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<   2019年 09月 ( 22 )   > この月の画像一覧

コントラスト

事実は小説より奇なり!?

文芸誌編集長、出版社社長、文藝家協会を創設し初代会長、東京都議会議員、戦時中は日本文学報国会の議長であり戦争協力し、映画会社「大映」の社長(1943-1947)でもあった菊池寛。
大映を率いていた菊池寛が常々言っていたのは「面白くない真実より面白い嘘を」だったそうだ。


菊池寛
1888年生まれ。高知県高松市出身。
菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったが、寛の生まれたころは没落し、父親は小学校の庶務係をしていて、家は貧しかった。
高松中学
 ↓
東京高等師範学校(成績優秀のため学費免除であったがサボってばかりで除籍)
 ↓
明治大学法科(地元の資産家と養子縁組し経済支援を受けて進学したものの3ヶ月で退学)
 ↓
早稲田大学(徴兵逃れのため籍だけ置いていた)
 ↓
1910年22歳 養子縁組破棄されるも旧制一高(東京帝大予科)に入学。学費は父親が借金で工面することにしたとか。芥川龍之介と同期。 
 ↓
1912年 マント事件で退学処分。

※マント事件
当時、マントは一高のシンボルであった。要するにエリートの証、ステイタスであり、一高のマントにはそれなりに価値があった。
一高の友人の佐野文夫が女性とのデートにそのマントを着て行きたかったのだが、すでに自分のマントは質屋に入れていたのだという。
現代でもブランド品など質屋に入れる人がいると思うが、一高マントも価値があったので、それなりにお金が借りられたということである。

佐野 文夫(1892年生まれ)
日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。
山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1912年9月に第一高等学校を卒業した。


質屋というのは、品物とお金を交換して、品物を「一時的に保管する」という商売ですよね。で、お客さんがお金を返してこなかったら、預かった品物も返さないという仕組み。
お金が返ってきた場合にも利息を取っているから儲けがゼロということはないし、返ってこない場合には預かった品物を他所に高く売って儲ける。

「一時的に保管」は旬のネタですね!
原子力発電所が立地する町の助役が、関西電力に多額の金銭を渡していた。
関電の皆さんもお金に困って何か質に入れたんですか~?
関電の岩根社長は27日午前、会見を開き、「森山氏から受け取った資金が、原発工事発注先の企業から出ているという認識はあった。一時的に各個人の管理下で返却の機会をうかがいながら保管していたが、現時点では儀礼の範囲内以外のものはすでに返却を完了した。社内調査ですでに関係者を処分した。基本的に違法な行為ではなく、不適切な行為であったため公表はしなかった」と説明。

自分のマントがない佐野文夫は勝手に違う学生のマントを拝借して、デートにマントを着て行ったという。
デートが終わったら即効返せばまだ良かったが返さなかった。
2日後、お金に困っていた佐野文夫と菊池寛は、マントを質に入れようと質屋に出向いた。
しかし、佐野が拝借した(盗んだ)マントはすでに盗難届が出ており、質屋に行ったことで盗んだことが発覚する。

マントを盗んだのは佐野文夫であり自分ではないが、菊池寛は自分が盗んだことにしたのだという。
菊池はそのまま自分が罪をかぶることを決意する。菊池は佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情をいだいていたので、佐野の将来を考えて、自らが犠牲になる道を選んだという。結局、菊池は抗弁しないまま、退学処分を受け入れて一高を去ることになった。

もし佐野と菊池が親友であり、菊池が自分のマントを持っていたならば、佐野は菊池から借りたら良かったではないか。
他にだって友人がいたはずである。
しかしそうはせずに他人のマントを盗んだ。
親友であった菊池はそのことを全く何も知らなかったのか。
いずれにせよ、2人で質屋に行ったことは確かなのである。
当時の菊池寛は、大学に進学するための学資の当てがなかったので退学を決意したとも言われている。
佐野も菊池もそれほどお金に困っていた。
・・・そんなつまらない真実よりも、親友の為に罪を被ったという面白い嘘を・・・?


菊池寛の出世作は毎日新聞紙上

退学後、困窮を見かねた同級生の成瀬正一の世話で菊池は成瀬家の書生となり、9月に京都帝国大学の英文科へ進学する。

菊池寛の同級生だったという成瀬正一のいた成瀬家は横浜にあった。
成瀬正一の父親は、横浜正金銀行や日本貿易銀行にいた人物で、後に十五銀行頭取となった。
成瀬正一の祖父は香川県の豪農で、県会議員でもあった。成瀬正一の祖父は息子を慶應義塾に入れたので、成瀬正一の父親は上京して学び、アメリカにも5年ほど留学していた。

菊池寛は成瀬家の書生だったと言うが、京都帝国大学に通うことを考えると、香川でも横浜でも東京でも遠い・・・。

帝国大学に進む一般的なルート(本科)には旧制高校卒業という入学資格を満たす必要があったが、菊池寛にはそれがなかった。
但し当時は、選科という本科の課程の一部だけを学べる課程が存在していて、こちらならば旧制中学校卒業の資格でも入学が許可された。
修業年限は本科と同じで3年。選科生として3年学べば一応帝国大学卒業生ということになる。但し学士号は与えられない。
学校図書館の利用などに関して制限を受けるなど差別待遇もあったという。
一方で、選科生となった後に旧制高校の卒業資格検定試験に合格すれば、本科生になることが出来た。在学中のいつ合格しても、それまでの選科在学期間も通算して3年で卒業できるという特別措置もあった。

菊池寛は京都帝国大学の選科生だった時に、旧制高校の卒業資格検定試験に合格。この時に菊池は、京都帝国大学の本科ではなく、東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)へ進むことを希望したという。しかしそれが東京帝国大学の文科大学長が許可しなかったという。

1916年7月、京都帝国大学を卒業。
またしても成瀬家の縁故で時事新報に入社。社会部記者となる。
生活のため資産家の娘と結婚することを考え、1917年に高松藩の旧藩士奥村家の娘と結婚。
1919年には、時事新報を退職。
翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した「真珠夫人」が大評判となり、人気作家となった。

実は菊池寛は時事新報を退職後すぐに、芥川龍之介と一緒に大阪毎日新聞社に入社したという。
毎日新聞のデータによると、芥川龍之介が毎日新聞社にいた期間は1919~1927年となっているので、自殺した年まで在籍していたことになる。

<毎日新聞のあゆみ 著名人より>
芥川龍之介(1919~1927年在社). 作家。代表作に「地獄変」「藪の中」。 大阪毎日新聞社に菊池寛とともに入社し、海外視察員として紙上でルポなどを発表した。

・・・そんなつまらない真実よりも、そんなつまらない小説よりも、センセーショナルを自殺を・・・?


逆転人生

菊池寛は1919年に毎日新聞に入社し、瞬く間に人気作家となり、1923年には雑誌『文藝春秋』を創刊。
1925年には文化学院(専修学校)の文学部長に就任。
文化学院は、西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによって創設された学校で、キリスト教精神や西洋文化的教育が盛んに行われていた。
1926年には文藝春秋社を設立、同年、日本文藝家協会も設立した。
芥川龍之介が自殺したのはその翌年のことである。

菊池寛の実家は貧しく、マント盗難事件で旧制一高を退学処分となり、選科で京都帝国大学に入れてもらったものの、希望していた東京帝国大学には移れなかった。

一方の芥川龍之介は、優秀な成績で旧制一高に入学し、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学した。この学科は東京帝国大学の中でも特に難関だったという。
在学中に小説を執筆し、1915年には夏目漱石の門下生となり、1916年には『鼻』が夏目漱石に称賛された(大衆受けはしないと言われたが)。大学もトップクラスの成績で卒業。
卒業後は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。
1918年には慶應義塾大学文学部への就職の話もあったと言うが、何故かこれが実現しなかった。
そして翌1919年に菊池寛とともに大阪毎日新聞社に入社した。

芥川と菊池は友人であったかもしれないが、対照的とも言える学生時代を過ごした2人が、毎日新聞社で再び交差することになったのだ。
そして2人の人生の起伏はここで反転していく。
1927年、芥川龍之介はついに、その人生を終えることになる。
彼は太平洋戦争はおろか日中戦争までも生きることはなかった。
文藝春秋社は後に死んだ芥川龍之介を飯の種にしていくことになる。


作家たちの戦争扶翼

私は8月の終わりに創価学会と毎日新聞のことを記事にした。2019年8月30日『コンサーン』
創価学会の新聞の印刷を長く多く引き受けているのが毎日新聞グループで、その蜜月ぶりが知れる。
その記事でも少し触れたが、過去にも国旗の件と戦時中の皇軍万歳で毎日新聞を取り上げたことがある。

次のブログ記事でも戦時中の毎日新聞の写真が掲載されている。
Mr.H’s BLOG 2017年9月21日
いつか来た道、古新聞で辿る「昭和十三年」(14)
より

各新聞の論調は 前年12月の南京城陥落あたりから がらりと皇軍万歳 大勝利の報道ばかりに変わった。
1938(昭和13)/01/16, 第1次近衛声明を発表し、対中国への和平交渉打ち切りを通告するや この年の日本の新聞は 既に支那事変での皇軍の無敵振りの経過や推移の掲載一辺倒となっていった。


国内外の日本人社会は狂喜乱舞し 全国で奉祝行事の提灯行列や神社参拝、武漢陥落記念絵葉書やスタンプが発行された。
軍への献金や万歳々々の祝一式の記事に埋まり、更には大陸行進曲の発表行事や小国民体育会、 
社説にも 皇軍感謝の文字が踊るばかりで、そこから泥沼の如く続く戦争の幕開けを心配する文言はわずかに「長期建設 締めよ冑の緒」と付け足しに記載あるのみであった。
それはオリンピックで わが国の勝利を単純に国威高揚と喜ぶ国民の姿と重なり、現代の卑近な例で言えば、2017年ブタペスト世界柔道選手権大会で団体戦を含め、男女合わせて9つの金メダルを獲得した折と変わらぬ有様。 
其処には 無数の彼我の生命や文化や財産の消滅する戦争の悲惨さに思い至るかけらも見受けられないのは 当時としては止むを得ない事実でもあろうか・・・

どこまでも広い大陸に攻め込み、拡大するばかりの戦線で 敵主力が放棄した点在する都市群を陥落占領した程度で、何ゆえ ここまで狂喜乱舞するのか 後世に生きる我々には理解しがたい事。



菊池寛は「文士部隊」を率いて、戦争に加担した。

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍するよう命令。
寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。

帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った。
1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅する。

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。



日本文学報国会
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)5月26日に設立された文学団体。情報局の実質的な外郭団体であった。運営費は情報局から支給された。
1942年に情報局の指導により、「国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する」ことを目的とした社団法人として発足した。
また日本俳句作家協会(「国民詩たる俳句によって新体制に協力」するという目的で1940年に結成)も日本文学報国会の俳句部会として統合された。

・会長 - 徳富蘇峰。
・常任理事 - 久米正雄、中村武羅夫
・理事 - 折口信夫、菊池寛、窪田空穂、佐藤春夫、下村宏、白柳秀湖、関正雄、辰野隆、長与善郎、松本潤一郎、水原秋桜子、柳田國男、山田孝雄、山本有三、吉川英治
・顧問に正力松太郎、藤山愛一郎、横山大観などが就任。
・監事 - 三井高陽
・賛助会員 - 岩波茂雄(岩波書店)、下中弥三郎(平凡社)、佐藤義亮(新潮社)、秦豊吉(東京宝塚劇場)


日本文学報国会の前身に、「ペン部隊」がある。日華事変勃発後の昭和13年(1938年)、内閣情報部は文学者と懇談会を開いて漢口攻略戦への従軍を要請し、陸軍部隊14名、海軍部隊8名、詩曲部隊2名の作家が従軍し、その見聞記を新聞・雑誌に掲載した。これは、文学者による「職域奉公」としての「ペン部隊」と称されて以後も多くの作家が従軍した。



時代はすでに昭和に入っているわけだが、当時はまだそこまで識字率が高くはないだろうと推測できる。
新聞や雑誌は字が読める人向けとなるが、それだけでは足りない。
だから作家たちは全国各地の病院を慰問したり講演会を催した。字が読めない人には、直接会って触れたり、お話したりということだ。
さらに国策映画も製作して視覚にも訴える。
文字数がとても少ない俳句もしっかり取り込む。
こうして識字率や読書率、新聞購読率の低さをカバーしたんだろうと思う。





by yumimi61 | 2019-09-30 16:03

金春会

作家か作品か

前回書いたノーベル文学賞と、この記事に書く芥川賞・直木賞との大きな違いは、授賞対象である。
ノーベル文学賞は作家に対して贈られるが、芥川賞・直木賞は作品に対して贈られる(もちろん作品には作者が付き物ではあるが)。

ノーベル文学賞の最終候補者は5人であるが、5人の審査員は、一応その5人の候補になった作家の作品をその都度読むということになっている。
代表作はなんとなく知っているとか、前に読んだことがあるなぁとか、そういう状態でレポートを上げるのではなく、例え同じ作家が何度最終候補に残っても、その都度読むこととされている。
1,2冊(1つ2つ)しか書いていない作家ならばそれを読めばよいが、すでに何冊(幾つも)も書いている作家であれば、その全てを短期間に読むことは出来ない。よって特定の作品に対して賞を授けるわけではないが、自ずと審査員が読むべき作品も絞られることになる(候補作)。
但し審査員がその候補作全てを読んでいるとは限らないし、5人の候補者全員の作品を読んでいるとも限らない。
候補作1つ1つ、あるいは作者1人1人に点数などの評価を付けていくわけでなく総評(選評)を書けばよいのだからそれが可能である。極秘に他の専門家にレポートを出させて吟味する場合もある。

<ノーベル文学賞 授賞理由>
★川端康成(1968年)
日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため。

★大江健三郎(1994年)
詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を当惑させるような絵図に描いた。


芥川賞と直木賞の授賞基準

文藝春秋が主催している芥川賞と直木賞は作品に対して贈られる。
日本国内の作品だけなのに年2回も行われている。国内の作品だけだから可能とも言えるけど。
希少価値という言葉があるように、あまり大盤振る舞いすると賞自体の価値は下がりがち。
雑誌や書籍を売るための1手段だから価値は下がっても良いという考えなのか、それとも一番古い文学賞という価値は落ちることはないという驕りもあるのか、正直消費者にとっては「またやっているのか」という感は否めなくなってきていると思う。活字離れも相まっているんだろうけれど。
そうなってしまうと、消費に繋がるかどうかも疑問が残る。

芥川賞
新聞や雑誌(同人誌を含む)に発表された無名あるいは新人作家による純文学の短編作品(原稿用紙100~200枚程度)で、すでに文芸誌の新人賞を受賞しているもの ⇒受賞作品は『文藝春秋』に全文が掲載される。

直木賞
無名・新人・中堅作家によるエンターテインメント作品(大衆文学)で、新聞や雑誌(同人誌を含む)に発表された作品か、単行本(長編小説もしくは短編集)として発売されているもの ⇒受賞作品は『オール読物』に一部が掲載される。

前年12月から今年5月までに刊行されたもの→上半期・・・選考会7月
6月から11月までに刊行されたもの→下半期・・・選考会翌年1月


価値の下落を感じたもの

話が脱線するが、価値が下がったで思い出したのが「武道館」である。
私は感じたのは結構前だが、武道館ってライブ会場としての価値がだいぶ下がりましたよね?
こんな知らない人達が武道館ライブするの?とか、こんなレベルで武道館ライブ?とか、結構いちいち驚いていた時期があった。
知らないのは私が知らないだけかもしれないし、こんなレベルと思っているのも私だけかもしれない。娯楽や音楽も多様化が進んで、大勢の人が知っているものがとても減ったということも影響しているんだろうと思う。たとえ知名度やファン層が一部であっても、武道館に集客するレベルには十分であるということなんだろう。
ライブ会場としての価値を上げたのはビートルズかな? まあそれはともかく、ある頃までアーティストにとって武道館って特別な場所で、武道館に相応しいレベルにならないと使えない会場というイメージがあった。
相応しいレベルって何か具体的にあげよと言われたら、答えられないけれど。
あれは結局、キャパシティが大きいということだけだったんだろうか。どんどんキャパの大きな会場が出来たことによって、武道館の価値も薄れた?
それとも簡単に使用許可が下りなかったとか?
あるいは武道館ライブは簡単に行わないという暗黙のルールや慣習があったとか?
今みたいな感じになってしまうと、武道館が特別だった時代を知っていても、もはや武道館にあまり価値を感じなくなってしまう。



太宰治と芥川賞

芥川龍之介が自殺する半年前(1927年3月)に発表した作品『蜃気楼』。
旧制中学時代に自ら主宰し刊行していた(1925年11月~1927年1月)同人誌が『蜃気楼』だった太宰治。
意識のチャンネルが合ってしまった2人。
もともと太宰治は芥川作品を愛読していたが、1927年を境に太宰は亡き芥川に心酔していくことになった。

芥川賞が菊池寛によって創設されたのは1935年。
太宰治は、1935年上半期、記念すべき第1回芥川賞の候補者となった。
芥川龍之介の名が付くらいなのだから、太宰にしたら受賞したかったんだろう。それは野望だけではなく、やはり特別な想いがあったはずである。
しかも太宰の作品は予選候補には2作品選ばれている。
最終候補に残らなかった『道化の華』は、太宰が芥川辞世の句に入っていた水洟(みずつぱな)を入れて詠んだ俳句を彷彿するタイトルともなっている。
 水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川
 幇間の道化窶れやみづつぱな 太宰
 
<選考委員> 
川端康成 36歳 (欠席) ・・・菊池寛に師事
菊池寛 46歳  ←文藝春秋社および芥川賞・直木賞の創設者、芥川龍之介の友人
久米正雄 43歳  ・・・芥川龍之介の友人
小島政二郎 41歳 ・・・芥川龍之介の友人
佐佐木茂索 40歳  ・・・芥川龍之介の弟子
佐藤春夫 43歳  ・・・芥川龍之介の友人
瀧井孝作 41歳  ・・・芥川龍之介の弟子
谷崎潤一郎 49歳 (欠席) ・・・芥川龍之介の友人(小説の筋の芸術性論争が有名)
室生犀星 46歳  ・・・芥川龍之介の友人
山本有三 48歳 (欠席) ・・・芥川龍之介の友人
横光利一 37歳  ・・・菊池寛に師事(菊池家で出会った川端康成と親友)

<候補作品> 予選候補作は10作品で、最終候補作は5作品(赤字+青字)、受賞は1作品(赤字)
171.png『蒼氓』(141枚)  石川達三 30歳
『草筏』(93枚)  外村繁 32歳
『故旧忘れ得べき』(295枚)  高見順 28歳
『けしかけられた男』(304枚)  衣巻省三 35歳
『逆行』(23枚) 『道化の華』(104枚)  太宰治 26歳
『詫びる』(50枚)   渡辺寛 22歳
『泥濘の春』(73枚) 『ある夫婦』(58枚)   浅井花子 32歳
『秋水嶺』(196枚)  内村直也 25歳


太宰治と川端康成の芥川賞を巡る確執!?

この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した。

川端康成は選評の中で、太宰の生活を問題視するような発言をしている。芥川賞が純粋に作品に賞を授けるものだとすれば、作家のプライベートな生活まで問題視するのは踏み込み過ぎである印象を受ける。
そんなことを言えば、芥川龍之介も自殺した作家である。
夏目漱石には大衆受けはしないと言われ、自殺で自らの人生に早々と終止符を打った作家の氏名を冠する賞なんて誰が欲しいのよ。(いやいや、みんな欲しがってるでしょ?)
そもそも問題視するくらいなら候補に選ばなければ良かったではないかという話になるだろう。
川端康成は太宰の『道化の華』をもともとは評価していたらしい。
従って太宰は、審査過程で何か圧力が掛かったのではないかと考えたらしい。

私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。
— 太宰治「川端康成へ」


この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べている。
その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。


確かに選考委員の評価においては石川達三『蒼氓』断トツ感は否めない。
しかし審査自体に圧力が加えられていたり、忖度があったとするならば、自由意志による結果ではなく、誰かの思惑に沿った結果になっても不思議はない。
また、太宰が再び候補になることが阻止されるかのように、一度候補になると再び候補になることはないという規定も作られた。これも確かに芥川賞は無名や新人が対象だけに再三の候補というのは微妙なところではある。(昨今は何度も候補になっていることがあるようなので規定が変わったのだろう)

実は太宰は、「幇間の道化窶れやみづつぱな」という俳句を作った頃に、似たようなこんな俳句も詠んでいる。しかも芥川龍之介の辞世の句を真似たのか、前書きに’自嘲’まで付けていたらしい。
自嘲 大川端道化に窶れ幇間の

大川端は一般的に読めば「おおかわばた」である。6字で字余りだけど。大川端は隅田川の下流のこと。
お~川端!

 



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by yumimi61 | 2019-09-27 15:35

コンペティション

生きたいと思うことは蔑まれることなのか、生きたいという願いは不老不死のことなのか

前回の話の続きです。

人間は何のために誰のために生きるのか、という根源的な問いが存在する。
前回はそれをもう少し具体的に考えてみた。職業という観点からである。
例に挙げたのが、小説家(作家)・音楽家・俳優・芸人であり、このうち作家には特異性があるという話をした。作家の特異性とは対象(消費者)が識字できる者に限られるということである。

職業(労働)というのは本来、生きて行くために必要なお金を稼ぐ手段であるはず。
でも人間は何のために生きるのか、誰のために生きるのかよく分からないというのも1つの真実である。
そのせいかどうか、目的も目標も「生きたい」ではないことが多い。
「生きたい」などといった目的や目標を持てば、おそらく’底辺’だとか’無気力’だとか、’能無し用無し’などと蔑まれることだろう。
それは多くの人が、ただ生きて行くだけではない他の何かに大きな価値を置いているからである。
死が最大の貢献という有機体の観点から見ると、「生きたい」という目的は生をなまじはぐらかさないストレートな目的なので、死の反対に位置する生がよく目に見えてしまう目的とも言える。

少し前にマズローの欲求5段階説(欲求ピラミッド)を紹介したけれど、「生きたい」という目的は、あのピラミッドの底辺にあたり、①「自己実現の欲求」(自分の持つ能力や可能性を最大限発揮したいという欲求)には程遠い存在と見做されてしまう。

では人々はどんな目的がにあたると思っているのか。
小説家(作家)・音楽家・俳優・芸人を目指す人を例にとれば、前回書いたように次のようなことなんだろうと思う。
①普通の人よりも楽な仕事をしてお金持ちになりたい。(やりたくないことや苦労が多いことをすれば楽とは言えないのだから、好きなことや得意なことを仕事にするということは、楽な仕事をすると言い換えることが可能である)
②有名になり、多くの人から愛される人気者になりたい。
③異性にもてて、自由気ままに恋愛を謳歌したい。良い条件の人と結婚したい。
④名声を得て、先生や師匠と呼ばれ、みなからチヤホヤされ尊ばれるような高尚な人間になりたい。
⑤サロンの仲間入りをして先輩や仲間らと芸術を語り合いたい。

これら全てを手にすれば何でも出来るようになるし大概の望みは叶うので、後は失わないことだけが大事となる。

この目的を実現するための目標や手段は次のような感じになる。

<目標>・・・目的を達成するための目印(指標・基準)
・大会やコンクールやオーディションで優勝や入賞する。
・ヒット曲を世に送る、ヒット作品を作る、ヒット作品に出演する。

<手段>…目標を実現するために当面行うべきこと
・作品を作り、披露する。
・大会やコンクールに応募し出場する。
・弟子になる、劇団や事務所に所属する。
・権力者やすでに名声を得ている人物とコネクションを作る。


そして再び小説家に焦点を当ててみる。

芥川龍之介(1892-1927年、35歳自殺)
川端康成(1899-1972年、72歳自殺)・・・ノーベル文学賞受賞者(1968年)
太宰治(1909-1948年、38歳自殺)・・・芥川賞候補者(落選)
三島由紀夫(1925-1970年、45歳自決)・・・ノーベル文学賞候補者(落選)


日本を代表する上記の小説家も「大会やコンクールに応募し出場する」以外のことはしていた。
なぜ大会やコンクールに応募し出場しなかったのかと言えば、文学の大会やコンクールが存在しなかったからである。


戦後に盛んになった文学賞

世界中の文学賞で一番古いものは、オスに推されぬ(何だかんだ言ってもノーベル賞受賞者は女性が少ないのよ、平和賞含めても全受賞者の5%程度)押すに押されぬ、唖も推されぬ(何語だって受賞スピーチ出来ないもんね)押しも押されぬノーベル文学賞!
初回が1901年(明治34年)のこと。
それこそいったい世界の識字率はどれほどか!という時代である。

現在では世界的な規模の文学賞(地域や言語を限らない)も、各国独自の文学賞も多々あるわけだが、実はみなそれほど古いものではなく、第二次世大戦後に始まったものがほとんどである。

世界的規模の文学賞で、ノーベル文学賞(Nobelpriset i litteratur)に次いで権威があるといわれているのが、アメリカのノイシュタット国際文学賞(The Neustadt International Prize for Literature)であるが、これが始まったのは1969年である。
日本人の受賞者がいないせいか、日本では全くといって知られていない文学賞である。

戦前に始まり、今なお存在していて、権威ある文学賞と言われる文学賞が多いのはフランスである。
ゴンクール賞、ルノードー賞、アンテラリエ賞、アカデミー・フランセーズ賞などみな戦前からある文学賞である。
この意味からすれば、フランスは間違いなく文学の国である。

また日本の芥川賞と直木賞も戦前の1935年から始まっている。
創設者は小説家であり、文藝春秋社の創設者でもある菊池寛。彼は芥川龍之介の友人であり、川端康成の師匠でもあった。

現在は様々な文学賞が存在するが、第二次世界大戦以前からある文学賞は日本でもそれくらい。
講談社創業者の財団が主催する野間文芸賞が太平洋戦争開戦の年の1941年から、日本芸術院賞が戦中の1942年から始まっている。
いずれも戦中戦後数年は休止している。
太宰治が自殺したのは1948年なので、それら休止期間とも重なる。
第二次世界大戦中の1941~1944年はノーベル文学賞も実質休止(受賞者なし)していた。

フランスを除くほとんどの国で文学賞なるものが創設され始め、盛んになったのは戦後のことである。
この現実から推測すれば、識字率や読書率が上がったのはやはり第二次世界大戦後だったのではないか。
大衆(消費者)が字を読めない限り、作家や出版社がどんなに宣伝したところで書物の売り上げ効果は出ないだろう。字が読める人だけが対象であるから、どうしても限界がある。どうにもならない限界があるのに手間暇費用を掛けて大々的に宣伝しても意味がない。
また識字率が低いということは、本を書ける人はもっともっと少ないということになる。つまり小説家(作家)が賞レースを繰り広げて、それに大きな価値を置けるほど、競う者もいなければ、審査員も限られてくる。審査員も審査される側もみな身内のようなものという状態になって、審査自体やりにくいし、やはりそうなると真の価値を見出しにくい。
識字率が低いと賞レースも価値が薄いということである。

現代は様々な賞レースが存在するが、では識字率や読書率はそれに見合うものだろうか。
活字離れが叫ばれて久しい。時代はどんどん長文離れ、文章離れの方向に進んでいる。
平均的に高学歴となったが、学力は平均的に低下しているとも言われる。
識字率や読書率の進歩や学力上昇が見せかけや錯覚に過ぎなかったのか、それとも停滞していると言えるのか、あるいは逆行しているのか。
識字というのは全ての学問の基礎になる。
大戦をカンフル剤にと考える人がいないと良いけれど。


コネ選、マネー選

なぜ大会やコンクールに応募し出場しなかったのかと言えば、文学の大会やコンクールが存在しなかったからであると書いたが、もうひとつ、権威ある賞は自薦を認めていないために、自分で応募するということが出来ないのである。

例えばノーベル賞の選考方法。
原則的には、選考方法を公表しないという方針。

選考を担当しているのは・・・
物理学賞、化学賞、経済学賞  スウェーデン科学アカデミー
生理学・医学賞  スウェーデンのカロリンスカ研究所(医科大学)
平和賞  ノルウェー国会
文学賞  スウェーデン・アカデミー  

文学賞を担当しているスウェーデン・アカデミーの会員定員は18人。その中にノーベル委員会があり、委員は5人。この5人が最終候補者を審査する。

(1)当該年の前年の秋、ノーベル財団定款に基づいて選ばれた世界のペンクラブ、作家協会、大学、過去の受賞者などに候補者推薦の依頼状を発送する。(発送数は600~800人くらい)

(2)当該年2月、推薦されてきた作家リスト(200~300人程度らしい)を作成。

(3)4月くらいまでに事務局が一挙に15人に絞る。どうやって絞るかは非公表!
※事務局というのはスウェーデン・アカデミーなのか5人の委員なのか、全く別の人達なのか、いまひとつはっきりとしない。

(4)5月には事務局が最終候補者5人を決定し、スウェーデン・アカデミーの会合にそのリストを提出。

(5)6~8月、5人の審査員は長い夏のバカンスの間に(?)、5人の候補作をじっくり読み込んで、レポートを作成する。
※この時に5人の審査員が全員とも読めない言語の作品があった時には、英語・ドイツ語・フランス語に訳されるらしい。
全員読めない場合というのが1つのポイントで、全員でなければ読めない審査員がいても別に構わないわけである。レポートというのは1つ1つの作品のレポートを上げるわけではなく、審査員各々が1つのレポート、言うなれば総評みたいなものを書く。全部の作品に触れても、全く触れない作品があっても自由である。
場合によっては、審査員が極秘に、さらに専門家などに論文(レポート)を依頼することもあるらしい。翻訳も全文翻訳ではなく(長編の場合、そんなに時間がない)、レポート形式のものかもしれない。

(6)9月、審査員5人のレポートを、18人のスウェーデン・アカデミー会員が目を通して、18人の投票によって決まる。
※但し初めて最終候補に残った作家には授けないという規定がある。


自薦ではなくて、推薦される必要があるということは、もう最初からコネ臭がプンプンする。
推薦者だって世界中の文学作品に目を通せるわけがない。推薦するならば知っている範囲内で選ぶしかない。
そして問題は世界中から推薦されたきた数百名の中から一気に15名に絞る過程。
事務局でも審査員でも、たった2ヶ月の間に言語の違う数百名の作品全部を読み込むなんてことが出来るわけがない。
極秘に、お金を沢山落としてくれたところ(寄付を沢山してくれたところ)から選びます、ということだってあるかもしれない。
あるいはここも強力なコネクションが必要になるとか。
あみだくじで決めるとか? 現代だったらAIに任せればよいでしょうか?
とにかく最終候補5人に残るまでが大変である。
そして最終候補に残ったからと言っても、スウェーデン・アカデミー会員全員が読んでいないことはもちろんのこと、5人の審査員にすら作品が読まれるとは限らない。

ちなみに文学賞以外の賞もほぼ同じような選考過程らしい。
世界中の数千人の研究者に推薦状を送ることから始まる。



芥川賞・直木賞も自薦は不可

(夜も遅いので、芥川賞についてはまた明日)





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by yumimi61 | 2019-09-26 16:24

金輪奈落

理由

なぜ小説家になるのか、なぜ音楽家になるのか、なぜ俳優になるのか、なぜ芸人になるのか。
それが職業である以上、お金を稼ぐことからは絶対に離れられない。
お金を稼ぐことを目的としないならば、職業(プロ)である必要はない。
それは何の職業であっても同じである。
誰かを感動させたい、喜ばせたい、元気づけたい、励ましたい、寄付したい、誰かの力になりたいんだ!そういう理由ならば、別に小説家でなくても音楽家でなくても、俳優でなくても芸人でなくても可能なはずである。
そしてこの社会にはお金を稼ぐ方法は数多存在する。
しかし何でも良いというわけではないということは、お金以外にも目的があるということになる。

<目的>・・・・自分が最終的に目指すもの
①普通の人よりも楽な仕事をしてお金持ちになりたい。(やりたくないことや苦労が多いことをすれば楽とは言えないのだから、好きなことや得意なことを仕事にするということは、楽な仕事をすると言い換えることが可能である)
②有名になり、多くの人から愛される人気者になりたい。
③異性にもてて、自由気ままに恋愛を謳歌したい。良い条件の人と結婚したい。
④名声を得て、先生や師匠と呼ばれ、みなからチヤホヤされ尊ばれるような高尚な人間になりたい。
⑤サロンの仲間入りをして先輩や仲間らと芸術を語り合いたい。


目的が①や⑤だけならば表に出なくても良い。お金持ちの程度にもよるが、裏方だって良いわけだし、ゴーストでも良いわけである。
でも②③④が目的ならば、表に出ることは必須となるだろう。
このように、芸術や芸能という職業には、不純で不埒で自己中な動機が透けて見えるために、誰かのためになりたいなどという言動は拒絶されたり嫌悪されたりされやすいが、なぜか昨今は殊更それを言いたがる職業にもなっているというか、昔よりも発言の場を得たというか与えられたというか。
自己中なら自己中でいいのだ。自分のお金を得るために働くという行為は多かれ少なかれ自己中である。自己中なのに、それを棚に上げて反対のことを言うから反感を買ったりもするのである。
前に『ドクターX』というテレビドラマのことを書いたけれど、あんなデタラメで恐ろしいドラマが本当に人気あるとするならば、それは自己中が反対のことを言わないから反感を買わないのだと思う。自己中が、お金のため、自分のため、と言い切り、且つ権力を見下りしたり見返すことで大衆の好感を得る手法である。
逆を言うと、あれが人気あるならば、誰かのためになりたいなどという言動に拒絶や嫌悪を感じている人が大勢いるという証にもなる。

①もなるべく楽して大金を得るためには、消費者(大衆)に媚を売る必要が出てくる。
①~⑤を手に入れれば、あとは何だって出来るから、達成したものを失わないことだけが重要になる。
また①~⑤の高位の目的に「復讐」がある場合がある。これはそれまでの人生で自分を見下したり蔑んだ者、自分を相手にせずに無関心だった者を見返したいというもの。

2世というのは、人々が目的とするようなものを、生まれつきに、あるいは割と早い段階から、完全にとは言わないが持ち合わせている。だから他の人よりも条件が良いと言えるし、一方で最初からレールの上にいるものだから目的が設定しにくく固有の目的や自身の方向性を見失ってしまう恐れもある。

<目標>・・・目的を達成するための目印(指標・基準)
・大会やコンクールやオーディションで優勝や入賞する。
・ヒット曲を世に送る、ヒット作品を作る、ヒット作品に出演する。

<手段>…目標を実現するために当面行うべきこと
・作品を作り、披露する。
・大会やコンクールに応募し出場する。
・弟子になる、劇団や事務所に所属する。
・権力者やすでに名声を得ている人物とコネクションを作る。


日本を代表する有名作家の目的と手段

夏目漱石を敬慕した芥川龍之介、芥川龍之介に心酔した太宰治、太宰治に愛憎相半ばする思いを持っていた三島由紀夫、彼らが具体的にどんな目的を持って未来像を描いていたのかは分からない。
しかし手段をみれば、上に書いた「大会やコンクールに応募し出場する」以外のことはしていた。

どんな目的を持っていたか分からないと書いたが、三島由紀夫は「有名な作家になりたい」と言っていたようだ。

1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉に在住していた川端康成のもとを三島は始めて訪問し、『中世』、『煙草』の原稿を渡す。それは、野田宇太郎の紹介状を持参した訪問だったが、野田は当時を次のように語っている。「君は文学者になりたいのか、文壇人になりたいのかと言ったら、"有名な作家になりたい"と来るんだよ。まだ学生で一本立ちしてないのに、最初から有名な作家になるつもりで、僕を利用するために来ていたのかと怒ったら、だいぶこたえたようだった。
川端さんのところへ行った折に"こういう人間が来るから"と言っておいたら彼は訪ねて行った。そして、川端さんに庇護されて、どんどん翼を伸ばして行った」 しかし、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりはそれ以前の学習院在学中の頃からあった。



作家という職業(商売)の難しさ

明治1年 1868年
大正1年 1912年
昭和1年 1926年

芥川龍之介(1892-1927年、35歳自殺)
川端康成(1899-1972年、72歳自殺)・・・ノーベル文学賞受賞者(1968年)
太宰治(1909-1948年、38歳自殺)・・・芥川賞候補者(落選)
三島由紀夫(1925-1970年、45歳自決)・・・ノーベル文学賞候補者(落選)

錚々たる作家の、散々たる?見事な?、最期。

この記事の冒頭に、小説家、音楽家、俳優、芸人という職業を挙げたけれども、私はここで1つ小説家(作家)が特異的だった点を述べたいと思う。
それは識字率に関係する。

聴力があれば、とりあえずどんな音楽であっても聞くことは出来る。落語や漫才も聞くことが出来る。他の観客の歓声や笑い声や泣き声も聴くことができる。
視力があれば、とりあえずどんな演劇でも映画でもテレビでも絵画でも見ることが出来る。他の観客が笑っている姿や泣いている姿、考え込む姿も見ることができる。
でも聴力があっても視力があっても、字が読めなければ書物は読めない。

書物が平仮名にカタカナに漢字も使って書かれていたならば、その全ての文字が読める必要がある。英語で書かれている書物ならば英語が読めなければならない。
平仮名やカタカナは50音ずつ。漢字はもっともっと多い。
さらに音の組み合わせで出来た言葉(単語)の意味を理解することを含めて、文字が読める(識字)ということにすれば、ただ読めるだけよりもハードルはぐっと上がる。
文章の意味を理解するのは更にその上の段階である。

作者や演者の感情や意図やテクニックを深く理解したり、作品の質を判別できるかどうかということを度外視すれば、音楽家・俳優・芸人などは、聴力や視力のある全ての人間を対象(消費者)にすることが出来る。
しかし作家はそうはいかない。理解を度外視しても、対象(消費者)となるのは字が読める人間だけである。

この対象(消費者)の違い、言い換えると母数の違いは、上に書いた①~③(場合によっては①~④)を目的にする場合、かなり不利になるだろう。

これは政治の世界でも同じである。
文章で書かれたマニフェストは文が読まれる必要があり、文字が読め文章を理解できる対象にしか訴えられない。
しかし聴覚に訴える、例えば選挙カーでの名前連呼や遊説、視覚に訴える街頭立ちやテレビ出演などは、内容はひとまず置いておいても、対象(母数)が多いだけに効果が上がりやすいということになる。

私は近年、この違いをSNSでも感じることがある。
長文も多々あるホームページやブログの時代を脱し、Twitterなどの短文の時代がやってきた。やがて写真がメインなInstagramが人気を博す。
そして同じ人が同じようなことをTwitterやInstagramやYouTubeにアップした場合、動画であるYouTubeの視聴数が一番伸びる傾向にあるようにみえるのだ。
それは文章でも写真でもなく、わりと自由に喋ったり動いたり歌ったりという、私達が日常身近なところで目にする様式が一番受け入れられるということになるのではないだろうか。

現代でもこんな感じなのだから、この世界に分厚い長編を読める人がはたしてどれほどいるのか。
村上春樹が大衆に人気があるというのが本当だとするならば、読書という観点からは凄く不思議なことと言わざるを得ない。


識字率どれくらい?

夏目漱石は芥川龍之介の『鼻』を評価しつつも、大衆受けはしないと言ったが、冷静に考えれば「字が読める大衆がどれほどいるんですか、夏目先生!」といった感じになる。
芥川は大正時代の作家ということになるが、日本の識字率はどれくらいだったろうか。
実は識字率の明確な推移データは存在しない。

天理大学人権問題研究室紀要第17号:19―31,2014 (PDF)
日本の就学率は世界一だったのか 角知行
 から部分的に抜粋しています
(「本稿は,なるべく訓よみ漢字をつかわないスタイルを採るので、ご了解いただきたい」との補注があります。

かつてわたしは近代日本の識字率の検証をおこなったことがある(角知行:2012)。そこであきらかになったことは,「日本の識字率は99%で世界一だった」という説は,実は根拠となるデータのない俗説にすぎなかったということだ。真偽をたしかめられることなく,戦前から何度もくりかえされるナショナリズムの波のなかで,それは神話ともいうべき地位にまでたかめられていった。そして日本の経済的発展,日本人の知的水準,日本語の優秀さなどの説明に利用されてきたのである。

誤解の原因のひとつは,識字率と就学率の混同にある。「識字率99.8%」といわれることがあるが,根拠となる識字統計はない。文部省(現,文部科学省。以下同様)発表による1953(昭和28)年から1971(昭和46)年にかけての就学率は,小数第2位を四捨五入すると99.8%になる。その誤用としかかんがえられないのである。

いまでは差別語として使用されなくなった「文盲」という用語は,かつては非識字者ばかりでなく,不就学者もさしていた。「よみかき能力」や「識字」と訳される「literacy」が,以前には就学率として理解されていた事実もある。時代的な限界もあっただろうが,これらは識字率と就学率のちがいが十分に理解されてこなかったことに起因する。

たしかに識字率と就学率とは密接な関係にある。識字率の上昇は,基本的には就学率の上昇によってもたらされるからだ。しかし,両者のちがいは明確に意識されなければならない。識字率はよみかき能力をもつ15歳以上の成人が同年齢の人口にしめる割合である。一方,就学率は学齢における在学児童・生徒が同年齢にしめる割合をいう。対象とする年齢層は別物である。義務教育が拡大していく過程において,就学率が100%ちかくなったとしても,成人には依然として不就学者がおおくいる事実をわすれてはならない。識字率が就学率においつくには,数十年の時間がかかる。国勢調査の結果から,日本の15歳以上の就学(経験)者の割合が99%をこえたのは,したがって識字率も99%をこえたと想定できるのは,1970年以降のことである(同書:p.60)。

日本の識字率が世界一でなかったことはあきらかになった。では,就学率はどうなのか。識字率に転用/誤用された日本の就学率ははたして世界一だったのか。日本の地位をおとしめる必要はない。しかし事実は事実として追究し,就学率に過剰な意味づけがなされているのなら,とりさるべきであろう。本稿の目的は,各種の統計資料を渉猟しながら,就学率の真実を探求することにある。


就学率をめぐる言説は,ただ事実をのべるだけにとどまらず,なにかの目的をもっている。文部省の発表する就学率が100%ちかくなり,義務教育制度の完成という意識がうまれた1930年代(昭和初期),新聞や雑誌に,はやくも日本の就学率を誇示する記事があらわれている。東京日日新聞が1934(昭和9)年に発行した『新興日本』という雑誌の「世界に冠たり児童の就学率」というみだしの記事をみてみよう。

ーー昭和6年度調査によれば,…就学歩合は99.54%,正しく世界に冠たる高率を保ってわずかにフランスの92%が次位にあり,欧米諸国といえども80%台に残されているものが多々ある次第。ーー

同様の記事は新聞にもみられる。1942(昭和17)年10月25日の読売新聞は,「学制が布かれ七十年初めは小学校に高等,下等 今では世界一の就学率」というみだしのもとに,つぎのようにのべている(一部の旧字体は新字体にあらためた)。

ーー今では日本の就学率(国民学校に入学する者の割合)は99.4%で世界一です。近代的な学校の設備が一番早く出来たヨーロッパ諸国をはるかに追越しています。…東亜にある国々も日本にくらべたらお話にならないほど就学率は低く,私たちは教育の点でも日本に生れた幸福を深く感謝しなければなりません。ーー

「東亜」という用語からもわかるように,これには戦時宣伝という意味がある。日本人の知的水準の根拠として高就学率がもちいられているのである。新聞,雑誌をとおして,こうした宣伝は,日本人の意識に浸透していったものとおもわれる。

第二次世界大戦後の経済復興をへて,ふたたびナショナリズム的な風潮のなかで,同様の表現がみられるようになった。一例として,1986年9月22日の中曽根康弘元首相の発言をみてみよう。静岡県でひらかれた自民党の全国研修会でつぎのような話をした(朝日新聞,1986年9月27日)。

ーー日本はこれだけ高学歴社会になって相当インテリジェント(知的)なソサエティーになってきておる。アメリカなんかより,はるかにそうだ。平均点からみたら,アメリカには黒人とか,プエルトリコとか,そういうのが相当おって,平均的にみたら非常にまだ低い。(中略)
徳川時代になると商業資本が伸びてきて,ブルジョアジーが発生した。極めて濃密な独特の文化を日本はもってきておる。驚くべきことに徳川時代には識字率,文盲率は50%くらい。世界でも奇跡的なぐらいに日本は教育が進んでおって,字を知っておる国民だ。そのころヨーロッパの国々はせいぜい20―30%。アメリカでは今では字をしらないのが随分いる。ところが日本の徳川時代には寺子屋というものがあって,坊さんが全部,字を教えた。ーー

この発言がなされたのは,バブル寸前で,日本の就学率は世界一だった日本の経済状況がピークをむかえていた時期である。一方,かえす刀でアメリカの黒人,プエルトリコ人の平均点のひくさにも言及している。アメリカにおける差別の歴史や現状をぬきにして,こうした発言をすることの問題性はいうまでもない。実際,アメリカ国内では日本商品のボイコットにまで発展する反発をひきおこした。

近年は,日本の経済的退潮,相対的地位の低下のなかで,日本史の再発見,自虐史観のみなおしがさかんである。日本人の優秀さをとく本も多数出版されるようになった。たとえば『日本絶賛語録』(村岡正明〈むらおか・まさあき〉:2007)は,外国人がみた日本人の長所が列挙された本である。第2章は「世界を驚かせた聡明さと知的創造力の旺盛さ」と題されている。エルベ号の艦長として1860年に来日したヴェルナー・ラインホルト,ロシア正教会の宣教師として1861年に来日したニコライ,ドイツの考古学者で1865年に3か月日本に滞在したシュリーマン・ハインリッヒなどの見聞録の紹介がある。「世界無比の識字率」,「世界一読書好きな国民」,「西欧文明国に立ち優る教育の普及」といった,それぞれのみだしをみれば,記事の調子がわかろうというものだ。
また現在ではさまざまな教育問題が生じている。これに対処すべきよりどころとして,就学率のたかさが言及されることもある。たとえば教育学者の伊藤隆二(いとう・りゅうじ)は,つぎのようにのべている(伊藤隆二:1990,p.191)。

ーー就学率が世界一高いうえに,高学歴の人が世界で二番目に多いこの日本で,不正行為をする人,不正行為とは言えないまでも,他に迷惑をかける行為をする人が少なくないし,すすんで世のため,人のために尽くすという人が決して多くないのは,これまでの「教育」に欠陥があったのではないか。ーー

このように日本の就学率はさまざまな文脈でもちいられてきた。しかし「世界一の高就学率」がたしかめられることはなかった。言及される就学率の数字や順位は本当なのだろうか。言説の妥当性をとうためにも,その前提となる事実を検証する必要がある。


江戸時代の日本人のよみかき能力の研究としてよくとりあげられるのは,ドーア・ロナルドである。日本研究者として有名なドーアは,江戸時代の教育についても一書をあらわしている。日本が近代化政策にとりかかり義務教育制度の創設をはかった際に,すでにその実質的な基盤が準備されていたとされる。それが寺子屋による教育だ。当時の教育状況について量的な推定をおこなうことはむずかしいとしながらも,明治維新当時,「男児の40%強,女児の10%」が家庭外であらたまった教育をうけ,よみかきできたと推計する(ドーア:1965=1970,p.235)。補論においては先行研究をふまえて,よりくわしく「男児43%,女児10%」とみつもっている(同書:p.300)。
この数字はたいていの発展途上国よりもたかく,当時のヨーロッパ諸国とくらべてもひけをとらなかった。1837年のイギリス議会の特別調査委員が実施した調査が例としてあげられている。それによれば主要工業国における児童の就学率は4,5人にひとりであったということだ(同書:p.268)。日本研究家のパッシン・ハーバートも当時の日本人の識字率についてほぼ同様の数字を算出している(パッシン:1965=1980,p.55)。ふたりとも外国人研究者であることもあって,興味をひくとともに,日本国内でもその説が説得力をもってひろまっていったものとおもわれる。

しかしその後の識字研究において,こうした数字には疑問が呈されるようになってきた。たとえば八鍬友広(やくわ・ともひろ)は,明治初期に文部省によって実施された自署率(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に注目し,学制公布まもない時期の識字状況をしらべている。その結果はいくつかの県しかわかっていないが,滋賀県:64.1%(1877年),岡山県:54.4%(1887年)と50%をこえる県がある一方で,青森県:19.9%(1884年),鹿児島県:18.3%(1884年)など,20%に達しない県もあった(八鍬友広:2003,p.56)。

学制公布は1872年(明治5年)なので,それぞれの数字から多少さしひいたものが,明治維新当時の当該地域の識字率(自署率)ということになる。八鍬は,近世日本では一部の地域では識字がかなり普及していた反面,ごく一部の人だけがよみかきをおこなって大半はそれを必要としない地域もあったことをあげ,地域間格差のおおきさに注意をうながしている(同書:p.56)。
地域ばかりでなく,性別,職業別にみても識字率の格差はおおきかった。
またルビンジャー・リチャードは2007年(日本語訳は2008年)に『日本人のリテラシー:1600―1900年』を刊行した。これは長期にわたって日本人の識字状況を通観した,はじめての書といってよいものだ。さまざまな資料を駆使しながら,江戸時代を中心にして,日本人のよみかき能力を分析している。ルビンジャーの研究に特徴的なことは,識字率の数字がほとんどとりあげられないことである。それはよみかき能力の数量化するという量的側面よりも,どのように利用されていたのかという質的側面を重視するという姿勢による。識字率が重視されないもうひとつの理由は,よみかき能力におおきな格差がみとめられる。

学制が公布された,明治期以降の近代日本の就学率に話をすすめることにしよう。就学率とは学齢児童に対する就学児童の割合である。日本では1895(明治28)年以降は,6歳から13歳までの8年間が学齢とされ,在籍児童数と卒業生の合計を学齢児童数で除した割合が就学率とされた(土方苑子〈ひじかた・そのこ〉1987,p.361)。本来は就学が必要な学齢における就学児童数の割合が就学率とされるべきであるが,日本の場合には特殊な計算法が適用されつづけたことになる。就学率は学齢と関連する。各国と比較する際には,国によってことなる学齢をどうあつかうかが難問になる。
学制公布は1872(明治5)年であるが,その3年後の1875(明治8)年以降,文部省の発表した就学率を5年ごとにまとめたものが表1である。
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就学率をもってして識字率と言っているのではないかという見解をもとに、主に就学率について述べている論文である。
義務教育で字を教えるのだから、義務教育で教えられたものを全て覚えれば、確かに就学率と識字率は近くなるはずではあるが、実際にはイコールではない。テストで100点満点を取らなくても義務教育を卒業できるのだから、求められる識字を完全にクリアしているとは言いにくい。
そもそも日本の就学率の出し方は特殊だったようだ。
また諸外国と比べる場合には、国民とは国籍を有している者だけなのか、二重国籍者をどのように扱うのか、国籍を有さない住民も含めるのかなど、「国民」の定義や数え方、在留外国人の扱いの違いの問題が生じる。

識字率として見た場合には、何をどこまで読めて識字というのかという問題がある。
自分の氏名を書ける率(自署率)を識字率としたものもあったということである。
読書と絡めれば、読書が可能な識字なのか、「識字」と読み書きの「読み」の違いや関係などが問題として生じてくるだろう。

政治家や外国の研究者や親日家などが日本の識字率や読書率が高いという時には、エリート層男子の率(印象)であることが多いようだ。(ということは、外国ではエリート層男子も識字率や読書率がかなり怪しいということでしょうかね)
研究でも、どこに焦点をあてて、誰が調査するか、誰が考察を加え、誰が論じるかによって、数字も結果も変わりますものね。

ということで、結局、上の錚々たる作家が存命中の日本人の識字率や読書率はよく分からないとしか言いようがないが、ほぼ全ての人が対象となる音楽家や俳優や芸人よりは不利であることは揺るぎない事実であるはず。




(続けようと思っていたのですが、結構長くなっているので次回にします173.png


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by yumimi61 | 2019-09-24 12:18

天地昏冥

意識のチャンネル、人はそれを無意識とも言う

太宰治の一番有名な作品は教科書に掲載される『走れメロス』だろうか。それともインパクトある題名の『人間失格』か。
いずれにしても彼の全作品を読んでいて、その内容を全て即答できるという人物は現代にはほぼいないであろうと思う。


太宰治の実家は大地主で父親が政治家であったということは前回書いたが、他の兄弟がコネで成績を良くしてもらっていたような家にありながら、彼は少年期から成績の良い秀才だったという。
芥川龍之介をはじめ、菊池寛、志賀直哉、室生犀星、井伏鱒二など多くの小説を愛読し、自身も小説家を志望するようになる文学少年だった。中学時代には自らが主宰し友人と同人誌『蜃気楼』を発行していた。

芥川龍之介の小説に『蜃気楼』があるが、これは1927年3月に発表されたものである。一方、太宰の中学時代は1923年4月~1927年3月で、『蜃気楼』が発行されていた期間は1925年11月~1927年1月である。よって太宰が同人誌に芥川の小説タイトルと同じものを使ったということは考えられない。
従って芥川が同名の小説を発表した時、太宰は感銘を覚え、何かしら深い縁のようなものを感じたのではないだろうか。
ある意味、引き寄せられたというか、憑りつかれたというか、意識のチャンネルが合ってしまったというか・・・

ではその問題の(?)芥川龍之介の『蜃気楼』はどんな小説だったのか。

芥川が自殺する半年前に書かれた作品で、当時芥川をはじめとした文学者たちが逗留することで知られた湘南の鵠沼を舞台とし、主人公の「僕」が「芋粥」という短編を書いているなど私小説的な雰囲気が色濃い。
この晩年の掌編はごく短いものであるが「歯車」などに劣らぬ数の評論が書かれており、三島由紀夫もこの作品を「不思議と」好む人間の多いことを記している。

<あらすじ>
「僕」は友人たちとともに蜃気楼を眺めに鵠沼の海岸に出かける。しかし期待していた蜃気楼は見えず、ただ砂の上に青いものがゆらめいているだけだった。海は晴れていたが、空気は重く、どこかしら陰鬱だった。失望した「僕」たちは海辺の男女にも不気味なものを感じ、日の光にも不気味さを覚える。そぞろに歩いていた友人の一人がふと目についた木札を拾い上げる。それは水葬した亡骸につけられていた認識票がわりの十字架らしく、三人はそれを見つめながら海の上で亡くなった人に思いを巡らせるのだった。


僕はK君に返事をしながら、船の中に死んで行った混血児の青年を想像した。彼は僕の想像によれば、日本人の母のある筈だった。
「蜃気楼か。」
O君はまっ直に前を見たまま、急にこう独り語を言った。それは或は何げなしに言った言葉かも知れなかった。が、僕の心もちには何か幽かに触れるものだった。 — 芥川龍之介「蜃気楼」『芥川龍之介』翰林書房、2005年 p.95-96


友人のつぶやきが妙に心にひっかかりながらも、その日は何をするでもなくそのまま「僕」たちは別れた。 次の日も「僕」は友人と妻を連れて浜辺に出かけた。海は暗く、星もないなかでまた「僕」は不気味さを覚える。とりとめない話をしながら歩いていると今度は土左衛門の足らしきものが見つかったが、実はただ靴が砂に埋まっているだけだった。居合わせた男のネクタイピンが気になる「僕」だったが、それも巻き煙草を勘違いしたもので、妻は笑いをこらえる。しかし出来事といえばこの程度で、この日も何が起こるわけでもなく三人は家路に着いたのだった。


<作品について>
昼と夜とで二度繰り返される鵠沼の海岸を写生的に描写しようという意識が見られ、絵画的な印象を受けたとする声がある。小説内の時空間にはそれ以外の変化がなく、また筋のない、いわゆる「話のない話」である。三島や久米正雄などがこの小説に筋がないことを指摘し、またその成功をみている。

蜃気楼のテーマは夢や錯覚として反復され、記述は意識と無意識をめぐって運動している。これは「見える世界」と「見えない世界」(あるいは生と死)のあいだで「黙々と生を営む人間全体」を描こうとしたものだと國末泰平はいう。
「僕」が繰り返し感じるように「不気味さ」「暗鬱さ」がこの小説を覆っているが、一方で「僕」の妻はよく笑い陽気さを感じさせる。不気味であったはずの遺体の「木札」は友人の「マスコット」になり、「土左衛門の足」は砂に埋まった「遊泳靴」だとわかり、奇妙なネクタイピンは煙草だということもすぐに気づく。こうしてモチーフのもつ死の雰囲気は転調されている。
芥川の死の直前に書かれた作品であるという事実ははっきりとこの短編のトーンを暗いものにするかのようで、たとえば室生犀星はこの小説に「平和、甘い静かさ」をみているし、三島もこの情景を「明るすぎる海景」であり晩年の他の作品のように「あらゆる物象が不安に融解されて」いるわけではないとする。

「僕」の不安にざわめく心は落ち着いたのか、この海辺の情景は本当に暗いのか、蜃気楼のように判じがたいことが逆説的にこの小説の魅力の一つとなっている。



実は私も・・・

私も『蜃気楼』というタイトルで記事をアップしたことがある。
2009年3月3日 蜃気楼

そのタイトルを付けた時の私は、芥川龍之介も太宰治も、他の誰も、どんな作品も念頭にはなかった。
『蜃気楼』というタイトルを付けたのは、ハマグリからである。
ひな祭りにハマグリのお吸い物を作ろうと思い、ハマグリの写真を撮り、その写真をアップしている。
「蜃気楼」という気象現象の名称はハマグリと関連がある。

蜃気楼(しんきろう、仏・英:mirage、独:Fata Morgana)は、密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象。光は通常直進するが、密度の異なる空気があるとより密度の高い冷たい空気の方へ進む性質がある。
蜃(大ハマグリ)が気を吐いて楼閣を描くと考えられたところから蜃気楼と呼ばれるようになった。


蜃(しん、おおはまぐり)
蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説がある。


噛み合わない歯車

芥が龍之介が『蜃気楼』を発表した1927年3月に、太宰治は県立弘前中学校(旧制)を卒業して、4月から旧制弘前高校にすすんだ。

旧制中学校といのは当時は5年制で、年齢で言えば尋常小学校(7~12歳)を卒業した13~17歳の子供が学んでいる学校であるが、太宰は尋常小学校と旧制中学校の間に1年間、旧制高等小学校で学んでいる。
兄弟が旧制中学校の成績が不振で退学したため、太宰の尋常小学校の成績は開校以来の秀才と評されるほど良いものであったが、落ちこぼれないようにという親の意向で1年入れられたらしい。
旧制中学校も旧制高等小学校も入学年齢や卒業要件が同じであり、旧制中学校(尋常小学校卒業後の5年)に進むならば、旧制高等小学校(尋常小学校卒業後の2年)に進む必要は本来はない。
尋常小学校が現在の小学校、旧制高等小学校が現在の中学校、旧制中学校が現在の中学・高校、旧制高校が現在の大学教養課程に相当する。

太宰治の旧制高校の第一志望は、芥川(東京出身)も進学した東京の旧制一高(東京帝国大学の予科)であったが、第一志望は叶わず第二志望の旧制弘前高校に入学した。
第二志望で地方の高校とはいえ旧制弘前高校は秀才が集うエリート校であった。

そもそも旧制高校の手前の旧制中学校に進学できる子供自体限られていた時代である。
成績優秀で、ある程度の資産家の子供でなければ中学(現在の中学・高校課程にあたる)にすら進学出来なかったのだ。
旧制中等学校は中・上流階級の教育機関として位置付けられていたため、例えば、1935年の旧制中学校、実業学校、高等女学校の進学率は18.5%に過ぎなかった。それでも受験競争は激しく、社会問題化していた。このため、筆記試験の廃止や復活、報告書、口頭試問の実施といった試行錯誤が繰り返された。
旧制中等学校への進学率は農村部よりも都市部が高く、成績優秀でかつ中以上の資産をもつ家庭に育った児童が進学することが多かった。


旧制弘前高校というのは、当時左翼活動の盛んな学校の1つだったそうで、左翼活動家が幅を利かせていたらしい。
入学当初の太宰は比較的まじめに規則正しい生活を送っており、服装や雰囲気も左翼的な学生とは一線を画していて、周囲に馴染んでいないことから変わり者と見られたらしい。
また弘前市内で自宅通学できる者以外は寮生活が義務付けられていたが、太宰の母は「病弱の為」と偽って入寮させずに親戚の家に下宿させたりもしていたそうだから、余計に浮いたところがあったのだろう。
バンカラな左翼学生の中にハイカラな太宰がいた。

太宰治が目に見えて変わっていったのは、やはり芥川龍之介の自殺以後である。
高校に入学した年の夏休み、下宿先から実家に帰省中に芥川龍之介が自殺する一件があり、それに大変衝撃を受け感化されることになる。下宿先に戻ってもしばらく引きこもっていたという。

やがて彼は学業も半ば放棄して、義太夫を習い、花柳界に出入りするようになっていた。
前述した、 幇間の道化窶れやみづつぱな、という俳句はこの頃(18~19歳頃)に詠んだものであるという。
そして青森の料亭で15歳の芸妓と知り合い恋仲になる。
小説は書いていたが、この頃は左翼傾向の強い作品を書いていたという。
20歳の時に最初の自殺未遂があった。


目的と目標と手段

最初の自殺未遂は1929年12月のことだが、何事もなかったのごとく1930年3月には旧制弘前高校を卒業し、1930年4月には東京帝国大学文学部仏文学科に入学した。
(最初の自殺をした頃、旧制弘前高校の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。)

高校の成績は中の下くらいであり、フランス語も全く知らなかったという。
当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。

そして入学の翌月には井伏鱒二に弟子入りした。

芥川龍之介の自殺をきっかけに道を外したようでいて、ロスなく東京帝国大学に入学して上京するなど外しきれていない。
不幸や恵まれない環境にどこか憧れたり惹かれたりしつつも、完全にはそうはなりきれない。
ゆえに嘘くささとか浅はかさとか、そんなものを感じさせてしまい、もしそれが演技だとするならば下手な演技を見せられているような気になってしまう。
このあたりが後に一部の小説家から嫌悪される要因ともなったのだろうと思う。

一方そうは言われても、太宰治は太宰治で、エリートになりきれない、都会人にはなりきれない、上流階級にはなりきれない、自分自身ではどうにもならない宿命みたいなものに遣る瀬無さを感じていたんだと思う。
そこは、彼らは、本当に自分の憧れの対象なのか、本当に自分が嫌悪する対象なのか、自分でもよく分からなかったのでないか。
中間色の話で私は振れ幅が大きいと書いたけれど、現実的には、右にも左にも、上にも下にも、振りきれない自分を見てもいたのだろう。
どうあがいても到達できない場所があったということになる。
運命が宿命に勝てないならば、私達は何故に生きていくのだろうか。


彼の意思なのか、誰かの意向なのか。
濡れ衣なのか、図星なのか。
恨むべき実家なのか、頼るべき実家なのか。
左翼活動にしても、世間一般から見れば基本恵まれた環境にいる人達が行っているわけだから、所詮偽善なのか、それとも使命なのか。
泥濘に足を取られて抜け出せないような。
自分で自分の首を絞めていくような。


太宰治を嫌悪した小説家の代表格

三島由紀夫(1925-1970)
芥川龍之介が自殺した時は2歳。太宰治は16才年上になる。

・12歳の頃、『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』を、同じ痛みを感得して読む。その後、『斜陽』は雑誌連載時から読み、川端康成宛書簡には「『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります」と記している。しかしのちのエッセイでは、この作品に登場する貴族の言葉遣いが現実の貴族とかけ離れていることを指摘している。

・1946年12月14日、矢代静一に誘われて太宰と亀井勝一郎を囲む会合に出席した。矢代によれば「太宰が会ってくれることになった」と告げたとき、三島は目を輝かして「僕も連れてってよ」と邪気なくせがんだという。
三島はこの会合で、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言し、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたと三島は述懐している。
しかし、その場に居合わせた野原一夫によれば、三島は「能面のように無表情」で発言し、太宰は三島の発言に対して「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。三島はその後、しばしば太宰への嫌悪を表明し続けた。
(上記会合時、三島由紀夫は21歳、太宰治は37歳で自殺する2年前。終戦が1945年なのだから、まだ翌年のことで、私達後世の人間が学校やら書物やらテレビやら催し物やらで学んだところによれば、俗世間は戦後混乱期で食べることも、まともに生きて行くこともままならないほど大変な時期だったはずである)

・『小説家の休暇』では、「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた」「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」と記し、その他の座談会や書簡等にもその種の記述が見られる。

・小林信彦が「太宰のベストは中期の『お伽草紙』じゃないか」と言うと、大藪春彦は「そうだ、あれですよ」と同意した。太宰文学を否定する三島由紀夫との対談でも大藪は「太宰治は、戦争中はやはりいい仕事したんですよ。ああいうところは認めてくださいよ」「『斜陽』なんかは吐き気がするけど、『かちかち山』(ママ)なんか、ぼく、いいみたいな感じがするんだ」と発言、これに対し三島は「だめ、認めない。誰が何といっても認めない。ぼくが太宰がきらいなのは、青年の欠点を甘やかすということがきらいなのよ」、「カチカチ山」については「作品としてはいいよ。もっといえば、太宰は才能のある、りっぱな作家ですよ。だけど、太宰という存在そのものは唾棄すべきもんですよ」と応じ、大藪を不満そうに沈黙させた。

・晩年には、1968年に行われた一橋大学でのティーチ・インにて「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反撥するし、だからこそ逆の方に行くのでしょうね」と述べた。

・自決の2か月ほど前には、村松剛や編集者に対して「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白し、村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言ったとされる。





by yumimi61 | 2019-09-23 19:44

春夏秋冬

今は~~~~~もう秋~~~~~誰もいない海~~~~~♪

誰もいない海~二人の愛を確かめたくて~あなたの腕を~すり抜けてみたの~~~♪


春服の色教へてよ揚雲雀(あげひばり)  太宰治

春色の汽車に乗って~~~海に連れて行ってよ~~~♪


『赤いスイートピー』では「春色」を「はるいろ」と読んでいるが、「しゅんしょく」と読めば、春の景色や気配のことになる。また艶めかしい姿や様子という意味もある。


太宰治の実家(津島家)は青森県で有数の大地主で、父親は津島家に婿養子に入ったという人物で政治家でもあった。
非常に裕福で権力やコネなども効かせることができた家庭に生まれ育ったのである。
人の悩みは他人にはなかなか分かりづらいものだが、周囲から見れば恵まれた家庭環境に見えた。
感受性は人一倍強かったようだ。

上に書いた太宰治(1909-1948年)の俳句は、1939年12月、知人の結婚を祝して送った手紙に書いてあったものだそうだ。
太宰自身、1939年1月に結婚しているのだが、太宰の妻はその知人の奥さんの知り合いだった。

太宰は29歳の時に結婚したことになるが、その前に知られているだけでも3回の自殺未遂を起こしている。
また腹膜炎の際に投薬された鎮痛剤をきっかけに鎮痛剤中毒にも陥り、1935年に精神病院に1ヶ月ほど入院していた。
周囲は結婚したら安定するのではないかと考え、縁談をすすめたが、相手側から断られるなどして、なかなかまとまらなかった。

津島家に出入りしていた人物→井伏鱒二(小説家)に結婚相手の世話を依頼。
その頃(1938年)ちょうど井伏家に出入りしていた記者(井伏鱒二の学友の弟)が婚約中だった。井伏はその記者の婚約相手の父親に「良い人はいないだろうか」と手紙を出す。
父親から話を聞いた記者の婚約相手が女学校の後輩の姉を紹介。
紹介された女性の父親は地質学者で当時は島根県の中学校で校長をしており、彼女自身も山梨県の高校で教師をしていた。
2人は1938年9月に初めてお見合いをして、1939年1月に結婚した。

その1939年の12月に春の季語を入れて「春服の色教へてよ揚雲雀(あげひばり)」という句を作った太宰。
太宰もまだ新婚と呼べる時期にいて、実際に春という季節を通り過ぎてきたはずだが、彼は春服の色が分からなかったのだろうか。
分からなかったのではなくて、「君のところの春服の色はどんなだい?あとで教えて」という意味なんだろうか。

そして何故に雲雀(ひばり)だったのだろう。
雲雀(ひばり)は春にさえずりを聞くことが多い鳥で、春の季語でもある。
寒い季節に別れを告げて暖かな季節が始まるのが春。芽吹きや開花の季節でもある。だから春は始まりの象徴にもなる。新年もまた春と呼ばれる。
だけど雲雀には、揚雲雀という言葉があるのと同時に落雲雀という言葉もある。朝雲雀もあれば夕雲雀もある。
出会いがあれば別れがあると言われるように、春は出会いの季節でもあり別れの季節でもあるとも言われる。
雲雀は急にすーっと上に上がったかと思うと、一気に落下するという特徴的な飛び方をする。
地上から見えないくらい高い所でホバリングしてさえずるせいか「告天子」とも書き、それを「ひばり」と読むこともあれば「こくてんし」と読むこともある。



「春色」が実際に色のことを指すとしたら、何色だと思いますか?
私が春の色と聞いて真っ先に思い浮かぶのは黄色です。
早春を告げる花には黄色が多いような気がします。
もう少し春が進むと桃色(ピンク)とかが増えるせいか、春は中間色であるパステルカラーのイメージが強く、洋服にしても春はパステルカラーが並ぶような気がしますが、黄色は原色ですね。

では雲雀が高い空から地上を眺めた時に、地上が着ている服は何色だろうと考えてみる。
やっぱりそれは緑ではないかしら。それもたぶんまだ若々しい緑だから、どちらかと言えば黄緑に近いような緑。

雲雀の飛び方のように、振れ幅の大きい生き方というか感情から逃れらず、淡く生ぬるい優しい中間色の色付けが苦手だったのかもしれないなぁと思う。
妥協が出来ない性分というか、上手く折り合いが付けられない性分というか。
自身でも中間色を望んでいるのに、その中間色に居心地の悪さを感じてしまうような、どうしようもなく救いようのない自分があった。


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私は親知らずが4本とも生えていたのですが、悩みに悩んで、今日の夕方、親知らずを片側上下2本抜歯してきました。
下の親知らずは歯茎を切り、骨を削り、歯を割って、取り出しました。は~

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怖いのは親知らずの抜歯であって、歯医者さんはとても優しいです。
帰りにちょっとお買いものしたけど、パン屋さんに寄って「柔らかいパンありますか?」とは訊きませんでした。
「お年寄りが食べるんですか」と訊かれると困るから。
「はいそうです」「そのままじゃないかー!」みたいな感じになっても悲しいから(笑)
だけど本当に歯医者さんには「もうこのあたりが限界かもしれません」と言われたんですよ。(親知らずを抜く時期の話)
親知らずを抜くのであれば早い方が良いそうで、私の下の親知らずは骨とやや癒着気味で下顎に走っている神経にも近かったので、簡単には抜けないかも、お年寄りだと年を取ればとるほどもっと硬く癒着する可能性が高いしリスクも高くなる、抜いた後はたぶん凄く腫れるし痛いと脅され!?
私、かなりびびる。
「入院して抜いたほうがいいですか?148.png」と訊いたくらいだったのですが、麻酔込で2本30分で無事に終わりました。
今のところ、痛みも腫れもそれほどではありません。まあ薬を飲んでますけれど。









by yumimi61 | 2019-09-22 11:20

懇切丁寧

柿柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

柿を食べたら、鐘が鳴った法隆寺。
法隆寺の茶屋で柿を食べた時に詠んだ句とのこと。
鐘は次に進むべき合図の音と捉えているのではないかと思い巡らせてみる。
花より団子ではないけれども、格式高いお寺よりも秋の紅葉よりも柿に舌鼓を打っていたところで鐘がなり、’柿も良いけれど、そろそろ休憩は終わりにして、次に進んでくださいな’というお知らせに聴こえたというような・・・
次というのは相も変わらず法隆寺かもしれないし、奈良の別の何処かかもしれないし、京都や大阪かもしれない。
また俳句には季節が付き物であり、柿は秋の季語である。
この俳句の鐘を合図と捉え、秋の次を感じ取れば、待っているのは冬である。
歴史を想ったか人生を想ったか分からぬが、正岡子規はこの時点で冬を見ていた。
そう思うと、鐘の音は1年の終わりと新しい年の始まりを告げる除夜の鐘にも通じていく。
ここまで考えて味わえば、「法隆寺で柿食ってたら鐘が鳴ったよ」という味わいのない写生的な俳句ではなくなる。
秋を感じさせる名句だと言われているが、過ぎた夏(夏季)や来たる冬に思いを巡らせることが出来てこそ秋の名句となり得るのであって、単なる秋の風景描写では心に響かない。

鐘は合図の音だったのかもしれないと私が思いついたのは、修学旅行と学校のチャイムからであり、学校生活という経験がなければ、想いは巡らなかったかもしれない。


柿柿くふも今年ばかりと思ひけり

柿を食べたけれど、今年限りと思ったんだ。(今年限りと思ったから柿を食べたよ)
正岡子規は大の柿好きだったそうで、毎年秋になるは門下生から沢山柿が送られてきたんだそうだ。(柿の句も沢山ある)
しかしすでに肺結核を患っていた1899年(亡くなる3年前)に主治医から柿を食べることを禁じられ、送られてくる柿は家人や客人が食べたという。

①不治の病(当時は)を患っているのだから、好きなものくらい好きなだけ食べさせてやればいいじゃないか。
②いやいや、不治の病だなんて思いたくないし、彼は養生して少しでも長生きする必要があるんだ。
あなたならどちらを選びますか?

「柿くふも今年ばかりと思ひけり」という句は前書きに「きざ柿のお礼に」と書かれ、礼状に書かれた句だった。1901年11月のこと。

きざ柿というのは木になったまま甘くなる甘柿のことである。
柿はかなり沢山の種類があるが、もともと柿は全て渋柿だった。
よって木の枝から採ってすぐに食べられるという果実ではなかったのである。
渋が抜けないと渋くて食べられないので、昔は吊るし柿(干し柿)にした。今でも晩秋に田舎の方に行くと軒先に柿の簾が見られることがある。
アルコールで渋抜きをするということも昔から行われてきた。
家庭ではなくて出荷される渋柿も炭酸ガスやアルコールで渋抜きれている。
私も結構柿が好きで、最近は特に平たい種無しの柿(←売っているのは甘いけど品種は渋柿)が好きである。どちらかと言うと柔らかい柿ではなくて硬くて甘い柿が好み。
実家にも柿の木があるが、実家の柿の木はたわわに生らせてしまうせいか実が小さく、種もある甘柿である。木が大きくなりすぎて手を伸ばして簡単に採るというわけにはいかず、そうこうしているうちにわりとすぐに熟して柔らかくなってしまう。

それはともかく、渋柿がある日突然変異を起こし、その後それに品種改良を加えて、甘柿の品種が誕生した。
木で甘くさせて、なお他人に送れる(贈れる)柿だとしたら、間違いなく甘柿である。
きざ柿の贈り主は、正岡子規が主治医から柿を食すのを禁じられた1899年から毎年きざ柿を送ったというから、①の気持ちが大きかったのではないだろうか。
1901年11月に来年は秋はないだろうと書かれた礼状をもらった贈り主は、1902年2月に菱餅を送ったという。
その礼状に俳句はなく、「珍らしきものありがたく候。碧梧桐(正岡子規の高弟)へもわけ申候。」と書かれていたそうである。

様々な背景を知れば知るほど響く句であるとも言えるが、そうでなくても「柿くふも今年ばかりと思ひけり」という句は哀愁が漂う。
死ではなくて、何か他の状況下で柿が食べられなくなるとしても、それはそれで物悲しさを感じる。
だから詳しい状況が分からずとも、その意味を深く考えずとも、この写生とは言えない俳句は人々の心に訴えかけていく力があるということになる。

正岡子規が法隆寺で詠んだ柿の俳句との繋がりから考えると、「今年ばかりと思ひけり」に除夜の鐘を思い起こすことが出来る。
あの時見た冬が、あの時思い巡らせた除夜の鐘が、いよいよ近づいているという気持ち。
除夜の鐘の最後の1回(108回目)は年を跨いで新年になってから鳴らされるそうだが、自分には来年の秋は来ず、もう柿の句を作ることもないだろうということを詠み込んだとも思える。


柿柿食うな身体冷えると君は言う ←これは私が作りました

正岡子規が主治医に柿を禁じられたきっかけは、柿を食べすぎてお腹を壊したことにあったようだ。

結核の有効治療(化学療法)が確立したのは戦後のことであり、これまたそれほど古い話ではない。
なにしろ結核の最初の有効治療薬ストレプトマイシン(抗生物質)が誕生したのが1944年のことである。
それまでは自然治癒力頼みだったのである。
自然治癒力を上げ、自然治癒力を阻害するものを防ぐという原則に基づいて、空気の綺麗な所で安静にして栄養を摂取するという大気安静栄養療法しかなかったのである。

柿は栄養価の高い果物として知られている。
また昔は肺結核の喀血にも良いとされていた。
柿の渋はタンニンであり、タンニンは収斂作用を持つ。
収斂作用とはタンパク質を変性させることにより組織や血管を縮める作用であり、止血、鎮痛、防腐などの効果があるからである。

正岡子規が大の柿好きだったのは、そして門下生らが柿を贈ったのは、結核だったからこそなのかもしれない。
そう思うと、柿好きな点まで哀情を帯びてくる。

正岡子規は柿を食べすぎてお腹を壊したということであるが、タンニンには便を固める作用もあるので下痢に良いとされる一方、柿は同時に水溶性食物繊維の一種であるペクチンも含んでいるので便秘にも良いとされる。
下痢と便秘という正反対の症状に効く物質を含むということは、その匙加減が難しいということでもある。

柿は甘柿でも渋柿でも硬いうちは、東洋医学で言うところの陽性の食べ物である。
ところが熟して渋が抜けてくると、陰性の食べ物になる。特にアルコールや炭酸ガスなどで渋を抜いたさわし柿(さらし柿)は陰性の度合いが強くなる。
吊るし柿(干し柿)は甘くはなるが厳密に言うと渋を完全に抜いているわけではなく、こちらは陽性の食べ物となる。
陰性の食べ物は身体を冷やすと言われている。

もともと柿は渋柿だったから、干し柿にする以外は渋を抜いて食していたはずである。渋を抜くと陰性になる。
甘柿を熟しすぎないうちに届ければ、まだ陽性の食べ物ということになるので、きざ柿にも意味があったんだろうなぁと思う。

また西洋医学的に言うと、タンニンは酸と鉄分をカルシウムと結合させて沈殿させる作用があるので、あまり多く摂取すると鉄分の吸収の阻害をしてしまい貧血を生じさせる恐れがある。
さらに柿には利尿作用のあるカリウムが多いため頻尿に繋がり、血圧を上げて体内の温度を保つ働きがあるナトリウムが体外に排出されてしまう。
これらの点からも柿は身体を冷やすと言われる。

身体を冷やすということは、胃腸を冷やすということであり、食べ過ぎればお腹を壊しても不思議はない。
さらにタンニンは胃に結石(胃石)を作りやすくもある。

有効治療法がなく、大気安静栄養療法に望みをつなぐしかなかった当時だからこそ、正岡子規は柿を食べたんだろうし、医者は柿を禁じたんだろうと思う。


柿柿食うな身体冷えると君は言う 

やや古めかしく書けば、
 柿くふな身命冷ゆと君は言ふ
 柿くふな体冷ゆると君は言ふ

こんな感じでしょうか。

連歌じゃないけど、後の繋がり(短歌)を意識したり、余韻を残すのだったら、
 柿くふな身命冷ゆと君は言ひ
 柿くふな体冷ゆると君は言ひ
でもいいかな。

上は正岡子規の主治医が柿を禁じたという話から医学的な柿の作用について書いたけれど、「君」は医者でなくても成立する。

妊娠中に柿は身体を冷やすから食べすぎないようにと言われり見聞きした経験はないでしょうか。
今はもうそんなこと言う人はあまりいないのかしら。
だいたいそんなに柿食べないしー?

タンニンには収斂作用があると前述したが、渋抜きがされていない陽性な柿にはタンニンが残っている。
陽性の食べ物は身体を暖める方になるが、タンニンがあると子宮の収縮も促進してしまうのである。
産後であれば、子宮収縮が促進されることは元に戻ることを意味していて、産後の肥立ちが良いということになるのだが、妊娠中に子宮が収縮したら困る。

よって柿は、渋を抜くと身体が冷える、渋を抜かないと子宮が収縮する、という状態になり、どっちもどっちな感じになってしまうのだ。
身体の冷えを心配したからといっても、渋抜きされていない柿を沢山食べさせるのも良くない。
柿は・・優しさが仇になるみたいな・・・悲しさをどこかに秘めている・・・・(大げさですか?)

ということで、あえていうならば、「妊娠中は柿を食べ過ぎないように」くらいな感じになるかなぁと思って。





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by yumimi61 | 2019-09-20 11:45

渾渾沌沌

俳句は新進の文芸

前回俳句を取り上げたけれど、俳句というものはそれほど歴史があるものではない。
短歌に比べると1000年くらい遅れて確立した定型詩である。
短歌は7世紀頃の作品が残っているが、俳句は17世紀の松尾芭蕉の俳諧連歌(俳諧)の発句に始まったもので(当時はまだ俳句とは呼んでいなかった)、「俳句」として成立したのは明治時代のことである。
明治時代に俳句と名付けて成立させたのは正岡子規。
松尾芭蕉は俳諧師であった。

俳諧連歌
「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔(かいぎゃく)」等の意味が含まれる。平安時代前期に編纂された『古今和歌集』に集められた滑稽な和歌は「誹諧歌」と呼ばれていた。
和歌の連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が「俳諧連歌」もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれて一般に好まれた。
江戸時代に大成し、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇った。 


連歌は1人で創作するものではない。最低2人の複数人で創り出す集団文芸である。
基本となったのは、和歌(短歌)の上の句五七五と下の句七七を別の人が詠むというもの。
さらに五七五七七だけでは終わらずに、その後も五七五、七七、五七五、七七というように詠み続けていき、おおよそ百句をもって連歌一作品となっていった(長連歌)。さらに長く千句にもなる連歌もある。
連歌の中でも面白みや洒落っ気のあるのが俳諧連歌ということである。
このような連歌の冒頭の句(一番最初の五七五)を「発句」と呼ぶ。

(正統的な連歌にしろ俳諧にしろ連歌は)連句としての前後のつながりを含めて作品であること、複数人で続けて句を詠みあうという表現の性格から作り手と受け手が同一空間にいることといった特色があるため、本来連歌としての俳諧は、近代以降の俳句と評価の視点が異なる。

俳句は連歌の発句が独立したものであり、複数人いなくても個人で成立する。
発句だけが独立しても観賞に耐えうる句という位置づけで発展したわけであるが、もともとが連歌の発句であり、その発句だけを取り出したり、発句分の文字数でしかないということは、言うなれば主語のみで述語のない文章、結論のない文章、状態や風景描写のみで結果や感情表現のない文章、に相当することになる。
だからぶっちゃけ誰か知らない人の詠んだ俳句を心底理解することなんて到底無理な話である。


俳句は写生という時代

俳句は写生に徹し主観(心象や幻影)を入れてはいけないと言われることもある。
自然と生活をありのままに詠えということである。
それを芸術的に表現できたのが松尾芭蕉と言われており、与謝蕪村は芭蕉を継承しつつ、自然と生活への感動を盛り上げるべく詠うのが俳句であるとした。
いずれにしても目の前の事実(真実)が重要視され、それを写生的に詠むのが正統(正風)な俳句とした。
彼らにしたら心象風景なんか詠み込んだらダメというわけである。

でもそれは発句と考えれば、ある意味、当然のことである。
いつどこで、何があって、どうしたこうした、こう感じた。←これが文章の流れとしては一般的である。
発句は、「いつどこで」とか、「いつどこで何があって」くらいの所にあたるので、自ずと写生的になる。

連歌の発句という位置づけから完全に独立させたのが正岡子規。
発句から自立した俳句の変革者ということになるが、正岡子規は松尾芭蕉の発句のような俳句はつまらないと言った。
どちらかと言えば与謝蕪村派だったのである。蕪村は風景描写だけでなく実感も込めるべきという主張であった。
しかしながら写生が基本であることは、正岡子規も松尾芭蕉とも与謝蕪村とも同じであった。

ちなみに正岡子規は夏目漱石と生涯の親友で同居していたこともある。
1897年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905~1906)や『坊っちゃん』(1906年)はこの雑誌で発表された。
夏目漱石が芥川龍之介を門下生にし、『鼻』を称賛するちょうど10年前の事である。

正岡子規は、松尾芭蕉嫌いだったのか、それとも極めて個人主義なのか、連句を全くといって評価しなかった。
また俳諧連歌の豊かな言葉遊びや修辞技巧を強く否定した。

萩原朔太郎も芥川龍之介の俳句を批判した『俳句研究』に掲載された文章を読む限りにおいては、与謝野蕪村や正岡子規の考え方に通じるものがある。


川柳

川柳は現代においても、季語は必要ないし、写生である必要もないし、感動ではなくダメダメな生活を詠んでも誰も怒らないし、どんな言葉を使っても構わず、自由である。
この川柳も俳諧連歌から生まれた。
五七五七七の下の句の七七が最初にお題として与えられ、各々が上の句を創作するという付け句と呼ばれる遊戯的な文芸が川柳のルーツである。
今は下の句をお題にするということはないが、大会などでは今でも何かお題が与えられることが多い。


柿食うな身体冷やすと君は言う

正岡子規は生涯で20万句を超える俳句を詠んだらしい。
それに比べたら確かに芥川も太宰も寡作ですね。

その中でもっとも有名な句。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

写生的であるのは分かるとして、正岡子規の実感をここから感じ取れますか?
自然や生活への感動を読み取れますか?
う~ん・・・
奈良県が柿の名産地で、法隆寺が歴史ある古いお寺で世界最古の木造建築物である、といった豆知識を考え合わせれば、なんとなく高尚で趣きがある気もしてくるけれど、何の情報もなく「法隆寺で柿食ってたら鐘が鳴ったよ」とか思えばちょっと微妙な感じも致します。
私などは、鐘と金(金堂だけにね)に掛けていて、柿の色で金色を思い出したのでは?とか思ってしまうタイプです。
あ~でもなんとなく京都の秋を想ってしみじみとはするかな。


一方、こちらの句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」よりもずっと心に響く。
柿くふも今年ばかりと思ひけり

正岡子規は1902年に34歳で肺結核にて亡くなっている。1895年から約7年間結核を患っていた。
彼は夏目漱石が小説家として大成したことも知らずに亡くなったのだ。
柿くふも、という句は死の前年に詠んだ句だそうで、もう来年の秋はないだろうと死期を悟っていた。
心情を詠った句はすっと浸み込みやすい。

一般的に他者が詠った写生的俳句が、その場にいもしないのに、心に響いてくるというとはあまりないだろうと思う。
同じ場所に行ったことがあるとか、同じ経験があるとすれば、自分をそこにワープさせて感傷に浸ることはあると思うけれど、真っ新の写実は心には響きにくい。
真っ新な写実でも響くとすれば、俳句に接する側が俳句の背後にあると思われるストーリーを勝手に脳内創作して観賞する時だろう。


ちなみのこの句も正岡子規ですね。
赤とんぼ筑波に雲もなかりけり







by yumimi61 | 2019-09-19 21:50

多情多恨

なんでも症候群を付ければよいわけではないけれども、ディレッタントが怖い症候群!?

芥川龍之介が死の暗黒と生の無意義について語った時、うっかり「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある」と言ってしまい、「著作? 名声? そんなものが何になる!」と激しく芥川を怒らせた萩原朔太郎。
2人は親友であったが、この時だけでなくたびたび激論を交わしていたようだ。
俳句についても意見の相違があったようである。

小説家の俳句 俳人としての芥川龍之介と室生犀星  萩原朔太郎
 (下記文章は私が部分的に抜粋したものです) 

 芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。

他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。

室生犀星氏がいつか或る随筆で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら静かに句想を練る気持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする気持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、真の打ち込んだ文学的格闘がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事としか見られないのである。

 芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書画のあらゆる文人芸に達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。僕は氏の晩年の小説(歯車、西方の人、河童等)を日本文学中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文学であるアフオリズム(侏儒の言葉)と共に、友情の割引を以てしても讃辞できない。むしろこの二つの文学は、彼のあらゆる作品的欠点を無恥に曝露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を単に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、真の打ち込んだ人生熱情や生活体感が何処にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭脳の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文学で才人としての彼の病所と欠点とを、露骨に出したやうな文学であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ヂレツタンチズムの衒気で露出したやうなものであつた。

 いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局気質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と数十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文学の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。つまり言へば彼の詩文学は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才気だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文学なのだ。そしてかかる文学的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的性格とは、常に「燃焼する」ところのものであり、高度の文化的教養の中にあつても、本質には自然人的な野生や素朴をもつものなのに、芥川氏の性格中には、その燃焼性や素朴性が殆んど全くなかつたからだ。そこで彼が自ら「詩人」と称したことは、知性人のインテリゼンスに於てのみ、詩人の高邁な幻影を見たからだつた。それは必ずしも彼の錯覚ではなかつた。だがそれにもかかはらず、彼の宿命的な悲劇であつた。


1938年『俳句研究』に掲載された文章であるので、芥川龍之介が自殺して11年後ということになる。
ちなみに前に転載した「詩人の死ぬや悲し」は1934年の文章であり、そちらでは一応芥川も詩人扱いになっていたが、俳句を語っているこの文章では随分と酷評している。

萩原朔太郎(1886-1942)は友人である芥川龍之介(1892-1927)と室生犀星(1889-1962)について書いた。
室生は自身で句想を練るのは仕事を終わった後と書いていたそうで、それについて萩原朔太郎も作家たちが詩や俳句を作るのは飽食の後で一杯の紅茶を飲んだり、仕事の後に麻雀でもする気持なんだろうと述べている。
しかしながら芥川と室生は全く正反対であり、室生の俳句等は生活や肉体を感じさせるものがあり、粗野で逞しく、そのくせ優しくセンチメンタルだと褒めている。

でも私は、俳人や詩人が創作する俳句と、小説家が創作する俳句が、同じ傾向や意義を持ち同じ価値に値する必要は別にないと思う。
小説にしろ俳句にしろ、それを読んで何かを感じたり解釈する人が一様ではないように、俳句を詠む人だって一様ではないし、ましてや詠まれる俳句が一様の傾向や価値を持つ必要は全くない(俳句と称する以上は俳句のルールは守ったほうが良いけれども)。

但し、その多様性というか傾向や価値の違いは、大衆受けするしないという区別、プロによる審査や評価において称賛されるされないという区別を生むだろう。
萩原朔太郎が俳句の審査員だったら、芥川龍之介の俳句作品は賞を取れないということだ。でも審査員が変われば評価は全く違うかもしれない。
さらにひょっとしたら、同じ俳句でも芥川龍之介ではない違う人物の創作したものだったとすれば、そこまで酷評はされなかいかもしれない。
逆もありうる。芥川龍之介だから良い評価が付いて、無名の素人だったら箸にも棒にも引っかからないということ。


水洟つながり

先日、水洟の俳句を取り上げた。
芥川のそれは辞世の句と言われているものである。

 水洟や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介(1892-1927)

 水洟も郷里艶めく橋の上   飯田龍太(1920-2007)


水洟の俳句はあの人達も詠んでいる。

 水洟や喜劇の灯影頬をそむ   飯田蛇笏(1885-1962)

 水洟や仏具をみがくたなごころ  室生犀星(1889-1962)

 幇間(ほうかん)の道化(どうけ)窶(やつ)れやみづっぱな  太宰治(1909-1948)


関係性は次の通り。

・芥川龍之介は飯田龍太の父親である飯田蛇笏(1885-1962)の俳句の影響を受けている。
飯田蛇笏は最初に芥川の「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」という俳句と接し、芥川が創作したとは知らずに称賛した。萩原朔太郎は上記文章中でこの俳句に対しても厳しい評価を付けている。
飯田蛇笏は芥川の俳句を小説よりも高く評価したという。

・室生犀星は芥川の親友で、近所にも住んでいた。

・太宰治は芥川が自殺した時には高校生だった。大変衝撃を受け、以後芥川を理想とし心酔していった。そのせいなのか、再三自殺を試みて(未遂に終わる)、最終的には愛人と玉川上水で入水自殺した(享年38歳)。

萩原朔太郎は、芥川が『余が俳句観』と題するエッセイを書いていたほどなので、さぞかし俳句作品が沢山あるかと思っていたが、全集を読んでみたところ意外に寡作なのに驚いたと述べているが、太宰はそれ以上に寡作で20~30くらいの俳句しかないそうである。

それぞれの俳句の創作時期がはっきりしないが、この関係性から考えれば、それぞれみな「水洟」をあえて使って俳句を作ったと考えるほうが自然だろう。


crownとclown

飯田蛇笏の俳句には「喜劇」という言葉が、太宰治の俳句には「幇間(ほうかん)」や「道化」という言葉が入っている。
幇間は太鼓持ち、男芸者のことで、道化師と言ってもよい。
芥川の俳句の「鼻の先だけ暮れ残る」を「鼻が赤い」と解釈すれば、ピエロ(クラウン・道化師)が彷彿できる。
道化師ー人を滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称。

「水洟」は冬の季語である。鼻水のこと。
鼻水が出るのは寒い時や風邪をひいたとき(感染症に罹患した時)。
もうひとつ泣いた時にも涙と一緒に出ることが多い。そして大抵鼻が赤くなる。

悲しみと励まし(失望と希望)、幼さと成長、悲劇と喜劇、不浄と神聖、披露と疲労。
上に挙げた全ての俳句が対比を織り込んでいるように思う。


春の木漏れ日の中で君の優しさに~

1927年に自殺した芥川が主治医に渡してくれと頼んだ俳句「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」には元になった俳句があった。

そちらは1925年に創作された俳句だという。もう自殺を決心していた頃ではある。

 土雛や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介

土雛というのは春の季語で、雛人形のこと。
身近にある安価な材料(土や紙)を使って自給自足で素朴な雛人形を作った時代や地域があったのだが、土雛は文字通り土を用いて作った陶器の雛人形である。

さては、陶器に冬季を掛けたのか?
春だけど、少し寒いね、みたいな感じ?
春なのにお別れですか~~~とか?

素朴な風合いの土雛の鼻が実際に赤く塗られていたので、自然の夕焼けの赤を重ねて詠んだ歌かもしれない。
しかし芥川龍之介の子供達はみな男の子である。
どこかで偶然目にした土雛に心が動かされた?

1920年(大正9年)3月30日、長男芥川比呂志、誕生。
1922年(大正11年)11月8日、次男芥川多加志、誕生。
1925年(大正14年)7月12日、三男芥川也寸志、誕生。



過去と未来の交錯

鼻というのは、芥川龍之介の作品名でもある。

そして、先という言葉は、過去のことであったり、未来のことであったりする。
先人、先妻、先頃、先日など、現時点から見たら後ろ(過去)を指している。
でも、先に進むなど、今よりも手前(未来)のことを指したりもする。

芥川の俳句の「鼻」が自身の作品『鼻』にも掛かっているとすると、先はどちらだろうかと考えてみる。
一般的に考えれば、おそらく過去側だろう。
つまり夏目漱石が作品を評価する前が「鼻の先」にあたる。
暮れ残っているのだから、そこにはまだ明るさがあった。


筆を擱く

芥川龍之介は『鼻』のラスト
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。


芥川は哂ってくれる人を欲した。哂ってくれる人がいなければならなかったのだ。

なぜなら芥川は人間の愚かで悲しい性(さが)や不幸を描いたからだ。
これはめでたしめでたしで受け取ってもらっては困ると思っていた。
そこには小説としての捻りや技巧や機微がある。

夏目漱石の評。
あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。

夏目漱石はそれを評価したが、大衆に受け入れられることは難しいとも言った。だというのに市場に引っ張り出した。

土雛や鼻の先だけ暮れ残る
この俳句も、上の夏目漱石の評がそのまま当てはまると私は思う。
小説ではないが捻りや技巧や機微もある。

萩原朔太郎はきっと哂うだろう。哂ったのだ。
萩原朔太郎にかかったら、「気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として綺麗事に戯れている」ということになりそうだ。
肉体も生活も、野生味も素朴さも何処にもなく、末梢神経的な凝り性と趣味性を露出した俳句と言われそうである。


それなら肉体と生活を入れてやろうじゃないか!

自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

これでどうだ。





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by yumimi61 | 2019-09-17 17:46

雅俗混淆

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出来ない集団


前記事が耳と目の話だったので、今回は鼻のこと。

芥川龍之介の『鼻』は元話があり、その話を参考にして、そこから展開した話になっている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」を題材としている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」は、同じ内容の話である。


京都に禅智内供という高僧がいた。熱心にお勤めされる僧で、そのせいか寺は繁盛し、多くの人が訪れ、弟子の法師もたくさんいた。
その高僧は鼻が長く、15~18㎝はあった。
(但しどうやら元々鼻の形体が大きいというわけではなく、腫れて大きくなっているようである。ある対処をすれば普通の人と同じサイズになるのだが、それでも2,3日もするとまた大きくなってしまうのだった)
大きな鼻の時には、鼻が口を塞いでしまうために食事がしにくい。そこで弟子の法師に鼻を持ち上げさせていた。しかしコツがあるようで、誰でも上手にサポートできるわけではなく、1人の弟子法師が担当していた。彼がいなければ食事は抜いていたほどだった。
ところがその弟子法師が体調を崩し、その役目が出来なくなってしまった。さてどうしたものかと困っているところに、1人の寺童(召使的の少年であり弟子法師よりも地位は低い)が「私は今までの法師よりも上手に出来ます」と名乗りを挙げた。
その寺童は見た目が良かったので、他の者に比べると上の者から呼ばれることが多かった童だった。そして今回も呼ばれることになった。
実際やらせてみると、「今までの法師よりも上手である」と禅智内供も大満足。
ところが急に寺童は自分の鼻がムズムズしだし、大きなくしゃみをしてしまい、持っていた鼻が椀の中に・・・結果、禅智内供が食べていた粥が大散乱。
禅智内供は怒った。「情のない乞食小僧め!私ではなくもっと位の高い人の御鼻を持ち上げていてもこんなことをするのか。出て行け!」
追い立てられた寺童は隠れて言った。
「この世にあんな鼻をしている人が他にあるものか」
これを聞いた弟子法師たちも隠れて大笑いしましたとさ。

という話です。(私が要約・解釈したものです)

=鼻対処法=
たらいに湯を沸かし、蓋をして、その蓋に鼻が入るだけの穴を開ける。
そして穴に鼻を入れて鼻だけを茹でる(温める)。よって鼻の色は濃い紫になる、
その鼻を人が踏む。するとぶつぶつした穴ごとに煙のようなものが出てくる、さらに踏むと穴から白い虫が出てくるので、それを取り出す。
その後に、また鼻を湯に入れて茹でると鼻が小さくなる。


どうでしょうか。白い虫と書いてあるけれど角栓っぽくもないですか?
そうでなければ、粉瘤とかガングリオンとか脂肪腫とか、あるいは化膿しているか。
あるいはあるいは、気にし過ぎて触ったりいじったり対処しすぎで、腫れていたり火傷しているだけとか。

食事時に鼻を持ち上げるにはコツがあったようなのだが、このコツというのは平常心ではないだろうか。
白い粥から白い虫を想像してはダメなのである。例え想像しても平常心を保たなければならないのである。
グロテスクな腫れ物と白い粥という組み合わせに、気持ち悪いと感じたり不快に思い、心乱して手元を狂わせたり、ムズムズしてははいけないのである。
すなわち、1人以外の弟子法師はそれが出来なかった。そして寺童にも出来なかった。
でも出来ないと言っても、その寺童は「気持ち悪い~」と言って逃げ出したわけではない。
くしゃみなんてものは不可抗力なので、禅智内供も怒ったりせずに許すべきだったが、それが出来なかった。
それだけではなく、わざと恥をかかせたのではないかという被害妄想的な意識に陥っている。
さらに言えば、「突然のことだから禅智内供も怒りの感情が抑えられなかったんだろう、仕方ない」と禅智内供の怒りを受容すれば良かったのだけれど、それが出来なかった。寺童は陰口を叩き、弟子もそれに乗ったということになる。
人間は緊張感のない時または緊張感を持った時、修羅場や追い込まれた時など、要するに予定外の出来事が起こった時に本性や本音が出るというけれども、結局のところ、高僧や繁盛している寺であっても、その本性や本音は俗世間と何ら変わるところなく、俗っぽい’出来ない集団’に成り下がることもあるというお話である。


他人の不幸は蜜の味

ダ・ヴィンチニュース
【1分間名作あらすじ】芥川龍之介「鼻」——不幸を乗り越えた人を素直に祝福できない自分はいませんか?

 禅智内供(ぜんちないぐ)という僧は顎の下までぶら下がった腸詰のような巨大な鼻を持つことで有名で、長年彼はその大きな鼻をコンプレックスに感じて苦しんでいた。ある秋の日、京から帰ってきた弟子が医者から鼻を短くする方法を教わってきたと言うので、内供はこれを試すことに。

 熱湯で鼻を茹で、それを弟子が踏む。そして出てきた脂を毛抜きで取り、再度茹でる。すると顎下まであった鼻は嘘のように萎縮し、常人のサイズと同じようになったのである。これでもう以前のように他人から嘲笑されることはなくなると安堵した内供だったが、2、3日経つうちに彼は意外な事実を発見した。

 鼻が短くなった彼を見た人々が、あろうことか以前にも増して笑うのである。内供は初め、これは顔が急に変わったせいだと思ったが、それだけでは説明のつかないような人々の嘲笑の様子に気味悪さを覚える。彼は再び塞ぎ込み、果てにはかつての長かった鼻を恋しがるまでになる。

 人の心には互いに矛盾した2つの感情があり、他人の不幸に同情するが、その人がどうにかして不幸を切り抜けることができると、今度はどこか物足りなさを覚え、もう一度不幸に陥れたいといったある種の敵意さえも抱くようになるのだ。その後内供は熱を出して寝込み、彼の鼻は元の大きさに戻る。こうなればもう誰にも笑われない、と清々しい気分になった。




芥川龍之介は、禅智内供が鼻を苦にした最大の理由は、食事の不便さではなかったと書いている。プライドを傷つけられるのが耐え難かったというのだ。
町の人達は、あの鼻だから妻になる女もいないだろうし、出家できたのかもしれないから、普通の鼻でなかったことは寺や僧になるうえではむしろ幸せなことだと思っていたそうである。(明治時代までは僧の妻帯は禁じられていた)
しかし本人はそんな幸せには露いささかも満足していなかった。ありきたりの幸せを望んでいたのである。
そして自意識過剰とも言えるほどに鼻のことが気になって気になって仕方なかった。

上のあらすじにあるように、自意識だけでなく他者の勝手気ままな振る舞いについても、次のようにも書かれている。
人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。


何だかんだ言っても不幸なんてものは自分や自意識が作り出すものであるという話とも受け取れるし、人間には裏表があるから真摯な態度や優しさや情けなども仮面に過ぎないという話にも受け取れる。
寺でも神社でもキリスト教でも新興宗教でもいいけれど、俗世間で宗教が繁盛するのは人間に不幸や悩みがあるからこそ。皆が皆幸せになったら商売あがったり。不幸な人が多いほど宗教繁盛。
それと同じで、社会的価値ある成功者を生み出すためには、多くのそうではない平凡であったり貧しかったりする価値のない落伍者が必要なのである。
でもそんなことを言っても、大衆受けするわけがない。


ちゃんちゃらおかしい

肌の色は関係ありません。何色だっていいのです。肌の色で差別するなんて最低です。
とか言いながら、みんな必死で日焼け止め塗りたくって、日差しを避けて、白い肌を目指している。
「私は白い肌が美しいと思っている。だから白い肌になりたい!」とは絶対に言わずに、皮膚がん予防とかなんとかおよそ心配のない理由を引っ張り出したりして白い肌を目指す。

そもそも差別撤廃を訴えている黒人の人だってクルクルな髪の毛をストレートにしたりするじゃない。肌の色は変えようがないから抵抗するけれど、変えようがあるものだったらそれに乗る。ポリシーはないのか。

どうして化粧することが常識なわけ?
どうして機能には何一つ不自由はないのに、リスクを冒してまで整形したりするの?
もしも手や足がない障害を持っていたら、それを隠さなければいけないということ?隠すことやお直しすることが社会常識なの?
そのままでは愛されることがないというのが本音だから?

障害者をじろじろ見たり冷やかしたりするなんてもってのほか。障害は個性です。健常者と障害者を差別すべきではありません。
とか言いながら、相手が障害者じゃなければ、シミもシワもブツブツもカサカサも、ハゲもデブもヤセも、じろじろ見たり冷やかしたり、笑いのネタにしたり、未陰口叩いたり。イケメンにカワイイに美女美男子ともてはやし、ブサイクや劣化とこき下ろす。何だってみんな個性じゃないの?人はみんな年をとるのよ。
好きで不潔にしている人もいるかもしれないけれど、世の中には本人がどんなに努力しても、努力したくても、どうにもならないことがある。だというのに自分本位で何もかも決めつける。
障害者差別はいけないはずのに、オリンピックとパラリンピックは別に行われているし。

見た目が悪ければ、何か他の事で頑張って立派になればよいじゃないか?はっ、じゃあ知的障害者はどうなるのよ?
知的障害者が生きている意味が分からないと誰かが言えば、あるいは社会のためにならないからと殺人が行われれば、猛烈に非難するけれど、じゃあ訊くけど障害者じゃなかったらどうなの?

あ~生き苦しい。


同病相憐れむ

芥川龍之介はノンフィクションを書いたわけではない。
元になった説話(『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」)があったが、その説話も実話かどうかは分からない。
少なくとも芥川は、小説、フィクションとして、『鼻』を執筆したはずである。
だからどのような話にも展開できたのだ。

鼻が短くなったら、周囲に奇異の目で見られなくなり、自信も付いて、ますます寺は繁盛した。いつしか「鼻寺」と呼ばれるようになり、鼻の悩みを持つ人達がひっきりなしに訪れるようになった。めでたしめでたし、という話だって良かったわけである。

鼻が短くなったら、周囲から妬まれ、策略に嵌り、高僧から引きずり降ろされた。でもそのおかげでありきたりの幸せを手に入れ、平和に暮らした、という話でも良かったわけである。

でもそうは書かなかった。
つまり、これは↓、芥川龍之介が書くという行為の中で自分が行ったことでもある。
その人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

『鼻』のラストの部分はこうである。
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

これで禅智内供は一生ハッピーに暮らしたと思いますか? 思わないですよね?
同じことを繰り返すことが目に見えている。
何故かと言えば、芥川は人間の愚かで悲しい性(さが)や不幸を描いているはずだから。

ありきたりで平穏な小説とか、ハッピーエンドの小説とか、すごく分かりやすい小悦は、高尚な感じもないし、小説としての捻りも技巧も機微もない気がしてしまう。読ませたかったり評価してもらう相手が小説家など文学者であれば尚更。

ということは、夏目漱石の芥川への評価はいたって的確であったとも言える。

Misery makes strange bedfellows.(不幸は奇妙な仲間を作る)
Misery loves company.(不幸は仲間を愛する)




🍆トップの写真は昨年の7月24日に撮った写真です。その頃、芥川龍之介のことを考えていたということは全くなかったのだけれど、なんと偶然にも7月24日は芥川は亡くなった日です。ガクガクブルブル・・・・
そして写真のナスも私が育てたものです・・・・
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by yumimi61 | 2019-09-16 13:13