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悲しいほど梅雨冷

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178.png2009年5月までのカテゴリーとタグ付終了しています。


同じ趣味や特技を持ち、同じ新しい時代に生きて、
同じ空気を吸いながら同じ風景を見ていた。
皆それぞれにひよっこらしいストイックさと奇抜さを持ち合わせ、
日が傾くのも夜が更けるのも忘れて語り合い笑いあった。
これ以上強く確かな繋がりがどこにあるというの?そう信じて余りあるほどの。
君達はまだ何だって出来ると誰かが言って、本当にそうだって、私達に出来ないことは何もないって別の誰かが言って、心が震えた。
四畳半フォークでもオーケストラでもなく、どこまでも広がる空の下、どんなものでも描いていける未来を持っていたのよ。







# by yumimi61 | 2019-06-11 17:13

alma

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数寄屋橋交差点 銀座 昭和36年 薗部澄


昭和36年は1961年。
場所は銀座のソニービルがあった交差点であるが、ソニービルの着工は1964年6月6日で、竣工が1966年4月15日であった。
ソニービルは2017年に解体され、現在は「Ginza Sony Park(銀座ソニーパーク」になっており、東京オリンピックが終わった2020年秋に新ソニービルが着工されるらしい。
1961年の上の写真の建物はソニーの自社ビルではない。
ビル壁面には『太陽の誘惑』や『アメリカ裏窓』といった映画の(?)広告掲示がなされている。

SONY 企業情報>歴史>タイムカプセル
Vol.6: 1966年、ソニービル誕生
様変わりを実感!ソニービルがなかった頃の数奇屋橋の風景
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ソニーの“電光広告看板”がひときわ目立つ数寄屋橋交差点(1958年) 


ソニービルがオープンしたのは1966年4月。以来40年、この銀座を代表するランドマークは、ソニーの情報発信基地として、人々のコミュニティースポットとして親しまれてきた。2006年6月のリニューアルでは「ハイビジョンのソニー」を全面的に打ち出し、ソニーが創り出すハイビジョンの世界をアピールしている。

 さて、銀座への玄関口とも言われる数寄屋橋であるが、40年前のソニービルの登場は、その風景、人の流れを一変させた。今回はそれを実感してもらうため、あえてソニービルが建つ前の数寄屋橋の写真を紹介する。この数寄屋橋とソニーとの関係は古く、1957年にソニーの“電光広告看板”を設置したのがそもそもの始まり。2年後には20坪足らずのショールームもオープンした。いわばソニービルの前身である。好立地がゆえに客足は伸び、製品群も年々増える。そのためやがて手狭になってきた。

 そこで、「この銀座・数寄屋橋の一角を永久に確保し、同地から生まれる多くの面での効果を永続的に得たいと考え、土地の買収にあたった結果、土地所有者の方々のご了解を得て、707平方メートルの土地を入手することができ、ここにソニービルを建設することになったのであります」(ソニービルの発表文より)。かくして当時副社長だった盛田の陣頭指揮のもとソニービルは誕生し、現在に至るのであるが、オープンにあたってはこんなエピソードもある。同ビル内にオープンする3つの店の店名を社員から募集したのである。7階のイタリア式レストラン(現在のサバティーニ・ディ・フィレンツェ)、地下2階の純アメリカ式ドラッグストア(現在のソニープラザ)、1階のコーヒーショップ(現在のパブ・カーディナル)。残念ながら該当作はなかったが、ソニービルをまず社員に身近に感じてもらおうという粋な計らいであった。


晴海通りの数寄屋橋交差点、ソニーの向かい側に不二家がある。

1953年に、この地に地上3階建の不二家数寄屋橋店が開店。1957年には屋上にフランスキャラメルの大看板が設けられ(その後ペコちゃんの大看板)、人目を引いた。1982年、同ビル跡地に現在の銀座クリスタルビルが建設され、同年6月に竣工した。
(銀座クリスタルビルは)不二家のネオンサインとガラス張りの曲面状のカーテンウォールの外観が銀座のランドマークの一つになっているが建物は同社所有ではなく、テナントとして不二家数寄屋橋店が入居している。

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写真奥に見える丸い物体は、森永地球儀ネオンである。

森永地球儀ネオン
かつて森永製菓が設置していた球体のネオンサインである。東京都中央区銀座5丁目、愛知県名古屋市の大名古屋ビルヂングなどに掲出していた。
菓子類の自由販売開始に際し、森永製菓は新聞をはじめとする印刷媒体や、1951年より放送を開始した民放ラジオ、1953年放送開始の民放テレビなどを駆使し、積極的な広告展開を行った。日本各地に設置された大型の広告塔もその一環で、中でも東京・銀座に設置された球体ネオンサインは地球儀ともサボテンとも呼ばれ、長らく銀座のシンボルとして親しまれた。

設置場所は銀座5丁目の銀座不二越ビルの屋上で、銀座4丁目交差点から数寄屋橋方面を見ると晴海通りの左側に位置する。1953年1月21日に着工、同年4月11日に完成。直径は12メートル。50トンの鋼材を使用し、工費は当時の金額で約3000万円を要した。濃赤、赤、青、濃青、白、黄、緑のネオン管が使われ、地球儀で言うところの緯線・子午線方向に張り巡らされた光の線が点滅。赤道にあたる部分には「森永ミルクキャラメル」「森永チョコレート」の文字が回転する仕掛けであった。デザインは、日本画家の横山操が担当した。 クリスマスや1959年の皇太子ご成婚、1964年の東京オリンピックなどの際には文字が加えられるなど特別な装飾が施された。

広告電通賞を受賞したこの地球儀型ネオンは銀座の広告塔のはしりであり、1954年には鳩居堂ビルの屋上に松下電器産業が星型の広告塔を掲出、旧三愛ビル(現在の三愛ドリームセンター所在地)には赤ん坊が哺乳瓶のミルクを飲み、泣き顔から笑顔に変わっていく様子をネオン管の点滅でアニメーション仕立てで描く雪印粉ミルクのネオンサインが出現するなど大型で趣向を凝らした広告塔が増えた。

小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』では、この広告塔を1カット映すことによりその場所が銀座であることを示すなど、数々の映画にも描かれたが、完成から30年後の1983年に老朽化のため撤去された。銀座不二越ビルはその後建て替えられ、2007年9月27日に竣工。全フロア、アルマーニが旗艦店を置いた。



写真で不二家の左側に位置する場所に塚本素山ビルディングがある。
オバマ大統領が来日した時に安倍首相と夕食会をした高級寿司店「すきやばし次郎」が入居するビル。
塚本素山は人の名前。

塚本素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)
日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業。本名は塚本 清
旧制千葉県立佐倉中学校を卒業する。1935年(昭和10年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。


政財界に太いパイプを持ち、フィクサーとも呼ばれロッキード事件で世間にもその名を知らしめた児玉誉士夫とも親交があり、児玉の事務所が塚本素山ビルに入居していたりもする。
創価学会の初代顧問でもあった。

・1945年(昭和20年)8月、陸軍大将の田中静壱の専属副官を務める中、終戦となる。敗戦直後から辰巳栄一と親交をもった。そして1949年頃に米軍の情報関係者の仲介で児玉誉士夫と知り合った。

・1956年(昭和31年)、日鉄中央機械、日新興業、日新実業が合併した塚本総業を設立し、塚本総業代表取締役に就任する。塚本不動産社長、八盛興業社長、日新興業会長、大和通運会長を務め、日本カーフェリー取締役、ニューナラヤ(現・千葉三越)取締役のなどを兼任する。

・1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。

・埼玉県熊谷市の法潤寺の建立を発願し、1963年(昭和38年)に、法潤寺が建立された。
・埼玉県朝霞市の日成寺の建立を発願し、1978年(昭和53年)に、日成寺は建立された。
・千葉県長生郡一宮町の法清寺の土地を寄進し、死後1984年(昭和59年)に、法清寺は建立された。



児玉誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日)
日本の右翼運動家。CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した[要出典]。
三男はTBSサービス社長を勤めた児玉守弘。

戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた。祖父山田兵太夫は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった。
ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、来日して向島 (墨田区)の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。






# by yumimi61 | 2019-06-07 16:57

アレルギー

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杉多すぎた!?

「杉苗500本 明治31年生品小学校入学同級生一同」と書いてある。
明治31年は1898年。小学校入学はこの年に7歳になる子供達なので、1891年生まれということになる。
杉苗を奉納したのは昭和12年だから1937年。46歳になる年である。


県社昇格記念樹としての杉苗500本。(杉花粉症の皆さん、すみません。まさかこんなにも杉アレルギーが猛威を振るうとは思ってもみませんでした)

県社は近代社格制度によるランクである。

近代社格制度
明治維新以降、『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化した制度である。第二次世界大戦後に廃止されたが、「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。

延喜式
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。

平安時代に明治時代、中央集権というのは「社会は1つ~」にして、平等を実現するのではなくその中で格付けをするのが好きなのである。


明治時代に神社は、「官社」と「諸社(民社)」と「無格社」に分けられた。
伊勢神宮は「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされた。 戦後の象徴天皇は、神社界における伊勢神宮の立ち位置に準じていると思われる。

伊勢神宮(別格)ー「官社」>「諸社(民社)」>「無格社」

「官社」の格付け
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社

「諸社(民社)」の格付け
府社=県社>郷社>村社
※北海道が存在したが道社というものはなく県社に含まれた。
1943年には東京府が東京都になったが、都社にはならず府社のまま維持された。

「無格社」
法的に認められた神社の中で村社に至らない神社。
無格社の神社であってもほとんどは氏子を有し、村社以上の神社とは、神饌幣帛料供進がなかった点や境内地が地租もしくは地方税免除の対象とされなかった点などが異なる以外に、目立った相違はない。規模の小さな無格社の多くは、明治末期の神社合祀で廃社とされた。
全国約11万社のうち、無格社は1938年(昭和13年)の調査では60,496社あり、当時の神社数の半数であった。最終的には59,997社が存在したとされる。






# by yumimi61 | 2019-06-04 15:46

はらはら

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神代は薔薇の葉色に染まりけり



先日載せた写真で、生品神社の神代木の説明板がうっすらと青く(緑色と空色)に染まっていたなぁと思って。
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東京都調布市に都立神代植物園がありますね。

この公園はもともと、東京の街路樹などを育てるための苗圃でした が、戦後、神代緑地として公開されたあと、昭和36年に名称も神代植物公園と改め、都内唯一の植物公園として開園されました。

その中にはバラ園もありますが、そろそろ春の薔薇の花も終わりかなぁという時期だと思います。
神代植物公園「春のバラフェスタ」は6月9日まで。今日は休園日。


神代植物公園には園の名前を冠した「クィーン・オブ・神代(Queen of Jindai)」という薔薇がある。
開園50周年(開園は1961年10月20日)の記念事業の一環で名付けられたとか。

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2009年度日本バラコンクール(JRC)金賞を受賞。
2013年の開園50周年記念に名前を一般公募し、2014月に新品種登録された。

(クィーン・オブ・神代の写真と説明文はWebバラ図鑑より)

これはハイブリッドティー(HT)系という種類の薔薇で、枝先に一輪の大輪花を咲かせるという特徴がある。
切花として販売される薔薇はハイブリッドティー系が少なくない。
でも私はもっと花弁の多いくしゃくしゃごちゃごちゃとしたバラが好きなのである。オールドローズとかイングリッシュローズとか。
例えるならば「プリンセス・マサコ」より「マサコ(エグランタイン)」のほうが好きということ。

皇族の名前を冠した薔薇があるが、これらの薔薇が集まっているのが神宮ばら園。

神宮会館>館外施設のご案内より
神宮ばら園は、神宮参拝者や神宮会館利用者に心の潤いを与え、神宮外苑の名所とするため三重県ばら会の助勢を得て、昭和62年10月に開園しました。
春と秋にはバラ花を神宮に奉納して、三重ばら会南勢支部のばら展が開催され、多くの方々が来園されます。

 神宮ばら園開設のきっかけとなったのは、当時の三重県ばら会会長・清水武夫氏よりのバラ苗の献納でした。
開園当初は57種、300株が植えられました。その後、岡山市のアール・エス・ケイバラ園や、山陽放送株式会社など、いくつかの企業や個人から苗の献納があり、三重県ばら会南勢支部の協力を得て、現在では120種、450株が咲きほこる見事な花園へと成長しました。

必見のプリンセスローズ
 園の東側、神宮会館と隣接する斜面に、ほかの花と独立して並び植えられているのがプリンセス・ローズ。プリンセス・ミチコ、マサコ、アイコなど、どなたもご存知の高貴な名が冠された美しい花に、皇女のお姿を重ね合わせて、ぜひご鑑賞くごさい。



山陽放送吉備ラジオ送信所
岡山県岡山市北区にあるRSK山陽放送(RSKラジオ)の中波放送送信所で、RSKラジオの親局である。
本送信所の周囲一帯はRSKおよび関連会社による公園事業RSKランド(主にはRSKバラ園およびRSKハウジングプラザ)の運営地となっている。




<過去に載せた赤い薔薇の写真から>
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# by yumimi61 | 2019-06-03 17:24

天翔

読売新聞(2019/05/02)によると、新元号の政府の最有力案は一時期「天翔(てんしょう)」だったらしい。
こちらも万葉集や古事記が出典だそうだ。
でも葬儀社名などに使われていることが判明し最終案には含まれなかったという。

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昨晩、「天翔」に遭遇した。私の前を走っていたトラック。


1週間か2週間くらい前には久しぶりに「口は弁護士 心は詐欺師」のトラックを見かけた。
以前本当によく遭遇していたのに、ある時からパタリと見なくなったのだけれど、久々に見た。
横に龍生丸急行と書いてあったのが分かったので、調べて見たら宮城県気仙沼の丸虎商店という会社のトラックらしい。







# by yumimi61 | 2019-06-02 11:29

統制

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陸軍大将鈴木孝雄謹書


鈴木孝雄

明治2年10月29日(1869年12月2日) - 1964年(昭和39年)1月29日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
現役を退いてから靖国神社第四代宮司及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。


関宿藩士である鈴木由哲の子として東京に生まれ、その後千葉に移る。関宿藩は現在の千葉県野田市関宿三軒家あたり。
関宿藩の藩主・久世氏は村上源氏一族。
久世氏の家臣であった鈴木家には子供がなく、倉持由哲が養子に入った。
倉持家は足利氏(室町幕府将軍家)の家臣で鎌倉期から足利氏所領の管理を行い、三河国(現:愛知県)額田郡内に所領を持っていた。
足利氏や新田氏は同じ清和源氏(河内源氏)一族であるが、最終的にはライバル関係になった。

倉持由哲→(養子入り)→鈴木由哲・・・(長男)鈴木貫太郎 ←総理大臣(1945年4月7日ー8月17日)
                ・・・(次男)鈴木孝雄 ←陸軍大将時代に新田の生品神社に書


1877年(明治10年)、父(鈴木由哲)の群馬県庁への就職に伴い前橋市に転居。
第一番小学校厩橋学校(群馬県で最初の小学校、現在の前橋市立桃井小学校)を卒業後、群馬中学(現:群馬県立前橋高校)に進むも中退し、成城学校に転校。

成城学校
1885年(明治18年)創立の伝統校。日高藤吉郎、河村隆実といった旧士族らが皇室の恩恵を受け文武講習館として創立。創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校として、全国から集う陸軍軍人志望者に予備教育を施し、数多くの高級軍人を輩出した。

1889年(明治22年)陸軍士官学校に入校、1891年(明治24年)に卒業し、陸軍に入隊。日清戦争や日露戦争に出征した。
陸軍大将に親任(天皇が直接任命)されたのは、1927年(昭和2年)のこと。
1933年3月30日、63歳の時に陸軍の一線を退く。
それはちょうど日本が国際連盟脱退を通告し、日中戦争からの第二次世界大戦へ向かおうとしていた時期であった。

1937年7月7日の盧溝橋事件を境に日本と中国は全面戦争へと突入していく。
その翌年、鈴木孝雄は靖国神社の宮司に就任した。
写真集『昭和』には、日本の対外戦争における戦死者を「靖国の神」として祀り、軍国主義の精神的な支柱であった靖国神社と書かれていたが、鈴木孝雄はその戦争の最中に靖国神社の宮司だった人物なのだ。

1938年(昭和13年)4月21日から靖国神社宮司を務め、1942年(昭和17年)8月には大日本青少年団長を兼ねる。青少年団長は1945年(昭和20年)6月に退任、靖国神社宮司は1946年(昭和21年)1月17日に退任する。 


日本青年団協議会(大日本青少年団)
日本青年団協議会は、日本の青年組織「青年団」の全国組織である。
1925年(大正14年)、日本全国の青年団員拠金活動により建設された日本青年館の竣工に前後し大日本連合青年団が結成され、翌々年の1927年(昭和2年)には大日本連合女子青年団が結成された。ちなみに、この当時の「青年団(会)」は男性のみの組織であり、大日本連合女子青年団は日露戦争前後に日本全国に誕生した「処女会」「娘の会」などと呼ばれた未婚女子青年組織の連合組織として誕生した。

これらの組織は、青年の主体的運動によって生まれたというよりは、当時の内務省並びに文部省の主導の下、青年団を国家で管理するために生まれたという側面のほうが強い。

1939年(昭和14年)に大日本連合青年団は大日本青年団と組織を改め、名実ともに国による指導統制体となる。木炭増産報国運動や援農運動など盛んになりつつあった勤労動員の核にもなった。1940年(昭和15年)に各地で行われた紀元二千六百年の青年団動員大会では、動員令状を受けた団員が、団服、戦闘帽、巻脚絆で身を固めて中隊単位で行動するといった例も見られるなど統制色は強まった。

さらに1941年(昭和16年)1月16日に大日本青年団と大日本連合女子青年団は、大日本少年団連盟、帝国少年団協会とともに解体統合され、大日本青少年団として再編された。大日本青少年団は翌年の1942年(昭和17年)には閣議決定に基づき、大政翼賛会の傘下に入ることとなる。そして1945年(昭和20年)には大政翼賛会の解散に伴い大日本青少年団も解散され、国民義勇隊として再編される。


戦時中、鈴木孝雄は靖国神社の宮司でありながら、1942年8月より大日本青少年団長も兼務する。
それは、大日本青少年団が閣議決定に基づき、大政翼賛会の傘下に入ることになった年もである。

大政翼賛会
1940年10月近衛文麿とその側近によって組織された官製国民統制組織。
各政党は解党してこれに参加。
総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任、行政補助的役割を果たした。
太平洋戦争の進展とともに国民統制力を強めた。
大日本産業報国会、大日本婦人会、部落会、町内会、隣組などを指揮下に入れ、国民すべてが戦時体制に組み込まれた。










# by yumimi61 | 2019-05-30 17:25

神代木

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650という数字が見えるので、1983年(昭和58年)に設置されたものだと思われる。
当時の内閣総理大臣である中曽根康弘の書による650年記念碑や永田医院寄贈による国旗掲揚台が建設された年と同じである。

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こちらは挙兵666年の年、つまり1999年に設置されたもの。
この時に覆屋も新築したと書いてある。
1999年というのは、前記事にも書いたように、「国旗及び国歌に関する法律」が公布・即日施行(1999年8月13日)された年である。
666という数字はキリスト教徒が恐れる数字。



生品神社、あるいは神社の「神代木」がどのような意味合いで使っている言葉かは定かではないが、一般的な「神代木(じんだいぼく)」は「埋もれ木」とも言う。

http://www.officett.com/yamabicraft/jindaiboku.html
地方によっては、「埋もれ木」「寝木」「古代木」と呼んでいます。
長年地中に埋もれていた木が、地面に出ると神代と名付けられ、けやきであれば、神代けやきと呼ばれます。
数千年も地中に埋もれているため、老化作用で変色して、黒神代木・緑神代木・茶神代木などがあり、それぞれの色合いを出しています。


「埋もれ木」大辞林 第三版の解説
① 長く水中や土中に埋もれた木が完全には炭化せず、まだ木質を残しているもの。黒褐色または緑褐色で木目が美しく堅いため細工物の材料とする。神代木。
② 世間から顧みられない不遇の身の上。

映画にも『埋もれ木』がある。
2005年に全国公開された日本映画。監督は小栗康平。第58回カンヌ国際映画祭で特別上映され、国内外で注目された。また、主演の女子高生三人(夏蓮、松川リン、榎木麻衣)を7000人の一般公募者の中から選出したことで話題になった。
山に近い小さな町。三人の女子高生が、短い物語を作り、それをリレーして遊ぶことを思いつく。次々と紡がれる物語は、未来へと向かう夢―。


小栗康平監督は群馬県の出身。
先日『泥の河』のことを書いたが、これも小栗康平監督によって映画化され、1981年に公開された。
群馬県が製作した映画『眠る男』の監督でもある。

『眠る男』は、1996年に公開された日本映画。群馬県が製作に関与しており、地方自治体初の映画製作であると話題になった。ロケは中之条町でおこなわれている






# by yumimi61 | 2019-05-28 16:54

毎日

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写真は今月の平日に撮影したもの。
国指定史跡と書いてある駐車場の看板は以前よりあった。
国指定史跡に指定されたのは1934年(昭和9年)のこと。
それは、新田義貞挙兵600年記念で徳川家達書の石碑と記念碑建設委員長の中島知久平の碑が建てられた翌年のことである。
それは、国際連盟を脱退し戦争に向かっていた1933年(昭和8年)の翌年のことである。
指定されたのは神社の建物ではなく境内である。
「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として国史跡に指定された。
さらに2000年(平成12年)にも面積を広げて「新田荘遺跡 生品神社境内」として新たに指定された。
2000年は「国旗及び国歌に関する法律」が施行された翌年にあたる。
「国旗及び国歌に関する法律」は 1999年8月13日に公布・即日施行された。
8月13日という日付は、1985年にフラッグ・キャリアだった日本航空の123便が墜落した8月12日の翌日にあたる。



昨日のタイトル『反旗』で思い出すのは、とある高校の国旗掲揚問題。
過去記事より。

長男が通っている高校には日の丸が掲揚してあります。
上記のとおり普段目にすることが少ないため、三者面談で学校を訪れた際にそれに気づいて珍しいなぁと思い、長男に「国旗いつも揚がっているの?」と尋ねたところ、「うん」という返事でした。
それが1年前か2年前のことでした。
この冬、三者面談で学校を訪れると、相変わらず日の丸が掲揚してありました。
私はまた長男に訊きました。
「国旗毎日揚がっているの?」
「そうだよ。たぶん下りたことない。揚げっ放し。震災の時にも半旗とかじゃなく揚げてあったんで、非常識だと問題にされて新聞に書かれたらしい。それも毎日新聞に」
「それも毎日新聞にって、どういう意味?」
「いやほら一応全国紙じゃない。載ったのは地方版のところらしいけど」
「それでも下ろさなかったの?」
「うん」
「ひょっとして下ろす紐が切れちゃったとか?」
「あーそうかもね」
「でも何でそもそも日の丸を揚げたのかな?校旗とか県旗(県立高校だから)じゃなくて」
「そうだね」
「でも考えようによっては風雪に耐える日本という感じもしなくもないけどね」

西郷隆盛が妹の息子(市来政直)のアメリカ留学に際して贈ったと言われる漢詩。


一貫唯唯諾  一貫 唯々(いい)として諾(たく)す。
従来鉄石肝  従来 鉄石の肝(かん)。
貧居生傑士  貧居(ひんきょ)は傑士(けっし)を生じ、
勲業顕多難  勲業(くんぎょう)は多難に顕(あらは)る。
耐雪梅花麗  雪に耐へて梅花 麗しく
経霜紅葉丹  霜を経て楓葉(ふうよう)丹(あか)し。
如能識天意  如(も)し能(よ)く天意(てんい)を識(し)らば、
豈敢自謀安  豈(あに)敢へて自(みずか)ら安(やす)きを謀(はか)らんや。

引き受けたと心に誓ったことは、どこまでも、ただひたむきにやり通さなければならない。
鉄の如く、石の如く守ってきた決意は、 いつまでもそれを変えてはならない。
貧しい生活をしてきた人の中から優れた人物が生まれ、
すばらしい事業というものは多くの困難を経て成し遂げられる。
梅の花は雪に耐えて麗しく咲き、
楓の葉は霜を経て真赤に紅葉する。
もしこのことが理解できたのなら、
楽な生き方を選ぶことなど、どうして出来ようか。


※西郷隆盛は明治維新の立役者の1人でありながら、新政府樹立後に政府に反旗を翻したため、靖国神社には祀られていない。

※「揚げっ放し」という長男の言葉は、24時間毎日揚げっ放しなのか、単に毎日という意味なのかは定かではありません。前者だとすると、長男が登校する時間より早くに揚げていて、下校時間後に下げていたということも十分考えられます。


日本の国旗と国歌が法的に制定されたのは上記のとおり1999年のこと。
戦争時に盛んに利用された国旗であるが、戦後、天皇も天皇制も維持したまま、日の丸を封印することも変更することもなく、国旗としての法的規定も設けずに使用し続けたことが、今日でも国旗に抵抗感を感じる人を生じさせた要因だろう。

しかし一方、戦後の日本国憲法では国の主権者は国民となった。
土日以外の休日は「国民の祝日」であり旗日として受け入れられた。
1908年(明治41年)から1947年(昭和22年)までは、祝日ではなく祭日であり、祭日とは皇室祭祀令に基づいて決められていたもので、皇室で儀式や祭典が行われる日だった。それが廃止され、休日は国民のものになった。
それを民衆は祝ったのだ。

日の丸は本来、国家的慶事や国民の祝日の際に祝意を表すため揚げるものであった。
今では官公庁や企業などが毎日欠かさず国旗を揚げているが、かつて民家に掲げられた国旗というのは「国民の祝日」に出されたもので、毎日掲げておくなんてことはしなかった。
むしろ祝意を表す国旗をどうして毎日揚げているんだろうか。
「ここは日本ですよ」という単なる目印のためなのか。
誰が何のためにいつ掲揚するのか、それによって国旗の意味合いは変わってくる。
政府機関でもない県立高校が県旗でも校旗でもない国旗を毎日揚げる必要が果たしてあるんだろうか。
「国旗を揚げよ」と誰かから命令されるとするならば、それは何故なのか。

祝意のためではなく、目印のために揚げている国旗ならば、何があったって旗を下ろす必要はない。
祝意を表して揚げている旗ならば、喪中や忌中には揚げるべきではないだろう。

日本には半旗にしなければならない規定は未だない。
国旗と国歌が法律で制定されたとはいえ、具体的なことは何も決められていない。
誰が国旗を揚げるべきで、その目的は何なのかも提示されていないので、半旗の規定も制定しようもない。
これが国旗で、これが国歌です、と決めただけのこと。

半旗(英語: Half-staff, Half-mast)とは、弔意を表すために旗竿の半分程度の位置に掲げる旗のことである。
かつて船上においては、国旗に喪章を付けて弔意を示す弔旗という慣習があった。しかし、洋上では視認しにくいことから、国旗を半下する方法に変化したものである
日本では、国家において半旗を掲げるべき期間を明文化した規定は存在しない。内閣の決定、あるいは各省庁の申し合わせによりその都度各省庁が通達などを発出し国の機関において実施、関係機関に協力を依頼することもある。総理官邸及び外務省における慣行として、諸外国の国家元首死去に伴う国葬の日に、半旗を掲揚している。



日本という国の主権者は日本国民である。戦後はそう憲法に明記された。
では象徴の天皇、皇族は日本国民だろうか?
日本国民であるならば、彼らもまた主権者の1人であるということになる。
私達と同じ主権者の1人ということならば、法的に特別な地位が与えられていることは、平等の精神に反するし、憲法違反にもなりそうだ。。
天皇を含め皇族は戸籍を持っていない。名字も存在しない。
皇室は皇統譜である。
天皇及び皇族は戸籍法の適用を受けず、さらに「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は、当分の間、停止する。」と公職選挙法などに定められており、選挙権及び被選挙権も有していない。
当分の間というのは、どういうことなのか。
主権が国民にある日本において、日本国民の条件に該当しないとしたら、日本国民としての権利も義務も持っていないということになり、考えようによっては一段低く見える。この意味においては陛下という呼称もおかしなものではない。
でも範囲外にあるということは、主権者である日本国民を超越しているという考え方も出来る。
この意味からすると、では主権とは平等とは憲法とは何か、という壁にぶち当たる。


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# by yumimi61 | 2019-05-27 14:52

反旗

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新田公挙兵600年記念碑 公爵德川家達書


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新田公挙兵600年記念碑建設委員長 中島知久平


挙兵600年は昭和8年(1933年)である。

1931年9月18日満洲事変が勃発。
満洲事変は柳条湖事件に端を発した日本と中国の軍事的な衝突。
柳条湖事件
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日(金曜日)午後10時20分ころ、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された。
まもなく、関東軍(中国関東州に駐在していた日本の軍隊)より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍(中国の国民革命軍の東北辺防軍)の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった。


日本は柳条湖事件以後、中国への侵略を開始、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権「満州国」を建国した。
これに対して中国政府は国際連盟に「満州国」建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。
国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣し、現地および日本を調査し、日本の侵略と認定し日本軍に対しては満州からの撤退を勧告。
1933年2月、国際連盟総会にてリットン調査団報告書を審議。日本の代表松岡洋右は「満州国」は自主的に独立した国家であると主張したが、日本以外の全ての国(42か国)が審議に賛成し可決する。
これを受けて日本政府は1933年3月、国際連盟脱退を通告した。
 
秋にはドイツが国際連盟を脱退、常任理事国2カ国が相次いで脱退するという事態となり、集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなった。同時に脱退した2国は、全体主義国家として、イギリス・フランス・アメリカとの対立を強め提携に向かうこととになる。

この不穏な時期に目を付けられたのが生品神社だった。
折しもそれは新田義貞が鎌倉幕府を倒すために挙兵した1333年から600年後のことであった。

昭和8年5月8日は新田義貞公挙兵600年に相當するを以て記念碑を建設し祭典を執行するに當り事 天聴に達し畏くも祭粢料御下賜の御沙汰を拝し光栄ある式典を終れり爰に御沙汰書を刻し後世に傳ふ云爾
 昭和8年11月
  新田公挙兵600年記念碑建設委員長 中島知久平

「天聴に達し畏くも祭粢料御下賜の御沙汰」、つまり天皇が祭粢料を出すという沙汰があったということ。

祭粢料
神にささげる供物料として、死者の出た家に皇室から贈られた金銭。一般の香典にあたる。
明治時代に栄典制度が整備されると、勲一等(現在(2003年以降)の旭日大綬章)以上ならびに文化勲章受章者の葬儀には天皇が金員を下賜することが規定された。なお、戦前は「祭粢料」のみならず勅使が派遣され、幣帛が下賜されるほか、軍隊から儀仗兵の派遣も行われた。

でも生品神社に新田義貞が祀られているわけではないのだ。新田義貞の産土神が生品神社であり、挙兵の地であった。
新田義貞は結果的には後醍醐天皇に付いて鎌倉幕府を倒したことになるが、挙兵の動機は親政(天皇自ら政治を行う)にあったわけではない。
しかも足利尊氏も天皇を擁立し、南北朝と2人の天皇がいた時代がある。
さらに言えば、鎌倉幕府将軍も足利尊氏も新田義貞も徳川家康もみな源氏一族である。
彼らは対外的に戦ったわけではない。

德川家達
1863年8月24日(文久3年7月11日) - 1940年(昭和15年)6月5日
幼名は亀之助。
江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生した。慶頼は第14代将軍・徳川家茂の将軍後見職であり幕府の要職にあった
大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見した。
1868年11月、東京城(皇居)において明治天皇に拝謁。11月18日、従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。
1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。


徳川幕府及び日本最後の征夷大将軍となった徳川15代将軍・徳川慶喜に代わって、徳川本家の相続を明治新政府から許可された人物。
それは僅か4歳の時だった。
世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。


中島知久平
群馬県太田市(旧:新田郡尾島村)出身で、中島飛行機の創業者。
中島飛行機
1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。通称は中島(なかじま)。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。

SUBARU(富士重工)の前身企業。


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新田一門史出版記念建設 新田義貞公並一門挙兵地 内閣総理大臣福田赳夫書

福田赳夫も群馬県出身。
『新田一門史』の出版記念で建設した碑ということだが、『新田一門史』が出版されたのは1975年。
藪塚喜声造という地元の人によって書かれた史であるようだ。
福田赳夫が内閣総理大臣だった期間は、1976年12月24日 - 1978年12月7日。従って石碑もこの間に建設されたということになろう。

1977年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、中国へのODA開始や積極的な東南アジアへの開発援助を行う。その姿勢はアジア開発銀行の設立やフィリピンのマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。

国家プロジェクトでありながらも、1971年の代執行以来、三里塚闘争などによりほとんど進展がなかった成田空港問題について、「あらゆる困難を乗り越え開港を実現せよ」と指示。東山事件・芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件や成田空港管制塔占拠事件で犠牲者を出しつつも、1978年(昭和53年)5月20日の新東京国際空港(現・成田国際空港)開港にこぎつけた。


テロリストの解放条件を呑んだのは三木内閣に続いて2回目だった。
三木首相は1975年8月15日に私的参拝と言って靖国神社を参拝し、靖国神社の問題をあぶり出し、結果的に天皇の靖国神社への行幸を遠ざけることになった首相でもある。(詳細は「続続続・靖国神社」、「続続続続続・靖国神社」に )

1975年8月4日に日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員ら約50名を人質として、日本国内の刑務所に収監中の囚人解放を要求したテロ事件。当時の三木内閣がテロリストの要求に屈したため、日本赤軍はさらに同様な事件を起こした。





# by yumimi61 | 2019-05-26 15:30

さしあたり

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・少し前に中村交差点にて、「このランプがついているときは通報してください」の表示とランプが後方に設置してある観光バスが走っており、後ろを走っていた私は必要以上に緊張してしまった。


・こちらは普通車の話。最近車の後方に「ドライブレコーダーで録画中」とか「ドライブレコーダー設置」というステッカーを貼っている車を見かけます。
家の防犯にセコムやアルソックのステッカーだけを貼る方法があるという話を聞いたことがあるが、その手のものなのか、そうでないのか。
その時も前の車の後方部にステッカーが貼ってあった。
信号待ちの時に見ると、「この文が読める場合には近づきすぎです」と書いてあった。
うわぁぁぁ読めてしまった・・・・
と一瞬焦るも、信号待ちであることに気付き、いいんだよね? 信号待ちの時は?




# by yumimi61 | 2019-05-26 11:21

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靖国神社 昭和20年秋ー日本の対外戦争における戦死者を「靖国の神」として祀り、軍国主義の精神的な支柱であった靖国神社に、GHQは「オフミット(立ち入り禁止)」の看板を立てた。まさに敗戦を象徴する写真。 木村伊兵衛


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群馬県太田市にある生品神社の前にある新田義貞銅像から神社の入り口の鳥居を眺めたところ。
この写真の注目点はずばり国旗である。
実はGWの時に偶然神社の横の道を通ったら、鳥居横のポールに鯉のぼりが揚げられていたのである。一瞬目を疑った。
私は初めて見る光景だった。
国旗掲揚台(ポール)は元々あったが国旗が掲げられているのすら未だかつて見たことがなかった。お正月でも祭事の時でも。
そこでGW後に再び通ってみたら今度は国旗が掲げられていた。これにも正直驚いた。
いったいいつから国旗掲揚するようになったんだろうか。
昨年はなかったように思ったのでネットの写真をあたってみたが、やっぱりなかったようだ。
今年のお正月もなかったような気がする。
となれば新元号に移行したときからだろうか。


写真に写っている新田義貞像は2012年に神社前の駐車場に建てられた新しい銅像である。
境内にあった新田義貞像は2010年2月に忽然と姿を消した。どうも盗まれてしまったようなのである。
生品神社では毎年5月8日に例祭として鏑矢祭が行なわれているが、私は2009年の鏑矢祭を見に行った。
その時の写真を載せています。→2009年5月8日『弓矢』
この年の鏑矢祭が古い方の銅像が存在した最後の鏑矢祭だったことになる。
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 ↓台座の後ろ側に書いてある説明
昭和16年3月10日に職員(田島宗仁外23名)と児童(千木良欽司、樋口トメ外1154名)の勤労作業及び廃品回収作業の収益金360円をもって、新田公の偉烈を偲び建設された銅像を挙兵650年を記念してこの地に安置する。
 昭和58年5月吉日
  新田義貞公挙兵650年祭奉賛会
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昭和16年というのは1941年。
1941年12月8日に日本がアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発した。
世界的には第二次世界大戦ともいう。
日本は1937年から中国と戦争をしていたので、昭和16年(1941年)3月にもすでに戦争の影が落ちていただろう。
その時に教師と児童が時の政権を倒した新田義貞を偲んだということはどういうことか。

銅像は1941年に作られたものであるが、その銅像を生品神社に安置したのが昭和58年5月。昭和58年は1983年である。
それは群馬県出身の中曽根政権の時だった。
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新田義貞公挙兵 650年記念
 内閣総理大臣 中曽根康弘書



国旗掲揚台が作られたのも同じく昭和58年(1983年)5月。
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日本航空123便が群馬県上野村で墜落したのも中曽根政権の時だった。
これは1985年8月のことである。520名もの命が失われた。
国旗掲揚台に寄贈者として記されている永田清は医師であり、日航機墜落の時には警察医として検死に携わったという。
その永田医師も数年前に亡くなり、永田医院は閉院した。







# by yumimi61 | 2019-05-24 17:10

ペコペコ

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ペコちゃん人形のもつミルキーの箱を狙う戦災孤児 銀座 昭和25年ー不二家がこの年にはじめて店頭に飾った人形は、日劇の大道具スタッフの手によってつくられた紙の張り子だった。触れるとゆらゆら揺れる頭と、ぺろりと舌を出す表情で一躍人気者になった。 田沼武能


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今年の5月と6月は店頭ペコちゃんはゴルフウェアです。
でもこう言ったらあれだけど正直不二家にもペコちゃんにもゴルフのイメージはあまりないなぁ。
ひょっとしてトランプ大統領来日でのゴルフ外交にちなんでのゴルフウエア?



不二家ホームページの商品に関するご質問より

Q「ミルキー」の袋に「ミルキーはママの味」とありますが、どういう意味ですか?

A ミルキーは北海道の厳選されたしぼりたてのミルクから作られた濃厚なれん乳を使って作られています。
このお母さんの愛情や母乳のなつかしさをイメージしたキャッチフレーズで、発売当時(1951年(昭和26年))から親しまれています。



ミルキーの都市伝説

ペコちゃんには、モデルになった少女がいると言われています。
そのモデルというのが、戦時中の少女。

その少女は母親と二人で暮らしていて、時代が時代だけに貧しい暮らしをしていたそう。
そして、そのひもじさから娘を救うため、 母親は自分の腕を切り落とし、娘に食べさせたんだとか。
更には、その味が忘れられず、その少女は母親を殺して食べてしまう・・
こういった都市伝説が語られています。
それに付随して、舌を出している様は、 口の周りに付いた血を舐めとっていると言われています。

で、この話には割と信ぴょう性があり、この話を聞いた不二家の社長が、そういった少女が生まれないような時代にしたい、という思いがあり、ペコちゃんをマスコットにしたのだとか。
つまり、裏設定的な都市伝説というよりも、そういう少女を生み出さないためのある種の象徴や願いとして、ペコちゃんが生まれた訳ですね。

そして、これに関連して、もう一つ都市伝説があります。
上述したように、不二家といえば、ミルキーが一番有名なお菓子ですよね。
そのミルキーに、こんなキャッチコピーがあるのを知っていますか?
それが・・・
「ミルキーはママの味」 

ここまでの文脈を考えてもらったら分かると思いますが、ママの味というのを懐かしい味だとなんとなく思っていたけど、 本当の意味でのママの味なんじゃないかと。
そういう風な解釈も出来ますよね。

そして、このミルキーというお菓子の名前ですが、これを反対から読むと・・・
「キルミー」=私を殺して
という言葉になります。

これは自分の腕を切り落として娘に食べさせた母親の、私を殺して食べなさいという意味を暗に込めているのでは?と言われています。
日本を代表するお菓子メーカーにしては、なかなかおぞましい都市伝説ですよね。




↓これは私のガムの夢(?)のメモ
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# by yumimi61 | 2019-05-23 16:42

コーナー

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街で見かけた修理例


ひとつすごく気になるのは、このパンダちゃんはいったい何をしているところなのかという点。








# by yumimi61 | 2019-05-21 16:24

ディスプレイ

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・それほど大きくも、それほど深くもない傷だけれど、この有様。
見ようによっては芸術作品にも見えなくないですか。

・子供が望遠鏡を持って車を降りた途端にガツンと車の側面にぶつけてしまうものの、男性が優しく「大丈夫、気にするな」と言う自動車保険のCMを見たことがあるでしょうか。
あのCMが結構話題になります。
まず話題になるのは、すぐにあんなに優しく言えるかどうかということです。
多くの人が無理っぽいです(笑)。
そして次に保険を使って修理するかどうかが議論されます。
今は等級プロテクターもなくなったので、必然的に保険を使えば等級が下がります。
等級が下がれば翌年からの保険料がアップするので、修理代金と保険料アップ分を比較する必要があり、それをすると結構保険を使った方が損という結果が多くなるようです。
最後に、男性と少年、父子の設定かと思っていませんでしたか?どうも違うらしいです。「あんな父親いね~」とお嘆き?お怒り?くだを巻いた?世のお父さん方、安心してください!?




# by yumimi61 | 2019-05-20 17:53

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・この前のテレビはSONYでしたよ!
子供が電源をオンオフしすぎたせいか故障しました。テレビって基本置いておくだけのもので、どこかにぶつけるとか落とすとかっていうことはないけれど、故障するんですよね。

・一昔前(二昔前?)、電機メーカーでは従業員が結婚した後には家庭を訪問しての家電チェックがあったらしい。ちゃんと自社の製品を使っているかのチェックです。

・某自動車メーカーに派遣で仕事に行った時、他社車で乗り付け、守衛の方に「他社車だね~」と言われるも、「まあそういうことなら仕方ないか」と通過させてもらった。

・その時から、自動車会社の従業員になると自動車のメーカーの選択の余地がなくなるのかぁと思っていたが、わりと最近、会社から離れた所に他社車に乗っている人専用の従業員駐車場があると聞いた。昔からそうだったのか、時代の波なのか。

・最近カーナビの調子が悪い。使っていると突然画面が真っ黒になることがある。そうなるとタッチパネルはもちろんのこと、電源もメニュー選択ボタンも音量調節も何も効かない。
だけど画面が消失する直前に流れていた音楽なりラジオの音声は消えることなくそのまま流れ続けている。
今のところ、エンジンを切って再びかければ直る。

・一番早く壊れるのがカーナビだなんて・・と思っている私だが、カーナビは早ければ3年以内に壊れるとか。
カーナビは精密機械なので自動車内の環境がそもそもあまり適さないらしい。
もちろん私はそんな乱暴な運転をしているわけではないし、オフロードで振動を与えまくっているということでもないです。

・近年ではカーナビに限らず自動車自体がコンピュータ制御となっていて電装システム(電気系統)が複雑化している。
近年の自動車の故障は電気系統や電装部品の故障や不備が多いのだとか。
電気系の専門知識や技術が生産段階のみならず整備士などにもこれまで以上に求められてくるが、その切り替えがまだ十分とは言えないようだ。
仕事にしている環境でもそうだから、自己判断なら尚更。
もちろん玄人はだしの人もいると思うけれど、自分で装備したり修理したりすることは、ひとつ間違うと最悪車両火災に繋がってしまうとのこと(どこかに派手に衝突しなくても発火することがある)。

・ちょっと早かったね。

・私の実家の辺りはテレビブースターがないとテレビを観られない(映らない)。
ブースターとは放送電波を増幅する機器で、電波が届きにくい場所で使われます。
私が今住んでいる辺りは平地なのだけれど、やはり電波状況があまり良くなく、テレビを観るにはブースターが必要。電波状況が良くないのは立ち並ぶ高圧鉄塔と送電線の影響らしい。
ブースターは自己負担で買わなければならないものであり、受信状況が悪い地域だからといってNHK受信料が割引になるわけでもない。

・私の実家の辺りはワンセグも観ることが出来ない。携帯(スマホ)でもカーナビでもダメである。
実家に帰る際にカーナビでテレビを付けていた場合、問題なく観られるのは途中まで。以降スムーズにはいかないが時々電波を受信できるのがNHK前橋で、同じNHKでもNHK東京にチャンネルを合わせるとダメである。

・ところが同じくブースター設置の環境にある今住んでいる辺りでは、カーナビのワンセグはNHK民放関係なく概ね問題なく映る。
私の今の携帯(スマホ)にはワンセグが搭載されていないが、以前使っていた携帯には搭載されていた。しかしこの近辺ではまずまともには観られなかった。

・たとえ観たくても観られない環境があるくらいなので、ワンセグを搭載しているからといって受信料を払えというのは傲慢ですよ、NHKさん。

・花はアルストロメリアとヤグルマギク。





# by yumimi61 | 2019-05-19 10:57

テレビ

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皇太子ご成婚式の日の街の光景 銀座 昭和34年4月10日ー民間からのはじめての皇太子妃に日本中が沸き、祝賀行事が相次いだ。ライオンビアホールの店頭にもお二人の写真が飾られた。その前では腹を空かした廃品回収の男がウィンドウ内の食べ物のサンプルを見つめる。 田沼武能



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私がオバさんになってもディスコに連れてくの♪ ←森高アンニュイに歌う

そう思ってた。 ←森高セリフ
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↑森高千里さんが出演している化粧品のCM。
私は最初、映像を見ずに音声だけを聞いていた。
私がオバさんになってもディスコに連れていくと思っていたのに(あの頃あなたはそう言ってたのに)、実際は連れていかなかったね、というアンニュイさなのかと思った。
その後、映像込みのCMをみたら、「そう思ってた」の前に「若さこそ、美しさ」というテロップが出ていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私がオバさんになってもディスコに連れてくの♪ ←森高アンニュイに歌う

(若さこそ、美しさ) ←テロップのみで音声なし
そう思ってた。 ←森高セリフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ディスコは死語だし(もうないし)、当時の「あなた」と海にしてもクラブにしてもドライブにしても一緒に行ったらそれはそれで問題だから、もう行けないのよ・・というアンニュイさ!?

ーーーーーーー
女ざかりは
19だと
誰が言ったのよ。
ーーーーーーーー
紀子さん?


上の写真は昭和34年のことと書いてある。元号から今日までを計算するのは難しいので、西暦に直すと1959年のことだから、今年で60年。
ということは今年がダイヤモンド婚式だったのかぁ。
60年も経てばそりゃあ見た目も変わりますわすよね。

天皇に何を求めるかにもよると思うけれど、「象徴」とか「徳のある人物」だとしたら、やっぱりそれなりにお年を召していたほうがよい。
若さというものはそれだけで傲慢なところがあるから。
そういう内面的なことだけでなく、見た目の印象も加齢って決してマイナスにならないと思う。特に男性の場合は。
同じ人の若い時とそれなりに年をとった時の見た目を比べたら、年をとった時のほうが安心感を感じる。若い時はなんとなく悪巧みしてそうな、傲慢そうな、意地悪そうな、そんな感じがしてしまう。もちろん個人的な印象だけれども、私は結構誰に対してもそう感じてしまう。

新天皇は昭和35年2月23日生まれなので(ご成婚翌月には受胎した計算になる)、今年59歳。
公務員や会社員ならば来年の誕生日には定年を迎えるといった御年だが、前天皇の年齢の印象が強いせいか若くていまひとつしっくりこない。
でも次か次の代には遅くても40代、早ければ30代(20代だって可能性としては皆無ではない)の天皇が誕生することになると気が付き、軽く慄いている。


テレビの歴史と普及

テレビの歴史はそう古いものではない。

・1937年 イギリスのBBCが世界初の白黒テレビの放送(走査線40本)を開始
・1940~1941年 NTSC(National Television System Committee)が白黒テレビの標準方式を走査線525本、60フィールド方式に決定し、アメリカで白黒テレビの放送が開始された

こうして白黒テレビが実用化された。一方で1939年には第二次世界大戦が勃発したためカラーテレビ研究は中断を余儀なくされた。


白黒テレビが実用化されたとあるが、白黒テレビですら普及したのはいずれの国でも第二次世界大戦後である。

日本では1953年2月1日にNHK東京で本放送が開始され、同年8月28日には、民間のテレビ放送会社の日本テレビが開局した。当初は非常に高価なものであったため、日本テレビは街頭テレビを大量に設置して、CM収入によるビジネスモデルを成立させた。

日本テレビは開局当時からコマーシャルを収入源としており、スポンサーを獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。そのため、当時の日本テレビ社長・正力松太郎は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日本テレビが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。

その後、1950年代後半から1960年代前半にかけて一般家庭に普及していったが(特に1959年の皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀は、普及の大きなきっかけとなった)、1960年代後半からカラー化の波に押され、1972年にはNHKのカラー契約数が普通契約(白黒テレビ用契約)数を上回り、1977年9月30日のNHK教育での放送を最後に、日本から原則として白黒放送が廃止されカラー放送に完全移行した。


上の白黒テレビの説明文に「1959年の皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀は、普及の大きなきっかけとなった」とあるが、実はこれはそうでもない。

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白黒テレビのグラフで紫丸を付けたのがご成婚の1959年であり、前年に比べてそこまで大きく伸びてはいない。1960年以降の伸びのほうが遥かに大きい。

白黒テレビの普及率が80%を超えたのは1963年。
洗濯機の普及率が80%を超えたのは1966年。
冷蔵庫の普及率が80%を超えたのは1967年。
掃除機が普及率が80%を超えたのは1974年。
カラーテレビの普及率が80%を超えたのも1974年。

もっともこの統計は都市の非農家における普及率だということなので、これで日本全体の傾向を語ることは到底できない。
地方の田舎では大家族で人手があり電気製品を急いで必要としなかったかもしれないし、逆に不便な地方の大家族だからこそ電気製品が重宝したかもしれない。
海外旅行の普及も地方の農家から始まったとも言われるくらいで、金銭的な余裕があったのはむしろ地方の農家かもしれないが、地方や農家では世帯差が大きく、統計的にはまとまった指標になりにくいという側面もあると考えられる。
都市の非農家(核家族のサラリーマン一家が多数)のほうが均一的で比較しやすい。

家電の大量生産やコストダウンが可能となった背景の1つは、鉄鋼の生産量が1960年代に急速に伸びたからだという。
それにしてもテレビの普及率が他の家電製品よりも早いことに驚かされる。
主婦の労働を軽減することよりも娯楽が優先されたということになる。
このことは、ある程度コマーシャルというものに効果があるだろうということを予想させる。
人々が最優先するのは「実」ではないということであり、生活感とか経済観念とか労働の対価といったものは曖昧で、それはすなわち、やりようによっては人々は流れてくれるということである。


テレビ(14型
昭和29年(1954) 12万5千円
昭和34年(1959) 6万7干500円
昭和36年(1961) 5万6千円

洗濯機
昭和29年(1954)2万8000円
昭和34年(1959)2万6500円
昭和36年(1961) 2万3500円  

冷蔵庫
昭和36年(1961)6万2000円

サラリーマン月給
昭34年(1959年)1万7354円
昭36年(1961年)2万21円


サラリーマン月給はフルタイム労働者の平均。時間外勤務手当や家族手当などの手当も含まれる。手取額ではなく税金や社会保険料などの控除前の額。
昭36年(1961年)のテレビと冷蔵庫の価格は月給のおよそ3ヶ月分。洗濯機は月給の1ヶ月分くらい。
2000年以降のサラリーマンの平均月給は32~33万円。テレビの価格が3ヶ月分だとすると90~100万円くらいになる。
1960年代、それでもテレビの普及率は急速に伸びていった。





# by yumimi61 | 2019-05-17 15:35

上陸

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# by yumimi61 | 2019-05-16 18:40

1964五輪

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オリンピック選手団到着 羽田空港 昭和39年ー第18回オリンピックがアジアで初めて、東京で開催された。参加国数大会史上最高の94ヵ国、参加選手5558人。羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールは開会式前1ヶ月を切って、この年9月17日に開通した。 熊切圭介


これ以上の説明はないけれど、「WELCOME to the TOKYO OLYMPICS」の下にアメリカ国旗とオリンピック旗と日本国旗があり、まるでアメリカと日本がホストのようである。
だから一瞬まだ占領中だったっけ?と思ったが、1952年に主権は回復している。
そもそもどうしてアメリカ国旗のサイズが日本国旗よりもオリンピック旗よりも大きいのだろうか?
写真はアメリカ選手団が到着した時のもので、お客様であるから大々的に歓迎の意を示したということ?

ところで今突然思いついたのだけれど・・・
「ほしはいつつのてんでえがく」(前に私は夢で聞いた言葉です)
 ほしは五つの転(ten)で描く。 五輪→十輪 蹂躙?
 ほしは五つの典で描く。 五輪(オリンピック)という祭典?
 ほしは五つの天で描く。 
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安川第五郎~オリンピックと原子力~

1964年東京オリンピックの組織委員会会長は、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力発電初代社長であった安川第五郎である。

安川第五郎
1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日
日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。玄洋社社員。

安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれる。1906年(明治39年)に福岡県立中学修猷館を卒業する。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館で柔道を学ぶ。第一高等学校を経て、1912年7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年間勤務する。

米国ウェスティングハウスで研修の後、1915年(大正4年)7月に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設し、モーター・電動機に製品を絞り込んで発展して1936年(昭和11年)に社長に就任する。戦時中は大日本産業報国会理事となり、第二次世界大戦後は1946年(昭和21年)2月に石炭庁長官に就任するが、同年GHQにより公職追放を受けた。

1949年(昭和24年)に安川電機会長に復帰し、1955年(昭和30年)に日銀政策委員、1956年(昭和31年)6月に日本原子力研究所初代理事長、1957年(昭和32年)に日本原子力発電初代社長、1960年(昭和35年)に九州電力会長、1961年(昭和36年)に九州経済連合会初代会長、1963年(昭和38年)に東京オリンピック組織委員会会長、にそれぞれ就く。

1970年(昭和45年)に電力・原子力事業への貢献と1964年東京オリンピック運営に尽力した功績により勲一等旭日大綬章を授与される。


SankeiBiz 2014年5月21日
第五郎は財界随一の「原子力通」となった。31年1月、政府は原子力政策を担う原子力委員会を発足させ、同年6月には特殊法人日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立。第五郎に初代理事長就任を要請した。
 同研究所は茨城県東海村に沸騰水型実験炉(出力50キロワット)を建設し、昭和32年8月27日午前5時23分に臨界を達成、日本に初めて「原子の火」が灯った。

 「この寒村にて数多くの困難を乗り越え、この成果に到達した関係者の苦労と努力に深い感謝と尊敬の念を新たにしております…」
 同年9月18日に開かれた祝賀会で第五郎は約700人の出席者を前に笑顔でこう語り、頭を下げた。

 2カ月後の11月には商業炉の建設・発電を担う日本原子力発電株式会社(日本原電)が設立された。第五郎は研究所理事長を辞任し、初代社長に就任した。各電力会社社員の寄り合い所帯となる日本原電で組織をまとめることができるのは、無私無欲の第五郎しかいなかったのだ。

 ある高名な経済評論家は「バカ者でなければこんな役目は引き受けない」と辛辣に批判したが、第五郎は「1人くらいバカがいなくては新事業は興せない」と開き直った。ちなみに、日本初の商業炉である東海原発建造に際し、安川電機製の電気機械は1台も採用しなかった。

 昭和51年6月25日、第五郎は東京・田園調布の自宅で静かに息を引き取った。享年90。葬儀委員長を務めた第五郎の甥で安川電機会長の安川寛(1903~1999)は弔辞でこう述べた。
 「私たちは、あなたが私心を捨てて尽くされた誠(まこと)が天に通じたことを心から喜び、安川電機を超えて、そびえる大樹を創業者に仰ぐことにひそかな誇りを抱いておりました…」


ウェスティングハウスという会社はアメリカの電機メーカーだった。
電機メーカーだったが放送黎明期に放送局を幾つか開局し、CBS放送(コロンビア放送)のオーナーになり、やがて巨大なメディア会社となり、製造部門は売り払ってしまっていた。その中でも唯一残っていた生産(製造)部門が原子力事業だったのだ。
1950年代以降は加圧水型原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めたことで知られた。
東芝が巨額損失を出すことになったのはウェスティングハウス(原子力事業)の買収がきっかけである。
私はウェスティングハウスについても以前書いたことがある。こちらこちら


玄洋社

安川第五郎は玄洋社のメンバーでもあった。

玄洋社は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体とも。

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。

玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。
他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。



ケネディ大統領のメッセージよりもセンセーショナルな放送

1963年11月22日(金曜日)12時30分(現地時間)にアメリカ・テキサス州にて現職大統領だったジョン・F・ケネディがオープンカーで演説会場に向かう途中で狙撃された。
ケネディ大統領は30分後に亡くなった。

日本時間で言えば、狙撃されたのが11月23日(土曜日・「勤労感謝の日」で祝日)の3時30分、死亡したのが4時ということになる。

日本時間11月23日朝、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(衛星放送)の実験を行うことが政府間で正式合意されていた。
実験放送はNHKとテレビ朝日(当時は東京教育テレビ)で行うこととされ、ケネディ大統領から日本へメッセージが届くはずだった。
実験放送は2回予定されていた。

①午前5時27分42秒~48分(20分間)
ここで予め録画してあったケネディ大統領から日本へのメッセージが送られるはずであった。(衛星放送なのに録画では・・)
ケネディ大統領が亡くなっても、録画なのでメッセージは送ろうと思えば送れたが、実験開始直前の5時14分、NASAは「実験は予定通り行うが大統領の録画は送らない」という連絡を入れてきた。
大統領のメッセージの代わりに送られてきたのは、カリフォルニア州にあるモハービー砂漠の風景など。
最初に送られた映像は砂漠の荒野にぽつんと立つサボテンだった・・・
日本では次のようにアナウンスされた。
「ただ今、砂漠の映像をお送りしています。砂漠の映像をご覧頂いております。どうやら ケネディ大統領がパレードの途中に何者かに狙撃されたようです。もしかしたらこの中継を送ることができなくなるかもしれません。もう一度繰り返します。ケネディ大統領が狙撃されたようです」

②午前8時58分~9時15分(17分間)
宇宙中継にてケネディ大統領の暗殺が報じられた。
「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」
実験放送でケネディ大統領暗殺事件をリポートしたのは毎日放送ニューヨーク特派員(当時)であった前田治郎(当時35歳)。貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサーとプロデューサーを経て、1963年2月にニューヨーク支局の駐在員になっていた。
前田はニューヨークでケネディ狙撃を知り、情報収集のためABCの国際部に乗りこんだ。
そこで思いがけず、ABCの広報担当者から「2回目の実験放送でケネディ暗殺事件のニュースを日本語でリポートしてみないか」と持ちかけられたのだという。
だがアメリカで実験放送を担当していたのはNBCだった。
ABCの社長がNBCに電話して、NBCの映像にABCにいる日本人特派員(毎日放送)の音声を乗せて放送するように段取りをつけてくれた。

余談だが、ABC本社の所在地はニューヨーク・マンハッタンの西66丁目。現在はウォルト・ディズニーの傘下。


20世紀最大の謎?最大級の謎?

ケネディ大統領の暗殺は多くの謎にも包まれている。
オープンカーでパレードの最中に暗殺されるというテレビドラマか映画の中の出来事のようである。
容疑者が逮捕されたが本人は全面否認していたという。拘留中の尋問調書などは全く残っておらず、逮捕から2日後に警察署で実業家に銃撃されて死亡した。
マスコミが取り巻く中で射殺され、その瞬間も全米で生中継されることとなった。
劇場型犯罪という言葉があるが、この事件は大事件をリアルタイムで見せるという劇場型報道のはしりではないだろうか。

1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃されて死亡し、法廷に立つことはなかった。
また、翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。

ジャック・ルビーは1964年3月14日、ダラス地方裁判所で「悪意を備えた殺人」で有罪となり死刑判決を受けた。再審を待っている間、獄中のルビーは精神の安定を欠き「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。1967年1月3日、奇しくもケネディ、オズワルドが治療を受けたのと同じパークランド病院で肺癌による肺塞栓症により生涯を終えた。


日本時間11月26日の朝にも再度実験放送が2回行われて、これらのことが報道された。


1964東京五輪は世界初のテレビオリンピック

上記の通り1963年11月にケネディ大統領の暗殺事件で衛星放送の実験放送をしたわけだが、それが1964年10月の東京オリンピックに活かされた。
1964年東京オリンピックは通信衛星を使用した世界初の衛星生中継を成功させた。
とはいっても、実験放送で使われたのはNASAの「リレー1号」という低軌道衛星で、地球低軌道を回るため通信可能時間は3時間程度しかなかった。
オリンピックの時に使われたのはNASAにより1964年8月に打上げられたばかりの「シンコム3号」だった。
1号は故障により失敗、2号は完全には静止しなかった。3号が世界初の静止衛星となった。
ということで通信衛星の種類が違うので厳密に言えば実験放送が直接的にオリンピックに活かされたとは言い難いかもしれないが、劇場型報道となった実験放送が人々の興味を惹きつけたことは間違いないだろう。
そしてテレビオリンピックは、通信衛星の有用性を広く世界の放送・通信関係者に印象付けることにもなった。




# by yumimi61 | 2019-05-14 16:25

分岐点

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隅田川 昭和38年ー隅田川上流に工場が進出。汚染水のたれ流しで魚の住めない「死の川」に。水上バスの客も悪臭に悩まされた。田沼武能



泥の河とお化け鯉


私はかつて『泥の河』について書いたことがある
あれは大阪の旧淀川が舞台となっている。
淀川は琵琶湖から大阪湾に注いでいる河川だが、大阪府の都島区毛馬で分流する。
分流より下流域で現在一般的に淀川と呼ばれるのは、明治期に大規模な開削工事が行われた人工の放水路(川からの洪水を防ぐため、河川の途中に新しい川を分岐して掘り、海などに放流する人工水路のこと)である。
分流して市街を巡る旧淀川は分流後に大川と呼ばれ、中之島より下流では安治川と名を変える。
大川は中之島で2つに分かれ、土佐堀川、堂島川という名で呼ばれ、その2つの川が再合流し、安治川となる。
『泥の河』の舞台は、2つの川が合流して安治川となった辺りである。

小説が発表されたのは1977年であるが、小説に描かれた時代は戦後10年目の1955年(昭和30年)である。
2人の少年は泥の堆積している泥の河・安治川に巨大な鯉「お化け鯉」を見たのだった。
違う環境に暮らす2人の少年、だけどそれは、全く違うと言い切ることには躊躇を感じる程度の違いかもしれない。
そんな2人がある日一緒にお化け鯉を見た。泥すくい(ゴカイ汲み)の老人が川に落ちて死んだ時だ。
小説の最後ではそのお化け鯉を見るのは1人の少年だけ。
もう1人の少年が乗っている舟の後をお化け鯉が付いて行っていることを必死に教えようとするが届かない。
映画化もされたが、映画のラストではお化け鯉に触れていない。ただ少年の名を呼ぶだけとなっている。


鯉のぼりは鯉を捨てたい象徴だった!

巨大な鯉と言えば「鯉のぼり」。
男子の健やかな成長を願って、5月5日子どもの日(端午の節句)前後に空に泳がせるものが「鯉のぼり」だと思っていることが多いと思う。
だけど現代の「鯉のぼり」と昔の「鯉のぼり」は少々違う。
まず時期が違う。
旧暦の5月は新暦ではだいたい6月くらいである。
5月5日は6月6日にしてもよいくらい。鯉を「六六魚」というくらいだし。

「鯉のぼり」
端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世と健康を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。

端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。

一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。
さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。


これは主に江戸を含む関東地方の風習で当時の関西(上方)には無い風習であった。天保9年(1838年)の『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」とある。

少子化や核家族化の影響、住環境の変化もあるのか、地方においても個人宅で「鯉のぼり」をあげるという習慣は平成の時代に結構急速に廃れたと思う。
さすがに山間部に行くとまだ個人宅でも「鯉のぼり」を見ることは出来て、私が端午の節句前後に実家に帰る時には鯉のぼりではなくて、家紋や子供の名前のようなものが記されている縦長の幟を上げている家も見かける。
江戸時代では鯉のぼりを上げたのは武家ではない。武家が上げたのは旗指物(小旗)や幟である。


明治期での廃りと復活

江戸時代において幕府が式日と定めていたのが「五節供」である。
旬の草木を供えたり食べたりすることで邪気を祓う行事を行う日として祝日としていた。
上に端午の節句は、武家では菖蒲と尚武にかけて男児の立身出世と武運長久を祈る行事となったとあるが、武家だからそうしただけのことで、端午の節句自体は武家特有の行事ということではない。
 ①人日(旧暦1月7日)
 ②上巳(旧暦3月3日)
 ③端午(旧暦5月5日)
 ④七夕(旧暦7月7日)
 ⑤重陽(旧暦9月9日)

明治5年(1872年)、旧暦から太陽暦(グレゴリオ暦)へ改暦することとなり、これに伴い、明治6年に「五節廃止令」が出され、以後全ての節句は廃止され、端午の際の幟も鯉のぼりも見られなくなっていったそうである。

明治27年(1894年)の「幼年雑誌」における端午の節句の説明
五月五日は端午の節句と称し今より二三十年前迄東京に於ては男児ある家にて各々我家の定紋附けたる幟及び鍾馗を画きたる幟、紙若くは巾きれにて造りたる鯉の幟を家の外に立て又家の内にも小幟、冑人形、青龍刀抔などを飾り祝ひたるものなり、現今に於ても鯉幟を立て又は座敷幟を飾る家ありといえども往時の如く盛にはあらず。

こうして一度はほぼ廃れた端午の節句や鯉のぼりが復活したきっかけは戦争だった。
日清戦争(1894~1895)で復活の兆しをみせだし、日露戦争(1904~1905)でますます盛り上がりを見せ、以後再び定着していくのである。
軍拡と富国強兵に伴い、男子に勇敢さを求める機運が高まったことによって、「鯉のぼり」は見事に復活を果たすのだった。


お化け鯉、復活した鯉のぼり、とは何か

輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心、そうしたもの対する人々の強い念がある。
子を持つ親の願いだったり世間一般の願いだったりする。
それを否定することは出来ないから放っておけば巨大化していく。
お化け鯉は、巨大化した凄まじいまでのキラキラとした念の化身。
お化け鯉が貧しい老人を引きずり落とし呑み込んでしまう。彼らによって必要でないもの、見たくないものだから。

お化け鯉は子を持つ親の願いや世間一般の願いの化身なのに、同年代の子供にも身近な家族にも牙を剥くことがある。
それは、輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心を勝ち取るのに邪魔になるものと考えるからだ。
見たくない現実であったり、同類として認めたくないものでもある。
小説のラストは、このお化け鯉に舟に乗った家族が追いかけられているのを、もう1人の少年が見る。


隅田川の汚染

トップの写真は隅田川。
写真を拡大してみるとアサヒビール社が写っていることが分かる。
ということは吾妻橋の所である。

こちらの記事に載せた『佃渡しで』という詩も隅田川が舞台になっている。

昭和時代に突入すると軍需景気の後押しを受けて都市が発展していき、隅田川上流でも化学工場などが新設されていった。
工場が出来れば人口も増える。
工場排水に生活排水、環境汚染は急速に進んでいった。
やがて戦争は負けて終わりになるが(1945年)、朝鮮戦争(1950年勃発で1953年休戦で終結しないまま現在に至る)が起こってくれたおかげで日本経済は朝鮮戦争の軍需によって戦前の水準にまで立ち直り、引き続き高度経済成長期(1955~1973年)に入っていく。

隅田川の汚染のピークは1962~1963年(昭和37~38年)だそうである。
この頃の汚染はとにかく酷く、魚の住めない死の川となり1962年には漁業権も消滅してしまった。
沿岸の家々はもちろんのこと、隅田川上の鉄橋を通る電車の窓すら開けてはいられないほどの悪臭がして、健康被害も生じた。
そんなに酷い状態の隅田川が改善していくきっかけとなったのは1964年の東京オリンピック。
開催都市として恥じない施設と環境を整備するということで投資され短期間に改善をみることになるが、オリンピックを終えた翌年には戦後初の赤字国債を発行することになる。


詩にしかしようがなかった

吉本隆明が『佃渡しで』を書いたのは佃大橋が架かる(1964年8月)直前頃だという。
1964年というのは東京オリンピックが開催された年であり、佃大橋もオリンピックによって造られた橋ということになる。
その前年は汚染のピークだった隅田川だが、1964年のオリンピックに合わせて隅田川も急速に変わりつつあった時期だったのであろう。
輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心、そうした念を背景に近代的に美しく街が様変わりしていく。街全体が巨大化した凄まじいまでのキラキラとした念の化身となる。
その中にいる未来ある純粋な子供の目には隅田川が「水がきれいね 夏に行った海岸のように」と見えたのだ。

急速に改善したと言っても前年が汚染のピークなのでまだそこまでは綺麗なはずはなく、よく見れば汚れも見えたのであろう。
だけど娘にはそう見えなくてもそれは特別おかしなことではないと作者は分かっている。
むしろあんなに汚かった川で泳いだり蟹を採ったり、郷愁とも言うべき特別な想いを抱いている自分のほうが、この世から、この時代から、ずれつつあることを感じている。
だから声に出すことが出来ない。
オリンピックなんか開催しなくてよい、なんてこと言えなかったのだ。






# by yumimi61 | 2019-05-13 20:41

女子供と戦争

戦闘員を産み育てるための感謝なら

男の代わりに働く感謝なら

命を投げ出して持ち場を護ることへの感謝なら


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左:国民精神総動員の正月 皇居前のたこあげ大会 昭和13年ー戦時に対応する節約生活を求めた運動が隅々にまで及んだ。土門拳
右:子どもの隣組 牛込区(現新宿区)矢来町 昭和15~16年ー戦時体制の末端組織として整備された隣組は、子どもまで巻き込んだ。林忠彦



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監視哨に動員される婦人会 昭和17年―米軍機の機種識別の講義を受けるところ。成人女性は「大日本婦人会」への加入が義務付けられた。林忠彦



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看護婦の防空演習 大阪・日本赤十字社大阪支社 昭和18年ー「命を投げ出して持ち場を護れ」と職場でも訓練が行われた。濱谷浩



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勤労動員 昭和19年ーこの年、女子挺身勤労令が公布され、12~40歳の女性に軍需工場などで働くことが義務づけられた。木村伊兵衛





その選択はあなたがすべきもの。







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# by yumimi61 | 2019-05-12 16:01

カモとボール

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# by yumimi61 | 2019-05-12 11:21

皇軍

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南京陥落 銀座4丁目 昭和12年ー12月13日、日本軍が南京を占領。
一方的な戦時報道に各地が祝賀ムードに沸き返った。夜には人々を動員して提灯行列も行われた。
背景は服部時計店(現和光) この年10月から始まった国民精神総動員運動のスローガンが掲げられている。 土門拳


上の「皇軍大勝」の写真と文章は↓の本より。「国民精神総動員」の他に「皇軍万歳」とも掲げられています。
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現在の銀座和光。
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銀座は国旗が沢山掲げられている時がありますが、日本では普段あまり国旗に馴染みがないためか、戦時中を彷彿させる時がありますね? パンまで日の丸に見える!?

下の写真は、南京陥落報道で祝賀ムードに沸き返った翌月(昭和13年1月10日)に発行された『アイコクエホン僕等の勇士』という絵本。
こちらの日の丸がはためいています。
古書 古群洞より
アイコクエホン僕等の勇士(日中戦争)画作・古澤岩美 淡海堂出版部 昭和13年 ¥38,000 B5判 全カラー16p 表紙剥げ有り 本体発色良好並上本 I
戦前に児童向絵本を古澤岩美が描いた記録や書誌は見当たらず、本書は幻の一冊かも知れません。

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日本では「日本軍」なんて呼んでいなかった。「皇軍」、天皇の軍隊であり、天皇のために戦ったり戦わされたりしたのである。
そこを有耶無耶にしたまま、そんな大昔でもないにもかかわらず、後世の人々は何も知らず天皇が今でも崇拝されているとなれば、同じ過ちを繰り返しかねない。
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<参考・写真出典など>
戦争でだまされませんか? 70年経ってもホオカムリを見逃し続けますか? 2014/06/29
特攻作戦で数千人もの若い命が散ったことを読んで、気違い沙汰だと思っても遠い過去の他人事のように感じていました。でも私の父の同級生達がその当事者であったこと、もし彼も病気にさえならなかったら やはり飛び込んでいったであろうとここから理解するとゾッとします。抽象的で実感のない遠い歴史の話ではなく、私の父の話なのです。彼もまた、他の一億の国民とともに戦争に加担していたのです。彼が愚かでもなければ気が狂っている訳でもないことは、私がよく知っています。

父が亡くなってから母に聞いたのですが、父は 春の桜の花を見るたびに昔の同級生達のことを思い出すので 花見は好きではなかったそうです。自然は大好きで、中でも雪景色と新緑の春がお気に入りでした。私や弟がまだ子供の頃、学校をさぼってまで何度も山に連れて行ってもらい、自然の美しさを教わり懐かしい思い出になっています。10年ほど前に母とオランダに来た時も彼のリクエストでアルプス見学をし、アイガーの北壁に感動していました。そんな彼でも、桜の花だけはイヤだったそうです。小中を通じて同級生であった彼の幼馴染みが、左の詩を書いていたのを、父の遺品の中に見つけました。彼は戦争中は近衛隊の所属だったと聞いているから、同じ戦中派として彼も桜の花に対して同じような思いを感じていたのでしょう。元カミカゼの飛行士だった方も、同じような気持ちを抱いています。

日本が中国に攻め込み、当時の中国の首都の南京攻略を伝えた毎日新聞の一面は、国旗を掲げ「皇軍万歳」と祝福されていました。
国旗や提灯を持ち寄った大々的なパレードの写真が多く残っています。(伯母によれば、学校でこれに参加するよう命令されたそうなので、これらの人が全員喜んで馳せ参じたのではないかもしれません。一方で、現在でも君が代の斉唱が強制されているそうですが、この頃を彷彿とさせます。)

現在に例えると、日本人チームが五輪かワールドカップで優勝した時のようです。

意図的な天皇陛下万歳三唱 2013年5月2日
「天皇陛下万歳」とは、天皇に対する絶対的服従の表明の儀式である。戦争中の皇軍が玉砕の際に唱えて死んだ言葉でもある。「♪思えば昨日の戦いに朱に染まってにっこりと笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか」(戦友)


皇軍万歳? 2018年9月17日
昔の着物の中から
懐紙入れ(略式)が出てきて
その中に楊枝入れがあり
その又中に、日の丸と軍旗(陸軍)のマーク付きで
『皇軍萬歳』と書いた爪楊枝が出てきた
ウィキペディアによると
「皇軍」とは
…狭義には、第二次世界大戦以前の日本が保持していた軍隊を指す…
と、あった。
ちょうど敬老の日にこれが出てきたというのは
何かのメッセージか?
戦争を経験された先人達の思いを
『戦争を知らない子どもたち』世代と
「『戦争を知らない子どもたち』を知らない子どもたち」世代が
戦争の理不尽さを含めてメッセージとして受け止めたい
敬老の日の
晩御飯を作りながら
こんな事を考えています


武運長久・皇軍萬歳  2007年8月30日
いやはや驚いた。戦後六十二年目の夏が終わろうというのに、祈 武運長久、皇軍万歳とは、アナクロニズムもいいとこ。
神社の門前に、祭礼の折に建てられる飾り看板の修復を依頼された。高さ五mの二本の柱の上部に渡されるように飾られる長さ1mのたて看板には「町内安全」と「漁涬満足」の文字が紙に書かれて貼ってあった。
 修復のため、その紙をはがしたところ、下の本体には、筆で文字が書かれており、なんだろうとはがしたら、くだんの文句が書かれていたもの。
 おそらく、戦前に、もしかしたら戦中に戦意高揚のために書かれたものだろうが、なかなか達筆である。
 終戦時のわが町の人口は約3500人(推定)。こんな小さな町でも、大東亜戦争では、この言葉に送られた出征兵士のうち163人は、武運長久の祈りもむなしく名誉の戦死を成し遂げ、英霊として神社に祀られている。



日本すきま漫遊記 地守神社 鳥居と境内の間に川があり、橋がない。(群馬県藤岡市下日野)2013年8月27日訪問
同じく縦拝殿の中の額。「皇軍万歳」などとキナ臭いものが残っている。
私は太平洋戦争自体が間違っていたと断じるつもりはないが、その戦争を遂行するために実施された国家神道を基盤にした全体主義は間違いだったと思っている。宗教的全体主義のために、戦争行為において不適切な戦略、戦術が選択され、結果として軍人や国民に無駄な犠牲をもたらしたからだ。


いせさき明治館企画展 時代を映したビックリ和柄展 2012年8月4日
一階展示室でスポーツ競技柄を見学し、古き時代のオリンピックの様子などに懐かしさや楽しさを覚え、そんな気分の延長で訪れた二階展示室。そこに展示されていたのは全て幼い男の子たちの小さな着物。
 遠目に見ると、青色を中心に描かれた着物はどれも可愛らしく、ざっと一回りして一枚ずつ撮り、何枚かをアップで撮ろうと近くへ寄ってみると、そこに描かれていた柄は、戦車や戦闘機、戦艦、槍を突く子供たち、軍刀を持つ子供たち、戦況を伝える新聞社の記事など、どれも戦時中の世相を生々しく反映した一瞬毛穴が立つ思いの絵柄でした。
 戦後67年が過ぎ、平和な日々が続く日本。その日本において、80年ほど前には、生まれて来た男子に戦争兵器柄の着物を着せたこと。その事で大人は子供たちに何を伝えようとしたのか意図は図り知れませんが、子供たちに取って、戦争兵器の柄を身に付けることで、生まれて来た事の喜びや未来への夢や希望を持てることが果たしてできたでしょうか。
 今の平和を噛みしめるためにも、ロンドンオリンピックで盛り上がり、終戦記念日を迎えようとしているこの時に、第二次世界大戦前の時代を悲しくも色濃く反映した着物柄展示に、是非とも足を運んでみてください。

西日本新聞 戦後70年へ ー証言をつなぐー vol6
1941年12月8日午前1時半。太平洋戦争は真珠湾攻撃より約2時間早く、マレーシア北東部のコタバルという港町への上陸作戦から始まった。 「あの戦争に負くることは想像もつかんかったし、これは正しい戦争だと信じて疑わんかった。思えば、あれが間違いの始まりじゃった」。福岡県八女市の古澤健児さん(94)は約5500人の上陸部隊に加わったあの夜のことを今も鮮明に覚えている。








# by yumimi61 | 2019-05-10 15:28

球場


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=私信=
この間教えた年月日が間違えていた!
 (誤)2016年1月→(正)2015年1月 でした。





# by yumimi61 | 2019-05-08 23:37

一点の曇り

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# by yumimi61 | 2019-05-07 18:24

深閑

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遊び疲れて眠る子供のように

町は静寂と喧騒を取り戻す

君を渡すわけにはいかないから

一塊の温もりと齟齬に

ふうっと息を漏らす




# by yumimi61 | 2019-05-06 23:41

六六魚と躑躅

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「こどもの日」と言えば鯉のぼり。
六六魚(ろくろくぎょ・りくりくぎょ)は鯉の異称。
※重訂本草綱目啓蒙(1847)四〇「鯉魚〈略〉鯉は首より尾にいたるまで鱗の数三十六あり。 故に六六魚の名あり」

・関東ではTBSテレビは6チャンネル。
子供の頃、テレビは放送局名ではなく、数字チャンネルで呼んでいた。
だから結構そっちの方が馴染みがあったりしたけれど、地デジ化でチャンネルが変わってしまったところもありますね。
私なんか未だに昔のチャンネルの数字のイメージが強かったりする。
 NHK教育テレビ 3チャンネル→2チャンネル
 テレビ朝日 10チャンネル→5チャンネル
 テレビ東京 12チャンネル→7チャンネル

・政治不信やメディア不信について前前記事で少し触れたけれど、私も以前から気になっていることがある。
それは年末年始。
年末年始は特別番組が多くなり、通常放送している番組がなくなることが多いと思う。
その中でもテレビ朝日の報道ステーションはいつもわりと早くから年末休みに入る。年始も休んでいるので、ニュース番組としては休みの長さが際立つ。
報道ステーションはサッカーなどスポーツ番組でもなくなることがある。
日々の出来事を伝えるのがニュース番組の使命や役割だとしたら、ニュースに休みの日はないはず。
報道ステーションが休んでいる間にも政治は動くし、事件や事故は起こるし、災害も起こる。
それを伝えなくて良い日があると考えているならば、それは日々の出来事を伝えるニュース番組ではないのだろうと私は思う。
ニュースショーというかワイドショーのようなものなんだろうと思うしかない。

・水戸の偕楽園が梅まつりの時期だけ有料化を検討しているらしいけれど、まだしていなかったのかという感じ。どんどんすべきだと思う。
館林市のつつじが丘公園も躑躅(つつじ)の花が咲く季節だけ入園料をとる。
いつから入園料を導入したのかは知らないけれど、数十年も前から市民も県民も県外者も関係なく一律入園料を取っている。但し子供は無料。
入園料を取ったってシーズン中は大賑わい。
だから偕楽園も県外者のみと言わず、県内在住者からも入園料を取ってもいいんじゃないかなぁと個人的には思うけれども。

・ツツジが咲く季節はちょうどGW前後。
ツツジにも種類があるので早咲きと遅咲きがあり開花時期は多少ずれるけれど、公園としてはやっぱり花のピークというものがあるわけでして。
最近はちょっと開花が早いとなんでもかんでも温暖化のせいにする風潮があるが、30年近く前にも開花が早い年も遅い年もあった。
私は館林市に住んでいたことがあるが、GW前に満開ピークを迎えてしまった年があって、遠目にツツジを拝んで「あ~GW前なのにツツジがもう満開になっている・・」と善良市民は入園料の減収を心配したものである。





# by yumimi61 | 2019-05-05 18:30

201955(こどもの日)

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君が言葉を覚える前 君はここにいて

僕はあの頃 その場所に憧れていたっけ

君も僕も 外の世界に飛び出でて

帰りが遅いと ママを心配させた

太陽が西に傾いて この世界が橙色に染まる頃

僕はいつかの 夢の続きを見ていた

優しい眼差しの あの人が近づいてきて

小さな魚と鈴の付いた細い革紐を 僕の首に回した

いったい僕を 幾つだと思っているんだろう

チリリン 可愛い鈴の音にまたあの人が目を細めた気がした




・私はうちの猫に首輪を付けたことがないのだけれど、先日猫の首輪を衝動買いしてしまった。
せっかく買ったので我が家の猫ナツの隙を狙って付けてみた。
猫に付けたことがないので締め具合がよく分からない。犬と同じ感じでよいのだろうか。
近所の猫を見ると首輪が食い込んで見えないくらいの猫もいるのだけれど、あれくらい締めておいたほうが安全なんだろうか。
・・・と、いろいろ考えたり眺めたりして、やっぱり首輪は外してしまった。
いいもん、私がブレスレットにするから。

・子供が幼い頃、プーさんのビデオをよく観ていた。そのせいで私は一頃プーさんの物真似(声と話し方です)が得意となり、よく真似していたのだが子供にはいつも軽く流されていた。似てなかったのか・・・

・私の母は若かりし頃、和文のタイピストだった。カチャカチャカチャ

・携帯電話(スマホ)の操作音を消していますか?
私は操作音がする方に馴染みがあり、音がした方が確かに操作しているという感じもあって音を出していたのだけれど、一方でもし事件とかに巻き込まれて犯人に隠れてそっと通報したりメールしたりする時には音が出たらバレてしまうから予め消しておくべきかと、携帯電話を持ち始めたころ本気で悩んでいました。





# by yumimi61 | 2019-05-05 11:19

本性

朝日新聞とはなにものか

1907年(明治40年)に夏目漱石が入社した朝日新聞社はどのような社であったか。
現代では反日系や革新系、リベラル系として名高い朝日新聞だが、歴史的にみればこのレッテルはかなり微妙である。
朝日新聞は御用新聞となって成長し大きな会社になったのだし、戦争を支持していた時代も長い。

1879年、大阪にて創刊。
創刊期は、新聞小説と通俗記事が主体の大阪ローカルの小新聞だった。
また、参議の伊藤博文らが同じく参議の大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裏に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた
その間に東京の『めさまし新聞』を買収して『東京朝日新聞』を創刊し、東京に進出した。

戦後の一時期まで、朝日新聞は購読者層として政官財のトップエリートを含む社会の高学歴層に支持されてきた傾向があったとされる。しかし同時に、記者をはじめとする朝日新聞社員のエリート意識も極めて高く、同社員の外部に対応する態度は「Donaru(怒鳴る)」「Ibaru(威張る)」「Yobitukeru(呼びつける)」の「朝日のDIY」と言われ、そのことが珊瑚記事捏造事件の時のように、必要以上に相手の反感を買っているという指摘もなされている。



戦争賛美・戦争支持の顔を持つ朝日新聞

・日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。

・満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、軍部への迎合に転換し、第二次世界大戦終了までは戦争賛美の論調だった。

・大日本帝国陸軍が満州事変を起こし、満州国を建国した後、国際連盟に拒否されて脱退した際には「連盟よさらば」という歌を作成して代表の松岡洋右を賞賛している。

・1930年代後半からは首相・近衛文麿の戦時政府(近衛新体制運動)を積極的に支持した。

日中戦争(支那事変)・太平洋戦争(大東亜戦争)中は主戦論を主張する軍部の御用新聞として君臨し、毎日新聞や読売新聞といった他紙と同様の戦争翼賛報道を行い、大本営発表をそのまま記事にした

・日本の敗戦後は、社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん(関西版では「―起たん」)」(1945年11月7日)を発表し、村山社主家の村山長挙社長以下幹部が辞任した。ただし、村山長挙・上野精一両社主は公職追放解除後に復帰した。

・戦前は朝鮮人による日本への密航や朝鮮人密航組織、さらに朝鮮人労働者が高収入を得ていたという報道を頻繁に行っていたが、1959年以降に北朝鮮への帰還事業が行われるようになると次第に左傾化し、在日朝鮮人は強制連行されたものであるという報道を行い始めた。



人畜無害

例えば、尊皇攘夷運動に身を投じたはずのものが、時代が変われば自分達で実権を握り、喜んで外遊し、外国製を取り入れる。(実は最初から外国から支援されていたのだけれども)
例えば、かつて戦争を賛美し支持していたものが、時代が変われば戦争反対に回る。
例えば、(旧)優生保護法という法律に基づいて行ったはずの手術が、時代が変われば悪行になる。

「政治」も「報道」も簡単に翻る。特に後世に生きる人間にはそれが見えやすい。
「政治」にも「報道」にも強い思想や信念がなく、別の何かで世の中は動いているということが分かる。そのことは人々の心に不安や不信を抱かせる。時代が進めば進むほど政治不信、メディア不信に陥るのは当たり前なことかもしれない。
そんな簡単に翻るものに信を置くことは難しい。
何年か何十年か後には、あの時の報道や政治は誤りでした、我々は罪を犯しましたと平気で言い出しかねないことを私達は知っているからである。

翻るということ、それは言い換えれば変化である。
変化の一側面は成長であり、進化や進歩でもある。
人間は子供から大人に成長する、それを悪いことだとは言えない。
それと同じで進化や進歩は前向きで良いことだと考えられているので、進化や進歩に対して異を唱えるのは大変勇気がいる。
変化(change!)はいつの時代も明るい未来を夢見させる。だから人々は変化への不安を押し隠す。
だけどほとんどの人間は、特に島国に暮らす日本人は大陸に暮らす人々よりも変化や変形が苦手なのだ。出来ることなら不安や不信とは無縁でいたいと思っている。

夏目漱石は小説『野分』の中野君の恋愛論の中で変形を語った。
恋の煩悶の炎火の中に入ると非常な変形を受けると。(同時にそれによって自分の存在が明瞭になるとも)
変形には2種類ある。未熟で柔らかいからこその変形と、非常に大きな熱量を受けての変形。
夏目漱石は恋愛による変形は後者であることを『野分』で示した。


「政治」や「報道」が翻るもので信用ならないものだとすれば、信じられるものはなにか。信を預けるものとして「思想」や「宗教」への道が開かれる。
しかしながら「思想」や「宗教」は無頼の徒に色塗られ、これまた信が絶たれることになり、「思想」や「宗教」や「政党」は危険なものとして映し出される。

簡単に翻ってしまう社会において、変化していく時代の中で、翻らないものや変わらないものは、数字を積み上げた無味乾燥な「天皇制」と、宗教色を払拭した「神社」といったところだろうか。
人々は変化しないことに安心し、熱狂とも言える信を寄せ、変わらないことに感謝すらする。


変わらない土台づくりと変化への布石

「明治天皇の誕生日が祝日になっていて(11月3日)、昭和天皇の誕生日が祝日になっているのに(4月29日)、大正天皇の誕生日(8月31日)は祝日になっていないんだよ、差別だよね~可哀想に」と私は妹に言ったことがあるが、今度は12月23日が祝日になって、2月23日が天皇誕生日として祝日になるのかしら?
明治天皇と昭和天皇では戦争の印象が強い。
今までの歴代天皇の誕生日が全部祝日で学校も仕事もお休みならいいのに~。

あと時代区分だけど、歴史で習ったなんとか時代というのは政治(為政者)の大きな変わり目であって天皇の変わり目ではない。
明治から急に天皇1時代になったみたいな感じに捉えられているけれど(もっとも大日本帝国憲法下では天皇が為政者だけれども)、これは暫定な時代区分であって、もう少し先の時代では別のまとまりになるんですよね?ならないの?

昭和天皇は20歳の時に病弱な大正天皇に代わって政務を摂ることになった。
でも自分は最高責任者の立場で行った戦争に負けても退位もしなければ摂政を取らせることもしなかった。
自らふっかけた戦争で多くの者と金の犠牲を出し負けて天皇制を廃止しないならば、少なくとも表の顔を取り換えるくらいのことはしてもよさそうである。
会社だって何だって何か大きな不祥事を起こせば辞任して交代するではないか。
だけど昭和天皇は象徴として何事もなかったかのように居座った。
今回だって高齢になってすることが出来ないというならば、摂政という方法もあったはずである。でもそうはしなかった。
これは摂政の政が政治を意識させるからなのかな?

人間は、ことに日本国民は変わらないものをこよなく愛す性質だから、変わらない天皇制を下支えにして、変化を前面に出したのが今回の天皇の交代劇。
戦争を永久に放棄する憲法も多くの人が愛しているわけだけれど、変わらない天皇制を下支えにして憲法を変えたいと思っているのが何があってもなかなか変わらない政権といったところか。





# by yumimi61 | 2019-05-03 23:58

煩悶

夏目漱石が作家になるまで

夏目漱石、1867年(明治への改元の前年の慶応3年)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。

1886年(明治19 年)に公布された帝国大学令によって帝国大学が設立される。

1889年(明治22年)、大学予備門予科の同窓生であった正岡子規と出会い、以後多大なる影響を受ける。

1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された。

1890年(明治23年)9月、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に入学。

創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。このころから厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

1892年(明治25年)4月 - 兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。
         5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

1893年(明治26年)3月、正岡子規が大学を中退する。

1893年(明治26年)7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
         10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。

1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。

漱石は帝国大学を卒業し高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年) 4月17日、日清戦争。

1895年(明治28年) 4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄(夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授)の口添えで赴任。松山は正岡子規の出身地でもあった。
         12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをし、婚約成立。

1896年(明治29年) 4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
          6月 - 中根鏡子と結婚。
          7月 - 教授となる。

親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 (ヒステリー症とは解離性障害のこと。『アルプスの少女ハイジ』のクララの立てなかった原因の疾患の1つとして考えられるとして前述したことがある。精神あるいは身体的機能が意識から解離して意思によるコントロールが失われた状態となる。ストレスに満ちた出来事の記憶が欠落してしまう、身体的な疾患が認められないにも関わらず麻痺して立てない、歩けない、声が出ないなどの運動障害、けいれんや知覚麻痺などを生じる)

1900年(明治33年)5月 - 文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。同年、12月に帰国。

1902年(明治35年)9月、友人である正岡子規が肺結核にて満34歳で死去。

1903年(明治36年) 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
          5月、北海道出身の旧制一高の学生・藤村操が華厳滝で自殺した。

第一高等学校の受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。

1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9 月5日、日露戦争。

1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。

1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。

1907年(明治40年) 1月 - 「野分」を『ホトトギス』に発表。
          4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍にて死去。享年49歳。


職業作家

この頃の職業作家とはフリーな個人事業主としての小説家なりライターではなく、会社に雇われて、その会社の出版する書物に書く事であったということになる。
夏目漱石は朝日新聞社に入社して、朝日新聞に小説を連載していた。
夏目漱石が職業作家になってから死ぬまでの小説は全て朝日新聞上で発表されたものである。


ある青年の自殺が広げた波紋

藤村操
1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日
北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。


藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。



自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった。
自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説に大別される。
「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している。

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。

当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。


歪んだ恋愛論

夏目漱石が『野分』を発表したのは藤村操の自殺から約4年後のこと。
そしてそれからほどなくして、漱石は一切の教職を辞して朝日新聞に入社して「職業作家」となった。
おそらく昔は、教職(=作家=先生)、という感じだったのではないだろうか。
だからメインとなるべく教職を辞して物書きになるということは、それなりの覚悟が必要だったのだろうと思う。
でも夏目漱石は朝日新聞に入社したからこそ人気作家となり後世に名を残す(紙幣の肖像に選ばれるほど!)作家としての地位を獲得できたのかもしれない。

『野分』は夏目漱石自身を色濃く反映した作品。
前回私は『野分』の主題は恋愛論だと述べたが、夏目漱石は藤村操の自殺の原因が恋愛であってほしいと心底願ったゆえに、主題を恋愛論に置いたのだろうと思う。





# by yumimi61 | 2019-05-03 15:57

野分論

先日のエントリー『桜花』にて最後の一文に夏目漱石『野分』より 世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する を引用した。
今日はその『野分』についてです。

↓これが小説の冒頭。

 白井道也(しらいどうや)は文学者である。
八年前まえ大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。




今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべきものと心得ていた。
盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。
渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。
世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。




己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。
しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。
この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。
天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。
われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵かし硯を磨まするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。




主たる登場人物


・白井道也
大学を8年前に卒業。 越後・九州・中国地方の3箇所で中学教師をしていたが、いずれも辞職して、ついには東京に戻ってきて、書き物の仕事をしている。妻がいるが、妻は職を転々とし野心のない夫を快く思っておらず、夫妻の間には隙間風が吹いている。

・高柳君(高柳周作)
越後出身で、この夏に旧制の高等学校(現在の大学教養課程に相当)を卒業したところ。
貧乏で暇もないらしい。
口数が少なく、あまり人と交わることもないため、他人からは厭世家の皮肉屋と思われている。
父は郵便局の役人だったが、高柳君が7歳の時に公金を使い込んで囚われの身となり牢屋の中で肺病で死んでしまった。もっとも子供の時にはそのことを知らず、父の行方を母に尋ねても「今に帰る」と言うばかりであった。現在はその母親を田舎に1人残しているという状況であり、仕事をして母へ仕送りをしなければならないと思っている。
越後の中学校に白井道也先生がいて、先生を学校から追い出すのに加担した。
肺病を患っている。

・中野君(中野輝一、中野春台)
高柳君とは旧制高等学校の同級生で一緒に卒業した。
裕福で名門で暖かな家庭に生まれ育つ。
鷹揚で円満で、趣味に富んだ秀才。
婚約者がいて結婚する。


高柳君も中野君も文科で学んでおり、卒業後も書き物の仕事をしている。
中野君は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい」と言っている。
タイプは全く違うが2人は仲の良い友人。裕福な中野君は高柳君にたびたび奢ってあげたり、具合が悪そうなのを心配する。
しかし高柳君は中野君を別世界に住む人だとも思っていて、寂しさを拭いきれないでいる。というかむしろ中野君を通じて余計にひとりぼっちであることを痛感してしまうのである。


高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。

彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。

この両人が卒然と交わりを訂してから、傍目にも不審と思われるくらい昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人ひとりあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友をもって中野君を目してはおらぬ。

中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越しに眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴さえも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横たわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。



『江湖雑誌』


「僕の恋愛観」 中野春台
「解脱と拘泥……憂世子」 白井道也

中野君の所の取材に行ったのも白井道也先生で、高柳君から中学生の時の出来事を聞いていた中野君は取材終わりに高柳周作という人物を知っているか訊いてみるも、知らないと言われる。


「僕の国の中学校に白井道也やと云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜の銘にありそうじゃないか」
「道也と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪い人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪い奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊っといものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」


高柳君は『江湖雑誌』で中野君の恋愛観を読んだついでに、「解脱と拘泥……憂世子」に出会う。そしてついには自分で白井道也先生を訪ねるのだった。


白井道也先生が辞めた3つの学校

(1)越後(新潟県)のどこかの中学校
越後は石油の名所だった。学校のある町を4~5町隔てて大きな石油会社があり、学校のある町の繁栄は大方その会社の御蔭で維持されていた。

会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。
道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫りに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
※黄白万能主義=拝金主義

(2)九州北部の工業地帯の中学校

炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。


(3)中国地方の田舎の中学校

ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。
そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。フランスのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事がむずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。
去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。


では東京はどうか?

 三たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色がない。東京は日本で一番世地辛い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛って両手を袂へ入れたままで遣り切きるのは、立ちながらみいらとなる工夫と評するよりほかに賞めようのない方法である。


100円の行方と告白

・高柳君の体調は思わしくなく、喀血までするようになり、中野君から自分が費用負担するからと転地療養を勧められる。
お金を出してもらうのは心苦しいと感じている高柳君に、思案中の小説を転地先で養生しながら執筆し、完成したら一大傑作として世に送り出す、その対価として費用(100円)(もちろん今の100円とは価値が違う)を出すと提案し、それを高柳君も受け入れて、100円を受け取る。

・高柳君は転居前日に転地療養の報告と挨拶のため白井道也先生を訪ねる。
そこで借金取りに出くわす。
白井道也先生は100円の借金をしており、先生の兄が立て替えていた。
先生の兄は会社の役員で、その会社の社長は中野君の父親である。
教職を離れてお金にも名誉にもならない物書きなんかしていることに不満を抱いている先生の妻と、借金を立て替えている先生の兄が結託して、借金返済を厳しく催促することによってお金になる仕事をするように仕向けたのだった。

・白井道也先生は借金取りに「著作が売れるまで100円の返済は待ってほしい」と頼むが、 兄の意向を受けた借金取りは頑として応じない。

・白井道也先生と借金取りの話を聞いていた高柳君は口を挟み、先生の著作とやらを見せてもらう。それは「人格論」というタイトルの原稿であり、先生は待っている間に高柳君が読んでいるのだと思って渡すと、高柳君はタイトルだけを見て「これを100円で譲ってほしい」と先生にお願いする。


「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。


転移

ここで九州の中学校を追い出されたところの文章をもう一度。

権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された・・・


高柳君は自分が中野君からお金を得る権利などないことを分かっていた。
だけど療養先で一大傑作を書くという名目でお金を受け取った。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるというから、この場合、中野君が実業家ということになる。
そのお金を今度は高柳君が白井道也先生に渡すわけである。
原稿を買い取るという名目で。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるから、白井先生に100円を受け取る権利がなければ、今度は高柳君が実業家ということになってしまう。
白井道也先生にその権利はあるだろうか?高柳君は原稿のタイトルだけを見て、中味を読んでいないのである。
そして彼はここでかつて自分が先生を追い出した1人であることを告白する。
つまり原稿の対価ではないことが滲み出ている。
そのことに高柳君は気付いていないのかもしれないが、引き上げたいのは先生ではなく自分である。心のどこかで悪行をチャラにしたかった、人格者になるために。
高柳君の100円を出すとういう行為は白井先生を「権利のないもの」にしてしまうことになる。
中野君や中野君の奥さんが高柳君に同情したように、高柳君も白井先生に同情の念を抱いた。
金の力で活きようとした高柳君はその金に誹ることなく、今度は自分がその金で白井道也先生を活かそうとした。
同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。ーまさしくといった感じである。


『野分』の主題は恋愛論

本文に一箇所だけ「野分」が出てくる。
中野君の婚約者(のち妻)が歌った歌詞の中に。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ



「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦しみを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」


白井道也先生は「解脱と拘泥……憂世子」の中にこう記していた。
物質界に重きを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。

中野輝一は恋なんて形ないものに重きを置いている。
中野の恋愛論に賛辞も批評も与えなかった白井道也にも実は心当たりがあるのだろうと思う。
春から夏へと向かう恋の中にいる中野と、秋から冬へと向かう恋の中にいる白井。
白井道也という存在を変形させ明瞭にさせたのは、奥さんだったのかもしれないなぁと思った次第です。






# by yumimi61 | 2019-04-29 21:49