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一点の曇り

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# by yumimi61 | 2019-05-07 18:24

深閑

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遊び疲れて眠る子供のように

町は静寂と喧騒を取り戻す

君を渡すわけにはいかないから

一塊の温もりと齟齬に

ふうっと息を漏らす




# by yumimi61 | 2019-05-06 23:41

六六魚と躑躅

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「こどもの日」と言えば鯉のぼり。
六六魚(ろくろくぎょ・りくりくぎょ)は鯉の異称。
※重訂本草綱目啓蒙(1847)四〇「鯉魚〈略〉鯉は首より尾にいたるまで鱗の数三十六あり。 故に六六魚の名あり」

・関東ではTBSテレビは6チャンネル。
子供の頃、テレビは放送局名ではなく、数字チャンネルで呼んでいた。
だから結構そっちの方が馴染みがあったりしたけれど、地デジ化でチャンネルが変わってしまったところもありますね。
私なんか未だに昔のチャンネルの数字のイメージが強かったりする。
 NHK教育テレビ 3チャンネル→2チャンネル
 テレビ朝日 10チャンネル→5チャンネル
 テレビ東京 12チャンネル→7チャンネル

・政治不信やメディア不信について前前記事で少し触れたけれど、私も以前から気になっていることがある。
それは年末年始。
年末年始は特別番組が多くなり、通常放送している番組がなくなることが多いと思う。
その中でもテレビ朝日の報道ステーションはいつもわりと早くから年末休みに入る。年始も休んでいるので、ニュース番組としては休みの長さが際立つ。
報道ステーションはサッカーなどスポーツ番組でもなくなることがある。
日々の出来事を伝えるのがニュース番組の使命や役割だとしたら、ニュースに休みの日はないはず。
報道ステーションが休んでいる間にも政治は動くし、事件や事故は起こるし、災害も起こる。
それを伝えなくて良い日があると考えているならば、それは日々の出来事を伝えるニュース番組ではないのだろうと私は思う。
ニュースショーというかワイドショーのようなものなんだろうと思うしかない。

・水戸の偕楽園が梅まつりの時期だけ有料化を検討しているらしいけれど、まだしていなかったのかという感じ。どんどんすべきだと思う。
館林市のつつじが丘公園も躑躅(つつじ)の花が咲く季節だけ入園料をとる。
いつから入園料を導入したのかは知らないけれど、数十年も前から市民も県民も県外者も関係なく一律入園料を取っている。但し子供は無料。
入園料を取ったってシーズン中は大賑わい。
だから偕楽園も県外者のみと言わず、県内在住者からも入園料を取ってもいいんじゃないかなぁと個人的には思うけれども。

・ツツジが咲く季節はちょうどGW前後。
ツツジにも種類があるので早咲きと遅咲きがあり開花時期は多少ずれるけれど、公園としてはやっぱり花のピークというものがあるわけでして。
最近はちょっと開花が早いとなんでもかんでも温暖化のせいにする風潮があるが、30年近く前にも開花が早い年も遅い年もあった。
私は館林市に住んでいたことがあるが、GW前に満開ピークを迎えてしまった年があって、遠目にツツジを拝んで「あ~GW前なのにツツジがもう満開になっている・・」と善良市民は入園料の減収を心配したものである。





# by yumimi61 | 2019-05-05 18:30

201955(こどもの日)

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君が言葉を覚える前 君はここにいて

僕はあの頃 その場所に憧れていたっけ

君も僕も 外の世界に飛び出でて

帰りが遅いと ママを心配させた

太陽が西に傾いて この世界が橙色に染まる頃

僕はいつかの 夢の続きを見ていた

優しい眼差しの あの人が近づいてきて

小さな魚と鈴の付いた細い革紐を 僕の首に回した

いったい僕を 幾つだと思っているんだろう

チリリン 可愛い鈴の音にまたあの人が目を細めた気がした




・私はうちの猫に首輪を付けたことがないのだけれど、先日猫の首輪を衝動買いしてしまった。
せっかく買ったので我が家の猫ナツの隙を狙って付けてみた。
猫に付けたことがないので締め具合がよく分からない。犬と同じ感じでよいのだろうか。
近所の猫を見ると首輪が食い込んで見えないくらいの猫もいるのだけれど、あれくらい締めておいたほうが安全なんだろうか。
・・・と、いろいろ考えたり眺めたりして、やっぱり首輪は外してしまった。
いいもん、私がブレスレットにするから。

・子供が幼い頃、プーさんのビデオをよく観ていた。そのせいで私は一頃プーさんの物真似(声と話し方です)が得意となり、よく真似していたのだが子供にはいつも軽く流されていた。似てなかったのか・・・

・私の母は若かりし頃、和文のタイピストだった。カチャカチャカチャ

・携帯電話(スマホ)の操作音を消していますか?
私は操作音がする方に馴染みがあり、音がした方が確かに操作しているという感じもあって音を出していたのだけれど、一方でもし事件とかに巻き込まれて犯人に隠れてそっと通報したりメールしたりする時には音が出たらバレてしまうから予め消しておくべきかと、携帯電話を持ち始めたころ本気で悩んでいました。





# by yumimi61 | 2019-05-05 11:19

本性

朝日新聞とはなにものか

1907年(明治40年)に夏目漱石が入社した朝日新聞社はどのような社であったか。
現代では反日系や革新系、リベラル系として名高い朝日新聞だが、歴史的にみればこのレッテルはかなり微妙である。
朝日新聞は御用新聞となって成長し大きな会社になったのだし、戦争を支持していた時代も長い。

1879年、大阪にて創刊。
創刊期は、新聞小説と通俗記事が主体の大阪ローカルの小新聞だった。
また、参議の伊藤博文らが同じく参議の大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裏に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた
その間に東京の『めさまし新聞』を買収して『東京朝日新聞』を創刊し、東京に進出した。

戦後の一時期まで、朝日新聞は購読者層として政官財のトップエリートを含む社会の高学歴層に支持されてきた傾向があったとされる。しかし同時に、記者をはじめとする朝日新聞社員のエリート意識も極めて高く、同社員の外部に対応する態度は「Donaru(怒鳴る)」「Ibaru(威張る)」「Yobitukeru(呼びつける)」の「朝日のDIY」と言われ、そのことが珊瑚記事捏造事件の時のように、必要以上に相手の反感を買っているという指摘もなされている。



戦争賛美・戦争支持の顔を持つ朝日新聞

・日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。

・満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、軍部への迎合に転換し、第二次世界大戦終了までは戦争賛美の論調だった。

・大日本帝国陸軍が満州事変を起こし、満州国を建国した後、国際連盟に拒否されて脱退した際には「連盟よさらば」という歌を作成して代表の松岡洋右を賞賛している。

・1930年代後半からは首相・近衛文麿の戦時政府(近衛新体制運動)を積極的に支持した。

日中戦争(支那事変)・太平洋戦争(大東亜戦争)中は主戦論を主張する軍部の御用新聞として君臨し、毎日新聞や読売新聞といった他紙と同様の戦争翼賛報道を行い、大本営発表をそのまま記事にした

・日本の敗戦後は、社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん(関西版では「―起たん」)」(1945年11月7日)を発表し、村山社主家の村山長挙社長以下幹部が辞任した。ただし、村山長挙・上野精一両社主は公職追放解除後に復帰した。

・戦前は朝鮮人による日本への密航や朝鮮人密航組織、さらに朝鮮人労働者が高収入を得ていたという報道を頻繁に行っていたが、1959年以降に北朝鮮への帰還事業が行われるようになると次第に左傾化し、在日朝鮮人は強制連行されたものであるという報道を行い始めた。



人畜無害

例えば、尊皇攘夷運動に身を投じたはずのものが、時代が変われば自分達で実権を握り、喜んで外遊し、外国製を取り入れる。(実は最初から外国から支援されていたのだけれども)
例えば、かつて戦争を賛美し支持していたものが、時代が変われば戦争反対に回る。
例えば、(旧)優生保護法という法律に基づいて行ったはずの手術が、時代が変われば悪行になる。

「政治」も「報道」も簡単に翻る。特に後世に生きる人間にはそれが見えやすい。
「政治」にも「報道」にも強い思想や信念がなく、別の何かで世の中は動いているということが分かる。そのことは人々の心に不安や不信を抱かせる。時代が進めば進むほど政治不信、メディア不信に陥るのは当たり前なことかもしれない。
そんな簡単に翻るものに信を置くことは難しい。
何年か何十年か後には、あの時の報道や政治は誤りでした、我々は罪を犯しましたと平気で言い出しかねないことを私達は知っているからである。

翻るということ、それは言い換えれば変化である。
変化の一側面は成長であり、進化や進歩でもある。
人間は子供から大人に成長する、それを悪いことだとは言えない。
それと同じで進化や進歩は前向きで良いことだと考えられているので、進化や進歩に対して異を唱えるのは大変勇気がいる。
変化(change!)はいつの時代も明るい未来を夢見させる。だから人々は変化への不安を押し隠す。
だけどほとんどの人間は、特に島国に暮らす日本人は大陸に暮らす人々よりも変化や変形が苦手なのだ。出来ることなら不安や不信とは無縁でいたいと思っている。

夏目漱石は小説『野分』の中野君の恋愛論の中で変形を語った。
恋の煩悶の炎火の中に入ると非常な変形を受けると。(同時にそれによって自分の存在が明瞭になるとも)
変形には2種類ある。未熟で柔らかいからこその変形と、非常に大きな熱量を受けての変形。
夏目漱石は恋愛による変形は後者であることを『野分』で示した。


「政治」や「報道」が翻るもので信用ならないものだとすれば、信じられるものはなにか。信を預けるものとして「思想」や「宗教」への道が開かれる。
しかしながら「思想」や「宗教」は無頼の徒に色塗られ、これまた信が絶たれることになり、「思想」や「宗教」や「政党」は危険なものとして映し出される。

簡単に翻ってしまう社会において、変化していく時代の中で、翻らないものや変わらないものは、数字を積み上げた無味乾燥な「天皇制」と、宗教色を払拭した「神社」といったところだろうか。
人々は変化しないことに安心し、熱狂とも言える信を寄せ、変わらないことに感謝すらする。


変わらない土台づくりと変化への布石

「明治天皇の誕生日が祝日になっていて(11月3日)、昭和天皇の誕生日が祝日になっているのに(4月29日)、大正天皇の誕生日(8月31日)は祝日になっていないんだよ、差別だよね~可哀想に」と私は妹に言ったことがあるが、今度は12月23日が祝日になって、2月23日が天皇誕生日として祝日になるのかしら?
明治天皇と昭和天皇では戦争の印象が強い。
今までの歴代天皇の誕生日が全部祝日で学校も仕事もお休みならいいのに~。

あと時代区分だけど、歴史で習ったなんとか時代というのは政治(為政者)の大きな変わり目であって天皇の変わり目ではない。
明治から急に天皇1時代になったみたいな感じに捉えられているけれど(もっとも大日本帝国憲法下では天皇が為政者だけれども)、これは暫定な時代区分であって、もう少し先の時代では別のまとまりになるんですよね?ならないの?

昭和天皇は20歳の時に病弱な大正天皇に代わって政務を摂ることになった。
でも自分は最高責任者の立場で行った戦争に負けても退位もしなければ摂政を取らせることもしなかった。
自らふっかけた戦争で多くの者と金の犠牲を出し負けて天皇制を廃止しないならば、少なくとも表の顔を取り換えるくらいのことはしてもよさそうである。
会社だって何だって何か大きな不祥事を起こせば辞任して交代するではないか。
だけど昭和天皇は象徴として何事もなかったかのように居座った。
今回だって高齢になってすることが出来ないというならば、摂政という方法もあったはずである。でもそうはしなかった。
これは摂政の政が政治を意識させるからなのかな?

人間は、ことに日本国民は変わらないものをこよなく愛す性質だから、変わらない天皇制を下支えにして、変化を前面に出したのが今回の天皇の交代劇。
戦争を永久に放棄する憲法も多くの人が愛しているわけだけれど、変わらない天皇制を下支えにして憲法を変えたいと思っているのが何があってもなかなか変わらない政権といったところか。





# by yumimi61 | 2019-05-03 23:58

煩悶

夏目漱石が作家になるまで

夏目漱石、1867年(明治への改元の前年の慶応3年)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。

1886年(明治19 年)に公布された帝国大学令によって帝国大学が設立される。

1889年(明治22年)、大学予備門予科の同窓生であった正岡子規と出会い、以後多大なる影響を受ける。

1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された。

1890年(明治23年)9月、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に入学。

創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。このころから厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

1892年(明治25年)4月 - 兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。
         5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

1893年(明治26年)3月、正岡子規が大学を中退する。

1893年(明治26年)7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
         10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。

1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。

漱石は帝国大学を卒業し高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年) 4月17日、日清戦争。

1895年(明治28年) 4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄(夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授)の口添えで赴任。松山は正岡子規の出身地でもあった。
         12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをし、婚約成立。

1896年(明治29年) 4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
          6月 - 中根鏡子と結婚。
          7月 - 教授となる。

親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 (ヒステリー症とは解離性障害のこと。『アルプスの少女ハイジ』のクララの立てなかった原因の疾患の1つとして考えられるとして前述したことがある。精神あるいは身体的機能が意識から解離して意思によるコントロールが失われた状態となる。ストレスに満ちた出来事の記憶が欠落してしまう、身体的な疾患が認められないにも関わらず麻痺して立てない、歩けない、声が出ないなどの運動障害、けいれんや知覚麻痺などを生じる)

1900年(明治33年)5月 - 文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。同年、12月に帰国。

1902年(明治35年)9月、友人である正岡子規が肺結核にて満34歳で死去。

1903年(明治36年) 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
          5月、北海道出身の旧制一高の学生・藤村操が華厳滝で自殺した。

第一高等学校の受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。

1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9 月5日、日露戦争。

1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。

1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。

1907年(明治40年) 1月 - 「野分」を『ホトトギス』に発表。
          4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍にて死去。享年49歳。


職業作家

この頃の職業作家とはフリーな個人事業主としての小説家なりライターではなく、会社に雇われて、その会社の出版する書物に書く事であったということになる。
夏目漱石は朝日新聞社に入社して、朝日新聞に小説を連載していた。
夏目漱石が職業作家になってから死ぬまでの小説は全て朝日新聞上で発表されたものである。


ある青年の自殺が広げた波紋

藤村操
1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日
北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。


藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。



自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった。
自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説に大別される。
「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している。

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。

当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。


歪んだ恋愛論

夏目漱石が『野分』を発表したのは藤村操の自殺から約4年後のこと。
そしてそれからほどなくして、漱石は一切の教職を辞して朝日新聞に入社して「職業作家」となった。
おそらく昔は、教職(=作家=先生)、という感じだったのではないだろうか。
だからメインとなるべく教職を辞して物書きになるということは、それなりの覚悟が必要だったのだろうと思う。
でも夏目漱石は朝日新聞に入社したからこそ人気作家となり後世に名を残す(紙幣の肖像に選ばれるほど!)作家としての地位を獲得できたのかもしれない。

『野分』は夏目漱石自身を色濃く反映した作品。
前回私は『野分』の主題は恋愛論だと述べたが、夏目漱石は藤村操の自殺の原因が恋愛であってほしいと心底願ったゆえに、主題を恋愛論に置いたのだろうと思う。





# by yumimi61 | 2019-05-03 15:57

野分論

先日のエントリー『桜花』にて最後の一文に夏目漱石『野分』より 世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する を引用した。
今日はその『野分』についてです。

↓これが小説の冒頭。

 白井道也(しらいどうや)は文学者である。
八年前まえ大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。




今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべきものと心得ていた。
盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。
渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。
世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。




己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。
しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。
この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。
天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。
われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵かし硯を磨まするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。




主たる登場人物


・白井道也
大学を8年前に卒業。 越後・九州・中国地方の3箇所で中学教師をしていたが、いずれも辞職して、ついには東京に戻ってきて、書き物の仕事をしている。妻がいるが、妻は職を転々とし野心のない夫を快く思っておらず、夫妻の間には隙間風が吹いている。

・高柳君(高柳周作)
越後出身で、この夏に旧制の高等学校(現在の大学教養課程に相当)を卒業したところ。
貧乏で暇もないらしい。
口数が少なく、あまり人と交わることもないため、他人からは厭世家の皮肉屋と思われている。
父は郵便局の役人だったが、高柳君が7歳の時に公金を使い込んで囚われの身となり牢屋の中で肺病で死んでしまった。もっとも子供の時にはそのことを知らず、父の行方を母に尋ねても「今に帰る」と言うばかりであった。現在はその母親を田舎に1人残しているという状況であり、仕事をして母へ仕送りをしなければならないと思っている。
越後の中学校に白井道也先生がいて、先生を学校から追い出すのに加担した。
肺病を患っている。

・中野君(中野輝一、中野春台)
高柳君とは旧制高等学校の同級生で一緒に卒業した。
裕福で名門で暖かな家庭に生まれ育つ。
鷹揚で円満で、趣味に富んだ秀才。
婚約者がいて結婚する。


高柳君も中野君も文科で学んでおり、卒業後も書き物の仕事をしている。
中野君は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい」と言っている。
タイプは全く違うが2人は仲の良い友人。裕福な中野君は高柳君にたびたび奢ってあげたり、具合が悪そうなのを心配する。
しかし高柳君は中野君を別世界に住む人だとも思っていて、寂しさを拭いきれないでいる。というかむしろ中野君を通じて余計にひとりぼっちであることを痛感してしまうのである。


高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。

彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。

この両人が卒然と交わりを訂してから、傍目にも不審と思われるくらい昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人ひとりあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友をもって中野君を目してはおらぬ。

中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越しに眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴さえも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横たわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。



『江湖雑誌』


「僕の恋愛観」 中野春台
「解脱と拘泥……憂世子」 白井道也

中野君の所の取材に行ったのも白井道也先生で、高柳君から中学生の時の出来事を聞いていた中野君は取材終わりに高柳周作という人物を知っているか訊いてみるも、知らないと言われる。


「僕の国の中学校に白井道也やと云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜の銘にありそうじゃないか」
「道也と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪い人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪い奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊っといものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」


高柳君は『江湖雑誌』で中野君の恋愛観を読んだついでに、「解脱と拘泥……憂世子」に出会う。そしてついには自分で白井道也先生を訪ねるのだった。


白井道也先生が辞めた3つの学校

(1)越後(新潟県)のどこかの中学校
越後は石油の名所だった。学校のある町を4~5町隔てて大きな石油会社があり、学校のある町の繁栄は大方その会社の御蔭で維持されていた。

会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。
道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫りに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
※黄白万能主義=拝金主義

(2)九州北部の工業地帯の中学校

炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。


(3)中国地方の田舎の中学校

ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。
そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。フランスのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事がむずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。
去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。


では東京はどうか?

 三たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色がない。東京は日本で一番世地辛い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛って両手を袂へ入れたままで遣り切きるのは、立ちながらみいらとなる工夫と評するよりほかに賞めようのない方法である。


100円の行方と告白

・高柳君の体調は思わしくなく、喀血までするようになり、中野君から自分が費用負担するからと転地療養を勧められる。
お金を出してもらうのは心苦しいと感じている高柳君に、思案中の小説を転地先で養生しながら執筆し、完成したら一大傑作として世に送り出す、その対価として費用(100円)(もちろん今の100円とは価値が違う)を出すと提案し、それを高柳君も受け入れて、100円を受け取る。

・高柳君は転居前日に転地療養の報告と挨拶のため白井道也先生を訪ねる。
そこで借金取りに出くわす。
白井道也先生は100円の借金をしており、先生の兄が立て替えていた。
先生の兄は会社の役員で、その会社の社長は中野君の父親である。
教職を離れてお金にも名誉にもならない物書きなんかしていることに不満を抱いている先生の妻と、借金を立て替えている先生の兄が結託して、借金返済を厳しく催促することによってお金になる仕事をするように仕向けたのだった。

・白井道也先生は借金取りに「著作が売れるまで100円の返済は待ってほしい」と頼むが、 兄の意向を受けた借金取りは頑として応じない。

・白井道也先生と借金取りの話を聞いていた高柳君は口を挟み、先生の著作とやらを見せてもらう。それは「人格論」というタイトルの原稿であり、先生は待っている間に高柳君が読んでいるのだと思って渡すと、高柳君はタイトルだけを見て「これを100円で譲ってほしい」と先生にお願いする。


「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。


転移

ここで九州の中学校を追い出されたところの文章をもう一度。

権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された・・・


高柳君は自分が中野君からお金を得る権利などないことを分かっていた。
だけど療養先で一大傑作を書くという名目でお金を受け取った。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるというから、この場合、中野君が実業家ということになる。
そのお金を今度は高柳君が白井道也先生に渡すわけである。
原稿を買い取るという名目で。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるから、白井先生に100円を受け取る権利がなければ、今度は高柳君が実業家ということになってしまう。
白井道也先生にその権利はあるだろうか?高柳君は原稿のタイトルだけを見て、中味を読んでいないのである。
そして彼はここでかつて自分が先生を追い出した1人であることを告白する。
つまり原稿の対価ではないことが滲み出ている。
そのことに高柳君は気付いていないのかもしれないが、引き上げたいのは先生ではなく自分である。心のどこかで悪行をチャラにしたかった、人格者になるために。
高柳君の100円を出すとういう行為は白井先生を「権利のないもの」にしてしまうことになる。
中野君や中野君の奥さんが高柳君に同情したように、高柳君も白井先生に同情の念を抱いた。
金の力で活きようとした高柳君はその金に誹ることなく、今度は自分がその金で白井道也先生を活かそうとした。
同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。ーまさしくといった感じである。


『野分』の主題は恋愛論

本文に一箇所だけ「野分」が出てくる。
中野君の婚約者(のち妻)が歌った歌詞の中に。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ



「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦しみを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」


白井道也先生は「解脱と拘泥……憂世子」の中にこう記していた。
物質界に重きを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。

中野輝一は恋なんて形ないものに重きを置いている。
中野の恋愛論に賛辞も批評も与えなかった白井道也にも実は心当たりがあるのだろうと思う。
春から夏へと向かう恋の中にいる中野と、秋から冬へと向かう恋の中にいる白井。
白井道也という存在を変形させ明瞭にさせたのは、奥さんだったのかもしれないなぁと思った次第です。






# by yumimi61 | 2019-04-29 21:49

GW

・昨日私はピンクのパーカーにピンクのマスクをしていたが、ピンクはピンクでも薄い色のピンクです。

・国立なのに10連休していないなんて・・!?

・ニュースでもやっていたけれど、金曜日に銀行のATMに行ったら長蛇の列だった。
まず駐車場に整理係が立っていて「満車」の看板があって驚いた。
この辺りは車社会なので店内に辿り着くまでにハードルが立ちはだかる。
実は私、25日にもショッピングセンターのATMに立ち寄ったのだが、うっかり次男に仕送りし忘れてしまったのだ。
25日とか26日は給料日の会社が多いし、月末だから仕送りとか振込とか多い時期である。それに加えて連休が控えている。
だけどATMの貼り紙を見たら連休中もATMは毎日稼働している。
ということはあの行列は休日手数料節約のため?それともお出かけのための軍資金引き出し?

・長男が大学に進学した後に仕送りしていた時、いつもコンビニで引き出すので、引き出すたびに手数料が取られていた。
それも1回で全部引き出すのではなくて、ちょこちょこ出金するので余計に手数料が割高な計算になる。こんな低金利時代にこんな割高の手数料・・
それを長男に言ったら、「手数料の分だけコンビニで買う物を減らしているから同じ」という返事が返ってきた。そんなの絶対うそだー
ということで、次男が大学に進学する前にはしっかり説明をし、さらにいつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないというサービスがある銀行に口座を開いた。次男も「うん分かった」と手数料の割高さを理解してくれたようだった。
ところが彼もまたほとんどをコンビニで出金するようで手数料を取られている・・・。

・いつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないからよいのではと思った方もいるでしょうが、そのサービスがある銀行は都市銀行です。
地方には地方銀行はあちこちにあるのですが、都市銀行は店舗もATMもそうそうない。
つまり入金する私が入金しづらい銀行ということになります。
だから入金は郵便局の口座にしている。(次男の通帳を私が持っていて、その通帳で入金し、カードを次男が持っており、そのカードで出金する)
次男には、全部一気に下ろして使い込んじゃうのとか紛失とか盗難とかが不安ならば自分で都市銀行の方に移しなさいと言ったのだが、それをしていないのだった・・・。

・それならばネット銀行では?とお思いですか?
でも結局他行宛に振込するとなると手数料は500円くらいかかりますよね?
自分もネット銀行に口座開設すれば無料かな?

・私はかつてネットショップを開いていたりしたことがあったので、実はイーバンクに口座開設したことがある。ただその当時はまだカードもない時代で、そこまで便利なものでもお得なものでもなく、それほど使われなかったから、私もほとんど利用しなかったと思う。
その口座を閉鎖した覚えもないけれど、口座番号とかも全然残っていない。

・群馬県の北部の国道17号線沿いに永井食堂という「もつ煮定食」で有名なお店があり、お昼前後ならばいつ通っても行列が出来ている。
昔からある食堂でかつてはトラックの運転手さんとか地元の人がたまに立ち寄るくらいな普通の食堂だったけれど、ある頃から頻繁にテレビで紹介されるようになったみたいで、それからは平日でも行列の出来るお店になった。(私は一度もテレビで放送されたのは見たことはないが)
いつから紹介され出したのかはよく分からないが、数年前はそんなに混んでいたことはなかったと思う。
今では混んでいる日は駐車場に誘導員が2~3人出ている時もある。
片側1車線の国道沿いにあり、駐車場に入れない車があると、国道が渋滞になってしまったり(一頃はあの辺が混んでいるとまた永井食堂渋滞かと思った時もあるくらい)、事故を誘発してしまいなかなか危険。現に出入り口で事故っていた車があって警察が来ている時もあった。
あと、駐車場に入りたいけれど入れなかった車がすぐ前を走ってたことがあって、その車、お店を通り過ぎしばらく走ったところで急ブレーキをかけて急に右折した。右側にUターンできそうなスペースを見つけたからだと思うけど、後ろを普通に走っていた私はひとつ間違えば衝突してもおかしくないような急激さで怖い思いをした。
その永井食堂、飲食店というお客様相手のサービス業で、ビジネス街にあるわけではなく、しかも今では昼時にはトラックは止まれないような状態でほぼ観光客相手の商売となっているが、日曜日と祝日は休業日という強気な営業方針である。GWも休業らしいのだけれど今年は10連休なのかな。






# by yumimi61 | 2019-04-28 11:10

桜花

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若者は春を謳歌し、青春を謳歌する。

少年少女は学生生活を謳歌し、惰眠を謳歌する。

青年は休日を謳歌し、独身を謳歌する。

ロートルは第二の人生を謳歌し、余生を謳歌する。

公衆は国歌を謳歌し、勝利を謳歌する。

番人は軍歌を謳歌し、一寸の宴を謳歌する。

万人は生命を謳歌し、人生を謳歌する。

建前は自由を謳歌し、平和を謳歌する。

そして

世は名門を謳歌し、世は富豪を謳歌する。 



色を付けた最後の一文は、夏目漱石『野分』より。


写真は2017年4月20日に撮ったものをレタッチしました。
山は武尊山です。






# by yumimi61 | 2019-04-26 23:29

真実

先日載せた写真をレタッチしてみた。

■スマホカメラで撮影した写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違いで、下段の写真がレタッチしたもの。
レタッチと言っても、 iPhoneに標準搭載されている画像管理アプリ「写真」の編集でライトを調整しただけの簡単レタッチ。
山肌の陰影がはっきりとしたが、少し空が青すぎる。
空の写真でも山の写真でも風景の写真でも「青い空」をよく見かけると思う。
もっと青かったり、もっとクリアだったりする写真も少なくないが、みなレタッチして作り出した写真だろう。自然の空はそんなに青くはない。

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■一番レフカメラで撮った写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違い。
下段の写真はアート風にレタッチしたもの。
風景でも肖像でも実物そっくりに、あるいはまるで写真かのように精巧に描ける人もいるが、レタッチで簡単にそうした作品を作り出すことも可能である。
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随分奇妙なものを信じてません?僕たち。お金ってなんなんだろう。
というCMがあるが、真実ってなんなんだろう。
真実を写すと書く「写真」だけれども、随分奇妙なものを私達は信じていませんか? 写真って、真実って、人間って、なんなのだろう。
そもそも真実を必要としているんだろうか。
していないからこそ、修正したり合成したりしまくるのではないのか。
それを考えれば、お金が誰のものかなんて証明する必要もない。真実など必要ないのだから誰のものでも良いということになる。
ゴールドが紙幣になって信用取引に変わった時、お金はすでにその「存在」を失っている。
この世に存在せず、マイナスから生まれてくる価値がお金(紙幣)である。
マイナスして発行したのは中央銀行。
紙幣には名前が書いていないと言うけれど、ちゃんと「日本銀行券」と記名してある。紙幣は日本銀行の所有物である。
レンタルしているものに自分の名前書きませんよね?記名しないのは当たり前な話。
紙幣のマイナスは帳簿上埋めていく必要がある。
マイナスをプラスで埋めたら、プラスマイナスゼロである。結局紙幣はマイナスに吸収されてしまうことになるので、紙幣による人々の豊かな生活というのは見かけ倒しに過ぎない。
では何が人々を豊かにしてきたのかと言うと、最初からプラスな存在である資源や人間の英知。
つまりそれらを現物として持ち利用すれば、紙幣など持たずとも豊かな生活を送れるはず。但し便利を覚えた人間は、豊かさの定義がそもそも変わってしまっていて、不便が即不幸に繋がっていて豊かさは感じにくいのかもしれない。
以前帳簿上プラスマイナスゼロになっても、管理如何によっては現物は消えないという話を書いたことがあった。
完全キャッシュレスにすれば、帳簿上プラスマイナスゼロになったのに現物が活きているという状態は不可能となるかもしれない。






# by yumimi61 | 2019-04-25 18:22

老幼

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# by yumimi61 | 2019-04-23 19:23

耕起と不耕起

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↑の写真:2017年4月17日に一眼レフカメラで撮影(レタッチなし)
↓の写真:2019年4月19日にスマホカメラで撮影(レタッチなし)

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白い山は谷川岳。雪の感じはほぼ同じ。
手前の木の花はコブシ。2年前のほうが若干開花が遅かったか。



忽然と消えた野菜苗

家庭菜園をやっているガーデナーはGWを利用して夏野菜の植え付けを行うことが多い。従って園芸店もGWは大繁盛期。

私の実家にも家庭菜園を行う畑がある。
家庭菜園としては結構な広さがあるので、全面を鍬で耕すのは大変なため、手押し耕耘機がある。
父が管理していた時、秋の収穫が終わって本格的な冬が来る前と、じゃがいもの植え付け前の3月頃に手押し耕耘機を掛けていた。
息子達が使えた時は彼らにやらせていたし、体調がしんどくなった晩年には私が呼びつけられ私が代行していた。

2017年1月末に父が亡くなり、その後は私が管理しているが、2017年の春先に耕耘機をかけて(姪っ子にかけさせて)野菜を作った。
しかしその年の晩秋に私が耕耘機をかけようと思ったら、うんともすんともエンジンがかからかった。手入れもしていないし春もやっとかかったくらいな感じだったので限界なんだろうなあと思って諦め、そのまま冬を越した。(ガソリンはちゃんと入れました!)

2018年春、再び耕耘機のエンジンかけにチャレンジしてみたがやっぱり駄目だったので、作付をする所だけ鍬で耕して畝にした。
しかしこの春に植えた苗の幾つかに異変が・・・・
植えて数日後に見ると、なんと忽然と苗が跡形もなく消えてしまっているのである。

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↑昨年のGWに撮った写真



最初に見つけた時は呆然と立ち尽くして、何が起こったのか考えられなかった。

風や虫の食害で根元付近で折れたということならば、枯れたとしても植物が残っているはずである。でも何もない。
GWに植えた夏野菜の苗には寒さや乾燥や風よけなどのために囲いをしているので、外からの被害というのは考えにくい。
人間が上から引っこ抜いたか、土の中から、ということになる。
開いていた穴を見る限り、人間が引っこ抜いたようには見えない。
となれば、犯人は土の中からやってきた。

小さな盛土があったのでまずモグラがいるのかもしれないと思った。
しかしモグラはミミズや虫の幼虫を食べる肉食動物で植物は好き好んで食べない。
モグラが植物の根の近くにトンネルを掘って、結果植物が浮き上がってしまい元気がなくなったり枯れてしまうことはあるが、植物自体を狙っているわけではない。

だとするとハタネズミなどのネズミである。
ネズミはモグラの掘った穴とトンネルを利用して移動することがあるという。
また自分で穴を掘るネズミもいるとのこと。
ネズミは植物を食べる。根菜が好きだが、苗もネズミの仕業だったんだろう。
つまり植えた苗はネズミに下からトンネル内に引きずり込まれたということになる。

モグラ被害もネズミ被害も父から聞いたことはなかったし、私も経験がなかった。
そこではっとした。そうか、耕起しなかったからだ。

植えて間もない苗の段階で消えたのが幾つかあったり、植物が浮いてダメになったり、ジャガイモやサツマイモはガリガリと食べられていたのが結構あった。


有機栽培

<有機栽培(有機農業)の定義>
「有機農業の推進に関する法律」(平成 18 年法律第 112 号)の第二条において、有機農業は次のように定義される;「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業」。

農林水産省の「有機農産物の日本農林規格」では、有機農業で生産された農産物(有機農産物)は次のように定義されている。

有機農産物
1.有機農産物:農薬と化学肥料を3年以上使用しない田畑で、栽培したもの。
2.転換期中有機農産物:同6ヶ月以上、栽培したもの

特別栽培農産物
農産物が生産された地域の慣行レベルに比べて、節減対象農薬の使用回数が50%以下、化学肥料の窒素成分量が50%以下

有機JAS規格では有機農産物を「生産から消費までの過程を通じて化学肥料・農薬等の合成化学物質や生物薬剤、放射性物質、遺伝子組換え種子及び生産物等をまったく使用せず、その地域の資源をできるだけ活用し、自然が本来有する生産力を尊重した方法で生産されたもの」と定めている。


注意1)農薬を使わないことになっているが、この農薬とは「化学的に合成された農薬」であり、天然原料による農薬は使用可能である。

注意2)有機JAS制度での表示規制(認可)は商品に対するもので、広告などに「有機栽培を行っています」と記すことに対しては特別な許可は必要ない。但し虚偽の広告というのは虚偽が発覚すれば当然問題になる。(それでも虚偽がないというわけでもないらしいけれど)


農作物栽培における有機とは何かということを簡単に言えば堆肥である。
「堆肥」は微生物の力で有機物を完全に分解した物で原料は様々。
家畜の糞、生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草など。
これら有機物をよく分解・発酵させたものを完熟堆肥という。
有用菌の多い堆肥には土壌病害虫抑止力があると言われ、有用菌重視で言えば完熟堆肥の一歩手前くらいが良いらしい。
但しあまり未熟な堆肥(分解しきれていない有機物)を入れ込んだ畑で栽培すると窒素が不足したり、植物の根を傷めたり、雑草の種などを広げてしまう結果になる。
園芸店などに販売されている堆肥は完熟堆肥と書かれている。

ミミズは有機物の分解に一役買う。
よく「ミミズがいる土は良い土」などと言うことがあるが、ミミズがいる土はまだ完熟化していない未熟な有機物が沢山存在しているということになり、それを良い土と言うかどうかは微妙なところである。

実家の家庭菜園の一角には堆肥を作る場所があり、そこに生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草などを入れる。
そこにはおそらくミミズも住みついているはずだ。
本格的な堆肥づくりはしていないが、それでもまあ一定期間経てば自然に再び土になる。
その土(堆肥)を早春に畑に入れ込む。
父はその場所以外は耕耘機を晩秋と春先に掛けており、且つ通路などは定期的に除草剤を使って綺麗にしており、茎葉などは燃やしたりもしていたので、堆肥づくりコーナーに入れる有機物もそこそこの量だった。
且つ化学肥料も使っていたし、農薬も必要な時は使っていた。
周囲の家庭菜園でも完全無農薬や無化学肥料でやるということはあまりない。
それくらい無農薬や無化学肥料というのは場所あるいはお金、手間暇がかかり難しいことである。


(私はほぼ無農薬。化学肥料は最小限使った。除草剤は定期的に使わざるを得ない、でも雑草除けシートなども利用した)
私が管理するようになってから、雑草とか茎葉の処理とかいろいろと追いつかずに、あっちにもこっちにも有機物の山を作った。いずれ堆肥にする予定で。
つまりあっちにもこっちにもミミズが集まることになる。
そうするとそのミミズを目当てにモグラもやってくる。
その挙句、耕耘機をかけないのだから、巣が破壊されることもない。
このようにして昨年の夏~秋の野菜はモグラネズミ被害にあった。


不耕起栽培

1943年、アメリカ人のエドワード・フォークナーは『農夫の愚行』(Plowman's Folly)を著した。その中で、慣例的に農業において基本的な行為と長く考えられてきた耕起は土壌を破壊するだけで何の益もない行為であり、有機物を表土に混ぜ込むだけで肥沃な土壌は維持できると主張した。
また、ランド研究所のウェス・ジャクソンは、土を耕すことは生態学的な災厄であると主張し、耕起を基礎とした農業は持続可能性が証明されていないことを指摘した。

こうした研究や除草剤耐性遺伝子組み換え作物の開発や有機農法の手法の確立とともに、完全な不耕起栽培や、保全耕転と呼ばれる土壌の表面のうち少なくとも30パーセントを作物の残渣で覆っておく緩やかな手法が北米の農家の間で急速に広まっている。1960年代には北米の耕地のほとんどは耕起されていたがカナダでは1991年には33パーセント、2001年には60パーセントの農場が不耕起栽培もしくは保全耕転を採用している。アメリカでは2004年に保全耕転が全農地の41パーセント、不耕起栽培が23パーセントで実施されている。しかし、地球全体の農地のうち不耕起栽培が行われているのは5パーセントほどに過ぎない。

<メリット>
・耕さないことによる省力化が可能である。
・土中に根穴構造が残り、根圏が酸化的に残る。畑では排水性も保水性もよくなり、干ばつにも長雨にも強くなる[要出典]。
・未耕起の土を根が突破り、稲に生じる植物ホルモン的な作用が活力高い太い根を作り、茎を太くする[要出典]。
・前作の作物残渣を地表に放置できることになり、その結果、それらが土壌のマルチとなって風雨による土壌流出を緩和できる。

米国でより広く使われるようになってきており、2010年には米国の60パーセントの農地が不耕起栽培になると予想されている。 海外の畑作での不耕起栽培と日本の無農薬稲作・畑作における不耕起栽培を混同されやすいが、仕組みは全く異なる。


近年は日本でも不耕起栽培のメリットが語られることがある。
私も10年以上前に小さな貸農園で不耕起栽培(雑草すら抜かずに根元で刈りとる)を行ってみたことがあるが、耕さないからといって育たないわけではなかった。だけどなにぜ小さな貸農園では耕さず雑草を抜かないことに対して肩身が狭かった。
では自分ちの大き目な家庭菜園ならば良いのかと言えばそうでもない。周囲がある限り雑草などはやっぱり気にかかる。
そもそも広ければ広いほど夏の雑草の勢いには手が付けられなくなること必至。

作物の栽培自体には問題なく、土壌生物は豊かになり、しかも省エネルギー。
裏山とか林の中の土などは耕起なんかしなくても土はフカフカである。
地に落ちた有機物が地表で自然と堆肥になり土に混じりこんでいくからである。

不耕起で一番の問題となるのは雑草である。
農家の人が大型トラクターで行う定期的な耕起は雑草が生えるのを防止する役割も果たしているのだ。
アメリカの不耕起栽培は除草剤と除草剤耐性作物によって可能となっている。つまり無農薬(無除草剤)での不耕起栽培ではないということ。

災害予防の面からみても、不耕起が悪いという話はあまり聞かない。
落葉樹が沢山生えている山ほど保水力があって、水や土がだだ流れするのを防いでいる。
有機物の少ない針葉樹の森林や人が下手に開発した場合などには水や土がそのまま流れ落ちてしまいやすく、災害に繋がりやすい。
河川敷の土手を踏み固めると水害が予防できるというようなことが言われているが、同じ不耕起でも踏み固めるということは透水性や通気性などが悪くなってしまうので、むしろ害になりやすい。






# by yumimi61 | 2019-04-22 17:06

R17&L15

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さっきお散歩に行った時に撮った写真。
4月15日に17歳になりました。
前足の付け根に脂肪の塊があるので、それを撮ったつもりで、写真見てもちょっとそれっぽく写っているけれど、脂肪があるのは右側なので反対でした。

↓の写真が右足のほうだけれど、今度はリードで隠れていますね。

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17歳と15歳


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↓の写真は昨年の12月30日の夜に撮った写真。

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# by yumimi61 | 2019-04-21 16:03

限界暗期

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陽光は軽やかに煌めき

風はゆるんだ春の匂いを纏う

失意のどん底にいたとしても眩しく

浮かれていても燦然と輝く

世界の始まりにはきっと春があった

花にも葉にもほどけ披く時があり

老木にも若木にも春はやってくる

世界の始まりには衰退がある





・春分3月21日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒夜時間が少しずつ減少していき、昼>夜

・夏至6月21日頃 昼(日の出~日没)が一番長い

 ⇒昼時間が少しずつ減少していくが、まだ昼>夜
   短日植物が花成誘導を受ける(且つ適度に気温が下がり開花する)

・秋分9月23日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒昼時間が少しずつ減少していき、昼<夜となる

・冬至12月22日頃 夜(日没~日の出)が一番長い

 ⇒夜時間が少しずつ減少していくが、まだ昼<夜
   長日植物が花成誘導を受ける(且つ一定期間低温に晒された後に開花する)



短日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より長くなると花芽が形成される植物のこと。 
言うなれば暗いのが好きな植物で、昼時間の減少(夜時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。

長日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より短くなると花芽が形成される植物のこと。
言うなれば明るいのが好きな植物で、夜時間の減少(昼時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。


2つのものの減少と増加は背中合わせの関係にあるので、「昼時間の減少」は言い換えれば「夜時間の増加」ということになるし、「夜時間の減少」は「昼時間の増加」ということになる。
「減少」に焦点を当てるか「増加」に焦点を当てるかは人それぞれだと思うけれど、ただ花成誘導を受けるのは主に春分や秋分の前、つまり前半部分の増加、一番少ないところからの増加ということになる。減少で言うならば、前半部分の減少、一番多いところからの減少を感じ取る。
1日の時間が決まっている以上、昼と夜の一番少ない時期と一番多い時期はセットであり、昼が一番少なくて夜は中くらいの長さ、というようなことはありえない。





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# by yumimi61 | 2019-04-18 16:47

36!

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今日はディズニーランドのオープン記念日

開園は1983年4月15日
私が初めて訪れたのは家族とではなく友達とだった。

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おめでとう~


写真に写る少年は3歳8ヶ月の息子(長男)

長男の友達(男子)はディズニー好きが高じてディズニーランドでアルバイトをしていたとか。
そういう私も高校時代にはディズニーランドのパレードのお姉さん(そういう職種があるかどうか分からなかったが)になろうと思ったことがあった。
ところが当時ディズニーランドの現役ダンサーと知り合う機会があり、その人にすご~く厳しくて大変だととくと聞かされ、私には無理そうだなぁと思って諦めた。
(前にも書いたかもしれないが、その後鴨川シ―ワールドのシャチショーのお姉さんになろうと思ったこともあった。シャチショーのお姉さんというのはトレーナーのことです)
歌のお姉さん?・・・にはなろうと思ったことはありません(きっぱり)。






# by yumimi61 | 2019-04-15 17:29

🌷


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・4月も2週間が経過しましたが、新生活を始めた皆さんいかがお過ごしでしょうか。やっと土日ーみたいな感じでしょうか。

・ちなみに最近はあえて土曜日や日曜日に入学式を行う学校があるそうです。卒業式もですが。

・「五月病」(新人社員や新入生や社会人などに見られる新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の俗称。医学的には、適応障害、うつ病、パニック障害、不眠症など)というのは新生活を始めた人に多いのですが、GWの連休が1つのきっかけになります。
最近は休みをくっつけて連休にする傾向が強いですが、それでもGWに10連休というのは大企業など一部の人だけで、特に学生はカレンダーどおりということが一般的でしたが、今年は学生が10連休になるということで五月病や不登校なども例年になく心配になります。
夏休み明けに子供の自殺が多いというのは最近よく語られていますが、それも結局、長期休みが1つの引き金になっているということです。
夏休みほどの長さはないけれど、まだ新生活1ヶ月という時期にハイな感じの10連休は要注意だと思います。
また5月をなんとか乗り越えたとしても、祭日がなく、どんよりとした日が続く梅雨に突入していく6月も注意が必要です。そして学生ならば7月には夏休みを迎えるということになるので、新生活半年はリスクが高い時期になります。

・コンビニの24時間営業が問題視されている中、’急に薬が必要になった時に夜間でも開いているから安心’みたいなドラッグストア「ウェルシア」のCMがなかなか攻めていると思った。

・CMと言えば、最近見て衝撃を受けたCMがある。
「ダイナムで働く私は街で時々声を掛けられることがある」とナレーションとともに可愛らしい若い女性がスーパーでお買い物をしている。
するとスーパーで働くおばさんがその女性に「今日は私はいらっしゃいませね」と笑顔で話しかける。
いつも’いらっしゃいませ’と言っていて、街で時々声を掛けられる仕事ってなんだろうと思って見ていたら、なんと!ダイナムというのはパチンコ店でした。
パチンコ店ってこんな和やかな感じの人間関係を築ける職場なのか・・・。
今のパチンコ店は私の持つイメージとは違うのかもしれないなあ。

・そろそろ冬タイヤを履き替えようと思い、4月8日にタイヤ屋さんに電話したらその日と次の日が棚卸で休業日だったので、別のタイヤ屋さんに電話した。
すると予約ではなくて受け付け順で、今の時期は開店と同時に5人くらい待っているから、どれくらい時間がかかるとは言えないと言われ挫折し、とりあえず諦めたところ4月10日に結構な雪が降った(吹雪みたいな時間があった)。何が幸いするか分からない。

・先日いつも犬のトリミングをしているお店に予約の電話をしたら「一番早くて7月8日です」と言われた・・。
7月8日・・・今は4月・・・3ヶ月も先・・・
年末に混むのは知っていたけれど、この時期もこんなに混んでいたかしら。すでにサマーカット需要!?




# by yumimi61 | 2019-04-14 11:17

思慮

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# by yumimi61 | 2019-04-13 10:32

春雪

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あの頃の私はそんなことさえ知らなかったんだ
ごめんね、あなたをなきものにして
今はさ、存在しないものをあたかも存在していたかのように見せること
いとも簡単なことらしいんだ
境目も跡形もなく誰かを生みだし
誰かが残したささやかな足跡さえ消し去る
何事もなかったように

儚さは春のお家芸だから
別に悲しくもないし驚きもしない
むしろ、やがてくる人の夢という図太さに
目の前は真っ白になるはずだから

胸の底に静かに沈む小さな意思や趣意は総浚い
大きな船を浮かべるための深い窪みが
渡しに必要かだなんてもう分かりっこないよ
だってもうあそこにもそこにも渡しなんかないのだから




ちひさな群への挨拶  吉本隆明

あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬は背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むかうへでてゆくために
ぼくはちひさな微温をたちきる
をはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくががいろへほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまふ
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させたいために
冬は女たちをとおざける
ぼくは何処までゆかうとも
第四級の風てん病院をでられない
ちひさなやさしい群よ
昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ
冬は二つの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにする
こわれやすい神経をもつたぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあひだにぼくは立去らう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだから
ちひさなやさしい群よ
苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるとき
ぼくは何をしたらう
ぼくの脳髄はおもたく ぼくの方は疲れてゐるから
記憶といふ記憶はうつちやらなくてはいけない
みんなのやさしさといつしょに

ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むかうへ
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむかうかはに加担しても
ぼくたちがしはらつたものを
ずつと以前のぶんまでとりかへすために
すでにいらんくなつたものはそれを思ひしらせるために
ちひさなやさしい群よ
みんなは思ひ出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇ふために
ぼくはでてゆく
無数の敵のだまん中へ
ぼくはつかれてゐる
がぼくの瞋りは無尽蔵だ

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす

だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら


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ハナモモが鮮やかに咲いていた




一九五二年五月の悲歌  吉本隆明
 
崩れかかつたあつちこちの窓わくから
薄あをい空を視ている
円けいの荷重をかんじてゐる むすうの
にんげんの眼
信ずることにおいて過剰でありすぎたのか
ぼくの眼に訣別がくる
にんげんの秩序と愛への むすうの
訣別がくる

銃口は発しやするな
壁や踏みあらされた稗畑を破かいするな
その引金に手をかけるものが秩序であるとき
ぼくはなほちひさな歌をうたへる
ぼくはなほ悲歌をささげることができる

ぼくのゆいつであつた愛や
ぼくをそだててくれた秩序と狡智にむかつて
そうして太陽は五月のあひだを
火焔をつれてめぐり
そのしたで無数の窓のなかのぼくの窓が
黒布をたれてぼくの悲しみを証してゐる

訣別はどこにはじまつたのか
どこにかたちをあらはしたのか
そのとき五月の空は鮮やかに ビルデイングのうへで
血と蒙塵と湿つた風とを噴きあげ ぼくは
みづからに赦さうとした愛の惰性を憎んだ

萠えでる五月の街路樹よ
陰えいを匂ひでわける微かな風よ
屈折したペイヴメントのうへでぼくの予感が視る
箱詰めにあつたぼくの死とぼくの生とを
埋もれてゆくにんげんとにんげんの苦悩とを
生きのこるもおのとその寂しげな象徴とを
もしぼくたちが機械のひとつであると自分を考へうれば
ぼくたちの文明はしごく平安なのだ
銀行の扉がひらき 有価証券の額面が四散する
フィナンツカピタリズムの再生と膨脹
ぼくにあたえられたふたつの眼
たしかに視るべきものを視てゐる

重荷がぼくたちの肩から 未来の肩にうつされる
そのときのぼくたちの安堵を憎む
鉄鎖のなかにきた五月よ
ちがつた方向から志津かな風をよこしてゐる五月よ
ぼくは強ひられた路上に ぼくの影があゆむのを知つてゐる

星のうた 落下のうた 夕べの風のうた
ぼくはぼくの仲間たちに何を告げよう
かれらのゆく路にかれらの草が騒いでゐる
希望をとりかへにぼくをおとづれようとするな
いつもある者は死にあるものは生きてゐる
つまりいつさいの狡智の繁栄するところで
さびしげなことをしようとするな

鉄鎖につながれた五月よ
おもたい積載量をのせてめぐつてきた地球のうへの季節よ
草と蟲と花々のうへに
陽が照り 影が転移する
ぼくはむすうの訣別をそのうへに流す


※枠内の詩は『転位のための十篇』 吉本隆明 1953年(戦後8年目の昭和28年)より




# by yumimi61 | 2019-04-11 23:11

渡し

佃渡しで 吉本隆明

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉
水は𪐷*くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてとりに行った
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘には云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる



𪐷* ’くろ’と読む。黒味を帯びた黒、真っ黒という意味らしい。吉本の作った個人文字らしいが、詩が教科書に掲載されたことでJISコードなどに採用された。黝’くろ’(青みを帯びた黒)を意識した字ではないかと思われる。


佃渡しとは

佃渡しとは隅田川に存在した渡し(場・船)のこと。

徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
現在では東京都北区志茂にある日本化薬東京工場と、対岸の足立区新田にある日本化薬東京を結ぶ従業員専用の渡船のみが存在する。


佃の渡しは隅田川でも海に近い下流(河口)にあった。

現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちと湊町(湊)とを結ぶ私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。
明治期に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると従業員のための重要な交通機関として発展し、明治9年の運賃記録によると1人5厘の料金だったようである。1883年(明治16年)には定期船の運行が開始、1926年(大正15年)に運営が東京市に移管された。翌昭和2年3月には無料の曳船渡船となった。一日に70往復という賑わった渡しであったが、1964年(昭和39年)8月27日、佃大橋(約800メートル)架橋に伴い廃された。
架橋後は造船所を中心に更に大きく賑わい、混雑した。



隅田川の河口部にはもともと島が存在していた。その島は江戸時代に石川島と呼ばれるようになる。
徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名した。
江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。徳川家康が命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。


佃は佃煮の発祥の地である。
佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれる。 

明治時代に佃島の南を拡張し、造船所が作られた。
現在の佃大橋の東側の部分である。
そんな佃だが1980年代後半からは「大川端リバーシティ21」が整備され、東京都心に至近の高級タワーマンション街の先駆けとなった。
佃大橋の西側部分も明治時代に埋め立てられ、富国強兵の国策に伴い重工業地帯とされ、造船所に関連する鉄工所や機械工場が多数造られた。これが月島である。
吉本隆明は月島の出身であるが、実家は熊本県から転居してきた船大工だったという。
月島の反対岸は聖路加国際病院などがある所。

東京の中心部にあり、造船所や鉄工所など軍事産業を抱え、さらに家屋も密集していながら、佃と月島一帯は戦時中の東京大空襲の被害を受けなかった。
運河が延焼を食い止めたと言われることもあるが、延焼被害でなくとも狙われたら被害がでるだろう。要するにその地はターゲットにならなかった。それはアメリカ公使館や居住地が聖路加国際病院近くにあったからだとも言われる。


作者の娘

上に載せた詩はまだ佃渡しが存在していた時代ということになる。
詩は橋が出来る直前頃に書かれた(あるいはその頃の出来事)のようだ。
作者の吉本隆明は1924年生まれなので、子供時代は戦前であり、思春期~青年期が戦争真っ只中にあったという世代で、佃大橋が架かった1964年には40歳だった。
2人の娘がいて、1957年と1964年生まれらしいので、詩の中の娘は長女ということになりそうだ。

佃大橋が架かった1964年に生まれた次女は、1987年に『キッチン』で鮮烈デビューして「ばなな現象」と呼ばれるブームまで起こした作家のよしもとばななさんである。『キッチン』の他、『TUGUMI』『アムリタ』などの代表作がある。


解説求む

作者が思想家であったという先入観が邪魔するのか、思想家ゆえの難解さや拘りなのか、分かりそうで分からないなかなかに難しい詩であると思う。

まず〈 〉の使い方に躓く。
娘がいった、という後に続く〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉は話し言葉(会話文)のように思う。
しかしその直後の会話文ともとれる部分に〈 〉は付いていない。
さらに〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉が会話文だとも思えない。
そもそも詩であるならば会話文にカッコを付けなくても成立させることは出来る。
意味なく〈 〉を付けたとも思えないが、そこにどんな意味を持たせているのだろう。
誰か分かる方いらっしゃいますか?


紡ぐと噤む

私は、’娘に聴こえぬ’の前の部分を娘との会話だったと考えている。
娘と会話したけれど幼い娘には届かなかった言葉があった。
「そんなことはない、みてみな。繋がれた河蒸気のとものところに芥がたまって揺れてるのがみえるだろう。 ずっと昔からそうだった」
「あれは鳶だろう。むかしもそれはいた。流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)をついばむためにかもめの仲間で舞っていた」
届かないというのは分かりようもないことであったり、理解を得たり共通認識を持つことが不可能であること。

娘は風景を見て感じたことや興味を持ったことがあった。
作者は娘の興味や関心に応えてあげたかったが、残念ながら娘と意思疎通することはできなかった。
だから言葉に出すことを諦めて自分の胸の中で言うことにした。

3連目は、作者の方から娘に話しかけたこと。
「あれが住吉神社だ。佃祭りをやるところだ。あれが小学校、ちいさいだろう」
しかし娘からはこれといった返答がなかったのではないだろうか。
だからそれ以上は口を噤んだ。⇒これからさきは娘には云えぬ

男の女の間には暗くて深い川があると言われるが、哀しいかな、父と娘、世代の違う大人と子供の間にもまた、暗い黒い川がある。

2人の間に無言の時間が流れる。
それは一方、無言が許容されるほど打ち解けた関係とも言える。
言葉にはならないありふれた愛情。

作者は、2人を分かつ川と、その川にかかる愛情に、嵌りこんでしまった。
また作者の人生を2つに分けたのが戦争だった。
消失してしまったものと、消失しなかったもの。
消失していくだろうものと、消失しないであろうもの。
その間を行き来しつつ、抜け出したいと思いながら、抜け出せないでもいる。


~掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪み~

手を繋いだ娘への愛情、拳を握り締めるほどの怒りの感情、勉学と精神活動、生きるか死ぬか、肉体的死と精神的死。

大きく見えたものが小さくなった。自分の成長であったり立身出世によって小さく見えることもあれば、認識やそれによる失望によって小さく見えることもあるだろう。

知らないで、分からないでいることの、幸福。
知ることの、分かることの、分かち合うことの、幸福。





# by yumimi61 | 2019-04-09 14:23

記念歌

新元号にちなんだ歌(選由)

新時代生きる私に痕疼き  2019年4月生まれの詠み人知らず  

出る杭は生まれた途端叩かれる  2019年4月生まれの詠み人知らず

マイノリティーいつの時代も等閑視  2019年4月生まれの詠み人知らず

赤をみりゃ召集令状思ひ出づ  詠み人知らず(昭和生まれ)

天平の継続年は知らねども  詠み人知らず(群馬県・長野県・新潟県あたりの昭和生まれ)

例の物持ってきてとはもう言えぬ  詠み人知らず(昭和前半生まれ)

十連休年間有給ほぼ消化  詠み人知らず(非正規社員)

十連休飲まず食わずのサバイバル  詠み人知らず(サービス業従事者・日雇い労働者・恐妻を持つ夫などなど)


今日は日産の臨時株主総会か。
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景気づけ土産はデイズ!!とはならん  詠み人知らず(日産の某従業員・某株主)


ゆとりより集塊世代似合わしい  詠み人知らず(昭和世代から平成世代へ)

ウチらまじ卍西暦のみで構わない  詠み人知らず(平成世代から昭和世代への返歌)

彼女らが古い世代になるなんて  詠み人知らず(昭和生まれ)

あたしらはもう歳だから気にしない  詠み人知らず(平成生まれ20歳)


深刻な社会分断無二の国  詠み人知らず(外国人記者)

111(←スロットと読みます)の依存心配避けるべし  詠み人知らず(カジノ反対一市民)

甘かった更なる脅威(11111)待ちうける  詠み人知らず(通称きょういち)

五輪年(2020)元号でも二これ如何に  詠み人知らず(JOCの某関係者)



e0126350_20500890.jpg1926年12月25日~1989年1月7日 昭和 Showa S1~S64
1989年1月8日~2019年4月30日 平成  Heisei H1~H31
2019年5月1日~        令和 Reiwa?Leiwa?(→Reiwaだそうです)





# by yumimi61 | 2019-04-08 15:34 | 新元号「令和」の典拠

蘭とはなにか

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

時はめでたい年の初めであるからして、場の空気は優雅にて和やか。
梅は鏡の前の白粉を開き、蘭は珮(腰に付ける装飾品)の辺りから香を発している。

★さらに⇒<解説と砕いた訳>
時はお正月のおめでたい席である。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。しかし年初のおめでたい席の空気は優雅にて和やかであるべきで、目くじら立てるのも大人げないから我慢している。
だけどここには情緒が無さすぎるとも思っていて・・・


歌の花と野暮

「蘭」は香りを必要としないものの比喩となっている。
『万葉集』は植物図鑑ではないので、その種類(所属や種名)を同定する必要など本来はない。
ひとつ間違えば、人情の機微に通じない野暮な行為とされてしまいかねない。
大事なのは歌に詠み込まれた情であり植物の名ではないのだから。

しかしながら、詠われた植物がどんな植物か分からないと、どのような意味が込められているのか理解しがたいというのもまた事実である。
これは植物に限らない。言葉にして言うまでもなく当たりまえのことであるが、知っている人と知らない人の理解の差は大きい。
この知っている知らないという差は、一般的な知識や経験の他にも、個人的な背景や事情であることもあるし、その時代やその場所に特有な事柄であることもある。
その意味において、言葉少ない短い歌から作者の込めた意味(思い)を、間違いや漏れなく汲み取ることはなかなか難しいことだと思う。
短ければ短いほど無駄な言葉は使っていないはずであるから、とはいっても音数を合わるために意味ない語を入れることもあるが、基本的には無視してよい語はないと思って臨むべきだと思う。


そこで今日はあえて「蘭」について記す

上の文章に使われている「蘭」は一般的に2つの解釈があるようだ。

①フジバカマ(藤袴)
②シュンラン(春蘭)

①フジバカマ(藤袴)Eupatorium japonicum
キク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。
本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける
また、生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。

Eupatorium fortunei

Wikiの説明には、万葉の昔から日本人に親しまれてきたと書いてあるが、『万葉集』に藤袴(フジバカマ)が出てくる歌は1つだけである。
「秋の七草」はこの歌にちなんで後世でつくられたもの。
秋の花なので通常では初春を詠った歌には使われないし、咲いた花から香りが漂ってくるということもない。

万葉集1537:秋の野に咲きたる花を指折り数ふれば七種の花(山上憶良)

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)
萩(はぎ)の花 尾花葛花(おばなくずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなへし)また 藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお)の花
→秋の七草:ハギ、キキョウ、クズ、フジバカマ、オミナエシ、オバナ、ナデシコ


②シュンラン(春蘭) Cymbidium goeringii
単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。
名称の由来は「春蘭」で春に咲くことから。花は3-4月に咲く。
日本各地によく見られる野生蘭の一種である。山草や東洋ランとして観賞用に栽培されることも多い。国外では中国にも分布する。
古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる。
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中国春蘭(別称:一茎一花)
中国のよく似たものを中国春蘭と言い、古典園芸植物としてはむしろこちらが先輩格である。
日本産のシュンランと同種とされるが、分類上はシナシュンラン (Cymbidium forrestii Rolfe)の名で別種としたこともある。地生ランであり、春に花茎を伸ばし、その先端に一輪の花を咲かせる。花の形もシュンランに共通するが、香りはより強い。葉も日本のシュンランよりやや滑らかな感じの場合が多い。
古来から中国ではランを高貴な花と見なし、これを栽培し、観賞することが行われた。



シュンラン(春蘭)ならば香りのある花である。しかし香りがあると言っても、周囲に香りを漂わせるような香り方ではない。花に鼻を近づけて分かるような香りというか。
それも林の中にひっそりと咲くような野生の蘭であり、多くの山野草がそうであるようにとても小型な花。現代の園芸品種である洋ランのイメージとは大きく異なる。
梅と春蘭が一緒に存在したとしても、春蘭が香ってくることはないだろう。
また春に咲くと言っても、「初春の正月13日」(新暦で2月4日頃)ではまだ早く、時期的には少しずれている。


日本の山野に自生する蘭

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※名称の下の月は日本の山野での開花時期

皆さんご存知ないかもしれないが、野に咲くランの種類は結構ある。決して春蘭だけではない。
上では名称にランが付くものを中心に選んだが、名称にランが入らないラン(ラン科の植物)はまだまだある。
それから同じ仲間の別種も多数ある。
例えば上にはサルメンエビネ(猿面海老根)やキエビネ(黄海老根)を載せたが、ただのエビネ(海老根)もあるし、ナツエビネ(夏海老根)もある。

ランは基本的には熱帯温帯の湿潤な気候を好み耐寒性はあまりないのが普通だが、世界各地・日本各地に運ばれ、運ばれた先で耐寒性を獲得し分布を広げた種類もある。
耐寒性はあまりないと書いたが、直射日光や乾燥に弱いこともあって、カンカン照りの真夏もあまり得意とはしない。
現代の華やかな洋ランは熱帯の大型なランに品種改良を重ねたものである。
また春蘭など東洋ランも多くの園芸品種が作出されており、春蘭という名前が付いているからと言って野生の春蘭とは限らない。

野生においてもランの種類は結構あるが、現代では山野草の生える環境が減ってしまったことや、山野草がブームになった時期もあり乱獲されて絶滅が心配される品種も少なくない。


藤袴の変遷

(1)『万葉集』 飛鳥時代後期~奈良時代(600年後半~700年後半)に編纂された。
原本は残っていない。現存している物は全て写本であり、最も古いものは平安時代中期に書写されたものだと言うが、巻4の一部しか存在していない。
20巻全てが揃っている中で最も古い写本は鎌倉時代後期の写本だという。

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)

★解説など
秋の花を7種類紹介した歌


(2)『古今和歌集』 平安時代前期に成立(905年頃)。原本は残っていない。

巻四 秋歌上
239 なに人か来て脱ぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺を匂はす(藤原敏行)
240 宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ(紀貫之)
241 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎかけし
藤袴ぞも(素性法師)

=訳=
239 どなたが来て脱ぎ掛けた藤袴だろうか、秋が来るごとに野辺を匂わす(秋が来るごとにあの人を想いだす)
240 ここにいた人の形見だろうか藤袴は(ここにいた人の残り香がする藤袴)、忘れがたき香に包まれながら・・(二度と逢えないかもしれない人を想っている)
241 持主は知らないけれど香りがしている、秋の野に藤袴を脱ぎ掛けたのは誰だろうか

★解説など
藤袴は乾燥させると香草となる。ハーブみたいな感じで、中国ではそれを身に付けたり、湯に入れたりして利用しており、「香草」の他、「香水蘭」「蘭草」と呼ばれていたらしい。
古今和歌集の秋歌に3つ連続で藤袴の歌が登場し、以後これより藤袴の歌が派生した。
この歌の藤袴は「藤袴の香草」の匂いと「想い人」が重なっている。
匂いで出来事や人を強く思い出すということはよくあることで、後世においては「プルースト現象(プルースト効果)」として知られている。
これはその逆を詠った歌である。要するに、秋の野に咲いている匂わない藤袴を見ただけで、香草となった藤袴の香と想い人を思い出してしまうという心情である。


(3)『本草和名』 平安時代前期に編纂(918年)
日本現存最古の薬物辞典(本草書)である
唐の『新修本草』を範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準より比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名をことごとく記載しておりかつ来歴も明らかで、本拠地である中国にも無いいわゆる逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で、また中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である。


蘭草 一云水香 一名煎澤草 一名蘭香 一名都梁香草〈己上三名出陶景注〉 一名蘭澤香草〈出蘇敬注〉 一名恵薫和名布知波加末

★解説など
これは薬物辞典であり、生きた植物をそのままの形で楽しむという用途にはない。
漢方薬など物質として使えるものの一覧である。従って蘭草=蘭ということではない。
一伝や一名とは別称や異称のこと。
万葉仮名で布知波加末(ふじばかま)とあるが、それは蘭草の一異称「恵薫」の和名として書かれている。
比定の誤りなども見られ、日本で独自に加えられた文も大量にあるらしいので、間違いや勘違いがないとは言い切れない。


(4)『源氏物語』 平安時代中期に成立したとされるが原本は残っていない。文献初出は1008年。

藤袴の巻より抜粋
の花の、いとおもしろきを、持給へりけるを、御簾のつまよりさし入れて、
「これも、御覧ずべきはありけり」とて、
とみにも許さで持給へれば、うつたへに、思ひもよらで取り給ふ御袖を、ひき動かしたり。
 同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも

=訳=
このような機会にとでも思ったのであろうか、の花の美しいのをお持ちになっていたのを、御簾の端から差し入れて、
「この花も御覧にならなければならない縁故があったのです」と言って、
すぐに手放さずお持ちになっているので、まったく気付かずに受け取ろうとする(玉鬘の)袖を引き動かした。
 あなたと同じ野原で露に濡れて萎れている藤袴です、情けをかけてやってください、ほんの申し訳程度でも

★解説など
男性(夕霧)が想い人の女性(玉鬘)にお花を差し上げたという場面である。
一般的にはこれも蘭と藤袴を同じ花と解釈していることが多いが、藤袴は自分(男性)の比喩と捉えることが出来る。
この場合、美しい蘭の花は美しい女性(この前に女性の美しさの説明や着衣の色への着眼があり)の象徴であろう。
従って両者(2つの花)は似ている点もあるけれど、違う性質のものとして描写されていると考えるのが妥当。
源氏物語では植物(花)の香ではなくて形や色に焦点を当てている。






# by yumimi61 | 2019-04-07 15:33 | 新元号「令和」の典拠

郁郁青青

(前記事の続きになります)

かくあるべし

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 ←万葉集

仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄 ←帰田賦


同じ令月という言葉を用いているが、万葉集の方は初春(旧暦1月で新暦だと2月辺り)であり、帰田賦は仲春(旧暦2月で新暦だと3月辺り)である。

万葉集の初春と梅は季節的に一致するが、蘭は季節的に相応しくないということを先に述べた。
では帰田賦の方はどうか。

私は「鬱茂」を草木が生い茂ると訳したが、字的には鬱蒼と茂ることをイメージさせる。
鬱蒼の青とは草木の緑ではなくて薄暗いことを表している。草木が生い茂ったことによって影を沢山作っているから薄暗いのである。
鬱蒼はどちらかと言えば夏に近い季節を思わせる。日本で言えば梅雨時のような感じ。
滋栄という言葉からも春先はあまり感じられず、やはり成長盛んな夏頃のイメージがあり、しかも水分を感じさせるものである。
「鬱茂」や「滋栄」という言葉のイメージを人間に当てはめれば、幼年期や少年期ではなく、青年から成年が合っていると思う。

でも「仲春令月」であると先に述べているので、もう少し違う見方が必要かもしれない。
「原隰鬱茂」は源が生い茂る様を表現しているのではないだろうか。
源を具体的な場所で言えば、水源であったり川の上流であったり内陸の山深い場所であったりするが、それさえも比喩であるかもしれない。
「百草滋栄」はその源が百草を育てる、影響を与える様を表している。
要するに若人、新人や後輩への指南である。彼らを芽吹きの季節に喩えた。
しかしそこには希望と失望、理想と現実を知った者の窮愁が織り込まれている。
失望や現実を文に即して言い換えれば、源が生い茂っていないこと、あるいは源は生い茂っているのに受け手の百草がなく養分が駄々流れになっていること。そのような社会であることを悲しみ憂いているわけである。

「時和気清」は子供と大人の両方に掛かっている。
<子供>大人の言うことを素直にきく。ピュアで吸収力がある。どんな色にも染まる。よって対子供というのはある意味平穏。↔ 騒々しく勝手気ままで落ち着きがない。嘘や社交辞令などが通用せず乱される。
<大人>弱者に対する思いやりや手加減がある。経験値が高く話が通じやすい。嘘や融通や社交辞令もそれなりに利く。↔ 思い込みが激しく自分の都合の良いようにしか受け取らない。変化や間違いを認めない。卑怯で狡賢く、暴挙もある。


想像旅行に想像隠居

私は『帰田賦』を純粋な叙事詩や田園詩だとは思っていない。
あれは目にしたこと耳にしたこと行ったことを写実的に描写したわけではない。
想像の翼を広げて田舎に飛んでいき、隠居し自由気ままに暮らす自分を思い描いたものだ。
逆を言うと、実際にはそれが出来ない、逃げ場ない状況にあるということでもある。
想像の産物だから実際に田舎に帰ったところでそのような生活が出来るという保証がないこともどこかで分かっているのではないだろうか。

作者の張衡の出身地(田舎)が実際に詩に描かれたような生活ができそうな場所で、詩を書いた当時に見聞きしたり行ったことではないが、幼少期などの経験に基づいて書かれたものか。それとも自分の出身地は結構な都会であり、田園風景は他の詩や他者の話を参考に書いたものなのか。私はその地に行ったことがあるわけでもなく、もはや2000年も前のことでもあるのでよく分からない。

ともかく作者が想像したことであり、だからこそ何でもアリなのだ。
弱いものの代名詞ともなりそうな雲間を飛ぶ鳥や深い淵に潜む魚もお構いなしに射抜いたり釣り上げたり。大人の分別をわきまえた振る舞いとは言いにくい。そのような恥ずべきことも想像の世界ならば許される。
そして一転今度は優れた五絃の調べを奏で、周公や孔子の書を詠じ、美しい詩文を綴り、三皇の功業を書き記すという高尚な趣味に勤しむ。そんな誉れ高い世界も遠慮なく堪能することができる。
つまり想像の翼を広げれば、現実の名誉や恥辱があるドロドロとした場所と関わり苦しまなくてもすむだろうという詩である。
なんだかんだ言っても現実社会で求められ幸福でいられるのは’程々’であるという意味も隠れている。

若人への指南ということを除けば、どこかで『離騒』を意識してもいる。

屈原の作品の中でも特に有名なのが『離騒(りそう)』である。
楚辞の代表作であり、世に容れられない人物の悲憤慷慨と神話的幻想世界への旅行が多数の比喩や擬態語を散りばめて歌われている。

『帰田賦』の作者・張衡は運命や社会の不正などを憤って悲しみ嘆き、幻想世界への旅行を歌った。
その陰にあるのは死ということになるが。


『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序文の現代語訳と解説


天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也


天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。

天平2年1月13日(新暦では730年2月4日頃)、大宰帥(大宰府の長官)である私(大伴旅人、728年に大宰帥として赴任、731年8月没)の家に集まって、宴会を重ねる。


于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封穀而迷林
庭舞新蝶 空歸故鴈 


時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
加以(しかのみならず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。
庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。 


時はめでたい年の初めであるからして、場の空気は優雅にて和やか。
梅は鏡の前の白粉を開き、蘭は珮(腰に付ける装飾品)の辺りから香を発している。
それだけではない、曙(夜明けと年初の両方に掛かっている)は山の頂に雲を移し、松は薄布をかけて天を傾け、夕方の山の頂に霧をかけ、鳥は薄物に囚われて林に迷っている。
庭には新蝶が舞っている。空に見える北へ帰る雁は幻だろうか。

★さらに⇒<解説と砕いた訳>
比喩になっているので、訳文そのままでは作者の言わんとしていることは伝わらない。
大宰府はお役所であり、普段はそんなに華やかな場所ではなかったと思う。また防衛的な役割も担っていたので緊張感が必要とされる職場でもあった。
そもそもが抒情詩とは縁遠い所だったのかもしれない。
そんな場所だから殊更に羽を伸ばす時間も必要だったのか、宴会がたびたび催されていたようだ。
時はお正月のおめでたい席である。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。しかし年初のおめでたい席の空気は優雅にて和やかであるべきで、目くじら立てるのも大人げないから我慢している。
だけどここには情緒が無さすぎるとも思っていて、次の「 」部分では情緒を雲と霧に置き換えて、それが遠くに追いやられてしまっている様を比喩的に書いている。
「曙(夜明けと年初の両方に掛かっている)は山の頂に雲を移し、松は薄布をかけて天を傾け、夕方の山の頂に霧をかけ、鳥は薄物に囚われて林に迷っている」
門松だか生け花の松だか分からないけれど、誰かが正月の松に薄い布を引っ掛けたのではないだろうか。その薄布の掛けられた松の傾きによって作者は朝から夕方へと景色を動かしている。本来それはダイナミックな地球の動きであるはずだけれども。
朝夕どちらにしても情緒は遠い山の頂の方にあり、ここにはないというわけ。
空を飛ぶはずの鳥も薄物(薄い布)に囚われて迷っている。霧などによって道迷いしてしまうように。
実際は林というのは薄布の掛けられた松のことであり、鳥が迷い込んでいるわけでもなく、誰か人間の比喩であろう。
鳥は穀物を食する。穀物には臼が必需品だった。その臼と薄を掛けているのである。
庭には正月に舞うはずのない新蝶が舞っているというのだから、これも比喩であろう。着飾った若い娘だろうか。
空には帰る故雁ありというが、死んだものや失ったものならば本当は見えないはずである。寂しそうに家路につく誰かがいたのだろうか。それとも情緒に焦がれるが故に雁の幻を見たのか。


於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足

是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。

ここにおいては、天井が空で床が地であり、膝を崩して盃が飛び交い、言葉を忘れ、様々な感情に襟を開くこともなく、自分勝手にふるまって、気分よく自分の置かれた状況に満足している。

★さらに⇒<解説>
今までは全体描写だった。宴会が始まる前の時間の描写と言っても良いかもしれない。
ここでは場面が屋内の一室に移り、宴会が始まっている。
この宴会が庭での梅の花見ではないことがこの箇所からよく分かる。
どう転んでも梅の花を堪能して和歌を詠むような宴ではない。
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。歌は歌でも・・という感じである。
さらに言えば、もうだいぶお酒が進んでいて、乱交的な雰囲気すら感じさせる。


若非翰苑  何以濾情
詩紀落梅之篇 古今夫何異矣
宜賦園梅聊成短詠


若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。
請ひて落梅の篇を紀さむと。
古今それ何ぞ異ならむ。
園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。


もしも(若い)『翰苑』のようにしたくないならば、何かで情を表現しなければならない。
落梅の篇を願い求む。昔も今もそれは何ら変わらない。
いかにもの園梅を授けて、かりそめ(仮初め)でも短い詩歌を創ろう。


★さらに⇒<解説>
『翰苑』は唐における漢学の初学者のための入門書であり、辞書というか参考書のような本だったらしい。
但し『翰苑』は当の中国にも現存せず、ほんの一部分の写本だけが日本の大宰府天満宮に残存している。それ以外には世界中のどこにも写本が存在せず「天下の孤書」と言われている代物。
残っている写本は誤字や脱字が多く、脱文さえあるという状態で写本精度への信用性が乏しい。
このようなもの(入門書とか辞書的なものとか現物行方知れずとか酷い写本とか・・)にしたくないという強い思いがあったようだ。『翰苑』のあった大宰府にいた人物の強い思いだけに迫るものはある。 
そして実際には行ってもいない梅の花見の宴を想像しながら歌を創作したり、してもらったり(?)した。
想像で詩歌を綴ったのは『帰田賦』だって同じであるというわけである。







# by yumimi61 | 2019-04-05 12:08 | 新元号「令和」の典拠

月並み

もうすでに指摘されているが、新元号の典拠とされた『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序の一節は、『帰田賦』によく似ている

于時初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 ←万葉集

於是仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄  ←帰田賦


『帰田賦』(文選巻十五に所収) 張衡
遊都邑以永久 無明略以佐時
徒臨川以羨魚 俟河清乎未期
感蔡子之慷慨 從唐生以決疑
諒天道之微昧 追漁父以同嬉
超埃塵以遐逝 與世事乎長辭


都邑に遊んで以て永久なるも、明略の以て時を佐(たす)くる無し。
徒らに川に臨んで以て魚を羨み、河の清まんことを侯(ま)てども末だ期せず。
蔡子の憤慨に感じ、唐生に従いて以て疑を決す。
諒に天道の微昧なる、漁父を迫って以て嬉みを同じうせん。
挨塵を超えて以て遐く逝き、世事と長く辭す。


都住まいも久しくなるが、世のためになるような偉勲もない。
むなしく川岸で魚を羨んで、河が澄むのを待っているけれど、今だその時は来ない。
世間の悪しき風潮や社会の不正などを怒り嘆いた蔡沢(中国戦国時代の秦の宰相)は、唐挙(人相占い師)の占いを受け入れて、迷いを断ち切ったものであった。
まことに天道(天へ行く道)は見通し難いから、漁父を求めて楽しみを分かち合いたいものである。
この世の塵埃(汚れ)から脱して遠くに行き、俗世とは永遠に離れたい。


於是仲春令月 時和氣清 原隰鬱茂 百草滋榮
王雎鼓翼 倉庚哀鳴 交頸頡頏 關關嚶嚶
於焉逍遙 聊以娛情


是に於て仲春の令月、時和し氣清む。 原隰密茂し、百草滋榮す。
王雎翼を鼓し、倉庚哀鳴す。頸を交えて頡頏し、關關嚶嚶たり。
焉に於て逍遙し、聊か以て情を娯しむべし。


折しも今は春半ば、和やかな時節で大気も澄むめでたさ。 野原も湿地も草木生い茂り、沢山の草が潤い栄えている。
ミサゴ(鳥)は羽ばたき、ウグイスは悲哀を持って鳴き、首を摺り寄せて舞い上がったり舞い下りたり、仲睦まじく鳴き交わしたり伴を求めて呼び交わす。
それなのにどうして気ままに歩き回ることをしないなんてことが出来よう、いささか情を楽しむべきである。



爾乃龍吟方澤 虎嘯山丘
仰飛纖繳 俯釣長流
觸矢而斃 貪餌吞鉤
落雲間之逸禽 懸淵沉之鯊鰡


爾して乃ち方澤に龍吟し、山丘に虎嘯す。
仰いで纖繳を飛ばし、俯して長流に釣る。
矢に觸れて斃れ、餌を貪りて鈎を呑む。
雲間の逸禽を落とし、淵沈の鯊鰡を懸く。


そしてすぐに沢の辺りで龍の如く吟じ、山や丘で虎のように吠える。
空を仰いで細いいぐるみ(鳥を射る道具)を放ち、うつ伏して長流に釣り糸を垂らす。
鳥は矢にあたって死んで、魚は餌を貪って鉤を呑む。
雲間を飛ぶ鳥も落とされ、深い淵にひそむハゼやボラもかかる。



於時曜靈俄景 繼以望舒
極般遊之至樂 雖日夕而忘劬
感老氏之遺誡 將回駕乎蓬廬
彈五絃之妙指 詠周孔之圖書
揮翰墨以奮藻 陳三皇之軌模
苟縱心於物外 安知榮辱之所如


時に曜靈景を俄け、係ぐに望舒を以てす。
般遊の至樂を極め、日夕と雖も劬るるを忘る。
老氏の遺誡に感じ、將に駕を蓬廬に回さんとす。
五絃の妙指を彈じ、周孔の圏書を詠ず。
翰墨を揮いて以て藻を奮い、三皇の軌模を陳ぶ。
苟も心を物外に縦にせば、安んぞ榮辱の如く所を知らんや。


いつしかに太陽は西に傾き、続いて月が昇る。
心ゆくまで遊び楽しみ、日暮れになるも疲れも忘れている。
老子の戒めを感じて、家に乗り物を回す。
優れた五絃の調べを奏で、周公や孔子の書を詠ずる。
筆走らせては美しい詩文を綴り、三皇の功業を書きしるす。
かりそめにも心を物外にし(物質界を超越し)、縦(ほしいまま)にすれば(自分のしたいようにすれば)、名誉や恥辱がある場所と関わることはない。
 


作者の張衡

張衡(78年 - 139年)は、後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。

30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。

張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという。

そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
月光生于日之所照,魄生于日之所蔽;当日則光盈,就日則光尽也。
また続いて以下の記述があり、
当日之冲,光常不合者,蔽于地也,是謂暗虚,在星則星微,遇月則月食。
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。

月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。



漢詩の影響~詩経~

張衡が『帰田賦』をいつ書いたかかはっきりとは分からないが晩年だったようだ。(一説によると138年)
どちらにしても彼が生きた時代(78年 - 139年)に書かれたものなので、日本の『万葉集』編纂の時代より少なくても600年くらい早い。
私は偶然の一致を完全に否定するつもりは毛頭ないけれども、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序を記した人物は漢詩を学んだ人物だと思うので、『帰田賦』に限らず中国の漢詩の影響を多分に受けていることは間違いないと思う。

中国は歴史ある国である。
その中国での最古の詩篇は『詩経』である。
日本の『万葉集』という書物自体、中国『詩経』に倣ったものではないかと私は思っている。
『詩経』は紀元前1046年頃~紀元前771年の西周時代の詩を、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日に生きた孔子が編集したと言われている書物である。

『詩経』(しきょう、拼音: Shī Jīng)
中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。

西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。
現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。

その構成は、
1.各地の民謡を集めた「風(ふう)」すなわち国風(160篇)
2.貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」(小雅74篇、大雅31篇)
3.朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」(40篇)
の3つに大別される。

作品のスタイルは基本的に四字句の連続で、オノマトペ(関関、夭夭、呦呦)や繰り返し(式微式微、楽土楽土など)を多用するところに特徴がある。通常一篇の詩は複数の章(スタンザ)に分かれ、章は複数の句に分かれる。
実際には上記の形式に従わない詩もある。
作風は素朴に尽き、しばしば楚辞の自由暢達の気風に富んだ騒体と比せられる。
特に小雅を中心に為政の乱れを嘆く作品も多く、古代人の切実な訴えに驚かされる。

風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがある(体裁上の3スタイルと合わせて「六義」という)と言われている。
1.「賦」は心情をすなおに表現するもの
2.「比」は詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの
3.「興」は恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの



漢詩の影響~楚辞~

中国においては、北方の『詩経』に対して、南方の『楚辞』と言われており、共に漢詩の基礎となった。
どちらも紀元前時代のものであるが、『楚辞』のほうがやや遅い。

詩の様式としては六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮の字が入ることが特徴(文章としての意味は無い)。

17巻で構成されている。
そのうち5巻が屈原の作品である。

屈原(紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)
中国戦国時代の楚の政治家、詩人。
秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。


屈原の作品の中でも特に有名なのが『離騒(りそう)』である。
楚の屈原の作と伝えられる長編の詩。楚辞の代表作であり、世に容れられない人物の悲憤慷慨と神話的幻想世界への旅行が多数の比喩や擬態語を散りばめて歌われている


『帰田』の「賦」とはなにか

古代中国の韻文の一つで、唐の詩や宋の詞などと並び、漢(紀元前206年- 220年)を代表する文芸である。
韻文とは一定の規則や韻律(リズム)に則って表された文章。
短いけれど日本の短歌や俳句もこれにあたる。
賦は紀元前の戦国時代に端を発し、形を変えながら遅くは清に至るまで存続した。

漢詩が歌謡から生まれたのと考えられるのに対し、賦はもとより朗誦されたものと考えられている。文体の性格としては漢詩と散文の中間に位置する。
賦は元来国ぼめの性質を持つとされ、都城の賛美に使われたほか、あらゆる場所・物・感情を網羅的に表現する手段として用いられた。
漢代の賦は抒情的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。
時代が下ると抒情的な性格も強まっていき、また駢儷文や近体詩などの影響を受けるようになる。


叙情的性格の強い詩を「辞」、叙事的性格が強い詩を「賦」とに分けることもあり、両者を合わせて「辞賦」という。

日本の俳句はどちらかと言うと叙事的性格が強い歌が多く、それに対して短歌は抒情的性格が強い。

張衡の『帰田賦』も、『万葉集』の梅の歌の序文を漢文で記した人物も、詩経や楚辞の影響を受けている。


知らないはずがないと思う理由

『万葉集』の梅の歌の序文を記した人物は『歸田賦』も知っていたはずである。
そのうえでよく似た文章を創った。これは真似したということではなく、あえて寄せていったのだと思う。
『歸田賦』を知っていたと推測するのは、この詩は文学史上、重要な位置づけにある詩だからである。
長文であることも少なくない思想や空想(神話やファンタジー)、政治や享楽に関する文ではなく、比較的短い文にて身近で個人的とも言える、だけど普遍的でもある事実や出来事そして情を写実的・具象的に表す詩の先駆けになったからである。
日本の俳句もまさにそんな感じである。

(4月1日以降、Wikiにも「帰田賦」の項が作られたようなのですが、そこでは田園詩として、その影響を述べている)
張衡の『歸田賦』は田園詩の中で後代に影響を与える作品である。この詩は自然を前面に出し、人間や人間の思想に重きを置かない共通主題を共有する様々な形式の詩に対する数世紀にわたる熱狂の口火を切る助けとなった。こういった詩は山水詩といくらか似ている。しかし、田園詩の場合は、自然はそのより家庭的な表現に重きが置かれ、裏庭で見られるような花園や田舎で栽培されいてる自然の姿を称えている。


作品を無視した典拠って・・・

『詩経』の中の小雅という分類に含まれる「黍苗」という詩がある。
『詩経』には周建国の功臣の1人で王に仕えた名臣であり西周の政治家である召公奭という人物を讃えた歌が幾つかあるが、これは征伐を終えて帰還するのを祝った歌。
四字句の連続する基本形式に則っている。
この詩の中に『帰田賦』でも使っている’原隰’や’清’という漢字が含まれている。

芃芃黍苗 陰雨膏之 悠悠南行 召伯勞之 
我任我輦 我車我牛 我行既集 蓋云歸哉 
我徒我御 我師我旅 我行既集 蓋云歸處 
肅肅謝功 召伯營之 烈烈征師 召伯成之 
原隰既平 泉流既清 召伯有成 王心則寧 

(最後の行の訳)
野も湿地も平定されて、泉が流れるように清くなった。召伯(召公奭)が成果を上げられた、そういうわけで王の心も安寧である。

これ以外にも『帰田賦』には詩経の中の詩に使われている漢字が幾つも使われている。若干言い回しは違ってもすでに春や田園の風景として表現されたことがあるものということになる。
それを言えば、俳句の季語などはむしろ共通項として提示されているものである。
漢字は幾つかの意味を持ち、漢字だけでも文章を成立させることが可能なほど奥深いものであるが(もっともそれはどんな言語もそうかもしれないが)、文芸としてみれば、作品の中から特定の漢字や単語だけを取り出して論じてもあまり意義は感じられない。

典拠というからには、単にそこに使われている漢字(それも離れたところにある漢字!)だけでなく、その作品に込められた意味(抒情や叙事)をくみ上げた上で、それに沿って選ばれた漢字なり単語であるべきだろう。
単に漢字の意味ということならば、漢字辞書から選んでも同じ。




# by yumimi61 | 2019-04-04 17:25 | 新元号「令和」の典拠

🌼 ling(令)

『万葉集』(巻五)「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き  蘭は珮後(はいご)の香を薫らす
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也
于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封穀而迷林
庭舞新蝶 空歸故鴈
於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足
若非翰苑  何以濾情
詩紀落梅之篇
古今夫何異矣
宜賦園梅聊成短詠

天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。
時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
加以(しかのみならず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。
庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。
是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。
若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。
請ひて落梅の篇を紀さむと。
古今それ何ぞ異ならむ。
園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。

天平二年→730年
正月の十三日→旧暦1月13日。(松の内は1月15日まで)


暦から考える季節

旧暦は「太陰太陽暦」である。月の満ち欠けを基準とし、さらに太陽の動きも考慮した暦。
月の満ち欠けを基準にすると、太陽の動きを基準にした1年(365日)よりも11日短かくなってしまい、3年で約1か月のズレが生じてしまう。
そこで3年に1回は閏月を設けて(1年が13か月になった)、ずれるの1月分を調節していた。

「旧正月」とは、月の満ち欠けを基準とした旧暦1月1日のこと。
旧暦1月1日は、通常雨水(2月19日頃)の直前の朔日であり、1月21日~2月20日頃を毎年移動する。

それに対して「立春」とは、太陽の運行に基づいている二十四節気での新年のことで、「旧正月」と「立春」は全く同じではない。月と太陽という違いがある。
「立春」は二十四節気の第1・正月節が起こる日であり、時期としては旧暦12月後半から1月前半である。

日本では明治5年に太陽の動きをもとに作られたグレゴリオ暦(太陽暦・新暦)が採用され、以来日本では新暦の1月1日を元旦としている。
しかしながら他のアジアの国々では今でも旧正月を盛大に祝っている。これを行わなくなったのはアジアでは日本だけだという。

ユリウス暦
紀元前46年にローマのユリウス・カエサルが制定した暦。
太陰太陽暦に代ってエジプト暦の1年 (365.25日) を採用し、平年を365日、閏年を366日として、4年ごとに1回の割合で閏年をおく太陽暦を採用した。

グレゴリオ暦
325年ニケーアの宗教会議で、復活祭の日を決定する必要上、春分の日を毎年3月21日と定めた。しかしユリウス暦を使っていたので,1582年には実際の春分の日は3月11日になっていた。そこでニケーアの宗教会議の決議を守るため、ローマ教皇グレゴリウス13世は82年の10月5日から14日までの 10日間を暦日から除き、将来再びこのようなことが起らないために次の置閏法を制定した。
すなわち、西暦年数が4の倍数になる年を閏年とする。ただし100の倍数の場合、これを100で除した商が4の倍数でない年は平年とする。たとえば1700年、1800年、1900年は平年である。
この改正によって400年に3日の閏日が除かれ、1年の平均日数は 365.2425日となった。これをグレゴリオ暦といい、現在にいたるまでなお続けられている。


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730年の旧正月(1月1日)は現暦ではおそらく1月23日頃。従って「正月13日」は2月4日頃である。


季節を考える

初春とは1月のこと。しかし旧暦1月は新暦ならばおよそ2月辺りにあたる。

梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
梅は鏡前の粉を披き  蘭は珮後の香を薫らす


梅の開花時期は2月くらい。
だが残念ながら日本で自然の蘭が2月に咲くことはない。野に咲く蘭は初夏~夏が主流。
蘭は熱帯植物であり、熱帯地方の湿潤な環境が適しており、耐寒性の弱い植物である。
現代ではお祝い用の花として一年中、また花の少ない冬にも盛んに出荷されているが、みな温室育ちである。蘭は栽培がとても難しい。
日本の庭で梅と蘭が一緒に咲くことは間違ってもない。

梅で言えばロウバイ(蝋梅)の別称に「蘭梅」がある。
しかしロウバイは冬の花であり、主に新暦で12月~1月が開花時期。旧暦12月の花。
現代でも晩冬(新暦で小寒1月6日頃~立春前日2月3日頃)の季語とされている。
従って「初春」に「ロウバイ(蘭梅)」という花を持ってくるとは思えないので、やはり蘭は熱帯温帯植物の蘭のことを指すのだろう。


令月

「令月」の意味として、「旧暦二月の異称」が挙げられることがあるが、上の文はその意味では用いていない。
それはその前に初春(旧暦一月)という語が用いられていることから分かる。
天平二年正月十三日というある点にいて、それを于時初春令月と表しているのだから、「初春(旧暦一月)」と「令月(旧暦二月)」では点が表現されない。よってこれを並べるのはおかしい。

従って『令』は「好」「吉祥」の意味で用いられているのだろう。
幸福、繁栄、おめでたいこと、幸先のよいことなど。

初春令月・・・おめでたい年の初め
令月の令は単に好い(奇跡的な良さ)ということだけではなく、規則的に繰り返されるからこそ好いという意味がある。
春の来ない冬はないとか、止まない雨はないみたいな感じで、季節や天気などの繰り返しを喜んでいる。
角度を変えて見れば、目先には変わっても、大きくは変わり映えしないマンネリをこよなく愛するみたいな感じ。世界を一変してしまう天変地異は困りますものね。終末論なんて誰も望んでないし?

その意味に近い歌詞↓ 「令」ではなく「例」で繰り返しを表現している。

『一月一日』
作曲者:上真行(宮内省の雅楽長)
作詞者:千家尊福(出雲大社宮司、政治家)
1893年(明治26年)に文部省が発行した「小学校祝日大祭歌詞並楽譜」の中で発表された。2年後の1895年に唱歌として元旦拝賀式の奉唱歌と定められた。

年の始めの例(ためし)とて
終わりなき世のめでたさを
松竹たてて門ごとに
祝う今日こそ楽しけれ

初日の光差し出でて
四方(よも)に輝く今朝の空
君が御影に比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ尊けれ


ちなみに「令月」は、ピンイン(ローマ字式の中国語の発音)では、lìng yuè である。


乱痴気騒ぎを憂う梅の序文

新しい元号の典拠とされる文章(序文全体)について、申し訳ないけれど私はおめでたい幸福感をあまり感じない。
「憂いの序文」という感じを受ける。
何に憂いを感じているかと言えば、乱痴気騒ぎである。(何気に乱と蘭に掛けたのですね!)
そこには微塵も情緒なんか感じられなかったのだ。
上の文で情緒は雲や霧や煙や霞などで表現されている。

膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。

膝を崩して盃が飛び交い、言葉を忘れ、様々な感情に襟を開くこともなく、自分勝手にふるまって、気分よく自分の置かれた状況に満足している、と述べている。

若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。

「翰苑」は唐における漢学の初学者のための入門書であるが、日本の情緒ある和歌を集めたはずの作品集『万葉集』を品も技巧も意味もない文字の羅列で終わらせないためには濾過が必要だと言うのである。情を汲み取るというか。

そこで「落梅の篇」を差し入れたわけである。
この序文から言えば、「梅の花の歌三十二首」は「落梅」であるらしい。
要するに散りゆく梅である。
そしてやがて始まる、いやもうすでに始まっている、桜の乱痴気騒ぎを憂う。


’もののあわれ’の消失

前述したように蘭が自然な形で2月に咲くわけがない。温度管理すれば冬でも咲かせることは可能だが万葉集編纂の時代にそういう環境があったかはどうかは疑わしい。
蘭は切花にも向いていない。

庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

また2月に庭に新蝶が舞うわけがない。
よって序文全体が比喩であるという推測が立つ。

雁は渡り鳥。シベリアなど北方の寒地から日本にもやってきて越冬する。
その雁が帰るのは春先である。
「雁帰る」は仲春(旧暦二月)の季語である。新暦で言うと、3月~4月上旬あたりとなる。
渡り鳥の中でも雁は哀れを表現するために古い時代から和歌に多く詠まれてきた鳥である。
その雁に故を付けて、故雁としている。
故は古いという意味と消失や死という意味の両方が乗せられていると思う。


梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

香しい梅の花は化粧の粉に取って代わっている。
微風に乗って梅の香りが漂ってきた時の幸福感といったらないと思うが、その梅の花から香りを取ってしまった文となっている。

一方、蘭の香りは特徴的なものがない。
蘭は非常に多くの種類があり(といっても品種改良されて多くの種類が生み出されているので、当時はそれほどではなかったかもしれない)、匂いのあるものとないものがある。匂いがあるものでも良い匂いのものもあれば、腐臭悪臭と言えるような匂いのものもある。
お祝いで使うような蘭は一般的に無香無臭なものが好まれる。
病院とか飲食店のオープン記念には、花粉や匂いがなく、それでいて華やかである胡蝶蘭が重宝されるが、そうした理由からである。
香りの代名詞にはならない蘭を香と組ませているということは、この蘭の香りとは香水のような人工的な香りを表現しているのだろう。

’もののあわれ’を感じさせる者や自然の消失を漢文で表現したのが梅の序文である。






# by yumimi61 | 2019-04-02 14:55 | 新元号「令和」の典拠

🐤魔法の時間

小銭を握りしめて行った初めてのお買いもの。
落とさないようにぎゅうっとその小さな手の中に。
自分で選べることの喜びをかみしめて。
何でも好きな物を、小さな世界は、大きな宇宙になった。
そして君たちはきっと、自由には限りがあることを、知ることにもなるんだろうけど
それでも手放しの喜び。
間違わないように・・間違っても・・きっと大丈夫。


そんな日もいつか忘れられていくのかな。


うちにはまだ小銭があります。
ディズニーのお土産のお菓子の缶に入っているバージョン。
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どれくらいで夢が叶うのかなぁ。君はそう言って、ひとつ、またひとつ、少しずつ、重ねていったんだ。
持ち上げて重みを確かめ、ガシャガシャと振っては隙間にため息ついたりして。
それがどんな夢かは知らなかったけれど。夢が叶ったのかどうかも分からないけれど。


こちらの小銭には小さな手紙類が入っていました。
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いきなりですが・・・
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どうしてその手を繋がなかったんだろう。
どうしてその手を離したんだろう。
どうして他の誰かと手なんか繋いだの。

ママ以外の人に付いて行っちゃだめだからね。その強力な魔法の効力は、残念ながら長くは続かないもの。






# by yumimi61 | 2019-03-29 18:20

未完成 🐭

3月もそろそろ終わるという今日この頃。
そうでもなくても、期待と不安が入り混じる終わりと始まりの季節。
最近流れている東京ディズニーリゾートのCMが感傷的な気持ちにさせる。
あの音楽と映像が泣かせにきている。

ほろ苦くて甘酸っぱい、どこにでもあるような、もうどこにもないような、思い出たちが胸を打つ。
夢を見ない人はいない、あなたは言うかもしれないけれど、大人になって分かった、幻想もあるってこと。
ディズニーランドは永遠に完成しない、あなたの言葉が妙に胸に落ちる。

音楽は映画”Beauty and the Beast”の同名挿入歌。
日本語訳は『美女と野獣』だけど、英語タイトルでは Beautyのほうにtheが付いていない。
特定の誰かの美しさではなく、誰もが持ちうる美しさで、野生の獣ではなく、人間の中にある獣性、それが”Beauty and the Beast”のタイトルには込められているような気がするけれど、どうかなぁ。


1983年4月15日東京ディズニーランドオープン。
私が生まれた時には東京ディズニーランドは存在していない。もう’子供’というのは憚れるくらいの時に東京ディズニーランドは出来た。
10年後1993年、20年後2003年、30年後2013年、36年後2019年。

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キャニスターの蓋がない感じのガラスの瓶に小銭が入れてあって、その中にベビーミニーのクリップが1つ入っていた。
子供部屋にあったのだけれど、小銭をガラス瓶に入れたのは私なのか、そうでないのか、もはやよく覚えていない。
ベビーミニーのクリップも一緒に入っていたけど、私がこのクリップを持っていたという記憶は全くない。でも息子の持ち物とも思えない。さてはて・・。
写真は昨年の12月2日に撮った。





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無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。(yumimi61)

# by yumimi61 | 2019-03-28 17:40

液体ミルクの話題

液体ミルクとスポーツドリンクの関係やいかに

「液体ミルク 例え話バズった母」というネットニューストピックスがあったのだが、わたくし、バズッたの意味が分かりませんでした。
’バズッた’って何?
「バズる」の意味は短期間で爆発的に話題が広がり、多くの人の耳目や注目を集め、巷を席巻すること、といった意味で用いられる言い回しのこと。
爆発のバ?ズはどこ?
爆発するを短縮して言いやすくした形かしら。バ(クハツ)する→バずる→バズる!?

で、どういう話だったかと言うと、下記の通りです。

妻の「例え話」が的確すぎる! 液体ミルクの必要性めぐる投稿が話題
若松 真平 withnews編集部


液体ミルクをめぐって今月12日、こんなツイートが投稿されました。

  " 液体ミルク、すげーなー、めっちゃ便利よなー、って夫に言ったら『粉と値段全然違うんでしょ?イマイチ良さが分からん』というので、『喉乾いてポカリ買うとき、粉のほうが安いと知ってもペットボトルのほう買わん?』と言ったら分かってくれた "

 液体ミルクが必要な理由を、例え話で説明したこのつぶやき。

 子育て中の人たちから「ほんとそれ」「いま必要なの、今すぐ」「粉ミルクを飲める状態にするまでの手間を知らない人はそう言います」といったコメントが寄せられ、リツイートは4万、いいねは11万を超えています。


的確?的確なのかなぁ、これ。
そりゃあ、喉が渇く予定がなくて突然喉が渇いて脱水気味になったなら、ペットボトルのポカリを買うかもしれない。
言うなれば「そうだ 京都、行こう」「そうだ 京都は、今だ」的な外出?

だけど、喉が渇くことが予想できるサッカーの練習や試合に行く息子に持たせるとしたら、事前に粉を買って、保冷水筒に作ってあげて持たせ、それを飲ませるようにする。さらに予備に粉をバッグに常備させておいて足りなくなったら自分で作らせる。

うちは息子達が小学1年生からサッカーをしており、毎週末にスポーツドリンクを持って行った。だからポカリスエットやアクエリアスその他のスポーツドリンクの粉末には随分とお世話になった。ばら買いではなく箱買いしていた。
粉を切らしてしまってない・・!といううっかり非常時にはコンビニに寄ってペットボトルを買ったこともあったけれど。でも500mlでは足りない。毎回毎回1Lや2Lペットボトルでは買い切れないし、保冷性がないし、使い勝手が悪い。
個人持ちドリンクのさらに予備に、チームで粉を常備し、忘れた子がいれば粉をあげて作らせたり、お茶当番がやっぱり粉で必ずスポーツドリンクを作って、足りなくなった子や体調悪くなった子に飲ませたりしていた。

赤ちゃん連れて外出するのに、なんの計画もなく、何も用意せずに外出するだろうか。フツーはしないし、できない。
だから乳児用液体ミルクの例え話としては全然的確ではないように思うのだけど、’私何か間違ったこと言ってます?’


🐦違い、溝、隙間風、、🐦ひゅるり~~~

この話、記事を読み進めていくと、ツイートしたという人の印象が少し変わる。

 「投稿した当日の出来事で、液体ミルクのニュースをテレビで見ていたときのやりとりをつぶやきました」

 そう話すのは、生後6カ月の息子を子育て中の「ぽん」さん。その場でパッとポカリスエットの例え話を思いついたそうです。
 ツイートに込めた思いについては、こう話します。
 「身近な例え話を使ったら、ふだん育児に参加しない夫にも分かってもらえたよ!という愚痴のような気持ちと、あとは、本当にポカリのように気軽に、適温で自販機やコンビニで買えるようになればいいな、という思いがありました」

 息子が風邪をひいて外出できていないため、まだ液体ミルクは購入していないそうです。
 「ファミリーサポートセンターなどの託児サービスを利用する時や外出時、また私自身が倒れた時などの非常時に使いたいです」


この人は液体ミルクを日常使いするつもりは今のところなさそう。託児サービスや外出時はともかく、非常時に使いたいと言っている。
温度のことも気にしており、常温保存の液体ミルクをそのまま飲ませることには抵抗がありそうな感じも受ける。
要するにあのツイートをする心持ちとしては「液体ミルク」がメインにあるのではなく、「夫と妻(男と女)の溝」「男と女の価値観の違い」がメインにあるのだと思う。

あれでしょ?疲れてぐったりしている時に「今日のご飯なに?」とか聞くのと同じ感じ。
いやいやいやいやどうしてそうなる?私疲れてるの、見て分からない?「外食する?」とか言ってくれるなら、こっちだって「ううん、大丈夫」とか言うけど(言わない?)、何か当たり前のように「今日のご飯なに?」とか訊いてくることにイラッとする感じ。そうですよね世の奥様方、世のお母様方?
それに真っ向から挑まず、例え話で撃退した丸め込んだわけですね。平和~ いいね!


赤ちゃんもペットも

液体ミルクは非常時には役立つと先に述べたが、急に何かを変えるということに関して、赤ちゃんや子供は大人以上に適応できない。変化に弱い生き物である。
居所もそうだし、ミルクや食事を与える人もそうだし、ミルクや食事の内容や味もそうである。
災害時にはそうした変化が一気に押し寄せてくるので、大人は可能な限り「いつもと同じような生活」を提供してあげてほしいと思う。
但し生きるか死ぬかという逼迫した状況の時に「いつもと同じ」に拘りすぎてもいけないけれど。

例えば犬や猫といったペット。
育て方の本やサイトには必ずといって「急に新しいフードを変えることは避けましょう」と書いてある。
ペットフードのメーカーや商品によって配合されているものや栄養設計が違う。
犬や猫がそれに慣れるにはそれなりの時間がかかる。
従って急にフードを変えると、食べなかったり、食べても嘔吐や下痢を起こすことがある。栄養成分が吸収できていない状態となり、場合によっては脱水状態になったりもする。
その反応も食べてすぐに起こす個体もあれば、数日してから反応が起きる個体もある。

ペットフード―メーカーも商品に「初めて与える時は1週間~2週間かけて徐々にフードを切り替えるようにしましょう」などと注意書きしている。
徐々に切り替えても受け付けなかったり嘔吐や下痢が続く場合には、アレルギー反応などそのフードとペットの相性がよくない可能性もある。

人間の母乳も初乳→移行乳→成乳と徐々に切り替わっていく。また母乳の場合には全く別の母乳になるということはない。
ただ母親が極端に偏った食事になると母乳の成分というか味が変わり、それを敏感に感じ取り、ぐずって飲まなくなったり吐いてしまう赤ちゃんもいる。
災害時などはストレスで母乳が出なくなってしまうお母さんもいる。

粉ミルクはメーカーが変われば原材料も栄養成分も違う。
当然、母乳と粉ミルク、粉ミルクと液体ミルクも原材料や栄養成分が違う。液体ミルクを常温で与えるとなると温度差の心配もある。
いくら大人が非常時だからと思っても、この違いをすんなりと赤ちゃんが受け入れるとは限らないということは心しておく必要がある。
また受け入れて飲んだとしても嘔吐や下痢などを引き起こすことは十分に考えられる。





# by yumimi61 | 2019-03-26 14:20 | 母乳・粉ミルク・液体ミルク

※液体ミルクの注意点

乳児のカリウム摂取基準の算出方法

乳児のカリウム摂取基準(表は前記事参照)は、0~5か月児で400mg/日、6~11か月児で700mg/日となっている。

ー基準(目安量)の算出のベースになっているのは母乳中の平均カリウム濃度である。
①母乳中の平均カリウム濃度を470mg/Lとした。
②0~5か月児の平均哺乳量を0.78L/日と仮定すると、母乳からの摂取量は367mg/日となる。 ⇒0~5か月児は400mg/日

成乳の哺乳量は体重1kgにつき150mlがおおよその目安。3kgならば450ml、6kgならば900mlということになる。
成長期である乳児の場合、月齢によって体重が違うのは当然だが、カリウム基準は0~5か月児とやや幅がある設定である。
従ってもう少し細かくみていくと・・
体重3kgならば212mg/日
体重4kgならば282mg/日
体重5kgならば353mg/日
体重6Kgならば423mg/日
体重7Kgならば494mg/日
体重8kgならば564mg/日
これをまとめて0~5か月児は400mg/日としている。

ー離乳食が始まる時期には哺乳量は少し減る。
①母乳中の平均カリウム濃度を470mg/Lとした。
②6~11 か月児の平均哺乳量を0.53L/日と仮定すると、母乳からの摂取量は249mg/日となる。
③離乳食からのカリウム摂取は492mg/日と仮定する。
④ ②+③=741 ⇒6~11か月児は700mg/日



成人のカリウム摂取基準の算出方法

成人の場合は、高温環境下で尿や便に排泄されるカリウム量から、カリウム不可避損失量(生命活動によって避けることが出来ないカリウム排出量)を決定する。 
尿からの排泄 200~400mg/日、便からの喪失 400mg/日。
汗、その他からの喪失は無視することができるとして、800mg/日を摂取すれば平衡が維持できると仮定した。
しかしこれで実際に測定してみると、体内貯蔵量が減少し、血中濃度が低下した被験者がいたため、全ての人を網羅できるように余裕を持って1,600mg/日(23mg/kg 体重/日)を適切な摂取量と決定した。
さらに日本人の成人が平均的に食事から摂取するカリウムは2,000mg/日を超えており、腎機能に異常がない限り過剰の症状が出る心配もほぼないことから、成人男性では2,500mg/日、成人女性では2,000mg/日が設定された。
(サプリや添加も一般的ではない)

上記のように成人の場合は、実際に決めた量を摂取してもらって、体内貯蔵量や血中濃度を測定するという実験が行われている。この手の実験は健康な人が被験者である。


特別用途食品の成分組成基準

粉ミルク(乳児用調製粉乳)も液体ミルク(乳児用調製液状乳)も「特別用途食品」に該当し、販売には表示が必要で、表示には許可が必要である。
表示許可を得るには、成分組成の基準に適合したものでなければならないので、許可をもらう側のメーカーは当然その範囲内の組成を行うことになる。

今回はその中のカリウムだけに注目する。
カリウム 60~180mg/100kcal  (熱量 100mlあたり60~70kcal)

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「アイクレオ赤ちゃんミルク」は125mlだが、栄養成分表示は100mlあたりの数値で示されている。
100mlで熱量は68kcalという表示があるので、125mlでは85kcalである。
それを上記の「特別用途食品の乳児用調製液状乳」のカリウム組成に対応させれば、51~153mg/85kcal である。
「アイクレオ赤ちゃんミルク」に含まれるカリウムは115mg/85kcalなので、「特別用途食品の乳児用調製液状乳」の成分組成はクリアしている。


実際に摂取するカリウムは・・・

母乳ベースで設定されている乳児のカリウム摂取基準は、0~5か月児で400mg/日、6~11か月児で700mg/日である。

0~5か月児の場合、1日4本の「アイクレオ赤ちゃんミルク」を飲めば、カリウムは460mgとなり、乳児のカリウム摂取基準400mg/日を超える。

しかしメーカーが示している月齢の飲量の目安量は下表の通り。
e0126350_23142505.jpg
1本125mlなので、1回の使用量とほぼ合致するのは、1/2〜1ヶ月。それを1日に7回としている。
こうなると1ヶ月未満の新生児が805mg(115mg×7本)のカリウムを摂取することになる。

しかもこの目安量ではミルク量が840mlということである。
母乳の目安量は、500~650mlくらいなので、そもそも飲ませる量が多い設定となっている。
これでは同じだけ栄養素が含まれていたとしても、ミルクのほうが飲む量が多い分だけ栄養素も多くなることになる。
含まれている栄養素が少ないからこそ量で稼ぐことを推奨しているのか、それとも栄養素を添加してもミルクの場合はやはり吸収が悪いことを前提にしているのだろうか。
ともかく飲ませる目安量が母乳とミルクでは違うことに注意を払わなければならない。
飲ませる量と栄養成分表示からすれば、ミルクは母乳よりもかなり多めのカリウムを摂取することになる。

また飲み残しをとっておいて飲ませることはとても危険である。
メーカーも飲み残しは捨てるように表示している。
しかし1~2ヶ月の1回の目安量は140〜160mlである。1本125mlなのにー。
2本目は捨てる方が多い。かなり無駄である。
それでも赤ちゃんが飲まないならば仕方がないと諦めるかもしれない。
でもまだまだ飲めるよーという赤ちゃんならば、お母さんも飲ませちゃうかもしれない。そうするとどんどんカリウムも多くなる。

かといって捨てずに、「冷蔵庫ならば平気でしょ」と保存して、また飲ませるのも怖い。


母乳に近い栄養成分・・・

パッケージに母乳に近い栄養成分と書いてあるが、「母乳に含まれている栄養成分が揃って入っていて、その量も同じくらい」という意味での母乳に近いではない。
※部分も見てください。
脂質・炭水化物・ナトリウムという栄養成分の成分量は母乳のそれに比較的近いという意味である。
しかもナトリウムの量が母乳に近いのに、カリウムの量はずっと多いとなると、ナトリウムとカリウムのバランス比も気になるところである。


未熟な新生児・乳児であるということ

成人の場合、カリウムの上限値が定められていないとはいえ、腎機能が低下している場合は基準値でもなく、低カリウムが指導される。
赤ちゃんは小さくて様々な身体の機能も未熟である。
乳児の基準量は母乳のカリウム濃度から算出しているが、やはり成人に比べたらずっと少ない。
ということは耐容量だって成人より小さいはずである。

健康な赤ちゃんだって未熟であるが、腎機能が低下している赤ちゃんの場合にはもっと深刻な事態となる。
腎機能が低下していることにすぐに気が付けば良いが、すぐに気が付くとは限らない。
乳児期は定期的に血液検査や尿検査をするわけではないから。


ミルクの温度について

一般的な室内での常温はだいたい15~25℃くらいを想定している。
冷蔵室は5℃くらい。自販機の冷たい飲み物の設定も5℃くらい。
例えばビール。ビールは種類によって適温も違うらしいけれど、日本の一番多いタイプのビールならば5~9℃くらいが適温だとか。キンキンに冷えているビールというのは4~5℃くらいということになる。

そんな冷えたビールじゃなかったミルクを身体機能の未熟な赤ちゃんに飲ませるのは良くない。
液体ミルクも「常温保存可能」とややこしい表示になっているが、常温で保存すべき。どんなに猛暑でもキンキンに冷やしたミルクを赤ちゃんに飲ませらダメ。
一度開封したらたとえ冷蔵庫に入れたとしても雑菌の繁殖は止められないないから、もったいない精神で冷蔵庫に保存するのもダメ。余ったら捨てるべし。
赤ちゃんと大人とは全然違う。特に初乳を含め母乳を全く飲んでいないという赤ちゃんは免疫力が弱い。

常温の飲み物は身体への負担がかかりにくいと言われることがある。
しかし常温に置いた飲み物は生ぬるいと感じることはあっても、大抵は体温より低い。
しかも紙という素材は熱伝導率が低い。熱を伝えにくい。紙パックの飲み物の中身の温度は外部の温度とは同じにはならない。

飲食は体温に近い温度のものほど内蔵への負担は少なく消化もよい。
しかし、身体の中から出てきて外気に触れさせないで飲ませる母乳や人肌に温めたミルクに比べたら、常温保存の液体ミルクは温度が低い。
よって常温保存であっても負担が全くないとは言い切れない。
また冷たいものは体温を下げてしまう。身体の中から下げてしまう。体温調節機能も未熟な赤ちゃんにはやはりあまり適したものではない。
体温低下による免疫力への影響も懸念される。


利点

いろいろ欠点を書いたけれど、粉ミルクが調達できなかったり不足している状況、清潔な水や環境の確保が難しかったり水を沸かすことが困難な状況、つまり災害時など非常時ということになるが、その場合には液体ミルクが役に立つことは間違いない。
但し1人が1日何本も飲むものなので、これだけでカバーするとなると相当の備蓄なり輸送が必要となり、それが可能なのかどうか。
備蓄ならば常温保存で6か月可能とはいっても入れ換えや保存場所の問題なども生じそうである。




# by yumimi61 | 2019-03-24 22:17 | 母乳・粉ミルク・液体ミルク
米(コメ)と自動車にみる基準

日本の米(コメ)は無機ヒ素濃度が高く、WHOやEUが設定している上限値を超えてしまっている。
日本国内では基準値を設定していない。
だからどんなにヒ素濃度の高い米(コメ)でも流通するが、上限値を定めている外国に輸出しようと思ったら受け入れられないだろう。

日本の自動車業界はこれと逆のようなことが起こっている。
相次いで発覚した無資格者による「完成車検査」。
日本においては国内向け生産車については、国土交通省が定めた規則に基づく完成車検査を実施しなければならないことになっている。
外国では日本のように国が「完成車検査」を課していることはほとんどない。
従って日本で生産されても輸出用の生産車には「完成車検査」は課せられていない。

では「完成車検査」を行わない日本の自動車が国外において競争力を持っていないかと言ったら、そんなことはない。
品質が求められる自動車ならば各メーカーは独自の厳しい基準をクリアさせなければならないし、品質よりも安さが求められる自動車ならばそれ相応の基準で出荷すればよいわけである。
価格や用途や求められるものが違う車に一律の検査をしてもあまり意味がないし、コストの面でも問題が生じる。
しかも日本が国内車に課している「完成車検査」は基本動作を確認するもので、電子部品関係の項目も含まれておらず、検査を重視するならば最近の自動車にはそぐわない内容である。
本当にこの検査を安全のために活かしたり、何か効果のあるものにしたいならば、もっと厳しい検査にする必要があるし、そうでければ米(コメ)のヒ素濃度のように国が基準(検査)など設定しなければよいと思う。


粉ミルクと液体ミルク

2019年3月5日、江崎グリコは乳児用調製液状乳(乳児用液体ミルク )について、消費者庁より特別用途食品の表示許可を受け、「アイクレオ赤ちゃんミルク」の販売を開始した。3月11日より順次全国で発売されることとなった。
また明治も3月下旬に乳児用の液体ミルクを発売することが発表されている。

特別用途食品とは、乳児、幼児、妊産婦、病者などの発育、健康の保持・回復などに適するという特別の用途について表示するものです。

そこで日本初の乳児用液体ミルクとなった「アイクレオ赤ちゃんミルク」の原材料を同社の粉ミルクと比べてみたい。
原材料表示は、使用されている量(重量)の多い順番に並べるという規則がある。
ただし原材料と食品添加物は分けることとされている。(添加物の方も多い順番に並べる)
液体ミルクの表示のからあとの記述が食品添加物という扱いになっている。
このように何らかの形で区別したり、改行したり、原材料の後に添加物を持ってくるなどしているが、一般的には分かりにくい。

=アイクレオ(グリコ) バランスミルク=
調整食用油脂(分別ラード、オレオ油、大豆油ヤシ油パームオレイン)、ホエイパウダー、乳糖、脱脂粉乳、たんぱく質濃縮ホエイパウダー、ガラクトオリゴ糖、エゴマ油、レシチン(大豆由来)、塩化カルシウム、水酸化カルシウム、ビタミンC、タウリン、イノシトール、硫酸第一鉄、硫酸亜鉛、5′-シチジル酸、ビタミンE、5′-ウリジル酸ナトリウム、ニコチン酸アミド、パントテン酸カルシウム、5′-アデニル酸、5′-イノシン酸ナトリウム、5′-グアニル酸ナトリウム、硫酸銅、ビタミンB1、ビタミンA、ビタミンB2、ビタミンB6、β-カロテン、葉酸、ビオチン、ビタミンD3、ビタミンB12


=アイクレオ(グリコ) 赤ちゃんミルク=
調整食用油脂(分別ラード、オレオ油、大豆油、ヤシ油、パームオレイン)、ホエイパウダー、乳糖、脱脂粉乳、たんぱく質濃縮ホエイパウダー、ガラクトオリゴ糖液糖、エゴマ油V.C、レシチン、炭酸K塩化K、水酸化Ca、V.E、イノシトール、タウリン、5’-CMP、硫酸亜鉛、ウリジル酸Na、硫酸鉄、ナイアシン、5’-AMP、パントテン酸Ca、硫酸銅、V.A、イノシン酸Na、グアニル酸Na、V.B1、V.B2、V.B6、カロテン、葉酸、ビオチン、V.D、V.B12、(一部に乳成分・大豆を含む)


粉ミルクのガラクトオリゴ糖が液体ミルクにてガラクトオリゴ糖液糖になっただけで、使用している原材料は同じである。
添加物のほうは少々変わっている。
その中でも目立つのが液体ミルクへのカリウムの添加である。
そこでメーカーが記載している栄養成分のカリウムもチェックしてみた。
アイクレオの粉ミルクのカリウムは57.1mgで、先日掲載した母乳と粉ミルク栄養成分比較表においては、6社の中で一番母乳に近い数値となっていた。
母乳は48.0mgである。
それが今回の液体ミルクでは92.0mgとなっている。


カリウムって?

カリウムは体内に存在するミネラルの中で最も量が多い。
体内のカリウムの98%は細胞内に存在し、残りの2%が細胞外にある。
細胞外に多いナトリウムとともに細胞の浸透圧を維持調整する働きがあるため、生命維持に重要な役割を担っている。
ほとんどの食品にかなり含まれているため、一般的には不足することは少ないが、不足する原因として考えられるのは、塩分の過剰摂取、大量の発汗、下痢や嘔吐、野菜不足、無理なダイエットなど。(夏バテは軽い低カリウム血症のような状態だと言われる) 利尿薬などを使用している場合には注意が必要となる。
身体に含まれている余分な塩分(ナトリウム)を排出する作用があることから血圧を下げる効果があると言われていて、このことから生活習慣病予防のためには大目にカリウムを摂取したほうが良いとも言われている。


カリウムの極端な使い方

カリウムを摂りすぎると、手指や唇のしびれ・全身がだるさ・不整脈などの症状が現れ、心臓が止まってしまう原因にもなる。

カリウムは微量で神経伝達や筋肉の機能に働く。
従って大量に投与すれば心臓を停止を招くのである。

この作用を利用して薬殺刑にも利用されている。

薬殺刑
刑罰の一種で、囚人に致死量の薬物を注射することによって執行される死刑である。
死刑制度が存置されている国においては、銃殺刑など様々な手段で刑の執行が行われている。そのうち薬殺刑は、比較的最近登場した死刑方法である。
現在、世界で最も薬殺刑が行われているのは、アメリカ合衆国の一部の州であるが、中華人民共和国(1997年以降一部実施)、グアテマラ(1998年)、タイ王国(2003年)でも行われている。
また中華民国(台湾)においては、臓器提供を希望する死刑囚は、全身麻酔を施した上で、脳組織を銃弾で破壊し、脳死状態に至らしめた上で、臓器を摘出されるが、これも広い意味で薬殺刑の範疇に入れられる場合もある。

薬殺刑に処せられる受刑者は、テーブルに固定されたあと2本の静脈カテーテルを挿入される。そのうち1本はバックアップ用であり、実際には1本で行われる。3種類の薬物を段階的に注射される。最初のチオペンタールナトリウム(バルビツール酸系全身麻酔剤)注入で意識を失い、次の臭化パンクロニウム(筋弛緩剤)注入で呼吸を止められ、最後の塩化カリウム溶液で心臓を止められて処刑される。 死に至るまでの過程は心電図でモニターされており、通常7分で処刑が完了するという。

これらの死刑執行を取り仕切るのは医師であり、大抵は医師同席で実施される。執行される場も手術室のような部屋で行われる。そのため一見すると綺麗であり安楽死であるともいえるため、尊厳なる死が迎えられるとして人権に配慮していると主張される反面、死刑制度を存続させるためにソフト化し、効率を高めるためだという批判もなされている。また実際の注入スイッチを押すのは従来どおり刑務所職員である。


ただ製薬会社は自社の製品が薬殺刑に使用されるのを嫌う。
やはりイメージ的にあまり良くないし、変な誤解を与えかねないからであろう。
薬殺刑という利用目的では販売しないとなると、今度は非正規な調達も行われてしまうことになる。
EUなどは拷問(死刑も拷問の範疇に含む)に使用される薬剤の輸出を全面禁止している。


カリウム摂取目安

食事などで摂取されたカリウムは小腸で吸収され全身の組織に運ばれ、腎臓によって尿にて排泄される。
腎臓の調節によって血中のカリウム濃度は一定に保たれており、摂りすぎたとしても通常は余分なものを排出してしまうので、食事によって(サプリとしても一般的ではない)カリウムが過剰になるリスクは低いと考えられており、摂取上限量も設定されていない。

但し腎機能が低下している場合は、腎臓での調節機能が上手く働かずカリウムを十分に尿に排泄することが難しくなり体内に蓄積されていく。
血中カリウム濃度が高くなると非常に危険で、上に書いたように不整脈が起きたり心臓が止まって突然死に至ることがある。
従って腎機能が低下している場合にはカリウムが制限される。
下記表の数値及び高血圧予防に大目に摂取という話は、腎機能に問題がない人の場合である。
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(記事を変えて続きます)




# by yumimi61 | 2019-03-24 11:42 | 母乳・粉ミルク・液体ミルク

ヒ素~発がん性~

ヒ素の発がん性

前記事にはヒ素の中毒症状を記したが、ヒ素は発がん性のある物質としても知られている。
発がん性は中毒とは別に扱われることが多いが、発がん性も慢性中毒の1つと考えても差し支えないのではないだろうか。

IARC(WHOの外部組織である国際がん研究機関 ) による発がん性リスク一覧で、ヒ素およびヒ素化合物は最もリスクが高い「グループ1」に分類されている。

但し「グループ1」というのは、”ヒトに対する発がん性が認められる (Carcinogenic)”という区分にあたり、発がん性のある物質の中でとりわけ発がんの確率が高いとうことを意味するわけではない。
続く「グループ2」は、”ヒトに対する発癌性があると考えられる”(おそらくある、疑いがある)という区分で、こちらはかなり疑わしいが確定には至っていないという感じ。

「グループ1」にも数多くの物質や環境が存在している。
例えば、化学物質ならば、ベンゼンやカドミウムやホルムアルデヒドなどが良く知られているだろうか。
また化学物質の中には、抗がん剤や免疫抑制剤といった薬剤も含まれている。
(血液のがんである白血病治療に用いられるヒ素に発がん性があるように、抗がん剤にもかかわらず発がん性があるとされる薬剤が幾つかある)
化学物質以外では、B型やC型肝炎ウイルスの慢性感染 、ヒトT細胞白血病ウイルス1型の感染、HIV-1ウイルスの感染も含まれている。
放射線や核種による内部被爆、経口避妊薬の常用や組み合わせ、更年期以降のエストロゲン療法も含まれる。
身近な物で言えば、アルコール、紫外線、煤煙、加工肉なども含まれる。
環境的なものとしては、タバコの喫煙、受動的喫煙環境、アルミニウム精錬従事、靴製造あるいは修理に従事、家具製造環境、飲料水中のヒ素含有環境などが含まれている。



身近にあるヒ素リスク

農林水産省のヒ素に関するQ&Aより

ヒ素は自然環境中に広く存在する元素です。土壌や水中に天然由来のヒ素が含まれています。
また、環境中に存在するヒ素には天然由来のほかに、火力発電、金属精錬、廃棄物の処理といった産業活動に伴って環境中に放出されたものもあります。
このため、様々な食品や飲料水は、微量のヒ素を含んでいます。

無機ヒ素(炭素を含まない化合物)が一度に、または短い期間に大量に体の中に入った場合は、発熱、下痢、嘔吐、興奮、脱毛などの症状があらわれると報告されています。また、無機ヒ素が長期間にわたって、継続的かつ大量に体の中に入った場合には、皮膚組織の変化やがんの発生などの悪影響があると報告されています。

ヒ素は自然環境中に存在しているため、水や食事にて継続して摂取することが問題視されている。

食品安全委員会は、食品に含まれるヒ素が健康に及ぼす影響について、どのように評価していますか?

(1)食品安全委員会は、食品に含まれるヒ素が日本人の健康にどのような影響を与えるかを科学的に評価し、平成25年12月、「化学物質・汚染物質評価書 食品中のヒ素」を公表しました。

(2)食品安全委員会は、食品に含まれる無機ヒ素が健康に与える影響を中心に、各種試験成績や疫学調査結果等を用いて評価しました。

(3)しかし、疫学調査の対象地域(インド西ベンガル地方、バングラデシュ、中国内モンゴル自治区、台湾及びチリ)の住民が食品全体を通じて摂取する無機ヒ素の量を正確に推定することが難しかったこと、また、調査地域と日本では生活環境が大きく異なること(日本では水道が整備されているため、飲料水からヒ素の摂取がほとんどない等)や有害性を評価するために必要な知見が不足していることから、日本において、どのくらいの量の無機ヒ素が体の中に入った場合に、健康への悪影響が生じるかを評価することは困難であると判断しています。


端的に言えば、(動物実験など各種試験では発がん性が認められるが、)日本において疫学調査をしたことがないから、日本では安全とも有害とも評価することは出来ないということである。

疫学調査がされている地域は、上流に天然のヒ素化合物鉱床がある河川流域で、ヒ素中毒が顕著に見られた地域。
砒素中毒で最も有名なのは台湾の例であり、足の黒化、皮膚癌が見られた。汚染が深刻な国バングラデシュでは、皮膚症状、呼吸器症状、内臓疾患をもつ患者が増えている。ガンで亡くなるケースも報告されている。中国奥地にもみられ、日本の皮膚科医が調査している。

日本でもヒ素の公害事例があるが、河川の水だけでなく大気も原因であった。
土呂久砒素公害
1920年(大正9年)から1941年(昭和16年)までと1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までの計約30年間、宮崎県西臼杵郡高千穂町の旧土呂久鉱山で、亜砒酸を製造する「亜ヒ焼き」が行われ、重金属の粉塵、亜硫酸ガスの飛散、坑内水の川の汚染でおきた公害である。皮膚の色素異常、角化、ボーエン病、皮膚癌、鼻中隔欠損、肺癌などをきたす。鉱業権を買った住友金属鉱山に対して1975年裁判が始まったが、15年後和解した。

日本で問題となるのは魚介類や海草など海産物と主食である米である。

(4)また、日本人が食品を通じて摂取するヒ素に関して、「海産物中には多くのヒ素化合物が含まれている」、さらに、「農産物の中ではコメからの摂取が比較的多い傾向にある」と評価しています。しかし、「日本において、食品を通じて摂取したヒ素による明らかな健康影響は認められておらず、ヒ素について食品からの摂取の現状に問題があるとは考えていない」、ただし、「一部の集団で多く無機ヒ素を摂取している可能性があることから、特定の食品に偏らずバランスのよい食生活を心がけることが重要」としています。

(5)さらに、食品安全委員会は、この評価結果を踏まえて、「食品を通じたヒ素の摂取については、特段の措置が必要な程度とは考えていないが、これまで行ってきた食品中のヒ素の汚染実態を把握するための調査、ヒ素のリスク低減方策に関する研究等をさらに充実して取り組んでいくことが必要である」としています。 

ヒ素濃度の高い海産物と毎日のように食べる米(コメ)

海産物では、海水に溶け込んだヒ素が、藻類やプランクトンに取り込まれ、また、食物連鎖を通じて濃縮されるため、ヒ素が比較的高い濃度で含まれています。
我が国では、伝統的に海藻類や魚介類を摂取する食習慣があるため、諸外国と比較して多くのヒ素を食事から摂取しています。しかし、食品安全委員会によれば、通常の食生活における摂取で健康に悪影響が生じたことを明確に示すデータは現在のところありません。ただし、「一部の日本人で無機ヒ素の摂取量が多い可能性があるため、特定の食品に偏らず、さまざまな食品をバランスよく食べることが重要」としています。


・2004年には英国食品規格庁がヒジキに無機ヒ素が多く含まれるため食用にしないよう英国民に勧告した。これに対し、日本の厚生労働省はヒジキに含まれるヒ素は極めて微量であるため、一般的な範囲では食用にしても問題はないという見解を出している。
(2004年7月、日本から輸入したヒジキに無機ヒ素が多く含有されていることから、英国食品規格庁が摂食を控えるように勧告した)

・スウェーデン食品局は2015年に6歳未満の乳幼児にコメやコメ製品を与えないように勧告しており、大人でも「毎日食べるべきではない」としている。

・国立医薬品食品衛生研究所安全情報部第三室長である畝山智香子の『「安全な食べもの」ってなんだろう? 放射線と食品のリスクを考える』によると、1日3食、毎日コメを食べた場合のがんリスクを、放射能による影響と比較して「20ミリシーベルトの被曝と同じぐらい」としている。



食品に含まれるヒ素濃度の基準値

日本では食品中のヒ素濃度の基準値はない。
あるのは、環境基準(土壌と公共用水域・地下水)、水道水水質基準、それに残留農薬(但し今現在、日本ではヒ素を主成分とする農薬の登録がない)の基準値である。排ガス・排水・廃棄物に関する規制はある。

コーデックス委員会(国際食品規格委員会)
消費者の健康の保護、食品の公正な貿易の確保等を目的として、1963年にFAO及びWHOにより設置された国際的な政府間機関であり、国際食品規格の策定等を行っている。日本は1966年より加盟している。

国際的には従来よりコーデックス委員会が食品に含まれるヒ素濃度の一般基準値を設定していた。
2010年、そこからさらに踏み込んで、米(コメ)のヒ素濃度の最大基準値を検討することを発議し、2014年に精米中の無機ヒ素の最大基準値(0.2 mg/kg)を、2016年に玄米中の無機ヒ素の最大基準値(0.35 mg/kg)を採択した。

コーデックス委員会の動きを受けて、EUも2015年に米(コメ)の無機ヒ素濃度の基準を定め、2016年から施行している。
EUの基準は、精米0.2 mg/kg、玄米0.25 mg/kgであり、玄米はコーデックスの基準よりもさらに厳しい値となっている。
またEUは独自に、パーボイルドライス0.25 mg/kg、乳幼児用食品に利用する米(コメ)0.10 mg/kgについても基準を設けた。

オーストラリアやニュージーランド、中国なども米(コメ)のヒ素濃度の上限値が設けられている。


ジャパニーズ・ライス

米(コメ)を主食としているにも関わらず、日本は米(コメ)のヒ素濃度基準を設定していない。
コーデックス委員会(国際食品規格委員会)に加盟してはいるものの、そのガイドラインには従っていないという状況である。
何故かと言うと、日本の米(コメ)の平均的なヒ素濃度は、コーデックス委員会(国際食品規格委員会)の基準値を超えてしまっているからである。

となれば、基準値のある国々にジャパニーズ・ライスを輸出することは不可能となるであろう。
でもパンはパンで、トランス脂肪酸とかパーム油とかが逆風ですね。(シンプルなパンにバターを付けて食べればいいのよ?)

日本はヒ素だけでなくカドミウムも過度な傾向にあり、食品に含まれるカドミウム濃度基準のある国々では、こちらもひっかかってしまう状況にある。






# by yumimi61 | 2019-03-22 15:12 | 母乳・粉ミルク・液体ミルク