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やがてそこに。


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神社業界の動揺

1945年(昭和20)12月15日、GHQから通称「神道指令」が出され、全国の神社は国家の管理から離れることになった。

神社は明治維新後に新しく誕生したものではなく古くから存在していたものである。
従って昔のように沢山の神様が存在し地域あるいは個人の単位で信仰していた神社神道に戻せば良かったのだ。
そして1つ1つの神社が正々堂々と宗教であると言えば良かったのである。
しかし明治期の中央集権でもって伊勢神宮を中心とした国家神道=神社神道という形が築かれていたので、国家神道と神社神道の区別が付いていなかったのだろうう。
「神道廃止」と聞けば明治初期の「廃仏毀釈」で仏教寺院などが破壊されたことをイメージしてしまい、「アメリカ(GHQ)にやられる」と恐怖に慄いた神社も多かったのではないだろうか。

またそこまでではないにしろ、国家管理から外されると聞いて、何か見捨てられたような感じを受けたのかもしれない。
マインドコントロールされた状態は拘束など必要ない。
物理的に縛りつけておかなくても、ドアが開かれていても、そこから逃げ出そうだなんて思わなくなってしまうものである。むしろ管理から外れると不安になってしまうのだ。

うちの猫は家の外が好きで、家に閉じ込めておいても隙あれば逃げ出そうとする。
うちの犬も外は好きである。でも窓を開けても玄関を開けても慌てて逃げ出そうとなんてしない。外でリードを付けて散歩していて、うっかりリードが手から落ちようものなら犬は自分で立ち止まり、「え?」とまるで捨てられてしまったような表情を浮かべて佇む。
種類にもより個体差もあるだろうけれども、猫はマインドコントロールされにくい生き物だろうと思う。犬はされやすい。

ひょっとすると国家や天皇という絶対権力者に付いていることでの優遇や優越感を得られなくなるという打算からくる危機感もあったかもしれない。


洗脳とマインドコントロール

洗脳は拷問を行ったり暴力をふるったり薬物などを使用して、精神構造を強制的に変えさせ、ある種の思想を植え付けたりすることである。
長時間眠らせない、食事をさせない、繰り返しの強制労働、脅迫、監禁なども洗脳を行う手段となる。
洗脳はもともと戦争と深く関係しており暴力的要素が非常に大きい。
暴力的要素が大きいとは、心身への侵襲が大きいということである。殴る蹴るの暴力だけが暴力ではない。

暴力とは他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、 心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。

モラルハラスメント
フランスの精神科医、マリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した言葉。
外傷等が残るために顕在化(見える化)しやすい肉体的な暴力と違い、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は見えづらいため、長い間潜在的な物として存在していたが、イルゴイエンヌの提唱により一般にも知られるようになった。

イルゴイエンヌは、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘いが、精神的な暴力は肉体的な暴力と同じ程度に、場合によっては肉体的な暴力以上に人を傷つけるもので犯罪であると述べる。
フランスにおいては、1998年時点では、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘く、肉体的な暴力に対して厳しいので、その点が問題だという。
イルゴイエンヌは、セラピストとしてたくさんの被害者に接してきた結果、被害者が加害者の攻撃から身を守ることがいかに難しいか、よく知っている。ストレスは行き過ぎなければ心身に深い傷を与えないが、これに対してモラル・ハラスメントは、心身に深い傷を与えるのが普通の状態なのである。「モラルハラスメントがどれほど被害者の心身の健康に破壊的な影響を与えるのか、その恐ろしさを嫌と言うほど見てきた。モラルハラスメントは精神的な殺人である」とも述べている。



直接暴力を加えられた人だけでなく、それを見た人なども間接的に暴力被害を被ってしまうこともある(心のダメージ)。
この場合、トラウマのところに書いた②の主観的手法で何度もその場面を思い出したり意識してしまい、結果同じように洗脳されてしまう。

マインドコントロールはそれほど暴力的ではない。
叩いたり叱り飛ばさなくても犬に芸や躾けを教え込むことが出来るのと似たようなことである。

次の記事はマインドコントロールの話ですが、便宜上「洗脳」と表現しているそうです。
でも「コストカッター」なんて異名を持つ「カリスマ」は十分に人を洗脳してしまう要素はあるだろうと思う。
身体への暴力、精神への暴力と同様に、お金のパワーで人を制御すようとするマネーハラスメント(国際社会もよくこの手を使うでしょ?)も人々を追い詰めるのに十分なものとなる。

カリスマはみな知っている「洗脳」の極意  2013.7.11
立正大学心理学部教授 西田 公昭  PRESIDENT 2012年10月1日号

カルト教団や悪徳商法など“洗脳”者は「(1)理想描写→(2)理論提供→(3)現状把握→(4)目標設定→(5)支援表明」という手順の「型」を持ち、これを駆使します。

(1)は、ターゲットとなる人物に接触し、その人の「夢・理想の世界」を一緒に描いてやり、われわれと行動すればそれが実現できると訴えること。ターゲットが「そんなことが可能か」と懐疑的な場合は、すかさず(2)です。こんな理論や法則がある、と裏付けを見せることで安心させ、「ならば、自分にもできるかもしれない」とモチベーションを上げさせる。しかし、ここで一度冷や水を浴びせます。これが(3)の現状把握です。「理想はココ、今のあなたはココです」と。「やっぱりムリか」と落ち込んだとき、“洗脳”者側が繰り出すのが(4)の目標設定です。「小さな階段を上っていけば理想に到達できる」とロードマップを敷いてやるのです。そして、だめ押しの(5)。「私が支援する」とその組織のボスが後ろ盾となることを表明するのです。
元オウム真理教教祖の麻原彰晃死刑囚は、実は大変面倒見がよかったと多くの信者が証言しています。“洗脳”騒動の多くは、こうした手口を駆使する側が、ありもしない理想をあたかも存在するように語り相手を操ろうといった利己的な作為がある場合です。

日産を立て直したCEOのゴーンさんにはそうした本物のカリスマ性がありました。誤解を恐れずに言えば、10年間で信者数を数人から4万人にまで増やしたオウムの麻原死刑囚にもそれはあったのかもしれない。似非カリスマでしたが。




Business Journal 2018.05.26.
前妻DV報道のゴーン日産会長、責任逃れ経営者の裏の顔…テレビ局が後追い自粛の理由  
文=深笛義也/ライター


「週刊文春」(文藝春秋/5月24日号)は『日産ルノー連合トップのドロ沼離婚訴訟「夫カルロスゴーンは私の首を絞めた」リタ前夫人<激白4時間>』と題する記事を掲載し、ゴーン氏が前夫人に対してDV(ドメスティックバイオレンス)を行っていたと報じた。


「他人には冷たい、合理主義者です。日産が3回くらい業績予想を下方修正した時に、当時COO(最高執行責任者)だった志賀俊之氏を更迭して、自分はCEO兼会長のポジションに留まっていました。あの時もマスコミから『そういうことをやっていると、晩節を汚すことになるのでは』など、いろいろ言われましたけど、全然聞く耳を持たないで、いつものトーンで自分の思いをずっと喋るという感じでした。

 昨年9月に日産で無資格者が車両の最終検査をしていたことが発覚した時も、西川廣人社長に会見をやらせて、自分は責められると嫌だということで、しばらくの間日本に寄りつきもしなかった。自分は責任を取らずに部下に詰め腹切らせることが多いですね。ちょっと反抗的だった人は、子会社の販売会社に飛ばされたりしますから、日産の役員はゴーン氏にびびってます。今回の件が社内で問題になることはないでしょうし、ゴーン氏も頬被りでしょう。個人的に『文春』を訴える用意はしているみたいですけど」

 コストカッターとしての非情さが日産を立ち直らせたと言われているが、ワンマン的な冷徹さは有能な経営者の証なのだろうか。

「ルノーでナンバー2だったカルロス・タバレス氏が、マスコミのインタビューでゴーン氏を批判して、『世代交代が必要、自分がCEOになるべきだ』みたいなことを言って辞めさせられました。ただし、そのタバレスはその後ライバル会社のグループPSA(プジョー、シトロエンなどの製造・販売会社)のCEOになっています。日産の副社長だったアンディ・パーマー氏は社長候補といわれていましたが、イギリスのアストンマーティンのCEOになっています。有能な人間が日産を辞めてライバル会社のトップになっているので、冷徹さが必ずしもプラスになっているとはいえないですね」(別の業界関係者)

 ゴーン氏にものを言える人物として思い浮かぶのは、フランスのエマニュエル・マクロン大統領である。

「フランス政府はルノーの株を2割近く持っています。2年前、経済相だったマクロン大統領は、ゴーン氏のルノーのCEOとしての報酬が高すぎると批判しました。それで実際、2年がかりで下げさせましたからね。ルノーと日産はアライアンスを組んでいますが、日産をルノーの完全支配下に置けとマクロン大統領は主張しています。ルノーの工場で日産車を生産させてフランスの労働者の雇用を増やすのが目的ですが、これにゴーン氏は抵抗しているため、フランス政府にとってゴーン氏は邪魔な存在です。もともとマクロン大統領とゴーン氏は仲が悪い。そういう意味で今回の『文春』の記事は、元夫人のいるレバノンまで行くという大がかりな取材なので、バックにフランス政府がいるのではという憶測も出ているくらいですよ。まあ、『文春』だったらレバノンくらい行くでしょうから、それは穿ちすぎでしょうけど」(経済記者)





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by yumimi61 | 2018-11-21 23:58

国際法

国際法を逸脱した日本

日本国憲法
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


日本は国際法(不戦条約)を破り、国権でもって戦争を行った(侵略を仕掛けた)。
要するに国際法が戦争の歯止めにはならなかった。
だから国内最高法規である憲法に不戦条約に相当するような規定を入れて拘束力を高めた。
そして2項ではそれを守るひとつの手段として「陸海空軍その他の戦力」を持たないことが記された。
「国権の発動たる戦争」を目的とすれば、「陸海空軍その他の戦力」は手段となる。その手段を持たないことを約束して、目的遂行の道を絶ったということである。
2項の「陸海空軍その他の戦力」とはつまり実行部隊ということになる。
1項を約束させられたのは日本国民(今の憲法では主権者)である。


国際法は、国際社会は、機能しなかった

憲法は終戦の翌年に公布されている。
前にも散々書いたけれど、国際法に拘るならば敗戦国なのにこの順番で進んできたことがおかしいと思う。

憲法公布 1946年(昭和21年)11月3日
憲法施行 1947年(昭和22年)5月3日
サンフランシスコ平和条約 1951年9月8日調印、1952年4月28日発効・・日本の主権回復
自衛隊設立 1954年(昭和29年)7月1日
国連加盟 1956年 (昭和31年)年12月18日

占領下にあったとはいえ、憲法制定時は平和条約も締結しておらず、まだ国連にも加盟しておらず、国際法の縛りがない状態なのだから。
そもそも日本は国際法を順守せずに戦争を起こしたわけで。
しかし国際法(国際社会)は、大日本国憲法という法律(強力な拘束力)によって日本の全権を掌握し国権を発動した天皇を罰することをしなかった。
永久に行ってほしくないほどのことをした責任者を何ら罰せずに敬い、下の者だけを切って捨てて罰し、同じことを永久にしないでねと言っても説得力に欠ける。
国際法を破ったのと同様に国内法を破って戦争すればいいだけの話である。
それがどんな結果でもあっても責任者を罰しないという前例を国際社会は作っている。
今の憲法は大日本帝国憲法よりもずっとトップが責任逃れしやすい。
戦争に関しての責任が誰にあるのか全く分からない、というか国民が責任をとるような内容になっている。


永久の意味

終戦翌年に出来た憲法の9条は本来状況が変わった時に(平和条約を締結した時、自衛隊を設立した時、国際的に安全な国と認めされた時など)変えても良かった。
しかし「永久」という文言が盛り込まれていたため、それが出来なかった。
仕方なく「国権の発動たる戦争」を行う目的以外のための戦力ということにして自衛隊を設立したのであろうと思う。
「国権の発動たる戦争」はオフェンス。自衛隊(The Japan Self-Defence Forces)はディフェンスと捉えたわけである。
国権を振りかざして独断的に戦争することは許さないが、国際法で定められている自衛権の範疇で国際的に認められた場合には戦争できるということである。この解釈で今日まで来たはずである(違うの?)。
また自衛隊を認めている以上、ほとんどの国民が戦力というものを全否定しているわけではない。条件付きな人もそうでない人もいるだろうけれども戦力を認めている状態にあることは事実。
そうとなれば、このままの憲法9条でも構わないし、自衛隊と明記してもどちらでもよい気がする。現状維持ならば大した問題ではない。

同じ敗戦国で2回も世界大戦の元になる戦争を仕掛けているドイツには軍隊が存在している(1955年11月12日設立)。
日本の憲法はどうして変更が非常にしにくい「永久」なんていう言葉を入れたのか。
「永遠の愛」を誓うくらいの軽い気持ちだったのか。
それとも日本という国(民族)の性質は永久に変わらないという認識を持っていたのだろうか?


国際社会の横暴

戦争は個人の犯罪ではない。国家権力の下で行われるものである。
だから通常は兵士が人を殺しても相手国にも自国にも個人が裁判において殺人罪を問われることはない(相手国に捕まって捕虜になって殺されることはあるかもしれないけれど)。
人を殺しても英雄になることだってあるくらいなのに。
戦争で人を殺して死刑になってしまうならば、兵士になるのは自殺志願者だけになる。もっとも自殺を志願するくらいなのだから、死刑という形で人に殺してもらわなくてもよいかもしれないし、人を殺すことを志願しているわけでもないだろう。
そうなると強制的な徴兵制しかないですかねぇ。

第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)の後の国際軍事裁判の法的根拠は1928年のパリ不戦条約違反である。日本が侵略戦争をしたからである。

しかしながら、その当時、侵略戦争を個人の罪として裁く法的根拠は存在していなかった。
国家が調印した条約に違反して戦争を起こした罪ならば、当然国家の最高責任者が裁判にかけられるなりして罰せられるべきものであろう。
しかも当時の日本の天皇は国内においてそれだけの法的根拠を有しており、実際にその威力を最大限に振るった。逃れようがないはずなのだ。
それなのに天皇は訴追されず、法的根拠のないまま数多の個人が裁判にかけられ、処刑されたり罰せられた。
天皇訴追に積極的だったのはオーストラリアだけで、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドなどは反対したそうだ。
国際社会って何?法律って何?責任って何?なんのための権威や権力?自己保身?
アメリカにも起訴派はいたらしいが、マッカーサーに押し切られたらしい。

国際裁判も結構だけど、大した根拠も無しに自分たちの都合の悪い者や気に入らない者は訴追し罰し、自分達の守りたい者は訴追すらしないなんて、そんな不公平が公然とまかり通る国際社会だとするならば、国際社会自体が独裁社会のようなものなのでは?


「罰(ばち)が当たるよ」と人を脅したことはありませんか?

1945年(昭和20年)12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって国家神道の解体を目的とした神道指令が発せられる。

神道指令とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。


「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」→略して→「神道指令」

略された「神道指令」ではまるで神道を義務付ける指令を出したよう。
なんでもかんでも略せばよいものではないですね。
「神道廃止命令」ならば分かりやすいけれど、タイトルを読む限り国家神道を廃止するとは書かれていない。神道に対する政府の保証や支援や監督などの廃止である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。
当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。


国家神道が軍国主義に深く関わっていたからこそ廃止したかったはずである。
でも廃止しなかった。
日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたと書いてあるが、国際法がネックになったからである。

ハーグ条約
第三款 敵国の領土における軍の権力
第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。


国家神道を宗教と捉えると、国際社会は国家神道やその信仰に手出しできなくなる。
「あなたたち国際法違反ですよ」とかなんとか天皇や世界の宗教関係者に言われてしまうと反論できなくなってしまうだろう。
「日本が不戦条約を破って戦争をしたんだから、こっちだって破る」と言いたいところだが、「それでは侵略をした国と同類になってしまうではないか!」ということでそれも言えない。

でも日本の国家神道は宗教ではなかった。宗教の上にどーんと横たわっていたものであり宗教とは別物であったはず。
だから国家神道を廃止することは実際のところ可能だった。だけどそれだと困る人がいたのだろう。
苦肉の策が政教分離といったところだろうか。
「政は政治家が行うもの、教は天皇や皇族が行うものとして、両者は分離します。政教一致ではありませんので軍国主義に突き進むことはありません」というわけである。
政は国家という位置づけになるから、教は民間要素を大きくすれば、分離を強調出来る。
こうして神道や神社が、はたして宗教なのか、それとも倫理・道徳なのか、マインドコントロールの道具なのか分からない状況となってしまった。

いずれにせよ、GHQは国家神道の下で戦争が行われたことを知っていたのは揺るぎない事実である。
しかし日本の多くがここに目を瞑る。何故かその部分を見ようとしない。
天皇に責任はない、むしろ英断だったと天皇を敬い、この国には天皇が必要だと信じてやまない。
戦争をしたいという人ならば仕方ないが、そうでないならばちょっと信じられない。
実に多くの国民がマインドコントロールの支配下にあるのだろうか。それとも単に無知なだけだろうか。








(続く)







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by yumimi61 | 2018-11-20 16:57

志士と革命家

志士:一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。
また時には、
志士:身を犠牲にして国や社会のために尽くそうという、高い志をもっている人。 

国士:1 国家のために身命をなげうって尽くす人物。 憂国の士。2 その国で特にすぐれた人物。 
国家のために、国家の財政を案じ、国家の財産を使わず、自分の財産投げ打って大学に行かぬような者は、国士の資格などないということでしょうか。
ちなみに政治家の出身大学はダントツ東京大学ですのでご安心を。だから心配なんだ?

歴史的には国の形態を変えた武士は多くいる。しかしそれら武士が「志士」と呼ばれることはない。志士というのはやはり幕末限定な呼称。
「志士」には「野」が関係している。それは革命家にも通じるものがある。
在野:1 公職に就かないで民間にいること。2 与党に対して、野党の立場にあること

野心:1 ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望。2 新しいことに取り組もうとする気持ち。3 野生の動物が人に馴れずに歯向かうように、人に馴れ服さず害を及ぼそうとする心。 

野望:分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心


戦いの受け止め方とモチベーション

明治維新後、富国強兵に直走り、歴史ある大国を相手にした日清戦争、日露戦争に勝ち、勝利の美酒に酔った日本という国が戦争に負けた。
第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)での敗北である。


日本にとって中国とロシアは近代日本の存在意義に関わる特別な存在である。
特別な存在であるが、今現在この両国との関係は曖昧でもある。

対中国に注目すれば、日本は明治時代に一度中国に勝った後、昭和時代に入って再び戦火を交えて今度は負けている。一勝一敗の五分と見る人もいれば、長い目で見て逆転負けを喫したと捉えるひともいるだろう。
負けず嫌いな人だったこう怯えるかもしれない。
もしこれで戦争というものが完全に終了してしまえば、良くても引き分け、悪く捉えれば逆転負けという日本の対中成績が永遠に歴史に刻まれてしまう。
但し、日中戦争は途中から太平洋戦争(第二次世界大戦)に取りこまれて、それまでの血がたぎるような対中国という意識はややぼやけている。
その意味からは中国に敗戦したという意識も弱くなっているかもしれない。

対ロシアで見ると、ロシアとは平和条約を結んでおらず、戦闘状態はとりあえず終わっているが未だ完全に戦争は終結していない。
要するに負けたわけでも勝ったわけでもない宙ぶらりんな状態にある。
だいぶ時間が経過して実際に戦争を体験していない人がほとんどなので、平和条約の締結の仕方如何で、勝った気にも負けた気にもなれる。
日本は明治時代に一勝しているので、日本の思惑通りに平和条約を結べれば、対ロシア戦2勝という成績を誇れるわけである。
負けた印象の平和条約であるならば、一勝一敗、あるいは逆転負けという対中戦と同じ戦績となる。

ロシア(ソ連)以外の連合国とは平和条約が結ばれていて敗戦が明確に歴史に刻まれている。
しかし日本にとっては「原爆」という救いがある。
世界は、戦時中であっても人権に非常に厳しいところがある。特に昨今はその風潮がとても強い。
無差別殺傷を狙った「原爆投下」という人権侵害はルール違反であるという認識を持っている。特に被害者の立場にある日本人にはその意識がとても強い。
そして投下実行犯のアメリカに加害者意識を持つよう敵意が向けられる。
スポーツでルール違反を犯せば、何らかのペナルティが与えられる。時には勝利が取り消されることもある。
ルールが存在する戦いにおいてはルール違反はディスアドバンテージとなる。
連合国(アメリカ)は卑怯な手を使って勝った、あんな手法を使わなければ勝てなかったのだ、と日本人は思う。
こうした認識は敗戦トラウマを持つ日本人の救いとなる。
従って「卑怯(人権侵害)な手法は日本だって使ったでしょう」という謂い分はルール違反をイーブンにしてしまうため絶対に認めたくない。
但し救いと言っても、日本人の意識の中でも敗戦と原爆がセットになっていることは疑いようのない事実なので(映像としてもセットにされていることが多い)、敗戦トラウマを薄めようと原爆に拘れば拘るほど、結局のところ敗戦トラウマからも抜けられなくなってしまう。
「どんな手法を使っても目的を達するべき」「結果が全て」という価値観(ある意味とても明治政府的な価値観)も根強く存在するから余計に敗戦トラウマを払拭できない。

敗戦トラウマを克服するには敗戦という恐怖の連鎖を断ち切ることが必要となるが、それを安易に考えれば、おそらく勝って克服しようとすると思う。
戦いのモチベーションには大きく分けて3つある。
 ①負けたから、もう一度戦って勝ちたい。リベンジ型。
 ②勝ったことがあるのだから、また戦ってまた勝ちたい。勝利の美酒をもう一度型。
 ③卑怯な手を使ったものを許しておくわけにはいかない。アベンジ型。
日本の場合、どれにも(どれかしらに)当てはめることが出来て、もれなく戦争に向かう要素を秘めている。


親離れ

明治維新の志士とその後の明治政府にとって親にあたる国はイギリスである。
イギリスと近代日本は親子関係にある。
精神的な親はカトリックなのではないかと考えることもあるだろう。
第二次世界大戦後はアメリカを親にあてる人もいると思う。

親子というものは本来、親離れ、子離れをしなければならない。というか、そういう時期が来るのが一般的である。

先日、パンダのシャンシャンが独り立ちするために、シャンシャンとお母さんが段階的に引き離されると報道されていた。
そこに漂う雰囲気は「シャンシャン可哀想~」というもの。
それはすなわち、日本人は親子分断に関して子に感情移入する人が多いということを意味する。
私なんかどちらかと言うと、「お母さんが可哀想」と思ったタイプである。

通常は子離れよりも親離れのほうが早く来るし、段階的に引き離す計画を立てずとも子は成長する中で自然に親離れしていく。
その自然な親離れとは、子が親に対して「秘密のポケット」を作っていくことになる。
子供はのび太君ではなくてドラえもんになっていくのである。
なんでもかんでもあったことを報告し、あれ見てこれ見てと見られることを好んだ子供が、親に秘密を持つようになったり、親に隠し事したりする。それが親離れの一歩である。

親離れに必要なのは根拠のない自信であると言われる。
勉強が出来ても出来なくても、スポーツが出来ても出来なくても、姿形が良くても悪くても、お行儀が素晴らしくてもいまいちでも、その存在自体を親に愛されたという感覚(思い込み)が根拠のない自信を形成していく。
子供が幼い時の親は親バカくらいで良い。
多くの親は子供が生まれた時に「何はなくとも健康ならば良い」と言う。それは存在自体を愛していることである。
じゃあ健康でなければ愛せないのか!とお怒りになる人もいると思うが、健康ではないというのは死をイメージしてしまい、存在を失うことを想像して怖くなるだけのことで、健康でない状態を否定しているわけではない。

根拠のない自信を身に付けた子供は、秘密を持っても隠し事をしても親は自分を嫌いにはならないと思う。
ひいては秘密のポケットを持っても世の中は自分を許してくれるとも思う。
ただ実際には許されないこともあり、ここで戸惑ったり躓くこともある。
親のほうの子離れが遅いのが一般的なので、「なんで嘘つくの?」「どうして隠し事をするの?」と親はどうしても言いたくなる。
社会はもっと厳しく、嘘を付かず隠し事をしない素直な子を求め、勉強もスポーツも出来ることを望み、姿形やお行儀で差別し、愛される子と愛されない子がいることを教えてしまうことがある。
こうなると秘密のポケットに罪悪感を抱くようになり、根拠のない自信は揺らぎ、何か明確な根拠がないと愛されないと思うようになる。
承認されたい欲求はすなわち愛されたい欲求ではないだろうか。

秘密のポケットに入るもので重要なものの1つは性である。恋心や性の目覚めは親離れしていく大きな力となる。
その過程において、親が秘密のポケットを持っていたということに気付いて、それをひどく嫌悪したり反発することもあるが、多くは親離れが進んで同じ秘密のポケットを持つ者として受容できるようになる。

人間はそうだが、では国同士の親子関係はどうだろうか。
親離れや子離れをするのだろうか。
植民地支配から独立という物理的な親子関係からの独立というものも存在しているが、イギリスやカトリックと日本の間の親子関係はそうではない。精神的な親子関係である。ただイギリスは金銭的な親子関係要素も強かったのでそういう意味では物理的要素も大きかった。
アメリカには占領されたという物理的親子関係を当てはめる人が多いと考えられるが、当然精神的な支配も受けているはずである。
倫理や道徳を一番上に広く横たわらせた国がどんな存在であっても親や社会に愛されるという根拠のない自信をはたして形成できただろうか。
親や社会に愛されるには、ああしなければいけない、こうしなければいけない、そういう呪縛に囚われてしまうのではないか。

秘密のポケットを持つことに罪悪感を抱きながら親や社会の顔色を窺って、承認されるような行動をついついとってしまう。
あるいは、独立出来ない状態を嫌って強引に親から独立しようとするということが考えられる。




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by yumimi61 | 2018-11-19 13:03

1Q45(唱和二重念)

敗北トラウマ

明治維新後、富国強兵に直走り、歴史ある大国を相手にした日清戦争、日露戦争に勝ち、勝利の美酒に酔った日本という国が戦争に負けた。
第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)での敗北である。
戦後の日本は、強きも弱きも、老いも若きも、敗北トラウマを抱え、敗戦の文化を刻んできた。
敗北した相手は連合国だけではない。強い者に敵わなかった弱者、輝かしい再生の時代を生きた者に敵わない若者、変革や若さに敵わない老い、誰もが皆その心の中に敗北トラウマを抱え、トラウマの原因を戦争に求めたがっている。

トラウマの克服は過去の出来事による恐怖の連鎖を打ち切ることが重要となるが、同時に人間は自分ではない何かを原因にしたく、こよなく連鎖を愛する生き物でもある。遺伝に刷り込まれているレベルで。

では人は忌まわしい過去の記憶をどうやって呼び起こすのか。

①客観的手法ー映画館のシートでスクリーンに映し出される映画のワンシーンを見るかのように呼び起こす。自分がもう1人の自分(過去の自分)を見ているというイメージ。傍観。俯瞰。

②主観的手法ー映画の中の人物になって思い起こす。観客ではなく演者となる。今の自分が過去の自分を演じてしまう。演じているというのは出来事が創作でデタラメという悪い意味ではなく、今の自分を過去にワープさせて追体験してしまうということである。入りこむ。

トラウマになるくらいだから思い出したくもない出来事であり、それを見るということはどんな形でも苦しく心地よいことではないが、①には過去と現在に一定の距離がある。②にはそれがない。②の状態が続くと、なかなかトラウマから脱却できないし、何度も②で思い起こせばトラウマは強化されていく。

戦争を実際に体験していない人が敗北トラウマを抱えている状態。←この場合スクリーンに過去の自分を見つけることは出来ない。過去の自分が戦争をして負けたわけではないから。つまり客観的にはなり得ない。
演者になって戦争時代に戻るしかないわけで、どうしても②になってしまう。
体験していないのに主観で思い出すなんて不思議に感じるかもしれないけれど、体験していないからこそ主観という選択肢しかなくなるという側面がある。
だからトラウマから脱却しにくい。


最近はとくに「投影」流行かもしれない

面倒なことに人間は「投影(投射)」という原始的防衛機制の仕組みを持っている。
受け入れがたい衝動、抑圧されている考えや感情や欲求、良くないと思っている欠点(状態)などを自分の中に認めてしまうと葛藤や不安を生じるので、自己防衛のために、それを他人に移し替えて知覚することである。
(例)
・自分に攻撃性を感じ取っているのに、相手が攻撃的だと認識してしまう。
(本当は自分に攻撃性を感じているのだけれど、トランプ大統領が攻撃的だと認識してしまう)
・自分が劣等感やライバル意識を感じているのに、相手が自分に対して劣等感やライバル意識を感じていると思い込む。
(本当は自分が保護主義的なのに、トランプ大統領が保護主義的だと思い込む)
・自分が上司を嫌いなのに、上司が自分を嫌っていると思う。
・自分が相手のことを好きなのに、相手が自分を好きだと思ってしまう。
(これはストーカー心理の一因となる。さらに体験していないからこそ主観という選択肢しかなくなることで強化される部分もある。アイドルとファンの関係の場合、商業的であるにせよ’アイドルがファンを好いている’という側面があることも忘れずに)

一種の責任転嫁。一種の同族嫌悪。
抑圧した同じ感情を実際に相手も持っていて、だからこそ見つけ出せる(似た者同士)という場合もあれば、本当に一方的な思い込みに過ぎない場合もあるから、さらに面倒である。

例えばこんな笑い話?例え話?がある。
「投影を簡単に説明してください」と言われた心理カウンセラーが次のように答えた。
「自分に攻撃性を感じ取っているのに、相手が攻撃的だと認識してしまうことです。韓国の方が攻撃的なのに、日本の方が攻撃的だと認識してしまう反日感情なんかその一例でしょう」
でもこれももっと引いて客観的に見れば、「韓国が攻撃的なのに、日本が攻撃的だと認識してしまう反日感情なんかその一例」というこの例自体がすでに投影されていると考えることも出来る。


強いことや勝利することを誇りに思えば、自分の中にある弱さや敗北感を自覚することは大変辛いこととなり、それを認めることは我慢ならぬものとなる。
そこで自分を守るために投影メカニズムが起動する。
自分よりも弱い者や明らかに敗北していると思う者を攻撃するのである。パワーハラスメントなんかこのメカニズムの一種であろうと思う。
他人に弱さや敗北を見ているうちは、自分の中のそれを意識せずに済む。結果、自分は強い勝者であるという認識を維持できる。
例えば、自分の中に弱さや負けを感じてしまった若者は、老いという弱さを攻撃することで強者や勝者になれる。
例えば、自分の中に弱さや負けを感じてしまった大人は、自分よりも若く未熟な者を攻撃することで強者や勝者になれる。

このように、大変皮肉なことであるが、弱いことや敗北感を自己に感じとってしまった場合には、他者に同じものを見つけ出し攻撃してしまうことがある。


一心同体

「投影(投射)」と同じく防衛機制の仕組みの1つであるが、「投影」とは正反対な心の動きとなるのが「同一化(同一視)」である。
自分が持っているが抑圧したい、あるいは抑圧された負と感じている感情や性質を他者に転嫁するのが「投影」であるが、「同一化」は他者の性質や感情をそのまま自分自身のものとして受け入れるというもの。

受け入れの程度が限定的なものは「同一化」まではいかず「取り入れ」と呼ぶ。
例えば、あなたのことが好きと言われて相手に好意を持つようになり、相手を受け入れることは「取り入れ」の一種となる。
例えば、災害時にボランティア活動や寄付をする人を優れた性質だと思い憧れる。自分もそういう人になりたいと思い、自分自身をその人に重ねていく。
他者の優れた性質だと思うところに、自分を重ねることによって自分自身の価値も上げる。
実際に同じ行動をとらなくても、「取り入れ」を行うことによって、それが可能となり自分の心を守ることになる。

「同一化」の場合、具体的な感情や行動に限定されず、相手の人格(人生)ほぼ全てに自分の人格(人生)を重ね合わせていく。
他人と同一化していくわけだから、あらゆることが一体化していく。
その相手に強く感情移入し、その人が経験することをまるで我がことのように感じて喜んだり悲しんだり怒ったりする。
また服装や髪形を真似たり、その人が持っているものを購入したり、その人が訪れた所を訪れてみたりと、見た目や行動までも一体化しようとすることもある。
有名人は同一化の対象となりやすい。

2017年7月15日、埼玉スタジアムで行われたサッカー国際親善試合でドルトムント(ドイツ)に逆転負けした浦和レッズに対して、上西小百合衆院議員(当時)がツイッターで「酷い負け方。親善試合は遊びなのかな」と批判的なツイートをしたところ、上西議員への批判返信ツイートが殺到したという。

それらコメントを受けて、さらに翌日、「サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」とツイートし炎上したという。

この言動が良い悪いは別として、このケースは「取り入れ」や「同一化」が行われている人達と、その人達に対して「同一化してんじゃねーよ」とはっきり言い放った人、という構図である。

さらにさらに翌日、こうもツイートしたという。
「今日テレビ取材があったけれどレッズサポーターを敵にして怖くないですかと質問された。なんで?と本気で思った。政治家がそんな事考えて街に出れるんだろうか。政治や経済は自分の利益を重視するけれど、スポーツや文化はある意味それを超える最大の武器。ただ私は収束させる気はなく近々浦和に行く。」
スポーツや文化は、政治や経済や自分の利益を超える最大の武器、と述べている。
彼女はもしかしたらドイツのクラブに負けた浦和レッズに「投影」をしていたのかもしれない。
であれば、「取り入れ・同一化」vs「投影」という構図。


良いことも悪いこともひとまず他者に

「取り入れ・同一化」vs「投影」と書いたが、大元を辿るとどちらも投影(他者に映し出す)となる。
自分が感じる負の感情や性質を他者に映して(移して)しまうのが「投影」で、自分が感じる正の感情や性質(自分の理想像)を他者に映して(移して)しまうのが「取り入れ・同一化」。
本当は自分が上司を嫌いなのに上司が自分を嫌っていると転嫁する場合、上司が自分を嫌っているということは真実であることもあるし、単なる思い込みであることもある。
自分の思い描く理想を他者に映しだした場合、理想と他者がずっと上手く一致していることもあれば、一致しなくなってしまうこともある。どちらにしても他者に映しだした理想像は虚像であると言える。
勝手に虚像をでっち上げられた(理想を投影された)人はいい迷惑かもしれないが、有名人などは自ら虚像を売りにしていることもあるので話が少しややこしくなる。

同一化は他人の人格や人生に自分の人格や人生を重ねることで自分の価値を上げるという自己防衛であるが、全て重ねていくことにより願わしくない事態も起こる。
願わしくない事態とは一体化した人物が自分の描いた理想像や世間のこれまでの評判と大きく異なった行動や性質などを見せた時。
一体化しているので、その人だけでなく自分の人格をも否定されてしまうことになる。
それまでは愛情や尊敬の念をもって一体化していたその人が、突如自分を否定した人物にすり替わってしまう。
そして憎しみや敵意を抱くようになる。ということもあるということ。

上記のサッカーの一件は、上西氏が浦和レッズに「取り入れ・同一化」していたが、自分の理想と離れてしまい、憎しみや敵意に変わっていったと考えることも出来る。







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by yumimi61 | 2018-11-18 16:14

国家と民間のあいだ

神社本庁への流れ

教派神道の1つのはずなのに国家事業である神宮大麻の頒布を任されていたことを批判され、1899年(明治32年)に神宮教(伊勢神宮教)が解散する。
そもそも神宮教が出来たのは1882年に神職の布教活動が原則禁止されたためであり、その前は伊勢神宮として一体で活動していたのであって、神宮教が解散しても元のさやに納まっただけの話である。
同時にこの時、「財団法人神宮奉斎会」という法人(民間団体)も 組織された。

「財団法人神宮奉斎会」・・・1899年(明治32年設立)
伊勢神宮を崇敬し、 皇祖の遺訓を奉戴し、神典を講究し、国体を宣明(宣言して明らかにすること)することを目的とする団体。

「全国神職会」・・・1898年(明治31年設立)
国体を闡明して神社の興隆と神職の向上発展を図ることを目的とする団体である。のちに、「大日本神祇会」と改称。

「皇典講究所」・・・1882年(明治15年設立)
国典を研究し、国体の意義を明らかにし、日本的徳性を有する人材を育成することを目的として、山田顕義・岩下方平らにより 1882年東京に設立された財団法人。 1890年には、国史・国学を研究するための國學院を設立し、神職の養成も行なった。
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である。
・岩下方平(薩摩藩士・勤王家・子爵。薩摩鹿児島生)


第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)1月23日、上記の「神宮奉斎会」「大日本神祇会」「皇典講究所」の3団体が中心となり「神社本庁」が設立された。 


民間の崇敬団体

前述の愛国心の再生に安堵するという「伊勢神宮崇敬会」は1953年(昭和28年)年12月に「財団法人伊勢神宮奉賛会」の名称で設立している。

●初代総裁は神宮祭主(伊勢神宮の神官の長)や神社本庁の総裁でもあった北白川房子(明治天皇の第7皇女)。北白川房子は1947年に女性初の神宮祭主や「神社本庁」の総裁となり皇籍離脱をしている(北白川宮成久王は先に亡くなっていた)。

●初代会長は佐藤尚武
日本の外交官・政治家。林内閣(1937年2月2日~1937年6月4日)で外務大臣で、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。戦後には参議院議長等を歴任している。
フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている。


「財団法人伊勢神宮奉賛会」は各都道府県に地方本部を置き、事務局は神宮崇敬者参宿所(現在の『神宮会館』)に置かれた。1965年(昭和40年)に「財団法人伊勢神宮崇敬会」に改称した。

【伊勢神宮崇敬会の歴代会長】
●佐藤 尚武(昭和28年~昭和46年)前述

●中野種一郎(昭和47年~昭和49年)伏見市長を経て衆議院議員、京都放送会長、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長

●松下幸之助(昭和49年~昭和58年)パナソニック(旧:松下電器)創業者、PHP研究所や松下政経塾設立

●弘世  現(昭和58年~平成8年)日本生命社長、娘はサントリー名誉会長の妻、孫の夫はパナソニック副会長の松下正幸

●細川 護貞(平成8年~平成10年)旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。太平洋戦争前の内閣(第2次近衛内閣)で内閣総理大臣秘書官。

●東園 基文(平成10年~平成18年) 東園家14代当主。伊達邦宗伯爵三男として生まれ、東園基光子爵の相続人となった。妻は元皇族の東園佐和子。戦後、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた

●豊田章一郎(平成18年~平成29年)トヨタ自動車名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、トヨタ自動車創業者の息子で妻は三井家出身

●松下 正幸(平成29年~    )パナソニック(旧:松下電器)取締役副会長


吉田松陰と、「松下村塾」の怪

「皇典講究所」が設立された1882年(明治15年)の日本にはまだ内閣や首相は存在していない。
初代は1885年(明治18年)であり、初代首相は伊藤博文(1841年、山口生まれ。政治家)だった。
「皇典講究所」の初代所長の山田顕義(1844年、山口生まれ。陸軍軍人・政治家)や伊藤博文は吉田松陰の松下村塾に学んだ尊王攘夷派。

吉田松陰 1830年生まれ、1859年(29歳)没
幕末の勤王家・思想家・教育者。長州生。
山鹿流兵学師範吉田家を継ぐ。
一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。

京都市左京区の京都府立図書館前には吉田松陰山河襟帯詩碑がある。

長州藩士・杉百合之助の次男。幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士(二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である)

叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり兵学を修める。1835年に叔父が亡くなったため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
1857年(27歳)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られるが、松下村塾には「門人帳」のような明確な記録は残っていない

松下村塾は松陰の叔父の玉木文之進が自宅の一間で開いた私塾。
どこにあったかというと、現在の山口県萩市椿東(旧:山口県阿武郡椿東村松本)。

明治時代より以前にはその地域は「松本村」と呼ばれていたらしい。
萩市には松本川という名の川がある。
「松下村塾」という名は「松本」にちなんで付けられたそう。
でもだったら「松本村塾」では?
どうして皆さん不思議に思わないのでしょうか。
吉田松陰にも叔父の玉木文之進にも関連する名の中に「松下」は存在していないのだが。


吉田松陰の国家論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。
天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。





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by yumimi61 | 2018-11-17 00:46

国家事業

明治元年(1868年) 神仏分離令
廃仏毀釈に繋がる。
明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。宣教使の官員には国学者が採用された。
明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年7月14日(1871年8月29日) 廃藩置県

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。
明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
政教分離、信教自由を主張。(←宗教に対して誰も口出しできない条件と見ることが出来る)
明治6年(1873年)2月 キリスト教に対する禁教令を廃止

明治6年(1873年)2月 大教院を増上寺に移転

明治7年(1874年)1月1日 増上寺が放火される

明治8年(1875年)1月 浄土真宗が大教院を脱会

明治8年(1875年)3月 神道事務局を結成
大教院閉鎖の2ヶ月前に伊勢神宮と幕末期に起こった神道系の新宗教教団の教導職によって神道事務局が結成された。

新宗教
新興宗教とも呼ばれる。
日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後~)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。 実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。



明治8年(1875年)4月 神道事務局の開局
明治8年(1875年)3月に結成された神道事務局が4月に開局した。
伊勢神宮が日本全国各地に古くからあった神社の元締めのような感じになり、一定の条件を満たした新宗教教団は独立教派として公認していった。最初の公認は1876年(※後述)。

明治8年(1875年)5月 大教院を閉鎖

明治9年(1876年)10月23日 「神道修成派」と「黒住派」とが独立教派として神道事務局から独立
神道修成派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修成講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた

明治10年(1877年)1月11日 神仏合同布教禁止令、教部省は解散・廃止
⇒教部省の機能は内務省の社寺局へ移された。
社寺局は全国全ての神社および寺院、新宗教など宗教に関する全ての行政を管掌することになった。

1876年(明治9年)を皮切りに、1908年(明治41年)の天理教まで、14の神道系教団が独立教派として公認された。(14の団体については過去記事『刷新』参照
のちに1団体が離脱し、13団体が教派神道と呼ばれる。

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13団体で信者は約265万。人口比で2%ほど。成人人口の2.7%ほど。


国家事業で大麻を配布

離脱した1団体は「神宮教」(伊勢神宮教)である。

●明治15年(1882年)に独立
3.「神宮教」(伊勢神宮教)
伊勢神宮の少宮司で教部省にも所属した浦田長民が神宮教会を設立。
新たに伊勢講社を設立し、従来の伊勢信仰の伊勢講(太々講)とともに神宮教会の傘下として再編成した。各地の講社の名称は最初は愛国講社などであったが、明治6年(1873年)に神風講社と統一された。
明治6年(1873年)には伊勢神宮の大宮司の寄付によって明治神宮内にも神宮教会を設置した。
神宮教会の中枢部を神宮教院とした。
 神宮教院>神宮教会>講社
 教区を設け、全国の各教区に本部教会1つと支部教会を置いた。

明治15年(1882年)に「神官教導職分離令」が出され、神職の布教活動が原則禁止されたため、伊勢神宮でも同年、祭祀を司る神官と布教を行う教導職との兼補を廃止し、神宮司庁と神宮教院を分離した。そのうちの神宮教院が教派神道の一派となった。

1899年(明治32年)神宮教は伊勢神宮から生まれていた一教団であったために国家神道の確立と共に、国家事業である神宮大麻の頒布を任されていることへの批判もあり解散する。このときまでは神宮教も明確に教派の一つであった。


「神宮大麻」と呼ばれる紙のお札が神宮教から全国に頒布されていた。
これは明治政府の国家事業であった。
前にも述べたように明治政府は教派神道など宗教団体の上に国家神道を乗せた。
その国家神道事業に教派神道の神宮教が関わっているとなれば、神宮教は国家神道に下にいるのではなく、上にいるということになる。
それに対する批判が出たので解散したということである。
要するに神宮教が配布することをやめたのではなく、神宮教の立ち位置を変えたのである。
これを逆に言えば、1882年に神職の布教活動が原則禁止されたが、伊勢神宮に限っては再びそれが許されたということになる。
明確に伊勢神宮が国家事業に携わる団体という位置づけになったということであろう。

国家神道は国民的道徳を併せ持ち、それは人民の義務であるからして、国家神道、要するに国の命令や意向に背いての信教の自由などありえない、ということなのだ。
政府は国家神道を宗教とは見做さないというスタンスに立っていた。
国家神道は国家神道。(神社神道と言うこともある。国民の道徳と考えてもよいかもしれない)
神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に国家神道は存在し、全国の神社はそれに追従をする。
総元締めは伊勢神宮。神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。

この「国家神道」と、「仏教やキリスト教や教派神道などの宗教」とは全く異なるものであると定めた。
宗教は国家神道の統一的な管轄からは独立した存在であり一見自由であるようだが、日本にいる限り宗教の上に必ず国家神道が横たわることになる。
そのために、一神教であるキリスト教や教祖が一番の宗派宗教、道徳観が異なる宗派宗教など国家の方針に反するものとは衝突するようになり、弾圧が厳しくなった。



負けず嫌いな神?天皇?国?

神宮大麻について(伊勢神宮崇敬会のホームページより) 

全国に頒布される神宮のお神札を「神宮大麻」といいます。
本来は「おおぬさ」と読みますが、「ぬさ」とは木綿、麻など。大麻とはお祓いに用いられる用具「祓串」のことです。

● 「愛国心」の再生

 最近の我国は、ようやく自国の伝統を回復しつつあります。学校教育において、雅楽や祭礼太鼓のようなものが教材に採用されるなど、思えば隔世の感があります。たとえば、オリンピックやワールドカップの観戦に自然な愛国心をはばからぬ若年層を発見するたびに、ひとつの国旗と国家のもと自立ある国家の再生も夢ではないと安堵するのは早計でしょうか
 こうした機運をのがさず、神道にねざした我国本来の国柄を回復すべく、今こそ我が民族に天賦の自浄能力を期待すること、まことに切実なものがあります。


● 天皇と国民とのきずな「神道」

日本には、国土の美しさもさることながら、万世一系の「天皇」を戴く世界に誇るべき君主制度があります。畏くも天皇陛下には、日々の「おまつり」において五穀豊穣、国家の繁栄や国民の幸福を祈り、大御心のすべてを国民生活の上に深いご関心として寄せておられます。毎年の作柄はもちろん、風水害などの天災にまで御心を砕かれる君主が、世界のどこにおられましょうか。よくそれを知る国民の側でも、自国の幸福の前提として皇室の御事を祈りつづけてまいりました。この一見して単純とも思われる信頼関係が、国家体制として変わることなく2000年以上も連続している「かたち」が、そのままに神ながらの道であり、すなわち「神道」であると言えます。

● 国民のあかし「神宮大麻」

神宮の御師によって神宮崇敬は全国にひろめられ、江戸時代末期までには全世帯の9割が神宮の神札「大麻」をおまつりしていたといわれます。明治の盛代に入りますと「神宮大麻」の頒布制度も完備され、明治天皇さまの大御心のもとに、国民あまねく広大無辺の大御神さまの大御光を仰ぐことが容易になりました。天皇陛下のおまつりが「神宮祭祀」にきわまり、国民ひとしく「神宮」を崇敬するところに、うるわしい君臣一体の国柄が見られるのです。つまり、悠久の民族的連帯という意味から、「神宮大麻」には個人的宗派をこえた「公的性格」が認められるのです


万世一系の「天皇」なんて嘘である。
しかし「世界に誇るべき君主制度」、それを強調して崇拝しなければならない理由がある。
現代においても君主がいる国はがあるが、2000年以上の万世一系の君主はいないであろうから、世界の頂点に立つにはどうしてもその部分を譲ることは出来ないのだ。
だから各家庭の神棚のお札の位置にまで注文をつける。
氏神よりも個人的に崇拝している神よりも中央や前にいなければ気が済まない神宮大麻(天照皇大神宮)。

『日本書紀』『古事記』をソースにする初代天皇は紀元前711年~紀元前585年の人物となる。
これは儒教を体系化した孔子よりも古い。もっとも孔子は思想家・学者であって君主でも神でもない。
西暦の基準となっているイエス・キリストよりも古い。すなわちローマ教皇よりずっと古いということになる。

日本の「愛国」とはすなわち、年功序列であるし、変わらないことへの称賛である。
時代にはまるで逆行した価値観であるように思うが、案外世界の価値観もそうなのかしら。

仏教の開祖・釈迦の生誕日ははっきりしていない。
それを勝負と考えれば、嘘でもなんでも言い切った勝ちなところがあるから、やや不利な感じ。
一説によれば紀元前566年~紀元前486年頃。
これも『日本書紀』『古事記』をソースにする日本の初代天皇には負けますね。





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by yumimi61 | 2018-11-16 16:20

星霜

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・2009年1月までのカテゴリーとタグ付完了しました。

・2016年ではなくて2015年の誤りです。多々申し訳ありません。

・なんとなく気忙しい季節がやってきた。

・星霜は、歳月、年月という意味。霜で年月を表すなんてちょっと不思議。
四季を通して存在するものでは歳月を思う情緒が足りないのだろうけれども、それにしても霜だなんて。

・2008年末に母はくも膜下出血で倒れ、手術で一命を取り留めた。今年来月であれからちょうど10年になる。

・上の写真の山の色が違いは雲の影と隙間から漏れる光。





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by yumimi61 | 2018-11-15 21:22

朱子学とは儒教の一系統。儒教から起こった学問体系。
宗教にあてはめれば、キリスト教のプロテスタントのようなことである。
明治政府は宗教の上に国家神道として倫理・道徳を乗せて、宗教や国民を統率して中央集権化していったわけだが、宗教、思想・哲学、倫理・道徳というものは明確に切り離すことは出来ない。

朱子学は、人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれる。

日本への影響

後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発している。
だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。

ただし、幕末・維新期の尊皇派の主要人物である西郷隆盛や吉田松陰は、ともに朱子学ではなく陽明学に近い人物であり、佐幕派の中核であった会津藩、桑名藩はそれぞれ保科正之、松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。1890年(明治23年)、『教育勅語』が下賜されると六諭は近代日本の道徳思想として本格的に採用された。軍部の一部では特に朱子学に心酔する者が多く、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。


江戸幕府は儒教、ことに朱子学を重んじて正学とした。
しかしその朱子学が討幕派に熱烈支持された挙句に倒幕を果たす。(これには朱子学を信奉していた徳川光圀が基礎を作った水戸学の影響が少なからずある。中味ではないかもしれないが)
明治政府の国家神道(道徳観)や教育方針も朱子学をベースにしていたが、この頃のは朱子学はすでに元の朱子学とは異なるものとなっていた。

中国での変化

明代、国家教学となった朱子学は、科挙合格という世俗的な利益のためにおこなわれ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは、陸九淵の心学を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで王守仁の陽明学が誕生することになる。

明代は1368~1644年で、日本の室町時代~江戸時代初期にあたる。
中国では国の役人の試験に導入されて、その難関試験に合格するために朱子学を学ぶというような形になっていった。
要するに与えられたものを考えることなく丸暗記的に覚えることが中心となり、中味(心)が置き去りにされてしまったということなんだろう。
そんな風潮の中で陽明学が誕生した。

清代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「礼」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は、体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった

清代は1644~1912年で、日本の江戸時代~明治時代末までにあたる。
清は満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であり、明治期の日本と非常に関係が深い王朝であった。
アヘンが流入し、アヘン貿易をきっかけにイギリスと2回戦争を行い、国力を落とし、西洋諸国や日本に付けこまれ、反植民地化され、王朝の終焉を迎えた。
中国の君(王)がいなくなり、代わりに外国の君による統制が始まる。
しかし君臣倫理を尊重すれば、それが国内の君であろうと、外国の君であろうと、礼が重んじられるわけで、不可侵な絶対服従の存在となってしまう。

討幕派(尊王攘夷派)や明治政府が心酔した朱子学は、この清時代の礼学の君臣倫理だったのである。

衣川強は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している


朝鮮半島への影響

朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。

混沌としてしまった「理」

朱子学が混沌としてきた理由は「理」の理解の難しさにあるのだと思う。

理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。
抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。


「王」の「里」と書いて「理」、そう考えやすいが、漢字の成り立ちはそうではない。「玉」に「里」である。
里は「田」+「土」で、耕して筋目をつけるという意味があり、上記のように璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。

朱子学(程朱学)においては、一物に一理があり、これを「理一分殊」と称した。朱子学の始祖朱熹(朱子)によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。

陽明学の始祖として知られる明代の王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。


「理」という漢字には宇宙の本体という意味があり、反対語は「気」となる。
「気」には自由に動くことが可能な原子・分子という意味がある。要するに物質である。
いわゆる目に見える「物」を作る物質もあれば、空気のように目に見えない物質もある。流動的でより自由なのは見えない気体のような物質である。
また意識、意思、精神なども「気」である。

「宇宙の本体だって物質でしょう!」と思ってしまうと、この哲学的な「理」はなかなか理解できなくなってしまう。
「宇宙の本体だって物質でしょう!」は、物が先にあったという唯物論的な考え方。
そうではなくて、どうして宇宙に地球という生命体が誕生したのかという地球成り立ちの根本原因、物質や人間の存在する意味や意義など、見たり確かめたり出来ないが、それこそが世界の普遍的原理とする。

つまり「理」は宇宙や地球の物質的なあれこれを考える物理学の上(meta)の立場に立つ。物質を超越(meta)した世界のあれこれである。
それを考える学問が形而上学である。哲学も似たような学問であるが、哲学(philosophy)の語源は知を愛するという意味である。

とても簡単に言えば、分かりようもない本質的なこと(本性)を知る(分かる)のが「理」である。
今で言う科学が「理」ということでは決してない。
物理とか理科という時の科学の理と、思想や哲学や宗教の理。これは同じではない。
科学の理が物事や人間や思考の本質(本性)を知るための手段に用いられる時はあるが、科学の理そのものが目的ではないし、本質(本性)は科学の理だけで到達できる領域ではない。
そこが間違いやすく、混乱しやすく、混沌としてしまう理由なのだと思う。

朱子学はこちらに書いた陰陽五行思想にも通じる思想である。
本居宣長は儒教や朱子学を否定して国学を推進したと言われているが、漢方医学の後世方派は陰陽五行説を重視した治療(投薬)を行うのであり、後世方派であり終生医師として働いていた本居宣長は朱子学を全否定することなど出来ないはずである。


朱子学における倫理の実践

自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。
朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。


性(心静かな状態)でないと「理」には辿り着けないとしている。
だから「性」を乱す「情」や「欲」を制御しないさいということなのだ。

例えば・・・
江戸時代に生きて現世には存在しない本居宣長の歌の真の意味や心情など現代を生きる私達には分かりようもない。
その分かりようもない本居宣長という人物や思考の本質(本性)を考えて近づく(分かる)ことを「理」とする。
その時に「情」や「欲」が入りこむと、「理」には辿りつけなくなる。
本当に一例だけど、百姓のオッサンは、オッサンの母が歌っていた『愛国の花』という歌に山桜が出てきたと語っていた。その話から、オッサンの「性」が動いて「情」になっていることを感じさせる。
また本居宣長記念館の研究員の人も「性」が動いて「情」になっていることをそこかしこに感じさせる。
本居宣長記念館の研究員なんて半ば弟子みたいな存在であり、その関係は濃密で、だからこそ知り得ることもあるだろうけれども、それが「情」になってしまうと冷静な見方が出来なくなる。
また本居宣長の評判を気にして、自分の仕事や記念館の収益なども絡めば「欲」に繋がりかねない。
こうなると「理」に至るのは大変難しくなる。
どんな人でもどんな「理」でも誰かの論理に負けたくないなんていう心理が芽生えてしまった場合には「性」が大きく動いてしまうと思う。

あくまでも冷静に穏やかに、一定の距離をとりつつ、対象を眺め、深く知ることが必要。


心を動かすことこそが生きる事

実を言うと、本居宣長はその冷静さや穏やかさを嫌ったのだ。
だから漢方医学と大いに関係があるにもかかわらず朱子学を否定し、源氏物語の「もののあわれ」に心を寄せて讃えた。

もののあわれ(物の哀れ)
目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、 しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁。

美しいものを見たら冷静なんかじゃいられない時だってある。
美しいものに香しいものに惹かれるのは当然。
あまりに美しすぎて泣きたくなる時もある。
この人を愛していても、あの人を好きになることもある。
今日好きだったものを明日嫌いになることだってあるかもしれない。
だけど好きな人の心が離れたら悲しい、泣きたい。
嫉妬に狂い、絶望して死にたくなることもある。
裸になってセックスして、その挙句子供が出来ちゃうことだって別に不思議はない。
心が動く事こそが生きているということ。それを誰に否定できる?
愛の本質なんて別に知りたくもないし、知る必要もない。
あなたがどこから来て、どこに行くかなんて、どうでもよいのだ。
あなたが生きる今日が素晴らしい。
あなたがここにいる今が素晴らしい。

たぶんそんなふうに思って本居宣長は源氏物語を肯定したのだと思う。
本居先生、恋の病でも患っていたのかなあ。


私達にも出来ること

分かりようもない本質(本性)を浮かび上がらせるには、あくまでも冷静に穏やかに、一定の距離をとりつつ、対象を眺め、深く知ることが必要と書いてきた。
でも分かることだったら、もっと真っ直ぐでも良いと思う。
この世には、人間には、自分には、分かることと分からないことが存在している。

夏目漱石が英語教師をしていた時に生徒が " I love you " の一文を「我君を愛す」と訳したら、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、 とでも訳しなさい」と言ったとする逸話は有名である。
確かに日本人は自分がこの人をとても好きだと分かっていても「私はあなたを愛しています」なんてなかなか言わないかもしれない。
だけど同時に「月が綺麗ですね」と言われても、(ああ、この人私のことを愛しているんだわ)とも思わない。
もっとも現代では逸話が有名なので思う人もいるかもしれないが。

「月が綺麗ですね」が「我君を愛す」だなんてなんてロマンティック♡ そんなシチュエーションに憧れる♥、なんていう女子がいるかもしれないが、普通「月が綺麗ですね」と聞いて「我君を愛す」って言ってるんだなぁなんて思いません! 断言できます、間違いなく思いません。
仮に少しくらい思ったとしても確信は全く持てずモヤモヤとした気持ちしか残らないと思います。
言わなければ分からないことがあり、生きている人間にはそれが出来るのです。




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by yumimi61 | 2018-11-13 18:36

山桜花の歌

(前記事の続きです)

画賛と自画自賛

「自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。」と評したのは上田秋成(江戸後期の国学者・読本作家・歌人。大坂生まれ)。

自画自賛という四字熟語がある。自分のしたことや自分自身を褒めること、つまり、自惚れが強いというような意味で使われることが多い。
語源は絵画用語の画賛。
中国における画讃とは、人物画にちなんで制作された文章を指す。
(但し、1300年以降は「題」や「跋」と呼ばれるようになり、「画賛」と言う言葉は使われなくなっていった)
賛というのは、人物の事跡を述べ賞揚する文学の一形式である。
日本における画讃とは、絵画の主として上部の空白部に書き込んだ詩文を言う。別紙に書いて接続する場合もある。漢詩が多いが、和歌、俳句を書くこともある。

本居宣長の生きた時代では中国ではすでに「画賛」という言葉を使っていなかったということだが、絵が人物画(自画像)であるということは中国式のように思う。
ともかく東洋画に付けた文章のことを「画賛」や「賛」と言った。
他者に頼んで文章を入れてもらうのが一般的なので、自分で書いた絵画に自分で文章を入れたり、自画像に自分で賛を書き入れることは珍しかった。
自分の画に自分で文章を入れること、その行為が「自画自賛」である。
その行為に至る要因はなにも自惚れだけではないと思うが、「自画自賛」の言葉の印象としては次第に「自惚れている鼻持ちならぬやつ」ということになっていった。

三重県熊野市有馬の花窟神社で参拝客に配布していたという版木画も画賛である。日本書紀の「一書曰く」を、「日本書紀曰く」と書き換えて、書き入れていた。
本居宣長はその地を「里の神わざ」と詠んだ。


本居宣長の自画自賛像

本居宣長は医師であり、時代を代表する国学者でもあった。
それなりの社会的地位があるのだから他者に頼んで画賛を書いてもらうことは十分に可能であったろう。
ではなぜ自分で書いたのか、そこにこそ本居宣長の心内が潜んでいるのではないだろうか。
あなたがもし本の帯に入れるコメントを執筆者や出版社から依頼されたらどうしますか?印象の悪いことを、都合の悪いことを書きますか?書きませんよね。求められているものが分かるから。
本居宣長は忖度した装飾した賛を求めていなかった。だから自分で書いた。そう考えるのが自然ではないだろうか。

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花

記念館の説明にはこのように記されていた。

「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。


楯突くようで申し訳ないけれど、田舎の百姓さん(ペンネームじゃないし?)にメールした言葉そのままに、「一般論としての大和心ではなく、自分自身の大和心だ」なんてどこにも出て参りません。
もし、ご不審でしたらどのように解釈すれば、貴下の解釈になるのかお示し下さい。

2つの解釈が出来る。
①記念館の解釈のように「あなたにとって大和心とはなんですか」と問われて答えているというもの。
②ただ単に(要するに一般論で)、例えば外国人に、「大和心ってなんですか?」と尋ねられて答えているというもの。

残念ながら歌からはどちらで詠んでいるのか判別できない。
でも外野から判別することが可能。それが自画自賛像であることの意味。
要するに一般的に印象の悪くなる回答をしているということなのだ。
①の問いで印象が悪くなる回答をすれば、印象が悪くなるのは自分自身。
②の問いで印象が悪くなる回答をすれば、印象が悪くなるのは大和心(当時の語の意味からすれば日本人の心)。大和心を非難しても本居宣長の印象が悪くなるとは限らず、時と場合によっては印象が良くなることもある。そうとなればまさに「賛」に相応しくなる。
61歳で創った自画自賛像。本居宣長もまた消化しきれない思いを抱えていたのではないだろうか。


山桜の特徴

では印象のあまりよろしくない回答とは何か、ということですよね。
「朝日に匂ふ山桜花」という下の句がその回答部分にあたる。

山桜は葉と花が一緒に展開するという特徴がある。
現代日本で一番ポピュラーである「お花見の桜」はソメイヨシノ。
ソメイヨシノはご存知の通り、葉に先駆けて花が展開する。花が散ってから葉が芽吹いてくる。

奈良県の吉野の桜は古くから有名だったらしいが、山桜が主体であり、日本の古代の桜は現代のソメイヨシノとは違う。
従って現代の主流の桜のイメージを昔の歌に当てはめるべきではない。
ソメイヨシノは江戸時代末期~明治時代に誕生した品種で、江戸中期に生きた本居宣長の時代には存在していない。
どんな花でも咲いた花はいつかは散るが、昔の桜には現代の桜ほど、ぱっと咲いてぱっと散っていくイメージはなかったと思われる。
記念館の人は、「散ることはどこにも出て参りません」と書いていたけれども、書いてある書いてない以前に、散っていくことを主眼にはしにくかった。


ソメイヨシノについて

(染井吉野、学名: Cerasus ×yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’)
江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。

山桜は野生種の桜の原産はヒマラヤ山脈あたりで中国を経由し日本に渡り、その後日本で種の変化や品種改良があった。
遺伝的なルーツを言えば、サクラ(桜)は純粋な日本産ではない。

ソメイヨシノは、野生種の桜の1種で日本では彼岸頃に咲くエドヒガンと、日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配して、日本で作り出された園芸品種。
ほとんど全てが同一の特徴を持つ。要するに個体差がないクローン。
今現在日本に存在するソメイヨシノ全て、実生ではなく栄養繁殖によって増えたものだそうだ。そう考えるとちょっとゾクッとする。

2012年に千葉大の研究チームは、北関東のエドヒガンがソメイヨシノの母親と推定され、コマツオトメはソメイヨシノの母親ではなく近縁にとどまることを園芸学会で発表した。これは、千葉大学園芸学部の国分尚准や安藤敏夫の研究チームが、江戸時代から生えているエドヒガン系の天然記念物級の古木を青森から鹿児島まで523本探して、新たに葉緑体DNAを解析したところ、ソメイヨシノのDNAと一致する古木が、群馬県で4本、栃木、山梨、長野、兵庫、徳島の各県で1本ずつ見つかったことを受けてである。

葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。さらに、第二次世界大戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

だけど本居宣長の歌の桜はソメイヨシノではなく山桜である。


どうして「花」であったか

「朝日に匂ふ山桜花」
匂ふは、美しく咲いている、香りが漂う、美しく染まる、美しく映える、というような意味がある。

・朝日の中で美しく咲いている山桜の花。
葉と花が同時に展開するのが山桜であり、どちらも朝日に輝いているはずなのに、花にしか目がいかないということを間接的に意味している。

・朝日に照らされて山桜の花の香りが漂っている。
夜に香りを主張する花は存在する。夜は視覚的に不利なので嗅覚に訴えるわけである。
でも朝日が出ているということは目に見える状況があるということ。
それなのに匂いで花を認識する。それはすなわち見えているものが見えないということ。
だから香らないものが香ることもあるということにもなる。

・朝日に美しく染まっている山桜の花(朝日に映える山桜の花)
同じ朝日を浴びても、染まるのは花のみ。朝日に映えるのは花のみ。


あの人は、葉であったか、花であったか

芽吹いて葉が茂り、その葉によって光合成が行われ、栄養とエネルギーを蓄える。
そして花芽が形成され成長し、やがて開花し受粉して実を結ぶ。
果実は成熟し母体を離れ、種が落ちて、新しい固体が芽生える。
それが一般的な植物のサイクルである。

植物の葉・茎・根は栄養器官と呼ばれる。
それに対して花は生殖器官である。
母体の成長も然ることながら、花芽を成長させ花を咲かせ果実を生らせるためには非常に大きな栄養とエネルギーを必要とする。
従って通常は葉が先に展開してから花を咲かせるほうが理に適っている。
しかし栄養とエネルギーを蓄えることが出来る植物の中には先ず花を咲かせるものがある。球根植物とか鱗茎植物とか。
実はヒガンバナ(彼岸花)はその代表。ヒガンバナも実生ではなく栄養生殖(無性生殖)。
それ以外では春早くに咲く植物に花が先に咲くものが多い。
そうした植物は冬に葉を落として、成長にエネルギーを使わない分、蓄えに回せるのだと思う。その蓄えで持って春先に花を咲かせることが可能となる。
その後はやはり栄養が作られなければ実を結べなくなる。
実を結ばなくてよい植物ならば、その分の栄養も蓄えられる。

花は生殖器官だけれども、花が先に咲く場合というのは、栄養生殖(無性生殖)であることが多い。
花は生殖のためにその姿を与えられたはずだが、花でありながら本来の役割を果たす必要がないのが栄養生殖(無性生殖)の花なのだ。
ぱっと咲いてぱっと散っていく美しい花は、別に花でなくとも良いという矛盾・・

しかし山桜は葉と花が同時展開する。
それなのに花だけに光が当たっているということは、栄養やエネルギーを作りだし蓄えるという作業に光が当たらないということになろう。
花ばかりに心惹かれ目を奪われ、栄養やエネルギーを作りだし蓄えるモノや作業に思いを馳せることがない、それが大和心だと詠った。
「もののあわれ」と源氏物語を持ち上げたのが本居宣長だったことで知られているが、この歌では暗に源氏物語を揶揄しているようにもとれてしまう。
『源氏物語』に失望して『古事記』まで持ち上げてみたが、憂さは晴れなかったとか?

本居宣長が葉に何を重ね、花に何を重ね合わせたかが、歌の意味を、本居宣長の心情を理解することになると思うが、決定的なことは言えない。
ただ万葉集とか言の葉とか、葉は言葉の比喩として使われる。
だとすれば・・・
調和的な情趣を優美なものとして指向する大和心、そんなものは存在しなかったという失望感漂う歌。
この場合、朝日が希望の象徴で、山桜花は失望の象徴。
あるいは、ないものをあるかのごとく語り、掘り起し日に当ててしまったことへの、そうした自分に対する、悔恨の歌。
この場合、山桜花は自分の比喩。

宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。
当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。


男子本懐の仕事ってなんだろうか。
医師でもなく、経営者でもないとするならば、国学者?
それとも名を残すことこそが大事だったとか? だから文事に傾倒?徳川光圀のように?
まさか本居宣長は本当は武家に生まれて武士になりたかったとか?
男子ってややこしい生き物ですね。今は男女平等で女子もかな。




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by yumimi61 | 2018-11-12 19:07

敷島の歌

問題の歌

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花

これも本居宣長の歌である。
この歌は解釈がたびたび取り沙汰される、いわば問題の歌なのだ。

以前、ソニーの創業者の1人である盛田昭夫の実家の盛田家について書いたことがある。
盛田昭夫は愛知県で歴史ある醸造会社を営む盛田家の長男だった。
盛田家の分家はお酢のミツカンと関係があり、敷島製パンも盛田家の分家筋の人物が創業した会社であるということを書いた。

過去記事より)
社名の「敷島」は盛田善平が好きだった本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」という歌から取られたそうである。

製パン会社から少々離れるが、この歌に関して興味深いやり取りがこちらで見られる
この歌をホームページに載せていた管理人と本居宣長記念館の主任研究員との間で交わされたメールである。 

群馬県前橋市には「敷島」という地名が存在する。敷島町である。
県営の敷島球場や陸上競技場(正田醤油スタジアム)を抱える敷島公園の住所は、群馬県前橋市敷島町66である。
私は敷島公園の近くにも住んでいたことがある。
敷島町は名古屋市や奈良市にもあるみたい。


正田醤油というのは現在の皇后・美智子妃の実家(日清製粉の創業家)の本家筋である。群馬県館林市にある。
群馬県立敷島公園県営陸上競技場の命名権(ネーミングライツ)を正田醤油が取得して、2008年6月から「正田醤油スタジアム」となっている。


「しきしま」は枕詞

歌の中の「敷島」は「大和(やまと)」に掛かる枕詞である。
「敷島」と「大和」はセットモノなので、敷島それ自体に大きな意味を乗せて歌を創作しているわけではない。
でも逆を言えば、自由に言葉を選べるはずの歌においても、必ず隣り合わせで置いておく必要があるほど、両者は切っても切れない関係、どちらかがなければ存在しえないほど重要な関係にあるとも言える。
古代においては「しきしま(磯城嶋)に宮がある大和」という意味で詠まれたものと捉えられている。
今現在「大和」は「日本国」の意味として捉えられるが、古代の大和国(現在の奈良県中心の国)のことで、現日本と国の範囲が同じとは限らない。

万葉集が一番最初に編纂された時には訓読みはなく、音読みで表された。だからこそ万葉仮名なるものが生まれた。
音を借りたのであって、漢字1つ1つに意味を持たないのが普通である。
しかしその原本が残っていない。
原文として漢文で示されるものも、すでに万葉仮名ではない漢字を当てはめてしまっており、明らかに原文ではない歌が多い。どの程度正確に元の歌の意味や技巧を踏襲しているのか調べようもない。
さらに訓読みや平仮名が誕生した後には訳したものが普及してきた。
また当然、徳川光圀よりも前にも校訂をした者がいるだろうと考えられる。
よって最初に創作された歌とは変わってしまっていることが十分に予想出来る。
見直したり検討をした年代に影響のあった地名や、その年代の価値観や考え方が盛り込まれてしまう(いわば編集してしまう)こともあるだろうと思う。

=万葉集の「しきしま」=
1787 礒城嶋能 日本國乃(敷島の大和の国の)
3248 式嶋之 山跡之土丹( 磯城島の大和の国に)
3249 式嶋乃 山跡乃土丹(磯城島の大和の国に)
3254 志貴嶋 倭國者(磯城島の大和の国は)
3326 礒城嶋之 日本國尓(礒城島の大和の国に)
4280 之奇嶋能 人者和礼自久(磯城島の人は我れじく)
4466 之奇志麻乃 夜末等能久尓々(磯城島の大和の国に)

4466の漢文のみが音読で「しきしまのやまとのくにに」と読むことがかろうじて可能(万葉仮名)。「乃」を「の」と読ませるのは訓読みであるが。
その他の漢文は万葉仮名ではない。

本居宣長は江戸時代中期の人物なので、訓読みも平仮名も存在していたし、大和(日本)にかかる敷島という枕詞も定着していたはずであろうから、あとはその意味を考えればよいだけ。


興味深いやり取りとは

『山桜』という記事を書いた筆者のお言葉を借りれば、

百姓のオッサンがボケ予防の慰みに書いている駄文に、由緒正しき研究員の方から訂正要求のメールが届くとは想像もしていませんでした。「光栄」と申し上げるべきだと思います。


簡単な山桜の説明と山桜の写真。
それに続いて本居宣長の歌が紹介されていたわけです。


 山桜は、かつて(戦前)は、愛国心の象徴とされた花でした。そして本居宣長の詠んだ次の歌は、散りぎわのいさぎよさを賛美した歌として喧伝されました。
 敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

 「敷島の」は「大和」にかかる枕詞で、特に意味はありません。神風特攻隊の最初の4部隊が、この歌から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられたことは有名です。

 母は若いころ、渡辺はま子の「愛国の花」をよく歌っていました。この歌詞にも、山桜が出てきます。

 真白き富士の気高さを 心の強い盾として 御国(みくに)につくす女等(おみなら)は 輝く御代(みよ)の山桜 地に咲き匂う国の花
 

そしたら、その記事を読んだらしい本居宣長記念館・主任研究員の吉田悦之さんからご指摘メールを頂戴したとのこと。


【追記 2006/04/28】
 昨日、本居宣長記念館・主任研究員の吉田悦之さんから、「敷島の~」の歌の解釈が間違っているとのご指摘(メール)をいただきました。検討の結果、説明文の一部を書き換えました。

その源流は、本居宣長の詠んだ次の歌にあります。散りぎわのいさぎよさを賛美した歌です。
 ↓
そして本居宣長の詠んだ次の歌は、散りぎわのいさぎよさを賛美した歌として喧伝されました。

 ご参考に、吉田悦之さんのメールの全文と、それに対する私の返信を添えておきます。

【吉田悦之さんのメール】

 ホームページを拝見いたしました。
 見逃しがたい点がありましたので、メールさせていただきます。
 「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
 散りぎわのいさぎよさを賛美した歌です。」
 は誤りです。「朝日に匂ふ」のであって散ることはどこにも出て参りません。
 もし、ご不審でしたらどのように解釈すれば、貴下の解釈になるのかお示し下さい。
 歌から離れて、宣長が、愛国心を称揚したとか言う指摘なら、それもまた意見としては認められるかもしれませんが、この解釈は、満開の、朝日に照り輝く山桜をこよなく愛した宣長に対しての冒涜です。
 訂正を求めます。

 本居宣長記念館 主任研究員 吉 田 悦 之
紙面ページ文字数の都合上、お返事部分は省略させていただきました。上のリンク先でご確認ください。


自画自賛像の「賛」の歌だった

そもそもこの歌はどこで発表されたのか。それが記念館のホームページには記されている。
◆「敷島の歌」より

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

 この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
賛の全文は、

「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、
筆のついでに、
しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
です。

 歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。

 宣長は答えます。
「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。
 だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。
 たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。


◆徹底分析・本居宣長六十一歳自画自賛像より(画像・説明文ともに)

e0126350_16084115.jpg
【解説】
一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。
例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。
本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。



チラつく太平洋戦争の影


百姓のオッサンも(失礼!)、本居宣長記念館のホームページの記事も、書いた日付を記していないので、どういう時系列なのか全く分からないが、本居宣長記念館のホームページには◆「敷島の歌」その後 という記事も上がっている。

(略)
また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。
  田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。

 晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

 信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

(略)
 宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。


(ページを改めて続きます)


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by yumimi61 | 2018-11-12 14:37