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2000問題(2)

前記事の続きで老後2000万円問題です。

前記事に載せたグラフから支出の箇所だけ抜き出しました。↓
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住居費と持家率

前回は「その他」が気になると書いたが、「住居」が気になるという人もいるのではないかと思う。
この支出は統計上の平均と考えるしかないので、個々に沿う金額ではない。
賃貸住宅か持家かによって、住居の部分の費用は大きく変わる。
賃貸の場合、都心に住んでいるのか地方なのかによっても違うだろうし、市営や県営など公営住宅や公団住宅に住んでいるのか民間の賃貸なのか、それとも有料老人ホームや住宅型老人ホームに入居したのかによっても違う。

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上のグラフ(統計)によれば、60歳以上世帯の持ち家率は94%であり、かなり持ち家率が高い。
この統計も前回問題がなくない統計だと書いた総務省の「家計調査」をもとにしているようだ。
さらにそもそもこのグラフについては2人世帯以上の統計であり、1人暮らしの世帯が含まれていない。


家族の形、住居の形

前回の「表1-2-4 高齢者世帯の所得」の表では65歳以上の平均世帯人員は1.56人と書いてあった。これは1人暮らし世帯を含めた平均世帯人員である。
1人暮らしを除いた60~70歳の平均世帯人員は2.72人、70歳以上は2.42人となっている(上のグラフから)。
幅の少ない世帯人員で平均が1くらい違うので、1人暮らし世帯が結構あるということになる。

1人暮らし世帯にも、死別によって1人暮らしになった世帯、離婚によって1人暮らしになった世帯、独身の1人暮らし世帯がある。
中高年での死別の場合にはすでに持家だった可能性がある。離婚の場合も同様である。独身の人でも持家の人はいる。
だから一概には言えないが、全体を見れば1人暮らし世帯は2人以上世帯よりも持家率は下がると考えられる。

持家を取得する場合には住宅ローンを組むことが多いが、定年までに完済できるようにするのが一般的なので60歳以降に住宅ローンを抱えているという世帯はグンと減る。
従って年金で暮らすようになった時には、基本的には賃貸料などの住居費はかからない。(土地・家に応じた固定資産税はかかる)
これが賃貸住宅の場合には、住み続ける限り賃貸料という住居費が発生する。従って1人暮らし世帯のほうが住居費は高い傾向となるだろう。

ただ中高年になると、それでも持ち家ではなく賃貸住宅回帰願望が起こってくる。
かつてあれほど夢見た(?)はずのマイホームを手放すことを選択肢に入れるのだ。
何故か?

・子供が成長して家を離れたため、マイホームの必要性が薄れる。
・小さな所で少ない荷物で暮らしたいと思うようになる。
・子供が戻る予定のない家を保持することに意味を感じられない。(ゆくゆく子供や近所に迷惑がかかることが予想されるのでその前に処分を考え始める)
・庭や生垣などの手入れが面倒だったり費用がかかる。(体力・気力・財力が落ちるので負担となってくる)
・家の修繕費がそれなりに必要である。
・近所づきあいや地域の集会・役割・行事への参加が煩わしい。(そういうことが希薄な賃貸住宅に住みたいと思うようになる)
・世間が高齢者の運転にも厳しくなったので、公共交通の便がよく、買い物や通院などしやすい場所での生活を考える。

このような傾向は近年、とくに核家族の多い都市部にいくほど強くなる。
ローン完済後に手放せば、それが例え幾らであっても売れる限りマイナスにはならない。
しかしローンが残っていれば、売却代によってローン残金を回収しなければマイナスになってしまう。
売り手が付かない場合、ローンを払いつつ、新たに賃貸料などが発生するはめになってしまう。
年をとった時に、人が快適に安心にストレスなく暮らせるってどういうことなんだろうと考えさせられる。
2人世帯であっても、1人世帯であっても、賃貸住宅に回帰すれば、当然に以後はそれなりの住宅費が必要になってくる。


何のために貯蓄しているのか?

60歳以上の人にそのように尋ねたら・・・
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見ての通り、圧倒的に「病気や介護の備え」のためである。62.3%
ついで「生活維持」となっている。20.0%
「豊かな生活・趣味」と「旅行・買い物」を足しても6.2%にしかならない。

世帯主が65歳以上の高齢世帯の平均貯蓄額は2484万円。
2000万円以上の貯蓄がある世帯は42.8%である。
1000万円以上ならば64.8%となる。
老後に時間とある程度のお金が出来たとしても、お金は大きく動かないということが透けて見える。

「病気や介護の備え」
言い換えれば、老後が心配だということになる。
高齢になってもまだその先の老後の心配をせざるを得ないということなんだろう。

「生活維持」
高齢になれば収入が減る。年金を受給できたとしても現役時代の収入には届かない。
収入が減ったら生活を変える必要がある。そうでなければ収支のバランスが取れない。
しかしながら急激に生活を変えるということはなかなか難しいことかもしれない。
現役時代の生活を維持するために貯蓄していて、リタイアしたら貯蓄でマイナス部分を補って生活するということ。


人生に付きまとう不安

結婚して子供が誕生する。
その子は7歳になる年に義務教育である小学校に入学して、18歳で高校を卒業し、社会に出るか大学などに行くかする。子供達は遅くとも20代には社会に出ることになる。
サラリーマンや公務員ならば定年が決まっている。年金もいちいち自分が納めなくても会社が自動的に納付してくれる。
自営業ならばいつまで働くかは自分や家族で決めれば良く、貯蓄するもしないも自分次第である。
持家を持つならば、どれくらいまでお金を貸せるかを銀行が決めてくれて、支払えそうな金額で定年までのローンの計算をしてくれる。
経済観念や金銭感覚が弱くても、人の一生はある程度目処が立つことが多く、どの状態にも大抵期限というものがあり、助言者がいたりするものだ。

しかし人は、自分がいつ病気になるか、何の病気になるのか、それが分からない。
「自分」あるいは「配偶者」が何歳で死ぬのか全くもって見当が付かない。
日本の2017年の平均寿命は女性が87.26歳、男性が81.09歳である。
だいたいそのくらいかなぁとは思うものの、それは平均であって個々にぴったり当てはまるものではいことを人々はよく知ってもいる。
運が良ければ(下手をすれば)、平均寿命からさらに20年も生き続ける。
今は大丈夫だけど将来介護が必要になるのか、それともポックリ死ぬのか、分かりそうで分からない。
これらに関してはさすがに助言者にも分からないだろう。
分からないことは、人を不安にさせる。
見聞きするものがいたずらに不安を煽ることもある。
貯蓄の有無や貯蓄額が適正だったかどうかは、世帯ごとの結果論にしかならない。
前もっての予想は不可能なので、対策をとるならば出来る限りの余裕を持つしかない状況である。

もっとも相続という制度があるので、貯蓄を余して亡くなった場合は、貯蓄が全く無駄になるということはない。
使われなかった貯蓄は次の世代に渡る。
そのお金が次の世代を救っているというケースも結構少なくないのかもしれないと思う。まさに金は天下の回り物。
このようなことをこれからも繰り返していくという未来図を描くのであれば、貯蓄が必要なのだ。

しかしそれにしても、問題になった試算、今の段階で95歳まで生きる設定というのはいかがなものでしょうか。
せめて平均寿命にしておくべきでは。
1か月5万円マイナスだとしても、60万円(5万×12か月)×20年(65→85歳)=1200万円 である。
それとも、2000万円―1200万円=800万円、モデルケースでは30年間で年金受給額が総額800万円減少するという試算に基づくものだろうか。


※今回と前回のグラフは、内閣府HP「高齢者の姿と取り巻く環境の現状と動向」より


(次回に続く)


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by yumimi61 | 2019-06-30 11:33

2000問題

今日は老後2000万円問題について。

現在の高齢世帯の平均貯蓄額は2000万円を超えている

まずはこのグラフから。
日本経済新聞 2019年6月12日 「老後資産2000万円」金融庁報告書の波紋 まとめ読みより
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いろんなところで話題に老後2000万円問題だけれど、私がこれまで見聞きした中では、「現在の高齢世帯の純貯蓄額の平均が2482万円」であるということを説明していたものがほとんどなかったように思う。
上記の日経のグラフでは、上段右側部分に毎月5万の不足に貯蓄を充てると書いてある。
つまり数字だけを追えば、貯蓄2000万円というのは非現実的な荒唐無稽な試算ではなく、むしろ現実に沿った試算なのである。


「平均」の落とし穴と利便性

だがここには落とし穴がある。
「現在の高齢世帯の純貯蓄額が2482万円」があくまでも平均であること。
では実際のところどうなのか。次のグラフを参照。
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世帯主が65歳以上の世帯の中で貯蓄が2000万円以上あるのは42.8%である。
この割合を多いとみるか少ないとみるか。
額が飛び抜けて多い世帯があると、それが少数派であっても、どうしても平均を押し上げてしまう。
それが平均の怖いところで、実態を見えにくくしてしまう。
但し平均や統計は個々のファイナンシャル・プランニングをしているわけではないから、全員にぴったり当てはまる数値がでるわけがない。
じゃあ、平均や統計が嘘だったり、意味がないものなのかと言えば、そんなこともないだろうと思う。(もちろん間違いや嘘や精度の悪い統計や平均もあるだろうとは思う)
それを誰がどのように読み取ったり、説明したりするかが重要であり問題なのだ。


年金受給額の「平均」

今回問題になった試算では収入が約21万円で、年金など社会保障給付がおよそ19万円である。
このケースは夫が65歳以上、妻が60歳以上なので、もし妻が年金を受給しているとするならば、繰り上げ受給をしているということになる。
繰り上げ受給とは本来の受給開始年齢である65歳より前から年金を受給すること。
60~64歳の間も年金をもらえることになるが、そのぶん受給額は減る。

では近年の年金受給額の平均は幾らか。
↓1ヶ月あたりの受給額。(実際の支給は2ヶ月まとめて行われる)

■厚生年金受給者(65歳以上)
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■国民年金受給者   55,000円


これもあくまでも平均である。
まず支払った期間や保険料が各々違っている。
・どれくらいの期間、年金に加入していたか(全国民一律部分の保険料を支払っていた期間)←基礎部分
・どれくらい保険料を納付していたか←サラリーマンなどの厚生年金の上乗せ部分

さらに個々に様々な状況がある。例えば、
・学生の期間に猶予してもらい(学生納付特例制度)、その期間部分を後納しなかった。
・厚生年金(サラリーマン)と国民年金(自営業やフリーターなど)の期間両方ある。
・結婚して専業主婦や扶養内勤務になり、第3号被保険者(サラリーマンの扶養配偶者)の期間がある。
・無職やバイトで国民年金を納付しなかった期間がある。免除や猶予申請もしなかった。
・外国で暮らしていた期間があり、その間の保険料を支払っていない。

20~60歳まで全て厚生年金保険料を納付したという人と、上記のような人では自ずと年金額は変わってくる。
少ない人はかなり少ない額になるし、そもそも受給資格を満たさない人もいるだろう。
但し、貯蓄のように青天井に受給額が上がることはない。
現役時代の収入が高くても、厚生年金の制度の関係で、1人当たり月額25万円以上の年金を貰っている人は多くない。
サラリーマンの場合、特に昨今は、「老齢年金」以外にも「企業年金」や「確定拠出年金」といった年金制度を利用している場合もある。

厚生年金受給者の男女の平均額が6~7万違うのは、現在年金を受給している世代の女性は結婚育児で家庭に入る人が多く、3号被保険者や国民年金の期間が結構長くある上に、今よりも男女平等の給与体系ではなく、残業や夜勤の有無による手当ての違いなど給与に差があるから。

上の厚生年金の平均額の男女を足せば、28万円/月を超える。
しかしながら現在年金を貰っている高齢世帯の平均はそこまでいかず、20万前後が多いらしい。
どうして夫妻いる高齢世帯で28万円にいかないのかと言えば、自営業者など国民年金の人もいるから。
でも自営業者などはそれを見越してというか何というか、そのぶん貯蓄していた世帯もあるだろうと推測できる。


年金依存度はどれくらいか?

年金を受給している高齢者世帯(夫妻いる場合にはともに65歳以上)のうち、収入が年金・恩給のみ(100%)の世帯は56.7%である。
収入の80%以上が年金・恩給であるという世帯は68.1%となる。
高齢世帯の4割超は年金以外の収入がある世帯。
これを多いとみるか少ないとみるか。
自営業などで定年がなく動けるうちは働くという人もいるだろうし、年金だけで足りないから働かざるをえない人や子供などに金銭援助してもらっている人もいるだろう。
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具体的な金額は次の通り。これまた1世帯あたりの「平均」である。
赤ラインが年金・恩給部分で、1ヶ月あたりにすると17万円である。

高齢者に限らず全世帯の総所得(年間所得)の平均は528.9万円。(1ヶ月あたり約44万円)
それを高齢世帯(65歳以上)に限れば、年金以外の収入を含めて300.5万円である。(1ヶ月あたり約25万円)
つまり高齢者世帯のほうがかなり収入が少ないということだが、その収入を世帯人員(子供も含める)で割って1人あたりで比較すると、僅かながら全世帯のほうが多くなるが、そこまで大きくは変わらない金額となる。
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支出に注目

支出こそどんな生活をするかで大きく違ってくるわけだが、まあこれも平均と考えるしかないだろう。
1つとても気になるのは「その他」という項目である。
金額的には、生きていくための糧である「食料」を超えて、「その他」がトップの約7万円となっているが、「その他」って具体的になんだろうか。
日用品(消耗品など)や衣類の購入、理美容代、家電品購入、自動車維持費(は交通費に含まれるのかな?)、交際費などかなぁ。諸々諸雑費?ギャンブルとか?
ひょっとして!貯蓄(投資含む)に回すお金も含まれていたりして?
あとは生命保険料の支払いの満了が65歳以上とか終身払いとかのケースもあるのかな?

1ヶ月に7万円もかかっている「その他」の部分を減らせれば、20万円収入でも不足にはならないのだけれども。

と思ったら、支出の内訳の下に次の注意書きがあった。
総務省「家計調査」をもとに金融庁まとめ。その他には衣服や家事用品など含む。

家計調査は,一定の統計上の抽出方法に基づき選定された全国約9千世帯の方々を対象として,家計の収入・支出,貯蓄・負債などを毎月調査しています。

ということは、年金もらっている高齢世帯に限った支出ではありませんよね?
それとも少ない標本世帯からさらに金融庁が独自に高齢者世帯をのみを抜き出してまとめたということなのかしら?

家計調査の問題点
本統計を巡る問題点について、そのうちのいくつかを述べる。
1.標本数の少なさ
上述した数字(全国約4,700万世帯の中から約9,000世帯を抽出)のとおり全国の世帯数に対して標本数が少なく、値が歪んでいるのではないかと指摘がある。

2.調査協力世帯の偏り-調査への非協力下記の理由により家計調査に協力してくれる世帯はそう多くはなく、そのため、ある程度の時間的な余裕がある等のところでないと調査に協力しないため、結果として回答世帯に偏りが出てしまう。
・上述したとおり調査項目が家計簿並みに細かいため、手間がかかる。
・さらに記入した調査票は回収されるので調査に協力している家庭には残らない。その為、家計簿をつけている世帯にとっては同じ物を二つ作らなければならず、負担となる。
・近年のプライバシー意識の高まりを受け、家計という個人情報を外部に出したくない世帯が増えている。


ということは、いろいろな意味で結構余裕のある世帯の支出に偏りがち、あるいは嘘偽りない実態に近い統計が取れない恐れがあるということですよね?


(次回に続く)




by yumimi61 | 2019-06-28 18:35

裸の王様

G20にしてもG7(G8)にしても、開催費も警備費もかさむ。
その上、いろんなリスクも生じるわけだし。出席者は移動時間含めて余分な時間拘束されることになるし。
不合理で非効率極まりなくありませんか?

開催費とか警備費とか移動費とか宿泊費とかに毎回予算さくならば、思い切ってサミットはテレビ会議にしたらいいのに。
世界主要国が誇る最高技術を集結駆使すればよいのですよ。
各国首脳の皆さん、それこそ最先端技術やテレワークのアピールになるじゃないですか。
どうしてしないんだろう?
出来ないの?技術の限界?2箇所しか繋げられない?コストの問題?
それとも手厚い接待が受けられないから?
まさか、ICTとかIoTとかAIとかロボットとか自動運転とか絶賛推奨している皆様方が、「それでは人間味が無いだろう」とか言いませんよね?

もっとすすんで、「世界平和」や「世界経済の安定」も全部AIに任せたほうがいいんじゃないんですか?

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by yumimi61 | 2019-06-27 16:12

アラカルト

トリカブト保険金殺人事件の犯人の父親は、犯人が幼い頃から共産党員で、家庭を顧みないほど熱心に党活動しており、戦後間もない時期にはレッドパージ(赤狩り)の一環で政治犯として拘束されていた時期もあった。
そんな父親を子供達は幼い時分にどんなふうに思っていたのかは知る由もないが、その息子達も成長すると父親と同じく共産党員となった。


1988~1989年に起こった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の監禁場所となった家(犯人少年グループの中の1人の家)の親も共産党員だったという。

(実名報道した)『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は、事件当時は「犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があった」として少年たちの実名報道は見送った。
しかし同誌も、1989年4月13日号にて特集記事を組み、監禁場所を提供したCの両親について「日本共産党員だという話もある」と報道した。
これに対し、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された。



2018年(平成30年)8月19日夕方、犯行グループのメンバーだった男(元少年C)が埼玉県川口市内の路上で通行人の32歳男性に対し、肩を警棒で殴る・首をナイフで刺すなどして殺害しようとした殺人未遂容疑で、埼玉県警察武南警察署に緊急逮捕されたことが『デイリー新潮』(新潮社)の同月21日配信記事、およびその続報に当たる『週刊新潮』2018年9月6日号(8月30日発売)にて報道された。
『デイリー新潮』および『週刊新潮』は、その被疑者元少年を実名報道した上で「今回逮捕された元少年は両親が日本共産党党員で、29年前の事件では監禁場所として自宅を提供した人物。刑事裁判では懲役4年以上6年以下の不定期刑判決を受けた」即ち元少年Cであること、元週刊文春記者の勝谷誠彦のコメントを報道している。
なお『デイリー新潮』『週刊新潮』以外の報道機関(『朝日新聞』および共同通信社配信の『産経新聞』・『日本経済新聞』両紙・JNNニュース)においては、被疑者・元少年Cの実名報道こそ行われたものの、本事件の前科については一切触れられていない。


女子高生を拉致監禁して強姦したり激しい暴力を加えるなどして死に至らしめた事件だが、殺人・猥褻目的略取誘拐・逮捕監禁・強姦などの各罪状で逮捕されたのは4人の少年だった。
しかし現場となった家は事件以前より不良グループのたまり場となっており、さらにその少年達は暴力団などとも関わりがあって、1ヶ月以上に亘った監禁期間にその家に出入りした人物は100人近くいて、強姦に加わったのは20人近くいるとも言われている。
さらに現場には2名ほど女性がいて積極的に事件に関与していたが逮捕には至らなかったという情報もある。

下記のとおり、裁判に基づく事件当初の詳しい記述にも逮捕された少年4人(A・B・C・D)以外にもEやFという人物が登場している。
しかしながらEやFは逮捕されなかったということになる。

少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、同月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた。
その際、
Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装って少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取り、AがBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨て、E・F・Dの順に少女を強姦した。
その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部にマッチの軸木を挿入して火をつけるなどの凌辱に及び、少女が熱がるのを見て仲間らで面白がるなどした。


ちなみに逮捕された4人の少年(当時)はすでにいずれも出所していて、3人は出所後に犯罪を犯していることが判明している。



共産党員というだけで意味ありげに取り上げられてしまうのは、共産党にとっては迷惑な話かもしれない。
そうでなくても第二次世界大戦後の国際社会、とりわけ左翼がテロを含めて派手な事件を起こした日本では、共産党に良い印象を抱かない人も少なくはないだろうと思う。
本来ならば「民主化・非軍事化」の旗手になるべく政党で、だからこそ期待したり活動に参加した人もいるんだろうけれども、どこかで歯車が狂ってしまったとしか言いようがない。
正の部分も負の部分も第二次世界大戦が落とした影に呑みこまれてしまった観がある。


「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」という言葉があるが、それにちなんでこんな言葉どうだろうか。
「日本に烏の鳴かぬ日はあれど、無党派に会わない日はない」
それくらい現代の日本では無党派や政治無関心派、見切り派、委棄派が多い。
選挙で各選挙区から立候補する共産党候補を見れば、「どうせ当選しないのによく出るよなぁ」と思う人もいるのではないだろうか。
確固たる支持がない無党派や政治無関心派がもし票を投じるとすれば、当選しそうな人に投じると思う。
自分が票を入れた人が当選しないなんて、投票という労力が無駄になった感じがするし、自分が否定されたような気持になる人もいるだろうと思う。
つまりいつも得票が少ないと無党派からの票を得られないという悪循環に陥るわけである。

それくらい無党派や政治無関心派が多い日本で、無党派や最大政党ではなく共産党という少数派が間接的であるにせよ話題となった大事件に関係していたということになれば、やっぱり色眼鏡で見られてしまうのである。
母数に対する件数という確率的な視点である。(厳密な統計ではなくあくまでも個々の印象に過ぎないものだけれども)
あとは目立つ事件に関係していれば、それだけで不利になる。それは反対の事象(目立って有利になる)を考えても分かることである。


赤坂御用地の石垣に落書きがあったら、けしからんということで、器物損壊の疑いで捜査するけれど、東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に、バンクシーの作品に似た落書きがあれば、捜査はされず、それどころか歓喜し、撤去したらしたで怒りを買い、一般公開までする始末。誰が書いたか分からないのに。
平等に器物損壊容疑で捜査しなさい!と思う。
世の中結局、名声と金か。という失望と落胆を世間にじんわり広げることに一役買った。
赤坂御用地の落書きは不利側に属するし、パンクシーに似た落書きは有利側に属する。



親が共産党員だったということで、私は1つ思い出すことがある。
1985年8月12日、日本航空123便の墜落事故の犠牲者と生存者である。
500人を超える犠牲者を出したが、奇跡的にも4人の生存者がいた。子供2人を含み、全員女性だった。
生存者の中の1人で当時12歳だった女の子がいたが、一緒に搭乗していた両親と妹は亡くなった。(部活があり北海道旅行に行かなかった兄も生き残った)
彼女の父親が共産党で元町議(島根県簸川郡大社町)だったそうなのだ。
そして母親は保健師だったという。(保健師は看護師資格も持っている)
生存者となった少女は後に看護師になったという。
簸川郡大社町は出雲大社の鳥居前町であり、現在は出雲市大社町となっている。

日本共産党吉川市委員会の広報誌(リンク先はPDF)より
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2013年6月13日
あの御巣鷹の峰の灼熱の夏から28年。日航機123便墜落で、奇跡の生還を遂げた子を救助した男は今!


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 また、8月が巡ってくると、あの灼熱の、身を焦がすような夏を、思い出す。
 今から28年前。1985年8月12日。日航機123便は、通常の航路を大きくはずれ、群馬県の山中深くに墜落し、機体は激突し、バラバラに、飛散。
520人もの命が、亡くなった。

 私も、逮捕のⅩデーが近いと、噂されていた三浦和義の住むマンション前での張り込みを中止。ともかく、上野村へと向かった。

 上の写真の川上慶子ちゃん(左側)が、翌日、奇跡的に救出され、自衛隊のヘリコプターへと運ばれたことは、御巣鷹の峰へと向かう途中で知った。
 墜落現場は、息をのむばかりの光景が、広がっていた。そこへ辿り着くまでも、大変だった。道が、無いのだ。
 油断すると、ずるっと滑って、谷底のようなところへ、転げ落ちる危険性一杯。
 墜落現場も、傾斜度が高く、人間の肉の焼け焦げた臭いが、辺り一面に漂っていた。
 写真を撮りまくり、見たままの状況をメモ。自衛隊のヘリが、舞い上がるたび、土とあらゆる小片も、舞った。
 機体の破片は、触ると、ぺらぺらと薄く、まるで厚紙のようだった。

 数日立つと、鼻も感覚も慣れ、人間の肉の破片のそばで、平気で、旅館で作ってもらった握り飯を食べ、お茶も飲めるようになってしまった。
 そいう自分に半ば、驚きつつも、数日過ぎには、藤岡市などの体育館にある遺体安置所や、他の遺族と離れて、別荘にいた故・坂本九の遺族を追ったりした。

 ぎらぎらと照りつける、真夏の太陽の皮膚感覚は、今も、残っている。

 東京に戻った私は、日航を取材。ひたすら、ボーイング社に機体の原因を押し付けるかのように逃げ回る姿には、怒りがふつふつと湧いた。

 あれから、あの現場には1度も行っていない。
 あの道なき山道は、きれいに整地され、誰でも登れるようになっているというし、碑も出来ているのは、報道で知っている。

 川上慶子のその後は、気になっていた。
 しかし、その姿を追ってまで、する気はなかった。
 あの凄惨な現場を、この目で何日も見てしまったら、彼女に何か聞くのは酷に思われた。

 情報によれば、帰郷した彼女は、島根県大社町に住む祖母のキミエさんの元に引き取られ、たまたま飛行機に乗る事無く生き残った、兄の千春さんと3人で暮らすことに。
 その後、島根県下でも名門と言われる、県立大社高校に合格。

 やがて、亡くなった母と同じく医療関係の道に進んで、他人の命を救いたいと、看護師の資格を取るべく、大阪にある看護系の、藍野学院短期大学に進む。
 平成6年4月。看護師の国家試験に合格。
 あの阪神&淡路大震災の時には、兵庫県尼崎市内の病院で、内科の看護婦として、救援活動に参加。

 やがて、アメリカへ旅行に行った際に、5歳年下の日本人サラリーマンと知り合い、帰国後平成15年3月に結婚式を挙げた。
 少なくとも、1人の男児(長男)か、それ以上を産み、今は、四国のある町で、親子して、幸せにひっそりと暮らしているという。
 看護師も、辞め、専業主婦となっていたが、今は全国的に看護師不足。
 ひょっとしたら、看護師の経験を生かして、三陸沖大津波地震の被災者支援の1員として、参加したかもしれない。

 すでに、40歳。あの時のコトは、マスコミに話すことは、おそらく一生無いであろう。

 そうして、私には、長らく気になっている人物が、もう1人いた。

 写真の、川上慶子ちゃんを救助し、ヘリコプターへと引き揚げた隊員(写真右側)だ。
 今、どうしていて、「あの時」「あの瞬間のコト」を、今、どう感じているんだろう?
 数年前、風の便りに、定年退官したらしいと、耳にした。

 現役自衛官時代ならば、「仕事でしたから」とか、「職務上、知りえた事実は・・・」とか、紋切り型で断る理由づけは出来ても、退官後ならば、少しは斬り込んでいける余地が、あるのではないか?
 そう、思った。

 なんでそう、堅い考えを、と思われる方もいるだろう。
 実は、その自衛官は、あの時のことを、そののち、一言も、誰にも語っていないというのだ。
 あの日航機墜落事件の救助ぶりを、時代を振り返ることも兼ねて、自衛隊の広報紙にまとめようとした際も、コメントを拒否。
 また、同僚や、隊の後輩にも、いまだかつて、何も話していないという。それどころか、なんと奥さんにすら、クチを閉じて、語っていないらしいと言うのだ。
 こりゃ、とんでもない壁。打ち崩すのは、骨が折れそうだ。

 探しまくって、退官後は、ある大学の警備員として働いていることが、判明。

 いざ、勝負! という気持ちで、大学の門をくぐった。
 警備室で、その人の名を告げる。
 「はい、私ですが」と、出てきたのは、良く日焼けした、精悍な顔つきの、身体のガッチリとした長身の人。まぎれもない、あの写真の人だった。
 28年前より、老けてはいたが、気さくさは微塵も感じられない。
 コトの次第を察知した、他の警備員は部屋を出ていった。
 聞きたいことを、端的に告げた。お時間をとらせないので、お仕事が終わった後、どこかでお待ちします。
 もしくは、後日、日時を決めて、ゆっくりお話しをお聞かせ願えれば・・・。

 結論をいうと、そのどちらも、かたくなに断られた。
 職務上・・・・とか、そんな理由では、なかった。

 「ここまでわざわざ遠くまで来ていただいて、申し訳ないのですが、あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」

 「何か、話せば・・・・・520人もの、お命があの場でお亡くなりになった。その方たちの霊を汚すと言うか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならんのですよ」

 いや、私も実はあの現場に行ってますので、お気持ちはわからないでもありませんが
 そう、水を向けても、何の反応もない

 「古い人間なのかも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しすることは、おそらく、無いと思います」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ではと、短く聞いた。

 その後、川上慶子さんと、お逢いになったことは?
 「いえ、1度もありません」

 年賀状程度の、やり取りは?
 「それも、ありません」

 今、彼女は結婚して、子育てしているようですが
 「そのようですね。どこかで、見聞きしたような記憶があります」

 今、何か、彼女に言うとすれば・・・・
 「まあ、幸せであってくれればいいなと・・・・・・・そう思います」

 彼は、今は仕事を終えると、子供たちに武術らしきものを教えているらしい。あの、12歳のときの川上慶子ちゃんたち世代を。
 今もっての、あの身体付きは、そういう日々があってのものか。

 それにしても、28年もの、積み重ねた日々。
 あの現場には、彼もまた、再び足を運んではいない。

 今も、あの時のことは、いまもって重く・・・・・あの夏の8・12、
そして救助した8・13・・・・・・

 ココロの奥深く、合掌を・・・・・・・・・

 旧姓・川上慶子さんに、この1文を捧げたい。

 どこかで、ふと、目にしていただいたら、望外の幸せです




1年後・・・・・・・


2014年8月12日
あの御巣鷹の峰の灼熱の夏から29年目の今日。川上慶子ちゃんを自衛隊機に乗せた男に、騙された

 人は、平気でウソをつく。
 どんな事情があったにせよ、ウソをつく。
 そんな人物を信じた自分・・・・・・

 あの、29年前の今日。群馬県と長野県の県境にある、御巣鷹の峰に、墜落した、日航機123便。
 520人もの、航空機としては、日本最大の事故死者。
 生き残った、奇跡と言って良い乗客4人。
 そのなかの1人、川上慶子ちゃん。当時12歳。

 その子を、任務とはいえ、救いあげ、自衛隊機に搬入した隊員に、話しを聞きたく、昨年6月。やっと探し当てた、彼の勤務先へと向かい、当時の感想、気持ちを聞こうとした、 そのいきさつ、一部始終を、書いたのが昨年。

 彼の言う言葉は、重かった。
 いや、今となっては、そう「誤解」した。そう言うべきが、正しい。

 取材拒否をしたのは、おそらく、私だけではあるまい。
 なにしろ、自衛隊の広報紙のインタビューすら、拒否した硬骨漢。それが、今夜、放送されたフジテレビの特番に、なんと堂々とVTR出演。

 その時のことを、しゃべっていた!
この口先三寸のうそつき裏切り者めが!という思いは、自衛隊の広報紙の人間も、第一空てい団の後輩隊員もしているはずだ。

 一体、昨年の発言は、なんだったのだろう・・・・。

「あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」
「何か話せば、・・・・・520人ものお命が、あの場でお亡くなりになった、その方たちの霊を汚すというか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならないんですよ」

 そして、こうも言った。
「古い人間かも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しするということは、おそらく無いと思います」

 たしかに「おそらく」という、言葉はあった。

 だが、しかし・・・・・
 わずか、1年での、心境の変化か・・・・

 見事に、彼の言葉を借りるならば、「520人もの霊を汚した」

 彼、作間優一(さくま・ゆういち)の言葉を信じたからこそ、昨年の記事には、彼の名前も出さずにおいた。
 あえて、その意をくみ、顔写真も撮らずに辞した。
 今、その気持ちの変化や、言い訳を聞く耳は無い。
 テレビクルーの熱意にほだされて、とも思えない。
 わずかな額の謝礼に目がくらんだとも、思いたくない。

 現在、65歳。

 となれば、東京湾に近い、工業大学校舎の警備員の定年が、65歳と聞いていたので、年金の足しにか、ヒマになってか・・・
自衛隊から、ここの警備員の職に就くルートは、出来上がっている。

 昨年聞いた、警備員仲間の言によれば、作間の妻が、長年、病に伏せっているとのこと。その容態の変化が、霊を汚すキッカケになったのであろうか・・・

 当時の上司もチラリと出ていた。
となれば、隊経由の、どうしても断り切れないVTR取材だったのであろうか?と、最後の「協力」の部分のエンドロールをつぶさに見たが、自衛隊の自の1文字も、見かけなかった。

 やはり、作間個人の自由意思でか・・・

 人は、平気でウソをつく。
 人は、平気で520人もの死者の霊を、おのれの理屈で汚す。

 今、自分の甘さを悔いるとともに、そのことを痛感している。

 改めて、29年も前。あの猛暑の御巣鷹の峰で命を絶えた方々に、謹んで、心より、祈りを捧げたい






by yumimi61 | 2019-06-25 16:21

事件簿

ロス疑惑 ー共謀者(実行犯)ー

ロス疑惑事件
1981年8月31日、輸入雑貨商を営む三浦和義が妻Aとロサンゼルス旅行中、Aが宿泊していたリトル東京のホテルニューオータニの部屋で一人になったとき、「アジア系」の女性が上がり込んできて、Aの頭部を鈍器で殴打、Aは軽症を負う(殴打事件)。

同年11月18日午前11時5分頃、三浦夫妻は、当時滞在していたロサンゼルス市内の駐車場で銃撃事件に遭遇した。2人組の男に銃撃され、Aは頭を撃たれて意識不明の重体。夫の三浦も足を撃たれ負傷した(銃撃事件)。

1982年1月、当時「悲劇の夫」としてマスメディアにたびたび登場していた三浦は、米軍の協力を取り付け、Aを日本の病院に移送する際に、Aを乗せた上空の米軍ヘリコプターに対して地上から発炎筒で誘導する場面が印象的に報道されていた。Aはその後日本に移送され、神奈川県伊勢原市にある東海大病院に入院したが、意識が戻ることはなく11月30日に死亡した。三浦は、保険会社3社から計1億5500万円の保険金を受け取った。


事件が2度続いたことなど幾つかの不審点、また奥さんに保険金が掛けられていて、それを夫である受取人の三浦和義が受けとったことから、保険金目当ての殺人ではないかと疑惑の目が向けられた。この疑惑を最初に掲載したのは週刊文春だった。

1985年、三浦の愛人である日本人の元ポルノ女優Bが、1981年8月のA傷害事件における犯行を産経新聞上で匿名で告白。夕刊紙がBの実名を暴露して、その後は実名報道となる。 
同年9月11日に、警視庁は三浦をA殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕。同12日はBも同容疑で逮捕した。殴打事件では、Bに懲役2年6ヶ月、三浦には懲役6年が確定した。
 

つまり殴打事件は三浦が元ポルノ女優の愛人と共謀して起こした事件であるという事実がある。これは本人も認めていたことになる。三浦はこの事件において宮城刑務所に収監され2年2ヶ月の間服役している。

争っていたのは銃撃事件の方であった。従って三浦は刑務所での服役よりも遥かに長い期間、拘置所で勾留されていた。
殴打事件のほうは実行犯(共謀者)が名乗り出たことで認めざるを得なくなって刑を受け入れたわけだが、銃撃事件のほうは実行犯(共謀者)が見つからなかったのである(共謀者として別件逮捕した人物は無罪となった)。
結局このことが控訴審で無罪判決へと導くのである。
一審では状況証拠のみで三浦に無期懲役の判決が出たが、三浦は控訴し無罪を勝ち取ったというわけ。検察側も控訴したが2003年3月に最終的に無罪が確定した。


トリカブト保険金殺人事件

1ヶ月くらい前だったろうか、そろそろ衣替えの季節だなぁと思い、実家で母の衣服類を見ていた。
その時に偶然、色褪せた新聞の切り抜きを見つけた。
それはトリカブト保険金殺人事件の記事だった。
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トリカブト保険金殺人事件
1986年(昭和61年)5月20日に発生した保険金殺人事件。
1986年(昭和61年)5月19日、神谷と妻は、沖縄旅行のために沖縄県那覇市に到着した。翌20日、2人に誘われた妻のホステス時代の友人3人も、那覇空港で2人に合流した。
11時40分、神谷は「急用を思い出した」と大阪の自宅へ帰宅することになり、那覇空港に残った。妻と友人3人は、予定通り石垣空港行の飛行機に乗り、正午過ぎに石垣島へ到着した。石垣島に到着した一行はホテルに到着し、チェックインをしたが、すぐに突然妻が大量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみだしたため、救急車で八重山病院へ搬送された。だが、妻の容体は急速に悪化して救急車内で心肺停止に陥り、直後に病院に到着するも、一度も正常な拍動に戻らず15時4分に死亡した。


当初は死因が良く分からなかった。(但し行政解剖した医師が不審さを感じて心臓と血液を保管していたとのこと)
しかし亡くなった妻に多額の保険金が掛けられていたことが発覚し、妻の友人やマスコミ中心に保険金目当ての殺人が疑われるようになる。
犯人である神谷は3人目の妻に複数の生命保険を掛けていた。
4社で5つの保険で、死亡時の受け取り総額は1億8,500万円。
これらの生命保険の掛金は月々18万円にもなる。しかし保険に加入したのは妻が亡くなる20日前のことであり、掛金を1度しか支払っていない状態で亡くなった。
さらに前の2人の妻も若くして亡くなっていたことが分かった。

神谷はこの保険金の支払いを巡って保険会社を相手に民事訴訟を起こしている。
保険会社は「告知義務違反」を理由に保険金の支払いを保留したからである。
一審では神谷が勝訴。
二審で行政解剖をした医師が死因は毒物の可能性があると証言し、神谷は訴えを取り下げた。しかし保険金殺人容疑ですぐに逮捕されたわけではない。

警察が逮捕に踏みきったのは、1991年6月のことで、3人目の妻が亡くなってからすでに5年も経過していた。
しかも逮捕容疑は保険金殺人ではなく勤務先の会社での横領だった。
その捜査の過程で保険金殺人も濃厚となったということで、7月に再逮捕に至った。

デイリー新潮
報道が警察を動かした 「トリカブト殺人事件」犯人の饒舌(週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載)
より
 それは一本の電話から始まった。

「友人が石垣島に旅行中に“心臓発作”で急死したが、死に方が変なんです。亭主に変なカプセルを飲まされていた」――。電話の主は池袋の高級クラブのホステスで、「変死」した神谷利佐子さん(当時33歳)の友人だった。池袋警察署にも連絡したが、まともに取り合ってくれないという。電話を受けた写真週刊誌「FOCUS」(休刊)編集部の記者は半信半疑ながら、利佐子さんの葬儀にカメラマンを派遣した。週刊誌の報道が警察を動かした「トリカブト殺人事件」の深層とは。

(略)
わずか5年で30代の若い女性が原因不明の心臓発作で次々と亡くなっていたのである。神谷が大量のカプセル剤を購入していたという衝撃の情報も入手した。
(略)
この取材結果を受け「FOCUS」は、3回にわたり、神谷の疑惑をめぐる調査報道記事を発信した。報道を受け、警視庁も捜査を開始。しかもこの時、沖縄の地で神谷の運命を決定付ける、重大な動きがあった。利佐子さんの解剖を担当した当時の琉球大学助教授・大野曜吉医師(現・日本医科大学大学院医学研究科教授)が死因に不審を抱き、心臓や血液を保存していたのである。大野医師が明かす。

「解剖を進めると、心臓も健全で出血もない。手伝ってくれた警官たちも疑問を感じたのか、妙にシーンとした雰囲気でした。非常に気になったので、試験管2本分30ccの血液を採取し、保存しました。八重山署解剖棟の外のガレージで待っていた神谷に死因を説明したのですが、心臓の刺激伝導系という極めて専門的な用語について、“それは知っています”と言ったので驚きました。また、“覚醒剤は出ましたか?”と訊く。“昨日は取り乱したけれども、今日は心の整理がつきました”と言う神谷が“臓器は戻していただけましたか?”と尋ねてきました。彼の多弁が強く印象に残りました」

 大野医師は、強心剤などの数種の薬物について独自に検査をするが、いずれも結果はシロ。そこで東北大学の恩師・鈴木康男教授に相談した。すると、示唆を受けたのが、自然界に自生する多年草の植物だった。トリカブトの毒である。

報道が警察を動かしたのか?
保険金を払いたくない保険会社が結果的に警察を動かすことになったのか?
さてはて。


神谷力
1939年(昭和14年)宮城県仙台市生まれ。
父親は東北大学工学部教授だったそうだが、戦後に教授職を辞して、共産党活動に身を投じるようになった。
力が9歳の時(1948年)、その父親が政治犯として拘束される。

確かに戦後はレッドパージ(赤狩り)が行われていた。
占領軍は「日本の民主化・非軍事化」を進めていくはずだったが、反共産主義に傾いたアメリカの意向で日本は逆コースを行くことになり、中央集権的な政策が採られた。(日本など枢軸国はもともと反共産主義だった)
つまり「敗戦して民主化」という世界の定番路線を歩まなかったのが日本という国である。
アメリカが反共産主義に大きく傾くきっかけはおそらく戦争末期のソ連との関係(原爆も関係する)にあると思う。

神谷力の母親は夫の失職や拘束で貧しく不安な生活を余儀なくされ、働きながら子供を育てていた。
そんな時に出会った男性と関係を持ち家を出るも、相手の男性は本気ではなく単なる遊びだったという。
母親は多量の睡眠薬(?)を服用し自殺。

神谷力が最初に結婚したのは1964年。25歳の時。
父親も兄も共産党員だったが、自身も共産党員として東京の北部地域で活動を行っていたという。
妻は埼玉県の共産党系の病院に看護師として勤務していたそうで、説得して入党させ、党活動の中で関係を深め結婚したという。
その妻とは東京都足立区で暮らした。
結婚8年目(1972年、神谷が33歳の時)になつ江(当時25歳)という経理の仕事をしていた女性と自宅で肉体関係を持ち不倫関係になる。
不倫関係になってから2年目頃、なつ江の親族が神谷の家を訪ねてきたことから、奥さんにもばれてしまう。
なつ江は故郷に連れ戻され、そこで2年を過ごすものの、再び東京に出て神谷と再会し、不倫関係となる。
この「故郷に一旦連れ戻されたなつ江」の故郷が群馬県沼田市なのである。
2人の不倫関係は1981年7月に最初の妻が38歳で心筋梗塞で亡くなるまで続いた。(1人目の妻に保険金は掛けられていなかった)

1982年10月になつ江と結婚。なつ江には1,000万円の保険金が掛けられた。池袋に暮らしていた。
1985年9月、神谷となつ江は2人でなつ江の実家に帰省していた。
結婚前後からなつ江は体調不良を訴え薬を服用していたというが、帰省中に突然倒れ、市内の病院に運ばれるも亡くなった。38歳、急性心不全だった。
保険金は神谷が受け取った。
亡くなった当時から関係者は急死に疑問を抱いていたという。

2人目の妻が死んだ後、神谷は大阪に転居することにし、1985年11月に大阪の寝屋川市に住まいを借りた。
転居の直前に出会ったという3番目の妻(池袋でホステスをしていた)もホステスを辞めて一緒に大阪に行くことになり、大阪市にも住居を借りた。
2人は1986年2月に結婚。
その妻に生命保険を掛けたのは、沖縄旅行に行く前の月の1986年4月のことだったという。
妻が沖縄で亡くなった後には再び東京に戻り、葛飾区新小岩で暮らした。
しかしほどなくして保険金殺人が取り沙汰されるようになり、一時期横浜の実家に身を寄せていたという。
その後、足立区に引っ越して、住居近くの会社に就職し、経理部長となる。
3人の妻が死ぬ前に勤めていた会社でも横領をしていたが、妻亡き後のこの会社でも横領をしていた。
この横領については本人も認めていた。億単位の横領について本人は、ある事情があって不正行為は表沙汰にならないだろうという確信めいたものがあったそうだ。
それでも世間で騒がれるようになってからは身辺整理を進め、1990年3月に退職。
同年12月には北海道札幌市北区に移り住んだ。
1991年6月、警視庁南千住署が(足立区近隣、荒川区?の)会社での横領容疑で逮捕したが、神谷の逮捕時の住所は北海道だった。

結局立件できたのは3人目の妻の死亡だけだった。
3人目の妻に対する保険金目当ての殺人に対して一審二審ともに無期懲役の判決を出す。神谷は保険金殺人については一貫して認めておらず、最高裁に上告したが棄却されて2000年に無期懲役が確定。
2012年に医療刑務所で73歳で病死したという。

神谷によれば、次々と女性と関係を持ち結婚したのは実子欲しさからだったという。
最初の結婚の時には子供がなかなか出来なかったので夫婦で不妊検査も受けたらしい。(妻に不妊原因があるらしいという結果)
真偽のほどは分からぬが、度重なる結婚と妻の死の後に、子供を欲しがる気持ちがいけないのだと思い、パイプカットしたと本人は語っていた。


ピルとタバコと3人目の妻

3人目の妻となった女性は、長期間(神谷と出会う以前から)避妊のためにピルを服用していたそうだ。
神谷は子供が欲しかったのでピルの服用をやめるようにお願いし、そうしてくれたものだと思っていたが、沖縄の警察で妻がピルを所持していたことを聞かされたという。

この3人目の妻の親戚に医師がいて、法事で集まった際に、タバコとピルと心筋梗塞との因果関係について話題にしたらしい。
それは「30代女性の心筋梗塞になる率は、ヘビースモーカーがピルを常用していると通常の7倍になるという統計がある」という話だったという。
3人目の妻はヘビースモーカーだったらしい。
親戚の医師はピルを常用していたことでの突然死だと思ったのか、それともピルを常用させて死ぬことを狙ったのではないかと遠回しに言いたかったのか、話の意図は分からない。

ピルを常用することによる発がん性が問題視されることがあるが、その他にもピルには副作用がある。
飲み始めなどに頭痛・吐き気・倦怠感・不正性器出血など。ホルモン量の多いピルでは血栓症や心筋梗塞などの重大な副作用がある。低用量ピルでも血栓症が問題視されている。
そしてその医師が語ったように喫煙とピルの組み合わせは通常よりも死亡率が高くなる。

10万人の女性が1年間に死亡するリスクは、低用量ピルを服用している非喫煙者を1とすると、喫煙者は167まで上昇すると言われています。

喫煙を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら禁煙することが望ましい。


日本でピルを入手するには、医師の診察を受け、処方箋をもらう必要がある(処方箋医薬品)。
そして処方してはいけない人(疾患・症状・状態)が定められており(禁忌)、その中の1つに「35歳以上で1日15本以上のタバコを喫煙する人」というのがある。
1人目と2人目の妻が亡くなったのは38歳。38歳でヘビースモーカーならばピルは処方されない。しかし2人はそもそも喫煙者ではなかったという。
3人目の妻は33歳のヘビースモーカー。年齢的にタバコによるピル禁忌から外れる。
35歳以下の喫煙者の場合は慎重な投与ということになっているが、禁忌ではないだけに弱い。彼女はピルを常用していたという。

しかし彼女が亡くなったのは1986年のこと。
日本で避妊用の低用量ピルが解禁されたのは1999年である。
それ以前は、緊急避妊用や治療、また何らかの理由で月経(生理)の日にちをコントロールするために中用量ピルが用いられていた。
避妊薬として常用するようなピルはまだ日本では認められていなかった。

日本では、以前から治療目的の、ホルモン量が低用量ピルの10倍程度の中用量ピルが認可されていたが、1999年(平成11年)になって、ようやく避妊目的の低用量ピル(oral contraceptive (OC))が認可され、2008年(平成20年)に月経困難症の治療薬として認可された。避妊用としては、低用量ピルが主流になっている。黄体ホルモンのみを含むピルは「ミニピル(en)」と呼ばれ、授乳中など卵胞ホルモンが禁忌である場合に処方されるが、日本では未認可である。

従って避妊用に常用していたとするならば、輸入や旅行時など外国から入手したか、何らかの方法で個人的に不正入手したか、医師ぐるみで不正処方されていたか、いずれかということになる。

死因がトリカブトであってもなくても、1986年の段階でピルを常用していたというのが本当ならば、突然死あるいは病死する可能性が一般の人よりも高かったということが言えてしまう。





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by yumimi61 | 2019-06-24 13:41

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水の江瀧子を起用した日産のダットサン広告
<原典>1937年1月1日発行『タアキイ』1937年1月号

※ダットサン(Datsun)はもともと会社名であったが、1934年に日産のブランド名となった。
1931年(昭和6年)に鮎川義介が設立していた戸畑鋳物と合併し、1934年(昭和9年)に社名を日産自動車へ変更、ダットの名は消滅し、ダットサンがブランド名として残された。
鮎川義介は山口県出身。


水の江瀧子と三浦和義の関係

先日の投稿『歌劇』に転載した水の江瀧子に関する文に次のような記述があった。
1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退した。

ロス疑惑の三浦和義が水の江瀧子の実兄の子供であり甥っ子なのだとか。
しかし一部には三浦和義(1947年生まれ)は水の江瀧子(1915年生まれ)の実子で、三浦和義の実父にあたる人物は松竹創業者の次男(1919年生まれで1971年に松竹社長になるも1984年に自宅放火事件を起こす)だったという噂もあったらしい。
これについては当時水の江さんが否定したとも言われているが、女性進出が遅れていると言われている現代より遥かに女性の地位が低かった時代に、興行というある意味男社会との関わりが深い世界で、女性が劇団を主宰したり、女性初の映画プロデューサーになったということは、有力男性の強い後ろ盾があってこそと思われてしまうのは致し方ない面もある。


日産との関係やいかに

「ルノー・日産・三菱アライアンス」の社長兼最高経営責任者(CEO)で、日産の代表取締役会長だったカルロス・ゴーン氏が昨年11月に金融商品取引法違反容疑で逮捕され、その後会社法違反(特別背任)の罪などで起訴されたわけだが、2019年2月になってゴーン氏の弁護人が交代した。
 元東京地検特捜部長の大鶴基成弁護士→弘中惇一郎弁護士
弘中弁護士は三浦和義の弁護士でもあった。

弘中惇一郎弁護士
山口県生まれ。その後、東京代々木へ転居。幼稚園と小学校は成城学園。小学校6年の夏に父親の転勤で広島市東区牛田に移り住む。修道中学校・修道高等学校を経て、1968年東京大学法学部卒業。司法修習22期(同期に木村晋介や筒井信隆)を経て1970年弁護士登録。

クロロキン、クロラムフェニコール、日化工クロム職業病裁判(六価クロム)など多くの薬害事件を担当したほか、マクリーン事件などを担当。ロス疑惑の銃撃事件で三浦和義の無罪、薬害エイズ事件における安部英の一審無罪、障害者郵便制度悪用事件で村木厚子の無罪を勝ち取り、逆に大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件を見抜く。

小沢一郎の顧問弁護士を務めており、無罪を勝ち取り、「無罪請負人」の異名も持つ。芸能人など著名人の弁護人としてメディアに登場することも多い。
弁護人・代理人を務めた人物
安部英 加勢大周 加藤紘一 花田勝 叶姉妹 三浦和義 守屋武昌 小沢一郎 川崎麻世 村上正邦 村木厚子 佐村河内守 中森明菜 中西準子 天羽優子 武井保雄 堀江貴文 麻木久仁子 野村沙知代 矢野絢也 鈴木宗男 東国原英夫 長嶋一茂 木村剛 鳥越俊太郎 高畑裕太 カルロス・ゴーン



三浦和義の生い立ちと出版社と市川市

三浦和義
父は建築会社に勤める土木技師、母は料亭の娘。母の疎開先の山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市)で生まれ、幼い時期を北海道で過ごしたのち千葉県市川市で育つ。

小学生当時、映画プロデューサーだった叔母の水の江瀧子の家へ遊びに行くと俳優たちから多額のお年玉をもらい、その額が30万~40万円に達していたという。このことについて三浦自身は「嬉しかったけど、大人を見くびることにはなったよね。どうしても歪むだろうね」と語っている。

瀧子から俳優になることを勧められ、瀧子のプロデュースする映画で石原裕次郎の少年時代を演じる子役として出演したことがある。
子役時代、撮影所のスチール担当者から「水の江さんの子供なんだから、やっぱり大きくなったら役者になるんだろう」と話しかけられたことがあり、三浦自身もこの実子説を信じていた時期があったが、1985年には「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定するようになった。その他、岸信介の子という説が取り沙汰されたこともある。
日立市へロケに行ったとき、芸能界の嫌らしさに愛想が尽きて勝手に帰宅、そのまま芸能界から引退した。

神奈川県大和市立渋谷中学校在学中、複数回の家出を経験。教師と喧嘩して窓から飛び出し、そのまま家から数十万円を持ち出して大阪に行ったこともある。このころ、精神病院に入れられたこともあるという。
ミッキー安川の『ふうらい坊留学記』に影響されて海外に出ることを志し、中学卒業後は技術を身につけるために陸上自衛隊少年工科学校を受験するも失敗し、整備工となる。
やがて学歴の必要性を感じ、横浜市立戸塚高等学校に進学。同校では生徒会長でありながら副会長の女子生徒と共に授業をサボタージュして箱根で一泊し停学処分を受けた他、強盗傷害やオートバイ泥棒や日本刀不法所持で逮捕されるなどの問題行動を起こしていたという。1966年、放火などの容疑で逮捕され水戸少年刑務所で7年間服役した。この間、横浜少年鑑別所からの脱走歴があるが、その動機は「アニマルズの公演のチケットを買っていたから」というものだった。


「ロス疑惑」の舞台となるアメリカ・ロサンゼルスとの関わりはこの後のこと。
時期的に間に入っているのが出版社(編集部)である。

出所後はビニ本の制作や自販機本『土曜漫画』編集部に入り、高井研一郎やはらたいらといった漫画家の原稿を取りに行き、家に泊まりこんでいたこともある。
1974年には『週刊漫画』編集部に入り、主に雑用係を務めていた。その後、ロサンゼルスの先鋭的カルチャー誌『WET』の日本駐在員を経て、1976年に、雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立した。


ロス疑惑と呼ばれる銃殺・傷害事件が1981~1982年に発生。

1984年に『週刊文春』をはじめとするマスコミにより『保険金目当ての殺人であり、その黒幕である』との報道がなされ(いわゆる「ロス疑惑」)、また三浦自身もテレビなどのメディアに積極的に露出し(逮捕時はテレビ朝日の「独占密着取材」中であった)、ミッキー安川やジミー佐古田などと丁々発止のやりとりを行うなど、その特異なキャラクターが視聴者(読者)の興味を引いたことも相まって、ワイドショーや雑誌、全国紙など日本中のマスコミによる過熱報道が行われた。

この騒動の最中に、 写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)が三浦和義のスワッピング・パーティでの全裸写真を無修正で掲載したが、この写真を撮ったカメラマンは、1992年3月に千葉県市川市で起こった市川一家4人殺人事件(少年犯罪)の被害者一家となり、カメラマンも殺害された。
一部にはこれは偶然ではないのではないかという疑惑の目もあった。

「ロス疑惑」の三浦和義は、日本で行われた裁判で2003年、無期懲役から一転して無罪が確定した。しかし、その後の2008年に米国領土内において、一事不再理の原則に反しているとの主張もむなしく、共謀罪容疑で米国捜査当局に逮捕され、ロサンゼルスに移送後ロサンゼルス市警の留置施設にてシャツを用い、首をつって自殺し遺体で発見された。


三浦和義の死を気にしていた?飯島愛

飯島愛(1972年10月31日 - 2008年12月17日〈死亡推定日〉)
日本の元AV女優、タレントである。
株式会社Thesis元代表取締役。東京都江東区出身。瀧野川女子学園高等学校中退。元ワタナベエンターテインメント所属。

東京都江東区の亀戸で生まれ育つ。
中学在学中から不良仲間と毎晩ディスコ等で夜遊びに耽るようになり、遊ぶお金の為に万引きやカツアゲを繰り返す生活をしていた。高校には入学したものの全く通学しておらず、すぐに中退する。中学卒業前後には既に家出同然の状態であり、家出後の彼氏との短い同棲生活等を経て、六本木でホステスとして働いていたところをスカウトされ、1992年にAV女優となる。

AVデビュー後、『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタッフととんねるずの木梨憲武が彼女のファンであったことから、同番組にハプニングゲストとして出演したことがテレビ番組初出演となった。1992年2月から深夜番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)にレギュラー出演し、スカートをめくりTバックを見せるのが話題となって「Tバックの女王」と呼ばれた。

1994年頃、AV女優を引退。テレビ番組への出演等によってタレントとしての知名度を得たことで、引退後は完全にタレント業へと転身を果たした。

2007年3月3日、「飯島が3月末で芸能界を引退する」という報道が流れ、飯島の所属事務所もこの内容をFAX回答で認めた。飯島は同4日に生出演した『サンデージャポン』でこの件について「いつかは引退する」と発言するも時期については明言しなかった。しかし翌週(3月11日)の放送で飯島は3月末をもって引退することを自ら発表した。

2008年12月24日、東京都渋谷区桜丘町の渋谷インフォスタワーの自室で亡くなっているのが親戚の女性によって発見された。その後、警察などの捜査によって、発見時現在で死後1週間ほど経過していたことが判明した。



カミカゼニュース 2008年12月25日 飯島愛さん死亡 三浦元社長の自殺気にしていたより
一体、なぜ? 突然の訃報に、芸能界に衝撃が走った。
 愛さんのAVデビュー時からの付き合いで、TBS系「サンデー・ジャポン」でも共演した出版プロデューサーの高須基仁氏(59)は「(ロス疑惑の)三浦和義の死よりもショックだ」と語った。

 引退後も月1回は電話する間柄。三浦氏が自殺した翌日の今年10月12日、愛さんから「死んだのね。自殺?」と電話が入った。高須氏が「自殺と思う。でも死ぬようなタマじゃない」と伝えると「そうね」と返ってきたという。さらに高須氏が「お前は殺しても死なないよな、じゃな」と言って切ったのが最後の会話となった。


前出の高須基仁氏によれば、彼女は常に4つのストレスを抱えていたそうだ。

2009年3月4日『恐喝されていた!飯島愛、謎の死の裏側にあった4つの悩み』より
彼女の突然の死はさまざまな憶測をよんでいるが、彼女の抱えていた悩みが4つあったという。
(以下引用)
飯島さんと親しかった出版プロデューサーの高須基仁氏はこう語る。
「彼女は常に4つのストレスを抱えていた。過去のAV出演歴。1988年に東京都足立区で発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件との関係。体調不良。その体調不良の原因ともなった、小説『プラトニック・セックス』の担当編集者との失恋だ。
最後に話したのは10月12日、彼女から電話があった。三浦和義の死についてどう思うと聞かれたので、彼は自殺するようなタマじゃないし、殺したって死なないようなヤツだよと答えた。それが最後だった」(中略)
(引用「内外タイムズ」より)

飯島愛さんの死についてデヴィ夫人がブログで語っていますが、芸能界引退の理由について「彼女はとんでもないことをしていた、とかヤバい人と関係があった」みたいなことを暴露しているんですが、それって飯島さんが1989年の女子高生コンクリート詰め殺人事件と関与してるという噂と関係が?
飯島さんの暴露本をだした銀座ホステス時代の親友がそう言っているようで、今も関係者に脅されてるって話しです。

そしてその事件の主犯核と再犯で逮捕された準主犯核は2008年の後半に出所予定らしいですが、もう出所しているんですかね?



裏街道と表舞台と曝露合戦

次の文は三浦和義が無期懲役から一転無罪放免(2003年)となるも2008年にアメリカで逮捕されるまでの時期のもの。
格闘技目線で書かれているが、格闘技とどんな関係が?と思ったら、高須基仁氏の息子さんが編集者・格闘技ライターらしい。

サンジャポファミリー、三浦和義と高須基仁の如何わしさと・・メディアの危うさを考えて見る(2007年4月7日)
万引き逮捕映像で、今・・・再び時の人となっているロス疑惑の三浦和義氏なんだけど・・昼ご飯を食べながらワンセグを見てたら、格闘技ファンにも・・悪い意味でおなじみの高須基仁氏がコメントをしてたよね。
・・私は一瞬・・この二人はサンジャポファミリーじゃないか!と思ってしまったんだけど・・
ある意味で、サンデージャポンの抱える危うさを露呈する形になったようだ。

しかも、悪い事の連鎖か?そのサンデージャポン自体が路上インタビューの仕込みでのヤラセを批判されており
・ ・下手したら・・・「あるある」の余波を食らって番組終了って事にもなりかねない所だろう。

で・・万引きで逮捕された三浦和義の件でコメントしていた高須基仁氏こそ!・・・今や、格闘技ファンから総スカンを食らっている暴露系格闘技マスコミ?の急先鋒(不名誉なレッテルだと本人は思っていないだろうが)・・・・高須甚一郎氏の父親だって事だが(苦笑)

私はサンデージャポンを見るたびに、こういうアングラな裏街道を歩いているような人を表舞台に引っ張り出してチヤホヤし・・アウトロー的な生き方にメディアとしての免罪符を与えるのは非常に良くないと思っていたんだけど・ ・・実際に・・今回の事件は、そういう人達の裏の顔をメディアにさらす事になってしまったようだね・・・。

要するに・・・こういう人達を無責任にフューチャーしたメディアの側にも責任があるし・・そういう生き方を世間一般的に許されるんだと勘違いさせた事に関しても・・非常に罪深い事のように思っているよ。

結果として・・息子である、高須甚一郎氏のようなスキャンダルやタブーを食い物にして、飯を食うような生き方は・・父親から受け継いだ価値感だろうし・・
それをメディアはもてはやし免罪符を与えるのを、高須甚一郎氏は肌で感じ・・実体験として見てきているから・・実際問題として・・現状の格闘技界にとって暴露系格闘技マスコミと言われるような悪しき慣習が定着し、はびころうとしているのだと思う。









by yumimi61 | 2019-06-21 14:55

6月18日

今日は自粛。

昨日の夜に発生した地震。新潟や山形で震度6だったようですが、関東にお住まいの皆さんは地震に気が付きましたか? 

私は気が付きました。揺れで。
テレビは付けていなかったのでテレビの緊急地震速報は見聞きしていません。
最初は本当に一瞬、ミシッと家がきしみました。
地震か気のせいか、それとも外で何かあったのかと迷うくらいな感じで。
でも近所の外飼いの犬が鳴いたので、あっやっぱり地震かもしれないと思いました。
すると再び少し揺れたのです。
揺れが大きくなることも考えて、部屋のドアを一応開けに行きましたが、結局揺れた時間は短時間であり、それ以上大きくなることもありませんでした。
この時点で私はすぐにテレビを付けたと思うのですが、テレビを付ける前だったか、テレビが映るまでの間か、どの時点かはっきりとは覚えていないのですが、スマホで揺れ(地震)があったかどうかを調べていて、揺れが局所的なものではなさそうということを確かめています。
(最初にミシッと揺れた際に、私はスマホで読み物を読んでいたので、たまたまたスマホを手に持っていた)

テレビが付いた時(私が見た時)、民放はまだどこも通常の番組を放送していました。
NHKに合わせるとすでに地震速報に切り替わっていて全面に津波注意報が出ていてアナウンスされていました。

奇しくも1年前の大阪の地震発生日と同じ6月18日でした。


6月18日は、後にリクルート事件と呼ばれることになる一件を朝日新聞がスクープした日でもある。

1988年6月18日、朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』をスクープ報道し、その後、リクルートにより関連会社リクルート・コスモス(現 コスモスイニシア)社未公開株が、中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄など大物政治家に、店頭公開前に譲渡していたことが相次いで発覚する。


新刊JP リクルート事件の「真実」(2009年)より
1988年6月18日 小松秀煕(ひでき)川崎市助役へコスモス未公開株(以下、コスモス株)譲渡の報道がスクープされる
★川崎市の企業誘致責任者だった小松秀煕助役がリクルート関連会社の未公開株を手に入れ、株価が急上昇した公開直後に売却、多額の利益を得たと報道。これに対し、小松助役は違法なことは一切ないとコメント。しかし、報道が「政治家が株に絡み多額の資金を得る」という論点にフォーカスされたことで国民の間には驚きと波紋が広がることになる。
★6月20日 小松秀煕、川崎市助役解職。



Electronic Journal 2010年4月27日(posted by 平野浩) 

●「リクルート事件の発端は川崎市」(EJ第2803号)

 「リクルート事件」という言葉を聞いて、それがとのような事件であったか説明できるでしょうか。
 リクルート社の創業者である江副浩正氏が、系列のリクルート・コスモス社の未公開株を政財界の要人多数に賄賂目的で幅広く譲渡し、それが発覚して多くの関係者が事情聴取されたり、逮捕・起訴され、竹下首相退陣の原因のひとつにもなった戦後最大級の構造汚職疑惑である──詳しい人でもせいぜいこの程度の記憶ではないかと思われます。
 ところで、公開前の株式譲渡というのは違法なのでしょうか。
 はっきりしていることは、公開前の株式譲渡自体は違法ではないということです。これは業界の慣行であり、多くの企業が行っていることであったからです。
 ただし、江副氏の場合、その譲渡先が政治家や官僚、財界人などの多岐・多数にわたっており、賄賂性があるのではないかと疑われたのです。しかし、未公開株の賄賂性を問うのは、極めて困難であり、普通なら検察は動かないものなのです。
 1988年6月18日付の朝日新聞の朝刊、社会面のトップに次の見出しの記事が報道されたのです。のちに、「リクルート事件」として大騒ぎになる最初のニュースであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  『リクルート』川崎市誘致時 助役が関連株取得
        ──1988年6月18日付の朝日新聞
―――――――――――――――――――――――――――――

 JR川崎駅西口前にかわさきテクノピア地区と呼ばれる再開発地域があります。リクルートは、川崎市から誘致を受けてその地区にインテリジェントビルを建てたのです。記事の内容は、その誘致をした川崎市の小松秀煕助役に対し、リクルートの関連会社リクルートコスモスの未公開株が店頭登録前の1984年12月に譲渡されていたというものであったのです。

 朝日新聞の記事には間違いはなく、確かにリクルート側は、小松助役に対してリクルートコスモスの未公開株3000株が譲渡されていたのです。このコスモス株はその後株式分割され、同助役の保有株は3万株になったのです。小松助役は、この株を1986年10月にリクルートコスモスの株が店頭公開されたときに売却し、約1億2000万円の利益を得ているのです。
 本来未公開株は公開時には値上がりするものであり、まして業績好調のリクルートの関連会社であるリクルートコスモスの未公開株であれば、値上がりは確実なのです。しかし、前述したように、未公開株の譲渡は慣行として行われており、それ自体には違法性はなく、まして賄賂性は考えられなかったのです。

 問題はリクルート側が川崎への進出に当たって、川崎市に対し何かを依頼することがあったかどうかです。これに対して江副氏は、はっきりと「ない」といっているのです。
 ただひとつ疑点があります。リクルートがかわさきテクノピア地区への進出を決めたのは1985年4月のことなのですが、そのときは建物の容積率が300%しかなく、ビルを建てても採算に合わなかったということです。
 しかし、リクルートが契約を結んだ1ヶ月後に、川崎市はこの地区を「特定街区」に決めているのです。特定街区になると、容積率は700%になり、リクルートは20階建てのビルを建てることができたのです。それに小松助役は、企画調整局長としてテクノピア地区の開発を担当していたのです。

 朝日新聞の記事には、リクルート側が小松助役に特定街区の指定を依頼し、その見返りとして値上がり確実な未公開株を割り当てたのではないかと書かれていたのです。これなら賄賂の可能性が出てくるのです。しかし、川崎市としては、企業をテクノピア地区へ誘致するさい、それを特定街区にすることは企業側に話しそれを前提として営業しているはずです。それにその便宜を受けるのはリクルートだけではないのです。

 さらにリクルート側は、小松助役に対し、コスモスの未公開株をファーストファイナンスというリクルートグループの金融会社の融資まで付けて譲渡しているのです。これなら、手持ち資金がなくても未公開株の譲渡を受けられるのです。

 しかし、世の中というものは、濡れ手で粟を掴むような大儲けをした人には厳しいものです。「うまくやりやがったな」と思われてしまうからです。結局、小松助役は解職になったのですが、検察は動かなかったのです。どうしてかというと、譲渡されたのが未公開株で、賄賂性の立証が困難であったからです。

 この件について、田原総一朗氏は、自著『正義の罠』(小学館刊)で次のように書いています。

 朝日新聞の横浜支局が川崎市助役とリクルートとの関係についてのスクープを得た舞台裏について、こう説明している。「朝日新聞の横浜支局が、神奈川県警の捜査二課が川崎市役所の小松助役のサンズイ(汚職)を追及していて、捜査の進展が早そうだ、という確かな情報を掴んだのは、88年4月上旬であった。ただし、二課の動きを察知したのは、朝日新聞だけではなかった。捜査二課に張り付いていれば、掴める動きであった。
 贈賄側がリクルートコスモスだという事実も掴んだ。小松助役の逮捕近し、との感触も県警筋から得ていた。ところが、5月中旬に神奈川県警は捜査を断念した。贈賄側(リクルート)の時効である三年を超えていたことと、譲渡されたのが未公開株で、賄賂性の立証が困難だと判断したのであった。各社は県警の断念で取材を打ち切った。事件にならない素材を追及しても意味がないと考えたのである。だが、朝日新聞の横浜支局だけは、逆に取材体制を強化した。実をいえば、横浜支局でも取材を打ち切ろうという意見が強かったのであるが、デスクの山本博が「取材を続行すべき」だと強硬に主張したのである。
──田原総一朗著、『正義の罠』(小学館刊)     
[ジャーナリズム論/07]





by yumimi61 | 2019-06-19 23:59

歌劇

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焼け跡と踊り子 浅草 昭和24年ー「戦災で焼け野原になった浅草に、娯楽を求めて人びとは集まった。国際劇場の松竹少女歌劇団はSKDの名で知られ、川路龍子小月冴子などの人気スターに憧れる少女たちが入団してきた」。 田沼武能


西の宝塚歌劇団に対して、東の松竹歌劇団。
宝塚歌劇団は阪急電鉄が創設し、兵庫の宝塚を本拠地としている。
松竹歌劇団は松竹が創設し、東京の浅草を本拠としていた。
松竹という会社はもともとは演劇などの興業を手掛けており、京都や大阪など西発であり、松竹歌劇団のもとになる松竹楽劇部も1921年に大阪に創設された。
その後1928年に東京にも創設され、これが合わさる形で「松竹少女歌劇団」となり、1937年に東京浅草に国際劇場を設立して本拠とし、1945年に「松竹歌劇団」となった。


水の江瀧子さんという方を御存知だろうか。
この方が東京松竹楽劇部の1期生であり大スターとなり、その後、日本映画界初の女性プロデューサーとなったそうだが、私はショートカットの審査員のおばさんという印象しかない(子供の時の無邪気な印象なのでお許しください)。
そこで何の審査員だったのかなぁと調べてみた。たぶんフジテレビで放送していた『オールスター家族対抗歌合戦』だと思う。
どうでもよいことかもしれないが、子供の時に家族で予選に出場したのはTBSの『家族そろって歌合戦』だったと思う。その時に妹が歌ったのが『およげたいやきくん』(フジテレビ・・・)であり、予選で落ちたのはそのせいだと私は思っている。(当時はそういう大人の事情が分からなかった)

水の江瀧子
1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画[注 1]、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。

50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退した。


水の江瀧子さんは戦時中に劇団を結成している。

当時瀧子のマネージャー兼恋人のようになっていた松竹宣伝部の兼松廉吉が新たな劇団創設を打診した。これを容れた瀧子は1942年12月に自身の劇団「たんぽぽ」を組織。翌1943年1月に15年間過ごした松竹を離れ、邦楽座で劇団「たんぽぽ」としての旗揚げ公演を行った。

1945年に入ると日本軍の劣勢が決定的になり、日本本土に対する連合国軍機の空襲や艦砲射撃などが行われるようになり、空襲中にも上演を行っていたが、群馬県太田市では工場などを目標にした大規模な空襲に遭遇し、翌日の新聞に「"たんぽぽ"全員爆死」と誤報されたこともあった。



映画『男はつらいよ』シリーズでは寅さんの妹のさくらを演じていた倍賞千恵子さんも松竹歌劇団の出身だそうだ。

愛称は「チコちゃん」。
実妹は女優の倍賞美津子。弟は猪木事務所社長日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明。夫は作曲家の小六禮次郎。

幼少時は「のど自慢」荒らしとして知られ、みすず児童合唱団を経て、1957年、松竹音楽舞踊学校に入学。1960年、同校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団、若くして「逸材」と注目される。
1961年、松竹映画にスカウトされ松竹歌劇団を退団し、『斑女』(中村登監督)で映画デビュー。1963年、山田洋次監督の映画『下町の太陽』に主演して以降、山田作品に欠かせない庶民派女優となる。『下町の太陽』は映画・歌だけでなく、現在もそのフレーズ自体が倍賞の代名詞になっている。
1963年に『下町の太陽』で歌手としてもデビューし、第4回日本レコード大賞新人賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも4年連続出場した。他のヒット曲に「さよならはダンスの後に」「おはなはん」「忘れな草をあなたに」(菅原洋一らとの競作)などがある。
映画『男はつらいよ』シリーズでは渥美清演じる主人公車寅次郎の妹さくら役を演じ、人気を不動のものにした。『男はつらいよ』で共演した吉岡秀隆とは現在でも親交が深く、北海道野付郡別海町の倍賞の別荘に遊びに来た際には、(吉岡に)マッサージを頼むほどの仲である。


倍賞千恵子さんの妹である倍賞美津子さんは、やっぱり『3年B組金八先生』の養護教諭で後に金八先生の奥さんというイメージが強いですよね!?
その倍賞美津子さんも松竹音楽舞踊学校(劇団養成学校)→松竹歌劇団(18期生)→松竹で映画デビューという流れのようだ。










by yumimi61 | 2019-06-18 17:31

淡雪

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・わたくし、小学校卒業の時の文集の中の「将来なりたい職業」には、デザイナーと書いたと思います。

・だというのに、高校の時の仮装行列で『ふしぎの国のアリス』をやった時には、アリスのドレスをデザインして作ることもなく、ダンボールベースのトランプ衣装を作り、さらに自身でそのトランプ役までやったという・・・。

・アパートで暮らしていた時に休日にベランダの手すり部分にスニーカーを干しておいたら、風が強かったのか、下に落ちてしまったのです。
でも私はそのことに気が付いていなくて。
すると階下の住人が「〇〇〇~靴が落ちてる~」(〇〇〇は私の名前、名字ではなく、しかも呼び捨て)と大声で叫ぶのです。
同じアパートの住人ながら、お付き合いは全然ありませんでした。
もともと少々声が大きく且つ独り言が多い方なのかなぁと感じていましたが、自分の名前が呼ばれたことにはドキっとして、丁重にお詫びしつつ慌てて靴を回収にいきました。

・その階下の住人は女性です。当時20代の私には中年に見えましたが実年齢は分かりません。
時々近くのスーパーマーケットで見かけることもありました。
ある時、そのスーパーでその方が同じ年頃の女性と仲良さそうに手を繋いでいるのを目撃。
えっ・・!? これはどういう関係・・?
女子高出身の私は女性同士の密着にはわりと免疫があったのですが、それでも当時はスーパーでの手つなぎ中年女性カップルに驚かざるをえませんでした。

・私は淡雪のような花を咲かせるエゴノキが結構好き。その花が散って地面を真っ白に染めている風景もとても好き。(上の写真はエゴノキではありません。エゴノキはもっと小さな花をびっしりと咲かせる)





by yumimi61 | 2019-06-16 11:17

ミカド

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クラブ「ミカド」赤坂 昭和42年ー好景気を背景に大規模クラブが各地にオープン。なかでもミカドは銀座のホステスやバーテンを引き抜き話題となった。オーナーの言葉によれば1000人のホステスがいたという。昭和48年のオイルショック以降、衰退に向かう。 田沼武能 



「ミカド」
かつて東京都港区赤坂に存在したレストランシアターで、後にキャバレーとなる。世界の社交場をキャッチフレーズとし、シンボルマークは菊の花。

名古屋でパチンコ店や観光バス事業(中部観光)などを経営していた山田泰吉が、来るべき1964年東京オリンピックでの外国人客を見込み、5年の歳月と当時の金額で15億円の巨費を投じ地上6階建て延床面積2千余坪を以って完成。国際社交場にふさわしい大噴水ショー、そしてレヴューなど世界の一流ショーを売り物とし、内外装、調度品ともに豪華さの粋を集めたレストランシアターとして1961年10月に東京・赤坂田町5丁目(現・赤坂2丁目)で開業。しかし欧米人客には 大好評を得るも、ホステスが存在しないことが仇となり日本人客には不評で1964年に閉館へと追い込まれる。

その後、ミカドの経営は神戸『新世界』・大阪『エムパイア』『クラウン』といった大型キャバレーの成功で名を馳せていた神戸出身の小浪義明(近畿観光)が買収する形で引き継ぎ、華美な面を省くなど大々的な改装が施され、ゴールデンタイム、サンデーサービスを設け、高級路線の大衆(グランド)キャバレーとして装いも新たに翌1965年11月に再オープンした。営業担当の畑本克己が銀座中のクラブやキャバレーよりホステス、マネージャー、バーテンダー、ボーイ(ウエイター)を引き抜いた事が業界で大問題となったが、最盛期には500名のホステスを抱え大成功を収める。



山田泰吉
 昭和20~40年代、広小路かいわいを覆っていたきらびやかなネオン街。
の中心にあったのは数々のキャバレーだった。
戦後の混乱が終わらぬころ、広小路の一角でいち早くキャバレーを始めたのが、「夜の帝王」ともいわれた山田泰吉だった。
その人生の絶頂と転落は、今なお語り継がれている。

 1901(明治34)年、岐阜の貧しい農家に生まれた。
柳ケ瀬で一旗揚げた後、保険会社の従業員などを経て商売の才覚を現した。
46(昭和21)年、広小路通に面した富国生命ビルの地下にキャバレー「赤玉」を開業する。
 事業は大当たり。娯楽を求めていた市民が殺到し、大繁盛した。
タンゴやジャズの軽快な音色に乗り、男女が体を近づけて踊りに興じた。
当時、赤玉で演奏していた元アコーディオニストの角谷精三さん(88)=千種区=は「淡谷のり子さんら一流の歌手が歌い、名古屋中の財界人が集まった」と振り返る。
 山田は「中部観光」を設立して複数のキャバレーやパチンコ、タクシー事業を次々と成功させ、当時の金額で数十億円の資産を築いた。
千種区に建てた豪邸は「東山御殿」と呼ばれた。
 角谷さんは当時、バンドの仕事を求めて都会に出て来たばかりの駆け出し。
山田はその若者を米フォード社製の車に乗せて社宅まで送ってくれたというから、豪勢な生活ぶりがうかがえる。
角谷さんにとって、山田は「人情味のある温厚な人物」だった。

 山田には野望があった。
それは東京に世界一のナイトクラブを持つこと。
東京五輪を間近に控えた61年、ついに赤坂にレストラン・シアター「ミカド」を開店させる。
 祖父の代から山田と親交のあった中区の老舗料亭「蔦茂(つたも)」の主人深田正雄さん(66)は、中学生のころ親に連れられてミカドを訪れた。
店の収容人員は1500人。
「ラスベガスみたいにきらびやかで圧倒された」という。

 ミカドは山田にとって、一世一代の賭けだった。
だが当て込んだほど客は入らず、12億円もの負債を出してわずか3年で経営破綻。
あおりで中部観光も行き詰まり、別の企業に買収された。

豪邸は人手に渡り、山田は表舞台から姿を消した。
 その後の山田を知る人は少ない。
深田さんは、家を継ぐため名古屋に戻ってきた84年ごろ、晩年の山田から「徳川の埋蔵金を掘り当てる」と冗談とも本気とも取れない話を聞いた。

 その夢もむなしく、昭和が終わるころ、関東の老人施設でひっそりと息を引き取ったといわれている。
広小路かいわいのキャバレーは、バブル期にはディスコに変わり、やがて姿を消した。
 中区の若宮八幡社に「中部観光株式会社赤玉会館」の石柱がある。
山田が寄進したことを示す柱だけが、往年の繁栄をしのばせる。
FineCity(ファインシティ)へようこそ 絶頂、東京そして転落 広小路通(4)より 上記の転載文は新聞記事とのこと

晩年に「徳川の埋蔵金を掘り当てる」と言っていたとあるが、徳川埋蔵金と言えば糸井重里さんですよね?
いつ頃のことだっけなぁと思って調べてみたら1990年代だった。そんな新しかったっけ?(十分古いですよ?)
ともかく山田泰吉さんの野望(夢)のほうが早かったというわけか。


小浪義明
1912年8月16日朝鮮生まれ。和歌山中〔大正13年〕卒。
13歳のときに来日しさまざまな職業を経て、昭和13年神戸市にキャバレー・新興会館を開店、戦時中は軍需工場も手がける。
戦後、神戸、大阪に次々にマンモスキャバレーを開店、“関西のキャバレー王”といわれた。
38年近畿観光社長に就任し、40年東京に進出。営業不振で倒産した赤坂のレストラン・シアター“ミカド”を引き取り、マンモスキャバレーとして再開させた。東京、札幌各ミカド社長。
1981年12月1日死去。69歳。



トップの写真、不思議なのはお客さんらしき姿が見えずに、ホステスやバーテンらしき人ばかり。(私が載せた写真では切れてしまっているが)後方に並んでいるのがバーテンやボーイらしき人で、他は坐っている人も立っている人もほぼ女性。
「お立ち台での立ち方」とかいう研修?
それとも従業員全員を集めての集合写真だろうか?
それにしても全員がお店に出たら、お客さんが座る席もないということですね。


帝(てい・みかど)
1.天界を統べる神。 三皇五帝
2.殷(商)以前に使われた君主の称号
3.前漢以後の帝号
4.天皇の別称(帝、みかど)


三皇五帝
古代中国の神話伝説時代の8人の帝王。
三皇と五帝に分かれ(誰が該当するかについては諸説ある)、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされた。
伝説では、最初の世襲王朝・夏より以前の時代とされる。


神格をもつ「皇」と聖人である「帝」とは区別されていて、神格を持つ三皇はもともとは天地人三才(天・地・人の3つの働き)に由来する抽象的な存在であった。

殷(商)
紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年
古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。


つまり中国では、考古学的に実在が確認されていない、いわゆる神話時代の君主の称号が「帝」であった。
殷(商)以後は普通に「王」が用いられていた。
それに変化を与えたのが始皇帝である。

(始皇帝は)紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
それまで中国は戦国時代にあった。
始皇帝は中国戦国時代の秦王であった人物である。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗り、中央集権国家を築いていった。

初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。
最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。
統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。


中央集権国家は民主主義国家に近いところにあるが、実は限られた権力者に強大な権力を集中させやすいのである。
日本は江戸時代はもちろんのこと、歴史上それとは逆の形態であることが多かった。
しかしながら権力者(中国ならば王)が沢山いる状態が不都合ということで統一を果たし権力を集中させる。
今までとは違う絶大な権力者であるということを誇示するために、君主の名称を変更した。


帝(みかど)は常用漢字ではない。
「みかど」の原義は「御門」である。
「御」が付いている。だから、誰か地位の高い人、一番ということになれば君主(天皇)の門ということになる。
この門は建築物の門ではなくて、一門という意味が強いのだと思う。唯一無二の家系(万世一系)を強調しているのだろう。

建築物の門は通常、敷地と外部を区切る塀や垣根に設けられる。
通行のために出入口となり、区切り(境界)を開くものである。
封鎖して遮るだけならば塀や垣根だけで十分であるのに、あえて門を設置する。出たり入ったりするために。
でも日本では天皇家がそれでは不味いみたいなので、御門の門は一門の門であると考えられる。




by yumimi61 | 2019-06-14 16:04