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野分論

先日のエントリー『桜花』にて最後の一文に夏目漱石『野分』より 世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する を引用した。
今日はその『野分』についてです。

↓これが小説の冒頭。

 白井道也(しらいどうや)は文学者である。
八年前まえ大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。




今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべきものと心得ていた。
盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。
渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。
世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。




己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。
しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。
この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。
天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。
われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵かし硯を磨まするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。




主たる登場人物


・白井道也
大学を8年前に卒業。 越後・九州・中国地方の3箇所で中学教師をしていたが、いずれも辞職して、ついには東京に戻ってきて、書き物の仕事をしている。妻がいるが、妻は職を転々とし野心のない夫を快く思っておらず、夫妻の間には隙間風が吹いている。

・高柳君(高柳周作)
越後出身で、この夏に旧制の高等学校(現在の大学教養課程に相当)を卒業したところ。
貧乏で暇もないらしい。
口数が少なく、あまり人と交わることもないため、他人からは厭世家の皮肉屋と思われている。
父は郵便局の役人だったが、高柳君が7歳の時に公金を使い込んで囚われの身となり牢屋の中で肺病で死んでしまった。もっとも子供の時にはそのことを知らず、父の行方を母に尋ねても「今に帰る」と言うばかりであった。現在はその母親を田舎に1人残しているという状況であり、仕事をして母へ仕送りをしなければならないと思っている。
越後の中学校に白井道也先生がいて、先生を学校から追い出すのに加担した。
肺病を患っている。

・中野君(中野輝一、中野春台)
高柳君とは旧制高等学校の同級生で一緒に卒業した。
裕福で名門で暖かな家庭に生まれ育つ。
鷹揚で円満で、趣味に富んだ秀才。
婚約者がいて結婚する。


高柳君も中野君も文科で学んでおり、卒業後も書き物の仕事をしている。
中野君は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい」と言っている。
タイプは全く違うが2人は仲の良い友人。裕福な中野君は高柳君にたびたび奢ってあげたり、具合が悪そうなのを心配する。
しかし高柳君は中野君を別世界に住む人だとも思っていて、寂しさを拭いきれないでいる。というかむしろ中野君を通じて余計にひとりぼっちであることを痛感してしまうのである。


高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。

彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。

この両人が卒然と交わりを訂してから、傍目にも不審と思われるくらい昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人ひとりあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友をもって中野君を目してはおらぬ。

中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越しに眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴さえも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横たわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。



『江湖雑誌』


「僕の恋愛観」 中野春台
「解脱と拘泥……憂世子」 白井道也

中野君の所の取材に行ったのも白井道也先生で、高柳君から中学生の時の出来事を聞いていた中野君は取材終わりに高柳周作という人物を知っているか訊いてみるも、知らないと言われる。


「僕の国の中学校に白井道也やと云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜の銘にありそうじゃないか」
「道也と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪い人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪い奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊っといものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」


高柳君は『江湖雑誌』で中野君の恋愛観を読んだついでに、「解脱と拘泥……憂世子」に出会う。そしてついには自分で白井道也先生を訪ねるのだった。


白井道也先生が辞めた3つの学校

(1)越後(新潟県)のどこかの中学校
越後は石油の名所だった。学校のある町を4~5町隔てて大きな石油会社があり、学校のある町の繁栄は大方その会社の御蔭で維持されていた。

会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。
道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫りに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
※黄白万能主義=拝金主義

(2)九州北部の工業地帯の中学校

炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。


(3)中国地方の田舎の中学校

ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。
そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。フランスのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事がむずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。
去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。


では東京はどうか?

 三たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色がない。東京は日本で一番世地辛い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛って両手を袂へ入れたままで遣り切きるのは、立ちながらみいらとなる工夫と評するよりほかに賞めようのない方法である。


100円の行方と告白

・高柳君の体調は思わしくなく、喀血までするようになり、中野君から自分が費用負担するからと転地療養を勧められる。
お金を出してもらうのは心苦しいと感じている高柳君に、思案中の小説を転地先で養生しながら執筆し、完成したら一大傑作として世に送り出す、その対価として費用(100円)(もちろん今の100円とは価値が違う)を出すと提案し、それを高柳君も受け入れて、100円を受け取る。

・高柳君は転居前日に転地療養の報告と挨拶のため白井道也先生を訪ねる。
そこで借金取りに出くわす。
白井道也先生は100円の借金をしており、先生の兄が立て替えていた。
先生の兄は会社の役員で、その会社の社長は中野君の父親である。
教職を離れてお金にも名誉にもならない物書きなんかしていることに不満を抱いている先生の妻と、借金を立て替えている先生の兄が結託して、借金返済を厳しく催促することによってお金になる仕事をするように仕向けたのだった。

・白井道也先生は借金取りに「著作が売れるまで100円の返済は待ってほしい」と頼むが、 兄の意向を受けた借金取りは頑として応じない。

・白井道也先生と借金取りの話を聞いていた高柳君は口を挟み、先生の著作とやらを見せてもらう。それは「人格論」というタイトルの原稿であり、先生は待っている間に高柳君が読んでいるのだと思って渡すと、高柳君はタイトルだけを見て「これを100円で譲ってほしい」と先生にお願いする。


「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。


転移

ここで九州の中学校を追い出されたところの文章をもう一度。

権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された・・・


高柳君は自分が中野君からお金を得る権利などないことを分かっていた。
だけど療養先で一大傑作を書くという名目でお金を受け取った。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるというから、この場合、中野君が実業家ということになる。
そのお金を今度は高柳君が白井道也先生に渡すわけである。
原稿を買い取るという名目で。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるから、白井先生に100円を受け取る権利がなければ、今度は高柳君が実業家ということになってしまう。
白井道也先生にその権利はあるだろうか?高柳君は原稿のタイトルだけを見て、中味を読んでいないのである。
そして彼はここでかつて自分が先生を追い出した1人であることを告白する。
つまり原稿の対価ではないことが滲み出ている。
そのことに高柳君は気付いていないのかもしれないが、引き上げたいのは先生ではなく自分である。心のどこかで悪行をチャラにしたかった、人格者になるために。
高柳君の100円を出すとういう行為は白井先生を「権利のないもの」にしてしまうことになる。
中野君や中野君の奥さんが高柳君に同情したように、高柳君も白井先生に同情の念を抱いた。
金の力で活きようとした高柳君はその金に誹ることなく、今度は自分がその金で白井道也先生を活かそうとした。
同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。ーまさしくといった感じである。


『野分』の主題は恋愛論

本文に一箇所だけ「野分」が出てくる。
中野君の婚約者(のち妻)が歌った歌詞の中に。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ



「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦しみを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」


白井道也先生は「解脱と拘泥……憂世子」の中にこう記していた。
物質界に重きを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。

中野輝一は恋なんて形ないものに重きを置いている。
中野の恋愛論に賛辞も批評も与えなかった白井道也にも実は心当たりがあるのだろうと思う。
春から夏へと向かう恋の中にいる中野と、秋から冬へと向かう恋の中にいる白井。
白井道也という存在を変形させ明瞭にさせたのは、奥さんだったのかもしれないなぁと思った次第です。






by yumimi61 | 2019-04-29 21:49

GW

・昨日私はピンクのパーカーにピンクのマスクをしていたが、ピンクはピンクでも薄い色のピンクです。

・国立なのに10連休していないなんて・・!?

・ニュースでもやっていたけれど、金曜日に銀行のATMに行ったら長蛇の列だった。
まず駐車場に整理係が立っていて「満車」の看板があって驚いた。
この辺りは車社会なので店内に辿り着くまでにハードルが立ちはだかる。
実は私、25日にもショッピングセンターのATMに立ち寄ったのだが、うっかり次男に仕送りし忘れてしまったのだ。
25日とか26日は給料日の会社が多いし、月末だから仕送りとか振込とか多い時期である。それに加えて連休が控えている。
だけどATMの貼り紙を見たら連休中もATMは毎日稼働している。
ということはあの行列は休日手数料節約のため?それともお出かけのための軍資金引き出し?

・長男が大学に進学した後に仕送りしていた時、いつもコンビニで引き出すので、引き出すたびに手数料が取られていた。
それも1回で全部引き出すのではなくて、ちょこちょこ出金するので余計に手数料が割高な計算になる。こんな低金利時代にこんな割高の手数料・・
それを長男に言ったら、「手数料の分だけコンビニで買う物を減らしているから同じ」という返事が返ってきた。そんなの絶対うそだー
ということで、次男が大学に進学する前にはしっかり説明をし、さらにいつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないというサービスがある銀行に口座を開いた。次男も「うん分かった」と手数料の割高さを理解してくれたようだった。
ところが彼もまたほとんどをコンビニで出金するようで手数料を取られている・・・。

・いつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないからよいのではと思った方もいるでしょうが、そのサービスがある銀行は都市銀行です。
地方には地方銀行はあちこちにあるのですが、都市銀行は店舗もATMもそうそうない。
つまり入金する私が入金しづらい銀行ということになります。
だから入金は郵便局の口座にしている。(次男の通帳を私が持っていて、その通帳で入金し、カードを次男が持っており、そのカードで出金する)
次男には、全部一気に下ろして使い込んじゃうのとか紛失とか盗難とかが不安ならば自分で都市銀行の方に移しなさいと言ったのだが、それをしていないのだった・・・。

・それならばネット銀行では?とお思いですか?
でも結局他行宛に振込するとなると手数料は500円くらいかかりますよね?
自分もネット銀行に口座開設すれば無料かな?

・私はかつてネットショップを開いていたりしたことがあったので、実はイーバンクに口座開設したことがある。ただその当時はまだカードもない時代で、そこまで便利なものでもお得なものでもなく、それほど使われなかったから、私もほとんど利用しなかったと思う。
その口座を閉鎖した覚えもないけれど、口座番号とかも全然残っていない。

・群馬県の北部の国道17号線沿いに永井食堂という「もつ煮定食」で有名なお店があり、お昼前後ならばいつ通っても行列が出来ている。
昔からある食堂でかつてはトラックの運転手さんとか地元の人がたまに立ち寄るくらいな普通の食堂だったけれど、ある頃から頻繁にテレビで紹介されるようになったみたいで、それからは平日でも行列の出来るお店になった。(私は一度もテレビで放送されたのは見たことはないが)
いつから紹介され出したのかはよく分からないが、数年前はそんなに混んでいたことはなかったと思う。
今では混んでいる日は駐車場に誘導員が2~3人出ている時もある。
片側1車線の国道沿いにあり、駐車場に入れない車があると、国道が渋滞になってしまったり(一頃はあの辺が混んでいるとまた永井食堂渋滞かと思った時もあるくらい)、事故を誘発してしまいなかなか危険。現に出入り口で事故っていた車があって警察が来ている時もあった。
あと、駐車場に入りたいけれど入れなかった車がすぐ前を走ってたことがあって、その車、お店を通り過ぎしばらく走ったところで急ブレーキをかけて急に右折した。右側にUターンできそうなスペースを見つけたからだと思うけど、後ろを普通に走っていた私はひとつ間違えば衝突してもおかしくないような急激さで怖い思いをした。
その永井食堂、飲食店というお客様相手のサービス業で、ビジネス街にあるわけではなく、しかも今では昼時にはトラックは止まれないような状態でほぼ観光客相手の商売となっているが、日曜日と祝日は休業日という強気な営業方針である。GWも休業らしいのだけれど今年は10連休なのかな。






by yumimi61 | 2019-04-28 11:10

桜花

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若者は春を謳歌し、青春を謳歌する。

少年少女は学生生活を謳歌し、惰眠を謳歌する。

青年は休日を謳歌し、独身を謳歌する。

ロートルは第二の人生を謳歌し、余生を謳歌する。

公衆は国歌を謳歌し、勝利を謳歌する。

番人は軍歌を謳歌し、一寸の宴を謳歌する。

万人は生命を謳歌し、人生を謳歌する。

建前は自由を謳歌し、平和を謳歌する。

そして

世は名門を謳歌し、世は富豪を謳歌する。 



色を付けた最後の一文は、夏目漱石『野分』より。


写真は2017年4月20日に撮ったものをレタッチしました。
山は武尊山です。






by yumimi61 | 2019-04-26 23:29

真実

先日載せた写真をレタッチしてみた。

■スマホカメラで撮影した写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違いで、下段の写真がレタッチしたもの。
レタッチと言っても、 iPhoneに標準搭載されている画像管理アプリ「写真」の編集でライトを調整しただけの簡単レタッチ。
山肌の陰影がはっきりとしたが、少し空が青すぎる。
空の写真でも山の写真でも風景の写真でも「青い空」をよく見かけると思う。
もっと青かったり、もっとクリアだったりする写真も少なくないが、みなレタッチして作り出した写真だろう。自然の空はそんなに青くはない。

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■一番レフカメラで撮った写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違い。
下段の写真はアート風にレタッチしたもの。
風景でも肖像でも実物そっくりに、あるいはまるで写真かのように精巧に描ける人もいるが、レタッチで簡単にそうした作品を作り出すことも可能である。
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随分奇妙なものを信じてません?僕たち。お金ってなんなんだろう。
というCMがあるが、真実ってなんなんだろう。
真実を写すと書く「写真」だけれども、随分奇妙なものを私達は信じていませんか? 写真って、真実って、人間って、なんなのだろう。
そもそも真実を必要としているんだろうか。
していないからこそ、修正したり合成したりしまくるのではないのか。
それを考えれば、お金が誰のものかなんて証明する必要もない。真実など必要ないのだから誰のものでも良いということになる。
ゴールドが紙幣になって信用取引に変わった時、お金はすでにその「存在」を失っている。
この世に存在せず、マイナスから生まれてくる価値がお金(紙幣)である。
マイナスして発行したのは中央銀行。
紙幣には名前が書いていないと言うけれど、ちゃんと「日本銀行券」と記名してある。紙幣は日本銀行の所有物である。
レンタルしているものに自分の名前書きませんよね?記名しないのは当たり前な話。
紙幣のマイナスは帳簿上埋めていく必要がある。
マイナスをプラスで埋めたら、プラスマイナスゼロである。結局紙幣はマイナスに吸収されてしまうことになるので、紙幣による人々の豊かな生活というのは見かけ倒しに過ぎない。
では何が人々を豊かにしてきたのかと言うと、最初からプラスな存在である資源や人間の英知。
つまりそれらを現物として持ち利用すれば、紙幣など持たずとも豊かな生活を送れるはず。但し便利を覚えた人間は、豊かさの定義がそもそも変わってしまっていて、不便が即不幸に繋がっていて豊かさは感じにくいのかもしれない。
以前帳簿上プラスマイナスゼロになっても、管理如何によっては現物は消えないという話を書いたことがあった。
完全キャッシュレスにすれば、帳簿上プラスマイナスゼロになったのに現物が活きているという状態は不可能となるかもしれない。






by yumimi61 | 2019-04-25 18:22

老幼

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by yumimi61 | 2019-04-23 19:23

耕起と不耕起

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↑の写真:2017年4月17日に一眼レフカメラで撮影(レタッチなし)
↓の写真:2019年4月19日にスマホカメラで撮影(レタッチなし)

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白い山は谷川岳。雪の感じはほぼ同じ。
手前の木の花はコブシ。2年前のほうが若干開花が遅かったか。



忽然と消えた野菜苗

家庭菜園をやっているガーデナーはGWを利用して夏野菜の植え付けを行うことが多い。従って園芸店もGWは大繁盛期。

私の実家にも家庭菜園を行う畑がある。
家庭菜園としては結構な広さがあるので、全面を鍬で耕すのは大変なため、手押し耕耘機がある。
父が管理していた時、秋の収穫が終わって本格的な冬が来る前と、じゃがいもの植え付け前の3月頃に手押し耕耘機を掛けていた。
息子達が使えた時は彼らにやらせていたし、体調がしんどくなった晩年には私が呼びつけられ私が代行していた。

2017年1月末に父が亡くなり、その後は私が管理しているが、2017年の春先に耕耘機をかけて(姪っ子にかけさせて)野菜を作った。
しかしその年の晩秋に私が耕耘機をかけようと思ったら、うんともすんともエンジンがかからかった。手入れもしていないし春もやっとかかったくらいな感じだったので限界なんだろうなあと思って諦め、そのまま冬を越した。(ガソリンはちゃんと入れました!)

2018年春、再び耕耘機のエンジンかけにチャレンジしてみたがやっぱり駄目だったので、作付をする所だけ鍬で耕して畝にした。
しかしこの春に植えた苗の幾つかに異変が・・・・
植えて数日後に見ると、なんと忽然と苗が跡形もなく消えてしまっているのである。

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↑昨年のGWに撮った写真



最初に見つけた時は呆然と立ち尽くして、何が起こったのか考えられなかった。

風や虫の食害で根元付近で折れたということならば、枯れたとしても植物が残っているはずである。でも何もない。
GWに植えた夏野菜の苗には寒さや乾燥や風よけなどのために囲いをしているので、外からの被害というのは考えにくい。
人間が上から引っこ抜いたか、土の中から、ということになる。
開いていた穴を見る限り、人間が引っこ抜いたようには見えない。
となれば、犯人は土の中からやってきた。

小さな盛土があったのでまずモグラがいるのかもしれないと思った。
しかしモグラはミミズや虫の幼虫を食べる肉食動物で植物は好き好んで食べない。
モグラが植物の根の近くにトンネルを掘って、結果植物が浮き上がってしまい元気がなくなったり枯れてしまうことはあるが、植物自体を狙っているわけではない。

だとするとハタネズミなどのネズミである。
ネズミはモグラの掘った穴とトンネルを利用して移動することがあるという。
また自分で穴を掘るネズミもいるとのこと。
ネズミは植物を食べる。根菜が好きだが、苗もネズミの仕業だったんだろう。
つまり植えた苗はネズミに下からトンネル内に引きずり込まれたということになる。

モグラ被害もネズミ被害も父から聞いたことはなかったし、私も経験がなかった。
そこではっとした。そうか、耕起しなかったからだ。

植えて間もない苗の段階で消えたのが幾つかあったり、植物が浮いてダメになったり、ジャガイモやサツマイモはガリガリと食べられていたのが結構あった。


有機栽培

<有機栽培(有機農業)の定義>
「有機農業の推進に関する法律」(平成 18 年法律第 112 号)の第二条において、有機農業は次のように定義される;「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業」。

農林水産省の「有機農産物の日本農林規格」では、有機農業で生産された農産物(有機農産物)は次のように定義されている。

有機農産物
1.有機農産物:農薬と化学肥料を3年以上使用しない田畑で、栽培したもの。
2.転換期中有機農産物:同6ヶ月以上、栽培したもの

特別栽培農産物
農産物が生産された地域の慣行レベルに比べて、節減対象農薬の使用回数が50%以下、化学肥料の窒素成分量が50%以下

有機JAS規格では有機農産物を「生産から消費までの過程を通じて化学肥料・農薬等の合成化学物質や生物薬剤、放射性物質、遺伝子組換え種子及び生産物等をまったく使用せず、その地域の資源をできるだけ活用し、自然が本来有する生産力を尊重した方法で生産されたもの」と定めている。


注意1)農薬を使わないことになっているが、この農薬とは「化学的に合成された農薬」であり、天然原料による農薬は使用可能である。

注意2)有機JAS制度での表示規制(認可)は商品に対するもので、広告などに「有機栽培を行っています」と記すことに対しては特別な許可は必要ない。但し虚偽の広告というのは虚偽が発覚すれば当然問題になる。(それでも虚偽がないというわけでもないらしいけれど)


農作物栽培における有機とは何かということを簡単に言えば堆肥である。
「堆肥」は微生物の力で有機物を完全に分解した物で原料は様々。
家畜の糞、生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草など。
これら有機物をよく分解・発酵させたものを完熟堆肥という。
有用菌の多い堆肥には土壌病害虫抑止力があると言われ、有用菌重視で言えば完熟堆肥の一歩手前くらいが良いらしい。
但しあまり未熟な堆肥(分解しきれていない有機物)を入れ込んだ畑で栽培すると窒素が不足したり、植物の根を傷めたり、雑草の種などを広げてしまう結果になる。
園芸店などに販売されている堆肥は完熟堆肥と書かれている。

ミミズは有機物の分解に一役買う。
よく「ミミズがいる土は良い土」などと言うことがあるが、ミミズがいる土はまだ完熟化していない未熟な有機物が沢山存在しているということになり、それを良い土と言うかどうかは微妙なところである。

実家の家庭菜園の一角には堆肥を作る場所があり、そこに生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草などを入れる。
そこにはおそらくミミズも住みついているはずだ。
本格的な堆肥づくりはしていないが、それでもまあ一定期間経てば自然に再び土になる。
その土(堆肥)を早春に畑に入れ込む。
父はその場所以外は耕耘機を晩秋と春先に掛けており、且つ通路などは定期的に除草剤を使って綺麗にしており、茎葉などは燃やしたりもしていたので、堆肥づくりコーナーに入れる有機物もそこそこの量だった。
且つ化学肥料も使っていたし、農薬も必要な時は使っていた。
周囲の家庭菜園でも完全無農薬や無化学肥料でやるということはあまりない。
それくらい無農薬や無化学肥料というのは場所あるいはお金、手間暇がかかり難しいことである。


(私はほぼ無農薬。化学肥料は最小限使った。除草剤は定期的に使わざるを得ない、でも雑草除けシートなども利用した)
私が管理するようになってから、雑草とか茎葉の処理とかいろいろと追いつかずに、あっちにもこっちにも有機物の山を作った。いずれ堆肥にする予定で。
つまりあっちにもこっちにもミミズが集まることになる。
そうするとそのミミズを目当てにモグラもやってくる。
その挙句、耕耘機をかけないのだから、巣が破壊されることもない。
このようにして昨年の夏~秋の野菜はモグラネズミ被害にあった。


不耕起栽培

1943年、アメリカ人のエドワード・フォークナーは『農夫の愚行』(Plowman's Folly)を著した。その中で、慣例的に農業において基本的な行為と長く考えられてきた耕起は土壌を破壊するだけで何の益もない行為であり、有機物を表土に混ぜ込むだけで肥沃な土壌は維持できると主張した。
また、ランド研究所のウェス・ジャクソンは、土を耕すことは生態学的な災厄であると主張し、耕起を基礎とした農業は持続可能性が証明されていないことを指摘した。

こうした研究や除草剤耐性遺伝子組み換え作物の開発や有機農法の手法の確立とともに、完全な不耕起栽培や、保全耕転と呼ばれる土壌の表面のうち少なくとも30パーセントを作物の残渣で覆っておく緩やかな手法が北米の農家の間で急速に広まっている。1960年代には北米の耕地のほとんどは耕起されていたがカナダでは1991年には33パーセント、2001年には60パーセントの農場が不耕起栽培もしくは保全耕転を採用している。アメリカでは2004年に保全耕転が全農地の41パーセント、不耕起栽培が23パーセントで実施されている。しかし、地球全体の農地のうち不耕起栽培が行われているのは5パーセントほどに過ぎない。

<メリット>
・耕さないことによる省力化が可能である。
・土中に根穴構造が残り、根圏が酸化的に残る。畑では排水性も保水性もよくなり、干ばつにも長雨にも強くなる[要出典]。
・未耕起の土を根が突破り、稲に生じる植物ホルモン的な作用が活力高い太い根を作り、茎を太くする[要出典]。
・前作の作物残渣を地表に放置できることになり、その結果、それらが土壌のマルチとなって風雨による土壌流出を緩和できる。

米国でより広く使われるようになってきており、2010年には米国の60パーセントの農地が不耕起栽培になると予想されている。 海外の畑作での不耕起栽培と日本の無農薬稲作・畑作における不耕起栽培を混同されやすいが、仕組みは全く異なる。


近年は日本でも不耕起栽培のメリットが語られることがある。
私も10年以上前に小さな貸農園で不耕起栽培(雑草すら抜かずに根元で刈りとる)を行ってみたことがあるが、耕さないからといって育たないわけではなかった。だけどなにぜ小さな貸農園では耕さず雑草を抜かないことに対して肩身が狭かった。
では自分ちの大き目な家庭菜園ならば良いのかと言えばそうでもない。周囲がある限り雑草などはやっぱり気にかかる。
そもそも広ければ広いほど夏の雑草の勢いには手が付けられなくなること必至。

作物の栽培自体には問題なく、土壌生物は豊かになり、しかも省エネルギー。
裏山とか林の中の土などは耕起なんかしなくても土はフカフカである。
地に落ちた有機物が地表で自然と堆肥になり土に混じりこんでいくからである。

不耕起で一番の問題となるのは雑草である。
農家の人が大型トラクターで行う定期的な耕起は雑草が生えるのを防止する役割も果たしているのだ。
アメリカの不耕起栽培は除草剤と除草剤耐性作物によって可能となっている。つまり無農薬(無除草剤)での不耕起栽培ではないということ。

災害予防の面からみても、不耕起が悪いという話はあまり聞かない。
落葉樹が沢山生えている山ほど保水力があって、水や土がだだ流れするのを防いでいる。
有機物の少ない針葉樹の森林や人が下手に開発した場合などには水や土がそのまま流れ落ちてしまいやすく、災害に繋がりやすい。
河川敷の土手を踏み固めると水害が予防できるというようなことが言われているが、同じ不耕起でも踏み固めるということは透水性や通気性などが悪くなってしまうので、むしろ害になりやすい。






by yumimi61 | 2019-04-22 17:06

R17&L15

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さっきお散歩に行った時に撮った写真。
4月15日に17歳になりました。
前足の付け根に脂肪の塊があるので、それを撮ったつもりで、写真見てもちょっとそれっぽく写っているけれど、脂肪があるのは右側なので反対でした。

↓の写真が右足のほうだけれど、今度はリードで隠れていますね。

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17歳と15歳


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↓の写真は昨年の12月30日の夜に撮った写真。

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by yumimi61 | 2019-04-21 16:03

限界暗期

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陽光は軽やかに煌めき

風はゆるんだ春の匂いを纏う

失意のどん底にいたとしても眩しく

浮かれていても燦然と輝く

世界の始まりにはきっと春があった

花にも葉にもほどけ披く時があり

老木にも若木にも春はやってくる

世界の始まりには衰退がある





・春分3月21日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒夜時間が少しずつ減少していき、昼>夜

・夏至6月21日頃 昼(日の出~日没)が一番長い

 ⇒昼時間が少しずつ減少していくが、まだ昼>夜
   短日植物が花成誘導を受ける(且つ適度に気温が下がり開花する)

・秋分9月23日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒昼時間が少しずつ減少していき、昼<夜となる

・冬至12月22日頃 夜(日没~日の出)が一番長い

 ⇒夜時間が少しずつ減少していくが、まだ昼<夜
   長日植物が花成誘導を受ける(且つ一定期間低温に晒された後に開花する)



短日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より長くなると花芽が形成される植物のこと。 
言うなれば暗いのが好きな植物で、昼時間の減少(夜時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。

長日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より短くなると花芽が形成される植物のこと。
言うなれば明るいのが好きな植物で、夜時間の減少(昼時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。


2つのものの減少と増加は背中合わせの関係にあるので、「昼時間の減少」は言い換えれば「夜時間の増加」ということになるし、「夜時間の減少」は「昼時間の増加」ということになる。
「減少」に焦点を当てるか「増加」に焦点を当てるかは人それぞれだと思うけれど、ただ花成誘導を受けるのは主に春分や秋分の前、つまり前半部分の増加、一番少ないところからの増加ということになる。減少で言うならば、前半部分の減少、一番多いところからの減少を感じ取る。
1日の時間が決まっている以上、昼と夜の一番少ない時期と一番多い時期はセットであり、昼が一番少なくて夜は中くらいの長さ、というようなことはありえない。





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by yumimi61 | 2019-04-18 16:47

36!

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今日はディズニーランドのオープン記念日

開園は1983年4月15日
私が初めて訪れたのは家族とではなく友達とだった。

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おめでとう~


写真に写る少年は3歳8ヶ月の息子(長男)

長男の友達(男子)はディズニー好きが高じてディズニーランドでアルバイトをしていたとか。
そういう私も高校時代にはディズニーランドのパレードのお姉さん(そういう職種があるかどうか分からなかったが)になろうと思ったことがあった。
ところが当時ディズニーランドの現役ダンサーと知り合う機会があり、その人にすご~く厳しくて大変だととくと聞かされ、私には無理そうだなぁと思って諦めた。
(前にも書いたかもしれないが、その後鴨川シ―ワールドのシャチショーのお姉さんになろうと思ったこともあった。シャチショーのお姉さんというのはトレーナーのことです)
歌のお姉さん?・・・にはなろうと思ったことはありません(きっぱり)。






by yumimi61 | 2019-04-15 17:29

🌷


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・4月も2週間が経過しましたが、新生活を始めた皆さんいかがお過ごしでしょうか。やっと土日ーみたいな感じでしょうか。

・ちなみに最近はあえて土曜日や日曜日に入学式を行う学校があるそうです。卒業式もですが。

・「五月病」(新人社員や新入生や社会人などに見られる新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の俗称。医学的には、適応障害、うつ病、パニック障害、不眠症など)というのは新生活を始めた人に多いのですが、GWの連休が1つのきっかけになります。
最近は休みをくっつけて連休にする傾向が強いですが、それでもGWに10連休というのは大企業など一部の人だけで、特に学生はカレンダーどおりということが一般的でしたが、今年は学生が10連休になるということで五月病や不登校なども例年になく心配になります。
夏休み明けに子供の自殺が多いというのは最近よく語られていますが、それも結局、長期休みが1つの引き金になっているということです。
夏休みほどの長さはないけれど、まだ新生活1ヶ月という時期にハイな感じの10連休は要注意だと思います。
また5月をなんとか乗り越えたとしても、祭日がなく、どんよりとした日が続く梅雨に突入していく6月も注意が必要です。そして学生ならば7月には夏休みを迎えるということになるので、新生活半年はリスクが高い時期になります。

・コンビニの24時間営業が問題視されている中、’急に薬が必要になった時に夜間でも開いているから安心’みたいなドラッグストア「ウェルシア」のCMがなかなか攻めていると思った。

・CMと言えば、最近見て衝撃を受けたCMがある。
「ダイナムで働く私は街で時々声を掛けられることがある」とナレーションとともに可愛らしい若い女性がスーパーでお買い物をしている。
するとスーパーで働くおばさんがその女性に「今日は私はいらっしゃいませね」と笑顔で話しかける。
いつも’いらっしゃいませ’と言っていて、街で時々声を掛けられる仕事ってなんだろうと思って見ていたら、なんと!ダイナムというのはパチンコ店でした。
パチンコ店ってこんな和やかな感じの人間関係を築ける職場なのか・・・。
今のパチンコ店は私の持つイメージとは違うのかもしれないなあ。

・そろそろ冬タイヤを履き替えようと思い、4月8日にタイヤ屋さんに電話したらその日と次の日が棚卸で休業日だったので、別のタイヤ屋さんに電話した。
すると予約ではなくて受け付け順で、今の時期は開店と同時に5人くらい待っているから、どれくらい時間がかかるとは言えないと言われ挫折し、とりあえず諦めたところ4月10日に結構な雪が降った(吹雪みたいな時間があった)。何が幸いするか分からない。

・先日いつも犬のトリミングをしているお店に予約の電話をしたら「一番早くて7月8日です」と言われた・・。
7月8日・・・今は4月・・・3ヶ月も先・・・
年末に混むのは知っていたけれど、この時期もこんなに混んでいたかしら。すでにサマーカット需要!?




by yumimi61 | 2019-04-14 11:17