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軍事と国営化、軍事と民営化

総裁が1987年11月17日に暗殺されたフランスのルノー公団は、1990年2月にスウェーデンのボルボと業務・資本提携し、株式会社に改組された。いわゆる民営化である。
日本でもそうだが民営化されても多くの株式を政府が持っているというケースは少なくない。
フランス・ルノーも当初はそうだったのだろうと思う。

1993年9月にはルノーとボルボの完全合併案が発表されたが、フランス政府の干渉にボルボ側の経営陣や株主、従業員などが態度を硬化したことにより交渉が決裂し、同年12月には合併が正式に撤回された。
ボルボとの合併案は撤回されたものの、その後もフランス政府は株式を売却し続け、会長の暗殺や労働組合の反対という困難を乗り切って1996年には完全民営化を果たした。


政府資本というのは良いようであるが、民間同士よりも却って警戒されたり、話がこじれて上手くいかないこともあるのだろう。
そこでフランス政府はルノーの株式を一旦は完全に手放した。
晴れてルノーは民間企業となった。(まぁそうは言ってもド・ゴールの前は民間企業だったのだけれども)

軍事であろうと何であろうと、国営会社が自国関連の仕事をすることに対して、あるいは国家に関する仕事をしている企業のオーナーが自国政府であることについては、大きな問題にならないと思う。
でもどこかの国営会社が他の国の機密事項や重要事項に関わる仕事をする、あるいは国家に関する仕事をしている企業のオーナーが他国政府になったとしたら、それは問題にされてもおかしくはない。

ド・ゴール政権が自国フランスのために軍用車両を開発し製造してほしいと思い自国企業のルノーを国営化したとするならば、軍備拡大の是非や手法・手順の良し悪しは別として、意図や構図としてはそれほど不可解なものではない。

しかし国営ルノーはアメリカの軍事車両を手掛けていたアメリカン・モータース(AMゼネラル)を買収で手に入れた。
それがアメリカ政府のクレームによって切り離されると、再度民営化に舵を切った。
この経過を踏まえれば、フランス政府(ルノー)は、他国の軍事に携わりたいのかなぁ、軍事車両に関する何か情報を得たいのかなぁ、という印象を与える。


ルノーの民営化とミッテラン大統領

1990年に民営化したルノー(完全民営化は1996年)。
ミッテラン大統領の就任期間は1981~1995年。
ミッテラン社会党政権は「大きな政府」を掲げ、公共投資の増加や国有化の推進などを目指した。
イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、日本の中曽根首相など、当時の主流は「小さな政府」であった。
日本の中曽根首相は行財政改革を断行し、規制緩和や国鉄・電電公社・専売公社などの国営企業を民営化させた。小泉首相も「小さな政府」派であり、郵政民営化を果たした。

大きな政府(英: big government)とは、政府・行政の規模・権限を拡大しようとする思想または政策である。主に広義の社会主義(社会改良主義・社会民主主義・民主社会主義・スウェーデンモデル・日本型社会主義・集産主義)や国家資本主義・民族社会主義に立している

「スウェーデンモデル」とは福祉国家。社会福祉の供給者は主に政府。老後の福祉が安定していることから必要以上に貯蓄することなく消費に回され結果的に経済が好循環となり、社会福祉の充実から治安なども悪化しにくいという考え。財源は税金であるから税金は高い。政府主導で所得平等や完全雇用を目指す。

「日本型社会主義」とは第二次世界大戦後の日本を指す。
民主主義社会や自由を謳いながら、そうした社会に付き物の格差や不平等が少ない社会という意味。世界で最も成功した社会主義国・共産主義国と皮肉交じりに言われることもある。

ルノーの民営化は、「大きな政府」を掲げたミッテラン社会党政権とはまるで逆方向に進んだことになる。この点からも解せない。
もっともミッテラン大統領は反対勢力を歩き渡っており、強い政治思想があったとは思えない。
政権を取ってからも、反対勢力とコンビを組んでいる。
フランスの権威権力者にはカトリックという共通項があるので、宗教の上に国家神道を乗せた日本ではないけれども、政治の上に宗教を乗せてしまえばよいのだ。

地方分権や教育改革にも取り組んだが、景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。やむなくミッテランは首相に保守派のシラクを指名し、大統領が左派、首相が右派という、保革共存(コアビタシオン)という状態になった。その後は外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、ミッテランは大統領を続けた。保革共存はミッテランの二期目でも首相バランデュールとの組み合わせで行われた。

ミッテラン大統領がコンビを組んだシラク(ミッテラン大統領の後1995~2007年に大統領就任)は、日本の東京相和銀行(1999年に経営破たん)に巨額の隠し口座を持っていたとフランスで報じられた。
記事の情報源は、1996年11月にフランス の諜報機関DGSE(対外治安総局)の職員が日本の東京相和銀行に詳しい情報提供者との接触によるものだったとか。


シラクの疑惑(フランスと日本に亘る疑惑)

フランスの週刊紙『カナール・アンシェネ』は、シラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧東京相和銀行(現東京スター銀行)に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、同年7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。

↑はWikipediaの転載だが2007年の記述のまま更新されていないことが分かる。
こんな疑惑の最中、アメリカのオバマ大統領は2009年3月、シラク前大統領に助言や協力を求める書簡を送ったのだとか。(フランス紙『フィガロ』(電子版)が2009年3月20日に報じた)

↓のパリ事件は2011年の判決まで書かれている。
だけど2011年には、シラク前大統領はアルツハイマーを発症しているとの報道がなされ、結局全てなんとなく有耶無耶になった。

また、2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党(共和国連合)の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。2009年10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された。第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。2011年12月15日、パリの軽罪裁判所により執行猶予付きの禁錮2年の有罪判決が出された。

2008年6月7日 AFP
フランスの司法当局が同国の情報機関「外治安総局」(DGSE)本部を捜索していたことが7日、明らかになった。ジャック・シラク(Jacques Chirac)前フランス大統領が日本の銀行に持っていたとされる口座の調査のため。

 DGSEに近い筋によれば、複数の予審判事が4日、DGSEを訪れ、文書の提出を求めた。DGSEは文書を提出したが、現在封印された状態でDGSEに置かれている。これらの文書は後日、秘密指定が解除される可能性もあるという。

 2006年、フランスの週刊誌が、シラク氏が東京相和銀行(Tokyo Sowa Bank)(現・東京スター銀行)に持っている口座に、ある「文化財団」が1990年代から数年にわたり4500万ユーロ(約74億円)を集めたという記事を掲載した。シラク氏の事務所はこの疑惑を、大統領就任後に始まった個人攻撃の一部だとして繰り返し否定していた。

 これとは別にシラク氏のパリ(Paris)の弁護士の事務所も、1997年にフランス領ポリネシアのタヒチ(Tahiti)のジャーナリスト、ジャンパスカル・クーロー(Jean-Pascal Couraud)氏が謎の失踪を遂げた事件について予審判事の捜索を受けた。クーロー氏はシラク氏が日本に持つ銀行口座の資金の動きを調べていた。

 2002年、タヒチのパペーテ(Papeete)の裁判所は、クーロー氏は自殺したと結論づけ、失踪と銀行口座の調査の関連を認めなかった。しかし新しい目撃者が現れたため、2004年に審問が再開された。クーロー氏の家族は同氏が殺害されたとして訴えを起こしている。クーロー氏の遺体は見つかっていない。

 弁護士のジャン・ヴェイル(Jean Veil)氏によれば、予審判事と検察官の2人が、シラク氏が東京相和銀行に口座を持っていないことを証明する同行からの手紙を押収したという。この手紙は封印された状態で、捜査が行われているパペーテに送られた。

 2007年、シラク氏はパリ市長時代の汚職事件で捜査を受けた。シラク氏がパリ市長を務めていた当時、パリ市役所の職員のポストが不当に水増しされ、その給与が、シラク氏が総裁を務める政党・共和国連合(RPR)に流れたとされるもの。フランスの大統領経験者が司法の捜査を受け、刑事罰を受ける可能性が出たのはこれが初めてだった。

 シラク氏は1977年から1995年までパリ市長を務め、その後12年間フランス大統領の地位にあった。(c)AFP


フランス領ポリネシアのタヒチ(Tahiti)のジャーナリスト、ジャンパスカル・クーロー(Jean-Pascal Couraud)は失踪当時、シラク大統領と親しいポリネシア前大統領ガストン・フロスの隠し資金の一部がシラク大統領に渡っていた疑惑を調べていた。2004年にガストン・フロス前大統領の個人警護部隊の元メンバーがジャーナリストは同部隊に殺害されたと証言したことから、ポリネシアンの当局が再捜索に乗り出し、シラク大統領の弁護士やパリの対外治安総局DGSEの事務所が家宅捜索された。DGSEを捜査したということは、日本における銀行口座の存在について調べていたDGSEも疑わしいとみていたわけだが、結局有耶無耶になった。


国民性とイメージ戦略

完全民営化(1996年)したルノーが積極的に関係を持ったのが、タイプの違う「大きな政府」型の2国、日本とスウェーデンである。

「大きな政府」が可能な国民性、あるいは「大きな政府」によって構築される国民性とはどんなものだろうかと考えてみた。
自分で考え判断することをやめてしまうという特徴はないだろうか。
一極化、均一化、同一化、思考停止―――――――――――――――
人間の均一化の果てはロボットでありAIだろう。あっクローンもあったかな。
こういう社会では流行が起こりやすい。ブランドが形成されやすく支持されやすくもある。しかし逆を言うと、流行やブランドに乗れなかったものは何をしても大した成果は出ない。流行やブランドというものは確固たる根拠がない抽象的概念に過ぎないことも多々あるので、中身が置き去りにされがち。思考停止が起こっていれば変化はあまり望めない。

例えば、トヨタ車は素晴らしいというイメージや宣伝の下、トヨタ車が多くに支持されていった場合、他の自動車会社は何をしても大した成果は出なくなるという事である。自動車を見ているのではなく「トヨタ」というブランドや流行を見ているから。こうなるとトヨタは後出しでも勝てるようになる。
トヨタが日本で強くなったのは海外での販売好調が伝えられることによるものだと思う。日本のトヨタ人気は「外国で認められたトヨタ」というブランド力に支えられている。
「外国で認められる」ことに国民全体が強い拘りを持っているのは敗戦トラウマを持つ日本の急所でもある。

差が生じた時に「大きな政府」が管理能力を発揮し調整なり再分配すればまだよいが、それがなされない場合には差が出ているにも係わらず、社会の均一化要求に押され同じような分配が行われる。均一化社会なのだから、そうしなければ生き残れないという側面もある。そのような無理が生じているのだから会社経営や社会経済は健全ではなく脆い。不正の温床になったりもしてしまうだろう。

日産は日本でトヨタに水をあけられた。もはや何をしても勝てなかった。
「技術の日産」より「販売のトヨタ」が勝っているのに、いついつまでも「技術の日産」なんて宣伝しているセンスがダメダメなわけで。見る人が見れば「技術売りなわりには驚く技術はない」とか言われてしまい、分からぬ人にも分かる人にも結局どちらにも効果がないわけで。
それぞれの車種はともかく、日産という会社に対して、申し訳ないけれど最先端や今風を感じさせず古臭いイメージしか残らない。女性受けもしない。

1999年3月27日に、当時深刻な経営危機下にあった日本第2位の自動車会社である日産自動車を事実上の傘下に収めることが発表された。その後同社と相互に資本提携し、ルノーが日産自動車の株を44.4%、日産自動車がルノーの株の15%を所有するという形で株を持ち合い、ルノーが日産自動車に経営陣を送り込むなど、事実上の親会社となったルノー主導で経営再建に着手した。

当時の取締役会長兼最高経営責任者 (PDG)であるルイ・シュヴァイツァーによって日産自動車の最高経営責任者(CEO)として送り込まれた副社長のカルロス・ゴーンとそのチームが、同年10月に発表された「日産リバイバルプラン」計画のもと、東京都武蔵村山市にある村山工場や京都府宇治市の日産車体京都工場(当時。現・オートワークス京都)などの余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減。子会社の統廃合や取引先の統合によるコスト削減や車種ラインナップの見直しなどのリストラを行うと同時に、新車種の投入や国内外の販売網の再構築、インテリア及びエクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの大幅なテコ入れを敢行した。



ゴーン効果

深刻な経営危機にあった日産にとって外国人経営者はプラスであったろうと思う。
「外国のトヨタ」に負けたのだから、外国人経営者で押し返すチャンスとなる。ルノーのブランド力と販売網でもってして外国での売り上げるが伸びるのではないかという期待も感じさせただろう。
デザインと技術の融合を夢見た人もいたかもしれない。

他所から来た外国人経営者には国内で培った腐れ縁やしがらみがなく、余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減、子会社の統廃合や取引先の統合など行いやすい。
日産だって「新しく来た外国人経営者の方針・指示なのですみません」と言えば角が立ちにくい。
日本人がやるより思い切ったコストカットをしやすい。

外国人経営者というイメージをプラスに用いるわけだから、高額報酬も違いを際立たせるために有用であったはず。





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by yumimi61 | 2018-11-30 14:15
戦争とジープ(Jeep)

第二次世界大戦中の1940年にアメリカ陸軍の要請により開発着手され、翌1941年から実戦投入開始された小型四輪駆動車がその元祖である。第二次大戦において連合国軍の軍用車両として広く運用され、高い耐久性と悪路における優れた走行性能で軍事戦略上でも多大な成果を挙げた。アメリカ軍欧州戦域総司令官を務めたドワイト・D・アイゼンハワーは、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「原子爆弾」「C-47輸送機」「バズーカ」、そしてジープを挙げている。

その高性能は小型四輪駆動車の有用性を世界各国で広く認知させ、第二次大戦後に軍用・民生用を問わず同種の四輪駆動車が世界的に普及する端緒となり、「ジープ」は単なるブランドに留まらず、その優れた設計と名声から民生のクロスカントリーカーや小型軍用車両の代名詞となった。

Jeepという名称はGeneral Purpose(万能)、もしくはGovernment-use(政府用)のGとホイールベース 80インチの車両を表す識別符号のPからきた符号GPから"ジープ"と命名されたという説や、漫画『ポパイ』に登場する「ユージン・ザ・ジープ」からとったという説がある。明確な起源は判然としないが、すでに1941年にはこの通称が用いられ始めていた記録がある。


アメリカ陸軍はドイツ陸軍のポーランド侵攻においてキューベルワーゲン(ドイツ製の小型軍用車両)が活躍していることに注目し、アメリカでも小型軍用車を開発する計画を立てた。

1940年7月に135社の自動車製造会社に大まかな設計要件を伝え、四輪駆動の小型偵察車開発計画に応札することを緊急要請した。しかし開発期間と要求スペックは厳しいものでゼネラルモーターズもフォード・モーターも応えられず、アメリカでは主流から外れた小排気量の小型車に関するオーダーでもあったため、オファーに応じたのは中・小型車メーカーのウィリス社とバンダム社の2社のみだったという。
ウィリス社も途中で諦めることとなり、バンダム社が外部から設計者を招聘して設計した。
これが正式に採用され、ジープのプロトタイプとなる車輌が製作された。
バンダム社も設計に至らずジープが生まれていなければ、第二次世界大戦は違うものになっていたのかしら、そうでもないのかしら。

バンダム社はそれほど大きな会社ではなく生産能力に難があったため、アメリカ政府はバンダム社の設計図をウィリス社とフォード社にも提供して生産に加わらせた。以後、大量のジープが生産されるようになる。


奪ったジープからトヨタのジープ、そしてランクル

戦時中の1942年、日本陸軍はフィリピン侵攻においてバンタム社製のジープ(Mk II・BRC-60)を奪い取った。
ジープ量産最初期の1940年に生産された69台のうちの1台である。
(奪い取ることを軍事用語では「鹵獲」と言うらしい。戦地で敵対勢力の兵器や装備品、補給物資を奪うこと。一般的に、鹵獲した兵器はそのまま自軍の兵器として転用、調査を行って分析し自軍の兵器の改良や開発の参考に使用、改造を施して使用、または余剰品として廃棄されることが多い。このため、近代以降の軍隊では何らかの理由で兵器を遺棄しなければならなくなった場合、その兵器が敵軍の戦力として運用されないように破壊(爆破・放火・自沈)ないし使用不能にすることが義務付けられている)

フィリピンで奪ったジープを早速に日本に送り、トヨタに性能などを調査させ、コピー車を作るように依頼。
フィリピンというのはカトリック国で、後にGHQ総司令官になるマッカーサーがいた国でもある。
案外奪い取ったのではなく横流しだったりして。

陸軍は鹵獲したBRC-60の性能に着目し、これをリバースエンジニアリングするようトヨタ自動車に命じた。その試作に当たっては戦地での敵味方の誤認を防ぐため「外見がジープに似てはいけない」という要求も貸され、機能性がそのまま外見に表れるジープと同じ性能を違う外見で実現するためにトヨタの森本真佐男技師は大変に苦心した末、最終的にヘッドランプを中央1灯とするフロントフェイスにすることでこの要求をクリア、1944年8月にトヨタ呼称AK10型として試作車5台が出揃い、御殿場で試験された。
その結果、四式小型貨物車として陸軍に直ちに制式採用されるが、極度の資材欠乏と労働力低下、日本本土空襲の混乱などから量産が間に合わず、ジープのような活躍の記録はない。
また、このAK10型と戦後のトヨタ・ジープ、のちのランドクルーザーとの設計面での直接的なつながりもなく、トヨタ自身もジープ/ランドクルーザーの直接の母体はトヨダ・KCY型四輪駆動トラックや、KCY型をベースに水陸両用トラックとしたスキ型4輪駆動水陸両用車であるとしているが、トヨタの技術者たちはAK10型の試作の経験で四輪駆動車の基礎的な技術を学び、その残存部品もトヨタ・ジープの開発に当たって大いに参考にされたという。


結局トヨタのジープは戦時中には量産出来なかったが、アメリカは実に65万台ものジープを生産した。

戦後に誕生したトヨタ製のジープ。ランクルとは関係ないと言っているようだが、技術者たちも証言しているようにそんなことはないだろう。
違いは搭載したエンジンが大きかったこと。
戦時中ドイツやアメリカは小型車両を重宝したわけだが、戦後のトヨタのジープはトラックに用いるような大型エンジンを搭載した。普通にしていても小型車両よりもパワーが出るのは当然である。
ジープという名称は商標権の問題で使用できなかったので、「ランドクルーザー」という名にした。これはイギリスの「ランドローバー」を意識したらしい。
陸(国)を動き回る者という意味の'LAND ROVER'。
陸(国)を巡視する者という意味の'LAND CRUISER'。

ついでに奪い取ったバンダム社のジープ(Mk II)は、後にトヨタが発売することになる高級乗用車の名称マークII (MARK II)にも似ていますね。


ジープ、クライスラーへ

1970年代はオイルショックに2度見舞われ自動車業界にとっては非常に厳しい年代であったが、燃費効率の良さが評価された車をアメリカン・モータースの販売網を利用して販売し一定の成果を上げたルノー同様に、小型車を多く生産する日本の自動車会社にとってもオイルショックはアメリカ市場での販売において、ある意味追い風となった。
日本の自動車会社がアメリカ市場で飛躍したのはオイルショックのおかげとも言えるくらいである。

三菱自動車は1970年代にアメリカのクライスラーと業務提携し、三菱の小型車はクライスラーブランドでクライスラーの販売網を利用して販売されていった。こうすることで輸入車にかけられる関税も回避できたという。売上は折半。
しかし当時アメリカは日本からの自動車の輸入自体に台数制限をかけていたので、関税がフリーになると言っても無制限に輸入するわけにはいかなかった。
そこで1985年、三菱自動車とクライスラーは現地生産を行う合弁会社「ダイアモンド・スター・モータース」を設立した。出資比率は折半。

クライスラーはアメリカの自動車企業ビッグ・スリーの1つ。
ゼネラル・モーターズ(GM)、フォード・モーター、 クライスラー。


フランスの国営企業であったルノーがアメリカン・モータースの株式46.1%を取得して傘下に収めたのは1979年。
しかしながらアメリカン・モータースの軍用車両部門のフランス資本(AMCのオーナーがフランス政府ということになる)は国防上の理由から認められないというアメリカ政府からのクレームにより切り離される。
1985年1月、業績が悪化していたルノーの総裁にジョルジュ・ベスが就任。
ベスはジープを高く評価しており追加投資も考えていたというが、結局1987年8月にアメリカン・モータース(AMC)はクライスラーに売却され、9月には生産性向上方針(不採算企業の閉鎖や人員整理)を発表した。
そして1987年11月17日暗殺された。

クライスラーはAMCの乗用車ではなく、ジープに魅力を感じていた。クライスラーは自社での一からの開発をおこなってジープ同様の評価を得るには、10億米ドル以上のコストがかかると見積もっていた。

ルノーが1979年にAMCを買収した際にはおよそ10億ドルかけたらしいが、クライスラーへの売却は3.5億ドルほどだったという。

クライスラーは、AMCの販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売力が拡充した上、ジープ・チェロキー(2代目・XJ)が予想外のヒットとなるなど、AMCが展開していた「ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。
ジープはクライスラーの基幹ブランドの一つとなった。
ジョルジュ・ベスのジープへの評価は間違えてはいなかったということであるが、当時のルノーはそれが活かされるような経営状態ではなかったということか。それともルノーはどうしても軍事部門に関わりたかったのか。

一方でクライスラーは三菱と設立した「ダイアモンド・スター・モータース」の株式を1993年に三菱に売却した。
以降、同会社は三菱自動車の北米事業部門となっている。(現:ミツビシ・モーターズ・ノース・アメリカ)


ジープの行方

1998年、クライスラーはダイムラー・ベンツ(ドイツ)と合併しダイムラー・クライスラーとなる。
2007年、ダイムラー・クライスラーはクライスラー部門を米投資会社サーベラス・キャピタル・マネジメントに売却。
2009年、クライスラーが倒産処理手続き(チャプター11)、フィアット(イタリア)が資本参加。
2014年、クライスラーはフィアットの完全子会社となる。(⇒フィアットとクライスラーの合併)
持株会社であるフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)を設立。

フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)
登記上の本社はオランダ・アムステルダム、税務上の本社はイギリス・ロンドンに置かれている。フィアット創業家のイタリアのアニェッリ家がオーナーシップを取っており同家の投資会社であるエクソールを通じて株式ベースで29.41%、議決権ベースでは44.31%を所有しており、現会長のジョン・エルカーンも同家のメンバー。
イタリア社とアメリカ車を世界展開しているが、本社を置いているのはそのどちらの国でもない。

ということで今現在ジープの商標権を持っているのはFCA。
2017年に中華人民共和国の自動車メーカーである長城汽車がジープの買収に意欲を示したと報道されるも、長城汽車は「不確実」であるとして現時点の進展はないとした。



by yumimi61 | 2018-11-29 20:35
ミッテラン大統領

フランスはカトリックの教皇から王という権威を与えられて国が樹立してきた経緯から君主はみなカトリック教徒であり、それは大統領の時代になっても変わらない。
フランス・カトリックの歴史は国王クロヴィス1世(フランスの前身であるフランク国の王)が洗礼を受けた時に始まったとされている。
宗教改革があっても、市民革命があっても、呪縛されたかのように張り付いている。

1945年、臨時政府の主席だったシャルル・ド・ゴールの行政命令によって国営化されたルノー。
そのルノーが民営化された時の大統領はフランソワ・ミッテランだった。
ミッテランは反対勢力を渡り歩いているので政治思想が分かりにくい面はあるが、カトリックへの信仰がベースにあると考えると腑に落ちる動きでもある。

カトリックの家庭に生まれる。
★尊王攘夷思想
当初青年右翼であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織クロア・ド・フーに所属した。←幕末の志士のようですね
★ヴィシー政権での活躍
1942年からはフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943年8月16日には、戦前の国家主義活動やヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。←カトリックを支柱にした国民革命とドイツへの協調
★ド・ゴール政権への合流
1943年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。
★戦後の第四共和政期は閣僚
国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。
★冷徹さ
翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。
ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

★戦後は反ド・ゴール
第四共和政期は一貫して反ド・ゴールの立場をとった。ド・ゴールは1959~1969年大統領として再登板した。ミッテランは左派統一候補として1965年・1969年・1974年と大統領選挙に出馬するも落選。1971年にはフランス社会党の書記長となる。1981年の大統領選で当選。1995年までの14年間大統領を務めた。


ルノー再びの悪夢

1986年11月17日の夜、ルノー公団総裁に就任していたジョルジュ・ベスが自宅前で左翼テロ集団のアクション・ディレクトに暗殺された。
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アクション・ディレクト(フランス語:Action directe、日本語直訳:直接行動)
フランスの極左テロ組織。1979年に無政府主義組織「国際革命行動グループ」と毛沢東主義グループ「人民自治武装細胞」が合体して設立した。

パリ14区。エドガー・キネ通り。この通りは幅の広い中央分離帯があり、その中央部分がトネリコの並木になっている。
ベスが通りで送迎車を降りて自宅の門扉に歩き出したところ、トネリコの陰から突然男女が飛び出してきて、女がベスに向けて拳銃を向け、2発、3発と銃弾を浴びせた。ベスはその場で絶命した。

実はトネリコは日本原産の木である。
トネリコ(梣、学名:Fraxinus japonica)は、 キク亜綱- ゴマノハグサ目- モクセイ科に分類される落葉樹であるトネリコ属中の、日本列島を原産地とする1種。
東北地方から中部地方にかけての温暖な山地に自生する。近年では、街路樹や園芸樹として各地に植えられていることもある。
木材としてのトネリコは弾力性に優れ、野球のバットや建築資材などに使用される。
新潟県では古くから水田の周囲などに並木として植えられ、刈り取ったイネを架けて乾燥させる「はざ木(はざき・はざぎ)」として利用された。同じ米産地の富山県でも同様の使われ方をし、「ハサ」と呼ばれる。トネリコは田園風景を決定づけていたが、ほとんど失われてしまった。「トネリコは一本だけでは役立たない、何本も並んでいるから役に立つ」といった教訓としても使われることがあった。



恩赦で釈放したのはミッテラン大統領

ベス暗殺で犯行声明を出したアクション・ディレクトは1980年にパリで警察と銃撃戦を繰り広げ、組織のリーダー格2人が逮捕されたことがあった。
しかし翌1981年に社会党のミッテランが大統領となり、ミッテラン政権は恩赦の法案を国会で通し、アクション・ディレクトの2人を釈放した。
釈放された2人は1985年にドイツ赤軍派と連携を結んだ。
その前後に幾つかのテロを起こしているが、そのうちの1つがルノー総裁ベスの暗殺だったという。

左翼テロリストであり、ターゲットにしたのが警察や軍や国営企業のトップだったりしたわけだが、当時は左翼に近い社会党政権であった。しかも2人は社会党のミッテランに恩赦にしてもらい釈放された。
ちょっとしっくりとこないテロである。


原子力業界への関わり

ジョルジュ・ベスがルノー公団の総裁に就任したのは1985年1月ことだった。

ベスはフランスの中央高地に位置する地域の農家の家系に生まれた。実業学校出身のエンジニアであるが経営手腕も買われたようである。
30代40代でUSSIやCITアルカテルのゼネラルマネージャーに就任。

1973年(45歳)の時、ウラン濃縮会社であるユーロディフ(Eurodif)を設立した。
Eurodif
ウラン濃縮事業を担当するフランスAREVA社の子会社。1973年にイタリア、ベルギー、スペイン、イラン(当初はスウェーデン)との共同出資で設立され、フランスのトリカスタンにガス拡散法によるウラン濃縮の商業プラント(ジョルジュ・べス工場、公称能力10,800tSWU/年)を建設した。この工場は1979年に操業を開始し、30年余り稼働してきた。ジョルジュ・べス工場は老朽化し、また電力消費量も大きいため、遠心分離法によるジョルジュ・べスII工場への移行が進められている。AREVA社によると、ジョルジュ・べスII工場は2011年4月に商業生産を開始した。

フランスAREVA社の子会社とあるが、AREVAに社名変更したのは2006年のことで、それ以前はCogemaという名称である。
EurodifはCogemaの子会社として設立された。
Cogemaは核燃料会社であるが、その前身は1945年にド・ゴールがフランスを核武装するために作った原子エネルギー委員会Comissaria Energie Atomique (CEA)である。
ベスは1976年にCogemaの副社長に、1978年には社長となっている。
すなわちフランスの原子力事業に深く関与してきた人物でもある。
フランスは原子力大国で、原発依存度は世界一。今なお発電の76%は原発によるものと言い張っている。

ジョルジュ・ベスは1982年にアルミ精錬会社の社長にも就任し、その後1985年にルノー公団総裁に就任した。


ルノーの失敗

ジョルジュ・ベスがルノー公団の総裁に就任する6年前の1979年、ルノーは当時アメリカで第4の自動車会社であったアメリカン・モータース(AMC)に46.1%資本参加し傘下に収めている。
スケールメリットとアメリカ市場への本格的進出を狙い、1960年代初頭から提携関係にあったアメリカ第4位の自動車会社、アメリカン・モーターズ(AMC)を買収し、「5」(アメリカ仕様は「ル・カー」の名で販売され、フランス国内でも一時期同名で販売された)や、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもある「9」(同「アライアンス」)、「11」(同「アンコール」)、「フエゴ」などの複数のモデルを擁し、1950年代後半の撤退から10数年を経て再度北アメリカ市場に本格的に参入した。

1970年代というのは2度のオイルショックがあった時代である。
ガソリンの不足、価格の高騰、消費マインドの冷え込みによって自動車販売台数は激減した。
ヨーロッパでも日本でもアメリカでも自動車会社は厳しかった。
2度目のオイルショックは1979年に始まり、ピークは1980年。
ルノーはまさにその頃にアメリカ市場に参入した。
ピンチはチャンスという言葉もあるが、燃料食いの大型車よりは小型車、パワーより燃費の良さに注目が集まるチャンスでもあった。
ルノーは、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもあった「9」が、アメリカでは「アライアンス」という名で販売され、燃費効率が良いと高く評価され、販売台数も伸びて一定の成功を収めている。
しかし業績は悪化していく。
その1つの原因は軍事車両部門の切り離しだと思う。

アメリカン・モータースの軍用車両部門であったAMゼネラルは、1970年代後半からアメリカ政府の要請に基づき旧態化したジープの更新を目的として「高性能多目的装輪車(後のハンヴィー)」を開発していた。
アメリカン・モータースがルノー傘下になった3年後の1982年、アメリカ政府は「国防上の理由」として、軍事部門であるAMゼネラルの資本をフランスのルノーにすることを認めず、AMゼネラルはアメリカン・モータースから独立した。
ルノーが買収した時のアメリカの大統領は、後年(2002年)にノーベル平和賞を受賞する民主党のカーター大統領。1981年にレーガン大統領が就任した後に、軍事部門であるAMゼネラルが切り離されたということになる。
AMゼネラルは開発していたハンヴィーが1985年に正式採用され量産が開始された。
AMゼネラルはのちにハマーの製造元としても知られるようになる。
何と言ってもルノーは当時フランスの国営会社だったのだから、アメリカの「国防上の理由」という言い分も仕方ないと言えば仕方ない。
でもルノーにしたら目論見が外れたのだろう。こうなると買収金額が高すぎたということになる。投資した費用を回収する見込みが無くなり業績が悪化していったんだろう。


人気車種ジープ

ジョルジュ・ベスは1985年1月にルノー公団総裁に就任した。
原子力事業の会社のヘッドだったということで、軍事部門にも強いだろうということでルノーに招かれたのではないだろうか。
暗殺される2か月前、ベスは「採算の取れない会社(工場)は閉鎖し、2万程度の労働者を解雇する」との方針を打ち出した。
当然労働組合は反発する。

ルノーの幹部や工場経営者などはルノーの業績悪化の原因はアメリカ進出の失敗にあり、アメリカン・モータースこそ底なしの不採算企業だから即刻手放すべきだという認識にある人が多かったが、ベスはアメリカン・モータスやアメリカ市場には将来性があると主張した。

ベスはアメリカン・モータースのジープに期待をかけていたようだ
AMゼネラルを分離させられたのだから軍事車両のジープではない。
ハードユース対応やレジャー用のジープである。
ジープはアメリカ国内にも世界的に見ても競合車種がほとんどなかったことが強みであり人気もあった。
当時「ジープ」の商標を持っていたのはアメリカン・モータースである。

1980年代、特に人気が高かったのはジープ・チェロキー (XJ) (Jeep Cherokee) 。
アメリカン・モーターズ (AMC) が1983年に発表した新世代四輪駆動車で、既存のエンジン以外はすべてゼロから開発した本格4×4スポーツワゴンである。
先代チェロキー (SJ) やピックアップ出自の多くのSUVとは異なり、ラダーフレームを持たない、ユニボディーと呼ばれるモノコックボディーで登場した。
それまでのジープにはないコンパクトでスタイリッシュなクロスオーバーSUVであるが、ジープとしての血統を濃く受け継ぎ、高い悪路走破性を備えたクロスカントリー・カーでもある。

AMCは1984年に向けたXJチェロキー(以下XJ)の開発に2億5000万ドルを投じた。XJの"X"に秘められたものがあるのなら“社運を掛けた試験的プロジェクト”だったともとれる。

1979年当時、AMCの株式の46.1%を取得していたのはフランスのルノーであり、XJ開発におよぼす影響力もまた大きかった。これは、アメリカ生まれのXJが、サイズやスタイリングにユーロテイストを持つ所以となっており、事実、発表後、フランスをはじめとした欧州各国でのXJの人気は高いものがあった。


日本ではホンダディーラーが取扱い、日本市場でも人気を得た車種。
ルノーのベスは新型ジープを開発するためにアメリカン・モータース(AMC)にさらなる追加投資を考えていた。エンジンの開発にも積極的だったようだ。


暗殺された理由は・・

「アメリカ進出に失敗して業績悪化しているのに、アメリカの会社に更なる追加投資って・・」と反発があったことは想像できる。
フランス国内(ヨーロッパ?)の工場閉鎖や人員整理(解雇など)に反発があることも容易く想像できる。

ルノー業績悪化を改善するためベスはルノーの民営化を検討しており、民営化に反対するテロリストに暗殺されたという意見もある。

ベスを暗殺したテロリストは「ルノーのベスの生産性向上方針は労働者から労働を奪う反労働者的、反国民的方針」と犯行声明で犯行理由を述べた。

私が推測する暗殺された理由は、軍事部門にも強いだろうということで招かれたベスがレジャー用ジープなんかに力を注いでいたからというもの。
どうでしょうか?見当違いですか?

暗殺から10年後の1996年になって、とあるジャーナリストが暗殺の背景にあるのは原発ではないかという説を発表したらしい。
ジョルジュ・ベスがオイルショックの1973年に設立したEurodif (ユーロディフ)への出資に当初スウェーデンも参加したがすぐに脱退した。
その後釜にイランが参入し3億3千万ドルを拠出したという。
ところがイランは1978年にイラン(ホメイニ)革命が起こり、王国から共和国(革命政府)へと体制が変わった。
そのためEurodif はイランへの核燃料の供給を拒否したという。
そしたらイラン革命政権が拠出金の返済を要求してきたというが、フランスは応じず、これがジョルジュ・ベスの暗殺の背景なのではないかということ。
ベスが暗殺された当日(夜だけど)、フランスはイランに拠出金の一部を返済したとか。
逮捕されたテロリスト2人はイランとの関係は否定しているとか。

フランスは海外に原発を輸出しているが、イラク(サッダーム・フセイン時代)とイランへの輸出にベスが関与していたという話もある。
イラクでは原発建設中にイスラエルの空爆により破壊されたとか。
であるならば、イランは完成したけれど、話が違って・・・「嘘つき!金返せ!」となったとか?

それともあれですか、いろいろ知り過ぎたベスがアメリカのジープになんか拘っていたから?



by yumimi61 | 2018-11-27 14:07
1945年、第二次大戦末期にルノーは国営化された。
ルノーを行政命令でもって国営化したのは、カトリック教徒で、イギリスに自由フランスという亡命政府を樹立させ、ロスチャイルド家にも近かったシャルル・ド・ゴールである。 
ドイツの占領、攻撃による生産設備の破壊、創業者の死(虐殺疑い)、国有化、ルノーにとっては忌まわしい歴史。



オーナーと管理人

第二次世界大戦が勃発した時のフランス大統領はアルベール・ルブラン。
開戦時の大統領のわりには日本での知名度は皆無。

1940年5月からドイツ軍はフランスに侵攻した。
6月10日、戦況が悪化していたことを受け、フランス政府は「パリの無防備都市」を宣言。都市の被害を最小限にするための宣言である。
6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城。
6月16日、フランスの内閣は総辞職。抗戦派と言われていた大統領や首相に代わり、和平派のペタンが政権を握り、降伏を決断した。(軍人でもあるフィリップ・ペタン副首相→首相)・・ヴィシー政権(ドイツの傀儡政権とも言われた)
6月22日、休戦条約が調印され(独仏休戦協定)。

アルザスやニースなどがドイツやイタリアに割譲され、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下に、南部フランスがフランス国(ヴィシー政権)として存続を許された。
全てが割譲や占領されずに、一部であっても主権国家として「フランス」という国が維持されたことが、フランス国民の和平派ペタンへの支持に繋がった。

主権国家としてのフランス政府存続は達成された。ペタンは「少なくともわが国の名誉だけは守られた」と述べた。ペタンはフランス国民の熱狂的な崇拝対象となり、町中に元帥の肖像が溢れた。ジャン・コクトーはこの熱狂を「元帥は大衆が慣れ親しんでいた君主のイメージに近かった。それにフランスでは高齢はひとを安心させる。彼は瘰癧(るいれき)を癒しかねなかった(ロイヤル・タッチ)。」と評している。

ロイヤル・タッチは君主が触れると病気が治るみたいなこと。
イエス・キリストもこの手の逸話(奇跡による癒し)で神格化された。
フランスは戦争に勝ったわけではない。降伏したのである。降伏によって負けたのに主権が維持できたということで、軍人でもあった首相ペタンが君主並みに崇拝されたという。

日本の天皇もこれに似たところがあるのかもしれない。しかし日本はGHQに占領され主権も6年間失っていはずなのに、割譲や主権など和平のための条件の話し合い(平和条約)も待たずに、まるで主権があるかのように憲法をさっさと施行した。これはどうしても解せない。
条約を締結していないということは日本という国のオーナーを誰にするかもまだ決定していない状態である。
敗戦後には分割や割譲されることだってある。割譲されたら、そこに住む人は日本人でなくなることを意味する。主権というのは政治的な権利のことであり、主権の中に「領土」や「国民」の所有権が含まれているわけではない。

日本の戦後は、最高意思決定機関である株主総会なしに勝手に役員が決まり、様々なことが決議されたようなものである。
国民の生活をストップさせておくわけにはいかないから、とりあえずGHQという現場監督を付けていただけに過ぎないはず。そのGHQが勝手に領土や主権を決定して日本に憲法を作らせ運用させたとするならば、GHQは連合国寄りではなかったということになる。

そもそも国(領土・国民)の所有者は誰なのか。
君主国は君主であろう。社会主義国は政府だろう。共和国も政府ということになるだろう。
日本の領土と国民を所有していたのは天皇だった。
そう考えると、株式100%所有しているオーナーが天皇ということになり、総会を開くまでもなく多くの事を自分で決定できる。戦前・戦中は全権を持つ管理人でもあったから、それこそ何でも出来る。
だけど戦争を行った以上、相手国がいるのだから、何でも一人で決めてよいということにはならないであろう。
ともかく君主国の国民は、君主=所有者となってしまうということを念頭に置かなければいけない。
日本のような立憲君主国であっても同じである。
憲法に領土の範囲や所有者が明記していなければ、法的根拠は何もないので、国家形態から判断することになる。


北方領土に関して「2島の主権は議論が必要」とプーチン大統領が発言したと報道されていたけれど、主権というのは会社で言えば経営者や取締役会みたいなものであり、オーナー(所有者・株主)とイコールではない。
第二次世界大戦でのフランスの場合も、ペタン首相が降伏したことで一部の主権が残されたということだけれど、オーナーはあくまでドイツだったかもしれない。経営の一部をフランスに委託しただけのことで。
結局ドイツは敗戦したので元に戻ったけれど、ドイツが勝っていたらフランスはどうなっていたかは分からない。
そもそも最終的には(第二次世界大戦全体では)敗戦したドイツだが、対フランス戦に勝利したのは事実。その時の協定が反故されるというならばやはり最終的な平和条約締結の場が最高意思決定の場になるということだろう。

第二次世界大戦におけるロシアと日本の関係では、ロシアは勝利した連合国側だし日本は敗戦国である。
そしてGHQが連合国側ではなく日本寄りな立場を取っていた。そうとなればロシアとの関係が微妙になるのは仕方がない。
時系列で冷静に判断すれば日本は「固有の領土」を主張する立場にはない。
ただそれは敗戦国である日本だけでは絶対に出来ないことである。


一般的な国民目線で見れば、オーナーは馴染みが薄い。
正直言って国のオーナーが誰であっても実際の国民の生活はそう変わらないことってあるんじゃないでしょうか。
誰が会社のオーナーでも従業員の生活は変わらない、と置き換えてもよいけれど。
賃貸物件のオーナーが管理会社に任せっきりにすることだって少なくないですよね? 借主はオーナーが変わっても知らないかもしれない。
オーナーと経営者、オーナーと管理者の関係は密かもしれないけれど、下の者にはオーナーが見えないことは多々ある。
ドイツがフランスの所有者になったのに、そうとは知らず、降伏したため管理人に据えられたペタンを崇拝したフランス国民、というふうに言えなくもない。
だけどオーナーよりも管理人が誰になるかが大事なのだという考えを持っているならば、それでも別におかしなことはない。

カルロス・ゴーンは管理人。日産の取締役会も三菱の取締役会もルノーの取締役会も管理人。
会社のオーナーは株主である。
ルノーの筆頭株主はフランス政府。日産の筆頭株主はルノー。三菱の筆頭株主は日産。
オーナーの力関係を見ればフランス政府が一番強い。
オーナーと管理(経営)についてそれぞれがどう見るかによって変わってくる問題である。


ドイツやヴィシー政権の支柱はカトリック

1940年7月9日、ヴィシー政権の国民議会は憲法改正を行って大統領職を廃止、「全権力をペタン将軍に委任する」というただ一条の憲法を持つファシズム体制の国家となった。
ペタンのヴィシー政権は国民革命と呼ばれる新秩序の構築とドイツとの協調を目指した。
また敗戦の原因をフランス人の道徳的退廃が原因であるとし、道徳や秩序を重視する政策を推進した。

国民革命はカトリックを支柱としたフランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズ(フランスの王党派組織)のシャルル・モーラス(カトリックの学校卒業後パリに出て、文芸評論家として近代の思想や文学を否定し、前出の思想団体を結成)がイデオローグ(提唱者)であった。

ここがまた凄くややこしいところであるが、新秩序とは「国家的」「権威的」「宗教の再興」「個人主義の抑制」「国家への忠誠」「スパルタ的教育」のことなどであり、旧秩序は「フリーメイソン的」「自由主義的」「資本主義的」「国際協調(国際的妥協)」といったものである。
新秩序のほうがちょっと古めかしい印象があるのに、当時はそちらが新秩序とされていて、カトリックを支柱にそれを目指していた。

ドイツと足並みを揃え、ドイツの傀儡政権と言われたヴィシー政権がカトリックを支柱にしていたならば、当然ドイツだってそうだったはずだ。

ヴィシー政権は1944年8月20日まで。
その後がシャルル・ド・ゴールで1946年1月16日まで。このド・ゴール時代にルノーは国有化された。
ド・ゴール以降1947年1月16日までは共和国臨時政府という扱いである。


誰が勝ってもカトリック

ヴィシー政権で全権を握ってカトリックを支柱に新秩序を目指したペタン首相は、軍人であり副首相でもあった。
シャルル・ド・ゴールは軍隊でペタン(ヴィシー政権での首相)の部下であり、国防次官でもあった。
抗戦継続派の首相や大統領は身柄を拘束されたが、シャルル・ド・ゴールは上手くロンドンに亡命して「自由フランス」(亡命政府)を結成した。
そしてドイツへの徹底抗戦やヴィシー政権への抵抗を呼びかけレジスタンス運動を煽った。
前述したが、シャルル・ド・ゴールも父親がイエズス会学院の校長であり歴史を教えていたというカトリック教徒である。

1944年6月、連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功。ド・ゴールは祖国に戻って自由フランス軍を率い連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリを解放した。翌26日エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。
フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。


ドイツ(カトリック)==ヴィシー政権(カトリック)(降伏)vsド・ゴール(カトリック)(連合国に合流)

こうなると誰が勝ってもカトリックである。


ルノーの戦車から馬へ、そして国営化

ドイツの敗戦を受けてフランスではドイツに協力した人物を罰した。
そこにド・ゴールは含まれない。
一方、ルノーの創業者はドイツに協力したとして逮捕され亡くなった。

第一次世界大戦当時、傑作戦車として名高いルノー FT-17 軽戦車を投入し、また歩兵の輸送にタクシーを使用したことで知られるフランス軍であったが、戦後の軍体系は守旧化した。すなわち、再び馬が歩兵輸送の手段に変わった。
また、戦車運用についても、従来通りの歩兵の支援が目的と位置づけ、戦車を各歩兵師団に分散配置してしまったのである。ド・ゴールら一部の将校がドイツのような戦車を集中配備した装甲師団の創設を唱えたが、これが認められたのは第二次世界大戦勃発直前であり、数も4個師団のみにとどまり戦局を左右することはできなかった。


第一次世界大戦後、フランスはルノーの戦車から馬に戻したのだという。
第一次世界大戦でフランスは勝者側であった。
しかし人口の15%にもあたる死傷者を出し、戦闘の舞台となった北部都市の破壊が大きく、戦費も嵩んだ。ドイツからの賠償金は滞り、ロシアに関する巨額な債権はロシア革命による社会主義化とともに消滅してしまった。
フランスの疲弊度は大きく、勝ったにもかかわらず国民には大きなトラウマが残った。それが第二次世界大戦でのヴィシー政権支持にも繋がっていった。

馬に乗りヨーロッパ全土を制覇する勢いだったナポレオンへの郷愁からなのか、それとも戦車は資本主義的なもので「旧秩序」を代表するとして嫌われたのか、ルノーが「個人主義」の代表にみえたのか。
あるいはルノーが製造を拒否したのか。
ド・ゴールは戦車派だったが、ルノーの創業者を排してルノーを国営化した。






by yumimi61 | 2018-11-26 17:27
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フランス共和国はあの人で始まった

フランスの初代大統領はナポレオン1世の甥にあたるシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)である。

以前書いたようにナポレオン1世の登場はヨーロッパの既得権者(王室やカトリック教会)を一致団結させることになった。
カトリックは1500年代にヨーロッパ全土で巻き起こった宗教改革の波に押され、各国の王室からも見限られ、活路を外国に求めるしかないような状況となり、存続がなかなか厳しい状況に追い込まれていた。
1700年代後半にはフランスで市民革命が起こる。
それを機にフランスではナポレオンという英雄が誕生し、ナポレオンはヨーロッパ全土に進出する勢いを持った。
今度は王室(王政)が厳しい状況に追い込まれていくのである。
この時にナポレオンに打撃を与えたのがカトリックのイエズス会だったらしく、ヨーロッパの王政を守ったカトリックは復権を許され、以後カトリックは世界的に急速に拡大していった。
存続危機感が団結に転換されたのは、日本の国家神道(神社界)も同じである。

ということでフランスもナポレオン1世失脚後は王政が復活。
(ちなみにナポレオンは8月15日生まれで、失脚したのが1815年6月で、死んだのは5月5日の子供の日です)
ナポレオン1世失脚後、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)はロンドンに亡命していた。
しかし1848年にパリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いた七月王政(ナポレオン1世以後33年の王政)が再び倒された。
結局この時に倒された王政が最後の王政であり、以後フランスは共和国へと移行したが、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)は直接革命に関わったわけではなく、しかも共和政であるからして皇帝1世の甥などという強権やコネで物事を進めるわけにもいかない。選挙を通して民主的に段階を踏まなければらない。

時節到来とみたルイ・ナポレオンはロンドン滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした。9月25日にフランス・パリへ戻り、議会に初登院して演説を行った。しかしドイツ語なまりのぼそぼそと聞き取りにくい声で「私を受け入れてくれた共和国に感謝する」と挨拶しただけだった。ルイ・ナポレオンの鈍重そうな顔と相まって、議場から失笑が起こった。

ルイ・ナポレオンについてティエールは「ただのバカ」と一言で評した。レミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調。」と評した。ルイ・ナポレオンの「無能さ」に安心したのか、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄した。

基本的に彼は討論が苦手で話が詰まることが多かった。そのためか憲法制定の論議にはほとんど発言しなかった。共和国への忠誠心を疑われた時だけ「私は共和政を愛している」と反論するのみだった。


なんていうか、今の日本で例えれば、サイバーセキュリティ担当&五輪担当の桜田大臣みたいな感じ?
「余計なことはしない、出来ないという安心感」に、「抜群のネームバリュー」と「ナポレオン1世を崇拝する残党からの熱烈支持」が相まって、正々堂々選挙で初代大統領に選ばれた。


ナポレオン3世の反撃

当時は任期4年で再選不可という縛りがあった。
前評判通り、4年間、確かに何も出来なかった。

ナポレオン1世時代に分離されたカトリックと教育が再び結合された。これにより教師はカトリック聖職者の管理下に置かれ、共和派の教師は続々と教職を追われた。
さらに1850年5月31日には選挙法が改正され、選挙権の資格として3年以上同一住居であることが条件として加えられた。
男子普通選挙を通じての民衆との直接的な結びつきにのみ権力基盤があるルイ・ナポレオンはこの選挙法改正には反対の立場だったが、この時点の彼の権力では阻止することは不可能だった。


帝政が倒され王政も倒されて樹立した共和政の実態は、カトリック復権であり、ほとぼりが冷めた頃に共和主義的な制度を徐々に廃止していくものであった。

だがナポレオン3世は出来ないままで終わらなかった。
主権者である国民の代表機関である議会にクーデターを企てた。

積極的に遊説に出て、国民の人気取りに励みつつ、将校と下士官を次々とエリゼ宮に招いて葉巻やシャンパン、料理などを気前よく振る舞い、軍の取り込みも図った。
1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンと内務大臣ド・モルニーの名において議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。
1851年12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けた。


クーデターは当初、共和主義者である右翼の大物を、その後は左翼をターゲットにした。
共和主義者が政権を握っていた時代の左翼とは、王政や帝政を支持する者である。
右翼(与党)と左翼(野党)を思想で固定してしまうと混乱を招くので、政権を握っているかどうかで動かす必要がある。

共和政(王政を倒して新しい時代)(右翼) vs 帝政派(王政を倒した革命者)(左翼)(1851クーデター)╱王政派や教皇派(古い時代)(左翼)

結局「最良の帝政支持者」となるのは右翼しかいないのだから彼らに対しては牽制はしても潰してはならないのであった。実際この激しい左翼弾圧を見て秩序党もルイ・ナポレオンへの警戒を緩め、彼のクーデタを支持するようになった。右翼と左翼の対立をうまく煽ることで反クーデター派を分断したのである。


権力掌握と人気獲得

クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法として公布した
これにより大統領の任期は10年に延ばされた。大統領には行政権全てと立法権の一部が与えられた。
この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得た。あとは任期を廃して世襲とし、職名を皇帝に変更すれば悲願が達成されることになるが、ルイ・ナポレオンはクーデタ後すぐさま帝政復古させることには慎重であり、まず世論を調整しなければならないと考えていた。


はじめルイ・ナポレオンは任期10年で連続再選が可能の大統領制のままで良いかのような発言をしていたが、ド・ペルシニーが訪問先で「皇帝万歳」の声が上がるよう工作し続けたこともあって徐々にルイ・ナポレオンもその気になってきた。
クーデターを成功させる前、大統領になった時にも、ルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また彼の行く先々で兵士や民衆に「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと呼ばれ歓迎されていた。

1852年10月9日のボルドーの演説では「『帝国とは戦争だ』という人々がいますが、私はこう言いたいです。『帝国とは平和』であると。」と帝国復活に前向きな発言を行っている。
1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、11月5日に元老院に対して帝国復活の検討に入るよう指示した。11月7日の元老院令によって1852年憲法の大統領に関する規定が改正され、任期10年の大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入された。またその是非を国民投票にかけることが決議された。国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認された。



格差の広がり

絶対的権力と人気を手に入れたナポレオン3世が行ったこと、それは経済改革である。
ナポレオン3世による帝政時代がフランス経済の大きな転換期となり経済成長を果たした。
そもそもヨーロッパでは戦争が起こるたびに兵士や武器や資金を融通する貴族など旧家や国際金融家が儲かる仕組みとなっていた。市民革命からの長いナポレオン戦争でヨーロッパ各国、とくにフランスの国家財政は疲弊していたはず。ツケ(借り)も沢山あったであろう。
たとえ共和政が国家の理想的形態だとしても、仙人じゃないんだから霞だけでは生きていけない、理想だけでは食べていけないという現実もあるんだろうと思う。
またナポレオンはヨーロッパの王家から認められた存在ではなく、そういう意味では幾ら皇帝と称しても孤立してしまいやすく厳しい国家運営だったに違いない。
ナポレオン1世のような圧倒的実力を持っていたわけでもなく、かといって血統を張り合うほどではなく血統の繋がりも弱い。選挙で選ばれ国の代表となり、クーデターを成功させ地位と人気を獲得して皇帝になってもなお、その「正統性」は認められなかったということである。
平等な共和主義なんて言っていたら国も成り立たない。その対策というか、そこを狙われたというか付け込まれたというかで、これまで以上に実業家や金融家を台頭させることになる。
共和主義的な戦争(共和主義的に儲ける)とでも言えばよいだろうか。目に見えた戦争ではないので比較的抵抗なく世界に広がっていく。

それを遂行するにはナポレオン3世は最適任者だったと言えてしまう。
ナポレオン1世失脚後に亡命したロンドンに滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした時から、敷かれたレールの上を走らされていたのかもしれない。

「産業者」は実力主義で選ばれるべきであるとし、そのために教育を重視する。また国家の役割を最小限にすることを求め、レッセフェールや自由貿易を支持する。また西洋と東洋の通商による融合という理念を持ち、通商路建設や植民地政策など東方進出を推進する。

ロチルド家(英語読みでロスチャイルド家)をはじめとした「オート・バンク」と呼ばれるフランスの既存大手銀行は、これまで為替や手形割引などで儲け、産業金融をあまり手掛けてこなかったため、フランス資本主義の発展は立ち遅れていた。その状況を打破すべくナポレオン3世は金融改革を行って殖産興業を押し進めた。

1852年11月にはペレール兄弟やアシーユ・フールなどユダヤ金融業者の援助でクレディ・モビリエを創設した。これは株式を発行して国民から資金を集め、産業企業に投資する銀行だった。とりわけ鉄道に積極的に投資し、国内鉄道はもとより、オーストリアやイタリア、スペインの鉄道にも積極的に投資してヨーロッパを繋ぐ巨大鉄道網の建設をめざした。クレディ・モビリエは同業者の合併を推し進めて経済の集中化を図り、自身はあらゆる産業の頂点に立つ持株会社になろうとしていた。

クレディ・モビリエの登場でオート・バンクももはや一部の金持ちとだけ取引しているわけにはいかなくなり、ひろく大衆の貯蓄から資金を募り、産業金融を行うようになった。1863年にはクレディ・リヨネ、1864年にはソシエテ・ジェネラルが創設され、これらの銀行も産業金融を手掛けるようになった。クレディ・モビリエ自体は帝政末期の頃にオート・バンクとの競争に敗れて経営破綻しているが、その登場の意義は大きく、フランス金融の近代化は同社の出現による競争の激化で成し遂げられたのであった。

ナポレオン3世の金融改革で近代的な銀行システムが作られたことは、カリフォルニア・ゴールドラッシュに伴う銀行の金準備の増加で兌換が促進されたことと相まって、フランスの経済発展の原動力となったといえる。



大統領時代の幕開け、君主時代の終わり

ナポレオン3世の終わりは普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)だった。
戦争の引き金はスペイン王位継承問題。

1868年9月、スペイン首都マドリードでフアン・プリム将軍のクーデタが発生し、スペイン女王イザベル2世が王位を追われた。プリム将軍は立憲君主制を宣言し、新国王の選定を開始した。

新国王にフランス王家に関係ある人物がなるか、プロイセン王家に関係ある人物がなるかで争い、戦争へと繋がった。
ナポレオン3世以外は両国ともに好戦的だったという。
ナポレオン3世は戦力・戦略的に勝目はないとみて乗り気ではなかったらしい。
結局プロイセンの軍に追い詰められて降伏し、ナポレオン3世の帝政も崩壊していった。

ナポレオン3世一家はかつてのようにイギリスへ亡命。
妻(皇后)ウジェニーが亡命前に巨額の皇室財産をスペインに移しておいたため、一家は金銭面でも困窮することはなかった。例えフランスという国が困窮しても。
ウジェニー(皇后)の父親はスペイン貴族であり、彼女は熱心なカトリック教徒であった。
ウジェニーはイギリスのヴィクトリア女王とも親しくしていた。

(ウジェニーは)パリのサンジェルマン地区ヴァレンヌ街にあるサクレクール寺院女子修道院で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎないカトリックとしての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々は彼女の信仰に大きな影響をもたらした。


1873年1月9日、ナポレオン3世は病死した。64歳だった。
1月15日にチズルハーストのカトリック教会でナポレオン3世の葬儀が行われ、フランスから多くの来賓が訪れた。出席者の中には「皇帝陛下万歳」を叫ぶ者もいたが、第三共和政政府の反発を恐れてか、ルイ元皇太子は出席者たちに「フランス万歳」と叫ぶよう要請した。

その5年後1878年、息子であるルイ(元皇太子)も戦死した。23歳だった。

1887年にウジェニーはヴィクトリア女王の協力も得てファーンボローに聖マイケル修道院を創設し、ここに夫と息子の墓を移した。1920年にウジェニーが死去すると彼女もそこに葬られている。

大統領時代の幕開け、君主時代の終わり、その大統領であり君主(皇帝)だったナポレオン3世とその妻はカトリック教徒であったのだ。




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by yumimi61 | 2018-11-25 11:39
日本の親はカトリック?

明治維新の志士とその後の明治政府にとって親にあたる国はイギリスである。
イギリスと近代日本は親子関係にある。
精神的な親はカトリックなのではないかと考えることもあるだろう。
第二次世界大戦後はアメリカを親にあてる人もいると思う。


イギリスは元はカトリック国だった。王の離婚問題によって分離独立したのでプロテスタントに分類されるがカトリックによく似ていると言われる。
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国の中央管理機構であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官には、アメリカの太平洋陸軍司令官だったマッカーサーが就任したが、マッカーサーはカトリック国フィリピンの総督であった。フィリピンでは人口の85%がカトリック教徒だという。これはスペイン統治時代に持ち込まれたことに起因している。
日本に最初にカトリックを持ちこんだフランシスコ・ザビエルはスペインの生まれのカトリック教会の司祭であり宣教師であり、イエズス会の創設メンバーの1人だった。
日本がカトリックに呑み込まれることを恐れて対立したのが中央の武将たちであったが、明治維新以後、その様相は変わった。
日本の中央はイギリスやカトリックに非常に近づいたのである。

先日私はそれを親子関係に準えた。
現在の皇室の親にあたるのがイギリスやカトリックだとしよう。
次のようになる。

イギリスー伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

カトリック教会ー伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)


レバノンのマロン派?

今話題沸騰中のカルロス・ゴーン氏もカトリック教徒である。

ゴーン氏の祖父はレバノンからブラジルに渡った移民で、ゴーン氏はブラジル生まれ。幼少期から高校まではレバノンで、大学はフランス。
祖父が生まれた地はマロン派典礼カトリック教徒の多いレバノン山地の麓だったという。

マロン典礼カトリック教会(英語: Maronite Church、フランス語: Église maronite)
レバノンを中心に信者を擁するアンティオキア派の伝統に属するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派。マロン派とも呼ばれる。マロンーアンティオキア総大司教の司教座は、レバノンのブケルケに置かれている。
レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占め、古くから重要な政治ポストを占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持つ。また、その歴史的経緯などから、同じカトリックが多数派であるフランスとは緊密な関係にある。

マロン派は聖マロンが創始した当初は教義上単意論を採用し、正教会ならびにローマ・カトリック教会とは離れていた。
その後、十字軍時代にカトリック教会との接触を機にマロン派とカトリック教会双方から再合同の交渉が行われ、1180年にカトリックに帰属し、教義もカトリックと同一となった。
一方でマロン派は独自の典礼を保持し、教会用語や祈祷書には古シリア語やアラビア語が用いられている。現代ではローマ教皇と一致して教義・組織はカトリック教会に属しながらも、独自の組織や典礼の伝統を維持する東方典礼カトリック教会の一つになっている。2012年10月には、マロン典礼カトリック教会の最高指導者であるベカラ・ブートロス・ライ総大司教がカトリックの枢機卿に任命された。

レバノン内戦においては増加するイスラム教徒と対立し、イスラエル軍侵攻下の1982年、マロン派の民兵組織ファランヘ党が、「パレスチナ難民」に対する大量虐殺を行い国際的非難を浴びた(サブラー・シャティーラ事件)。

マロン典礼カトリック教会の信者はレバノンの他にシリア、キプロス、イスラエル(レバノン内戦による避難民も含む)、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カナダ、南米に分布。彼らはアラブと欧米における言語や商慣行を知る事から、有力なレバノン商人を輩出してきた。レバノンにおける政治バランスの悪化により、多くのマロン派住民と資産が内戦終結後に海外に再流出しているとされる。移民先の各地で政治的、経済的な成功を収めたり、ビジネスでも幅広く活躍する者も多い。日本では、日産自動車の再建に辣腕を振るったカルロス・ゴーンが有名である。

レバノンにおいては、芸術、芸能、メディア方面に人材を輩出しており、女性キャスターや歌手の多くはマロン派信者である。レバノンの大統領が選出されるのが慣例となっている

<著名な信徒>
・カルロス・ゴーン

・カルロス・スリム・ヘル(父がレバノン生まれ。メキシコで巨万の富を築き、米経済誌フォーブスの発表した2008年版の世界長者番付では、ビル・ゲイツを抜き資産時価総額が2位であった)

・ハリール・ジブラーン(レバノン生まれ、米国で活躍した詩人、画家。1883年生まれ、1931年没)

・レイモンド・ラフード(アメリカ運輸長官)
2009年から2010年にかけてのトヨタ・バッシング(トヨタ自動車の大規模リコール)の際にも運輸長官として様々な対応をとった。なお、2011年2月8日の運輸省最終報告ではトヨタ車に事故の原因とみられた欠陥は一切見つからなかったと公表された。

・ミシェル・テメル (ブラジル連邦共和国第37代大統領)
(現職)

ゴーン氏はマロン派を「ローマカトリック教会の傘下」と表現している。


レバノンのフランス統治時代と少年時代

第一次世界大戦後、レバノンはシリアから独立したが、フランスの統治下に入った。

キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。1920年9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された。

カルロス・ゴーンは多感な10代をフランス統治下のレバノンで過ごした。
通った学校はコレージュ・ノートルダムという名のイエズス会系の一貫教育校。校長はフランス人だったそうだ。
ゴーン氏はイエズス会を「世界初の多国籍企業と言えるような組織だった」と回想している。

11年間のレバノン生活を終え、大学はフランスへ。


フランスもカトリック国

フランスは歴史的にカトリック国。
フランスの大統領は昔から現在に至るまで、信仰の程度にこそ差はあるかもしれないが、ほぼ全てと言ってもよいくらいカトリック教徒である。

フランスは第二次世界大戦前は中道右派政党の大統領が多い。
戦後はインターナショナル・フランス支部とか社会党とか、いわゆる左派政党の大統領が多い。
しかしどちらであってもカトリックへの信仰が(多かれ少なかれ)ベースにある。

でもフランスも政教分離を謳う国。
1905年の政教分離法が制定され、戦後の1958年憲法でも第1条にてライシテ (政教分離・非宗教性)が国家の基本理念だと定めている。


首都パリの空港名となったシャルル・ド・ゴール

第二次世界大戦でドイツによって首都パリが陥落されると、ド・ゴールはイギリスへ亡命。
そしてロンドンにロレーヌ十字の「自由フランス」という亡命政府を樹立。
BBCラジオを通じて、対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。こうした情報戦をアンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)がさらに展開した。彼は、ロスチャイルド家と古くから姻戚のヴォルム銀行(Banque Worms)を代理する立場にあった。ヴィシー政権の主要な閣僚は同行から出ていた。
翌1941年10月25日ド・ゴールはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘でフランス本土に派遣する。同年エルヴェ・アルファンがド・ゴールの経済顧問となり、ヴォルムとロスチャイルドの共同出資によりSNPA(エルフ・アキテーヌの前身。いわゆるFRANCAREP)が設立された。パッシ大佐はSNPAの監査役となった。


※アンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)は諜報機関のトップ。エルフ・アキテーヌは石油会社。

フランス生まれのシャルル・ド・ゴールもカトリック教徒である。
しかも父親はイエズス会学院の校長として歴史科を教えていたという人物。


ルノー国営化

レバノンは第一次世界大戦後にフランスの統治下にあったが、そのフランスが第二次世界大戦中にドイツの統治下となり、レバノンはロンドンに渡った亡命政府・自由フランスの統治下となり、同じく自由フランスの統治下に入っていたシリアとともに1941年6月独立宣言し、続いて布告した。
布告後すぐに承認したのが自由フランス亡命政府を支援していたイギリス。

ルノーを行政命令でもって国営化したのは、カトリック教徒で、イギリスに自由フランスという亡命政府を樹立させ、ロスチャイルド家にも近かったシャルル・ド・ゴールである。

第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領期間に、ルノー社はドイツの接収に遭い、ダイムラー・ベンツ社から人材が派遣されて重要なポジションに就いた。
会社の生産性は微々たるもので1939年5月分の1/3にも満たなかったが、これは生産遅延の試みのためでもあった。
にもかかわらず、ルノーの評判はフランスのレジスタンスの間で悪化した。1942年3月の連合国による空襲で工場が破壊された後、ルイは失語症を患い、話すことも書くこともできなくなった

1944年9月にフランスが連合国によって解放されると、ルノー創業者のルイ・ルノーはナチス・ドイツとの産業利敵協力のコラボラシオンで告訴逮捕された。1ヶ月後にルイは死亡、フレンヌ刑務所で虐待があったのだと言われている。外傷性脳挫傷、重度尿毒症が観察されていたが、なんの調査もなされなかった。
3ヵ月後ルノー社は国営化され、コラボラシオンの非常に不愉快な公式例となった。注目に値するのはこの接収が、判決書もないまま既に死亡した人間に適用され、法の支配とフランス司法上の原則に反する状況で行われた点にある。
大戦中に実際の工場を監督していた責任者は1949年、彼と工場は利敵協力していたわけではないという判決を勝ち取り、1967年にはルイの息子で唯一の相続人ジャン=ルイ・ルノーが若干の賠償を勝ち取った。しかしルイ本人の名誉が公式に回復されることは決してなかった。


ドイツの占領、攻撃による生産設備の破壊、創業者の死(虐殺疑い)、国有化、ルノーにとっては忌まわしい歴史。






by yumimi61 | 2018-11-24 02:00

愛国心と郷土愛の錯綜

村社会とマナーの良さ

神社は古くから同じ地域に住む人々が共同で氏神を祀る場所であり、その地域に住む人々が氏子となっていたことが多い。その土地を守る鎮守様でもあった。このように非常に地域に密着した存在であった。
このような地域集団を「村社会」と言ったりするが、現在では閉鎖的であったり排他的な集団を「ムラ」と呼んだりする。

原発事故が起こった後には盛んに「原子力ムラ(原子力村)」という言葉が使われていた。
原子力発電業界の産・官・学の特定の関係者によって構成される特殊な村社会的社会集団(それぞれ自らの利益のために原子力を推進する立場にある仲間で外部の意見を聞き入れない人達)のことを指している。
現代社会においては「村社会」という言葉が良いイメージで使われることはほとんどない。

しかし古来からの村社会は悪いことばかりではない。上から下まで地域の中にいる人は地域で面倒見ようという連帯意識があり、地域が地域の中のことに責任を持つので、1人1人の人間が人生を大きく踏み外してしまうというようなことが起こり難かった。
また少しくらいなら踏み外すようなことがあっても見守る姿勢があった。
お互い様精神や義理人情で繋がっている部分もあるので、どこかで歯止めが効いて、アウトローを生みにくい。
法律で縛り付けなくても見えないバリアが張られているような感じ。

それはひっくり返せば、保守的、世間体を気にする、欲求や能力の抑制、相互監視というようなことになる。
日本人はマナーが良くて民度が高いということが災害時や国際試合の時に盛んに喧伝されるけれども、それは日本が「村社会」だからだし、そうい事態の時には殊更「村社会」になるのだし、「村社会」になるようメディアやネット(SNS)などによって世間体や相互監視意識が刺激されているからである。
「村社会」の良い部分が出て、民度が高いという評価に繋がるわけである。
日本人の多くの皆さんが愛して誇りに思っている「マナーの良さ(民度の高さ)」は、多くの人が毛嫌い揶揄し非難する「村社会」から生じてくるものである。

地域での縁や歴史や繋がりがない者には見えないバリア効果はなく、村の秩序を簡単に乱してしまうことも考えられるので、よそ者は受け入れたくないという意識が起こる。


村社会を利用した戦意高揚(愛国のベースは郷土愛)

実はこの「村社会」は昭和の時代の戦争の時にも利用された。

徴兵制を悪い印象にしないために、召集令状を受け取り出征する人に対して大勢で送り出すよう、国は半強制的な指示(命令)を出した。
そして地域の町内会・婦人会や神社で盛大に宴会や壮行会が催され、最後は駅のホームなどで万歳にて見送られる。
日頃から家や家族、地域の人々の厚情を感じている郷土愛ある若者ほど前向きに出征せざるを得ない状況である。
逃げたくても逃げようがない。(指定された日時に出頭しなければ犯罪者となった)
家族やこの人達のためにこれからは自分が頑張らなければ、と思い込むのである。

戦況が悪化してきた戦争終盤には次第に華やかな見送りはなくなり、内内だけで行うようになっていった。


『村祭』という唱歌があるのは知っていますか?


知っているかどうかで年代が分かるらしい。

文部省唱歌、作詞:不詳、作曲:南 能衛
1 村の鎮守の神様の
  今日はめでたい御祭日
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  朝から聞こえる笛太鼓

2 年も豊年満作で
  村は総出の大祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  夜までにぎわう宮の森

3 治まる御代に神様の
  めぐみ仰ぐや村祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  聞いても心が勇み立つ


1912年(明治45年)に発行された尋常小学校3年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌』に掲載されたのが初出だったという。
以後1979年(昭和54年)まで一貫して小学校3年生用の音楽教材として扱われていたが、戦前と戦後では3番の歌詞が変わっている。

(戦後バージョン)
みのりの秋に神様の
めぐみかかえる村祭
どんどんひゃららどんひゃらら
聞いても心が勇み立つ

1955年(昭和30年)頃以降は3番は扱われなくなり、1980年代には『村祭』自体が教科書から姿を消した。
なぜ歌詞が変更されたり、3番が扱われなくなったかと言うと、「治まる御代」が「天皇によって政治が行き届いていて穏やかに治まっている世」という意味だからである。
政教分離で政治から離れたはずの天皇が世を治めている(政治に関わり統治している)というのでは大層都合が悪いからである。

日本の国歌『君が代』には’苔の生すまで’という歌詞があるが、中国には諫鼓苔生という慣用句があり、日本では、諫鼓苔生す(かんここけむす)と読む。
これも君主の善政により諫鼓を鳴らす必要がなく苔が生えるほどに世の中がよく治まっている例えである。

治まる御代に神様のめぐみ仰ぐや村祭→天皇によって政治が行き届いていて穏やかに治まっている世にて神様の恵みを仰ぐ村祭・・・ 聞いても心が勇み立つ→そして僕は、それを聞いて心が勇み立つ(心が奮い立つ・勇気が湧き立つ・励まされる)。
このことから「神様の恵み」は召集令状と解釈することが出来る。
出征は天皇が治めている国の神様の思し召しであり恵みである。それに反することは・・という道徳心を植え付け、「神様に従わなければ(言うことを聞かないと)、罰(ばち)があたるよ」と脅されることになる。


橋渡しをした神社、橋を掛け直したGHQ

威勢よく送り出したはよいが、戦況は悪化しているらしいと何処からともなく伝わった。愛しい息子や若者は帰ってこない。それどころかもはや帰るあてのない出征が繰り返されているという。
国家神道に組み込まれた神社もさすがに疑問を感じるようになる。大々的に壮行会を行うことは怯まれた。
やがて敗戦を迎える。

神社は国と地域を繋ぎ、若者を戦争へと送り出した。帰らない若者も多数いた。
敗戦時には神社だってきっと思ったはずなのだ。私達はいったい何をやってきたんだろうと。
それは国家神道に決別する大きなチャンスでもあった。

1945年(昭和20)12月15日、GHQから通称「神道指令」が出され、全国の神社は国家の管理から離れることになった。
しかし神社業界は動揺した。
・「神道廃止」に明治初期の「廃仏毀釈」で仏教寺院などが破壊されたことをイメージしてしまい、「アメリカ(GHQ)にやられる」と恐怖に慄いた。
・国家管理から外されると聞いて、何か見捨てられたような感じを受けた。(→敗戦の責任が自分達にあるのではないかという罪悪感を生じさせ、地域の中でこれまで通り祭祀を行っていくことへの自信消失へと繋がった)
・国家や天皇という絶対権力者に付いていることでの優遇や優越感を得られなくなるという打算からくる危機感。(→天皇という存在が維持されたことにより「逆らったら罰があたる」という恐怖にも繋がる)

これらのこと、つまりアメリカ(GHQ)による規制への反発と自己保全意識が神社業界を団結に向かわせた。
形式的・国家的には、明治以降「伊勢神宮を中心とした国家神道=神社神道」という形がとられていたが、そこに強い感情的な繋がりが生まれてしまった。
無力感や国家への疑問が上手く抑え込まれ、日本のために団結しようという意識が高揚した。
国家神道に決別する大きなチャンスはこうして消えていった。


神社本庁の誕生

1946年1月には次の3つの団体が元の団体を解散した上で合流し「神社本庁」を設立した。
「財団法人神宮奉斎会」・・・1899年(明治32年設立)
「全国神職会」・・・1898年(明治31年設立)
「皇典講究所」・・・1882年(明治15年設立)

  ↓
神社本庁

神社本庁は、神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人である。
神道系の宗教団体として日本で最大
約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上が加盟している
都道府県ごとに神社庁を持つ。
内務省の外局であった神祇院の後継的存在であり、宗教法人法に基づく包括宗教法人である


前身団体で一番古い歴史を持つ「皇典講究所」は内閣よりも大日本帝国憲法よりも早く結成された団体。
国典を研究し、国体の意義を明らかにし、日本的徳性を有する人材を育成することを目的。
どうやって天皇を権威者たらしめるか、万世一系を如何にでっち上げて国民や他国に刷り込むか、如何に近代国家を装うか、そのような研究し戦略を練ったのであろう。
初代総裁や所長は先日書いたとおり、明治時代の皇族や政治家。
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である


この「皇典講究所」が戦後に「神社本庁」になった。
「神社本庁」は、国家機関である内務省の外局であった「神祇院」の後継的存在。
国家神道に政府が関与しないようにというお達しがGHQから出されたが、そもそも「国家」というのは「国の政治組織」のことであり、「国の政治組織の神道に国の政治組織が関わるな!」というお達しになってしまったわけで、冷静に考えるとかなり不自然な状況である。
前にも書いたけれど苦肉の策が政教分離。
これにより戦後は神道に政府が大ぴっらに関与することは出来なくなったので、「神社本庁」は民間の宗教法人という位置づけで設立されたが、名称にわざわざ国家機関的な庁を入れ込んでいる。
この流れから来れば、神社や信者(国民)は国の組織であるとまず間違いなく思い込んでしまう。
これにはオウム真理教の省庁制を思い出さずにはいられない。
たとえ本当は国家機関ではないと分かっていたとしても、よく見聞きするものは次第に刷り込まれていってしまうものである。無垢な子供がどうやって言葉やその意味を獲得していくのかを考えれば、その影響というのは自ずとわかるだろう。思い入れやトラウマが強い人は余計に引き付けられて植え込まれてしまう。


大きな勘違い

神社本庁は全国の神社の事務局ではない。
神社本庁自体が宗教法人である。

・宗教法人とは、宗教者と信者でつくる、法人格を取得した宗教団体の事である。 (Wikipedia)

・宗教法人法により法人となった宗教団体。公益事業を行なうことができ,その目的に反しないかぎり,公益事業以外の事業を行なうこともできる。宗教法人の設立には,法定事項を内容とした規則について所轄庁の認証と設立の登記が必要とされ,この規則で定める目的の範囲内で,権利を有し義務を負う。なお,宗教法人については収益事業を除き免税の特典が認められている。 (ブリタニカ国際大百科事典)

・宗教団体は「教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」であり、宗教団体としての規則を作成し、所轄庁の認証を受け登記すれば宗教法人として成立する。ただし、認証には明確な教義、活動実績、信者、教団施設、財産などが必要となる。(知恵蔵)

・ 宗教法人は,教義をひろめ,儀式行事を行い,及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体,つまり「宗教団体」が都道府県知事若しくは文部科学大臣の認証を経て法人格を取得したものです。
宗教法人には,神社,寺院,教会などのように礼拝の施設を備える「単位宗教法人」と,宗派,教派,教団のように神社,寺院,教会などを傘下に持つ「包括宗教法人」があります。単位宗教法人のうち包括宗教法人の傘下にある宗教法人を「被包括宗教法人」,傘下にないものを「単立宗教法人」といいます。(文化庁)


「神社本庁」は文化庁の説明にある包括宗教法人(アンダーライン箇所)である。傘下にいるのは全国のほとんどの神社(全国の神社の99%は傘下にある)。
企業に例えれば神社本庁は持株会社や親会社といった感じである。
しかし神社本庁は神宮(伊勢神宮)を本宗として崇めている。
要するに神宮(伊勢神宮)は「天皇の国家」を体現したもの。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

味方を少し変えると、全国の神社は神社本庁という宗教者の信者ということになる。
その神社本庁が本宗と崇めているのが神宮(伊勢神宮)、つまり天皇や皇室である。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)





by yumimi61 | 2018-11-23 15:40
現在報道されている老人ホームに関して、誤解を招く、あるいは多くの皆さんが誤解されている部分があると思うので一言。

老人ホームも種類が多く、たぶん一般の人にはその差がなかなか分からないと思うが、あの老人ホームは「住宅型老人有料ホーム」である。
「住宅型老人有料ホーム」というのは、「介護付き有料老人ホーム」とは異なるものである。

「風の舞」の資料(PDF)より
住宅型有料老人ホームとは、介護が必要になった場合でも、訪問介護等のサービスを利用しながら引き続き施設でのサービスを受けることが可能な有料老人ホームです。高齢者が住みやすいように配慮されているマンションのような集合住宅で、集団で生活をするところということです。
食事や介護サービスを利用しながら生活できる高齢者のための住宅型有料老人ホームです。低廉な料金負担で、入退居が簡単な共同住宅とお考え下さい。


「住宅型老人有料ホーム」は基本的に自立可能な高齢者(60歳以上)を対象とした施設。身の回りのことは概ね一人で出来るという人が入居するホーム。
健常者あるいは介護レベルが要支援の人が対象だが、軽度な要介護者を受け入れる施設もある。
通常は一人で出来るけれど全くの一人暮らしは淋しいし不安。もしも何かあった時には孤独死してしまうから心配。そのような人が入居する。もちろん夫婦で入居しても構わない。
高齢者対応のマンション、管理人付きアパート、老人寮といった感じの施設である。でも共同生活が必須でもない。
しかし一時的な滞在ではなく完全に入居することが前提であり、入居時に自宅から住所を移すことが求められたりするので終の棲家とする覚悟が必要である。
(「風の舞」の説明では入退去が簡単な共同住宅と書いてあるので、この部分は少し違うのかもしれない)
在宅を基本とした施設は小規模多機能施設。

住宅型有料老人ホームで提供されるサービスは、管理人など施設スタッフによる見守りと緊急時対応が基本。
この緊急時対応とは、119番通報、提携病院への連絡、常駐(通常は昼間のみ)あるいは契約看護師に連絡するといったもので、即刻その場で応急処置が施されるわけではない。
生活に関して言えば、食事は食堂などで提供している施設が多いと思う。
その他の生活支援(食事・洗濯・掃除・買い物など)が必要な人は、外部の介護事業者によるホームヘルパーを個別に依頼するという形態が基本である。
入浴介助など身体介護、訪問看護やリハビリなども同様である。
入居料金などによって施設で提供されるサービスの違いはある。
また1つの会社や病院が施設も介護事業も手掛けているというケースはよくあり、連携や安心感を売りにしていることも多いが、関係性が近いというだけで、運用は基本的には別だと思ったほうがよい。介護保険に関わることなので一緒くたには出来ない。

昼間は管理人や調理スタッフなど(介護スタッフではない)が数名いる。
夜間は通常1人(警備スタッフなど)が滞在し緊急通報に備える体制が一般的。


「風の舞」は「風の村クリニック」という病院が運営しているらしく、施設の他に介護事業も運営しているよう。
だから生活支援や訪問看護が必要で個別に依頼する場合には、グループ内の介護事業者のケアマネージャーがケアプランを作成して、グループ内の介護事業者から派遣されていたのだろうと思う。
しかしその介護事業者の介護スタッフ(ホームヘルパー)がみんな退職してしまった。
どこの介護事業者もホームヘルパーの入れ替わりは多いらしい。
施設と介護事業者は別で構わないので、このグループの介護事業者を使わなくてもよいはずである。
だから入居者やその家族にグループ内で対応できなくなったことを連絡して、個別に新たな介護事業者を探すことを促せばよかった。介護事業者は本人や家族が探して依頼すべきものである。
病院側の会見で「連絡はした」と話していたので、そうであるならば最低限の責任は果たしているということになる。

亡くなった方は80歳以上の高齢者だったようだが、健康状態までは分からないので何とも言えないが、ホームヘルパーで対応できるレベルの介護度で、食事を施設で提供していたならば、ヘルパー不在がただちに生命に関わるとは思えない。
掃除とか洗濯とか入浴とかが出来ないといったレベルである。
ホームヘルパーでも訪問看護でも通常は時間単位制で入るので、1日中ずっと一緒にいるわけではない。
介護保険を利用するならば使える単位は介護度などによって決まっているし、それを超えれば超えた部分は全額自己負担となり高額になる。
個人の部屋に常駐するスタッフを依頼すれば、それこそ費用がかかる。
24時間医療介護の監視体制にある病院ではなく住宅なのだから、幾ら施設内に誰かしらいると言っても、部屋の中で1人になることはある。具合が悪かったり社交性がなければ余計にその時間は多くなるだろう。
ヘルパーや看護師が入っていたとしても生命の危機は常に存在する。
管理人室に通報するシステムは設置されていると思うが、動けないとか、声を発せないなどの状態が起こった場合には、通報することすら出来ないので、ただちに異変が発見されるとは限らないのだ。

でも最近ちょっと具合が悪かったなど体調変化が分かっていたならば、住宅型なので家族が宿泊することなどは出来るはず。
また入院治療の必要な病気ならば病院に入院させることが出来る。
終末期や看取り、外部への緊急通報などに関しては入居時に希望を聞いたり同意を得て必ず契約を交わしているはずである。
完全介護や医療の提供が求められていないタイプの施設に完全な介護を求めることは間違えていると思う。
また何もかも手を出して完全に介護すればするほど人間の身体機能が落ちてしまうのも事実である。

そもそも今回のケース、誰が不満や不服を持ち訴えたものなのかが分からない。
家族の訴えでないとするならば、家族は納得しているのかもしれない。
そうであるならばそれこそ余計なお世話となる。





by yumimi61 | 2018-11-22 13:59
神社業界の動揺

1945年(昭和20)12月15日、GHQから通称「神道指令」が出され、全国の神社は国家の管理から離れることになった。

神社は明治維新後に新しく誕生したものではなく古くから存在していたものである。
従って昔のように沢山の神様が存在し地域あるいは個人の単位で信仰していた神社神道に戻せば良かったのだ。
そして1つ1つの神社が正々堂々と宗教であると言えば良かったのである。
しかし明治期の中央集権でもって伊勢神宮を中心とした国家神道=神社神道という形が築かれていたので、国家神道と神社神道の区別が付いていなかったのだろう。
「神道廃止」と聞けば明治初期の「廃仏毀釈」で仏教寺院などが破壊されたことをイメージしてしまい、「アメリカ(GHQ)にやられる」と恐怖に慄いた神社も多かったのではないだろうか。

またそこまでではないにしろ、国家管理から外されると聞いて、何か見捨てられたような感じを受けたのかもしれない。
マインドコントロールされた状態は拘束など必要ない。
物理的に縛りつけておかなくても、ドアが開かれていても、そこから逃げ出そうだなんて思わなくなってしまうものである。むしろ管理から外れると不安になってしまうのだ。

うちの猫は家の外が好きで、家に閉じ込めておいても隙あれば逃げ出そうとする。
うちの犬も外は好きである。でも窓を開けても玄関を開けても慌てて逃げ出そうとなんてしない。外でリードを付けて散歩していて、うっかりリードが手から落ちようものなら犬は自分で立ち止まり、「え?」とまるで捨てられてしまったような表情を浮かべて佇む。
種類にもより個体差もあるだろうけれども、猫はマインドコントロールされにくい生き物だろうと思う。犬はされやすい。

ひょっとすると国家や天皇という絶対権力者に付いていることでの優遇や優越感を得られなくなるという打算からくる危機感もあったかもしれない。


洗脳とマインドコントロール

洗脳は拷問を行ったり暴力をふるったり薬物などを使用して、精神構造を強制的に変えさせ、ある種の思想を植え付けたりすることである。
長時間眠らせない、食事をさせない、繰り返しの強制労働、脅迫、監禁なども洗脳を行う手段となる。
洗脳はもともと戦争と深く関係しており暴力的要素が非常に大きい。
暴力的要素が大きいとは、心身への侵襲が大きいということである。殴る蹴るの暴力だけが暴力ではない。

暴力とは他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、 心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。

モラルハラスメント
フランスの精神科医、マリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した言葉。
外傷等が残るために顕在化(見える化)しやすい肉体的な暴力と違い、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は見えづらいため、長い間潜在的な物として存在していたが、イルゴイエンヌの提唱により一般にも知られるようになった。

イルゴイエンヌは、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘いが、精神的な暴力は肉体的な暴力と同じ程度に、場合によっては肉体的な暴力以上に人を傷つけるもので犯罪であると述べる。
フランスにおいては、1998年時点では、社会は精神的な暴力に対しては対応が甘く、肉体的な暴力に対して厳しいので、その点が問題だという。
イルゴイエンヌは、セラピストとしてたくさんの被害者に接してきた結果、被害者が加害者の攻撃から身を守ることがいかに難しいか、よく知っている。ストレスは行き過ぎなければ心身に深い傷を与えないが、これに対してモラル・ハラスメントは、心身に深い傷を与えるのが普通の状態なのである。「モラルハラスメントがどれほど被害者の心身の健康に破壊的な影響を与えるのか、その恐ろしさを嫌と言うほど見てきた。モラルハラスメントは精神的な殺人である」とも述べている。



直接暴力を加えられた人だけでなく、それを見た人なども間接的に暴力被害を被ってしまうこともある(心のダメージ)。
この場合、トラウマのところに書いた②の主観的手法で何度もその場面を思い出したり意識してしまい、結果同じように洗脳されてしまう。

マインドコントロールはそれほど暴力的ではない。
叩いたり叱り飛ばさなくても犬に芸や躾けを教え込むことが出来るのと似たようなことである。

次の記事はマインドコントロールの話ですが、便宜上「洗脳」と表現しているそうです。
でも「コストカッター」なんて異名を持つ「カリスマ」は十分に人を洗脳してしまう要素はあるだろうと思う。
身体への暴力、精神への暴力と同様に、お金のパワーで人を制御しようとするマネーハラスメント(国際社会もよくこの手を使うでしょ?)も人々を追い詰めるのに十分なものとなる。

カリスマはみな知っている「洗脳」の極意  2013.7.11
立正大学心理学部教授 西田 公昭  PRESIDENT 2012年10月1日号

カルト教団や悪徳商法など“洗脳”者は「(1)理想描写→(2)理論提供→(3)現状把握→(4)目標設定→(5)支援表明」という手順の「型」を持ち、これを駆使します。

(1)は、ターゲットとなる人物に接触し、その人の「夢・理想の世界」を一緒に描いてやり、われわれと行動すればそれが実現できると訴えること。ターゲットが「そんなことが可能か」と懐疑的な場合は、すかさず(2)です。こんな理論や法則がある、と裏付けを見せることで安心させ、「ならば、自分にもできるかもしれない」とモチベーションを上げさせる。しかし、ここで一度冷や水を浴びせます。これが(3)の現状把握です。「理想はココ、今のあなたはココです」と。「やっぱりムリか」と落ち込んだとき、“洗脳”者側が繰り出すのが(4)の目標設定です。「小さな階段を上っていけば理想に到達できる」とロードマップを敷いてやるのです。そして、だめ押しの(5)。「私が支援する」とその組織のボスが後ろ盾となることを表明するのです。
元オウム真理教教祖の麻原彰晃死刑囚は、実は大変面倒見がよかったと多くの信者が証言しています。“洗脳”騒動の多くは、こうした手口を駆使する側が、ありもしない理想をあたかも存在するように語り相手を操ろうといった利己的な作為がある場合です。

日産を立て直したCEOのゴーンさんにはそうした本物のカリスマ性がありました。誤解を恐れずに言えば、10年間で信者数を数人から4万人にまで増やしたオウムの麻原死刑囚にもそれはあったのかもしれない。似非カリスマでしたが。




Business Journal 2018.05.26.
前妻DV報道のゴーン日産会長、責任逃れ経営者の裏の顔…テレビ局が後追い自粛の理由  
文=深笛義也/ライター


「週刊文春」(文藝春秋/5月24日号)は『日産ルノー連合トップのドロ沼離婚訴訟「夫カルロスゴーンは私の首を絞めた」リタ前夫人<激白4時間>』と題する記事を掲載し、ゴーン氏が前夫人に対してDV(ドメスティックバイオレンス)を行っていたと報じた。


「他人には冷たい、合理主義者です。日産が3回くらい業績予想を下方修正した時に、当時COO(最高執行責任者)だった志賀俊之氏を更迭して、自分はCEO兼会長のポジションに留まっていました。あの時もマスコミから『そういうことをやっていると、晩節を汚すことになるのでは』など、いろいろ言われましたけど、全然聞く耳を持たないで、いつものトーンで自分の思いをずっと喋るという感じでした。

 昨年9月に日産で無資格者が車両の最終検査をしていたことが発覚した時も、西川廣人社長に会見をやらせて、自分は責められると嫌だということで、しばらくの間日本に寄りつきもしなかった。自分は責任を取らずに部下に詰め腹切らせることが多いですね。ちょっと反抗的だった人は、子会社の販売会社に飛ばされたりしますから、日産の役員はゴーン氏にびびってます。今回の件が社内で問題になることはないでしょうし、ゴーン氏も頬被りでしょう。個人的に『文春』を訴える用意はしているみたいですけど」

 コストカッターとしての非情さが日産を立ち直らせたと言われているが、ワンマン的な冷徹さは有能な経営者の証なのだろうか。

「ルノーでナンバー2だったカルロス・タバレス氏が、マスコミのインタビューでゴーン氏を批判して、『世代交代が必要、自分がCEOになるべきだ』みたいなことを言って辞めさせられました。ただし、そのタバレスはその後ライバル会社のグループPSA(プジョー、シトロエンなどの製造・販売会社)のCEOになっています。日産の副社長だったアンディ・パーマー氏は社長候補といわれていましたが、イギリスのアストンマーティンのCEOになっています。有能な人間が日産を辞めてライバル会社のトップになっているので、冷徹さが必ずしもプラスになっているとはいえないですね」(別の業界関係者)

 ゴーン氏にものを言える人物として思い浮かぶのは、フランスのエマニュエル・マクロン大統領である。

「フランス政府はルノーの株を2割近く持っています。2年前、経済相だったマクロン大統領は、ゴーン氏のルノーのCEOとしての報酬が高すぎると批判しました。それで実際、2年がかりで下げさせましたからね。ルノーと日産はアライアンスを組んでいますが、日産をルノーの完全支配下に置けとマクロン大統領は主張しています。ルノーの工場で日産車を生産させてフランスの労働者の雇用を増やすのが目的ですが、これにゴーン氏は抵抗しているため、フランス政府にとってゴーン氏は邪魔な存在です。もともとマクロン大統領とゴーン氏は仲が悪い。そういう意味で今回の『文春』の記事は、元夫人のいるレバノンまで行くという大がかりな取材なので、バックにフランス政府がいるのではという憶測も出ているくらいですよ。まあ、『文春』だったらレバノンくらい行くでしょうから、それは穿ちすぎでしょうけど」(経済記者)





by yumimi61 | 2018-11-21 23:58

国際法

国際法を逸脱した日本

日本国憲法
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


日本は国際法(不戦条約)を破り、国権でもって戦争を行った(侵略を仕掛けた)。
要するに国際法が戦争の歯止めにはならなかった。
だから国内最高法規である憲法に不戦条約に相当するような規定を入れて拘束力を高めた。
そして2項ではそれを守るひとつの手段として「陸海空軍その他の戦力」を持たないことが記された。
「国権の発動たる戦争」を目的とすれば、「陸海空軍その他の戦力」は手段となる。その手段を持たないことを約束して、目的遂行の道を絶ったということである。
2項の「陸海空軍その他の戦力」とはつまり実行部隊ということになる。
1項を約束させられたのは日本国民(今の憲法では主権者)である。


国際法は、国際社会は、機能しなかった

憲法は終戦の翌年に公布されている。
前にも散々書いたけれど、国際法に拘るならば敗戦国なのにこの順番で進んできたことがおかしいと思う。

憲法公布 1946年(昭和21年)11月3日
憲法施行 1947年(昭和22年)5月3日
サンフランシスコ平和条約 1951年9月8日調印、1952年4月28日発効・・日本の主権回復
自衛隊設立 1954年(昭和29年)7月1日
国連加盟 1956年 (昭和31年)年12月18日

占領下にあったとはいえ、憲法制定時は平和条約も締結しておらず、まだ国連にも加盟しておらず、国際法の縛りがない状態なのだから。
そもそも日本は国際法を順守せずに戦争を起こしたわけで。
しかし国際法(国際社会)は、大日本国憲法という法律(強力な拘束力)によって日本の全権を掌握し国権を発動した天皇を罰することをしなかった。
永久に行ってほしくないほどのことをした責任者を何ら罰せずに敬い、下の者だけを切って捨てて罰し、同じことを永久にしないでねと言っても説得力に欠ける。
国際法を破ったのと同様に国内法を破って戦争すればいいだけの話である。
それがどんな結果でもあっても責任者を罰しないという前例を国際社会は作っている。
今の憲法は大日本帝国憲法よりもずっとトップが責任逃れしやすい。
戦争に関しての責任が誰にあるのか全く分からない、というか国民が責任をとるような内容になっている。


永久の意味

終戦翌年に出来た憲法の9条は本来状況が変わった時に(平和条約を締結した時、自衛隊を設立した時、国際的に安全な国と認めされた時など)変えても良かった。
しかし「永久」という文言が盛り込まれていたため、それが出来なかった。
仕方なく「国権の発動たる戦争」を行う目的以外のための戦力ということにして自衛隊を設立したのであろうと思う。
「国権の発動たる戦争」はオフェンス。自衛隊(The Japan Self-Defence Forces)はディフェンスと捉えたわけである。
国権を振りかざして独断的に戦争することは許さないが、国際法で定められている自衛権の範疇で国際的に認められた場合には戦争できるということである。この解釈で今日まで来たはずである(違うの?)。
また自衛隊を認めている以上、ほとんどの国民が戦力というものを全否定しているわけではない。条件付きな人もそうでない人もいるだろうけれども戦力を認めている状態にあることは事実。
そうとなれば、このままの憲法9条でも構わないし、自衛隊と明記してもどちらでもよい気がする。現状維持ならば大した問題ではない。

同じ敗戦国で2回も世界大戦の元になる戦争を仕掛けているドイツには軍隊が存在している(1955年11月12日設立)。
日本の憲法はどうして変更が非常にしにくい「永久」なんていう言葉を入れたのか。
「永遠の愛」を誓うくらいの軽い気持ちだったのか。
それとも日本という国(民族)の性質は永久に変わらないという認識を持っていたのだろうか?


国際社会の横暴

戦争は個人の犯罪ではない。国家権力の下で行われるものである。
だから通常は兵士が人を殺しても相手国にも自国にも個人が裁判において殺人罪を問われることはない(相手国に捕まって捕虜になって殺されることはあるかもしれないけれど)。
人を殺しても英雄になることだってあるくらいなのに。
戦争で人を殺して死刑になってしまうならば、兵士になるのは自殺志願者だけになる。もっとも自殺を志願するくらいなのだから、死刑という形で人に殺してもらわなくてもよいかもしれないし、人を殺すことを志願しているわけでもないだろう。
そうなると強制的な徴兵制しかないですかねぇ。

第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)の後の国際軍事裁判の法的根拠は1928年のパリ不戦条約違反である。日本が侵略戦争をしたからである。

しかしながら、その当時、侵略戦争を個人の罪として裁く法的根拠は存在していなかった。
国家が調印した条約に違反して戦争を起こした罪ならば、当然国家の最高責任者が裁判にかけられるなりして罰せられるべきものであろう。
しかも当時の日本の天皇は国内においてそれだけの法的根拠を有しており、実際にその威力を最大限に振るった。逃れようがないはずなのだ。
それなのに天皇は訴追されず、法的根拠のないまま数多の個人が裁判にかけられ、処刑されたり罰せられた。
天皇訴追に積極的だったのはオーストラリアだけで、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドなどは反対したそうだ。
国際社会って何?法律って何?責任って何?なんのための権威や権力?自己保身?
アメリカにも起訴派はいたらしいが、マッカーサーに押し切られたらしい。

国際裁判も結構だけど、大した根拠も無しに自分たちの都合の悪い者や気に入らない者は訴追し罰し、自分達の守りたい者は訴追すらしないなんて、そんな不公平が公然とまかり通る国際社会だとするならば、国際社会自体が独裁社会のようなものなのでは?


「罰(ばち)が当たるよ」と人を脅したことはありませんか?

1945年(昭和20年)12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって国家神道の解体を目的とした神道指令が発せられる。

神道指令とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。


「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」→略して→「神道指令」

略された「神道指令」ではまるで神道を義務付ける指令を出したよう。
なんでもかんでも略せばよいものではないですね。
「神道廃止命令」ならば分かりやすいけれど、タイトルを読む限り国家神道を廃止するとは書かれていない。神道に対する政府の保証や支援や監督などの廃止である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。
当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。


国家神道が軍国主義に深く関わっていたからこそ廃止したかったはずである。
でも廃止しなかった。
日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたと書いてあるが、国際法がネックになったからである。

ハーグ条約
第三款 敵国の領土における軍の権力
第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。


国家神道を宗教と捉えると、国際社会は国家神道やその信仰に手出しできなくなる。
「あなたたち国際法違反ですよ」とかなんとか天皇や世界の宗教関係者に言われてしまうと反論できなくなってしまうだろう。
「日本が不戦条約を破って戦争をしたんだから、こっちだって破る」と言いたいところだが、「それでは侵略をした国と同類になってしまうではないか!」ということでそれも言えない。

でも日本の国家神道は宗教ではなかった。宗教の上にどーんと横たわっていたものであり宗教とは別物であったはず。
だから国家神道を廃止することは実際のところ可能だった。だけどそれだと困る人がいたのだろう。
苦肉の策が政教分離といったところだろうか。
「政は政治家が行うもの、教は天皇や皇族が行うものとして、両者は分離します。政教一致ではありませんので軍国主義に突き進むことはありません」というわけである。
政は国家という位置づけになるから、教は民間要素を大きくすれば、分離を強調出来る。
こうして神道や神社が、はたして宗教なのか、それとも倫理・道徳なのか、マインドコントロールの道具なのか分からない状況となってしまった。

いずれにせよ、GHQは国家神道の下で戦争が行われたことを知っていたのは揺るぎない事実である。
しかし日本の多くがここに目を瞑る。何故かその部分を見ようとしない。
天皇に責任はない、むしろ英断だったと天皇を敬い、この国には天皇が必要だと信じてやまない。
戦争をしたいという人ならば仕方ないが、そうでないならばちょっと信じられない。
実に多くの国民がマインドコントロールの支配下にあるのだろうか。それとも単に無知なだけだろうか。




by yumimi61 | 2018-11-20 16:57