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<   2020年 01月 ( 13 )   > この月の画像一覧

ホワイト

受験生の皆さん、こんにちは。
ワンポイントレッスンならぬ、いろいろレッスンです。
白はWhightではなくてWhite 、紫はPeopleではなくてPurple 、赤はLEDではなくてRED、緑はGReeeeNではなくてGreen、青のBlueはBluetoothのBlueで大丈夫です。
Fight!
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ところで群馬県の皆さんは群馬のローマ字表記に悩んだことはありませんか?
GunmaかGummaかということです。私はGunmaを使っています。
「ん」は「n」と書くけれど、m、b、pの前ではmを使うというルールのようなものも存在していて、どちらを使えばよいのか・・ということになってしまうわけですね。
「m、b、pの前ではmを使う」というルールは発音(声に出して読むこと)を前提にしていて、nmとか nb とかnpの並びは発音しにくいみたいです。
先日「こんま」のことを書いたけれど、点のコンマ(comma)はちゃんとmになっていますね。
でも日本人の場合、発音しにくいということがいまいち分からないんですよね。最近の受験生はそうでもないのでしょうか。
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群馬はGunmaかGummaか ローマ字表記の謎
2016/5/20 東京ふしぎ探検隊


■群馬県に2つのローマ字表記 証明書要求も
 「なぜ表記が2つあるのか」。群馬県庁には数年前まで、企業や学生から問い合わせの電話が相次いだ。相手は海外進出を狙う県内の企業や、留学を検討する学生たち。海外の行政機関や学校から表記の混在について説明を求められ、「異なる2つの表記のどちらも有効」と書いた証明書を発行するようになった。
 2つの表記とは「Gunma」と「Gumma」。県では「n」を使っているが、パスポートが「m」を採用しており、違いを指摘されたのだ。
 何度も対応を求められた県は10年、ホームページ上に英文の説明文書を掲載した。そこにはこんな説明が載っていた(日本語訳)。

「群馬県庁では、県名の表記としては”Gunma”という訓令式のローマ字表記を使用しています。これは、1954年内閣告示第1号によるつづり方で、国際標準化機構(ISO)が1989年に承認したISO3602にも準拠するつづり方です。一方、外務省では明治時代以来の慣例として、都道府県のローマ字表記についてヘボン式を採用しているため、パスポートのローマ字表記は”Gumma”となっています。つまり、パスポート表記の”GUMMA”と、その他書類の”GUNMA”は同じ地名を表記していることに間違いはなく、有効に扱われなければならないものです」

 文書には担当者の手書き署名も入っている。nかmかは、関係者にとって大きな問題だったのだ。
 ちなみに歴史をさかのぼると、群馬県は「Gumma」と表記していた時代があった。国際戦略課の担当者によると、「時期は正確に分かりませんが、mからnに一度変更しました」という。内閣告示に従ったというのが第一の理由だが、「Gummaという単語は英語で梅毒のゴム腫という意味があることも考慮したようです」とのことだった。


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・原発事故の頃だったか、放射線のことを書いた時に電磁波の説明もしたと思うけれど、光も電磁波の一種である。
目に見える光を可視光線と言い、紫外線と赤外線は人間の目で見ることは出来ない。
電磁波のうち波長の長いものを電波と呼ぶ。
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波長の短い(上の表では左側)電磁波ほどエネルギーが大きく物質を破壊する力がある。
波長が短いゆえに物質に衝突する回数が多くなり、衝突のたびにエネルギーが失われることになる。自身が持っているエネルギーの大きさから衝突の衝撃で失われるエネルギーも大きくなり、結果的に長い距離を進むことはできない。その分、物質に与える影響は大きいということになる。
波長の長い電波はエネルギーが大きくなく、衝突回数も少なくてすみ、長い距離を進む。
波長が高い電波は遠くまで飛ぶことが可能だが、エネルギーが小さいため乗せられる情報量が少なくなり、高出力が必要になる。
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・LEDは可視光線であり、紫色LEDや青色LEDは可視光線の中では波長が短く、紫外線寄りの可視光線ということになる。
昨今は紫外線の危険性が叫ばれることが多く、必要以上に紫外線を避ける傾向にあるが、その紫外線に比較的近い波長の青色LEDなどには無防備で接している。
LED場合、前記事に書いたように白色を「②青色LED+黄色蛍光体」で作っていることが多いので、単に青色だけが問題というわけではない。
それが「ブルーライト」が良くないと言われる所以である。


・太陽光は紫外線も様々な色の可視光線も出しているし、蛍光灯だって紫外線を放出している。
ただそれらは全方向に光を放つものである。また人は通常好んでそれらを見つめることはない。好んで見つめないだろうということはLED電球も同じ。
但しLEDはスマホやパソコンやテレビなどに使用されている。また今流行りのイルミネーションやライトアップにもLEDは使われている。すなわち好んで見るものにも使われているということが問題になる。
しかもLEDの光は指向性や直進性が強い。スマホやパソコンやテレビを考えてみれば分かるが、使用者と対面する形で前からほぼ真っすぐに放たれることになる。
同じエネルギーのものが360度全方向に光を放つ場合と全面のみに放つ場合、360度全方向のほうが光(エネルギー)が拡散され、全面に立つ1人の人間が受けるエネルギー量は減少する。一方向のみからのものを直で受ければ多くなる。しかも光源から近距離で見るとなれば尚更である。
このようにLEDの光は影響を受けやすい状態で見る機会が多い。


・ブルーライトの範囲 380~500nm
青色LEDだけではなく紫LEDの部分も「ブルーライト」と言う。
400nm以下が紫外線になる。
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私たちが日常的に見る機会のあるLEDのブルーライトのピークは450nmあたりになる。
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・ブルーライトでどんな影響が考えられるのかというと、やはり目への影響が大きい。
眼精疲労や目の痛み、網膜へのダメージである。
網膜にある黄斑部が変性を起こす黄斑変性症になると最悪失明することもあると言われるが、(加齢)黄斑変性症は今のところ50歳以降に発症することが多く、疾患名に加齢と付いているくらいである。欧米では途中失明の原因のトップになっていて、日本でも増加傾向にある。と言っても50歳以上の有病率が1.5%程度。欧米で2%ほど。iPS細胞で治すとか言っていたのがこの疾患ですね。
糖尿病網膜症は35歳以上で20%を超える有病率。
黄斑変性症は加齢に食生活(トランス脂肪酸の過剰摂取など)、喫煙、肥満、紫外線などがリスクとして挙げられる、ブルーライトの影響で今後増加する可能性があると言われている。歪んでみえる、中心が暗くみえるなどの症状が現れる。

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人間の角膜や水晶体は350nm~800nmの波長を透過させる。
350nm以下の紫外線は水晶体が吸収する。水晶体は紫外線から網膜をまもる紫外線吸収フィルター なのである。
フィルターである水晶体が通してしまう光の中でもっともエネルギーが大きくダメージを与えやすいのが紫外線寄りのブルーライトということで、これを直に目に入れてしまうことが問題視される。
余談だが、水晶体が白く濁ってうまく働くなるのが白内障。80歳だとほぼ全員白内障になっていると言われるくらいポピュラーな眼病である。遺伝などで若くして発症する人もいるが、約80%は加齢によるもので避けがたい。20%が紫外線によるものとされている。
水晶体のたんぱく質が変性してくると、吸収しきれない紫外線が網膜に届いてしまう。
何事も積み重ねだから無暗に紫外線を入れて負荷を掛けすぎないほうが良いが、加齢による変性は如何ともしがたいところがあり、全てが紫外線が原因となっているわけではない。

あと目で光(明るさ)を感知するので光や日照(日長)などの影響が大きい生体リズムにも関係してくる。いわゆる体内時計(サーカディアンリズム・概日リズム)であるが、特に青色LEDの光はそれを狂わせることが知られている。
サーカディアンリズムは、睡眠、体温、精神活動、ホルモン分泌など人間の大半の生理現象に関わりがあるので、それが乱れると様々な不調を来たす。


・近視になる原因は遺伝と物を近くで見る習慣だと言われている。
今のところ、ブルーライトが直接近視を引き起こすとは考えられていない。
スマホでもパソコンでもテレビでも本でも、近づいて長時間見続けることがよくないとされる。
だけどこれもいまいち説得力が弱いなぁと思う。
私は昔も今も近視ではない。目は良いほうだった。1.5は当たり前で測定してくれれば2.0という時もあった。だけどいろんな意味で目は酷使してきたような気もする。ただ大人になってからはゲーム類はほとんどしないけれど。眼精疲労とかドライアイになることは時々ある。
今はどっちかと言えば老眼で近くの細かい字が見えにくい。1.5の老眼鏡が合うくらいな感じ。2.0ではちょっときつい感じがする。
息子たちも近視ではない。
私の妹は子供の時は近視ではなかったが、年々進んだらしく、数年前から運転免許の更新に眼鏡が必要になったとのこと。ただ近視の人はもともと近くにピントが合っている人なので近くが見えにくくなる老眼を感じるようになるのは概して遅い。妹もそう。
姪っ子は子供の頃から近視だった。


・小中学生の視力低下者が増加しているという話はもう何年も前から言われているが、全国的には実際どんなものか。
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http://www.garbagenews.net/archives/1868624.html


・ブルーライトのことを書きながら、こんな時間までブルーライトを浴びてしまっている・・(一応カット眼鏡はしています)
明日センター試験を受ける受験生はもう眠りに就いたかしら。
明日は朝ご飯をしっかり食べて。
パンでもよいけど。
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(写真)
大阪新阪急ホテル ベーカリー&カフェ「ブルージン」の猫パン♡

そういえば、うちの次男はセンター試験の時に私が作ったお弁当を車中に忘れていったことがある。
一瞬あたまが真っ白になって身体が固まって次に蒼ざめた。(私が)
でもなすすべなくお弁当を積んだまま家に戻ったのだった。
たぶん昼食時間に外出して近くのコンビニで何か買ったんだろうなぁと思ったのだけれど、
帰りに聞いたら何も食べなかったと・・・火事場の馬鹿力的なものを狙ったとか?
忘れ物をしないように気を付けましょう。






by yumimi61 | 2020-01-17 14:08

Whight

・先日、「白馬節会」の「白馬」は「あおうま」という読むということから、色の話を書きました。その時は、青、緑、グリーン(green)が中心の話だったけれど、赤、緑、青で思い出すのは何でしょうか?
そうです、LEDです。

・LED=Light Emitting Diode。発光ダイオードです。
私は以前もLED(ノーベル賞関連だったかな?)について書いたことがあるが、1990年代に青色発光ダイオードが登場したことで(これを理由に日本人研究者が2014年にノーベル物理学賞を受賞した)、ダイオードに光の三原色(赤・緑・青)が揃い、青色ダイオードを用いて「疑似白色ダイオード」(青色ダイオード+黄色蛍光体)を作ることも可能となった。
これによって家庭用の白色LED電球、LEDのフルカラーディスプレイなどが普及していき、信号や街頭にも導入されるようになった。
またこれも何度か書いた気がするが、(私に言わせれば)原発事故であれほど節電だのエコだの言っていたのに、LEDでのノーベル賞が契機になったのか何なのか、その後急速にイルミネーションブームやライトアップブームが興り、瞬く間に拡がっていくという正気の沙汰ではない状態に向かうのだが、そのイルミネーションやライトアップも今ではすっかりLEDがお馴染み。

受賞者 (年齢や所属役職は当時のものです)
名城大学教授 赤崎勇氏(85)
名古屋大学教授 天野浩氏(54)
カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 中村修二氏(60)=米国籍


・まず科学的なことを考えるより何より言いたいことがある。
0と1、無と有の間には大きな違いがあるということ。
環境に負荷をかけるAという物があるとする。環境に負荷をかけるということで、これまでは使用を控えていた人もいた。
ところがそのAという物に環境に優しいと謳う新商品が誕生してきた。そこで人々は安心してみなそのAを使用するようになった。
(例)
 旧A 環境負荷2       ⇒使用者10人 ・・・2×10=20
 新A 環境負荷1(旧Aの半分)⇒使用者100人 ・・・1×100=100
環境にかかる負荷は新Aが誕生してからのほうが5倍高くなる。

使用者が変わらず同じだけならば環境に優しくなったとしても、使用者が増えたら(0が1になるということ、無が有になるということ)環境は悪化する。つまり新商品の環境への優しさなんて意味がなくなることを意味する。21世紀はこんなことが分からない社会なのか。


・LEDが環境にやさしいと言われる理由。
(1)消費電力が少ない
この場合、消費電力が少ないというのは、ライトを光らせるにあたって電力をあまり使わないということ。
消費電力差が大きいのは白熱電球と比較したときで、蛍光灯(蛍光ランプ)との差はそこまでなく、蛍光灯のほうが消費電力が少ない場合もある。
電力を使わないということは、結果的に使用者の電気代が少なくて済むということであるが、これら解釈には注意が必要(後述)。
環境的なことを言えば、電気を作り出すために発電が行われる。一番の頼りは火力発電である。火を燃やせば二酸化炭素が放出されるということで、二酸化炭素悪社会(温暖化懸念社会)では、回りまわって消費電力が少ないものがエコだと言われることになる。
(2)水銀を使用していない
蛍光灯(蛍光ランプ)は水銀を使用しているが、LEDは使用していない。
但し白熱電球やハロゲン電球も使用していない。
水銀は危険なものなので、自治体の不燃物回収で危険物として別途回収しているところもあると思う。


・LEDの発光部はLED素子と呼ばれる半導体である。その大きさは約0.3mm角程度。半導体が直接可視光を発している。
LED素子(半導体)が蛍光体の入った樹脂で覆われ、一つのパッケージになっており、照明器具の内部にそのパッケージが取り付けられている。


・一般的に照明器具は白色光であるが、LEDに白色があるわけではない。白色を作り出す必要がある。次のような方法がある。
 ①赤色LED、緑色LED、青色LEDを組み合わせる
 ②青色LED、黄色蛍光体を組み合わせる
 ③近紫外線LED、青色蛍光体、赤色蛍光体、緑色蛍光体を組み合わせる
 ④青色LED、赤色蛍光体、緑色蛍光体を組み合わせる
 ⑤紫色LED、青色蛍光体、赤色蛍光体、緑色蛍光体を組み合わせる

カメラが趣味な人は知っていると思うけれど、照明(照明器具や明るさ)によって写真の写りや色味は全く変わってしまう。
だから一眼レフカメラなどだと自分で調整して撮影したり、どんな光の下で(屋外の自然光で晴れているのか曇っているのか、屋内で蛍光灯なのか白熱電球なのか等)撮っているかを選択した上で撮影することがある。

照明で何か物体を照らすとき、自然光で見る時の色をどの程度再現しているかを示す指標を「演色性」という。

物を商品化するときには、その目的と効率とコストを考えなければならない。
照明器具の場合、効率は発光効率を言う。→単位電力あたりの全光束 lm/W (ルーメン毎ワット)
 ①は演色性は比較的良いが、発光効率とコスト面に課題が大きい。
 ②は演色性は悪いが、発光効率が比較的良い。
 ③は演色性は良いが、発光効率に課題がある。また紫外線を放出する。
 ④は演色性が②より良い。発光効率も比較的良いが、コスト面に課題あり。
 ⑤は演色性は良いが、発光効率やコスト面に課題がある。また紫外線を放出する。


・上記の比較は、基本的に同じ性質を持つLED内(組み合わせ方法)での比較である。
蛍光灯や白熱電球は違う方法で発光させるため、そもそもの性質が違うので単純比較は難しい。
照明器具を使う場合、見合った明るさや色が必要なわけである。どこをどのように明るくさせたり照らしたいかということはそれぞれ違ったりもする。
蛍光灯や白熱電球では360度全方向に光を放射するため、周囲が全体的に明るくなるのに対し、LED照明は0.3mm角程度のLED素子を並べて取り付けているため特定の方向を照らすという指向性や直進性がある。
だから部屋全体の照明として導入した場合などには、これまで使用していた蛍光灯や白熱電球と同じワット数でも暗く感じたり、暗くなる部分が出てくるのである。
何度も言うようだが異なる物を単純比較するのは難しい。
LEDの照明器具が発売された当初には「白熱電球〇〇W(ワット)形相当」という表記がなされていた。
それは元々の性質が異なる物を一概に比べられないからだし、作り出す方法(特色)も幾つかあるし、測定場所や測定方法が違えば数値が大きく変わる可能性があるからである(メーカーなどによって測定方法が違っていた)。
だから「相当」と言って濁したというか誤魔化したが、消費者は「相当」なんて末尾の言葉にはそこまで注目しないか、イコールと思いがちである。
そして白熱電球の40WをLEDの40Wに交換したところ、「これまでより暗い!」という苦情が多数寄せられることになった。
そのため日本電球工業会(JLMA)が中心になって新たな指標が導入されるようになった。それが発光効率とも言っている「単位電力あたりの全光束 lm/W (ルーメン毎ワット)」である。
このルーメン値が大きいほど明るいということになる。
同じ消費電力でも明るい製品も暗い製品もありますということを認めたということにもなるが、「元々の性質が異なる物を一概に比べられない」ということは根本的に解決しているわけではない。
屋内の空間全体を明るくさせたいような場合には、全方向性の照射に優れている蛍光灯などのほうが消費電力が少なく済むということになる。ということは、同じ明るさを維持したいならば蛍光灯のほうが環境(使用電力)にも経済的にもお得でエコである。もう少し暗くても良いとかスポット的照明で消費電力を抑えるのであれば、それはLEDでない方法もあり、LEDが省エネに貢献するとは言い難い。


・LED素子1つは0.3mm角程度と非常に小さいものである。
こんな小さいものであるから発光力には自ずと限界がある。
LED素子1つが発光するくらいは大した電力は必要ではない。同時に用途もないだろう。
じゃあどうするのかと言えば、大量のLED素子を集めて、大きな電力を投入し、一斉に光らせ、大きな発光力を得るのである。
これはあの歌方式である。
 一人の人間は とても弱いけれど それでも みんながみんなが集まれば 強くなれる 強くなれる~♫
この歌は『一人の手』という歌なのだけれど、私はそれを中学1年か2年の時に担任教師&国語担当教師(新任の女性教師だった)から教わった。余談だけど私はその教師と何があったわけでもなく不真面目にしていたということもないし嫌っていたというわけでもないのだが、相性が悪かったらしく、もともと国語は得意だったのに評定成績が5→4に落ちたり担任通信欄に書かれる内容がわりと厳しく母親に慰められるほどだった。そのせいかこの歌のことも妙によく覚えている。


・『一人の手』は"ONE MAN'S HANDS"という英語での原曲がある。
One man’s handsでは刑務所を取り壊すことは出来ないとかか、One man’s handsでは彼らに聞かせるように叫ぶことは出来ないとか、One man’s eyesでは明瞭に未来を見ることは出来ないとか、One man’s voiceでは彼らに聞かせるように叫ぶことは出来ないとか、One man’s strengthでは原子爆弾を禁止させられないとか、One man’s strengthでは組合(連合)を動かすことは出来ない、でも if two and two and fifty make a million, We’ll see that day come round,とかいう歌詞である。
刑務所を取り壊すとかやや物騒と受け止められたのか、もう少しマイルド&抽象的&壮大(世界平和とか)な感じにした英語歌詞も存在する。こちらの解決策はこうである。
But if two by two we watch for one another, We’ll see that day come round
あとは two by two we talk to one anotherとか two by two we learn to love each otherとか。
日本語の歌詞は「みんなが集まれば出来る~」というような、かなりアバウトな、または頭数こそ力‼的な歌詞になっているけれど、英語のほうもそういうニュアンスなんでしょうか?


・LEDがエコだと思わせる理由に「LEDは発熱しない(熱くならない)」というものがある。
だけどそれは間違いである。
エネルギー保存の法則があるように、投入した電気エネルギー(電力)は、エネルギーの形(種類)を変えても量は変わらずに放出されるものである。突如ある量のエネルギーがブラックホールに吸い込まれて消滅してしまうわけではない。
LEDへ投入される電気エネルギーのうち可視光に変換されるのは20~30%程度と言われている(幅を持っているところが要注意でもある!)。白熱電球の場合はおよそ10%程度、蛍光灯は20%程度。
残りのエネルギーはどうなるのかと言えば、熱エネルギーとして放出されるのである。
LEDの光には赤外線がほとんど含まれていないので、人間が熱(暖かさ)を感じることがない。
白熱電球や蛍光灯の光には赤外線も含まれるので熱を感じることが可能である。
赤外線は可視光線ではない。これは前にも書いたことがあるけれど、こたつなどが赤いのは赤外線の色ということではない、見えないのだから赤いも何もない。見える色を付けたから赤いのであり本来は見えないもの。目に見えずとも電球からも赤外線や紫外線が放出されている。
LEDは赤外線や紫外線の放出が少ない。(皆無ということではない)上に書いたように近紫外線LEDや紫LEDは並みに放出する。
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・LEDは蛍光灯や白熱電球と比べて放たれる可視光が同程度またはやや多いものの、赤外線や紫外線をあまり出さない。
では残り70~80%のエネルギーはどうしちゃうのかと言えば、熱になって籠ってしまうのである。このためLED素子や基板部などがとても熱くなる。
しかし皮肉にも半導体やコンデンサーなどの電子部品は熱にとても弱いものである。
つまりそのままにしておいたのでは熱暴走してすぐに故障してしまう。すぐに故障しないにしても、LED素子・蛍光体・樹脂などの材料は高温に晒され加速的に劣化が早まり、本来の役割を果たさなくなる。高温下では十分に性能を発揮できない。
LEDは寿命が長いと言われるが、本来の性質のままでは全く逆。
ではどうするか。放熱するのである。
LED素子から発した熱を放熱器(放熱板)に伝えて、空気中に熱を逃すのである。
LED製品はいかに放熱させるか(放熱設計)がキモとなる。


・製品にとっては上手に放熱できてバンザイ\(^o^)/ということになっても、空気中に熱が排出されるのだから外気温は上がる環境にあり、「いったいどこが温暖化対策になるのですか?」ということになる。
これは同じく放熱させるエアコンも同じことである。
温室効果とかなんとか言う前に、熱そのものを出し続けていたら、そのほうがよっぽど直線的に強烈に影響があるだろうと思う。
グツグツと沸騰しているお湯を鎮めたかったら、蓋を取ることよりも、まず火や電気を消さないと。
この放熱問題やアスファルトやコンクリートで蓋をして地中に雨水などが浸透しない問題を問題にしない温暖化の問題視や対策は胡散臭さを感じる。
意固地に二酸化炭素だけに拘る点にかえって不都合な真実を感じてしまうわけだ。
二酸化炭素を疑ってみてもよいけれど、それなら同時に疑うべきことは他にもあるはずである。
問題があったら多角的に検討を加えるのは当たり前なことだと思うけれど、何故そうならないのか。それも世界レベルで。






by yumimi61 | 2020-01-16 14:16

カルマ

昨年12月30日に見つけたこれ。
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賽子(サイコロ)1つと瓢箪(ひょうたん)6つの組み合わせは、一賽六瓢(いっさいむびょう)だから一切無病(いっさいむびょう)に繋がるという語呂合わせで、無病息災(むびょうそくさい)の願掛けになっているらしいのです。


・瓢箪(ひょうたん)を使う言葉と言えば、「瓢箪から駒(ひょうたんからこま)」も思い出しますよね。
【意味】 (故事ことわざ辞典より)
瓢箪から駒が出るとは、思いもかけないことや道理上ありえないことが起こること。また、冗談半分で言ったことが現実になること。


・前記事に書いた宮中行事で駒牽(こまひき)というものがあったけれど、それを見ると分かるように駒は馬の意味があります。駒(こま)は子馬(こま)というわけです。子馬のほか若い馬も含まれるようです。
[四月より]
駒牽(こまひき)──二十八日。五月の騎射に出る馬と射手を天皇が親閲される儀式。八月にもあるが意味が違う。
[八月より]
駒牽(こまひき)──十六日。諸国の牧場から献上された馬を、天皇が紫宸殿でご覧になる儀式。



・私は駒で思い出すことがある。
いつだったか将棋の駒が庭に落ちていたこと?
そうです、落ちていたことがありましたね。⇒2009年5月29日『ほころび』
「こま」をタイトルに狛犬のことなどを書いたこともありました。⇒2012年10月29日『こま』

でもそれだけではなく、思い出すのは「春駒」である。
以下「春駒」の説明は、精選版 日本国語大辞典より.

はる‐ごま【春駒】「はるこま」とも
① 春、若草を求めて野に遊ぶ馬。また、単に馬の意。《季・春》
※類従本小町集(9C後か)「霞たつ野をなつかしみ春駒のあれても君がみえわたるかな」
② 新春の祝いに、馬の頭の作りものを、手に持ったり頭に戴いたりして、戸ごとに歌い舞い歩いた門付(かどづけ)芸人。また、その歌。禁中の白馬節会(あおうまのせちえ)を模倣したものであろうという。《季・新年》
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※俳諧・洗濯物(1666)春「春駒の糟毛や汗を一しほり〈政也〉」
③ 馬の頭の形をしたものを竹にさし、その末端に車をつけたもの。子どもが初春にまたいで遊ぶ玩具。
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※洒落本・善玉先生大通論(1801)序「かの幼稚(こども)の輩(ともがら)〈略〉春駒(ハルコマ)大鼓舞車をのれをのれが好める物に喜戯(たはぶれ)恋著(あそび)」
④ 心の勇みはやるさまをたとえていう。
⑤ 鹿児島市の名物で、米の粉、餠の粉、黒糖などを原料として作り、馬の陰嚢(ふぐり)に模した黒褐色の団子餠


・私は子供の頃から春駒を知っていたが、それは春駒という行事のことを知っていたからである。上で言えば②に該当するのであろう。
私が知っている春駒は利根郡川場村というところで行われている行事である。


・『春駒まつり』は、もとは川場村にある臨済宗建長寺派の禅寺、花寺としても知られている)吉祥寺境内にある養蚕の守護神、金甲稲荷神社の祭日(旧暦の元旦)に催されたもので、現在は毎年2月11日に行なわれている。
昔、毎年村を訪れていた旅芸人一家が病気で来られなくなり、その後養蚕が大不作になったことから、地元の若者(青年団)が歌と踊りを習い覚えたことに始まり、春駒保存会も作られ現在まで伝承されている。
深夜1時頃から集会所に集まった春駒保存会の男性が化粧や着付けを凝らし女装して、明け方6時から歌と踊りを披露しながら100戸ほどの家々を回り「家内安全」と「養蚕の豊作」を祈願するというもの。
おっとう(父親役)1人、おっかあ(母親役)1人、踊り子(娘役)2人という旅芸人一家に扮するのは全て男性(4人1組)。
おっかあは太鼓、おっとうは大袋、踊り子は小さな馬の首を持ち、吉祥寺境内の金甲稲荷神社に奉納され、その後に門前地区の家を次々とまわる。どの家にも上がりこみ神棚の前で春駒の歌を歌って踊るのが慣わし。 
歌と踊りが終わると、桑の小枝の先に小さく色紙を結んだものを縁起物として渡され、渡された家の人は祝儀を渡し、もらった桑の小枝を神棚に供える。これを養蚕の時に蚕室に飾ると「蚕があたる(豊作になる)」と言われている。(しかし現在養蚕自体は廃れている)
場所は川場村門前地区(群馬県利根郡川場村門前860周辺)。
奇祭 春駒まつり ←写真・動画あり


・【春駒】<群馬県教育委員会編 教材「群馬の文化財」-近世・近代・民俗編ー昭和57年刊より>
春駒は、万歳・鳥追い・神楽・俵ころがしなどと同様に、初春に家々を訪れる門付芸のひとつである。多くの門付芸が、一般的な祝言を述べたのに対して春駒は、はっきりと養蚕の予祝をする。そこに本県芸能としての特色がある。
 芸人たちの出所は、旧利根郡白沢村、吾妻郡高山村など2~3のところが知られている。女性が3人ほど組んで、一人は馬首の形の木片を持ち、他は鈴などを楽器として、別掲のような長文の春駒唄をうたう。
 養蚕がどうして馬につながるかは明瞭でないが、遠く中国でも古代からいわれ、日本でもこの結びつきは広く伝承されてきた。
 門付芸としての春駒はすでに絶えてしまったが、それを、利根郡川場村門前の青年たちが民俗芸能として演じている。門付芸がなくなったので、それを継承したのだという。2月初午、同地の金甲稲荷の祭日にあたって演ずる。役は、おっかぁ、踊り子、などとなっている。

春駒唄(抄)
(入)さっさはりこめはねこめ 蚕飼(こがい)の三吉
(序)春の初めの春駒なんぞ 夢にみてさえよいとや申す
(種―略)
(催青)三とこの種をばみなよせ集め 右の小脇に3日3夜 左の小脇に3日3夜 両方合わせて6日6夜 温め申せばぬくとめ申す 3日に見初めて4日に青む
(掃立=略)
(蚕飼)このお蚕さんに何をかしんじょ桑の芽ぐみがよいとや申す 17,8なる姉さんたちが 髪は島田にこじゃんと結うて 白金黄金の目籠をさげて 桑の若芽をおてやわらかに 1こきこいtは目籠にいれる 籠につめこみわが家へ帰り あの蚕(こ)この蚕(こ)に進ぜて廻る
(成長)さればこれより休みにかかる シジの休みはしんじつ蚕 フナの休みはふんだん蚕 ニワの休みでにわかに育つ くせなくきずなく簇に上がる
(以下繭になり、糸にし機を織りそれを神々に供え売り、銭倉7つに札倉7つ建ち大繁昌と祝言を述べて)
ましてわが家は万々年よ お蚕繁盛とお祝い申す。



・私は近年まで何故か川場村の春駒を「はるこま」ではなくて「はるこんま」と読ませる(呼ぶ)ものだと思っていた。その昔「はるこんま」と呼んでいたことはないでしょうか?完全なる私の思い込みなのか。


・サンスクリット語の”karma”(カルマ)の音写が「羯磨」である。
”karma”「羯磨」:行為・所作・業(ごう)などと訳す。受戒・懺悔(さんげ)の儀式作法。
「羯磨」を「かつま」と読むのが天台宗。「こんま」と読むのが真言宗や南都六宗(奈良仏教)。
南都六宗(奈良仏教)は奈良時代に平城京を中心に栄えた宗派であり、天台宗と真言宗は平安二宗と呼ばれ平安時代以降に平安京で栄えた宗派であるが、天台宗と真言宗では読み方が違う。
今日私が『カルマ』というタイトルを付けたのは、「春駒」⇒「はるこんま」の「こんま」⇒「羯磨」(こんま)⇒”karma”(カルマ)という流れです。


・春駒の説明の③で思い出すのはやっぱり木馬ですよね。
馬を模した玩具は紀元前から存在するもので、また世界中で広く例が見られる。玩具としての「木馬」は、子供がその背にまたがって後に揺らして遊ぶもの(rocking horse、揺り木馬)と、長い棒の先に馬の頭をつけ、棒の部分にまたがって遊ぶもの(hobby horse、棒馬)の二種類に大別されるが、揺り木馬のように全体が馬の形をしたものでも前後に動かないもの、車輪がついていて引っ張って遊ぶものなどもある。

子供が背に乗って揺り動かすための木馬は、木製の玩具としては歴史的に最も古いと考えられ、その源流は紀元前5世紀までさかのぼることができる。
日本においては武士の子弟が乗馬の訓練を行うための木馬が古くから存在しており、戦国時代の武将・武田信玄が、その幼少期に自分の木馬に取り憑いた物の怪を退治したという伝説もある。


息子たちが幼い時、揺り木馬がうちにもありました。義父が作ってくれたものです。
大工だった義父は宮大工になりたかったのだとか。こんな写真しかなくて申し訳ない気持ち。
しかも写真の日付が何故か90年になっていますが、1990年に息子たちは生まれておりません。
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・ある世代の方は木馬と言えば、冬彦さんを思い出すのではないでしょうか。
今写真探したら簡単に見つかったけれど、なんとクマまでいる~!(うちにも大きいクマさんがいたので思わず感激してしまいました)
そういえば佐野さんが出演していた土ドラの団地シリーズも面白怖かった。
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・でも春駒の馬は棒馬のほうですよね。
棒馬(ホビー・ホース)と呼ばれる、棒の先に馬の頭をつけた木馬も古くから存在しているもので、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの家にもあったという。
「スティック・ホース」 (stick horse)、「コック・ホース」 (cock horse) の呼び名もあり、後者の呼び方は著名なマザー・グース「木馬に乗ってバンベリー・クロスへ」 ("Ride a cock horse to Banbury Cross") にも表れている。棒馬はまた、伝統的な祭礼で踊り手が腰につけたり、仮装者が頭に被ったりする作り物の馬を意味する言葉としても用いられている。
日本にも竹を使った同様の伝統玩具があり「春駒」と呼ばれている。もともとは馬の頭がなく、単に竹の棒に紐をつけて手綱に見立てたものがはじまりで、このような玩具(「竹馬」)は平安時代にはすでに存在し、文献では『雑言奉和』(901年)に最古の言及が見られる。江戸時代中期の絵草子では、練り物の馬の頭がついた非常に凝った作りの春駒が描かれている。現在一般に「竹馬」と呼ばれている、竹竿に横木を付けてその上に乗って遊ぶ玩具も、竹竿の部分またがって遊ぶ古い「竹馬」の変形として江戸時代に現れたものである。



・駒が子馬ならば春駒は春の子馬ということになるけれど、そもそもほとんどの馬が春に誕生するんだそうです。
何故かと言うと、まず馬(特にメス)は長日性季節繁殖動物で、発情するのは日長時間が長い時だけ。春から夏(5~7月くらい)が牝馬の生殖機能が活発となる発情期。でも毎日いつでも良いというわけではなくこの期間内に3週間おきくらいに4~5日の発情期間があるとのこと。
そして妊娠期間は人間より長くて11か月を要する。つまりほぼ1年がかりで、誕生は4~6月が多くなるらしい。
動物だけど馬は発情期も決まった時期しかダメで妊娠期間も長いので、人間よりも繁殖力は強くないということですね。





by yumimi61 | 2020-01-14 16:56

願望

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あれはいつだったろうか。
「空と海はどちらがどれだけ青いんだろうね」と私が訊けば、ただ「うん」と言ったきり君は黙り込んだ。
「空色と水色、そうだ、緑も青って言うね」
そう言うと、君はクスリと笑った。
あれというのは、”今日は武士の日か”と私が呟いた時で~す。
確かこの国が俗にいう平和安全法制(またの名を戦争法)(極めて狭義には安倍の紛議)ですったもんだしていた頃だったはず。
武士の日というのは、海の日でした。
なぜ海の日を武士の日と言ったのかと言えば、童謡『海』を思い出していたからです。
『海(うみ)』は、作詞:林柳波、作曲:井上武士、という黄金?コンビの童謡です。

今日は1月13日、成人の日ですね。アダルトの日? あ、タルトの日?
この成人の日も海の日もそうなんだけど、何月何週目の月曜日とかいう記念日(祝日)は、記念日感や本来の意味感、親密感がかなり薄れますよね?商業臭が強すぎるというかご都合主義というか、ぶっちゃけどこでもいいんじゃないか的な感じが滲み出てしまって。なかなかいつが何の日か覚えられなくなるし。
そうでもないですか?
今年のカレンダー見たら、今年は2月23日が天皇誕生日になっていたー(それはあたりまえ?)
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さて、昨日の例題の答えを発表します。
例題 十二  七日……白馬(あおうま)見にとて、里人(さとびと)は車清げにしたてて見にゆく。中の御門(みかど)のとじきみ引き過ぐるほど、頭一所(かしらひとところ)にゆるぎあひて、挿櫛(さしぐし)も落ち、用意せねば、折れなどして笑ふもまたをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)のもとに殿上人(てんじやうびと)などあまた立ちて、舎人(とねり)の弓ども取りて馬どもおどろかして笑ふを、はつかに見入れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見ゆるに、主殿司(とのもりつかさ)・女官(にようくわん)などの行きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人、九重(ここのへ)をならすらむなど思ひやらるるに、内にて見るは、いとせばきほどにて、舎人の顔の衣にあらはれ、まことに黒きに、白きもの行きつかぬところは、雪のむらむら消え残りたるここちして、いと見苦しく、馬のあがりさわぐなどもいとおそろしう見ゆれば、引き入られてよくも見えず。(枕冊子・三殿)

  この事がらは、何月ごろと思われるか。理由を示して答えよ。
  次の語句を簡単に説明せよ。
   (イ)里人   (ロ)左衛門の陣  (ハ)舎人
   (二)主殿司  (ホ)九重をならす (ヘ)内にて見る



一月。白馬の節会は一月七日に行われた。

(イ)宮仕え人で、休暇をいただき、自宅にさがっている者。
(ロ)左衛門の役人の控え所。陣は、隊員あるいは班員の勤務場所。
(ハ)近衛府所属の役人。武装して、宮中の警備や儀杖などを担当した。
(二)後宮所属の役所で、照明・燃料・入浴などを管理する。この場合は、そこに勤める女子職員。
(ホ)皇居のなかで、ものなれた行動をすること。
(ヘ)宮中という場所で近くながめること。

=著者である小西先生の解説=
は、宮中の年中行事に関する古典常識からわけなく解けるが、参考までに、中古におけるおもな年中行事を挙げておくから、復習その他に利用していただきたい。

(ゆ選:1月から12月から21個の年中行事が紹介されているが、ここでは6つほど書いておきます。)
[一月より]
白馬節会──七日。白馬の行列を見る儀式。邪気をはらうためという。この日、若葉もつむ。
望粥の節句(もちがゆのせく)──十五日。小豆の粥を食べる。その燃料用の木を削った杖で人を打つ慣わしがある。
子の日(ねのひ)──最初の子の日。ピクニックに出て、小松を取り、若葉をつむ。長寿をいわう意味であった。
[四月より]
駒牽(こまひき)──二十八日。五月の騎射に出る馬と射手を天皇が親閲される儀式。八月にもあるが意味が違う。
[八月より]
駒牽(こまひき)──十六日。諸国の牧場から献上された馬を、天皇が紫宸殿でご覧になる儀式。
[十二月より]
追儺(ついな)──大晦日の夜。天皇が紫宸殿でおこなわれる鬼やらいの儀式。鬼に扮した者を追い払う。

(ゆ注:以下まだ小西先生の解説続きです)
 なぜ「白馬」をアオウマとよむのか、理屈に合わないようだけれど、奈良時代にはほんとうに青馬(といっても実は青みをおびた黒毛の馬)だったのである。醍醐天皇の延長年間(九二三ー三〇)ごろから白馬にかわったらしいけれど、呼びかたはアオウマを据えおいたわけ。式の模様は、白馬二十一頭を左右の馬寮から引き出し、無名門→明義門→仙華門を経て、清涼殿の前を通り、滝口から出る。天皇が御覧になり、そのあと公務員に宴を賜わる。この行列を見る人たちの正月気分が女性の眼をとおして描かれている。当時の上流女性は、けっして人前に姿を現わさず、外出も稀だったことを頭におくと、全体が理解しやすい。



=私のグリーンな思い出とか=

 昔から青と緑は混用されてきた。和歌にも混用が認められることから、平安時代以前より青は緑で、緑は青でよかった時代がある。英語のgreenにもどちらの意味もある。青と緑は同じ1つのカテゴリーに含まれる色と言ってよかったと思うが、青と緑の間にいつからか水色や空色や草色という明るく柔らかい中間色が生まれ、それが結果的に青と緑を引き離していった。この青と緑の分離は言語が発達する途上で必ず通るポイントなんだとか。
 青や緑は清らかで瑞々しく清々しい、生命力や活力を象徴する色であった一方、青ざめるとかコード・グリーンとかあまり良好ではない状態の時にも使われたりする。つまり正反対のものを内包させていたということだ。それが分離される定めにあるというのだから、人間は進歩するに従って、生と死、悲しみと喜び、平穏と不穏など相反するものの同居に耐えがたくなるのかもしれない。あるいは進歩ではなくて退歩や退化と言うべきだろうか。

 伊香保温泉に行く途中にグリーン牧場という名称にグリーンを用いた牧場がある。観光牧場であり、そこにかつてウエスタンタウンがあった。(参考:中日映画社)西部劇で見る町を再現したものであるが、引いて見ると本当に荒野の町になってしまうので、思い切り入り込まなければならない。
「西部劇と言えば荒野の7人でしょ」
昔、父が休日の午後にテレビでよく西部劇を見ていたけれど、西部劇のタイトルはそれくらいしか知らない。内容も程よく知らない。
「7人のマンガンがいるんだよね?」
それを言うならガンマンだよとあの人は言ったのか言わなかったのか。
西部劇に馬は付き物だから牧場にウエスタンタウンがあってもおかしくはないだろう。でも今考えれば子供が沢山やってくる長閑な牧場で芝居にしてもバンバン撃ち合いだなんてと思わなくもないけれど、それこそが同居していたグリーン時代の象徴ということなんだろうか。


望粥の節句

望というのは陰暦(旧暦)15日、満月のことでもある。
望粥の節句は1月15日であるが、これも陰暦(旧暦)であり新暦だと今年は2月8日にあたる。
明治政府が王政復古を各国公使に布告したのがやはり旧暦1月15日だった(新暦で1868年2月8日) 。
新暦にすると年によって多少は日にちはずれるが、明治元年と今年は偶然にも同じ2月8日である。
1月15日はかつての成人の日でもあるが、その前に小正月としても知られていた日にちであった。
今は世の中に小正月を感じさせるものがなくなってきているが、私が子供の頃はもっと小正月感は存在していた。ただ現代の小正月は新暦で行っていたけれど。

小正月
正月15の行事である。または、14日から16日までの3日間、または、14日の日没から15日の日没まで、または、望(満月)の日、または、元日から15日までの15日間ともされる。
本来旧暦だが、明治の改暦後は新暦1月15日、もしくは、2000年からは成人の日(1月第2月曜日)に行われる場合もある。
六朝時代の歳時記である『荊楚歳時記』によれば、「正月十五日、豆糜を作り、油膏を其の上に加え、以て門戸を祠る。其の夕、紫姑を迎え、以て将来の蚕桑を卜い、并せて衆事を占う」とある。

この日の朝には小豆粥を食べる習慣があり、早朝に食べることから「あかつき粥」、小豆の色合いから「紅調(うんじょう)粥」「さくら粥」とも呼ばれている。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されている。現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域がある。これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多い。

繭玉をつくって養蚕の予祝をおこなったり、「道具の年越し」とし農具のミニチュアをこしらえ豊作を祈願する習慣が残っている地域もある。例えば、養蚕農家建築が多くある、群馬県みどり市東町小夜戸地区では、小正月を祝う大朴(おおぼく)、粥掻棒(かゆかきぼう)、孕箸(はらみばし)、御刀大小二振、采配、打ち出の小槌、掻花(かきばな)、十六殿神(でんじ)、掻花十二神将などの飾りで豊作と家内の発展を祈願する。
年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となる。本来は人日まで竈を休ませるはずの松の内に、忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もある。場所によっては男性が女性の代わりに料理などの家事を行う日とされる。

かつて元服の儀を小正月に行っていたということから、1月15日は成人の日という国民の祝日となった。しかし、その名前から小正月との関連がわかりづらく、かつ、高度経済成長期以降の都市化などの影響で小正月自体がなじみが薄いものとなったこともあり、2000年から成人の日は1月第2月曜日に変更されている。
小正月の行事として、「左義長」(どんど焼き)、「綱引き」、「粥占い」などが行われる地域がある。



前記事にもちょっと豆のことを書いたけれど、望粥の節句も小豆の粥を食べる行事だというから、また豆の話で。
餡子(あんこ)って小豆から作りますよね。
和菓子には緑色の餡子もあるけれど、あれは青豌豆(アオエンドウ)から作るものです。
アオエンドウの若い時がサヤエンドウで、もう少し成長するも熟す前がグリーンピース(急に英語)、熟したものがアオエンドウというわけです。
昨日書いた青大豆も青豆というけれど、このアオエンドウやグリーンピースのことも青豆ということがあります。
餡子という言葉は詰め物をそう呼ぶこともありますよね?
私は手芸で人形とかに綿を詰める時に餡子を詰めると言っているのを聞いたことがあります。
以前ネットショップをやっていた頃、ハンドメイド仲間から小豆のカイロがエコでいいよと聞いて作ったことがありますが(レンジでチンして使うのです)、あれなんかまさしく餡子が小豆(笑)。
あと男性同士の同性愛関係のことを餡子と呼ぶとか。なんで餡子なんでしょうか。


子の日

子の日と打ちながら、そういえば今年は子年(ねずみ年)で干支のスタートなんだなぁと改めて思いました。
ただ月の場合(子月)は旧暦の11月です。新暦ではおよそ1か月遅れで12月にあたります。
さらに子の日というのがあって、今年最初の子の日は1月10日でした。
宮中行事の「子の日」はピクニックに行って若葉を摘むようなので、同じく若葉も摘むらしい白馬節会の1月7日から10日辺りが七草粥の日でも良い感じですね。
子年の子月の子の日となるのは、12月11日と12月23日。
子の刻は日付が変わる前後なので真夜中0時前後。12月10日~11日の変わり目、12月22日~23日の変わり目が子子子子となり、まさに「しあわせ」な感じですね。いやいやいやいや?






by yumimi61 | 2020-01-13 15:36

カイ

・この間から書いている『古文研究法』。
1月7日『人日の節句』の最後にその本の1ページ目「はしがき」を写真に撮って載せた。
その前にある見返し(あそび紙、内表紙)の部分が下の左側の写真。カイが描かれているのだった。

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上の右写真と下の説明は貝の図鑑より。
アクキガイ  別名:アッキガイ(悪鬼貝)
英名:[Troschel's Murex]
学名:[Murex troscheli Lischke]
<分布>
アクキガイは国内においては千葉県の房総半島から南の地域に主に生息しています。海外ではインド洋の東部、太平洋などに広く分布。
<特徴>
 アクキガイは「アッキガイ(悪鬼貝)」とも呼ばれる貝で、そのホネガイにも似ている刺々しい姿と禍々しい名前から、初見のインパクトがかなり強い貝です。
アクキガイは熱帯の水深50m~150m位の海の砂地に住み、貝殻から伸びている棘状の突起は、肉食性の魚から身を守るためにあると言われています。
棘状の突起の間には赤褐色の螺肋が見られ、地の色である白またはピンク色を帯びた白色との対比から、螺旋状になった模様となっています。また、殻口は多くの貝と同じく、白色です。
 アクキガイの全体的な形状は棍棒状の形で、殻頂が鋭く尖っており、体層は丸みを帯びて膨らんでいます。この体層には縦張肋が3つあり、120度おきに長い棘と短い棘がやや曲線を描いて交互に付いています。
また、体層の下部にある細長い水管溝にも棘がありますが、こちらの棘は他の部分のものとは違い、真っ直ぐに近い形になっています。
 尚、ホネガイと形状は似ていますが、アクキガイの方がやや大型で、棘の数が少ない事が見分けるポイントのひとつです。このアクキガイは猟師の底刺網にかかって得られる事が多いとされています。



・貝紫と呼ばれる色がある。こんな色です。
貝紫はアクキガイ(アッキガイ)と関係あるとされている。
英語では王者の紫といわれるロイヤルパープル(Royal purple)をさす。フェニキアのティルスで多く生産されたことからティリアンパープル (Tyrian purple)、「フェニキアの紫」ともよばれ、"born in the purple"(または "born to the purple")という英語は「王家に生まれた」という意味を指す。しかし乱獲のためか原料の貝が減少したことにより、後には王家の色といえばロイヤルブルーと呼ばれる濃い青に変わっている。

貝紫の名前はアッキガイ科の分泌物を染料としてもちいたことに由来し、紀元前1600年ごろから古代東地中海のフェニキア諸都市は地中海産のシリアツブリガイ (Bolinus brandaris) を用いた染物をはじめ、紀元前1000年ごろには高価な特産物として輸出して経済的に繁栄し、ローマ帝国などでは非常に高価な染物として特権階級にふさわしいものともてはやされた。
なかでも、カエサルの紫のマント、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世の旗艦の帆がこの貝紫に染められていたことは有名で、新約聖書「マルコによる福音書」でイエスが着せ掛けられた紫(「マタイによる福音書」では緋色)の王者を象徴する衣もおそらく貝紫であっただろうとされる。
染料として貴重であったことも要因とされるが、当時、貝紫で染められた物には「力が宿る」と信じられており、多くの権力者たちが禁色として、一般の人間の使用を禁じた。
ティルスでは貝紫での染織を秘伝としたため、ローマ人たちはこの貝紫の製法を知らず何度も国産化を試みたが成功しなかった。1世紀頃、ティルス紫で二回染めた羊毛およそ1ポンドに対して、ローマ人は1,000デナリウスを支払っていたという。ローマ人の中では「ある種の魚の尾の血で染める」など間違った製法を信じているものもいた。

ビザンティン帝国(東ローマ帝国)でも皇帝や皇后、高位の聖職者の服の色として親しまれた。中世以降の西欧では主にローマ教皇と枢機卿の衣服の色とされるようになった。
中国などの東アジア世界にはあまり広まらず、日本では近縁のイボニシ、アカニシで海女が手ぬぐいに模様を描くなど限定された利用法しか見られない。
貝紫の主成分6,6'-ジブロモインジゴは科学的に合成が可能であるが、現在のところ実用化はされていない。


日本でも大昔から紫は高貴な色とされてきたが、日本の紫は貝染ではなく植物で染めていたという。ムラサキという植物があって、その根で染色が可能。薬効もあるため現在でも薬品や化粧品に使われることがある。
ムラサキ(紫、Lithospermum erythrorhizon)
ムラサキ科の植物の一種。
根は暗紫色で、生薬「シコン」(紫根)である。この生薬は日本薬局方に収録されており、抗炎症作用、創傷治癒の促進作用、殺菌作用などがあり、紫雲膏などの漢方方剤に外用薬として配合される。
古くから紫色の染料として用いられてきた。色を染めるには、乾燥した紫根を粉にし、微温湯で抽出して灰汁で媒染して染色する。
万葉集にもその名が出るほど歴史は古く、奈良時代から江戸時代末期まで栽培が行われてきた。しかし、明治時代以降は合成染料の登場により商業的価値を失い、ムラサキ自体も絶滅危惧種レッドデータブックIBにランクされるまでになってしまった。そのため、現在も熱心な愛好家たちが栽培を試みているが、種の発芽率が低い上、ウイルスなどに弱いため、株を増やすのは困難である。このため、現在では中国から近縁種が輸入され、ムラサキとして流通しているが、ムラサキとの交雑により純正種を脅かすことになっている。
最近健康食品として、美白に効果があるなどとして広く販売されているが、肝癌などを誘発するピロリジジンアルカロイドを含有するため、注意が必要である。近縁種についても同様の危険がある。



・『古文研究法』のことを初めて書いた1月7日は七草がゆの日だった。
私は「人日の節句」とタイトルを付けたけれど、1月7日は「白馬の節会」の日でもある。

白馬節会(あおうまのせちえ)
古来の年中行事のひとつ。
1月7日、天皇が豊楽院(のちに紫宸殿)に出御して邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出し、群臣らと宴を催す。
白馬節会の由来は、この白馬節会が始まった当初、中国の故事に従い、ほかの馬よりも青みをおびた黒馬(「アオ」と呼ばれる)が行事で使用されていたが、醍醐天皇のころになると白馬または葦毛の馬が行事に使用されるようになり、読み方のみそのまま受け継がれたため「白馬(あおうま)」となったとされる。
2011年現在では京都市北区にある上賀茂神社や大阪府大阪市にある住吉大社などの神社で、神事として行われている。



・『古文研究法』では白馬節会は中古(平安時代)における宮中行事として紹介されている。

『古文研究法』 P272‐273

 古典常識は、まだまだこれどころではない。ひとわたり古文をよむのに不自由しない程度の常識をもつことは、専門の国文学者にとってさえ、あまり容易ではないのだから、これぐらいで切りあげるけれど、第一部でも、解釈の間にはさんで、いろんな古典常識を述べてきたわけだから、この章で述べたことだけが古典常識だとお考えにならないことを希望する。こんなふうにまとめて述べてみたのは、語学だけで古文が解釈できると思うのが誤りで、むかしの人の生活をよく知っていなくてはだめだということを頭に入れていただくためである。生きた解釈は、単語プラス文法だけではけっしてできない。
次に、すこし例題をだしておく。

例題 十二  七日……白馬(あおうま)見にとて、里人(さとびと)は車清げにしたてて見にゆく。中の御門(みかど)のとじきみ引き過ぐるほど、頭一所(かしらひとところ)にゆるぎあひて、挿櫛(さしぐし)も落ち、用意せねば、折れなどして笑ふもまたをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)のもとに殿上人(てんじやうびと)などあまた立ちて、舎人(とねり)の弓ども取りて馬どもおどろかして笑ふを、はつかに見入れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見ゆるに、主殿司(とのもりつかさ)・女官(にようくわん)などの行きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人、九重(ここのへ)をならすらむなど思ひやらるるに、内にて見るは、いとせばきほどにて、舎人の顔の衣にあらはれ、まことに黒きに、白きもの行きつかぬところは、雪のむらむら消え残りたるここちして、いと見苦しく、馬のあがりさわぐなどもいとおそろしう見ゆれば、引き入られてよくも見えず。(枕冊子・三殿)

  この事がらは、何月ごろと思われるか。理由を示して答えよ。
  次の語句を簡単に説明せよ。
   (イ)里人   (ロ)左衛門の陣  (ハ)舎人
   (二)主殿司  (ホ)九重をならす (ヘ)内にて見る

 
・「白馬」を「あおうま」と読む理由の整理。(ちなみに「あおうま」での入力変換で「白馬」と出てきます)
宮中行事である白馬節会で使われた馬の変化
 青みがかった黒馬「青馬(あおうま)」 ⇒ 白い馬「白馬(あおうま)」

・あ、おうま!
おうまのおやこは なかよしこよし いつでもいっしょに ぽっくりぽっくりあるく~♬

おうま(オウマ)
1941年(昭和16年)に音楽の教科書である『ウタノホン上』に掲載された。睦まじい馬の母子の姿が表現されている。『ウタノホン』の対象である国民学校1年次の教育課程にカタカナの学習があったことから、題名も『オウマ』とカタカナ表記で、詞も一部の文字を除いてカタカナ表記であった。
戦後は題名も詞も平仮名表記が用いられ、文部省が発行した教科書「一ねんせいのおんがく」昭和22年度版を始め、1950年(昭和25年)から1985年(昭和60年)まで、長年に亘って教科書会社から発行されている音楽の教科書に掲載された。平成以降も1995年(平成5年)まで音楽の教科書に掲載されることとなり、2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出された。

作詞は林柳波、作曲は松島つね。
【楽曲の背景】
日本全体が戦時体制へと移行する中、幼少時から軍馬に対する関心を子供に持たせようと、当時の軍部指導者が国民学校の教科書編集委員であった林に作詞を依頼した。しかし、1年生用の歌であったことや、林自身がその意図に同意出来なかったことから、ストレートに表現できずに優しい歌に仕上がった。
馬の母子の描写の原型は、林が子供たちとともに千葉県成田市の三里塚御料牧場を訪れた際に目にした、母馬の後ろを子馬が歩く光景を元に作った詩『お馬の母子』であろうと、林の娘は指摘している。また、林が幼少時代を過ごした群馬県沼田市で、荷物を積んだ親馬が後から付いてくる子馬を心配しながら歩く光景を目にしたことが原体験となっているという指摘もある。
一方、女性として初めて教科書編纂委員となった松島は、編纂委員も作曲してみてはという意見が上がった際に「編纂委員たる者自ら範を垂れるべきなのに、他人に押しつけてばかりではずるい」と思い、作曲することとなった。歌詞から純真に感じたものをそのまま飾らずに表現するようにしたが、当時は広く歌われるようになるとは思っていなかったと、後に述べている。
【歌碑】
林の母校である沼田市立沼田小学校の校庭にある。左上に林のレリーフがはめ込まれ、中央には林の自筆によって1番の歌詞が刻まれたもので、1976年(昭和51年)に除幕された。

(沼田小学校は沼田女子高のお隣です)


・林親子は千葉県成田市の三里塚御料牧場を訪れたとあるが、後に空港の敷地になったところである。

宮内庁下総御料牧場
1969年(昭和44年)8月18日まで、千葉県成田市の三里塚地区に存在していた御料牧場の名称である。
江戸時代、下総台地の北部に江戸幕府によって佐倉牧が設置されて軍馬や農耕馬の放牧地があった。佐倉牧は7つの牧から構成されていたことから「佐倉七牧」とも称され、三里塚一帯には七牧の1つであった「取香牧(とっこうまき)」が置かれていた。佐倉牧は幕府の終焉により1869年(明治2年)に廃止された。

千葉県の北部は『続日本紀』で「諸国ニ牧地ヲ定メ牛馬ヲ放ツヲ令ズ」とある700年(文武天皇4年)から続く馬の牧用地(牧)として知られており、源平合戦では東国の源氏に軍馬を供給していた。江戸時代には小金五牧および佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。
20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。
七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場した。この時、取香牧も閉場し牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足した。
下総種蓄場の管理は1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移された。その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少した。
1922年(大正11年)には牧場の経営が悪化し、馬の繁殖を一時中止した。
昭和に入り馬の繁殖が再開されサラブレッドだけでなくアングロ・アラブ(フランス原産)などの競走馬も手がけ、かつての活況が取り戻された。特にサラブレッドの産出は名高いものがあり、1927年(昭和2年)英国から輸入されたサラブレッドの種馬・トウルヌソルからは第1回東京優駿大競走の優勝馬ワカタカが出た。また、1935年(昭和10年)に輸入されたダイオライトからは三冠馬セントライトが出た。



・林 柳波(はやし りゅうは)
1892年(明治25年)3月18日 - 1974年(昭和49年)3月27日)は詩人。兄は陸軍獣医少将の林里二。
 群馬県沼田市に農家の三男として生まれた。本名は林照壽(てるとし)。一時、柴田姓を名乗ったこともある。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。13歳のとき、兄を頼って上京。1910年(明治43年)明治薬学校(現・明治薬科大学)を卒業。同年薬剤師の国家試験に合格すると、やがて明治薬学校の講師となった。
 他方、1911年(明治44年)から東京本郷で薬局を開業。1916年(大正5年)に最初の結婚をしたが、翌年死別した。また、健康上の理由をきっかけに宗教・哲学にも興味を持ち、神霊万能を説く「健全哲学 (哲理療法)」の普及活動を行ったこともあった。
 1919年(大正8年)1月13日、9つ年上の未亡人、日向(ひなた)きむ子と再婚。きむ子は大正3美人の1人として名高く、代議士日向輝武の妻で、社交界の花形だった。きむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めたと思われる。きむ子は夫輝武との間に既に6人の子があったが、輝武は疑獄事件(大浦事件)に巻き込まれ、1918年(大正7年)5月28日、狂死。夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。折りしも1月5日、愛人島村抱月を追って自殺した松井須磨子と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え、2人の子をもうけた。
 1918年(大正7年)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』を契機に童謡運動が盛んとなった。童謡の代表的詩人として知られる野口雨情の依頼により、林きむ子は1925年(大正14年)頃から童謡に振付けを行い、雑誌『金の星』に写真入り解説の掲載を始めた。これが縁となって、林柳波も雨情の影響で再び詩作を行うようになり、娘たちと共に公演旅行を行って「童謡舞踊」を広めたきむ子と共に、童謡運動に貢献した。
 昭和に入ると童謡運動は下火となったが、柳波は詩集の出版を行う一方、1937年(昭和12年)、音楽著作権協会設立委員、文部省国民学校教科書芸能科編纂委員となった。当時文部省唱歌は作者名を公表しないことになっていた。柳波は、野口雨情の弟子、権藤花代の童謡詩『タナバタサマ』が選考に漏れたのを補作して委員会で再議し、採用された。これは後に、第二次世界大戦後、作者名が公表されるに及んで、林柳波が盗作疑惑を受ける原因となった。 レコード作家としての才能も開花させ、1929年(昭和4年)、ヒコーキレコードから「まぼろしの泉」で作詞家デビュー。その後、「ああ我が戦友」、「野営の夢」などの軍国物から、「田植歌」、「お六娘」などのオペラを幅広く作詞。
 1945年(昭和20年)4月13日に空襲を受け、娘の療養先であった長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に疎開。請われて地元の校歌や青年団歌、『小布施音頭』などを作詞し、小布施村公民館の初代館長(図書館長も兼任)にもなった。1949年(昭和24年)、帰京。しかし、このころから次第に妻きむ子と疎遠になり、他の女性との間に子ができるに至って別居。以後、きむ子に繋がる童謡関係者との交友を断った。
 1950年(昭和25年)、明治薬科大学の図書館長に就任。以後も日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会会員など、多くの公職を歴任した。1972年(昭和47年)、勲四等瑞宝章受章。
妻の林きむ子は、1967年(昭和42年)に死去。林柳波は1974年(昭和49年)に死去。1989年(平成元年)沼田市名誉市民に顕彰された。
 代表作に『オウマ』、『ウミ』、『うぐいす』、『羽衣』、『スキーの歌』など。他に『春の小川』(高野辰之作詞)の口語訳や『たなばたさま』(権藤花代作詞)、『港』(旗野十一郎作詞)の補作などでも知られる。
横浜市立戸部小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)

(戸部小~!ちなみに井上武士も群馬県出身です)


・青みがかった黒い馬(青馬)が白い馬(白馬)に代わっても、どちらも「あおうま」ならば、青みがかった黒大豆(青豆)の代わりに白大豆(白豆)を使っても、どちらも「あおまめ」で良いということになりますね!?



by yumimi61 | 2020-01-12 15:07

実効

今日は偶然にも110版の日ですね。
ということで、昨日の例題(『古文研究法』P294‐295)を答え合わせしま~す。

例題 二七  なべて自然の風物といふものは見る人のこゝろごころであるからこんな所は一顧のねうちもないやうに感ずる者もあるであらう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないかう云う凡山凡水に対する方がかへつて甘い空想に誘はれていつまでもそこに立ちつくしてゐたいやうな気持ちにさせられる。かういふけしきは眼をおどろかしたり魂を奪つたりしない代りに人なつッこいほゝゑみをうかべて旅人を迎へ入れようとする。ちよつと見ただけではなんでもないが長く立ち止まつてゐるとがあたゝかい慈母のふところに抱かれたやうなやさしい情愛にほだされる。殊にうらさびしいゆふぐれは遠くから手まねきをしてゐるようなあの川上の薄靄の中へ吸ひ込まれてゆきたくなる。それにつけてもゆふべは秋と何思ひけむ後鳥羽院が仰つしやつたやうにもし此のゆふぐれが春であつてあのおつとりした山の麓にくれなゐの霞がたなびき、川の両岸、峰や谷のところどころに桜の花が咲いてゐたらどんなにか又あたゝかみが加はるであらう。思ふに院のおながめになつたのはさういふけしきであつたに違ひない。だがほんたうの優美といふものは たしなみの深い都会人でなければ理解できないものであるから平凡のうちにおもむきのある此処の風致もむかしの大宮人の雅懐がなければ詰まらないといふのが当然であるかもしれない。(谷崎潤一郎「芦刈」)

 この文章は、後鳥羽上皇の離宮のあった水無瀬に行ったときの感懐を述べている。これに基づいて、むかしの大宮人の感覚と現代人の感覚とがどう違うかを述べよ。
「ほんたうの優美」を自然の景色で象徴するとすれば、この文中のどこがいちばん適切か。その部分を抜き出せ。(約三十字程度。原文をすこし切り詰めたり言い替えたりしてもよい。)



むかしの大宮人は、みがきあげられた微妙な感覚をもっていたから、一見平凡な風景にもしみじみとした美しさを発見した。現代人は、感覚の密度があらいから、つよい刺激をあたえるものに感心したがる。

「うらさびしいゆふぐれに遠くから手まねきをしてゐるような川上の薄靄」。


=著者である小西先生による解説=
「おや、現代文?」など変な顔をするにはおよばない。古文だって現代文だって、日本語であることに代わりはない。古文のわからないような現代文学研究者は、どうせ現代文もほんとうにはわからないのだし、ぼくは古文専門でして──など謙虚だか自慢だか見当のつかない挨拶をする人は、ほんとうは古文もわからないのである。古文と現代文とは、主として語学的にちがうだけで、譬喩とか象徴とかいった問題になれば、同じことである。まして右にあげた潤一郎の文なんかは、たいへん古文的な感触が濃いのであって、心がまえとしては『源氏物語』に対するときのような「現代離れ」が必要だろう。わざと句読点を節約し、中古文の流麗な調子を採り入れようと試みた文脈など、古典に通じていないとよくわからないものである。
 さて、は、大意を述べよという問いかたの変形である。むかしの大宮人については詳しく語られているから、その要点をまとめればよいが、現代人についてはほとんど語られていない。しかし、大宮人の反対を考えれば、何とか見当はつくはず。は、象徴ということがわかっていなければ、手も足も出ない。まず作者のいおうとする「ほんたうの優美」を理づめに説明すれば、のようになるわけだから、それをさきの「兵どもが夢のあと」に当て「夏草や」に当たるようなものを探せばよい。「おつとりした……桜の花が咲いてゐたら」には、ちょっと気がひかれるだろうけれど、これは「又あたゝかみが加はるであらう」とあるように、さらに加わるべき性質のものだから、本体としては「薄靄(うすもや)」をとらなくてはいけない。「雄大でも奇抜でもないかう云う凡山凡水」あるいは「眼をおどろかしたり魂を奪つたりしない代りに人なつッこいほゝゑみをうかべて旅人を迎へ入れようとするけしき」としても、誤りではないけれど、それはむしろ「説明」であって、問の「象徴」からはすこしずれている。に正解として示した景色を「本当の優美」と感じられない諸君は、なるほど、おれは現代人だわいと理解するのがよろしい。象徴という表現は、古文にも現代文にも通じていえることだが、これから述べようとする把握とか批評とか鑑賞とかの問題も、現代文と同様の頭が必要である。精神的理解には、古文も現代文もあまり区別できていないような点が多いのである。


=私の思い出話とか=
前記事には余談として、ミレニアム2000年に公衆衛生学会長だった鈴木庄亮氏に私も教わったことがあると書いた。今でこそ鈴木庄亮氏なんて書いてみたけど、当時の私たちは氏でも教授でもなく「次はしょうちゃんの授業だね」などと言っていたのである。
若さというのは素晴らしいというか恐ろしいというか。当時の若者も今はもう押しも押されぬ中年であるが、当時はやっぱりそれなりに現代っ子気質を備えていたことは間違いないであろう。
そこで私はまた時代とはいったい何だろうかという問いを繰り返すことになるが、時代を形作るのは時間だろうか物だろうか。
未来のために種を蒔いたり苗木を育てるというような比喩表現が用いられることがあるけれど、一方で花を咲かすことができるのは過去であるという現実に、私たちはふと歩みの足を止め、花も葉もない桜並木の隙間から乾いた澄んだ空を見上げるのだった。


後鳥羽天皇と壇ノ浦の戦い

上の例題で取っ掛かりになるのは「後鳥羽院」だと思う。
後鳥羽院は後鳥羽天皇のことだが、後鳥羽天皇は平家が滅亡したとされる「壇ノ浦の戦い」の時の天皇(82代)である。
もっとも平家が滅亡するまでは、平家側の安徳天皇(81代)と2年間(1183‐1185年)在位期間が重複している。
三種の神器を持たずに即位したと言われる。
源氏側となった後鳥羽天皇が生まれたのは1180年8月6日。つまり即位したのは3歳の時。
安徳天皇と後鳥羽天皇は兄弟(父親は80代高倉天皇)。安徳天皇が8歳の時に壇ノ浦の戦いがあり平氏側が敗れたため、8歳の安徳天皇も母方祖母に抱きかかえられたまま入水させられ亡くなった。
当然3歳では天皇として国を背負っていくことなどできるわけがなく、代わりに行ったのは祖父にあたる後白河法皇(77代の後白河天皇)だった。すなわち院政である。院政とは皇位を譲っておいて(上皇となり)、天皇に代わって政治に直接携わることである。
後白河法皇が亡くなる1192年(12歳の時)まで院政が続いた。その後も公家の最高位であり成人天皇を補佐する官職である関白が付いていた。
1198年1月11日(17歳の時)、譲位し上皇となって、いよいよ実際に政務に就く。以後天皇3代23年間に亘り上皇として院政を敷いた。
武家側に担がれた天皇として始まったが、院政を敷くようになってからは鎌倉幕府と対立するようになり討幕を企てるも失敗し島流しされた。
この後鳥羽天皇(後鳥羽上皇・後鳥羽院)は文武両道に優れていたと伝えられている。ただ討幕は叶わなかった。
実際に鎌倉幕府を討幕したのは新田義貞である。後鳥羽院が討幕(承久の乱)を目指して挙兵した112年あとの1333年のこと。
後鳥羽天皇(後鳥羽上皇・後鳥羽院)が有名なのはどちらかと言えば文武の文のほうである。中世屈指の歌人であるとされ、後代にまで大きな影響を与えた。

ちなみに現在皇室の家紋となっている「菊の御紋」は後鳥羽天皇から始まったとされている。
刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。皇室の菊紋のはじまりである。


文学の中に登場する後鳥羽院

国語で後鳥羽院とみたら、まず和歌を思い出さなければならない。
具体的に和歌を覚えていなくても、なんか和歌に関係あるんだろうなぁくらいのことは思って読む必要がある。
和歌を知っている人はすぐにわかるが、知らなくてもそうやって例題の谷崎潤一郎の文を読むと、たぶん和歌なんだろうという部分に気づく。
それが次の一文の太字部分。

「それにつけてもゆふべは秋と何思ひけむ後鳥羽院が仰つしやつたやうにもし此のゆふぐれが春であつてあのおつとりした山の麓にくれなゐの霞がたなびき、川の両岸、峰や谷のところどころに桜の花が咲いてゐたらどんなにか又あたゝかみが加はるであらう。」

実際に『新古今和歌集』(巻1・春歌上36)に次のような後鳥羽院の和歌がある。
 見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ

《意味》
水無瀬川で見渡せば山の麓が霞んでいる。夕暮れが秋のものだなんて(趣のある夕暮れは秋だなんて)、どうしても今まで思っていたんだろう。

説明を加えると・・・
霞というのは春の季語になっており春を表す。秋の場合は霧である。霧と靄(もや)の違いは濃さ。霧の方が濃く、靄は薄い。
和歌に「霞む」と入っているので春に詠った歌だと分かる。

清少納言『枕草子』では季節を次のように記している。
 春はあけぼの。・・後略
 夏は夜。・・後略
 秋は夕暮れ。・・後略
 冬はつとめて。・・後略

秋の象徴は夕暮れなのだ。
秋の夕暮れは美しい。乾きすぎず淀みすぎず、しっとりと赤く空を染め上げる。
だけど秋は日が短くなり少し肌寒くて、つるべ落としのように夜を連れてくる。
鳥はどこかに帰ってゆき、虫が僅かな命を惜しむかの如く鳴く。
秋に抱くうら寂しさともの哀しさと美の感情。
おんぶされた記憶などなくても、「負われてみたのはいつの日か」なんて郷愁まで感じてしまうのが秋なのだ。

けれど後鳥羽院は、いやいや春だって負けず劣らず美しくてうら寂しくてもの哀しいではないか、どうして今まで気が付かなったんだろうと詠ったわけである。
人間は恋をすると、どんな季節にも、どんな景色にも、そんな感情を抱いてしまうものですが、後鳥羽院が恋をしていたかどうかは分かりません。

俳句は現実(目の前の)風景や事象を描写することが多いが、和歌は心情を乗せることが多く恋の歌も非常に多い。
上の例題では恋などによって春にさえ感じる優美ではなく、秋に感じるものを「ほんたうの優美」として質問しているようですね。




by yumimi61 | 2020-01-10 13:12

幽玄


例題 二七  なべて自然の風物といふものは見る人のこゝろごころであるからこんな所は一顧のねうちもないやうに感ずる者もあるであらう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないかう云う凡山凡水に対する方がかへつて甘い空想に誘はれていつまでもそこに立ちつくしてゐたいやうな気持ちにさせられる。かういふけしきは眼をおどろかしたり魂を奪つたりしない代りに人なつッこいほゝゑみをうかべて旅人を迎へ入れようとする。ちよつと見ただけではなんでもないが長く立ち止まつてゐるとがあたゝかい慈母のふところに抱かれたやうなやさしい情愛にほだされる。殊にうらさびしいゆふぐれは遠くから手まねきをしてゐるようなあの川上の薄靄の中へ吸ひ込まれてゆきたくなる。それにつけてもゆふべは秋と何思ひけむ後鳥羽院が仰つしやつたやうにもし此のゆふぐれが春であつてあのおつとりした山の麓にくれなゐの霞がたなびき、川の両岸、峰や谷のところどころに桜の花が咲いてゐたらどんなにか又あたゝかみが加はるであらう。思ふに院のおながめになつたのはさういふけしきであつたに違ひない。だがほんたうの優美といふものは たしなみの深い都会人でなければ理解できないものであるから平凡のうちにおもむきのある此処の風致もむかしの大宮人の雅懐がなければ詰まらないといふのが当然であるかもしれない。(谷崎潤一郎「芦刈」)

 この文章は、後鳥羽上皇の離宮のあった水無瀬に行ったときの感懐を述べている。これに基づいて、むかしの大宮人の感覚と現代人の感覚とがどう違うかを述べよ。
「ほんたうの優美」を自然の景色で象徴するとすれば、この文中のどこがいちばん適切か。その部分を抜き出せ。(約三十字程度。原文をすこし切り詰めたり言い替えたりしてもよい。)

Let’s Try!


むかしの「大宮人」は宮中に関係ある人だと思うけれど、現代人は埼玉県大宮市の人だと思う。
わたし(由美)は、雄大でも奇抜でもない凡山凡水に対する方がかへつて甘い空想に誘はれていつまでもそこに立ちつくしてゐたいやうな気持ちにさせられる。

先生、どうですか? 零点?
正気じゃないぜ?

く?く、く、く、、?
クッククッククッククック青い鳥~~~~♬


・この例題は前記事に書いた『古文研究法』の(リ)象徴の中にある例題である。


・大宮人をネット辞書で調べたところ、以下の通りでした。
大宮人(おおみやびと)とは。《上代は「おほみやひと」》宮中に仕える人。殿上人 (てんじょうびと) 。

殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。
上はWikipediaの説明だが、他の辞書などだと「公卿を除く」という説明がないものもある。
令制で官職が三位以上の者および四位,五位のうちで昇殿を許された者をいう。

律令制下においては、従三位以上を「貴」と称し、また星の位ともいわれ、上級貴族の位階であった。
この三位以上は公卿でもある。
公卿
公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった 。
公家
日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。

つまりそういうもともと高位にある貴族は改めて「殿上人」とは言わないというのがWikipediaの説明であり、そのほかの説明では 一緒くたに扱っている。


・どちらにしても「殿」というのは、人ではなく屋敷(御殿)のことである。
その御殿に上がれる人が「殿上人」=「大宮人」だということになる。
君主制において、官職でない一般人や上に上がれない四位以下の官職から見れば、上に上がれる人が選ばれし人物で特別だった。
その意味での「殿上人」=「大宮人」であり、「殿上人」=「大宮人」が最高位だったり君主であるという意味ではない。
その間には越すに越されぬ大きな隔たりがあるのが君主制であると思う。


・これを踏まえて「陛下」というものをもう一度考えてみてほしい。
「陛下」というのはざっくり言うと、階段の下という意味である。
2019年2月1日『続続続続・靖国神社』より)「陛下」というのは「屋外にある階段の下」という意味。かけ離れていることを表す。転じて宮殿の階段の下のいる者、つまり王や皇帝など君主の部下や家来ということである。
部下や家来が自分をへりくだった言い方。謙譲語のようなもの。
昔は絶対的な権威権力を持つ君主に対して直接名前やら役職で呼ぶことすら憚れたという背景がある。

つまり陛下というのは御殿に上がれない官職ということになりそうだ。同じ御殿に上がれない人としても一般人ではない。上の過去記事で私は言葉の使い方の例として次のように書いた。
天皇の家来が天皇に対して「陛下、そろそろ靖国神社に参拝致しましょうか」と言うならば分かる。全部自分を下げて会話相手の天皇を上げている。
この場合の陛下は呼びかけではない、自分のことを言っている。
「わたくし、そろそろ(あなた様の代わりに)靖国神社に参拝致しましょうか」と確認しているというか承諾を得ている文である。
でも家来の位まで加味すれば、実際には陛下(階段下)の者が直接天皇と接することはない。
天皇と陛下(階段下)の間には公卿や殿上人が存在するのである。
すなわち実際に陛下を謙譲語として用いるならば、位の低い官職が上の官職に対して用いるものであろうと考えられる。


・悪魔の詩訳者殺人事件
1991年7月11日に発生した殺人事件である。2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
1991年(平成3年)7月12日、筑波大学助教授の五十嵐一が同大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見され、司法解剖の結果、11日の午後10時頃から12日の午前2時頃までの間に殺害されたものと断定された。遺体の首には、左に2カ所、右に1カ所の傷があり、いずれも頸動脈を切断するほどの深さで、「イスラム式の殺し方」とされる。また、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。また、現場からO型の血痕(五十嵐の血液型とは一致しないため、犯人のものとされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。
犯人はエレベーターの使用を避け、階段で3階まで降りて非常階段から逃走しており、その後の消息は杳として知れなかった。
五十嵐は、1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。1989年2月にイランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーは、同書が反イスラーム的であるとして、ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。
15年後の2006年(平成18年)7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し、未解決事件となった。外国人犯人説が有力なこの事件では、実行犯が国外逃亡したと仮定した場合は、公訴時効は成立していないことになるが、茨城県警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を、五十嵐の遺族に返還している。



・2010年、殺人などの時効が廃止される改正刑事訴訟法が成立した。
これは2010年以降の殺人事件だけでなく未解決で時効を迎えていない過去の事件にも遡って適用される。
「悪魔の詩訳者殺人事件」はその前2006年に時効成立していた。しかし上にも書いてあるように実行犯が国外逃亡した場合、国外にいる期間が含まれないため、時効は成立しない。その可能性が高い事件でもあったわけだが、遺品を返して幕引きしたんだねという論調の記述である。
実際に『悪魔の詩』絡みで殺されたのか、単なる怨恨なのかは、いまなお分かっていない。
『悪魔の詩』騒ぎに便乗すれば、捜査を攪乱しやすいとも思うが、その可能性は全くなかったということなのか。


・普通に考えれば、大学構内で起きた事件が未解決であるというのは大学(教員や学生や保護者など)や周辺住民にとっては怖いことだったと思う。
事件が本当に『悪魔の詩』翻訳やイスラムに関係したものならともかく(それなら良いというわけではないが)、よく分からない。
筑波では1985年につくば科学万博が開催され、国内外から多くの人が訪れた。筑波大学は留学生も多い。また筑波研究学園都市が造られたため、周辺には多くの研究機関や企業が存在している。その地に移り住んだ研究者なども少なくなかった。
当初は旧住民と新住民の間に見えない壁があるとも言われたこともあった。
治安は現在でも決して良くないと言う。
学園都市を造るにあたって敷いた電車の路線をどうして大学近く(構内)まで引かなかったのかということを以前記事にしたことがあるが、なぜそんな杜撰な開発計画が進められたのか、学園都市としては成功事例ではないと思う。


・長男が高校生の時に「筑波大は自殺率が一番高い大学なんだって」みたいなことを言っていたことがあったけれど、研究者の間でもそういうことは言われていた。
筑波病
かつて筑波研究学園都市において見られた、研究者の自殺が多発した現象のことである。
筑波研究学園都市では、1985年頃に研究者の自殺者数が最多となり、当時の自殺率は日本人ないし国家公務員の平均値の2倍を超えていた。1986年の朝日新聞の記事では、自殺率の高さ、自殺の特定地域への集中という2つの要素が挙げられ、筑波研究学園都市における異常性も指摘された。
ただし、医学者の小田晋は1977年時点で既に「筑波病」という語が存在していたこと、1970年代後半から1980年代前半に自殺事件の報道も含め、全国的な知名度が上がったことを指摘している。

1988年の日本経済新聞の記事では、筑波研究学園都市の研究者の精神衛生状態が改善されてきたことが指摘されている。この背景として飲食店の増加などに言及した一方、若年層および研究者以外の者への対策が必要としている。
また、大橋力は1988年から筑波研究学園都市での研究者の自殺者数が減少したことを指摘し、その背景としてつくば万博を契機とした百貨店の開業と飲食店の夜間営業に伴う明るい空間の形成、住民同士のつながりの形成を挙げている。また、小田晋はつくば号の開通による東京への交通利便性の改善等も挙げ、筑波病は解消しつつあると指摘している。
一方、2018年の茨城新聞の記事では、直近1年間で自殺を検討した人が246人いたことが指摘された。記事では調査の実施団体の代表への取材も掲載されており、代表者は、都市化の進行により筑波研究学園都市での生活環境が改善されたことに触れつつ、自殺検討者の多さゆえ精神衛生上の対策の必要性について言及した。


ちなみに1989年(平成元年)の公衆衛生学会は筑波大学で行われた。公衆衛生学会長が(当時)筑波大学社会医学系の教授・小町善男氏だったから。
記念すべき(?)ミレニアム2000年(平成12年)の開催は群馬だった。その年の会長は私も教わったことのある鈴木庄亮氏だった。
私は一時期定期的に筑波に通っていたことがあった(仕事で)。


・ある年齢以上の人は、筑波病の記述に登場する小田晋という名前を知っているのではないかと思う。
何故かというと、一時期よくメディアで事件などについてコメントしていたからである。
小田晋
1933年7月28日 - 2013年5月11日
大阪府生まれの日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学。
岡山大学医学部卒。
東京医科歯科大学大学院(神経精神医学専攻)修了、医学博士。
東京医科歯科大学医学部犯罪心理学教室助教授、獨協医科大学医学部精神科助教授を経て、1977年に筑波大学社会医学系の教授となり、1993年には筑波大学社会医学系長となる。


つまり1989年に筑波大学で公衆衛生学会が行われた時も、1991年に殺人事件が起きた時にも、小田晋氏は筑波大学社会医学系の教授だった。

精神科医として刑事事件で容疑者の精神鑑定を行い、1982年の日本航空350便墜落事故や、2000年新潟少女監禁事件において被告の精神鑑定を行った。またオウム真理教元幹部の心理鑑定を行っている。1984年に起きたグリコ森永事件、1988年東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件、1995年地下鉄サリン事件、1997年神戸連続児童殺傷事件など、重大事件では背景を分析し、犯罪心理についてメディアで積極的にコメントを行っていた。

自ら「反人権派」を公言し、犯人に対して痛烈な批判を行うため、その評価は賛否両論である。人権派を批判する時には、「暴走族友の会」「社会解体促進同盟」などの痛烈な造語を用いて批判していた。これは人権が強調され過ぎる余り、警察、学校、家族などが犯罪の芽を摘むことができなくなり、社会秩序が崩壊してしまうという持論によるものである。刑罰を厳しくすれば犯罪を防止できるとし、犯罪の原因を社会矛盾よりも犯人の人格に求める持論を展開した。(映画監督の山際永三が、その人権感覚を批判している)。とはいえ、こうした考え方は犯罪精神医学に根強いものであるため、小田だけに限ったことではない。
1979年に起きたロボトミー殺人事件の被告人の精神鑑定を担当し、検察側証人として「責任能力あり」「脳波検査での異常なし」と証言した。しかし、控訴審では検察が提出した別の鑑定医のカルテにおいて「脳波検査での異常あり」と検察自身により覆された。



・なぜ陛下(階段下)から悪魔の詩訳者殺人事件の話に飛んだかというと、以下理由から。
捜査中、学内の五十嵐の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に書いたメモが発見された。
これには壇ノ浦の戦いに関する四行詩が日本語およびフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の段落に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と書かれていた。
このため、五十嵐は自身に身の危険が迫っていた事を察知していたのではないかとする憶測が生まれた。

    だんのうらでころされる(壇ノ浦で殺される)
  かいだんのうらでころされる(階段の裏で殺される)

フランス語で書かれたものは当然に読み方だって違うわけだけれど、それを日本語に訳すと「かい」以外が一致する。



168.png明日へ続く。日付が回ったので今日とも言います。





by yumimi61 | 2020-01-09 13:18

人日の節句

・七草がゆを食べる日というけれど、子供には七草がゆは大層不評で、喜ばれることはありませんでした。
おかゆとか雑炊が嫌いな子供ってわりと多いですよね。大人でもかなぁ。

・ある時テレビドラマを見ていたら、夜食がすごく美味しそうで、夜食を食べたくなったが、自分で作って食べるんじゃ夜食じゃないと思った。

・そういえば、大晦日のお蕎麦が年末に時々話題になることがありますよね。
蕎麦を晩御飯として食べるものなのか、それとも年越し蕎麦というくらいなので年越しタイムに食べるものなのか、だらだらと飲み食いした後の締めの蕎麦みたいな感じなのか。
大晦日にスーパーとか買い物に行くと天ぷらが山ほど売られているから、真夜中の天ぷらそばはないんじゃないかとか(つまり晩御飯説)。

・今は新暦だけど節句は本来旧暦の行事だから、1か月くらい後ろにずれるんですよね。
旧暦だと今年の七草がゆの日は2月1日になります。

・わたしはショウガとかユズとか香物は好きなのだけれど、ショウガを入れる甘酒が子供の頃からあまり好きじゃなかった。

・甘酒は初詣の時に神社で振舞われていて、寒い日にはそれで体が温まってとても有難かったりするので、冬のイメージが強いけれど、実は甘酒は夏の季語。
今は結構「飲む点滴」とか言って夏にも売られてますね。
甘酒は酒粕からつくる甘酒と米麹からつくる甘酒、2種類あります。
酒粕から作る甘酒にはアルコールが含まれます。
私の知り合いの娘さんが地酒の酒造会社に勤めていて酒粕を貰うことがあるのですが、それで作った甘酒は美味しい。でもアルコールがダメな人にはアルコールが若干強めかも。あとこちらは砂糖を入れます。
米麹から作る甘酒にはアルコールが含まれないので、子供でも運転手でも飲むことができます。そしてこちらは砂糖を入れなくても甘みが出る。自然の甘み。お正月に神社で振舞っているのは多くの場合こちらだと思う。
アミノ酸やビタミンB群などが含まれ、胃腸にも優しく、砂糖を入れないとというこということで美容にも良いと言われたりしますが、元はお米なので穀類、栄養素としては炭水化物、ブドウ糖になっていくわけです。前に書いたように炭水化物は人間のエネルギー源。特にブドウ糖は脳のエネルギー源としても重要。でも摂りすぎれば肥満に繋がる。
病院ではブドウ糖点滴というものがあります。
甘酒は美容に良いとかということよりも、元々はそちら(ブドウ糖)の意味での「飲む点滴」だと思います。


・先日、採点基準というか合格基準が必ずしも明確でないため保護者などから不満の声が上がることもある高校受験の前期選抜(A選・B選)について書いた
ちょうど長男(前期選抜で入学)の中学最後(3年3学期期末テスト・2011年2月)の結果があった。
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3計は3教科合計点。満点300点。 国語・数学・英語
5計は5教科合計点。満点500点。 国語・数学・英語・理科・社会
9計は9教科合計点。満点900点。 国語・数学・英語・理科・社会・保健体育・技術家庭科・音楽・美術


・彼が高校を卒業して大学進学のため家を出た後、私は彼が残していった参考書で勉強しようと思い 彼の残していった本の整理をしながら、とある参考書を手にしていた。
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洛陽社
主に学術書や学習参考書を出版する日本の出版社である。 同社の『古文研究法』の著者小西甚一の教え子である阿部邦義が設立。

小西 甚一
1915年(大正4年)8月22日 - 2007年(平成19年)5月26日
日本文学者、比較文学者。1951年(昭和26年)、『文鏡秘府論考』により日本学士院賞を受賞。1987年(昭和62年)、勲二等瑞宝章。1999年(平成11年)、文化功労者。元筑波大学副学長、筑波大学名誉教授。文学博士(東京文理科大学)。
東京教育大学文学部教授、筑波大学文芸・言語学系教授、スタンフォード大学客員教授、ハワイ大学高等研究員、アメリカ議会図書館常任学術審議員、プリンストン大学高等研究員等を歴任し、日本文学研究の国際化に貢献した。
専攻は日本中世文学、比較文学で、飯尾宗祇の連歌や世阿弥の能等。また、俳句研究にも造詣があり、松尾芭蕉に関するものも多い。
全5巻の大著『日本文藝史』は第1巻刊行と同時に英訳版がプリンストン大学出版会から出ている(第3巻まで。第4、5巻は未刊行)。1992年(平成4年)、同書により大佛次郎賞を受賞。
その他の著書に『梁塵秘抄考』、『文鏡秘府論考』、『能楽論研究』、『俳句の世界』等がある。

●学者として壮年期に日本学士院賞を受賞したが、同時に大学受験指導普及に熱心で、大学受験ラジオ講座の講師を務めたほか、自ら著した学習参考書『古文研究法』(洛陽社)は単なる参考書を超えた国文学入門書としてファンが多く、ロングセラーとなっている。自ら編纂した代表的な学習参考書は、他に『国文法ちかみち』(洛陽社、重版中)、『古文の読解』(旺文社、ちくま学芸文庫として復刊)等があり、コンパクトな古語辞典の先駆けとなる『基本古語辞典』(大修館書店、のち『学習基本古語辞典』に改題)がある。

●東京教育大学在勤時には学園紛争に忙殺され、同大の筑波移転問題に際しては、文学部で数少ない賛成派で、移転後に筑波大学で要職を務めたこともあり、主義論説面では保守派と見なされていた。

●三島由紀夫とは自決の数年前に『世阿弥と謡曲』について、ドナルド・キーンと3人で座談しており(のち新旧の『三島由紀夫全集』に所収)、『日本文藝史』第5巻の最後は三島由紀夫の礼讃で締めている。なおキーンとは終生の友人であった。

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・先生、110版ですよ、110版!!
あ~?う~ん?い?
え~と?



『古文研究法』P293‐294

(リ)象徴
 象徴というものは、わかったようなわからないような術語で、高校生諸君を悩ませること多大なるものがあるだろうと思う。これを理解するには、譬喩ということから考えてゆくのがよい。譬喩だと、
 AーB
という二つの観念があり、その間をつなぐのは、両者に共通する観念である。そして、その共通性は、わりあい理詰めでとらえ得るものだが、象徴は理詰めでは行かず、感覚で直観的にとらえられるような場合をいう。つまり、AとBとの間に叙述の飛躍があり断絶があって、論理的に結びつけることはできないけれど、何かしら感じのうえでは深く結びついているということがわかるような表現を、象徴というのである。
実例でいうと、幸福のことを「青い鳥」であらわすなどがそれであろう。「青い鳥」というvehicleをどう分析しても、tenorの「幸福」とは理性的には結びつかない。しかし、両者の間には、たしかに「そうだ」と思わせるものが流れている。また作品でいえば、
 夏 草 や 兵 ど も が 夢 の あ と            芭 蕉
などは象徴の好例である。つまり、「夏草」と「兵どもが夢のあと」とは、意味のうえでは何も関係がない。というよりも、わざわざ「や」という切字を入れて、意味的なつながりを切断しているのである。兵どもが夏草をどうしたこうしたとかいう意味的な関連はない。作者の眼前にははてもなくひろがっている夏草の茂みがある。夏草は、ごわごわとした手ざわりで、冬草(たとえばクローヴァ)のように柔らかくはない。そのあらあらしさは、武士たちの壮烈な最期の場所であるのに、もっともふさわしい。クローヴァや蓮花草のはえている原では、むしろ若人が青春をたのしむのにふさわしい。夏草のはてもないひろがりに悠久な時の流れを、あらあらしい手ざわりに武士の最期を感じることができたら、その人は、象徴ということがわかったわけである。象徴とは、このように、夏草なら夏草という素材をいちおう持ち出すけれど、現実の夏草を描写するのではなく、それを手がかりにして、現実の夏草にひそむいちばん夏草らしい点、すなわち夏草の本質を感じ取らせるような行きかたである。気どって言えば「素材に頼りつつも、これを否定して事物の本質へと人を誘う」表現なのである。この「本質」という所が大切であって、夏草なら夏草の本質に深まってゆくのが、象徴の表現だと考えてよろしい。本質ということばが頭に入りにくければ、簡単に「いちばんそれらしい点」と憶えてもよかろう。このような象徴的表現を、江戸時代の俳人は「配合」といった。


・先生、わたし、これで↑分かったことがあります。
青い鳥が幸福と繋がるのは、『青い鳥』というお話があるからこそであり、それがなければ、青い鳥から幸福を結び付ける人など存在しなかったかもしれませんよね?
『青い鳥』(フランス語:L'Oiseau bleu)
モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。5幕10場。作品の主題は「死と生命の意味」。
2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。
なお、メーテルリンクによる続編『チルチルの青春』(原題:Les Fiançailles(いいなづけ)、『チルチルの婚約』とも)がある。


そこで日本国憲法の象徴を考えてみたのです。
日本国憲法 第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


天皇が象徴なので、私たちは自分で決められるのです、天皇の本質を。
「青い鳥」=「幸福」と同じで、もともとは存在していない、なんにも。本質なんかないものです。
だからこそ私達は自由に創作が出来る。イメージを膨らませて物語を紡ぎだす。自分の天皇像を描くことができるのです。
もうひとつ大事な点は、天皇を日本国の象徴としていること。私達は日本という国に住む日本人であるから、自分が描いた天皇像(天皇の本質)が、自分の本質であると言われているようなものです。
誰しも自分のことを悪く思われたくない。誰しもが誰にも尊敬される素晴らしい人でいたい。だから天皇の本質は悪だなんてことは間違っても言えなくなってしまうのです。天皇を素晴らしいと言わないと、自分も素晴らしい人でなくなってしまいます。
しかも日本国民統合の象徴であるから、自分だけそう思っていれば人が何を言おうが良いというわけではなく、そう思わない日本人がいることが許せなくなってきてしまうのです。
どうですか、この説は?


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by yumimi61 | 2020-01-07 18:35

松の内~*

・たららららららら~らら~♪ ピンポーン!

・某信用金庫から頂いた今年のカレンダーが鬼尽くしだった。
松の内~*_e0126350_17351240.jpg
・カレンダー見て思ったけど、2020ってZOZOみたい。

・この間、本屋さんで『For You』を在庫切れだったと書いたけれど、検索機には確か「カウンターで注文してください」と書いてあった。でも私はしてこなかった。
地球が回っているのなら日々は巡っているのなら
またいつか出会えることがあるかもしれないから~✨
それこそが運命でしょ?


・センター試験まであと2週間ですね。
センター試験を受けた方や受ける方はよくご存じかと思いますが、縁や興味がなかったという方はご存じないかもしれません。
センター試験というのは、中学校の定期試験のように、全員が同じに「国・数・理・社・英」の5教科の試験を受けるわけではありません。
何故かというと、受験にあたって各大学が指定する教科(受験科目)が違うからです。
幾つも異なる大学・学部学科を受験するという場合には、その各々が指定する科目を受けておく必要があります。
先日、次のように書いたのも、受験生が選択する科目が違うためで、教科別受験者数には差異が出てきます。→教科別で言えば、受験者数が多いのはどの模試でも英語である。次が国語。

受験者は、出願時に受験教科(国語、地理歴史・公民、数学、理科、外国語)をそれぞれ受験するか否かを志願票に記入し、「受験する」と申請した教科のみ受験することが出来る。
受験者は数学(1)、数学(2)、外国語から1科目ずつ、地理歴史・公民、理科(2)からは1科目または2科目、理科(1)から2科目しか受験できない。
出願する大学により指定された科目は受験する必要があるが、必要のない科目は受験しなくてもよい。


地理歴史公民
同一名称を含まない最大2科目まで選択。各100点満点
「世界史A」「世界史B」「日本史A」「日本史B」「地理A」「地理B」「現代社会」「倫理」「政治・経済」「倫理、政治・経済」

国語
200点満点(近代以降の文章100点、古文50点、漢文50点)

外国語
(筆記)各200点満点
「英語」「ドイツ語」「フランス語」「中国語」「韓国語」 ←どれか1科目選ぶ
※外国語(リスニング)50点満点
外国語(筆記)で「英語」を選択する受験生は必ずリスニングを受験する必要がある。ただし、重度の難聴者については免除される。「英語」以外の外国語を選択した者は受験できない(250満点と200点満点と違いが出てしまうので得点調整がなされる)。

理科
A:理科(1)より2科目
B:理科(2)より1科目
C:理科(1)より2科目と理科(2)より1科目
D:理科(2)より2科目
の中から1つ選択。

理科(1) ←基礎科目と呼ばれる
2科目で100点満点(1科目のみの選択は不可)
「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」

理科(2) ←発展科目と呼ばれる
各100点満点
「物理」「化学」「生物」「地学」

数学(1)
 各100点満点
 「数学I」「数学I・数学A」 ←1科目選ぶ
数学Aについては、「場合の数と確率」、「整数の性質」、「図形の性質」から2題を選択して解答する。

数学(2)
 各100点満点
 「数学II」「数学II・数学B」「工業数理基礎」「簿記・会計」「情報関係基礎」 ←どれか1科目選ぶ
数学Bについては、「数列」、「ベクトル」、「確率分布と統計的な推測」から2題を選択して解答する。

生徒の学力低下を懸念して、ほとんどの国公立大学ではセンター試験で5(または6)教科7(または8)科目、合計950点分の受験が必須である。
多くの文系では外国語、国語、数学2科目、地理歴史および公民の中から2科目、理科の基礎を付した科目から2科目が、理系では外国語、国語、数学2科目、地理歴史又は公民のうち1科目、理科の基礎を付していない科目から2科目が主流となっている。
また、私立大学の参加も年々増加している。私大の場合、センター試験を入学者選抜にどう利用するかは、各大学が個別に決めている。英語リスニングの結果を採用しない大学や、足切りのみの使用の大学もある。


・センター試験の「理科」の教科は、長男の学年の次の年から変更になった。変更後が上記のものである。
【変更前】
「理科総合A」←(物理・化学)「理科総合B」←(生物・地学) 「物理I」 「化学I」 「生物I」 「地学I」
上記6科目のうちから最大2科目を選択。

なぜ変わったのかと言えば、学習指導要領が改訂され、教科書とか授業が変わったからである。

「理科総合」とは?
2003年の高等学校学習指導要領の施行によって新たに設置された、教科「理科」の科目の一つである。
理科総合科目である「理科I」(昭和57年度入学生から適用)、「総合理科」(1994年入学生から適用)の系譜を引いており、同じく理科の総合科目である「理科基礎」を履修しない場合は、理科総合A又は理科総合Bのどちらか1科目を原則として履修することとなっているため、理科I以来の理科総合科目の全員必修が復活した。
2012年の学習指導要領改訂により、2012年入学生から同趣旨の科目として「科学と人間生活」が設けられたため、2011年入学生の高校卒業と同時に「理科基礎」とともに科目廃止される。
なお、「科学と人間生活」を履修する場合は、「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」の4科目のうち1科目以上を併せて履修すればよいが、「科学と人間生活」を履修しない場合は、「○○基礎」の4科目のうち3科目以上を履修しなければならない。


2003年の変更でそれまでの「総合理科」が分割されて「理科総合A」「理科総合B」に。
また4分野の「理科基礎」の科目が新設された。
このうち1~2科目が必修となる。
しかし内容的にはゆとり教育でもあったため、中学4年生的な内容で大学受験には不向き不評。
センター試験では「理科基礎」が該当とならず、「理科総合A」「理科総合B」も上位大学では指定していない。
よって結局高校でも「理科基礎」や「理科総合A」「理科総合B」2科目とも卒業要件にする学校は極めて少なくなる。

大学入試センター試験を利用する大学では、学力上位の文系学部と、ほぼすべての理系学部が理科総合を指定しておらず、しかも理科総合の内容はそれぞれの分野の科目の基礎単元と全く重複しているため、進学校を中心として必修不要論が出て、さらに理科の諸学会が「理科の学習内容の学年後倒し」を批判したことも相まって、2012年の学習指導要領改訂により「理科基礎」とともに廃止されることとなり、理科総合A、理科総合Bで中学校から移行された学習内容は、2009年度から順次中学校へ戻す移行措置が行われることとなった。 

日本の理科教育は戦後から混迷しているのであった。
戦後→身近な生活から問題を見つけて解決する形の授業形態が中心→基礎学力の低下
1958年(昭和33年)より→系統学習中心(知的理解・論理主義的)→落ちこぼれ増加
1977年(昭和52年)→ゆとり教育で授業時間数が減少
1992年(平成4年)→小学校1・2年の理科が廃止され、生活科が新設された。→小学校低学年での理科単独の授業は姿を消す。
1998年(平成10年)→さらに理科の指導時間数が減少
子どもの学力低下が世論で取り上げられるようになった。2003年(平成15年)に文部科学省が「指導要領に示していない内容を加えて指導も出来る」ように学習指導要領を一部改正し、教科書にも発展的な内容が入った。これに対し、「『学習深度は深く』なったものの、『内容が断片的になり、現場の教員は、かなりの試行錯誤をしている』」との意見もある。


・「理科」という言葉があるが、現在は「理科」の化学・物理・生物・地学の4科目の全てを履修するということがない。
理系の大学に進んで科学者を目指すとしても4科目は必要ない。理科の教員になる場合は必要かな?
大学の研究分野などは実際もっと狭い範囲となる。狭く深い感じだろう。だから専門外の余分な科目まで履修したくないということで、理系大学でも4科目必須にはしていない。(大学じゃなくて高校までにやってきなさい?)

高校の理科で4科目の基礎を必須としていたのは1982~1992年。1980年代に高校生だった皆さんですよ!
但し1987年から、その理科4科目必須教科「理科I」が共通一次試験の必須科目でなくなり、やがて高校授業からも消えていく運命に。
大学入試(共通一次)で理科4科目必須世代は、新課程受験者となった1985年から1987年に廃止されるまでなので、実質1985年と1986年の高校3年生(現役)受験者のみです。


・うちの長男は文系学部学科を受験したが、理科科目も必要であり、6科目のうち 「生物I」 で受験していた。
その「生物」は模試で偏差値が80を超えたことがある。
松の内~*_e0126350_00480946.jpg
・偏差値による割合
松の内~*_e0126350_00495080.jpg
実際に見てみると・・・
生物Yというのは、おそらく文系の範囲かと。
文系でも数学や理科が科目に入っている大学がありますが、模試では問題を解くべき範囲を変えて理系や文系や大学指定の区別を付けていて、それがXYZで範囲分けされているようです。
松の内~*_e0126350_00445837.jpg
この模試(進研記述模試)では100点満点中86点で全国での偏差値80.2。
その横71.0は校内偏差値であり、進学校であるため、校内偏差値のほうがぐっと下がる。
生物Yの受験者は全国で102,051人。その0.1%だとすると102人目くらいのはずだけれど、実際は304位と書いてあり、これは0.3%くらいになる。
その隣の欄が群馬県内、その隣が校内。33.4は全国平均点、47.9が校内平均点。
パーセンテージで0.1%というと、ものすごく少ない気がするけれど、でも100人とか300人とか人数にして言ってみて、実際それだけの生徒の数を思い浮かべれば、そんなに少なくない気もしてくるから不思議なものです。
100点から86点までに(14点の間)、304人いるということは、同じ点数や偏差値の人が沢山いて、単純に割れば、1点単位で21~22名いるということになる。
そう考えると受験って大変ですね。
そう思うと数十秒遅れたら謝罪止む無しも止む無しか・・!?







by yumimi61 | 2020-01-05 17:41

三分の三の日②

・これも昨年末、大掃除をしていて出てきたもの。
ファイルに4枚ほど長男の高校3年生の時の模試の結果が入っていた。
4枚しかないから三者面談時にもらったものだろうか。進研模試と駿台模試で、記述模試とマーク模試と大学入試センター試験プレテストがあった。
三分の三の日②_e0126350_11171067.jpg

・彼は当初、大学でフィンランド語を学びたいと言っていた。
なぜフィンランドなのか、私にもよく分からない。行ったこともない。
フィンランドと言えば、オーロラにサンタクロース村?あとムーミン?
理研の小保方騒動があったとき、騒動について書いたことがあるけれど、その中の1つの記事でもフィンランドについて書いている。
あの騒動の時、彼は高校3年生で大学受験期だった。

過去記事より
受験生だった長男は私立大学も国公立大学も受験した。
当初国公立大学の後期試験受験は考えていなかった。
何度も受けた模試の結果では前期試験で合格できそうだったからだ。
しかしそう、前にも書いた通り、彼はセンター試験の国語の点数が模試の時よりも数十点低かったのである。
センター試験が終わった後の判定でも合格圏内にいたことはいたが少々不安になってきた。
「後期試験も出願しておいたほうがいいんじゃない」と長男に言ったのは私だった。
後期は受ける予定ではなかったので前期受験大学の願書しか取り寄せていなかった。

センター試験後、生徒は学校で担任の先生と面談し、最終的な志望校を決定していくが、この時に長男が後期試験の話を持ち出したらしい。
それで受験校を検討する中で先生から「神戸市外国語大学はどうだ?」と提案があったらしい。
国内で唯一の公立外国語大学である。
何故その大学だったかといえば、ロシア学科があったからである。
何故ロシア学科なのかと言うと、長男は「フィンランドに行きたい」「フィンランド語を学びたい」と言っていたことがあったから。
何故フィンランド学科がロシア学科になるのかというと、日本の大学でフィンランドの学科(北欧学科)があるのは東海大学のみだったから。
「フィンランドに近いところでロシアはどうだ?」ということで先生がロシア科のある国公立大学を探してくれて、神戸市外国語大学に行きついたということのようである。
それから願書を取り寄せたので家に届いたのは1月20日過ぎのことだったと思う。
しかし結局、後期試験は出願しなかった。


・フィンランドの学科(北欧学科)がある東海大学は模試でも志望校にしていたことがある。
他の生徒がどうなのかは分からないが、最終学年3年生になる以前から模試の志望校にいろんな大学を書いてみるということがあまりなかったように思う。
最難関大学に受かりたい~という欲もなく、三者面談では東京大学を目指してみたらと言われたこともあったが予備校に行きたくなかったのか彼には全然その気がなく、模試の志望校に書いてみることもなかった。あと私立だと早稲田はあるけど慶応は書いたことがない。地元の国立大(群馬大学)も志望校に書いたことはない。
結局彼は幼児教室や公文などを含め学習塾・進学塾・予備校などに通って学ぶことは一度もなかった。


・「自分」とか「適正」とか「夢」って何だろう?
夢があったら素晴らしい?子供の夢を大人は全力で応援すべき?
自由があったら素晴らしい? それとも「いまさら翼と言われても」ではないけれど、急に自由を与えられても困る?

健康で五体満足に生まれてくれたら良いと願っていた親が数年もすると、それだけではどこにも足りなくなってくる。
大人や社会にとっての素晴らしいことって何だろう。
難関大学に入って大企業に就職して安定的に働くこと?
有名になったり一攫千金あてて左団扇で暮らすこと?
賞レースに勝ってちやほやされること?
そこに価値を見出せない人はどうすれば良いの?
平和?平和って何?誰にとっての?何にとっての?

大昔のように金持ちの道楽で、あるいは金持ちのパトロンを得て大学に通って、好きなことを好きなだけ学んだり研究できるという時代ではない。
大金かけて大学に入ったって、大学での勉強なんておよそ関係ないところへ就職していくことが多い。
社会の価値や評価は、大学の難関度、企業の大きさや入社しにくさ、有名度に置かれている。
他者に勝つことに何よりの価値を置いていて、戦いのフィールドが大きければ大きいほど勝利の価値はあがる。

東大を目指せる子供がいたとして、その子がフィンランド語を学びたいので東海大学に行きたいと言いだしたら、あなたはその夢を全力で応援しますか?
フィンランド語を学んで、将来どんな仕事に生かせるのか、想像できますか?
フィンランドに移り住んで仕事をして暮らしていくということなんだろうか。だとしたら大学で学んだくらいでそれは可能なんだろうか。
もしもおよそフィンランド語に関係ない仕事に就くとするならば、東海大学の北欧学科に進学する意味はあるんだろうか。
しかもその唯一の大学は国公立でもなく私立大学であり、自宅から通えるところでもない。安く済むというわけでもない。
普通に考えれば大人は無条件で子供の夢や希望を応援したりなんかしないだろうと思う。
私たちは本音と建て前(本当と嘘)が渦巻く社会に生きている。
それが分かっている大人だって嫌気がさすことはあるので、子供とか多感な思春期・青年期には尚更そういうこともあるだろうと思う。

フィンランド語を学びたいと言ったことに対しても、東海大学を志望校にしたことについても、私は猛反対はしなかった。
彼自身も東海大学しか学科がない状況で、そこに進むということにはある種のためらいを持っており、踏み切れなかった。いまひとつ現実味が湧かなかったのだろうと思う。


・ここでひとつ偏差値の話もしておきたいと思う。
偏差値というのは、ある集団(母集団)の中のどの辺りに位置するのかを表すものである。
偏差値が有効で利用価値が高いのは、その集団の成績(得点)の数値分布が「正規分布」の時である。
「正規分布」の大きな特徴としては、平均値を中心にして山型の分布(左右対称)になっていることが挙げられる。
三分の三の日②_e0126350_21460579.jpg
分散(標準偏差)が大きくなると山型曲線は低くなり、分散が小さくなると山が高くなり尖がった形になる。

平均値の付近に集積するようなデータの分布を表した連続的な変数に関する確率分布である。中心極限定理により、独立な多数の因子の和として表される確率変数は正規分布に従う。このことにより正規分布は統計学や自然科学、社会科学の様々な場面で複雑な現象を簡単に表すモデルとして用いられている。たとえば実験における測定の誤差は正規分布に従って分布すると仮定され、不確かさの評価が計算されている。

標準正規分布の確率は下のグラフのようになる。σ(シグマ)は標準偏差。
平均値から標準偏差だけ離れていれば1σ,標準偏差の2倍離れていれば2σということ。
平均から1σの間に入る確率がおよそ34.1%である。
三分の三の日②_e0126350_21483914.jpg
これを試験の偏差値で考えると、母集団の平均点が偏差値50ということになる。
但し模試などの場合、該当模試の純粋な平均点ということではなく、受験者全体の予想される平均点などを基準にして補正してあるのが普通である。
ともかく、偏差値分布は次のようになる。
  偏差値70以上・・・全体の2.3%
  偏差値60~69の人・・・全体の13.6%
  偏差値50~59の人・・・全体の34.1%
  偏差値40~49の人・・・全体の34.1%
つまり10万人の母集団(受験生)がいれば、偏差値70以上の人がだいたい2,300人位いるということになる。
1000人の母集団(受験生)がいれば、偏差値70以上の人がだいたい23人位いるということになる。
300人の母集団(受験生)ならば、偏差値70以上の人がだいたい7人位いるということになる。


・偏差値というものは、同一人物が同じ100点を取っても、受験者(母集団)の人数や平均点、学力レベルなどで変わってくるものである。
受験者がみな高得点を取れるような母集団、あるいは母集団の人数が少ないような場合には、そもそも正規分布にはならず偏差値が有効とは言い切れない。
正規分布だとしても母集団の数が小さいと誤差は大きくなる。
また同一人物が、受験者がみな高得点を取れるような母集団に混じった場合と、平均的な母集団に混じった場合には、その人物の偏差値は平均的な母集団に混じった場合のほうが高くなる。
つまり本来は、誰もかれもが受ける模試よりも、東大模試とか難関大模試のほうが偏差値は低く出てくるということになるが、上でも書いたように偏差値を出している予備校が補正をしているだろうから、完全にそうとも言い切れない。
また繰り返しになるが受験者数が少ないとか偏りが出る場合には誤差が大きくなるため、やはり母集団は大きいほど精度は高い。


・長男が大学受験した年のセンター試験受験者数は53万人だった。
私が見つけた資料では、高校3年の9月に行われた駿台マーク模試の受験者数が一番多くて40万人の受験者がいる。
3年の7月に行われた進研記述模試の受験者数が約36万人。
センター試験直前の12月15日に行われたセンター試験プレテストの受験者数は12万程度である。
教科別で言えば、受験者数が多いのはどの模試でも英語である。次が国語。


・ネットには高校にしろ大学にしろ偏差値が示されている。
受験生はこれらを見て、受験する高校や大学の参考にしたりする。
この偏差値一覧は高校や大学が発表しているものではない。予備校が出している数値である。
大手予備校は上記のように全国模試を何回も実施している。
自社が行った模試の受験者の模試の結果(偏差値)と実際の入試結果(合否)を照らし合わせて、各校のおおよその偏差値を決定している。
つまり実際の入試結果(点数や合否)が分からないとデータも作れない。予備校はどこから個人の合否結果を得ているのだろうか?


・受験生はたいてい複数校受験するものだが、難関校を受かるような生徒が1校だけ不合格になった大学があるような場合、その不合格になった大学の偏差値が「優秀な生徒が落ちるほどのレベル」というようなことで相対的に少し上がることになる。
例えばだけど、私立の難関校と言われる大学は、併願で国立難関校が受かるような生徒は落としたほうが、大学の偏差値が上がりやすい。偏差値もブランドの1つになるだろうから、私大入試では模試とは違って特別に対策しないと解けないようなマニアックというかニッチな問題が出題されることが多いとも言われる。国立併願の場合にはその私大の独特な問題の対策まで手が回らないということがよくあるらしい。
また国公立受験者のほとんどは私大も受験していて、複数校合格しているということもよくある。私大のほうが入試日も発表も早いので。しかしだからこそ入学しないこともよくある。でも大学偏差値はあくまでも合格者で決まるもので、入学者ではない。入学しようがしまいが優秀な生徒が沢山受験してくれたほうが偏差値は上がりやすい(受験料も手に入る)。
また私大は国公立よりも受験科目が少ないのが一般的なので、私大希望者のほうが取りこぼし教科が少なく、模試などで高得点が出やすい。模試で高得点(高い偏差値)を出していた生徒が私大に合格すれば、その私大の偏差値が上がる。
さらに私大には難関校と言われていても高得点(高い偏差値)を必要としない推薦系が相当数いる。今は国公立でも増えている。
このようにいろんな裏事情というか兼ね合いがあるので、大学偏差値=その大学の平均的な学生レベル、とはちょっと(かなり?)言えないところがある。







by yumimi61 | 2020-01-03 16:27