来1つ2つの、しかも権力者が介在している歴史書で歴史を決定するのは実に危ういことである。
現代では教科書が公的な歴史書の役割を果たし、テストや試験や受験等で教育者や子供たちを縛り付けて、他の視点を許さない状況を作り出している。

(過去記事より)
古事記と日本書紀
古い時代の天皇史は日本書紀を中心に紐解かれている。
現代の扱いでは日本最古の歴史書が『古事記』、次が『日本書紀』となっている。
天智天皇(在位:668年-672)の時に朝廷に保管していた歴史書が火災によって燃えてしまった。
そのため失った国記に変わる歴史書を次代・天武天皇(在位:673-686)が編纂させた。
しかしそれがそのまま『古事記』だったということではない。

『古事記』
完成は712年。
古事記の資料は天武天皇の命で編纂された『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)である。
取り扱いは第33代推古天皇(在位:593-628)まで。但し第24代仁賢以降は説話や伝承が全くなく系譜のみ。
古事記には天上の国とする「高天原」という語が多用されている。(日本書記には無い)
歌を多く用いているのも特徴的。

『日本書紀』
完成は720年。天武天皇の命から38年の歳月を要した。
最初は川島皇子ら複数名に命じた。
川島皇子(父は天智天皇、母は小豪族出身の女官)は大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女)(大田皇女の父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の遠智娘)の友人であったが、大津皇子が謀反計画を持っていると朝廷に密告したとされる人物。これにより大津皇子は亡くなっている。
唐(中国)の歴史書風なものを目指していたとされる。執筆は複数人でその中には中国人も含まれるようだ。
用いた資料も多く、執筆量も古事記の比ではないが、意図的な取捨や改ざんが行われているとも言われている。
取り扱いは第41代持統天皇(在位:690-697)まで。

執筆者がどんな一族の者だったのか、誰派だったのか、そうしたことが重要になるはずなのだが、執筆者の詳細はほとんど不明である。
完成までに年月がかかっていることから執筆者が途中で交代したことも考えられる。(その際に追記や改ざんを行う)
また分担して執筆したであろうから、代毎の執筆意図や人物評価が一様でない可能性もある。
現代においては古文を現代分に置き換えて読み解く必要もある。
従って非常に難解である。
但し天智天皇・天武天皇が後世に史実を残すことを試みたということだけは確かであり、やはりそこに深い意味があると思わざるを得ない。

「天皇」の起源は明治時代、確定は大正時代
「天皇」という名称がいつから使われ始めたのかも実ははっきりとしていない。
古くは各国に王がいて、その中の一番の権力者が「大王」と呼ばれていたと考えられている。これが倭国(大倭)の王だったと思われる。
かつて天皇というのは死後に与えられた称号であって、生前から天皇と呼ばれていたわけでもないし、死後にも天皇という称号が与えられなかった人物(天皇)もいた。
それが全て「天皇」で統一されたのはたかだか明治時代のことだ。
裏を返せば、古事記や日本書紀の時代はもちろんのこと、それ以降も「天皇」という存在は実に不確かなものなのである。



日本史上最大の謎は「西」からもたらされた
『日本書紀』や『古事記』における古代日本は西の九州が有力で、神なども西から起こったことになっている。
西の神や有力者が東の大和(現在の奈良県)に征服にやってきて、そこを手に入れ住まわって都にしたというのが、日本創成期の歴史である。
大和よりさらに東の地は未開であり全く文明たるものがなく有力者も存在しなかったというのが九州有力説である。すなわちそれが現代において公的に認められている歴史観なのだ。
しかし古代には幾つもの国が存在していて、それぞれに王がいた。その中で有力な国が倭国だったという見方もあり。中国歴史書から見てもこの説の信憑性が高いような気がする。
『日本書紀』や『古事記』と同じ頃に編集されている『万葉集』など歌集における東国は、大和ではなく、大和から見て東の関東近辺である。

クマノクスビ
後世において熊野詣が流行ったり、世界遺産で「熊野」が重要視された理由の1つはおそらく『古事記』や『日本書紀』に日本神話の神の名称やその他にも幾度かその名が登場するからなんだろうと思う。

クマノクスビは日本神話に登場する神である。
(『古事記』や『日本書紀』に記される)誓約の段において、素戔嗚尊が天照大神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた五柱(『日本書紀』第三の一書では六柱)の神の一柱で、天照大神の物実から生まれたので天照大神の子であると宣言された。

『古事記』では熊野久須毘命、『日本書紀』本文では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、第一の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)、第二の一書では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、第三の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)またの名を熊野忍隅命(クマノオシクマ)、別段(岩戸隠れ)第三の一書では熊野大角命(クマノオオクマ)と表記されている。いずれも最後(5番目または6番目)に化生した神とされている

神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)もしくは「奇し火」の意と考えられる。



「クマノクスビ」の漢字について
・『古事記』では「熊野久須毘」。
熊野は訓読み、久須毘は音読みである。 

・『日本書紀』本文では「熊野櫲樟日」。
全て訓読み由来である。
由来と書いたのは、「櫲」「樟」という漢字はどちらも1字での訓読みでは「クスノキ」と読むから。
訓読みとしてクスに当てるなら2字入れずに1字でも成立した。
2字「櫲樟」では音読みで「ヨショウ」と言うが、これは「クスノキ」の別称である。
「櫲樟」と2文字入れて「櫲樟日」とすると却ってクスビとは読みにくくなってしまうのだ。

クスノキで思い出しただろうか。新田義貞などが味方となった後醍醐天皇に付いた楠木正成の「楠木」も「クスノキ」である。「楠」1字でも「クスノキ」。

クスノキというのは木の名称。

クスノキ(樟 Cinnamomum camphora)
クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。
世界的には、台湾、中国、ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。とくに神社林ではしばしば大木が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある。


しかし厳密には「楠」はクスノキではなくてタブノキのこと。似ているが属が違う。

一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中国のタブノキを指す字である。別名、クス。


タブノキ(椨 Machilus thunbergii)
クスノキ科タブノキ属の常緑高木である。
イヌグス・タマグス・ヤマグス・ツママとも称される。単にタブとも。ワニナシ属(Persea、アボカドと同属、熱帯アメリカなどに分布)とする場合もある(学名:Persea thunbergii)。
日本では東北地方から九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っている。また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」と呼ばれ有名である。


クスノキもタブノキも暖地を好む木であり日本では西に多い木だが、北限は東北であり、寒い地域で全く育たないということはない。
また沿岸に多い木であるが、群馬県のような内陸部でも見られる。
桐生市にある群馬県指定天然記念物の「野の大クスノキ」





by yumimi61 | 2018-10-18 15:07
※「平民」は、明治維新から第2次世界大戦後の 1947年まで一般庶民に用いられた身分呼称。

(前記事の続き)

熊野(ゆや)と平宗盛
能を代表する『熊野(ゆや)』の熊野とは主人公の女性・熊野御前のことである。
当時の日本三大美人の一人 熊野(ゆや)御前は、平安時代末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、大変寵愛された女性。

平宗盛
安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・ 建礼門院は同母妹である。

熊野御前の墓があるのが静岡県磐田市池田330にある行興寺。行興寺は浄土宗のお寺で、藤で有名らしい。


平氏の時代
平氏(平家)が登場するのは平安時代である。平安時代(794-1185年)は奈良時代の後で、鎌倉時代の前。
平氏(平家)とは「平」を氏の名とする氏族のことでもあり、日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の1つだった。
平氏も源氏も元々が天皇を始祖とする由緒ある家系。
本を正せば皇族であり公家ということになり、自ら武装しないという選択もあったわけだが、公家だけには収まらず武士(武将)としても活躍をしていくのが平氏や源氏である。
子供が多くいて時代が行けば傍流は増えていくが、その全てが後世に名を残しているわけではない。

武家に繋がる源氏は概ね清和天皇(第56代、在位858-876年)の子孫である清和源氏と呼ばれる一族である。平氏(平家)を倒して鎌倉幕府を開いたのも清和源氏なら、鎌倉幕府を倒した新田義貞や室町幕府を開いた足利尊氏も清和源氏、戦国時代を戦い抜き戦わない江戸幕府を作った徳川家康も清和源氏である。

一番最初の平氏は桓武天皇(第50代、在位781-806年)の子であり、桓武平氏と呼ばれる。平安京にちなんでの「平」(和訓では多比良)だったらしい。
平氏にはそのほか、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の4つの流派がある。
武家平氏として後世においても活躍が知られるのは、桓武平氏のうちの高望王流坂東平氏の流れのみ。
これに該当する末裔が常陸平氏・伊勢平氏・坂東八平氏・北条氏など。
「東国の源氏、西国の平氏」という俗説があるが、高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は当然のことながら武家平氏の盤踞地であった。すなわち坂東平氏の一族がその後中央(朝廷)に勢力を伸ばし、西国にも平氏勢力が広がったとするのが適当である。

東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。



熊野(ゆや)を見初めた平宗盛は平清盛の息子
平氏で一番名が売れているのは平清盛だと思うが、彼は伊勢平氏の棟梁家の生まれで、長男だったので自身も棟梁を継いだ。
なぜ平清盛が有名なのかと言うと、日本初の武家政権を樹立させた人物だから。
平安時代末期(1160年代 - 1185年)が平氏政権だった。
しかし源氏がその継続を許さなかった。

(平清盛は)平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

「後白河法皇」とは、後白河天皇(第77代)が皇位を15歳の息子(第78代二条天皇)に譲った後の名称。皇位は譲ったが院政として天皇に代わり直接政務に関わるという政治形態を採っていた。
後白河天皇の子で第80代天皇の高倉天皇と平清盛の娘(平徳子)の間に産まれたのが安徳天皇(第81代)だが、平清盛はその子が僅か1歳の時に天皇に即位させ実権を握った。
子を表にだして実権を握るというのは、後白河天皇も平清盛もどっちもどっちな感じだが(天皇が低年齢化しているが)、結局平安時代は源氏に倒される。

熊野(ゆや)を見初めたという平宗盛は平清盛の三男。安徳天皇の母(平徳子)も平清盛の娘であり平宗盛の妹にあたる。


平清盛の妻(平時子)の弟の娘が中山家始祖の嫁
平宗盛や平徳子の母親は平時子という女性(もともと平氏)。後妻として平清盛の正妻になったらしい。
平時子の弟に平時忠がいる。
時忠は平清盛の妻の弟だったことから、平清盛亡き後、平家一族の纏め役であったという。
源氏の時代には、現在の石川県珠洲市大谷町に配流された。
この平時忠の娘の1人は、明治天皇の生母と言われる中山慶子を出した中山家の家祖・中山忠親(水鏡 の作者と云われている)に嫁いでいる。


幕末の中山家は討幕派であり十津川郷の天誅組とも関係あり
中山慶子の父親は中山家の第24代当主・中山忠能である。

(中山忠能の)子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。



世界遺産に含まれる十津川村の玉置神社について
十津川村は奈良県にあり、しかもその地は地理的にも歴史的にも独立独歩の精神を持ち、周辺に簡単に迎合するような土地柄ではなかった。
しかし世界遺産には通路の道中としてその地が含まれていて、和歌山県田辺市の熊野三山(熊野本宮大社)の奥宮として奈良県吉野郡十津川村の玉置神社が位置づけられている。

●玉置神社
大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。

社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ、古来より十津川郷の鎮守であった。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡 』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である。


要するに記載がない、辻褄が合わないということで、神社の古い歴史に何の裏付けも取れないということである。

●水鏡
『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。
国書の伝存目録である『本朝書籍目録』仮名部に「水鏡三巻 中山内府抄」とみえることから、作者は中山忠親説が有力である。しかし、源雅頼説などもあり未詳。

神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を編年体で述べている。73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという形式になっている。『水鏡』独自の記事があるわけではなく、僧・皇円が著した『扶桑略記』から抄出したものである。ただし、序文には著者独自の歴史観が盛り込まれており、そこには特異性が認められる。


●皇円(こうえん)
平安時代後期の天台宗の僧侶である。正字では皇圓。熊本県玉名の出身で肥後阿闍梨とも呼ばれ、浄土宗の開祖法然の師でもある。王朝も末期に成立した、編年綱目の体裁を採る国史略のうち「扶桑略記」を撰した(ほかに「日本紀略」「帝王編年記」)。弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。


玉置神社の説明に、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、とある。
これは、『水鏡』に書かれている新宮の創祀と、神社伝『玉置山縁起』による玉置神社の創建年が同じになっているという意味である。
しかし熊野三山で新宮と言えば、和歌山県新宮市新宮1にある「熊野速玉大社」のことを指し、玉置神社でも本宮大社でもない。玉置神社は奥宮という位置づけ。
熊野三山だとしても奥宮と新宮というそもそもの違いがある。
実際『水鏡』の新宮の創祀前後がどのように書かれているか知らないが「新宮」は「新たに創建された神社」という一般的な言葉であり固有名詞ではなく、これだけでは熊野三山と特定することは出来ない。
また細かいことを言うようだが、創祀=創建でもない。創祀は最初に神を祀ることで別に建物は必要ない、創建は建物を設置することである。
新宮の創祀=奥宮の創建と言うのは無理があるので、無理やりこじつけたものであろうという判断がなされているということ。
実際のところ、熊野三山(3つの神社)の創建年はどれも不詳である。





by yumimi61 | 2018-10-16 15:37