2018年 03月 23日
日本国憲法の秘密-697- (外貨準備と貿易について)
1920年、ロスチャイルド家の支援により公益キュリー財団(Fondation Curie)が創設された。
その目的はラジウム研究所の活動資金を調達すること。
この時より、キュリー財団とラジウム研究所が一緒になって、キュリー研究所(Institut Curie)になった。
財団というのは拠出された財産で設立される。これを出したのがロスチャイルド。
財産を運用などして金利など運用益をあげる、公的補助金や民間助成金などの外部資金を獲得する、一般市民などから広く資金協力してもらう、それらの資金を事業原資として運営する法人である。

投資家というのは、社会的連帯感や倫理的義務感に基づいて、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動を起こし奉仕しているわけではない。決して慈善事業(罹災者・病人・貧民の救済など)ではない。
投資することによって一人前の産業や会社に育て上げ、やがて投資以上の利益を回収するのが目的である。
投資家の立場に立てば、利益の副産物として科学や産業の発展があるということになる。主産物ではない。
副産物である科学や産業の発展が人類や社会にとって望ましいものかどうかなんてことは大して重要ではない。副産物は廃棄物になることも多い。(その逆でなかには副産物と主産物が逆転することもあるけれども)
投資家には何かを開発したり発展させたという誇りも名誉も付いてこない。
投資家にとって価値があり、目的とするものは、あくまでもお金(利益)を得る事なのだ。
ロスチャイルドは投資家であり、実業家でもある。
利益が出るかどうかいまひとつ自信が持てないものに、闇雲に大金を注ぎ込み続けるのは賢くないし得策ではないと考えるだろう。
富豪なので先陣を切ってお金を出してはいるが、財団という形で資金提供を他人にも振る形を採っている。
それが「放射線」への認識だったはずだ。


現在ヨーロッパにはマリー・キュリー財団(Marie Skłodowska-Curie actions;MSCA)という有名な給付型奨学金(助成金)が存在する。
日本語訳は「マリ・キュリー財団」であるが、これは上記キュリー財団とは直接関係はない。
マリー・キュリー財団(Marie Skłodowska-Curie actions)は、欧州連合(EU)の欧州委員会によって1996年にMarie Curie actionsとして設立された助成金である。
2014年以降は、マリ・キュリー(結婚後のフランス名)ではなくて、ポーランドの旧姓kłodowskaも名称に入れている。(ファーストネームMarieはフランス名、ポーランド名ではMaria)
ヨーロッパにおける研究を助成支援するものであるが、奨学生や研究者はヨーロッパ人でなくても構わない。
欧州研究評議会(ERC)が60億ユーロ(現レートで7,700億円)ほど拠出している。
これまでに10万人以上学生や研究者が支援を受けてきたという(20年として年間5,000人以上)。
拠出金だけだとして10万人で割れば、1人当たり770万円の支給という計算になる。
奨学金の場合、渡航費・授業料・滞在費などすべてがカバーされる。
こんなにお金を出してもらうと、やはりそれなりに出資者の意向に縛られることになる。出資者の意向で教育されるというか、抱え込みというか。お礼奉公とは感じさせないお礼奉公とか。
つまりベクトルを合わせる作用がある。



キュリー研究所
前身はラジウム研究所。現在に至るまで少数精鋭を貫き、所属人数に対するノーベル賞受賞者は他の研究機関に比べて群を抜いて多い。(とはいってもほとんどキュリー一族である)

当研究所関係者によるノーベル賞受賞歴。
 ピエール・キュリー、1903年物理学賞
 マリー・キュリー、1903年物理学賞
 マリー・キュリー、1911年化学賞
 イレーヌ・ジョリオ=キュリー、1935年化学賞
 フレデリック・ジョリオ=キュリー、1935年化学賞

 ピエール=ジル・ド・ジェンヌ、1991年物理学賞
 ポール・ナース、2001年生医学賞 



Irene Joliot-Curie(イレーヌ・ジョリオ=キュリー)1897年生まれ、1956年58歳没。
キュリー夫妻の長女。夫妻がマリの博士論文のためにベクレルの研究の続きに取り組む前年に生まれている。
彼女は両親と一緒に生活した記憶はないという。

パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚。1934年に30Pを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。
白血病で亡くなった。

Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)1900年生まれ、1958年58歳没。

1925年にキュリー研究所でマリ・キュリーの助手となり、そこでマリの娘であるイレーヌと知り合い、翌1926年に結婚した。

1934年に妻イレーヌと共に、アルミニウムへアルファ線を照射することによって世界初の人工放射性同位元素である30Pの合成に成功し、それにより1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞した。
第二次世界大戦時はレジスタンス運動に参加し、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁長官となり、コレージュ・ド・フランスの教授も務めた。1947年には、フランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功。

白血病で亡くなった説と、肝臓病で亡くなった説がある。


人工元素とは人間が作り出した元素であり、自然界には存在しない。(プルトニウムなどは後年わずかながら天然にも存在すると報告されているが)
人工元素は加速器や原子炉を使った核反応または核分裂によって作り出す。人工元素は全て人工放射性元素である。
それを世界で始めて作ったのが、キュリー夫妻の長女とその夫。
アルミニウムにアルファ線を照射してリン30という人工放射性元素を作った。
それが1934年のことだった。
これを「放射化」とも言う。
このことから言えば、原子炉やそこで使われている物品の物質では放射化が起こるはずである。つまりエネルギーを作るために投入された放射性物質とそれが崩壊して放出された放射性物質だけでなく、装置や物品を作っている物質(安定元素)が放射性元素に変わって放射能力を保有してしまっているということになる。また常時大量の放射線を浴びている金属以外の物質の劣化は著しいはず。金属だって相当のエネルギーを受け、海水や塩素水をかぶり、むき出しで水や何らかの溶液に浸かりあるいは雨水にあたり潮風に吹かれているとすれば材質が劣化し違うものになりかねない)

長崎に落とされたという原爆はプルトニウム爆弾であるが、プルトニウムという人工放射性元素が作られたのはすでに戦争が始まっていた1941年のことである。
イギリス政府もアメリカ政府もどちらも原爆開発には然程乗り気ではなかったが、その風向きが変わったのは人工放射性元素プルトニウムが新発見されたからだった。

プルトニウムはウランの欠点を補った。
補うように理論を構築したら、あっけなくその通りのことが現実でも起こったということなのである。
プルトニウムの爆弾と言っても、こちらも分離が出来ているわけではない。
ウラン238からの反応を用いるわけで、実際に仕込むのはウランである。

以前書いたがいろいろと問題は多く、とても現実的なこととは捉えられない。


プルトニウムの陽子数は94。ウランの陽子数は92で天然元素の中では一番多いわけだが、それよりさらに2つ多い。
つまりウランより重く不安定な元素なのだ。
ウランより重い元素(超ウラン元素)を人工的に作り出すことを可能にしたのは加速器だった。

加速器は粒子に運動エネルギ−を与え速度を上げる装置である。
放射線は電磁波放射線と粒子線に大別できる。
X線やガンマ線は電磁波放射線。ベータ線やアルファ線・中性子線・電子線・陽子線などは粒子線。
電子を加速すれば電子加速器、陽子を加速すれば陽子加速器である。

前記事にコバルト60やセシウム137が放出するガンマ線によって滅菌が行われているという話を書いたが、そのガンマ線はガンマ崩壊にて自然に放出されるものである。崩壊によってガンマ線は自然に直進していく運動エネルギーを持っているということ。
ガンマ線の場合、電子は二次的に発生し、その電子が電離作用を起こして滅菌や物性変化を起こす。
一方の加速器は、電場を用いて人工的に運動エネルギーを生み出し電子や陽子を放出させる。
これを用いた電子線滅菌というものがあるが、加速器で直接電子を発生させ、電子そのものを照射することになるので、二次的ではなく直接的に滅菌や物性変化を起こす。
加速という言葉で勘違いを誘いそうだが、透過率(物質をすり抜ける力)はガンマ線のほうが優れていて、電子線のほうが劣る。
但しガンマ線に比べて単位時間当たりの照射量は5千~1万倍程度も高いので、形状が適していれば非常に短時間での滅菌が可能。
滅菌線量25kGyを照射するのにかかる時間はガンマ線では数時間かかるが、電子線は数秒で済む。
電磁波であり透過しやすいガンマ線と、粒子線であり透過しにくいベータ線やアルファ線が人間の身体に与える影響、特に人間が体内に放射性物質(放射性元素)を取りこんでしまった場合(内部被爆)の影響はそれくらい違うということになる。

加速器によってウランより重い元素が初めて作られたのは1940年。
アメリカの科学者がウラン239からネプツニウム(陽子数93)を作りだした。(1951年にノーベル化学賞)
その年の終わりから翌年にかけてプルトニウムが作り出されたが、放射性元素というのは放っておいたって不安定で崩壊していくものなので、一度作った「プルトニウム」(分離は出来ていないが)をいついつまでも維持することは出来ない。量にしても同じ。



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# by yumimi61 | 2018-03-23 13:27
2018年 03月 22日
日本国憲法の秘密-696- (外貨準備と貿易について)
178.png2008年4月までカテゴリーとタグ付完了しました。


キュリー夫妻は1903年にノーベル物理賞を受賞しているので世界的な知名度を得た。
夫ピエールが1906年に亡くなった後にマリは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーからも資金援助されていた。

アンドリュー・カーネギーはスコットランドで手織り職人の息子として生まれたが、13歳の時に家族でアメリカに移住。
彼がアメリカで最初に富を得たのは、アメリカ南北戦争(1861-1865年)前後の鉄道事業への投資だった。
借金をして寝台車のための会社に出資し大成功を収め、得た資金をさらに鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していった。
1870年代にはカーネギー個人の製鋼所を設立した。
『ジェームズ・ボンド』の著者イアン・フレミングの祖父がスコットランドでアメリカの鉄道事業への投資を集めたのは(投資信託)はこの頃である。
1892年、カーネギーは所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を設立し、銑鉄、コークス(当時重要な燃料)、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっていた。
1880年代後半にアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大部分はカーネギーの会社が担っていた。
しかしカーネギーは結婚が遅く、子供が生まれたのも52歳の時で、しかも女の子。後継ぎがいないこともあって、1901年にJ・P・モルガン(ロスチャイルド系だがアメリカで発展)に会社を売却した。
J・P・モルガンは他の会社を幾つも合併させUSスチールとした。これは独占形態である。
カーネギー個人は自身が保有していた株式を売却することによって安定して多額の資金を得ることに成功。

マリ・キュリーはピエール亡き後、その大富豪から支援を受けていた。
さらにアンリ・ロスチャイルドなどの資金援助のもとフランスで1909年にラジウム研究所が設立された。

夫亡き後、世の同情を集めに集めたマリであったが、1911年に不倫が発覚した。
お相手は亡き夫ピエールの教え子であった。マリは未亡人だから問題ないはずだが、同情を集めただけに心証が良くない。
さらに不味いのが、お相手が既婚者だったこと(離婚するところだったらしいが)。
マリに一気に逆風が吹く。
その風を打ち消すがごとくノーベル化学賞受賞のお知らせが届く。
ノーベル化学賞を受賞したのはある理論を実験によって論破したからだった。

ある理論とは「精製されたラジウムは元素ではなく化合物」というもの。
発表者は初代ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソン( William Thomson, 1st Baron Kelvin OM, GCVO, PC, PRS, PRSE)。アイルランド生まれのイギリスの物理学者。
キュリー夫妻は1903年までに鉱石からラジウムの精製に成功し、それを元素(純粋な金属)として発表してノーベル物理賞を受賞したが、元素ではなく化合物であろうと主張したのがケルヴィン男爵。
だがマリは純粋なラジウム金属の分離を1910年に成し遂げたそうで、それによってノーベル化学賞も受賞した。


ラジウムはウランの300倍の放射能力を持つが、その精製は非常に難しく効率の悪いものだった。
キュリー夫妻が精製に用いたのは複雑な化学組成を持つピッチブレンドという混合鉱物である。この鉱石は非常に高価であった。鉱山からフランスまで運ぶには当然輸送費もかかる。
夫妻が最初に手に入れた鉱石は1トンだったが、夫妻が目論んだ元素の含有率1/100にはどこにも届かず、
実際には1/1,000,000相当でしかなかった。有意な量の結晶を得るためには何トンもの鉱石が必要だったのだ。
従って精製に成功したというそれは元素でなく化合物なのではないかとケルヴィン男爵が疑念を抱いたのも無理からぬことである。
特許を取らなかったために幾ら使い放題と言っても、ちょっと効率が悪すぎという感じは否めない。それに勝る効果があるのかどうか。(待っていたのは健康障害や死だったのだけれども)
ノーベル化学賞を受賞した成功実験で精錬されたラジウム金属は0.0085グラムだったという。
でも鉱石を売る側から見れば、それを使う人がいるならば精製の効率が悪いほど鉱石が沢山売れて喜ばしいことである。



ラジウム研究所の設立に関わった人物にフランスの医師で生物学者のClaudius Regaudがいた。
彼はパスツール研究所でÉmile Duclaux(ルイ・パスツールの助手から共同研究者となり、研究所の副所長から所長になった)に師事し、微生物などの研究をしていた
1900年にドイツの医学者から放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされたが、Claudius Regaudもその後すぐに生物影響の研究に着手した。


1906年、彼は放射線(X線)に細菌の死滅効果があることを発見した。
現代においても放射線(γ線)は医療用具の滅菌に利用されている。
コバルト60やセシウム137が放出するγ(ガンマ)線によって細菌を死滅させるのだ。(γ線はX線の特徴と同じ。β線やα線はそれより進みにくい)
照射するガンマ線のエネルギーを極端に強めない限り、照射対象が新たに放射能を持つ放射化は無視できるほど小さい。照射対象の材質を大きく損なうことがなく、薬品による滅菌に伴う有害物質の残留もないことから、医療機器や無菌動物の飼料に用いられている方法である。
しかしながら、ガンマー線滅菌に限らず放射線を用いた滅菌では金属類以外では必ず材質劣化があることから材質劣化が問題とならない範囲内で照射しなければならない。

放射化は無視できるほど小さいとあるが、放射化とは照射対象となる物(例えば手術用メスや注射器など)の物質の安定同位体元素が放射線を受けて放射性同位体に変わってしまうことである。
滅菌状態とは滅菌後の医療器具に1個の微生物が生き残っている確率が百万分の1になること。
確率がこれより下がった状態を無菌と定義している。理論的には絶対に細菌ゼロ(無菌)にはならない。
滅菌線量は25kGy〜35kGy。菌を選択する能力はない。
無機質な物だからよいが人間をはじめとした生物には必要な菌もある。


Claudius Regaudは、細菌死滅効果の他にも、放射線は細胞分裂が盛んで分化の程度が低い細胞に有効である、それはつまりがん治療に使えるであろうことを推測した。
人間の臓器や組織の中で細胞分裂が盛んで分化の程度が低い未熟な細胞が比較的多いのは、血液・骨髄・リンパ組織、生殖器(精巣・卵巣)、乳房(但し年齢やホルモン環境、妊娠出産授乳経験など個人差が大きい)、消化器粘膜、皮膚など。
これらの臓器や組織は放射線感受性が高いということ。
一方、がん細胞もまた細胞分裂が盛んに行われ、未分化(未熟)な細胞が認められることが多い。だから治療にも使えるのではないかと考えたわけだ。
がん細胞というイレギュラー細胞は誰にでも生じる。しかし通常は免疫細胞が退治してくれるので問題にはならない。
但しがん細胞というものは分裂の勢いがなかなか落ちずに増殖しやすい。増殖が留まらなければやがて免疫細胞による退治が間に合わなくなる。
がん細胞であっても分化の程度が高ければ悪性度は低い。


1912年、ラジウム研究所において放射線の医療応用に関する生物学的研究をする部門を設けて、マリらの物理や化学分野とは分けた。
ラジウム研究所の生物学的研究はパスツール研究所が担当することになり、Claudius Regaudがその責任者となった。1914年から専任となった。
彼は放射線治療のパイオニアなのである。
また1915~1917年には国の行政にも関わり、最先端の研究と一般的な病院のケアを組み合わせた近代的な病院を創設した。これは現在世界中にある「大学病院」というものの起源となったそうである。
大学病院は放射線治療から始まったということですね。






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# by yumimi61 | 2018-03-22 15:37
2018年 03月 22日
料簡
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特別に考えたこともないくらい当たりまえに出来ると思っていたことを

意識するから出来ないことってあって

普段なんでもなくやっていることなのに

意識するから苦しくなることもあるよね

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*泣く子も黙る任天堂株式会社のルーツは「かるた屋さん」。
花札、トランプ、百人一首。 
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*俳句や短歌、標語やキャッチコピーには著作権があるのかということが時々話題に上ることがある。
創作にしては短すぎるということなんだろう。
多くの人が知っていて普通に使っている使用フリーな言葉を並べただけのものに著作権があるのかということなんだろう。
引用は罪なのか、パロディは罪なのか、偶然の一致を信じられるか。
事実を書いた。伝聞を書いた。(ちなみに裁判に於いては伝聞は証拠能力がありません)
じゃあ写真は?
街を撮った。街を歩く人を撮った。
同じ場所で街を撮った。同じ場所で街を歩く人を撮った。
少し前に素人の短歌が使われていたと問題になっていたことがあった

引用です!
永遠と 思い込んでた 「青春」の 二文字の中に 「月日」があった (逢)

これが「青春の二文字の中に月日があるのはただの事実にすぎない」ではちょっと哀しいなあと思ってコメントを読み進めていたら、おもしろいのを見つけてしまいました。
886 @suguso5
俺も抒情的な詩を思いついたよ。「都道府県」だと思っていた「群馬」の二文字には「君」の隣に「羊」と「馬」がいたのさ





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# by yumimi61 | 2018-03-22 00:40
2018年 03月 20日
日本国憲法の秘密-695- (外貨準備と貿易について)
1906年、キュリー夫妻の夫ピエールが事故で亡くなった。
急な死ではあったが1903年にはすでにノーベル賞授賞式にも出席できないほど体調の悪い時があった。
夫妻は1903年に第二子を流産しているが、1904年には次女が誕生している。
研究仲間でもある夫を急に亡くし、幼子を抱えた妻マリには同情が集まった。
ピエールの亡くなった1906年に「マリ・キュリーに研究所を作ってあげたら」と提案したのは、パリ社交界の美しき華グレフューレ伯爵夫人だった。
自分達の実験室を持ちたいというのはキュリー夫妻のかねてからの希望でもあったのだ。
Marie Anatole Louise Elisabeth, Countess Greffulhe

グレフューレ伯爵夫人はパリで立ち上げられたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のパトロンであり、その他にも名だたる音楽家、画家、彫刻家、作家などの製作活動を援助していた。
『失われた時を求めて』を書いた小説家マルセル・プルーストのミューズだったそうで、グレフューレ伯爵夫人は彼の小説の登場人物のモデルにもなった。(どうでもいいかもしれないけど、私の「情景」という記事にマルセル・プルーストの名前と『失われた時を求めて』が登場している)
夫人は自分でデザインもしたという大層美しいドレスを纏っていたことで有名な御方だが、ドレスだけでなく芸術や文化を纏い、一時代のパリを形作ったと言ってもよい人でもあった。
その中に科学も含まれていた。

1908年にパリ大学とパスツール研究所共同の創案で、1909年にラジウム研究所が設立された。
研究所へ行く新しい通りにはピエール・キュリーの名が付けられた。


グレフューレ伯爵夫人の夫はフランス貴族のヘンリー・グレフューレ伯爵。
代々フランスの政治家で彼も政治家であった。
祖父はGreffulhe Montz et Cieという銀行の創設者であって銀行家一族でもある。

フランスは貴族の本場である。中世以降のヨーロッパの貴族のモデルケースになったのがフランスと言える。
“aristocracy”
この言葉の語源は「優れた者による支配」。
優れた者とはどんな者かということは時代によって違った。
エリート層(職業・知識・経験・統治に必要な資質などを持つ人)、特権階級(世襲される上流階級)、高貴なる義務を持つ者(統治・軍の統率)、金権政治階級の上層(金持ち)など。
中世以降は金権政治階級の上層(金持ち)が特権階級(世襲される上流階級)であるというパターンで貴族制度は敷かれた。
ただそれではどことなく高貴さに欠けるので、古代から高貴な証の1つであった軍の統率という役割が与えられた。勇敢さは美徳だったのだ。
その高貴さを保障していたのは宗教(教会)であった。
ナポレオンの軍隊と比較して「イギリスの軍隊はイートン校育ちだから勝てたんだ」というようなことを婉曲的に言った人物がいたという話を前に書いたけれども、確かに貴族という人達が自ら戦争に赴いた時代があった。
イギリスでは今でも王族が軍に所属し兵役に就いていたりする。
何もかもを付き人にしてもらっているイメージのある日本の現天皇家と違う印象を与える。
イギリスという国は長い歴史の中で戦争を沢山してきた国でもあるが、兵士は基本的に志願兵であった。(2回の世界大戦の時だけは徴兵制度も導入されたとか)
海軍と空軍はイングランド国教会の長でもある君主(王や女王)が所有している。陸軍は議会の許可に基づくので政府所有ということになる。
政治の世界においても貴族院がいまなお存在する。
つまり単なる形式的なものに終わらず様々な形で貴族制度が保障されている国である。

貴族制度の本場フランスは市民革命の国となり、その道を歩めなかった。
だがオーストリア貴族であるロスチャイルド・パリ家は市民革命とそれに続くナポレオン戦争、ナポレオン失脚後に国王となったルイ・フィリップ王にお金を貸し付けるなどして大儲けした。(フィリップ国王からは名誉勲章を受章している)
フランス革命の主な原因として、伝統的な貴族制がもはや「最上の者による支配」という理念を、維持しがたくなってしまったことがあげられる。ルイ14世時代の軍隊の近代化で、貴族はもはや軍の先頭に立つ必要がなくなり、完全に安全地帯から部隊を指揮するようになっていた。危険を冒す伝統的な慣習を放棄したとき、伝統的な特権も維持するのはもはや困難となった。

フランス革命では、貴族は果たした役割でなく、実態として生まれによってその地位を得た特権階級という面が強調され、このような不要な階級は新興のブルジョワやリベラルな一般人の敵とされた。以後、「貴族」という言葉は、生まれながらにして前線で戦死する機会を主張する人々のことではなく、生まれながらにして贅沢や特権を主張する人々の象徴となり、本来の意味からは遠くなってしまった。

貴族制に対する闘争はフランス革命後の反動期にも続き、特に欧州全土で起こった1848年革命においては非常に激しいものがあった。ヨーロッパで貴族制がいつ終焉したかは異論があるが、だいたい第一次世界大戦の終わった1918年には貴族制は民主制に取って代わられ、以後貴族は実態的な権力のない社会の飾りとなっている。



共和国になったフランスやイタリアなどでも貴族制度そのものが破壊されたわけではない。爵位というものは存在し、世襲で引き継いでいる。
特権や義務がなくなったということ。
フランスの貴族院は1848年に廃止されたので、議員資格としての爵位はなくなった。
ヘンリー・グレフューレ伯爵はその大転換期1848年に生まれた。
だからといって急に平民になって貧乏になったわけではない。
芸術家らを多数支援できるほど富や財力を持ち、思う存分「最上さ」「高貴さ」を見せ付けることができた。
小説家マルセル・プルーストは彼の友人でもあった。


このグレフューレ伯爵夫妻の娘は、1904年にやはりフランス貴族であるグラモン公爵12代目と結婚した。
グラモン公爵12代目の母親はロスチャイルド家の人物。
(ロスチャイルド・ナポリ家の祖カールの息子の娘である。ロスチャイルド家はナポリ家カールの活躍によって兄弟5人がオーストリア皇帝から貴族の爵位を与えられた家。ナポリ家とフランクフルト家は1901年に閉鎖した)


キュリー夫妻のラジウム発見に注目していたロスチャイルド家の人物もいた。
アンリ・ロスチャイルド(Henri de Rothschild

アンリ・ロスチャイルドはイギリス家とパリ家両方の血を引く。
ロンドン家祖の息子の1人にナサニエルという人物がいる。
彼はパリ家祖ジェイムズ・ド・ロチルドの娘と結婚し、1850年に叔父であり義父にあたるパリ家祖のジェイムズ・ド・ロチルドが所有する銀行の業務に就くためにフランスのパリへ移住した。
ナサニエルの孫にあたるのがアンリである。
アンリは医学を学び、研究所や病院に多額の資金を提供した。
1909年に設立されたマリ・キュリーのラジウム研究所の設立費用も彼が提供した。
芸術の都に暮らすだけあって演劇もこよなく愛し、劇作家でもあったという。


ロンドン家とパリ家双方の血を引くアンリ・ロスチャイルドは1895年にワイスワイラー一族のマチルド・ワイスワイラーと結婚している。
ワイスワイラー家はユダヤ系スペイン人。
マチルド・ワイスワイラーの叔父はマドリッドのロスチャイルド銀行の代理店を任されていた。イギリス家の2代目が管理していた代理店。
1830年代には最も重要なロスチャイルド代理人だったそうである。

というのも、その時代(1835年)にロスチャイルド家はスペインのアルマデン鉱山の権利を得たからである。
アルマデン鉱山は世界最大の水銀鉱山だった。亜鉛(ジンク)も豊富に産出した。
スペインが植民地で発掘した金や銀を精製するには水銀が必要である。水銀の需要が一気に増大した。金目のものを実際に金にするには水銀が不可欠だったのだ。
この鉱山は長いことドイツ・バイエルンのフッガー家(金融家)が所有していた。フッガー家は宗教改革前後にカトリックを金融面で支えた一族の一つ。同時期カトリック国であるスペイン国王にも多額の資金を貸し付けていた。その見返りに鉱山を任されていたのである。
鉱山で働くこと自体重労働であり、さらに水銀中銀で死ぬ可能性のある水銀を扱うとなれば、なかなかお金だけでは動いてはくれない。あまり賃金を払えば利益が減ってしまう。しかし一方で需要は高まるばかり。鉱山の労働者は囚人となった。後に奴隷も取り入れられた。
1645年にアルマデン鉱山はスペイン国家(国王)所有となった。
しかしその後スペインは制海権を失い植民地も手放すことになる。財政は赤字続き。
1835年、そんなスペインにロスチャイルド銀行は高額の費用を支払い、無期限で鉱山を借りる権利を得た。
ロスチャイルドはすでにオーストリアからイドリヤ(現:スロベニア)の水銀鉱山も購入していた。アメリカでニュー・アルマデン鉱山が見つかるまでの間、ロスチャイルド銀行が独占的に世界の水銀を押さえたと言ってもよい。
誰が植民地の支配者になってもならなくても、金や銀を精製するには水銀が必要なのだ。

スペイン王室がアルマデン鉱山を所有してから事業を任されていたのがユダヤ系スペイン人のワイスワイラー家である。
ワイスワイラー家はロスチャイルドの代理人であった。
鉱山の実質的オーナーもスペイン国王からロスチャイルドに変わったということになる。
アルマデン鉱山も拡大され、当時はまだかなりの利益をもたらした。


先日書いたリオ・ティント社の社名由来のリオ・ティント鉱山(スペイン国営)は主に銅を産出していた。そこをロスチャイルドが手に入れたのは1873年。
リオ・ティント社の設立年月日は1873年となっている。
アルマデン鉱山とリオ・ティント鉱山を手に入れたロスチャイルド家が鉱山を会社組織にした。
カトリック国スペインの主要な鉱山を握っていたのは、カトリック国オーストリア皇帝から貴族の爵位を与えてもらった金融家ロスチャイルドだった。








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# by yumimi61 | 2018-03-20 15:17
2018年 03月 19日
日本国憲法の秘密-694- (外貨準備と貿易について)
本日2本目の投稿です。

原爆資料館に行ったことがある人は覚えていると思うが、資料館には原爆投下によって出来たという影の写真が幾つか展示されている。
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放射線によって像が得られる理由は物質によって透過率(吸収率)が違うからである。
線が直進している時に障害物に当たる。その障害物をすり抜けることが出来るか出来ないかの違いである。
それは次の要素によって決まる。
 ①放射線量(強弱)
 ②物質の材質
 ③物質の厚み
ごく一般的な物で言えば、一番透過しやすいのは木材。次が紙。塩化ビニルやアルミニウムなどが続く。
人間の体の中では肺が透過しやすい。

例えば様々な物質を置いてX線を照射すれば、物質の向こう側のX線強度は異なる。透過しやすいものほど強い。違う方向に出たり留まったりしないで、すり抜けてそのまま届くからだ。
向こう側でその強度を調査するのが検出器である。
強度は目には見えない。目に見えないものを数字に置き換えることも出来るわけがない。
まず向こう側に届いた放射線の強弱を可視化する必要がある。
レントゲンは検出器に蛍光版や写真乾版を用いた。
幸いにも放射線は蛍光物質を発光させるという特徴がある。但し自然の蛍光は微弱であり、人間が見て分かるような光ではない。
そこで光を増幅させる必要がある。光に感光する物質(感光材)や外部からのエネルギーを光に変換する物質(蛍光体)を用いて可視化させる。
その可視光が像を映し出す。
X線写真撮影はX線フィルムと蛍光増感紙をセットでセットする。
より良い感光材や蛍光体を用いることで少ない照射で像を得ることができるとも言えるわけで、検査における被爆を少なくする上でも重要である。

放射線を強く多く透過したほうが検出できる光も強くなるわけだから、可視的には白っぽくなる。逆に透過しなければ黒っぽくなる。
光をフィルムに感光させ、フィルムを現像して写真にする。
現在検診や検査で行われているX線撮影で私達が見る写真は、可視光の色合いと反転している。
つまり強く透過したほうが黒っぽく写り、透過しないほうが白っぽく写る。
初期にレントゲンが撮ったX線写真は、可視的色調と同じ状態のもの。
フィルム写真を撮ったことがある人は知っていると思うけれども、フィルムにはネガとポジがある。
ネガフィルムは見た目の色調と反転してしまうので、通常はプリントする時に再度反転させる。


原爆で撮れた影は当然感光材も蛍光体も使用していない。
自然に可視光になるほど放射線量が多かったと言いたいのだろうか。
人々は原爆の影の写真をどのように受け止めているのかちょっと調べてみると、人間や物という障害物があったため、その部分だけ放射線を通さず影として写ったと解釈しているようだ。
人間の形がそのまま写っていることからも相当の放射線強度であると判断しているということだろうか。
しかし自然に可視光になるほどの強い放射線を、果たして人間が遮断できるだろうか。
放射線が強ければ人間だって通り抜けてしまうのである。
止められるのは鉛だけ。鉛製の人間か。
当時の梯子なんて木製ではないのか。木材は透過させやすい物質である。
放射線で人型の影なんか出来るわけがない。反転させたって同じである。無空間(空気)では放射線は進みやすい。
人間や梯子と無空間(空気)は差が出にくい組み合わせである。
また放射線が強ければ強いほど物質間の差は出にくくなる。





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# by yumimi61 | 2018-03-19 17:24
2018年 03月 19日
日本国憲法の秘密-693- (外貨準備と貿易について)
第二次世界大戦の原子爆弾開発から原子力産業へ。
最初から「原爆投下」は核開発の抑止ではなく推進に働いた。
「原爆投下」は「核開発成功」を知らしめる巨大広告であったのだ。

全てはレントゲンの偶然の発見から始まった。

ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Rontgen)1845年生まれ、1923年77歳没。
ドイツ人の父とオランダ人の母のもと、1845年ドイツで生まれ、オランダ国籍を持つ。
1895年11月8日、レントゲンは真空管において陰極から陽極に向かって飛んでゆく電子の流れである陰極線の研究をしているときに偶然に不思議な光線を見つけた。
その光線は実験によって次のような特徴があることが分かった。
 ・1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
 ・薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
 ・鉛には遮蔽される
 ・蛍光物質を発光させる
 ・熱作用を示さない
 ・検出に写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能
実験中に鉛を支えていた自分の手の骨の影が検出器である蛍光板に偶然に写り、透過する線だということを知って驚いた。
想像すらしなかった全くの未知なる線だったので、数学で未知を表す「X」を用いてX線と名付けた。
彼は昼夜問わず何度も何度も実験を繰り返し、12月の終わりには論文にまとめた。

e0126350_12164700.gif

1896年1月23日にレントゲンが撮影
アルベルト・フォン・ケリカー(スイスの動物学者・解剖学者・生理学者、1860年にロンドン王立協会の会員になる)の手のX線写真



人間の骨を映し出せるというX線写真という視覚的に非常に分かりやすい実験結果を伴っていたので、瞬く間に受け入れられた。
偶然の発見から2か月後の1986年1月13日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演をした。
(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の母親はイギリス君主のヴィクトリア女王の長女である。ヴィクトリア女王はドイツ起源の君主。ヴィルヘルム2世はカトリック教徒である)
1896年1月14日にはネイチャー誌に掲載された。
透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用され、その貢献によって、1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
(ノーベルは1896年没。スウェーデン人。ダイナマイトの発見によりボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた)


1912年、レントゲンと同じミュンヘン大学にいたラウエが結晶によるX線の回折現象を発見し、X線が電磁波であることを突き止めた。
レントゲンがX線を発見してから17年もの歳月が経過していた。
このX線の回折現象がその後、物質の、引いてはDNAの結晶構造の分析に用いられるようになった。

マックス・テオドール・フェリックス・フォン・ラウエ(Max Theodor Felix von Laue)1879年生まれ、1960年80歳没。
ドイツの物理学者。
ミュンヘン大学でX線の回折現象を発見した時は助手であり、博士課程の学生(後に結晶学者・X線回折法のパイオニアとなるドイツ人のパウル・ペーター・エバルト)の論文にヒントを得ての発見だった。
上記発見の功績によりラウエは1914年のノーベル物理学賞を受賞した



未知なる線「X線」から始まった放射線が次の段階に移行するのは天然の放射線が発見されたことによる。
しかしこちらはそこに辿り着くまでに時間はそれほどかかっていない。
レントゲンの論文が発表された1896年に、フランスの数学者アンリ・ポアンカレはこう言ってベクレルにレントゲンを論文を渡した。
「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかもしれない」
そしてすぐさまベクレルはウラン塩の蛍光から、ウランがX線に似た透過力を持つ光線を放出していることを発見するのだった。
このベクレルという人は科学における先取権を持つことに非常に敏感であり、その光線の正体や原理は一切解き明かさぬままに自身の発見を科学アカデミー(フランスの国立の学術団体)に速やかに公表した。
その後は研究を放棄した。

その研究を続行させたのがキュリー夫妻である。
妻であるマリの博士号取得のための論文執筆のためにベクレルの研究を発展させることにしたのだ。1898年のことである。
マリはその前年に女の子を出産しており、一児の母親にもなっていた。
ウランの放射現象がウラン含有量に左右されることから、放射は分子間の相互作用等によるものではなく原子そのものに原因があることを示し、夫妻も2年前のベクレルと同様に、研究内容を簡潔に要約した論文を作成し速やかに科学アカデミーへ提出した。
実験には夫ピエールの兄の製作した高感度な圧電式電位計を使ったそうである。
後世においては彼女を一躍有名にしたのはこの博士論文だということになっているが、そうではない。
意味があったのはキュリー夫妻がラジウムの精製に成功したことである。


ベクレルの発見論文から7年後、キュリー夫妻の実験及びマリの展開論文から5年後の1903年、3人は揃ってノーベル物理学賞を受賞した。

アントワーヌ・アンリ・ベクレル(Antoine Henri Becquerel)1852年生まれ、1908年55歳没。
フランスの物理学者・化学者。放射線の発見者。
1908年、ブルターニュのル・クロワジックにて55歳で急死。マリ・キュリー同様、放射線障害が原因だと考えられる。
放射能のSI単位のベクレル(Bq)はアンリ・ベクレルにちなんでいる


ピエール・キュリー(Pierre Curie)1859年生まれ、1906年46歳没。
フランスの物理学者。結晶学、圧電効果、放射能といった分野の先駆的研究で知られている。
1895年にマリと結婚し、共同で放射性物質の研究を行い、ポロニウムとラジウムを発見した。
ピエールと学生の1人がラジウム粒子が継続的に熱を放射していることを発見し、核エネルギーの発見者ともなった。
X線には熱作用がなかった。しかし天然の放射線性物質には熱作用があった。この「熱」こそが原子力産業に繋がったのである。
また彼は磁場を使って放射性物質の放射の特性を調べ、一部の放射が正に帯電し、一部は負に帯電し、一部は帯電していないことを示した。これらはアルファ線、ベータ線、ガンマ線に対応している。
"radioactivity"(放射能)という用語を作ったのもキュリー夫妻である。
しかしながらピエールは46歳のある日道路を横断しようとして馬車の前に飛び出し、馬にぶつかり転倒し荷馬車に頭を引かれて即死してしまった。

マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie) 1867年生まれ、1934年66歳没。 
フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie)。
ポーランド出身の物理学者・化学者である。
1903年のノーベル物理学賞を受賞した後、1911年にノーベル化学賞をも受賞した。

ウランから発せられる光線を見つけた後すぐにウランと同様の現象を起こす元素はないかと既知の元素80以上を測定してトリウムでも同様の放射があることを見つけた。マリは放射能を持つ元素を放射性元素と名づけた

その次はウラン鉱石からの新元素探しに勤しんだ。そしてボロニウムと激しい放射線(アルファ線)を放出するラジウムを発見するわけだが、学会は当初新元素の発表には冷淡だった。
ロンドン王立協会の設立のきかっけを作ったロバート・ボイルは1600年代にすでに抽象的推理による元素観に反対し、実験によって元素を定めるべきことを訴えていたのだ。
その経緯を思えば、放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態であり、ただX線に似た線を放出していると言われても学会は受け入れがたい。世紀の発見にはならない。
X線は医学に貢献したからこそのノーベル賞だったのだ。
とりわけ新元素であるならば原子量も明らかにする必要がある。
これくらいの鉱石からこれくらいの量の元素が抽出できる、そういうものがなければさらなる研究にも産業応用にも繋がらない。産業は費用対効果が重要なのだ。
その後マリはラジウムの精製に成功した。そしてそのラジウムが医療にも工業的にも利用できることが分かった。
この功績によってノーベル賞は与えられたと考えてよいだろう。
しかしながら、ベクレル同様に科学における先取権を持つことに敏感だったはずのキュリー夫妻が、ラジウム精製の特許は取得しなかった。だからラジウムは使いたい放題広がった。
後年マリはラジウム精製法の特許を取得しなかった理由として「人生最大の報酬とは知的活動そのものである」と格好よく答えたそうだが、おそらく単純に学問分野と産業分野の違い、要するに論文発表と特許取得の違いに気付いていなかったんだろうと思う。

夫妻は1900年頃から体調に異変を来たしており、マリは1903年に流産も経験した。しかしそれが放射線の影響だとは微塵も考えていなかったようだ。
1900年にドイツの医学者から放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。
夫ピエールはラジウムをあえて腕に貼り付けてみて、火傷のような損傷が出来ることを確認した。
それはすなわち放射線には正常な細胞を破壊する力があるということだが、医学者やピエールの研究によって、放射線は皮膚疾患や悪性腫瘍(がん・悪性新生物)の治療に効果がある可能性が示唆された。
ラジウムは悪しき物にはならず、医療における放射線治療や工業において夜光塗料などして広く用いられることになった。

ラジウムが最初に問題となったのはアメリカである。
ラジウムを塗料に用い時計の生産を行っていた工場の女性労働者の多くが身体の異変を訴えたり、相次いで亡くなったことによる。
同じ工場1つだけでなく、異なる工場複数で発生した。
この問題はThe Radium Girls(ラジウムガールズ)と呼ばれる。
1910~1920年代に盛んに起こっていた現象であるが、彼女たちは「病気」になり「病気」で死んでいったので、ラジウム(放射線被爆)で死んだことが証明されず、会社側もそうした主張を認めなかった。
確かに医師であっても病気と原因の因果関係を紐解くのは難しい。
さらに疾患と死因の関係も複雑である。
エイズやがん(悪性腫瘍・悪性新生物)に罹患していても、死の直接的原因は感染であることが多々ある。免疫不全はもちろんのこと全身状態が低下している場合は簡単に感染し重篤化してしまう。
心不全や呼吸不全という一般的で漠然とした病態が死因に用いられることもある。
ラジウムガールズの場合、治療にラジウム(放射線治療)が用いられていた者もいて、さらに問題を複雑化させていた。
死因に基疾患を書くのか、それとも最終的に死の原因となったものを書くのか、生前の健康状態や死に至らしめた原因をとことん追求するか否か、統計はそれらによって大きく変わってしまう。さすがに死因に治療法を書く者はいないだろうけれども。
死因が医師個人の判断に委ねられている場合、病院の内規がある場合、国の指針に従う場合など、統計が変わる要素がある。特に国際統計や国際比較などは要注意である。
何とでも言えて何とでも書ける医師だからこそ、「いい加減な判断でいい加減なことを説明したり書くな」という圧力が加えられることもある。
工場で働く女性労働者が当事者であることをいいことに、「疑わしきは性感染症(梅毒)にしておけ」というとんでもない社会風潮すらあった。
1928年、ラジウムダイヤル塗料の発明者である博士が45歳で亡くなったことがラジウムガールズにとっては追い風となった。
労働者を不幸に陥れた張本人の死が労働者を救うことになったとは何とも皮肉なことである。
しかしラジウムは世界各地で1990年代まで使用され続けた。現在は発がん性を理由にほとんど使用されていない。


X線や天然の鉱物から発せられる放射線を研究したり、精製に着手した1890~1910年頃はまだ放射線の障害作用に気付いてはいなかった。
従って無防備に実験を繰り返したわけだが、X線研究に携わったレントゲン(77歳)、ラウエ(80歳)、エバルト(97歳没)は比較的長生きである。
一方天然放射線研究に着手した、ベクレル(55歳)、キュリー夫(46歳)、キュリー妻(66歳)は比較的短命である。体調異変は数年で表れている。






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# by yumimi61 | 2018-03-19 12:24
2018年 03月 16日
日本国憲法の秘密-692- (外貨準備と貿易について)
マーク・オリファントなくして第二次世界大戦の原爆なし。
そのマーク・オリファントに師事していたジョン・ランドールが戦後、「ジョン・ランドールなくしてDNA分析(生物物理学・分子生物学)なし」という状況を作ることになった。
ジョン・ランドールのキャリアはGE社の研究者から始まり、戦時中の1944年にスコットランドのセント・アンドルーズ大学の教授に就任する。この頃からマンハッタン計画に参加していたモーリス・ウィルキンスと一緒に生物物理学を研究することを計画し始めた。

ケンブリッジ公爵・ウィリアム王子とその妻キャサリンはセント・アンドルーズ大学の卒業生で、大学の600周年キャンペーンには広報マンの役割を果たした。
この時にビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領や俳優のショーン・コネリーもお祝いのメッセージを寄せたという。
セント・アンドルーズ大学はカトリック系の大学である。

俳優のショーン・コネリーはスコットランドの出身である。但し家系はアイルランド系。大学には進学しておらず卒業生ということではない。

ショーン・コネリー
『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。

スコットランド・エディンバラでアイルランド系の家庭に職工、トラック運転手の父ジョセフと、洗濯女の母、ユーフェミアのとの間に生まれる。先祖の地はアイルランド東部ウェックスフォード州。

義務教育修了後最初に得た仕事は牛乳配達であった。その後イギリス海軍に従軍するも、健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者、美術モデルやライフガードなど種々の仕事をしながらボディビルジムに通う。1953年にはミスター・ユニバース・コンテストの重量上げ部門で3位入賞したが、その時に出場者の一人に演技の道に進むように勧められる。1954年からテレビや劇団に出演するようになる。

スコットランド人としての矜持が強く、その独特のアクセントを矯正したことは一度もなく、ジェームズ・ボンド役を引き受ける際もアクセントを矯正しないことを絶対条件とした。このため、ボンドは原作に於いてスコットランド出身という設定が付け加えられた。ボンド以外の役柄もスコットランド出身という設定に変更したものが多い。



『ジェームズ・ボンド (James Bond)』 はイアン・フレミング(1908 - 964年)というイギリスの小説家が書いたスパイ小説。
ジェームズ・ボンドは、その小説の中でイギリス秘密情報部 (MI6) の諜報員である主人公の名前である。主人公の父親はスコットランド人で、母親はスイス人という設定。

作者
Ian Lancaster Fleming(イアン・ランカスター・フレミング) 
1908年5月28日 - 1964年8月12日 
ウェストミンスター・メイフェアで政治家の息子として生まれる。陸軍士官学校卒業後、銀行や問屋での勤務を経て、大手通信社のロイター通信で勤務し、後に支局長としてソビエト連邦のモスクワに赴任。

1939年から英海軍情報部(NID)に勤務。同年にイギリスも参戦した第二次世界大戦中は諜報員として活動し、「ゴールデンアイ作戦」などの指揮を執った。1945年の終戦後退役する。

その後、ジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」に居住。1953年に、それまでの経験をもとに「ジェームズ・ボンド」シリーズ第1作となる長編『カジノ・ロワイヤル』を発表する。1964年、遺作となった『黄金の銃をもつ男』を校正中に心臓麻痺で死去(56歳)。



カトリック系であるイートン校出身。問題行動も多かったらしいが、裕福な家庭なので外国に出すなど手を掛け、大きく脱落することはなかった。
父親は彼が9歳の時に第一次世界大戦で戦死した。
イアン・フレミングの祖父は、1873年にスコットランドでRobert Fleming&Co. と Scottish American Investment Trust を設立した金融家ロバート・フレミングである。「投資信託の父」とも言われる。
この会社はアメリカ南北戦争の土嚢に使われたジュート生地で成功を収め発展していった。
アメリカの鉄道事業にも関係が深い。というのもアメリカの公社債や鉄道関連企業が発行する債券(鉄道債)を投資対象とする運用をScottish American Investment Trust で始めた人だからだ。
裕福なスコットランド人がアメリカの鉄道開発に資金提供したということ。
鉄道債を投資対象としたファンドは世界初であり、この金融商品はかなり人気を得たという。
会社は1909年にスコットランドからロンドンに移転し、1970年代にジャーディン・マセソンとともにジャーディン・フレミング (Jardine Fleming)という合弁会社(投資銀行)を香港に設立した。これも成功した。
この合弁会社とロバート・フレミングはともに2000年にJPモルガン・チェースに買収された。

合弁会社のお相手だった、ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited)。
現在は香港に本部を置く(登記上の本社はタックス・ヘイブンのバミューダ諸島)イギリス系企業グループの持株会社である。
創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリットとして影響力を持っている。
創業者ジャーディン・マーセンはアヘン商人であり、ジャーディン・マセソン商会という麻薬(アヘン)貿易会社だった。ロスチャイルド系である。
ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長が吉田健三という人物で、子供のいなかった吉田の養子に入ったのが竹内茂(後の吉田茂首相・麻生副総理の祖父)。
吉田健三が若くして急逝し、吉田茂は僅か11歳で莫大な遺産を相続した。吉田家はカトリック教徒である。現天皇家にも繋がる家系。


以前に書いたドレクセルという会社をおぼえているだろうか。
Drexel&Co.を設立したにフランシス・マーティン・ドレクセルと、Drexel、Morgan&Co.をJ・P・モルガンと共同で設立したアンソニー・ジョセフ・ドレクセルは親子である。
ドレクセルはオーストリア出身のカトリック教徒

父の設立したDrexel&Co.はベルギーのグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、息子が設立したDrexel、Morgan&Co.はJP モルガン(J.P. Morgan)に吸収された。
ともにロスチャイルド系である。
ベルギーのグループ・ブリュッセル・ランバートに吸収されたほうの会社にいたのが、ジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンであった。
1980年代にシジャンクボンドの帝王と呼ばれたのがマイケル・ミルケン。
マイケル・ミルケンは不正が発覚し、ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような投資会社ドレクセル・バーナム・ランベールは倒産した。
シーグラムの3代目はMCA(ユニバーサル)を松下電器(現パナソニック)から買い取るが、そのためにデュポンの株式も手放した。
4代目になると、ついにはシーグラムも売却。娯楽部門はロスチャイルド系会社ヴィヴェンディへ。ヴィヴェンディもドレクセル(息子)とモルガン共同会社が設立したGEに売却(但しミュージックは売却対象外)。
GEもコムキャストに売却。コムキャストの創業者はロシア系ユダや人。
父がユダヤ界のドンだったエドガー・ブロンフマン・ジュニアはワーナーミュージックを買い取ってCEOとなっている。


ドレクセル・モルガンもインフラ開発としての鉄道事業に関係が深い。債券によって莫大な資金を調達してやった会社。

JPモルガン
イギリス・ロスチャイルド家発の会社(ジョージ・ピーボティ&カンパニー→JSモルガン)のパートナーにジューニアス・スペンサー・モルガンが就任し、JPモルガンはジューニアス・スペンサー・モルガンの息子がニューヨークに設立した。JPモルガンはアメリカで巨大化した。



イアン・フレミングの従兄は、世界最大級のウラン採掘会社「リオ・チント・ジンク(Rio Tinto Zinc;RTZ)」の役員であった。

リオ・ティント (Rio Tinto;RT)
ロンドンに本拠が置かれた多国籍の鉱業・資源グループである。
一時期(1962-1995年)「リオ・チント・ジンク(Rio Tinto Zinc;RTZ)」という社名だった。
リオ・ティント社はウラン生産部門においてカナダのカメコとともに最大手といわれる。リオ・ティント社の主なウラン生産地は、オーストラリアとアフリカ。

リオ・ティントかつてローマ帝国に銅を供給したイベリア半島の鉱山に由来する会社。
イベリア半島はレコンキスタの地であり、キリスト教徒(カトリック)がイベリア半島をイスラムから奪回するとスペインが勃興し、リオ・ティント鉱山もスペイン国家の所有となった。
世界各地に植民地を築き、「太陽の沈まぬ帝国」と形容されるほどの覇権国家となるが、国の財政は火の車。
赤字続きの国営企業だったリオ・ティント鉱山を1873年に買収したのは、ロスチャイルド・ロンドン家とロスチャイルド・パリ家。

1962年に社名をリオ・ティント(RT)からリオ・チント・ジンク(RTZ)に変更したのは、オーストラリアの鉱山会社コンソリデーテッド・ジンク社を買収したことがきっかけだった。
この時にオーストラリアの会社はコンジンク・リオティント・オブ・オーストラリア(CRA)という名称にした。
(豆知識:日本の原子力発電は東海村における1963年10月26日の運転開始が出発点であり、1966年7月に日本で初めて商業用原子力発電所が営業運転を開始した)

リオ・ティント者はオーストラリアやアフリカに、ウランだけでなく金鉱やダイヤモンドの子会社を持っている。
ではここでひとつ、リオ・ティント日本の社長からご挨拶をいただきたいと思います。

日本において日々生活する中で、リオ ティントという名前を聞くことはあまり多くないでしょう。でも、実は、当社は人々の生活に欠かせないものを提供している会社です。生活する家、働くオフィス、そこにある家電や事務機器、移動するための車や鉄道、コミュニケーションのための各種デバイス、そしてそれらを支える電力やさまざまなインフラ設備など、現代社会に必要不可欠なありとあらゆるものは、当社が世界の複数の国で生産している金属資源なくして一つとして存在し得ません。ビルや橋梁、自動車や鉄道車両などを作るために必要な鉄の原料である鉄鉱石、原料炭とモリブデン、また飲料缶、箔、窓用サッシや自動車のホイールなどに必要なアルミニウム、そして金や銅、あるいはチタンなどの産業用鉱産物やウラン・ダイヤモンドなど、現代生活に不可欠な資源を、これまでも、そしてこれからも、絶え間なく生産し、日本へ、そして世界中に届けるべく事業を行っています。また、2012年に本社のあるロンドンで開催されたロンドンオリンピック・パラリンピックにおいては、4,770個におよぶ金銀銅メダルの全てが、当社の鉱山から提供した金属原料によって作られるなど、実は身近なところで当社の事業が貢献しています。

固い絆
リオ ティントの名は、南スペインに流れる「リオ ティント(赤い川)」が由来です。その川のほとりでローマ時代より銅を採掘していた鉱山を買収し、会社を設立してから140年以上がたちました。当社の歴史を紐解くと、その多くを日本企業と共に作り上げて来たと言っても過言ではありません。日本との長期的な信頼関係に裏打ちされたビジネスは、日本の目覚しい成長の原動力になると同時に、リオ ティントの事業の根幹となって来ました。現在、製鉄会社をはじめ、各産業のリーディングカンパニー、あるいは商社など250を超える日本企業との間で約4,200億円の資源取引がありますが、そうしたビジネスは、時代に応じてさまざまに姿を変えつつ、今後とも、日本、そして世界のさらなる発展に寄与し続けると信じております。

一方、日本との関係においては資源の輸入にとどまらず、これら資源を使用して作られた鉱山用機械、車両や鉄道レール、船舶などが、再び世界各地にあるリオ ティントの操業拠点に戻っています。リオ ティントの購入する、高度な技術力に支えられた日本製の機材や設備は、世界中のさまざまな拠点や場面で、操業に必要不可欠なものとなっています。また、リオ ティントが操業・参加する海外の事業において、複数の日本企業が合弁パートナーとなっており、お互いの緊密な協力と貢献を通じ、事業の発展を図っています。





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# by yumimi61 | 2018-03-16 14:32
2018年 03月 15日
日本国憲法の秘密-691- (外貨準備と貿易について)
178.png2008年3月まで、カテゴリーとタグ付完了しました。

世紀の大発見となった「DNAの二重螺旋構造」。
その大発見にまつわる「Photo51問題」。
この発見と問題に関わる人物を再度紹介したい。
何故かと言えば、核開発と非常に関係が深いからである。

1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した3名。
(各人の詳細は3月12日記事参照
●Maurice Hugh Frederick Wilkins(モーリス・ウィルキンス) 1916年生まれ 87歳没
●James Dewey Watson(ジェームズ・ワトソン) 1928年生まれ 存命
●Francis Harry Compton Crick(フランシス・クリック) 1916年生まれ 88歳没


早くに亡くなりPhoto51問題を引き起こすことになった、ローランド・フランクリンの妹。(詳細は3月11日記事参照
●Rosalind Elsie Franklin(ロザリンド・フランクリン) 1920年生まれ 37歳没 


キーパーソンは、これら研究者の監督者であったこの人。

●Sir John Turton Randall(ジョン・ランドール) 1905年生まれ 79歳没

イギリス生まれ 
マンチェスター大学(イギリス)

1926~1937年(21~32歳)の間、彼はGE社(ゼネラル・エレクトリック、本社はアメリカ)で研究職に就いていた
1937年からはバーミンガム大学(イギリス)の物理学教授マーク・オリファント(オーストラリア物理学者、核兵器開発に積極的にかかわり推進した人物)に師事した。王立協会の奨学金を授与された
1944年、ランドールはセント・アンドルーズ大学の自然哲学教授に任命された。この頃から前述のモーリス・ウィルキンスと一緒に生物物理学を研究することを計画し始める。

戦後1946年にキングス・カレッジ・ロンドンの物理学部長となった。
生物物理学ユニットを設立するための資金提供を受け、アメリカでマンハッタン計画に参加していたモーリス・ウィルキンスをユニットのアシスタントディレクターに迎え入れた。
ウィルキンスはこの時に核物理学から離れ、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンでDNAの構造研究を始めたのである。


GE社
GE社は私のブログに何度か登場しているが、この会社がなかなか曲者である。
会社設立とドイツ進出で、ドイツとの対立の芽になったという経緯があり、第一次世界大戦に影響を与えた(関与した)と考えられる。
アメリカのエジソンがドイツのジーメンスの技術を応用していたこと、アメリカGEよりも先にドイツで会社が設立されたこと、ドイツが第一次世界大戦の敗北や大恐慌に見舞われて力を落とし形勢逆転していったこと、これらのことがアメリカとドイツの捻じれ関係にも繋がった。

1876年、ドイツ銀行が国内最大銀行となる。
ドイツ銀行は国内外に出資して勢力を拡大していく。
またジーメンス社のジーメンス兄弟も次々と世界初の発明を成し遂げる。また単なる原理を実用化することにも長けていた。
ジーメンス社のジーメンスは経営者としてだけではなく技術者(発明家)としての顔を持っていた。
発明王と呼ばれるエジソンの発明はジーメンスの発明を応用したものがかなりある。エジソンは発明家というか応用力に優れていたのかもしれない。

1883年、ユダヤ人実業家・エミール・ラーテナウ(ドイツの政治家ヴァルター・ラーテナウの父親)がエジソンの技術を利用する権利を得てドイツ・エジソン電力応用社(Deutsche Edison-Gesellschaft für angewandte Elektrizität;DEG)を設立。出資者はロスチャイルドなど。

1887年、DEGがAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)に社名を変更。
エジソンとロスチャイルド系のAEGがドイツ発のジーメンズ領域に進出してきたことが対立の芽となった。

1889年、エジソンがアメリカでエジソン総合電気(Edison General Electric Company)を設立。(→1892年にゼネラル・エレクトリック(GE)となる)



原爆開発の中心人物の1人で、アメリカの原爆開発に重要な役割を果たしたマーク・オリファント

Marcus 'Mark' Laurence Elwin Oliphant(マーク・オリファント)
1901- 2000年 99歳没
オーストラリアの物理学者。
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと思い、1927年キャヴェンディッシュ研究所にはいることでその希望をかなえた。
オリファントはヘリウム3、3重水素を発見し、重水素の核融合を発見した。
第2次大戦が始まると、ロバート・ワトソン=ワットによって開発されたレーダーの改良を行うバークレー研究所に派遣された。1943年から原爆開発の研究に加わり、アーネスト・ローレンスとウラン235の精製の研究を行った。


(1936年11月25日、日本とドイツが共産インターナショナルに対する協定、日独防共協を締結)
(1937年11月6日、イタリアが防共協定に参加、日独伊防共協定締結、枢軸国の原形となる)

1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
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1939年2月、マイトナー(オーストリア)と、その甥であるオットー・フリッシュ(オーストリア)が上記実験の解釈としての「核分裂の生成」論文を書きイギリスのNature誌に掲載される。
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この新しい発見が物理学会に興奮を呼ぶ。
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1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。
1939年9月1日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)」論文を発表。
 ⇒核分裂連鎖反応、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。
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1939年9月以降、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。
 ⇒フリッシュ&パイエルス覚書
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フリッシュとバイエルスが師匠のマーク・オリファントに報告。(フリッシュはニールス・ボアの弟子でもある)
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マーク・オリファントがヘンリー・ティザードに原子爆弾の可能性について情報提供
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1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織。


ウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させるための組織で、この組織が直接研究などをしていたわけではない。
マーク・オリファントは委員の1人となった。
マーク・オリファントは核の研究をしていたのではなく、レーダーの研究者だった
1940年8月29月、ティザード使節団がアメリカへ出発。
ヨーロッパの核開発に携わる科学者がアメリカに場を移して研究をしていたからである。

イギリスが開発した高度で最先端なレーダー(水冷空洞型マグネトロン)(空洞型マグネトロンはドイツが開発している)、ジェットエンジン、光学照準器、プラスチック爆薬などの技術をアメリカに提供しつつ、原爆開発をしている科学者と面会し、コロンビア大学の研究室などを見学させてもらった。
イギリスのMAUD委員会の判断と報告では「研究は確かに続行していたが、戦争とは関係ない」というものであった。
ティザード使節団はアメリカで行われている研究は戦争に使えるようなものにはならないと判断した。
手っ取り早い理由としては、ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したはずだが、そもそもウラン235の分離が実現されておらず、分離の目途も全く立ってない状況であったからだ


1940年3月、アメリカの物理学者や化学者がイギリスへ行き、MAUD委員会に出席。
アメリカも米国科学アカデミー(NAS)に核エネルギーに関する審査委員会を設立し調査させた。
1940年5月、NAS審査委員会が「原爆は1945年以前には期待できない」と報告した。
(ところで1945年。1945年というのは終戦の年であるが、1940年に終戦の年を知っていたのだろうか?それともただ単に5年で区切りが良かっただけだろうか)
ともかくイギリス政府や科学者もアメリカ政府や科学者も当初は正しい結論を導いていた。
しかしイギリスのMAUD委員会の1941年7月15日の最終報告で「ウラン爆弾が実現可能」とあっけなくひっくり返ってしまうのである

そして何故か正しい結論を出していた人達が官僚主義と批判されることになる。

MAUD委員会の最終報告書は、アメリカ科学研究開発局(OSRD)のブッシュ長官にも届けられたがアメリカの反応は鈍かった。
最終報告書を持ってアメリカに出向き、原爆を盛んに売りこんだのがマーク・オリファントである
レーダーについての協議(イギリス・バーミンガム大学がマグネトロンの開発をしていた)という名目で、実のところは原爆の売り込みであった。
NASの審査委員会の暫定議長となっていたゼネラル・エレクトリック社(GE)のウィリアム・クーリッジ (William D. Coolidge)にもウラン爆弾を強力に印象付けるのに成功した
GEはマーク・オリファントの古巣である。

マーク・オリファント行脚によってMAUD委員会の最終報告書の内容が1941年10月にルーズベルト大統領に報告され、大統領が原子爆弾開発研究を承認。
1941年10月11日、ルーズベルト大統領がイギリスとの協力体制に関してイギリスのチャーチル首相に書簡を送付し、翌月にはアメリカの科学者が協議のためイギリスに派遣された。しかしイギリスは協力の提案を受け入れず対案もなく協力体制は失効した。

1941年11月26日(日本時間11月27日)、アメリカから日本にハル・ノート(交渉文書)が提示される。
1941年11月27日、原爆に否定的だったNAS審査委員会も、MAUD報告を受けて、この日「ウラン爆弾の実現は確かなもの」と大きく方向転換した。

1941年12月8日、真珠湾攻撃。
 ⇒第一の目標は戦争を長引かせること。(NAS審査委員会が当初、原爆は1945年以前には期待できないと言ったから1945年までがいいかもですね!)
 ⇒第二の目標は世界中を巻き込むこと。


「マーク・オリファントなくして第二次世界大戦の原爆はなし」という状況である。
そのマーク・オリファントに師事していたジョン・ランドールが戦後、「ジョン・ランドールなくしてDNA分析(生物物理学・分子生物学)なし」という状況を作ることになったのである。


セント・アンドルーズ大学
University of St Andrews
イギリス・スコットランドの東海岸セント・アンドルーズ市に所在する大学。1413年創立。スコットランド最初の大学であり、英語圏全体でも3番目に設立年代が古い。
セント・アンドルーズがスコットランドにおけるキリスト教の巡礼地であったことから、中世にはジョン・ノックスをはじめとして多くの宗教指導者がセント・アンドルーズ大学で学んだ。

1410年、聖アウグスチノ修道会のセント・アンドルーズ大聖堂 (St Andrews Cathedral)により設立され、講義を開始。1413年、ベネディクトゥス13世の教皇勅書により正式に開学する。同時期にセント・アンドルーズが大司教座に指定されたのと相まって、急速に発展した。現在のキャンパスも設立当時と同じ場所にあり、中世の面影を色濃く残す。

2013年、セント・アンドルーズ大学は創立600周年を迎える。この節目を前に大学は大々的なキャンペーンを行っており、セント・アンドルーズ大学の卒業生であるケンブリッジ公爵・ウィリアム王子とその妻キャサリンが主要な役割を果たしている。この600周年キャンペーンにはビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領や俳優のショーン・コネリーもお祝いのメッセージを寄せている。
 


イギリス王室はウェールズ起源の王室(1500年代)でカトリックから分離独立し、スコットランド起源の王室(1600年代)でカトリックに回帰した。
1700年代からはドイツ起源の王室。

キリスト教というのは今でこそいろいろな宗派があるが、元の初めはユダヤ教に反旗を翻したイエス・キリストを中心としたグループであり、イエス亡き後に新約聖書とともに新教を確立していった。
ローマ帝国が東西に分割され、西側にはゲルマン民族大移動によってゲルマン人が多数流入。これによってキリスト教は確固たる地位を獲得し、それまで多神教だったローマ帝国の国教になっていくのである。(やがて西ローマ帝国が滅亡しカトリック教皇に認められた皇帝を擁する国家へと変貌、東は長い歴史の中で正教会やイスラムなどが進出し性質を大きく変えていった)
こうしたキリスト教初期には当然まだプロテスタントは存在していない。少数の異端者を除けば全てのキリスト教をカトリックと見做してよい。

設立者である聖アウグスチノ修道会というのは、初期のキリスト教の修道会から発展した修道会である。すなわちカトリック修道会である。
学校として正式に認可したのはベネディクトゥス13世教皇。

ベネディクトゥス13世(Benedictus XIII,1328年11月25日 - 1423年5月23日)は、カトリック教会の対立教皇(在位:1394年 - 1417年)。アラゴンではエル・パパ・ルナ(El Papa Luna)として知られる。

カトリック教会の対立教皇とはカトリックに対立していたという意味ではない。
日本にも2人の天皇がいた時代があるが、そのようにカトリックに2人の教皇がいたということである。
アラゴンはイベリア半島(現:スペイン)にあった国。
彼を正当な教皇として認めたのは、フランス王国、スコットランド王国、シチリア王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国であった。

要するにカトリック系の大学である。
宗教改革も大学改革も乗り越え、解散も閉校することもなく、今なお続く長い伝統を持つカトリック系の大学。

スコットランドの大学ではあるが、3割近くがイングランド出身の学生で占められているため、Scotland's English university(スコットランドにあるイングランドの大学)と揶揄されることもある。また、イギリス国外からの留学生が占める割合も3割に達し、100カ国を超える国々からの学生が集う国際色の強いキャンパスであることも特色である。 1776年のアメリカ独立宣言の署名者のうち数名がセント・アンドルーズ大学卒業者であったことから、アメリカ合衆国との関係が特に強く、学部生の15%がアメリカ人留学生である。
学部生の出身校については、公立学校以外(パブリックスクール等)の教育機関の出身者が4割と、高い比率になっている。







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# by yumimi61 | 2018-03-15 12:39
2018年 03月 13日
日本国憲法の秘密-690- (外貨準備と貿易について)
ロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)をもう少し掘り下げる。


1660年のロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)の設立に多大な影響を与えたのは、フランシスコ・ベーコン(Francis Bacon)が書いた『ニュー・アトランティス』というユートピア小説であった。

1645年、ロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)の創立につながる諸会合がアイルランド貴族の息子であるロバート・ボイルの周辺で開催されていた。
ロバート・ボイルはこれらの会合について議論した書簡の中で「見えざる大学(Invisible College)」という言葉を使っており、この科学者集団 "Invisible College" がロンドン王立協会の母体になった。

Sir Robert Boyle(ロバート・ボイル)
アイルランド・リズモア出身の貴族、自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロー。ボイルの法則で知られている。彼の研究は錬金術の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とされることが多い。特に著書『懐疑的化学者』 ( The Sceptical Chymist) は化学という分野の基礎を築いたとされている。

懐疑的化学者という言葉は、現代においては「化学者に懐疑的」と受け取られかねないと思うが、当時は錬金家に懐疑的という意味合いだった。
ボイルは錬金家の抽象的推理による元素観に反対し、実験によって元素を定めるべきとした。つまり実験を基礎にしなさいということで、これはフランシス・ベーコンの主張にも近い。
抽象的推理による元素観に反対するということは、職人(専門家)の勘や閃きみたいなものに対して否定的であったということになる。
また一部に秘めやかに伝わる職人技の伝承ではなく、技術などは標準化されオープンにされるべきであると考えていた。


1500年代のヨーロッパはカトリック教会の腐敗と世俗化が著しくなっていてヨーロッパ中から疑念の目が向けられていた宗教改革の時代であった。
この時代に光を浴びたのが、誰でもが簡単に手の届かない崇高なものとしての神秘主義だった。カトリック教会に幻滅した反動もあったのだと思う。カバラ思想やヘルメス思想といった神秘主義が流行った。
ウェールズ起源の君主であるエリザベス女王(イングランド国教会・プロテスタント)はヘルメス思想を好んでいたという。
そうした神秘主義の軸になるのは次の分野。
・哲学・宗教
・占星術
・錬金術
・魔術


ロバート・ボイルは幼少期はアイルランドで育ち、イギリス(イングランド)のイートン校に進学。
イートンで3年間を過ごした後はフランス人家庭教師と共に海外旅行に出た。1641年にはイタリアを訪れ、ガリレオ・ガリレイが亡くなるまでの僅かな期間ガリレオに師事したという(ガリレオは1642年没)。
大学には進学していない。
1644年にイギリスに戻り、科学的研究に強い関心を持ち、"Invisible College" の会合をロンドンやオックスフォードで持った。

ボイルは自身が行った空気ポンプの研究成果を1660年に出版したが、カトリック教会のイエズス会士フランシス・ライン( Francis Line)がそれを批判し反論。
ラインの批判に反論する形で「気体の体積は圧力と反比例する」というボイルの法則に初めて言及することになった。
ボイルが研究成果を出版した年が、王立協会創立の年である。
当然ボイルは創立メンバーの1人であるも、創立から20年後の1680年に王立協会会長に選ばれたボイルは「就任の際の誓い」の内容にためらいを覚え会長職を辞退している。


錬金術を含むヘルメス思想を好んだエリザベス女王と、錬金家の元素観を否定し錬金家ではなく化学者であろうとしたロバート・ボイルは(実験主義のフランシス・ベーコンも同じく)、錬金術においては相反する立場になってしまうが、プロテスタント(イングランド)支持者であり反カトリックであるという点では一致していた。


ロバート・ボイルが使った"Invisible College(見えざる大学)"という言葉は元々は薔薇十字団(Rosenkreuzer/ローゼンクロイツァー)で使われていたものである。
ボイル周辺の諸会合の出席者もチェコにおけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争(カトリック側の勝利)後に逃れてきたプロテスタント民が多くいた。

薔薇十字団(Rosenkreuzer/ローゼンクロイツァー)
1614年、神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された著者不明の怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』(Fama Fraternitatis、ファーマ・フラテルニタティス)で初めてその存在が語られ、一気に全ヨーロッパで知られるようになる。
ただし、この『友愛団の名声』の原文は、正式出版前の1610年頃から出回っていたとされる。そこには、人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、つまり不老不死の実現のために、120年の間、世界各地で活動を続けてきた「薔薇十字団」という秘密結社の存在や、それを組織した創始者「R・C」あるいは「C・R・C」、「クリスチャン・ローゼンクロイツ」と呼ばれる人物の生涯が克明に記されていた。

1615年、同じくカッセルで、『友愛団の信条』(Confessio Fraternitatis、コンフェッシオ・フラテルニタティス)が出版される。それはドイツ語ではなくラテン語によって書かれ、『友愛団の名声』によって宣言された「教皇制の打破による世界改革」を、さらに強調するものであった。

フランセス・イェイツによれば、これらの背景には薔薇すなわちイングランド王家をカトリック、ハプスブルク皇帝家の支配からの救世主として迎え入れようとする大陸諸小国の願望があったという

救世主というと格好良いが、反カトリック勢力にはヨーロッパ大陸に蓄財派の絶対君主大国を作ろうという野望があったので(ヘッセン家など)、イングランド王家がそれに乗るとするならばどっちもどっちという感じになってしまう。


この薔薇十字団はやがてフリーメイソンに吸収される。
反カトリック集団の薔薇十字団、ユダヤ教のカバラ思想、古代エジプトのヘルメス思想(旧約聖書に繋がる)、これらの神秘主義や秘密結社はその姿を微妙に変えていき、やがてカトリックに近くなっていくのである。

反カトリック集団であった薔薇十字団がカトリックに近づいて行くきっかけはジェームズ1世の王位継承だった。
但し前の君主エリザベス女王がプロテスタントとしてイングランド国教会を国家の支柱として位置付けたので、イギリスという国=プロテスタントのイメージが強まり、イギリスにあるカトリック色が他からは見えにくくなっていた。

ジェームズ1世の母親はスコットランド女王でありフランス王妃でもあった。
エリザベス女王在位中にイギリスの女王に相応しいのは私であると、エリザベス女王に異を唱えた人物である。彼女はカトリック教徒。
フランス王妃になった時には彼女の外戚が実権を握りプロテスタントを弾圧した。
イングランド王位継承に有利な相手と再婚するも愛情はすぐさま冷め秘書と恋仲になり、息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世)を出産した。 夫の子ではなく愛人だった秘書の子だったという疑義あり。
1567年、エディンバラの教会(現在のエディンバラ大学構内)でメアリー女王の夫が殺害されているのが発見された。
その頃にはすでに秘書でもない別人と恋仲になっており、2人が結婚のために共謀して夫を殺したと疑われた(事実、結婚する)。 殺人が疑われた理由は息子の王位継承権を失わずに離婚できなかったからだ。
最後は(1587年)エリザベス1世暗殺計画を企てたとして処刑された


ジェームズ1世は反カトリックであった薔薇十字団の庇護者として知られているが、それをすんなり信じるわけにはいかない。
イギリスはスコットランド起源の王室に変わって(1603年)から再びカトリックに変わっている。
表向きのカトリックはジェームズ2世(1688年)まで。
ジェームズ1世 ー チャールズ1世 ー チャールズ2世・ジェームズ2世 ←親子3世代
それ以降は(チャールズ1世の娘2人)カトリック色を避けたが、あえて避けた観があり真実は分からない。その後はドイツ起源に移る。


カトリック教会への失望から支持されていった神秘主義やプロテスタントに転換したイギリスが次第に本来の意味や意義から離れて変化していったように、ロンドン王立協会もまたロバート・ボイルやフランシスコ・ベーコンなど反カトリック者である科学者が目指したものと変わってしまったのではないかと思われる。

大学は宗教や王家と密接な繋がりを持って始まったものである。
宗教や王家が所有者であると言っても過言ではない。
だから学問に宗教や王家が口出しするのはある意味当然なのだ。
学問は上流階級のお金持ちの道楽の1つだった。
大学がそういうものであったということを忘れると"Invisible College"(見えざる大学)の意味も見誤る。
宗教や王家が所有の大学が「見える大学」である。
そうでなくて、何の偏見も持たずに実験や経験を基礎とした社会全体が共有できる知識を「見えざる大学」と位置付けた。
ところが権威や権力が自分に都合の良いように「見えざる大学」を運用し始めてしまった。
実験や経験をベースにしているので(そのように見せかけたので)、本来の目的から外れても大衆に支持されるようになり余計に性質が悪くなってしまった。



良くも悪くもロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)の設立に多大な影響を与えた『ニュー・アトランティス』というユートピア小説。
推理や想像を良しとせず、実験や経験主義、言い換えれば現実主義であるフランシスコ・ベーコンがファンタジー的なフィクション小説を書いたことに意味がある。
フランシスコ・ベーコンの父親はヘンリー8世からカトリック離脱後に大学改革を任された人物である。
ヘンリー8世亡き後、ベーコンの父親亡き後、その大学改革を進めようとしたのがフランシスコ・ベーコンだった。
だが1621年に公職を追放されてしまい、そのチャンスは遠のく。そんな頃に書いた小説である。


薔薇十字団では1614年にドイツにて著者不明の怪文書が出回った。
今もって誰が書いたのか分からないので怪文書と言っているが論文(イタリアルネサンスの思想、イングランドルネサンスの思想)と小冊子である。言語はラテン語とドイツ語。
不明なものがあると、「その持主は私」「その書き手は私」という人が出てくるのが常だが、この怪文書に関しては一切そういう人が出てこなかったという。
これは私の推測だが、当時すでにラテン語を使いこなせる人がほとんどいなかったからだろう。
ちなみに宗教改革の祖であるルターもラテン語で掲示した。

小冊子は2つ。
★1614年『友愛団の名声』
クリスチャン・ローゼンクロイツの神秘的な伝説の物語であり、ミステリーやアドベンチャー要素のある伝記小説のような感じ。
論文などと違って言葉さえ分かれば普通に楽しめる内容である。
★1615年『友愛団の信条』
啓蒙的な説明。やや専門的。

ともかくこの冊子によって薔薇十字団はちょっとしたブームとなり、クリスチャン・ローゼンクロイツはキリストの再来であり、プロテスタントの救世主であると思われるようになった。

1616年には『化学の結婚』(原題:Chymische Hochzeit,Christiani Rosencreütz、英題:Chymical Wedding of Christian Rosenkreutz)が出版された。

ドイツの著作家ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエによる小説である。
アンドレーエは、本作の著者はローゼンクロイツ本人であり、自分は単なる刊行者であるという体裁を装っている。
『化学の結婚』の化学とは錬金術を意味し、薔薇(東洋の叡知)と十字(キリスト教)を結びつけた薔薇十字団の教義に沿って、天地創造の7日間を模した章構成となっている。金属の再生に託して人間の復活と救済を説く錬金術の思想を織り込んだ、難解で象徴的な秘儀伝授的小説であり、後の隠秘学運動に影響を与えた。

=あらすじ=
ある日、ローゼンクロイツ(「私」)は、王の結婚式に招待される。道中で4つに分かれた道に遭遇するが、鳩と鴉の働きにより正しい道を選択し、城にたどり着く。招待客は、結婚式の客にふさわしいかどうかを試す試練を受ける。ほとんどの客は試練に合格できなかったが、「私」は簡単に合格した。
「私」が城内を探索していると、地下で偶然女神ウェヌスの裸を見てしまう。
祭壇での儀式により首を刎ねられた王達を蘇らせるため、「私」達はオリュンポスの塔で作業を行う。作業を終えて王と王妃を蘇らせると、「私」は黄金の石の騎士に選ばれる。
城に戻ると、ウェヌスの姿を見た者がいることを告げられる。「私」は自白し、門番に従事するという罰を受けることになる。にもかかわらず、私は故郷に帰ることができた(罰を逃れた理由については明かされていない)。


ドイツにおけるプロテスタントの盟主であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と、プロテスタントの国イギリスの国王となったがカトリックの家系であるジェームズ1世の娘エリザベス・ステュアート王女の1613年に行われた結婚式と、当時流行していた錬金術をモチーフとした、ミステリーでオカルトチックなファンタジー小説である。

2冊の小冊子とは違い、宗教的にも政治的にも学問的にも、一つ間違えると誤解されかねない表現を数多く含んでいた。
伝記やドキュメンタリーではなくパロディ的なもので、風刺や下ネタも含んでいた。
これが大人気となった。
執筆したアンドレーエの祖父はルター派プロテスタントの神学者、父もルター派プロテスタントの牧師。神学の他、哲学や文学や芸術や神秘的なものにも造詣が深かった。
彼自身もプロテスタントで、学者であり活動家であり著述家。
科学と文芸、芸術と魔術が行き交う環境で彼は育ち学んだ。
『化学の結婚』はその土壌から生み出された作品であり、薔薇十字団を卑しめる意図など全くなかった。
しかしそれに便乗しさらにエスカレートした表現物が現れ出す。
また小冊子が全面的に否定していた錬金術を主題にしてしまっていたことが一方で利用され、一方で問題視されるようになる。
それに乗じて敵であるカトリックは、薔薇十字団は不道徳でまやかしな魔術を使う異端、キリスト教を冒涜する反キリスト教集団であるという組織的な宣伝活動を展開する。
プロテスタントにしても敬虔な宗教心を持つ人々から薔薇十字団は徐々に支持を失い始める。
1618年から始まっていたドイツにおけるプロテスタントとカトリックの宗教戦争(30年戦争)にプロテスタントが敗北したこともあって、薔薇十字団は完全に姿を消してしまう。
アンドレーエはこの作品を語る時にドイツ語ではなく「ludibrium/ルディブリウム」(日本語では笑劇と訳されている)というラテン語を使ったと言う。
『化学の結婚』をアンドレーエが執筆したことが公表されたのは亡くなってからのことで、著者はローゼンクロイツ本人であり、アンドレーエは刊行者であるということを多くの人が信じていた。

フランシスコ・ベーコンが1921年頃に書いた小説は、1616年に発表された『化学の結婚』というベストセラーに影響されたのではないだろうか。
そしておそらく『化学の結婚』の著者がアンドレーエであることも分かっていた。
当たり前と言えば当たり前だが、分かる人にしか分からないことがある。彼らの希望はやがて失望に変わったはず。
彼らの信念が揺らいでいったとも言い換えられる。
現実主義者はファンタジーな世界へ、ファンタジーな世界を愛した者は現実的な路線へと。
2人はプロテスタントだった。
だからどちらも追われ、カトリックに利用された。






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# by yumimi61 | 2018-03-13 13:03
2018年 03月 12日
日本国憲法の秘密-689- (外貨準備と貿易について)
世紀の大発見となった「DNAの二重螺旋構造」。
その大発見にまつわる「Photo51問題」。
この発見と問題に関わる人物を再度紹介したい。
何故かと言えば、核開発と非常に関係が深いからである。

1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した3名。

Maurice Hugh Frederick Wilkins(モーリス・ウィルキンス) 1916年生まれ 87歳没

ニュージーランド生まれ→6歳のときにイギリス
セントジョンズ大学(アメリカ)、バーミンガム大学(イギリス)で博士号
第二次世界大戦中にカリフォルニア大学バークレー校(アメリカ)でマンハッタン計画に参加。

戦後、核物理学から離れ
、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンでX線回折によるDNAの構造研究を始めた。
1951~1953年の3年間はロザリンド・フランクリン(1920年生まれ)と同僚だった。
DNAの結晶化と写真撮影に貢献し、46歳でノーベル賞受賞。
2004年に死去するまで、キングス・カレッジ・ロンドンの生物物理学教授を務め、染色体のDNAの存在様式を研究していた。


James Dewey Watson(ジェームズ・ワトソン) 1928年生まれ 存命

アメリカ・シカゴ生まれ
シカゴ大学(アメリカ)、 インディアナ大学大学院(アメリカ)

1951年にモーリス・ウィルキンスがDNA回析について発表したナポリにおける学会に参加しており、DNA回析に興味を持ち研究することになる。
ウィルキンスらの写真をもとにDNAの二重螺旋構造を発見し(解釈し)、34歳でノーベル賞受賞。

1956~1976年、ボストンのハーバード大学生物学専攻にて教授を務め「分子生物学」を広めた。
1968~1993年、ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所長。(1993~2007年は同会長)
1989~1992年、アメリカNIH(国立衛生研究所)の国立ヒトゲノム研究センター初代所長。
全米科学アカデミー会員、ロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)会員。大統領自由勲章を受勲。ウッズホール海洋生物学研究所在籍者の一人。

2007年10月14日、「黒人は人種的・遺伝的に劣等である」という趣旨の発言が英紙サンデー・タイムズ一面に掲載された。同紙によるとインタビューにおいてワトソンは「アフリカの将来については全く悲観的だ」「(我々白人が行っている)アフリカに対する社会政策のすべては“アフリカ人の知性は我々と同等である”という前提で行われているが、それは間違いである」「黒人従業員の雇用者であれば、容易にそれを納得できるだろう」などと語ったという。この報道は欧米で大きな波紋を呼び、英国滞在中だったワトソンは謝罪と発言の真意が曲解されているとの旨のコメントを発するとともに、米国に緊急帰国した。結果として、コールド・スプリング・ハーバー研究所を辞職に追い込まれ、名声は地に堕ちた。→ノーベル賞のメダルを競売(高額で落札された)


Francis Harry Compton Crick(フランシス・クリック) 1916年生まれ 88歳没

イギリス生まれ 
ロンドン大学(イギリス)、ケンブリッジ大学(イギリス)

1947年に物理学から生物学に転向した。
モーリス・ウィルキンスにDNA回析分析の研究に誘われる。
ジェームス・ワトソンとともにDNAの二重螺旋構造を発見(解釈)。
1953年に科学雑誌Natureにたった2ページの論文を投稿した。
物理学に転向したクリックは、たった6年足らずで世界的な論文の執筆者となってしまう。科学史上の記念碑的論文。

この功績によって46歳でノーベル賞受賞。
ノーベル賞に先立つ1959年にロンドン王立協会からフェローシップ(会員資格)を付与された。


<黒人差別発言について>
DNAも遺伝子も目に見ることは出来ないので、構造すら推測(解釈)するしかない。
それらがどのような形質を表現するのか、どのよう役割を持って働いているのかということも、当然推測(解釈)の域を出ない。
ジェームズ・ワトソンの黒人差別と問題視された発言がどのような流れの中でどのような意図を持って発せられたのかは私には分からない。
がしかし、分子生物学やDNA遺伝子の権威が、その専門分野において解釈したことだとするならば、「DNAの二重螺旋構造」の解釈は世紀の大発見と褒め称え、「アフリカ人の知性は遺伝的に劣っている」という解釈は言語道断という、両極端の世間の対応の違いはおかしい。
遺伝子の解釈は今や幾らでも行われている。
自分に都合の良い解釈は認めて、自分に都合の悪い解釈を認めないのが、果たして公平中立な科学だろうか。


<ロンドン王立協会(ロイヤルソサイエティ)について>
正式名称は、
The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge である。
ロイヤルだったりロンドンという地名が使われていたりするが、事実上イギリスの国立アカデミー(政府より金銭的支援や公認を受け、学術的な研究活動や、学術分野における標準化を行っている学術団体)ということになる。
イギリスにおける科学者団体の頂点にあたる。また、科学審議会(Science Council)の一翼をになうことによって、イギリスの科学の運営および行政にも大いに影響をもっている。
世界的にも現存する科学学会としても最も古い。
1660年にイギリス国王チャールズ2世の許可を得て設立された特許法人である王立協会は、イングランド国教会の許可を経ずに役員の判断で出版活動ができるようになった。
先日書いたモンタギュー事件・裁判の当事者であるモンタギュー男爵はチャールズ2世の子孫にあたる。チャールズ2世はスコットランド起源の王室の一員。1500年代にカトリックから離れたヘンリー8世はウェールズ起源の王室で両者は起源(家系)が違う。

王立協会の設立に多大な影響を与えたのは、フランシスコ・ベーコン(Francis Bacon)が書いた『ニュー・アトランティス』というユートピア小説である。

Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans(フランシスコ・ベーコン)
1561 - 1626年 65歳没
イギリスの哲学者、神学者、法学者、貴族(子爵)である。
「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)の名言や、「イドラ」の概念で有名。

エリザベス女王の下で最高官職を務めた人物の子として生まれた。
12歳のときケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、16歳の時には駐仏イングランド大使の一人としてフランスに渡った。政府高官を目指したが父親が18歳の時に亡くなり、本人は23歳で下院議員となった。エリザベス女王からは嫌われた。
1603年に王位がエリザベス女王(ウェールズ起源王室の最後)からジェームズ1世(スコットランド起源王室の最初)に変わると、ベーコンはナイトを受章。
1618年57歳の時に政府の大法官になり、ヴェルラム男爵の爵位も与えられる。さらに1621年60歳でセント・オールバンズ子爵にランクアップ。
しかしそれからほどなくして収賄で国会から告発され、公職から追放された。その後は研究や執筆活動に勤しむ。

ベーコンは1620年に執筆した著書の中で、実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱した。
具体的経験的事実が認識の基礎であるとする立場を経験論といい、イギリスで発達したが、帰納法は経験論の基礎となったのでフランシス・ベーコンはイギリス経験論の祖とも言われる。
その翌年の告発で失脚したのでひょっとしたら・・エリザベス女王に嫌われジェームズ1世に好かれたからカトリック派だと思っていたら、帰納法や経験論を提唱しだし、「いやいやこれは不味い」と思ったカトリック派の者がいたりして。
1626年、冷蔵冷凍が保存に効果があるか、屋外で鶏の体に雪を詰めて観察する実験をしていて、風邪をひき肺炎となって亡くなってしまったそう。

"New Atlantis"『ニュー・アトランティス』 
ユートピア小説。1627年発行。
この著書に出てくる架空の島の名はベンセレム(Bensalem)、理想の学問の府が「ソロモンの館」(Salomon's House) である。ベーコンはここで、科学技術の発達したユートピア世界と理想の国家を描いている。この著作は未完のまま、ベーコンの死後に出版された。ハーバード・クラシクスの第3巻に収められている。
(あらすじ)
ペルーから船出した「われわれ」一行は、日本、中国を目指すが風に恵まれず、進退きわまっていた。そんな時にようやく未知の島「ベンセレム」にたどり着く。ここは「われわれ」と同じキリスト教徒の国であり、一行は異国人のための館に案内され手厚くもてなされると、この国の歴史や社会制度、慣習、「ソロモンの館」という学究機関の話などを聞く。それは科学技術の発達した理想郷のような世界であった。





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# by yumimi61 | 2018-03-12 16:15
2018年 03月 11日
日本国憲法の秘密-688- (外貨準備と貿易について)
1980年代初頭、ジェームズ・ゴールドスミスはローランド・フランクリン(Roland Franklin)とパートナーシップを結ぶ。
ローランド・フランクリンがジェームズ・ゴールドスミスのアメリカでゴールドスミスの事業を管理したという。
ローランド・フランクリンは、1973~1975年の二次銀行危機で倒産したキーサー・ウルマンという銀行のディレクターだった。
キーサー・ウルマンは1868年にサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu)の資金によってローランド・フランクリンの祖父であるエリス・アブラハム・フランクリン(Ellis Abraham Franklin)が設立した。

サミュエル・モンタギュー(初代スウェイスリング男爵)・・・・親戚・・・・ハーバート・サミュエル(初代サミュエル子爵) 

エリス・アブラハム・フランクリン・・・・親戚・・・・ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)1937年に爵位

ハーバート・サミュエルは1920~1925年にイギリス委任統治領パレスチナの高等弁務官だった。
ローランド・フランクリンの伯母の夫もシオニスト協議会の代表であり、イギリス委任統治領パレスチナの法務長官だった。


シオニストのバックにはロスチャイルド家あり。


ローランド・フランクリンの妹にロザリンド・フランクリンがいる。

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右は日本版Wikiより、左は英語版Wikiより)


Rosalind Elsie Franklin(ロザリンド・エルシー・フランクリン)37歳没
イギリスの物理化学者、結晶学者である。石炭やグラファイト、DNA、タバコモザイクウイルスの化学構造の解明に貢献した。

ロザリンド・フランクリンは、ロンドンのユダヤ人家系の銀行家の家庭に6人きょうだいの長女として生まれた。
裕福な両親は、ロザリンドが9歳のときから寄宿学校に入学させ、可能なかぎり最高の教育をうけさせた。


ケンブリッジ大学に進学し、石炭の結晶構造に関する研究を行い、1945年25歳の時に物理化学の博士号を取得した。
フランスの物理学者に"a physical chemist who knows very little physical chemistry, but quite a lot about the holes in coal" (ロザリンド・フランクリン自身)のための職探しを依頼。
1947年、パリの国立化学研究所に就職し、メーリングのラボに配属。
メーリングはX線回折を用いる結晶学者であった。様々な形の炭素の研究を続けていた。

1950年、フランクリンはキングス・カレッジ・ロンドンで3年働くターナー&ニューアール・フェローシップを授与された。
1951年、彼女はジョン・タートン・ランドール(John Turton Randall)の監督下において生物物理学の研究員として働き始める。
ランドールは彼女をDNA担当にした。
その研究を先に手掛けていたのはモーリス・ウィルキンス(Maurice Hugh Frederick Wilkins)と、レイモンド・ゴスリング(Raymond Gosling)という博士課程の学生だった。
ランドールは、フランクリンにDNA回折分析とゴスリングの論文指導の両方を引き継ぐように依頼したことをウィルキンスには知らせていなかったそうで、このことがPhoto51を巡る問題の原因となったとか。
ウィルキンスとゴスリングという師弟コンビは1950年より従来の装置でDNAのX線回折分析を行っていたが、よりよい研究にするためには新しく高画質のX線管とマイクロカメラが必要であることを認識し発注した。
その後、新たな師弟コンビであるフランクリンとゴスリングもX線回折を用いてDNAの構造を解明しようとする研究を始めた。
フランクリンはウィルキンスが注文した新装置を使った。
同じ人が同じものを撮ったとしてもカメラが変われば撮れる写真は変わる。装置が変わるということはそういうことである。
そのようなことをウィルキンスから言われると、フランクリンは水分量を変えてDNAを結晶化させるという工夫を加え、装置を繊細に巧みに使いこなしたは私であると反論した。
フランクリンは3年の期間を終えてキングス・カレッジ・ロンドンを離れることになったが、ランドールはこれまでのすべてのDNA研究をキングス・カレッジに置いて行くように指示した。
フランクリンは、ゴスリングが1952年にフランクリン監督下で撮った高画質の写真をウィルキンスに引き渡すように指示し、1953年にゴスリングによってウィルキンスに手渡されたという。


ロザリンド・フランクリンはキングス・カレッジ・ロンドンを離れてから5年後に卵巣癌と巣状肺炎で亡くなった。
実験のため無防備に大量のX線を浴びたことが癌の原因だと言われている。
ロザリンド・フランクリンが博士号を取得した物理化学とは、化学が扱う物質や分子の構造・性質・反応などを物理学的な手法を用いて研究する分野で、理論の基礎となるのは熱力学と量子力学、統計力学。
放射線が生物に対してどんな影響を与えるのかという学問は生物学や医学の範疇である。
物理や化学のように人間を原子や分子の集合である物体と考えた場合のそれに及ぶ影響と、いわゆる人々が言う人間の健康や生命に及ぶ影響とは、違うものである。「影響」という言葉の意味が違う。
前者は法則やパターンを決定できるほど均一なものであり、後者はそうではない。
X線を用いてDNAの研究に携わりながら、そのDNAの塊であるはずの人間である自分の身体の防御に無防備であったするならば、何ともそれらしくて、何とも皮肉なことである。


Photo51問題を整理。
●学生が監督官の下、写真を撮る
レイモンド・ゴスリングとロザリンド・フランクリンが使用した装置はモーリス・ウィルキンスが発注したもの。
写真を撮ったのは博士課程学生のレイモンド・ゴスリング。
彼はもともとモーリス・ウィルキンスの指導を受けていたが、1951~1953年の間はロザリンド・フランクリンが師匠となる。
ロザリンド・フランクリンがキングス・カレッジ・ロンドンを離れると再びモーリス・ウィルキンスが監督した。

●写真を違う大学の研究者に見せる
モーリス・ウィルキンスはレイモンド・ゴスリングとロザリンド・フランクリン師弟コンビが撮った高画質な写真(Photo51)をジェームス・ワトソン(アメリカ生まれでシカゴ大学出身)に見せた。
ジェームズ・ワトソンは当時イギリスのケンブリッジ大学にて、物理学から生物学に転向したフランシス・クリックとともに分子生物学としてDNAの研究をしていた。
その2人はモーリス・ウィルキンスが1951年に発表したDNA回析に影響されたり誘われたりしてDNAの研究を始めた者。

●DNAの二重螺旋構造を科学雑誌Natureに発表
ウィルキンスらのX線回折の写真を参考にして、DNAの二重螺旋構造を推定し、遺伝という現象を目に見える物質的構造として指し示した。
この功績により、1962年にモーリス・ウィルキンス、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックの3人がノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ロザリンド・フランクリンは1958年に没しているため、1962年では端からノーベル賞の対象外(生きている人にしか与えられない)
でも本当はロザリンド・フランクリンの貢献が大きかったのではないかとか、ロザリンド・フランクリンの写真を不正に入手したのではないかとか問題になったというわけ。


■どんなに性能が良くて高画質で最新なカメラを使ってもDNAの二重螺旋構造を直接写すことはできない!
写真を撮ったとか書くと、高画質なDNAの二重螺旋の写真が撮れたようにイメージさせてしまいそうだが、そういうことではない。
二重螺旋を目で見て確認したのではなく、写真からそう解釈したのである。

試料(DNAの結晶)にX線を照射する。
X線が試料の原子(障害物)にぶつかると、そこを回りこむなどして出ていく。
要するに障害物に当たったX線は真っ直ぐには進まない。光の反射みたいなこと。
試料を通って出てきた線(回析斑点)を検出器で写す。
その写真を解釈することによって分子モデルに変換する作業である。

写真を撮ったのはウィルキンスやフランクリン(学生にやらせた)。
彼らはDNA溶液を結晶化させて、その結晶にX線を照射し得られた写真を見て、DNAは規則的な結晶様構造を持っていると推測した。
DNAが遺伝子材料であるならば、遺伝子が結晶化する可能性があると考えた。
実際DNAの糸を抽出するのは比較的簡単だが、 X線回折を行なえるような大きさと強度を持った結晶化はとても難しい。

写真をもとにDNAは二重螺旋構造になっていると解釈して発表したのがワトソンとクリックである。

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http://andrewhulse.weebly.com/archive-blog---life-in-room-213206209/category/mitosis





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# by yumimi61 | 2018-03-11 18:33
2018年 03月 09日
日本国憲法の秘密-687- (外貨準備と貿易について)
1975年、ジェームズ・ゴールドスミスはナイトを受章しラベンダーリスト)、イングランド銀行(イギリス中央銀行)が買収したスレート・ウォーカーのトップに就任した。

1980年代初頭、ジェームズ・ゴールドスミスはローランド・フランクリン(Roland Franklin)とパートナーシップを結ぶ。
ローランド・フランクリンがジェームズ・ゴールドスミスのアメリカでゴールドスミスの事業を管理したという。
(ジェームズ・ゴールドスミスもローランド・フランクリンもナイト受章者ですがサーの敬称は省かせていただきます。あしからず)


ローランド・フランクリンはイギリス生まれ(1926年)のマーチャント・バンカー。彼の父親アーサー・エリス・フランクリン(Arthur Ellis Franklin)も同じく。
しかしながらローランド・フランクリンは、1973~1975年の二次銀行危機で倒産したキーサー・ウルマンという銀行のディレクターだった。
キーサー・ウルマンは1868年にサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu)の資金によってローランド・フランクリンの祖父であるエリス・アブラハム・フランクリン(Ellis Abraham Franklin)が設立した銀行。


Samuel Montagu, 1st Baron Swaythling(初代スウェイスリング男爵サミュエル・モンタギュー) 
イギリスの銀行家。ユダヤ人(ユダヤ教徒)。
モンタギュー男爵と同じくモンタギューであるが、元はサミュエルやモージズという姓を名乗っており、モンタギューに改姓したのは途中から。
1853年にSamuel Montagu & Co. という銀行を設立。1885年より下院議員であったが、1907年に貴族の爵位が与えられた(スウェイスリング男爵の初代)。
ロスチャイルドのイギリス家始祖のネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、イングランド銀行大株主のレヴィ・バレント・コーエンの娘と結婚したと昨日書いたが、サミュエル・モンタギューもコーエン家の娘と結婚した。


サミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu)エリス・アブラハム・フランクリン(Ellis Abraham Franklin)は出資者と設立者という関係だけでなく親戚関係でもある。

サミュエル・モンタギュー(初代スウェイスリング男爵)・・・・親戚・・・・ハーバート・サミュエル(初代サミュエル子爵) 

エリス・アブラハム・フランクリン・・・・親戚・・・・ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)1937年に爵位


ハーバート・サミュエルは1920~1925年にイギリス委任統治領パレスチナの高等弁務官だった。
ローランド・フランクリンの伯母の夫もシオニスト協議会の代表であり、イギリス委任統治領パレスチナの法務長官だった。


シオニズム運動は、パレスチナにユダヤ人の国家を築くことを目指した19世紀以来の運動。
反セム主義の存続と強化および現地社会への完全な同化の不可能なことへの失望から出てきた。
創始者として知られるのが、オーストリアのユダヤ系ジャーナリスト、セオドール・ヘルツルである。


セムにもいろいろ定義があるが、この場合のセムとはカトリックと折り合いの悪かったセファルディム(ユダヤ人)であると考えるのが妥当である。
オーストリアのユダヤ人ジャーナリスト、セオドール・ヘルツルは1896年にユダヤ建国案である『ユダヤ人国家』を出版する。
最初に記した言葉は「ロスチャイルド家の人々へ」だったそうだ。
ヘルツルはユダヤ国家の初代大統領にロスチャイルドが就くことを希望していたそうである。

イスラエル建国には最初からロスチャイルド家が関わっている。
ロスチャイルド家はパレスチナを土地を買収し続けていたのだ。
(日本の国土が全て政府所有の国有地ではないということを考えれば、国土というものがどういうものか分かるだろう)
第一次世界大戦後、イギリスは国連よりパレスチナに対する「委任統治権」を与えられたが、政府は何よりロスチャイルド家の意向を重視した。
土地を買収するだけでなく、世界各地に住んでいたユダヤ人の同地への移住に対しては、ロスチャイルド家が資金を支援した。

ユダヤ人の問題は昔から存在していたが、長いこと嫌われていたユダヤ人が殊更同情されるようになったのは、第二次世界大戦後。ナチスによる過激なユダヤ人迫害が世界に報道や喧伝されたからである。
これによってユダヤ人に対する国際世論が完全に転換を果たし、ユダヤ人の国際的発言力が急激に高まる。
1947年に武力衝突からイギリスがパレスチナ委任統治権を放棄し、1948年のイスラエル建国に繋がった。
先住していながら土地を追われたパレスチナ住民からの抵抗が今も続いている。

パレスチナ委任統治権放棄とイスラエル建国時のイギリス首相はクレメント・アトリー 首相であり、この時も労働党。
ウィンストン・チャーチル首相が終戦前1945年7月の選挙で思わぬ大敗を喫して誕生した首相であった。

イスラエルについては、土地に所有権が設定されていて、売買によって正式に取得したとなれば、いくら先住民が自分の土地だと騒いでも、所有権設定後の土地取得自体は正当なものとなろう。
それに抵抗するとしたら政府(それに伴う法律など)を認めないという言うしかない。
日本でも江戸時代から明治時代に変わった時に土地の扱いが変わり(土地所有権の設定)、新たに土地を買い占めた所有者に莫大な利益を生んだ

中東戦争(パレスチナ戦争)によって勝利したのは3次まではイスラエル側、第4次はアラブ先住民側。
その後の戦いは地下に潜り、小競り合いが続いていたが、1993年にパレスチナ暫定自治協定が結ばれた。
パレスチナ(イスラエル)問題が分かりにくくしているのはやはり「宗教(先住民)」vs「政治経済の体制(国家)」というジャンルの違う対立になっているからである。
「ユダヤ教」vs「カトリック」とすれば分かりやすいが、実際「カトリック」側はお金にどっぷり浸かっているので政治経済とは切っても切れない関係にあり、単に宗教として片付けられない現実がある。
またこの問題が解決しそうもないのは、国がどうこうというよりもパレスチナの中心都市エルサレムをどちらが持つかという、1つの都市を巡る帰属の問題だからである。(所有者問題ではなく帰属問題)
その都市は宗教的聖地であり(聖書に記されている宗教の根幹に関わる問題)、巡礼地・観光地としても優秀なので、どちらも譲らないし分割では意味がない。
パススチナ暫定自治協定でもエルサレム帰属問題(首都問題)には触れなかった。触らぬ神に祟りなし!?
トランプ大統領の「イスラエルの首都はエルサレム発言」が非難されるのは、エルサレムがイスラエルに帰属していると認めたようなものだから。(イスラエル側が土地所有者だからですか?)








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# by yumimi61 | 2018-03-09 16:12
2018年 03月 08日
日本国憲法の秘密-686- (外貨準備と貿易について)
イギリスの世論を巻き込み、モンタギュー事件・裁判の論点が摩り替えられた。
裁判で有罪になるも、それすら同性愛者に対する不当な差別であるとの主張で利用され、結果的に刑法の改正を求める声が大きく上がり、政府は調査委員会(ウルフェンデン委員会)を設置せざるを得なくなった。
委員会の長であるジョン・ウルフェンデンがナイトの勲章を受章した翌年に調査報告書を公表。
報告書では21歳以上の男性同士による合意の上での同性愛行為は刑事罰の対象から除外することなどを勧告し脱刑罰化に向けて加速していくことになるが、実際に法改正がなされたのは10年後の1967年。

法改正の時の首相がビートルズの"Taxman"という歌の中にも登場する労働党のハロルド・ウィルソンであった。
ウィルソン首相が1976年3月に突然辞任を表明し、4月5日に辞任した。
その年の5月、叙勲が発表された。
その叙勲にジェームズ・ゴールドスミスをはじめとした労働党の主義主張とは相容れないような立場の裕福な企業家が受章者に含まれており、さらにある受勲候補者リストをウィルソン首相の秘書官であった女性がラベンダー色のノートに記していたと報道され、後に1976年の叙勲者が"Lavender List"と呼ばれるようになる。(でも叙勲者を決定するのは君主なので首相に対するこの報道や批判は不毛)
この話はジェームズ・ゴールドスミスから波及したものである。

ということでジェームズ・ゴールドスミスに戻る。(下記緑字はこれまでのジェームズ・ゴールドスミスのまとめ)

フランクフルトのゲットー出身のユダヤ家系の金融一族ゴールドシュミット家の一員で、オリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなった投資家ジェームズ・ゴールドスミス。
兄は環境活動家。
日本語版Wikipediaには金持ちの子弟が有り余るお金を以てして何の苦労も無く投資の世界で華々しく成功していったようにしか書かれていないが実はそうでもなかったらしい。
彼が投資家として嫌われ出す契機となったのは1971年のBovril(ボブリル社)の買収だった。
Bovril(ボブリル社)買収とBovril(ボブリル社)所有の南米の牧場など売却の成功に気をよくしたのか、この頃からジェームズはアメリカや南米に積極的に目を向けるようになる。
おそらくイギリスなどヨーロッパとアメリカ大陸での資産評価などには差があって、投資によってその差が利益をもたらすと考えたのでないだろうか。

1973~1975年、イギリスで二次銀行危機(the secondary banking crisis)が起きた。
イギリスの場合は中央銀行であるイングランド銀行が約30の二次銀行に介入し支援し救済した。中央銀行であるからして要するに紙幣を発行したということになる。
これによってイギリスはインフレに見舞われ、英国病と呼ばれる問題が深刻化していったが、救済したイングランド銀行はその権限を増すことになった。
ジェームズ・ゴールドスミスが資金調達していたスレート・ウォーカー(Slater Walker)という会社(銀行部門)も二次銀行危機で財政難に陥り、イングランド銀行の支援を受けることとなり、創業者は辞任に追い込まれた。
スレート・ウォーカーは1976年にイングランド銀行に買収され、トップにはスレート・ウォーカーのかつて顧客(あるいはターゲット)であったジェームズ・ゴールドスミスが据えられた。



ジェームズ・ゴールドスミスがナイトを受章したの年(ラベンダーリスト)と、イングランド銀行(イギリス中央銀行)が買収したスレート・ウォーカーのトップに就任したのは同じ年。



イングランド銀行は1694年にユグノー(フランスにおける改革派教会カルヴァン主義;蓄財は良いこととする派、当初は教徒からお金を巻き上げていたカトリックと対立した)の資本によってイギリスに誕生。
ユグノーは、カトリックと折り合いの悪かったセファルディム(ユダヤ人)を銀行に取りこんだ。
●セファルディム(アジア系・中東系・東洋系・オリエンタル系ユダヤ人などと言われている)
スペインやポルトガルなどイベリア半島に移住(イスラム支配時代)→(イベリアがカトリックに奪還される)→地中海近辺の南ヨーロッパや中東、北アフリカなどのオスマン帝国の領域に移住、少数はオランダやイギリスに移住

それからほどなくして(1714年)、イギリスはドイツ起源王朝に変わった。この理由もカトリック系君主の回避だった。
これだけ見るとイギリスは反カトリック色を強めたかのように見えるが、やがてイギリスは次第に再びカトリックに近づいて行くのである。
流れを大きく変えたのは前にも書いた通り、ナポレオン戦争(1803-1815)である。
ロスチャイルドを台頭させたのはヨーロッパの貴族の対立とそれに続く市民革命・ナポレオン戦争。
カトリックを復活させたのはナポレオン戦争。イエズス会がナポレオン失脚に貢献したから。

やがてイングランド銀行もロスチャイルドが実権を握るようになる。

1800年8月から1816年8月までの各16ヵ年においては年平均60万ポンドの割引収入をあげて準備金を蓄え、イングランド銀行は1816年に金本位制を採用した。やがてロスチャイルドが台頭し、各国の外債発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。銀価格低下の時期にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事を務め、大不況 (1873年-1896年)にあえぐ世界経済の梶をとった。


イギリスはヨーロッパにおいてイスラムの影響が少ないという地の利を生かして、割引手形などがいち早く普及した。
イングランド銀行が紙幣のお手本にしたのはゴールドシュミット(ゴールドスミス)家の金匠手形だった。
手形というのは決済などに利用されるものであり、それほど長い期間が設けられているものではない。短期市場である。
イングランド銀行設立前のイギリスは短期市場が主流で、ドイツやフランスに比べると長期市場が発展していなかった。それはつまり国債をはじめとする長期の借金が少なかったということでもある。
長期金融を担っていたのはマーチャント・バンカー(merchant banker)と呼ばれた金融業者であった。(主にユダヤ人)
彼らは豊富な自己資本とともに築いてきた信用を元手に貿易手形(輸出入に伴って発行される)などとして各国の国債発行(国の借金)を引き受けた。
国が発行する債券は人々から信用してもらうことが出来ないが、マーチャント・バンカーが発行すれば信用されるということである。
だからマーチャント・バンカーが国に代わって資金を集めた。
国家が資金を必要とすればするほどマーチャント・バンカーに頼らざるを得なくなる。産業革命や大規模開発、戦争など。
マーチャント・バンカーが引き受けた手形は信用が高いとしてイングランド銀行が再割引を引き受けたため、マーチャント・バンカーが引き受けた手形ならば割引市場で容易に資金を入手できるようになる。
こうしてマーチャント・バンカーとイギリスの短期金融市場は持ちつ持たれつで国際的に発展していき、世界貿易を拡大させた。
マーチャント・バンカーが「国際金融資本」と呼ばれるものの正体だが、そこにはイングランド銀行が一枚噛んでいる。


ジェームズ・ゴールドスミスの大伯父マクシミリアン・ゴールドシュミットは、ロスチャイルドのナポリ家2代目の娘と1878年に結婚し、ファミリーネームも連ねた。ナポリ家2代目が亡くなった1901年にナポリ家は閉鎖された。
  マクシミリアン・ゴールドシュミット×ロスチャイルドのナポリ家2代目の娘

ロスチャイルドのイギリス家始祖のネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、イングランド銀行大株主のレヴィ・バレント・コーエンの娘と結婚した。
  ロスチャイルドのイギリス家始祖×イングランド銀行大株主の娘

ロスチャイルドのイギリス家2代目は、ナポリ家始祖の娘と結婚した。
  ロスチャイルドのイギリス家2代目×ロスチャイルドのナポリ家始祖の娘
 ⇒その息子がアルフレッド・ド・ロスチャイルド
  N・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者、イングランド銀行理事を務めた。


ヨーロッパを代表する古くからの金融家ゴールドシュミット(ゴールドスミス)家はロスチャイルド・ナポリ家との婚姻を通して、ロスチャイルド・イギリス家にも繋がっている。

ナポリは今でこそイタリアだが、外国(フランス・スペイン・オーストリア)に支配され続けた長い歴史がある。
スペインとオーストリアはカトリック。
ナポリに何度も攻め込んだフランス勢力は反カトリック。
 1289年~ フランスのアンジュー家
 1435年~ スペインのにアラゴン家
 1504年~ スペイン王のフェルナンド5世
 1713年~ オーストリアのハプスブルク家
 1735年~ スペイン王のカルロス3世
 1806年~ フランスのナポレオン系
 1815年~ スペイン王のフェルディナント1世 ←この時代に与えられた
 1861年~ イタリア王国に併合

ロスチャイルド家(5人の兄弟全員)にオーストリア皇帝から貴族の爵位が与えられたのは1822年。
ナポリ家の始祖がロスチャイルド家の銀行をナポリにおける主要行とすることに成功したことがその理由。
ナポリともオーストリアとも関係ないはずの兄弟全員がオーストリア貴族。
カトリック(ローマ教皇)から与えられたと言っても過言ではないだろう。

1847年、イギリス君主(ヴィクトリア女王)がロスチャイルド・イギリス家の当主(2代目)に准男爵に叙勲し、1885年に正式に貴族の爵位が与えられた。
ロスチャイルド男爵(Baron Rothschild, of Tring in the County of Hertford)
初のユダヤ人(ユダヤ教)貴族院議員となった。
1885年はイギリスにおいて「ラブシェール条項」を含む刑法改正がなされた年。
一方のゴールドスミス家には貴族の爵位は与えられていない。
1976年にジェームズ・ゴールドスミスがナイトの勲章を受章したのみである。
ゴールドスミス家のほうが古くからの名門であるが、権威権力はロスチャイルドに及ばなくなってしまった。






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# by yumimi61 | 2018-03-08 15:18
2018年 03月 06日
日本国憲法の秘密-685- (外貨準備と貿易について)
178.png2008年2月までカテゴリーとタグ付完了しました。


第二次世界大戦後、世界は「冷戦」に突入した。
その主役は、ヤルタ会談の密約を裏切ったものと裏切られたもの、アメリカとソ連だった。
裏切られたソ連はアメリカと日本の秘密を確信することになった。
以後、ソ連が社会主義国(共産主義)だったため、アメリカと日本を中心に反共産主義旋風が吹き荒れた。

だが反共産主義は敗戦した枢軸国の思想だった(枢軸国は親カトリックでもあった)。
「枢軸国」(反共産主義、親カトリック)vs「連合国」
        ↓
「枢軸国」「連合国」(反共産主義)vs(共産主義)(共産主義・・?)

戦後すぐに戦勝国が敗戦国の思想に染まるというのは腑に落ちない。
共産主義の人が反対に回るのは当然だが、共産主義に積極的に同意するわけではないが急激な反共産主義の動きには違和感を覚えたという人もいるだろう。
反動して現れたのが反リベラルと反同性愛。これを大きく捉えれば反カトリックになる。
このことが見えにくかったのは対立したもののジャンルが少し違ったから。
「政治経済の体制」vs「宗教」
しかも宗教の1つの特徴だけがズームされたため、うっかりすると宗教問題が隠れていると気付かない。
「政治経済の体制」vs「性的少数者」
実際に対立構造が見えないままに時流に乗って排除的なことが行われたこともあったかもしれないが、根本的には第二次世界大戦の関係の捻じれを引きずった対立である。
またアメリカが反共産主義になったからと言って、直ちに親カトリックにもなるかと言ったら、それは難しい。アメリカは基本的にはプロテスタントの国であり、しかも移民などによって多くの宗教が持ち込まれている。宗教は国の問題であるとともに個々人の問題でもある。
そんな複雑な事情が絡み合って、起こったことをすんなり整理することもなかなか難しいのだ。
ともかくベースには次のような対立構造があった。(でもアメリカはカトリックを早急に積極的に受け入れる土壌にはなかった)
共産主義者と同性愛者が本人たちの与り知らないところで対立の主軸になってしまっていたのだ。

Red Scare(反共産主義、赤狩り)↔ Lavender Scare(反同性愛者)

アメリカではこの冷戦時代に共産主義者同様に同性愛者が国の雇用から締め出されたということがあった。
国の上層部からすれば、どこからどんな情報が漏れたり盗まれるか分からないし、彼らが利用される可能性もある。


ところでラベンダー。
少し前に"Lavender List"のことを書いたが覚えているだろうか。
イギリスの1976年の叙勲を皮肉った呼び方だが、2006年にBBCにてドキュメンタリードラマ『The Lavender List』が放送されてから使われ出した言葉である。(ノートがラベンダー色だったからという理由)

"Lavender Scare"は冷戦時代の反同性愛者運動について書いたデイビッド・ジョンソン(David K. Johnson)の2004年の著書で一般的に知られた。
当時アメリカでは男性同性愛者を "lavender lads"と呼称することが多く、そこから本のタイトルを付けたそう。
ラベンダー(Lavender)自体の由来はナチスのホロコーストであるとされているが、その色はラベンダーピンク。
どちらかと言えばピンクに近い気がする。
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ピンク・トライアングル(英: pink triangle、独: rosa Winkel)
ホロコーストで強制収容された者に装着が義務づけられていた三角形の識別胸章のうち、男性の同性愛者を表したもの(女性の同性愛者はブラック・トライアングルで表された)。
ラベンダー・ピンク色をしていたことからこの名が付いた。
ピンク・トライアングルや、これに使用されたラベンダー・ピンク色は、現在では性的少数者(LGBT)のプライドや権利を象徴するシンボルとして生まれ変わっている。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルのライトアップは様々な記念日にちなんで年中色が変わるが、毎年6月の最終週にラベンダー色にライトアップされるのは、この週がストーンウォールの反乱を記念した同市の「LGBTプライド週間」だからである。



1953年に起きたモンタギュー事件・裁判(the Montagu Trial)の当事者モンタギュー男爵(3代目)の英語版Wikipedia(Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu)の中では事件についても触れている。
しかし当人に悪いようには書かれていない。男性と親密にしていただけで不当な差別を受けた被害者になっているのだ。
Trial and imprisonmentという項目において、突如冷戦時代のアメリカのthe Lavender Scare (ラベンダーの恐怖)についての記述が登場していて、まるでその時代背景の中でモンタギュー男爵が不当に裁判にかけられ投獄されたような印象を与えているが、モンタギュー男爵は少年に"gross indecency" (buggery・sex)をして逮捕されたのが事の発端であって、第二次世界大戦を背景にしたものとは違い、同性愛者であることを理由に国の職を解雇されたわけでもない。
印象操作がなされていることがそこでもよく分かる。






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# by yumimi61 | 2018-03-06 17:04
2018年 03月 05日
日本国憲法の秘密-684- (外貨準備と貿易について)
親カトリック且つ反共産主義で結ばれたファシズム(結束主義)国の日本・ドイツ・イタリアが枢軸国となり、イギリスやアメリカに代表される連合国と戦った第二次世界大戦。

枢軸国は一党独裁制を敷いたわけだが、ドイツとイタリアの権力の頂点にいたのはヒトラーとムッソリーニという首相である。
日本も一党独裁制に持ち込まれたが、権力の頂点にいたのはその党首ではなく天皇という君主だった。

ドイツは第一次世界大戦の敗北後に共和国に移行していたため君主はおらず大統領(元首)がいたが、ナチスが政権をとった1933年からは大統領と首相という2つの地位が統合された(総統)。
イタリアは当時はまだ王国であり王という君主が存在していた。ムッソリーニは君主に全権を委任されていた首相である。最終盤にはそれを切られ交代させられたりした。
日本も大日本帝国という君主国(西洋風に言えば王国)であり、大日本国憲法に天皇が全権を握っていることが記されていて、全権や一部を他者に委任するということも一切していなかった。人々は天皇の下、戦争に赴いたのである。
権力ではなく国際的な権威という観点から見ると、枢軸国3国の戦争指導者で権威を持っていたのは日本の天皇だけ。
ヒトラーは大統領も兼ねていたが元々が共和国であり、大統領(元首)は君主が持つ権威とは若干違う。君主は選挙で選ばれたりはしないし基本的に世襲である。
イタリアのムッソリーニは権威を持っていなかった。
文句なく権威と権力の両方を保持していたのは日本の天皇ということになる。

1945年、第二次世界大戦終結。
敗戦国のドイツは分割されそれぞれが共和国に、イタリアも共和国に変わった。
しかし日本は共和国に移行しなかった。そう、未だに君主国(西洋風に言えば王国)なのだ。
まだ平和条約も結んでおらず占領下にあるというのに、連合国の軍部主導のもとに天皇の地位を保証する日本国憲法が1946年11月に早々と公布された。
こんな馬鹿げた話を信じられるだろうか。
立憲君主制というならば、戦前だって立憲君主制である。
連合国軍最高司令官を務めたアメリカ人のダグラス・マッカーサーは父子共にカトリック国であるフィリピンの総督だった。

マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニアは家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。なお、同じスコットランド系のフランクリン・ルーズベルトとは7つの家系、ウィンストン・チャーチルとは8つの家系を隔てた遠戚関係にあたる。


モンタギュー事件の当事者であるモンタギュー男爵はチャールズ2世の子孫であり、そのチャールズ2世はカトリックから離れたウェールズ起源の王室ではなくスコットランド起源の王室に変わってからの君主であるということは先に述べた。
アメリカのキリスト教で近年非常に力を持っているのが聖公会。
聖公会はイギリスの植民地であった地の宗教。つまりイングランド国教会系。
アメリカの聖公会はスコットランド聖公会の主教によって承認され誕生し、スコットランド聖公会を通じた後継者選び(使徒継承)を行っている。
アメリカにおけるキリスト教系団体としては珍しく、中絶と同性愛を公認している。すなわちこれがリベラル派ということになろう。
私は聖公会についても何度か書いているが、2016年2月のこの記事ではイギリスのトニー・ブレア首相(労働党)が2007年に正式にイングランド国教会(プロテスタント)からカトリックに改宗したことも書いた。
カトリックから独立したキリスト教原理主義(福音派)と対立するリベラル派とカトリックは近い。1500年代にカトリックから離れたのイングランド国教会(プロテスタント)は500年の時間の中で徐々に再びカトリックに近づいてきた。


第二次世界大戦後に後に起こったのは「冷戦」。
冷戦
1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。

ソ連は連合国側で戦っていたが、ヤルタ会談での密約をアメリカに裏切られた。それはアメリカが日本は通じていた証拠になる。
だからソ連(ロシア)は日本と平和条約を結ばないまま今日に至っている。
過去記事より)
ポツダム会談中にアメリカのトルーマン大統領はソ連のスターリン書記長に「新型爆弾の開発が成功した」と告げたが、スターリン書記長は特段驚く様子はなく態度を変えることもなかった、そのことにトルーマン大統領はショックを受けていたという。
スパイからの情報かどうかは分からぬがソ連は知っていたのだろう。原爆が出来そうもないことを。
アメリカはヤルタ会談でソ連に対して対日参戦を求めている。そして対日参戦には条件が付けられていた。
ソ連にとってはアメリカにその約束を守ってもらうことのほうが重要であった。
原爆は不可能なのだ。
実験の段階ならば嘘もまかり通るだろう。しかし兵器として使うからには相手がいる。
原爆投下だなんて嘘が通用するわけがない。
もしもそんな嘘が通用するとするならば考えられる状況はただひとつ、日本とアメリカがグルである時のみ。
従ってもしアメリカが原爆を使った宣言したならば、あるいは日本が原爆投下されたと発表したならば、ソ連は直ちに対日参戦を開始するつもりだった。
「原爆投下」で日本に降伏なんかされたら困るからだ。

すなわちソ連が対日参戦を開始した日は原爆投下の情報を掴んだ日、あるいは情報が出た日と一番近いはずである。それが一番信用できる日にちである。
しかしながら前にも書いたようにソ連の宣戦布告と対日攻撃開始は史料によって8月8日と8月9日に分かれる。

ソ連は新型爆弾を長崎へ投下したとの情報を得て対日攻撃を始めた。つまり8月9日が正解ではないだろうか。
ソ連の対日攻撃開始日は8月6日の広島では爆弾が投下されていないという証拠になる。


原爆用に改造されたというB29(シルバープレート)の命名された日にちと考え合わせても、そのほうがしっくりくる。


日本ーアメリカーソ連
冷戦を生んだのはアメリカの裏切りで、その裏切りに利用されたのが原爆。
なぜ「冷戦」だったのか?
核爆弾の問題は熱や爆風ではなく放射線(放射性物質)にある。熱や爆風ならば根本的には普通の爆弾と変わらない。サイズが違うだけだ。
放射線(放射性物質)の特徴というか脅威は目に見えないところにあるはず。静かな脅威。
静かな脅威を生む原爆開発を巡る対立だからこそ「冷戦」。
また存在しない原爆からは熱や爆風も生まれない。
広島や長崎は熱や爆風で包まれたかもしれないけれど、それは原爆から生じたものではない。原爆は熱や爆風を生まなかった。
その「原爆投下」でこじれた関係だからこそ冷戦。


第二次世界大戦後、アメリカにとってはソ連が脅威となった。
アメリカを連合国代表と考えれば、ソ連は連合国の脅威となった。
そのソ連は社会主義国(共産主義国)。
連合国と戦った親カトリックの枢軸国は最初から反共産主義だった。
第二次世界大戦の敵味方が反共産主義で1つになる形となる。
共産主義はもともとグローバルな活動を展開していたので一国に留まらない。その上、ユダヤ人や東ヨーロッパ諸国からの移民を通してアメリカには多く流入している。どこにスパイが紛れ込んでいるか、アメリカは疑心暗鬼となる。
それが赤狩りに繋がった。

赤狩り(Red Scare)
政府が国内の共産党員およびそのシンパ(sympathizer:同調者、支持者)を、公職を代表とする職などから追放すること。第二次世界大戦後の冷戦を背景に、主にアメリカとその友好国である西側諸国で行われた。

ローゼンバーグ事件に代表される共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年の中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年の朝鮮戦争におけるソビエト連邦や中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「赤」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは"共産主義の恐怖"の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。


レッドパージ(red purge)
連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

マッカーシズム(McCarthyism)
第二次世界大戦後の冷戦初期、1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動きを指す。
1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の下院非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。
マッカーシーらに「共産主義者」や「ソ連のスパイ」、もしくは「その同調者」だと糾弾されたのは、アメリカ政府関係者やアメリカ陸軍関係者だけでなく、ハリウッドの芸能関係者や映画監督、作家。さらにはアメリカの影響が強い同盟国であるカナダ人やイギリス人、日本人などの外国人にまで及び、「赤狩り」の影響は西側諸国全体に行き渡ることになる。



アメリカなど連合国側があまりに反共産主義に傾けば、連合国と戦った親カトリックで反共産主義だった枢軸国の意に沿うという結果に陥る。
戦勝国が敗戦国の思想に近寄ったと言わざるを得ない。
そうとなれば何のために戦ったのかもよく分からなかくなってくる。第二次世界大戦が全く無意味な戦争と化してしまう。
いや、敗戦国にとっては無意味ではないので、勝敗の意味をなくしてしまうというべきか。
要するにアメリカなど連合国で反共産主義が急激に進むことによってその反動として反枢軸国的思想(親カトリック、反共産主義)が起こってくる。
これが反リベラル、反同性愛として現れてきた。





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# by yumimi61 | 2018-03-05 14:30
2018年 03月 04日
日本国憲法の秘密-683- (外貨準備と貿易について)
「リトルボーイ(Little Boy)」「ファットマン(Fat Man)」
「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」「ボックスカー(Bockscar)」

ボックスカー以外は日本人にも馴染み深い言葉。
第二次世界大戦末期に日本に投下されたという原子爆弾の名前と投下機の名前だからである。
広島(Hiroshima)・・・「リトルボーイ(Little Boy)」「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」
長崎(Nagasaki)・・・「ファットマン(Fat Man)」「ボックスカー(Bockscar)」

原爆投下の象徴となったのは、広島では広島県物産陳列館(広島県産業奨励館)、長崎ではカトリック教会だった。
広島県物産陳列館(広島県産業奨励館)が原爆ドームとなったわけだが、建物の設計者はオーストリア・ハンガリー帝国(現:チェコ)出身のヤン・レッツェル。
1907年にドイツ人建築家のスタッフとして来日し、1910年に日本で独立した。
1923年の関東大震災後にチェコに帰国するも、チェコでは仕事も無く病気がちで家族友人から見放され1925年に45歳で亡くなった。
日本で設計した代表的作品には、聖心女子学院校舎、上智大学旧1号館、雙葉高等女学校校舎というカトリック系の学校が含まれている。
また大日本私立衛生会会館がある。

大日本私立衛生会は1883年(明治16年)に発足した会。
現在の日本公衆衛生学会の母体組織。
医師であり貴族院議員であった長與專齋、日本赤十字社の創始者である佐野常民、満鉄初代総裁で東京市長であり東京放送局(後のNHK)の初代総裁である後藤新平(ボーイスカウト日本連盟初代総長でもあった)、慶應義塾大学創立者である福沢諭吉などによって設立された。
当時は衛生思想や衛生的な生活を推進する官民の中間に位置する組織で、富国強兵政策と国民の健康を結ぶ役割を担った。
公衆衛生を扱ったが、そのベースには富国強兵策があった。(富国強兵のための公衆衛生)
1891年に福澤諭吉が北里柴三郎のために建てた伝染病研究所は大日本私立衛生会の附属研究機関だった。
土地は福沢諭吉の所有地で、研究資材などは森村財閥の創始者・森村市左衛門(6代目)が寄付した。
日本銀行の設立者・松方正義の14男は森村市左衛門(7代目)の養子となっている。
松方正義の15男はボーイスカウト日本連盟第6代総長でもあった。
北里の伝染病研究所は現在、東京大学医科学研究所となっている。

北里柴三郎は大日本私立衛生会が発足した1883年に第6代日銀総裁・松尾臣善の娘と結婚している。
北里柴三郎については以前も書いたことがあるが、ミドリ十字とか赤十字とかロレーヌ十字とか何かと十字✚絡みだった。(伊達!と郵便マークについても書いた記事ですよ)

北里柴三郎の長女が結婚したお相手は渡辺銕蔵。
経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。反共産主義者で共産党員の社員を解雇し労使が泥沼に揉めることなにった。
大阪生まれだが9歳の時から広島の書店店主の家の子として広島で育った。
東京帝国大学から文部省に入省。文部省特派海外留学生としてイギリス・ドイツ・ベルギーに留学した。
長男(渡辺文夫)は東京海上火災保険社長や日本航空会長(1988-1991)を務めた。2012年に亡くなったが告別式はカトリック田園調布教会で催されておりカトリック教徒であることが分かる。次男(渡辺正雄)は電通元常務。

何が言いたいかというと、ヤン・レッツェルはカトリックと関係があったのではないか、やはり原爆はカトリックと何か関係があるのではないかということである。

それを踏まえて、「リトルボーイ(Little Boy)」「ファットマン(Fat Man)」「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」「ボックスカー(Bockscar)」という名称を眺めるとかなり意味深ではなかろうか。
すなわち全て差別的だったり侮辱的だったりする言葉(スラング的)で、同性愛や性的虐待に繋がる言葉が含まれている。隠語的である。
差別や嘲笑だけでなく、それが隠語的になっていることを考えると、そこにメッセージが込められているとも考えられる。


「リトルボーイ(Little Boy)」
直訳すれば「小さな男の子」「小さな少年」となる。
カトリック聖職者らなどによる性的虐待の被害者には年端のいかぬ少年達が多かった。
littleという単語は小さいや少ないという意味であるが、小さいや少ないは劣るという意味合いで用いられることがある。
日本人は欧米人の方々に比べると背も低いし、顔つきなども年齢以上に幼く(若く)見えることが多々あるらしい。
boyは男の子や少年という意味だが、給仕や奴隷という意味での俗語にもなる。
大人の男性をBoy(ボーイ)呼ばわりしてはいけない。日本人はウェイターのことをボーイさんと呼んだりすることがあるが誤解されかねない。
特に給仕や奴隷の歴史がある黒人をBoy(ボーイ)と呼ぶのは立派な差別用語となってしまう。
またBoy(ボーイ)は男娼(男性版娼婦)とそれを買う人のことでもある。
自分の身体を売る男性(売春)、相手が男性でも女性でもボーイ。
男性の身体を買う男性(買春)もボーイ。
ゲイ(男性同性愛者)界隈で使われることが多いらしい。
リトルボーイ(Little Boy)」は男性の売買春を彷彿させる。


「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」
一般的に知られている名称由来は下記の通り。
機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。

86292、8月6日に国ゴー!?急に?

原爆投下作戦とそれに使用するために改造されたB29に付けられたコードネームはシルバプレート(Silver Plated Project,Silverplate)だった。
シルバープレートとは純銀ではない銀メッキのことである。
隠されていた本当の姿がばれることを「めっきがはがれた」というが、真の姿が見た目や見せかけよりも劣っている時に使う言葉。

原爆投下作戦用に改造されたB29は15機(第393爆撃戦隊)。
広島への原爆投下は1945年8月6日ということになっているが、8月6日に機体名が付けられていたのはエノラ・ゲイ(8月5日に命名)ただ一機だけだったという。
その他の機体の命名は長崎への投下日前日の8月8日だとか。

<広島市への原子爆弾投下任務に参加した機体>
エノラ・ゲイ(原爆リトルボーイ搭載)
グレート・アーティスト(観測機材搭載)
ネセサリー・エヴィル(写真撮影)
ストレートフラッシュ(広島天候偵察)
ジャビット3世(小倉天候偵察)
フルハウス(長崎天候偵察)
トップ・シークレット(硫黄島でエノラ・ゲイのバックアップ機として待機)

<長崎市への原子爆弾投下任務に参加した機体>
ボックスカー(原爆ファットマン搭載)
グレート・アーティスト(観測機材搭載)
ビッグ・スティンク(写真撮影)
エノラ・ゲイ(小倉天候偵察)
ラッギン・ドラゴン(長崎天候偵察)
フルハウス(硫黄島でボックスカーのバックアップ機として待機)

フルハウスやストレートフラッシュはトランプゲーム用語である。
フルハウスは両方に参加している。エノラ・ゲイとグレート・アーティストも両方参加している。
グレート・アーティストのアーティストは'Artiste'表記。美術家などのArtistではなくて音楽家や芸能人といったほうの'Artiste。フランス語由来の語。
ジャビット3世が誰かは分からぬが、我が読売巨人軍のマスコットキャラクターの名前はジャビットである。
それはともかくとして、エノラ・ゲイのGay(ゲイ)はもろ同性愛、同性愛者を意味する言葉である。


「ファットマン(Fat Man)」 
Fatという言葉は太ったとか脂肪が多いという意味だが、その程度は大きく人に対して用いる時は悪口、俗語っぽくなる。デブと馬鹿にしたような感じ。
fatを用いるスラング(卑語)としては、fat-ass がある。
デブとか馬鹿とか間抜けとか最低とか罵倒する用語。ass には尻や肛門という意味がある

イギリスの保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんで名づけられたという噂もあるが、マンハッタン計画に参加した物理学者ロバート・サーバー(Robert Serber)によると、彼は映画「マルタの鷹」のキャラクター「Kasper Gutman」から名づけたのであるという。

もしチャーチル首相にちなんで名づけられたとするならば、チャーチル首相やイギリス政府を侮辱していると取れる。
アメリカとイギリスは同じ連合国側なので味方が味方を侮辱するのは普通なら不自然であるが、原爆に関しては両者は必ずしも意見の一致をみなかった。
一方敵国だった日本の天皇は基本的にイギリスからナイト(ガーター勲章)貰う仲である。
イギリスの科学者やイギリス政府は基本的には原爆の開発は不可能であるというスタンスにあった。
太った人は概して動作や走るのが遅かったりするし、Fatという語にも鈍いという意味があるので、チャーチル首相の見た目と相まってチャーチル説が浮上したのだと思う。

1984年から始まったイギリスのCGアニメ『きかんしゃトーマス』のトップハム・ハット卿はどことなくチャーチル首相の雰囲気がある。
アメリカでは1989年、日本ではフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』内で1990年から放送が始まった。
原作とイギリス版のナレーションはトップハム・ハット卿のことを「The Fat Controller(ファット・コントローラー)」と呼んでいるが、アメリカの幼児向けの放送コードはかなり厳しいらしく「Fat」そのものが放送コードに引っかかり使えなかったらしい。
そのため全て「Sir Topham Hatt(サー・トップハム・ハット)」に言い換えられている。
日本では第1シーズンにおいて「ハット卿」と呼ばれていたが、この使い方は間違いである。
第2シーズンからは「トップハム・ハット卿」に変わった。

fatは侮辱する言葉になるが、phatならば格好良い、素晴らしい、魅力的、最高というような意味で褒め言葉になる。
fatとphatはどちらも発音が同じなんだとか。どちらもファット。
こういう言葉をhomophone(同音異義語)と言う。
同性愛者のことをhomo(ホモ)と言ったりもする。
つまりFat Manがいれば、そのお相手の Phat Manもいるということになるはず。


「ボックスカー(Bockscar)」
何故か日本では他のものに比べるとこれだけ知名度が低い。
名前の由来は、本来のパイロットフレデリック・ボックにちなんだ「Bock's car(ボックの車)」と、「ボックスカー(boxcar、有蓋貨車)」をかけた駄洒落である。

貨物車両のBoxcarに掛けられている。
空を飛ぶ飛行機なのに、地上を走る車に掛けるとは・・。
爆弾は空からではなく地上から運ばれたというメッセージのように考えられなくもない。

Boxという語には俗語として、女性器、男性器の意味がある。
男性器の俗語として用いるのはイギリスの少年と同性愛者だとか。クリケットにおいて陰部を保護するcricket box由来。
同性愛者の間では肛門の意味でもある。

それからアメリカには『The Boxcar Children』というシリーズものの著名な児童書がある。
Bookscar!?ブックスか?
Bockscar(Boxcar)にはChildren(子供達)が隠れているというメッセージにも取れる。
本の子供達は4人の兄弟。両親が亡くなるも、祖父に引き取られるのが嫌で逃げ出し、子供達だけでしばらく森の中のBoxcarで暮らすが、やがて祖父に引き取られて豊かな生活を送る。








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# by yumimi61 | 2018-03-04 17:17
2018年 03月 03日
日本国憲法の秘密-682- (外貨準備と貿易について)
モンタギュー事件の当事者エドワード・ダグラス・スコット・モンタギュー(Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーのバロン(男爵)・モンタギュー家の3代目。

1926年生まれ。
2歳の時に父が事故で亡くなり、若干2歳で男爵位を継承した。
イートン校からオックスフォード大学という超名門ルートを歩む。
貴族院議員でもあった。
カーマニアあり、また自宅敷地でジャズフェスティバルを催すなどイギリスの音楽フェスの発展にも貢献した人物だそうである。

子供の頃からバイセクシャルだったと後年になって告白している。
オックスフォード大学には他にもそういう人がいたので環境的には悪くなく、そういう意味では孤独ではなかったそうである。
バイセクシャルと言うだけのことはあって、女性と2回も結婚歴があり、子供もいる。結婚は1958年(32歳の時)と1974年(48歳の時)。


モンタギュー事件は1953年(27歳の時)に起こった。
1953年8月、モンタギュー男爵とその友人らが共謀して、一般開放されていた彼の領地であるソレントのビーチ小屋にて、その案内役をしていたボーイ・スカウトの少年達に"gross indecency" (buggery・sex)をしたとして逮捕された。
モンタギュー男爵が犯した相手は14歳の少年だった。
男爵らは容疑を否定した。
その裁判が同年12月に行われたが、陪審員の評決が割れた。
陪審員の意見が割れて全員一致や特別多数決の条件を満たさない場合は評決不能となり新たなに裁判がやり直されるため、この時は判決が下されないまま閉廷した。


その翌月、モンタギュー男爵は再び逮捕される。
容疑は2年前にモンタギュー男爵の領地で開催されたフェスだかレイブだか週末パーティ(乱交パーティ)だかにおいて、空軍の軍人相手に"gross indecency" があったと告発されたからである。
モンタギュー男爵、そのいとこのマイケル・ピット・リバーズ、ジャーナリストのピーター・ワイルドブラッドの3人が共謀で行ったということで3人が逮捕された。
今度はみな大人である。
男爵らはこれもやはり容疑を否定したという。
"We had some drinks, we danced, we kissed, that's all"
しかも合意の上だったと主張。

最初に逮捕され裁判となった時にすでに「魔女狩り」だと検察側を非難しており、それが判決に至らない中での再逮捕であり、2年前の出来事が引っ張り出されたこともあって、民衆を扇動する土壌が整っていた。

裁判は3月に行われた。
少年に対する犯罪行為の裁判は忘れ去られ、こちらの裁判が「モンタギュー裁判」として超有名になり、裁判経過が逐一報道されるなどして、一般の人々の注目を広く集めることになった。
そしてこの裁判が一部の政治家や教会指導者たちの反発を招いた。


この裁判で重要な役割を果たしたのは容疑者の1人であるジャーナリストのピーター・ワイルドブラッド。
裁判を通して自分が同性愛者であることを公言した初めての人物となった。同性愛者であることを告白し人々の関心を引きつけたのである。
その上で、検察官は同性愛者が人格者であり非道徳的ではなく責任がないことを人々にアピールするような尋問をしている。
弁護士ではなく検察側がである。

検察官:あなたは品性の立派な人であり、あなたの性質に対する非難などあり得ないことに私も同意します。しかしあなたは同性愛者ですね。
ワイルドブラッド:私は転倒者です。
検察官:あなた自身の責任では決してありませんが、あなたは普通の男性が感じない感情や欲望にさらされていますね。
ワイルドブラッド:はい、その通りです。
検察官:そしてあなたには、あなたの性質の感情的な側面を、同性の人に表現したいという欲望がありますね。
ワイルドブラッド:はい、その通りです。しかし必ずしも身体的というわけではありません
(1954年3月23日 タイムズ紙)

犯罪そのものではなく同性愛者や同性愛というものに焦点がある。微妙に論点が摩り替えられている。

ピーター・ワイルドブラッドは裁判にて同性愛の伝道師(宣教師)の役割を担った。
裁判自体は有罪判決によって終了したが、ワイルドブラッドの同性愛広報マンとしての活動はスタート地点にあった。
告白本を手始めに、同性愛についての書籍を数多く出版し、後年にはテレビ番組制作者となり同性愛者の権利を公然と主張した。
BBCでドキュメンタリードラマを作成するなど社会に与えた影響は大きい。
「犯罪者」でありながら「偏見の目にさらされた被害者」という仮面を被って伝説となったのだ。


裁判時から刑法の改正を求める声が大きく上がり、裁判後すみやかに政府は調査委員会(ウルフェンデン委員会)を設置した。
当時レディング大学の学長であったジョン・ウルフェンデンが長となったのでウルフェンデン委員会という。
ジョン・ウルフェンデンはオックスフォード大学にスカラシップ(奨学金)で進学した人物。
1950年44歳の時に公立大学レディング大学の学長となったが、その4年後に調査を任せられることになる。
3年後の1957年「ウルフェンデン報告(Wolfenden Report)」という調査報告書を公表したが、その前年1956年にナイトを受章している。
報告書では21歳以上の男性同士による合意の上での同性愛行為は刑事罰の対象から除外することなどを勧告した。
これも大々的に報道され、脱刑罰化に向けて加速していくことになるが、
法改正がなされたのは10年後の1967年。

合意を強要したりとか、合意があったと嘘をついたりとか、21歳以下と思わなかったと主張するとか、心配はつきないかもしれませんが、同性愛が市民権を得て流行ってしまった以上もうどうにもならないのかもしれませんね。
偏見の被害者が声を上げられるようになっても、性的虐待や強姦の被害者はそう易々と声を上げられるとは思えないけれども。





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# by yumimi61 | 2018-03-03 00:29
2018年 03月 02日
日本国憲法の秘密-681- (外貨準備と貿易について)
誤解があるといけないので付け足しておく。
2月27日の記事に転載したWikipediaの文章。
イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

1861年に死刑(絞首刑)が実行されたという意味ではない。
1861年に"buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)が死刑(絞首刑)の対象から正式に除外されたのである。
規定から除外されるまで実際に刑罰が実行されたことはなかった。
1500年代にカトリックから離れたイギリスは以後、刑罰を実行するほどの状態は避けられたということなんだろうと思うということは昨日の記事で書いた。


1800年代後半のイギリスでは青少年の売買春(女性・男性両方含む)が大きな社会問題となっていた。
特にイギリスの上流階級では男性の売買春が盛んだった。
階級社会イギリスで、権威・権力・お金という圧倒的力を持つ成人男性の性的欲望の対象になっていたのが、どこにも力の及ばない少年を中心とした男性だったという事情があった。
その取り締まり強化のために1885年に刑法が改正され、男性同士の親密な関係を示唆する行為は"gross indecency"として刑罰の対象となった。(しかしかつて規定された死刑という刑罰が与えられた重罪の範疇に入るものではない)
その反動として「同性愛」を保護する動きもあった。
そこに持ち出されたのが科学的な(精神病理としての)受容であったが、精神病理を拒否する風潮もあり、同性愛は何も問題ないという意見も現れた。
蔓延する犯罪を抑止するという当初の目的が科学を経由してアイデンティティや人格人権の問題として回収されようとしていた。
しかしそれらを議論するのは為政者や専門家、当事者に近い人物など限られた人達である。
それぞれの立場として譲れない部分や権威・権力のぶつかりあいなどもあるだろうから、そんなに簡単に進む話ではない。


この問題が一般の人達を巻き込んで一気に表面化し騒動となったのは、とある事件と裁判がきっかけだった。
the Montagu Trial(モンタギュー事件・裁判)である。
これにはジャーナリズムが深く関わっている。
何かの転換点や時代の節目にはいつも「扇動」というものが関わっているが、これまたその1つである。
同性愛への風向きを大きく変えさせた事件だったのだ。

同性愛の歴史的転換点のきっかけになった事件であるが、そのわりには知られていない。Wikipediaにも事件としては取り上げられていない。
(やっぱり知られたくないとか?)
何十年も前の事だから当のイギリスでも風化もしているのだろう。
イギリスのタブロイド紙ザ・サンが昨年7月にこんな記事を書いているくらいである。
What was the Montagu Trial, who are Peter Wildeblood and Michael Pitt-Rivers and when was homosexuality decriminalised in Britain?


モンタギューとは貴族の名前である。
Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu

1200年代に創設されたバロン・モンタギュー(Baron Montagu)という貴族の家がある。
ビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーという地に作られた新たな貴族の家(分家みたいなもの)。

Beaulieuという語は「美しい場所」という意味のフランス語由来で、Beaulieuはイギリスのハンプシャーにあるニューフォレスト国立公園の南東端にある小さな村。
その地に新たに貴族の家が作られたわけだが、そこはカトリック修道院の跡地だった。
ヘンリー8世が1500年代にカトリックから分離独立したため、カトリック修道院は解散に至った。その跡地をサザンプトン伯爵が購入。
サザンプトン伯爵家の娘とモンタギュー家の息子が結婚し、ビューリーの修道院跡地がモンタギュー家のものになり、そこにビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)という貴族の家が創設された。
1802年に一旦途絶えたが、1885年に再びそこにビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)という貴族の家が創設された。

新たなビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)の初代は、バクル―公爵5代目ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット(Walter Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch)の次男。
バクル―公爵の初代はイギリスの君主チャールズ2世の愛人ルーシー・ウォルターとの間にできた庶子。

事件の当事者エドワード・ダグラス・スコット・モンタギュー(Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーのバロン・モンタギュー家の3代目。
父方がバクル―公爵の一族ということになる。それはつまり生物学的にチャールズ2世の子孫ということである。
そのチャールズ2世は、カトリックから離れたヘンリー8世の血筋を引かない君主である。
ヘンリー8世はウェールズ起源の君主だが、1603年にその血筋が途絶えてスコットランド起源の王室に代わった。その後1714年にドイツのハノファー起源の王室となる。

モンタギュー事件は王の血を引く貴族のスキャンダルだった。





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# by yumimi61 | 2018-03-02 14:37
2018年 03月 01日
日本国憲法の秘密-680- (外貨準備と貿易について)
ともあれ、この誤解あるいは曲解の下に男性間の性的行為や男性を神(聖職者など)に寄進することが(あるいはそれを理由に奪う事が)蔓延っていった。
カトリックが腐敗すればするほどそういうことは顕著になり、行為はエスカレートしていったのだろう。
そしてそれに対する規制が敷かれた。


イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

ヘンリー8世はイングランド国教会をカトリックから分離独立させた国王である。
イングランド国教会はこの時からプロテスタントという位置づけになる。


ヘンリー8世の在位期間は宗教改革の時代(16世紀)の前半部分にあたる。
イングランド国教会のカトリックからの分離独立はヘンリー8世自身の結婚や離婚問題が理由とされているが、ひょっとするとイギリスがカトリックから離れるための策だったかもしれない。
ヘンリー8世が "buggery"(男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したのも同時期で1533年だったことからもそう推測できる。
ともかくカトリックの腐敗ぶりが顕著でヨーロッパ中でカトリックに疑念の目が向けられた時代である。
キリスト教原理主義(一時期アメリカのブッシュ大統領がその顔になっていた)と揶揄され、後に興ったリベラル派と対立するようになる福音派は反カトリック・脱カトリックから発生したもの。
だから私は以前にもカトリックとリベラル派は近い存在なのではないかと書いたのだ。

1500年代にカトリックから離れたイギリスは以後、1533年に規定した刑罰を実行するほどの状態は避けられたということなんだろうと思う。
その刑罰が再び日の目を見たのはそれから300年経過した後の1800年代後半。
イギリスの王家がドイツのハノファー起源の王室になって150年ほど経過した頃。
君主で言えばヴィクトリア女王の時代。
世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた「大英帝国」を象徴する女王である。
イギリスがドイツのハノファー起源の君主となってからも歴代君主はドイツのハノーファー王国の君主も兼ねていた。
しかしハノーファーでは女性君主を認めていなかったため、ヴィクトリア女王の時代にイングランドとハノーファーの同君連合が解消された。
ドイツは歴史的にカトリックとの関係が非常に深い国であるが、一方でというか、だからこそというか、宗教改革勃発の地でもある。ハノーファーはどちらかと言えば反カトリック勢力であった。
イギリスはその反カトリック勢力であるハノーファーとの親密な関係を1837年に解消したということになる。
性行為の問題が再び表面化したのはこの後なのだ。



1885年8月14日、イギリスにおいて刑法改正法が成立した。
1800年代後半のイギリスでは「社会純潔運動(Social Purity Movement)」が巻き起こった。
イギリスで当時大きな社会問題となっていたのは青少年の売買春(女性・男性両方含む)であり、その取り締まり強化のために刑法が改正された。

これだけ同性愛が社会的に認知された時代にあっても(だからこそという側面もあるかもしれないが)、同性への売買春や性虐待に対する取り締まりや刑罰、告訴や告発ができるような環境、アフターフォローなどが遅れている状態にあるが、イギリスでは19世紀にすでに男性に対しても法整備が行われたということになる。
当時イギリスの上流階級では男性の売買春が盛んだった。
階級社会イギリスで、権威・権力・お金という圧倒的力を持つ成人男性の性的欲望の対象になっていたのが、どこにも力の及ばない少年を中心とした男性だった。
権威や権力、お金にさほど興味のない女は、権威や権力やお金によって自由にすることは出来ない。
また男性より力のない女性を征服するよりも男性を征服した方が征服欲を満たすことができる。
聖書の解釈のみならず、力のある男が男に向かう理由にはそれなりに理由がある。
よって女性だけでなく男性も法によって保護されるべき対象との認識が急速に広まり、女性にプラスして刑法改正法の11条に「ラブシェール修正条項」が盛り込まれた。
男性同士の親密な関係を示唆する行為は"gross indecency"として取り締まることが規定されたのである。
これは私的ものでだけでなく公的なものも含む。つまり商売としての売買も見世物も、また宗教儀式などと謳っても逃れられないということである。
相手が権威や権力やお金を持つ力のある者であるからこそ、社会として弱い者をそこから守るとするならばそれくらい強い態度で臨まなければ実効性は薄くなってしまう。


ヘンリー8世の時は "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)と行為を明確にした。
だが「ラブシェール修正条項」では、男性同士の親密な関係を示唆する行為"gross indecency"が具体的にどんな行為かまでは踏み込んで文章化しなかった。
例えば文章で肛門性交に限定しまうと、それ以外は取り締まれなくなる。
不倫を疑われて「一線を超えていない」という名言(?)を吐いた人もいたが、一線を超えなければ力ある者が少年に何をしても構わないのだろうか。「一線を超えていない」が免罪の理由として重宝されてしまうことはないか。

日本では昨年法律が改正されて、強姦罪から強制性交等罪に取って代わった。

・強姦罪
加害者が男性、被害者が女性で、13歳以上の女性に対し、暴力や脅迫を用い同意なく、あるいは相手の心神喪失などに乗じて性行為(性器を陰部に挿入すること)を行うこと。
・強姦致死傷罪
強姦の過程にて被害者に致死傷を与えた場合は、性器の陰部への挿入に至らずとも強姦致死傷罪が成立する。
・強制わいせつ罪
13歳以上の男女に対して暴行又は脅迫を用いて、同意なく、 わいせつ行為に及んだ罪。
※13歳未満の場合
13歳未満の女子と知っていて性行為(性器を陰部に挿入すること)をした場合には例え同意があったとしても強姦罪が成立。
強制わいせつ罪も同様に13歳未満の場合には同意があっても成立する。
13歳未満は拒否能力が圧倒的に劣り、また性行為に対する正しい判断能力がないと見做されているからである。
   
・強制性交等罪 
暴行又は脅迫を用いて13歳以上の男女に対して性交、肛門性交又は口腔性交、または、13歳未満の人間に性交等をした罪。
これまで強姦罪が女性のみだったのに対して、男性も対象となり、肛門性交や口腔性交も対象となった。
強姦罪は被害者の告訴が必須だったが(親告罪)、新しい強制性交等罪は必要なくなった。
ただし性器ではない体の部位や異物挿入などの場合にはこれが適応できない。


具体的に文章化しないと何が良くて何が悪いのか判断できないという状況が生まれる。
また個人に依れば個々に良い悪いの基準が大きく違ってきてしまう。
文章化したって「解釈」という問題にぶち当たるのだから、なかなか難しいところ。
踏み込まない抽象的な表現のほうが広く予防・救済できるという面がある反面、分別のある大人同士が強制したり強制されたりせず、お互いの同意のもとに覚悟を持って至った親密な関係までをも犯罪扱いしてしまいかねない。
そこには元々の力関係が違った場合に、「同意」と言っても本当に自分の意思に忠実に誘いを断ることができるのかという問題も孕んでいる。
また分別のある大人だって洗脳状態に陥ることがある。私達はオウム真理教などでそういう例を幾つも見てきたではないか。



性に関する事柄は元来オープンにしにくいものであり「標準」というものが捉えにくい。そこに宗教やイギリス独自の社会的構造も絡むため非常にデリケートで難しく扱いにくい。
そんな中、「分別のある大人同士が強制したり強制されたりせず、お互いの同意のもとに覚悟を持って至った親密な関係までをも犯罪扱いしてしまう」ということが問題視されるようになってきた。
実際そういうこともあったんだろうと思う。一方、規制を撤廃したいと思えば、そこが攻めどころになる。


次にイギリスで何が起こったか。
科学の登場である。
科学は同性に惹かれて親密な関係を結ぶという持って生まれた性質があるとしたのだ。
要するに遺伝子に刷り込まれたような、脳細胞にプログラミングされたような、避けようのない、そして根絶が不可能な状態として存在するとの見解を示した。
それを穏やかに言えば特質や特性ということになるし、極端に悪く言えば精神病の一種ということになる。
どちらにしても本人らの責任ではなく、他人からは奇妙に見えることも当人たちにとっては不自然なことではないということになる。
だから犯罪とは違う、不道徳なわけでもないという結論が導かれる。
そこからさらに精神分野の病理だとする見解を切り離した。
是に働くとしても精神病理とする医学的な烙印は重すぎたのかもしれない。健康な精神と同性愛(あらゆる性行為を含む)は十分に成立するという考えが採用されたのだ。
天才やギフテッドと呼ばれる人が往々にして変わったところがあるように同性愛も普通とは違うかもしれないが個性の一つなんだという考え方である。
氏か育ち(遺伝と環境)か論争にみられる環境要因は置き去りにされた。

昨今頻繁に使われる用語「LGBT」(性的マイノリティ)は、医学的に扱われるトランスジェンダー(性同一性障害)と、特性というか嗜好というかのその他の性的マイノリティが一緒になってしまっている。

LGBT(性的マイノリティ・性的少数者)
 L:レズビアン(Lesbian 女性同性愛者)
 G:ゲイ(Gay 男性同性愛者)
 B:バイセクシュアル(Bisexual 両性愛者)
、T:トランスジェンダー(Transgender 身体的性別と性自認が一致しない人)






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# by yumimi61 | 2018-03-01 14:39
2018年 03月 01日
Submarines
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「チャンスの神様は前髪しかない」

カイロス(古希: Καιρός, ラテン文字転写:Kairos, ラテン語形:Caerus)は、ギリシア語で「機会(チャンス)」を意味する καιρός を神格化した男性神である。元は「刻む」という意味の動詞に由来しているという。

カイロスの風貌の特徴として、頭髪が挙げられる。後代での彼の彫像は、前髪は長いが後頭部が禿げた美少年として表されており、「チャンスの神は前髪しかない」とは「好機はすぐに捉えなければ後から捉えることは出来ない」という意味だが、この諺はこの神に由来するものであると思われる。また、両足には翼が付いているとも言われている。オリュンピアにはカイロスの祭壇があった。

ギリシア語では、「時」を表す言葉が καιρός (カイロス)と χρόνος (クロノス)の2つがある。前者は「時刻」を、後者は「時間」を指している。
また、「クロノス時間」として、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間を表現し、「カイロス時間」として、一瞬や人間の主観的な時間を表すこともある。内面的な時間。


カイロス時間はアインシュタインの相対性理論であるところの時間である。

私は禿げをどうこういうつもりは毛頭ないが、日本語に「不毛」という言葉があることは確かである。
チャンスの神様の後ろ髪は「不毛地帯」だった。
よって「後ろ髪を引かれる」ことはない。
何と言っても髪がないのだから。

ところでチャンスがどこからやってくるか分かりますか。
前からです。未来からと言っても良いです。
神と私達人間とが対面しなければ前髪を見ることも掴むことも出来ないはずだから、チャンスの神は人間と逆方向に進んでいる。
人間が未来に向かって歩き、後ろに置いてきたのが過去だとするならば、チャンスの神は人間の過去に向かって進んでいて、後ろに置いてきたのは人間の未来である。

チャンスの神の後ろ側、すなわち人間の未来は不毛地帯だった。
そして私達が後ろを振り返ってチャンスの神を見てもやはり不毛である。
カイロス時間にとっては「今」という時間こそが何物にも代えがたい大事なものとなる。

でも同時に私達はクロノス時間を生きている。
時間は物理的には誰にも同じものかもしれないけれど、今いる地点から後ろを振り返った時の後ろの景色や、背伸びして未来を眺めた時の未来の景色は同じではないと思うんだ。







178.png2008年1月までカテゴリとタグ付け完了しています。




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# by yumimi61 | 2018-03-01 01:16
2018年 02月 27日
日本国憲法の秘密-679- (外貨準備と貿易について)
ハロルド・ウィルソン首相(労働党)は妊娠中絶の合法化、死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化を含む社会的改革を遂行した首相である。

現代においてこそイギリスは同性愛先進国であるという印象が強いと思うが、昔はそうではなかった。
同性愛というのは大昔からあることはある。軍隊や航海など長期間男性しかいない環境で起こりやすい。要するにアイデンティティや性癖の問題ではなく代替という要素が強いものであった。
同性愛が日常的に問題となり規制が強まっていくのはキリスト教(カトリック)が誕生し普及した以後の事である。
すなわちにキリスト教(カトリック)が同性愛を拡大させた張本人なのだ。

キリスト教が同性愛や中絶を認めていないという話を聞いたことがあると思うが、キリスト教にも宗派がいろいろある。
同性愛や中絶に厳しいのはキリスト教原理主義と揶揄される聖書第一のプロテスタト(福音派)である。
この派閥はカトリックに反旗を翻したのであり、カトリックと同調しない部分が多々ある。
同性愛や中絶に厳しいのがキリスト教原理主義。カトリックは逆である。

「同性愛とカトリック」として以下の記述があるが、表と裏の顔があるというか正しいものではない。
ローマ・カトリック教会において、同性愛行為は自然法に反する罪深い (sinful) ものとされる。カトリック教会において性行為の本性は神の内的三位一体と呼応する結合的で豊穣に結び付くものとされ、適切に表出される限りにおいては神聖視されている一方、これに沿わない同性愛行為(や肛門性交、自慰、姦淫といった「逸脱的」な性行為)は罪深いとされるのである。
また、同教会は人間の性の相互補完性、すなわち異なる者が結合するという性格を神の意思であると認め、同性間の性行為はこの枠組みから外れるものとする。


カトリック聖職者の同性愛(性的虐待含む)は現代においてもしばしば問題になるくらいである。
古くには日本の少年たちがカトリック教皇に寄進されたこともあった。

カトリック教会の聖職者は任職にあたって禁欲の誓いを立てるため、いかなる性的活動も慎むものとされる。またカトリック教会は公式の見解として、同性愛者を「尊重」するよう求めるものの、同性愛行為やこれに与する活動を罪深いものとして非難している。しかしながら、これまでに複数の研究により、高位の者を含めてカトリック聖職者には平均を上回る割合の同性愛男性(行為の程度は不問)が存在していることが示されている。
これを巡り、同性愛とカトリック教会における性的虐待問題の関連を指摘する議論、あるいは召命の価値を論難する議論がある。


カトリック教会の性的虐待事件(Catholic sex abuse cases)
21世紀に入ってローマ・カトリック教会を揺るがしている聖職者による児童への性的虐待問題のことである。2010年3月28日には、ロンドンで当該問題に対するローマ・カトリック教会の責任を問い教皇ベネディクト16世の退位を要求する抗議デモが行われる事態に発展した。

問題の性質上、長きにわたって明るみに出ていなかったが、2002年にアメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに多くの報道が行われ、一部は訴訟に発展した。この種の事件が起こっていたのは孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設であることが多かった。
アメリカに続いて、アイルランド、メキシコ、オーストリアといった国々でも訴訟が起き、イギリス、オーストラリア、オランダ、スイス、ドイツ、ノルウェーにおいても行われてきた性的虐待が問題となっている。アメリカやアイルランド、スコットランドでは教区司教が引責辞任に追い込まれるという異例の事態となった。

これら一連の騒動により、アメリカなどでは一度でも児童への性的虐待が発覚した聖職者は再任することができなくなったが、職場を追われた神父らが、メディアなどの監視が行き届かない南米など発展途上国で同様に聖職に就き、同様の事件を起こしていることがわかり、新たな問題になっている。



キリスト教(カトリック)の勃興によって同性愛問題が拡大し規制が設けられたり強化された。これらの規制をソドミー法(Sodomy Law)という。 

ソドミー( Sodomy)
不自然」な性行動を意味する法学において使われる用語で、具体的にはオーラルセックス、肛門性交など非生殖器と生殖器での性交を指す。同性間・異性間、対象が人間・動物の区別はない。


ソドミーという言葉は聖書(創世記18-19章)由来であるが、その聖書の文言の解釈によって現在のような意味で用いられるようになった。

聖書にある堕落した都市の名「ソドム」と関連しており、 教会ラテン語の "peccatum Sodomiticum" または英語の "sin of Sodom" が起源とされ、共に「ソドムの罪」を意味する。創世記の18章-19章では、神がソドムとゴモラを極めて罪深い場所と知り、住民を殺す前にこれが本当に正しいか確認しようとする。ソドムの実態を確認すべく、神は人間の姿をした2人の天使を街へ送った。2人の天使は夕方に到着した後、ロト(正しい人)に家へ招かれ、そこでロトに夜の間に家族と街を去るように強く勧めた。

神の使いの天使が2人の人間の男性に化けてソドムという場所の偵察に赴いた。
するとソドムの町の男達がそのは2人の客を「知りたい」と思い、ロトに彼らを差し出すように要求した。
ロトはこれを拒否し、代わりに処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことを提案する。
しかしこの提案は町の男達に拒否され、男達はロトを押してドアを押し破ろうと近づいたが天使がそれを防御し、男達を盲目にさせた。
その後ソドムは硫黄と火の雨で破壊された。


創世記の中の「知りたい」ということが性行為をすると捉えられている。つまりソドムの男達は処女の女よりも男に興味を持っていたという解釈である。
実際にそういう意味で書かれたのか分からないし、そもそも同性愛だとしても具体的にしようとしたこと、したことは一切触れられていない。
一般的な感覚からすれば、処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことのほうがよっぽど罪ではないか。
実は神はロト(正しい人)が本当に正しい人なのか偵察を送ったのかもしれない。そして正しくなかったから神によって町は破壊された。 
正しい人の仮面を付けた悪い人が多くいる町、それがソドムだったと解釈できなくもない。

ユダの手紙の19章-21章には様々な点で創世記と似た記述があり、ここでは住民が女性に強姦をした罪によってほぼ完全に街が破壊されたとしている。モーセ五書や預言書では、神のソドム破壊が絶大な力の証明として何度も書かれている。


「処女の娘を差し出すほうが悪い」解釈を採り、神に仕える聖職者ならば、男を差し出す方(同性愛)が良かったのだと理解しても不思議はない。


「ソドム」の悪い所は聖書のエゼキエル書16章でふれられている。
エゼキエルは預言者。
神ヤハウェ→預言者(神の声を下ろす人)→エルサレム(神と契約した人、「人の子」)→その子孫らでなるエルサレムという町にいる民
このような関係がある。
エゼキエル書ではエルサレムの民が反逆の民となっている。神に選ばれ契約を結んだエルサレムだったが、神や神との契約にそむいて今日に及んでいると怒り心頭の神の声をエゼキエルという預言者が「人の子」に伝えている場面である。
つまりエルサレムの悪い所が並びたてられた書である。
16章では女性の性的行動について触れている。

カナンで生まれたエルサレムは誰にも祝福されず野に捨てられ手を差し伸べるものもなかった。
そんなエルサレムに「生きよ、野の木のように育て」と言って救ったのは主なる神だった。水で洗い血を洗い落し、油を塗り、着物を着せ、飾り物で飾った。麦粉と蜜と油を食べさせた。
エルサレムは非常に美しくなって王の地位に進み名声が国々に広まった。
その自分の美しさと名声を利用して、ありとあらゆる者たちと姦淫を行った。神から与えられた衣服や飾りを脱ぎ捨てて。
その挙句、神の子をないがしろにしたり、殺したりした。
エルサレムが遊女と違うのは価をもらって姦淫するのではなくて与えて姦淫することで、価をもらう女を嘲った。
そんな姦淫をやめさせ昔を思い出させるために神はエルサレムに罰を与えると言っている。
自ら進んでしたことを(裸になり姦淫する)、神の力によってさせる(裸にさせられ民衆に攻められる)というのだ。

このエルサレムの姉がサマリヤ、妹がソドムである。
妹ソドムの罪はこれである。ソドムとその娘たちは驕り高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、乏しい者や貧しい者を助けなかった。
女たちは夫と子供を捨て傲慢にも神の前で忌まわしいことを行ったので、神は彼女らに罰を与えた。
創世記16章は、男性2人に化けた天使が訪れたロト(正しい人)がエルサレムの妹ソドムで、ソドムは男2人を(心配して様子を見に来た)町の男達にたちに渡さず、それどころか娘2人を差し出そうとした、そして天使が化けた男性2人を誘惑したと解釈できる。

エルサレムは彼女ら以上に神に背くことによって、相対的に彼女らを良く見せて有利にしようとしてあげたのだ。 神にはそれは分かっていたが、自分に背いた罪は罪として受けるべきと言う。
一方で「この母にしてこの娘あり」ということわざを与えている。
エルサレムの母もまた夫と子どもとを捨てたのだと言う。
そして神は姉妹を「娘」としてエルサレムに返し、再び永遠の契約を結ぶとしているのだ。
神がエルサレムの内に自分を犠牲にしても子を思う母の姿を見たからであろう。
エゼキエル書では、破滅したソドム(エルサレムの妹であり町)が復活することが予言されている。

性的不道徳はエルサレムの姉妹にみられ、不自然な性行動はエルサレムの姉妹を思うばかりの度を越す性行動と言えよう。
どちらにしても同性愛のことでもなければ、オーラルセックスや肛門性交のことでもない。
異性との乱れた関係のことである。
同性の愛があったとするならば、それはエルサレムの姉妹愛である。それを神が母子愛に置き換えた。
聖書の解釈が根本的に違うのだ。



「処女の娘を差し出すほうが悪い」という解釈を採ったということは、一般的な感覚を持ち合わせていたということである。
そこまでは良いのだ。問題はその先。
男性を性的目的で差し出すことが良かったかどうかである。神がそれを望んだかどうかである。
「知りたい」ということが性的興味だったか、そうではないか、その違いになってくる。
性的興味ではないはずだ。つまり神は同性の性行為を推奨していたわけではない。
しかしカトリックはそこを誤解あるいは曲解した。
もちろんそうは思わなかった人もいるんだろう。
そのあたりがカトリックとしての明確な統一的見解を出せない理由だと思う。

ともあれ、この誤解あるいは曲解の下に男性間の性的行為や男性を神(聖職者など)に寄進することが(あるいはそれを理由に奪う事が)蔓延っていった。
カトリックが腐敗すればするほどそういうことは顕著になり、行為はエスカレートしていったのだろう。
そしてそれに対する規制が敷かれた。

イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

ヘンリー8世はイングランド国教会をカトリックから分離独立させた国王である。
イングランド国教会はこの時からプロテスタントという位置づけになる。







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# by yumimi61 | 2018-02-27 12:05
2018年 02月 26日
日本国憲法の秘密-678- (外貨準備と貿易について)
英国病またはイギリス病とは、経済が停滞していた1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生等の経済・社会的な問題が発生した現象を例えた日本における用語である。 1960〜1970年代のイギリスは、労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれていた

イギリスで英国病が蔓延したのは1960~1970年代。
深刻化したのは1973~1975年の二次銀行危機前後。
ビートルズが活躍したのは1960年代であり、英国病の蔓延時期と重なっている。
1962年イギリスでデビュー、1963年1月リリースされた2枚目のシングルが1位に輝き一躍人気者へ。
経済的なことを言えばビートルズの活躍はイギリス社会に良い影響をもたらさなかったとみることも出来る。
ビートルズとともにやってきたのは労働党が主流の時代だった。

1964年10月16日~1970年6月19日  ハロルド・ウィルソン(労働党)
1970年6月19日~1974年3月4日  エドワード・ヒース(保守党) 
1974年3月4日~1976年4月5日  ハロルド・ウィルソン(労働党)
1976年4月5日~1979年5月4日 ジェームズ・キャラハン(労働党)


ハロルド・ウィルソン首相
父親は工業化学者で失業も経験したことがあるというから労働者階級の出身ということになるだろう。
ただ父親は党員であり政治には近いところにいた一家だった。
ハロルド・ウィルソンは学業は優秀だったようで中学から(返済不要の)奨学金で進学している。
但しオックスフォード大学進学においてはスカラシップ(成績優秀者並びに経済的理由を対象とする返済不要の奨学金)には選ばれなかった。
けれどもエキシビション(こちらも成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金であるがスカラーシップより貰える額が少ない)に選ばれオックスフォード大学進学。
独創性にはやや欠けるもののやはり優秀だったようで21歳でオックスフォードで経済史学の講師を務めることになる。

イギリスやアメリカでは返済不要の奨学金はスカラシップ、返済が必要なものはスチューデントローンと言う。
日本では奨学金導入時に返済不要の奨学金を設定しなかったので今でも奨学金といえばほぼローンのことである。
ローンが無金利か有金利かの差で、成績優秀者が無金利となるが、返済不要の奨学金に比べたら成績優秀の幅がとても広く、金額は少ない。
親の収入など条件もあるためあまりに裕福だと幾ら成績が良くても受けられない。
昨今は学校ごとの返済不要の奨学金などが増えてはいるが、それは要するにスカラシップに該当するということになり当然対象者は少なくなる。対象者が少ないのは外国でも同じ。
成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金の問題点としては、優秀な成績を収めるとは限らないギフテッドなどが拾えないこと。

イギリスでの「エキシビション」(成績優秀者を対象とする返済不要の奨学金であるがスカラシップより貰える額が少ない)という名の奨学金は現在では廃れている。
学校が成績優秀者を確保するという目的よりも、奨学金がないと進学が出来ないという人に多く資金が使われてしまうからだそうだ。
また教育への熱心さが増し大学進学率も上がり、時代的に成績優秀者がそれほど珍しくなくなってきたから。

返済不要の奨学金は大きく2つに分けられる。
・Need-based
大学で学ぶのに十分な学力と資質をもっているが経済的な理由でその大学に進学することができない人に与えられる奨学金。
・Merit-based
成績優秀者に与えられる奨学金。

アフリカ系の黒人などにはNeed-based の奨学金が出やすいが日本人ではほぼ無理であった(これまでは)。
成績優秀者のほうならチャンスはあったが、成績優秀者は世界的に珍しくなくなっている。
日本の大学無償化議論は、何か勘違いしているか、日本国民が経済的に相当深刻な状況に陥っていることを表しているように思うが。


ハロルド・ウィルソン首相はローレンス・スティーヴン・ラウリーという画家の作品を好み、在任中2回ほどクリスマスカードに使ったそうである

Laurence Stephen Lowry(ローレンス・スティーヴン・ラウリー)1887-1976年
イングランドのストレットフォード(Stretford)に生まれた画家である。そのデッサンおよび絵の多くは、英国のマンチェスターのペンドルベリー(Pendlebury)(同地で彼は40年以上にわたって暮らし、創作活動した)、サルフォード(Salford)およびその周辺地域を描いている。
ラウリーは、20世紀半ばの北西イングランドの工業地域の生活風景を描いたことで有名である。


ラウリーはナイトなどの受章を拒否したことでも有名である。
晩年にやっと生まれ故郷の町の名誉市民を受けたのみ。

生涯で5つの栄典を拒否した - そのなかには1968年のナイトがふくまれており、そしてしたがって英国の栄典の拒否の最多記録を保持している。 

ナイトの候補になった1968年はハロルド・ウィルソンが首相をしていてビートルズがまだ活躍していた年。






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# by yumimi61 | 2018-02-26 13:27
2018年 02月 25日
日本国憲法の秘密-677- (外貨準備と貿易について)
1976年3月、イギリスの首相ジェームズ・ハロルド・ウィルソン(労働党)は任期満了を待たずに突如辞任を表明し、4月5日に辞任した。
その年の5月、叙勲が発表された。
叙勲とは勲位・勲章を授けることである。

イギリスには公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位がある。これは貴族が有するものである。
貴族は古い伝統に基づいたもので世襲制が一般的だが、それとは別に後から与えられることがある。
その場合には世襲が許されず一代限りで与えられることが多い。一代貴族は全て男爵という位置づけになる。
同じ男爵という位であれば世襲であっても一代であっても同格となる。
イギリスでは1985年以降、世襲貴族は王族以外では全く作られていない。

上記爵位の下に続くのが准男爵とナイト(騎士)という称号である。
イギリスではこの人達にSirという敬称を付ける。
ナイトはイギリス人以外にも与えられることがあるが(名誉叙任)、この呼称が用いられるのはイギリス国籍を持つ人のみ。
男爵以上の呼称が「Lord(ロード)+姓」、ナイトの呼称は「Sir(サー)+ 名前」。その妻にはLady(レディ)を付ける。
ナイトの敬称Sirは日本語では卿(きょう)と訳されることが多い。
日本の子供達や主婦には『きかんしゃトーマス』に登場するトップハム・ハット卿で馴染み深いかもしれない。
でも本来は、卿(きょう)はLord(ロード)の訳であった。また「Sir(サー)+ 姓」という誤った使い方も多し。


ナイトにはガーター勲章、シッスル勲章、バス勲章、メリット勲章、聖マイケル・聖ジョージ勲章、ロイヤル・ヴィクトリア勲章、ブリティッシュ・エンパイア勲章(大英帝国勲章)という序列があり、それぞれ騎士団が構成され、その構成員を示す団員章として勲章が授与される。
ナイトの最高位が先日書いたガーター勲章である。
これらも一代限りなので自動的には(世襲では)維持できない。
ガーター勲章を受勲している日本の明治・大正・昭和・平成天皇はそれぞれがその度に与えられたということになる。
イギリスに現在9種類ある勲章のうち6種類は君主が独自の裁量でもって与えることができる。決定権は政府ではなく君主にある。


1976年5月に発表された叙勲。ジェームズ・ゴールドスミスはこの年のナイト受章者の一人だった。
(毎年20名くらいだという。一代限りであり死亡すればそれまでなので数が大きく増えることはない)
1976年とはそう、スレート・ウォーカーがイングランド銀行に買収され、トップにスレート・ウォーカーのかつて顧客(あるいはターゲット)であったジェームズ・ゴールドスミスが据えられた年である。


この1976年の叙勲が問題となった。
それはジェームズ・ゴールドスミスをはじめとした労働党の主義主張とは相容れないような立場の裕福な企業家が受章者に含まれていたからである。
さらにあるジャーナリストが受勲候補者リストをウィルソン首相の秘書官であった女性がラベンダー色のノートに書いていたと報じた。
そもそも政府ではなくて君主(女王)が決定し授けるものだからこの論議は不毛である。
ウィルソンと秘書官もそれを否定したが、ウィルソン労働党政権の汚点として1976年の叙勲が特別に皮肉られることになる。
この件が2006年にBBCにてドキュメンタリードラマ『The Lavender List』として放送された。
このシナリオはイギリスの風刺的な雑誌Private Eyeのジャーナリスト(副編集長)によって書かれたもの。
秘書であった彼女がウィルソン首相と姦淫行為をし、首相の受勲候補者リストの編集に過度の影響力を行使したと主張した。
このドキュメンタリードラマに端を発し、1976年の受章者が"Lavender List"と呼ばれるようになる。
秘書官は名誉毀損訴訟をBBC相手に起こし法廷での争いにまで発展。原告の主張が認められBBCが賠償金を支払う形で一応の決着をみた。


ジェームズ・ハロルド・ウィルソン首相はビートルズの"Taxman"(タックスマン)とういう曲に出てくる首相である。

タックスマン (Taxman) は、1966年に発売されたビートルズのアルバム『リボルバー』に収録されているジョージ・ハリスン作の曲。
ジョージが「お金を稼げるようになったが、そのほとんどに課税されるということに気づいて初めて書いた曲が『タックスマン』」と語っているように、1964年から1970年までの労働党ウィルソン政権は、充実した社会保障を維持するために税率95パーセントという高い税金を富裕層に課していた。ジョージは、この税率を皮肉ってこの曲を作った。歌詞には、当時のウィルソン首相と野党第1党のヒース保守党党首(1970年から1974年まで保守党政権の首相となる)が登場するが、反対党の党首まで出す事によってバランスをとっていた。
本作はクレジット上ではハリスンの作品となっているが、ジョン・レノンがこの曲の制作に協力しており「ジョージの歌のうちじゃ傑作に入る『タックス・マン』を作ってた時に、ジョージはぼくに、電話で、助けてくれって頼んできた。いくつかパンチの効いたことを考えてやった」と述べている。


Let me tell you how it will be
There's one for you, nineteen for me
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

Should five percent appear too small
Be thankful I don't take it all
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

If you drive a car, I'll tax the street
If you try to sit, I'll tax your seat
If you get too cold, I'll tax the heat
If you take a walk, I'll tax your feet

Taxman!
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman

Don't ask me what I want it for
(Ha ha, Mister Wilson)
If you don't want to pay some more
(Ha ha, Mister Heath)
'Cause I'm the Taxman, yeah, I'm the Taxman


Mister(Mr)という敬称を付けたのがミソ。
たぶんministerにも掛かっている。
私はニュースキャスターやアナウンサーが公共の電波に乗せて政治情勢など伝えながら安倍さんとかトランプさんとか「さん」付で呼称しているのが気になることがある。
ポール・マッカートニーなどはサーを受章している人だけど呼び捨てにされてることも多い。まあ外国人だから仕方ないか。
税率95パーセントは確かに凄いけど、それほど取られても生活できてお金持ちでいられることのほうがもっと凄いと思ってしまう。労働の対価の不公平性を逆に感じる。









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# by yumimi61 | 2018-02-25 15:29
2018年 02月 25日
Cabbage

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このブログの2007年の『隙間』という投稿の中で、小説『白鯨』のことを、創作した会話の中で語った。
小説で語り部となっているのは「棺桶として作られた丸木舟(後に救命ブイになる)」で生き残った人物であるが、実は小説内では「白鯨」も「乗っていたアメリカ産の木の船」も棺桶として捉えられている場面がある。それは予言であり現実にもなる。
乗組員の生と死の境界にある白鯨と船。
彼らの命を奪ったのは海であるけれど、海ではないのだ。

あの小説は何もかもが対比している。
そしてまた重要な事はあの小説は事実にヒントを得ているということ。
つまり小説(フイクション)に対比する事実(ノンフイクション)が存在していたということになる。
船に乗っていた経験のある著者は、実際の出来事において生き残った者の手記をまとめた本を、船で一緒になった生存者の息子(船乗り)から渡されて読んだのだとか。

日経電子版 
「白鯨」の元ネタは小説より壮絶だった[ナショジオ] ありえない生還劇





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# by yumimi61 | 2018-02-25 00:42
2018年 02月 23日
日本国憲法の秘密-676- (外貨準備と貿易について)
178.png2007年12月までカテゴリとタグ付け完了しました。


フランクフルトのゲットー出身のユダヤ家系の金融一族ゴールドシュミット家の一員で、オリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなった投資家ジェームズ・ゴールドスミス。

親の資産を受け継ぎ数多くの企業を経営するほか、ニューヨークのウォール街やロンドンのシティーをまたにかけた投資家で大富豪としても知られ、1986年にアメリカのタイヤメーカーであるグッドイヤーに対して行った買収劇、世界最大のタバコ会社にであるブリティッシュ・アメリカン・タバコの買収劇、フランスの雑誌「レクスプレス」の買収、エッフェル塔の25%を買収など、自らが率いる投資会社による数多くの仕手戦で、その名が世界のビジネスマンの間で取りざたされた。

また、ヨーロッパ第3位の食品会社であるカヴェナム・フーズをまたたく間に創り上げ、アメリカの貴金属商のハンディー・ハーマンを動かし、イギリスのマーチャント・バンカーとして南アメリカに巨大な利権を持つハンブローズ銀行をパートナーとしていた。世界の富豪が脱税のために利用するカリブ海のケイマン諸島で、「ケイマン・アイランズ社」の社長として君臨した。1987年のウォール街「ブラックマンデー」の株価大暴落においても絶妙のタイミングで売りに出て莫大な利益を手にした。アラブ・ブリヴェ銀行の経営者とは、30年来のビジネスパートナーであった。

また、ヨーロッパのみならず、世界を驚愕させた大スキャンダルであるバチカンの資金管理を行う銀行であったアンブロシアーノ銀行の頭取で、秘密結社「ロッジP2」の主要メンバーであったロベルト・カルヴィの暗殺事件においても関与が噂された。晩年には政治家となり、政治活動に力を置いたものの、雑誌出版社の経営にも力を入れていた。1994年に、欧州議会議員のフランスの代表として選出された。そしてイギリスに、短命に終わった欧州懐疑主義の国民投票党を設立した。


上記のように日本語版Wikipediaには金持ちの子弟が有り余るお金を以てして何の苦労も無く投資の世界で華々しく成功していったようにしか書かれていないが実はそうでもなかったらしい。
本人もタブロイド紙に書かれるような自分像は「フェイク」(フェイクという言葉を使ったかは分からないが)であると激しく拒絶していたとか。

1950~1960年代のジェームズ・ゴールドスミスは成功とは程遠いところにいて何度も破産しかけたという。彼は1933年生まれなので20~30代の時である。
元々彼は次男であり、伝統パブリックスクールとは異なるミルフィールド校からイートン校に転校するも中退。大学進学もしなかった。
一方の兄はミルフィールド校から名門オックスフォード大学を卒業。
父親は当然のことながら長男に期待して何か事業を起こさせようとしたが、当の長男は全くといってその気がない。
そこで次男ジェームズが長男の代わりに事業に携わるようになるが、最初のうちはどれもこれも上手くはいかなかった。
名門金融家ゴールドシュミット一族であり、親は高級ホテル群のオーナー、イギリスの政治家だったこともある、それでも「そうは問屋が卸さない」ということらしい。

成功の足掛かりとなったのは薬だった。
アメリカ製のAlka-Seltzer(アルカセルツァー)という発泡性制酸剤および鎮痛剤のイギリスでの販売権を獲得し、後にジェネリック医薬品をイギリスに導入することになる。
薬の事業がある程度成功すると今度は低カロリーパンの販売代理店を買収する。これが食品業界への進出の第一歩だった。
その後はスコットランド出身のポーランド系ユダヤ人のビジネスマンで慈善家アイザック・ウォルフソンから財政支援を受けて、パンや菓子など多様な食品会社を買収し、たばこを含む多くの卸売業者や小売業者を引き継いだ。
当初利益は僅かだったが経営を見直し生産性を向上させ、利益が出せる会社にした。
この頃はまだ投資家というよりもビジネスマンという要素が強かったように思う。


彼が投資家として嫌われ出す契機となったのは1971年のBovril(ボブリル社)の買収だった。
この会社の1889年設立。創業者はカナダに住んでいたスコットランド人。
1870年のフランス・プロイセン戦争にてナポレオン3世が兵士に食べるさせるために牛肉をオーダーした。
イギリス領である南米では大量の牛肉が調達できたが、それを腐らせないでヨーロッパまで輸送することが当時は不可能であった。
この時に「液体ビーフ」と呼ばれる製品を開発したのが、ボブリル社の創業者となる人物である。この製品がイギリスで広く受け入れられたことによって会社設立に至った。
この経緯によって、会社は南米アルゼンチンに牧場などを所有していた。
その後も「液体ビーフ」はイギリスで重宝され続け、サッカーと相まってイギリス文化のアイコンとなるほどのブランドを確立した。
この大企業を1971年に買収したのがジェームズであるが、この時にスコットランド出身の創業家(3代目)とかなり揉め、世間からも非難を浴びることになる。
しかし買収後すぐに南米の牧場や酪農場を南米の買い手に売ったわけだから、南米からみればそれほど悪いことではないかもしれない(よく分からないけど)。
牧場や酪農場を切り離しても買収にかかった資金はすぐに回収できたというから、買収は成功だったということになろう。


Bovril(ボブリル社)買収とBovril(ボブリル社)所有の南米の牧場など売却の成功に気をよくしたのか、この頃からジェームズはアメリカや南米に積極的に目を向けるようになる。
おそらくイギリスなどヨーロッパとアメリカ大陸での資産評価などには差があって、投資によってその差が利益をもたらすと考えたのでないだろうか。


ジェームズ・ゴールドスミスは1960~1970年代にスレート・ウォーカー(Slater Walker)の銀行部門から資金調達をしていた。
スレート・ウォーカーは財政難に陥った企業攻撃に特化したイギリスのコングロマリット企業。
1973~1975年、イギリスで二次銀行危機(the secondary banking crisis)が起きた。
1960年代後半から1970年代初頭にかけてイギリスでは不動産価格が上昇しており、不動産を担保とした融資が過度に増加していった。
二次銀行は大手金融機関と違って、自行だけで貸出資金を準備できず借りて貸し出すという形態を採っていた。
ところが1973年にイギリスの不動産価格が急落し、金利が上昇。
不動産価格が下落すると担保が融資した額と見合わないという結果に陥る。
一方で金利は上がっているので借り換えが難しくなり、二次銀行に融資された側も、大手金融機関に融資された二次銀行も返せない状況となる。
数十社の二次銀行が破産の危機に陥っていた。
日本でも不動産バブルが弾けた後にノンバンクが複数破綻し、ノンバンクに融資していた日債銀も破綻したということがあったが、それに似たような状況だったわけである。サブプライムローンでリーマンが破綻し金融危機が引き起こされた状況にも似ている。
イギリスの場合は中央銀行であるイングランド銀行が約30の二次銀行に介入し支援し救済した。1億ポンドを支出したという。
中央銀行であるからして要するに紙幣を発行したということになる。
これによってイギリスはインフレに見舞われ、英国病と呼ばれる問題が深刻化していったが、救済したイングランド銀行はその権限を増すことになった。

スレート・ウォーカー(Slater Walker)も二次銀行危機で財政難に陥り、イングランド銀行の支援を受けることとなり、創業者は辞任に追い込まれた。
スレート・ウォーカーは1976年にイングランド銀行に買収され、トップにはスレート・ウォーカーのかつて顧客(あるいはターゲット)であったジェームズ・ゴールドスミスが据えられた。









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# by yumimi61 | 2018-02-23 15:35
2018年 02月 21日
日本国憲法の秘密-675- (外貨準備と貿易について)
前記事では爵位について書いたが、今日は勲章について。
勲章は国家元首などが国家や社会に功労のあった者を表彰するもののうち、物体としての勲章(メダル)の授与を伴うもの。
ちなみに日本の「勲章」と「国民栄誉賞」の違いは、与え授けるものが天皇か内閣総理大臣かの違いである。
でも今日はイギリスの勲章について。

Order of the Garter(ガーター勲章)
1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは“Most Noble Order of the Garter”(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。

イギリスには現在、9種類の勲章が存在し、その最上位に位置するのがガーター 勲章。
エドワード3世国王は、中世の騎士道物語『アーサー王物語』に魅せられて、その話に出てくる「円卓の騎士」を導入したかったからだとか。
アーサー王はローマ皇帝を倒し全ヨーロッパの王となったという創作上の人物である。

円卓の騎士( Knights of the Round Table)
アーサー王物語においてアーサー王に仕えたとされる騎士。
新たな円卓の騎士は空席ができたときにのみ迎えられる。その者は以前の騎士より勇気と武勲を示さなければならず、それができなければ魔術師マーリンが円卓にかけた魔法により弾かれてしまう。
聖杯伝説の一形態では、円卓にはイエス・キリストと12人の使徒を模して13の席があったとされる。「キリスト」に対応するアーサー自身が一つの席に座り、残りの席に一人ずつ騎士たちが座っていたが、13番目の席のみは例外的に誰も座っていなかった。なぜなら、この13番目の席はキリストを裏切ったイスカリオテのユダの席であるため、魔術師マーリンが席に呪いをかけており、座る者は呪いに冒されるからである。そのためこの席は「危険な座」と呼ばれ、新王が足を乗せると叫び声を上げるという、アイルランドのファルの石からできているとされる。

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この勲章は日本の勲章のような「国家や社会に功労のあった者を表彰する」という意味合いのものではない。
ガーター騎士団の団員章である。
メンバーのしるし。もっともポピュラーなところで例えれば校章といった類のもの。

騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。
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ガーター騎士団の団員は24名。
これは円卓の騎士の12名にちなんだもの。
王と皇太子がそれぞれ12名の円卓の騎士(団員)を抱えるという意味合いd計24名となった。
終身団員であり、創設当時は団員が死亡しない限り補充はなかった。

創始者のエドワード3世国王は1337年にフランスに対して挑戦状を突きつけている。
以後イギリスはフランスは「100年戦争」に突入する。
挑戦状から11年目にガーター騎士団は結成された。
実際にほとんどの騎士(団員)がフランスとの戦いに赴いている。
またフランスとの戦いというが、親イギリスのフランス人も数名含まれていた。

100年戦争の原因はフランスの王位継承を巡る対立。
フランスとイギリスには因縁となる背景がある。
イギリス王室の開祖ウィリアム1世(在位:1066-1087)はフランスのノルマンディー地方の貴族であった。ノルマンディー公の庶子。
彼がイギリスを征服したので征服王とか庶子王とか呼ばれている。
初代国王やその周辺が用いていた言語は英語でなくフランス語であった。
イギリス王がフランス王を兼ねていた時代もあった。
100年戦争でフランスに戦費を貸したのはジェノヴァで、イギリスに貸したのはヴェネツィア。ともにイタリア地中海沿岸。
100年戦争は両国の貴族を疲弊させ、両国とも絶対君主制への道が開かれるという結果となった。
この時に疲弊したり没落した貴族の代わりに台頭してくるのが新たに生まれた貴族で、お金の関係の深い「黒い貴族」であるとの噂が囁かれる。

ガーター騎士団のモットーは“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。
英語の国イギリスの最高勲章でありながら、使われている“Honi soit qui mal y pense”という言葉はフランス語である(日本語訳はちょっと怖い)。

現在は王・皇太子・24名の団員の他に、王族メンバーと外国人メンバーが別枠で設けられている。

明治以降の日本の天皇は外国人メンバーの1人である。
<現外国人メンバー(ガーター勲章保有者)>
1.ルクセンブルクのジャン前大公
2.デンマークのマルグレーテ2世女王
3.スウェーデンのカール16世グスタフ国王
4.スペインのフアン・カルロス1世前国王
5.オランダのベアトリクス前女王
6.日本の今上天皇
7.ノルウェーのハーラル5世国王
8.スペインのフェリペ6世 (スペイン王)


日本の天皇以外は全てヨーロッパの君主制国家の君主である。

ガーター勲章の外国人への叙勲は、原則としてキリスト教徒であるヨーロッパの君主制国家の君主に限られており、ヨーロッパ以外の国の君主や非キリスト教徒の君主に対しては、その国がイギリスと特別な関係にあり、政策上特別な事情がある場合に限り例外的に贈られている。
また、共和制国家の元首に対して贈られた例はない。


要するにこの外国人メンバーの特別枠こそ「イギリス国家に功労のあった人物」あるいは「非キリスト教徒ながらキリスト教に功労のあった人物(隠れキリスト教徒)」とみてよいのではないだろうか。

日本の天皇を推挙したのはランズダウン侯爵。
ランズダウン侯爵とは、前記事に書いたシェルバーン伯爵からランクアップした侯爵である。

明治天皇にガーター勲章が贈られたのは外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの推挙による。日露戦争が日本優位に進む中の1905年(明治38年)に日英同盟の更新を決意したランズダウン侯がバルフォア首相の許可も得て、日本との関係を強化する一環として天皇へのガーター勲章授与を国王エドワード7世に上奏した結果、実現した。

大正天皇は1912年、昭和天皇が1929年にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、1971年10月のイギリス訪問時に復帰し、今上天皇も1998年のイギリス訪問時に叙勲された。

一度剥奪されて名誉回復を果たした外国君主は騎士団600年余の歴史の中でも昭和天皇のみである。

1902年にペルシャ皇帝モザッファロッディーン・シャーに対して贈られて以降、日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はなく、1974年8月27日にキリスト教徒のエチオピア前皇帝ハイレ・セラシエ1世(同年3月に廃位されて幽閉中だった)が崩御した後には、ヨーロッパ人以外でガーター騎士団に叙されているのも日本の天皇のみである。


神道で古式ゆかしい行事を国を挙げて行うわりには天皇家の人物が平然とキリスト系学校出身者であったり、あえてキリスト系学校に進学したり、また明治以降の有力者にはキリスト教徒が非常に多いのは決して偶然ではないだろう。







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# by yumimi61 | 2018-02-21 16:04
2018年 02月 20日
お知らせ
178.png2007年11月までカテゴリーとタグ付け完了しました。


今日の本文もある程度下書きが出来ているのですが、何回かチャレンジしてもパソコンから送信ができない状態なのです。
それで試しにスマホからこれを送ってみます。




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# by yumimi61 | 2018-02-20 20:28
2018年 02月 19日
日本国憲法の秘密-674- (外貨準備と貿易について)
ベルギーのランベール銀行の設立者ランベール。

父:サミュエル・ランベール(1806-1875)
フランス生まれ。銀行家で画家。1835年にミュージシャンと結婚。その妻の母の2度目の結婚相手がラザール・リヒテンバーガーだったので、サミュエルにとって義理の父となる。

ラザール・リヒテンバーガー(1792-1892)は、ドイツ生まれのユダヤ人でベルギーで銀行家をしていた。
ベルギーの初代国王レオポルド1世に非常に近い人物。
ベルギー独立後初期の1832年からブリュッセルでロスチャイルド・パリ家の代理人を務めていた。
サミュエル・ランベールはその代理店のアントワープ支部長を務めた。
1843年に2人共同で会社名を“Lambert–Richtenberger, agent Rothschild”とした。
1853年にリッテンベルガー亡くなると、サミュエル・ランバートが会社を引き継ぎ、“Lambert, agent Rothschild”と改めた。

息子:レオン・ランベール(1851-1919)
父サミュエルが1875年に亡くなった後はレオンが代理店を引き継いだ。
レオンは1882年にロスチャイルド・パリ家創始者(5人の息子の5男)の孫娘と結婚。
婚姻によってロスチャイルド家とランベール家の結びつきが一層強固になる。(ロスチャイルド家のベルギー分家とも呼ばれるくらいに)
ランベール銀行はロスチャイルド系銀行。
前記事に「ベルギー独立時にベルギーの貴族ランベール家によって設立されたのがランベール銀行(Banque Lambert)」と書いたが、ランベール家はレオン・ランベールが1896年にレオポルト2世国王から男爵の称号を得て晴れて貴族となっており、銀行設立時より貴族だったわけではない。
いずれにせよ次のような繋がりが認められる。

イギリス王家ーベルギー王家ーランベール家ーロスチャイルド家(パリ家)
                    ↓
                   日本銀行(1882年設立)



今度は前記事にも登場したシェルバーン家に注目する。
貴族制度はややこしく(国を跨ぐと余計に)、昔からの事なので不明な点もなくはなく、さらに貴族を自称する人もいたので、これまた非常に分かりにくい部分だと思う。

アイルランド貴族フィッツモーリス家(ケリー男爵)←シェルバーン家のルーツはここ!
フィッツモーリス家の出自についてはよく分かっていないが、11世紀のノルマン人(ゲルマン人)騎士ではないかと言われている。男爵位創設の時期も定かではないが、アイルランド貴族の中では2,3を争う古さで、12,13世紀頃から存在していたと見られている。
21代目ケリー男爵→ケリー伯爵(1723年)

トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯爵)
Thomas FitzMaurice, 1st Earl of Kerry, 21st Baron Kerry and Lixnaw
1692~1697年の間の3年、アイルランドの庶民院議員を務めた。
1693年、経済学者ウィリアム・ペティ卿の娘であるアン・ペティと結婚。
1697年、ケリー男爵20代目である父が亡くなり男爵位を継承。
1711年、枢密顧問官となる。
1723年、ジョージ1世にて伯爵の爵位を授与される。(爵位は2ランクアップ)

経済学者ウィリアム・ペティ卿 Sir William Petty
イギリスの医師、測量家、経済学者。労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖ともいわれる。ハンプシャー州生まれ。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党 – 自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。

織元の第3子として生まれる。(上2人は早世したので事実上の長男)
14歳のときイギリス商船の水夫となったが、10ヶ月間の航海の後、フランスのカーン市に置き去りにされた。
カーンにあるイエズス会のカレッジで学芸(リベラル・アーツ)を学び、1640年頃にイギリスに帰国
。1643年にオランダへ渡航するまでイギリス国王の海軍で勤務した。
1644年にライデン大学の医学部に入学。ライデン大学でフランシス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。アムステルダム大学のジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。1646年、イギリスのロンドンに移る。

1652年、アイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、またアイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。
さらにアイルランド総督ヘンリー・クロムウェルの秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスのウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。
チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。 


ジョージ1世(在位:1714-1727) George I
イギリス王家がドイツのハノーヴァー出身となった初代。現イギリス王室はこの流れを汲んでいる。


長男 ウィリアム・フィッツモーリス(1694-1747年)→第2代ケリー伯爵位を継承
次男 ジョン・フィッツモーリス (1706-1761年)→1751年にペティに改姓、初代シェルバーン伯爵に叙される

ジョン・フィッツモーリス(初代シェルバーン伯爵)の息子ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)はイギリスの首相となった(在職:1782-1783)。
ウィリアム・ペティという名は父方の祖母の父にあたる経済学者ウィリアム・ペティと同姓同名。
Sir William Petty
William Petty, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne

首相退任後の1784年にランズダウン侯爵に叙された。(侯爵は伯爵の1つ上のランク)
ケリー伯爵とシェルバーン伯爵はアイルランド貴族であったが、ランズダウン侯爵はグレートブリテン貴族となる。
ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)の子孫はフィッツモーリス家の分家筋ということになるが、本家に後継ぎ男子がいなかったため1818年より本家となり、ペティ=フィッツモーリス家と改姓してケリー伯爵位も継承している。

現在、ランズダウン侯爵は9代目(チャールズ・ペティ=フィッツモーリス)となっている。
イギリスでは伯爵以上の爵位には従属爵位という複数の爵位が付いている。最高(メイン)の爵位を相続する以前の子供は2番目の爵位名で呼ばれている。
それから爵位には領地持ちと持たないものがある。
結婚相手、相続する子の有る無しで爵位や領地(昔なら国そのもの)は大きく変わる可能性がある。
=現ランズダウン侯爵の全保有爵位=
・サマセット州における第9代ランズダウン侯爵 (9thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第10代ケリー伯爵 (10th Earl of Kerry) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の儀礼称号)
・ウェックスフォード州における第10代シェルバーン伯爵 (10th Earl of Shelburne, in the County of Wexford) (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第9代ウィコム伯爵 (9th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族)
・第10代クランモーリス子爵 (10th Viscount Clanmaurice) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の法定推定相続人の儀礼称号)
・第10代フィッツモーリス子爵 (10th Viscount Fitzmaurice) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・第9代キャルネ=キャルストン子爵 (9th Viscount Calne and Calston) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第30代ケリー=リックナウ男爵 (30th Baron of Kerry and Lixnaw) (1223年頃創設アイルランド貴族爵位)
・第10代ダンケロン男爵 (10th Baron Dunkeron) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第10代ウィコム男爵 (10th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族)









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# by yumimi61 | 2018-02-19 12:49
2018年 02月 18日
日本国憲法の秘密-673- (外貨準備と貿易について)
178.png2007年10月までカテゴリーとタグ付終了しました。


フランクフルトのゲットー出身のユダヤ家系の金融一族ゴールドシュミット家の一員でありながら、経済発展や工業化に反対し環境問題の運動家となったエドワード・ゴールドスミス。
その弟であるジェームズ・ゴールドスミスはオリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなった投資家である。

『ウォール街』(Wall Street)
1987年公開のアメリカ映画。出世願望の強い若手証券マンと、冷酷かつ貪欲な投資家による企業買収を描いた金融サスペンス
時代を反映した内容が話題を呼び大ヒットしたことから、アメリカでは広く知られた映画であり、経済・金融の論評や記事で引き合いに出されることも多い。作品は実際のウォール街にも大きな影響を与え、主人公である投資家、ゴードン・ゲッコーに憧れて投資銀行に入社する者や、ゴードンのファッションを真似る者などが後を絶たなかった[要出典]。
一方で監督オリバー・ストーンは、作中でゴードンと対立するカール・フォックスと同じく過剰な資本主義による倫理観の崩壊を嫌悪する側であり、ゴードン側の人間ばかり増やしてしまった事は大変遺憾だと述べている[要出典]。


ラリー・ワイルドマン卿(ゴードンとライバル関係)のことはひとまず置いて。

ゴードン・ゲッコーを演じたのはマイケル・ダグラス ←冷酷かつ貪欲な投資家
バド・フォックスを演じたのはチャーリー・シーン ←功名心から騙され倫理観の崩壊を嫌悪する(復讐する)側
 カール・フォックスを演じたのはマーティン・シーン ←過剰な資本主義による倫理観の崩壊を嫌悪する側
(マーティン・シーンとチャーリー・シーンは実の親子)

ゴートン・ゲッコーは実在の投資家アイヴァン・ボウスキーがモデルとされる。本作と次作で吐いた「Greed is good.(強欲は善だ)」「Money never sleeps.(金は眠らんぞ)」「君の質問には3語で十分、Buy my book(ウチは買いだ)」は名台詞として知られる(特に「強欲は―」は「アメリカ映画の名セリフベスト100」で第57位に入った)。


アイヴァン・ボウスキー(Ivan Boesky、1937年3月6日 - )
デトロイト出身の投資家。1980年代中盤にウォール街の鞘取りとして活躍した。ドレクセル・バーナム・ランベールをめぐる内部者取引を密告し、ハーヴェイ・ピットに弁護された。

ユダヤ系の家庭に生まれる。デトロイトのマンフォールド高校を卒業し、ミシガン州立大学で法律学を修める。
L.F.ロスチャイルドで一年間の下積みを経験したボウスキーは企業の買収を繰り返し、当時の金額にして2億ドルの資産を有するアービトラージャー(裁定取引専門の投資家)として、後の財務長官であるロバート・ルービンと共にウォール街で名を馳せていた
しかしボウスキーは同業者とインサイダー取引に手を染めていた。ボウスキーがKidder, Peabody & Co. やファースト・ボストンの関係したM&A 銘柄を追いかけていることは当時の証券業界で公然の秘密であった。

やがて証券取引委員会の調査によって発覚し、1986年に逮捕された。ジャンクポンドの帝王とも呼ばれるマイケル・ミルケンや時には証券取引委員会の人間とも共謀した。彼の株式取得方法は、買収を発表の数日前に株を最大限に買い占める手法により、時に物議を醸すなどしたが、1986年12月には、彼自身が『タイム』の表紙を飾る。
証券取引法違反により逮捕されたものの、ボウスキー以前はインサイダー取引によって逮捕されるケースは違法とは言え滅多に無かった。司法取引により、3年半の服役と1億ドルの罰金刑を受けたが、2年で出所し、現在も有価証券投資事業を手がけている。尚、ボウスキー自身は、最も大きな株取引詐欺を行った男としてギネスブックに登録されている。



ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)
従業員のマイケル・ミルケン(Michael Milken)の不法行為が発覚して破産を余儀なくされたウォール街の投資銀行会社。

私は前にドレクセル・バーナム・ランベールやマイケル・ミルトンのことを書いている。
いろいろなものがあちこちに繋がっていて、複数の国にまたがり、複数の語が混じり合う外国名が登場することも影響して、一見してというか何というか、非常に分かりにくいと思うが、確か「アイゼンベルグ」の話から繋がってきたものだった。
もう一度その元を辿ってみる。


キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族

・キャボット家はもともとイタリア・ヴェネツィアで活動していた一家。カトリック教徒。
1484年にイギリスへ移住し、1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて出航した探検家。アメリカ大陸発見者として名を連ねる。
しかしヘンリー8世(カトリックから分離独立した時のイギリス国王)からは出資を受けられず、1513年にカトリック国であるスペインに移住。最終的には(1533年)イギリスに戻り、航海関係の会社を起こしている。
キャボット家はアヘンと奴隷で大儲けした。

・シェルバーン家はアイルランド貴族。イギリスの諜報活動を担当していた。
(1509年からイングランド君主はアイルランドの君主も兼務している)
シェルバーン家は、ヴェネチア、ジェノバ、ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドンなどを転々とし、アヘンと奴隷で莫大な富を築いた一家。
イギリス・フランス・スイスのイエズス会との関係を築き上げていて、フリーメイソンの上層部にいた人物でもあった。
シェルバーン伯爵は神秘主義(悪魔崇拝とも言われる)に魅せられていたという。
シェルバーン伯爵はイルミナティ創設にも関与していて、ここでプロテスタントのはずのイギリスとカトリックが明確に繋がり、さらにフリーメイソンとも繋がることになる。


ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争い。

・ハプスブルク家(カトリック)
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた

・ヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)


1714年よりイギリスの王家がドイツのハノーヴァー出身となる。
このイギリス王家は、反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)であったということになる。
そして次のような対立構造も生まれる。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
         フリーメイソンvsイルミナティ   

1776年、アメリカ独立。
(独立戦争でイギリスに傭兵を提供したのはヘッセン家)

ナポレオン戦争が起きて、対ナポレオン(市民革命の起こったフランス)のもと対立していた上記両者が一致団結。ナポレオンは失脚し、カトリックは復活、イエズス会が急拡大した。

1792~1815年、フランス革命戦争・ナポレオン戦争。

1822年、ロスチャイルド家の5人の息子にオーストリア皇帝(カトリック)から爵位授与され晴れて貴族の仲間入り。

1831年、独立したベルギーに初代国王が即位。その国王はイギリス王家と同じドイツのザクセン・コーブルグ・ゴータ公国の公爵家から出された。
 ⇒イギリスとベルギーの王家は同じ一族出身で親戚。


ベルギー独立時にベルギーの貴族ランベール家によって設立されたのがランベール銀行(Banque Lambert)。
Lambertは日本読みでは、ランベールとも、ランバートとも、ランベルトとも言う。
ランベール銀行はベルギーのソシエテ・ジェネラル(Société générale de Belgique)の親会社でもあった。
(ロスチャイルドの主導によってベルギーのソシエテ・ジェネラルがフランスにもソシエテ・ジェネラルを設立。イギリスにもジェネラル・クレジットを設立してエジプトや近東で活躍)
ベルギーのソシエテ・ジェネラルは、日本銀行のモデルとなったベルギーの中央銀行であるベルギー国立銀行と歴史的に非常に関係が深い。
ランベール銀行は第二次世界大戦終結(1945年)以降、数多くの銀行との合併によりサービスとネットワークを急速に発展させた。

1975年、そのランベール銀行がブリュッセル銀行と合併してグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)となった。

GBLは翌1976年にフランシス・マーティン・ドレクセルが創業したアメリカの銀行の支配権を得る。
フランシス・マーティン・ドレクセルはオーストリア生まれで、イタリアのカトリック教会でイタリア語と絵画を学ぶ。1817年にアメリカに移住。
1837年に永住権を取得した後、アメリカ大手金融会社の1つとなるDrexel&Co.を設立。
メキシコ・アメリカ戦争とアメリカ内戦で連邦政府との金融取引に携わる。
創業者が1860年に死去し息子が事業を継承。
1868年にパリの会社Drexel、Harjes&Co.が設立され、1871年にはJ. P. モルガンと提携してニューヨークにDrexel、Morgan&Co.を設立。
だがその後、会社は傾いて行く。
幾つかの合併や改称を経て、1976年にベルギーに本拠を置くグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)という社名になった。
1980年代の企業乗っ取りの中心にいたのがこの会社。ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような銀行。
ランバートに吸収合併される前からドレクセルにいて、1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せたのがマイケル・ミルケン
傾いていた会社はアメリカ5位の投資銀行となりウォール街に欠かせない会社へと変貌を遂げた。







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# by yumimi61 | 2018-02-18 14:17
2018年 02月 16日
日本国憲法の秘密-672- (外貨準備と貿易について)
前記事にイギリスの伝統パブリックスクールの頂点イートン校について書いたが、思わず日本の某女性芸能人を思い出した人もいたのではないだろうか。
日本からアメリカのメジャーリーガーに行ったプロ野球選手の元妻と言えば分かる人も多いかもしれない。
彼女の息子達がイギリスの名門プレップスクール(パブリックスクールを目指す児童のための寄宿私立小学校)に留学したんだとか。
私は病院の待合室のテレビでかかっていたワイドショーでそのことを知ったけれども、あれを見なかったら今でも知らなかったと思う。

伝統的パブリックスクールが13歳〜18歳の子供を対象としてるが、プレップスクールはその前の8歳~13歳が対象となる。
彼女の息子達が留学したのはルドグローブ校らしいが、この学校はウィリアム王子がイートン校の前に入学した学校である。(ウィリアム王子は小学校に入学した最初のイギリス王子)

階級社会イギリスの王族とか貴族とかに匹敵する日本の家庭(しかも自身は芸能人だった)というのはどんな感じなんだろうという興味のもと彼女のことをWikipediaで調べてみた。(宮崎県出身でプロ野球選手の元妻という以外私が知っていることはないので先入観はなかった)

日本のタレント、モデル、女優。宮崎県出身。日向学院中学校卒業。堀越高等学校卒業。早稲田大学通信制中退。血液型はO型。エイベックス・マネジメント所属。

これと野球選手と結婚していた以外の情報はほぼなかった。ということは・・お金!?
一説によるとイギリスの教育界は海外からの生徒集めを重視しており、最近は中国などアジアを重点地域に置いているからではないかと。
私は彼女がエイベックス所属と知って、音楽事業や芸能人などのマネジメントを手掛けるエイベックスという会社の世界戦略の一環かと思いましたよ。
その後の某歌姫や某音楽プロデューサーの引退宣言もエイベックスの世界戦略にお金がかかるからなんだなあと勝手に解釈しておりました。
某音楽プロデューサーのお相手の看護師Aさんはもともとエイベックスが経営していた病院にいた方なのでは?
それはともかく。

私が彼女が宮崎県出身だと知ったのは2010年に宮崎県で発生した口蹄疫の流行の時だった。
2010年5月29日 zakzak夕刊フジ
 宮崎県は28日、プロ野球日本ハムのダルビッシュ有投手の妻、紗栄子(23)が、口蹄疫被害の義援金として300万円を寄付したことを明らかにした。紗栄子は宮崎市出身で、寄付は27日付。
 紗栄子はブログで「主人のマウンドでのパフォーマンスの源で、私達家族の健康を支えてくれている宮崎の牛や豚が殺処分されていることに心を痛めながら、私にできることは何かないかと考えていました」とつづっている。



2010年6月6日 スポニチ
 プロ野球日本ハムのダルビッシュ有投手の妻、紗栄子さんが5日、故郷・宮崎で発生した口蹄疫被害について、ブログに寄せられた数々のコメントや募金活動へのお礼の言葉をつづるとともに、自らのブログをこの問題の「情報交換の場に」と訴えた。
 紗栄子さんは5月27日に宮崎県に義援金として300万円を寄付。28日付のブログでは同県が実施している募金活動への協力を呼びかけたところ、日本各地から600件近いメッセージが寄せられた。
 「タオルが不足していることやポイントでの寄附、ふるさと納税など、いろんな形の協力の仕方を教えてもらえました」との言葉通り、コメント欄は現地からのリポートや情報交換の場としても機能。紗栄子さんはこのことを喜ぶとともに「これからもこの場所を、情報交換の場としてどんどん使って頂ければ嬉しく思います」と明かした。
 さらに、紗栄子さんは牛の殺処分に携わった獣医の心のケアや、農家の生活のサポートなど、感染終息後の問題についても触れ、「みんなの絆で乗り越えましょう」と呼びかけている。



当時、彼女の伯父が衆議院議員だった。(それを私が知ったのはワイドショー見た後のWikipediaだった)
道休誠一郎
宮崎県宮崎市生まれ。宮崎県立宮崎南高等学校、上智大学外国語学部卒業。上智大卒業後はコロンビア大学大学院国際関係学修士課程に留学。1979年(昭和54年)、シティバンクに就職。1982年から野村證券に勤務。2003年、JICAからインドネシア財務省に派遣される。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙に民主党公認で宮崎2区から出馬。自由民主党の江藤拓に敗れるも、比例九州ブロックで復活し、初当選した。


カトリック・イエズス会の上智大学、コロンビア大学、シティバンク、野村証券、JICAからインドネシア財務省。この経歴はなかなか興味深い。
そして実は日本の口蹄疫発生には彼が少なからず関与しているという説がある。

http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/360.html (2010年5月21日)

民主党政府は口蹄疫非清浄国の韓国から豚肉輸入を2009/09/28 に決めた(註2,3)。

2010/01/02 韓国の農場の牛から検出されたウイルス、口蹄疫と判明(註3)。

1月12日、京畿道・抱川で1月7日に家畜伝染病の口蹄疫(こうていえき)が発生したことを受け、米農務省の国際動植物検疫課(APHIS)が韓国の「口蹄疫清浄国」認定を無期限で延期すると発表した(註4)。

今年の1月に宮崎の水牛チーズ農場に道休誠一郎(ドウキュウ セイイチロウ)民主党議員の口利きで昨年から口蹄疫が発生している韓国京畿道州抱河市西域からの研修生が来た(註5)。

2月半ば頃から原因不明の下痢・乳量の低下・流産が多発。
3月半ばに口蹄疫の疑いが判明。
水牛は全頭家畜としての導入検疫を受け口蹄疫も陰性だった。
水牛農場に行っていた女性の住む川南の農場が川南で最初の発生農場となった。
この農場と行き来のあった農場を中心に広がり川南で多発、国内最大手の直営で発生。
同系列のえびのの委託農場に感染。

宮崎 口蹄疫感染源が韓国研修生という認識は、地元では常識になっている(註6)。

口蹄疫ウイルスの人への感染については、濃厚接触がある場合、稀にウイルス感染することがあるが軽い発熱や口内炎になる程度で完全に回復するため臨床学的な立場からは感染しないとされる。
 ただし感染による症状自体は問題とはならないもののヒトがウイルスの保有者(無症候性キャリア)となり、他の動物への感染源となるため感染源との接触は極力避けなければならない、とされている(註7)。

また、全米公衆衛生協会の公式報告でも「口蹄疫ウイルスの感染は酪農従事者、畜産農場従事者、獣医師、ウイルス取り扱い技術者などに認められ、また、ウイルスのメカニカルな保菌者となり、動物への口蹄疫流行の感染源となる」とされている(註7)。

このため口蹄疫流行国からアメリカ合衆国への入国時には、「過去2週間以内に家畜にふれたことがあるか、家畜の農場に居たことがあるか」等が聞かれる(註7)。

それ故、口蹄疫の発生している韓国からの研修生がウイルスを持ち込んだ可能性は極めて高い。

4月28日にFAO(国際連合食糧農業機関)は、韓国と日本における口蹄疫の流行に対する憂慮を表し、すべての国がリスクにさらされているとし、厳重な警戒をするように呼びかけた(註8)。



この口蹄疫問題は、2011年の経営破綻した安愚楽牧場の問題と絡んでいたという裏事情があった。
株式会社安愚楽牧場
栃木県那須塩原市に本社をおいていた和牛預託商法に関する畜産会社。現在は破産。
「繁殖母牛に出資すれば毎年生まれる子牛の売却代金で多額のリターンが望める」という触れ込みで、出資者から金を集めるオーナー制度の最大手。栃木県、北海道、宮崎県などで38ヶ所の直営牧場を運営し、黒毛和牛をはじめとする肉牛13万3,386頭(預託農家346戸分を含む)を飼育していた。
##飼育頭数=13万3386頭(2011年(平成23年)10月15日時点)
##負債総額=4,330億8,300万円(2011年(平成23年)8月9日民事再生法適用申立時点)
##黒毛和牛委託オーナー被害者数=7万3,356人
##黒毛和牛委託オーナー被害総額=4,207億6,700万円


要するに投資目的の牧場である。
電通を代理店として黒毛和牛委託オーナー制度の広告を積極的に展開していた。
民主党の海江田万里は衆議院議員に当選する平成5年までに、複数の雑誌、書籍などで紹介し投資を推奨していた。弁護団公式ホームページによると海江田はかつて投資を強く推奨し、リスクがないことを強調していたという。



民主党議員だけではない。自民党の衆議院議員にも深い関係のある者がいた。
栃木県出身の西川公也議員(現在は議院ではなくて内閣官房参与)。
第2次安倍改造内閣、第3次安倍内閣では農林水産大臣(2014年9月3日-2015年2月23日)に就任していた。
2017年10月の総選挙で落選するも、11月に内閣官房参与(首相相談役の非常勤国家公務員)に任命されている。農業政策全般についての助言がその任務だとか。
口蹄疫発生(2010年)や安愚楽牧場破綻(2011年)の起こった時もちょうど落選して議員を離れていた時期であった(2009-2012年)。
ただそれ以前から西川議員は安愚楽牧場から献金を受けており、また西川議員の秘書を務めていた長男は安愚楽牧場の顧問に就任していた。

上に転載した経過では、宮崎の水牛チーズ農場に道休誠一郎民主党議員の口利きで口蹄疫が発生している韓国京畿道州抱河市西域からの研修生がやってきて、地元では口蹄疫の感染源はその韓国研修生であると見られていたと記されているが、他にも安愚楽牧場が輸入した水牛が感染していた(輸入時に発症はしていなかった)、感染源は輸入水牛であるという説もある。

安愚楽牧場の宮崎県にあった直営牧場。
##小林牧場 - 宮崎県小林市大字細野5740-520
##児湯 - 宮崎県児湯郡川南町・高鍋町・新富町・木城町と西都市にまたがり、13箇所の牧場を有する。

安愚楽牧場は複数の町にまたがって複数の牧場を所有していた。また個人の畜産農家に預ける預託農家制、これが被害が広がった背景の1つである。
安愚楽牧場の場合、全国の直営牧場で約7万頭、全国の預託農家で約7万頭飼育していたようだ。(数的には北海道が多かった)
預託農家は企業と契約を結び、家畜を預かって飼料代と給料をもらうシステム。

7例目の発症とされた川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が実は最初の発症であった。
2月くらいから異変があり、3月に口蹄疫の疑いが濃厚となる。
しかしそのことを安愚楽牧場は隠蔽したまま水牛を移動させたりしていた。

2010年(平成22年)4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性にも言及している。

これについて地元紙は、
『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年(平成22年)4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』
『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』
『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西都市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』
『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日〜7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』
『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』
などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。



詐欺まがいの投資を斡旋し、実際は自転車操業に陥っていた挙句、口蹄疫まで発症させた安愚楽牧場に、自民党と民主党の議員が関わっていたとくれば都合が悪い。さらには公明党も関係しているという説もある。
自民党と民主党の議員両方が関わっているということは加計学園問題を彷彿させる。








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# by yumimi61 | 2018-02-16 15:28