人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

<   2019年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

渾然

健康道場(療養所)はユートピア

『パンドラの匣』に登場する結核療養所「健康道場」はユートピアなのである。
「理想社会を実現しよう」とする主体的意志のある場所で、理想郷。
人工的で、規則正しく、滞ることがなく、合理的な場所、管理社会。

そこは何のためにあるかと言えば、結核を治すためである。
彼らは俗世間で結核に罹患してしまったのだから、治療するためにはその反対側に置く必要があるという考えのもと、俗世間とは違う社会が提供されている。
結核が治って社会に戻った時に再発しないとも限らないけれど、ここでこの方法で治癒を目指すならば、俗世間と同じでは意味がないのである。

しかし小説の終盤では同化しつつあることが示唆されていた。
典型的な描写は1人の患者仲間だった越後獅子が大月花宵という有名な詩人に戻ってしまったところにある。
独特な治療方針に基づく「健康道場」は非常に好成績を収めていて医学界の注目の的となっていたという記述もあったが、やがて治療成績は落ちていくだろうということを予想させる。


俗世間と同化

小説の中で手紙を書いている主人公・ひばりが健康道場(療養所)に俗世間を持ち込んで同化に向かわせる元凶となったわけだが、ひばりが健康道場(療養所)に入るきっかけとなったのは1945年8月15日の玉音放送であった。

小説のもとになった木村庄助という青年は1943年に自殺しているので、日本が戦争に勝ったか負けたかも知らずに死んでいったのだし、1945年8月15日の玉音放送も知る由が無い。だから当然にそれが入院のきっかけや自殺の動機になったということもありえない。
病苦で自殺したということを素直に信じれば、彼の病気は快方に向かわなかった、ただそれに尽きるということになる。
戦時下では俗世間と療養所を違う場所にするということが不可能で、自然治癒力頼みの療法は成果を上げにくかったんだろうと思う。


小説は戦後の療養所が描かれている。
結末は書いていない。
ひばりや患者仲間が治って退所(退院)していったのか、いっさい分からない。
だけど上にも書いたように、これからは健康道場(療養所)の治療成績は下がっていくと思う。
植物の蔓は伸びることはあっても動くことはない。つまり健康道場(療養所)から場所を移す(退院)ことは想像しにくい。
小説の中のひばりも快方には向かわないはずである。
小説のもとになった青年が自殺したという事実を知っているからこそ、その推測を補強する点はあるが、もしそれを知らずに小説だけが存在したとしても、ひばりに明るい未来が待っているとはとても思えない。
俗世間と療養所は違う場所にすべきなのに同化してしまったからであるし、ひばりにはすでにカオスの気配が色濃く漂っている。


パンドラの匣(箱)

あの日以来、僕は何だか、新造の大きい船にでも乗せられているような気持だ。この船はいったいどこへ行くのか。それは僕にもわからない。未(いまだ)、まるで夢見心地だ。船は、するする岸を離れる。この航路は、世界の誰(だれ)も経験した事のない全く新しい処女航路らしい、という事だけは、おぼろげながら予感できるが、しかし、いまのところ、ただ新しい大きな船の出迎えを受けて、天の潮路のまにまに素直に進んでいるという具合いなのだ。


小説に書かれた「あの日」とは1945年8月15日である。

しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽(かすか)な期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。
君はギリシャ神話のパンドラの匣(はこ)という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬(しっと)、貪慾(どんよく)、猜疑(さいぎ)、陰険(いんけん)、飢餓、憎悪(ぞうお)など、あらゆる不吉の虫が這はい出し、空を覆(おお)ってぶんぶん飛び廻まわり、それ以来、人間は永遠に不幸に悶(も)だえなければならなくなったが、しかし、その匣の隅(すみ)に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷(いちる)の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依(よ)っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓(つる)が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。



ありとあらゆる災厄があって、これからも不吉な予感に満ちている。
しかしあえてその中に「希望」を置いた太宰治。
その希望は知識や精神性すなわち意識的思考能ではなく、無意識から来るものだとしている。そしてそれは天然の向日性に似ているというのだから、生命の営みのように無意識の中にも秩序が存在するということである。
秩序が存在するということは全くのカオスな状態ではないので、理想に向かって意志や形を作れる可能性が残っているということ。

太宰治はその意志をラストの「さようなら。」と「十二月九日」で表現したのではないだろうか。

ギリシャ神話の「パンドラの匣」にヒントをもらって希望を置いたのではなく、その逆で、太宰は意識的思考能力ではない何か(信仰・感覚・経験・無意識など)から微かな希望を感じ取っていたので、「パンドラの匣」の話を織り交ぜたと考えた方がしっくりくる。






by yumimi61 | 2019-10-17 17:37

涙痕

出典と振り仮名について

太宰治『パンドラの匣』を前記事までに何度か転載したが、出典は青空文庫です。

底本:「パンドラの匣」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年10月30日発行
   1997(平成9)年12月20日46刷
初出:「河北新報」河北新報社
   1945(昭和20)年10月22日~1946(昭和21)年1月7日
入力:SAME SIDE
校正:細渕紀子
2003年1月27日作成
2015年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



小説の場合、作者の死後50年間著作権が保護されるので、1948年に没した太宰治の場合は1998年で著作権保護期間が切れたということになる。
転載していて思ったのは、振り仮名の付け方の基準がどうなっているんだろうということ。
青空文庫では漢字の上に振り仮名があったが、私は漢字後ろに(  )で書き入れた。振っている漢字はそのまま倣っている。
この漢字は結構誰にでも読めそうな気がするという漢字に振ってある一方、この漢字は読めない人が多いのでは?という漢字に振ってなかったりで、時代の違いなのか何なのか基準が良く分からなかった。漢字ひとつ取っても読書ってやっぱりハードルが高いんだろうなあと思う。


12月9日について

★宣戦布告と奇襲攻撃


さようなら。と、12月9日という日付を最後に、太宰は筆を置いた。
ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月8日で、これは1945年12月9日ということだから、ちょうど4年の月日が流れ、5年目の1歩ということになる。


日本は1937年より日中戦争を行っていたが、1941年にアメリカに奇襲攻撃し、太平洋戦争にも突入した。
それを受けて、中国(中国国民政府)は日本とドイツに宣戦布告したのだが、それが12月9日だった。

日中戦争は宣戦布告が行われていない。
宣戦とは紛争当事国に戦意があることを公式に宣言することで、宣戦布告とは、相手国や中立国に対し、戦争状態に入ることを告知することである。

1894年7月に始まった日清戦争では1週間後に宣戦布告がなされたが、始まりは奇襲攻撃だった
 1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、新軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。8月1日に双方が宣戦布告.

1904年2月に始まった日露戦争も宣戦布告しない奇襲攻撃によって始まった
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。

一般的に国家間で何か問題が生じたり対立が起こり、いよいよ戦争以外では決着が付きそうにないとなった時には、戦争開始前に事前警告として最後通牒が交付される。
その最後通牒も効果がなく交渉が決裂すると外交交渉は打ち切りとなり、戦争に突入していくことになるが、その場合にも戦闘が始まる前に宣戦布告するのが外交上の慣習だった。

この外交通告の習慣はルネサンス時代に始まったが、1904年の日露戦争が宣戦布告なく始められたことを契機に1907年の万国平和会議で討議され、10月18日に署名された開戦に関する条約で初めて国際的なルールとして成文化された。
この条約で宣戦布告の効力は相手国が受領した時点で発生すると定められた。しかし当時はほとんど尊重されず、第一次世界大戦後に国際連盟が改めて定めた。


1907年10月18日にハーグで署名された宣戦布告に関する条約では、
第1条 開戦に先立ち相手国に宣戦布告を行うこと
第2条 中立国に対し戦争状態の通告を行うこと
を定めている。

宣戦布告が行われない国家間の武力紛争においては、通告を受けない第三国に中立法規の適用はなく、第三国は紛争当事国と平時同様の外交関係を保つことが認められる。国交断絶状態でも戦争と判断されるとは限らない。第一次世界大戦後には高度な武力紛争状態であっても、戦争状態ではないとして戦時国際法の適用を免れようとする事例もしばしば存在した。

宣戦布告とは、どの国と戦う意思があるということを明確にするものである。
中立法規では、中立国は交戦国の攻撃を受けず、その領土を侵されることはないことを定めている。どちらにも加担する気はないのに隣国で戦争を行っている場合などに戦争に都合が良いからと巻き込まれたら堪らない。
但しその代わり、中立国は交戦国に対して戦争遂行上の便宜や援助を与えてはいけないとされている。

宣戦布告しないと敵味方すら有耶無耶な感じになってしまう。
当事国が戦争ではないと言い張ることも出来て、それによって戦時国際法(人道法)を逃れようとする意図もあった。しかし戦時国際法は宣戦布告されていない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用される。

日中戦争の始まりは1937年だが、その前1931年に満洲事変があった。
1931年9月18日、柳条湖付近の鉄道線路を爆破した日本軍は、これを張学良らの仕業として奉天軍閥がこもる北大営を奇襲攻撃して占領
1937年7月7日、中国に駐屯していた日本軍が盧溝橋付近で夜間演習を行っていたが、その終了直後、10数発の銃弾が発射された。誰が発砲したのか分からないままだが、これ以降対立や衝突が再び本格化し戦線は拡大していく。
同年8月15日、日本政府は「支那暴戻膺懲」(暴虐な支那を懲らしめよの意)の声明を発し、海軍機による南京への渡洋爆撃を開始して、日中戦争の火蓋が切られる。
日本の傀儡政権でアメリカとイギリスに宣戦布告した南京国民政府(汪兆銘政権)は1940~1945年にかけて存在した政府であり、日本が南京を占領したからこそ成立した政府である。同じ中国であっても日本とドイツに宣戦布告した政府とは別の政府。

このように12月9日のみならず8月15日という日も実は中国と深い関係があった日付なのである。


★王政復古の大号令

12月9日は、王政復古の大号令がが発せられた日でもある。
但しこの場合の12月9日は旧暦である。
 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

王政復古
明治維新により武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を指す語。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に江戸幕府を廃止し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立が宣言された。倒幕派公家勢力の復活という側面も伴っている。

倒幕の下敷きとして存在したのが国学の発展だった。
江戸後期、国学の進展などにより知識人の間に尊皇思想が広がっていった。
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。


そんな時期に黒船が来航して、通商をめぐって国論は割れるも、尊皇攘夷論が沸き立つことになる。
攘夷論は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。

でもいざ蓋を開けて見たら(新時代になったら)、倒幕派新政府は欧米かぶれで、国学どころの話ではなく、そのため明治時代には結構多くの知識人が絶望の淵を彷徨ったということは前にも書いた。

江戸時代などには天皇が政治を行わない形を採っていたが、それを言いかえれば「政教分離」である。
政教の「教」は、教育ではなく、宗教や教会のことである。

政教分離原則
国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す。

一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする。


世俗主義(英:secularism)、または、俗権主義とは、ラテン語で「現世的」「世俗的」を意味する「サエクラリス」(羅: saecularis)に由来する語・概念であり、
・ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それらから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないという主張・立場。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則。対義語は、聖職者主義(教権主義、英: clericalism)。
・個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
・人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
である。


日本の天皇は神話を根拠としている。神と言えば宗教ということになるので、天皇は宗教担当であり、政治とは切り離す。その上で国民の個人がどんな信仰を持とうが自由。
このような政教分離策がフランス革命よりずっと早くから採用されていたのである。
その意味においては日本は世界最先端にいた。
それにあえて終止符を打ったのが明治新政府である。


日本と太陽

日本では明治5年12月2 日(新暦1872年12月31日)まで太陰太陽暦を使っていた。月と太陽の暦で、これを旧暦と呼ぶ。
旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日(新暦1873年1月1日)として、太陽暦を採用した。これが今も使われているもので新暦となる。
明治5年にはクリスマスも大晦日もなかったということになりますね。

日本の皇祖神・天照大神は太陽神である。
日本という国名も、日の丸国旗も、戦前の軍旗も、自衛隊の自衛艦旗も太陽をモチーフにしている。

太宰治が『パンドラの匣』のラスト、’12月9日’と’さようなら。’の前に書いたのは植物の蔓が伸びていく方向の話だった。
僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽(ひ)が当るようです。
 さようなら。

十二月九日


ひばりは、この道がどこへ続いているのかは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよいと言った。
僕たちが歩んでいく道の先を蔓に聞いたほうが良いと言うのである。
どうして蔓だったのだろうか?

蔓は、どこへ続いているのか、なぜそちらに伸びていくのか、何も知らないけれど、伸びていく方向に陽が当たると答えるだろうとも言った。
それはすなわち、蔓には知識というものはないけれど、経験というか事実を持っているということだ。
蔓は伸びていくことは出来る。勢いのある蔓だったらかなり伸びていくことが可能である。だけど自分の意志でその場を動くことは出来ない。

蔓が’僕たち’だとすれば、陽はやはり天皇ということだろうか。

ここで知識を付け足せば、蔓が伸びるのはオーキシンという植物ホルモンが関係している。オーキシンは茎の先端の芽で作られ、根本側に移動して、植物全体の成長を促進する。
実はこのオーキシン、太陽の光が嫌いなのである。嫌いと書いたが、植物のことなので好き嫌いという感情があるかどうかは分からない。
でもとにかくオーキシンは、光を避けるように移動して、全体にオーキシンを伝える。
移動中にも当然茎に光が当たることがあるが、茎に光が当たるとオーキシンは光と反対側に回る。
茎の左から光が当たった場合、茎の右側にオーキシンが多くなる。オーキシンは成長を促進する作用を持つので、左側より右側のほうが成長する。つまりやや左側に傾く感じになる。
それが蔓は光(太陽)の方向へ伸びるということなのである。(→屈光性)
そしてどんなにオーキシンが太陽の光を嫌いでも、植物が健全に成長するにはやっぱり太陽の光が必要なのだった。

それで、さようなら?







by yumimi61 | 2019-10-15 17:09

混乱

私の佐野友の家は大丈夫だそうです。
e0126350_14592722.jpge0126350_14205675.jpge0126350_14535073.jpg
















太宰治『パンドラの匣』についての続き。

結核の療養所に入っている「ひばり」こと小柴利介という青年。
彼には気になっている看護婦が2人いる。

1人は「竹さん」こと竹中静子。前々回記事のクリスマスケーキの所に登場したが、25,26歳くらいらしい。

塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。
けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。かなり大きな眼が、笑うとかえって眼尻(めじり)が吊(つ)り上って、そうして針のように細くなって、歯がまっしろで、とても涼しく感ぜられる。からだが大きいから、看護婦の制服の、あの白衣がよく似合う。
それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きりきりしゃんと素早く仕事を片づける手際(てぎわ)は、かっぽれの言い草じゃないけれど、「まったく、日本一のおかみさんだよ。」摩擦の時など、他の助手さんたちは、塾生と、無駄口(むだぐち)をきいたり、流行歌を教え合ったり、善く言えば和気藹々(わきあいあい)と、悪く言えばのろのろとやっているのに、この竹さんだけは、塾生たちが何を言いかけても、少し微笑(ほほえ)んであいまいに首肯うなずくだけで、シャッシャとあざやかな手つきで摩擦をやってしまっている。しかも摩擦の具合いは、強くも無し弱くも無し、一ばん上手で、そうして念いりだし、いつも黙って明るく微笑んで愚痴も言わず、つまらぬ世間話など決してしないし、他の助手さんたちから、ひとり離れて、すっと立っている感じだ。このちょっとよそよそしいような、孤独の気品が、塾生たちにとって何よりの魅力になっているのかも知れない。何しろ、たいへんな人気だ



もう一人は「マア坊」こと三浦正子。マア坊は18歳。

マア坊は、十八。東京の府立の女学校を中途退学して、すぐここへ来たのだそうである。丸顔で色が白く、まつげの長い二重瞼(ふたえまぶた)の大きい眼の眼尻が少しさがって、そうしていつもその眼を驚いたみたいにまんまるく睜って、そのため額に皺しわが出来て狭い額がいっそう狭くなっている。滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に笑う。金歯が光る。笑いたくて笑いたくて、うずうずしているようで、なに? と眼をぐんと大きく睜って、どんな話にでも首をつっ込んで来て、たちまち、けたたましく笑い、からだを前こごみにして、おなかをとんとん叩(たた)きながら笑い咽むせんでいるのだ。鼻が丸くてこんもり高く、薄い下唇(したくちびる)が上唇より少し突き出ている。美人ではないが、ひどく可愛い。仕事にもあまり精を出さない様子だし、摩擦も下手くそだが、何せピチピチして可愛らしいので、竹さんに劣らぬ人気だ。


ひばりは最初マア坊が好きだったっぽい。
特に、彼女の言ったある一言に心射抜かれてしまったっぽいのだ。
その一言はというと、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
というものである。
つくしの本名は西脇一夫。やはり入院している男性の患者で、ひばりと同室。35歳、既婚者。ひばりは患者仲間ではこの人が一ばん好きだと書いている。郵便局長かなにかをしていた人だったようだ。
ひょろ長く、美男子ではないけれども上品で、学生のような感じがどこかにある。はにかむような微笑が魅力的とひばりは言う。
マア坊がつくしを慕っているのは皆に知られていること。



おやおや、きょうは、ばかに女の話ばかりする。でも、きょうは、なぜだか、他の話はしたくないのだ。きのうの、マア坊の、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 という可憐(かれん)な言葉に酔わされて、まだその酔いが醒さめずにいるのかも知れない。いつもあんなに笑い狂っているくせに、マア坊も、本当は人一倍さびしがりの子なのかも知れない。よく笑うひとは、よく泣くものじゃないのか。なんて、どうも僕はマア坊の事になると、何だか調子が変になる。そうして、マア坊は、どうやら西脇つくし殿を、おしたい申しているのだから、かなわない。
(略)
どうもあの、マア坊ってのは、わからないひとだ。いや、なに、別に、こだわるわけでは無いがね、十七八の女って、皆こんなものなのかしら。善いひとなのか悪いひとなのか、その性格に全然見当がつかない。
僕はあのひとと逢(あ)うたんびに、それこそあの杉田玄白がはじめて西洋の横文字の本をひらいて見た時と同じ様に、「まことに艫舵(ろだ)なき船の大海に乗出せしが如(ごと)く、茫洋(ぼうよう)として寄るべなく、只(ただ)あきれにあきれて居たる迄までなり」とでもいうべき状態になってしまう、と言えば少し大袈裟(おおげさ)だが、とにかく多少、たじろぐのは事実だ。どうも気になる。
いまも僕は、あのひとの笑い声のために手紙を書くのを中断せられ、ペンを投げてベッドに寝ころんでしまったのだが、どうにも落ちつかなくて堪(た)え難(がた)くなって来て、寝ころびながらお隣の松右衛門殿に訴えた。


ひばりはマア坊が気になっていて、マア坊はつくしを慕っている。つくしは妻帯者。
ともに片恋慕ということになるが、マア坊は「ひばりのことが一番好き」だなんてことを言ったりもして、ひばりの心は浮いたり沈んだり。
でもつくしは一家の都合で故郷の北海道の病院に移っていった。(その後に入ってきたのが固パン)
内心安堵したであろうひばりだったが、しばらくしてマア坊から「この手紙、どういう意味?」と尋ねられ、つくしからの手紙を見せられる。紳士的でキザで遠回しで情熱的というか荒ぶっている手紙。
締めは短歌である。
 ”相見ずて日(け)長くなりぬ此頃は如何に好去(さき)くやいぶかし吾妹(わぎも)”
                             一夫兄より

「あなたを妹と呼ばして頂きたい」「恋人は科学であり自然美」とか書いた上で、「これからも御便りを送ってゆきたいと思う」とも書いている。
その手紙を「下手な手紙」「意味が分からない」とこき下ろすが内心乱れずにはいられないひばり。


ところがところが小説の終盤でひばりは親友にこんな告白をする。

僕は白状する。僕は、竹さんを好きなのだ。はじめから、好きだったのだ。マア坊なんて、問題じゃなかったのだ。僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目(だめ)なんだ。
君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを数え挙げて、竹さんの悪口をたくさん書いたが、あれは決して、君をだますつもりではなく、あんな具合いに書くことに依(よ)って僕は、僕の胸の思いを消したかったのだ。
さすがの新しい男も、竹さんの事を思うと、どうも、からだが重くなって、翼が萎縮(いしゅく)し、それこそ豚のしっぽみたいな、つまらない男になりそうな気がするので、なんとかして、ここは、新しい男の面目にかけても、あっさりと気持を整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、われとわが心を、はげまし、はげまし、竹さんの事をただ気がいいばかりの人だの、大鯛(おおだい)だの、買い物が下手くそだのと、さんざん悪口を言って来た僕の苦衷のほどを、君、すこしは察してくれ給(たま)え。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、あるいは僕も竹さんを本当にいやになって、身軽になれるかも知れぬとひそかに期待していたのだけれども、あてがはずれて、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮したのさ。
そこで、こんどは、僕は戦法をかえて、ことさらに竹さんをほめ挙げ、そうして、色気無しの親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制(けんせい)しようとたくらんだ、というのが、これまでのいきさつの、あわれな実相だ。僕は色気が無いどころか、大ありだった。それこそ意馬心猿(いばしんえん)とでもいうべき、全くあさましい有様だったのだ。


 君は竹さんを、凄(すご)いほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。
 君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。あの、洗面所の青い電球にぼんやり照らされ、夜明け直前の奇妙な気配の闇(やみ)の底に、ひっそりしゃがんで床板を拭(ふ)いていた時の竹さんは、おそろしいくらい美しかった。負け惜しみを言うわけではないが、あれは、僕だからこそ踏み堪(こた)える事が出来たのだ。他の人だったら、必ずあの場合、何か罪を犯したに違いない。女は魔物だなんて、かっぽれなんかよく言っているが、或いは女は意識せずに一時、人間性を失い、魔性のものになってしまっている事があるのかも知れない。
 今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。古いも新しいもありゃしない。


今こそ僕は告白する。とあるが、告白したのは竹さんにではなく親友にである。
そしてそれは、竹さんが院長(場長)と結婚すると知ってからのことである。
しかも竹さんの結婚を知ったシチュエーションと言えば、ひばりのお母さんが面会に来て、帰るお母さんをひばりとマア坊がバス停まで送っていく間の、お母さんとマア坊のよもや話から。

ひばり母「場長さんが近く御結婚なさるとか、聞きましたけど?」
マア坊  「はあ、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
ひばり母  「竹中さんと? あの、助手さんの。」

お母さんも驚いていたようであったが、僕はその百倍も驚いた。十万馬力の原子トラックに突き倒されたほどの衝動を受けた。
 お母さんのほうはすぐ落ちついて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、眼(め)がお高くていらっしゃる。」と言って、明るく笑い、それ以上突っ込んだ事も聞かず、おだやかに他(ほか)の話に移って行った。
 僕は停留場で、どんな具合いにお母さんとお別れしたか、はっきり思い出せない。ただ眼のさきが、もやもやして、心臓がコトコトと響を立てて躍っているみたいな按配(あんばい)で、あれは、まったく、かなわない気持のものだ。



その後、ひばりとマア坊がお茶する。
ひばりは泣きそうになる。するとマア坊が「竹さんも泣いていたわ」と言い出し、そのマア坊も泣いている。
マア坊の話では、院長(場長)は真面目な人で、竹さんのお父さんのところに直談判に行って結婚の許可を取り付けたらしい。竹さんは自分の父親から自身の結婚を聞かされたのだとか。そして竹さんは2晩も3晩も泣いていたとも言う。マア坊によればそれはひばりが恋しくて泣いていたのだという。

それを聞いたひばりは何故だかマア坊が急に思慮深い美しい人に見えたのである。そして何だかふっと軽くなり満足感すら得ていた。
 その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽(かすか)な細い皺(しわ)が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼(あお)ざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗(きれい)にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。
これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。幽かな「希望」の風が、頬を撫なでる。
僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き「永遠の処女」という言葉を思い出したが、ふだん気障きざだと思っていたその言葉も、その時には、ちっとも気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感ぜられた。
「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、或いは君に笑われるかも知れないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。
 竹さんの結婚も、遠い昔の事のように思われて、すっとからだが軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて望遠鏡をさかさに覗(のぞ)いたみたいに小さくなってしまった感じであった。胸中に何のこだわるところもなくなった。これでもう僕も、完成せられたという爽快(そうかい)な満足感だけが残った。


ひばりには意志がない。だからあっちにふらふらこっちにふらふら漂流する。
でも人は人と交流し、自分が知らない話を聞いたり、本を読んだり、詩や短歌や俳句に触れたりして、互いに影響し合う。時には感化されて考えや情緒に変化をもたらすかもしれない。それを流されると表現することもあるだろうと思う。
すなわち、”あっちにふらふらこっちにふらふら”は「美しい変化」と「醜い裏切り」と、そのどちらでもある可能性があるということなのだ。

「美しい変化」と「醜い裏切り」は嵐の夜に越後獅子が雄弁に語った中に出てきた言葉である。
君子は豹変(ひょうへん)するという孔子(こうし)の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。
支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草(たばこ)もやらぬ堅人(かたじん)などを指(さ)していうのと違って、六芸(りくげい)に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。


実は越後獅子は大月花宵(おおつきかしょう)という有名な詩人だったのである。それを教えてくれたのは病院を来訪したひばりの親友(文通相手)。
ひばりは詩が苦手だったけれど大月花宵の詩は知っているものがあった。越後獅子がそんな有名な詩人と知ったひばりはまず興奮し、次に興奮を通り越して恐れ(畏れ)すら感じるのであった。

今まで誰も彼もあだ名で呼び合っていたのに、急に「花宵先生!」と呼びかける始末。
「あの歌を誰(だれ)が作ったか、なんにも知らずに歌っていたんでしょうね。」と割に落ちついて尋ねる事が出来た。
「作者なんか、忘れられていいものだよ。」と平然と答えた。いよいよ、この人が、花宵先生である事は間違い無いと思った。
「いままで、失礼していました。さっき友人に教えられて、はじめて知ったのです。あの友人も僕も、小さい頃から、あなたの詩が好きでした。」
「ありがとう。」と真面目に言って、「しかし、いまでは越後のほうが気楽だ。」
「どうして、このごろ詩をお書きにならないのですか。」
「時代が変ったよ。」と言って、ふふんと笑った。
 胸がつまって僕は、いい加減の事は言えなくなった。しばらく二人、黙って運動をつづけた。突如、越後が、
「人の事なんか気にするな! お前は、ちかごろ、生意気だぞ!」と、怒り出した。僕は、ぎょっとした。越後が、こんな乱暴な口調で僕にものを言ったのは、いままで一度も無かった。とにかく早くあやまるに限る。
「ごめんなさい。もう言いません。」
「そうだ。何も言うな。お前たちには、わからん。何も、わからん。」


ひばりには意思がない。きっと昔からなかったわけではないのだと思う。いつの頃からか自分の意思を失いつつあった。
それはひばりだけではないのかもしれない。
日本という国が意志や意思を失いつつあった。
ある御方に命を預け、みな命を羽根のように軽いものとして愛し、いわゆる天意の船、新造の船に気軽に身を委ねた。日本という国はその尊いお方の直接のお言葉のままに出帆したのである。
時代は変わったのだ。美しい変化ではなく、醜い裏切りの下で。

この小説は、ひばりや日本という国がカオスに向かっている様を描いている。カオスへの確かな予感がある。


僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽(ひ)が当るようです。」
 さようなら。

十二月九日


さようなら。と、12月9日という日付を最後に、太宰は筆を置いた。
ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月8日で、これは1945年12月9日ということだから、ちょうど4年の月日が流れ、5年目の1歩ということになる。






by yumimi61 | 2019-10-14 15:03

混成

太宰治『パンドラの匣』より
こないだ、僕は、「死はよいものだ」などという、ちょっと誤解を招き易やすいようなあぶない言葉を書き送ったが、それに対して君は、いちぶも思い違いするところなく、正確に僕の感じを受取ってくれた様子で、実にうれしく思った。

やっぱり、時代、という事を考えずには居られない。あの、死に対する平静の気持は、一時代まえの人たちには、どうしても理解できないのではあるまいか。

「いまの青年は誰(だれ)でも死と隣り合せの生活をして来ました。敢(あ)えて、結核患者に限りませぬ。もう僕たちの命は、或(あ)るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。それゆえ、僕たちは、その所謂天意の船に、何の躊躇(ちゅうちょ)も無く気軽に身をゆだねる事が出来るのです。これは新しい世紀の新しい勇気の形式です。船は、板一まい下は地獄と昔からきまっていますが、しかし、僕たちには不思議にそれが気にならない。」
という君のお手紙の言葉には、かえってこっちが一本やられた形です。君からいただいた最初のお手紙に対して、「古い」なんて乱暴な感想を吐いた事に就いては、まじめにおわびを申し上げなければならぬ。

 僕たちは決して、命を粗末にしているわけではない。



僕たちのこんな感想を、幼い強がりとか、或いは絶望の果のヤケクソとしか理解できない古い時代の人たちは、気の毒なものだ。古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭(めいりょう)に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。
僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。そうしてその羽毛は、なかなか遠くへ素早く飛ぶ。
本当に、いま、愛国思想がどうの、戦争の責任がどうのこうのと、おとなたちが、きまりきったような議論をやたらに大声挙げて続けているうちに、僕たちは、その人たちを置き去りにして、さっさと尊いお方の直接のお言葉のままに出帆する。新しい日本の特徴は、そんなところにあるような気さえする。
 鳴沢イト子の死から、とんでもない「理論」が発展したが、僕はどうもこんな「理論」は得手じゃない。新しい男は、やっぱり黙って新造の船に身をゆだねて、そうして不思議に明るい船中の生活でも報告しているほうが、気が楽だ。



 嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子の蝋燭の火を中心にして集り、久し振りで打解けた話を交した。

「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何いかなる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。

「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌おうかしてずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉まゆをはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」

「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。

「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢ぶらいかんみたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達(おとこだて)とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」

「なんて事だい、」とかっぽれは噴き出して、「それじゃあ、幡随院ばんずいいんの長兵衛ちょうべえなんかも自由主義者だったわけですかねえ。」

 しかし、固パンはにこりともせず、
「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀の頃のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸(はなかわど)の助六(すけろく)も鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)も、或いはそうだったのかも知れませんね。」

「へええ、そんなわけの事になりますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。

 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。

「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩(はと)が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容いれてやった。然しかるに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔(ひしょう)が出来ません。」

「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。

「あ、」と固パンは頭のうしろを掻かき、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」

「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追及して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩わずらうな、空飛ぶ鳥を見よ、播まかず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍(ふえん)し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」


🍞 「固パン」や「かっぽれ」や「越後獅子」は、入院している「ひばり」の患者仲間のあだ名。

🍞 リベルタンはフランス語 libertin。
libertinというフランス語は17世紀まで、不信仰者と放蕩者を同時に意味する言葉だったが、その後は次第に特定の傾向の思想を持つ者のことを言うようになった。
封建でキリスト教的世界観(宗教的権威)が蔓延った社会に対して合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指し、自由や個性を重視した思想が広がってくるのだが、リベルタンはその過渡期にある。
 カトリック思想→ルネサンス思想→自由思想(リベルタン)→啓蒙思想

啓蒙思想は旧来の伝統や権威を理性のもとに批判し、思考の普遍性と不変性を主張した。啓蒙思想のもとに神・理性・自然・人間などに関する観念が一つの世界観に統合された。これは多くの賛同者を得て、革命的な変化と発展をもたらした。
理性というのは知性や精神(性)ということになるが、もっと分かりやすく言えば意識的思考能力である。理性の反対に位置するのは、信仰・感覚・経験・無意識など。
知識、意識的思考能力、不変や普遍である一つの世界観という啓蒙の特徴は教育を巻きこみ、やがて科学に集約されていくようになる。
キリスト教世界観の矛盾や非現実性をあぶり出すことになり、近現代ではかつての世界観にしがみつく者をキリスト教原理主義者と蔑称で呼ぶようにもなる。
信仰・感覚・無意識などが表立つ思想や主張や見解は、オカルトやカルト、サイコパス(反社会的人格)、陰謀論やトンデモ論、脳内お花畑など揶揄されるようになっているように、現代の現実社会では科学的裏付けのないものは受け入れられなくなっている。

自由思想や啓蒙思想は封建社会や権威主義を打ち破るフランス革命を思想面で支えた。
それまでの絶対君主の多くは「王権神授説」に支えられていたが、こうした思想や革命の出現により新しい支配体制を模索することになり、絶対主義諸国の君主の政治思想にも影響を与えた。
日本の天皇は今なお「王権神授説」に支えられている。


🏁 仲間の前で自由思想を語っている固パンは、自由思想の本来の姿は反抗精神、破壊思想であると解説する。
自由というのは、その反対のものがあってこそのものだと言う。
それは右と左にも言える。右があるから左があるのだ。上があるから下がある。どちらか一方では成り立たない。
ただ単に何かが入り混じっていて区別がつかない混沌(カオス)な世界からは何も生まれてこない。
宇宙は原始カオスだったと言うが、カオスからは意味ある調和のとれた、そして時々バランスを崩す世界は誕生しない。コスモスは生まれない。カオスの反対はコスモスではない。
神というものが宇宙を、地球を誕生させたならば、神に対立する何かがあるということになる。
さてここで問題です。DNAはどちらから読むでしょうか。上からか下からか、右からか左からか。
上から読んだのものと下から読んだもの、左から読んだ者と右から読んだものが同じになる(回文)なんてことは滅多にない。右から読んでも左から読んでも同じ意味になる長文なんてないと思ってよい。また全部読んだものと途中から読んだもの、あるいは真ん中だけ読んだものが果たして同じ意味を持つかどうか。
ノーベル賞も結構だけれど、「ノーベル賞」というものの現実を見ようとしない科学者の何を信じろと言うのだ。
君主(天皇)と対立しようとしない左翼の何を信じろと言うのか。


🍑桃源郷(とうげんきょう)という言葉を御存知でしょうか。
桃という漢字は音読み(中国由来)では「とう」だけれども訓読み(日本由来)では「もも」になる。
「もも」は上から読んでも下から読んでも、左から読んでも右から読んでも「もも」だけれど、同じ桃を意味しても「とう」ではそうはいかないし、英語のpeachでも同じく。

桃源郷は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとは似て非なる、正反対のもの。

陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)。

創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは、既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、魂の奥底に存在している。桃源郷に漁師が再訪出来ず、劉子驥が訪問出来なかったのは、心の外に求めたからであり、探すとかえって見出せなくなるという。


ユートピア思想の根底にあるのは、「理想社会を実現しよう」とする主体的意志であるが、桃源郷は「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。
ユートピアは理想郷である。イギリスの思想家トマス・モアが1516年に出版した著作のタイトルであり、それに登場する架空の国家名。
理想郷のイメージに引っ張られて、自由で牧歌的な平和な場所と思いがちだが、トマス・モアという人はイギリスの最高位の官僚であり、熱心なカトリック教徒で異端者を処刑するほどであった。
そのトマス・モアが描いたユートピアは、人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾「合理的」な場所である。非人間的と言えるほどの管理社会である。
トマス・モアが官僚だった時代の国王はヘンリー8世。自身の離婚問題を巡り離婚を認めないカトリックと対立し離脱、イングランド国教会を独立させた王である。ヘンリー8世は側近とも言えるトマス・モアに離婚問題について相談していたが、熱心なカトリック教徒でありカトリックの主張を譲らなかったため、イングランド国教会が分離独立後に反逆罪で処刑された。

私はカオスな状態が桃源郷だと考えている。
何か目的をもった途端に秩序が生まれ形を作る。カオスはそれが無い状態であるので、人間という形や意思を持つものは桃源郷とはほど遠い。理想をもって何かを成し遂げようとする時には尚更のこと桃源郷を遠ざける。精神的なことに特化すれば無の境地に至ることができれば、それが桃源郷と言えるかもしれない。
右でも左でもない、選挙にも行かない行ったって仕方ない、フィクションでもノンフィクションでもどっちでもいい、希望もないけれどさりとて絶望しているわけでもない、ケセラセラなるようにしかならないどうにかなる、、、案外日本は桃源郷かもしれないなぁとも思ったりする。
桃源郷とユートピアは混同されやすいが、似て非なるもの。だけど桃源郷とユートピアは正反対のものではない。


🌀カント(ドイツの哲学者)が啓蒙とは何かということを説明している。啓蒙とは人間が自ら留まっている未成年の状態から抜けでることだそうだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性(意識的思考能力)を使うことが出来ない状態とされる。
人間が未成年の状態にあるのは、理性(意識的思考能力)がないからではなく、他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだと言う。
啓蒙に関して「知る勇気を持て」という有名な言葉があるが、カントに言わせれば「自分の理性を使う勇気を持て」ということなる。
だけど理性を知識とすれば、知識いうものは自然に備わっているものではない。自然に備わっているものがあるとすれば、知識を得る能力や思考する能力であろう。よってそこには能力差もあり努力差も存在する。全ての人が同じだけの知識を有しているわけではないし、思考に耐えられるわけではない。
だから「自分の知識を使う勇気を持て」と言われても、実はそんなに知識がないということもあるし、自分の知識がどんなものなのか自信がないんだよ~ということだってあると思う。


✞ 越後獅子は自由思想の本家本元はキリストだと考えていると言った。西洋の思想は全てキリストの精神を基底にしていると。
それは自由思想の本来の姿は反抗精神であるという固パンの解説にも通じる。
なぜならイエス・キリストは元々はローマ帝国という大国の従属国であったユダヤ王国(パレスチナ)でユダヤ教を信仰するユダヤ人であったからだ。彼が反抗したのはユダヤ教でありローマ帝国であった。
ユダヤ教がなければキリスト教(カトリック)やイエス・キリストは誕生しなかった。ユダヤ教とキリスト教は相反するものである。

プロテスタントはカトリックに反抗して誕生した教派である。ただその反抗はイエス・キリストの存在に関する見解の違いという根本的なところから生ずるものではなかったので、全く別の宗教にはならず教派だけを分けた。でも受け入れがたい違いがあるからこそ分かれたのだろうから、両者に相反する点があるのは仕方がないとも言える。

カトリックでもプロテスタントでも別にどっちでもいいという状態が蔓延れば、なんとなくキリスト教っぽい信仰が個々に点在して残ったとしても、カトリックもプロテスタントも教派としては消滅する。
キリスト教でもユダヤ教でもどっちでもいいという状態が蔓延れば、キリスト教もユダヤ教も消滅していく。カオスな状態に戻っていくのだ。
カオス以外にも消滅する理由がある。それはどちらかがどちらかを呑み込んだ場合、また第三の存在がどちらも呑み込んだ場合。
例えばだけど、新しく誕生したプロテスタントがカトリックを全て呑み込んでしまっていれば、カトリックは消滅していた。
キリスト教がユダヤ教を呑み込んでしまえば、ユダヤ教は消滅する。
イスラム教がキリスト教もユダヤ教も呑み込んでしまえば、両宗教は消滅する。

どれが良くてどれが悪いということに言及しているつもりはない。分かりやすい例を挙げただけのことである。
要するに何かが消滅していく状態には大きく分けて2つある。1つはカオスな状態になること。もう1つはある思想なり理論が他を排斥していく時。


✟越後獅子はこうも言った。「日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」
日本は仏教をもたらした国と戦争をしていた。(日中戦争)
そして、キリスト教の国と仲間になって、キリスト教の国と戦った。(第二次世界大戦・太平洋戦争)
仲間になったのはカトリックの国であり、敵になったのはプロテスタトの国だった。
仲間になったのはユダヤ人を迫害した国であり、敵になったのはユダヤ人の多くが亡命した国である。
枢軸国の三国はファシズム国家とも呼ばれたわけだが、ファシズムとは全体主義である。全体主義は権威主義の範疇に含まれる。
カトリックはイエス・キリストの反抗精神から生まれたが、カトリックに親和し戦争に向かった国々では独裁的な権力の下、反抗を徹底的に弾圧し、反抗精神を封じ込めた。


 それから、みんな、しばらく、黙っていた。かっぽれまで、思案深げな顔をして、無言で首を振ったり何かしている。
「それからまた、自由思想の内容は、時々刻々に変るという例にこんなのがある。」と越後獅子は、その夜は、ばかに雄弁だった。どこやら崇高な、隠者とでもいうような趣きさえあった。実際、かなりの人物なのかも知れない。からださえ丈夫なら、いまごろは国家のためにも相当重要な仕事が出来る人なのかも知れないと僕はひそかに考えた。

「(略)
十年一日の如ごとき、不変の政治思想などは迷夢に過ぎないという意味だ。日本の明治以来の自由思想も、はじめは幕府に反抗し、それから藩閥を糾弾し、次に官僚を攻撃している。
君子は豹変(ひょうへん)するという孔子(こうし)の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。
支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草(たばこ)もやらぬ堅人(かたじん)などを指(さ)していうのと違って、六芸(りくげい)に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。
キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。
狐(きつね)には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕(まくら)するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。
一日も安住をゆるされない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。
日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」

「な、なんですか? 何を叫んだらいいのです。」かっぽれは、あわてふためいて質問した。

「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正坐(せいざ)し、「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」

 固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。僕はこの嵐の一夜で、すっかり固パンを好きになってしまった。男って、いいものだねえ。マア坊だの、竹さんだの、てんで問題にも何もなりゃしない。以上、嵐の燈火と題する道場便り。失敬。



🙌 天皇に関する表現で問題になるとしたら、上に抜粋した部分あたりではないかなぁと思う。
特に最後に抜粋した天皇陛下万歳の部分は、『パンドラの匣』初版(1946年)では掲載されていたが、改訂版(1947年)では削除された部分と言われている。

河北新報社本と双英書房本では61箇所の異同が指摘され、多くは句読点や送り仮名、漢字表記や改行など文法上の改訂であるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあることが指摘される。

全体的に天皇に対する内容の解釈が非常に難しいのだが、特に天皇陛下万歳の部分は’陛下’と相まって分かりにくい。

(万歳は)元々は中国に於て使用される言葉で「千秋万歳」の後半を取ったもの。万歳は一万年で皇帝の寿命を示す言葉であり、本来皇帝に対して以外では使わなかった。諸侯の長寿を臣下が願うときは「千歳(せんざい)」を使っていた

バンザイと発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという。
それまで日本には天皇を歓呼する言葉がなく、出御にあたってただ最敬礼するのみであったが、東京帝国大学の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉送迎しようという議が起こり、これに際して最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げようという話が教師の間で持ち上がった。
そこで、フランス語の「ヴィヴ・ラ・フランス(Vive la France=フランス万歳)」や英語の「セーヴ・ザ・キング(Save the King=国王を護りたまえ)」のような唱和の言葉を考えることになり、和田垣謙三教授の提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められた。しかし、当日最初の「万歳」が高らかにあがると馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった。これを聴いた人々は「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として「バンザイ」が唱えられるようになり、「万々歳」は闇へと葬られた。

「天皇陛下万歳」は、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈るものである


明治以降終戦まで天皇は軍隊のトップだった。だから軍隊の兵士は天皇の臣下になるだろう。行政のトップも天皇だったので、官僚も臣下になるだろう。
そういう職業的な臣下(部下・家来)がトップの歓心を買うということは、現代社会でもいたるところで見られるだろうと思う。
職業的な主従関係は、その職業とは関係ない人には関係ない。
でも徴兵令や徴用令で国民総動員すれば、国民は全て天皇の臣下であると言ってもおかしくはない。
つまり国民がみな「天皇陛下万歳」をするということは、国民が絶対君主制を認めているようなものになる。

しかし前にも書いたように’陛下’は尊称ではない。臣下のことである。
だから「天皇陛下万歳」は、「天皇と臣下、ともに万歳」とか「天皇!(呼びかけ)、臣下は万歳です」というような意味にも取れる。それは、戦争が終わったので、もう国民は早死に(無駄死に)する必要はなく長生きできます!という皮肉と受け止められなくもない。

それから、万歳のポーズは、何気に投降のポーズにも似ている。
反抗すると殺されちゃうかもしれないから、万歳して(手に武器を持っていないことを見せて)機嫌を取る=投降(降参)の意を示しているとも取れる。

戦後の検閲だとするならば、それはGHQが行ったものである可能性が高いので、削除させたのはGHQということになる。
太宰は小説内に「アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない」と書いたわけだが、GHQはその記述を許さなかった。
GHQはどんな解釈をしたのだろうか。

👑 私は「十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。」という部分も気になる。
神秘主義ってイギリス王室のことを指しているような気がする。

1945年の10年前なら1935年だけど、1943年ならば1933年である。
なぜ1943年なのかと言うと、この部分は戦後に改稿したのではなく戦時中に書いた『雲雀の聲』の中の表現ではないかと思うのである。

1933年というのは、日本が国際連盟脱退した年。
日本は満州事変を契機に中国への侵攻を開始し、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権満州国を建国した。中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。それを受けて国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣。リットンはイギリスの御方である。報告書は「日本の侵略」と認定した。
明治維新の頃から日本(反幕府勢力)はイギリスから支援を受けていた。庇護下にあったと言っても良いだろう。
反幕府勢力とそれに続く日本のトップは実質的にはイギリス君主だった。
ところが親密な理解者だったイギリスが日本の味方をしなかった、つまり日本はイギリスから「醜い裏切り」にあったというわけである。
だったらこちらも反抗してやろうじゃないか、日本の自由思想家たちはそう思い、それを実現した。
そして今度こそ名実ともに天皇が日本のトップになるのだ、いや世界のトップになるのだ(ローマ教皇がいるからNo2かな?宗教は別扱いか?)という喜びを表現しているというふうにも読み取れる。
そして、アメリカは日本の自由な叫びを認めてくれると言っている。アメリカは君主国ではなく共和国である。しかもかつてイギリスの植民地だった。アメリカは日本の味方になってくれるでしょ的な表現で、ひょっとしたら日本とアメリカの間で何らかの密約が成立したのかもしれないとも勘ぐれる。
関係の捻転を漂わせている文章である。




by yumimi61 | 2019-10-12 12:02

混沌

昨日の続きです。

戦時中から戦後設定に改稿

太宰治が戦時中に書いた小説『惜別』と『雲雀の聲』はどちらも戦争期間には刊行されず、終戦直後に刊行された。
検閲に引っかかるのではないかと出版社が心配したという『雲雀の聲』は戦後に『パンドラの匣』とタイトルを変えた。

前回も書いたが、『パンドラの匣』は地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
『パンドラの匣』は出版社が違う初版と改訂版では異なる点がみられ、多くは文法上の違いであるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあった。
戦前の検閲は日本政府が行っていたものだが、戦後しばらくはGHQも検閲を行っており、戦後に刊行された『パンドラの匣』のはGHQの検閲も入っており、初版の『パンドラの匣』では4箇所の部分削除(deletion)の指示が確認されているそうである。。

『雲雀の聲』(後に『パンドラの匣』)は、1940年8月より太宰治と文通していた木村庄助という青年の日記を基に書いたものだそうだ。
その青年は1943年5月13日に病苦のため22歳で自殺している。
同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰に送られたそうだが、ただ殴り書きした日記帳を送ったというよりも、きちんと製本されたものだったらしい。
太宰はそれを受け取って3カ月余りで『雲雀の聲』を完成したことになる。
青年がいつから日記を付けていたのかは定かではないが、戦時中の出来事と思ってよいだろうと思う。
日記を基にしたというからには完全なるフィクションではなく、そして太宰も戦時中に小説『雲雀の聲』を完成させたのだから、内容は戦時中の日本に沿ったものだったはずである。
しかしながら『パンドラの匣』は時代設定が戦後になっているのだ。
こうなると、どこまでが日記に基づいた事実や真実なのかが分からない。もともと分からないと言えば分からないけれど、戦後という設定での会話はどう考えたって事実ではなく(日記に書かれていたことではなく)創作である。


看護婦の日記!?

不思議な点はまだある。『パンドラの匣』は太宰が存命中に映画化された。
1947年7月公開。製作は大映。
『パンドラの匣』を原作とするこの映画のタイトルは当初『思春期の娘達』であったが、太宰がこれを嫌い『看護婦の日記』と改められた。

『パンドラの匣』は健康道場という名の療養所にいる青年(ひばり)が親友に宛てた手紙という形の小説である。
手紙形式の小説だが、手紙は往ったり来たりはしない。もっぱら青年(ひばり)の手紙が綴られている。
女性も看護婦も出てくるが、青年の視点で書かれたものだがら、主人公は手紙を書いている青年ということになろう。

映画だから小説(原作)に忠実とは限らないし、映画を観ていないので何とも言えないところはあるが、映画のタイトルは思春期の娘だったり看護婦だったり女性がメインになっている感じである。
最初に付けられた『思春期の娘達』を太宰が嫌って『看護婦の日記』になったというが、これは原作と設定が違うということなんだろうか。


『パンドラの匣』の設定

🐦手紙を書いている青年…ひばり(小柴利介)
 ’ひばり’というのはあだ名である。小柴利介(こしばりすけ)という名前から付いた。
 こしばり→こひばり(子雲雀)→ひばり(雲雀)

父親は数学の教授。
ひばりは中学校を卒業と同時に肺炎に罹患し、3ヶ月も寝込んでいたため高校への受験が出来なかった。起きられるようになっても微熱が続いたので、家でぶらぶら遊んで暮しているうちに、次の年の受験期も過ぎてしまい、上級の学校へ進学する気力がなくなってしまった。
両親には大層負い目を感じ、せめてもと思い、身体に差し支えない程度に家の畑で百姓の真似事をして暮らしていた。それでも、どうしてもごまかし切れない一塊の黒雲のような不安が胸の奥底にこびりついていて離れなかった。自分や自分のしていることに価値を見いだせなかったのだ。
「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。という意識ほどつらい思いは世の中に無い」

1945年初夏の頃から、ひばりの若いアンテナは一国の憂鬱や危機を感じ取っていた。だからといって何が出来るわけでもなく。ただ毎日毎日激しく畑仕事に精をだした。死ね、死んでしまえ、と言いながら鍬を振り下ろした日もあった。
そんなある日、父親はこう言った。「いい加減畑仕事はやめなさい。おまえの身体には無理だ」
それから3日目の深夜、夢現のうちに咳き込んで、喘鳴がして、喀血をした。
翌日はいつもより早く起きて、朝食も食べずに、また滅茶苦茶に畑仕事をした。誰にも知らせずに病気を悪化させて死んでしまいたかった。お酒を飲んで寝て、深夜にまた喀血した。そうやって8月14日から8月15日に日付は変わっていった。
8月15日の午前中も畑にいた。すると母親が呼びに来た。父親はラジオの前にいた。

そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或あるいは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。

昔の気取り屋の僕ではなくなったひばりは喀血をしたことを母親に打ち明ける。
そして父親が彼を結核療養病院に入れたのだった。
診断では6か月で完治すると言われた。

「健康道場」というのは、風変わりな結核療養所の名称である。
療養所には旧館と新館があって新館のほうが程度の軽い人がいる。ひばりは最初から新館にいる。
軽い体操と身体の摩擦を1日に何度か繰り返すのが患者の日課である。
病気を忘れることが全快への早道と婦長は言っていたそうだから恐らくそれがメインの治療法ということになろう。なにせまだ自然治癒力頼みだった時代であるからして、自然治癒力を落とさないために気に病まないことを第一としたのだろう。完治すると暗示をかけてやることもあったのだろう。
院長は場長、その他の医師は指導員、看護婦は助手、入院患者は塾生と呼ばれていた。名称や療法など全て院長の発案で、非常に好成績を収め、当時は医学界の注目の的となっていたそうだ。

小説はその「健康道場」の他の患者や看護婦など職員との交流を描いたものである。
手紙形式だが、最初の手紙は昭和20年8月25日付となっている。つまりそれは終戦10日後の手紙という設定である。


So this is Xmas181.png

『パンドラの匣』の問題箇所はここではないでしょうか。

塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。

25、26歳で「相当」年をとっているって・・・クリスマスケーキか!!(なんでクリスマスケーキかって?)




(続く)








by yumimi61 | 2019-10-11 18:40

混迷

太宰ふたたび

芥川龍之介の有名な作品は、東京帝国大学在籍中含め初期に書かれたものが多い。
一方の太宰治の有名な作品は、井伏鱒二の伝手で教師と結婚(1939年、29歳の時)した以後の後期に書かれたものが多い。
現代の教科書に掲載される非常に優等生的な作品にして超有名作品『走れメロス』は1940年に発表された作品である。
時代的にはすでに日中戦争の最中で、太平洋戦争勃発の1年半ほど前。

以前も書いたが復習。
太宰治の実家は青森県の大地主で、父親は政治家でもあった。金も権力もそこそこある恵まれた家庭に生まれ育った。
芥川龍之介の書物などを愛読する文学少年で、自身も小説家を目指し、旧制中学時代には同人誌を発行していた
東京の旧制一高には行けず、旧制弘前高校に進学するも、この学校は左翼の活動が盛んだった。
太宰は芥川の自殺に衝撃を受け様々な面で変質する。花柳界(芸者・遊女などの社会)に出入りしたり、左翼の活動に足を突っ込み、小説も左翼的なものを書いたり、自殺未遂も起こした。
しかし何事もなかったかのようにロスなく東京帝国大学へ進学し、小説家・井伏鱒二の弟子になったのが1930年。

太宰は旧制高校時代に出入りした花柳界で出会った芸者と恋仲になり結婚を前提でずっと付き合っていたが、芸者との結婚は実家が猛反対していた。
自身が上京後は呼び寄せて同棲を始め、2人は非合法左翼活動にも関わっている。
この活動がばれて太宰は実家から除籍されて、2人は引き離される。
その後、太宰は3回しか会ったことのないカフェの女性と自殺。
女性は死んで、太宰だけが生き残る。
しかしその自殺未遂をきかっけに引き離された2人は再会し、仮祝言(内輪の結婚式)に漕ぎ着ける。但し入籍は認められなかった。これも1930年の出来事である。

大学卒業が怪しくなってきた太宰は1935年3月に都新聞社(現:東京新聞)の入社試験を受けるが不合格となり、また自殺未遂を起こす。
結局大学は1935年9月に学費未納のため除籍となった。
第1回芥川賞は1935年。太宰治は『逆行』と『道化の華』の2作品が予選候補になっていた。どちらも1935年上期にに発表された作品である。
しかしながら芥川賞は取れなかった。選考委員の川端康成から私生活問題発言もなされた。そしてまた不安定になり、鎮痛剤中毒になり、1936年には精神病院にも入院させられることになる。

太宰が不安定で生活も落ち着かないという悩みもあったのだろうか、太宰が入院中、同棲相手(事実婚)の女性が太宰の姉の夫と不倫関係に陥る。翌1937年、太宰の姉の夫が2人の関係を太宰に告白。そして太宰と同棲(事実婚)相手の2人が水上温泉で自殺を図るも未遂で終わる。しかしこれをきっかけに2人は同棲(事実婚)を解消し別れることになる。
太宰はその後、1939年に結婚した。


太宰治と戦争

1935年8月 芥川賞落選
1939年1月 結婚
(1939年12月 ”春服の色教へてよ揚雲雀”という俳句を創作し結婚する知人に送る)
1940年5月 『走れメロス』発表
1941年6月 長女誕生

1937年7月より日中戦争が始まっていた。
『走れメロス』が諸手を挙げて受け入れられるほど日本は穏やかな時代ではなかったはずだ。
1941年11月、太平洋戦争に突入する1ヶ月ほど前、太宰治にも徴用礼状が届いた。文士部隊への徴用である。


日本の徴兵制度は明治時代に始まった。成人男性の日本国民には兵役義務が課せられることになった。

当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及、日清戦争・日露戦争の勝利、さらには軍隊で支給される食事が当時の貧困層の生活レベルから見れば良質で、有料だが酒保が置かれたという俗な理由もあり、組織的な抵抗はなくなった。
しかし徴兵忌避の感情は自然の感情であるので、さまざまな徴兵忌避対策が庶民レベルで繰り広げられた。
創設当初にあった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、1889年(明治22年)に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。逆に徴兵が免除される者が少数派になると、かえってそれが不名誉とみなされるようになった。

なお徴兵令の適用年代には地域差がある。本土では1873年(明治6年)だが、小笠原諸島・北海道では1887年(明治20年)、沖縄本島では1898年(明治31年)、先島諸島では1902年(明治35年)になるまで徴兵はなかった(例えば沖縄出身で日清戦争に従軍した者は全て志願である)。このため,例えば鈴木梅太郎や夏目漱石のように、徴兵逃れのために本土から沖縄や北海道へ転籍する者もいた


明治期の徴兵令が昭和時代に入ると前面改正され、兵役法となった(1927年・昭和2年)。
明治時代に義務教育制度を導入し、「教育勅語」に基づく皇民化教育を行い「天皇のために命を捧げることは名誉なこと」だと教え込んだため、多くの人は戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと思っていた。
それは天皇の為に戦った戦争に負けても、家族や愛する人や祖先や国民が天皇に命を捧げたり人殺しなどむごいことをしても、なお天皇崇拝を何ら不思議に思わない戦後の状況と酷似している。その精神性は変わっていないのだ、何も。

日本国民男子が20歳になると、とにかく全員徴兵検査を受けなければならなかった。(戦時中の1943年に19歳、1944年に17歳へ引き下げられた)
検査結果により次のとおり、振り分けられる。
・甲種…ただちに軍隊に入営。期間は2年。その後「予備役」として在郷待機。
・乙種…補充兵役。有事以外は在郷待機で普通の生活。たまに教育訓練のために召集がある。
・丙種…補充兵役。身体上にやや難があるが兵役には適すると判断されたもの。有事以外は在郷待機で普通の生活。
・丁種…身体障害者や感染症患者などで兵役に適さない。
・戊種…兵役の判定が出来ない。翌年再検査となる延期者も含む。

この他、職業軍人、志願兵(17歳から可、1944年には14歳に引き下げられた)、義勇隊(男子15歳以上、女子17歳以上)、学徒隊<鉄血勤皇隊・学徒看護隊>(男子15歳以上、女子17歳以上)、現地召集兵や防衛隊や護郷隊(概ね17歳以上)などがあるため、20歳前の少年少女が動員されている。
職業軍人と志願兵以外は強制的なものである。また志願兵も家族や学校や周囲の大人が志願することを強制したり強く勧めることもあったようで半強制的な印象は拭えない。

「召集」とは、現役以外の兵役者を軍隊勤務させることである。
2年の兵役を終えて在郷で予備役になっている甲種や乙種丙種の在郷待機者を呼び出すこと。
有事や欠員の際に呼び出すお知らせの紙が「召集令状」(俗にいう赤紙)である。
呼び出される可能性がある人(兵役者)を在郷軍人と呼んだ。

地域の役所の兵事係は在郷軍人の調査を行っており、基本的な個人情報から、職業・年収・健康状態(けが、病気、入院など)に至るまでの細かな調査書を作成し(在郷軍人名簿)、それを軍司令部に提出していた。
実際に徴兵が可能かどうか見極めたり、どのような技術や特技を戦争に役立たせることができそうかを軍司令部が把握しておくためである。
大本営から各地の軍司令部に動員がかかったときに、どこの誰がその役割に適しているか、動員内容と名簿の照合により綿密に人選され、適した人材が見つかると召集令状が発行された。
もちろん戦争末期は綿密に人選するほどの余裕はなかったと思うが。
どんな職業で、どのような技術や特技を持っているか、これを分業とか得業と呼んだが、そうしたものを持っている人には兵隊ではなく戦争に関連する特定の労働に就かせるため召集がかかることがあった。
徴兵と区別して徴用と呼んでいる。
日中戦争の最中の1938年3月には国家総動員法、翌1939年7月に国民徴用令を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。
そして徴用として軍需工場をはじめとする重要産業にも大量に動員されていくことになった。
兵役に就かせる召集令状の赤紙に対して、徴用は白紙や青紙だった。

徴用は現実の食料などの物価上昇を無視して、一般国民を国家の命令で転職させて低賃金で働かせるものであったことから、大変評判が悪かった。
当初こそは、徴兵に次いで国家に奉公する名誉が与えられたとする考えもあり、積極的に徴用に応じる空気もあったが、労働環境の劣悪ぶりと度重なる徴用令、そして勤務先の強制的な解散・組織全体の徴用などに伴って、徴用に対する一般国民の反発は高まっていった。
既に1940年(昭和15年)の段階で徴用拒否者が問題化し、徴用の動員令状である「白紙」は、軍隊の召集令状である「赤紙」と並んで人々を恐れさせた。
徴用拒否は1943年~1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた。このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。



1909年生まれの太宰治は1929年に20歳になった。
太宰は徴兵経験が一度もないというから甲種合格者ではなかったのだろう。
日中戦争が始まった年(1937年)には28歳だった。
そして1941年11月、文士部隊への徴用召集があった。32歳。
しかしその後の区役所の身体検査の結果、胸部疾患のため免除となったという。結局戦争に直接関わることはなかった。師匠の井伏鱒二は文士徴用員としてマレー派遣軍に随行した。

1944年8月、次男誕生。

太宰治が間接的に戦争に関与したと言えば、1943年大東亜共同宣言を受けて、国策に協力するための小説の執筆者に選ばれ、1945年2月に小説『惜別』を完成させたことだろうか。
しかしそれは戦時中には発表されることはなかった。


『雲雀の聲』と『パンドラの匣』

すでに太平洋戦争が始まって2年の月日が流れていた。
戦争に赴かずに済んだ太宰治は、1943年10月末、『雲雀の聲(ひばりのこえ)』という小説を完成させた。
大東亜共同宣言が1943年11月6日なので、その直前に脱稿したということになる。

しかしながらこれも戦時中には発表されることはなかった。
どうも検閲で問題視されることが予想される小説だったようだ。

検閲
書籍、新聞、映画の記事・表現物の内容を審査し、不都合があれば、発行・発売・無償頒布・上演・放送などを禁止や一定期間差止する検閲を行った。行政処分として、現物の没収・罰金、司法処分として禁錮刑を行った。
日露戦争のあと、内務省は逓信省に通牒し、極秘のうちに検閲を始めた 。
1941年(昭和16年)10月4日に、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)が制定されて、法令上の根拠に基づくものとなった。


<書籍>
著作物は、出版法による文書、図書を発行したときは発行3日前に内務省に製本2部を納本する必要があり、書簡、通信、社則、引札、番付、写真などは内容が取締法規に触れないものに限り届出が省略された。
検閲にあたって当局は、内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収することができた(明治26年4月法律15号、明治43年4月法律55号、昭和9年7月内務省令17号)。


どうせ検閲で不許可になるだろうからと出版社が自主的に一旦は出版を見合わせたというのである。

しかし太宰が1944年8月29日付けで、堤重久宛に宛てた書簡には「2~3カ月中に『雲雀の聲』と『津軽』が小山書店から出る」と書いてあった。
堤重久は太宰治の弟子であり、小山書店は『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover の完訳本)を発売して裁判沙汰になった出版社。

堤重久
文芸評論家、京都産業大学名誉教授。
太宰治の一番弟子で、著書に『太宰治との七年間』がある。
東京新宿の開業医の息子。旧制東京府立高等学校(後の東京都立大学を経て現在の首都大学東京)3年在学時、18歳のとき、『晩年』を読んで衝撃を受け、太宰治に心酔する。
1940年初冬に太宰の門人となる。1942年大学卒業後は東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。戦時中は外交官の伯父の勧めで外務省に勤務し、外交官試験の準備をする。太宰の死後は京都市に住み、京都産業大学で教えた。
『晩年』など太宰の初期作品に比べて『人間失格』などの後期作品には否定的な立場を取った。


小山書店
1933年に小山久二郎が東京市小石川区諏訪町に創業する(のち麹町区富士見町に移転)。処女出版物は野上弥生子『入学試験お伴の記』、ついで本多顕彰による翻訳本『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を発行する。文学書を中心に『新風土記叢書』(太宰治の『津軽』はこの第七編として刊行されている)、『現代詩代表選集』など多くの良書を世に送り出している。
1950年に発行した伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書として告発され(チャタレー事件)、その影響で小山書店は倒産する。その後、小山書店新社を興すが、チャタレー事件の影響で生じた負債で長くは続かなかったようである


『チャタレイ夫人の恋人』は1928年に発表されたイギリスの小説家D・H・ローレンスの小説。
現代の感覚で見れば些末な問題であるが、当時は英国社会における身分制度を大胆に扱った猥褻文書と見なされ、内外で激しい論議の的となり、日本では伊藤整による翻訳本の出版に関して最高裁までの裁判となった(チャタレー事件)。

太宰は検閲については一言も触れていない。
発行されなかった理由、それは―

1944年12月6日付け、小山清(1940年に太宰治の弟子となった人物で、太宰が戦時中に疎開している時期に太宰宅の留守を預かっていた) に宛てた書簡には、「『雲雀の聲』は発行間際に印刷工場が焼夷弾にやられて全焼」と書いてあった。

実はこの『雲雀の聲』はタイトルを変えて戦後まもなくに発表されているのだ。
『パンドラの匣』がそれである。
魯迅の東北医専留学時代を描いた『惜別』は1945年9月に朝日新聞社より刊行されたが、『パンドラの匣』は、地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
余談だけど、小山書店の処女出版物は『入学試験お伴の記』(13歳の次男の受験に付き添った体験を綴ったエッセー)だが、入学試験の保護者同行が話題になったのも東北大学でしたね!(2014年)


パンドラの匣

『パンドラの匣』(パンドラのはこ)は、太宰治の長編小説。
「健康道場」という名の結核療養所を舞台に繰り広げられる恋愛模様を通じて、青年・ひばりの成長を描く。
1947年と2009年に映画化されている。

本作品は、太宰の読者であった木村庄助の病床日記がもとになっている。

1940年(昭和15年)8月より太宰と頻りに文通していた木村庄助は、1943年(昭和18年)5月13日、病苦のため22歳で自殺する。同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰宛てに送付される。日記は京都の丸善に製本させたもので、「健康道場にて」と記した日記の背には太宰の短編「善蔵を思ふ」を模して「太宰治を思ふ」と刷り込んであったという。

1943年(昭和18年)10月末、太宰は木村の日記をもとに「雲雀の声」を書き上げる。小山書店より刊行する予定であったが、検閲不許可のおそれがあるため版元と相談の結果一旦出版を中止。その後許可が下り小山書店より出版される運びとなった。ところが1944年(昭和19年)12月、戦災のため発行間際の本が全焼。本作品はその時残った校正刷をもとにして執筆されたものである。1945年(昭和20年)11月9日までに脱稿。

河北新報社本と双英書房本では61箇所の異同が指摘され、多くは句読点や送り仮名、漢字表記や改行など文法上の改訂であるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあることが指摘される



最初に付けようと思っていたタイトルは『雲雀(ひばり)の聲』だけれど、ひばりというのは青年の名前でもあった。
太宰が生きている間に映画化もされている。
戦後2年目の夏、1947年7月1日公開。
ひばり役を演じたのは群馬県出身の小林桂樹さん。

2009年の映画で看護師の1人を演じた川上未映子さんは2008年の芥川賞受賞作家。





by yumimi61 | 2019-10-10 14:35

混乗

大東亜共同宣言と文学

国は菊池寛に指示して「日本文学報国会」(国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する会)を1942年に設立した。
1926年に菊池寛が設立した「日本文藝家協会」をそのままスライドさせたような形だったので、多くの作家が名を連ねることになった。
「日本文藝家協会」と「日本文学報国会」は同じ会長の下に存在した組織であるが、表向きの趣旨が異なるため、自動的にスライドされることを拒否した作家もいるし、プロレタリア作家であるため外されてしまうのではないかと自ら大いに心配した作家もいた。

1943年11月6日、大東亜共同宣言が発表されると、「日本文学報国会」は5大原則を文学作品化することにした。
執筆作家は指名制ではなく一応希望制という形式を採っている。
内閣情報局と日本文学報国会が委嘱作家選定のため、執筆希望者全員に「小説の梗概(あらすじ)と意図」の提出を求めたという。反体制や反戦がテーマの小説なんか書かれたら困るということなんだろう。
それによって、全体と5つの原則のそれぞれを担当する6人の作家が選ばれ、執筆が委託された。


【大東亜会議の参加国】
・日本

・中華民国(南京国民政府)
1940~1945年にかけて存在した、中国(当時の正式名は中華民国)の国民政府。首相は汪兆銘。こちらは日本に協力的な政府だったが、中国には、蒋介石率いる重慶政府もあり、そちらは連合国側に付いた。

・満州国
1932~1945年にかけて満洲(現在の中国東北部)に存在した国家。1931年の満洲事変で日本が満洲を占領。日本主導で同地域が中国(当時は正式には中華民国)からの独立を宣言し、1932年に満洲国建国を宣言した。日本の傀儡政権。

・タイ王国
1932年に絶対君主制から立憲君主制になった。植民地支配されなかった珍しい国家。但し国土の一部を割譲している。地理的にイギリスとフランスの勢力圏の緩衝地帯となっていたため独立が維持できた。第二次世界大戦においても枢軸国に名を連ね日本に協力的であった一方、連合国に協力的な勢力も存在しており密に連携していた。
こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。

・フィリピン第二共和国
1943年10月14日~1945年8月17日にかけての日本占領時期のフィリピンに存在した国家。日本占領前はアメリカの植民地だったが、1935年施行のフィリピン独立法によってに独立に向けての政治体制が整えられた(独立準備のための暫定政府)。それを占領したのが日本である。
独立準備のための暫定政府はアメリカに亡命。日本が作らせた別の政府時代がフィリピン第二共和国で、日本の傀儡政権。

・ビルマ
1943年8月1日~1945年3月27日にかけての日本占領時期のビルマ(現ミャンマー)に存在した国家。日本の支援を受けてイギリスの植民地支配から独立する形で誕生したが、日本の傀儡政権。

・オブザーバー として自由インド仮政府
1943年10月21日~1945年8月18日にかけて存在したインド独立運動活動家による団体。「インドの暫定政府」として日本占領時期のシンガポールで樹立され、日本軍の軍政に関与する形でアンダマン諸島とニコバル諸島を統治した。


【大東亜共同宣言(現代語訳版)】
1.大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

3.大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

4.大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

5.大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。


太宰治が執筆担当することになったのは、2の「独立親和」である。



執筆者選考の深い闇!?

大東亜共同宣言がなされたのは1943年11月6日だが、日本文学報国会は11月10日付の機関紙に小説執筆候補作家25名の氏名を掲載した。
会長である菊池寛の名はあるが、太宰治の名はなかった。

戦中に、たった4日で候補者リストを上げて、機関誌発行の段取りが整ったとは思えない。
日本文学報国会は国家の要請するところに従って国策を周知徹底させ、宣伝普及に挺身し、国策の施行実践に協力する組織なので、当然に随分前から「これこれこういう内容で大東亜共同宣言がなされるから、それに合わせて作家らに小説を執筆させてくれ」というオーダーが来ていて準備してあったか、日本文学報国会が率先して大東亜共同宣言に合わせた活動を事前に企画していたということになるであろう。

候補者として掲載されていなかった太宰治であるが、太宰は1944年1月30日付で東宝の映画プロデューサー山下良三に宛てた書簡の中に「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いていた。

1944年1月20日付の機関紙では、「執筆希望者約50名の協議」が行われたことが書かれていて、実際に出席した作家26名の氏名が掲載されている。
前年11月に発表された候補者25名の中で出席している者は4名だけで、あとの22名の出席者は新たな作家である。ここに太宰治と川端康成が含まれている。
11月の25名と1月の約25名を合わせれば、「執筆希望者約50名」ということになるが、本当に希望者なのかどうか。
この協議で「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出すること、審査委員会は執筆希望者以外の権威ある文学者・官庁関係官で構成することなどが決議された(説明された)。
つまりまだ執筆者は決定していないはずである。

しかし太宰は1944年1月30日付の書簡で「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いているのだ。
このあと2月に太宰は「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出したようである。

執筆者が決定し発表されたのは、1945年1月10日付の機関紙だった。執筆者決定までにおよそ1年かかったということになる。
執筆に先立ち1944年12月19日に「宣言五原則の理念を聴く会」が開催され、関係幹部や執筆者が出席したとの報告がなされ、小説は1945年2月下旬には完成予定と発表された。



戦争の終わりを見据えていた?

御存知の通り、8月15日は終戦記念日である。但しこの日を終戦とするのは他の戦争に鑑みると少々無理がある。アバウトすぎる。
あえて言うならば玉音放送記念日。もっと分かりやすく言えば天皇ラジオ放送記念日。
でもまあ1945年8月15日前後にひとまず戦争(戦争状態)は終わった。

戦争が終わるまでに小説を完成させたのは太宰治しかいなかった。6人中1人である。
執筆を自ら希望しておきながら、太宰以外誰も期限内に書かなかった。
国策の施行実践に協力するのが目的で、国策が戦争であったり大東亜共同宣言に則るものならば、戦争が終わってからでは遅いのだ。いつ書いても良いという小説ではない。目的を持った小説のはずである。
それを考えると、選ばれた小説家も実は書きたくなかった、あるいは最初から書く気がなかったのではないかと思えるのだ。
戦争が終われば書く必要はなくなるのだから、待ってさえいれば書かなくて済む。

太宰は日本文学報国会が告知した通り、1945年2月末にきっちり小説を書きあげた。しかしそれがすぐに発表されたり刊行されることはなかった。
まるで戦争が終わるのを待っていたかのように、1945年9月に朝日新聞社から刊行された。


太宰治が描いた「独立親和」

では太宰治は「大東亜各国の独立親和」をテーマにどんな小説を書いたのか。
タイトルは『惜別』。「惜別」は別れを惜しむこと。

<小説の内容>
・東北大学医学部前身の仙台医専に留学していた頃の魯迅を、東北の一老医師であり、当時の魯迅の親友が語るという設定で、藤野先生・私・周君(魯迅の本名)らの純粋な対人関係を描いた。作中で魯迅の語る偽善や革命運動家への疑問などを通して太宰自身の思想が色濃く反映されており、伝記としての魯迅伝とは若干異なる作品となっている。

魯迅(ろじん)とは?
中国の小説家、翻訳家、思想家である。本名は周樹人。
中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である。その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されている。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている。

1881年にやや貧困ではあるが、学問を尊ぶ伝統を残している家の長男として生まれた。
18歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす。
1902年、国費留学生として日本に留学した。
医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた。ニーチェ、ダーウィンのみならず、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドロノフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた。
1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。
当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した。
その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。
のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた。


あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。
— (竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)
 



打算と秘密兵器

太宰治の『惜別』は、中国からの留学生の目を通してという形で、日露戦争当時の日本を語らせた。
日露戦争の日本の勝利は世界に衝撃を与えた。大げさに言えばそういうことになる。小国が大国に勝ったということでアジアや中東に影響力を与えたのは事実である。
日露戦争とは、日本にとってそういう輝かしい位置づけにある戦争である。

太宰はあえて「文豪・魯迅」ではなく、「若者の目」から見た日本を語らせているわけだが、その若者が後の魯迅であることを最初に記しており、最後ではわざわざ魯迅の『藤野先生』という作品を一部引用して紹介している。
読者はどうしたって世界の文豪・魯迅から逃れられない。
日本を持ち上げるには上手い構成というか、ある意味こてこてとした構成というか。

(略)
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅ろじんとなって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
太宰治 『惜別』



日本文学報国会に提出した「小説の梗概(あらすじ)と意図」には次のように書いている。(後半部分です)
タイトルは「清国留学生」→「支那の人」→「惜別」と変更した様子がある。

(略)
彼(周樹人)のさまざま細かい觀察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違つた獨自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなつたのであります。清潔感。中國に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一體、どこから來てゐるのであらうか。彼は日本の家庭の奧に、その美しさの淵源がひそんでゐるのではなからうかと考へはじめます。
或ひはまた、彼の國に於いては全く見受けられない單純な清い信仰(理想といつてもよい)を、日本の人がすべて例外なく持つてゐるらしい事にも氣がつきます。けれども、やはり、はつきりは、わかりません。
次第に彼は、教育に關する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼつて考へるやうになります。さうして、つひに、中國がその自らの獨立國としての存立を危くしてゐるのは、決して中國人たちの肉體の病氣の故ではなくして、あきらかに精神の病ひのせゐである、すなはち、理想喪失といふ怠惰にして倨傲の恐るべき精神の疾病の瀰漫に據るのであるといふ明確の結論を得るに到ります。
然して、この病患の精神を改善し、中國維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文藝に依るのが最も捷徑ではなからうかと考へ、明治三十九年の夏(六月)、醫學專門學校を中途退學し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかつた仙臺の人たちとも別れ、文藝救國の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意氣軒昂たる上京を以て作者は擱筆しようと思つて居ります。
梗概だけを述べますと、いやに理窟つぽくなつていけませんが、周樹人の仙臺に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思つて居ります。
魯迅の晩年の文學論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい觸れず、ただ純情多感の若い一清國留學生としての「周さん」を描くつもりであります。
中國の人をいやしめず、また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中國の若い智識人に讀ませて、日本にわれらの理解者ありの感懷を抱かしめ、百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖を存してゐます。


日本に留学に来た22歳の若者・周樹人、それは後に世界的な文豪となる魯迅であるが、その若者の心の変遷、そしてそれに大きく影響を与えたもの(つまりそれは、この上なく素晴らしい日本)について書くというわけである。
魯迅が若い時に日本に留学していたのは本当のことであり全くの創作話ではなく、話の骨格は事実に基づいている。
しかし太宰治が描いた周樹人の心象風景が真実かどうかは分からない(かなり怪しい)。
また小説を読んだ読者が抱きうる心象風景には正解がなく、太宰の執筆意図に応えるとは限らない
総合的にみると、フィクションなのかノンフィクションなのか、ドキュメンタリーチックなのか、かなり微妙なところである。

でも日本人が素直に読めばたぶん悪い気はしないだろうと思う。
中国の世界的な文豪を誕生させるきっかけとなったのは日本だったという、日本人がとても好きそうな話なのだ。
それも留学を通じた交流だから、宣言の2にも相応しい話である。(周さんや魯迅が中国のどのあたりの人かまでは確認していないが、大きく中国として捉えれば)

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

但し医学を捨てて文学に進んだというような精神性を描くことが、現実問題として今起こっている戦争に対して戦意高揚に繋がるかと言えば甚だ疑問である。武より文、科学より信仰みたいな主張となり、読む人が読めば自身を否定されたような気持になるだろう。
一方、太宰の小説から日本賛美だけを感じ取れば、優越性や傲慢さを助長することになり、侵攻が正当化されて領土欲は広がるかもしれない。だから戦意を高揚する可能性もある。
さて、読者はどちらに振れるだろうか。
そもそもこの小説を読むのは誰なのか?戦時中にいったい誰をターゲットにしたのか。

『惜別』は日本にとって心地よいものであるが(現に1字1句直されなかったと太宰が書いている)、この小説を発表する目的が戦争遂行のためでも和平のためでも効果が疑問視できる小説である。

むしろ敗戦してから世に出した方が効果的に使えると思えてくる小説なのだ。(でもそれは、戦時中には発表されなかったということを知っている後世の人間である私の感想だから偏見が入り込んでいる可能性も捨てきれない)





... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

by yumimi61 | 2019-10-08 18:55

コングリゲイト

1919年、菊池寛と芥川龍之介が毎日新聞社に入社。
1923年、人気作家とはった菊池寛が雑誌『文藝春秋』を創刊
1925年には文化学院(専修学校)の文学部長に就任。
1926年には文藝春秋社を設立、同年、日本文藝家協会も設立した。
1927年、芥川龍之介が自殺する。

(1931年、満洲事変勃発)

1935年、文藝春秋社の社長であり、文藝春秋の編集長でもあった菊池寛は芥川賞と直木賞を創設
 1935年第1回芥川賞 『蒼氓』石川達三(30歳)受賞

(1937年、日中戦争始まる)

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の菊池寛に作家を動員して従軍するよう命令。
総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。
帰国した菊池寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」を始めた。

(1940年、東京オリンピック中止)
(1941年、アメリカに奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まる)

1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立される。
「国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する」ことを目的とした社団法人として発足。
日本俳句作家協会(「国民詩たる俳句によって新体制に協力」するという目的で1940年に結成)も日本文学報国会の俳句部会として統合。
情報局の実質的な外郭団体であった。運営費は情報局から支給された。
この設立に伴い、日本文藝家協会を解散。
1943年、菊池寛は映画会社「大映」の社長にも就任し、国策映画作りにも奮迅した。


日本文学報国会
(日本文学報国会は、日本文藝家協会の会員であった)既存の作家たちをそのまま組織した傾向があった。
そのため、会員になることを拒否した中里介山、内田百間以外は、旧プロレタリア文学関係の、宮本百合子や蔵原惟人、中野重治たちも入会していた。中野重治はプロレタリア作家であった自分の経歴のために入会を拒否されるのではないかと菊池寛宛に問い合わせの手紙を送っている。
宮本百合子は1943年に会の事業として女性作家作品集の企画(発行はされなかった)において掲載作品を選定しようとして、獄中(未決)の夫、宮本顕治からたしなめられるということなどもあった。

永井荷風は無断で入会されたこと、そして会長の徳富蘇峰を嫌いであると日記で書いている。


プロレタリア文学とは
1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものである。
つまり普通に考えれば、プロレタリア文学の作家や作品のテーマは、体制や権力や資本家とは反対に位置し、反権威主義、反階級社会、反資本主義などの思想を持っているはずだが、そのプロレタリア作家までが絶対君主制の体制側に積極的に参加したということである。


日本文学報国会の大東亜共同宣言への文化協力
1943年11月6日、大東亜共同宣言が発表されると、その五大原則を主題とする作品の創作などの文化協力案を決定。小説部会では約50名の執筆希望者の中から、五大原則についての小説・戯曲の委嘱作家を選出した。

同宣言全般について大江賢次、「共存共栄」高見順、「独立親和」太宰治、「文化昂揚」豊田三郎、「経済繁栄」北町一郎、「世界進運貢献」大下宇陀児、商業劇に関口次郎、中野実、八木隆一郎、新劇に久保田万太郎、森本薫を決定した。

しかし完成したのは、太宰治「惜別」(1945年2月)、森本薫「女の一生」(同)の2作だけだった。「女の一生」は1945年4月に渋谷東横映画劇場で5日間上演され、「惜別」は終戦後の9月に出版された。
ただし当時検閲による不掲載などの処置を受けていた太宰は、書簡の中で「文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ」とも述べており、受け止め方には温度差が見られる。  


日本文学報国会の建艦運動
建艦運動の一助として小説集を刊行、「愛国百人一首」「国民座右銘」の選定・刊行、「大東亜戦詩集・歌集」編纂、「辻小説」「辻詩集」の制作、古典作家顕彰祭などを実施した。会の機関誌として『文学報国』を発行。
『辻小説集』(八紘社、1943年)は小説部会員による原稿用紙1枚の小説、檄文を集めて、国民士気の高揚を目指したもので、207篇が集まって出版された。


愛国百人一首
戦時中の翼賛運動のひとつとして、愛国の精神が表現されたとする名歌百首を選んだもの。皇室への崇敬や国土愛、家族愛の歌が採られている。

日本文学報国会が情報局の後援、大政翼賛会の賛助、東京日日新聞大阪毎日新聞の協力を得て企画された。
企画目的は「聖戦下の国民精神作興」であった。
選定基準は、万葉時代から幕末までの詠歌者の分かっている臣下の和歌であり、愛国の精神が、健やかに、朗らかに、そして積極的に表現されていることとされた。また、幕末期の歌は明治改元より先に物故した人物に限られた。

選ばれた百首は、情報局の検閲を経て昭和17年(1942年)11月20日、情報局から発表された。これに改訂と解説を加えたものが、『定本愛国百人一首』として昭和18年(1943年)3月に毎日新聞社から刊行されている。

選定直後となる1942年中には山内任天堂によって商品化され販売された。任天堂の歴史の中でも、大政翼賛会の後援を得た珍しいゲームである。


e0126350_17424666.jpg
右は2016年リオ五輪閉会式引き継ぎセレモニーにおいて、マリオに扮したらしい安倍首相。髭が無く、仮装が甘い印象を受ける。
ちなみに任天堂とセガの「マリオ&ソニック AT東京2020オリンピック」は東京オリンピック公式スポーツゲームになっている。

文武の文に力を入れた先の大戦では敗戦してしまったため、方針を転換し、武に力を入れて、オリンピックも前回のように中止することなく盛り上げていこうという心意気でしょうかね?

泣く子も黙る任天堂株式会社のルーツは「かるた屋さん」。花札、トランプ、百人一首。←過去記事(2018年3月22日、『料簡 』←’りょうかん’じゃなくて、’りょうけん’ね。’そんなりょうけんだから~’)に書きました。

<余談>笑点で’そんなりょうけんだから~’と言われていた昇太さんのご結婚相手はペットショップ「青山ケンネル」の創業家一族だそうですね!「青山ケンネル」と言えば、尾崎豊さんが犬🐶を買ったお店ではないですか?

e0126350_18532952.jpg
日本文学報国会の楽曲作成
1943年の軍人援護強化運動に協力して、詩歌、俳句、短歌の三部会で作品を募集し、6月に作品を軍事保護院に献納、続いて7月に日本音楽文化協会などとともに作曲公募のための詩歌として大木惇夫の「大アジヤ獅子吼の歌」を選定、園部為之の曲が当選して9月に発表された。

同じ7-9月にも日本音楽文化協会と愛国歌曲の創作、献納を行う。これらの曲は各地で発表演奏会も行われて国民運動となった。

また大政翼賛会募集の「勤労報国隊の歌」(1943年11月発表)、日本文学報国会と日本音楽文化協会共同企画による「少国民決意の歌」(1944年3月発表)「皇国漁民の歌」「大漁ござる音頭」(1944年9月募集)、日本文学報国会主催で農商省などが後援の「日本農村の歌」(1944年11月発表)などで、日本音楽文化協会との連携による楽曲作成が行われ、1944年3月の日本音楽文化協会による決戦楽曲の募集では審査会に参加した。

1944年の軍人援護強化運動では、日本文学報国会の作詞の委嘱で西條八十「起て一億」、三好達治「決戦の秋は来れり」が、日本音楽文化協会により曲が付けられ、発表演奏会やラジオ放送その他のイベントで演奏された。44年9月からの情報局制定歌曲ではサイパン玉砕をテーマに作詞を委嘱され、佐藤春夫「一億総進撃の歌」、尾崎士郎「復仇賦」に、日本音楽文化協会公募の曲が付けられて発表された。


大木惇夫
1895年4月18日 - 1977年7月19日 広島県広島市出身
日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。
太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。


20歳の頃に洗礼を受けたクリスチャンであった。
若い頃から、俳句・詩・小説を創作しており、20歳の頃に大阪朝日新聞の懸賞に当選している。

1941年、大平洋戦争が始まった時、大木は46歳であったが、海軍宣伝班の一員として徴用され、ジャワ作戦に配属された。
同じ班にはジャーナリストでノンフィクション作家の大宅壮一や漫画家の横山隆一がいた。
大宅壮一はもともと左翼であり、ナップ(プロレタリア文学・芸術運動の組織)の中央委員を務めており、共産党とも親しかった。

日曜日にTBSで放送している『サンデーモーニング』に出演しているジャーナリストの大宅映子さんは娘である。
1963年に国際基督教大学卒業。
宣伝会社コスモ・ピーアール勤務後、1969年に日本インフォーメーション・システム (NIS) を創設し、1978年頃から政府審議会の委員を務め、2014年1月1日から日本年金機構の理事を務める。
「地球的規模の環境問題に関する懇談会」、「医療保険福祉審議会」、「行政改革委員会」、「警察刷新委員会」、「教育改革国民会議」、「税制調査会」、「年金業務・社会保険庁監視等委員会」など政府審議会委員を歴任する。


大木惇夫大はジャワ作戦での経験を基に、1942年に詩集『海原にありて歌へる』を現地ジャカルタで出版した。それに大宅壮一もあとがきを書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と言っている。
またその詩集に収められた『戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』は日本の戦争文学の最高峰ともいわれる詩であり、前線の将兵に愛誦された。
そしてその詩集が日本文学報国会の「大東亜文学賞」を受賞。以後、作品の依頼が殺到した。

しかし1945年、敗戦にて戦争終結。
戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、一転して戦争協力者として文壇から疎外される。戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした。

とはいえ、大木惇夫が作詞した『大地讃頌』は合唱曲として人気が高いそうであるが、不思議なことに?私は全く知らない。覚えていないだけなんだろうか。1962年に作られた曲で、1980年代初めに初めて合唱曲集に収録されたようだが、実際に人気が出たのは1990年代以降なんだろうか。曲を聞いても聞いたことがあるという感じがしない。
『大地讃頌』
「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』」の終曲であるが、この曲のみ単独で歌われる機会も多く、現在では中学校の合唱コンクールや卒業式などでも歌われている。1980年代はじめに出版された『新しい私たちの合唱曲集』(教育芸術社)においてすでに単独収録が行われており、その後もさまざまな出版社の楽譜に収められている。

『大アジヤ獅子吼の歌』
この歌は、日本文学報国会と日本音楽文化協会が作曲公募するために、大木惇夫が歌詞を提供したということである。
1943年9月に曲が選ばれると、NHKのラジオ番組『国民合唱』で10日くらい流された。

*番組名の変遷*
1936-1941年『国民歌謡』→1941年2月12日-12月8日『われらのうた』→1941年12月8日-1945年8月15日『国民合唱』→戦後1946-1962年『ラジオ歌謡』

もともと番組の発案は大阪放送局だったそうである。
上に書いた一連のラジオ音楽番組は1962年に終了したが、その前年の1961年よりNHKはラジオとテレビの両方で『みんなのうた』という音楽番組の放送を始めていて、これは現在も続いている。ちなみに現在同番組のナレーションを務めているのは井上あずみ(杏美)さん。

井上あずみ
日本の女性歌手。80年代アイドル。本名、(旧姓)宮崎みどり。
石川県出身。金城高等学校(現・遊学館高等学校)卒業。所属事務所はド・レ・ミ。歌手のゆーゆは娘。代表作は宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』の主題歌など。

高校時代は演劇部に所属、県大会でも出演。高校卒業後の1983年、シングル「STAR STORM」を出し、アイドル歌手としてデビュー。当時の芸名は、井上杏美(金沢市出身の作家・室生犀星の「杏っ子」から命名)。
1986年、宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』のエンディングテーマ「君をのせて」と、次作『となりのトトロ』では主題歌「となりのトトロ」およびオープニングテーマ「さんぽ」を歌唱。また、翌作の『魔女の宅急便』では挿入歌『めぐる季節』『魔法のぬくもり』の2曲を歌唱する。






... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

by yumimi61 | 2019-10-07 17:54

飾り

e0126350_23280829.jpg猫派
e0126350_11272558.jpg

e0126350_23383757.jpg先日、車を運転していたら、赤信号になったので一時停止したところ、目の前の横断歩道を歩いて渡ったのは、なんと猫でした(1匹)! 猫ちゃん、すご~い、ちゃんと横断歩道が渡れるんだね。
偶然だったのか、信号が分かるのか、謎。


e0126350_23412734.jpg街の中にはいろいろなお店や看板や掲示物が溢れている。
これまた先日、街の中を車で走っていたら、「NO1」が「NO!」に見えたのです。
目が疲れているのか、心が疲れているのか・・・。


e0126350_23432285.jpgそろそろ街にはかぼちゃが溢れる頃ですね。
e0126350_12060780.jpg

e0126350_23573806.jpg植えていないけど生えてきて実が出来ているかぼちゃたち。
昨年廃棄したものから出たんだと思う。食用かぼちゃだけど味はどうなのかなぁ。その前にちゃんと最後まで育ちきるか。
e0126350_12272063.jpg
かぼちゃの自然な宙吊り栽培
e0126350_12264565.jpg
  かぼちゃのツルが伸びて行って近くの木を登り、空中に実が吊るさっているという図です。


e0126350_23523113.jpg猫派
e0126350_13324827.jpg

e0126350_00013462.jpg猫型食パンがかわいいと思うの。



e0126350_00060914.jpg少し前に初めて自転車+リヤカーみたいなクロネコヤマトの配達員を見かけ、何事か!と思ったら、「ネコロジー」という環境に優しい配達なんだそうですね。


e0126350_00082872.jpg駐車場で車に乗り込み出ようとしていた時、右隣の空いている駐車スペースに入れようとする車がいたので、そのまま待っていた。入り口に近い駐車スペースだった。
その車はバックで入れようとしていたのだけれど、すごく左側に寄っていて、運転席にいた私から見るとどう見ても、その車の左後部と私の右前がぶつかる感じに思え、咄嗟に軽くクラクションを鳴らした。
するとその車の運転手はそこに入れるのをやめて、別の場所に行ってしまった。
私は急に不安になった。ぎりぎりぶつからない位置だったんだろうかと思い、もしその運転手が怖いひとだったらどうしよう・・と少々わなわなしたのだけれど、他の場所に車を停めたその運転手さんが私に軽く会釈してきたので、事なきを得た。よかった~
条件反射みたいなクラクションも考え物な昨今ですね。後方カメラが付いていたかもしれないし。
そして思いだしたのけれど、昔?はコーナーにポールみたいなものが付いている車が結構ありませんでした?でもあれは左前かぁ。
そのポールの先端にスマイルボールを飾るのが流行っていた時期もあったなぁと思ったんだけど、それはアンテナですね。


e0126350_00153556.jpgまたしても運転中の話だけれど、昨日軽く?煽られた。
車の流れが多い幹線道路で、物凄く車間距離を詰められて、後ろにぴったり付かれた。ちょうど片側1車線区間であり、反対車線も車の流れ多いので、追い越しはまず出来ない。だけど車がスムーズに流れている分にはみな同じようなスピードで走っているので、特別に遅く走っているということはない。
その車は黒いナンバープレートの軽トラで、2人乗っていた。
嫌だなぁと思いつつ走っていると、左から合流してくる地点に差し掛かった。
合流してくる車も結構あって、前に順番に5台くらい入った。私の前にも1台入ろうとしている車があった。合流してくる車はその車でひとまず途切れる感じだった。
そしたら何を思ったか後ろの車が大きく左側の合流してくる車線側に寄った。
前に車を入れるなということなのか、私の前に入りたいのかよく分からなかったが、前に入りたいなら入ってくれてよいと思ったので、私はブレーキを少し踏んでスピードを落としたが、前には入らなかった。
私はドアロックを掛け、ナンバーを覚え、携帯を出し、そこから2車線になるまでぴったり走行が続いた。
後ろの車は2車線になった途端に右側の車線に出たが、右側の車線にも前に車がいる。見ていたら今度はその車に車間距離を詰めてぴったりくっついている。
だんだん混んできて、全体的にそれまでよりもスピードが出ない感じになった。それで余計イライラしたのか、その黒ナンバーの軽トラは今度は右側に大きく車を寄せるのが見えた。右側の追い越し車線にいるのだから抜くことは出来ない。だからやっぱり煽りなんだろうと思った。
黒ナンバーだったから営業車(事業用貨物)なのに・・・よほど急ぎの届け物でもあったのかしら。ドラえもんの「どこでもドアー」があったら良かったのにね。その前にドラレコ?



e0126350_00421541.jpg




... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

by yumimi61 | 2019-10-06 11:34

コントラディクト

高利少売の死角

前記事で取り上げた熊本の老舗宝飾時計店の一件に関するコラムを紹介したい。
そのお店を全く知らないわけでもないという方が書いている。ビジネス目線でもある。
HAKATA PARIS NEWYORK
高利少売の死角。 2018年5月16日
  より部分的に抜粋
 宝石・貴金属、時計、メガネを扱う業界はメーカー、卸販社、小売店の間で長らく共存共栄が成り立ってきた。高級品の代名詞で、高い荒利益が取れるため、三者で分けあって来たのである。しかし、ビジネスである以上、未来永劫で安定成長が続く保証はない。嗜好品は景気の影響を受けやすいし、お客のマインド変化でも市場は縮小する。また、小売店主の経営能力に左右される部分もある。

 メーカーはこうしたリスクを避けるために、卸販社を自社系列に再編して優先的に商品を流通させたり、売上げ実績に裏打ちされる小売店にトップブランドの販売を任せたり。ロイヤルティを守りながら、確実に売掛金を回収するには、当然と言えば当然である。先日、こうしたメーカーの姿勢が物議を醸す一件がネットを駆け巡った。

 事の発端はこうだ。2016年の地震で大きな影響を受けた「老舗宝飾時計店」が売上げ減を理由に、時計メーカーのセイコーから高級ブランド「クレドール」の取り扱いを一方的に停止する通告を受けたのだ。

店主によると今年2月、セイコーの営業担当者からクレドール取り扱い認定を取り消されたという。セイコーに限らず、輸入時計のロレックスやオメガ、コルムやブライトリングも、一定の販売額(販売能力)を条件に取り扱える卸商社や小売店を限定している。そのため、こうしたことは宝飾業界では特別なことではない。

一般論で考えると、今回の一件は一大メーカーと小売店の立場の違い、力関係における強弱を露呈したと言える。メーカーとしては、いくら創業120年の老舗であろうが、高級ブランドを長年販売して来た実績があろうが、いま現実の売上げ数字を見て商品を卸すか卸さないかを判断する。それがSNSによって物議を醸すとは想像すらしていない。

 公開された確認書の書面には、「セイコーウォッチ株式会社 取締役・専務執行役員 国内営業本部長」の名前があった。おそらく、担当者は経営計画に基づいて設定されている内規に従い、粛々と取り扱い停止を通達したのだろう。いたって実務的である。経営幹部ではあるものの、サラリーマンとして当然のことをしたまでだ。

 しかし、小売店は釈然としない。創業からセイコーの時計を売って来た。クレドールも40年の販売実績がある。しかも、地震で被災した異常事態なのに、何でここ1〜2年の売上げ減で、取り扱いが停止されるのか。うちがクレドールを販売しなくて、どこが売りきれるというのか。老舗としてのプライドもあるだろう。それゆえ、立場の弱さからSNSという手段を用いて、世論に訴えるしかなかったとも考えられる。

 セイコーは世界に誇れる大企業に躍進した結果、小売店のこうしたエモーショナルな感情の揺れがわからない。ブランドを売っていきたいのは、メーカー、小売り双方に共有するはずだ。しかし、立場の違いから得てして異なったベクトルに進んでしまう。ある意味、それはしかたないことかもしれない。

 和解とは、どんな落としどころだったのか。取り扱いがそのまま継続されるのか。扱えるが、絶対数や価格帯などが限定されるのか。他にも何らかの条件が付けられたのか。どちらにせよ、双方が歩み寄ったからこそ、和解できたのだ。クレドールの件に関しては、第三者がこれ以上言うべきものでもないだろう。


今回は高級ブランドウォッチをめぐるメーカーと小売店の問題だった。では、宝石・貴金属についてはどうなのか。ここでも力を付けて伸びる店、あるいはジリ貧になっていく店、メーカーや商社に擦り寄りたかる店と様々ある。

 でも、多くは何とか成長したいと願っている。そのために活動する団体がある。この老舗宝飾時計店を含む、全国の宝石・貴金属専門店が加盟する「日本ゴールドチェーン(NGC)」(http://www.sophy.co.jp/)がそれだ。こちらの動向を見ると、老舗宝飾時計店の課題も浮き彫りになる。
 NGCは、いわゆるボランタリーチェーンと呼ばれる。これは多くの独立した小売店が連携して協同組合をつくり、仕入れ・物流などを共同化しながら、統一した商標の使用も可能にするものだ。老舗宝飾時計店の店名につく冠の「ソフィ」は、確かNGCが統一する商標だったと思う。

実を言うと、筆者は1986、87年頃に、このボランタリーチェーンのプロモーション企画にタッチしている。勤務先に仕事のオファーがあり、販売企画から参画し、ジュエリーや貴金属の撮影、販促ツールの企画・デザイン、印刷まで一括で携わった。確か宝石・貴金属の問屋が集まる東京・御徒町に事務局、品川にも事務所があり、打ち合わせに行っている。

さらに記憶を手繰ってみると、加盟店の中で比較的、経営力のある店舗がリーダーとなり、他のお店を主導していくこともあった。関東地区では栃木のT店とか、九州地区では長崎のS店とかがそれだったように感じる。 当然、老舗宝飾時計店も加盟店だったので、販促ツールの注文があり、何度か制作に携わった。

 こうした手法はその後に日経MJ(流通新聞)にも1面で取り上げられたのではなかったかと思う。仕事を受注してから数年後、ファッション業界誌に執筆するようになり、「NGCの仕事をしていたことがある」と、出版社の編集長に告げると、「NGCはうちの出版社がボランタリーチェーンの立ち上げを指導したんだよ」との返答。この時ばかりは不思議な縁を感じた。

 リーダー的存在だったT店やS店はチェーン加盟で、さらに経営力をつけて収益を拡大し、ともに退会したと見られる。現在、T店は全国に171店を展開し、年商170億円を超える東証一部の上場企業に上り詰めた。また、S店は宝石・貴金属の完全SPAに成長し、オリジナルブランドを企画販売している。店舗は国内82店、海外6店を展開し、この春にスタートしたストライプデパートメント(EC)にも出店したほどだ。

 ところが、老舗宝飾時計店はどうだろう。同店の沿革を見ると、1994年から2000年にかけて県内に新店2店舗、市内の別の商店街に1店舗を展開し、一応多店舗化を目指したかに見える。04年にはそれらをジュエリー工房に統合し、物販は本店のみに戻っている。県内で新店を軌道に乗せるのは容易ではなかったようだ。

 「商店街で地道に愚直に宝石貴金属・時計の商売を続けている」と言えば、聞こえはいい。しかし、T店のように売上げ拡大のための多店舗化も厳しく、かといってS店のようにSPA化でオリジナルや利益率向上で競争力を付けることもままならない。だから、荒利益が取れる高級ブランドを扱えなくなると、経営危機が店主の頭をよぎるわけだ。

高級ブランドのジュエリーやウォッチは、諸刃の剣でもある。荒利益が高いので売れると収益がアップするから、小売店としてはどうしてもしがみつきたくなる。しかし、それにはメーカーや卸販社から一定額の「ノルマ」を課され、有無を言わさず「結果」で判断される。扱いを失うとになると、今回のようにあたふたせざるを得ない。

 ブランド、高荒利といった商材に頼れば頼るほど、営業面でのリスクはより大きくなるのだ。日本はすべての業界でマーケットが縮小しているわけだから、高利少売についても考える余地はあるのではないか。これまでのビジネススタイルを全面的に改めるという意味ではなく、リスクヘッジのためのも一考しなければならないということである。

 震災の爪痕は少しずつ癒え、商店街に人通りが戻って来たとは言え、長期的には先は見えている。それを外商がどこまでフォローできるかは、お客の購買スタイルの変化もあり未知数だ。しかも、宝飾マーケットの規模は、「バブル期の3兆円から昨今は7000億円と3分の1以下に縮小した」とのデータがある。高級ブランドを失うリスク、商店街の限界、宝飾市場の縮小等々。今回のSNS騒動は、宝飾業界を取り巻く様々な課題が店主の脳裏でない交ぜになり、常識では考えられない行動に駆り立てたのかもしれない。

 しかし、経営者はビジネスにおいて情緒的になることは許されない。プロは結果がすべてだからだ。宝飾品に限らずファッション衣料やバッグ・靴と、商店街で営業する小売店も、みな少なからず課題を抱えている。NGCは宝飾業界の課題をみんなで背負いあって克服し、経営力を付けていこうという団体である。

 筆者が仕事を受けていた頃は、老舗宝飾時計店の経営者は先代だったと思うが、今の店主は40代と若い。加盟店の成功事例から再度勉強し直して、逆境にも負けない新しい経営スタイルを確立してもらいたい。



商売の虚


ターゲットとする対象は少なくなるが、付加価値を付けて高値で売り、高い利益を出すのが高利少売である。(↔反対は薄利多売)

何を以って識字というかは曖昧なままだが、識字率は思っているほどは高くないと思われる。さらに現実的に長文が苦なく読める人となるとかなり少なくなる。
ということで、小説という商品を販売するにあたっての対象は然程多くなく、薄利多売は向かない。高利少売が相応しい。
しかし幸か不幸か小説の商品特性と顧客特性を考えると付加価値が乗せにくい。よって高利少売も難しい。
一般的に、それでも商売として生き残っていくには、対象に出来る限り買ってもらえるよう努めるか対象そのものを何とかして広げる、あるいは価格を上げるか原価や経費を抑えて利益率を上げるしかない。
小説で考えれば、識字率の問題は簡単には解決しないので、対象を広げるならば読めない層にも買ってもらう必要がある。価格に関して言えば、読者を減らさない程度の値上げしか出来ないので、印税や原稿料の抑制、用紙代や印刷代の節約、編集者や営業マンの人件費削減や宣伝広告費削減、出来る限り売れ残りを減らすなどして原価や経費を少なくする必要が出てくる。
(印税、原稿料、用紙代、印刷代は原価に含まれ、編集者や営業マンの人件費や宣伝広告費は経費に含まれる)
活字を読んでもらう小説だけで利益を出すのが難しいとなれば、より多くの人々を対象とできる映画やテレビなどとタイアップするといった工夫が必要になる。(戦前はまだテレビは誕生していなかったが)
ここまでは営業利益の話である。

だけど企業経営は、特に昨今は、営業利益だけではなく、株式や土地の売買、投機・投資・資産運用など財務活動で得る経常利益も経営に大きく関係しているので、本業だけで語れない難しさもある。
本業はいまいちなのに、本業外でかなり儲けているという場合もあるし、本業は堅実なのに投資に失敗して倒産することもある。

寄付金や広告料、協賛金などは一応本業に含まれる費用であるが、これらも企業本来の本業(営業活動)の成果を分かりにくくしている。

上のコラムに「プロは結果がすべて」と書いてある。
「プロ」を経営者、「結果」を最終的な利益数字とすれば、どんな手法であっても利益が出せれば良いわけである。営業利益がさっぱりでも経常利益が上げられれば良いということになるし、資産家や大企業にすり寄って原価・経費以上に寄付してもらったり広告料(という名目の寄付のようなもの)を出してもらえば良いということになる。そうすれば商品が1つも売れなくても赤字にはならない。

例えば、会社の定款の目的が雑誌の企画・編集・出版・販売になっている出版社がある。
もし「プロ」を本業、結果を「営業利益」とすれば、雑誌を作って販売し、営業利益(売上高-原価と経費)を上げる必要がある。
各業界や作る物によって原価は全然違うものであるが、大抵どんな業界も原価以上にかかるのが経費である。
雑誌は良く分からないが、書籍だったら原価を売上見込みの40%以内に抑えないと利益が上がらないとされる。
出版社は雑誌に広告を載せて企業から広告料なる収入を得ることにした。
ここでもしも原価と経費以上の広告収入を得れば、赤字の心配はなく雑誌の売り上げは全て利益になる。
出版社はどんなに売り上げが少なくても損はしないし、作者は規定の原稿料をもらっているし、従業員も給料を得ている。とても平和である。
消費者に買ってもらい読んでもらうという努力をしなくても回っていくのである。「プロは結果がすべて」だから、ある意味それでも良いのかもしれない。お金の面では上手くいっている。
だけどそれは、雑誌を読む人が少なくても回っていくということでもあり、雑誌を読ませるという中味は伴っていない。雑誌を読ませるプロだとすれば、結果は出ていないということになる。


深層心理と表層心理

またまた菊池寛社長兼編集長の「話の屑籠」より

1935年9月 ←第1回の発表時のコラム
 芥川賞直木賞も、別項発表の通、確定した。芥川賞の石川君は、先ず無難だと思っている。この頃の新進作家の題材が、結局自分自身の生活から得たような千篇一律のものであるに反し、一団の無智な移住民を描いてしかもそこに時代の影響を見せ、手法も健実で、相当の力作であると思う。

 直木賞の川口君は、外に人がないので止むを得なかったのである。川口君は少し有名になり過ぎている。去年なれば、丁度よかったので、一年位期を失している。しかし、川口君にやらないとすれば、授賞を取り止める外はなかったのだ。(川口君にやるか、でなかったらよすか)と、なると、第一回だけに、やった方がよいと思ったので、川口君に定めたのである。審査員と懇意すぎることも、一寸難点であったが、これは我々の良心を信じて貰いたい。そこへ行くと、石川君は審査員は、誰も知らない人である。

 芥川賞の選定のため、久しぶりに新進作家の作品を、少し読んで見たが、しかし自分は失望した。末梢的な新しさで、ゴマかしているだけで、実際は十年前に比して、少しも進歩していないと思った。殊に、新奇を装っている表現は、新進作家の作品を、いよいよ仲間的にして、一般の読者階級から離れさせるものではないかと思う。大衆に読まれるということは、大衆文学に取って必要な事である。純文学も、大衆に読まれれば読まれるほど、いゝのである。

 芥川賞の選定に対する評判は、可なりいゝ。我々、審査員も満足である。我々委員は、誰も、事文学に関する限に於ては、皆公平無私であることを信じて頂きたい



大衆に読まれることが必要であると述べているが、この時代に小説を読める「大衆」はどれほどいると思っていたんだろうか。
芥川賞を受賞した石川達三のことは審査員は誰も知らなくて、それが良かったということだが、太宰治はよく知りすぎていたということなのか。さらに太宰は素行に問題があるから賞の権威に傷を付けることになり、大衆受けもしない、つまり文学を超えて会社や何かの利を考えた時には相応しくないと考えたのか。
リアリティを提供するコラムに「信じて頂きたい」は芸も訴求力もない気がするが。


1935年10月
 芥川賞の石川君は、十二分の好評で、我々としても満足である。そのために、九月号なども売行が増したのではないかなと思う。賞金その他の費用も充分償っているかも知れないから、社としても、結局得をしたかも知れない。直木賞の川口君も、先ず悪口を聴かないから、止むを得ない撰定として、認めてくれたのだと思っている。

 芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。そのくせ、二科の初入選などは、写真付で発表している。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者とたった一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまりに、没分暁漢《わからずや》だと思った。そのくせ文芸懇話会賞の場合はちゃんと発表しているのである。
 尤も、新聞社のつもりでは広告関係のある雑誌社の催しなどは、お提灯記事になる怖れがあるというので出さないのであろうか。広告関係があると云う場合は、それだけ親善さがあると云うのではないだろうか。或は亦、広告関係のある雑誌社の記事などは、金にならない活字は、一行も使いたくないと云うのであろうか。

 むろん芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持からやっているのである。この半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。


※提灯記事
《提灯持ちが書いた記事の意》特定の個人や団体などについて、事実よりも良く見えるように誇張して書いた、新聞や雑誌の記事。
[補説]見かけは普通の記事だが、内実は広告・宣伝であるものをいう。金銭の授受をともなうことが多い。
ステルスマーケティングの一形態。 有力な者に媚びへつらう者に対する「提灯持ち」という蔑称に由来する。


好評で売れゆきが良い話がなされているが、社長であり編集長が「増したのではないかなと思う」「賞金その他の費用も充分償っているかも知れない」「社としても、結局得をしたかも知れない」と断定を避ける言い方を並べたのは気になる。
翌月のことで明確な数値が出ていなかったのかもしれないが、だったらはっきりしてから言及すれば良かったのに。
また新聞の報道が少なかったことに文句を付けている。報道は無料の大宣伝だから経営者としては黙ってはいられなかったということか。
今でも広告を出すよりも記事などで取り上げられるほうが宣伝効果は高いから積極的にプレスリリースしようなどと言われるけれど、広告を付けていることをとても気にしているようにも受け取れる。
ここにきて雑誌を盛り上げる(雑誌宣伝)という正直な目的が半分になっちゃったし。
まあこういうブログでも動画にしても広告がないほうが格上というイメージはありますよね。広告が入っていると独り立ちしていないというか、お金がなさそうというか、中途半端な感じがあって、煩雑でデザイン的にも見劣りしますものね。


1936年3月
 第一回芥川賞の石川君は、大変な成功で、正月号に載った「深海魚」も先ず好評であったし、同君の文壇的位置は、確立したと云ってもよい。直木賞の川口君は、元来相当有名であったから、受賞の効果も、石川君ほど目には見えないが、しかし先ず成功と云ってもよい。第二回の銓衡を、いよいよ始める事になったが、直木賞の方は、候補者もないではないが、芥川賞の方は、混沌として当がない。が、第一回通、出来るだけ、公平に丁寧に審査するつもりである。


1936年4月
 別項に発表して置いた通り、芥川賞は授賞を中止するの止むなきに至った。審査員の意見が区々であり、一頭地を抜いた作家が見当らないのである。せめて、過半数の賛成があればいゝのであるが、各人各説で、何うにも出来ないのである。「瀬戸内海の子供たち」はムリをすれば授賞出来ないことはなかったが、戯曲を選ぶことは、本意でないと言うのでよした。候補者達に、百円宛頒けようなどと云う説もあったが、それは却って前途ある人々を侮辱することだと云うので、沙汰止みにした。

 直木賞は、鷲尾雨工氏に贈る事にした。「吉野朝太平記」二巻は、何と云っても力作で、売れる当もないのにあゝした長篇を書き上げた努力は、充分認められてもよいと思う。鷲尾君は、直木の旧友で、後不和になっていた人である。直木が生きていたら、直木賞を川口君にやることも、鷲尾君に贈ることも、反対したかも知れない。

 直木賞の候補者としては、浜本浩、海音寺潮五郎君などが、有力であった。



1936年6月
貴司山治君が、どこかの新聞で、芥川賞直木賞も今によすだろうと書いてあったが、僕の生きている間は、決してよさない。僕が死んでも、文藝春秋社が、赤字にならない限は多分よさないだろう。
 しかし、一年二回は、銓衡し難いから賞金を倍額にし、一年一回にしたいと思っている。



1936年9月
 芥川賞は別項の発表の通である。僕は、最初「遣唐船」を読んで、これを第一候補だと思っていたが、その後「コシヤマイン記」を読むと「コシヤマイン記」の方に心がうごいた。委員会でも、自分一人でも極力「コシヤマイン記」を主張するつもりでいたが、佐藤氏なども同意見だったし、久米室生二氏も一位に撰んだし、殆ど満場一致だった。やはり、よきものは誰が見ても同じなのだ。(現代化された英雄伝説)として、広く愛読されてもいゝものである。たとい、鶴田君は 外に何にも書いてなくっても、この一作だけでも、芥川賞に値すると僕は思った。

 現代小説の中では、僕は「城外」が一番好きだった。しかし、北条君の「いのちの初夜」なども、取りたい気持があった。その他の作品にも、いゝものが可なり多かった。

 自分などは、普段は同人雑誌など、てんで振り向いて見ないが、こう云う機会に新進作家の作品に、目を通し得ることは、たいへんいゝ事だ。芥川賞の制定は、そんな意味で、我々にも益するところが多い。
 新進作家の力量は、たしかに進歩して居る。たゞ、相当の力量のある作家が、あまりに数が多すぎて、お互にその進出を阻んでいることは、是非もなき次第である。

 来年から授賞を一回にし、賞金を倍加しようと云う説もあったが、数多い新進作家に、少しでも多くチャンスを与えるために、やっぱり二回にすることにした。



1936年10月
芥川賞は、頗る好評であったことは、当選者に取っても、審査委員に取っても、本懐な事であった。お蔭で、九月の「文藝春秋」は随分売れたらしいので、三方目出度いのである。こうして、芥川賞の権威が、一回毎に加って行くことは、嬉しいことである。直木賞についても、特に好評でないまでも、悪評はなかった。我々の授賞態度を諒としてくれたのであろう。


1936年12月
「芥川賞」の候補作者の作品を、九月号以来毎月載せていたし、正月号には鶴田、小田二氏の作品が載るし、これではまるで「文藝春秋」の創作欄が、芥川賞中心になり、文壇の諸家をロックアウトするような形になるのは、面白くないので、今度から芥川賞の候補作品は、単行本として別に出すことにしたいと思っている。




... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

by yumimi61 | 2019-10-04 16:21