2017年 12月 31日
SILVESTER
大晦日の夜、皆様いかがお過ごしでしょうか?
荘厳な(うるさい?)除夜の鐘響く年越しも、雪降る音が聞こえてくるような静寂な年越しもよいですが、今年は少しスリリングな年越しはどうでしょうか。

テレビ東京の東急ジルベスターコンサート!
1995年から開始した毎年12月31日から翌1月1日にかけて、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで行われる、テレビ東京主催のクラシックコンサートおよびそれを生中継するテレビ番組である。東急グループの一社提供。

「ジルベスター」はドイツ語で大晦日(Silvester=聖ジルベスターの日)の意味であり、ドイツでは以前よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団がジルベスターコンサートを行っており、広く知られている。日本国内でも、大晦日から元日にかけて行われるクラシックコンサートのイベントがあり、本イベントはその先駆けである。世界初のオーケストラ演奏によるカウントダウンイベントである。

カウントダウン曲が終わった瞬間に新年を迎えるように演奏され、カウントダウン成功失敗を問わず、年明けの瞬間にはホール内に紙吹雪が舞う。

第5回は午前0時の約5秒後に紙吹雪が発射され、
第7回は演奏終了約4秒間余韻が残った状態で午前0時の紙吹雪が発射され、
第14回は演奏中に午前0時の紙吹雪が発射され約2秒ほど遅れで演奏が終了、
第17回は演奏終了約5秒間無音の状態で午前0時の紙吹雪が発射され、
第21回は紙吹雪の発射が行われなかった。(バレリーナシルヴィ・ギエム氏の引退ステージを含んでいたため。)
いかに年代わりの瞬間にタイミングを合わせるか、指揮者の腕の見せ所でもある。生放送での一発勝負なので、年によっては時報に楽曲の終了の瞬間が合わない所謂「失敗」もあり得る。公式上は「失敗」は一度もないことになっているが、第20回では司会者の宮本が「『すべて成功』と言いたいが『ほとんど成功』」と述べている。




昨年の指揮者(大友直人)は2013年より群馬交響楽団の音楽監督をされている方でした。
今年の指揮者(広上淳一)は東日本大震災の後に数年、群馬交響楽団の友情客演指揮者をされていた方です。
テレビ放送は23時30分からです。




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# by yumimi61 | 2017-12-31 21:37
2017年 12月 29日
日本国憲法の秘密-648- (外貨準備と貿易について)
経済学には、人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動するとの考えがベースにある。
引き合ってピンと張りつめた蜘蛛の巣を想像する。
蜘蛛の糸は糸そのものが天然素材としては飛び抜けた強度を持っているが、巣の構造も強さに寄与している。
蜘蛛の巣の縦糸(軸となっている部分)は硬くて強い。グルグルと回っている螺旋状の横糸は柔らかくて伸びやすい。
硬さと柔らかさの両方を持ち合わせることで獲物を捕らえた時の衝撃を吸収できる。だから巣が壊れることなく自分より大きな獲物を捕らえることができる。
こう書くと柔らかさが非常に大事なような印象を与えがちかもしれない。
「柳に雪折れなし」という言葉がある。 しなやかな柳の枝は雪の重みで折れることがない。柔軟なもののほうが剛直なものよりも耐える力が強いことをいう。
外力やストレスは真っ向から受け止め立ち向かうのではなく、適度にゆるめてしなやかに受け流した方が良いという例えに用いられることもある。
では蜘蛛の巣もそうなのかと言うと、そうでもないのだ。

蜘蛛の糸の縦糸を切ろうと伸ばしてみる実験を行う。(MITの研究より)
①伸ばした力に比例して糸が伸びる(フックの法則)。
②ある程度伸びると弱い力でも急に伸びやすくなって変形が大きくなる。
③それを超えると引っ張られている縦糸が急に硬くなる。
蜘蛛の巣の特徴は③があること。
①~③、何が違うかと言うと、引っ張られた糸以外に与える影響である。
①はほどほど全体に負荷がかかる。
②は周囲の糸にもかなり負荷がかかる。引っ張られた糸が切れもせず伸びて変形するとずるずるとなし崩しに全体が変形し最終的に大規模な破壊に繋がりやすい。
③はある時点を超えると引っ張られた糸だけが硬くなり、他は②の状態を保つ。負荷が一か所に集中する状態。切れるという状態に至っても他には被害が及ばない。

引っ張られた縦糸の一部分が犠牲になったとしても全体が壊れるわけではないので、蜘蛛はその部分だけを補修すればよいのである。
多くの科学者が惹かれる蜘蛛の糸に特徴的なのは③の部分的に現れる硬さなのだ。


人々が利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動することによってバランスが取られているという経済はどうだろうか。
自分が最も得をするような合理的な行動。
なるべく高い給料が得られる所で働くという行動もその1つであろう。
自分にとって可能な方法でより高い給料を得るために質より量を選ぶ人(選ばざるを得ない人)もいれば、量よりも質で勝負する人もいる。
同じ物ならば少しでも安い物を買おうとする行動もその1つであろう。
生産者であるなら、少しでも安く作って、少しでも高く売ろうとする。
1つの物で大きな利益を得る人もいれば、数多く売り捌いて利益を得る人もいる。
投資もまた自分が最も得をするような合理的な行動の1つに数えらえる。
投資という言葉は手助け的な意味合いで用いられていることもあるが、決して誰かの成長を願って行っているわけではない、自分が得するために行っているのだ。得をするという目的を達成するための手段である。少なくとも経済学での認識ではそうである。

自分よりも他者を優先する人が多い世界、あるいは全ての人が結果平等であることに心血を注ぐ人が圧倒的になれば、経済学は根底から崩れ去る。
労働に価値があり、各人が自分の利益を最大にしようと経済活動を行えば、最終的に全てにおいてバランスが取れるという考え(見えざる手によって自然に調整される)のイギリス古典派経済学はマルクスの経済学に継承された。マルクス派は批判もしたが受け継ぐことにもなった。
マルクスというと社会主義のイメージが強いであろうと思う。
労働に価値があり各人が自分の利益を最大にしようと経済活動は民主主義だけでなく社会主義にも有効なのだ。どんな社会であっても労働への動機づけとして欠かせないものであるということ。
よって自分よりも他者を優先する人が多い世界、あるいは全ての人が結果平等であるべきという世界は、労働意欲や生産意欲を失い、死さえも厭わなくなるため、人類や地球の発展は死を迎えるしかなくなるであろう。
でも人間の本性からすればそこまでの心配はないかもしれない。(人間の祖であるアダムとイブは働かず飲み食いできたであろう想像主の恵みの楽園を出たわけだから。労働意欲や生殖を含めた生産意欲、好奇心や探究心など人間の本質を表したのがアダムとイブ。苦や痛み、厳しさが存在しても人間の本質はそれを止められない。創世記というメタファーはよく出来ていると思う)

では経済活動における外力とは何だろうか?
一国においては外国、地球においては地球外、そういうことになるだろう。(地球外とは例えば火星人とか!?)



ケインズのマクロ経済学が発表されたのは第二次世界大戦前のナチスドイツ好調期。
ロバート・ルーカスがマクロだけではどうにもならないとケインズ経済学を批判したのは1970年代。
1971年ニクソンショックによって世界経済が変動相場制に移行した時期である。
政府がどのような財政・金融政策を採っても、国民が先に効果を期待(予想)して行動してしまうので、政府が目論んだ効果は出ず浪費に終わると主張した。
不確実な世界を見る時、人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動すると考えるものである

上に投資もまた自分が最も得をするような合理的な行動の1つであると書いた。
ケインズは1936年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』の中で資本の限界効率なる概念について触れ、すでに「期待」について書いている。

緻密で難解な本との評価があったが確かに分かりにくい。訳文特有の分かり難さを多々感じるが英文でもそうなんだろうか。
第12章 長期期待の状態
原文English:Chapter 12. The State of Long-Term Expectation

前の章で、投資の規模は、金利と、現時点でのいろいろな規模の当期投資に対応した資本の限界効率関係スケジュールの関係で決まることを見ました。また資本の限界効率は、資本的資産の供給価格と、その見込み収益の関係で決まります。

見込み収益の期待の元となる検討事項は、一部は大なり小なり確実にわかっていると想定できる既存の事実に左右され、一部は様々な水準の確信を持って予測するしかできない、将来の出来事に左右されます。

後者をカバーする心理的な予想を、長期期待の状態と呼んでまとめましょう——これは短期の期待とはちがうものです。短期の期待とは、生産者が既存工場で今日生産を開始したときに、完成した製品がいくらで売れるかを推定する根拠となる期待です。


資本の限界効率
100万円投資すれば、5万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)する。利益率(利潤率は5%)
1000万円投資すれば、100万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)する。利益率(利潤率は10%)
仮に現在の金利が7%だったしたら、投資しないで預金したほうが確実に儲かる。だから100万円の投資は行わない。
投資は自分の余剰資金で行うのが鉄則であるが、自分の資金ではなくて誰からからお金を借りて投資する場合にも金利が7%で、儲けを5%と予測するならば投資は行わない。
得をすることが目的の投資には金利との関係で限界率が存在する。
金利7%の時に、1000万円投資すれば100万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)したならば、利益のほうが多い計算となるので投資が行われるかもしれない。
もっとも予測(期待)はあくまでも予測(期待)に過ぎないので、どんな場合であっても儲けが100%保証されているわけではない。


 期待を形成するとき、とても不確実なことをあまり重視するのは愚かです。ですから、多少は自信が持てそうな事実に期待が流されるのは、無理からぬことです。漠然としたわずかな知識しかない事項のほうがずっと結果に関連が深く、自信を持てる部分はあまり関連していない場合ですらそうです。このため長期期待の形成にあたっては、現状についての事実が、ある意味で分不相応なほどの重みをもって入り込んできます。一般的な手法は、現状を見てそれをそのまま将来にのばすことで、それを補正するのは、変化を期待すべき多少なりとも明確な理由がある場合に限ります。

 ですから人の決断を左右する長期期待の状態は、わかる範囲で最も見込みの高い予測だけに基づくものではありません。その予測にどれだけ自信があるか——最高の予測がまるでまちがっている可能性をどれほど高く見積もるかにも左右されます。大きな変化が予想されても、そうした変化が実際にどんな形のものか非常に不確実なら、自信は弱いものになります。

 一般に言う自信の状態は、実務家がいつも最大限の、もっとも神経質な関心を常に払うものです。でも経済学者たちはこれを慎重に分析しておらず、おおむねそれを一般論で語ってすませてきました
。特に、それが経済問題に対して持つ意味合いが、資本の限界効率に対する重要な影響を通じてもたらされる、ということは明らかにされてきませんでした。


ケインズの述べていることは経済に限らず、学者や研究者らと実務家の温度差(違い)にも通じるところがある。
もっとも昨今の学者や研究者は「実際にどんな形のものであるか非常に不確実な自信の弱いもの」に対しても自信があるように振る舞っているように感じられるけれども。


突出した事実として、人が見込み収益を推定するときには、きわめてあぶなっかしい知識を根拠にするしかない、ということがあります。何年か先に投資の収益を律する要因についての人々の知識は、通常は実にわずかで、しばしば無視していいほどのものでしかありません。正直言って、鉄道、銅鉱山、繊維工場、特許薬の事業権、大西洋横断客船、ロンドンシティの建物の、十年先の収益を予測するための知識ベースは、実に少ないし時にはゼロです。いや5年先ですら同様です。実は、本気でそんな推計をしようとする連中はあまりに少数派で、その行動が市場を左右することはありません

人間は、未知である未来、不確実な世界を予測する知識など持っていないという。
未来が遠くなればなるほどその知識はゼロに近づく。

昔の事業は、実際にそれを実施する人物や、その友人仲間などが主に所有していました。事業こそ我が命と張り切るような、楽観的な気質と建設的な衝動を持つ個人が十分に供給されるかどうかで、その当時の投資は左右されたものです。そういう人々は、見込み収益の厳密な計算なんかまじめに見ません。そうした事業は一部は宝くじのようなものでしたが、最終的な結果は、マネージャーたちの能力や人柄が、平均より上か下かにもかなり左右されてきました。でも投資額から見た平均的な結果が、その時点の金利よりも高いか等しいか低かったかは、事後的にすらだれにもわかりません。でも、天然資源採掘や独占事業を除けば、たぶん各種投資の平均実績は、進歩と繁栄の時代にあってすら、それを推し進めた希望には満たないものだったことは考えられます。ビジネスマンは、運と実力の入り交じったゲームをしており、その平均結果は、そのゲームに参加するプレーヤーたちにはわからないのです。人間の天性として、賭けに魅力を感じず、工場や鉄道や鉱山や農場づくりに(利潤以外の)満足感をおぼえないのであれば、冷たい計算の結果だけでは、あまり投資は起こらないかもしれません。

かつての投資や事業を支えてきたものは、真面目な計算や利益追求(得をすること)ばかりではなかったとケインズは指摘する。

昔ながらの民間事業に投資しようという判断は、社会全体にとってはもとより、その個人にとっても、ほぼ後戻りのできない決断でした。今日のように所有と経営の分離が一般化してしまい、組織化された投資市場が発達すると、それは時に投資を促進しますが、ときにはシステムの不安定性を大いに高めます。証券市場がなければ、いったん実施した投資をしょっちゅう再評価しても意味はありません。でも証券取引所は、すでに実施済みの多くの投資を毎日のように再評価します。

証券取引所による日々の再評価は、主に古い投資の個人間取引を支援するために行われるものですが、どうしても当期の新規投資にも決定的な影響を与えてしまいます。なぜなら、似たような既存事業が買えるのに、それより高い費用で新規事業を立ち上げるのは無意味だからです。一方で、もし株式市場に上場してすぐに利益を得られるならば、新規プロジェクトに想像を絶するような金額をつぎ込むだけの誘因も生まれます。したがって、ある種の投資は専門事業者によるまともな期待に基づくのではなく、株価にあらわれた、証券取引所で取引をする連中の平均的な期待に左右されることになります


大金を投資して新規事業や新会社を立ち上げ、それが成長して軌道に乗るのを待つくらいなら、同じ資金で既存事業を買ったほうが手っ取り早い。
これはすでにある大企業に有利な考えとなる。M&Aなどが流行る原因でもある。
一方の株式市場に上場してすぐに利益を得られるならば新規プロジェクトに想像を絶するような金額をつぎ込むだけの誘因も生まれるというのは、フェイスブック上場(規株式公開)なんかもその一例であったであろう。
何故こんなことが可能なのかと言えば、日々刻々と証券取引所が企業(すでに行われた投資)を再評価し株価を付けているからこそ。
不確実であまりあてにならない、あるいは真面目な計算でもよいけれども、そうした個々の期待(予測)で行動するのではなくて、株価という平均的な、あるいは誰かが意図的に操作した評価をもとに行動するのである。
自ら動いているようでいて実は動かされているのだ。それを外力と言ってもよいかもしれない。








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# by yumimi61 | 2017-12-29 14:09
2017年 12月 27日
カンパ(-ニャ)
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年末も押し詰まりスーパーマーケットにはお正月食材が並びだしましたね。
そこで報連相(報告・連絡・相談)、ほうれん草。
お雑煮にほうれん草を使うという人も少なくないかもしれませんが、今年はほうれん草がめちゃめちゃ高い!品薄!
ほうれん草に限らずキャベツも白菜もレタスもみ~んな超高い。
でも私、キャベツと白菜とレタスと大根とブロッコリーは作ったので大丈夫なんです。(大根以外はトレーに種まきしてから植え替えてトンネル栽培)
ほうれん草は作らなかったのですが、寒さに強い青菜を9月末に種まきをしました。ところがごく僅かしか発芽しなかったんです。発芽したのも育たないうちに霜やら雪にあたってぐったりしています。
実はほうれん草の高値も秋の気温が低すぎたことが原因です。
群馬県はほうれん草の出荷は全国3位なのです。
ほうれん草は寒さに強い野菜なので冬に出荷するものは露地栽培でいけます。8月終わりか9月頃に直播きします。
私の青菜は発芽も揃わなかったのですが、農家の家のほうれん草は発芽は揃っていました。ただその後の気温が足りずに大きく育たなかったようです。
早い所では10月に諦めて畑を耕しほうれん草を漉き込んでいました。
幾ら寒さに強いと言っても、それなりの大きさになっていないものに霜が降りたり雪が降ったりすればダメージも大きい。11月くらいに諦めて耕した家もありました。
いつも年末にほうれん草をお裾分けしてくれるほうれん草農家の方も今年はやはり厳しいようで・・。
農家の人が失敗しているのを見ているので高値や品薄も納得。



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# by yumimi61 | 2017-12-27 23:39
2017年 12月 26日
日本国憲法の秘密-647- (外貨準備と貿易について)
『雇用・利子および貨幣の一般理論』(The General Theory of Employment, Interest and Money)
イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが1936年に著した経済学書。単に『一般理論』と呼ばれることもある。

ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes), 1883-1946.
 ジョン・メイナード・ケインズはまちがいなく経済学史上で最重要人物の一人だ。その古典『雇用と利子とお金の一般理論』 (1936) で、ケインズは 経済学に革命を起こした。これは 20 世紀で最も大きな影響力をもたらした社会科学理論だろうと考えられている。この本は世界の経済や社会における政府の役割についての見方を、一瞬で永久に変えてしまったからだ。 これほど大きなインパクトをもたらした本は空前絶後だ。

(略)

 1936 年初めにやっと『雇用と利子とお金の一般理論』という大仰なタイトルの新刊が刊行された。大いに期待されていた本だし、値段も安く設定されていたし、都合のいいことに世界が大恐慌に捕まっていたまさにその時に出てきたこの『一般理論』は、学界と政治の世界の両方で旋風を巻き起こした。あるアメリカの政治家曰く、新古典派の経済学者たちが提案する政策は、政治的にはろくでもないものだというのは誰でも知っていたけれど、この本のおかげでそれが経済学的にもひどい代物だというのがわかった、とのこと。

 この本は『一般理論』とだけ呼ばれるようになった。この中でケインズは、総産出がどう決まるか――そして結果として雇用がどう決まるか――を説明する理論を考案した。そして総産出こそが一番重要な決定要因だと述べた。ケインズが創出した革命的な概念としては、需要が均衡を決定してそれが失業を可能にするという考え方がある。そして価格弾性は失業をなくすことはできないという考え方、「流動性選好」に基づく独特なお金の理論、革新的な不確実性と期待の導入、投資スケジュールの限界効率によってセイの法則を破ったこと(そしてそれによって貯蓄と投資の因果関係を逆転させたこと)、不景気をなくし経済過熱を抑えるために政府が財政・金融政策を使う可能性を示したこと。実際、この本によって、ケインズは「マクロ経済学」として知られる根本的な関係や概念を、ほとんど一人で構築したのだった。

 ケインズの革命は経済学界を2つの世代に引き裂いてしまった。つまり若い連中は我先にケインズを支持した。でも古い学者たちはケインズ説を糾弾した。ジョン・メイナード・ケインズは 1937 年に最も有力な反論者たち、ジェイコブ・ ヴァイナー、デニス・ ロバートソン そしてベルティル・オリーンなどに一連の論文で反論した。この論文により、ケインズは自分の理論の重要な論点について議論をさらに展開できた。ケインズのサーカスのメンバーたちは、この緻密で難解な本の解説書を立て続けに発行した。例えば、ジョーン・ロビンソンや、その他イギリスの地方の若い経済学者たち、ロイ・ハロッド・やアバ・ラーナーなどだ。



引き裂かれた2つの世代、若い世代と古い世代と言うと、古い世代が管理や規制派のように感じることが多いと思うが、経済学の場合は少々違う。


重商主義経済学(金銀国際収支論)
  ↓
イギリス古典派経済学 アダム・スミスなど →マルクス経済学が継承
  ↓
新古典派経済学(自由主義経済学) アルフレッド・マーシャルなど
  ↓
ケインズ(マクロ)経済学 
  ↓
マクロ・ミクロ経済学(合理的期待形成仮説) ロバート・ルーカスなど


イギリス古典派経済学は労働に価値があるとする説で、各人が自分の利益を最大にしようと経済活動を行えば、最終的に全てにおいてバランスが取れるという考え。(見えざる手によって自然に調整される)
イギリス古典派経済学と書いたが、この他のケインズまでの経済学の中心人物もイギリス人である。(ルーカスはアメリカ人。シカゴ大学でノーベル賞受賞者)


それを批判して生まれたのが新古典派経済学(自由主義経済学)だが、こちらも基本的には自由放任主義。
但し、公共投資や市場が上手くいっていない時(失敗した場合)への対応、国あるいは国家間の経済安定化政策など政府にしか行えないものは政府が行うべきであるとし、政府の役割も重視しており、まるで放任主義を主張しているわけでもない。
しかし政府の積極的な財政・金融政策は、失業改善させることはなく、浪費をもたらすだけで終わるとも考えている。
市場の需給バランスは物価などによって自然に調整され、失業などの労働問題に関しては労働賃金を調整することでバランスが取れるとしている。
この新古典派経済学(自由主義経済学)が問題となるのは、完全競争が前提となっていること。
完全競争は市場原理主義(小さな政府)が前提とする「人間は平等」に近いものがある。売り手と買い手が極端に偏ることなくどちらも多数存在していて、双方が経済情報を持っており、どちらか一方が価格を操作するようなことは出来ない。提供される資金・商品・サービスの質もほぼ同じ。つまりみな同じステージにいるという前提にある。


ケインズのマクロ経済学は、国民総生産や国民所得、失業率やインフレ率など国の様々な経済データを指標にするもの。統計学が重要となる。
その指標や分析をもとに政府が積極的な財政・金融政策を採っていく。
マクロの反対のミクロ経済学は、消費者と生産者の需給が市場ひいては国家を形成すると考えるもの。
マクロは演繹法。一般論やルールに観察事項を加えて結論を導く思考方法。そう簡単に動くものではない一般論やルールが存在していて、それに当てはめる形で物事を考えて対応していく。いわばトップダウン。
ミクロは帰納法。多くの事実を観察して共通点・類似点をまとめ上げ結論を導き出す論法。いわばボトムアップ。


マクロ・ミクロ経済学(合理的期待形成仮説)は、ケインズ経済学を批判しマクロだけでは語れないとする主張。
政府がどのような財政・金融政策を採っても、国民が先に効果を期待(予想)して行動してしまうので、政府が目論んだ効果は出ず浪費に終わるとも主張する。
不確実な世界を見る時、人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動すると考えるものである。
人が自分の利益を最大にしようと経済活動を行うはずとしている点はイギリス古典派経済学と同じ。
結局無駄になるのだから政府は何もせずに市場に任せたほうがよいということになる。
レーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相など非常に強いイメージのある1980年代頃の世界のリーダーは「市場に任せたほうがよい」という小さな政府を経済政策のバックボーンとしていた。
ソニー会長であった盛田昭夫なども「小さな政府」支持派であった。
インフレ解消には効果があるが、やはり勝ち負けがある世界(利己的に動いても結果が出せる人と出せない人がいる)なので失業率などは増える傾向にある。

人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動すると言うが、その中にもいろんな人がいる。
利用可能な情報を効率的に使って形成される期待もあれば、思い込みによる期待、噂などに流される期待もある。
自分が最も得をするように(合理的に)行動しない人がいるのも事実である。
システマティックで正確な予想をし数学的に最適な選択を行なう全知全能型の合理的経済人もいれば、アニマル型経済人いる。
楽観的な人もいれば悲観的な人もいる。
全知全能型の合理的経済人はやがてコンピューターに取って代わったりもする。
結局どの経済学(理論)も、このような差があまりに大きくなるとバランスは成立しなくなる。
ある程度均一的な情報量、レベル、民度でないとバランスはとれない。


ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行したのは1936年、世界が2度目の世界大戦に突入する少し前のこと。
第一次世界大戦前も第二次世界大戦前も経済が好調だった国はドイツである。
第一次世界大戦はドイツの国際金融資本に依らない経済発展を脅威に感じて引き起こされたのではないかと考えられる。
ドイツはその戦争に負けて多額の賠償金が課せられるも開発スピリットみたないものは衰えなかった。戦争によってむしろ促進されたのかもしれない。戦争は歴史的に見ても技術革新の大きなチャンスとなっている。
戦争に疲弊し「戦争なんか懲り懲り~」という勝者の(でもアメリカからの借金がかさんだ)イギリスやフランスに比べると立ち直りも早かった。
考えようによっては、敗戦国の戦士者遺族よりも、戦勝国の戦士者遺族のほうが辛く立ち直りが遅い気がする。勝ったのになんで死んじゃったの・・なんでうちだけ・・みたいな感じで受け入れにくい、疎外感を感じやすい。その温度差や、それに気を使ったりすることが全体的な士気を下げるかもしれない。

そんな世界に訪れた世界恐慌1929年。根拠のない投機熱がもたらしたアメリカウォール街発の恐慌である。
でも大不況が世界に広まるきっかけはこちら。
1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立。クレディ・アンシュタルトとも。)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。
この銀行破綻(閉鎖?)をきっかけに、ドイツ第2位の大銀行が破綻。これを機にドイツは大統領令で全銀行を閉鎖した。
銀行がストライキしたら期限までに借金返済できない。債務超過で連鎖的に企業が倒産し、小国も破綻した。ドイツも不況に陥った。

ドイツ経済の発展は市場(民間)が引っ張っていた。
しかしながらこの1931年クレジットアンシュタルトの破綻によって状況が変わった。政府が主導権を握るようになった。
その政府こそナチスである。
1933年に大統領の指名によって第一次世界大戦時に無名の青年だったヒトラーが首相に就任。ナチスを結成。
ドイツの経済は政府の主導のもと瞬く間に改善した。ケインズのマクロ経済学はその頃に執筆されたものである。









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# by yumimi61 | 2017-12-26 14:43
2017年 12月 25日
日本国憲法の秘密-646- (外貨準備と貿易について)
前記事に引き続き、1998年のロングタームキャピタルマネジメント(Long-Term Capital Management;LTCM)の破綻について。


青字は、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント破綻より

世界最大級の金融破綻
 去る 1998 年の「ロング・ターム・キャピタル・マネジメント」(Long Term Capital Management)の破綻は国際金融の歴史の中でも前例を見出しがたい世界最大級の金融破綻事件であり、扱いを誤れば世界経済を破滅の底にたたき込みかねない、いわばこの方面における「キューバ危機」であった。さいわい連邦準備制度理事会のグリーンスパン議長の大英断によって何千億ドルもの資金援助が関連金融機関に対して行われ、世界経済はカタストロフの悲劇を見ずにすんだ。議長の当時の救済融資は正規の手続きを全うしていないといわれているが、かえって歴史に名を残す名議長といわれた。これも事態が切迫し急を告げていたことのあらわれであろう。


非常に信用が高く動かしているお金も大きかったファンドの失敗。
信用が高いもの、動かしているお金が大きいものほど、反作用も大きいものである。
要するに信用を失う度合い、信じられなくなる度合い、幻滅する度合いが大きいといことだ。
多くの信用を集めるということは事業には有利であるが、失敗した時に失うものも大きい、いわばハイリターンハイリスクである。
今まで信用していたものは本当に大丈夫なんだろうか?信用不安が世界的に波及することを防ぐための策をFRB議長がただちに実行した。
飽きっぽく忘れっぽい世の中では当座の対応が大事、それは確かにそうかもしれない。
信用不安が世界的に波及しなかったからこそ、世界最大級の金融破綻を知らぬまま今日まで生きてきたか、すっかり記憶の外になってしまっている人が多いのだろうから。
でもその特別待遇な対応は、信用が多かったり扱う金額が多ければ失敗しても救済されて最悪な大損は逃れられるという印象を与えてしまう。
多くの信用を集めるということはハイリターンハイリスクであるはずだ。それが自然な成り行きなのだ。がしかし対応によってはハイリターンローリスクと思わせてしまう。権威みたいなものを却って補強してしまうのだ。
またFRBが特別待遇な対応をとるくらい在り得ないことが起こっただけという認識に至らせ、そんなことは通常は起こらないとリスクへの警戒感を弱める効果がある。
そういう意味では罪深い対応なのかもしれない。
もっとも後に起こったリーマンショックでは世界金融危機が引き起こされたわけだが。

ノーベル賞受賞者が関与
 LTCM の破綻が学会の関心を引くとすれば、LTCM の「チーム」の中に 2 人のノーベル賞受賞者がいたことであろう。一人はコンピュータ・サイエンス出身の金融経済学者でスタンフォード大学教授マイロン・ショールズ(Myron Scholes)、もう一人は数学出身の経済学者でハーバード大学教授ロバート・マートン(Robret Merton)である。2 人は 1997 年、フィッシャー・ブラック(Fischer Black)と共同で導出に成功したいわゆる「ブラック・ショールズの公式」(Black-Scholes formula)で知られるデリバティブの価格付け理論によりノーベル経済学賞を受けている。
事態に困惑したノーベル賞委員会のなかには、2 人に対する受賞の撤回、ノーベル経済学賞自体の廃止の声さえ上がった。よく知られるとおり、ノーベル経済学賞は賞の創設時にはなく、現在も選考手続は外部委託されており、ノーベル賞委員会からみればこの事件は賞の権威を失墜させるものと考えられたのである。

破綻の原因
 LTCM 破綻の要因はいくつか考えられるが、一般的な解説、関係者の話を総合すると、a. 大数の法則の市場適用、b. 過度の信用供与、c. デリバティブ取引の監視体制の問題がまずはあげられよう。a の大数の法則の市場適用については、ブラック・ショールズのモデルに連続時間を持ち込んだマイロン・ショールズのファイナンス理論が基本である。その前提は、市場価格は対数正規分布にしたがう(正確には対数正規ブラウン運動=幾何ブラウン運動となる)というものである。これは確率論としては中心極限定理(業界ではこれを「大数の法則」とよぶ通俗ミスが流布している)である。統計学者には正規性の検定などこれを検証するという帰納的態度があるが、自然科学者や数学者の間では、この正規分布はほとんど神話のような法則である。
正規分布の元では日常から著しく外れた数値は「ほとんど火星人の到来のようなものである」。しかしながらそれは現実に起こったのだが。かってフランク・ナイト(Frank Knight, 1921)が「リスク」と「不確実性」を分け、リスクは想定された事象で確率がわかるもの(したがって保険が可能)、それに対し「不確実性」は想定範囲にも入っておらずその確率は測れない、というよりはそもそも「確率」自体成立しない(いわば、本物の不確実性)と述べた古典法則が思い出される。その意味で、ケインズが賢くも確率論の古典Treatise on Probability(1927)で展開した確率思想、つまり数値としての確率概念は不可能で、確率概念は半順序としてのみ可能としたことを思い出す。社会的事態に確率を扱うには重要な見地である。



私は今年の6月に統計の有意水準について書いた。
統計に「絶対」や「100%」はない。
それは何故かと言うと、人間である私達は「偶然」や「奇跡的」を排除することが出来ないからである。
でもそれを言い出すとキリがない。
例えば、幾ら理路整然にSTAP細胞を否定しても、奇跡を考慮してしまうと、完全否定は出来なくなる。
すると「ほんとだもん、偶然出来たんだもん」「我々は奇跡的に成功した」とか言い出して悪用される。
これは非現実的で社会性を欠き、社会にとってプラスになるとは言えない。
そこで「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」という値(有意水準)を決めておくのだ。
よく用いられる値が5%や1%。
これ以下でしか起こってこないこと(有意差あり)は否定の根拠となり得るという約束(ルール)の上で成り立っている。
もしも5%や1%以上の値が得られたとしても(有意差なし)、それを理由に「偶然」「奇跡」側が因果関係や正当性を主張することは出来ない。
数値的に否定の根拠になり得なかっただけのことで「不確定」「どちらとも言えない」といった状態である。データ(回数)を増やせば値が変わる可能性がある。


上で転載した文章に、正規分布の元では日常から著しく外れた数値は「ほとんど火星人の到来のようなものである」、とある。しかし我々地球人は火星人が到来したのを見たことがない。火星人が到来したという確からしい証拠を突きつけられたこともない。
滅多に起こらないことだけれど全くその事実がないわけではないこと(日常から著しく外れた数値)と、全くその事実がないこと(確認できないこと)は違うものである。
「死なない人間」というのは、全くその事実がないこと(確認できないこと)に含まれる。
統計において「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」と決めている値(有意水準、よく用いられる値が5%や1%)以下の事であっても起きないことではないのだ。
起きる頻度がとても低いので、ルール上、起きないことにする(無視する)と決めているだけである。
確率は起きる時期を予想するものでもない。
だからそのルールを知らない人が統計や確率を乱用したり、それを基に何か判断すると誤った解釈になる可能性がある。


歴史に無関心
 ナイトにせよ、ケインズにせよ賢人の知恵のようなものだが、今日の確率論や意思決定のテキストからはこの「リスク」と「不確実性」の分別は消えている。Luce, Raiffa の Games and Decisions(1957)を最後に以降は見ていない。また、出版後 80 年も経つのにケインズの Treatise on Probability はケインズ全集の中でも邦訳されていない。世界的に見ても、Treatise on Probability に対する引用や言及は少ない。だから、LTCM の人々は、1929 年の大恐慌から学ぶことがなく、ソ連の崩壊のような想定外の事件は計算に入れてなかったのである。数理科学者が先輩の賢人の知恵や歴史に対しいま少し謙虚であったなら、モデルは社会的によりよく適合したであろうに。


統計学には検証するという帰納的態度がある。
それはある程度検証可能であるからだ。自然科学と違うのは前向きな調査研究が可能であること。
条件をなるべく同じにして何度も試してみる、幾つものデータを取るということが出来る。
自然科学では前向きな調査研究が行いにくい。
例えば地震は断層のずれによって生じるという説がある。
その確かさを試すために、断層を意図的にずらすことを何度も行う。
どれくらいずれたらどの程度の地震が発生するのか調べるために何度も実験する。そんなことは出来ない。
すでに起こったことを調べる後ろ向きの調査しか出来ないのだ。
場所が変われば日時その他いろいろ変われば条件が違うということなってしまうので、何かを論じるだけの十分なデータはなかなか集まらない。
それが出来るようになったと思わせたのがコンピューターによるシュミレーションや計算。
何かを見落としている確率や間違える確率をコンピューターは告白せずにまるで全知全能のように振る舞う。
じゃあそのコンピューターを作ったのは誰だ?という話になるけれども(人間を作ったのは誰だ?に通じる)、人間はコンピューターに別格なイメージを抱いてしまう。でも仮想は仮想。コンピューターは二次元より複雑だけれど、現実世界の次元はもっと多いかもしれない。人間の意識や感情といったものまでもが入りこんでくる。
コンピューターの正確さは意識や感情とは無縁であるところに裏打ちされたものであると思うので、「人工知能」なんて人間臭さを出せば出すほど信用が弱まる。
ともかく過去に起こったことは再び起こっても不思議はない。

それとは逆になるが、自然に起こる事象としては確率がとても低くくても、故意に発生させるならばもっと高い確率で起こってくるということは当然あり得る。
それはもう起こす人の気分次第であるから確率なんて無意味。でも気分だから防ぎようがあると言えばあるとも言えるけれども。
故意に発生させるような人のご機嫌をとることが正しい世界なのかどうかは微妙だと思うけれど。


学者のモラルのレベル
 ここではのべないが、学者の社会関与に多大な金銭的利益が関係するときの倫理の問題がある。医(薬)学者が医薬を発明したとき、工学者が極めて高価値なデバイスを開発したとき、確率・統計の公式が多大な経済的価値を生み出すときなど、倫理はいかにあるべきか。学者の金銭上のモラルは、平均人以下ではないにせよ、以上でもないであろう。利用の許可ならとにかく、LTCM のように自ら会社を興しての利用ならば社会的責任は免れないというところがおおかたの線であろうか。上記(b. 過度の信用供与)の原因のように、LTCM が銀行から過度の与信を受けたとき、学者の社会的名声が多大な効を奏したという。(日本統計学会巻頭随筆 2004.4 月号掲載予定)






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# by yumimi61 | 2017-12-25 12:20
2017年 12月 24日
日本国憲法の秘密-645- (外貨準備と貿易について)
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1971年のニクソンショック以降、世界的に変動相場制に移行した。
最後まで金本位制に縛られたアメリカが割を食い、それに耐えきれずに止めた時である。
アメリカの中央銀行であるFRBがドル紙幣の供給を始めたのが1975年。-①
ちょうどその頃から国債発行額(国債発行残高)が伸びていることが分かる。 
以後伸び続けた国債発行残高にブレーキがかかったのが②の部分。
この②の期間がクリントン大統領の時代である。
発行残高が伸びなくなったということは、この期間は新たな国債発行が抑えられた若しくはなかったということになる。
その後にまた増えて、2008年頃から急増した。ー③
これはリーマンショック前後の金融危機が1つの原因となっているが、リーマンショックはアメリカ大統領選の最中に起こり、政権がオバマ大統領の時代に入っていく時期と重なる。


アメリカの国債発行削減時期の終わりは、クリントン政権が終わった時期(2001年1月)、アメリカのITバブルが終焉した時期(2001年)、アメリカ同時多発テロ発生時期(2001年9月)と重なっている。
国債発行削減持続不可能となる条件が、政権、経済、軍事と、見事に重なってしまった。


アジア通貨危機が始まった1997年。(黄色線⑤)
その翌年1998年9月にロングタームキャピタルマネジメント(Long-Term Capital Management;LTCM)というアメリカのファンドが破綻した。(黄色線⑥)
この2つの出来事はアメリカの国債残高の伸びが見られなくなった時期、GDP比においては減少が始まった時期に起こっている。

ロングタームキャピタルマネジメント(Long-Term Capital Management;LTCM)
運用チームにノーベル経済学賞受賞者らを集め、高度な金融工学理論を駆使して、組成から数年は驚異的な成績を記録した。しかしアジア通貨危機の結果起きた予期せぬ市場の変動により、大きな損失を出して破綻した。

LTCMはソロモン・ブラザーズ(現在はシティグループの一ブランド)で活躍していた債券トレーダーのジョン・メリウェザーの発案により設立され、1994年2月24日に運用を開始した。
このファンドはFRB(アメリカの中央銀行)元副議長デビッド・マリンズや、マイロン・ショールズとロバート・マートンといった著名人が取締役会に加わっていたことから「ドリームチームの運用」と呼ばれ、当初より12億5000万USドルを世界各国の証券会社・銀行などの機関投資家、富裕層から集める事に成功した。メリウェザー自身は25億ドルの資金を集めることが目標であった。

出資者は多岐にわたる。後述する救済融資に参加した金融機関の他、香港土地開発局、シンガポール政府投資公社、台湾銀行、バンコク銀行、クウェート国営年金基金、イタリア銀行、住友銀行などがLTCMに投資していた。著名人では、ハリウッドエージェントのマイケル・オビッツ、ナイキのCEOであったフィル・ナイト、ベアー・スターンズCEOのジェームズ・ケインなどが多額の資金をLTCMに提供した。さらにはセント・ジョーンズ大学、イェシバ大学、ピッツバーグ大学なども資金を提供したことから、いかにLTCMが世間から期待され信用されていたかが伺える。


そんな信用の高いビッグファンドが何故アジアの通貨危機で破綻することになったのか。
そこには現在の世界経済が抱える問題と闇が存在しているように思う。
その問題は随分昔にイギリスの著名な経済学者のケインズが指摘していたことに通じる。

LTCMは金融工学、すなわち統計学的な最適解であるシンプレックス法を資金運用に駆使した。
その運用方針は、流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていない事に着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りするもの(レラティブ・バリュー取引)であった。
コンピュータを用いて多数の銘柄について自動的にリスク算出、判断を行って発注するシステムを構築した。また、個々の取引では利益が少ないことから、発注量を増やし、レバレッジを効かせて利益の拡大を図った。その後、1995年にはM&A、1996年には金利スワップ取引、1997年には株式やモーゲージ取引のように、流動性が低く、かつ確実性の低い市場取引にも参入していった。


自分が売りたい時に(交換したい時に)売りたい価格で(交換したい価格で)売れやすいものほど「流動性が高い」と言う。
自分が売りたい時に(交換したい時に)売りたい価格で(交換したい価格で)売れにくいものを「流動性が低い」と言う。
金融界で一番流動性が高いのは紙幣。
未知の明日のことは誰にも分からない。1か月後、1年後、10年後なんて尚更。確かなものは今ここにある現実。確かなものだけが人々の漠然とした不安を払拭できる。その確からさを流動性利益と呼ぶ。
その確からさ(流動性利益)を手放してもらうには何かしら特典を与える必要がある。それが利子である。不安と引き換えるものが利子なのだ。
株券よりは国債のほうが流動性が高い。
中小企業の株券よりは大企業の株券のほうが流動性が高い。

特定の市場や国などに攻撃を仕掛けるマクロファンドと異なり、市場に対して中立的な方針をとるこのファンドの運用は1998年初めまで成功し、当初の投下資金は4年間で4倍に膨れ上がった。平均の年間利回りは40%を突破した。結果としてLTCMへの信用が高まり、資本金65億USドル程度の会社が、UBSなど各国の金融機関の資金1000億USドルを運用するところまで規模を拡大した。

しかし1997年に発生したアジア通貨危機と、その煽りを受けて1998年に発生したロシア財政危機が状況を一変させた。
アジア通貨危機を見た投資家が「質への逃避」を起こしつつあった所へロシアが8月17日に短期国債の債務不履行を宣言した事により、新興国の債券・株式は危険である、という認識が急速に広がり、投資資金を引き揚げて先進国へ移す様になったのである。
LTCMはロシアが債務不履行を起こす確率は100万年に3回だと計算していた。
LTCMの運用方針では、この新興国に対する投資家の動揺は数時間から数日の内に収束し、いずれ新興国の債権・株式の買い戻しが起こることを前提としており、それに応じてポジションをとった。これらの経済危機によって生まれた投資家のリスクに対する不安心理は収まらず、むしろますます新興国・準先進国からの資金引き上げを加速させていった。先進国の債券を空売りし、新興国の債券を買い増していたLTCMの経営は深刻な状態となった。

結果としてLTCMの運用は破綻し、資産総額が下がり始めてから約8ヶ月の間で1994年の運用開始時点の額を下回り、1998年9月18日頃には誰の目にも崩壊寸前である事が明らかとなった。


LTCMは流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていない事に着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りしたりしていた。
要するに、LTCMはアジアなど新興国の実力を評価していたということになる。
しかしその評価は外れていた。
アメリカの経済が好調となり国債発行を減らすなど成果を出し始めドル安からドル高に動いた。国際的にアメリカの評価が上がったことを意味する。
アジアの新興国の経済がアメリカ経済と連動しているならば、アジア新興国の経済も刺激されて更なる伸びを見せてもよいはずである。
しかし結果は逆。伸び悩んだのだ。
これまでアジア新興国の経済(輸出)が成長していたのは単に通貨安への為替介入(誘導)のおかげであることが分かった。
またアジア新興国の経済(輸出)がアメリカ経済と連動していないことも露呈してしまった。


LTCMは欧米の金融機関から投資された47.2億USドルを元手に、25倍のレバレッジをかけて、1290億USドルもの資金を運用しており、さらには1.25兆USドルに上る取引契約を世界の金融機関と締結していた。そのためLTCMが崩壊すると、ただでさえ前述の経済危機により不安定となっていた金融市場に多大な影響を与え、恐慌への突入も危惧された。
また、ニューヨーク連邦準備銀行副総裁のピーター・フィッシャーは、LTCMが世界中のいたるところで同じスプレッド取引を行っていることに気がついたのだが、その成功を見た多くの金融機関がLTCMの運用手法を模倣しており、それらも多大な損失を生み出していた状況であったため、なおさらのことであった。

そこで、一私企業の救済は自由経済の原則にそぐわないとして反対する声を押し切り、ニューヨーク連邦準備銀行の指示によりLTCMに資金を提供していた14銀行が、LTCMに最低限の資金(36億2500万USドル)を融通し、当面の取引を執行させて緩やかに解体を行わせていく事にした。またアメリカにおいてはFRB議長アラン・グリーンスパンの指示により、短期金利のFFレートを1998年9月からの3ヶ月間で3回引き下げるという異常なまでの急速な対応をとり、LTCM破綻危機により拡大した金融不安の沈静化を図った。

LTCMに対する救済融資のうち9割が1999年中に返還され、翌年までにLTCMは清算された。メリル・リンチは年次報告書の中でこう述べた。「数学的なリスク管理モデルは保証しきれない安心感を醸し出すのかもしれない。あてにしない方がいい」

救済融資はFRB主導で行われた事実上の買収だったのではないかという見方が出ている。ジョージ・ソロスや投資銀行が、アジア危機、ロシア危機の余波を受けて身動きが取れなくなったLTCMを陥れるため、意図的に新興国市場に売りを浴びせ「質への逃避」を加速させたとの説もある。
LTCMの中心人物であったジョン・メリウェザーはJWMパートナーズの説明会で「自然災害に対して保険を掛けるのは理に適っている。しかし、相場の暴落に対して保険を掛けるのは間違いである。なぜなら、彼ら(保険の契約相手)は暴落を引き起こす能力を往々にして持っているからだ」と意味深なコメントを残している。


間違った評価が支持され、それに追従して同じことをしていた者がかなりいた状態だったわけだが、最初の評価が当てにならなかったということなのだ。
それを「想定外の出来事」「不確実性要素」としての結果と片付けるか、「確率論の誤り(主観的信念あるいは客観的信念の誤り)」「確率の計算間違い」と考えるかは人それぞれですね!?





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# by yumimi61 | 2017-12-24 16:40
2017年 12月 24日
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# by yumimi61 | 2017-12-24 00:00
2017年 12月 22日
日本国憲法の秘密-644- (外貨準備と貿易について)
【2017年上半期(1~6月)の新車販売台数】
■日本(軽自動車含む)278万2542台
■アメリカ 845万2453台

アメリカの人口は日本のおよそ2.7倍である。
両国の人口の年齢構成は違うと思うが、単純に日本の販売台数を2.7倍すると約751万台なので、日本よりもアメリカのほうが自動車が売れているということになる。
特に日本の場合、販売台数の4割近くが安い軽自動車である。
一方のアメリカは、SUV、バン、ピックアップトラックが含まれるライトトラックに分類される車(セダンではない種類)の販売台数が6割を超える。

SUVは日本車で言うRVのオフロードタイプ。レジャーに最適な高級車。
バンは人を多数乗せることが出来るので家族の多い家庭やその用途で使うことが多い人向け。
ピックアップトラックは後ろ(荷台部分)がオープンとなっているトラックタイプの車。日本ではほとんど見ない車なので非常にアメリカっぽい車と言える。
一昨年、北海道で一家5人乗っていた軽ワゴン車が無謀な運転をしていた乗用車と衝突し死傷した事故で、無謀な運転をしていた加害車側の車がBMWのRV車とシボレーのピックアップトラックであり、その時にピックアップトラックがテレビに映し出されていた。覚えていればあれがピックアップトラックです。

ともかくアメリカでライトトラックに分類されて販売されている車は比較的価格も高い。
台数だけでなく利益としても日本で売るよりもアメリカで売った方が効率がよいということになる。


【2017年上半期(1~6月)の日本の普通車 新車販売台数 車名別】
1.プリウス(1,797㏄) トヨタ 91,246台 ②
2.ノート(1,198~1,597㏄) 日産 84,211 ③
3.C-HR(1,196~1,797㏄) トヨタ 79,303 ⑤
4.アクア(1,496㏄) トヨタ 64,148 ⑧
5.フリード(1,496㏄) ホンダ 61,057 ⑨
6.セレナ(1,997㏄) 日産 54,344
7.シエンタ(1,496㏄) トヨタ 54,055
8.ヴィッツ(996~1,496) トヨタ 51,617
9.フィット(1,317~1,496㏄) ホンダ 46,171
10.ヴォクシー(1,797~1,986) トヨタ 43,448
11.インプレッサ(1,597~1,994㏄) SUBARU 41,222
12.ルーミー(996㏄) トヨタ 39,111

【2017年上半期(1~6月)の日本の軽自動車 新車販売台数 車名別】
1.N-BOX ホンダ 106,231台 ①
2.タント ダイハツ 80,607 ④
3.デイズ 日産 76,707 ⑥
4.ムーブ ダイハツ 72,167 ⑦
5.スペーシア スズキ 57,763 ⑩
6.ワゴンR スズキ 57,205
7.アルト スズキ 50,915
8.ミラ ダイハツ 45,632
9.N-WGN ホンダ 44,436
10.ハスラー スズキ 41,575

〇内数字は普通乗用車と軽自動車合わせての販売台数トップ10(1位は軽自動車)


2017年上半期に限らずトヨタのプリウスは根強い人気がある。
よく何か大きな事故があると「またプリウスか!」と言われることもあるが、世に出ている台数も多いということだ。
プリウスはハイブリッド車。変速機は昨日書いたCVT(無段変速機)。
ハイブリッド車も量産が始まってからだいぶ経つので今更と言えば今更だが、ハイブリッド車は2つ以上の動力源を持つ自動車のことである。
燃費の良さが売りだが、燃費の良い車をハイブリッド車と言うわけではない。

2つ以上の動力源を持つ車両(自動車だけに限らない)をHV(hybrid vehicle) と呼ぶ。日本で一般的にハイブリッド車と呼ばれる車両は内燃機関(エンジン)と電動機(モーター)を動力源として備えたHEV(hybrid electric vehicle)である。車種によって違いはあるものの、運転条件によってエンジンのみで走行、モーターのみで走行、エンジンとモーターを同時に使用して走行するものなどがある。

アイドリングストップと低速時にモーター(電気)走行することで燃費を良くしている。
だからこれも信号や一時停止などで停止を繰り返すことが多い日本のような国や都市部に向いている。
高速道路、信号の少ないバイパス道路や郊外のような道をガンガン走る機会が多い人には適さない。メーカーが謳っている燃費性能は到底出ない。
何故なら高速で走る時にはモーターではなくてエンジンが用いられるから。省エネの恩恵に与らない。
そうした乗り方が多いならば(クリーン)ディーゼルのほうが適している。速度も出て燃費も良い。
ただアメリカはディーゼル車に用いる軽油がガソリンより安くないので普及しない。ヨーロッパはディーゼル車が多い。

プリウスは当初排気量が1500㏄だった。
それが3代目となった2009年より排気量を1800㏄に上げた。
前に自動車は排ガスなど環境基準が厳しくなるとその分パワーを落とすということを書いた。
その昔360㏄だった軽自動車の排気量を上げたのもパワー不足が顕著になったからだ。
パワーがない状態でパワーが必要なことを行えば、望んだ走行が出来ず不満が溜まるのはもちろんのこと、事故などを招く危険もある。
私はパワーの大きな車から小さな車に乗り換えたが、乗り換え当初、それまでの車で体得した運転感覚が全く合わずにヒヤリとしたことが何度かあった。
またパワーがない状態でパワーが必要なことを行えば燃費は物凄く悪くなる。それは燃費の良いと言われている車でも同じこと。
プリウスも排気量1500㏄では燃費の良さが出ない乗り方をしている人が多かったのだろう。それで1800㏄まで上げた。
総排気量が多くなったのだから排気は多くなる。
また排気量によっては税金も上がる。

ハイブリッドシステムは故障しやすい。
メーカー保証として5年とか設定していることが多いかもしれないが、故障すると普通のガソリン車に比べて修理が高額になる。
バッテリー交換なども下手すれば10倍以上かかる。
修理代は何十万も覚悟しなければならない。そうならない前に乗り換えるのかもしれないが。
だから幾ら燃費が良いと言っても、本体価格、修理点検代、乗り方(走行距離や乗る場所)、乗り換え頻度・乗り換え時の下取り価格、ローン使用の有無(期間・金利など)、そういう諸々を考慮しないとお得とは言えない。



【2017年上半期(1~6月)のアメリカの新車販売台数 メーカー別】
1.General Motors Corp. (GM、アメリカ)1,413,285
2.Ford Motor Company (フォード、アメリカ)1,294,397
3.Toyota Motor Sales USA Inc. (トヨタ、日本)1,155,165
4.Chrysler(クライスラー、) 1,048,961
5.Nissan North America Inc. (日産、日本)819,688
6.American Honda Motor Co Inc. (ホンダ、日本)791,886
7.Hyundai Motor America (現代、韓国)346,360
8.Subaru of America Inc. (スバル、日本)304,810
9.Kia Motors America Inc. (キア、韓国)295,736
10.Mercedes-Benz (ダイムラーのメルセデス・ベンツ、ドイツ)177,760
11.Volkswagen of America Inc.(フォルクスワーゲン、ドイツ)161,238
12.BMW of North America Inc. (BMW、ドイツ)149,086
13.Mazda Motor of America Inc. (マツダ、日本)141,624
14.Audi of America Inc. 102,971 (フォルクスワーゲングループのアウディ、ドイツ)
15.Mitsubishi Motors N A, Inc.(三菱、日本) 54,576
16.Land Rover 35,839 (ランドローバーはイギリスメーカーだがインド・タタ自動車の子会社となっている)
17.Volvo(ボルボ、スウェーデン) 34,105
18.Porsche Cars NA Inc.(ポルシェ、ドイツ) 27,568
19.Tesla (テスラ、アメリカ)23,550
20.Mini (ミニはBMWのブランド、ドイツ)22,202
21.Jaguar(ジャガーはイギリスメーカーだがインド・タタ自動車の子会社となっている)20,665
22.Fiat(フィアット、イタリア) 14,682
23.Maserati (マセラティはフィアットの傘下、イタリア)7,053
24.Alfa Romeo (アルファロメオ、イタリア) 3,719
25.Smart (スマートはダイムラーの子会社、ドイツ)1,983
26.Ferrari (フェラーリ、イタリア)1,189
27.Bentley(ベントレーはイギリスのメーカーだがドイツ・フォルクスワーゲングループ傘下となっている) 1,148
28.Rolls Royce(ロールス・ロイス、イギリス) 700
29.Lamborghini (ランボルギーニはイタリアのメーカーだがドイツ・フォルクスワーゲングループ傘下となっている) 507

4位のクライスラーはアメリカのメーカー(ビッグ3の1つ)だが、2009年の金融危機で破綻し再建。イタリアのフィアットの傘下となっているが、持株会社であるフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)はイギリスにある。


アメリカではセダンではないSUVなどライトトラックの販売数が6割を超えているが、その影響などもあり近年日本メーカーのスバル(富士重工)の人気が高い。

米国で絶好調の「スバル」 米国人に愛される理由とは? より抜粋>
著名自動車評論家の坂上賢治氏は最近の記事の中で、スバルの米国販売好調の理由のひとつを、米国の自動車安全基準である「Top Safety Pick(自動車安全基準の最高評価)」の全車種獲得に求めている。また、全体的に高い同社の技術力や、完成度へのこだわりも理由に挙げている。

だが、実際に米国の現地でスバル車を売るディーラーのセールスポイントは、「安全」「技術」ではなく、「実用性」に重点を置いている。
米コロラド州デンバー市は、11万台のスバルが走る、全米4位の「スバル都市」である。そのデンバーに隣接するオーロラ市で「ショートライン・スバル」という名のディーラーの販売部長を務めるビル・カレラ氏によると、「ほとんどのスバル車はフルSUVではないが、少なくとも5ドアのハッチバックであることが特徴だ」と、スバル製品が差別化できる長所を説明。

その上でカレラ氏は、「スバルの車なら、雪だろうがぬかるみだろうが、ノープロブレムだ。何でも運べるし、車中泊でさえできる。そうやって、どこにでも行けるから、コロラドの人はスバルが好きなんだ」と説明する。

ウリは、あくまでもSUVのような機動性を備えたステーションワゴン、というところにある。デンバーのように雄大な自然が近くにある場所では、なおさらだ。

カレラ氏はさらに、「トラックほどの大きさはないが、性能は負けてはいない。安全で、運転も簡単だ。アウトドア派には、たまらないね」と述べる。他にもスバルはシアトルやポートランドといったアウトドア派の多い都市で人気だが、ニューヨークやフィラデルフィア、首都ワシントンといった、「都市の中の都市」でも人気上位にランクインしていることが特徴だ。こうした場所では、スバルご自慢の安全技術や車載コネクティビティ(インターネットと車の融合)も購入検討の重要な要素だ。

「スバル愛」の基礎となっているのは、戦前から脈々と受け継がれる確かな技術であり、それを一般の米国人向けに「どんな道でも大丈夫なSUV」「愛すべきクルマ」というわかりやすい形で発信したことが、米国での大成功につながったようだ。


スバルは日本メーカーの中では営業利益率が高い。(販売台数に比べて利益が高い)








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# by yumimi61 | 2017-12-22 13:59
2017年 12月 21日
日本国憲法の秘密-643- (外貨準備と貿易について)
1985年のプラザ合意後、日本の輸出企業は労働賃金など製造コストが安くすむ東南アジアや中国への海外進出が盛んになった。
物が大きな自動車業界では現地生産が盛んになる。日本のお得意様はアメリカなのでアメリカでの現地生産が積極的に行われるようになったということ。
東南アジアや中国と違って、アメリカに進出した場合、アメリカの労働コストは日本より高い。
それまでの日本車はアメリカより安いコストで作ることが出来て安い価格を付けられたからこそ売れた。
輸出コストがかかっても尚、安い価格が付けられるということだから、相当コストが安いか、相当為替メリットがあったということだ。
しかしプラザ合意後は為替メリットはなくなった。
その挙句アメリカで現地生産をすれば労働コストなど諸々のコストが上がり、それまでのように安い価格では利益が出せない。
日本の自動車メーカーは大きな車、高級車への転換を図る。

ホンダ Acura(アキュラ)
本田技研工業が1986年にアメリカ合衆国・カナダで開業した高級車ブランドである。
「Legend(レジェンド)」本田技研工業が生産・販売している高級車である。
「Integra(インテグラ)」アメリカではホンダの高級車チャンネル「アキュラ」において「アキュラ・インテグラ」として、レジェンドに次ぐアキュラブランド第2弾として発売された。 

トヨタ 「LEXUS(レクサス)」
1989年よりアメリカ合衆国内で展開が開始されたトヨタ自動車の高級車ブランドである。 

日産 「INFINITI(インフィニティ)」
1989年にアメリカ市場向けの高級車ブランドとして設立された。日本国外で展開している高級車ブランド。 

従前北米では、重厚で威厳を放つ高級車こそがアメリカンドリームを勝ち得た「勝者のシンボル」であった。市場はキャデラックやリンカーンなどの限られた伝統的ブランドが寡占しており、たとえ燃費が悪く故障しやすくとも、名門ブランドの名の下に許容されていた。そうしたメーカー都合の販売姿勢に対し、顧客の潜在的な不満は極めて高く、社会的成功を誇示するかのような威圧的なデザインの旧来の高級車を避ける傾向は富裕層の中にも確実に存在し、名門とされてきたブランドも若年層にとっては「古臭い」と見えていることを、トヨタは市場調査でつかんでいた。

そこでレクサスでは、伝統や威厳を前提とした旧来の高級車のあり方を否定し、極めて「機能的」かつ「高品質」なプレミアムを模索した。すなわち、メルセデス・ベンツやBMWなどの西ドイツ(現ドイツ)製高級車に匹敵する品質や安全性と、日本車ならではの信頼性や経済性とを両立させ、なおかつリーズナブルな価格設定、そして最高の接客とアフターフォローをもって、新たな高みを目指すこととなった。


伝統的ブランドが燃費が悪く故障しやすいとあるが、このあたりは前に書いた通り何を基準にするかによって違う。信頼性や経済性も耐久年数の違いやアフターサービスの違いがあり一概に比較できるものではない。
ただそういう日本的なものに対する需要がアメリカにもあったことは間違いないであろう。
アメリカは移民が多く自由でラフ(カジュアル)な国である。
アメリカンドリームは自由と平等(機会均等)が売りのアメリカらしさを象徴するが、階級が上であること(家柄・社交界)とアメリカンドリームを勝ち得た者(成功者)はやはり微妙に違うと思われている。
ヨーロッパでも階級が上と成功者(成金)は違うという認識がある。
そんなこんなで成功したら急に階級が上のように振る舞うのは格好悪いという雰囲気があることも確かであろう。
この辺りの意識が日本車に有利に働いたのかもしれない。
日本人のブランド物好きが揶揄されることがしばしばあるが、お金があっても無くても猫も杓子も的なブランド好きはやはり日本の特徴ではないだろうか。
アメリカでブランド物を好むのは比較的お金持ちの人で、ヨーロッパは身分相応的な意識が強いように思える。
フォーマルよりもインフォーマルのほうが間口が広がる。
伝統的ブランドの自動車がフォーマルならば、日本の高級車はインフォーマルなのだ。
結局高級車においても1台あたりの利益よりも数を売って利益を出す作戦である。


アメリカでの販売戦略を高級車重視に転換した日本の自動車メーカーだが、安価な車を扱わなくなったわけではない。
元々安い小型車を得意としているし(日本で数多く作っているので技術の蓄積がある)、短い耐用年数(乗り換えまでの期間)や日本メーカーが展開するアフターサービスは安価な車の欠点を補うので、この安価な分野にこそ強みが出る。
薄利ではあるが開発など初期投資費用は少なくて済む。
名前は違うが日本でも販売されている車が多い。(日産ティーダ→日産ヴァーサ、トヨタヴィッツ→トヨタヤリスなど)(但し排気量は日本よりも大きいことが多い)
高級車分野の利益も考えれば、アメリカに需要がある限り商売になるといったところだろう。
また労働コストの高いアメリカではなくて近国のメキシコで製造したり、アジアのタイなどで製造し輸出するようなこともしている。

【アメリカにて新車販売価格の安い車トップ12(2017年)】
1.Nissan Versa(日産・ヴァーサ)<日産自動車、日本>  1,800cc 11,990ドル
2.Mitsubishi Mirage(三菱・ミラージュ)<三菱自動車、日本>  1,192cc 12,995ドル
3.Chevrolet Spark(シボレー・スパーク)<アメリカGM傘下の韓国GM、韓国>  1,399cc 13,000ドル 
4.Ford Fiesta(フォード・フィエスタ)<フォードモーター、アメリカ> 997cc 13,660ドル
5.Mitsubishi Mirage G4(三菱ミラージュG4)<三菱自動車、日本>  1,193cc 13,995ドル
6.Kia Rio(キア・リオ)<起亜自動車、韓国>  1,120㏄ 14,165ドル
7.Smart Fortwo(スマートフォーツー)<ダイムラーの子会社スマート、ドイツ>  698㏄ 14,650ドル
8.Hyundai Accent(ヒュンダイ・アクセント)<現代自動車、韓国>  1,341㏄ 14,745ドル 
9.Fiat 500(フィアット500)<フィアット、イタリア>  1,240㏄ 14,995ドル 
10.Chevrolet Sonic(シボレー・ソニック)<アメリカGM傘下の韓国GM、韓国>  1,597㏄ 15,145ドル
11.Toyota Yaris(トヨタ・ヤリス)<トヨタ自動車、日本>  1,500㏄ 15,250ドル
12.Nissan Versa Note(日産・ヴァーサ・ノート)<日産自動車、日本>  1,600㏄ 16,345㏄

※価格はベース価格。
1ドル115円として1位が138万円くらい。
12位の日産・ヴァーサ・ノート以外は全てマニュアル(MT)車。
一般的にオートマ(AT)車よりもマニュアル(MT)車のほうが安い。
アメリカでも圧倒的人気を誇るのはオートマ車なはずだが、マニュアル車も結構販売されているんですね。
私の実家の母がマニュアル車にこだわったことを前に書いたけれど、最後の車を買った時、すでに10年くらい(もっとかな)前の話だが、その時もマニュアル車がある車種が少なかったと言っていた。それか特注になると。
日産・ヴァーサ・ノートはCVT。ATと同じく自動変速だが構造が違う。
排気量の大きなエンジンに耐えられる現実性のあるCVTが今のところ開発出来ていない。高速走行では燃費が落ち故障に繋がる。よって小型車による都市部走行が主体の車にしか向かない。

※GM韓国は元は韓国の大宇財閥の大宇自動車。大宇は現代に次ぐ韓国ナンバー2の企業グループだったが、1997年アジア通貨危機で苦境に陥り、1999年GMの出資交渉が決裂し経営難に陥り、会長がヨーロッパに逃亡するなどしたが、大宇自動車はGMの傘下に入った。






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# by yumimi61 | 2017-12-21 13:36
2017年 12月 19日
日本国憲法の秘密-642- (外貨準備と貿易について)
時々政府の在り方として「大きな政府」か「小さな政府」であるべきかという議論がなされることがある。
市場に積極的に関与するのが「大きな政府」で、自然な市場原理を重視するのが「小さな政府」である。
下の(1)が大きな政府で、(2)が小さな政府。どちらも一長一短ある。

(1)政府による富の集権→再配分(積極的な社会保障政策や弱者救済)・・トップダウン方式、大きな政府、保守的、税金は高め⇒労働意欲の低下、対外的競争力の喪失、やがて労働や高い税金への負担が大きなってくる

(2)市場原理最重要視・・ボトムアップ方式、小さな政府、民営化や規制緩和促進、税金は安め⇒競争社会、失業や経済格差の問題

(1)が古くからある形なので保守的とも言われる。
人間には差があるということを認めた上でなるべく平等な社会を築こうとするものである。
社会主義や共産主義はこれを極めていく形式である。
自由競争色が薄く、上でコントロールする方式であり、再配分も保証されているので、結果的に労働力のある人もない人もどちらも労働意欲を低下させてしまう。国内だけならばまだしも、対外的な競争(比較)が出てくると、この形式でやっていくのは厳しくなる。

(2)が近年流行の形。
こちらはもともと人間は平等なのだという発想がベースになる。
平等な者は同じステージで戦えるはずであるという競争社会。
競争意識が刺激されて嫌でも労働意欲は上がってくる。だが競争には必ず勝ち負けがある。真剣に戦えば戦うほどその落差は大きくなってしまう。(人間は生まれ持って平等なのかという疑問も生じてくる)
経済格差や失業が広がり、大きな政府に比べると十分ではない社会保障政策や弱者救済サービスを受けられない層が拡大する。

(1)と(2)は対立する方式というか概念なので、双方のいいとこどりというのはなかなか難しい。
政府が(2)の方式で再配分(積極的な社会保障政策や弱者救済)を行えば財政赤字に陥っていくのは目に見えている。
それに対して紙幣を発行して対処すると、紙幣ばかりが増大して増々コントロールが効かなくなる。


税金が高い代わりに社会保障制度が手厚い北欧などは(1)のほうであろう。
北欧にイギリスは含めないことが多いが、イギリスもヨーロッパの北側に位置する。そのせいかやはりどちらかと言えば(1)の傾向が強く、世界を代表する先進国でありながら1960~1970年代にかけてその弊害が強くなり、当時のイギリス社会は「英国病(イギリス病)」とまで言われたくらいである。
その病から脱出するきっかけとなったのが1980年代以降に北海油田が産出する原油を輸出できるようになったことだった。
資源によって対外競争力を確保できたわけである。


イギリスで(2)への転換を図ったのは、労働党のトニー・ブレア首相(1997-2007年)。

イギリスの労働党
古くから労働組合を強固な支持母体としており、組合出身の組織内議員も多数存在する。ただ、組合寄りの政策を取り過ぎたあまり、経済活動の停滞や財政の圧迫を招いたこともある。

保守党が富裕層や地方出身者、中高年層からの支持が強いのに対して、労働党は低所得者層や都市部の地域、若年層から支持が強い傾向が見られる。ロンドン、マンチェスター、エディンバラなどの都市部では、多くの選挙区で議席を獲得している。

また、音楽業界や映画業界などのエンターテインメントの業界からの支持も強い。有名なところでは、ビートルズ(メンバー全員)、ピーター・ガブリエル(1998年には国内最高の個人献金を寄付)、ノエル・ギャラガー(元オアシス)、J・K・ローリング(ハリー・ポッターシリーズの著者)など多数の人物が支持を公言している。2007年にはブラーのデイヴ・ロウントゥリーが労働党公認で総選挙に出馬している(結果は落選)。ただし、イラク戦争を契機に緑の党や自由民主党などに支持を鞍替えする人物も目立っている。


このように労働組合が強固な支持母体であるが、トニー・ブレアは脱労働組合路線を掲げた。
労働組合のブロック投票を著しく制限した。労働党の党綱領から、生産手段と輸送の国有化を削除して経済政策を自由市場経済に転換する「第三の道」と呼ばれる路線に変更する。
これによって中間層の支持を取り込み、1997年の総選挙で大勝を収め、首相に就任した。

(1)でも(2)でもないのが「第三の道」であるということなのだ。
では実際どのようなものかということを簡単に言えば次の通り。

この第三の道における公正は、伝統的社民主義の哲学が提示する結果の平等ではなく、教育の充実などの政策に立脚した上での、機会の平等に重きを置いている。これにより、移民政策にも通じる多様な文化的「差異」を前提としてグローバリゼーションへの対応を指向する。

嗜好としては(2)である。
但し(2)には人間は平等なのだという発想がベースになる。
でも人間は生まれ持って平等なのかという疑問も生じてくる。
イギリスは歴史的に、そして現代においても階級が大規模に存在している社会である。家柄的に平等ではない。
生まれ持っての階級が違い、階級が違うとチャンスも平等に与えられない。
つまりトニー・ブレアは、能力の差に注目したのではなく階級や人種によるチャンス(機会)の差に注目して、その差を少なくする政策を採用した。(今日本が盛んに行おうとしている教育の無償化などもこれっぽい感じ)
逆を言えば、同じだけチャンスを与えたのだから、結果に不平等があっても文句を言うなということにもなる。不平不満層の封じ込め策。
これが中間層から広く支持を得た。
「あなたたち不平不満ばかり言ってないで現実を見なさい」と不平不満層にやや冷ややかな人達が多かったか、「平等万歳」と能天気な人が多かったのかは定かではない。
費用対効果という面から見れば恐らくすこぶる悪い。採算はとれないであろう。
しかもイギリスの場合、草の根レベルで階級意識が浸透していて、英語のアクセント・言葉遣い、身なり服装 ・趣味、そういう耳や目で分かるものが階級の判断材料となっているので、機会を与えたくらいではどうにもならない。


(2)を嗜好する「第三の道」の先駆者がイギリスのトニー・ブレア首相(労働党)ならば、(1)を嗜好する「第三の道」の先駆者はアメリカのビル・クリントン大統領(民主党)だった。
その立ち位置は見る人によって全然違ったため、今なお次のように見解は割れているような状況だが、クリントン大統領は(1)を嗜好する「第三の道」先駆者である。

大統領選挙では中道や保守派からその左派的色彩を批判され、徐々に中道よりへの修正を図った。1994年の中間選挙以後は政策の一貫性のなさがしばしば批判の対象にされる。民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は第三の道サミットに参加していることなどから中道左派である。
急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。


このクリントン大統領はアメリカの30年近く続いていた財政赤字を改善し黒字化するなど一定の成果を収めている。

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領を、大統領選挙で「It's the economy, stupid! (経済こそが問題なのだ、愚か者!)」と揶揄したように経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。
また、1994年のギングリッチ率いる共和党が上下院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、ロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミクスに対し、クリントノミクスと呼ばれる。


クリントノミクスは(1)を理想としつつ、労働意欲を低下させず対外的競争力強化を目指した。
いいとこどりはなかなか難しいと私は書いたが、そのいいとこどりを行って上手く成功した例である。
その具体的な方策は次の通り。

道路などインフラ整備の公共事業への投資拡大、それを呼び水にした民間投資の奨励、労働力の質の向上、技術開発力の強化などが挙げられる。民間の経済活動への政府の介入に慎重だった共和党政権に対して、クリントン政権は政府の産業協力を鮮明にしたことで、自由競争が建て前のアメリカ経済政策は大きく方向転換した。

次世代自動車開発に政府が補助金を出したり、軍が蓄積してきたハイテク技術を投入する方針を示すなど、クリントン政権は民間企業の支援策を次々に打ち出している。日米自動車交渉で、アメリカ政府が日本側に購入拡大を執拗に迫ったのも、民間企業支援をセールスポイントにしたクリントン政権の特色を浮き彫りにしている。

クリントノミクスのもう1つの柱である財政赤字の削減では、国防費支出の削減と本格的な増税を打ち出し、1994年から4年間で総額5,000億ドルの財政赤字削減を目指した。


成功の一番のポイントは、アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移したこと。
同じ労働でも肉体労働(ブルーカラーワーカー、量産、時間の切り売り)よりも頭脳労働に重点を置いた。そのための協力を国家が惜しみなく行った。
頭脳労働化は企業が使う資源やスペースをも減少させることが出来る。
その分、国民個人に還元できる。また最低賃金をアップさせることで肉体労働や下層をも支えた。

但しアメリカは他国に比べると社会保障制度の国の負担は少ない。
社会保障法制定(1935年)により「社会保障」という言葉を生み出した国家ではあるが、自由で個人主義(個人の自由・自己責任)な国民性、また州という地方分権が進んでいるために、国家が旗を振る社会保障制度は遅れている。社会保険という強制や国家が行う中央管理への抵抗が根強くあるのだ。
国自体も「Welfare to Work(福祉から雇用へ)」という考えがベースにある。
国の社会保障を充実させて手厚く救済するのではなく、同じ費用や手間は社会福祉制度の恩恵を受けている人たちを雇用者に戻させることに費やされるべきだという考えである。
不正受給や怠けなどフリーライダー問題や、取り損ねのない保険に入っていることで医療提供側が本来必要ない医療までをも提供して診療報酬を上げようとするモラルハザード問題などによって、社会保障制度を充実させると必要以上に国の歳出が増えてしまう懸念が存在している。
アメリカで破産する人の6割は高額な医療費が払えないことが原因で、そのうちの8割は保険に加入していないのではなく加入している人であるという。
アメリカには広く国民をカバーする年金制度はあるが、そのような医療保険はない。公的な医療保障の対象は高齢者・障害者・低所得者などに限られている。
クリントン政権以降、年金さえ全部又は一部を民営化するという議論が活発に行われてきたくらいである。
つまりアメリカは公的社会保障制度の充実している国との単純比較には向かない。
クリントン大統領が(1)を理想にしても再配分の程度や領域が小さいし、救済の方法論が違う。


ビル・クリントンが大統領だったクリントン政権時代は黄色線内。
アメリカの財政赤字が改善した時代に日本の財政赤字は悪化した。
非常に対照的な時代。
日本はクリントン大統領が「民主党」であることに惑わされてしまったのかもしれない。
民主党には(2)のイメージがあるから。
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# by yumimi61 | 2017-12-19 13:59
2017年 12月 18日
the mood
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ナツ ナツ ナツ ナツ ココナツ~♪

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# by yumimi61 | 2017-12-18 19:41
2017年 12月 17日
日本国憲法の秘密-641- (外貨準備と貿易について)
与党第1党が自由民主党で政権を維持し、野党第1党がは日本社会党だった時代を「55年体制」と呼んでいる。38年間続いた体制。
1955年(昭和30年)にこの構図が成立し、1993年(平成5年)7月の衆議院選挙で自民党が野党になり崩壊した。
この時に自民党が負けた理由は新党ブームだった。
新党の代表格が細川護煕が結成した日本新党であり、その勢いに乗って細川はそのまま首相に就任することになるが、首相になる人物としてはかなり異色である。閣僚経験など一切ないまま首相に就任した。

細川護煕
肥後熊本藩主だった肥後細川家という家柄(現在第18代当主)。
上智大学→朝日新聞社→自民党公認で参議院出馬
1971年7月4日 - 1983年2月 参議院議員
1983年2月11日 - 1991年2月10日 熊本県知事
1992年7月26日 - 1993年7月 参議院議員
1993年7月18日 - 1998年5月7日 衆議院議員
(1993年8月9日 - 1994年4月28日 首相就任)

(日本新党)結党当初は現職の国会議員がおらず、国政の経験も、いわゆる三バン(ジバン=後援会組織、カンバン=知名度、カバン=選挙資金)も無い新人議員が多かったこともあり、議員よりも党事務局が主導する体制であった。代表である細川の個人的な人脈と人気に頼った「個人商店」も揶揄され、党の運営資金も細川が自宅や別荘等の私財を担保にした借金が主なものであった。(細川は熊本県知事選前に佐川急便より一億円借り入れていた件を1994年に追及され総辞職)

他にも羽田孜と小沢一郎らが自民党を離党して結成した「新生党」や、自民党の中堅・若手議員であった武村正義や鳩山由紀夫らが自民党を離党して結成された「新党さきがけ」も躍進した。
これはかなり大きな政変だったが、元はみな自民党議員である。
「新生党」は後に「新進党」となり、さらにバラバラになって、小沢の自由党は自民党に合流することになる。
「新党さきがけ」は保守リベラル政党であり、これが民主党の母体となる。
「日本新党」は後に「新進党」に合流。細川は最終的に民主党に合流した。
自民党を離党した人達が形作っていったリベラル政権。
一方で自民党内においても「リベラル政権を作る会」が発足していた。
対立しているようでいて実はそうでもないかもしれない。政党の明確な線引きが出来なくなった時代に日本は大きな転換点を迎えていた。


今年10月の選挙直前に突如新党が誕生し、安倍首相が選挙演説で「かつても新党ブームがありました。でも新党なんてダメなんです。もう残ってないでしょう」とか演説していたけれども、新党を一言で言えば有権者の顔色窺った気前の良いリベラル政党であって、そういう自民党も「リベラル政権を作る会」なんか作ってリベラル政権誕生に大いに手を貸していた。安倍首相なんかその会のメンバーだった。
おそらく昨今の日本社会、とくに経済界にはリベラル政権はダメだという認識がある。日本が落ちていく転換点となった時代にあったのがリベラル政権だからだ。
安倍首相の新党ブームがダメと言うことを言い換えればリベラル政権はダメということになる。
経済界などから支持を得るのは日本が強かった時代の自民党であろう。
安倍首相の祖父や父は強い時代の有力政治家で、安倍首相は2世3世議員というサラブレッドである(でも閣僚経験ないまま首相になったのは細川首相と同じ)。いまだ自民党にいて「野党が政権とってもダメ」「新党はダメ」と言っている。
安倍首相が支持を得ているのにはそれなりの理由があるのだ。
だが日本が強かった時代を、転換点にリベラル政権を作る会にいた安倍首相を、本当にそんなに信じてよいものだろうか?



自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権で社会党党首・村山富市が首相であった村山内閣1996年1月11日に終わった。
その後の首相は自民党の橋本龍太郎であるが、橋本内閣でも自民党の単独政権になったのは1996年11月7日からである。
でも消費税5%導入開始時やアジア通貨危機が始まった時には自民党単独政権であった。

【アジア通貨危機における日本の支援】
日本は、2年間にわたり国際機関やG7各国と協調し当初の危機対応において、二国間支援の主導的な役割を果たした。また、一時的な資金不足を補填する流動性支援のみならずODAを含む日本独自の政策的金融手段を総動員し長期の安定的な資金を供与してアジア各国の実体経済の回復と安定化に対して全力で取り組んだ。

中でも、IMF・世銀年次総会において発表された新宮澤構想は、アジア諸国の実体経済回復のための円借款・輸銀融資などによる中長期の資金支援を含む合計300億ドル規模の資金支援スキームを用意するものであり、一連の支援策の中でも最大級の物で、チェンマイ・イニシアティブに引き継がれた。この他にも、日本は、人材育成等環境整備のための専門家派遣、研修員受入などの技術協力や、食糧・医療品などの緊急支援および人道・医療・保健対策面での無償資金協力も行った。

一方、日本では、経済恐慌などの危機は直ちに発生しなかったが、危機に際して東南アジアへの支援金の支出なども含め、相応の経済的打撃を被っている。当時アジアでも、特に著しい経済力を持ち、アジア各国へも工業製品を輸出する産業の多い日本は、それら各国の通貨危機の影響も少なからず被っている。


外国への支援がドルで行われる時は外貨準備が使われる。為替介入していたので日本はこれを沢山持っている。
と言っても外貨準備の多くは現金で保有しているわけではなく(アメリカ国債が主)、全額いつでも自由に使えるものではない。金利などから出していると考えられる。
外国への支援が円で行われる場合(円借款)は日本円が使われる。
だけど国内財政が赤字な政府は余分な円など持っていない。
とりあえず何かを流用して貸しておくとか、借金して貸しておくとかになるだろう。
援助なので相手国に低金利で貸し付けるだろうから、日本で借りる金利が高ければ赤字を積み上げることになる。
貸したものがきちんと返ってくる保証もない。

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消費税をアップにしたにも関わらず、その年1997年以降2~3年、税収は落ち込み歳出は増大した。


アジア通貨危機はドルペッグ制を敷いていたアジア諸国の通貨への投機攻撃によって発生した。
実は現在、為替市場の資金の9割以上は投機資金だそうである。
貿易や投資(外国債券・株式購入及び売却)など実体ある取引(売買)を実需と言い、それに対して実体がない売買(売買の差額だけが動く)を投機と言うが、実体ある取引に関わる資金は為替市場の1割にも満たないというのだ。
それくらい世界の金融市場が肥大化してしまった。
それは紙幣発行に裏付けが必要なくなり、倫理観も欠如し、紙幣が増え続けたからである。
極端なことを言えば、汗水垂らして一生懸命働き、為替レートの変動のリスクを気にしながら輸出入していったい何になる、という話である。
その何倍ものお金が蠢いていて、一晩で大儲けすることも夢ではないのだ。

だけどそれを非難しきれない側面もある。
物を作るにはエネルギーが必要だからだ。
この地球にある資源以上の物を人間は作れない。たとえどんなに紙幣を増やしたとしても。
金本位制の金は資源を代表するものだった。
金本位制は金以上の紙幣を発行するなということである。
物を作りだすのに必要な紙幣を、物を作り出すのに必要な資源以上に増やしても意味がない。混乱を招くだけ。
でも今はもう紙幣のほうがずっと多い状態。
その紙幣を世に出して、本気でその分だけ物を作ろうとすれば、資源が尽きる。
そうしないために増えてしまった紙幣の引き受け場所が必要。それが為替市場になっている。
その気になれば小さな市場なんか簡単に潰せるだけの資金が為替市場には存在しているのだ。


そのように規模の違いの影響は大きい。
だからどこかの国が紙幣を大量に増やせば、関係国は自国を守るためにそれに合わせて紙幣を増やすしかなくなる。
製造大国だったために最後まで金本位制を強いられたアメリカがそれをやめた理由もそこにある。
そうしてずるずると世界経済規模は大きくなり続けた。


規模の小さな国や影響が心配な国は投機に規制を掛ければよいのではないかと思うかもしれないが、投機に規制をかければ外国資本減に繋がる。
規模の小さな国や影響が心配な国というのは、結局資本が十分でない国なので、発展を望むなら外国資本が減ることは望ましいことではなくなる。
また投機を規制すればどうしたって通貨安になり、国際的評価が上がることはないであろう。
諸々諦めてしまえばそれまでだが、グローバルとか言って国際社会でそれなりの地位にいたいとかいきたいとか思ったら規制は得策ではないということになる。





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# by yumimi61 | 2017-12-17 15:17
2017年 12月 15日
日本国憲法の秘密-640- (外貨準備と貿易について)
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1991年にバブル景気が終了。1991年度から税収が落ち始めた。
赤字国債発行額ゼロを達成したのは1991年~1993年度(平成3~5)であり、税収が落ちた中で達成している。
急上昇した景気が落ちるのと同じで、ガクンと落ちた景気はやがて戻ってくる。
しかしバブル景気の影響がどれくらい続いて、いったいどれくらい戻したのか、分かりにくい状況を作った。
1994年(平成6)に特別減税を行ったからである。
これは村山内閣の前の大連立・細川内閣で決まったこと。
消費税導入が念頭にあり先行減税と言われれている。
細川護煕は熊本県出身。大学はイエズス会の上智大学卒。日本赤十字社社長の近衞忠煇は実弟。

1997年(平成9)に消費税が導入されたが、その前3年に亘って特別減税を実施。
1994年(平成6)5.5兆円、1995年(平成7)2兆円、1996年(平成8)2兆円規模。
さらに所得税率の見直しも行われた。これは働き盛りの世代に配慮したもので、一時的なものでなく変更されない限り続く恒久的な減税となり、年間規模で3.5兆円の減収となった。1995年(平成7)より。
要するに、1994~1996年(平成6~8)は一時的な特別減税と所得税率見直しによる恒久的減税合わせて、年間5.5兆円の減収となったのだ。


上のグラフの一般会計税収のところに一部緑色の線を入れたが、それが減税が実施されなかった場合の税収。
バブル景気内の1989~1990年の税収レベルである。
おそらく1994年頃から自然な景気回復が見られたのではないかと私と考えるが、減税したことによって消費が刺激されて維持した景気であって、そうでなければもっと下がっただろうと主張する人も出てくるだろうと思う。
維持したと言っても税収は前年より減らしているので、減税のメリットよりもデメリットのほうが大きかったことは明らかだが、「いやいや減税しなければもっと下がったはずだ」という主張が間違えているという証明はしようがない。(安倍首相の好きな悪魔の証明)


特別減税の初年度1994年(平成6)から赤字国債も復活し始めた。
一旦ゼロに、しかもバブル景気後の減収の中でゼロを達成したのだから、それを再開するとなると、それなりの理由(言い訳)が必要である。
その言い訳に持ち出されたのが特別減税による減収だった。政府は景気回復どころか十分に減収を見越していたということになる。
「減税特例公債」という名で年度限りの特例公債にさらに特例観をつけて発行を決めたのだ。
下記金額の(うち金額)部分が当初予算の「減税特例公債」額である。
年度途中にそれでも足りなそうだと補正予算を組む。その部分はもう普通の赤字国債である。


赤字国債発行額(決算)
1994年(平成6) 約4兆1000億円(うち約3兆円)
1995年(平成7) 約4兆8000億円(うち約3兆円)
1996年(平成8) 約11兆円(うち約2兆円)

上の国債発行額の棒グラフのピンク部分(赤字国債)では「減税特例公債」は除かれているので、実際にはもう少しだけピンク部分(赤字発行額)は増える。
「減税特例公債」同様に、2011年度(平成23)は東日本大震災からの復興財源調達のための「復興債」、2012・2013年度(平成24・25)は基礎年金国庫負担2分の1を実現する財源を調達するための「年金特例公債」を除いており、実際にはもっと赤字国債は多い。


消費税率を5%にアップさせた時に地方消費税が設けられ、5%のうちの1%(国の消費税率の25%)は最終消費地の自治体(都道府県)の税収となり、さらにその半分が市町村に分配される。
国の消費税率は4%である。
3%の時は消費譲与税として消費税額の20%が地方自治体に譲与されていた。
どちらにしても丸々全部が国の収入になるわけではない。(それで地方自治体への仕送りが減るならよいが)
消費税率を3%から5%にアップさせるとおよそ5兆円の税収増になる見込みだったそうだ。
国の取り分は4兆円ということになる。
5兆円のうちの1兆円近くは政府(国家機関)が買い物するにあたって支払っている消費税だそうだから、政府(国家機関)のお買い物金額はいかに大きいかということですね。
自分で支払った消費税が収入として入ってきても、その分支出もあったということだからプラスマイナス0。
従って消費税率を3%から5%にアップでの国の税収増は実質的には3兆円強くらい。
苦労に苦労を重ねて税率を上げても、赤字を減らさないと焼け石に水。


特別減税の3年間が終わり、1997年(平成8)4月より消費税が5%に上がった。
その年の7月よりアジア通貨危機が始まった。

アジア通貨危機(英語: Asian Financial Crisis)
1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。
タイ・インドネシア・韓国は、その経済に大きな打撃を受け、IMF管理に入った。マレーシア・フィリピン・香港はある程度の打撃を被った。中国と台湾は直接の影響はなかったものの、前述の国々と関連して影響を受けた。
日本に関しては、融資の焦げ付きが爆発し、緊縮財政と消費税増税のタイミングが重なった結果、1997年と1998年における金融危機の引き金の一つとなり、1998年9月の日本銀行政策金利引き下げ、10月7-8日の日本円急騰(2日間で20円の急騰)、10月23日に日本長期信用銀行の破綻と国有化、12月13日に日本債券信用銀行の国有化へと繋がる一連の金融不安の遠因となった。
また、新興国における通貨不安はアジアに留まらず、1998年8月17日からのロシア通貨危機、1999年1月ブラジル通貨危機など、その他の経済圏でも同様の混乱を招いた。


途上国(新興国)など経済規模がそれほど大きくなく、不安定要素の多い国の場合、通貨もやや不安定なことが多い。
些細な事をきっかけにインフレやデフレが起こりやすく、そうしたことが金利や為替相場にも影響を与え、そうなると安心した貿易関係を築けない。
そこで政府や中央銀行などが金利調節や為替介入を行い、経済的に関係の深い大国の通貨との為替レートを維持させている。
これをペッグ制と呼び、USドルと連動させている場合をドルペッグ制と呼んでいる。
日本、台湾、フィリピンを除く、アジアの殆どの国家は、米ドルと自国通貨の為替レートを固定する「ドルペッグ制」を採用していた。それまではドル安の状態で、比較的通貨の相場は安定していた。

つまりアメリカのUSドルがドル安の時には、ドルペッグ制を敷いているアジア各国の通貨のレートも安めに誘導していたということ。
連動して動いているのだからアメリカとの貿易において為替変動によって急激に損をすることも得をすることもない。(差があるところに儲けも損も生じやすい)
安い労働賃金を背景にアジア諸国は輸出を伸ばしていた。(アメリカとアジア諸国の労働賃金には大きな差があり、それは双方の国のメリットになった)

ところで何故アメリカがドル安で推移していたかと言うと、重要な貿易相手国の1つである日本が1985年プラザ合意によって円安から円高に急転換したから。
アメリカから見ればドル高だったのがドル安になった。
1985年に一気に上がった後も、徐々に円高(ドル安)は進行し、ピークは1994年だった。
その後は円安(ドル高)に動いて行き、円安(ドル高)の底が1997年である。
ドルペッグ制のアジア諸国のレートはアメリカのドルに連動しているのでそれぞれ高めに動いた。
これによってアジア諸国の輸出が伸び悩むようになる。
何度も言うようだがドル建てで決済している日本の輸出企業は円安のほうが有利である。
それと同じでドルペッグ制のアジア諸国がアメリカ以外の国と相手国の通貨建てで貿易を行う場合、自国通貨安のほうがよいのだが、上がってしまったのだ。
例えば日本に円建てで輸出し売上を自国通貨に両替する時、通貨高は安い時より不利となる。
輸出企業について言えばそうだが、通貨高になるということは一般的にその通貨が国際的に強いということ、評価が上がるということである。
だけど実際ドルペッグ制のアジア諸国がそれに値するかと言えばそうではない。アメリカと連動させて意図的に上げたものであって自然に上がったものではない。
輸出が伸び悩んでいるのに国際的評価が上がっている方向に動く。
つまり実際の経済状況と乖離した数値が出ている。純粋な自身の成長ではなく、他者の動きに振り回される運命。これでは持続可能性があるとは言えない。

輸出が伸び悩み経済が思うように発展しないとなると途上国(新興国)に投資している投資家らはおもしろくない。
それならば通貨の売買(FX取引)によって一儲けしてやろうということになる。そちらのほうがよっぽど確実に儲けられる。
アジア諸国の通貨が投機攻撃の対象となったのだ。
このような投機攻撃は1992年にイギリスのポンドがやられている。当時イギリスは不景気だったが、立場としてはアジア諸国側になるわけではない。1990年10月の東西ドイツが統一が背景にあり、統一を機に東ドイツに投資家の目は向いていた。


投機(通貨の売買)の場合、買いから入る場合と売りから入る場合がある。
一般的には買いから入る。
どこかの通貨を日本円で買って、円安が進んだら売って、その差額を利益とする。
為替レートの差によって利益が生まれるが、もうひとつ金利差によっても利益が生じる。
例えば日本円でアメリカドルを買うと、円とドルの金利差分の利息のようなもの(スワップポイント)が利益となる。
アメリカドルと日本円の金利差が1.5%だとして(ドル1.5%、円0%)、100万円で1万ドルを買って(1ドル100円の場合)、それを1年保持した後に売ったとすれば、1年分の金利差15,000円も受け取れる。(別に1年と限らずポジションを持った日数分だけ日割りで貰える)
金利が高い通貨で低い通貨を買って保持すると逆に金利差分を支払わなければならないけれど、日本円にはその心配は皆無。


売りから入る場合は株の空売りと同じような感じで、通貨を持っていなくても出来る。
株の場合は借りると金利を払う必要があるが、通貨のFX取引の場合、その必要もない。
円安の時に売って円高の時に買い戻すと儲けになる。(為替は円安円高の安い高いと金額の高い低いが反対なので株の空売りの安値高値とは少々違ってくる)。
例えば1ドル120円の時に1万ドル借りて売って120万円手に入れ、1ドル100円と円高に動いた時に1万ドルを買い戻して返す。必要なお金は100万円。手元に20万円残るがこれが利益となる。


通貨安になると輸出はよいが輸入がとても大変になるし、資本を確保するために金利を上げざるを得なくなる。
そもそも通貨安というのは自国通貨の国際的評価の下がった状態である。信用面でいろいろ影響してくる。

ドルペッグ制のアジア諸国の通貨はこれ以降変動相場制に移行した。








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# by yumimi61 | 2017-12-15 13:39
2017年 12月 14日
日本国憲法の秘密-639- (外貨準備と貿易について)
1989年に3%で導入された消費税の値上げ(5%に増税、うち地方消費税1%導入)のための税制改革関連法案を成立させたのは、1994年6月30日に発足した自社さ連立政権で首相が社会党の村山内閣だった。
内閣発足から僅か5ヶ月後の法案成立という早業だった。(導入は1997年より)


増税の一番のネックになるのが当時の社会党に代表される左派・野党である。
実は左派・野党の有力者たちも国の財政状況を見れば増税は致し方ないというのは分かっていたのだ。
ただ立場的なこともあって有権者を前にするとなかなかそれを声に出して言うことができずにいた。
だったら左派・野党も政権に取りこんで事を進めようと思いついたわけである。飴と鞭作戦。結果的にこれが失敗だったのだ。

安定政権への要望、野党に安んじられない自由民主党等の状況の中、武村正義、竹下登、野中広務などが水面下で動き、社会党を首班とし、自民党とさきがけが参加する大連立政権が構想されていった。

この時に「リベラル政権を作る会」もできた。

自民党は自社連立政権樹立後の政権運営を想定して、村山首相を誕生させるための自社有志による勉強会を開き、「リベラル政権を創る会」と「憲法問題研究会」というふたつのグループを作った。ここでの政策研究が自社さ連立の政権政策の基礎となるとともに、首班指名選挙における村山首班側の基礎票となった。

リベラル政権を創る会には、自民党から逢沢一郎、安倍晋三、衛藤晟一、小川元、川崎二郎、岸田文雄、熊代昭彦、白川勝彦、二田孝治、村上誠一郎、谷津義男が、社会党からは金田誠一、中尾則幸、伊東秀子が、護憲リベラルの会からは翫正敏、西野康雄(旭堂小南陵、現・旭堂南陵)、国弘正雄、田英夫、三石久江が、二院クラブからは青島幸男と下村泰(コロムビア・トップ)が、無所属から紀平悌子が参加した。憲法問題研究会には自民党から石原慎太郎と松岡利勝が、社会党からは北沢清功、秋葉忠利が参加した。


「自社さ連立政権」での内閣総理大臣指名選挙では、自民党の議員もほとんど社会党の村山に投票した。
村山に投票しなかったのは中曽根康弘・渡辺美智雄などごく一部の議員しかいなかった。

「それまで反対していた増税を政権とったら掌返してやるのか、ではこれまでは何の理由もなく増税に反対していたというわけか、節操のない政党だ」という批判が社会党などに向けられた。
法案成立の2ヶ月後には阪神・淡路大震災が起こり、さらにその2か月後に地下鉄サリン事件も起こり、諸々逆風となって、1995年7月の参院選では連立与党三党(自社さ)は敗北に終わった。
投票率も50%を切るほど低調であり、このとき勝ったのは創価学会が有力支援組織であった新進党であった。(公明党と新進党に合流した)(勝ったと言っても第1党になったわけではないが) 
この時、自民党を初めとする与党は新進党を構成する旧公明党の支持母体である創価学会に対する攻撃を展開した。宗教法人法の改正に伴い、学会名誉会長池田大作の証人喚問を要求し、週刊誌に掲載された池田のレイプ疑惑を追及、自民党の機関誌「自由新報」に継続的に掲載し反創価学会キャンペーンと呼ばれるまでに至った。

新進党の初代党首は竹下登の影響下にあり赤字国債発行ゼロを達成した元首相の海部俊樹。
海部は、1994年6月に自民党総裁の河野洋平が自社さ連立政権構想で合意し首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。
新進党は「反自社さ連立政権」の受け皿として結党された。
1993年に(こちらも赤字国債発ゼロだった)宮澤内閣に対しての不信任決議案に賛成し、可決に追い込み自民党を離党した羽田孜や小沢一郎もいた。
赤字国債発行減少・ゼロ組の首相、中曽根・竹下・海部・宮澤の関係が「自社さ連立政権」を巡ってぎくしゃくし始めた。

小沢一郎と竹下登は1992年の対立で禍根を残している関係である。
1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。

だが自社さ連立政権の創価学会批判が功を奏したのか、1996年の衆院選では議席数を減らし勝てなかった。
翌1997年には公明党が離れ、新進党も解党に向かった。
ところがその公明党も、小沢一郎の自由党も、後に自民党とくっつくのだった。
その橋渡しに影響力を発揮したのも竹下登。

自民党は1998年(平成10年)7月の第18回参議院議員通常選挙で前回の改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本内閣が総辞職し、同月30日に小渕内閣が成立した。8月中旬、元首相の竹下登は創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けた。

長いこと公明党は、政策的に良く言うと中道、悪く言うと一貫性がなかった。
掌返しは致命的になるほど嫌われるところでは嫌われる。
でも公明党は良くも悪くも比較的それが弱い。
信念ではなくて宗教的な繋がりで結ばれた組織だから。
そして典型的なトップダウン組織である。
分裂や離反が少なく中から壊れにくい。(たぶん今の自民党もそんな感じなんだと思う)
公明党は中道であり、親自民と非自民の狭間を揺れていた。選挙に勝てば日米安保・自衛隊に賛成、負ければ反対と、特に外交・防衛政策で立場の不鮮明が目立った。また、支持母体である創価学会においても、壮年部(40歳以上の男性)が親自民もしくは自公民路線、婦人部(既婚女性)と青年部(男性は40歳未満、女性は40歳未満かつ未婚者)が非自民もしくは社公民路線を支持するなど内部の路線対立も存在していた。

1998年7月の参院選における自民党敗因の理由は1997年の金融危機。

1999年(平成11年)1月14日、自民党と自由党の連立政権が発足。公明党もいまだ名目上は野党ながら、周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受法、住民基本台帳法改正など、政府・与党の重要法案に次々と協力し、与党入りの足場固めをした。同年10月5日、自民党の小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が誕生した。これ以降森内閣・小泉内閣・第1次安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣、そして、自民党が政権を奪還した第2次安倍内閣・第3次安倍内閣においても公明党は自民党との連立政権を維持した。










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# by yumimi61 | 2017-12-14 16:28
2017年 12月 14日
Ice
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# by yumimi61 | 2017-12-14 01:09
2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-638- (外貨準備と貿易について)

1987年11月6日、竹下内閣が発足した。

経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任。首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持つと考えられた竹下内閣は、長期政権になるとの見方が一般的だった。


だが長期政権にはならなかった。リクルート事件が発覚したからだ。

消費税導入と前後して、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件で竹下自身の疑惑も浮上し、内閣支持率は軒並み10%を割り込んだ。財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣を迫るなか、1989年4月22日、竹下が公表していなかったリクルート社からの借入金の存在がスクープされると進退が窮まり、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が自殺している。内閣総辞職直前には、竹下登邸周辺でデモ活動も起きた。

アメリカで政府紙幣を発行しようとした大統領は暗殺されたとか暗殺されるとか言われることがあるが、日本でもこの頃、増税しようとするとよからぬことが起こった。

竹下内閣は1988年12月に消費税法を成立させて、1989年4月から消費税3%が導入された。
リクルート事件の発覚は1988年6月18日(朝日新聞スクープ)。

7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した

10月にリクルート社などの家宅捜索が行われ、2月にリクルートの江副前会長などが逮捕された。

事件の捜査を主導した佐渡賢一(検察官)によるとリクルートから5000万円借りていたことは分かっていたため、青木伊平竹下登在東京秘書を聴取したところ事務所の出納記録を持参されて単純な金の貸し借りだったため、「事件性無し、シロ」と上層部と青木に伝えた。
青木から念のため公表すべきか相談されたため、あなた達の判断と返答したことから竹下首相側は公表しなかった。
しかし、その後朝日新聞がこの借金話を報道して世論が沸き、それにより4月25日に竹下首相は、首相退陣表明した。翌日の4月26日に青木伊平元竹下登在東京秘書が自殺した。


1989年6月3日、竹下内閣総辞職。
消費税導入から1ヶ月も経たないうちに退陣表明し、2ヶ月あまりで総辞職することになった。

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中曽根内閣、竹下内閣と、赤字国債発行は着実に減っていった。
グラフの元年(1989年)もほとんどピンクの部分は見えていないが発行している。
ペースからいけばその次の年には発行はなくなるだろうという見通しはついていたが残念ながら竹下内閣は1990年年度予算審議の国会まで続かなかった。
でもその後の宇野政権(2ヶ月と短期政権だった)、海部政権、宮澤政権にも影響力を持っていたとのことで、海部・宮澤の2つの政権(1990年~1993年度)では赤字国債発行額ゼロを達成した。

中曽根内閣だった1983年8月12日、「1980年代経済社会の展望と指針」が閣議決定された。
この中に1990年までに赤字国債依存体質からの脱却という目標が掲げられており、以後毎年「中期的展望」が作成されていた。
1990年までという時期は少しだけずれ込んだが、結果が本当に実ったのだ。
但し宮澤内閣では建設国債発行額が伸びている。

1991年以降それまで右肩上がりだった税収を減らすことになるが、これは投資家や企業がバブルに浮かれて投資につぎ込んだ付けが回ってきたため。投資失敗によって巨額損失を出した企業などが多数あったため税収にも響いてきたということ。
こういう狂騒に勝てるのは一握りである。
また金利が低かったので企業は借金して設備投資したりしたが、バブルが弾けて世に不景気色が強くなると思うように売れなくなり、結局業績も悪化する。
バブルで不動産価格が高騰していたが、銀行などは時価で担保とし融資している。
その価格が下落すれば、融資額と土地評価額が大きく開くことになり、もはや担保をもってしてもチャラにはならない。金融機関も不良債権を多数抱えることになった。
金利を上げなかった成れの果て。

でもどんなに経済損失があったと言っても資産価値が失われたと言っても、紙幣が火災で焼失したわけでもないし、土地や建物を海に投げ捨てたわけでもないので、バブルで舞った紙幣が消えてなくなってしまったわけではない。
どこか収まるところに収まっただけのことであり、あるところにはあるのだ。






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# by yumimi61 | 2017-12-12 23:10
2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-637- (外貨準備と貿易について)
東京オリンピックの翌年1965年に戦後初めて発行された国債は建設国債である。
オリンピックが終わってからの建設国債に「なんで?」と思うかもしれない。
オリンピック不況を高速道路建設で乗り越えようという算段だったのか高速道路が本格的に整備されていくのは1965年以降である。
赤字国債が初めて発行されたのは1975年(昭和50年)である。
法律違反であるがゆえ、財政法第4条に対する特例として1年度に限る法律(「昭和50年度の公債の発行の特例に関する法律」)を公布して赤字国債を発行した。


高度経済成長期のさなかに開催された1964年東京オリンピックの翌年、日本は不況に襲われた。
高度経済成長期の終焉を迎えるかどうかの瀬戸際となった。
その時は佐藤内閣だった(1964-1972)。

ちなみに日本は1960年開催夏季オリンピックにも立候補しているがローマに破れている。
このオリンピック誘致期の首相は吉田茂。
次の1964年開催夏季オリンピック誘致期の首相は岸信介。(開催時は池田勇人首相)
麻生&安倍の親族コンビである。

佐藤内閣において、1965年6月3日-1966年12月3日、1968年11月30日-1971年7月5日の期間、大蔵大臣を務めていたのは群馬県出身の福田赳夫である。彼は大蔵官僚出身の政治家。
戦後初の国債発行を決めた時の大蔵大臣は福田赳夫だった。
1965年7月 、臨時国会にて政府は財政投融資の増額と歳入補填国債発行を内容とする1965年度(昭和40年度)の補正予算を決定した。
福田大臣就任後1~2か月後のことである。

補正予算とは、当初予算成立後に発生した事由によって、当初予算通り の執行が困難になった時に、本予算の内容を変更するように組まれた予算。 予見し難い 事態への対応として予備費の計上が認められているが、予備費でも対応できないような 事態が生じる場合には、追加予算を編成することになる。 

会計年度も4月スタート。災害のような突発的な出来事もないのに僅か3ヶ月で補正予算を組まなければならなかったということだから、予算の読みが甘いと言われても仕方がない。
国の予算は、まず通常国会の召集日に内閣から衆議院に提出され予算委員会に付託され、審議を経て記名採決にて成立する。
その後参議院に送られるが、3月2日まで衆議院を通過すると憲法の規定により参議院で議決が行われなくても年度内に自然成立する。
ともかく4月からの予算なので3月末日までには成立するよう定められている。
通常国会は現在は1月に召集されているが、かつては12月に召集されていた。
一応まとまった予算案が12月には国会に提出されるということなので各部署での予算編成はもっと前に行われる。
1964年の東京オリンピックは10月開催であった。
つまり1965年度(昭和40年度)予算編成の段階ではオリンピック後不況がまだ反映されていないであろう。予想もしていなかったということか。
どれくらいの時期に不況が顕著になってきたのかよく分からないが12月に始まり一応3月までチャンスのある通常国会中にも予算の修正はなされなかったということになる。

1965年7月に決定した国債を赤字国債とし、これを初の赤字国債と言う時もあるが、4月スタートで7月に赤字と決めるには如何せん早すぎる。
赤字というよりは予算修正(歳入補填)とみるほうがやはり自然である。
翌1966年度(昭和41年度)から歳入補填国債が建設国債として正式に最初から政府予算に盛り込まれていくことになる。
国債が発行されて、紙幣が公共事業に投資されれば、世に紙幣が出るということになるからインフレ傾向(経済規模拡大)は続きやすい。
結果、高度経済成長期は以後1973年まで続いた。
オリンピック需要でぐんと上がった経済規模を高度成長のまま維持するには、さらにかなり上乗せしていかなければならない。上げたものは落ちるのに落とさないばかりか上げていくのだから大変、負担は大きくなる。それが建設国債の始まりなのだ。


1973年オイルショックにて日本の高度成長期も終わる。
赤字国債発行はその2年後1975年。
禁じ手である赤字国債の発行に踏み切ったのは三木内閣。
昨日載せた金利のグラフを見れば分かると思うが、この時の政策金利は9%とまれにみる超高金利だった。
1973年に4%だったのが2年後に9%に急上昇している。
その上での国債発行だったわけである。
金利が高い時の借金は、借りる側は損をする、貸す側は得をする。
お金の貸し借りにはリスクが伴うが、何と言っても借りる側が国なので有事でもなければリスクはそれほど高くない。
お金を借りる国にとっては痛手となり、投資家は得をする。
そんな時期にあえ赤字国債発行に踏み切った。
1年度に限る国債発行前提なのだから、せめて金利を下げておくとかすればよいものを超高金利での国債発行。いったいどこを向いて舵取りしているのかと言わざるを得ない。(個人向け国債の金利には固定と変動があるが、金融機関向けの国債は固定金利)


1975年(昭和50年度)に発行した赤字国債10年物の満期が1985年度(昭和60年度)にやってくる。
発行当時大蔵大臣だった大平正芳は赤字国債の習慣化に懸念を示し、年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めていた。
借りたお金は1985年に耳を揃えて返さなければならない。
現金で返せなければならないとなると、返そうそうな額しか借りられないということを意味する。
つまり無制限に借りることにブレーキをかけることができる。
人は往々にして見えない借金は忘れてしまい、目先の計算しかしないので(ソーラー発電の時にもそんな目先の計算を披露していた人がいた)、完済までの期間が長ければ長いほど気が緩むという側面もあるから、それを防ぐ意味でも60年ルールなんて適用すべきではない。

中曽根内閣では赤字幅は減少していた。
そこに国債償還が加わるのだから、1985年度以降はそれなりに節約が必要になる。
でも借金するということはそれくらいの覚悟が必要だろう。
1985年度分の予算編成は1984年秋くらいから、国会での予算審議は1984年12月から始まる。

1984年1月、財務大臣の諮問機関である財政制度審議会から驚くべき意見書が提出された。
借換債を発行しないで現金償還することを特例法に定めていたのに、建設国債と同じように借換償還にすべきという提言がなされた。
本来赤字国債発行は法律(財政法)違反であった。それをクリアするための特例公債法ですら変更せよと言うのだ。
経済成長と国民生活の安定という聞こえの良い大義によって。

1984年6月、特例公債法が改正された。
「償還のための起債は行わないものとする」(借換債の禁止)
  ↓
「償還のための起債は、国の財政状況を勘案しつつ、できる限り行わないよう努めるものとする」

借換債の禁止が変更され努力規定となり実質的に正々堂々借り換えが行われるようになる。
日本では「努力しなさい」を言い換えると「実行しなくてよい」ということになるらしい。

財政制度等審議会
日本の国の予算,決算および会計の制度に関する重要な事項について調査審議するため,財務省の付属機関として設けられている財務大臣の諮問機関で,1950年に発足した。
財務事務次官を会長とし,学界,報道機関,財界,関係行政機関の OB,その他の学識経験者から任命される委員 25人以内で構成されている。
公債政策,財政硬直化対策,財政による資源配分政策など基本的な財政制度や各年度の予算のあり方などについて重要な勧告や提言を行なっている。


国家戦略特区もそうだったけれども、何かと得意の有識者ってやつですかね。











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# by yumimi61 | 2017-12-12 14:34
2017年 12月 11日
日本国憲法の秘密-636- (外貨準備と貿易について)
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大平首相の後が鈴木善幸首相。鈴木首相は大平派だった。
当時国際的にはそれほど知名度があったわけではないが、後にアメリカとの「同盟関係」を初めて言及することになる。

「同盟」という言葉が最初に使われたのは1981年のこと。
鈴木善幸首相とレーガン大統領との会談後の共同声明の中で初めて「同盟関係」という文言が記された。
だから新たな軍事的密約を懸念したマスコミから記者会見の場で「同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」という質問がなされたくらいであった。
同盟関係になったのはそれほど昔ではない。(十分昔ですよ?)

日本とアメリカの共同声明の中で「同盟関係」と言及したのは、同じタカ派で仲が良いと有名なロンヤスコンビの中曽根康弘首相の時ではない。
中曽根首相は鈴木善幸首相の後の首相である。

1981年にアメリカと同盟関係を結んだ鈴木善幸首相の娘と1983年に結婚したのが麻生太郎議員。
この流れを見れば政略結婚と見做されても仕方ないだろうと思う。


先に述べたように鈴木首相は「増税なき財政再建」を掲げた。
増税言及によって猛反発を食らった挙句に死んでしまった大平首相をそばで見ていただけにさすがに増税には踏み込めなかったが、鈴木首相も財政再建が必要であるという認識は持っていた。
1980年に就任したレーガン大統領もアメリカで猛烈に進行していたインフレを何とかしようとしていた。
日米首脳がともになるべく健全な経済状態にしようという意見で一致していた時期である。おそらくそれが「同盟」ということだったんだろう。
原油価格が下がっても日本でガソリン小売価格が下がらなかったのがちょうどこの頃である。
目につきやすい増税ではない形で税収を確保していたのであろう。

鈴木内閣と中曽根内閣の時代は増税せずとも税収は伸びている。
一方で歳出の増加は非常に緩やかであった。
つまり赤字幅の減少が認められるということ。現に赤字国債の発行額も着実に減少していった。

中曽根内閣はさらなる税収確保のため売上税という大型間接税の導入を検討していた。
しかし野党や小売業界の猛反発があり、結局これも撤回された。

1985年9月プラザ合意、1986年12月頃からバブル景気が始まったとみられている。
1987年10月、自民党総裁任期の満了を控えた中曽根は次期総裁に自民党幹事長の竹下登を指名し(中曽根裁定と呼ばれる)、党大会において正式に決定された。翌11月中曽根内閣は総辞職した。

中曽根が竹下を選んだのは反感を買っても財政再建のために消費税導入を行える適任者と見做していたからだそうだ。
中曽根内閣のほとんどの期間(1982年11月27日~ 1986年7月22日)の大蔵大臣であった。
首相就任準備のためか中曽根内閣最後の第3次内閣(約3ヶ月間)では入閣していない。その時の大蔵大臣は広島県出身の宮澤喜一。つまりバブル景気の始まりの時の大蔵大臣は宮澤大臣だった。

ではこの時期に日本銀行総裁が誰だったかと言うと、群馬県出身の澄田智である(1984-1989年総裁)。

日本航空123便が墜落したりプラザ合意が行われた1985年の日銀総裁は澄田だった。
1989年に日銀総裁を退任し後、ラザール・フレール顧問に就任している。
1993〜2008年という長期に亘り日本ユニセフ協会の会長を務めている。
澄田智は澄田睞(らい)四郎の長男である。
澄田らい四郎
日本の陸軍軍人。陸士24期、陸大33期。最終階級は陸軍中将。
澄田らい四郎は愛媛県の家系で、本人は名古屋で生まれ広島で育っている。
戦前からフランスとの関係が深かった人物。
第二次世界大戦中はインドシナ(ベトナムなど)、中国で任務に就いた。
その息子である澄田智が何故に群馬県生まれなのかと言うと、澄田らい四郎の妻・静枝が群馬県の高山村の出身だからである。
静枝は製糸と紡績業で財を成した高山の地主である松井家に生まれた。
静枝の父・松井貫一はキリスト教徒であり、高山村に教会(日本キリスト教団・名久多教会)を開いた信者の1人。
松井貫一の長男(静枝の兄)・松井萬緑は、加島銀行常務、大同生命取締役、第一銀行広島支店長を歴任した。
加島銀行や大同生命でピンと来るかもしれないが、NHKの朝ドラ『あさが来た』の主人公モデルである広岡浅子(大同生命創業者)と関係がある。
広岡浅子は三井家のお嬢様である。(しかしながら浅子は三井家男子が外に作った子供で母親も定かではない。浅子は三井家に養子入りした)


澄田智の次の日銀総裁は三重野康。
1980年からの利下げ局面が長引く中で金融引締めに転じたかった三重野は、1985年9月のプラザ合意を奇貨とし、利上げへの地ならしも兼ねて、腹心であった営業局長の佃亮二に「高目放置」を主導させた。大蔵省や海外当局からの抗議で「高目放置」が取り止めになり逆に公定歩合が引き下げられると、澄田・ボルカー会談で利下げを前向きに検討するとの言質をボルカーに与えたことなどから澄田がさらなる利下げに動こうとしたことに強く反対し、「乾いた薪」論を展開して金利引き上げを模索するようになった。しかし、資産価格バブルを金融政策で防止するためには、「統計上の物価の安定」が実現している段階で大幅な金利引上げが必要となるため国民に対しては十分に説得的とはいえなかったことや、大蔵省や海外当局からの圧力の中で利下げが決められたという経緯もあって、結果として利上げが遅れバブルの生成を許すことになる。

1989年12月、同行の第26代総裁に就任すると矢継ぎ早の金融引締め政策を実施。「平成の鬼平」ともいわれたが、澄田前総裁の下で投機によって膨張を続けたバブル経済を崩壊させ(失われた10年を起こした)とされる。その処理・経済再建の課題を、後任の松下康雄に委ねた形となった。三重野は総裁退任後も、「インフレなき経済成長」を唱導し、長期(特に日銀出身の速水優が総裁在任中)にわたり、隠然たる影響力を保っていたと言われている。


上の転載文、バブル景気生成も崩壊もまるで三重野が悪いように書かれているが、三重野がやろうとしていたことは間違っていない。
だとすればバブル景気を導いたのは澤田総裁であろう。
プラザ合意後、金利を上げる必要があった。
だが逆のことをした。金利を大きく下げたのだ。
たまにバブル期は金利が高かったと言う人がいるが決して高くない(もちろん今と比べたらずっと高かったが、それまでの時代と比べると低い)。
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黒い折れ線グラフのほうが目立つが青い線のグラフが政策金利と言って日銀が決める貸出金利である。これが市中銀行の預金金利や貸出金利、国債金利や住宅ローン金利などに影響を与える。
グラフを見ると分かるが世の金利に反映されるまでには若干時差がある。


■プラザ合意後に金利をあげなければならない理由。

①円安(例えば1ドル350円) ②円高(例えば1ドル100円)
----------------------------------------------------------------
為替市場は円が多い状態    為替市場は円が少ない状態
世の中は比較的デフレ状態   世の中は比較的インフレ状態

貿易黒字の時には②の状態となる。(輸出企業が外国で稼いだドルを円と交換することを前提にした貿易黒字の場合)
しかし日本は1971年ニクソンショック以降、為替介入して円安誘導していた。(だから外貨準備高がとても高い)
貿易黒字だったにも関わらず①の状態にあった。
そういうズルはやめようとプラザ合意し、本来あるべき為替レートになった。
当時も貿易黒字だったわけだから自然にまかせておくと②の状態となる。
急激な為替レートの変動があったわけだから急速にインフレが進む可能性がある。
インフレを防止するには金利を上げて、預金者を増やし融資を減らして、世の中のお金を引き上げなければならない。
それをやらなかったのだ。

為替介入し①の円安に誘導した原資の円も借金(政府短期証券)であるということを前に述べた。
為替介入をやめるということは、政府に短期でお金を貸し付けていた人達(政府にお金を貸していたのは個人ではないが)の融資先がなくなったことを意味する。
さらにこの時金利が大きく下がった。
貸すメリットがたいしてなくなった。
じゃあお金どうしようかなあ~と考える。
金利が下がったんだから不動産を購入する人が増えるはずだと睨んだ。
しかも①から②の状態に移行するのだから必ず物価が上がってくる。不動産価格も値上がりするはずと読んだ。
だからお金を持っている人達が投資目的に不動産を購入し始めた。
買いは買いを呼んで値が吊り上っていく。不動産の高騰を招いた。不動産業界はハイパーインフレ状態だった。
円安(デフレ傾向)から円高(インフレ傾向)になったが、元の円安が作為的なものであり、それに関係していたのはお金を持っている人達。
貸していたお金が戻ってきて貸す先がなくなったからのインフレ。
庶民が持つのお金の量が増えたわけではないので、庶民にはあまり関係のない話。
不動産投資で儲かった企業などに勤めていればそれなりに恩恵があったかもしれないが。
あと金利が下がったのでローンしやすくなり買い物したり事業を始めた人もいるかもしれない。
金利が下がったため企業もお金を借りやすく設備投資が行いやすかったりしたため株価も上がっていき全体的になんとなく好調に見えた。
建築業界なども儲かっただろうから、その関係者も恩恵があっただろう。
これがバブル景気の正体である。
庶民や企業に関係するのはバブル景気そのもの(不動産高騰や株価上昇)というよりも金利が下がったこと(借金のしやすさ)だったのだ。借金はしやすかったが不動産や建築関係をはじめとした物価はかなり上がっていたはずなので得な話でもない。
急速なインフレ(物価高)を防ぐためには金利を下げるのではなく上げる必要があった。








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# by yumimi61 | 2017-12-11 13:31
2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-635- (外貨準備と貿易について)
本日2本目です。

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※年度の〇印は1985年(昭和60年)。日航機墜落とプラザ合意、中曽根首相の靖国神社公式参拝の年。
※年度61~平3の□はバブル経済期。西暦だと1986~1991年。

水色の部分が建設国債の発行額(4条公債発行額)。
戦後初の建設国債発行はオリンピック翌年1965年(昭和40年)。
棒グラフのピンク部分が財政法で禁じられている赤字国債の発行額(特例公債発行額)。
1975年(昭和50年)に、特例として1年度に限る法律を公布して赤字国債を発行した。
三木内閣の時で、大蔵大臣は後に首相となる大平正芳。
衆参両院の大蔵委員会(現:財政金融委員会)の強行採決によって決定した。
以後毎年「特例公債法」を制定しては赤字国債を発行し習慣化してしまう。


加計学園のことを書いている時に前川・前文部科学事務次官は元首相・中曽根家と親戚だということに触れた。
その親戚関係は森&安西コンビに繋がり、そのコンビの姻戚関係は三木首相家や佐藤首相家、皇后の実家などと結ばれている。

中曽根弘文―前川真理子<前川喜平の妹>
(長男)中曽根康隆・・慶應義塾大学卒、JPモルガン証券入社、2013年より国会議員(父)秘書
(長女)中曽根文子・・慶應義塾大学卒、川鍋一朗(日本交通3代目社長)と結婚

※中曽根弘文・真理子夫妻の長女(前川喜平からみると姪)は、日本交通社長・川鍋一朗の妻である。
日本交通は日本交通公社(現JTB)のことではなくてハイヤー・タクシー会社である。
日本交通と川鍋という名を覚えているだろうか?
千葉県勝浦の森・安西というカジメ拾いの漁師コンビの姻戚関係に出てきた。


森&安西&鈴木コンビが設立した昭和電工と東信電気。
森家は首相家(三木武夫)と姻戚関係にある。
安西家は皇后の実家や首相家(佐藤栄作)と姻戚関係を結んだ。

三木は吉田茂の官僚政治を批判し、官僚・軍人・皇族等の出身ではなく一般人の政党員による政治を謳っていたにも関わらず、吉田茂と縁戚で近く親しい間柄にあった岸信介や佐藤栄作(ともに官僚出身)政権の誕生に協力していた。
つまり三木武夫は実のところ、吉田茂、池田勇人、岸信介、佐藤栄作に近い人物なのだ。
三木は、吉田学校の生徒の1人に数えられる田中角栄が逮捕された時の首相である。
「私的参拝」と言って靖国参拝し物議を醸した。
そしてー
超法規措置としてテロ犯を釈放した首相でもある。



三木首相(徳島県出身)→福田首相(群馬県出身)→大平首相(香川県出身)→鈴木首相(岩手県出身)→中曽根首相(群馬県出身)

1975~1987年の約12年間に四国出身の首相が2人、群馬県出身の首相が2人。
超法規措置と靖国参拝問題、どちらも三木首相と群馬県出身の首相に関係していた。


禁じ手である赤字国債の発行に踏み切った三木内閣であったが、当時大蔵大臣だった大平は赤字国債の習慣化に懸念を示していた。
そこで年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めた。

国債の満期は長くても10年。
しかし莫大の費用がかかる建設費(建設国債)は10年で返済するのは負担が大きすぎる。
マイホーム購入にかかった3000万円のローンをサラリーマンが10年で全て返済しなければならないとしたらいかに大変か。元金だけでも毎月25万円返済にあてなければならない。
建設費とはそういう額の大きいものである。
そこで建設国債には60年ルールというものがある。60年で返せばよいとうことである。(でもまずこの60年という設定が長すぎる。住宅ローンだって定年までの30年とか20年くらいのローンが主流だろう。親子ローンは出来る限り避けたい。子供に親のローンを残すのは忍びない)
もし満期までの期間を60年と長くとれば国債を買ってくれる人がいなくなる。なぜなら60年後というのは40歳の人が100歳になってしまうのだから生きているかどうか分からない。100歳にもなっったら利息で儲かったも何もなくなるだろうから。
だから10年満期の国債を返すためにまた国債を発行する(借金する)借換償還が行われる。

例えば6兆分の建設国債を2000年に発行したとする。
満期は2010年にやってくる。2010年に6兆+利息を返す必要がある。
そうとなると最低でも1年に6000億くらいずつ建設国債返済分貯金をしなければならない。でもそんなに貯金する余裕はない。
だから60年ルール。
10年満期で実際にお金を出すのは1兆円のみ。足りない5兆円分はまた借りる。(+利息もあり)
10年後また満期がくる。お金を出すのは1兆円のみ。足りない4兆円分はまた借りる。
2000年に発行した建設国債を返しきるのは2060年である。
建設国債が数十年に1度とかそれくらいのペースで発行されるのならばまだしも毎年毎年発行したら借金は膨らむ一方である。
そもそも10年後に出す1兆円だって儲けや節約がなければ、結局のところ赤字国債から出ているようなものとなる。
日本は国債発行額も然ることながら借換債発行額もとても多い。
返せるあてのない借金を繰り返しているのだ。
金利なんか上げられるわけがない。

せめて赤字国債は借り換えしないで10年満期で全て現金で返そうと決めたわけである。
そうでもしないと「借りればいい」とずるずると歯止めが効かなくなるのは目に見えていた。
1975年に発行された初の赤字国債の満期は1985年の冬だった。


三木おろしの風が吹いて退陣。1976年(昭和51年)12月24日に福田赳夫が首相就任。1978年12月7日まで務めた。1978年度(昭和53年度)は若干赤字国債発行額は減少した。
その後が大平首相。
財政再建と赤字国債の削減を最優先課題とし、赤字国債依存体制から脱却するために消費税の導入を考えていると言明。
しかし翌1979年(昭和54年)になると衆院選挙風が吹き始める。
野党はもちろんのこと、増税では選挙を戦えないと多数の自民党議員も増税・消費税反対を唱える始末。マスコミも反対に同調。
9月の臨時国会所信表明演説で首相が「新たな負担をお願いすることになる」と消費税に触れると、野党が大平内閣不信任案を提出。それを受けて解散総選挙と相成った。

解散後に大平首相の増税発言について「増税の独断専行は困る」と牙を剥いたのは、初の赤字国債発行時の三木元首相だった。
いくら大平首相が赤字国債は健全な状態でないことを説明しても反対の嵐。
田中派と三木派は対立しており(田中が逮捕された時の首相が三木)、田中派は大平をささえていたが、ロッキード事件の影響や増税発言によって主流派とはいえ自民党内でも厳しい立場に置かれた。
そんなこともあって結局選挙中に大平首相自ら消費税導入断念を表明した。
自民党の獲得議席数は選挙前から1議席減らしただけに過ぎなかったが、自民党は過半数を割り込み惨敗と言われた。
大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚いた。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。


その大平は選挙公示日に体調が悪くなり、翌日入院。12日後の6月12日に急死した。「辞めろということは死ねということか」という言葉を地で行く形となった。






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# by yumimi61 | 2017-12-10 22:09
2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-634- (外貨準備と貿易について)

戦後日本の物価は上がり続けた。
戦前(1936年頃)と高度経済成長期の始まった1954年との比較では物価は300倍にもなっている。
戦前(1936年)と1949年の比較では220倍ほどだったという。
インフレが起きたということは紙幣が多くなったということ、つまり紙幣をかなり発行したということである。

実態はともかくとして日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中1943年だった。まだ天皇が絶対的権力を握っていた時代である。
「日本銀行兌換券」(額面と同額の金貨との交換が保証された紙幣)から「日本銀行券」(金の保有高に基づいて紙幣を発行するのではなく日本銀行法に基づいて発行する)に取って代わり紙幣が改められた。
正々堂々好き放題に紙幣が発行できるようになった。
日本国は日本銀行に国債を引き受けさせた。
国債引き受けとは日本銀行に国債を渡して紙幣を作らせること。日本銀行は作った紙幣を国に渡す。
国は戦争を行っている最中であるから民間企業などに軍需品を作らせ買い取るわけだが、買うにはお金が必要。
国から企業に支払われたお金は世に出るということである。こうして世に流通する紙幣が増えていきインフレが進行していく。
あまり急速にインフレが進行してしまうと物が人々に行き渡らず生活の基盤すら危うくなってしまう。
日本はインフレ対策に個人相手に国債を発行したりもした。
お金を持っている人がお金を国に貸すことで世の中の紙幣を減らす作用がある。
また「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの下、購買意欲を抑制し預金を引き出すのを抑えたりもした。
世に紙幣が多く出回っていても欲しがる人がいなければ極端な物価高にはなりにくい。
紙幣を大量発行した戦時中こそハイパーインフレ状態なのだが、その紙幣は主に戦争に費やされ、上記のような対策の効果もあって世の中の人々はハイパーインフレ状態を認識しないでいた。


日本がアメリカのパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月のこと。日本は1937年から日中戦争を行っていた。
その日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中の1943年(昭和18年)。この時に初の日本銀行券(不換紙幣)が発行された。
実はその1年前の1942年(昭和17年)に千圓(1,000円)や貳百圓(200円)という超高額紙幣が準備されていた。明治以来ずっと最高額面は百圓(100円)だったことを考えるとインフレに備えて大きな額面の紙幣を作っておいたと考えられる。これは金貨との交換が保証されている日本銀行兌換券である。
但しすぐには使われなかった。インフレ抑制策が上手く機能していたのだろう。
1943年(昭和18年)8月12日には金属類回収令が出され日本中の貴金属が没収された(戦後も戻ってくることはなかった)。
貳百圓(200円)が実際に発行されたのは終戦4か月前の1945年4月16日だった(大蔵省予告では1月6日)。
戦争は終わっていないのに世にお金が回りだしたということは、日本ではこの頃、戦争に対する楽観ムードが漂い始めたのではないだろうか。


1945年4月というのは、日本が本格的に特攻作戦を開始した時期と重なる。
特攻作戦とはパイロットの命はもちろんのこと、寝る間も惜しんで作った高価な戦闘機を大破させ海に沈めてしまう作戦である。

「“特攻作戦”は何故行われたのか」より 航空特攻作戦の概要/知覧特攻平和会館
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。
沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず " 死ぬ・亡くなる " という『必死』条件の作戦でした。
 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。
 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。


そして迎えた終戦。
1945年8月に戦争状態は終結。降伏文書への調印は9月2日。
しかしながら8月15日玉音放送の日が日本における終戦記念日である。戦争が終わった~!とタガが外れた日とも言える。
その翌日8月16日に4月発行開始とは別種の貳百圓(200円)紙幣、8月17日に千圓(1,000円)紙幣が発行された。(ともに日本銀行兌換券)
日本では1945年の終戦直後にハイパーインフレが起きたと言われている。
発行された紙幣の額面からしてもそれはそうだったんだろうと思う。


国の命令で軍需品にしか力を注いでこなかった戦争の時代が終わった。
ふと我に返ればいろいろな物が品薄であり、負けてタガが外れ購買意欲が刺激されたことも重なり物価高になった影響はあるだろうが、ハイパーインフレが起きたということは戦争に負けてもなお日本国内には結構お金が残っていたということである。
戦争で儲かったのは寝る間を惜しんで軍需品を作っていた企業だろう。
しかし終戦直後のインフレで紙幣は紙くず同然になったと言われている。預金も借金も目減りした。


日本の戦費は今の金額で言えば4400兆円にも上ったという。
しかしなにせ戦時中のことである。日銀に引き受けさせた国債は満期時に返すという約束がなされていたのかどうか。
日銀の国債を踏み倒せるならば借金はだいぶ少なくなるであろう。返す必要があるのは個人向け国債だけとなる。
多額の借金返済の必要がなくなるとなると戦時中の経済規模をぐんと縮小してもさほど問題はない。
多額の費用を注ぎ込んだであろう船や飛行機が戦闘で撃たれ突撃し大破し海に沈めば、その費用分の円は消えてなくなる。
経済規模は小さくなるということである。。
幸いと言うかなんと言うか、現金による賠償金支払いもなく、日本国内の軍需工場の機械など資本設備をかつて日本が支配した国に移転譲渡することが戦争賠償となった。
戦時中に世に出た沢山の紙幣は機械などにかなり化けたはずである。
これを外国に無償譲渡するということは機械に投資された円が消えるということである。これによっても経済規模が小さくなる。
1946年に金融緊急措置令によって預金封鎖を行い、新円紙幣への切り替えを実施した。この時に戦時中と戦争直後に発行された紙幣は失効した。


しかしそれでも現在の4400兆円に値する紙幣発行は如何せん多い。
戦後解体されたものの多くの財閥はやがて息を吹き返す。息を吹き返した財閥は銀行を持っているところが多い。
大量発行された紙幣を使わないで高額な兌換紙幣に交換したもの勝ちだったんだろう。
日本のインフレ(物価上昇)は着実に進行し続けた。
インフレになれば、あるいは国債などで世に紙幣供給がなされれば、経済規模(少なくとも名目GDP)は一回り大きくなる。
戦後初の国債は1965年。国債によって世に紙幣が出る。
だが初の国債発行前もずっと日本のインフレは進行していた。
つまり戦争中に発行した膨大な紙幣の影響力が戦後20年あまり、1964年東京オリンピックの頃まで及んでいたということになる。
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれる驚異的な経済成長は、戦時中の裏付けのないとてもつもない紙幣発行によって支えられていたのだ。
但し紙幣を膨張させただけならば奇跡は起こらなかったであろう。
上り詰めた山は下るしかない。
一旦かなり縮小させたことが成功の鍵となっている。犠牲が必要だったのだ。
製造した物のあっけない廃棄、支配下においた国(途上国)への設備の無償譲渡、財閥解体、有力者の処罰などなど。
世の中的には貧しくなってしまったが、そうでない人や企業が確かにあったからこそのJapanese miracle。














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# by yumimi61 | 2017-12-10 15:00
2017年 12月 08日
日本国憲法の秘密-633- (外貨準備と貿易について)
オイルショックとドル紙幣供給開始による猛烈なインフレにより、元来ガソリンがとても安かったアメリカにおいてガソリンが値上がりした。
このときアメリカ車よりも小さく燃費のよい日本車の需要が高まり、日本の大衆車がアメリカに輸出された。1970年代のことである。
1台あたりに大きな利益を望まず安く数売る薄利多売方式で自動車を販売し、かわりにアフターサービスも輸出し部品代なども稼いだ。
戦後様々な悪循環に陥っていったアメリカ経済に比べて日本の貿易黒字は堅調だった。にもかかわらず依然として円安が続いており、ますます輸出企業には有利な状況だった。
但し日本も貿易黒字だったとはいえ、決して健全な財政状況ではなかった。
ここには今でも払拭できない大きな問題を内包している。
景気が良い=良い財政状況 ではないのだが、そのように思い込みがちであるということ
あるいは景気さえ好ければ良い(自分さえ好ければ良い)という考えに基づいて世の中が回ってしまうこと。
過去にも何度か書いたが正気の沙汰ではないようなことを平気で行う。

日本の高度経済成長期は1954~1971年。沢山の物やサービスを生み出し続けていた時期。
しかしこの期間全てがイケイケの好景気だったわけではない。ここも間違いやすい。
高度経済成長期内で一番景気が良かったのは(長い好景気は)1965~1970年。「いざなぎ景気」と呼ばれている。
どうして景気が良くなったか分かりますか?
1965年11月に戦後初の国債を発行したからである。オリンピックの翌年のこと。
オリンピックが終わると日本は不況に見舞われたのだ。

高度経済成長期の只中、東京オリンピックや新幹線の整備などによる総需要の増加(オリンピック景気)で、日本経済は高い経済成長を達成していた。経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。

しかし、1964年に東京オリンピックが終了し、金融引き締めも重なると、企業業績の悪化が顕在化した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が、1965年には山陽特殊製鋼が負債総額500億円で倒産した(山陽特殊製鋼倒産事件)。

重工業の不振は証券市場の低迷にある程度影響した。大手証券会社各社が軒並み赤字となった。大手証券会社は金融債を顧客から有償で預かってコールマネーの担保に入れるというレバレッジの掛け方をしており、ある程度において自業自得であった。なお、1964年は西ドイツ発行外債の内訳において、金融債が前年比で大幅に伸びていた。

ともかく重証の経営悪化を受け、日銀は公定歩合を1%以上も下げた。しかし効果は薄く、政府は不況拡大を防ぐために、1965年5月に山一證券への日銀特融を決め、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。これを受け、同月を底値に株価は上昇し、結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続した。



なぜ政府が国債を発行するのかと言えば、お金が足りないからである。
国営企業がない国の収入は税金しかない。(国営企業が赤字を出せば収入どころか赤字が膨らむという側面もある。経営手腕や経営環境がないなら民間企業の税収に頼ったほうがよいということになる。国営企業の場合には経営や雇用に対する非難などが政府を直撃するのでいつでも国民の支持を得ていたい政府としては難しい面もある)
税金だけで国の支出が賄えなくなった時には借金をする。国債は国の借金である。
国の支出にもいろいろあるが現在の内訳は下図のとおり。

http://www.zaisei.mof.go.jp/pdf/平成29年度一般会計予算.pdf
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一番多いのは社会保障費。年金や医療費の公費負担(国負担)分の費用。
高齢化や医療依存体質によって年々これが大きくなっているが、それでも社会保障財源の約50%を担っているのは企業事業主と労働者である。国の負担分は30%くらい。
次に多いのは地方自治体への仕送り。その次が借金(国債)返済。
この3つで支出の70%を占めてしまう。
仕送りをしてもらっている分際で憲法で禁じられている私立学校への寄付に税金から大金を投じるなんて言語道断。
収入の濃いピンク(公債金)は借金のこと。予算を組む段階で借金する予定でいる。借金が減るわけがない。



戦後の日本政府の借金・国債には2種類ある。(国債は公債とも言う)
①建設国債(財政法4条国債)
②赤字国債(特例法国債)

1947年(昭和22年)に制定された財政に関する基本法では一部領域を除いて政府が国債発行すること(借金すること)を認めていない。
本来赤字国債は法律違反なのである。
認められているのは公共事業費と出資金及び貸付金の財源。
出資金及び貸付金は配当や返済によって一応戻ってくるあてのあるお金である。
公共事業費は国が何かを作ったりする時のお金。例えば高速道路とか鉄道とか。支出額は大きいが毎年決まって出ていくものではない。建設する時に一時的に大金が必要になる。
だから建設国債と呼ばれていて、金額も大きいことから返済の計画(税収の範囲内で返済可能である計画)を国会に提出した上で国債発行される。
あとは全て税収の範囲内で行わなければならない。
後から行う政策(立法)もまずそれが念頭になければならない。

財政法4条
1.国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
2.前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。
3.第1項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。


東京オリンピックの翌年1965年に戦後初めて発行された国債は建設国債である。
オリンピックが終わってからの建設国債に「なんで?」と思うかもしれない。
オリンピック不況を高速道路建設で乗り越えようという算段だったのか高速道路が本格的に整備されていくのは1965年以降である。
それ前に開通していたのは首都高の一部区間と名神高速の一部のみ。


赤字国債が初めて発行されたのは1975年(昭和50年)である。
法律違反であるがゆえ、財政法第4条に対する特例として1年度に限る法律(「昭和50年度の公債の発行の特例に関する法律」)を公布して赤字国債を発行した。
発行額については国会で議決された金額の範囲内。
国家戦略特区も、天皇の退位についてもそうだが、特例を許すならば基本法だって憲法だってどんどん破っていける。いずれ歯止めが効かなくなる。








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# by yumimi61 | 2017-12-08 15:03
2017年 12月 07日
16
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私達が決断できなかったことだから
どんなに大変でどんなに幸せだったんだろうと思いを馳せてみる
地球が回るスピードよりも速く1年は過ぎ去っていくけれど
クリスマスよりお正月より楽しみに指折り数えた日があったんだろうなって
泣き顔笑顔めまぐるしくて気付けば取り残されたカレンダー
この時間を止めたいような進めたいような

いつしか私達を包む世界が少しずつ壊れていって
人はそれを成長といったりもするけれどまだ後ろを振り返る余裕はなくて
そこまで達観できなくてあなたが手にした新世界に戸惑いもした
その世界はどれほどの速さで回っているの?それとも止まっているの?

思い出して慌てて駆け出し滑り込みセーフ
誰かがアウトと言う時には拗ねないでここへおいでよ
何より大切なことを私はあなたに教えてあげられる
それはあなたが私に幸せを分けてくれたこと
それはあなたが決して間違えていなかったこと
新世界に眉をひそめて煙たい顔しても悪いことばっかりじゃない
そのこと私が一番知っているから

あなたの未来に幸多からんことを 心より

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# by yumimi61 | 2017-12-07 12:07
2017年 12月 07日
Worldwide
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日本のような教習所は世界では珍しいそう。
日本は免許取得までに、時間がかかる、お金もかかる(30万くらい、合宿で20万くらい)
教習所を経由しない試験もあるにはあるが合格率は低く、ほとんどが教習所に通う。
アメリカではペーパーテストを受けてそれに合格すると、路上で運転練習できる日本で言うところの仮免を取得でき、免許を持っている人に同乗してもらって路上練習し、実技試験を受けて受かればOKなんだとか。
実技試験の時の車も自分で持込みだから練習しなれた車でOK。
マニュアル車に乗る必要もない。費用も僅か。 

ちなみにゴルフ人口の1位はアメリカ、2位は日本、3位はカナダ、4位はイギリス。
75%はこの4国で占めるがゴルフ人口も高齢化がかなり進んでいるらしい。





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# by yumimi61 | 2017-12-07 01:05
2017年 12月 05日
日本国憲法の秘密-632- (外貨準備と貿易について)
前記事で少し人口に触れたが、アメリカの人口は現在3億2000万人ほど。この他不法移民も1000万人以上いると言われている。
日本の人口は約1億3000万人。
中国は約13億7000万人。

人口の10%の支持を得たとしよう。
アメリカ 3200万
日本 1300万
中国 1億3700万

10%の支持が自動車の販売数だったとする。
各国同じように10%の支持を得たとしても、それを数にしてみれば随分差が出てくる。
自動車メーカーが同じ程度の割合の支持を得られるならば、人口の多い国で得た方が得である。
物を売る時のお得感は人口が少ない国が多い国で同じ支持を得た場合、物価が安い国が物価の高い国で同じ支持を得た場合に大きくなる。
物とお金の動きは逆なので、お金の影響はその逆である。
大きな市場にとっては平常であっても大きな市場が小さな市場に与える影響は大きい。
物価が高い(経済規模が大きい)国から物価が低い(経済規模が小さい)国に行けばお金持ちになれる。
プラザ合意後、日本企業が東南アジアへ進出した際、「あちらに行けばお手伝いさんが複数ついた豪邸に住める」などとそそのかして駐在員を確保したものである。


石油産出国であるアメリカは今でもガソリンが安い国の1つであるが、自給率が今より高かった時代にはもっと安かった。
そんなアメリカで誕生したのがオートマ(AT)車である。1940年代のこと。
オートマ車は燃費が悪い。しかしながらガソリンの安いアメリカでは燃費の悪さはさほど問題にならなかったというわけである。

オートマ車は日本のようにちょこちょこと停止する環境や坂道発進の多い地域での運転に便利なものである。
マニュアル(MT)車では停止するための減速にクラッチを踏んでのギア操作を必要とする。発進して一定の速度に乗せるまでにもクラッチを踏んでギア操作を必要とする。発進では半クラッチを使いこなす必要がある。
要するに停止が多いほど操作も多くなる。
オートマ車はドライブギアに入れたままでクラッチ踏む必要もないし、坂道発進で半クラッチが上手くいかずにバックしてしまうこともないのだから楽である。
本来、広大な土地を長距離走らせる機会の多いアメリカで歓迎されるようなものではないのだ。
しかし合理的なアメリカの国民性にマッチしたのか、最初は都市部の一部地域に歓迎されたのか、オートマ車が受け入れられていく。
そうとなるとアメリカに自動車を輸出したい自動車メーカーはオートマ車を導入することになる。1960年代には日本やヨーロッパの自動車メーカーも積極的にオートマ車に参入した。

前述したようにオートマ車は燃費が悪い。さらに本体価格がマニュアル車よりも高い。故障しやすい(マニュアル車も運転技術によっては故障しやすくなるが)。修理が手間である。
販売台数が上がってくれば、そういうことも多少改善されてはくるが、根本的に違うものとの比較では埋まらない差もある。

現在オートマ車が世界で一番普及しているのは日本であり、登録車両の95%はオートマ車となっている。
これは本家アメリカの90%を凌ぐ。
日本で新車販売数のオートマ車比率が80%を超えたのは20年ほど前の1996年のことであり、徐々に新旧入れ替わり全体の95%がオートマ車となっている。
ヨーロッパでは依然マニュアル車が主流。オートマ車割合がもっとも多いドイツでのマニュアル車比率が50%程度。イギリスでは70%くらい。
ヨーロッパ全体では80~90%がマニュアル車である。
東南アジアなどはほとんどがマニュアル車である。

今年1月に父が亡くなって、実家の車を2台手放したが、どちらもマニュアル車であった。
母は病気をしてから車には乗れなくなり、2,3年前に免許証も流してしまったが(返上はしなかった)、最後の車を買う時も私は乗らず嫌いなのではないかと思って母にオートマ車を勧めたがマニュアル車にこだわった人だった。
最近になってやたらに多くなっていると感じるアクセルとブレーキの踏み間違い事故はマニュアル車では起きないであろう。
派手に突っ込むのは高齢者が多いのか知らないが、若者でも踏み間違い経験あるという人は結構いる。柵や壁やぶつかる程度の自損事故やヒヤリハットで済んでいるらしいけれども。


ガソリンが安いがために燃費などに無頓着だったアメリカ人が目覚めたのが1970年代のオイルショックだった。
1950年頃にアメリカの石油消費量は生産量を超えており、1970年をピークに生産量も減少に転じている。
そこへもってきて輸入原油の値上がりである。
さらに1971年のニクソンショックを受けてアメリカも金本位制ではなくなり、アメリカもドル紙幣を出せるようになってやがてインフレに見舞われていく。
紙幣が多くなれば物の値段は上がる。ガソリンも例外ではなかった。

アメリカで日本車が注目されるようになったのはこの時である。
アメリカ人もいわゆる燃費の良い車を求め出したのだ。
日本の車が技術革新で殊更燃費の良い車を作れていたわけではない。
アメリカの車よりも車のサイズが小さく排気量が少なかったのだ。
同じ車種や同型サイズの車での比較においての燃費の良し悪しは技術的な進歩や創意工夫が影響するだろうが、サイズが違うものはもともとの燃費が違う。
中大型車よりも小型車のほうが燃費は良い。
アメリカにおいて比較的小さな車の需要が以前よりも増えたのだ。

しかし燃費が良いからといってアメリカの高速道路をガンガン走られたら故障もしやすくなる。
そこで日本の自動車メーカーはアフターサービスも輸出したわけである。
アフターサービスは日本では別に特別な事ではないが(うるさいくらいに感じる人もいるだろうけれども)、車検すらないアメリカで定期点検や迅速に修理に対応してくれるとあれば驚き桃の木山椒の木。信頼に繋がる。
当時は対ドルもかなりの円安。輸出に有利なのだから壊れそうな部品はアメリカにバンバン送っておけばよいのだ。
すぐ壊れる部品はなかなか壊れない部品よりも概して安い。
外車なのに早く修理してくれて安い!と好評を得る事が出来る。
また幸いアメリカも日本と同じくらいに買い換えまでの期間が短かった。
下取りで高値が付くうちに買い換えようという合理的な考えからのようである。

でもこうした理由でアメリカで売れた車は俗に言う大衆車である。
日本でも沢山作っていた自動車をアメリカに輸出した。
大衆車であるからそれほど高い価格の車ではない。
アメリカに輸出するとなると関税や輸送料など余計に費用がかかるが、大衆車ゆえにあまり高い値をつけることもできない。薄利多売で勝負するしかない状況であった。





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# by yumimi61 | 2017-12-05 12:51
2017年 12月 04日
日本国憲法の秘密-631- (外貨準備と貿易について)
日本がエネルギー資源に乏しい国であることは自他ともに認めている。
それにも関わらずエネルギー消費大国である。

【エネルギー消費大国】
1.中国
2.アメリカ
3.インド
4.ロシア
5.日本

人口が桁違いに多いのが中国とインド。
アメリカはその2国に次ぐ第3位。
ロシアは9位。日本は10位。
日本以外の国は国面積も広い。
特にロシアは飛び抜けて広く、また寒冷な地域である。
中国とインドは石炭の比率が大きく、ロシアは天然ガスである。
天然ガスで賄えるロシアは石油自給率も200%超えである。
石油の割合が一番なのはアメリカ(37%)と日本(42%)であるが、特に日本は石油への依存率が高い。
アメリカで石油に次ぐのは天然ガス(31%)、日本で石油に次ぐのは石炭(27%)である。ちなみにこれは2015年の統計であり日本の原子力は0%となっている。

日本のエネルギー自給率はとても低く4%ほど。石油自給率に限れば0.1%程度しかない。

【エネルギー自給率の高い国】
1.ロシア 180%
2.カナダ 150%
3.中国 90%
4.イギリス 80%
5.アメリカ 75%

一番意外なのは国土がそれほど広くないイギリスの自給率の高さだと思うが、イギリスは石油、天然ガス、石炭とバランスよく供給できる。
思えばイギリスが第二次産業革命を起こしたのも豊富な石炭資源が背景にあった。
イギリスには北海油田があり石油に限った自給率は120%を超える。
但しイギリスの油田も枯渇し始めていると言われている。


次の順位は、各国のガソリン小売価格をUSドルに換算して比較し高い国から並べたものである。(2014年)
1 エリトリア
2 ノルウェー
3 オランダ
4 イタリア
5 トルコ
6 香港
7 デンマーク
8 モナコ
9 ギリシャ
10 南スーダン
11 イギリス
12 アイルランド
13 ベルギー
14 ポルトガル
15 フィンランド
16 イスラエル
17 アイスランド
18 スウェーデン
19 バルバドス
20 ウルグアイ
21 ドイツ
22 マルタ
23 フランス
24 マラウイ
25 スロベニア
26 スロバキア
27 パレスチナ
28 アルバニア
29 リヒテンシュタイン
30 スイス

51 韓国
80 日本

110 中国
112 カナダ
120 インド
146 北朝鮮
155 ロシア
156 アメリカ
163 アラブ首長国連邦
164 イラク
166 イラン
170 クウェート
172 サウジアラビア

上位(ガソリンが高い国)はヨーロッパの国々が多い。
ヨーロッパも石油を輸入に頼っている国が多いが、自給率が高いイギリスが自給率の非常に低い日本よりも高価格であることは驚かされる。
全体的な傾向としては石油産出国では価格が安く、輸入に頼る国では高くなっている。
ひとつ気を付けなければならないのは小売価格をUSドルに換算していることである。
単位を同じにしなければ比較しようがないので仕方ないが、為替レートによって価格が変わってきてしまう。
1リットル150円のガソリン、1ドル100円の時(円高)ならば1.5ドルとなり、1ドル300円の時(円安)では0.5ドルとなる。
対ドルの為替レートと実質実効レートがかなり乖離していることを先に述べたが、実質実効レートの円安具合に合わせて1ドル300円くらいの円安だとするならば日本のガソリン小売価格はもっと順位を下げることになる。
資源に乏しく輸入に大きく依存する日本のガソリン小売価格はどうしてこんなに安いのだろうか?


石油の値段が安くなる時
●需要<供給
輸入した量よりも使う(売れる)量が少ない。
●原価が安い
原油価格も物の値段の1つなので需要と供給のバランスで決まる。季節性は多少あるが継続して使用されるものであり産出国もほぼ限られていることから、エネルギー革命や製油所の事故でも起こらないかぎり意図的な理由以外で大きく需要と供給のバランスが崩れることはない。(枯渇してくれば供給減となるので価格は上がるが)
近年原油は投機対象となっており、それによって価格が上下している。
金融市場と比べると原油市場は小さいので、金融市場からの投機は原油価格に大きな影響を及ぼしてしまう。
何故に金融市場が大きくなったかと言えば、各国の紙幣を裏付けなく好き勝手に発行できるようになったからである。
原油価格が上がれば儲かるのは石油会社である。
かつてはロスチャイルドとロックフエラー系の7社がセブンシスターズと言われた。

■現在の新セブンシスターズ(全て国営企業)
サウジアラムコ(サウジアラビア)、ペトロナス(マレーシア)、ペトロブラス(ブラジル)、ガスプロム(ロシア)、中国石油天然気集団公司(CNPC)(通称:ペトロチャイナ)(中国)、イラン国営石油(NIOC)(イラン)、ベネズエラ国営石油(PDVSA)(ベネズエラ)  

■旧セブンシスターズ(統廃合によって7社が4社に)
シェブロン、エクソン・モービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)

旧セブンシスターズの原油生産シェアは10%程度、保有する油田の埋蔵量シェアは5%程度に減少した。
一方の新セブンシスターズは、原油生産シェアも保有する油田の埋蔵量シェアも30%にまで増加。
セブンシスターズ以外の国営企業も含めると石油埋蔵量のシェアは70~80%が国営企業で、その他ロシア系の企業が15%ほど保有している。



ここで日本のガソリン価格(1リットルあたり)の推移を見てみたいと思う。

1946年(終戦翌年) 1.2円
1954年(高度経済成長期始まり) 39円
1964年(東京オリンピック) 48円
1965年(戦後初めての国債発行) 51円
1971年(ニクソンショック) 57.3円
1973年(10月勃発中東戦争による第一次オイルショック始まり) 66.2円
1974年(オイルショック継続&高度経済成長期終了直後) 97.6円
1975年(FRBが$紙幣供給開始) 112.4円
1979年(2月のイラン革命による第二次オイルショック) 124.8円
1980年(イラン・イラク戦争、アメリカインフレピーク) 154.8円
1981年(レーガン大統領就任)(鈴木内閣の増税なき財政再建開始) 157.8円
1982年(第5次中東戦争)(11月中曽根内閣発足) 172円
1985年(9月プラザ合意) 146円   ↑対ドル円安(輸出に有利)(自国通貨インフレ傾向)(インフレは物価高を呼びやすい)
--------------------------------------------
1986年(プラザ合意翌年) 128円   ↓対ドル円高(輸入に有利)(自国通貨デフレ傾向)(デフレは物価安を呼びやすい)

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黄色縦線と西暦と入れた1974年と1979年はオイルショックの影響で価格は上昇した。
1985年はプラザ合意の年。
第一次オイルショックの影響が落ち着いてきたと思ったら(①)イラン革命による第二次オイルショックに見舞われた形になっている。
日本の高度経済成長期は第一次オイルショックとともに終わったと言われている。
そのせいか第二次オイルショックでは経済への影響を受けなかったとか。
もともと第二次オイルショックは第一次ほど継続していないのだが、日本のガソリン小売価格は下がっていない。②の部分である。
アメリカは2つのオイルショックとインフレのダブルパンチで国力をダウンさせた。
③1999年5月がプラザ合意後の最安値で100円を切った。
上昇を始めたのは2004年頃。投機的に買い方が増えた、買いが買いを呼ぶ原油バブルによって高騰していったと考えられる。
その後ストンと落ちたのはリーマンショックの影響である。リーマン前が最高値だった。
かなり大きく落ちてその後またじりじりと上げていた。
シェールガス革命の影響かここ数年は下げているが、安定的に低めだった時期に比べるとまだ高めである。

次のグラフは原油価格の推移。残念ながら1980年からである。
http://ecodb.net/pcp/imf_group_oil.html
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21世紀に入ってからは投機によって原油価格が上昇しており、日本の小売価格もそれを反映している形になっている。
しかし第二次オイルショック後の小売価格の高騰は原油価格を反映していない。
原油価格は上がっていないのだ。むしろ少し下げている。
その時期に日本では石油の価格が上がっていた。
自動車売上や貿易なども好調な頃であるので石油の需要が増えたということは考えられる。
あるいは税金を上乗せしたんだろうか。タバコの値上がりは税金であるということはよく知られているが、意外にガソリンの価格にはかなり税金が含まれているということを知らなかったりする。
「増税なき財政再建」を掲げたものの実はガソリンで税収を稼いでいたということはないのだろうか?
自給率の高いイギリスもかなり税金が乗せてある。税収になるのはもちろんのこと、高くすることで石油をふんだんに使うことを抑える効果がある。

1バレルは約159リットル。
原油価格が1バレル=30USドルだとする。1リットル≒0.19ドル
1ドル=100円ならば、1バレル=3000円 1リットル≒19円
1980年代前半、原油価格1リットル19円くらいの時に、日本では160円前後でガソリンを売っていた。(もちろん原油価格の他に輸送料や保険代などもかかるので日本の原油価格はもっと高くなってしまうけれども)








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# by yumimi61 | 2017-12-04 12:54
2017年 12月 03日
日本国憲法の秘密-630- (外貨準備と貿易について)
外国車は高いくせに故障しやすい、アフターサービス(定期点検、故障時の迅速な対応や高額な部品代など)が悪いとの評判がある。
外国車の価格が高いのは日本に入ってくるまでの諸経費が上乗せされているので、ある意味当たり前な話である。
アフターサービスについても現地に体制や部品が揃っていないことを考えれば致し方ない面がある。
車検を含めた定期点検は日本独自の制度である。アメリカには車検すらない(カリフォルニア州などは排ガス検査を実施している)。
ちなみに車検のような検査が存在するヨーロッパでも日本ほど金額が高い国はない。とにかく日本は車の維持費が高い。

では本当に外国車は故障しやすいのか?
答えはイエスでありノーである。

自動車メーカーはそれぞれの国の環境、気候や、文化に適した自動車を開発設計し製造してきた。
日本は四季が明確にある気候で、夏季の高温多湿を特徴とする。
厳しい冬もあれば厳しい夏もある。豪雪地帯もあれば雪が全く降らない地域もある。
日本の自動車メーカーはそうした環境でも使える自動車を作ってきたのだから、日本で走らせるならば日本の車が優秀である。
多湿ではなく乾燥した地域の車は日本には向いていないのだ。緯度が高い地域の寒さ対策が十分な車でも日本の夏の暑さや湿度が想像以上で対応できていないということがある。特別な対策もなく紫外線の強い地域に持っていけば劣化も早い。
このように気候的な問題がまず横たわる。その国で優秀になるにはその国に合わせないといけない。

あとはどんな走行が多いのかによっても適する自動車は違う。
高速道路に乗る機会や走る距離が多いのか、高速道路は十分に整備されているのか(有料かどうか)、制限速度が存在するか(制限速度が存在しない道路があるか)、信号や一時停止が多いか、舗装状況など。
何を乗せるのか、どれくらい人を乗せるのかによっても変わってくる。
要するにその国に適した自動車が一番優秀で故障もしにくい。
日本の自動車は日本で故障しにくい。アメリカの自動車はアメリカで故障しにくい。ヨーロッパ各国の自動車はその国で故障しにくい。


「安かろう悪かろう」の木綿製品を日本からアメリカに輸出して貿易摩擦を引き起こしたことがあったが、自動車もそんな時代があった。
自動車輸出は1954年からの高度経済成長期に始まり、1965~1980年に大きく成長したが、1960年代はやはり価格は安いけれども品質も劣る「安かろう悪かろう」であった。
ただ自動車の場合、上記のような環境的な事情があり、日本車をただアメリカに持って行っただけでは適さない。適さないということは故障や早期劣化を呼び込み、結果的に「品質が悪い」という表現になる。

頻繁に停止する日本の道路事情に合わせて作られた車を、広大な土地の高速道路で何時間も走らせれば故障しやすくもなるし、そもそも思うようには走らないであろう。
逆も然りで、排気量が大きく力強い馬力とドライビング力を特徴とする外国車を日本の街中に持ってきてちょこちょこブレーキ踏んでいたら、その特色は出ないし故障もしやすい。


故障しやすいと簡単に言うけれど、何を持って故障しやすいというのかも重要である。
明確な定義を持って故障しやすいと言っている人は少ないであろう。

①2年に1回の車検と、車検と車検の間の法定定期点検、ディーラーなどが行っている半年点検、これら全ての点検を受けて故障無しで10年ほど乗った自動車。
②車検しか受けないで10年ほど乗った自動車。車検4回。(法定と言えど日本でも法定定期点検は受けない人多し、ペナルティーはなし)
③点検を何も受けずに10年ほど乗った自動車。

例えば、①は故障経験なし、②は3回故障経験あり、③は5回故障経験あり だったとする。
この場合、どれを故障しやすいと言いますか?③ですか?
費用対効果はどうですか?

不具合や故障がなくても点検でオイルや部品を交換してしまえば、やはり故障はしにくいであろう。でも同時に費用が発生しているのだ。

④たまにしか乗らない車(1年3000km走行)、⑤毎日通勤に使用している車(1年10000km走行)、⑥毎日通勤+週末遠出している車(1年20000km走行)
5年のうちに、④は故障経験なし、⑤は1回故障、⑥は2回故障。
故障しやすい自動車は⑥ですか?
点検具合は訊かなくていいですか?
故障しやすさを計るということはそれくらい難しいことである。




イギリスで起こった産業革命は石炭の利用によってもたらされた。これを第二次エネルギー革命とも言う。(第一次エネルギー革命は人間による火の利用)
第三次エネルギー革命は石油と電気の利用。この革命を牽引したのは自動車だった。
欧米で石油の利用が始まったのは1800年代後半から1900年代前半のことで、石油は自動車の動力となった。アメリカではトラクターなども登場して農業も変わっていった。火力発電の燃料ともなった。
石油が必要とあれば、どこかに石油(油田)はないかと探す。そうして1900年代半ばに中東やアフリカで大規模油田が発見された。


ロックフェラー家はアメリカで石油を独占することでアメリカ一の財閥に伸し上った。
そして第一次世界大戦で大きく資本力を拡大した。
第一次世界大戦までは中東の石油利権を握っていたのはロスチャイルド(系の企業)である。
その中東にロックフェラーが入りこみ住み分けが崩壊。
第二次世界大戦でもアメリカは疲弊しなかったが、ヨーロッパ諸国は程度の差こそあれ勝敗にかかわらず疲弊した。
それをいいことに1954年国際石油資本8社からなるイラン国際企業連合を発足させ、中東の石油利権をロックフェラーに有利な条件で決定した。
ロックフェラーが独占したわけではないが第二次世界大戦後は石油利権に関して圧倒的な支配力を誇っていた。


アメリカの石油生産量と消費量は1950年代まで同程度だった。要するに自国で石油を調達できた。アメリカでは石油が安かった。
産出される原油は特別な加工を必要としないし、形を作ったりパッケージングすることもない。
「水よりも安い石油」と言われることがあるが、この場合の水の価格はペットボトルなどに入ったミネラルウォーターの価格であり、そういう意味で水よりも牛乳よりも石油は安かったのだ。
1950年以降はアメリカの石油消費量が生産量を上回るようになる。そうとなれば輸入に頼るしかなくなる。輸入すればどうしても価格は高く付く。
アメリカはロックフェラーが有利な条件で石油利権を得ていた中東から石油を輸入することになった。
アメリカの石油生産量は1970年をピークに減少に転じ、一方の消費量は依然伸び続けた。

アメリカが国力を落とすことになる大きなきっかけは1973年と1979年のオイルショックである。
オイルショックに絡んでいるのはアラブ諸国。
ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家は1948~1973年までの間に大規模な戦争を4回行っている(中東戦争)。
この争いに関してアメリカはイスラエルに付いた。アメリカだけでなくイギリスやフランスなどのヨーロッパ勢もイスラエル側。
アラブ諸国を支援したのはソ連だった。
そんなわけで民主主義国家と社会主義国家であるソ連との代理戦争の側面もあると言われていた。

この状況の背後には原子力の問題も見え隠れする。
1953年12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で原子力平和利用に関する提案「Atoms for Peace」(平和のための原子力)を行った。
アメリカでは1954年に原子力エネルギー法が修正され、アメリカ原子力委員会が原子力開発の推進と規制の両方を担当することとなった。
実は世界的規模の石油によるエネルギー革命と原子力の発展時期は戦後の同じ頃なのだ。
原子力利用がオイルショックによってもたらされたというのは適当ではない。


アメリカの石油の消費量が拡大し、石油生産量よりも消費量が上回った1950年代にアメリカは原子力のエネルギー利用に力を入れる素振りを見せた。当時としては、いわば脱石油宣言のようなものである。
現実に原子力が石油にとって代わるものならばアメリカは国力を落とすことはなかった。でもそうではなかった。
アメリカはアラブ諸国(それを支援したソ連)に足元を見られていた。
1960年にOPEC(石油輸出国機構)発足。
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟によって発足し、その後も他の中東諸国が次々に加盟した。
1968年にはOAPEC(アラブ石油輸出国機構国機構)も発足。イラク、サウジアラビア、クウェートなどはこちらにも加盟している。他は北アフリカの国々。

中東戦争でイスラエル側に付いたアメリカに対してのアラブ諸国の反抗が第一次オイルショックだったのだ。

第二次オイルショックはイラン戦争・革命がきっかけ。
イランの石油生産が一時途絶えたため価格が高騰を始める。
欧米が支援していたイラン体制が終わりイスラム至上主義の新体制へ移行することにより、イランと欧米との関係が悪化。再びオイルショックを迎えることととなった。






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# by yumimi61 | 2017-12-03 17:37
2017年 12月 02日
too fast!?

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It's never too late to dream.

パスタ? バスだ? パスだ?



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# by yumimi61 | 2017-12-02 23:18
2017年 12月 01日
日本国憲法の秘密-629- (外貨準備と貿易について)
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https://www.keikenkyo.or.jp/information/attached/0000015443.pdf(軽自動車協会) 

日本の登録自動車数と軽自動車比率の推移(赤折れ線グラフ)。
登録自動車というのは登録してナンバー(プレート)が付いている自動車である。
2000年前後から登録自動車数は頭打ちの観がある。
時期を同じくして軽自動車比率が伸び続けている。
これは人口動態との明らかな相関性は認められない。

グラフの平成8年と平成13年に□印とラインを入れたが、平成8年(1996年)は「日本版金融ビッグバン」を実施した橋本内閣が始まった年。平成13年(2001年)は「聖域なき構造改革」を実施した小泉内閣が始まった年。
登録自動車数の頭打ちと軽自動車数の比率増加はこの辺りから見られる傾向である。
現在、登録自動車数中の軽自動車の比率は40%ほど。
軽自動車を保有(常用)としているのは若い女性が一番多く、10~20代女性では6割を超える。

平成元年(1989年)と平成9年(1997年)に消費税3%と5%が導入されたが登録自動車数はその後も伸びが見られ、消費税が自動車購入に与えた影響は見られない。


軽自動車は日本のガラパゴス規格。外国ではこの規格の自動車はなく販売されていない。
従って「軽自動車って何?」という世界となる。
軽自動車の誕生は1949年。
敗戦国・借金国で資金力が乏しく、国民の多くも金銭的に余裕がない。
資源が乏しく、国面積もアメリカのように大きくはない。
都市部などには狭い入り組んだ道が多いし、駐車スペースも限られている。
体格も大きくない。
そんな日本に事情を反映して発展した。

<現在の規格>
ボディ寸法:全長×全幅×全高3400×1480×2000mm以下
排気量:660cc以下
乗車定員:4名以下

<軽自動車の排気量規格の推移>
1976年まで 360cc
1976~1990年 550cc
1990~現在 660cc

1975年(昭和50年)に日本において排ガス規制の大幅強化が行われた。「日本版マスキー法」と呼ばれる。
翌1976年(昭和51年)にさらに大幅強化が行われ、「日本版マスキー法第二弾」と呼ばれる。
本来はこの年度の規制でマスキー法の規定値を完全達成する予定であったが、1974年に数度実施された環境庁及び衆議院での聴聞の席上、トヨタ自動車を筆頭とする国産9メーカーが連名で、「現時点の技術水準では昭和51年実施予定のマスキー法正規規定値への適合は、耐久性を度外視する手法以外では困難であり、昭和50年規制値を2年間継続することで技術開発の猶予期間を与えてほしい」旨を答申。 


もともと軽自動車に要求されているものはパワーではないが、それでも排ガス規制が厳しくなると軽自動車もパワー不足が否めなくなった。
そこで1976年に排気量規格を360→550に上げた。(木を見て森を見ず!?)
ただ排気量を上げただけでは技術力不足が露呈してしまい芸がないので、この時に全長の規格も10cm拡大され、少しだけ大きいものが作れるようになった。
1990年にさらに排気量規格を上げ、1998年には再びボディ寸法規格を全長・全幅とも伸ばした。
この改正はそれまで順調に伸びてきた軽自動車比率が停滞した時期に行われている。
軽自動車比率が停滞した時期は1988~1997年。この期間も自動車登録数は伸びている。



登録自動車数が頭打ちしているということは、日本では新車があまり売れていないということになる。
毎年廃車にする自動車分くらいの新車しか売れないので登録総数は伸びない。

廃車になる(廃車にする)主な理由。
・経年劣化(老朽化)が進んだ
・事故や天災によるダメージ
・トラブルや故障の程度が酷い
所有者が乗り換えで手放しても、まだ使える自動車ならば中古市場に出るので廃車にはならない。

●自動車寿命(使用年数)―自動車の新規登録から抹消登録(廃車)までの期間。
1976年(昭和51年) 普通車が7.05年 軽自動車6.79年
2014年(平成26年) 普通車が12.97年 小型車が12.44年

●消費動向調査では1990年以降の乗用車(新車)の買い換え平均年数は5.5~9.0年となっている。
(※消費動向調査は内閣府が実施しているものだが調査は抽出された世帯が質問に記入していくような形であり、実際の自動車登録から弾き出される数値ほど信頼性は高くない)

例えば2014年の買い換え年数平均は7.7年であったが、同じ年の自動車寿命は12-13年であり、中古に回った車も4-5年程度で廃車になる計算となる。

寿命12-13年を長いと考えるか短いと考えるかは人それぞれだと思うが、自動車の使用年数が伸びてきたことは間違いない。
ちなみに私が乗っていたMPV、4WDで舗装していない道も走り、猛烈な寒さにも猛烈な暑さにも晒され、ガレージどころか屋根もない青空駐車(違法ではない)をずっとしていたが、20年以上乗りました。晩年の車検は毎回20万円近くかかっていたけれども。

自動車は、整備や手入れを多額の費用や時間をかけて行えば、30 - 40年あるいはそれ以上の期間使用することも可能である。かつて日本では「10年・10万kmは寿命」の標語で、その目標に達すると廃車にしてしまうことが多かった。現在では異なり、車両の寿命は延びつつある。舗装道路の比率が高まったこと、鋼板の防錆性能の向上などによる。

長期間使用される例としては、車庫やガレージ等に保管していた車をそのまま使用する、旧車などで車をレストアさせて使用するという例もある。しかし、これらは非常に稀であり、大抵の自動車は遅くとも普通車では20 - 30年(ただし軽自動車、および排気量1,000cc未満の小型車などでは性能や大きさの問題から15年程度)、早くて10年前後で役目を終えて、所有者は次の車に乗り換える。


新車を売りたいと思うならば、長く乗ることは推奨されないであろう。
新規登録から13年を経過したガソリン車、11年を経過したディーゼル車は自動車税が15%重課となり、重量税も13年経過した車と18年経過した車は増額された。
日本の自動車税は世界でも高いほうである。
しかも古い車に割増課税するのなんて世界でも日本くらいである。
「13年」設定には、もうこれ以上平均使用年数を延長させない気持ちがにじみ出ている。

日本車はモデルチェンジも早い。たった3~4年でフルモデルチェンジをしてしまうのだ。
マイナーチェンジはその前に行われる。
3~4年でフルモデルチェンジするということは、2回目の車検の時にはもう形の変わった旧車になっている。要するに他人が見て古い型の車と分かる状態となってしまっている(もっとも同じ車に乗っていたり、自動車に詳しくなければ分からないと思うけれども)。だから買い換えを考えるというわけ。

外国車のほうがフルモデルチェンジまでの期間が長い。
ここ最近は日本でも若干フルモデルチェンジまでの期間が伸びているようだ。4~5年くらいとか。

販売台数の多い自動車ほどフルモデルチェンジが早く、高級車やスポーツカーなど販売台数が少ない自動車ほどフルモデルチェンジは遅い。
何故かと言うと、販売台数が多いほど開発費や設備投資を早く回収できるからだ。
長く使う予定ではないものほど開発期間は短くて済む。寿命を長く設定すれば開発にもそれだけ時間がかかる。
日本は最初から長く使うことを設定していないので開発期間も3~4年と短い。
ヨーロッパなどは10年かけて開発していたりしたけれども、昨今はコンピューターの普及によってだいぶ短縮した。複雑な計算やシュミレーションをコンピューターがしてくれるから。
また安全基準、排ガス基準、税金などの制度が度々改正されるようだと長い期間をかけての開発は向かなくなってくる。





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# by yumimi61 | 2017-12-01 15:02
2017年 11月 30日
little by little
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Do you remember this picture?
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# by yumimi61 | 2017-11-30 23:42
2017年 11月 28日
日本国憲法の秘密-628- (外貨準備と貿易について)
以前私はマツダのMPVに乗っていたが、あの自動車はもともとはアメリカ輸出用として設計生産されたものである。
後に日本でも販売された。

1988年 - 北米向け専用車として生産開始。
1990年1月 - 国内販売開始。


1995年10月 - マイナーチェンジ。
グレード体系も大幅に拡大され、2-3-3シートレイアウトを持つ8人乗り仕様、MPV初のディーゼルエンジンである2500ccWL型のディーゼルターボ搭載車の設定及び4WD車も初めて追加された(ただしディーゼルエンジンのみの搭載)。センターデフロック機構と二輪駆動から四輪駆動へ走行中に切替が可能なスーパーデュアル4WDが搭載され、さらに最低地上高が引き上げられたグランツシリーズ4グレードも追加された。


私はこのディーゼル車の4WDに乗っていたのだった。
外観というか形がとても気に入っていたが性能も乗り心地も良かった。タフで丈夫な車でだったと思う。見た目がごつい感じではないがそこそこ大きくて車高もあって乗っていて安心感があった。
日本で販売していた同じくらいの価格の車や後に出てきた自動車に比べると、内装や後部座席のシートの移動など室内スペースとしてはいまいちだったかもしれない。
MPVは1999年にフルモデルチェンジを行って形が大きく変わってしまい、それまでのMPVらしさを失い他と見分けがつかなくなったので、以後のMPVには私は全く興味を持てなかった。
そのMPVも2016年に販売を終了した。
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実は自動車の関税、日本は0%である。
外国が日本に輸出する場合には関税がかからない。
<排気量1800ccの乗用車の場合>
アメリカ 2.5%
EU加盟国 10%
中国 25%
韓国 8%
オーストラリア 5%
シンガポール 0%
インドネシア 40%
タイ 80%
マレーシア 10%
フィリピン 30%
ベトナム 67%
インド 125%
ケニア 25%

自由貿易協定や経済連携協定を結んでいる国同士の場合には、この関税率よりも低かったり関税フリーとなることもある。
また一般的に輸入通関の際には、関税以外にも複数の税金を課せられることが多い。従って関税が安くても、結局徴収される額は上がり、輸出の障壁となっていることも少なくない。自国保護のためである。
日本からアメリカに自動車を輸出すると2.5%の関税がかかるが、現地生産すれば関税を通らないので必要はない。
自動車を輸入している国にとっては関税収入がなくなるが、現地法人を作って生産している場合には所得税などが現地国に落ちている。また現地の雇用にも繋がる。
現在日本の輸出自動車は現地生産のほうが多い。


関税以外にも輸出の障壁になる規制はあり、関税以外の税金もその1つだが、そうした関税以外の障壁のことを非関税障壁と言う。
アメリカに輸出する際の非関税障壁のベースとなるのは、安全基準(DOT)と排ガス基準である。
● DOT Conversion (安全基準)
計器表示部・タイヤ・ドアの補強・シートベルト・エアバッグ・バンパー・ライト類などの部品を精査してDOTマーク入りの部品と交換しなければならない。
● EPA Emission (排ガス基準)
触媒・EGRバルブ・ECU解析技術などを駆使してカリフォルニアの排ガス基準値をコールドスタートでクリアしなければならない。

【アメリカに輸出する際の非関税障壁】
・左ハンドル
アメリカは日本と逆で右側通行の左ハンドル。
基本的にアメリカでは右ハンドルは認められない。右ハンドルでよいのは郵便配達車だけ。
だからアメリカに輸出する日本の自動車メーカーは最初から左ハンドルで設計する。
ハンドルを右から左に付け替えればよいだけではないかと思うかもしれないが、そんな簡単なことではない。
自動車の根本に関わってくることであり、後からのハンドル付け替えは不可能と言ってもよい。というか、それなら一から作ったほうが早いといった感じになってしまうのだと思う。

・衝突試験
すでにアメリカに輸出実績のある車種についてはリストに掲載されていて安全に関わる情報もあるが、リスト未登録の車種にはない。
そうなるとアメリカの公認検査機関で何台もの車を潰してクラッシュデータを取って安全性を立証しなければならない。これが衝突試験と呼ばれるもの。
自動車メーカーが型式認定を受ける時には当然通らなければならない道だが、これを個人や小さな業者が行うとすれば負担は大きい。
膨大な数の自動車を輸出させるために数台の自動車をクラッシュさせるのと、1台2台あるいは数十台の自動車を輸出させるために数台の同種自動車をクラッシュさせるのでは意味が変わってくる。
この検査費用は数千万円かかるという。


・排ガス基準
世界で一番排ガス基準が厳しいのはガソリン車でもディーゼル車であってもアメリカのカリフォルニア州だと言われている。
カリフォルニア州には大気汚染に厳しい。
よってアメリカに輸出するにはそれをクリアしなければならない。
しかしながらカリフォルニア州以外は、日本の車検制度のような強制力を持った排ガス検査制度がなく、新車登録を済ませてしまえば後は野となれ山となれ。違法改造しても劣化してもチェック機能がない。
だからこそ最初の検査時だけ基準をクリアするような不正も行われる。
もっとも日本の車検でも車検時だけ基準クリアさせるというようなことが行われているが。
また基準が変わってもそれが適用されるのは通常新車だけである。古い基準で作られたものが新しい基準に適合しないのはある意味当たり前である。
新旧が大きく入れ変わらなければ、環境に与える影響は小さい。
でも新旧大きく入れ替えるとすると、廃棄物処理に関わるエネルギーと大気汚染、新車製造に関わるエネルギーと大気汚染も考えなければならない。
環境問題も多面的に見る必要がある。そんな簡単なことではない。

アメリカは大気汚染を防止するため、1963年に大気浄化法を制定した。
その後、1970年と1977年、1990年に大幅な改正がなされた。
1970年の改正は上院議員エドムンド・マスキーの提案(マスキー法)により非常に厳しい排気ガス規制が規定され、実現不可能とまで言われた。
しかしそれをクリアしないと販売できない。
とりあえず環境装置をつけて対応したが、大排気量を特徴とするアメリカ車のパワーは軒並みダウンすることになった。
マスキー法を世界で最初にクリアしたのは日本の自動車メーカー・ホンダであった。1972年にレシプロエンジンにて。搭載したのはシビック。
翌1973年にはマツダのロータリーエンジンがクリア。
ただあまりに厳しい基準だったので結局改正された。
基準クリアを第一に考えるとどうしてもパワーが落ちてしまう。
広大な国で乗る人の身体も比較的大きく、車も大きさやパワーを売りにしているアメリカの自動車メーカーは不利である。

近年は環境問題ブームで先進国はどこも基準が厳しくなっているので昔ほどの差はない。
排ガス基準については比較的ヨーロッパが甘いと言われることがあるが、ヨーロッパは昔からバスやトラックのような汚染物質量の多い車両にも規制をかけていた。
日本は規制をかけやすい乗用車をターゲットにして、バスやトラックには甘かった。
その差である。


アメリカに輸出する際の非関税障壁になっているこれらの事項は、生産から21年(あるいは25年)経過した歴史的または技術的に価値ある自動車に対しては免除される。「ビンテージ」扱いとなる。
基準をクリアしていなくても構わない。アメリカにおける検査をしないで登録可能。
州によるかもしれないが右ハンドルでもOK。
日産スカイラインGT-R、マツダRX-7、トヨタスープラなど日本のスポーツカーは人気があり、古い中古車でもかなり高額で取り引きされる。

基準の厳しい新車は小さな車を得意とする日本に有利で、排ガス基準などが免除される制度も日本に有利となっている。
関税だけ見れば日本が不利のように思えるが、輸出企業は現地生産によってその問題をクリアし、むしろ為替変動を利用できて優位な立場となる。
日本の自動車関税が0%であることは日本の輸入業者や顧客にとっても有利である。外国の車が安く手に入るのだから。
税金が取れなくて儲からないのは国家であるが、日本銀行にどんどんお金を出してもらえばいいんだし?(日本国埋蔵金)









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# by yumimi61 | 2017-11-28 13:18